連 載『 山 行 話 』 相模原市 砂田 定夫
 
          話  題  一  覧
2008. 2. 7  吾妻山で見た”東京計器”         投稿;砂田定夫
2008. 4.20  中央アルプスの思い出           投稿;砂田定夫
2008. 8.28  山名雑話(1)              投稿;砂田定夫
2008.10.16  山名雑話(2)              投稿;砂田定夫
2009. 2. 8 「相模野基線」を歩く            投稿;砂田定夫
2009. 8.26  最初に剱岳に登ったのは誰か?       投稿;砂田定夫
2010. 6.13  いま、高尾山があつい!          投稿:砂田定夫

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          話  題  『 よもやま話 』
2008. 2. 7 砂田  吾妻山で見た”東京計器”         
 
吾妻山で見た”東京計器”  相模原市 砂田 定夫
 
  吾妻小舎で見たもの
 思いも寄らぬ所で、「東京計器」という文字を見て驚いたことがある。
 もう4年近く前になるが、その年の初夏にトキメック山岳部OB会の山行が吾妻連峰
で行われた。当時栃木の仲間が多く参加したので、初夏の山行は那須以北の名山名峰
を訪ねることが恒例となっていた。那須塩原駅に集合した参加者26名は、貸切バスで
標高約1600mの浄土平まで行き、そこから足慣らしを兼 吾妻小舎
吾妻小舎
ねて先ず吾妻小富士(1707m)のお鉢(火口縁)を巡っ
たあと、木道を歩いて宿泊する「吾妻小舎」に着いた。
周辺を散策して小屋に落ち着いたとき、ふとロビーに置
いてあった大判のやや分厚い本をパラパラとめくったと
き、あるページの項目に目が釘付けになった。
 そこに『東京計器グループの遭難』という文字がはっ
きりと書いてあったのである。そのときは斜め読みに読
んだだけであったが、要は昭和14年暮れから翌年正月にかけて、東京計器グループ5
人が遭難事件を起こし、1名の死者を出した記録が書かれていた。忠告を振り切って
悪天候の中を強行登山しての事故だったようである。
 
一切経山へ向かう
一切経山へ向かう
 吾妻小舎は本物の丸太を組んで造ったログハウスで、
外観も中もいかにも昔ながらの山小屋といった素朴な雰
囲気に満ちていた。管理人夫妻も好感が持てたし、夕食
のメニューも心づくしで、米飯はおいしかった。夕食後
はいつものように「山の歌」の合唱はしなかったが、ラ
ンプの下で酒をちびちびとやりながら歓談し、寛いだ。
 翌日も快晴に恵まれ、庭園のようなハイマツの間を縫
って、高山植物の咲く登山道を元気に歩いて、凄まじい
火口壁のある一切経山(1949m)と家形山(1877m)に登り、予定通り貸切バスの待
つ不動沢口へ下って無事登山を終えた。しかし、その後も小屋で見た本の記事のこと
が頭の中に残って、ずっと気になっていた。
 
      『吾妻山回想譜−先人に捧ぐる鎮魂歌』
 半年ほど前、(社)日本山岳会の図書室で調べものをしていたとき、偶然この本に再
会し詳細を知ることができた。この本は、福島市桜本温湯、通称微温湯(ヌル湯)を
経営する二階堂匡一朗氏が著した『吾妻山回想譜−先人に捧ぐる鎮魂歌』という遭
難記録集で、B5版580頁の大冊、2003年6月10日発行で、自費出版のようである。
 この本を改めて読むと、昭和14年12月31日、東京計器グループの中村栄三郎(21)、
豊田豊治(22)、吉沼弥吉(22)、鳥島忠造(22)、小澤健三(21)各氏が悪天候を
衝いて午後1時半ヌル湯を出発した。このとき、宿の主 本の表紙カバー
本の表紙カバー
人は中止するよう忠告したが、振り切って出発したとい
う。結局5人は猛吹雪の中を彷徨し、夜になっても目的
の吾妻小舎に到達することなくばらばらになり、うち3
名は何とか夜中にヌル湯に下ったが、元日になって意識
朦朧で雪の中をさまよう豊田氏をヌル湯の館主が救助、
残る中村氏は2日に雪洞の中で凍死体となって救助隊に
発見されたという。
 
 昭和14年といえばノモンハン事変があり、第2次世界 本文の一部
本文の一部
大戦が勃発した年、奇しくも筆者が生まれた年でもあり、
もう69年も前のことである。このあたりの事情をご存知
の方は居られないだろうか。若くして山に逝った先人が
戦前の会社に居られたことを想うとき、年月の隔たりが
あるにせよ、同じ山を愛するものとして他人ごととは思
えないのである。
 
