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最近は謡曲を口ずさむ人は余り見受けられませんが、能楽・鉢の木と、主人公の佐 |
野源佐衞門の名は広く知られています。私が佐野に転勤したと言うと、何人かの方々 |
から佐野源左衞門の佐野ですかと聞かれました。謡曲の筋は、鎌倉幕府の執権北条時 |
頼が僧の姿で地方の民情視察に出掛けるのですが、帰途大雪に遭い「駒とめて袖うち |
払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」と夕方に佐野に着き、源左衛門の家に宿を |
頼みます。この「佐野のわたり」というのが何処か?が問題になるのです。ところが、 |
佐野の市内には源左衞門せんべいを売る店(写真@)があるくらいで、北の葛生町に |
は墓があります。葛生は車で15分くらい山間の道を進むと昔ながらの部落に、源左衛 |
門(館)跡(写真A・B)の立て札があり、更に1q程奥の禅寺、願成寺(写真C)に |
源左衛門の墓石と右に妻・左に愛馬の墓(写真D・E)が並び重要文化財として保護 |
されています。 |
写真@ 源左衛門せんべい店 |
写真A 源左衛門館跡地 |
写真B 源左衛門館跡立て札 |
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訪れたのは秋の盛り、禅寺の庭の枝振りの良い、もみじの真っ赤な紅葉が印象的で |
した。しかし、これだけでは「佐野のわたり」の結論は出ません。図書館に行き「鉢 |
之木」の全文を読んで見ました。北条時頼は帰り道、浅間山の噴煙を見、板鼻村(今 |
の安中市)の宿場を通っています。 |
これは正しく昔の中仙道で、詳細な地図を見ると高崎の南に小さな文字で佐野とい |
う地名があります。早速、次の日曜日に出掛けて見ました。JR南高崎を降りて西に |
向い旧中仙道に出て南に進みます。道幅は5bくらい、両側に松並木、右手は低く烏 |
川の清流が流れ、その向こうには妙義連峰の岩山が並び、実に気持ちの良い旧街道で |
す。20分程歩くと右側に小さなお宮があり、常世神社と書いてあります。常世とは源 |
左衛門の名前、屋敷跡の立札もあります。これだけ舞台装置が揃うと、鉢之木の佐野 |
はこちら、の方が本命と思われます。それでは葛生との関係は?室町時代に作られた |
謡曲です。まったく分りません。名曲を味わえば良いのでしょう。 |
「鉢之木」は、時頼が後年諸国の兵を鎌倉に集めたとき、源左衛門は約束どおり駆 |
けつけたので「時頼が賞を特別に与えた」ところで終わりますが、源左衛門は帰り道、 |
相模川を馬で渡ろうとしたとき、馬が溺れたという説があり、これが今も相模川の河 |
口付近を「馬入川」とも呼ぶのだそうです。 |
写真撮影 佐野市 辻 隆太 会員 |
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< おことわり > HP事務局 |
昨年3月、真木守俊様ご寄稿の「佐野処々シリーズ」(その1)から始まり、今回 |
の(その16)まで、長い間ご愛読いただきましたが、今回をもって完了とさせてい |
ただきます。ご愛読ありがとうございました。 |
当初、真木様からは、このあと、「初午」「足利」「館林」「佐野新都市」の20話 |
まで、お引き受けいただく予定でしたが、原稿が完成する前に、昨年10月に急逝さ |
れました。 |
内容は、地元図書館、郷土博物館、関係市役所他のご専門の皆様のご協力をいただ |
きましたので歴史的な背景など正確な裏付けもあり、更に佐野支部会員の皆様の取材、 |
写真撮影協力も加わり、郷土史としても素晴らしく、会員の皆様から大変ご好評をい |
ただいておりましたので、誠に残念でいたし方ございません。 |
ここに、改めてご寄稿いただいた真木様の霊に対し御礼を申し上げる共に、謹んで |
ご冥福をお祈り申し上げます。 |
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河田 伸一さんの『銀華文学賞』受賞を祝って! |
今年(2008年)の1月、河田伸一さんがある文芸誌 |
表 彰 状 |
(文芸思潮)の短編小説に応募し、見事「銀華文学賞」 |
に当選された。このことは簡単にトキメックOB会のホ |
ームぺージにも紹介されたが、人によっては「ジャイロ |
の河田さんが?!」と思われた方も多いことだろう。 |
ご承知のように河田伸一さんは当社(東京計器、トキ |
メック)の舶用事業の主要製品である「ジャイロコンパ |
ス」の研究、開発、商品化について多大な貢献をされた |
方であり、後年、研究所長や取締役を歴任し、経営の中枢を担った人でもある。それ |
でも「ジャイロの河田さん」であり、「技術者、工学博士」というイメージが定着し |
ているのは事実であろう。 |
そんな中での文学賞受賞の報であるが、私を初め、河田さんを良く知る人にとって |
は、そんなに大きな驚きはない。昔からいろいろと文学、文芸に親しまれ、自身、短 |
編小説、エッセイを多く残されており、また、ご両親の足跡を綿密に調査、発掘して |
「ご両親の自分史」といったものを纏められて本にしている。 |
私の手許にも以下のようなものがあり、河田さんの執筆、編集による自費出版とな |
るものである。 |
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★ 「トキメックにおけるジャイロの研究と開発」 平成6年2月発行 |
これだけが著者「工学博士 河田伸一」となっている。 |
河田さんは昭和26年に東京計器に入社、ジャイロ研究室に配属となり、以後ジャイ |
ロ関係の研究・開発・製品化に携わってきた多くの事柄が綴られている。 |
