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| 今年も拙い「干支談義」を書く時期となり、一年間の短さを痛感し、余生に対する |
| 焦燥の想いに駆り立てられたが、これは筆者の余生が短いのと人生を達観出来ない凡 |
| 人なるが故と諦め、此の想いを駄句に託した。 |
| さがの身や ことしも新春(はる)の 干支談義 |
| さて、今年の干支は「己卯」で訓読みは「つちのと・ |
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| う」音読みは「き・う」である。己は「十干」の五番目 |
| で、卯は「十二支」の四番目で兎のことである。卯の方 |
| 位は真東、卯の刻(こく)は午前五時半から七時半で前 |
| 半を「明け六つ」後半を「明け六つ半」と呼んだ。 |
| 兎は「哺乳類うさぎ目」の草食動物で、種類も色々あ |
| るようだが見た目が似ていたり、うさぎと呼ばれても、 |
| 兎でないものもあるらしい(モルモットや鳴きうさぎ等) |
| 兎の特徴は三ッ口(兎唇ー上口びるが縦に裂けている)・耳が長い・足が長い等である。 |
| 兎は「野兎」と「家兎」に大別されるが、以前は(戦前・戦中・戦後)一時期家畜 |
| として大いに飼育され、肉は食用に皮は防寒用に利用された。肉が鶏肉の代用にされ |
| た為か兎を一羽二羽・・・と数えたり、満州に出兵した関東軍の兵士が防寒に「カチ |
| ューシャの髪飾」の様に兎の毛皮を利用していたのを見た、少年時代の記憶がある。 |
| また野兎も筆者が小学生の頃は身近にいて生家(甲府市の北部)の裏山で蕨採りの折 |
| 等に糞をよく見かけた思い出があり、その頃兎は狩猟家の手頃な獲物だったらしい。 |
| 筆者も一度だけ「兎狩り」の経験がある。「旧海軍技手養成所」の生徒だった頃、所 |
| 長(造船少将)閣下以下教職員、生徒総員約四百名で呉の北西の「焼山(やけやま)」 |
| 地区で実施し、獲物はたった一匹だったが当局が用意した豚汁の味とともに今でも忘 |
| れ難い思い出である。 |
| 兎と日本人の関わりかた |
| 兎は日本人の実生活と最も関係深い動物の一つで、特に子供と馴染みが深く兎が出 |
| て来る童謡や唱歌は「もしもし亀よ・あわて床屋・まちぼうけ・ふるさと」等沢山あ |
| り、物語では「かちかち山・因幡の白兎」等に登場する。また兎に関する諺としては |
| 「樹下に兎を待つ・二兎追う者は一兎も得ず・卯の毛で突いた程の隙もない・初めは |
| 脱兎の如く終りは處女の如し(現今成人に處女は稀と聞くが?)」等である。 |
| 歌舞伎等の古典物で兎が登場するのは知らないが、筆者がトキメックで謡曲部の世 |
| 話役をしていた頃習った「竹生島」と言う曲の中に「緑樹影沈んで魚木に上(のぼ) |
| る気色(けしき)あり、月海上に浮かんでは兎も浪を奔(はし)るか面白の島の景色 |
| や。」と言う一節がある。 竹生島は琵琶湖の中の島で、湖の傍に立つ彦根城の城主 |
| 「井伊直弼」は此の一節が御気に入りで、折にふれ口すさんでいたと聞いた事がある |
| が幕末の風雲児・開国論者の急先鋒だった彼の一面として興味深い話だと思う。 |
| 月と言えば誰でも兎を思い出すが、「烏兎怱怱(うとそうそう)」「兎走・烏飛 |
| (とそう・うひ)」が月日が流れる事の速さを表現している事は余り知られていない。 |
| 中国では太陽を「金烏」月を「玉兎」と言ったそうである。 |
| 野兎の変種として鹿児島県の奄美大島には「黒兎」(天然記念物)がおり、また本 |
| 州の南北アルプスには「高山兎」が生息している。高山兎は太古の氷河期が終わった |
| 後に高山に氷雪とともに置き去りにされたものと考えられ「雷鳥」とともに「遺留動 |
| 物」と呼ばれている。 |
| 地球環境の指標か |
| 最近は「家兎」も「野兎」もも殆ど身近に見かける事はない、それは開発の名のも |
| とに自然が急速に破壊され飼となる草も無いからだろう。狭い日本に二千数百ものゴ |
| ルフ場が在るとか?森林も雑木林も無くなり陸地の保水力は著しく低下して洪水の原 |
| 因ともなり、また河川や海の水は薬害で汚れ兎はおろか、あらゆる生物の存続を危う |
| くするだろう? |
| 「消費至上主義」は有限の地球資源を徒に浪費して地球の生命を人類自らの手で縮 |
| め、「金権思想」を生み、その結果上は国政に携わる者から下は少年少女まで多くの |
| 犯罪者をだしているのではないか? |
| 筆者の少青年期(大正末期ー昭和初期)は人工衛星も電子計算器もなく確かに貧し |
| い時代だった、しかし心の豊かさを現代世相と比べると・ノスタルジャ・ではなく格 |
| 段の違いを覚えるのは何故だろうか? |
| 今年八二才を迎える筆者の思想は、高山兎の様に「時代の遺留的思想」として間も |
| 無く絶滅の運命を辿るのだろうか。 |
| 『兎に角』、何はさて置き、平成十一年己卯の年が「生きとし生けるもの」にとっ |
| てよい年でありますよう、そして「吾が親愛なるトキメックOBの諸兄姉」にとって |
| 幸多き年でありますよう心から御祈りしつゝ禿筆を措く次第である。 |
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| 一昔まで一頻り流行った(ひとしきりはやった)演歌の歌詞を矢継ぎ早に詰め込ん |
| で覚えたために、さぞかし遠い昔の尋常唱歌の歌詞など忘れてしまっているだろうと |
| 思っていたが、実はさに非ずで、結構しっかり思い出せるものだし、歌えるのであっ |
| た。昔、気張らずに覚えたことは一生忘れないもののようである。 |
| 筆者の知人である米国企業の社長が日本の浮世絵や版画の収集に熱を燃やしており、 |
