話 題 『 よもやま話 』ー9 2008年5月〜2008年6月
 
          話  題  一  覧
2008. 6.27  横浜開港150周年に向けてのイベントを見る  投稿;野村一信
2008. 6.22  仙漉]話                 投稿:清水有道          
2008. 6.15  臨終仏教                 投稿;遠藤 実
2008. 6. 8  東京計器と共に昭和を綴って!(その4)  投稿;野村光雄
2008. 6. 1  干支談義(その6) ”巳”        投稿;内藤文三
2008. 5.25  蝶が告げる地球温暖化           投稿:清水有道
2008. 5.11  四国・今治の紹介(第2話その3/最終回) 投稿;三浦弘幸
 

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          話  題  『 よもやま話 』
2008. 6.27 野村  横浜開港150周年に向けてのイベントを見る    
 
横浜開港150周年に向けてのイベントを見る 横浜市  野村 一信
 
 来年6月に横浜開港150周年になります。それに向けて今年は色々なイベントが企
画されています。その一つにアフリカ・サミットにあわせて6月1日までアフリカン・
フェアが開かれました。
 アフリカの約40カ国が物産や投資・観光情報を紹介していました。アフリカはお花
の輸出が多く、またワインもなかなか美味しく輸出に力を入れているようでしたし、
最大の目玉は日本の必需品ダイヤモンドです。日本が最大の輸入国のようでしたよ。
これは写真も撮ってきましたが、大変大きな美しいものが展示されていました。
 6月2日(月)夜に臨港パークでイベントがあり写真を撮りに行きましたが、MM
21を歩いているうちに疲れてしまい、会場に到着せずに帰ってきました。
 写真は臨港パーク近くの景色といつもの遊園地付近の夜景になりました。
春の山下公園1
春の山下公園1
春の山下公園2
春の山下公園2
春の山下公園3
春の山下公園3
 
春の山下公園4
春の山下公園4
春の山下公園5
春の山下公園5
春の山下公園6
春の山下公園6
 
ケニア・コーナー1
ケニア・コーナー1
ケニア・コーナー2
ケニア・コーナー2
アフリカ展ケニアコーナー
写真を撮りたいと言ったら
すぐにOKでこのポーズ
日本語上手でしたよ。
 
 
 
 
 
独特の木彫りとこの色です。 ギニア・コーナー1
ギニア・コーナー1
ギニア・コーナー2
ギニア・コーナー2
来ている説明員は少しメタ
ポでしたが本来はこの木彫
りのスタイルでしょうね?
 
 
 
 
 
ボツワナ共和国ダイヤの王冠とネックレス
ボツワナ共和国ダイヤの王冠とネックレス
ガーナ・シアバター石鹸工房
ガーナ・シアバター石鹸工房
ガーナ展示場
ガーナ展示場
 
ジンバブエ共和国
ジンバブエ共和国
リベリア共和国
リベリア共和国
喋喋で作った壁掛け(中央アフリカ)
喋喋で作った壁掛け(中央アフリカ)
 
珍しいアクセサリーを物色する
珍しいアクセサリーを物色する
ルワンダ共和国のコーヒー
ルワンダ共和国のコーヒー
コーヒーのサービス
コーヒーのサービス
 
赤レンガ倉庫前のバイクのパフォーマンス1
赤レンガ倉庫前のバイクのパフォーマンス1
赤レンガ倉庫前のバイクのパフォーマンス2
赤レンガ倉庫前のバイクのパフォーマンス2
赤レンガ倉庫前のバイクのパフォーマンス3
赤レンガ倉庫前のバイクのパフォーマンス3
 
山下公園前のドラゴンボートスタート
山下公園前のドラゴンボートスタート
このまま進めば一着になりそうです。
このまま進めば一着になりそうです。
山下公園ではドラゴンボート
の大会をやっていました。
地域のグループが参加して
職場の応援もあり主催者側
のアナウンスもありでとて
も、賑やかでした。
ボートはなかなか真っ直ぐ
には進みません。
 
水上バイクの試技
水上バイクの試技
横浜港遊覧船と大桟橋
横浜港遊覧船と大桟橋
海王丸1
海王丸1
 
海王丸2
海王丸2
汽車道から観覧車を見る
汽車道から観覧車を見る
夕暮れのコンチネンタルホテルと臨港パーク
夕暮れのコンチネンタルホテルと臨港パーク
 
6月2日の夜に臨港パーク ランドマークタワーと観覧車
ランドマークタワーと観覧車
日本丸の夜景
日本丸の夜景
で音楽祭があり写真を撮り
たかったんですが疲れて途
中下車してしまいました。
また、次回の機会に今度は
カメラの三脚を持って行き
ましょう。
 
 
                   文/野村   写真/小田・瀧川・野村
 
2008. 6.22 清水  仙漉]話               
 
仙漉]話  横浜市 清水 有道
 
      仙高フ俳句をもじった揮毫
 70歳を超え敬老の対象ともなれば、いろいろな機会にいろいろな人から揮毫を求め
られる。筆者も30〜50歳代では専ら「誠実」の二文字をくそ真面目に習慣の如くに認
めてきた。
 あるとき、筆者の生まれ年のちょうど百年前に没した横浜生まれで、晩年は九州に
禅寺の住職として暮らした禅宗の文化僧仙高フ画賛の中に「よしあしの 中を流れて
清水哉」の句があることを知り、仙高ノは申し訳ないが、その句をもじり自分に都合
よく書き直し、「善し悪しの 中を流れて 清水かな」と「良いか悪いか、あるいは
どちらか分からないこの世の中を流れて(生き長らえて)今日の自分、清水がありま
す」と言う意味の文字を揮毫にすることにした。仙高フ句の元の意味は勿論、水を濾
過する作用を持つ良い芦(Reed)の中を流れて本当の清水が生まれているということ
を言っている
 人々は古から琵琶湖などの「よし」(関西では特に芦を“あし”と呼ばず、“よ
し”と呼ぶ。これは、“あし”が“悪し”に通じることを嫌っての使われ方である。
水辺のウグイス科の小鳥で「ヨシキリ」がいるが、漢字で書けば「芦切り」である。
このほうが確かに「アシキリ」よりは美しく響き、きれいである。)を大切にして手
を掛け、水の浄化に努めていることは良く知られている。仙高烽アのよしの浄化作用
をよほど快く思っていたようで、上記の句の「よしあしの中に流れて」の部分はその
ままにして、最後の5文字を入れ替えて幾つかの画賛を作っている。
 2007年9月1日から東京の出光美術館で「没後170年記念仙香@禅画にあそぶ」展
が開かれた。筆者が冒頭に引用した句がどのようなよしの絵と共に仙高ヘ作ったのか
を改めてもう一度確認したく、早速に出向いた。確かにありました。葦画賛と題して
軸仕立てのものと、他の画賛と4枚組の縦長の衝立屏風様にしたものと二つの違った
絵のものが見られた。「座禅して 人は佛に なるならハ」で知られる座禅蛙画賛や
判じ物のようなマルと三角と四角だけを描いた「○△□」、「を月様幾ツ 十三七
ツ」と賛された指月布袋画賛などがよく知られた作品である。いずれにしてもユーモ
ラスで自由奔放な書画は、やたらとせせこましい現代に反って不思議な魅力を持って
迎え入れられているように思われる。余生をより自由に快活に生きるために、仙国T
師の生き方を学びたいと思うことしきりである。当分上に紹介した揮毫は続けたいと
思っている。
        (2007年9月記)
 