 
2008. 4.20 砂田  中央アルプスの思い出        
 
中央アルプスの思い出 相模原市 砂田 定夫
 
 大自然が相手の登山では、その感動や達成感が大きい代わりに、さまざまな事象や
思いがけない事件に遭遇する。これから紹介する山行はかつて東京計器スキー山岳部
が体験したことであり、このときほど色んなことが起こった山行も珍しい。
 今から45年も前の昭和38(1963)年の夏、まだ筆者が24歳で若い情熱を山にぶつけ
ていた頃である。因みにその年のことを調べてみると当時は「所得倍増計画」の池田
内閣時代で、黒四ダムの完工、草加次郎爆破事件、力道山刺殺事件などがあり、11月
にはケネディ大統領暗殺事件が世界を震撼させた年でもあった。記憶が正しければ、
当時同好会の中では庭球部と共に最大の部員数を擁した山岳部の活動は隆盛を極めつ
つあった。
 「強化縦走」と銘打って、北アルプス・南アルプス・中央アルプスにそれぞれパー
ティを繰り出して分散縦走を実施した。夜行で出発する各パーティは、若い女子社員
たちの見送りもあって意気軒昂たるものがあった。私は中央アルプス隊に参加した。
ところがこのパーティは出発のときからメンバーの一人M君がひどい下痢に襲われた
り、列車が出発した途端、八王子の先で前の列車に落雷があってダイヤが乱れたりで、
初っ端から波乱含みであった。結局、駒ヶ根駅からの一番バスに乗れず、途中乗り継
ぎしながら登山口の伊勢滝に予定より遅く着いた。そのため、1日目の予定コースを
短縮し、木曽駒ヶ岳と中岳のコルの直下にテントを張った。駒ヶ岳を往復したのち、
テントで夕食中に激しい雷雨となり、雹(ひょう)が降り始めた。見る間にテントの
外は雹が3〜4センチも積もってしまった。真夏にこんな量の雹に遭ったことは後に
も先にもこのときだけである。降雹の後は激しい雨に変わり、遂には砂地の幕営地は
雹と雨水と砂が川のように流れ出した。底付きの冬山用テントは底が膨れ上がって、
それでも初めのうちは靴をはいたまま夕食を続けていたが、とうとうテントの中まで
浸水して食事どころではなくなった。とりあえず荷をまとめ、近くの本岳宮田小屋
(現在の駒ヶ岳頂上山荘)へ逃げ込んだのだった。その間、稜線は稲妻と雷鳴の阿鼻
叫喚の中であり、小屋に入るまでは生きた心地もなかった。
 翌朝、前夜の荒れ模様は @ポールが折れ、潰れかかったテント、周辺は雹が積もっていた
@ポールが折れ、潰れかかったテント、周辺は雹が積もっていた
A雹のブロックを抱える。左から原田、清水、故大槻の各山岳部員
A雹のブロックを抱える。左から原田、清水、故大槻の各山岳部員
うそのように晴れ、朝焼け
の空が広がっていた。テン
トまで行ってみると、積も
った雹は一面に白い雪渓の
ようであり、傾いたテント
のポールが1本折れていた。
この日は「木曾殿越」まで
 
行く予定だったが、テントの破損と出発の遅れで士気をそがれ、予定を変更してとも
かく途中の桧尾岳まで行くことになった。宝剣岳を越え桧尾岳に着いて、山頂直下に
幕営となり、折れたポールには添え木をして何とか設営した。夕食にかかる頃、また
事件が起こった。山頂で幕営中のパーティが、コンロ(当時はホワイトガソリンを燃
料とする「ホエーブス」というコンロが主に使われている時代だった)の操作ミスか
らガソリンに引火し、全員が火傷を負ったという知らせが入ったのである。
「それっ!」と駆けつけると、テントは焼け、6人パーティのうち特に3人がひどい
火傷だった。すぐに応急処置をしたが、みなショックと痛みで茫然自失の状態であり、
ともかく重傷者も歩けるのですぐにでも下山して病院へ行きたいという。荷の整理を
手伝ったり、ランプを貸したり、一部のザックは翌日我々が担ぎ下ろすことにして、
下山する彼らを見送った。
 3日目は折角晴れたので、山脈の途中にある熊沢岳まで空身で往復してきたが、最
終目的の空木(うつぎ)岳までの縦走は諦めて山を下った。駒ヶ根駅では例のパーテ
ィのうち火傷の被害がなかった2人が待っており、彼らのザックを返すと共に、経過
を聴くことができた。彼らは昨夜遅くなって下山し、タクシーを呼んで駒ヶ根の病院
で手当を受け、今朝一番の列車で帰京したという。事故に遭ったパーティは多摩のリ
オン電機山岳部であり、後日丁重な礼状が届いた。
 因みに、我々スキー山岳部のメンバーは、清水有道氏をリーダーに、故大槻邦昭氏、
原田隆英氏、宮本勲氏と私の5名であった。
 
2008. 8.28 砂田  山名雑話(1)        
 
