話 題 『 よもやま話 』-5 2007年8月〜2007年12月
 
          話  題  一  覧
2007.12. 9  佐野処々(その13)“佐野の産業”    投稿;真木守俊
2007.11.25  四国・今治の紹介(第1話 その1)    投稿:三浦弘幸
2007.11.20  三途の川紅葉狩り余談           投稿:清水有道
2007.11.18  佐野処々(その12)“越名・馬門河岸”  投稿;真木守俊
2007.10.28  佐野処々(その11)“簗・陶芸”      投稿;真木守俊
2007.10. 7  佐野処々(その10)“秋は楽しく”    投稿:真木守俊
2007. 9.15  佐野処々(その9)“天明鋳物”      投稿:真木守俊
2007. 8.26  佐野処々(その8)“秋口には”      投稿:真木守俊
2007. 8. 5  佐野処々(その7)“お盆のころ”     投稿:真木守俊
 

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          話  題  『 よもやま話 』
2007.12. 9 佐野処々(その13)“佐野の産業” 
 
 佐野処々(その13)“佐野の産業”  横浜市 真木 守俊
 
 明治の中期、近代産業が進展すると、佐野を始め両毛線の沿線・足利、桐生、伊勢
崎などは養蚕・織物とその関連産業で発展しました。
 戦後、戦災を受けなかった佐野は、いち早く織機のガチャ万景気の恩恵を受けまし
たが、化学繊維の出現で長続きせず、縫製やひな人形、鯉織りなどの歳物産業も小規
模にとどまりました。
 一方、京浜間は復興景気、五輪景気で人手不足、地方の若手は続々と京浜地区に流
出しました。そんなとき、首都圏整備法が施行され、京浜間の工場は増改築が禁止さ
れます。企業は地方への進出を計画し、地方都市は企業誘致のため工業団地の造成を
競いました。佐野市の東部に100万平方メートルの団地を造り、五輪後の昭和42年こ
ろに漸く完成しました。
 
写真(1)織物産業の跡
写真(1)織物産業の跡
写真(2)佐野工場草創期
写真(2)佐野工場草創期
写真(3)現在の佐野工場
写真(3)現在の佐野工場
 
 東京計器は、昭和43年3月に購入契約を完了し、12月には先頭を切って第1期工場
が完成し、地元の多大な期待の中で開所式を開いたのですが、反面、その影響を懸念
する声も多くありましたが、自動車産業・カラーテレビ産業を軸とする岩戸景気の発
端と合致し、初年度からフル操業に入れた幸運に恵まれました。
 その後、団地には電機・自動車・機械・食品等の工場が相次いで進出し、佐野市の
財政の基盤になっております。
 昭和47年に東北自動車道が開通し、物流産業が新しく進出したことは、佐野処々
(その4)で述べました。これら進出企業は最新の設備と手法を用いますが、伝統を
堅く守って発展している地場産業もあります。日本酒醸造業です。
 佐野には豊富で良質な地下水があります。「第一酒造」は330年の伝統があり、栃
木県では一番古い会社です。前社長は長らく商工会議所の会頭をされた人望のある方
でした。工場の見学をお願いしたとき、日本酒造の各工程を詳しく案内された後、
「いろいろ新しい設備や新しい手法等試みますが、最後は人の「ベロ(舌)メーター
です」と言われましたが、含蓄ある言葉と思いました。10年程前から高級酒に限定し、
小口製法に磨きをかけ、客先の好みに応じた酒・季節限定の酒等、地元中心に売り出
し、更に成長しております。ここの銘酒、「開華」を短期間でしたが蒲田の購買会で
販売しました。仕事が終った後、購買会のカウンターで一杯引っ掛けて、ご機嫌で家
路につかれた経験をお持ちの方もおられるでしょう。
 
写真(4)第一酒造正門
写真(4)第一酒造正門
写真(5)第一酒造の看板娘
写真(5)第一酒造の看板娘
写真(6)佐野の昔が残る町並み
写真(6)佐野の昔が残る町並み
 
 (写真説明)
写真1:織物産業風景(現在佐野市内には縫製工場跡があり、その他は個人の内職に
    変わってしまいました)
写真2:佐野工場草創期の航空写真です。
写真3:同じような角度から現在の佐野工場を撮ったものです。
写真4:第1酒造の正門です。
写真5:“美味しいお酒を召し上がれ”第1酒造の娘さんです。
写真6:佐野の昔の写真はいろいろありますが、今も昭和初期を伝える町並みをゲッ
    トしました。
 
                写真提供・写真説明 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007.11.25 三浦  四国・今治の紹介(第1話 その1)
 