2008. 6.15 遠藤  臨終仏教
 
臨 終 仏 教 東京都  遠藤 実
 
遠藤
遠藤 実さん
 金子さんの「生と死の境界に、尊厳と平穏を」を小生
の「死生学雑感」の記事を契機として投稿いただいたこ
と、ありがたく事務局としても厚くお礼もうしあげます。
事務局としてもホームページをこのような意見交換の場
として活用されんことを願っております。
 金子さんのお話は、現下の社会生活上、大問題となっ
ています高齢化社会と著しい生命医学の科学的発展とい
う現象のマッチングとそれに対する処方箋のミスマッチ
ングの問題として捉えられるのではないかと思います。後期高齢者医療制度の問題の
一つに終末期医療の治療費が極めて高額になり、財政を圧迫させていることにあると
聞いております。それ故に終末期医療が無駄であるか否かはまったく別の視点で論じ
られなければなりませんが。
 さて、仏教の世界にも「生と死の境界」の問題を「臨終仏教」として、古来から概
念化され法要儀式化されてきています。
 昔は医学が発達していませんでしたから、もっぱら尊厳死をまっとうする方向が自
然に選択されました。意識的な近代的尊厳死を最初に選んだのは、幕末の蘭法医佐倉
順天堂(現在の順天堂大学病院)の創始者「佐藤泰然」ではないかと思います。当時と
してはかなりの高齢でありましたが、終末期にあたり多くの弟子の延命治療を断り、
高貴薬の投与を他者への転用を指示しつつ静かにその生涯をおえました。この時代に
あっては彼が蘭法医という立場だったから実行できたことだと思います。一般には死
の恐怖から開放させることを目的に雑念を払わせ、仏へ思いをいたす「臨終正念」を
求められました。最後の立会人は、医師ではなく引導を渡す「枕経」を唱える僧侶で
した。「末期の水」「湯灌」「北枕」「臨終曼荼羅」「霊山往詣」などの法要式も確
立されました。
 釈迦は「死後、地獄、極楽はあるのかないのか」という弟子質問に対して、ひたす
ら「無記」 (沈黙)を通したと原始仏教の経典にあります。その背景には釈迦以前の
インド・バラモン哲学の中で六人の著名な哲学者が出て、「宇宙は有限か無限か」「こ
の世の中は何から出来ているか」「天国、地獄はあるか」などついて、激論が交わさ
れた時代があったからです。釈迦が「無記」を通したのは、このような「益のないこ
と」「無駄なこと」に議論を費やすなということでしょう。それより有限の人生であ
ることを「積極的」に認識して、日々の求道の中から自分の行動規範が生まれてくる
ような努力をせよと言ったではなかったのでしょうか。
 いずれにしても、「生と死の境界」「臨終」のテーマは、単に終末期の医療形態と
いう無機質的側面ばかりでなく、その周辺を含めた内的、外的諸事象の深淵かつ包括
的な課題を含んでいることは確かだと思います。もともと釈迦の基本思想の一つには
「一切皆苦」というものがあるのですから。
 
2008. 6. 8 野村  東京計器と共に昭和を綴って!(その4)
 
東京計器と共に昭和を綴って!(その4) 野村光雄 名誉会員
 
 12. 京浜国道に乗合馬車         (昭和60年会報第19号掲載)
 京浜電鉄がなかった時代の東海道には、慶応3年(18 吉田橋通り(絵葉書:横浜開港資料館所蔵)
吉田橋通り(絵葉書:横浜開港資料館所蔵)
67)から外国人経営の乗合馬車が、横浜・吉田橋のたも
と馬車道から日本橋まで走り始めた。それが明治になっ
てから日本人経営に替わり、2頭引き6人乗りの馬車が
片道4時間で走ったという。
 この他に六郷や大森から品川までの馬車もあったが、
京浜電鉄の発展に伴い乗合馬車はいつしか姿を消してい
った。
 その頃の京浜電車は、ポールをあげた一車輌で単線運転。大森から六郷土手までは
旧東海道の真ん中を走っていた。
 停留所は現在のバスのようなもので、停留所の処だけが複線になり、上りと下りが
擦れ違うようになっていた。ホームもなければ駅員もいない。切符は乗ってから車掌
が切り、いつも数人から十数人の客で梅や桃・梨に花が咲いている長閑な田園風景の
中をガタガタ音を立てながらのんびり走っていた。
 いずれにせよ、蒲田周辺はその頃、東京の近郊で長閑な農業地帯だった。活発な地
域開発は大正時代を待たなければならぬ。
 
 13.京浜電鉄の発展             (昭和60年会報第19号掲載)
 京浜電鉄は蒲田町内に蒲田、梅屋敷、出村の3停留所を設け、蒲田停留所から羽田
に至る支線で、春秋2回の競馬、夏の海水浴などに輸送力を発揮していた。
 梅屋敷停留所は森ヶ崎鉱泉と省線蒲田駅を連絡する『梅森自動車』で結ばれ、森ヶ
崎海水浴場へ出掛ける客を一手に引き受け、羽田支線に劣らぬ盛況振りであった。
 また、京浜電鉄の経営する乗合自動車は、品川八ツ山と六郷間の国道を走り、蒲田
地区内に3ヶ所の停留所を設け、省線蒲田と羽田間を直通していた。
 