  那須岳は「月山」だった!      相模原市  砂田定夫
 
 6年3ヶ月を那須事業所(現那須工場)に勤務したが、いわゆる那須野原にある工
場の敷地からはいつも那須岳が見えた。地元では那須山と呼んで親しんでいる那須岳
は那須火山の総称で、主峰の茶臼岳を指す場合が多い。那須5岳というのは茶臼岳、
朝日岳、三本槍岳、南月山、黒尾谷岳であるが、白笹山も欠かせない1峰である。
月山と呼ばれた茶臼岳
月山と呼ばれた茶臼岳
 筆者の那須岳初登山は21歳のとき(1960年)で、学友
たちと体力にまかせて茶臼岳から会津の二俣温泉まで縦
走した。那須在勤中は四季を通じてこの山域に親しみ、
ある年は1年を通じ1月から12月まで毎月登山を実行し
たり、夏は出勤前に早朝車で峠ノ茶屋へ登り、峰ノ茶屋
まで早駆けしたこともあった。那須岳周辺の登山は通算
70回近いので、地元の人に負けないくらい詳しくなった。
 
 この那須岳において、かの有名な山形県の出羽三山(湯殿山、月山、羽黒山)を転
位させて信仰が行われていたことをご存知だろうか。茶臼岳は江戸時代「月山」と呼
ばれていた。今でもその南に「南月山」という山がある。出羽の月山には牛首、姥ヶ
岳という地名(山名)があるが、那須岳にも牛ヶ首、姥平という所がある。那須の信
仰はご神体が御沢の俗称“幻ノ滝”付近の温泉源にあり、出羽三山の湯殿山にあたる
もので、当時白湯山又は御宝前の湯と呼ばれた。現在の三斗小屋温泉は同じ湯脈であ
る。出羽三山にもあるように、那須も白湯山信仰として「三山駈け」と称し、白湯山・
月山(茶臼岳)・朝日岳(毘沙門山と呼ばれた)の三山 御沢上流にある?幻ノ滝”
御沢上流にある?幻ノ滝”
を登拝した。行人道コースは三斗小屋口(宿)−シズの
平−白湯山−姥ヶ平−南月山−月山−朝日岳だったと考
えられる。このシズの平は出羽三山の志津に相当する。
白湯山信仰は江戸後期に栄え第2次大戦頃まで続いたが、
戦後数年で自然消滅したようだ。
 ところで、三本槍岳は那須連山の最高峰であるが「槍」
という山名からは似ても似つかぬ緩やかなどっしりした  
山容である。一般に「ヤリ」のつく山は見たままの姿からつけられた山名が多く、代
表格は北アルプスの槍ヶ岳である。今夏、27年ぶりに槍ヶ岳に登り(9度目の登頂)、
天狗池という場所から眺めた姿は天に向かって槍の穂先を突くようであり、改めて
「日本のマッターホルン」と呼ばれるに相応しいと思った。姿かたちから付けられた
山名には他に剣岳や鋸岳などがある。ところが三本槍岳は例外であり、かつて会津・
磐城・下野の3藩の境界点としての確認に3本の槍を立てたところから名付けられた
という。
 同じ那須連山に隠居倉という山が朝日岳の西方にある。更に三本槍岳から西へ大峠
を経て、流石山の続きに三倉山、大倉山がある。「クラ」というのは本来岩を表わす
もので、もう一つの意味は尊いもの、すなわち神や首長がお座りになる場所(座)と
いう意味もあり、よい例が長野県南佐久郡にある御座山で「おぐらやま」と呼んでい
る。「クラ」には倉やーの字が当てられることが多く、谷川岳及びその山系の一ノ倉
沢(岳)、俎ー(マナイタグラ)、仙ノ倉山、茂倉岳、芝倉沢などのクラは岩の意味
だろう。尾瀬の象徴のような燧ヶ岳は福島県南会津郡に属するので東北地方の最高峰
になるが、その山頂部は柴安ーと俎ーのピークから成っている。神の座を思わせる威
風堂々の山で、尾瀬ヶ原を睥睨している。
 
2008.10.16 砂田  山名雑話(2)        
 