「紫綬褒章」を受賞された昭和62年頃までの35年間の技術史となっている。正に東 |
京計器(トキメック)の「ジャイロの研究・開発・商品化」の歴史を語っているが、 |
日本と置き換えてもおかしくはない内容であり、資料的価値も極めて高いものとなっ |
ている。 |
単に技術の歴史だけでなく、河田さんらしい、その場その場で登場する人たちの言 |
動が生き生きと描写されており、ジャイロの研究、開発、製造、販売、サービスに携 |
わった多くの人たちの人物史ともなっており、臨場感に満ちている。 |
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★ 「紅椿」 平成11年11月発行 |
河田さんのご母堂が、昭和49年頃から書き溜めていた自伝的原稿「紅椿」を、母上 |
の喜寿のお祝い(昭和51年11月)として、河田さんが「コピー原稿の製本」として纏め |
られたことがあった。これは母上の16歳ころまでの自伝であった。 |
その後、お母様は上京され、女学校時代や結婚生活、関東大震災、日支事変、太平 |
洋戦争中の生活などを記されているが・・・「戦争さえなければ」の文字が痛々しい。 |
これらを河田さんが「続・紅椿」としてまとめ、日記、短歌、俳句も添え、「母の戦 |
争」と題する河田さんの母上への思いの一文も掲載され、当初の「紅椿」を含め一冊 |
に纏め上げたものである。 |
纏められた河田さんのご努力には感心するが、お母様がかなりの高齢になられてか |
ら執筆を始められたこと、83歳のときにも日記を書かれていたこと、文章がしっかり |
していることなど感心したものである。 |
またご両親のご兄弟、姉妹の方々が、いずれも学者や芸術家であることもこの本を |
通じて知りえたことであり、この親にしてこの子ありと思ったものである。母の記憶 |
力の良さが河田さんにも引継がれているようだ。 |
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★ 「絵と共に過ぎ去りし日々」 平成18年2月発行 |
河田さんは子供のころから絵が好きで、東京工業大学の学生時代には自己流でデッ |
サンを描いていたが、友人と絵を習い始め、そちらの人々との交わりが多くなったよ |
うだ。昭和27年2月の第4回「アンデパンダン展」に出品され、その後も出品されたと |
のこと。また、武者小路実篤の「新しき村美術展」にも第6回展(昭和28年)から出 |
品し、第16回展まで出品されており、当時かなり絵に打ち込んでおられている様子が |
判る。 |
絵をとるか! |
エンジニアとして生きるか! |
昭和26年には東京計器に |
入社されており、友人との |
話の中でも「絵をとるかエ |
ンジニアとして生きるか」 |
について悩んでいる。 |
結局、ご承知のとおり、 |
技術者として大をなしたわ |
けであるが、20代から今日 |
にいたるまで絵との縁は切れていない。そうした絵との関わりを綴られる傍ら、自作 |
の絵の数々が随所に散りばめられており、全てではないが「河田画集」の趣がある。 |
河田さんの絵の話は別の機会に紹介したいと思っている。
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≪ 小沢 美智恵氏 ≫ |
結末がピタリと決まった木戸竜之介氏の「荒るゝ海」は、戦争に負けて緊張状態を |
失い、生きる意味がわからなくなった青年が、嵐の夜を船で乗り切る経験から生きる |
目標をつかむ話である。 |
主人公は、その日「保証技師に選ばれ、偶然時化の中に突っ込むまで、いつも生命 |
を大切に抱きしめて、危険にさらさずに来た。それは本当に生命を大切にして来たと |
言える事なのだろうか。危険を覚悟で命懸けで必死に生きる事の方が、本当に生きる |
事ではないのか」と思う。 |
そして一晩中たった一人で舵輪を握り、乗員の生命と |
荒るゝ海 |
船を守った砲術長の姿を見て、当面の目標を「海の男達 |
の航海安全に役立つ航海計器の研究開発に定め、それに |
全力で立ち向かって見よう」と決心するのである。 |
細部がわかりにくいという瑕疵はあるが、嵐にもまれ |
る船の緊張感は伝わってきて、全体をつらぬく主人公の |
意識の流れが揺るがず、読む者を感動に誘い込む。 |
作品の評価に作者の実人生を持ち込むのは邪道である |
が、この作者は実際に航海計器の開発に携わり数々の賞を受けた人であるらしく、そ |
の略歴までもが「作品」の一部に見えてくる。若い日に決意し、その志通りに生きた、 |
作者の「生」そのものが作品であるような、実年齢を重ねた人にしか書けない重みが |
ある。 |
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「受賞の言葉」(抜粋) 木戸 竜之介(河田 伸一)氏 |
私は満16歳で第二次大戦の敗戦に出会いました。ずっと東京におりましたので、空 |
襲に痛めつけられた上に、敗戦後の思想的衝撃にさらされ、更に食糧難のために餓鬼 |
の心理も解りました。これらの体験が私の精神構造の基盤を作ってしまいましたから、 |
私は今も心の片隅に戦後を引き摺っており、ペンを取れば自然に青春の主題を取り上 |
げてしまうことになります。 |
「荒るゝ海」も、78歳の老人の瞼に今も浮かんで来る遠い昔の自分の姿です。 |
壮年の時代にも、たくさんの主題があったではないかと、自分に言い聞かせるので |
すが、強烈に思い出すのは、暗黒の青春時代の事ばかりです。この世を去る前に、本 |
当の大人として生きた壮年時代を主題にした作品を書かなくてはいけないと、受賞し |
て、ますます思いを強くしました。