 14. モノレールと地下鉄の話        (昭和60年会報第19号掲載)
 この交通機関の発展に伴って、昭和7年には東京府は省線蒲田駅から羽田国際飛行
場に通じる空中電車(モノレール)。国道から省線蒲田駅を経て、池上に通じる自動
車専用道路。京浜電鉄蒲田停留場から省線蒲田駅の北側を越えて大崎と結ぶ京浜延長
東京モノレール
東京モノレール
空から見た桜木町駅(2005年4月撮影)
空から見た桜木町駅(2005年4月撮影)
線。五反田駅から省線蒲田
に結ぶ地下鉄構想など、当
時としては夢物語のように
思われたが、ともあれ、モ
ノレール計画や地下鉄を蒲
田駅を結び付ける考えがあ
ったことは驚くべき未来展
望であった。
 
 15. 汽車から電車運転へ          (昭和60年会報第19号掲載)   
 当時の鉄道院(大正9年・鉄道省)は、大正3年12月2日東京と桜木町間に電車運
転を、これが今の京浜東北線の始まりであるが、各所の跨線橋が低いため電車の櫓式
ポールがひっかかって、24日目には電車の運転を一時中止した。
 蒲田の人達の一部では『乗客が少ないから止めたのだ』と思っていたが、年が変わ
り翌4年5月10日から再び電車の運転を開始したのである。
 蒲田村の人口は緩いカーブではあるが、明治時代の2千人台が大正元年には3千人
台になり、4年には3千8百人と増加し、翌5年には4千人台を突破して4,147人に
なる。
 
16. 西口駅舎の陳情             (昭和60年会報第19号掲載)      
 院線電車が運転された頃から、蒲田駅の東口や西口の御園村周辺にボツボツではあ
ったが、サラリーマンの郊外住宅が建つようになり、駅西側の御園、女塚両村から東
京、横浜方面に通勤する人達が、不便を感じるようになった。というのは、女塚踏切
(現・池上踏切)を横断するのに待つ時間が長くなったからである。
 電車や汽車の通過のため一昼夜に2百回に及ぶ遮断機 第1種甲踏切の警報機
第1種甲踏切の警報機
の開閉があったから不便そのものであった。
 そこで両村の住民たちは『駅の西側に昇降口を設置し
て欲しい』という住民連署の陳情書を鉄道省に提出して
請願した。
 請願は前後3回に及んだ結果、鉄道省では『西口に設
けるための敷地を寄附して呉れれば新駅を作る事を考慮
してもよい』と言われ、大正10年4月、蒲田村から須山
金太郎、月村百太郎ほか8名、矢口村から吉田相吉、森長太郎の地元名士たちが集ま
り『駅西側昇降口期成会』を結成した。
 12人の発起人は手分けして寄附金集めに奔走した結果、約6ヶ月で5,417円が集り、
そのうち3,000円で敷地150坪を購入して鉄道省に寄附、残金は西口通りの修繕費と開
通式に当てる事にした。
 翌11年6月、西口駅舎は落成し、7月2日華やかに開通式が行われた。この駅舎は
モダンな建築で評判になった。
 
 17. 女塚踏切を地下道に          (昭和60年会報第19号掲載) 
 蒲田駅の西口駅舎が設けられたが、女塚踏切を利用する不便は募るばかり、10分か
ら20分待つのは珍しくなかったという。
 それに加えて自動車、自転車が増加して、通学児童たちの踏切通過は危険そのもの。
 そこで大正14年7月、蒲田町議会は『女塚踏切地下道完成方陳情案』を決議して、
遠藤信之、菊地政雄ら5人の議員は小島富次郎町長を先頭にして当局へ10数回に亘り
陳情した結果、漸く昭和5年1月、工費28,400円で起工する運びとなり、7月に目出
度く地下道が完成したのである。
                             (蒲田駅史より)
 
2008. 6. 1 内藤  干支談義(その6) ”巳”        
 
 干支談義(その6)“ 巳 ”  茅ヶ崎市 内藤 文三
 
 二十世紀の日本は戦争や天災・人心の荒廃等苦難の百年だったが、時は確実に流れ
て、いよいよ「二十一世紀」の幕明けとなった。
 何はともあれ会員諸兄姉が元気で意義深い初春を迎えた事は大慶至極である。今回
は新世紀初の「干支談義」で、而も筆者は巳年(大正六・丁巳(ひのとみ))生れ故
に一層感慨深く、「あと何年書けるか?」との想いに『年たけて、また越ゆべしと思
いきや、命なりけり小夜(さよ)の中山』(西行法師)の歌を口ずさんだ。
 
巳
 さて、平成十三年は、紀元二六六一年・西暦二〇〇一
年・明治一三四年・大正九十年・昭和七六年である。
平成十三年の干支は、「五行」が四番目の「金」の後半、
「十干」が八番目の「辛」、「十二支」は六番目の「巳」
で「辛巳」となり、訓読は「かのと・み」音読は「しん
し」である。巳は蛇のことで、十二支の中で唯一の「爬
虫類」である。巳の方角は「南々東」、巳の刻は午前十
時(四ッ時)と十一時(四ッ半)である。
 日本に棲む蛇は、青大将(三米近くなる)・すじなめら(しま蛇)・やまかがし・
まむし(沖縄には蝮(まむし)の亜科・はぶ、がいる)で、熱帯の・錦蛇の様な大蛇
は居ない。また・白蛇・の話を聞くがそれは青大将の突然変異らしい。また、蛇は、
くちなわ・おろち・蛇(じゃ)・蛇(だ)等色々呼ばれる。
 蛇に関わる言葉や諺も多く、蛇(じゃ)口・蛇腹(じゃばら)・蛇行(だこう)・
蛇(だ)足・龍頭蛇尾(だび)・蛇(じゃ)の道は蛇(へび)・藪を突ついて蛇を出
す・蛇の生(なま)殺し・とぐろを巻く(頭を中心にうず巻円錐状の蛇の基本姿勢で
人間の場合はある場所を占居すること)等色々だが、面白いのに「三竦(さんすく)
み(蛇は・蛞蝓(なめくじ)を恐れ、蛞蝓は蛙を恐れ、蛙は蛇を恐れる)」と云うの
があり、三者が互に牽制して動けない状態を云うのだが、眞偽の程は不明である。
 