| 随分と沢山集めている。しかし、溜めてはみたものの、何を描いたものなのか、どの |
| くらいの価値があるものなのかが分からずに困っている。そこで、時々絵を見せられ |
| て、意見を求められ戸惑いを感じている。最近も訪米の際、その社長宅で夕食を呼ば |
| れることになり訪ねた時に、何やら怪しげな木版画を持ち出してきて、何を描いたも |
| のか教えて欲しいと頼まれた。見れば尋常唱歌で習った「浦島太郎」の歌詞さながら |
| の有様が描かれていた。即ち、釣り竿を肩に、手には潮果を入れる魚篭(びく)を持 |
| ち、大海亀の背に乗せられて、後方に描かれている、遥か彼方に見える竜宮城から帰 |
| ってくる浦島太郎が描かれた図柄であった。浦島太郎の左手には乙姫様から貰った玉 |
| 手箱がしっかりと抱えられているではないか。実は前々から不思議に思っていたので |
| あるが、大亀は腰蓑のような立派な毛を下半身に靡かせた姿で描かれている。古来、 |
| 日本や中国の絵には奇妙に亀は老人の顎髭にも似た灰色か、白色の毛をもって描かれ |
| ている。長寿吉祥の動物としてある種の威厳を持たせていたのであろうか。それはと |
| もかくとして、筆者は「これは日本では誰もが知っている昔話で、小学生の頃には歌 |
| でも習っている」と物語の粗筋を説明した。序でに、その歌詞を思いだしながら口遊 |
| ん(くちずさん)で見せたところ、実に5番までの歌詞をしっかり歌え終えることが |
| できたのであった。 |
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| 60年くらい前に教えられた歌が未だ脳の奥の方にしっかり格納されて保持されてい |
| ることの不思議をこの時ほど強く感じ入ったことはなかった。海の向こうの国で、詰 |
| まらぬことに感心したのである。おかげで筆者は面目を保つことができたばかりか、 |
| 逆に筆者の自国文化に対する理解の深さを褒められたのであった。 |
| 最近の小学校の音楽の時間では、習う歌も大変モダンなものに変わってしまい、日 |
| 本の伝統の唱歌や昔話に因んだ歌を習う機会も薄れてしまった。引用した「浦島太郎」 |
| や「桃太郎」、「花咲かじじい」、「かちかち山」、「猿蟹合戦」等の歌を知らない子供達 |
| は多い。事の善し悪しは別としても、昔から伝わる民話や昔話を引き継ぐ事が日常忘 |
| れ去られてしまうのは問題ではなかろうか。このことを憂い、事の重大さを意識して |
| 日本の民話や昔話、そして古典文学を語りとして残そうとする運動が静かにブームを |
| 迎えていることは筆者としても喜ばしいことと感じている。しかし、この語りの会場 |
| でも客筋はシニアが圧倒的に多く、若い人たちの注目を集めるところには、残念なが |
| ら未だなっていないようである。筆者も尋常小学校唱歌を歌うことから日本の歴史に |
| 触れ、それこそ源氏と平家の戦い、平家の最後、弁慶と義経の東北への落ち延びの道 |
| 行き等唱歌で初めて知って、歴史にいたく興味を持ったことを昨日のことのようにし |
| っかりと覚えている。唱歌の歌詞に盛られていることの中味は驚くほど濃く、今の社 |
| 会科や歴史の教科書よりも何倍か詳しいのではなかろうか。こういう下地があったれ |
| ばこそ、歌舞伎や文楽が素直に理解でき、講談や浪花節にも抵抗が無く、浮世絵や錦 |
| 絵の場面も理解できたのだと思う。現代はややもすると幼年時の何でも覚え込める時 |
| に、これらの下地を教え込むことをしないか、することが恐ろしく少ないために、自 |
| 分が、生まれ育ち生活をしている自分の国の歴史認識が貧弱であったり、無理解であ |
| ったりしてしまうのであろう。自国の歴史と文化を正しく理解し、大いにそれらを誇 |
| りに思う心根が必要である。筆者は海外に出る度に、一般的に、外国人に比べて、日 |
| 本人はこの点が特に惨めであり、情けないと思わされる場面に幾つも出くわす。 |
| シニアに熱烈にサポートされているNHKの「ラジオ深夜便」という番組には毎晩 |
| 「ナツメロ」、童謡、唱歌と戦後のラジオ歌謡のいずれかが組まれ、懐かしい曲を聴 |
| くことができる。昨年の暮れにも、尋常唱歌の番組があり、その最後に「蛍の光」の |
| 合唱が放送された。筆者も寝床の中で、一緒に口ずさんでいたが、「蛍の光」も2番 |
| の歌詞までは付き合えたが、3番、4番はさすがに全く手が出なかった。そう言えば、 |
| 筆者もこれまでの人生でそれこそ何回も何回も「蛍の光」は歌ってきたが、3番や4 |
| 番まで通しで歌った記憶はない。習慣として歌っていれば自然に脳裏にしまわれてい |
| ただろうが、実践していなければ情けないかなタンスにしまうこともできない。習慣 |
| の大切さ、大事さと同時に知らず知らずに脳裏に刻み込まれてしまうことの恐ろしさ |
| も、しみじみ思い知らされたことであった。 |
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| 1. 観光の目玉は道後温泉だけか |
| 私は、行きつけのお店で時々、持論を展開している。 |
| 「観光は松山と今治を一緒にしてはいけないと思います。今治に来た人は今治に泊 |
| まってもらいましょう」熱っぽく語るが、今治の人の反応は決して芳しくない。 |
| 「道後に行かなければ宿泊施設がないじゃないですか。 |
今 治 城 |
| 道後温泉には、繁華街があるけど、今治は夜出かける場 |
| 所もないので誰も泊まりませんよ」 |
| でも観光客の求めているものは本当にそうなのだろう |
| か?テレビで見たことがあるが、旅行のイニシアティブ |
| を持っているのは、中高年の女性だとのこと。旅行の目 |
| 的についてのアンケート調査の結果は「温泉に入って、 |