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吾妻小舎で見たもの |
思いも寄らぬ所で、「東京計器」という文字を見て驚いたことがある。 |
もう4年近く前になるが、その年の初夏にトキメック山岳部OB会の山行が吾妻連峰 |
で行われた。当時栃木の仲間が多く参加したので、初夏の山行は那須以北の名山名峰 |
を訪ねることが恒例となっていた。那須塩原駅に集合した参加者26名は、貸切バスで |
標高約1600mの浄土平まで行き、そこから足慣らしを兼 |
吾妻小舎 |
ねて先ず吾妻小富士(1707m)のお鉢(火口縁)を巡っ |
たあと、木道を歩いて宿泊する「吾妻小舎」に着いた。 |
周辺を散策して小屋に落ち着いたとき、ふとロビーに置 |
いてあった大判のやや分厚い本をパラパラとめくったと |
き、あるページの項目に目が釘付けになった。 |
そこに『東京計器グループの遭難』という文字がはっ |
きりと書いてあったのである。そのときは斜め読みに読 |
んだだけであったが、要は昭和14年暮れから翌年正月にかけて、東京計器グループ5 |
人が遭難事件を起こし、1名の死者を出した記録が書かれていた。忠告を振り切って |
悪天候の中を強行登山しての事故だったようである。 |
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『吾妻山回想譜−先人に捧ぐる鎮魂歌』 |
半年ほど前、(社)日本山岳会の図書室で調べものをしていたとき、偶然この本に再 |
会し詳細を知ることができた。この本は、福島市桜本温湯、通称微温湯(ヌル湯)を |
経営する二階堂匡一朗氏が著した『吾妻山回想譜−先人に捧ぐる鎮魂歌』という遭 |
難記録集で、B5版580頁の大冊、2003年6月10日発行で、自費出版のようである。 |
この本を改めて読むと、昭和14年12月31日、東京計器グループの中村栄三郎(21)、 |
豊田豊治(22)、吉沼弥吉(22)、鳥島忠造(22)、小澤健三(21)各氏が悪天候を |
衝いて午後1時半ヌル湯を出発した。このとき、宿の主 |
本の表紙カバー |
人は中止するよう忠告したが、振り切って出発したとい |
う。結局5人は猛吹雪の中を彷徨し、夜になっても目的 |
の吾妻小舎に到達することなくばらばらになり、うち3 |
名は何とか夜中にヌル湯に下ったが、元日になって意識 |
朦朧で雪の中をさまよう豊田氏をヌル湯の館主が救助、 |
残る中村氏は2日に雪洞の中で凍死体となって救助隊に |
発見されたという。 |
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芭蕉はその著書「奥の細道」で『日月は百世の過客にして、往く歳月もまた一代の |
旅人なり』と書いているが、平成八年の干支談義を書いたのはつい此の間と思えるの |
に、歳月は正に通り過ぎる旅人で、その速度は眞に早く、そして二度と会えない。来 |
る歳への期待もさること乍ら往く歳への惜別の想がひとしおなのは筆者の老い先が短 |
いからなのか? |
さて、平成九年の干支は「丁丑」で訓読は「ひのとうし」音読は「ていちゅう」で |
ある。丑は牛のことで、有角・偶蹄・反芻の哺乳動物で、その種類は和牛の他に体毛 |
の長いヤーク、角の長い水牛、草原に自生するバイソン、野牛の仲間なのに「かもし |
か」と呼ばれるものもある。牛は古くから家畜化され、農耕・運搬・牛車等に使用さ |
れ、さらに牛乳牛肉として人類の為に非常に役立っており、また牛の鼻紋は各牛特有 |
と聞く。 |
牛に関する言葉や諺、お話等沢山あるが思いつくまま二・三並べて見よう。 |
「食べて直ぐ寝ると牛になる」「暗がりから牛」「牛を馬に乗り替える」「駿馬の |
一歩より牛歩の千歩」「鶏を割くに牛刀を用う」「鶏口となるも牛尾となる勿れ」 |
「牛に引かれて善光寺参り(洗濯物を角に引掛けて走った牛を追って善光寺へ導かれ |
た老婆の話)」「七夕の牽牛と織女(天の川を隔て年に一度逢う星の話)」「角を矯 |
めて牛を殺す」等。 |
歴史上では「源平盛衰記」の越中礪波山の倶梨伽羅峠の合戦で、今を去る八一六年 |
寿永二年、源氏の木曾義仲が多くの牛を集め角に松明(たいまつ)を結び付けて夜陰 |
に乗じ、平家の平維盛・通盛・忠度の大軍十万を倶梨伽羅谷に追い落とした話は有名 |
であるが、平家滅亡に「水鳥の羽音」と共に「牛」が大きな力になろうとは平家の公 |
達も思いもよらなかったであろう。 |
オペラの「闘牛士」以外牛が登場する芝居や劇は余り |
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無いようだが、筆者が青年(昭和十三年)の頃に観た少 |
年向け外国(フランス?)映画の「黒い牡牛(闘牛にま |
つわる少年と牛の愛情物語)」は当時評判の名画で五十 |
七年経った現在も思い出す映画の一つであり、今の少年 |
達に情操教育の一助に是非見せ度いと思う。 |
日本の闘牛は牛と牛との角闘で、伊予の宇和島と島根 |
の隠岐の島が名高く、隠岐の民謡「しげさ節」の中にも |
「忘れしやんすな隠岐の島、島のしげさの踊りと、牛突き、どっさり、島娘」と唄わ |
れ、地方色豊かな風物である。 |
牛を語って「種痘」を忘れてはならない。 種痘の創始者は英国の「エドワード・ |
ジェンナー」で、その頃ヨーロッパはナポレオンの時代だったが、ジェンナーの依頼 |
書が在れば敵国人でも陣営の通行を許し、人類の恩人に対し最高の礼を表したとか、 |
人類愛の美談が残っている。日本に「種痘法」が施行されたのは明治三年で、此の年 |
以後天然痘は絶えたのだが、筆者が幼少の頃は所謂「あばた面」の人を見た記憶があ |
る。種痘の方法も昨今は改良されたが、筆者の右腕には四つの痕が残っている。 |