 四国・今治の紹介(その1)  新潟市 三浦 弘幸
 
             ≪はじめに≫
 
三浦さん(クライネシャイデックにて)
三浦さん(クライネシャイデックにて)
 私は昭和43年(1968)4月に東京計器製造所に入社し、
電子機器部レーダー検査課に配属されました。
 その後、研究所、トーテックを経て、企画室に配属さ
れ、平成2年(1990年)バブル絶頂期に空調の子会社
トキメックランディスギア(後のトキメックビルシステ
ム)に出向いたしました。
 バブルの崩壊など苦しい時期がありましたが、何とか
会社を再建させ、2000年にトキメックビルシステムが松
下電工に譲渡され、新しい会社に生まれ変わりました。私は2001年に同社を退職し、
曲折がありましたが、2002年10月から愛媛県今治市に本社のある四国溶材鰍ノ勤務し、
社員の能力開発のシステム作りを担当いたしました。同社には4年5ヶ月在職いたし
ましたが、62歳になったのを期に2007年2月末退職いたしました。
 OB会の各位にはトキメック在職中大変お世話になり、有難うございました。
 四国は私にとってほとんど縁のなかった場所であり、右も左も判らなかったのです
が、住めば都で今では今治にいた4年5ヶ月を大変懐かしく感じています。たまたま
今治市にはトキメックの今治営業所があり、現職の方々とも交流を図ることが出来ま
した。トキメックOBの重鎮大滝さんをはじめ沢山のトキメック時代の知人が今治を
訪ねて頂き楽しい時間を持つことが出来き大変感激いたしました。
 トキメックの社員、OB会の皆様にも今治勤務経験者や今治地区出身の方がいらっ
しゃいます。私はまったくの偶然で今治勤務をした訳ですが、たまたま縁があって生
活をした今治という街を皆様にご紹介いたしたく寄稿させていただきました。
 
 第1話では今治という街がどんな街なのかを若干の主観を入れてご紹介します。
 第2話は今治がどんなに観光地としてのポテンシャルを持った街であるかというこ
とを私の体験を基にしてご紹介いたします。一旦小説としてまとめたものをトキメッ
クOB会向けに編集いたしましたので、まとまりの悪いところ、重複などあると思い
ますがご容赦ください。
 私は四国溶材を退職後、縁があり、2007年4月から新潟市に本社のあります、ジェ
イメディカル鰍ノ入社し、現在、会社の改革に取り組んでいます。
 
  ≪第1話≫今治はどんな特徴を持った街なのか(その1) 
 
1.四国の要衡:今治
 
今治城
今治城
 今治市は愛媛県の県庁の所在地である松山市の東に位
置し、瀬戸内海に大きく飛び出ている高縄半島の先端に
ある街である。廃藩置県の直後には今治県という県が置
かれ、県庁所在地であったが、その後、愛媛県となり、
松山市が県庁所在地となった。
 今治市は瀬戸内海の中央に位置し、古くから海運で栄
えた街である。瀬戸内海といえば潮の満ち干の激しさと
渦潮が有名である。特に四国の今治から本州の尾道にか
けての瀬戸内海は中小の島が点在し、その複雑な地形の織り成す複雑な潮の流れがあ
り、昔から航海の難所として有名である。そういった地理的条件の中で村上水軍や越
智水軍といった海を取り締まる領主が存在していたことは良く知られている。
 話しは横道にそれるが、この地には越智、村上といった姓の人が多い。病院に行く
とカルテを整理する棚があるが、そこを見ると「アイウエオカキクケコ」のように苗
字の頭文字が棚に一文字づつ書かれているが、なんと「アイウエオ」の「オ」の次が
「カ」ではなく「越智」となっている。
 また、街で男の人に会うと社長と思えといわれるくらい社長の多い街でもある。そ
の理由は古くから海運が栄え、造船所も多かったため、自分で船を作り、それを用船
するという商売が生まれ、船を一杯作るたびに会社を作り、社長が誕生していく、と
いうものである。さすがに金融の街といわれるだけあって、その面目躍如たるものが
ある。
 また今治という街は「本四架橋」の内の一つ「西瀬戸道路」(通称、しまなみ海道)
の四国側の玄関口である。この街の主要な産業はというと日本一のタオルの生産であ
り、また造船(これも多分日本一になっていると思われる)である。
 
