| | | |
7・菖蒲園と蒲田停車場 (昭和59年会報17号掲載) |
横浜の植木会社が、呑川辺りの現在の区立蒲田小学校周辺に、3.3ヘクタール(1 |
万坪)の菖蒲園を明治35年に開園した。 |
園内には300余種の菖蒲の他に、ボタンの花壇を8つ、 |
菖蒲園 |
100米の藤棚、桜、つつじ等を植え込んだ。 |
これは梅屋敷の向こうを張った事業とも言えるもので、 |
またたく間に名所になった。 |
京浜を往来する外国人や風流人たちが、この菖蒲園を |
訪れるようになったのである。 |
“月村惣左衛門村長”は村議会を開き、「清遊に来る |
人のために、ぜひとも停車場の必要性を痛感する」と提 |
案、満場一致で、停車場設置の運動に入った。が鉄道院に直接陳情する手蔓がない。 |
偶、池上に鉄道長官の“平井晴次郎”が住んでいるのに目をつけて、村長が長官宅 |
に幾度か陳情に行ったが門前払いにされた。 |
そこで再三寄り合って智恵を絞り、目の下三尺もあろう鯉を捜してきて、長官宅に |
かつぎ込むという奇策を使って嘆願すると、快く話に乗ってくれたと伝えられている。 |
| | | |
10.蒲田地名の由来 (昭和60年会報18号掲載) |
蒲田の地名は平安時代の承平5年(935年)に書き著わされた吾が国最初の分類体 |
百科事典の「和名類衆抄」という古文書の中に、万葉仮名で「加万太」と載っている。 |
この古文書より更に27年遡った清和、陽成、光孝の三天皇三代30年間の事項を記し |
た古文書「日本三大実録」(延喜8年、908年)のは、清和天皇のてい貞観6年(864 |
年)の項に「武蔵国従五位稗田神を以て宮社に列す」と現在の稗田神社の事に触れて |
いる。 |
更に遡って「カマタ」の地名を探し求めても現在残っている古文書からは求める足 |
がかりがない。 |
然し稗田神社の周辺から土偶や土器などが発掘されている処から、古代人がこの周 |
辺に住んでいた事は推測できる。 |
昔この周辺は入江が迫っていたかも知れない。そして多摩川の氾濫で水流はその都 |
度変わり呑川も流れを変えていた事であろう。この稗田神社周辺で、定住民は食物の |
採集や狩猟をしていたと考えられる。 |
地名の「カマタ」は一説によると、アイヌ語で「飛び越した処」というそうだ。 |
「沼の中の島」又は「泥深い田」とも考えられると研究家たちは推測している。 |
こういう点からこの時代には「カマタ」は文字になっていないが、既に定住民の間 |
では話し言葉の中に存在していたのではなかろうか。 |
少なくとも景行天皇の25年(95年)、天皇は“武内宿称”に東方諸国の巡察を命じ |
た。この時「ムサシ」の国が初めて現れている。カマタはムサシの国の中の一地方で |
あったから、この時代には既に知られていたかも知れない。 |
これ等の諸条件を考えてみると「カマタ」という地名は遠く1800年も昔に遡ること |
ができる。 |
| | | |
11.被災直後蒲田町の模様 (昭和60年会報18号掲載) |
昭和20年4月15日午前零時3分から1時10分まで約1時間に亘って、蒲田町は京浜 |
工業地帯の中心部を目標に飛来した大編成の米軍機による波状絨氈爆撃に見舞われて |
壊滅し区内全戸の約80%は全焼したのである。 |
町は蒲田駅から羽田空港が一望できる焼け野原だったと語り伝えられている。この |
焼け跡にいち早く出来たのは商店ではなく自転車の預り所だった。 |
蒲田駅の東口側復興は昭和25年6月25日に勃発した朝 |
蒲田駅開業77周年記念切手 |
鮮戦争をまたねばならない。 |
米軍が占領した際、羽田空港を整備するため京浜急行 |
の羽田線を国鉄蒲田駅まで延長して、現在の富士銀行か |
ら中辻通りにかけての砂利置場に砂利を運んでいた。置 |
場周辺にはバリケードを張って入出禁止であった。 |
東京の復興が進んでいる中で、蒲田の東口だけが置き |
去りにされている感じで、町役員や商店街の役員たちは |
思い余って、駐留軍の最高幹部を訪れ鉄道と砂利置場の撤去を申しいれた事もある。 |
処が朝鮮戦争が始まると瞬く間に線路が外され砂利置場も姿を消した。土地は荒れ |
放題であったが、町内の人達がスコップやモッコを担いで整地した。 |
やがてこの土地が占領軍から返還され、之を契機に東口には商店がぞくぞく建てら |
れ戦前と同じような商店街が形成されたのである。 |
その突破口を作ったのが、ミス興業で土地を買収して映画館を作り、之が蒲田復興 |
の第一歩であった。 |
東京都は昭和27年6月7日駅前東口広場の整備促進に乗り出し事業を決定し、都建 |
設局第41地区事務所が蒲田に設置されたのである。 (蒲田駅史より) |
| | | |
平成十一年己卯(きぼう)(つちのと・う)の年は、社会情勢の好転も見ず、かっ |
て無い忌わしい事件が多発し、そんな人間社会への天の戒めか、国の内外とも天災が |