| 美味しいものを食べる癒しの旅」が9割以上の圧倒的支 |
| 持を得ているのである。皆が旅行に行きたいと思っているのはひなびた温泉で、その |
| 地方の美味しい物を食べる癒しの旅である。 |
| 道後温泉は日本最初の温泉であり、100年前に夏目漱石が書いた小説「坊ちゃん」の |
| 舞台になった有名な温泉地である。昔を懐かしんで、明治の風情を求めて道後温泉を |
| 訪ねるのも大変価値のある、意義深い旅行であろう。同じ県人としてそれはそれで是 |
| 非応援したいものである。 |
| でも、実は今治も大変優れた観光地なのである。全国区の道後温泉に引けを取らな |
| い、全く質の違う観光地が今治にはあるということを是非全国にアピールしたいと思 |
| っている。道後温泉ツアーの中に“しまなみ海道”があるというだけではなく、「今 |
| 治の観光は自然です。そしてそれを最大限に生かすのは時間です」を合い言葉にした |
| 新しい、今治を中心にした、敢えて言えば「道後温泉」というフレーズの出てこない、 |
| 癒しの旅の場としての「観光地今治」を是非全国に認知させたいと思っている。それ |
| では、以下に私と友人が体験した素晴らしい「観光地今治」を紹介しよう。 |
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| 2. しまなみ海道の自然 |
糸山公園から見た来島大橋 |
2006年6月24日(土) |
| (満潮:9時03分、干潮:15時36分、日没:19時23分) |
| 梅雨の合間の晴れた休日であった。朝9時に国際ホテ |
| ルを出発した私たち一行は、まず今治城に行った。 |
| 最高の観光日和であるが、観光客とおぼしき人たちはほ |
| とんどいなかった。お堀の傍のお城が美しく見える場所 |
| で記念撮影をした。大浜での美しい来島大橋眺め、糸山 |
| 公園にある来島大橋記念館では時を忘れて海峡を行き交 |
| う大型船を眺めていた。航海の難所といわれる来島海峡は船の動きが複雑である。大 |
| きく回っていく船、小型の船はまっすぐ進んでくる。東京から来た私の友人は、瀬戸 |
| 内海の美しさに目を奪われている。 |
| 小高い山の頂上にある海山城からの眺めは360度、どの |
海山城展望公園 |
| 方角にも海が見える、これは自然の織りなす妙であるが、 |
| 海山城は島ではないが高縄半島の先端に近いところに位 |
| 置し、ほぼ360度の方角に海を眺めることが出来る場所に |
| 位置しているのである。近見山が間近に見える、まさに |
| 大パノラマであった。見晴らしのいい場所なので昔は |
| 「のろし」の中継地としても使われたらしい。登り口に |
| あったヤマモモの木がたわわに実をつけている。「ヤマ |
| モモは焼酎漬けにすると良い」と誰かが言った。それではとビニール袋を持ってきて |
| みんなで協力して実を摘んだ。 |
| 「しかし、こんなに観光地が整備されているのに人が少ないね」と友人は観光客の |
| 少なさが不思議そうであった。東京は良い場所に行くとどこも沢山の観光客が来るが、 |
| 残念ながら今治は観光地としての認知度が低いのである。 |
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| ≪ “進 水 式”を 見 学 ≫ |
| 「今治は造船が有名だから造船所を見てみたいな」という友人の希望で、造船所に |
| 行くことになり、私は、また元の道を戻って、ところ狭しと、造船所が密集している |
| 造船所村へと一行を案内した。一番奥の造船所に行くと、 |
進 水 式 |
| なんと今日、進水式があることが判った。私は知り合い |
| の総務部長さんにお願いし、一行は特別席で進水式を見 |
| 学することが出来た。巨大な船体をかろうじて止めてあ |
| る細い糸を女性が儀式用のナタで切った瞬間、シャンパ |
| ンが割れ、ビルよりも大きなその構造物はジワジワと動 |
| き始め、ゴーゴーという音を立てて海に向って滑って |
| いった。初めて見るこの壮大で豪快な進水式に友人は声 |
| を失い感動した。大きな船体は海へと滑っていった。 |
| 小さなタグボートが来て船の向きを変え、大きな船体を所定の位置へと操っている。 |
| まだ興奮の余韻がさめないが、そろそろ昼食の時間である。 |
| 一行は予約していた日本料理店に行き、今治の美味しい魚と鯛飯を食した。これか |
| ら12時丁度の大島行きフェリーに乗らなければならない。今治から大島には来島大橋 |
| がかかっているがフェリーに乗ることにしていたのである。私は、みんなを促し、車 |
| に乗ってフェリーターミナルに向かった。たった30分足らずのフェリーの旅であるが、 |
| 晴れて静かな瀬戸内の海の雰囲気を満喫し、来島大橋の美しさを見ている間にあっと |
| いう間に大島に着いてしまった。 |
| 名駒、千年松という民宿を案内し、宮窪へ向かった。海から山道に入ったところに |
| 鈴なりの枇杷があった。みんな小振りで、到底売り物にはならない代物であったが、 |
| 食べてみると売り物の枇杷よりも味も濃く美味しいことが判った。またビニール袋を |
| 探し、帰ってからのデザートにと少量を収穫した。 |
| | | |
| ≪ “潮 流”の 体 験 ≫ |
| 私は手帳を見た。今日の満潮は午前9時頃、干潮は15時半頃という、予め調べて |
| あった潮の満ち干の時間のメモをもう一度確認した。 |
| 潮流体験のベストタイムは干潮の約2時間半前である。午後1時に潮流体験のチケ |
潮流体験 |
ットを買った。「今日はいい写真を撮れますよ」潮流体 |
| 験を世話している地元の漁師さんが言った。初めて体験 |
| する一行はワクワクする気持ちを抑えて、漁船に乗り込 |
| んだ。 |