2.造船
 
 今治に来て初めて判ったことであったが、造船業界が 進水式
進水式
大変な活況である。造船は重厚長大を代表する産業であ
り、かつては大手も参入し、日本の基幹産業であったが、
何度かの造船不況を経て、また韓国などの新興国の台頭
もあり、かつての造船大手は次々と業界から撤退して
いった。今やその大手を凌駕し、世界を代表する造船会
社が今治にある。
 安い労働力を確保し、積極的な設備投資を行うことに
よって韓国などとの国際競争力もつき、造船王国復活の様相である。近年の中国の急
速な経済成長は北京オリンピック開催の決定で益々弾みがつき、世界の工場と化した
中国から全世界への荷動きは急速に増加している。新造船建設の需要は高く、各造船
会社のドックは3〜5年は満杯であるとのこと。東京にいては判らない今治という地
方都市における特需景気に驚いた。
 造船は所有しているドックの数で生産量(売上高)が決まる。瀬戸内、特に今治は
島が多く、結果として海に面している面積が多いので、造船にてきした所であり、多
くの中小造船所が集まっている場所である。大手の造船所は受注した仕事を早くこな
すため、近辺の中小の造船所を買収し、ドックの数を増やしている。このことは結果
として地域の経済を活性化させているはずである。
 かつて私が若い頃一度だけ四国に行ったことがあるが、そのとき訪問した造船所は、
その後、幾多の変遷を経て、新経営体制のもと、思い出の残る同じ場所で今治造船会
社として、もう一つの雄として生まれ変わっていた。
 造船会社を主な顧客としていたが、私の入社時に77億円の売上規模の会社であっ
たが、毎年増収増益を重ね、5年後の退職時はなんと年商150億円にまで成長した
のである。
 
2007.11.20 清水 三途の川紅葉狩り余談
 
 三途川紅葉狩り余談  横浜市 清水 有道
 
 三途川を渡り損ね、紅葉だけを見て帰ってきましたので、あの世には行かずに済み
ました。
 いきなり突飛もない書き出しになりましたが、要は2007年10月末にトキメッ
ク旧国際部OBで秋田に2泊3日の紅葉狩りを楽しんだ折の余話を綴りたかったから
なのです。宮城、岩手および秋田の3県に跨る名峰・栗駒山(岩手の人は須川岳と呼
んでいます)の秋田側の山麓に小安温泉郷がありますが、その近くに4〜5軒の昔な
がらの宿が固まっている泥湯温泉があります。その中の老舗の奥山旅館に宿を取りま
した。この地は富山の立山、青森の恐山と共に日本の三大霊山と言われる川原毛地獄
で有名な場所であり、今も盛んに有毒な硫化水素ガスを吹き上げています。この地獄
の入り口にその名も「三途川」という渓谷があり、紅葉の時期ともなれば大変な賑わ
いを見せます。三途川に懸かる橋は渓谷から70〜80 川原毛地獄
川原毛地獄 風景
mもの高さにあり、この橋から真下の川面を見れば、胸
もすくむ思いがします。渓谷を包む両岸の紅葉はけだし
圧巻でした。橋の上は、紅葉を背景に写真に納まりたい
人々でいっぱいです。
 日本を代表する霊山であり、恐れ多くも三途川を名乗
るくらいの地であれば、名刹の1つや2つはあろうと期
待して訪ねましたが、ガイドブックに登場するような寺
 
院はありませんでした。鎌倉の円応寺のように、中国か 川原毛地獄 左から横山秀雄・平岡善久・新免雅彦・杉山ヨ久の諸氏
川原毛地獄 左から横山秀雄・平岡善久・新免雅彦・杉山ヨ久の諸氏
ら渡来した十王信仰に基づく閻魔王、初江王などの冥府、
冥界を裁く十王像に加えて、亡者が三途川を渡る際に、
ほとりにいて亡者の着衣を剥ぎ取るという老婆、奪衣婆
(ダツエバ)や剥ぎ取った衣類を木の枝に架ける役割の
懸衣翁(ケンエオウ)の像が見られるのを楽しみにして
いましたが、期待は見事に裏切られました。もし十王が
全部揃い、奪衣婆、懸衣翁共々内陣を飾っているような
寺が付近にあれば、筆者も本気で冥界への旅を志していたかも知れません。
 
      摩訶不思議でならない世界
 
 ここで、十王や十王信仰について少し書いてみたいと思います。と言いますのも、
ブランド志向の今日ならいざ知らず、仏道の世界に自ら王であるとその印を宝冠とし
て堂々と頭に付けている十王の存在は、筆者が中学時代から摩訶不思議でならない世
界であったからです。地獄の絵巻でなくとも寺で閻魔様が座っていればそれだけで怖
くて小走りに通りすぎ、とてもその前で静止して眺めることなどつい最近まで出来な
かったように思われます。十王とは冥土にいて死者を裁く10人の王のことで、秦広
王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変威王、泰山王、平等王、都市王、および五
道転輪王の総称です。十王のいる冥府の役所を十王庁といい、死者は初七日から七十
七日までの各七日、百箇日、一周忌、三回忌にそれぞれの庁を巡って来世の形態を定
められます。十王信仰は中国唐時代末に道教の影響で成立し、平安中期以降に日本に
移入されました。冥界に旅立った死者の死後七日毎に十王の内の七王が審理の担当に
なって死者の過去を裁くのです。これらの七回の裁判で次に逝くところが決められる
まで、即ち49日間彷徨ことになりますが、この期間を「冥土の旅」と呼んでいるの
です。この彷徨っている間の死者の食料は線香の香りだそうで、遺族は従ってこの間
は線香を絶やすことをしてはいけないのです。十王の考え方は、中国で道教の中で確
立されましたが、平安中期に日本にもたらされて、王は実は本地(ホンジ)である如
来や菩薩の化身であるという垂迹(スイジャク)の考え方(本地垂迹説)の中で対応
する本地が決められました。この関係は以下の通りです。
 