   白馬はハクバかシロウマか? 相模原市  砂田定夫
 
 この夏、白馬岳でまた遭難があった。その一つは大雪渓の上部にあるネブカ平とい
う所で起きた土砂崩落(岩ナダレ)による事故である。白馬岳は夏の北アルプスでは
入門コースとして親しまれてきた山であるが、この大雪渓コースでは時々事故が起こ
っている。「山はどこにも危険が潜んでいる」という現実を示しているようだ。
 ところで、皆さんはテレビなどで遭難が報じられる中で、ややこしさを感じられな
かっただろうか。それは白馬岳を「シロウマダケ」、白馬大雪渓を「ハクバダイセッ
ケイ」と報じていることである。同じ白馬の文字でもシロウマと言ったり、ハクバと
読んだりしている。なぜこのようになったのか、いきさつを詮索してみよう。
八方尾根からの白馬三山(2月、左から白馬鑓ヶ岳・杓子岳・白馬岳)
八方尾根からの白馬三山(2月、左から白馬鑓ヶ岳・杓子岳・白馬岳)
 明治年間、国土地図作成のため地名調査をする測量役
人が、白馬を訪れて村の長老に白馬岳を指して山名を問
うと、長老は「代馬岳(シロウマダケ)」と答えた。
それは毎年5月になると、白馬岳右肩の残雪の中に馬の
姿の“雪形”が現われると、地元の農家が田植えの代掻
きを始めることから、「代掻き馬の現れる山」という意
味で「代馬岳」と呼び、文字でもそのように書いた。そ
れを役人が「白馬岳」と誤った文字で台帳に書き込んで
しまったのがそもそもの間違いの始まりであった。
(文政年間の絵地図の中に「白馬」の文字が書かれているので、これも江戸時代の役
人の聴き取り間違いだったのだろうか?)
 古来、白馬岳を信州側では単に「西山」と呼び、越中側では「上駒ヶ岳」、越後で
は「大蓮華岳」と呼んだ。日本アルプスを世界に紹介した英国人宣教師、W・ウェス
トンは、明治27年、日本海の海上から見て「遠く南の方に大蓮華(大きな蓮の花の峰)
の頂が聳え立っている」と表現している。
 ところで、残雪の雪形は山肌が形となって黒く現れるものと、残った残雪そのもの
が形となるものとがある。白馬岳は前者の方だから、色の表現で言えば白馬というよ
り黒馬(黒駒)である。この黒駒は白馬岳周辺に3つ現れ、有名なものは白馬岳の北
方にある三国境の下から左に向かう黒駒であり、次に有名なものは小蓮華岳の東尾根
に現れる小馬である。
 昭和31年、北城(ホクジョウ)と神城(カミシロ)の2村が合併し、白馬村(ハク
バムラ)となり、昭和43年信濃四ツ谷駅が白馬駅(ハクバエキ)に改名した。若い頃
スキーのメッカである八方尾根に行ったことのある人には、信濃四ツ谷駅の名が懐か
しいと思う。
 余談であるが、昨年夏、針ノ木峠から烏帽子岳まで縦 白馬岳頂上にて(4月主稜を登攀して、右端が筆者)
白馬岳頂上にて(4月主稜を登攀して、右端が筆者)
走し、ブナ立尾根を下って高瀬ダムからタクシーに乗っ
て信濃大町へ向かうとき、話好きの運転手から聞いたと
ころによると、昔安曇野一帯には「安曇族」が住み着い
ていた。その安曇族の流れを汲むこの地方の人々の気質
には、「まあええじゃないか」と妥協するところがあり、
白馬をハクバにしたときもそんな気質が働いたという。
安曇族の歴史(注)は事実のようだが、その気質につい
ての真偽のほどはわからない。
 
(注)安曇族はもともと北九州辺にいた海人族だった。その祭神は穂高岳の山名の由
来となった穂高見命であり、海の神・綿積命(綿津見命、ワタツミノミコト)の子と
される。穂高見命は明神岳の山麓にある穂高神社奥宮に祭られている。
 
 さて、昭和50年代初め、国鉄(現在のJR)が「いい日旅立ち」キャンペーンを繰
り広げたとき、白馬の下に「HAKUBA」と書いた。ある山屋さん(登山愛好家を
我々はこう呼ぶ)がおかしいのでは、と投書した。国鉄は地元で「ハクバ」と呼んで
いると回答した。地元白馬村役場の見解は、「山名は正式にはシロウマです。しかし
若い登山家が増えてハクバと呼ばれるようになった。地元でもどちらでもよくなった。
しかし、白馬岳で発見される固有の植物名はシロウマという冠詞が付けられているし、
山の本名はシロウマです。」だった。山の正式名がシロウマダケならば、白馬大雪渓
は「シロウマダイセッケイ」と報道すべきである。大雪渓の末端を白馬尻というが、
地元では「ハクバジリ」とか、略して「バジリ」などと呼んでいる。これも「シロウ
マジリ」が正しい筈だ。冬期オリンピックのときも「ハクバ」のイメージが強かった。
中高年になってから山を始めたような人は大抵山の名前まで「ハクバダケ」と呼んで
いる。筆者の白馬岳初登山は昭和34年だから抵抗なく「シロウマダケ」と呼んでいる
が、平気で「ハクバダケ」と呼んでいる登山者は経験が浅い人か、不勉強な人と思う
ことにしていた。ところがつい先日、旧友M君が経営する白馬村みそら野のペンショ
ンに泊まったところ、白馬の事情を熟知している彼でさえも、話の中で白馬三山を
「ハクバサンザン」と言っていた。本名を知っていても、“通称”の方を用いた方が
相手に通じるという事情もあるようだし、地元の大勢に迎合せざるを得ないのかもし
れない。
 