発生して正に文字通り「世紀末(末法の世)」を想わせる年だったが、それでも生き |
とし生ける者には確実に一歳年をとらせて、「兎走・烏飛(とそう・うひ)」の言葉 |
通り過ぎ去って行った。 二度と帰らぬものへの惜別の情は禁じ得ないが、「陶淵明 |
(西暦四百年頃の中国東晉の人」の「帰去来の辞」に従い「來る者」を追うことにし |
よう。 |
新しい年は、西暦二〇〇〇年(世紀末)・紀元二六六〇年・明治一三三年・大正八 |
十九年・昭和七十五年である。 |
平成十二年の干支は、五行が四番目の「金(かね)」・ |
|
十干が七番目の「庚」・十二支は五番目の「辰」で「庚 |
辰」となり、訓読みは「かのえたつ」音読み「コウシン」 |
である。 |
「辰」は竜のことで、辰の方角は東南東で辰己(巽 |
(たつみ))は東南であり、辰の刻は午前八時と九時で、 |
八時台を五っ時(又は辰の上刻)、九時台を五っ半時 |
(辰の下刻)とよんだ。 |
十二子の中で竜だけが実在しない動物だが、十二支はもともと中国からのもので、 |
竜も想像上の動物として古代中国文化の中に存在して來たようである。現在固定化さ |
れた竜の姿は太古生息した「恐竜類」とは異なり、想像の元型が何か聞いた事もなく、 |
さらに中国では「蛟竜(こうりょう)(みずち)」と言う動物が水中に棲息し、機会 |
を得て雲を起し雨を呼び天に昇って竜になると想像されて來た。そこで筆者の「珍説 |
想像論」を披露しよう。 |
| | | |
竜は鰐か |
竜を想像した元になったのは鰐だと思う、鰐は大別するとアメリカ(アリゲーター) |
系・アフリカ(クロコダイル)系・亜細亜(揚子江ワニ)系で、長江に棲んでいた鰐 |
を見て古代中国の人が「蛟竜」を想像し、さらに現在固定化されている竜の姿を想像 |
したのではないか?。 |
竜にまつわる言葉を拾って見ると、竜宮・竜王・竜神・竜顔(天子の顔)・竜駕 |
(天子の乗り物)・竜馬(名馬)・竜吐水(りゅうどすい)(昔の消火ポンプ)・竜 |
骨(船の首尾を結ぶ建材)・登竜門・等非常に多い。また神社佛閣では必ず竜の絵や |
彫刻が見られる。社寺の梵鐘の最上部(吊り下げる部分)が竜の形をしているので |
「竜頭(りゅうず)」と呼ぶが、腕時計等のねじを巻くつまみを「竜頭」と呼ぶのは |
何故か?。 |
|
竜は物語や伝説等に多く登上し、竜にまつわる諺には、 |
「竜頭蛇尾・画竜点睛を欠く・竜虎の争」等よく使われ |
る。さらに「蛟竜」は非凡な才能を有し乍ら機会が与え |
られず、志を得ない人のたとえでもあり、「臥竜」は大人 |
物であり乍ら自分からは名利を求めぬ人のたとえでもあ |
る。また「袞竜(こんりょう)の袖(天子の衣の袖)に |
隠れて」は権力者の庇護の下での勝手なふるまいのたと |
えであるが、何れも企業経営の中でも身につまされる言 |
葉はなかろうか?。 |
旧帝国海軍の艦艇で竜の字が付いたのは、航空母艦の蒼竜・飛竜・雲竜・竜驤(り |
ゅうじょう)だが何れも終戦迄に撃沈された。 |
海軍と言えば、当時「艦政本部第六部(航海・光学所掌部署)」が育てた企業の中 |
に「東京計器製作所」と「北辰電機」があったのだが、海軍の下級技官だった筆者は |
「北辰電機」の社名の由来を知る術(すべ)も無かった。現在案ずるに「辰」は「た |
つ」の他に天体を意味し、「北辰」は北極星の事で、船にとって「目標」となる星だ |
ろうか?。 |
海軍は「東京計器」に「須(ス)式転輪羅針儀(スペリー社式ジャイロ)」や「去 |
(サル)式艦底測程儀(スウェーデンのサルム社式スピード航程計)「甲板時計」 |
「磁気コンパス」「磁歪式音響測深儀(ファゾメータ)」等の製造を依託し、「北辰 |
電機」に「安(アン)式転輪羅針儀(ドイツのアンシュッツ社式ジャイロ)」や「九 |
二式艦底測程儀(回転式スピード計)」等の製造を委託していたのである。 |
星移り時流れて「北辰電機」は「YEW」グループとなり其の社名は消えた。 |
吾が親愛なる「トキメック」よ!、どうかその由緒あ |
|
る歴史と伝統の灯を消すことなく、新世紀に向かって飛 |
躍する竜の如く、世の中の為に大なる足跡を残して欲し |
い!!。 |
新しい年は筆者にとっても節目の年である、終戦によ |
り捕虜となった海軍時代は申す迄もなく、業績不振の責 |
を負って石もて追われる如き悲しい別れだった戦後の東 |
京計器時代も含め、半世紀余の年月を回顧するとき万感 |
胸に迫るものがある。そんな想いを一片の駄作短歌に託し「竜頭」には及びもないが、 |
せめて世紀最後の拙い「新春干支談義」の「蛇尾」とする次第である。 |
連れ添いし 五十五年の人生を |
しみじみ想う じじばばの新春(はる) |
| | | |
金子健吉さん |
0B会ホームページ2月号に遠藤副会長の「死生学雑 |