死後の日数      審理担当王       本   地
 
初七日        秦広王         不動明王
14日        初江(楚江)王     釈迦如来
21日        宋帝王         文殊菩薩
28日        五官王         普賢菩薩
35日        閻魔王         地蔵菩薩
42日        変成王         弥勒菩薩
49日        泰山(太山)王     薬師如来
 
 一回の審理だけでパスすれば、必ずしも次の審理に行く必要はありません。これを
「抜けて転生する」と言います。また、七回の審理でも決まらない場合を考慮して、
追加の審理が三回決められています。勿論この三回の審理を担当するのは以上の七回
までに登場していない以下の三人の王で、三回忌の最終回を阿弥陀如来で締め括って
います。
 
死後の日数       審理担当王        本   地
 
百箇日忌        平等王          観音菩薩
一周忌        都市王         勢至菩薩
三回忌        五道転輪王       阿弥陀如来
 
七回で決まらなくても必ず六道のいずれかに行くことになっています。追加の審理
は実質救済の処置であり、現在の学校の落第を防ぐ追試と同じであります。もしも過
去の七回の審理で地獄道、餓鬼道、畜生道の三悪道に落ちてしまっていても、それを
助けますし、修羅道、人道、天道にいたなら、さらに徳が積まれる仕組みであります。
仏事の法要が七日毎に以上のように七回あるのは、審理の度に十王に対し死者への減
罪を嘆願するためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないをなく
すための受け皿(上記のように追試に相当するもの)として機能しているのです。
 現在では通夜、告別式、初七日の後は49日まで法要をしないことが通例化してい
ますので、2回目から6回目までの5回分について減罪嘆願が行えないことになって
しまいます。
 以上が十王信仰ですが、室町時代以降さらに三回の追加審理を加えて十三仏信仰が
出来上がり、以下の三回の審理が行われていると考えられています。審理担当は全て
如来と菩薩で、もはや王は登場致しません。それは中国オリジンではなく、日本に渡
来してから生まれたものだからです。
 
  死者の死後日数        担当如来・菩薩
 
   七回忌            阿?(アシュク)如来
   十三回忌           大日如来
   三十三回忌          虚空蔵菩薩 
 
 このように各七日刻みの死者に対する死後の法要は、仏教徒もしくは仏教の仕組み
を受け入れている人々の間に行き渡っていますが、それぞれの日を担当し、審理を担
当する十王について、信仰の内容を納得している人は少ないのではないかと思いま
す。閻魔王の名は殆どの人が何がしか知識を持たれていると思いますが、他の王につ
いては知名度が低いせいもあって、殆んど馴染みすらないのではないでしょうか。筆
者も実のところ、審理を担当するそれぞれの王が最終的な責任を持っているのか、審
理には全ての王が参加するのか、最終判断は全て閻魔王がするのか、判然としないと
ころは多々あります。
 
      三途の川の三通りの渡り方
 
 人は死ねば険しい死出の山を七日間かけて通り抜けねばならず、その後に秦広王に
よる裁判の第一審があります。しかし、この裁判は審査のみです。その審査は生前の
行いを三通りに分けることです。即ち、善人か、程度の軽い悪人か、重い悪人かとい
うことです。このことが次に渡る三途の川の渡り方にはっきりした区別がなされるの
です。この三途の川の三通りの渡り方についても一般には余り知られてはいないでし
ょう。三途の川には緩い流れのところに橋が一つだけかかっているそうです。善人は
ゆっくりこの橋を渡るのだそうです。そして程度の軽い悪人は浅瀬を歩いて渡り、極
悪人は流れの速い、深い濁流の中をやっとの思いで渡るのだそうです。ここで物語と
しても面白いと思われますのは、三途の川を渡る際に必要な六文銭という渡し賃を持
っていない場合には渡りきった向こう岸で待っている奪衣婆が亡者の着物を剥ぎ取り、
衣領樹(エリョウジュ)のそばで待っている懸衣翁にその着物を渡し、懸衣翁はその
着物を衣領樹の枝に架けますが、その際枝のしなり方で亡者の生前の悪さ程度を判断
するというのです。しなり方のひどい方が悪さの程度が重いことになりますが、しか
し、予め極悪人は深いところを首まで浸りながら渡って来るのですから着物は既に存
分に水を含んでいますので、枝が重くなることも当然の道理で、わざわざ説明するこ
とでもないように思われます。奪衣婆は着物を剥ぐだけではなく、亡者が生前に犯し
た罪を咎めて両手の指を折ってしまうそうですし、懸衣翁は不義密通を犯した者を憎
み、頭と足を一つに束たり、亡者が着衣を着けていなければ、衣の代わりに亡者の生
皮を剥がすと言われています。実際に土佐派の絵描きによって懸衣翁が剥ぎ取った着
衣や亡者の生皮を手にかざしている絵が残されているのを見たことがあります。奪衣
婆と懸衣翁は一般には閻魔堂などの閻魔王の脇に安置されているのが多く見られます
が、修験道や民間信仰と融合して山道や街道筋、村や町の境に鎮座している姿も多い
のはご承知の通りです。
 閻魔王は一人俗に大王と呼ばれ、冥界での裁きの責任者というよりも生前、この世
での病魔退治の神様にも似た扱いを受けていたり、子供の頃から「嘘をつくと閻魔様
に舌を抜かれる」と、両親、学校の先生等から教えられる通り、人を罰するのではな
くて、人間を遍く地獄に行かせないよう、この世で罪を犯すことのなきよう戒める立
場の頼もしい王だと言えるでしょう。
 