| 船は鯛崎島の右を回って能島に向かった。ここは昔村 |
| 上水軍の居城があり、昔は鯛崎島と能島は橋で繋がって |
| いたらしい。海が音を立てて流れている様を初めて見た。 |
| 「これが海?」まるで渓流の流れのような潮の流れを |
| 見て、みんな驚いた。しかしこれはまだ潮流体験のプロローグであった。 |
| 潮の大きな流れの中を船は能島を大きく一回りする。昔の居城の名残なのであろう、 |
| 武者走りという岩を削った道が見え隠れしている。右前方には伯方島と大島を結んで |
| いる伯方大橋が見える。能島を反時計方向に回りながら船は能島と鯛崎島の間の海峡 |
| に向かって進んだ。ここはまるで渓流の岩から水が流れているように、水の高さに段 |
| 差がある。船の前方から水(海水)が船に向かって流れている。正に蕩々と流れてい |
| る様である。その流れに向かって船は進む、左右の岩に |
潮 流 |
| は急流が波を立てて流れている。 |
| 一番高いところまで進んで船のエンジンを止めた。海 |
| の急流が船を後方に流していく、左右の景色が前方に流 |
| れていく様に、自然の織りなす感動に酔いしれた。再び |
| エンジンをかけて船は鯛崎島を左に見ながら進み出した。 |
| 昔、迷い込んだ鯨を助けたという謂われのあるお坊さ |
| んの像が鯛崎島の右の先端に見える。 |
| 鯛崎島を反時計方向に回りながら船はゆっくり進みだした。そこは急流ということ |
| ではないが幅の広い潮流が鯛崎島の向こうから絶え間なく流れてくる。潮流は波を作 |
| り、時々大きな渦が見え隠れする。初めて間近に見る渦の様にみんな「すご〜い!」 |
| の言葉の連発であった。浅瀬にある岩の形状などによって、こういった潮流が作られ |
船折瀬戸 |
るということであるが、聞きしに勝る、素晴らしい潮流 |
| 体験であった。 |
| 約20分ほどで船は港に戻り、私たち一行は伯方島に向 |
| かった。伯方インターチェンジを出て左折し、整備され |
| た綺麗な道を進むと5分ほどで「船折瀬戸」と書いてあ |
| る広い場所に着いた。先ほど潮流体験をした能島が右前 |
| 方に見えている。伯方島と前方の鵜島の間の狭い海峡が |
| 「船折瀬戸」である。ここの眺めも素晴らしかった。左 |
| の広い海から、この狭い海峡に向かってゴーゴーという音を立てて、潮流が蕩々と流 |
| れている。スケールの大きなダイナミックな眺めである。急流に逆らいながら船が進 |
| んできた。潮の流れが速いので進んでいる感じではあるが、背景の島に対する動きは |
| ゆっくりとしている。正に船も折れよとばかりの豪快な潮流であった。 |
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| ≪ 今治の素晴しさを実感 ≫ |
| 潮流体験のすばらしさと船折瀬戸の豪快さに、私たちは、 |
| 「今治はすごい観光地だよ」 |
| 「どうしてみんな松山なんだろう、松山にこんな素晴らしい自然はないよ」 |
| 「道後温泉は確かに行ってみたいけど、今治にも鈍川温泉や、湯ノ浦温泉があるし、 |
| 今治だけの、この自然と、美味しい魚が有るんだから、すごい観光地になるよ」と、 |
| 口々に今治の素晴らしさをたたえた。 |
| 伯方島の開山ではしまなみ海道に掛かる5本の橋の内 |
鈍川温泉 |
| 3本を見ることが出来る。ここは桜の名所で、桜の時期 |
| は人々で溢れるとのことであったが、晴れた週末の土曜 |
| 日にもかかわらず、この整備された素晴らしい展望台に |
| は他に誰もいなかった。 |
| このあと私たち一行は大三島の大山祇神社に行き安全 |
| 祈願をし、広島県の生口島に向かった。ここは島全体を |
| 美術館にというコンセプトで、島の色々な場所に芸術家 |
| が作ったモニュメントが点在している。そのうちの一つは私の大学時代の1年後輩が |
| 作ったモニュメントである。生口島南インターを出て尾道の方向に進んでいくと右に |
| 小学校があり、そこの浜辺に後輩の作ったモニュメントがあった。彼の創作の原点は |
| 「一筆書き」である。子供たちが喜ぶようにと思って作ったのであろう。そのモニュ |
| メントは海水浴の飛び込み台としても使えるように考えられている。それは見事に一 |
| 筆書きの美しさを生かしたものであった。 |
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| この島には、平山郁夫美術館や耕三寺があるが、これから本日最後のメインイベン |
| トが残っているので、私たち一行は、そこには寄らず、時間調整を兼ねて、今日、一 |
| 日をいやしながらアイスクリームを食べ一服した。「あれがひょっこりひょうたん島 |
| だよ」「昔NHKの放送でやっていたひょっこりひょうたん島?」、「本物の島があ |
| るの?」そんな会話に答える知識はなかったが「観光案内に書いてあったよ」と、言 |
| いながら生口島を一周し、生口島インターから高速に乗り、今治方面に戻り、今日の |
| 最終イベントに向けて大島へと車を走らせた。 |
亀老山から眺める来島大橋と夕日 |
私は「18時30分だ、日没まで約1時間有るから丁度良 |
| い時間だろう」と思いながら、大島の亀老山へと向かっ |
| た。山道を登っていくと急に左側が開け雄大な来島大橋 |
| が見えてきた。 |
| 「うわあすご〜い」 |
| また歓声が上がった。三連大橋と点在する島が眼下に |
| 見える。その向こうには日没1時間前の真っ赤に燃える |
| 太陽が輝いている。 |
| 「11月頃は太陽が丁度橋の方向に沈むので、ここはカレンダーの写真の撮影スポッ |
| トになっているらしいよ。そこにある、道から飛び出している柵は写真の撮影場所と |
| して特別に作ってあるらしい」 |