ちなみに明治三年は国旗が制定され、一般姓氏が許可された年で、乗合馬車が許可 |
され、観音崎に初めて灯台が燈されたのも此の年とか。また「開花鍋」と呼んで牛肉 |
を食べ始めたのは明治五年頃とのことである。 |
地名の話になるが以前英国の「オックスフォード」を「牛津(オックスフィョルド |
)」の宛字を使っていたが、九州の長崎線に「牛津」という駅があり「うしず」と読 |
む。ところが下関から山陰線で十四番目に「特牛」と書く駅があり、こちらは「こっ |
とい」と読む。何とも不可解ではないか? |
次の丑年は平成二十一年「己丑(きちゅう)(つちのとうし)」で次の「丁丑」は |
六十年後(還暦)になるが、その頃はどんな世の中になっていることやら?何はとも |
あれ新年を迎え、吾が親愛なるOB会諸兄姉の益々の御発展と御多幸を心からお祈り |
申し上げ禿筆を措く次第である。 |
最後にお笑いを一席 |
「なんだねえ、此の頃は嫌な世の中だが平成九年だけでも、せめて後から見て良い歳 |
だったと思うようにありたいものだねえ」 |
「だいじょうぶ!ぜったいなるさ!!」 |
「どうして?そんなことはわかるもんか」 |
「だって百人一首にあるじゃねえか、『ながらえば、またこのごろやしのばれん、う |
し(丑)とみしよぞ、いまはこいしき』とね」。 |
おあとがよろしいようで・・・。(少し文学的過ぎたかな?)。 |
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(1)「共育」 |
近年「共生」という言葉は大分フアンもでき、巷間使われるようになり、環境問題 |
に人々の意識が高まるにつれてすっかり市民権を得たように思われる。筆者も今まで |
に幾つかの紙面で「共生」という言葉を幾度か俎上に乗せた記憶がある。今回は、ま |
たまた「共育」という耳慣れない言葉をご披露したい。 |
意味はなんとなく「共に育む」と書くところから、普段は対峙しているグループや |
相手が、ある共通の目的のために利害や需給を対等に論じて両者に最適、最大効果の |
ある成果を求めようとするものであるらしいとは想像がつく。筆者も確かに、幾つか |
使われている実例を文書や討論会の場で見聞きしている。筆者がこの言葉を何回か聞 |
いて、その使われ方に「最適だなあ!」「誠に意に適っているなあ!」と驚嘆したの |
は、いま流行の有機栽培の無農薬野菜の作り方をテーマにした議論の場であった。 |
即ち、折角体に良い無農薬野菜を作るに当たって、作り方が従来は生産者個人の好 |
き好きで、トマトであったり、玉葱であったり、キュウリであったり、じゃがいもで |
あったりしていた。その生産数量や種類の決定には、殆ど世間の動向が反映されてお |
らず、そのために、作っては見たものの、十分に利益を得る値段で売り切るとか、一 |
番美味しいときに、適正な数量が捌けるとは限らず、元値も取れない安値で、売り捌 |
かざるを得なくなったり、さっばり売れずに更なる値崩れを抑えるために、捨てて、 |
次の作物の肥料にするしか方法がなかったりしている例が多く見受けられた。そこで、 |
しっかりした取引先を決めて栽培に入るとか、直接最終需要者との相談の上で、出荷 |
時期を決めて野菜の種類や量を決定するとか、無農薬野菜の栽培を事業として育てて |
行こうという場合に使われ、引用された言葉であった。NHKのテレビ番組のフォー |
ラムでは、わざわざ画面の下の方に字幕でこの「共育」という文字が示されていたの |
は、いまでもはっきり思い出すことができる。 |
現在の深刻なデフレについても供給者が身勝手に大量にこれでもか、これでもかと |
ばかりに作り過ぎて、その結果もたらされた現象であると言えなくもない。需給の字 |
の示す通り、需要と供給によって取引の数量や価格、時期、タイミング、その他の条 |
件が決められることは、事の道理であり、古来からの経済の原則である。しかし、長い |
間インフレを警戒するあまり、米国のレーガン大統領や英国のサッチャー首相が専ら |
その使い手として有名になったサプライサイドの経済の影響でもあろうか、いずれの |
国においても供給者の力の方が勝って来てしまっている。別の言い方をすれば、現在 |
のデフレ現象は、デフレ対策の必要など何年も感じたことがなかったために、対策と |
しては全く逆のインフレ対策の手ばかりを打ち続けてきた結果なのかも知れない。そ |
のよって来たる所は何処であろうとも、需要の側であれ、供給の側であれ、一方的に |
自らが対峙する側の態度や考え方を変えられると考えることは、これからは少し傲慢 |
に過ぎると言うべきなのであろう。そこでやはり近代経済学の父、ケインズの説いた |
「供給が需要を喚起し、創造できる」とした考え方も確かに終焉を迎えていると見る |
べきなのであろう。 |
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(2)「渡米」日本人の依存性と自主性について |
さて、次にがらっとテーマを変えて、日本人の依存性と自主性について少し議論を |
進め、いま高校生の間に流行っている「渡米」という言葉について触れてみよう。 |
他人に寄り掛かることによって自分を保とうとする依存性の強さは、日本人に長い |
間習慣のように進められて今日に至って来た。しかし、近時若年層を中心にこのこと |
を悪癖であると率直に認め、このことが日本人の自主性の無さを招いていることに漸 |
く気付き始めているように見受けられる。若者の間ではかなり自主性を持ってことに |
当たる、或いは、他人はどうであろうと、目分は独立で動こうという気持ちが出てき |
ている。しかし、筆者がこのように感じたことが、実は次のような極端な高校生の話 |