感」が掲載されていましたが、それに関して私見を述べ |
るとともに提言をしたいと思います。 |
死後の世界は宇宙の果てと同じく検証不可能のことで |
ありますから、せいぜい善行を積んで極楽に行けること |
を信じて生活していくより仕方ありません。問題は生と |
死の境界にどう対処するかではないでしょうか。 |
人間は必ず死を迎えるものであり、長寿こそ人間の幸 |
せの如く言われていますが、老人ホームやデイサービスで過ごす人々が全て幸せを実 |
感しているでしょうか。それは、生きる喜びや幸せは自己の意思が実現出来るかどうか |
に関係しているからではないでしょうか。さらに進んで終末医療の現場では既に停止 |
状態にある心臓を機械的に動かし、既に栄養の摂取が不可能になっている患者に点滴 |
を施すなど無理に延命を図ろうとしています。本人が意識が無く昏睡状態にあるとき、 |
このような苦痛を伴う医療行為を果たして望んでいるのでしょうか。そこには人間と |
しての尊厳も平穏もなく、このように人生の最後を迎えることが幸せなことでしょう |
か。過去の宗教や思想が論じてきたのは、人を殺してはいけないとか、自ら命を絶っ |
てはいけない、などいわば人工的な死についてです。今問題なのは人工的な生なので |
す。 |
最近「あなたは笑って大往生できますか」という本を読みましたが、これは僧侶や |
哲学者の書いた本ではなくゴルフ仲間の弟で四国のある病院の部長をしている人の著 |
書です。そこには終末期を迎えている患者や縁者の生への強い執着が幸福であるべき |
人生の最後を悲惨で苦痛に満ちたものにしていることが臨床医の現場から述べられて |
います。 |
尊厳死(自然死)の宣言 |
私ども夫婦は数年前、意識不明で回復の見込みがなくなった場合、いっさいの治療 |
行為の不開始または中止することをお互いの明瞭な意思として文書に作成しました。 |
いわゆる尊厳死(自然死)の宣言をした契約書です。 |
日本では尊厳死の法制化は民間の機関や一部議員の働きかけにも拘らず今は実現し |
ていません。個々の事例の判例で安楽死要件が示されているにすぎません。それによ |
ると、 |
1.本人の意思 |
2.耐えがたい苦痛 |
3.治療対処の不能 |
などがあげられています。現在最終的な医療行為の中止は医師の判断にゆだねられて |
おり、本人の意志が確認できない状況のもとでは親類縁者の了承でも認められるよう |
ですが、自分のことならともかく、他人の生死のことに容喙(ようかい)することは |
難しいことです。そこで、何より大切なのは安らかに死を迎えたいという本人の権利 |
の宣言です。日本尊厳死協会によるとリビング・ウイル(存命中の意思を明記した書 |
類)の提示による実施率は95%であるとの事です。 |
このリビング・ウイルの作成方法は前記日本尊厳死協会に入会登録することのほか、 |
公正証書でもよし、自分で日付けと署名をしたものでもよし、司法書士でも相談に乗 |
ってくれるところもあります。 |
他人の生き方・死に方に指図は不要とのご意見はもっともです。「死生学雑感」を |
機に私の死に様を披露したまでのこととご了承ください。 |
2008年4月16日 金子 健吉 |
<事務局から> |
金子健吉さんの、今回の投稿のキッカケとなりました、遠藤副会長の2月トップ記 |
事「死生学雑感」を参考として、下記に再度掲載いたしました。 |
| | | |
1.アルフォンス・デーケン博士と「死生学」 |
OB会事務局で仕事をしていると、OB会という高齢 |
遠藤 副会長 |
者集団である以上止むをえざる側面もあるが、平均すれ |
ばほぼ毎月、会員の訃報に接する。また、会員以外のO |
Bでも最近、とみに訃報に接する機会が増えてきている。 |
人の一生は“出会い”と“別れ”の連続であり、人は |
他者との出会いの中で生きており、自分の一部は、その |
別れ人の中に生きているのであるとすれば、その別れは、 |
関係が近親であればあるほど、自分の一部もまた失われ |
たといっても過言ではないであろう。会報に掲載される「弔文」を読む度にそうした |
感慨を抱かざるをえない。 |
「死」は自ら自己体験することができないのであるから、他者の「死」から様々な |
事を想起し、これをしっかり受けとめ把握していくことが肝要となる。 |
古来「死」はタブーとされるべきもの、無関心を装うもの、忌み嫌われるものとし |
て扱われてきた。事実、我々としても葬儀に参列すれば精進落しと称してお神酒で清 |
め?、その帰途、戸口では身に塩をふって清め、焼場から戻ればその手を清水で清め |
るといった習俗的な風習を体験するのもその一例である。 |
そうした我国の国情の中で、人間の「死」を真正面から見つめ、これを積極的に捉 |
え、一つの学問体形として提唱した人が居る。 |