      三途川と「賽の河原」
 
 冥土の旅に纏わる考え方や法要の裏付けのようなことを少しくどいくらい書き並べ
てしまいましたが、ここで話を最初に戻して三途川と言っても依然としてあの世の三
途川ですが、もう少しどんな川なのか、この世の生活とどういう関わりがあるのか、
また、その河原を「賽の河原」と呼んでいますが、この河原はどういう河原なのかを
序に書いてみたいと思います。三途川の名の由来や三通りの渡り方については既に述
べましたので、その川は何処を流れているのかを調べてみましょう。三途川には秦江
王の裁く第一審が終了したところで差し掛かります。三途川の河原は「賽の河原」と
呼ばれ、親よりも先に死んだ子供たちがいます。仏教界では親に苦しみを与えて先に
死ぬことは、親に悲しみを与えますので重罪と看做されています。河原にいる子供た
ちは残してきた父母を供養するために毎日せっせと河原に石を積み続けています。そ
こで、この世でも地獄と名付けられたところの河原では石を積み上げたものが沢山に
残されているのです。苦労して子供たちが石を積み上げても、鬼が来て片っ端からば
らばらに崩されてしまうのです。子供たちはですから鬼を怯えるのです。どうにか今
日まで伝えられ、行われている死後の世界に絡む法要と関係する教えについて述べて
みました。合点がいったことが沢山あったのではないでしょうか。全てを知っている
ことが褒められたことでもないでしょうが、理由もなく、わけも知らずに形式的なし
きたりだけを追っていることが現在の生活の中には意外と多いと感じ、その反省も含
めてこれから大いに世話になるあの世に旅する心構えの一つとしてご披露した次第で
す。  合 掌
 
2007.11.18 真木 佐野処々(その12)“越名・馬門河岸” 
 
 佐野処々(その12)“越名・馬門河岸”  横浜市 真木 守俊
 
 当時、東京ビッカース(現佐野工場)の開設当初、佐 @刈入れの終わった水田風景
@刈入れの終わった水田風景
野市をよく知りたいと思い自転車で市中を見て廻りまし
た。市の南部、渡良瀬川に近い所は、広々とした水田と
畑、時期は今頃で稲は、すでに刈り取りが終わり、冷た
い風が吹きぬけていました。
 越名(こえな)・馬門(まかど)部落は人影も少なく、
秋山川が中央を流れていて、静かな田園風景でした。と
ころが家に帰って調べて驚きました。ここは徳川幕府か
 
ら明治の中頃まで北関東随一の貿易港だったのです。平 A繁栄当時の石積みを残す街角
A繁栄当時の石積みを残す街角
安朝時代から、越名沼は渡良瀬川・利根川・荒川などと
水運の便があったのですが、慶長年間に秋山川の流れが
変わり(処々4)越名沼の水位が下がり、舟の航行が不
便になったのでしょう。それと共に、江戸に幕府が開か
れて、人や物資の交流が増えた事もあり、佐野を飛び地
とした彦根藩は、秋山川を改修しここに長さ約1粁・幅
90米程の河川港を造ったのです。佐野からは江戸に米・
 
野菜・薪・炭・天明鋳物などを送り、帰りは海産物・塩・ B静かな里の秋山川
B静かな里の秋山川
呉服・日用品などを運びました。江戸・東京の人口が増
えると、益々交通量が増加し、最盛期には30人乗りの
客船は殆ど毎日の運行、70〜100俵の米俵を積む貨
物船は百数十隻就航したと云うから、その盛況振りがわ
かります。特に江戸城や大名屋敷・商店の蔵や壁の漆喰
に使う石灰には大量の需要があり葛生と越名の間約20
粁には木道馬車が走り、明治22年(1889年)に
 
