| | | |
2.高齢ながらグレート・リセットに挑戦して |
ある評論家によれば、広く世界中で大袈裟に価値観のコペルニクス的転換が必要で |
あると説き、グレート・リセットの必要を叫ばれているが、日本でも確かに多くの人 |
々が、コロナ禍を経て仕事や住んでいる環境、隣近所や職場での人間関係に微妙な違 |
和感を覚え、何等かの変更、特に変革を求める声が上がっている。 |
一つの価値観は大きな枠組みの中で培われるものでしょうから、例えば根幹の資本 |
主義の姿が変わるとか、他の主義に大きく変わるようなら、従来の価値観に大小の差 |
はあっても居心地悪い違和感を抱くようになり、自然に枠の中からはみ出したいとか、 |
もう少し違う次元の空気を吸いたいと思うようになるものだろう。この変革のトラン |
ジションの中で、気付けば筆者も一緒になって考えを巡らせてしまった。 |
筆者は特に昨今、他人の行動や言動、話の中身を見抜き難くなってきたよう思い、 |
一寸した息苦しさを覚えている。本来なら単純に分かり易くなっていると思いきや、 |
逆に複雑に相反するものが正反同居しているように感じてならない。多分思考や意思 |
伝達の過程でいろいろなデジタル化されたコミュニケーション手段が介在するために、 |
それらに影響されて、逆にしっかりした自分自身の考え方が確立・定着できない難し |
い環境に晒されている影響かも知れないと思っている。 |
| | | |
すでに3大日本史ミステリーとして、【古代篇】邪馬台国はどこにあったか、 |
【戦国篇】「本能寺の変」の真意は何だったのか、の二つのテーマをホームページで |
発表させていただいた。残る3つ目は幕末における「坂本龍馬暗殺」の謎である。 |
|
【幕末篇】坂本龍馬暗殺の黒幕は誰だったのか |
|
1.はじめに |
坂本龍馬(さかもとりょうま、1835〜1867)は日本史 |
坂本龍馬 |
上でも常に1,2を争う人気があり、小説やTVドラマな |
どでよく取り上げられる。新しい日本の夜明けを夢見て、 |
この国を「せんたくする」ため奔走したその生きざまに |
多くのひとが喝采する。32年という短い人生にもかかわ |
らず、人を引き付ける何かを持っているのだ。日本の歴 |
史が大きく転換する幕末・維新にあって、脱藩した一浪 |
士の身でありながら、最後の2年間で薩長同盟と大政奉 |
還という大きな事績に重要な役割を果たした。作家の司馬遼太郎は、長編歴史小説 |
『竜馬がゆく』の「あとがき」の中で、「日本史が坂本龍馬を持ったことはそれ自体 |
が奇跡であった。なぜなら天がこの奇跡的人物を恵まなかったならば歴史はあるいは |
変わっていたのではないか」と、いかにも作家らしい書き方で述べている。その龍馬 |
を暗殺したのは一体だれだったのか、そして何のために?近年までその真相は謎を秘 |
めたままだった。いや、もしかするといまだに謎は完全に解消されていないのかもし |
れない。 |
| | | |
2.生涯と事績 |
龍馬は1835年(天保6)土佐藩(現・高知県)の、郷士という下級武士の次男とし |
て生まれた。19歳のとき、剣術修行を目的に江戸へ行き、北辰一刀流の桶町千葉道場 |
(館主・千葉定吉)で修業し、のちに道場の塾頭までになる。そのころ、浦賀に来航 |
したペリーの黒船を見て大きな衝撃を受ける。当時の龍馬は、外国人を追い払うとい |
う攘夷思想にかぶれていた。一方、中浜万次郎(ジョン万次郎)から情報収集した河 |
田小龍(しょうりょう)や先覚者の佐久間象山(しょうざん)に師事し、海外の知識 |
などを学んだ。2度にわたる江戸遊学で、いわゆる幕藩体制(幕府と各藩による封建 |
的政治体制)に縛られない理想を求め、28歳のとき脱藩を決意。そのころ、“生涯の |
師”と仰ぐ勝麟太郎(海舟)に出会い、その門下生になる。勝の神戸海軍操練所の立 |
上げに尽力、龍馬の海への夢が広がるとともに、龍馬の「海軍構想」が生まれるきっ |
かけとなる。31歳のとき、「亀山社中」を立ち上げ、新式銃を調達して薩摩藩(現・ |
鹿児島県)を支援する。薩摩は対英戦争後、龍馬の支援を必要としていた。幕長戦争 |