| 「この上に展望台があるから行ってみよう」 |
| 一行は日暮れ時の幻想的な景色を眺めながら、潮流体験に負けない感動を覚えた。 |
| 「三浦さん、今日は潮流体験といい、亀老山といい最高の時間に来たような気がす |
| るけど、予め調べていたの?」 |
| 友人は今日一日の素晴らしい感動を案内した私のアレンジに満足そうであった。 |
| | | |
| 野村光雄さんは、平成19年1月12日、めでたく満百歳のお誕生日を迎えられ、廣瀬 |
| 富三郎名誉会員(現在101歳)に次ぐ、OB会会員として、お二人目の“百歳の長寿” |
| を迎えられたのですが、その後、体調を崩されて、誠に残念なことでしたが平成19年 |
| 3月13日にご他界されました。 |
| 今回、野村さんが、会報「けいき」第3号に「幻の小石川工場を尋ねて」、「TK |
| Sの秘められた裏話のあれこれ」を初めて寄稿されてから、最近の第56号まで、俳句 |
| を除いて、67回にも及ぶ寄稿をされておられます。その内容は、会社のこと、地元蒲 |
| 田に関すること、エッセイ調に纏めた社会面の裏話など多岐にわたっておりました。 |
| 「OB会HP・会報」関係者の会合で、「総会・懇親会、バス旅行の参加最多記録 |
| 保持者」の廣瀬名誉会員に対して、「会報寄稿最多記録保持者」の野村光雄さんの寄 |
| 稿文を、お礼を含めてHPに掲載させていただいたらどうかという話があり、今回か |
| ら連載物として掲載することになりました。 |
| お陰様で、会員皆様のご努力により年々新しい会員が増えて参りました。大変喜ば |
| しいことだと思っております。これらの方々にも、昔読んだことのある方々にも、当 |
| 時の世相を反映している野村さんの原稿を、ぜひ、ご一読、再読戴ければ幸甚に存じ |
| ます。 |
| 掲載に当たり、改めて、野村さんのご冥福をお祈り申し上げます。 |
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| 1.幻の小石川工場を尋ねて (昭和52年会報第3号掲載) |
| 蒲田に移転して数えてみると、早々47年経って、ふと初秋のある日、TKSの小石 |
| 川工場跡を尋ねてみた。 |
| 指ヶ谷町のバス停から入口附近は道幅が昔の倍位拡くなって(角の交番はそのまま |
| ある)いつも湿って暗かった坂道はすっかり明るくなり、装いも新たな福音教会や新 |
| しい近代ビルが数棟建っている。これは当時あった“坂上醤油工場”をとり払ったこ |
| とや東北自動車道に通じるバイパスが出来た所為でしょう? |
| 坂を上りきった左側に、よく洋食を出前してくれた |
小石川本社正門 |
| “芙蓉軒”らしいしもたやあり“聾唖学校”と覚しき場 |
| 所には最高裁の書記官研究所という立派な役所が厳と構 |
| えていた。右折して焼け残った住宅街を約200米ほど進 |
| む。手前の木工場や赤レンガ造りの本社と工場のあった |
| 辺りを静かに凝視すれば、一面瀟洒な高級住宅が端然と |
| 建ち並んでいて、此処が本邦計器濫觴の“和田工場”の |
| 跡かと偲ぶよすがなくも〜しばし感無量〜いまはただ遠 |
| い夢のような感懐がよぎるばかりであった。 |
| 町名は原町120から白山4丁目18に変更する。 |
| 依然として狭い正門前のこの道路には氷川さまの祭礼に子供衆が山車を牽いてきた |
| のを憶えている。直ぐ手前の角は漢学の簡野道明先生。向かいは小林寿太郎元外相、 |
| その隣は元東京市長の阪谷男、少し離れて土方伯邸のあったらしいここ植物園裏の台 |
| 地一帯は、日銀と第一勧銀の巨大な団地を囲むように、カラフルな住宅やアパートで |
| 一杯。とてもむかしのあのお屋敷街の風情はすっかり喪なわれていた。帰りはこんど |
| 裏門附近から思惑もあって京華商業校通りの商店街に出る。かって先輩の伴をして繁 |
| く足を運び、暖かく迎えてくれた“東ずし”を探すが、どうも見付からぬ。隣の喫茶 |
| 店もない。止むなくその場所にあるスーパー門の魚やに聞くと、思いかけず自分の若 |
| いとき、そのすしやの出前持ちで、威勢のいいあの親父さん、勝気の女将、そして一 |
| 人息子の一家全員は既に亡くなったと寂しく語ってくれた。 |
| 〜人生は無情〜星霜は移り人は去っていった。 |
| あっちの方角には寄席の“紅梅亭”この前の路地左側には“八百屋お七”お墓が |
| あったなと独り考え乍ら坂を途中から曲がって、“白山神社”に詣でる。境内二本の |
| 大銀杏には天然記念樹のNO.札があり、たしか白山さまのお輿は随分重いのが有名 |
| だった。三叉路の“東洋大”はコンクリート4階建のキャンパスとなり、校庭は更に |
| 狭くなったよう。前通りの旧安田銀行は新築されて、“高木薬局”はいまも盛業中で、 |
| ここのアイスクリームは別格美味しかった。肴町角のビヤホールと向かいの駒込館の |
| 姿は見えない。映画館は住友銀行に変貌した。 (昭和52年会報第3号掲載) |
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| 2.TKSの秘められた裏話のあれこれ (昭和52年会報第3号掲載) |
| 明治40年、先ず日露戦役のあと間もなき頃に、突如として英国ロンドンにある“ケ |
| ルビン会社”は重役の“プライス氏”を日本に派遣して、神戸で専ら計器を作り、こ |
| れを東洋方面に売込まんと企画したが、偶くTKSの技術をみて、合弁会社にするこ |
| とを得策と考え、“松方幸次郎氏”(川崎造船所の創立者)の仲介に依ってこれが設 |
| 立に努力していたが、高齢な“ケルビン卿”の逝去に遭って、遂に不成功に終ったと |
| いう。 |
| その合弁の条件というのは、TKSは現物出資50万、ケルビン社は現金出資50万、 |