両毛線が開通すると、佐野駅と越名間に1日8往復、蒸 C秋山川の畔にある復元図
C秋山川の畔にある復元図
気機関車が走ったと云います。しかし鉄道の輸送力が次
第に増強されると、水運は減少し、大正4年には両国ま
での船便が、大正8年には越名の駅舎が廃止となり、越
名・馬門河岸の役目は終わりました。
 テレビの長寿番組「水戸黄門」でも江戸から水路馬門
に上陸した黄門さまが、お定まりの悪を退治する場面が
2〜3度出てきました。
 
D川船奉行所跡碑
D川船奉行所跡碑
E奉行所跡碑の裏書
E奉行所跡碑の裏書
F少し上流の大聖寺にある歌碑
F少し上流の大聖寺にある歌碑
 
<写真説明> 
@渡良瀬川沿いの刈入れの終わった水田風景 
A越名・馬門河岸が繁栄していた頃、水害と盗賊から荷物を守るためにつみ上げたと
 思われる石積みが街角に残る。現在はこのお宅のこの角だけが丈夫に残っている
B秋山川は流れが変り、当時の秋山川は「旧秋山川」と呼ばれて静かに流れている
C忘れられたように、川沿いの小さな公園に説明図がある
D彦根市長の協力で、地元有志が歴史を伝えようと立てた、奉行所跡碑
E奉行所碑の裏書きです。地元有志の情熱が伝わる
F大聖寺にある、寺はボロでも歌碑は自慢、歌は当時のはやり歌
 
                写真提供・写真説明 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007.10.28 真木  佐野処々(その11)“簗・陶芸”  
 
 佐野処々(その11)“簗・陶芸”  横浜市 真木 守俊
 
 秋の楽しみにもう一つ、鮎の簗漁があります。竹で作 那珂川は鮎の季節
那珂川は鮎の季節
った簀の子を川面に流れに逆って斜めに沈め、産卵のた
め河口に下る鮎を掬い取る漁です。北関東では利根川・
鬼怒川・那珂川などに何カ所か仕掛けられ、鮎料理が食
べられます。鮎料理はなんと云っても塩焼きが一番です。
その点、佐野から少し遠いのですが那珂川の烏山の簗場
をお薦めします。子供さんは飛び跳ねる鮎を手づかみし
て歓声を上げますが、大人は食欲を満足させれば良いの
 
です。烏山では川岸に作られた大きな建物に暖炉が沢山 兄弟簗はおやじ譲りだぜ
兄弟簗はおやじ譲りだぜ
切ってあり、グループで焼きながらあつあつの鮎が食べ
られます。周辺に気を遣わず串刺しの鮎に頭からかぶり
付けば、香ばしい香りがプーンとして、食欲が進めば話
も弾みます。お気の毒ですがグループに下戸の方を加え
ておいて下さい。
 鮎料理に満足したら、帰りに益子町の益子焼きの店で
気にいった食器など求めるのも良いでしょう。特に11月
 
始めには益子焼の市が開かれ、掘り出し物を捜す客で賑 新食堂は満席
新食堂は満席
わいます。
 益子焼の陶芸で数々の賞を得られた田村耕一氏は佐野
富岡町の出身で、ご実家の隣には釜を設けて制作に励ま
れておりました。最近佐野市が中心街に田村耕一陶芸館
を作り作品を展示しております。陶芸のお好きな方は、
ここと、佐野と足利の境目の小高い丘の上にある伊万里
焼の栗田美術館を見てください。古伊万里や、欧州に輸
出した豪華な花瓶や奔走なデザインの絵皿が数多く陳列されています。又館内に埼玉
県から移設された日本家屋があり、赤松の疎林をバックにした白砂と巨石に、梅の林
を主体にした日本庭園が見事です。3月中旬が梅の見頃です。
 
佐野駅前にある陶芸館
佐野駅前にある陶芸館
人間国宝田村耕一さん
人間国宝田村耕一さん
高い丘の上の栗田美術館
高い丘の上の栗田美術館
 
美術館旧門
美術館旧門
一般入り口は大駐車場前
一般入り口は大駐車場前
 
 
                     写真提供 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007.10. 7 真木  佐野処々(その10)“秋は楽しく” 
 