「Death Education」 〜≪死への準備教育≫〜を日本で初めて提唱し、実践して |
きたのが上智大学教授アルフォンス・デーケン博士である。 |
「死」を考えることは「生」を考えることにつながるとして、「死の哲学」を大学 |
の講座に設けて学生に講義し、また、数多くの関連社会活動を展開してきた。 |
この世に生を享けた者は、全てその死を避けることはできないことが現実である。 |
この誰にでもいつかは訪れる死をしっかり見つめ考えるためには死をどう捉え、どう |
理解したらよいのであろうか。これは年代・性別を問わず人間として取組まなければ |
ならない切実な課題として「死生学」という学問分野を形成し、提唱したのである。 |
この「死生学」の実践段階として、先に述べた「Death Education」〜≪死への |
準備教育≫がある。これは単に「死の哲学」という内在的視点のみを対象とするので |
はなく、終末期医療の改善・充実、ホスピス運動の発展、死別体験者(特に不慮の死 |
による死別体験者)のカウンセリング方法等、死に対する現実的対処方法等にまでそ |
の視点を向けている。従って、「死生学」という学問を見渡すとこれは単独の独立し |
た学問分野として存在するのみではなく、医学・心理学・宗教学・政治学・社会政策 |
学・文化人類学・環境学・福祉学・人間工学等、既存の学問分野全てをつき通すよう |
な「interdisciplinary(諸専門分野にわたる、学際的)」な学問として捉えることが |
できるのではないであろうか。 |
| | | |
2.「死生学」との出会い |
私は、この学問に立正大学仏教学部の「僧階講座(僧侶の資格取得講座)」の必須 |
科目として出会ったのである。かって、近代西洋哲学の入門書を読んだ時、キルケゴ |
ール・ハイデッカー・ニーチェが基本的共通認識として論じていたのは、「人間は死 |
を持つ不安から、他の人々の中に混じって猿真似をしていた方が気楽で安全だと思っ |
ている。〜『死に至る病』。人間は死の概念を飼い馴らし、隠蔽しようとする。日常 |
世俗のうちにまぎれて死の可能性に直面しないで済ませるという事である。〜『頽落』 |
という事である。俗っぽく言えば、「赤信号、皆んなで渡れば、怖くない」と論じて |
いるのである。 |
私は、これをアンチテーゼの動機として捉え、その解決の糸口、一助として60有余 |
才の坂を超えて、仏教学部に先ず学士入学したのである。従って、「死生学」に直面 |
した時は、他学科より多大の興味をもったのである。しかし、以後、仏教学士になっ |
てみた現在でも「死」とはどう捉えたら良いのかさっぱり解かっていない。相変らず、 |
キルケゴールやハイデッカーの言う世界に埋没している。 |
| | | |
大自然が相手の登山では、その感動や達成感が大きい代わりに、さまざまな事象や |
思いがけない事件に遭遇する。これから紹介する山行はかつて東京計器スキー山岳部 |
が体験したことであり、このときほど色んなことが起こった山行も珍しい。 |
今から45年も前の昭和38(1963)年の夏、まだ筆者が24歳で若い情熱を山にぶつけ |
ていた頃である。因みにその年のことを調べてみると当時は「所得倍増計画」の池田 |
内閣時代で、黒四ダムの完工、草加次郎爆破事件、力道山刺殺事件などがあり、11月 |
にはケネディ大統領暗殺事件が世界を震撼させた年でもあった。記憶が正しければ、 |
当時同好会の中では庭球部と共に最大の部員数を擁した山岳部の活動は隆盛を極めつ |
つあった。 |
「強化縦走」と銘打って、北アルプス・南アルプス・中央アルプスにそれぞれパー |
ティを繰り出して分散縦走を実施した。夜行で出発する各パーティは、若い女子社員 |
たちの見送りもあって意気軒昂たるものがあった。私は中央アルプス隊に参加した。 |
ところがこのパーティは出発のときからメンバーの一人M君がひどい下痢に襲われた |
り、列車が出発した途端、八王子の先で前の列車に落雷があってダイヤが乱れたりで、 |
初っ端から波乱含みであった。結局、駒ヶ根駅からの一番バスに乗れず、途中乗り継 |
ぎしながら登山口の伊勢滝に予定より遅く着いた。そのため、1日目の予定コースを |
短縮し、木曽駒ヶ岳と中岳のコルの直下にテントを張った。駒ヶ岳を往復したのち、 |
テントで夕食中に激しい雷雨となり、雹(ひょう)が降り始めた。見る間にテントの |
外は雹が3〜4センチも積もってしまった。真夏にこんな量の雹に遭ったことは後に |
も先にもこのときだけである。降雹の後は激しい雨に変わり、遂には砂地の幕営地は |
雹と雨水と砂が川のように流れ出した。底付きの冬山用テントは底が膨れ上がって、 |
それでも初めのうちは靴をはいたまま夕食を続けていたが、とうとうテントの中まで |
浸水して食事どころではなくなった。とりあえず荷をまとめ、近くの本岳宮田小屋 |