| “和田氏”を社長に“プライス氏”を副社長にすることまできめていたそうで、世界 |
| 的に高名な大理学者のケルビン卿が“オックスフォード大学”の於ける講演で合弁が |
| 将にならんとする旨を発表したので、TKSの存在を欧州に知らしめて大いなる誇り |
| にしたと云うことである。(昭和10年・和田老社長の講演要旨より) |
若き日の和田嘉衛社長 |
次は昭和6年頃か、うちの組長さんたちはよく稼ぐ、 |
| 社長のそれを超えることもあり、軍の監督官や税務署で |
| 問題になる程の高給取りだった。そう云えば“松竹撮影 |
| 所”(大正9年開所)正面近くで、脇役で鳴らした吉川 |
| 満子が経営する小料理屋があり、子役の高尾光子も遊び |
| に来てはよく手伝っていたが、その折ちょっと小耳に挟 |
| んだ話〜 |
| 当時、名監督と謳われた“小津安二郎氏”は自分の給料 |
| は昭和の初めまで70円でボーナス200円貰ったとか・・・・。 |
| 有名な経済評論家の“三鬼陽之助氏”は昭和6年中央大学を出てダイヤモンドに入 |
| 社し、初任給はたしか45円だったという。今あれこれ較べて考えるとTKSの処遇は |
| 世間一般より遥かに良い方でなかったかと思う。 |
| さて、昭和20年(4月15日)夜の空襲で“蒲田工場”は一瞬のうちに米軍の接収を |
| 免れる程の壊滅的打撃を受けた。 |
| 当時、従業員は11,500名とか、内徴用工4,000名を除いた残りを2,000名とすべく20 |
| 年末には1,200名までになった由。 |
| なにせ膨大な借入金の返済は、確たる収入源なきまま茅ヶ崎工場、萩中グランド等 |
| 次々と資産の処分や売り喰いで、最悪時は月給を21回の分割払、やがて23年再建整備 |
| 法によって建て直しの目途が付くときは400名に縮少していた。残った人達は欠配でも |
| 構わぬから、材料を買ってくれと悲壮な覚悟でじっと試練に耐え。同じ苦難な生活を |
| 伴にして、必死に頑張ってきたことが、今日の繁栄に結び付く絆となったのでありま |
| しょう。 |
| “企業の発展は人物あってこそ、故旧忘れ得べき”! |
| | | |
| 虎に思いを託した諺 |
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虎に関わる言葉や諺を並べて見ると。「虎のこ・虎の |
| 巻・虎ひげ・虎刈り・虎になる(要注意!)・張りこの |
| 虎・竜虎の争・虎は千里を行く・虎穴に入らずんば虎児 |
| を得ず・前門の虎後門の狼・虎の尾を踏む想い・虎の威 |
| を借る狐・虎を野に放つ(サファリ動物園の事故注意! |
| )」等色々あるが、安来節に『千里走るよな虎の子が欲 |
| しや、トコ虎の子何にする、便り聞いたり聞かせたり』 |
| の一節もある。(恋の文使いとは虎も苦笑するだろう)。 |
| 韓国では昔噺の初めに「まだ虎が煙草を吸っていた頃の噺じゃ」と言うらしい(日 |
| 本では、むかしむかし・・・で始まる)。また「虎は死して皮を残し、人間死して名 |
| を残す」とか言われ虎の皮は貴重なものだったらしい。 |
| 寅や虎の字はよく人名に使われる。「男はつらいよ」の「寅さん」、浪曲の「広沢 |
| 虎造」は有名だが、東海道の大磯に残る史跡「虎御前の化粧井戸」の事は余り知られ |
| ていない(虎御前は「曾我兄弟」の「曾我十郎」の愛人だったとか?)皆さんも折を |
| 得て、大磯の松並木の中に鎌倉時代のロマンを訪ねては如何?。 |
| | | |
| 苛政は虎よりも猛し |
| 日本に実物の虎が持ち込まれたのはいつの頃か知らない(江戸時代、犬を献上させ |
| て飼育したと聞いた事がある)が、絵としては相当古いものがあるらしい。源平時代 |
| に「源三位頼政(治承四年平氏と戦い、宇治平等院で切腹)が紫宸殿で退治したと云 |
| う「鵺」は頭が猿、体が虎、尾が蛇の怪獣だったと伝えられているので、当時すでに |
| 虎は知られていたらしい。歴史は降って、文禄・慶長の役で朝鮮半島に出兵した日本 |
| 軍は各地の山野で虎に悩まされたと伝えられている。(例の「名槍日本号」が此の折 |
| りの虎退治にまつわると云う話を聞いたが真偽はわからない)。 |
| 日本に動物園が出来たのはいつ頃か知らないが、記録によると明治十九年イタリー |
| 人「チャリネ」が曲馬団(サーカス)として、虎・獅子・象・駝鳥等の珍鳥獣を携え、 |
| 四十余名で来日し東京で数ヶ月興業したそうで、大衆が虎を見た最初だろうか? 因 |
| みに明治十九年は、陸軍が「鎮台」を廃して「師団」を置き、海軍では「鎮守府」が |
| 設置され、日本が「メートル条約」に加盟し、蓄音器が始めて輸入されたのも此の年 |
| とのことである。 |
| また此の年「コレラ」が日本に大流行して約十一万人の死者がでたそうであるが、 |
| 当時「コレラ」は「虎列刺」と書いたので、家の前に竹矢来を結んで「虎除け」にし |
| た笑い話があったとか。 |
| 以上色々蛇足的な話を並べたが、「虎」にまつわる言葉で筆者が真っ先に想い付く |
| のは「苛政は虎よりも猛し」と言う中国の故事である。これは儒教の「礼記」と言う |
| 書物に書いてあるそうだが、「山中に暮らして、子供を虎に殺されて泣いている人に |
| 『何故虎の居ない里で暮らさないのか?』と尋ねると『里に住むと税金が重く、虎よ |
| りもっと恐ろしい』と答えた。」と言う話である。去る大戦では捕虜にもなり、現在 |
| 傘寿を越えて、細々と年金生活を送っている筆者が現在の政治や世相を考えるとまこ |
| とに身につまされる話である。 現在の世の中を「孔子・孟子」が見たら、きっと |
| 『文明の罪過は虎よりも猛し』と言うだろう。 |
| 願わくば今年がOB諸兄姉にとって素晴らしい年であるよう祈りつつ、禿筆を措く |