 佐野処々(その10)“秋は楽しく”   横浜市 真木 守俊
 
 10月も半ばになりますと、朝夕は涼しく紅葉の便りも届き始め、温泉が恋しくな
ります。栃木県には那須・塩原・鬼怒川・川治など有名な温泉がズラリと並びます。
温泉の湧く所、紅葉の名所です。疲れを癒やすのも良し、ハイキングやゴルフで運動
不足を補うのにも良い季節です。佐野には温泉は出ませんが、群馬県の伊香保・四万
・草津・水上の温泉が同じように利用出来、選択に困ります。往復に新道をドライブ
するのも快適ですが、目的地では旧街道や横町を歩いて 今でも「例幣使街道」の名が残る
今でも「例幣使街道」の名が残る
見てください。必ず懐かしい風景やホッとする光景に出
会います。こんな所が佐野の市内にもあります。旧国道
50号線は佐野の中心街を東西に貫通していますが、そ
の東部堀米・犬伏辺りは今でも例幣使街道の名が通用し
ます。例幣使とは京都から日光東照宮に参詣する勅使の
ことです。この辺りは宿場があり道路の真ん中に掘割り
があったそうです。
 街道沿いの「大庵寺」は大きな樹木に包まれた由緒ある寺院であり、「光徳寺」の
(びゃくしん)は樹齢八百年と云われております。また小さなお店の裏が立派な日本
庭園であったりして時計の針がゆっくり廻っているような気がします。
街道沿いの「大庵寺」
街道沿いの「大庵寺」
「光徳寺」の(びゃくしん)
「光徳寺」の(びゃくしん)
民芸店(佐野土産・土鈴など)
民芸店(佐野土産・土鈴など)
 田沼地区を貫く飛駒街道も気持ちの良い街道です。この付近は、戦国時代に佐野藩
が、ある時は上杉と、ある時は北条と戦った史跡の多い所です。立派な松並木を持っ
た佐野家の菩提寺「本光寺」、落ち着いた風情の「密蔵院」、城壁のような石垣を持
つ「加茂別雷(かもわけいかずち)」神社など歴史や民話を思い出しながら、赤松の
疎林と梅の古木の多い街道を、ご家族で歩くのも良いでしょう。
佐野家の菩提寺「本光寺」の並木
佐野家の菩提寺「本光寺」の並木
「本光寺」の本堂
「本光寺」の本堂
落ち着いた風情の「密蔵寺」
落ち着いた風情の「密蔵寺」
 
「密蔵寺」にある(宝きょう印塔)
「密蔵寺」にある(宝きょう印塔)
立派な石垣を持つ「加茂別雷神社」
立派な石垣を持つ「加茂別雷神社」
疎林と古木の旧街道
疎林と古木の旧街道
 
                       写真提供 佐野市 辻会員
 
  寄稿者 真木守俊さんの訃報に接し謹んで哀悼の意を表します
                             HP事務局
 
 この「佐野処々」は、真木さんが東京ビッカース時代の社内報「からさわ」に掲載
されたものを再校、寄稿していただき平成19年3月から9回にわたって連載して参
りました。
 真木さんの生前中のご意思を尊重して、すでに寄稿いただいている遺稿を継続して
掲載して参りますので、ご愛読をいただきたいと思います。
 
2007. 9.15 真木  佐野処々(その9)“天明鋳物”  
 
 佐野処々(その9)“天明(天命)鋳物”  横浜市 真木 守俊
 
 天明(天命)鋳物は、佐野の伝統的な工芸品であり、また明治初期まで約900年
もの間、佐野の経済を支えた基幹産業でもありました。西暦938年、天慶の乱の時、
藤原秀郷が京都から鋳物師を連れてきて武具を造らせたのが始りで、その後、農具・
寺の梵鐘・灯籠・仏像・鳥居などを作り、桃山時代、茶の湯が盛んになると天命釜と
して、九州の芦屋、京都の京釜と並び称される釜を作っております。
 
     安楽寺門前
     安楽寺門前
     安楽寺鐘楼
     安楽寺鐘楼
     安楽寺梵鐘
     安楽寺梵鐘
 
 佐野市の中心街には、金屋上町・仲町・下町・金吹町などの町名が残り、1022
年設立の火の神様を祭る立派な金山神社もあって、昔の盛況を思わせます。戦争中の
金属の供出を免れた製品は、重要文化財などに指定され、処々(7)で紹介した引地
観音の灯籠は、国指定重要文化財になっております。大型の梵鐘は、佐野市に5個残
っており、鐘の表面にはいろいろなデザインが施されております。一番古い安楽寺の
鐘には飛雲・流水・桜花・蓮華が画かれており、大聖院の鐘には、その内外に法華経
7万字が鋳出されている労作です。近隣の市にも足利市の鶏足寺・館林駅前の普寺、
更には鎌倉五山のひとつ壽福寺の巨大な鐘にも佐野の銘が入っています。こんな重量
物の材料を何処から持って来たのか、燃料は、設備は、更に製品の運搬は、など気に
なります。仏像や灯籠は地元にも数多く残っていますが、地理的にも日光の東照宮等
にもある筈です。こんな天明鋳物も明治の新政府の宗教政策で需要が減少し、日本の
社会が近代化すると、一斉に織物産業に変わり、伝統の鋳物を引き継いでいる工場は
2〜3個所となり、花瓶や記念品などを製作しております。
 