中の長州藩(現・山口県)も新式銃などを必要としており、龍馬の支援を必要として |
いた。禁門の変では敵味方に分かれ戦ったりして犬猿の仲の薩摩藩と長州藩だったが、 |
1866年(慶応2)両藩を結びつける、いわゆる「薩長同盟」の密約で龍馬は重要な役 |
目を果たした。長州の桂小五郎(木戸孝允、たかよし)と薩摩の小松帯刀(たてわき) |
・西郷吉之助(隆盛)との仲介役を務めたのである。これは幕府に対抗できる強力な |
軍事力を結集し、「倒幕」という目的を達成するための大きな一歩となった。龍馬の |
交渉力と信用力は土佐藩の支援も得ることができ、1867年(慶応3)、私設海軍と海 |
運業を兼ねた「海援隊」を亀山社中から発展させた。 |
1867年(慶応3)は、33歳になった龍馬にとって活躍の絶頂期であるとともに、悲劇 |
の年でもあった。この年、龍馬は大政奉還(政権を幕府から天皇へ返上すること)の |
構想を立案し、土佐藩の前藩主、山内容堂の名義で同藩の重臣(参政)後藤象二郎に |
交渉を任せて、十五代将軍の徳川慶喜に献策し、その念願を果たしたのである。それ |
は欧米列強と対等の近代国家を目指すという、龍馬の壮大な夢の実現への大きな一歩 |
となった。また龍馬には、船の上で考えたといわれる「船中八策」という政策案があ |
り、それをもとに「新政府綱領八策」という政治構想を考えており、議会の開設や憲 |
法制定などを策定していた。その趣旨は明治新政府の五箇条の御誓文にも影響を与え |
たといわれる。龍馬がこのような構想を描くに至った背景には、多くの有能な人脈に |
接して影響を受けた結果といわれる。例えば、思想家の河田小龍、海軍構想では幕臣 |
の勝海舟、国家体制の先覚者・横井小楠(しょうなん)、開明的な幕吏・大久保一翁 |
(いちおう)などである。徳川慶喜が在京40藩の重臣を二条城に招集し、大政奉還を |
告げたのが10月13日、龍馬が暗殺されるのはその翌月の11月15日のことである。その |
日、京都「近江屋」(醤油商)にいた龍馬を、同志で陸援隊隊長の中岡慎太郎が訪ね |
る。午後9時ごろ、数人の刺客たちが近江屋の軒下に立った。2階の二人に知らせよう |
とした近江屋の下僕、藤吉を斬った刺客たちは階段を上って二人を襲う。そのあと惨 |
劇は行われ、深手を負った龍馬はその日のうちに絶命、中岡のほうは2日後に死んだ。 |
| | | |
3.暗殺の実行犯各説 |
歴史学者の磯田道史氏は「坂本龍馬の暗殺は日本の歴史の中では最大のミステリー |
とされている」と述べている。その暗殺者が一体誰だったのか、その問題について諸 |
説が唱えられてきた。以下、四つの主な説について述べたい。 |
(1)新選組説 |
最初に犯人として疑われたのは、佐幕派の新選組だった。新選組説は事件後も長い |
間信じられていたようだ。新選組は京都守護職の松平容保(会津藩主)預かりの、京 |
都の治安を担当する幕府の警察組織であり、1864年(元治1)の池田屋事件では、京 |
都を戦乱に巻き込もうという急進的な尊王攘夷派の多くの志士を殺傷し、一躍名を挙 |
げた。龍馬が暗殺された近江屋に残された下駄が新選組のものであると疑われ、また |
遺留品の刀の鞘が新選組隊士の原田左之助のものらしいということになった。しかも |
翌日まだ生存していた中岡慎太郎が、「こなくそ」という伊予弁を聞いたというので、 |
伊予出身の原田が疑われた。しかし、刀の鞘は同じ幕府の治安組織である京都見廻組 |
の遺留品という説もあり、「こなくそ」と言ったという証言も意識朦朧の中岡による |
というので、どちらも信ぴょう性は低いものとされた。のちに下総流山で新選組局長 |
の近藤勇が降伏し、板橋の刑場で斬首された時も、近藤は最後まで否定した。新政府 |
軍の中では新選組説が信じられており、谷干城(たてき、かんじょう、西南戦争では |
熊本城守将として西郷軍の猛攻を守り抜いた。陸軍中将、農省務大臣)なども生涯新 |
選組説を信じていたといわれる。 |
(2)紀州藩説 |
1867年(慶応3)4月、鞆の浦沖10qの沖合で「いろは丸事件」が起こった。龍馬 |