 蛇にまつわる物語や伝説は「八岐(やまた)の大蛇 鵺
(おろち)」を始め沢山あるが、「鵺(ぬえ)」の話は
面白い。二條天皇の時、皇居の屋根に出没した怪獸を勅
命により「源頼政」が退治した話で、その怪獸は「鵺」
と呼ばれ、頭が猿、体が虎・尾が蛇だったと云う。江戸
川柳(せんりゅう)に『いのはやた(頼政の従者で鵺を
取り抑えた人)尻尾(しっぽ)に肩を噛みつかれ』と云
うのがあるそうだが、猿も虎も蛇も十二支で何か根拠が
あったのだろうか。蛇足ながら、源頼政は治承四年平家討滅の魁(さきがけ)となり、
『埋れ木の、花咲く事も無かりしに、身になる果てぞ哀れなりける』の歌を遺し自刃
した。今も宇治平等院に「扇の芝」が残っている。
 蛇はその姿や挙動から大方の人に嫌われるが、日本の蛇は蝮・はぶ以外は無毒で、
それ程悪者ではない。旧制一高の寮歌に『草ずれの、音聞こえつゝ木(こ)のもとの
、猜疑の蛇を吾見たり』の歌詞があったと思うが?西洋神話では蛇は猜疑心の妖精と
されているらしい。しかし日本では『蛇は弁財天のお使い』と云われ、鎌倉の「銭洗
い弁天」の池で巳の日にお金を洗うとお金が増えると云われている。また「巳年の人
は金に困らない」とも云われるが、筆者の場合は金が無くても困らない。何故なら、
欲望や贅沢は総て我慢するからである、例えば吾が家には冷房も無く(空調で首にな
ったからではない)、洗濯器は最初のものを自分で修理して今だに使っており、僅か
な年金で細々と暮らして、良寛の『焚く程は風がもて来る落葉かな』の「お金に困ら
ない」なのである。
戦艦大和
戦艦大和
 干支は六十年で還暦で昭和十六年が今年と同じ辛巳の
年で、筆者は呉に居たが当時「呉海軍工廠」では「戦艦
大和」の艤装に追われており、その巨大さ(七二、八〇
〇噸・在来の最大戦艦陸奥が三三、八〇〇噸)に驚いた。
そして其の年十二月八日第二次世界大戦となり、「大和」
は二十年四月七日午後二時二十三分三千余名の乗員諸共
東支那海の海底に消えた。しかし、日本が造船国として
戦後の大型タンカー時代をリードして、昭和四九年「N
BC呉造船所」で世界初の四十八万四千噸の「日精丸」を建造出来たのは「大和建造
の技術」に依る所大であったと云われており、当時「東京計器」も「荷油遠隔操作装
置」等で繁忙を極めた事を記憶している。
 住み着いて約四十五年の吾が家の庭にも蛇が居たが最近姿を見せない。周囲の自然
が失われたからと思う。物質文明のみ追求し、大自然や精神文化を尊重しない昨今の
世相では蛇も生存不能か?と心配だが、新世紀第一年がどうか良い年であり「トキメ
ック」が益々発展し、そして親愛なるOB会諸兄姉が一層幸多き事を祈りつゝ、禿筆
を措く次第である。
 