2009. 2. 8 砂田 「相模野基線」を歩く       
 
   「相模野基線」を歩く 相模原市  砂田定夫
 
   〜わが国最初の三角測量の軌跡〜
 日本の三角測量は「相模野基線」(武遠三角網)から始まった。三角測量とは、基
線を鋼製スケール等で精確に実測し、これを底辺として頂点に対する角度を精密に測
定すれば、三角法の正弦の法則(三角形の内角と一辺とを測量すれば、他の二辺は計
算によって求められる)によって位置と距離が求められる測量法である。
相模野基線図
相模野基線図
 この「相模野基線」は明治15(1882)年、陸軍省参謀
本部測量課(後の陸軍陸地測量部、現在の国土交通省国
土地理院)が定め、同年9月〜10月にかけて測量され、
全長が 5209.9697 mと算定された。
 この地が選ばれた理由は、標高差僅か20 m余の平坦で
見通しの効く広い台地だったこと、更に周囲に三角を描
くための適当な山があったことである。この約 5.2 km
の直線を見通せるように樹木は伐採されたという。この
相模野基線を基点として日本全国の三角点網が作られることになり、大正14年に全国
の5万分の1地形図が完成することになる。このような基線は、全国で15箇所設けら
れた。
 この相模野基線の北端点がわが相模原市内にあり、南端点がお隣の座間市にあると
いうことをつい最近知った。教えてくれたのは筆者の所属する日本山岳文化学会の仲
間で、同じ相模原市に住むS氏である。S氏はそのことを(社)日本山岳会の松田雄
一氏(第一次登山ブームのきっかけとなった昭和31年マナスル初登頂のときの登山隊
員の一人)と別件で電話をしているとき、教えてもらったという。
 興味を持ったS氏は調査をしたり、一部実踏したりしてその位置を確かめた上で文
化学会のメンバーに声をかけ、南端点から中間点を経て北端点まで見て歩こう、とい
うことになった。このメンバーは、同じ分科会で登山史に関する話題を肴に盃を交わ
す山好き酒好きの仲間である。
相模野基線南端点
相模野基線南端点
相模野基線中間点
相模野基線中間点
相模野基線北端点
相模野基線北端点
 平成20年9月24日、小田急江ノ島線の南林間駅に10名が集った。S氏のガイドで市
街を歩き出して20分で、最初の南端点に着いた。座間市ひばりが丘1丁目の、ある病
院の敷地内にあり、解説盤の奥に雑草に囲まれた一等三角点(74.8 m)があった。
ちょっと見落としそうな所である。次の中間点は座間市相模が丘2丁目にあったのだ
が、探し当てるのに時間がかかった。桜並木の近くで細い道路のマンホールの中にあ
り、中間点と表示のある蓋を開けるとちゃんと四等三角点の標石が設置されており、
近くにはロータリークラブが建てた説明板があった。最後に訪れたのは北端点で、相
模原市麻溝台4丁目にあり、S氏の近所であり、筆者の家からも自転車で行ける位置
にある。ここは玉砂利が敷き詰められた中に一等三角点(97.0 m)が置かれ、市の教
育委員会が設けた立派な解説盤もある。市によって力の入れ方の差が感じられた。こ
の日は残暑で汗ばむ陽気であり、直線で 5.2 kmでも実際の歩程は 10 km 近く市街を
歩いたと思われる。汗をかいた後は先ず相模原市立体育館内のレストランで生ビール
のジョッキを傾けて喉を潤し、更に相模大野駅前の居酒屋で締め括りとなった。
 
   〜長津田高尾山と鳶尾山に登る〜
長津田高尾山一等三角点
長津田高尾山一等三角点
 後日(11月13日)S氏から「相模野基線踏査」の続編
として、最初に三角測量された二つの三角形の頂点を訪
ねようと声がかかり、4人のメンバーで出かけた。相模
大野駅に集合し、S氏の車で先ず横浜市緑区長津田町に
ある一つの頂点、長津田高尾山を訪ねる。畑地のある小
高い台地の一角にあり、「高尾さま」と呼ばれる飯縄
(イイヅナ)権現堂の前に一等三角点(100.4 m)が設置
されていた。飯縄権現は有名な八王子市の高尾山の飯縄
大権現を勧請したという。
 この日は温暖で快晴、湘南から大山、丹沢はじめ、もう一つの頂点、鳶尾山の丘陵
までよく見渡せた。
 その鳶尾山(トビオサン、地元では「トンビョウサン」 鳶尾山一等三角点
鳶尾山一等三角点
と呼んでいる)へ車で向かう。八菅(ハスゲ)修験にゆ
かりある八菅神社を経て「いこいの森」の駐車場まで行
き、そこから歩き出した。暫く車道を歩いて登山道に入
ると、落葉を踏んでの尾根道となり、やがて鳶尾山の広
々した山頂に着いた。位置は厚木市と愛甲郡愛川町の境
界で、そこに一等三角点(235m)がある。この三角点は
一時、麓の中学校の近くに移設されていたが、再びここ
へ復帰したという(細かい事情は知らない)。見晴らしがよく、新宿の超高層ビル群
や横浜のランドマーク タワーまで見えた。更に1km 尾根を行くと、展望塔のあるピ
ークがあり、ここには日清戦争で戦死した軍人の戦没記念碑があった。この丘陵は晩
秋から春にかけて、陽だまりの散策コースとしてなかなか良い所である。ひと汗かい
た後は、酒好きのメンバーゆえ、小田急相模原駅近くのそば屋で盃を酌み交わしたこ
とは言うまでもない。
 
2009. 8.26 砂田 最初に剱岳に登ったのは誰か?
 