(現在の駒ヶ岳頂上山荘)へ逃げ込んだのだった。その間、稜線は稲妻と雷鳴の阿鼻 |
叫喚の中であり、小屋に入るまでは生きた心地もなかった。 |
翌朝、前夜の荒れ模様は |
@ポールが折れ、潰れかかったテント、周辺は雹が積もっていた |
A雹のブロックを抱える。左から原田、清水、故大槻の各山岳部員 |
うそのように晴れ、朝焼け |
の空が広がっていた。テン |
トまで行ってみると、積も |
った雹は一面に白い雪渓の |
ようであり、傾いたテント |
のポールが1本折れていた。 |
この日は「木曾殿越」まで |
| | | |
行く予定だったが、テントの破損と出発の遅れで士気をそがれ、予定を変更してとも |
かく途中の桧尾岳まで行くことになった。宝剣岳を越え桧尾岳に着いて、山頂直下に |
幕営となり、折れたポールには添え木をして何とか設営した。夕食にかかる頃、また |
事件が起こった。山頂で幕営中のパーティが、コンロ(当時はホワイトガソリンを燃 |
料とする「ホエーブス」というコンロが主に使われている時代だった)の操作ミスか |
らガソリンに引火し、全員が火傷を負ったという知らせが入ったのである。 |
「それっ!」と駆けつけると、テントは焼け、6人パーティのうち特に3人がひどい |
火傷だった。すぐに応急処置をしたが、みなショックと痛みで茫然自失の状態であり、 |
ともかく重傷者も歩けるのですぐにでも下山して病院へ行きたいという。荷の整理を |
手伝ったり、ランプを貸したり、一部のザックは翌日我々が担ぎ下ろすことにして、 |
下山する彼らを見送った。 |
3日目は折角晴れたので、山脈の途中にある熊沢岳まで空身で往復してきたが、最 |
終目的の空木(うつぎ)岳までの縦走は諦めて山を下った。駒ヶ根駅では例のパーテ |
ィのうち火傷の被害がなかった2人が待っており、彼らのザックを返すと共に、経過 |
を聴くことができた。彼らは昨夜遅くなって下山し、タクシーを呼んで駒ヶ根の病院 |
で手当を受け、今朝一番の列車で帰京したという。事故に遭ったパーティは多摩のリ |
オン電機山岳部であり、後日丁重な礼状が届いた。 |
因みに、我々スキー山岳部のメンバーは、清水有道氏をリーダーに、故大槻邦昭氏、 |
原田隆英氏、宮本勲氏と私の5名であった。 |
| | | |
3.時間も観光資源 |
今まで今治には観光バスがなかった。今治に来て観光 |
今治観光:高虎号 |
をしたくてもその術が無くては、このような感動も限ら |
れてしまう。2006年から市は今治観光のためにと「高虎 |
号」を走らせている。今治城、来島大橋記念館、野間馬 |
ハイランド、タオル美術館を回るコースを走っているら |
しい。しかし、友人が感動し、今治を見直したのはその |
ような人工的に用意されたスポットではなかったのだ。 |
私と友人は、19時頃ホテルに戻った。街に出て、夕食 |
を取り、今日一日の感動に話しが弾み、「三浦さん、今治はすごい!何故観光案内所 |
に今治ツアーが無いのだろう? 」、「三浦さん、今の会社はあと何年? 退職した |
ら東京に戻らないで、今治でツアーコンダクターをやったら。今日のようなコースは |
絶対みんな感動すると思うよ」。 |
しまなみ海道を観光したときの友人の感動ぶりに、また私自身が体験した素晴らし |
さに、私は日本のどこにも負けない今治の観光資源に確信を持った。今治に住んでい |
る人はこの素晴らしさを体験したことがあるのだろうか。そういう私も東京で小さい |
頃から育ち、東京で働いていたが、東京の観光スポットはほとんど行ったことがない。 |
| | | |
今治の友人と話しをしても、みんなが口をそろえて言うのは、 |
「三浦さんの方が沢山色んな所に行っているね」 |
という言葉である。余所者だから感じるのだろう。でも観光客はみんな余所者である。 |
この素晴らしさに一度素直に耳を傾けて欲しい、是非一度自分で体験して欲しい。今 |
治市も観光振興に対する意識が高まってきているのは感じる。「高虎号」もその現れ |
であろう。しかし、今のコースが今治の自慢なのであろうか? 定期的に毎日同じ時 |
間に回るのが良いのだろうか? 観光を振興するビューローもない今のままで本当に |
良いのだろうか? |
今治の見所は晴れた日の自然であり、眺めであり、大潮、中潮の時の干潮の2時間 |
30分前の潮流体験であり、日没前の亀老山なのではないだろうか。私は東京から来る |
友人のために素晴らしい今治を見てもらいたいために、観光案内を調べ、地図を見て |
案内するコースを考えただけである。是非首都圏、京阪神に対して今治観光をアピー |
ルしようではないか。そして観光案内所には「今治の観光は自然です。そしてそれを |
最大限に生かすのは時間です」との合い言葉で、観光スケジュールを作って絶好の時 |
間に絶好の場所に観光客を呼び込みたいと私は考えている。 |