2008. 5.25 清水 蝶が告げる地球温暖化
 
蝶が告げる地球温暖化  横浜市 清水 有道
 
    我が家の庭にもナガサキアゲハが飛来
 
 筆者は幼少の頃より昆虫に魅せられ、高校時代も、大学生のときもずっとサークル
は生物部に属して、主に蝶・蛾を追い回していました。社会人になってからも、蝶と
蛾の生態研究と採集を続けたくて日本鱗翅学会や日本蝶類学会に籍を置いていました。
筆者は現在までに40年以上に亘って海外との仕事に従事していますので、海外に長期
駐在したり、短期間出張することも多かったため、世界各地で珍しい蝶・蛾に出くわ
す楽しみを今に至るまで味わい続けています。
 思い返せば、筆者の学生時代には、井の頭公園にまで行かずとも、例えば都心の永
田町日枝神社、小石川界隈、池上本門寺や青山墓地周辺でも、オオムラサキやゴマダ
ラチョウを何頭{注:正式に蝶・蛾を数える単位は頭(トウ)と言います}も採集す
ることができました。榎の木の枝葉に独得の形をしたこれら2種の幼虫を見付けるこ
ともさほど難しいことではありませんでした。これら2種に限らず、東京都内で採集
できる蝶の種類も相当の数でした。筆者は今も当時採集した標本を多数所持し続けて
います。
 しかし、近年は自然が残る土地もどんどん開発されて少なくなり、田畑では除草・
殺虫剤あるいは農薬の使用が増えて、蝶類の個体数もめっきり減ってしまいました。
都会ばかりでなく、郊外でも所轄の自治体が条例を設け、蝶が貴重な動物の仲間とし
て保護されることが多くなり、筆者のような研究者や好事家には採集できる場所も狭
められ、年々活動し辛くなって来ています。
 勿論当時でも南方系のヒョウモンチョウであるツマグロヒョウモンは、関東では筆
者の知る限り、全く見られませんでした。それがどうでしょうか。このところ2〜3
年筆者の住んでいる横浜市港北区の日吉地区では、沢山のツマグロヒョウモンが飛び
交い、とくに秋に入って9、10月の2ヶ月には垣根や空き地に咲き乱れるキバナコス
モスの花に、ヒメアカタテハ、アカタテ、キチョウと共に群がって吸蜜しています。
 よく秋には台風と共に南方系の蝶が迷蝶として関東でも採集されたり、記録に留め
られたりしています。それにしても、このところ数年のツマグロヒョウモンは余りに
も個体数が多いのに本当にびっくりさせられます。どう見ても迷蝶ではなく、明らか
に当地で育ち、羽化したものとしか考えられません。
 筆者が少年時代から学生時代を通して座右にしてきました昆虫図鑑や蝶類図鑑でも、
ツマグロヒョウモンの説明には、「日本で唯一の暖地性ヒョウモンチョウで、日本の
北限は関西である」と必ず特記されていたことを思い出します。筆者の経験でも、主
に5月の連休の頃から奈良の秋篠寺周辺やその付近の古の天皇や皇族の陵の間に、東
京や横浜近郊のキャベツ畑で普通に見かけるモンシロチョウのように、多くのツマグ
ロヒョウモンの飛び交う姿を目にしています。
 同じように、筆者は上記の現住所で、昨年と一昨年の2年間に数回、暖地に多い種
で、関西が北限とされているシジミチョウのムラサキシジミをネットに納めています。
今年に入っても何回か我が家の庭木にやって来たのを目にしています。強い陽光を浴
びて輝く雌の前翅の暗色に縁取られた中心部に特有の青紫色は、蝶に興味のある方な
ら目を輝かせて見入る存在です。
 さて、都会の蝶が減ってきていると書きましたが、上記の日吉地区ではこのところ
5年くらいの間に年毎に蝶の種類が増えているように思えてなりません。これは多分、
農薬使用が控えられていること、緑道を造り樹木を植え込み、野草を育てていること
と大いに関係があるように思います。因みに、緑道のコナラやクヌギの枝にはミドリ
シジミの類が見られますし、秋口に入ると付近の民家の藤棚では卵を産み付けるウラ
ギンシジミの姿をよく見かけます。また、昨年のことですが、筆者の庭に植えて可憐
な花を愛でているホトトギスにいっぱいの真っ黒い毛虫が付き、往生しました。これ
も都会や平地ではやや珍しいルリタテハの幼虫でした。周囲には野生のアケビが生い
茂っていますので、蛾としては立派で綺麗なアケビコノハも筆者の庭で2度ばかり採
集しています。緑道の比較的大きな木の幹には時々オオミズアオが大きな翅を広げて
静止しているのを見かけたりもします。これらは地球の温暖化とは直接関係はないで
しょうが、筆者には蝶・蛾の生活環境が徐々に改善されてきていて住み易くなって来
たことを教えてくれているように思います。もう少し注意を払って観察を続ければき
っと大きな変化が起きていることが分かることでしょう。
 ここまで筆を進めてきましたら、2007年8月25日の土曜日にまたまたとんでもない
ことに出くわしました。猛暑日が続いておりますので毎日午後4時から5時の間に庭
の木々や植物、植木鉢やプランターに水遣りをする習慣にしていますが、庭に下りる
べく大きなガラス戸を開けますと、傍の紅蜀葵の幹に止まっていた大きな黒い蝶がゆ
っくりと飛び立ちました。クロアゲハかモンキアゲハかと思っていると、一回りして
再び戻って来たのです。そこで更に良く観察してみると、何とナガサキアゲハの雌で
はありませんか。ここ1〜2年朝日や読売と言った大新聞にまで何回か記事として、
湘南の大磯、二宮、秦野地域にナガサキアゲハが本格的に自生しているらしいことが
紹介されてきました。筆者も一度これらの地域を訪ねて実際に自分の目でナガサキア
ゲハの実在を確かめてみようと思っていた矢先のことでしたから、驚きも一入でした。
筆者の見た個体は通常見られる上翅の白色は殆んどないくらい一面黒っぽかったので
すが、後翅の白色はほぼ全面に及んでいるようでした。一度戻ってきてから急に飛び
去ってしまいましたので、捕獲することも写真に収めることも残念ながら出来ません
でした。このナガサキアゲハにしてもその和名が示す如く、嘗てはわが国では九州や
奄美諸島にしか生息しない貴重な品種で、蝶マニアには垂涎の対象でありました。ま
してや京浜地区で見られるなどとは到底考えられないことでした。
   ナガサキアゲハ(雌)
   ナガサキアゲハ(雌)
 ← 写真のナガサキアゲハ雌は前翅の黒色はやや淡く、
産地によってはさらに白化の程度に差を有します。雌の
特徴は前翅中室基部にある赤褐色の紋と後翅の白斑です。
また、ナガサキアゲハは日本に産する黒い翅を持つアゲ
ハチョウ類の中で、唯一尾を持たない種であることも大
きな特徴です。台湾や南方系の亜種には有尾型も多く産 
します。
  
 ここまで綴ってきたところ、またまた夢のような現実が訪れました。それは9月に
入って最初の日曜日の2日正午前、何とはなしに庭を眺めていると、前述した紅蜀葵
の赤い大輪の花でこともあろうにナガサキアゲハの雌が吸蜜しているではありません
か。出掛けるために正装していましたが、捕虫網を取りに行く暇も惜しく、何もかも
忘れて飛び出し手?みで見事取り押さえました。個体は翅も大きく欠けていて、羽化
してからは相当の日数が経っているものでしたが、蝶類図鑑と照合してみれば正真正
銘の雌のナガサキアゲハでした。早速標本に作りましたので、ツマグロヒョウモンの
雄・雌一対とムラサキシジミの雌とともに写真でご覧下さい。
  ツマグロヒョウモン(雄)
  ツマグロヒョウモン(雄)
  ツマグロヒョウモン(雌)
  ツマグロヒョウモン(雌)
   ムラサキシジミ(雌)
   ムラサキシジミ(雌)
 ご覧のようにツマグロヒョウモンの雌雄の前翅模様は全く違っており、異種と見誤
るくらいです。雌の前翅の翅表では翅頂にかけて約半分が紫黒色となり、その中に斜
めの白帯が走り、ヒョウモンチョウの中では美種です。ヒョウモンチョウでは何故か
雌に違った色合いや模様が現れるものがあり、メスグロヒョウモンは前翅も後翅も翅
表の模様は完全に異なっています。雌の翅表は青みがかった黒褐色で、その中に白斑
や白帯が目立ちます。雄は普通の数あるヒョウモンチョウ類の色彩や斑紋に似ており、
区別することは容易です。和名の由来も全く納得です。
(写真のムラサキシジミの雌は雄よりは綺麗で、明るい青藍色をしています)
 上記のナガサキアゲハやツマグロヒョウモンと言い、ムラサキシジミの例と言い、
明らかに暖かい地方の特産とも言えた種が北上して、京浜地区で普通に見られるよう
になるというのは、北海道の近海で多種の暖流の魚が獲れることと同様、地球が温暖
化していることの確かな証拠と言えるでしょう。
 話は変わって蝉のことになりますが、地球の温暖化現象の一例として思い出します
のは、1993年9月12日の朝日新聞朝刊に紹介された東京都内のクマゼミ大量発生のこ
とです。これは国内で最大の蝉で、北限の神奈川県を越えて、都内で盛んに見られる
ようになった、という記事でした。このときも、単に鳴き声が聴かれるというだけで
はなく、幼虫の抜け殻まで見られるようになったので、間違いなく東京に住み着いて
いることが実証されたと、蝉の研究家の見解まで添えられていました。これなども、
地球温暖化によって、東京の人工の森や公園が住み易い環境に変わってきたために起
きた現象と言えるでしょう。
 また、都会では天敵が少ないため、個体の生存率がぐんとアップすることも寄与要
因になっています。ご承知のように、生物を取り巻く環境では、一定の捕食関係があ
って、一巡する生命の輪鎖が出来上がっています。この捕食関係を崩す天敵の有無や
無力化が生じたときに、突然我が者顔に振舞い続ける種が出現し、猛烈な勢いで増え
ることがあります。
 紹介しました上記3種の南方系の蝶についても、天敵がいるかどうか、これから先
の個体数の現われ方を注意して見守りたいと思っています。以上書きましたように私
たちの身の回りの自然にも注意して観察していると年々少しずつ変化の見られること
に気付かされます。
         (2007年9月3日 記)
 