   最初に剱岳に登ったのは誰か? 相模原市  砂田定夫
 
〜映画「劔岳 点の記」に寄せて〜
 この夏、山に関する話題が二つあった。一つは記憶に新しいと思うが、7月16日に
発生した北海道大雪山系で10人の死亡者を出した遭難事故。そのうち9人はトムラウ
シ山の遭難で、旅行会社主催の応募登山であり、ツアー登山の問題、ガイドのあり方、
中高年登山者の心構えなど、多くの教訓を残した。
 もう一つは6月20日から上映されている映画「劔岳 点の記」の話題である。観客
の入りは好調のようであり、筆者も7月初めに丸の内で観てきた。新田次郎原作の山
岳映画で、監督は木村大作。明治の時代、日本の地図を完成させるという使命のため、
当時空白となっていた前人未到(踏)の剱岳山頂に三角点標識を設置しようと、命を
賭けて苦闘する男たちを描いた作品。「点の記」とは、三角点設定の記録で、三角点
の戸籍に当たるもの、現在は国土交通省国土地理院に保管されている。山に関心があ
るなしに拘わらず、多くの方にこの映画の観覧をお薦めする。スクリーンいっぱいに
映る自然の美しさと迫力だけでも一見の価値があると思 @剱岳の全容(剣沢小屋より)
@剱岳の全容(剣沢小屋より)
う。すべて現地ロケであり、近頃の映画に多用されるC
Gを一切使わない本物である。立山町に在住する知人か
ら聞いた話だが、エキストラもすべて現地の登山家や登
山愛好者に限定したという。先日北八ヶ岳の山小屋で実
際にロケのガイドを務めた人に会ったが、転落シーンな
ども人形を使わずに人が演じたと話していた。木村監督
が徹底して3ゲン主義(現場・現物・現実)にこだわっ
たと言えるだろう。
 実在した主な登場人物は以下の通り(カッコ内は俳優)。主人公が測量士(官)・
柴崎芳太郎(浅野忠信)と案内人・宇治長次郎(香川照之)、それに測夫・生田信
(松田龍平)、日本山岳会・小島烏水(仲村トオル)、元測量士・古田盛作(役所広
司)などで、実名で登場する。柴崎測量官は、陸軍参謀本部陸地測量部に属するいわ
ゆる文官であるが、「国家のため、死を賭しても目的を達せねばならぬ」という強い
使命感を持っていたと伝えられる。
 映画の印象としては、山の厳しさが強調され過ぎて、風雨・吹雪・雪崩・滑落など
が次々に映し出されるので、山での体験とオーバーラップして体に力が入ってしまっ
た。登山の専門的な目から見ると、比較的最近のザックの型やガソリンコンロなどが
登場したりして気になったが、映画の評価に影響するものではないだろう。また、主
人公のライバルとして登場する日本山岳会の小島烏水と岡野金次郎は、実際には剱岳
に関与していないし、彼らを対抗させることでストーリーをドラマティックに描こう
とした原作者の意図による創作である。因みに小島烏水と岡野金次郎は、近代登山と
して日本人で初めて槍ヶ岳に登ったコンビである。また、実際に日本山岳会で剱岳に
最初に登ったのは吉田孫四郎一行で、柴崎測量官らが登山した2年後であった。
A剱岳と長次郎雪渓(八ツ峰より)
A剱岳と長次郎雪渓(八ツ峰より)
 この映画で重要な役割を果すもう一人の主役は、案内
人の宇治長次郎である。実際の長次郎は岩場、雪渓、藪
などでの身のこなしと勘がよく、寡黙で温厚、謙虚な人
だったという。昨年、立山山麓で見た銅像から受ける印
象は実に柔和な表情だった。彼を案内人とした登山家が
長次郎の印象について言っていることは、普段は黙って
ゆっくり歩いているが、いよいよ難場(通過が難しい場
所)へ来るといつの間にか先頭に立って、わけのわから
ない歌を口ずさみながらその能力を発揮し、リードしたという。当時剱岳はその厳し
さから地獄の「針の山」とされ、宗教上の理由で登ってはならない山であった。長次
郎は敬虔な仏教徒であり、柴崎隊が初めて登ったとき、彼は辞退して登らなかったの
では、という説もある。また、最初に登ったのは柴崎測量官ではなくて、測夫の生田
信と人夫であり、2回目の測量登山のときに柴崎測量官が登ったとも謂われている。
2年後の吉田孫四郎一行のときは、長次郎が案内人として同行している。
 最もミステリアスなことは、柴崎測量官一行が登頂したとき、それまで人跡未踏と
信じられてきた剱岳の頂上に銅の錫丈頭と鉄剣を見つけたことである。しかも、それ
らは奈良末期から平安初期のものと鑑定された。さらに近くには岩窟や焚火の跡も発
見されたという。少なくとも1000年も昔に登ったのは一体誰だったのか。諸説あるが、
僧侶・修験者・行者などの誰かが宗教的な目的で登ったと考えるのが順当な推理であ
ろう。弘法大師空海が草鞋千足を費やしても登れなかったという伝説さえあるこの峻
険な山に、何者かが決死の覚悟と強い意志で登ったことは事実であり、正に驚きであ
る。 B岩場の懸垂下降(八ツ峰にて)
B岩場の懸垂下降(八ツ峰にて)
 さて、三角点そのものはつい5年前まで剱岳にはなか
った。2004年8月、初めて三等三角点が設置され、剱岳
の「点の記」が初めて作成された。すると、柴崎測量官
たちの登頂はどのように記録されたのかといえば、「選
定・明治40年7月13日、選定者・柴崎芳太郎」と記され
たという。今年9月、筆者は6年ぶりに剱岳に登る予定
であり、新しい三角点に触れるのが楽しみである。
 最後に、剱岳の標高について言及しておこう。筆者が初めて剱岳に登ったのは1960
(昭和35)年で、柴崎測量官一行と同じ長次郎谷からのルートだった。この頃の剱岳
の標高は 3003m とされていた。何度か測量し直される度に、2998m、2999m と変更さ
れているが、3000m を超えることはなかった。私は山の標高にこだわる方ではないが、
剱岳が素晴らしい山だけに、3000m 超級であってほしかったというのが本音、しかし
こればかりは如何ともしがたいことである。
 