し合いを聞き齧(かじ)ってみると、この会話の裏側にある考え方には些か眉を顰(ひ |
そ)めざるを得ない気持ちになってしまう。日本人の行動や思考方法の振れ方は両極 |
端になるとしばしば言われるが、ここに引こうとしている高校生の会話の内容もその |
典型と言えるのではなかろうか。 |
いまの高校生は卒業が近付くと、その先の進路として、次の3つを考えるそうであ |
る。 |
1)4年制大学に進む(これを彼等の省略した言葉では「四大」と言うらしい) |
2)専門学校に進む(大学に進む力には乏しいが,もう少し専門性を身に付けたい者が選 |
ぶらしい。略称して「専門」と呼ぶようだ) |
3)これらの両方に進めない者は、一部のやる気のある人は浪人をして予備校に通い、 |
翌年のチャンスに挑むが、それができない者は何はともあれ、アメリカに渡って、 |
先ずは語学学校に入って英語力を身に付け、上手く行けばアメリカの大学を卒業す |
る(この方法を彼等の流行語では「渡米」と言う)。 |
筆者がこの3つの進路に対して何ともやりきれない気持ちになるのは、これらの内の |
3番目の「渡米」が上記の1番、2番目の希望の進学ができない場合の逃げ道として、 |
いまの高校生にかなり一般的に、一種の流行のように当然視されていることである。 |
筆者にはこの考え方は、非常に卑怯で、甘いと思うからである。「英語ができないから、 |
苦手であるから、英文科には進めないし、4年制の大学にも行けない。だからアメリカ |
に行く」という発想には、筆者はどうしても付いて行くことができないし、与(く)み み |
することができない。というのも、極めてあっけらかんとしており、余りにも安易に |
過ぎているようで恐ろしさすら感じてしまうからである。自分が十二分に勉強してい |
なかった、努力しなかったという反省はあっても、その直ぐ先に、「どうにかなるさ!」 |
という安易な気持ちが続いて来るようでは、全面的に自主性があるとは言えず、全く |
別の問題だと思う。 |
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6.無 尽 (むじん) |
無尽(?)という言葉は日本では殆ど死語になっているのではないだろうか? |
昔子供の頃商店街で、なにやら四角い箱を持って各商店を回りながら、中に現金を入 |
れていたのを見たことがあるが、それを無尽といっていたような気がする。 |
無尽の会 |
今は時代が変わったが、実は、今治はこの無尽が大変 |
盛んであり、各企業、仲間、友人、知り合いなど色々な |
単位で無尽の集まりがある。内容は、グループを作り、 |
定期的に幾ばくかの金を掛け、入り用の際に資金を融通 |
するというもの。形式は様々であるが、入札制が基本で |
ある。興味深いのはその入札の規則である。 |
例えば10人の仲間で毎月1万円掛けの場合、10万円の |
掛け金をメンバーで入札を行い、一番少ない入札金額の |
人がお金を手に入れる、というのがこの無尽の仕組みとなっている。入札を面白くす |
るために、入札金額が1番高かった人や入札金額の2番目の人から罰金を取ったりし |
楽しんでいるらしい。 |
また、無尽はタダ単に金融のためだけではなく情報交換・情報収集の場として利用さ |
れメンバーの親交をあたためるとともに貴重な情報を手に入れる絶好の機会という訳 |
である。 |
今治市の有象無象の情報は無尽で伝わると言っても過言ではなく、近所の話題や業 |
界での出来事、会社の経済状態、果てはメンバーの知っている人物評までありとあら |
ゆることが無尽の場で話され、まさに地域情報の増幅機として、情報が広がっていく。 |
この無尽は、お金が急に必要になった時に活用できるため、事業主や自営業者に |
とって大変有り難いシステムである。銀行よりも早く必要な金を手に入れることが出 |
来るのがなんと言っても嬉しい。「石を投げれば社長さんに当たる」といわれるほど |
小さな会社が多い今治では無尽は欠かせないものとなっているとか。 |
もう一つ興味深いのは、実は今では常識になっている月賦販売の発祥の地も今治で |
あるということである。月賦の発想はこの無尽から思いついたというのが定説らしい。 |
桜井漆器という会社は無尽講を結成してもらい、漆器を先渡しして、掛け金を集金し |
て廻ったのが、これが日本初の月賦となったということである。 |
無尽の盛んな都市はほかにどこがあるのかを調べてみると、今治以外に山梨県甲府 |
市、福島県会津若松市が盛んだということが判った。これらの地域では、大人の男性 |
の大半が「無尽講」「積立無尽」「ゴルフ無尽」「旅行無尽」に参加し、情報交換の |
場としているらしい。 |
かつては各商店街で行われ、盛んであった無尽であるが今でも残っている地域は大 |
変少なくなっているのは金融機関の発展によるものだろうと思われるが、それによっ |
て情報交換の場、楽しみの場がなくなっていくのは寂しい限りである。 |
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7.その他 |
東京ではどこに行っても都銀があるのは当たり前であり、またコンビニに行けば24 |
時間お金の出し入れができる。私はこちらに来る前は、今治も当然そうだろうと |
思ってきたのであるが、それはとんでもない話であった。四国中探してもほんの一 |
部にしか都銀の支店はない。都銀網が整備されていないということは、つまり四国 |
では都銀は機能していないということである。中央では当たり前の金融商品も、こ |
の地方には提供されていないとなれば、伝統的な無尽の必要性がまだ残っているの |
も、なるほどと納得である。 |
その他、無尽とは関係がないようであるが、これら地方都市の共通点としては、中 |