2008. 5.11 三浦  四国・今治の紹介(第2話 その3/最終回)
 
四国・今治の紹介 ≪第2話≫
   素晴しい観光地;今治(その3/最終回)  新潟市 三浦 弘幸
 
5.菩提の道場巡り(市内の札所6ヶ寺巡り)
 第1話で前述したとおり、愛媛県(伊予)の札所は菩 お遍路さん
お遍路さん
提(ぼだい)の道場と呼ばれ第40番から第65番までの26
ヶ寺がある(菩提とは煩悩を断じ、真理を明らかに知っ
て得られる境地)。この巡礼の旅はいわゆる普通の観光
の旅とは違うが、四国だけにある巡礼の旅であり、知名
度は全国区である。今治は地の利もあり、是非「菩提の
道場巡り」と「今治6ヶ寺巡り」を観光産業の一つとし
て取り上げてはどうかと考えている。26ヶ寺は松山以西
に14ヶ寺あり、今治以東に12ヶ寺あるので、「菩提の道場巡り」の拠点は松山でも今
治でもどちらでも殆ど同じ条件である。飛行機で来る人はどうしても松山が拠点とな
ると思うが、車や電車で来る人は今治拠点で行動することが一番便利であろう。偶然
松山と今治の間には一つの札所も無く、第53番須賀山円明寺(松山市和気町)と第54
番近見山延命寺(今治市阿方)の間は35キロ以上離れている。松山市と共同して、こ
の「菩提の道場巡り」を2つに分けて各々が分担して行うのもアイディアであろう。
 また、このような取組が「発心(ほっしん)の道場の徳島県」、「修行(しゅぎょ
う)の道場の高知県」、「涅槃(ねはん)の道場の香川県」でも行われれば、四国の
大きな観光産業になるのではないだろうか。
 ここでは「菩提(ぼだい)の道場の愛媛県」に限定して、アイディアをまとめてみ
ることにする。
 
1)「菩提の道場巡り」    
 菩提の道場26ヶ寺は以下の通りである。この26ヶ寺を全て回るのもよし、分けて回
るのもよし、顧客のニーズに分けて、色々なプランを可能にして便利さをアピールし
ていこう。これは今治だけでは実現できないので、前述のように松山市と共同し、分
担するのも良し、また県内の他の市町村、札所、宿泊施設などとのタイアップも当然
必要になってくる。
 
(菩提の道場)26ヶ寺一覧
 
 第40番 平城山 観自在寺 (へいじょうざん かんじざいじ) 御荘町平城
 第41番 稲荷山 龍光寺 (いなりざん りゅうこうじ) 三間町戸雁
 第42番 一果山 仏木寺 (いっかざん ぶつもくじ) 三間町則
 第43番 源光山 明石寺 (げんこうざん めいせきじ) 宇和町明石
 第44番 菅生山 大宝寺 (すごうさん たいほうじ) 久万高原町菅生
 
 第45番 海岸山 岩屋寺 (かいがんざん いわやじ) 久万高原町七鳥
 第46番 医王山 浄瑠璃寺 (いおうざん じょうるりじ) 松山市浄瑠璃町
 第47番 熊野山 八坂寺 (くまのざん やさかじ) 松山市浄瑠璃
 第48番 清滝山 西林寺 (きよたきざん さいりんじ) 松山市高井町
 第49番 西林山 浄土寺 (さいりんざん じょうどじ) 松山市鷹子町
 
 第50番 東 山 繁多寺 (ひがしやま はんたじ) 松山市畑寺町
 第51番 熊野山 石手寺 (くまのざん いしてじ) 松山市石手
 第52番 龍雲山 太山寺 (りゅううんざん たいさんじ) 松山市大山寺町
 第53番 須賀山 円明寺 (すがさん えんみょうじ) 松山市和気町
 第54番 近見山 延命寺 (ちかみざん えんめいじ) 今治市阿方甲
 
 第55番 別宮山 南光坊 (べっくざん なんこうぼう) 今治市別宮町
 第56番 金輪山 泰山寺 (きんりんざん たいさんじ) 今治市小泉
 第57番 府頭山 栄福寺 (ふとうざん えいふくじ) 今治市玉川町八幡甲
 第58番 作礼山 仙遊寺 (されいざん せんゆうじ) 今治市玉川町別所
 第59番 金光山 国分寺 (こんこうざん こくぶんじ) 今治市国分
 
 第60番 石鎚山 横峰寺 (いしずちざん よこみねじ) 西条市小松町石鎚
 第61番 栴檀山 香園寺 (せんだんざん こうおんじ) 西条市小松町南川甲
 第62番 天養山 宝寿寺 (てんようざん ほうじゅうじ) 西条市小松町新屋敷
 第63番 密教山 吉祥寺 (みっきょうざん きっしょうじ) 西条市氷見乙
 第64番 石鉄山 前神寺 (いしずちざん まえがみじ) 西条市洲之内甲
 第65番 由霊山 三角寺 (ゆれいざん さんかくじ) 四国中央市金田町
 
2)「今治6ヶ寺巡り」
 これは言うなれば1)の「菩提の道場巡り」の一つの変形では有るが、今治にある
札所だけを巡るツアーがあっても面白いし、人気が出るのではないだろうか? これ
は今治市だけのツアーであるから、他の市町村との調整はいらないので、実現するの
に大きな障壁はないと思われる。以下は今治にある札所の紹介である。
 