が指揮する海援隊が四国の大洲藩(おおずはん)から借用していた「いろは丸」とい |
う蒸気船が紀州藩の「明光丸」と衝突し、いろは丸が沈没したのである。紀州藩とい |
えば、紀州徳川家55万石の大藩、明光丸はトン数ではいろは丸の約6倍の大型蒸気船 |
だった。明光丸の船長との交渉で、龍馬は「万国公法」を盾にして明光丸の違法航法 |
を指摘し、紀州藩に8万両の賠償金を支払わせた。紀州藩の交渉担当者は罷免・謹慎 |
されるという屈辱を与えられたという。この事件の後日談で、海底に沈んだいろは丸 |
の積荷を調べたところ、龍馬が賠償を求めた新式銃や大金は積んでいなかったとされ |
る。また、龍馬が主張した事故当日のいろは丸の航法は、むしろ回避義務を怠ってい |
たという説もある。いずれにしても龍馬の巧みな交渉術が功を奏した。この事件は尾 |
を引いて、紀州藩の中には龍馬暗殺を企てた過激な藩士もいたという。一方、龍馬と |
中岡が暗殺された後、龍馬の片腕だった陸奥陽之助(宗光、後の外務大臣)らの海援 |
隊士が陸援隊士とともに紀州藩犯人説を信じて、紀州藩公用人の三浦休太郎を襲撃し、 |
三浦を護衛する新選組との間に抗争が起こっている(天満屋事件)。 |
(3)土佐藩説 |
土佐藩の重臣(参政)後藤象二郎が大政奉還の功名を独り占めするため、龍馬を暗 |
殺したという説である。土佐藩については複雑な因縁が絡むので、少し説明を要する。 |
前藩主の山内容堂は基本的には佐幕派(幕府中心の政治思想)であり、土佐藩として |
の立場は公武合体思想(朝廷と幕府が協力する体制)であった。一方、後藤象二郎は、 |
尊王攘夷思想の土佐勤王党の武市半平太(たけち)の一派が暗殺した土佐藩重臣(参 |
政)・吉田東洋の義理の甥にあたり、吉田の塾で学んだりした恩がある。龍馬は当初 |
は武市の土佐勤王党に加盟していたので、後藤にとって龍馬は叔父の仇敵の一派とも |
考えられる。そのような怨恨ではないとしても、土佐藩が政局のキャスティングボー |
ドになれる可能性があり、後藤の知り合いである会津藩の重臣(後述する手代木勝任) |
を通じて見廻組に指示したという説もある。しかし、この説を決定づける史料はない。 |
実際には、後藤と龍馬は長崎で出会って以来良好な関係にあり、龍馬にとって後藤は |
山内容堂による後ろ盾には必要な人物であり、直接徳川慶喜に建白できる気概を持っ |
た人材として必要だった。また、後藤にとっても龍馬は多くの人脈を通じた情報収集 |
や根回し、大政奉還後の新体制構想などに欠かせない存在であり、お互いに必要不可 |
欠な存在だった。 |
(4)薩摩藩説 |
幕末における薩摩藩は、藩主島津久光が当初公武合体運動で兵を率いて上京したり |
している。一方、藩の家老小松帯刀はじめ、藩士の西郷吉之助や大久保一蔵(利通) |
らは本質的には討幕派であり、大政奉還で日本の政治体制が収まれば徳川家中心にな |
る懸念を持っていた。そこで、大政奉還を進めた龍馬や中岡が邪魔になったから抹殺 |
した、という説である。しかし、薩摩藩は大政奉還には同意していたというのが実態 |
だった。イメージとして、確かに薩摩藩には示現流という剣術の達人が多く、中でも |
西郷に心酔していた「人斬り半次郎」こと、中村半次郎(桐野利秋、のち陸軍少将) |
のような剣客もいたので過激派が暗躍したように思われがちだが、西郷をはじめ薩摩 |
藩士は龍馬の活動に協力的だった。中村などは龍馬が寺田屋事件で負傷すると、毎日 |
見舞いに行ったというほどである。また、大政奉還を進めた龍馬は、必ずしもそれが |
平和裏に収まるとは思ってはおらず、基本的には武力倒幕の覚悟を持っていたという。 |
徳川慶喜に建白した後藤象二郎が無事に戻らなければ、土佐藩に新式銃を持ち込み藩 |
の兵を動かして一戦を交え、自ら海援隊を率いて慶喜を襲撃するくらいの覚悟を持っ |
ていたという。 |
| | | |
4.実行犯の証言 |
誰が坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのか。謎に包まれて諸説が唱えられている中 |