<備考>山名表記として「剣岳」「剱岳」「劔岳」「劒岳」などあるが、本文は最新
の国土地理院の表示にあわせて「剱岳」を用いた。なお、映画は原作に合せて「劔岳」
になっている。
 
2010. 6.13 砂田 いま、高尾山があつい!
 
 いま、高尾山があつい!   相模原市 砂田 定夫
 
    〜ミシュラン三つ星で人気上昇中〜
1.人気の秘密は?
 近頃高尾山へ行くと、雰囲気が以前と大分変わったよ 砂田さん
砂田さん
うに思います。ひところは中高年や家族連れが中心だっ
た登山道には、気軽な都会のファッションでやってくる
若いカップルとか、ガイドブック片手に物珍しそうに訪
れる外人客とかが目につくのです。
 一昨年、地域のハイキングクラブで行ったときは、ハ
ッとするような若い女性が5人ばかり後ろから来たので、
「美女軍団のお通り!」と道をあけると、我々おじさん
おばさんを尻目にニコッと笑って颯爽と追い抜いていきました。最近では人気のTV
番組「ちい散歩」でも高尾山が登場しました。高尾山ブームに火をつけた原因は、観
光地を星印で格付けするフランスのガイドブック、ミシュランの観光版(ギード・ベー
ル)日本編が2009年3月に発売され、最高評価の三つ星に高尾山が選ばれ、一躍人気
スポットになったことによるのです。三ツ星というのは、「わざわざ訪れる価値のあ
る場所」が基準であり、例えば日光、法隆寺、姫路城、安芸の宮島といった名勝地が
選ばれています。
 週末、特に連休や桜・紅葉の季節など京王高尾線の高尾山口駅前は人、人、人でご
った返し、ケーブルやトイレの前では行列をよく見かけるし、狭い登山道では渋滞が
起こるほどです。
2.高尾山の魅力とは?
 「山々には出あいがあった。いつの山にも、どこの山 緑豊かな自然林(稲荷山コース)
緑豊かな自然林(稲荷山コース)
にも。しかし、小学校五年の秋の遠足に、はじめて武州
高尾山の頂きに立って、すぐ目の前にそそり立つ富士山
を見仰いだときほど、大きなよろこびにひたされたこと
はない」これは田中澄江著『花の百名山』の一番目に登
場する「高尾山」の書き出しです。奇しくも私も最初に
高尾山に登ったのが小学生5年の秋の遠足(昭和24年)
で、500mを超す山に登ったのもこれが初めてでした。京
王線はまだ通じてなくて、今のwR高尾駅が浅川駅だった頃です。以来、この山に35
回ほど登っています。東京から相模原へ引っ越して、近くなったせいもあって、今で
もよく出かけます。標高は599mの低山ですが、自然が豊かで、眺めがよく、歴史を感
じさせる古刹があり、コースがたくさんあっていろいろ選択でき、次の山行のトレー
ニングにも向いているのです。四季折々楽しめ、特に秋から春にかけては最高ですが、
夏でも他の低山のように草いきれもなく、結構爽やかな風を感じながら快い汗をかけ
ば、下山してからのビールの味も格別というもの。身支度もさほど神経質に考えなく
てもよいので、私の場合は昼近くなって出かけても、1時間後には歩き出せるので、
気持ちのよい半日を過ごすことができます。心がけて朝のうち出かければ、頂上から
足を延ばして城山、景信山、陣馬山などの何れかまで行って下ることもあります。
 昨年の5月3日、GWの日曜日でしたが、混雑を覚悟でぶらり出かけてみました。
高尾山の頂上までは予想通り人が多かったのですが、一歩奥高尾の道へ足を延ばすと、
次第に人は少なくなり、モミジ台辺りからは人影もまばら、あとは眩しい新緑と八重
桜が咲く尾根を、ウグイスの声を耳にしたり、富士を眺めながらの楽しい山歩きでし
た。途中、中国人ファミリーらしい男女のグループと会いましたが、先頭を歩いてい
た男の子が「コンニチワ」と日本語ではっきり挨拶をしたのが印象的でした。縦走路
にはミヤマスミレ、シロバナノヘビイチゴ、キジムシロ、チゴユリ、タツナミソウ、
マムシグサが見られ、下り道ではヒトリシズカ、フタリシズカ、ナルコユリなどの花