    第54番 近見山 延命寺 (ちかみざん えんめいじ)
★ 本 尊:不動明王
★ 真 言:のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ
                      そわたや うんたらたかんまん
★ 詠 歌:くもりなき かがみのえんと ながむれば のこさずかげを うつすものかな
★ 開 基:行基菩薩
★ 宗 派:真言宗豊山派
★ 紹 介:松山から瀬戸内海沿いにたどると、今治の手 第54番
第54番 近見山 延命寺
前6キロほどのところに近見山(海抜244メー
     トル)がある。いまでは斎灘、燧灘にかこま
     れた芸予諸島の南半と、来島海峡の全景を展
     望する絶好の地となっているが、昔この山頂
     に延命寺があった。寺の創建は行基菩薩が不
     動明王を刻んで本尊として安置したのにはじ
     まり、後に嵯峨天皇の勅願によって弘法大師
     が再興し、近見山円明寺と号した。
      そのころ七堂伽藍が整い、荘厳をきわめていたが、たびたびの兵火にか
     かり、そのたびに寺は移転し、天正年間の兵火にあってから山の麓に移建
     された、明治以降寺名が円明寺から延命寺に改められた、宝永元年(1704)
     の梵鐘は住職の私財で鋳造したもの。
      それ以前の梵鐘は戦乱の合図の鐘に使われ夜になると叩かないのに「い
     ぬるいぬる」と鳴くので恐れられた。また、松山城へ持出されそうになっ
     て「イヤーン、イヤーン」と鳴くので置き去りにされたという。
★ 住 所:愛媛県今治市阿方甲 63 電話 0898(22)5696
★ 交 通:@ < 徒 歩 >
      円明寺→堀江→北条→菊間→大西→延命寺、8時間45分、35.5キロ
     A <交通機関利用>
円明寺→(徒歩1分)→和気→大西(JR予讃本線1時間)30.6キロ→
(のりかえ)→阿方(せとうちパス今治営業所行7分)3.4キロ、下車後
徒歩6分 400メートル
★ 宿 泊:いづみ旅館  20人 5,000円前後  電話 0898(22)2275
 
第55番 別宮山 南光坊 (べっくざん なんこうぼう)
★ 本 尊:大通智勝如来
★ 真 言:なむ だいつぅちしょうぶつ
★ 詠 歌:このところ みしまにゆめの さめぬれば べつぐうとても
おなじすいじゃく
★ 開 基:行基菩薩
★ 宗 派:真言宗醍醐派
★ 紹 介:今治から船で1時間のところに大三島があり、 第55番
第55番 別宮山 南光坊
大山祗神社がある。大宝3年(703)この神
社の別宮を越智郡日吉郷に移し、24坊あった
     別当のうち8坊を和銅5年(712)との2回
     にわたって同地へ移した。弘法大師は四国巡
     錫のとき、別宮に参拝し、坊で法楽をあげて
     霊地とした。後に天正年間の良曽我部元親の
     兵火で8坊は焼失し、その中で禄の少ない南
     光坊のみが再興され、明治の神仏分離まで別宮の法楽所として存続した。
     この間藤堂高虎は今治城修築中に薬師堂を建立し、次の城主久松氏も祈祷
     所に定めて祭祀料を奉納したという。明治以降は本社本尊である大通智勝
     仏を移したが、昭和20年8月の戦災で本堂、薬師堂などを失い、大師堂と
     護摩堂が残された。近年本堂が再建されている。ご本尊の大通智勝仏は法
     華経第七化城諭品に説かれており、迦如来の第16番目の弟子で修行の結果
     仏になることができたという。寺には書家、川村驥山の菅笠や筆塚がある。
★ 住 所:愛媛県会治市別宮町3―1 電話 0898(22)2916
★ 交 通:@ <徒 歩 >
延命寺→(国道192号線)→海禅寺→南光坊、約1時間、3.7キロ
     A <交通機関利>
用延命寺→(徒歩6分)→阿方→今治バスセンター前(せとうちバス今
治営業所行13分)3.8キロ、下車後徒歩5分、300メートル
★ 宿 泊:@ 宿 坊  50人 3,800円
A 菊水旅館  40人 6,000円前後  電話 0898(23)3330
 
    第56番 金輪山 泰山寺 (きんりんざん たいさんじ)
★ 本 尊:地蔵菩薩
★ 真 言:おん かかかび さんまえい そわか
★ 詠 歌:みなひとの まいりてやがて たいさんじ らいせのいんどう
たのみおきつつ
★ 開 基:弘法大師
★ 宗 派:真言宗醍醐派
★ 紹 介:弘仁6年、弘法大師がこの地を巡錫した時、 第56番
第56番 金輪山 泰山寺 
梅雨のため蒼社川の水が氾濫していた。伊之
子山(872メートル)附近に源を発する蒼社
     川は、玉川村から今治市の東南を抜けて燧灘
     へ流れ込んでいる。そのころこの地に伊予の
     国府があったが、国の力では防ぎようがなく、
     毎年梅雨期になると川が氾濫して田地や家屋
     を流し、人命を奪った。農民は恐れ苦しみ、
     この川を人取川といって悪霊のしわざと信じていた。そこで大師は川原に
     壇を築き「土砂加持」の秘法を七座厳修された。満願の日にご本尊地蔵菩
     薩を感得し、祈願成就したので一寺を建立してご本尊を安置し、延命地蔵
     十大願の第一「女人泰産」から寺名をとられ「泰山寺」とした。後の天長
     元年(824)淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍も完備、塔中十坊を有す
     る大寺となった。しかしたびかさなる兵火で縮少し、山麓の現在地へ移建
     されるのである。近くに遍路へのサービス機関の同行新聞社がある。
★ 住 所:愛媛県今治市小泉 1-9-18 電話 0898(22)5959
★ 交 通:@ < 徒 歩 >
南光坊→今治西高→泰山寺 50分、3.2キロ
     A <交通機関利用>
       南光坊→(徒歩5分)→今治バスセンター前→小泉(せとうちバス鈍
       川温泉・神子森本地ロ・葛谷・新谷土居行12分)、3.6キロ、
       下車後徒歩8分 600メートル
★ 宿 泊:宿 坊 100人 3,800円
 