央志向である反面排他的である、性格は明るい、交通マナーが悪いなどがあげられ |
る。これらはなるほど地方都市らしい特徴である。中央志向である反面排他的はど |
の地方都市にも共通したマインドであろう。市内には知り合いが多く、大都市に比 |
べれば、隣近所と血の通ったコミュニティーを作っており、性格は明るくて親切で |
ある。 |
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信 号 |
交通マナーの悪さは実は、 |
私にとっては意外であった。 |
今治に来て車を運転してい |
て最初に驚いた点である。 |
曲がろうとしても走ってく |
る車は絶対入れまいとして |
スピードを上げて走ってく |
る、ウインカーを出して車 |
線変更の意思表示をしていても、譲ろうとせず近づいて来る。極め付きは交差点に |
右折車がいるときのマナーの悪さである。 |
直進して交差点に入り対向車が右折しようとしている場合、もしその時信号が黄色 |
に変ったら、通常なら進めるタイミングであっても対向の右折車に気の毒と思って |
直進車は止まるのがマナーであるが、そんな気持ちは全くない。黄色は当然進む、 |
赤に変ってもまだ交差点に入ってくる、といった具合であり、右折車は結局交差す |
る車線が青になる頃にやっと右折できるという様である。 |
東京はどこに行っても渋滞が多く、皆に「少しでも交通の流れをスムーズにしよう」 |
という考えが浸透しているのだということと、「東京の交通マナーの良さは世界一」 |
ということが、こちらに来て初めて実感できた。 |
マナーの悪さというのは気の毒であるが、地方都市は車社会であり、年寄りも沢山 |
運転している。横道から割り込んできてゆっくり走っている、ウインカーを出さず |
に曲がるなどは日常茶飯事であるので、かなり神経は使う。 |
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内藤文三さん |
明けましておめでとうございます。 |
OB会の諸兄姉には増々御元気にて平成八年の新春を |
御迎えの事と大慶至極に存じます。 |
さて、今年の「干支」は「丙子」で、訓読は「ひのえ・ |
ね」、音読みは「へいし」で、つまり「五行・十干・十 |
二支」の組み合わせが「火・丙・子」となる。子は「ね |
ずみ」で、十二支の最初であり、方角では「北」、時刻 |
では夜中の「十二時〜一時」が「子の刻」となる。 |
ねずみは哺乳動物・囓歯類・ねずみ科の動物で、人間とは大変馴染み深く、昔は何 |
処の家でも天井裏や物置等に住み付いて、吾々と同居していた。囓歯類動物の門歯は |
常に伸びると言われ、食物でなくても堅い物を手当り次第囓る習性故に、人間に嫌わ |
れ、猫に追われる破目になった事は鼠にとってまことに不運である。 |
鼠に関する言葉や諺は沢山あり、「ねずみ算」「鼠講」「鼠入らず」(年齢がわか |
る?)「鼠とり」「どぶ鼠スタイル(交通事故にもかゝり易いからOBは気を付けよ |
う)」「ねずみなき(遊女の合図)」「泰山鳴動して鼠一匹」「窮鼠返って猫を噛む」 |
「風が吹けば桶屋が儲かる(鼠はかくれている)」「鼠がいなくなると災害あり」 |
等々。また鼠が登場する伽噺や物語も多い。「鼠の嫁入り」「町の鼠と田舎の鼠」 |
「町の鼠を一掃した不思議な笛吹き男の話」「雪舟が涙で畫いた鼠(新倉敷か総社に |
像がある?)」等色々あるが、小児の頃聴いた忘れられない話がある。飛騨の名工・ |
左甚五郎が修行時代師匠の命で、弟子達が鼠を彫刻し、猫に向かって一斉に投げたと |
ころ、猫は迷わず甚五郎の作品に飛びつき大いに面目を施したが、後で調べたら何と |
其の材料は鰹節だった。正に名人にして此の頓智あり!。 |
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歌舞伎にも登場する鼠 |
歌舞伎に鼠が登場するのは、例の「伊達騒動」を劇化し |
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た「伽羅仙台萩」の一場面、舞台に現れた縫ぐるみを着た |
鼠を、足で踏まえた忠臣蔵の豪傑「荒獅子男之助」が鉄扇 |
で鼠の眉間を打つ、鼠はくるくる廻って舞台中央の穴に飛 |
び込み、白煙が上がり、口に巻き物をくわえた悪党組の妖 |
術師「仁木弾正」が、迫り上がって現われ、額の疵をそっ |
と押さえる、なかなかの名場面である。 |
伝染病の「ペスト菌」は鼠が運搬すると云われており、 |
日本に初めて「ペスト菌」が上陸したのは明治二十九年で、世間は大騒ぎとなり、媒 |
体である鼠を警察が買い上げたとか?。ちなみに「北里柴三郎」が始めてペスト菌を |
発見して、世界の医学会に大偉業を樹てたのは明治二十七年、香港での事だと聞いて |
いる。病原菌の媒体として嫌われる鼠だが、その一種類の「白ねずみ」は、現在の医 |
学に欠くことの出来ない存在で、大量の鼠が人類の為に犠牲になっているのである。 |
正に人類救済の「神の使徒」とも言う可きか?。 |
昔は接岸している艦船の舫い綱には「鼠返えし」(鈍角円錐型円板)が必ず装着さ |
れていて、船と岸とを鼠が往来出来ないようにしていたが、昨今は余り見かけないし |
此の頃は鼠自体を殆ど見た事がない。『鼠がいなくなると災害が起きる』とか、すで |
に此の世の中は鼠も住めない程災害に冒されているのかも知れない。 |
子供の頃、小型の鼠(こまねずみ)を飼う事が流行して、友達から一つがい貰い、 |
母親に隠して飼っていたのが繁殖して、箱を破って家中を駆け廻り、母から大目玉を |
喰らって、泣く泣く捨てに行った事を今でも思い出す。今から七十年も前の話で、そ |