| 次第である。 |
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| 日は照らず、やや涼しめの日であるとの当日の天気予報を幸いに、7月7日に小金 |
| 井の「はけの森美術館」を訪ね、物故作家の中で筆者の好きな洋画家の一人である中 |
| 村研一の風景を中心とした作品を鑑賞した。 |
| JR中央線の三鷹駅から国分寺駅間の開かずの踏み切り解消工事の一部として下り線 |
| のみ高架化が最近実現した。筆者にとってはこの日が「乗り初め」というか「通り初 |
| め」、初めての車窓の景色である。今まで地上を眺めていた目線が上がり、民家や商 |
| 店の屋根越しに点在する武蔵野の森や遠方の丘陵が眺められ、まるで別世界を訪ねた |
| 思いであった。JR武蔵小金井駅南口からまっすぐに伸びる商店街に続く小金井街道を |
| 通り抜けて進み、更に連雀通りを渡って、一筋目を左折し、右手に金蔵院のあるとこ |
| ろを左折し、暫く歩を進めると左側にあるのが「はけの森美術館」である。案内には |
| 徒歩15分とあったが、5分くらいは余分を見た方が良さそうである。 |
| この地は画家中村研一が昭和20(1945)年12月50歳のときに転居して来て以来、昭和 |
| 42(1967)年8月に72歳で死亡するまでアトリエを構え、居住していた土地である。 |
| 美術館が面している通りを土地の人々は「はけの道」と呼んでいる。筆者にはこの |
| 「はけ」の意味が分からず、調べてみると次のことが分かった。小金井市の南部を東 |
| 西に伸びている崖は、武蔵野台地を古多摩川が削った名残りで、この崖が「はけ」な |
| のだそうだ。何年も掛けて多摩川が掃いて作り上げた作品ということなのだろうか。 |
| 美術館の右隣りから「美術の森公園」に入れるようになっている。元の中村邸の茶 |
| 室や遊泉式庭園がそのまま残されている。池もあり、井戸もあり、さぞかし美しい庭 |
| であったろうことは想像できる。現在は手入れが殆んどされていない様子で、正直、 |
| 相当荒れている。水琴窟も作られていて、美しい響きが聴けた。暗い曇り日に開館時 |
| 間直後に飛び込み展覧会を見たあと続けて訪ねたため、やぶ蚊の絶好の餌となってし |
| まい、半袖シャツからはみ出た腕はたちまち凸凹にされてしまった。筆者は咄嗟に先 |
| 月6月から一般公開が始まった京浜急行・京急富岡駅そばにある日本画家川合玉堂の |
| 元別邸「二松庵」が横浜市の管理下になり同じような荒れ放題であったことを思い出 |
| していた。 |
| 大分前置きが長くなってしまったが、次に中村研一の生い立ちと作品について筆者 |
| の思うところを記してみたい。 |
| 筆者が中学・高校生時代を通して水彩画の指導を受けた松本慎三画伯が「日本人の |
| 絵描きにも優れた人が何人もいる。良く作品を見て勉強するように」と名前を挙げら |
| れた作家たちの中に、この中村研一も入っていた。同氏には琢二という東京帝大出の |
| 同じく絵描きの弟があり、才技の揃った絵描き兄弟として筆者の頭にもその頃からイ |
| ンプットされていた。また、フランスに骨を埋めたあのレオナール・嗣治・藤田がフ |
| ランス語の発音に合わせ自分の名前をFoujitaと綴り、サインしているのと同じよう |
| に、藤田と渡仏時に親交のあった中村もまたスペルをNakamouraと綴って作品にサイ |
| ンしているのも名前を記憶した大きな拠りどころとなった。 |
| 中村が絵描きになるきっかけは福岡の名門中学・修猷館の2年先輩で、後に独立美 |
| 術協会の重鎮となった児島善三郎と同校時代に一緒に作った絵画部の活動を通してで |
| あった。ただ作風は児島が形を大きくフォルムで捉えて、色彩を思い切って使い分け |
| ているのに対して、中村は的確な描写をむしろ控えめに抑えた色彩をベースにすると |
| いうように相容れないものであった。そこで、柔らかい雰囲気を大事にし、理想とす |
| るモダニズムを追求するため、中村は児島と袂を分かった。それは、サロン・ドート |
| ンヌ会員としてフランスでの活躍が認められて昭和3(1928)年に帰国するや、辻永 |
| (つじひさし)の進めに従って光風会を活動の舞台に選んだときに決定的となった。 |
| 中村は亡くなるまで光風会に籍を持ち続け、生涯分派活動は行わなかった。 |
| 筆者が当日見ることが出来た作品は、卒業制作で東京芸術大学が所有する「自画像」 |
| から戦前の人物画や欧州滞在中の小品数点に、軍艦「足柄」に乗船し、英国王ジョー |
| ジ6世の戴冠式に出席する各国の要人の模様を記録に残す仕事を日本海軍から委嘱さ |
| れた際、航海中に残したデッサンや小品、太平洋戦争中に従軍絵師としてガダルカナ |
| ル等で制作した戦争画、戦後の一転した色彩とかなり濃いめの黒の輪郭線で構成され |
| る力強い人物、裸婦、花を中心とした静物画等であった。全点数40点余りでゆっくり |
| 自分のペースで楽しく鑑賞することが出来た。他に、中村は陶磁器制作も好きだった |
| ようで、十数点が展覧されていた。輪切りのレモンをいろいろの角度から皿絵にした |
| 小皿セットなど手元に置いて使ってみたい魅力を感じた。全体としては戦前の若干暗 |
| さを感じさせる作品よりも、戦後ののびのびとしていながら力強さが感じられる人物 |
| や風景、静物も、筆者の制作に参考になるところが多く、見ごたえがあった。こじん |
| まりした一人の作家の作品を鑑賞する優れた場を見出した思いだった。10月23日から |
| は京都の堂本印象美術館のコレクション展が企画されている。 |
| (2007年7月10日 記) |
| | | |
| 7. お遍路さん |
お遍路さん |
四国といえばお遍路さんである。88ヶ所の霊場を回り、 |