“鯛の骨蒸し”料理 |
その時には潮流体験も、もちろんTPOに合わせなけ |
れば意味がない。画一的に土日運行ではなく、当然大潮、 |
中潮の時期(月の3分の2はその時期になる)に合わせ |
た運行である。もう一つ付け加えるなら運行時間も毎日 |
の干満の時間に合わせたら言うこと無しである。そして |
亀老山はサンセットの1時間前である。 |
鈍川温泉か湯ノ浦温泉でゆっくり汗を流し、今治の美 |
味しい魚を食してもらいましょう。鈍川温泉にはホテル |
を建てましょう。美味しい料理を食べさせてくれるお店を沢山アピールしましょう。 |
アーケード街を沢山の観光客が歩く街にしましょう。自分の街を案内するボランティ |
アは各地で増えている。今治も各地でボランティアに活躍してもらいましょう。 |
| | | |
4.石鎚山と名水の里西条 |
2006年6月25日(日)、幸運にも今日も天気は良さそうである。私たち一行は今日 |
も、朝9時にホテルを出発し、東へと進んだ。途中でお昼のおにぎりを買い、小1時 |
間で西条市に着いた。西条は今治の隣の市であるが、四国は山が入り組んでおり、猫 |
の額のような平野に一つの市が存在していて、隣の市はまた違う平野になっている。 |
湯の浦温泉から海辺の峠を越えるとカブトガニの生息地で有名な河原津の海岸であ |
る。ここからが西条市になる。西条市は石鎚山の麓に位置しており、石鎚山に降った |
雨や雪は、伏流水となり50年の歳月を掛けて西条市の地 |
弘法の水 |
下に流れて来ると言われており、西条市は市のいたる所 |
でこの地下水が沸き、水の豊富なところである。市民は |
その恩恵にあずかっているので、いわゆる水道代は払う |
必要がない。西条市ではこの湧き出る伏流水を「うちぬ |
きの水」と呼んでおり、日本名水百選の一つにもなって |
おり、2年続けて日本一になったこともあるほど美味し |
い水である。 |
「うちぬきの水」は市内には2,000ヶ所ぐらいあるといわれているが、誰でも汲ん |
でいけるように整備された場所としてはJR西条駅、西条郵便局、市役所など市内の |
主だった場所にあるが、私たち一行は海辺にある「弘法の水」に行ってみることにし |
た。そこは水を汲む人のために屋根を作り、座って休めるベンチも設けられていた。 |
何人かの中年の女性がそこにいた。軽く会釈をしながら、弘法の水をペットボトルに |
汲み、コップ一杯の水を飲んで喉を潤していた。「どちらからいらっしゃったのです |
か?」、何人かの女性の一人が声をかけた。私は今治から来たこと、友人は東京から |
来たことを説明し、西条市の見所を聞いた。「それは、是非石鎚山に行って下さい」 |
と、その女性は即座に答えた。神の山であり、西条市の水を潤してくれる石鎚山は西 |
条市民にとって特別な山なのだろう。「実は我々はこれから行こうと思っています」 |
と、私はこれからの計画を話した。「是非行って、成就に有る神社を詣いって下さい」 |
との言葉に送られ一行は出発した。 |
| | | |
国道11号に出て右折し、暫く行くと「石鎚スキー場入口」の案内があり、そこを左 |
折し、ケーブル乗り場へと向かった。黒瀬ダムを過ぎた頃から、道はいたる所で工事 |
をしている。台風によって道がかなり被害を受けた様子がわかった。道に沿って川が |
流れている。川には大きな石が散在している。河原は段々狭くなり渓谷の様子になっ |
てくる。やがてケーブル乗り場に到着した。ケーブル乗り場までの急坂を登っている |
と、石鎚山奥の院があり、山麓下谷駅に着いた。山開きに向けての雰囲気が何となく |
漂っていたが今日はそんなに人は多くないようである。山開きになるとこのケーブル |
も多くの人で賑わい、登山道も長い列が出来、山頂は人で溢れるという。 |
山麓下谷駅から奥前神社のある山頂成就駅まで約1,815メートル、51人乗りのゴン |
ドラはがらがらであった。約7分30秒で、標高1,300メートルの山頂成就駅に到着し |
西日本最高峰“石鎚山” |
た。ここは石鎚山の7合目にあたるが、山の気分は十分 |
である。ここから徒歩20分程度で登山基地の成就社に着 |
くということであったが、今日は登山をする予定が無い |
ので、一行は観光リフトに乗り、展望台に向った。成就 |
展望台の標高は1,405メートル、目の前に石鎚山の偉容 |
がまるで立ちふさがる壁のように見えた。山頂には新し |
い石鎚神社の建物が見える。私たち一行は、暫くの間こ |
の雄大な眺めを楽しみ、近くの草原で、昼食を取ること |
にした。まるでヘリポートのような、瓶が森の立派な山容がすぐそこに見える。高山 |
植物が生え、名も判らない可愛い花が咲いていた。おにぎりと茹でたまごを食べなが |
ら、爽やかな高山の気分を満喫することができた。帰りは、国道11号線に出て左折し、 |