    第57番 府頭山 栄福寺 (ふとうざん えいふくじ)
★ 本 尊:阿弥陀如来
★ 真 言:おん あみりた ていせい からうん
★ 詠 歌:このよには ゆみやをまもる やはたなり らいせはひとを すくうみだぶつ
★ 開 基:弘法大師
★ 宗 派:真言宗高野派
★ 紹 介:府頭山(八幡山)を目指して田圃道を歩み山麓 第57番
第57番 府頭山 栄福寺
     からの急な参道を登る。正面は八幡宮、途中
     から右へ折れて栄福寺の境内へ入る。明治の
     神仏分離まで栄福寺は勝岡八幡と称し、神仏
     が同居していた。
     縁起によれば、嵯峨大皇の勅願により弘法大
     師の開創。大師が瀬戸内海を巡錫し、内海の
     風波海難の平穏を祈って大護摩を修されてい
     ると、海上はたちまち穏やかになり、海中より阿弥陀如来を感得し、ご本
     尊として奉安した。本堂は八幡宮への参道を背にし、他の堂より一段高い
     所にある。本堂向かって右手に回廊があり、大師堂、薬師堂など諸堂がコ
     の字型に結んでいる。
     本堂回廊には昭和8年に奉納されたイザリ車と松葉杖がある。奉納者の宮
     本武正さんは当時15歳で、巡拝中にこの地で歩けるようになり、感謝のあ
     まりイザリ車を奉納したのである。
★ 住 所:愛媛県今治市玉川町八幡 200 電話 0898(55)2432
★ 交 通:@ < 徒 歩 >
      泰山寺→バス停小泉→山手橋→バス停八幡→栄福寺、50分、3キロ
    A <交通機関利用> 不可 
★ 宿 泊:宿 坊 な し
 
    第58番 作礼山 仙遊寺(されいざん せんゆうじ)
★ 本 尊:千手観音菩薩
★ 真 言:おん ばざら たらま きりく
★ 詠 歌:たちよりて されいのどうに やすみつつ
                  ろくじをとなえ きょうをよむべし
★ 開 基:越智守興
★ 宗 派:真言宗高野派
★ 紹 介:近ごろ自動車道が開通して容易に登れるが、 第58番
第58番 作礼山 仙遊寺
     昔から「おされさん」の名で知られ、海抜約
     300メートルの作礼山の山頂に寺がある。名
     犬が発狂して飛び込んだ犬塚池より石門を入
     ると急な坂道になり、両側に西国33ヶ所の観
     音石像がまつられている。途中、弘法大師加
     持水がある。大師が霊場に定めたとき、この
     加持水で村人の諸病をなおされた霊水である。
     寺は天智天皇の勅を奉じて国守越智守興公が堂宇を建立したのにはじまり、
     ご本尊の千手観世音は龍女が刻んだともいわれ、天智天皇の守護仏であっ
     た。その後、阿坊仙人と称する憎が40年間参籠し、養老2年(718)4月8
     日、天雲のごとく忽然と姿を消した。寺名はこの阿坊仙人の名にちなんで
     仙遊寺とよばれるようになった。。後に弘法大師が巡錫し、荒廃した寺を
     再興し寺運を盛んにしている。現在の本堂は昭和28年の再建。境内より今
     治市街や瀬戸内海に浮ぶ美しい島々が展望でき、難行の疲れをいやしてく
     れる。
★ 住 所:愛嬢県今治市玉川町別所 483  電話 0898(55)2141
★ 交 通:@ < 徒 歩 >
      栄福寺→犬塚池→駐車場→仙遊寺、45分、約2.4キロ
     A <交通機関利用> 不可  
★ 宿 泊:宿 坊 60人 3,800円
 
    第59番 金光山 国分寺(こんこうざん こくぶんじ)  
★ 本 尊:薬師如来
★ 真 言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
★ 詠 歌:しゅごのため たててあがむる こくぶんじ
                     いよいよめぐむ やくしなりけり
★ 開 基:行基菩薩
★ 宗 派:真言律宗
★ 紹 介:創建当初の規模からすれば現在の寺域は縮少 第59番
第59番 金光山 国分寺
されているが、本堂を中心に大師堂、金毘羅
堂など整備されて建ち並んでいる。
≪ご本尊は薬師如来(重文)≫
     天平13年(741)聖武天皇の勅願によって行
     基菩薩が開創し、七堂伽藍は整備されて諸国
     の国分寺にくらべ豪壮なかまえであった。
     第三世智法律師のときに弘法大師が長く留ま
     って五大尊の絵像一幅を残し、真如も2ヶ年滞留し、法華経の一部を染筆
     して残した。その後三度の戦火にあいながら、いずれも国主などの力によ
     ってまもなく復興された。しかし天正12年(1584)の戦火で4たび堂塔を
     焼失してからは、経済的な支援者がなく、その後は復旧せず茅華の小堂が
     建っているのみだったが、寛政元年(1789)恵光上人が金堂(本堂)を建
     立し、その後、諸堂が再建された。書院の展示室には、奈良時代から平安
     時代初期にかけての鐙瓦や字瓦が保管されている。近くに七重塔の礎石が
     ある。
★ 住 所:愛媛県今治市国分4−1−33 電話 0898(48)0533
★ 交 通:@ < 徒 歩 >
      仙遊寺→松木団地→国府橋→国分寺1時間40分、6.5キロ
     A <交通機関利用>
      仙遊寺→(徒歩45分)→別所→郷森(せとうちバス今治営業所行8分)、
      2.9キロ(乗換)→国分寺(せとうちバス志々満原行16分)、5.1キロ、
      下車後徒歩2分、100メートル
★ 宿 泊:東予国民休暇村 120人 5,000円〜   電話 0898(48)0311
     正 善 寺  60人  3,800円  【生木地蔵 電話 0898(68)7371】
 
(あとがき)
 四国には自動車メーカーや電機メーカーなどの日本を代表する大企業がほとんど進
出していません。東京で生活をしていた私には地方生活について正しく語るまでの理
解は不足していますが、4年半住んで感じたことは経済、産業構造において四国は本
州、九州とは違って、非常に閉鎖された社会があります。本四架橋が3本通っていま
すが、交通量は少なく本州との交流が盛んだという感じはしません。
 そんなことを強く感じ、実は一昨年、単身赴任の暇な時間を使って、四国の発展を
願って「四国州」なる本を小説風にまとめてみました。その中から架空の話や、私の
勝手な現状分析などの部分を省き、今治というところを皆様にご紹介する目的で、
「第1話」、「第2話」として寄稿させていただきました。お読みいただき有難うご
ざいました。内容についての疑問、ご意見など是非OB会HPにお寄せください。
                  完