で、有力な証言が現れた。口火を切ったのは、新選組で「人斬り鍬次郎」と呼ばれた |
大石鍬次郎の証言だった。大石は御陵衛士(ごりょうえじ、高台寺党)の盟主・伊藤 |
甲子太郎(かしたろう)らを襲ったり(油小路事件)、海援隊や陸援隊と争ったり |
(前述の天満屋事件)する修羅場では必ず参加している(御陵衛士とは、新選組の参 |
謀だった伊東が新選組で内部対立して分派行動をし、孝明天皇陵をまもるという名目 |
で結成した組織)。大石が甲州で官軍に敗れ板橋で捕縛されたとき、龍馬暗殺は見廻 |
組によるものだったことを初めて明かした。見廻組は新選組同様、幕府が京都治安の |
目的で結成された特別警察部隊。新選組が浪士による組織であるのに対して、見廻組 |
は旗本の次男・三男などで組織されていた。与頭(くみがしら)は佐々木只三郎(唯 |
三郎)で、講武所で剣術指南をしていた剣客である。佐々木は、文久3年(1863)4月 |
に麻布一の橋で尊王攘夷派の策謀家といわれた清川八郎を暗殺している。それ以前の |
ことだが、清川は関東で浪士団を結成して上洛した。佐幕派の近藤勇らの一派が分裂 |
して京都に残り、その一派が浪士組で、のちに新選組を名乗って京都の治安を担当す |
ることになる。見廻組隊は、慶応4年(1868)1月に起こった鳥羽・伏見の戦いで先鋒 |
を務め、隊士の多くは戦死し、佐々木も敗走する途中で死んでいるので、真相は明ら |
かになることはなかった。ところが、見廻組の生き残りがいた。 |
その一人が今井信郎、函館(箱館)戦争で降伏した榎本 |
今井信郎 |
武揚(たけあき)率いる旧幕軍の将校の一人だった。そ |
の今井が降伏後、尋問に対して坂本龍馬暗殺の下手人の |
一人だったことを供述したのである。これで龍馬と中岡 |
を殺害した刺客団が見廻組であったことが明確になった。 |
今井は供述の中で、襲撃した隊士は佐々木只三郎、今井 |
信郎、桂隼(早)之助、渡辺吉太郎(一郎)、高橋安次 |
郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の7名であり、自身は龍馬た |
ちを襲ったとき見張り役だったと言ったので、軽い判決だったという。今井が生存者 |
をかばうため、戦死者ばかりの名を挙げた可能性もあり、のちに刺客団の一人として |
渡辺篤の名をあげ、渡辺自身も後年自供した。では一体、誰が近江屋の2階へ上がって |
龍馬と中岡を斬ったのか。龍馬自身は生涯刀剣で人を斬ったことはないが、北辰一刀 |
流の桶町千葉道場で塾頭を務めたほどの剣客、常に佩刀の陸奥守吉行を手元に置いて |
いた。だが、龍馬に油断があった。近江屋の2階は勾配のある天井で、長い刀は使い |
にくく、刺客は小太刀(脇差)を使ったという。今でも東山にある「霊山歴史館」に |
龍馬を斬った刀(脇差し)が残されており、刀身は424pである。見廻組の中で誰が |
直接龍馬を斬ったかと問われれば、小太刀の名手とされる桂早之介がまず疑われる。 |
また、今井が名を隠していた渡辺篤は大正まで生存したが、死の直前に自供した。渡 |
辺は京都で町道場を営んでいた一刀流の剣客である。今井自身も直心影流の榊原健吉 |
に学び、講武所師範代を務めるほどの剣の達人だった。自らの名を自供しなかったが、 |
有力な容疑者の一人である。 |
| | | |
5.暗殺の黒幕と目的 |
近江屋で龍馬と中岡を襲った刺客団は、京都見廻組の与頭・佐々木只三郎以下、7 |
〜8人の隊士たちだった。彼らは実行犯であり、だれが指示役としての黒幕だったの |
か。そこで真っ先に疑われるのは、見廻組を支配していた京都守護職の松平容保(か |
たもり、会津藩主)ということになる。前述の今井信郎による供述の中に、「会津の |
殿様の御指図だった」という一言も残されている。佐幕派の中心である容保にとって、 |
薩長同盟で仲介し、大政奉還の火付け役となった龍馬たちが許せなかった。「寺田屋 |
事件」というのがある。龍馬が薩長同盟の仲立ちを務めたのち、1866年(慶応2)1月、 |
伏見寺田屋に三吉慎蔵といるところを伏見奉行所の捕方約百人に襲われたとき、龍馬 |