伊予小松で国道196号線に入り、丹原に向った。ここには10番、番外札所の西山興隆 |
寺がある。鬱蒼とした、たたずまいの境内は正に深山の寺社の趣がある。地元では別 |
名「紫陽花寺」とも呼ばれるらしく、丹精こめた紫陽花が境内のいたるところに見事 |
な花を咲かせていた。他には誰もいない。「シーン」と |
見事な“紫陽花” |
した静寂さが漂っていた。このお寺は紅葉の時期は人で |
にぎわうということであったが、この紫陽花の時期もま |
た格別である。二日間の今治近郊の観光を終えた私たち |
一行は、素晴らしい自然とめぐり合えた満足感で一杯で |
あった。 |
「今夜は我が家で夕食を取ろう」ということになり、 |
スーパーで食材を買い、酒屋でお酒を買って、皆でそれ |
ぞれが得意の料理を作って、私と友人はホームパーティーを楽しんだ。この二日間の |
観光の思い出話に花が咲き、心地良い酔いに時間が経つのを忘れて、素晴らしい今治 |
の観光名所について語り合った。 |
ここまでは、今治の持つ観光資源について私の体験をもとにまとめてみたものであ |
る。まだ今治に来て日の浅い私の体験だけでこれだけあるのだから、観光資源につい |
て、いろいろな人の意見を聞けばもっともっと素晴らしいアイディアが出てくるので |
はないだろうか。 |
もう一つ四国はやはりお遍路さんである。実は今治にも沢山の札所がある。愛媛県 |
全体を視野に入れて、次回は最後にそれを案内することにしよう。 |
| | | |
3.蒲田撮影所の面影、今はなく! (昭和58年会報第15号掲載) |
蒲田地区に工場進出の盛んな頃、大正9年2月、「松竹キネマ撮影所」が中村化学 |
研究所」跡地に誕生した。 |
俗に言う「蒲田撮影所」である。大正時代府下の一農村に過ぎなかった蒲田の名が |
全国津々浦々に上映される映画のタイトル「蒲田撮影所製作」の文字で、一躍天下に |
知られるようになった。 |
日本の“ハリウッド”といわれた蒲田撮影所は、政界の黒幕と云われた杉山茂丸の |
紹介で、荏原郡蒲田村の中村化学研究所の跡地、約29万平方米の土地を手に入れるこ |
とができたのである。 |
この敷地は第一次世界大戦当時、化学薬品の製造所だったので、古びたレンガ造り |
の建物や石炭ガラが一面に捨ててあった原っぱだった。 |
建物はそのまま事務所に使い、石炭ガラを踏み固めた所にテントを張ってステージ |
を作り、ここでセット撮影したのである。 |
俳優の募集では240人が集まり、その中から男子30人、女子6人を厳選採用した。 |
ところが、ズブの素人で、すぐ使えないため「キネマ俳優学校」を作り、小山内薫 |
が校長に就任した。生徒には奈良真養、岡田宗太郎、沢村春子、東栄子、伊藤大輔、 |
東郷是也(鈴木伝明)等がいた。 |
この学校は築地の本社の一室に設けたが、すぐに撮影所内に移転してきた。 |
大正9年2月、社名を「松竹キネマ合名社」に変えて、“映画フィルムの製作とフ |
ィルムを配給する”と新聞に発表した。 |
大正13年城戸四郎が所長に就任したとき、脚本部を強化、小田喬、武田晃、北村小 |
松ほか数名を置き、部長に落合泡雄を据えた。 |
その後、道頓堀の劇場から中村鷹治郎門下の青年歌舞伎、女形、林長九を抜擢、林 |
長二郎と改名して売り出した。この人が長谷川一夫の若い頃の芸名である。そのほか |
に、井上正夫、川田芳子、栗島すみ子、柳さく子、田中絹代、斉藤達雄等の俳優も活 |
躍した。 |
栗島すみ子は当時を回想して「折角、気の乗ってきたラブシーンのとき、高砂香料 |
から鼻をツーンと突くような臭いが流れてきて、気分がおじゃんになったこともあり |
ました」と語っている。 |
昭和4年、蓄音器のレコードが電気吹込みできるよう流行歌は殆んどレコードにな |
った。 |
そこでレコード会社とタイアップして、映画の主題歌を作った第1号は、島津監督 |
の「君恋し」である。 |
そして一世を風靡したのは、映画「親父とその子」に挿入した堀内敬三編曲、作詞 |
の主題歌、「蒲田行進曲」である。 |
蒲田松竹撮影所 |
♪♪“虹の都 光の都 キネマの天地 |
花の姿 春の匂い 溢るるところ |
カメラの目に映る かりそめの恋にさく |
青春燃える 生命は躍る キネマの天地”♪♪ |
その後、俳優学校には、昭和4年、川崎弘子、高田稔、 |
岡田時彦、及川道子等を採用した。 |
城戸所長はスターの“曲線美”を強く打ち出した。こ |
れは洋装時代を迎えるためにいち早く着眼したという。 |
昭和6年撮影所内にトーキー研究所を設けて、第1作「マダムと女房」(脚本:北 |
村小松、監督:五所平之助)を作り、本格的なトーキー時代を迎えた。 |
必要な装置で敷地が狭くなり、昭和11年大船競馬場の跡に、約9万平方米の新しい |
撮影所に移った。蒲田のシネマ黄金時代は16年間、蒲田の発展には著しいものがあっ |