| 自分の願いを祈願する巡礼の旅は古くから行われている。 |
| 今でも毎日沢山のお遍路さんを見ることが出来る。 |
| 「四国88ヶ所霊場めぐり」の起源は、今から1,200年前、 |
| 弘法大師が42歳のときに人々の災難を除くために開いた |
| 霊場が四国霊場といわれており、後に大師の高弟が大師 |
| の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりと伝えられて |
| いる。人間には88の煩悩があり、四国霊場を88ヶ所巡る |
| ことによって煩悩が消え、願いがかなうといわれている。徳島阿波(発心の道場1番 |
| から23番)、高知土佐(修行の道場24番から39番)、愛媛伊予(菩提の道場40番から |
| 65番)、香川讃岐(涅槃の道場66番から88番)に至る1,450キロを巡拝する四国遍路は |
| 昔も今も人々の人生の苦しみを癒し、生きる喜びと安らぎを与えてくれる祈りの旅な |
| のである。 |
| 今治には88ヶ所のうち、54番近見山延命寺(宝鍾院)、55番別宮山南光坊、56番金 |
| 輪山泰山寺(勅王院)、57番府頭山栄福寺(無量寿院)、58番作礼山仙遊寺(千手院)、 |
| 59番金光山国分寺(最勝院)の6ヶ所の札所がある。一つの市に6ヶ所の札所がある |
| のは、これは四国の中でも多いほうである。四国を知るには、お遍路さんや88ヵ所に |
| 付いての知識は大変大切である。この機会に、常識的な部分をまとめてみよう。 |
| | | |
| E「お接待」 |
| 遍路の道中、見知らぬお婆さんが「お茶でもどうぞ」と招いてくれるようなことが |
| ある。これは巡礼者に施しをする古くからの慣習であり、これを「お接待」と言う。 |
| 「お接待」には食べ物や飲み物などを施したり、[接待所]と呼ばれる休憩所を開放し |
| ていたり、[善根宿]として遍路に宿を提供するなど、その形態は様々である。これら |
お茶をどうぞ! |
の手厚い「お接待」は地元の人々や他県の接待講の人々 |
| の尽力により無償で行われている。もし、こういった |
| 「お接待」をいただくときは、「南無大師遍照金剛(ナ |
| ムダイシヘンジョウコンゴウ)」の宝号を唱え、納札を |
| 手渡す。基本的に「お接待」は出来るだけ受けるべきで |
| あるとのこと、その理由は「お接待」は「行けない私の |
| 分まで宜しくお参り下さい」という代参の意味があり、 |
| 「お接待」自体が施す人の行でもあり功徳となるからと |
| のことである。従って、参拝するときは、「お接待」を施してくれた人の分までお参 |
| りするという気持ちを持って参拝する意識が必要である。 |
| 「お接待」の好意の裏には地元の人々の人知れぬ尽力と苦労があるはずであり、 |
| 「お接待」を受ける時には、その人々への感謝と敬意を忘れてはいけない。今は車社 |
| 会であるから、道中で、車に乗っている人が「お接待いたします。お乗りください」 |
| と車で送るという申し出があることも考えられるが、もし、全てを歩いてまわろうと |
| 決めている時には、正直に「歩くことを行としております」と言って断ることはかま |
| わない。 |
| | | |
| 8. 離婚の多い街 |
| 今治は四国でも際立って離婚の多い街といわれている。 |
昔はお互いに愛していたのに! |
| その理由は他の地域に比べて今治は女性の働く職場が沢 |
| 山あるかららしい。なるほどと納得する理由であろう。 |
| 愛媛県は東予、中予、南予という3つに分けて呼ばれ |
| ることが多い。今治、西条、新居浜などの工業地帯は東 |
| 予に属している。中予は松山を中心にした商業地域であ |
| る。南予は海にも面しているが、山岳地域も多く、農業 |
| が中心の地域であり、この方面の離婚率はかなり低いら |
| しい。 |
| 今治には伝統産業もあり、また多くの優良な会社があるのが大きな特徴である。た |
| だ、今治市が他の都市と比べて特徴があるのはこれらの優良企業のほとんどが非上場 |
| のオーナー会社であるということである。いまや大手を凌駕している造船会社も非上 |
| 場のオーナー会社である。 |
| 優良会社があればその周りには相乗効果で更にそれらを支える産業が生まれている。 |
| 従って、南予と比べれば市内で就業できる機会ははるかに多くなり、離婚しても自活 |
| できるのは確かである。 |
| しかし、他の地域よりも優良企業が沢山あって、伝統産業があっても、町全体のた |
| たずまいに何かすっきりしないものが残る。何故、旧商店街はあんなに寂れたままに |
| なっていて、街に活気がないのであろうか? 何故、新都心計画は宅地造成になって |
| しまったのだろうか? 何故、今治駅前は更地の駐車場ばかりなのであろうか? |
| 2年程前に或る会合の講演で、愛媛県の市の比較をした話を聞いたことがあるが、 |
| その講師の人が「今治は新居浜に次ぐ愛媛県、第3の都市ですが(市町村合併後新居 |
| 浜を抜き第2の都市になった)、もっと小さい宇和島市の方が街に活気があるような |
| 気がします」と言った話が印象に残っている。 |
| オーナー会社の論理と、この街に住んで働いている人の論理は、当然利害は一致し |
| ないから、違うはずである。オーナー会社の経営者は行政とは近いところにいる訳で |
| あるから、政策運営や行政はこれらオーナー会社の経営者の意向がかなり反映されて |
| いるのではないかと考えるのが自然であろう。 |
| 他の地域も、その地域の実力者の思惑によって政策が決められ、実行されていく訳 |
| であるが、優良なオーナー会社が多いという、今治の特徴が、その特徴を守るために |
| 宇和島などの他の都市と違った形で政策面に現れているのではないだろうか? |