が咲いていました。この日は城山、小仏峠、景信山を越えて底沢峠から下り、旧甲州
街道(甲州道中)から相模湖駅まで歩きましたが、なかなか充実した一日でした。
3.高尾山の予備知識をちょっと!
 高尾山は関東山地の東端にあって、八王子市にある標高599mの山。都民や近郊の人
のオアシスとして、日帰りハイキングのメッカになっていることはご存知の通りです。
 1967年、明治の森高尾国定公園に指定され、自然研究路が設けられました。また、
東海自然歩道の基点にもなっています。ケーブルやリフトで470mくらいの高さまで
簡単に行けますが、できれば足で登って達成感を味わいたいもの。
神変大菩薩(役の行者)像のあるお堂
神変大菩薩(役の行者)像のあるお堂
 この山の中腹にある薬王院有喜寺は古く、奈良時代に
聖武天皇の勅願で行基が開いたと伝えられています。今
年は平城京遷都1300年で奈良は沸いていますが、聖武帝
の時代といえば天平文化、遣唐使と共に大仏建立を思い
浮かべます。初めは近江国(滋賀県)の紫香楽(しがら
き)に巨大な盧遮那仏(るしゃなぶつ)と大仏殿を着手
し、後に遷都と共に今の東大寺に大仏を造りました。こ
のとき民衆に人気のあった僧行基が大きな力になったよ
うです。一大国家プロジェクトで260万人を動員し、関係の役所に勤務した官僚は1000
人を数えたという。高さ16mもの仏像の鋳造技術といい、全身の金メッキといい、当
時の人々の技術とかパワーは凄いとしか言いようがありません。寄り道してしまいま
したが、薬王院は後に真言密教の修行場となって栄えました。成田山新勝寺、川崎大
師平間寺と共に真言宗の三山とされています。
 高尾山の自然林が今なお豊かな理由は、戦国時代、八 法螺貝を持った修験僧たち
法螺貝を持った修験僧たち
王子城主北條氏照が山内の森林を保護し、後に徳川幕府
が直轄の御用林にしたためです。杉の巨木の並木があり、
山頂付近にはムササビが生息して、夜間その飛翔する姿
を見て天狗を連想したのではないかという説もあります。
5〜6月には、セッコクというラン科の珍しい花が老木
などに着生して咲くのも見所の一つです。自然が豊富な
故に自然の保護という立場から、圏央道の工事に対して
反対運動があったことは記憶に新しいところです。
 山頂は十三州見えるという大見晴台となっており、富士山はじめ雄大なパノラマが
得られます。中里介山はこの山の麓に草庵を結び、長編小説『大菩薩峠』を書いたと
いわれますが、この辺りの山水を愛したようで、作品の中では山頂からの眺めなど高
尾周辺のことを細かく書いています。
4.お薦めのコース
 最後に筆者がよく利用するお薦めコースをいくつか紹介します。詳しくお知りにな
りたい場合は、お問い合わせ下さい。
 @ 琵琶滝コース(6号路):ポピュラーな沢沿いのコース。登山道が細いので、休
   日など渋滞することがあります。
 A 稲荷山コース:風と眺めの尾根コース。初めの登りと最後の階段がちょっときつ
   いですが、筆者の好きなコースです。
 B 裏高尾コース:日影沢から森の尾根へ。静かな雰囲気を味わえるコース。
 C 蛇滝コース:しっとりした行者コース。琵琶滝と共に今でも滝に打たれて修行す
   る人の姿が見られます。
 以上のどれか二つを登り下りに組み合わせると、思い出に残るワンディハイクが計
画できます。唯一吊橋のある4号路は、現在通行止めになっているので予定する場合
は確認して下さい。
 D 奥高尾コース:高尾山から陣馬山へ続く武相境尾根の縦走。途中、城山・小仏峠
   景信山・底沢峠・明王峠・奈良子峠から下るコースがあります。
 本格派向きには以下のハードコースがあります。
 E 南高尾山稜(峯の薬師・津久井湖への縦走)
 F 北高尾山稜(八王子城山への縦走)
 いずれにしても高尾山周辺には、初心者向きから健脚者向きの多様なコースがあり
ますが、事前調査と時間にゆとりをもってお出かけ下さい。