た。 |
TKS時代、倉庫におられた伊藤(福)さんの案内で、営業の連中2〜3人で見学 |
に行き、及川道子、花岡菊子の2人が温室をバックにしたプロマイドを買った記憶が |
ある。(蒲田駅史より) |
| | | |
4.蒲田花街の回顧 (昭和59年会報16号掲載) |
蒲田撮影所がオープンした翌大正10年、宮城という人が新宿の八幡神社附近の私有 |
地に、芸妓屋を開業したいと警視庁に許可願い出すと、女塚の古山・須山、北蒲田の |
吉岡、新宿の遠藤等4名が相次いで競願した。 |
然しすぐ許可は出さず、数年を経て大正12年の暮れに、菊地、野村の両人が調停人 |
となり、石井町長が立会人になって、競願者と接衝を重ねた結果、「最も適当と認め |
る所へ、一箇所許可して貰いたい」と新願書を同庁保安部長に提出した。 |
それから2年経って昭和2年4月19日、新宿町内に許可がやっとおりた。 |
芸妓屋は森田屋、続いて松の家、待合は竹の家がそれぞれ草分けで、蒲田検番の下 |
で統一されていた。 |
昭和7年12月、蒲田新地株式会社が創立して、専務に岸本一兵、取締役に森安之助、 |
大竹広吉、監査役に荒井重松、須山太郎が就任している。 |
昭和8年頃には、芸妓屋24軒、待合21軒で、芸妓は70人、半玉は9人いたという。 |
花街が栄えるにつれて、カフェー、バーも続々生ぶ声をあげ、その頃、蒲田町内に |
は115店を数える盛況さで、“夜の蒲田”は一段と華やかであった。 |
お姉さんのイラスト |
TKS時代、うちの組長さんはよく稼いだ。なかでも |
千葉(甚)さんは番頭等を連れ、二業地では宵越しの銭 |
は残さずのあの江戸っ子の派手な遊びようは評判だった。 |
当時、工機ではミーリングだけ単独請負(他はみな連 |
合)でわが酒友は多く稼ぎ負けずに発展した。 |
その中でも樋口の金ちゃんは、ことなく可愛いがって |
いた半玉の小太郎と〆奴をいつもはべらせる姿、そこに |
は明るい若者のムードが満ちていた。 |
かの高名な労働歌「聞け万国の労働者・・・・・・」の作詞者・大場(勇)さんは、 |
名妓照千代と恋仲になり、目出度く結婚にゴールインしている。 |
また工機チームの名キャッチャー小柄だが気さくで誰からも好かれた松本(重)君 |
は“メーゾンタツオ”の細君(グラマーでなかなかの美人)の妹を嫁に貰ったが、好 |
漢惜しむらく南方戦線へ散ってしまった。 |
ある時、土地の有力者醍醐氏から頼まれ、隣接の“久本(経営者:橋本)の建物 |
(2階建6部屋)を保証金1,000円、家賃200円で賃借し、来客や慰問団の食堂に使用 |
したこともあった。 |
当時、従業員は学徒動員240人を含み、最多数1万人に達していた。 |
終わりに映画館と寄席等に触れておこう。西口には女塚常設館(大正11年)、中央 |
通り角に電気館(大正13年)、夫婦橋に蒲田キネマ(大正13年)、それと富士館(昭 |
和5年)に4館を数え、また寄席も高砂亭(大正15年)、梅宮館(昭和2年)、蒲田 |
館(昭和5年)の3席があって、今日の盛り場を形成し、“娯楽の街”でもあった。 |
あの評判な夜店の情緒は忘れ難い。“蒲田銀座”といわれた東口大通りには毎週土 |
曜夜に出て、撮影所の俳優たちもひやかしに来ていた。 |
このスターたちの姿を見ようと、遠くから円タクで乗りつける人たちもいて、夜店 |
はいつも人波でごったがえしていた。 |
ともあれ、“流行は蒲田から”とそれほど全国で“モダン王国”になった。 |
駅前の“富士銀行”は元森永製菓の売店で、奥は喫茶となっており、ここのカレー |
は安くて美味しいので評判だった。 |
東口、四つ角の電気店の前のソバヤ“神家”は、中華の肉ダンゴとチャーハンが特 |
に美味しく、店はいつも一杯、大繁盛していた。いまはその面影もない。 |
(蒲田駅史より) |
| | | |
5.モダン工場の夢物語り (昭和59年会報16号掲載) |
爾来、軍需の拡大に伴い小石川工場は益々手狭となっ |
蒲田本社工場 |
たので、昭和の始めより移転のため期末毎に建設準備金 |
の繰越に努めてきた。 |
移転先は府下荏原郡蒲田町新宿と決まり、早速、庶務 |
係主任(斉藤末知氏)が土地買収に取りかかる。然し用 |
地約9,000坪に関係する地主は10数名もいるので、個々の |
折衝は不得策と考え、大地主で顔役の鈴木梅吉(薪炭商) |
に取りまとめ方を一任した。 |
最終的には坪当たり1円50銭で購入できたが、用地周辺は田園で遠くに農家が点在 |
し、敷地内は一面芦が生えていた。 |
工場を建てるには地盛りが必要なので、朝鮮池を掘って埋め立てを行い、この整地 |
には予想外の経費がかかった。 |
施行は戸田組、設計は曽根中條が落札し、昭和4年4月本社工場の建設に着手した。 |
あの模範的な近代工場の総工費は凡て自己資金約320万円で賄い得たのである。 |