の頃の世の中は現在と比べて桁違いに貧しく不便だったが、何故か、『あの頃は良か |
ったなあ』と無性に懐かしく憶われるのは筆者の懐古趣味の為だけなのか?。 |
本年はどうか「天災」も「人災」も少ない良い年でありますよう、そしてOB会の |
皆様が御多幸でありますようお祈り申し上げ、禿筆を措く次第です。 |
平成丙子元旦 |
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年末になると、テレビに「関東の三大師・佐野厄除大師」とコマーシャルを流すの |
は惣宗寺です。現在は中心街の近くにあります。元は藤原の秀郷が平将門の平定を祈 |
願して佐野の春日岡(現在の佐野駅北側の城山公園)に、春日明神の社殿とともに建 |
てた古いお寺です。社殿の横のお寺には正月の主役元三大師を祭りました。元三大師 |
は天台宗の高僧、慈恵大師のことで、正月の三日に死んだので元三大師とも言われ、 |
また、疫病が流行したとき大師も感染し痩せ苦しみ、鬼のような姿になりました。そ |
の容貌怪異な自分の画像を門口に貼って置けば、悪霊は寄りつかぬと言ったとか、こ |
の魔除けのお札の像を見て角大師とも言われています。 |
以前、厄除は、佐野の西端、足利市岡崎山の南麓の寺岡元三大師の霊廟の方が参拝 |
客は多かったのですが、交通の便利なことと、テレビの力にはかないません。すっか |
り惣宗寺の方が有名になり、正月には露天も並び大変な賑わいになります。 |
惣宗寺 |
元三大師 |
寺岡三大師 |
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徳川家康の遺骸を久能山から日光に改葬するとき、佐野に一泊し、本多正純が法宴 |
を開いたのがこの寺で、佐野家縁故の寺の僧侶の出席が悪いと怒って、寺々を破壊し |
たことは「処々その6」で述べましたが、壊された東明寺や寺々の基礎などを集めて |
小山を造り、東明が丘と名付け、隣に小さな八幡宮を建てて祭り、秀郷の幼名・田原 |
藤太から取った田原八幡宮と命名したのも、当時の住民の精一杯の反抗だったのでし |
た。東明が丘は東武線の吉水駅の近くです。なお、惣宗寺境内にある細かい細工をし |
たお宮は、日光東照宮を模して幕末に造られたミニ東照宮です。 |
また、11月中旬には、境内で歴史ある関東菊花大会が開かれます。大輪の厚物・細 |
管・大門管・小菊の懸崖・一文字・盆栽・千輪咲き・菊人形など、数百点が研を競い |
ます。部門別に審査があり、素人の私には優劣はつけられませんが、出品者は審査の |
日まで、葉や花びらの一枚一枚までへの気の使い方は大変なものです。 |
東明が丘 |
東明寺古墳の由来 |
ミニ東照宮 |
写真提供・ 佐野市 辻 隆太 会員 |
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3.タオル業界 |
今治は日本一のタオルの産地である。歴史を遡ること100有余年、明治27年(1894 |
年)、阿部平助が綿ネル機械4台を改造し、タオルの製造をはじめたのが始まりとい |
われている。明治30年代には何人かの人達がタオル産業に参入するようになってきた |
が、当時の今治タオルは、技術が幼稚で品質も悪いものが中心であったようである。 |
明治43年(1910年)に麓常三郎が平織物用の機械をタオル織機に改造して、タオル |
を同時に二列織ることのできる麓式二列織機を考案し、効率が倍以上になった。改造 |
が簡単だったこともあり、タオル転業が増えていくことになる。 |
その後、幾多の改良開発、変遷を経て、大正10年(1922年)には、大阪に続き、タ |
オル生産高が全国第2位に成長している。設備の近代化、デザインの向上、アパレル |
製品の活用などの努力により、戦後、今治市は全国一のタオル産地となった。 |
贈答用タオル |
暫くはタオル業界の隆盛が続いたが、中国の近代化と |
工業の発展により、安いタオルが輸入されるようになり、 |
今治のタオル業界は大きな打撃を受けることになる。 |
かって戦後の日本が急速に工業発展を遂げたとき、最初 |
の日米貿易摩擦になったのも繊維関係の業界であったこ |
とを考えると、衣食住の一角を成す、繊維関係の工業は |
近代化の魁なのであろう。 |
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糸の取り扱量が6万梱(こおり)(180キロが1梱)以下になると産地が産地でな |
くなると言われているが、今治の糸の取扱量は1991年当時30万梱だったのが、現在は |
10万梱しかなくなっている。1990年に14.8パーセントだった輸入浸透率(全品のなか |
にしめる輸入品の割合)は2003年には72.2パーセントに激増し、今治のタオル関係の |
企業数は390社から185社へ、染色工場の数も最盛期は24社有ったのが10社程度に激減 |
している。従業員は6,533人から3,498人へ、生産量は48,710トンから16,239トンへと |
激減し、タオル業界は産地崩壊の危機になっている。 |
タオル会社各社は人件費の安い中国に工場を移転させ、コスト競争力をつけたり、 |
品質や納期管理での差別化で輸入品に対抗しようとしているが、業界の規模の縮小は |
否めない。 |
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4.来島海峡の魚 |
今治は愛媛県の瀬戸内海にこんもりと飛び出た高縄半島の先端にある小都市である。 |
愛媛県外の人が今治市のことをどの程度知っているか定かではないが、思いつく今治 |
のキーワードは「高校野球」「タオル」「橋が架かっている場所」といった所であろ |
う。私もかつては今治に対する知識は殆ど無かったが、世間一般には今治市の認知度 |