がピストルで捕方一人を撃ち殺して逃亡した事件である。しかも、龍馬がそのとき残 |
した重要な書類を押収され、幕府としては龍馬を「お尋ね者」として手配した可能性 |
がある。京都所司代を務めていた容保の弟、松平定敬(さだあき、桑名藩主)の所轄 |
の事件でもある。佐々木はもともと会津藩士であり、その兄、手代木勝任(てしろぎ |
かつとう)が会津藩の公用人であり、弟の佐々木と打ち合わせた可能性がある。 |
磯田氏も龍馬暗殺のキーパーソンは手代木としている( |
手代木勝任 |
『竜馬史』)。手代木は死の直前に龍馬を殺したのは弟 |
だったと証言しているのだ。会津藩預かりの新選組や見 |
廻組の世話役が手代木で、選んだ実行役が新選組でなく |
弟の指揮する見廻組だったのは、当然の成り行きだった |
とみるべきであろう。最も疑われた新選組の近藤勇が、 |
処刑されるまで龍馬暗殺は自分たちではなかった、と供 |
述していたのは当然のことだった。 |
| | | |
磯田氏によれば、「龍馬が人並み外れた求心力を持ち、数々の大胆な周旋を可能に |
したのも、彼の公明正大さ、明るさ、警戒心のなさ、無邪気さによるによるところが |
大きいのは間違いない」(『龍馬史』)と述べている。この中の「警戒心のなさ」が |
命取りになってしまった。大政奉還にあたって、龍馬が幕府側の窓口として頻繁に出 |
入りしていたのは永井尚志(なおゆき、玄蕃頭)であり、永井の下宿の隣にあった寺 |
には佐々木只三郎が下宿していたという。龍馬の身が危険というので、後藤象二郎が |
近江屋の近くにあった土佐藩邸に滞在するよう忠告しても、自由人として生きる龍馬 |
は耳を貸さなかったという。幕府の大久保一翁までが気を付けるよう忠告したという |
話まである。「われ死するときは命を天に返し、死をおそるるなかれ」が龍馬の死生 |
観だった。さて、龍馬とはどんな人物だったのか。若いころの手記に、「世に活物( |
いきもの)たるもの、みな衆生(しゅじょう)なれば、いずれを上下とも定めがたし、 |
今上の活動にてはただ我をもって最上とすべし」と書いたように、基本は個人主義だ |
った。幕末の日本は混乱しており、攘夷・尊王(勤皇)・佐幕・開国、さらに公武合 |
体などの思想が入り乱れていた。当初は土佐勤王党の尊王攘夷派だった龍馬は、脱藩 |
して多くの師に出会い、国際的な見識を広めていく。前述した河田小龍、勝海舟、横 |
井小楠、大久保一翁らである。やがて龍馬の中で結晶したのが幕藩体制でない新しい |
国家の姿、欧米列強と対等の政治体制、「新政府綱領八策」だった。維新の三傑とい |
われる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允でさえ、倒幕後の国家体制について具体的な |
ビジョンを持っていなかったのではないだろうか。驚くことに、龍馬はその各閣僚の |
候補名まで策案しているのである。その中で、「○○〇自ら盟主となす」という部分 |
がある。龍馬が名を隠したその盟主案が、大政奉還の英断を下した徳川慶喜だったの |
ではないか、と推量する人が多い。朝廷側で推量すれば、公卿代表の三条実美(さね |
とみ)あたりではないかともいわれているが、こればかりは永遠の謎である。 |
| | | |
この裏技は十進法のもつ性質を利用している。そこで、以下2つの十進二桁の数a |
とbを次式: a≡10a1 + a0,(a1,a0=0,1,2,・・・,9) , (1) |
b≡10b1 + b0,(b1,b0=0,1,2,・・・,9) , (2) |
で表すことにする。したがって、a=72 なら a1=7、a0=2 で b=90 なら b1=9、b0=0 |
である。 |
・技 T:a1=b1=1 のケース |
ab=(10a1+a0)(10b1+b0) |
=(10+a0)(10+b0) , ∵ a1=1,b1=1 |
=10^2+10a0+10b0+a0b0 |
=10(10+a0+b0)+a0b0 |
=10(a+b0)+a0b0 ∵ 10+a0=a , (3) |
したがって、次のように暗算できる。 |
ex1. |
ex2. |
ex3. |