     大聖院門前
     大聖院門前
     大聖院鐘楼
     大聖院鐘楼
     大聖院梵鐘
     大聖院梵鐘
 
                       写真提供 佐野市 辻会員
 
2007.08.26 真木  佐野処々(その8)“秋口には”  
 
 佐野処々(その8)“秋口には”  横浜市 真木 守俊
 
 お盆の行事も終わって、朝夕には涼しい秋風の吹き始 唐沢ゴルフ倶楽部(正門)
唐沢ゴルフ倶楽部(正門)
めるこの時期、炎天と落雷を敬遠していたゴルファーも
待ちきれなくなることでしょう。佐野には、事業所(現
佐野工場)から車で10分程の所に名門の唐沢ゴルフ倶
楽部がありますし、田沼地区の北部の山裾には幾つかの
コースがあります。何れも丘陵地の自然を生かした設計
で変化に富んでいます。打ち下ろしホールで藪の中にボ
ールを打ち込んだら、そこに「かたくり」が群生してい
て、驚いたこともあります。
 家族連れならば、渡良瀬川に近い羽田の梨狩り、佐野東端から岩舟町・大平町と続
くぶどう狩り、双方とも出荷の時期を迎えて甘い幸水や、大粒の巨峰が楽しみです。
 また、佐野市や隣りの足利市など古い歴史のある街には、沢山の神社・仏閣があり
ます。歴史に出てくる藩主や武将を祭ったもの、各派の宗教や信仰に関するものの末
寺などが揃っています。これらの神社、仏閣が一斉に秋祭りを開きます。皆、独特の
行事を持ち、縁日の出店も違ってきます。皮切りとして、9月には大祝町の宝龍寺の
呑龍様からはじまり、年末まであちこちで祭りが続きます。昔ながらの、焼き栗・焼
きいか・綿あめ・縁起物・さてはテレビ漫画の主人公のお面なども並んで懐かしくな
ります。
 
唐沢ゴルフ倶楽部(クラブハウス)
唐沢ゴルフ倶楽部(クラブハウス)
史跡 足利学校(全景)
史跡 足利学校(全景)
鑁阿寺「ばんなじ」(山門)
鑁阿寺「ばんなじ」(山門)
 
                      写真撮影 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007. 8. 5 真木  佐野処々(その7)“お盆のころ”  
 
 佐野処々(その7)“お盆のころ”  横浜市 真木 守俊
 
 8月、佐野の商店街が七夕飾りやお盆の準備で活気づ 鋳銅梅竹文透釣灯籠 ≪転載禁止≫
鋳銅梅竹文透釣灯籠 ≪転載禁止≫
くころ、事業所(現佐野工場)近くの引地観音にお祭り
の大きな白旗がたちます。本尊は馬頭観音で馬を扱う人
の信仰が高いのです。 ここに所蔵されている釣り灯籠
(鋳銅梅竹文透釣り灯籠)は高さ、大きさ約30糎程の
小形ですが、戦国時代に作られたもので六角形の各面に
は、優美なデザインの梅や竹が透かし彫りになっており、
しかも扉以外は一体の鋳物という、大変高度の技術が評
価され国指定重要文化財に指定されております。
 お盆の期間中には、赤見の大門音頭・鐙塚(アブツカ)の宮比講神楽・上羽田の八
幡神楽・芦畔(アシグロ)の獅子舞など、昔の各部落の伝統行事が行われます。何れ
も無形文化財ですが、後継者の問題で頭を痛めているようです。
 8月16日は「みかも山」の姿が京都の東山に似ているところから、これに倣って
送り火の大文字が焚かれます。丁度、工業団地の会館の真正面で、会館の会議室が絶
好の見物席になります。8月18日は仏教各派合同により灯籠流しが行われます。
夕立で増水した川面を数百の灯籠が流れに沿って、行儀良く一列に並び、静かに闇に
消えて行く光景は、何ともいえず人の心をシンミリさせるものです。
 定番の盆踊りには、佐野でも八木節が使われますが、やはり国定忠治は上州が本家、
特に伊勢崎の盆踊りの晩は、街のあちこちに作られた櫓から太鼓が鳴り響き、即興の
八木節も混じって街中が湧き上がります。
 
引地観音寺
引地観音寺
大文字が焚かれる「みかも山」
大文字が焚かれる「みかも山」
八木節のふるさと「八木宿」交差点
八木節のふるさと「八木宿」交差点
 
               写真提供(鋳銅梅竹文透釣灯籠)佐野市郷土博物館
               写真撮影(下段の3枚) 佐野市 辻 隆太 会員