はそれ程高くない。愛媛県の旅行者調査によると、愛媛に旅行した人の内、今治地域 |
に旅したは人たった7.8パーセントとのこと、愛媛といえば松山、道後なのである。 |
今治市は古くから瀬戸内海の阪神と九州を結ぶ航路の中央に位置するため、商工業 |
・交通、文化の要として発展してきた。古墳時代の遺跡も沢山有り、デベロッパー泣 |
かせの地である。開発中に土器や遺跡らしきものが出土し、建設を遅らせた例も多々 |
ある。奈良時代には国府・国分寺がおかれ、戦国時代には全国に名高い村上水軍が活 |
躍した。17世紀初めには関ヶ原の戦功により藤堂高虎が20万石で封じられ、今治城が |
築かれる。江戸時代は久松家がこの地を統治し、明治時代の廃藩置県の際には今治県 |
として4ヶ月間、石鉄県として1ヶ月間、今治に県庁がおかれたこともあったが、そ |
れはつかの間の夢で、すぐに県庁は松山に移された。 |
2005年に市町村合併が行われ、周辺の町村と島嶼部が今治市に併合され、今治市の |
人口は約18万人になった。海岸部の白い砂の長い汀と緑の松林のコントラストが美し |
く、海水浴に最適。また、来島海峡の急潮の景観や中世の石造文化の遺跡、春祭の継 |
ぎ獅子など観光資源も豊富である。 |
今治出身の有名人というと、東京都庁を設計した丹下健三、オペラ歌手で日本初の |
プリマドンナ今井久仁恵、日本画家の智内兄助やイラストレーター空山基、ジャズ |
トランペッターの近藤等則、古いところでは立川文庫の創設者山田敬などがいる。 |
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今治の街並みを眺めると、料理屋の数が異様に多い。今治市と大島の間に来島海峡 |
という瀬戸内海第一の航海の難所がある。鳴門海峡に負けず劣らず、潮流が速い。 |
来島海峡の渦潮 |
春秋の大潮の時には10ノット以上の潮流となり、直径10 |
メートル以上の八幡渦が発生する。この海峡が今治市に |
料理屋が多い一因を担っている。 |
来島海峡は鯛やアコ、瀬戸の小魚を初めとする瀬戸内 |
海の美味い魚の宝庫なのである。魚は来島海峡の潮を乗 |
り切るために身体の各部を激しく動かさなくてはならな |
い。そのため、魚の身が締まる。潮に鍛えられた魚が美 |
味しくなるのは当然の理。フィットネスクラブのような |
存在が来島海峡なのである。同じ愛媛県でも南予や伊予灘、新居浜とは味が違う。県 |
内では来島の魚はブランド化している。こうした瀬戸内海の美味しい海の幸が容易に |
手に入ることが料理屋の興隆を促したのではないかと考えられる。 |
弊害もある。美味しい材料のため、料理に手を加えることをしなくなったこと。懐 |
石料理のように料理人の工夫と手技を加えることが今治では少ないのである。また、 |
刺身は新鮮な、弾力のあるものでなくては喜ばない。魚はコリコリ賭していないと駄 |
目なのである。魚を寝かせるとアミノ酸が増え、旨味が増す。しかし、今治では生簀 |
殻上げたばかり、魚の身体が動いているような活造りが尊ばれる。寿司ネタも同じで |
ある。従って、江戸前の寿司の美味しさが今治の寿司には無い。 |
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5.やきとり |
今治のもう一つの特徴は焼き鳥屋さんが多いことである。自称日本一と言っている |
が、他にも日本一と称している街もあるので、真偽のほどは定かではないが、街中に |
焼き鳥屋さんが沢山有る。今治に現在のような鉄板焼き鳥の店が誕生したのは昭和36 |
年頃のようである。旭町にある「五味鳥」が元祖らしい。以前から、せんざんき(今 |
治では鳥のから揚げをこう呼ぶ)で有名な「スター」という店があったが、そこは焼 |
き鳥はメインではなかった。「五味鳥」が新しい発想で焼き鳥店を始めるまでは、焼 |
き鳥を中心に営業していた店はなかった。焼き鳥を鉄板 |
美味しいやきとり |
で焼くというアイデアは、定説を翻すという意味で、天 |
動説の定説を翻し、地動説を唱えたコペルニクス的発想 |
と言えるかもしれない。このように「五味鳥」は偉大な |
アイデアと味を今治にもたらした。炭焼や直焼だと時間 |
がかかるが、鉄板で焼くとお客へのメニュー提供時間が |
短くできる。しかも、個性的で美味しい、ということで |
爆発的な人気を呼んだ。当時、「五味鳥」の前には人の |
列がとぎれることがなかったという伝説がある。 |
今治は昭和初期から立花村・日高村などで養鶏が盛んだった。昭和30年に3万羽だ |
った飼育数が昭和45年には5倍強の16万羽に達している。昭和35年頃からブロイラー |
の生産が始まっている。こうした今治市の環境が焼き鳥屋の美味しい食材の確保に役 |
だった。 |
「五味鳥」の人気に刺激され、続々と鉄板焼き鳥屋が誕生した。設備投資が少なく |
て済み、特別の技術がいらない焼き鳥屋は素人でも参入しやすかった。当時誕生した |
店は「八味鳥」「百味鳥」など「五味鳥」を参考にしたネーミングが多かった。各々 |
の焼き鳥店が味と個性に研鑽を重ね、昭和40年代には「五味鳥」「無味」「八味鳥」 |
「鳥林」が焼き鳥四天王と称された。それぞれが独特の味を持ち、店の個性を全面に |
出してサラリーマンや自営の人たちの憩いの場となっている。 |
老舗といわれる鉄板焼き鳥屋では、長い歴史を感じる店舗のたたずまいと焼き方、 |
そして店主の味のある対応振りや人柄で根強いファンを獲得している。若い人たちの |
来店も多い。同じことをずっとやってきた人は強いし、個性的だ。40年の歴史を通じ |
て発展してきた今治の焼き鳥は時代の流れにどの様に対応していくのであろうか、今 |
後が楽しみである。 |