話 題 『 よもやま話 』最新 2018年7月〜2019年1月
 
          話  題  一  覧
2019. 1.20 頑張ってほしいわが国の頭脳          投稿:清水有道
2018.10.18 佐伯一麦の「空にみずうみ」を読む       投稿:清水有道
2018. 9.25 歴史教育変遷の驚き−白村江の戦いを端緒にして 投稿:清水有道
2018. 9.24 ブームになってきた須賀敦子を読む       投稿:清水有道
2018. 8.21 日本語は難しい_時代遅れのワーディング?   投稿:清水有道
2018. 8. 5 松浦武四郎とはどんな人(2/2)        投稿:鈴木富雄
2018. 7.22 松浦武四郎とはどんな人(1/2)        投稿:鈴木富雄
 

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          話  題  『 よもやま話 』  
 
2019. 1.20 清水 頑張ってほしいわが国の頭脳
 
    頑張ってほしいわが国の頭脳 横浜市 清水 有道
 
1.プロローグ
 昨年の最終日大晦日の日本経済新聞一面のトップ記事に綴られた「先端技術研究 
中国が先行、30テーマ本誌調査8割で首位」の記事には正直、打ちのめされた思いだ
った。ハイテクの分野で22のテーマで中国がすでに覇権を達成し、米国がそのことに
大きな警戒を感じているという報道であった。
日本経済新聞の記事から
日本経済新聞の記事から
 
 筆者はこの中で特に医療やバイオの分野における中国の優勢に大きな脅威を感じる
と共に、これらの分野での日本の立場が極めて劣勢であることの現実に寒気を感じざ
るを得なかった。中国がわが国を抜いて米国に次ぐ世界第2位のGNP(Gross National
Product)生産国であるばかりでなく、日本を凌ぐ工業生産国にのし上がっていること
に敬意を表することは勿論ながら、その現実の姿に照らしてわが国の沈滞ぶりを心か
ら憂うる気持ちを禁じ得ない。
 
 特にこれからの車の世界で、しのぎを削っている電動化、無人化のトライアルで、
その中心技術になるであろうナトリウムイオン電池やリチウム硫黄電池、二重層コン
デンサーの分野で、ことごとく米国を抜いて中国が今や世界のトップを走っている現
況には、筆者は殊の外非常な脅威を感じざるを得ない。
 
 日本と米国のこれらの分野の先端を走る研究開発に僅かながらでも関わっていると
自負していた筆者にしてみれば、何か非常な寂しさと虚しさを感じるばかりでなく、
今までのアプローチの努力不足を反省させられ、絶対絶命のの窮地に追い詰められた
思いになった。
 
2.然らばわが国の研究分野に対してどういう導きが足りないのであろうか?
 筆者が関わっている車の電動化を中心として前述の反省というか、驚異の実態を記
したわけであるが、日本経済新聞に扱われた30項目で見るなら、日本が劣っている分
野、特に中国に追い抜かれている分野は医療バイオと新素材の分野であると言えよう。
少なくとも7つの分野で世界的にも非常に劣勢であると結論され、世界各国の中で10
位以下、中には20位以下と位置付けられる分野(ジカウイルス感染症対応、バイオ炭
探求等)も指摘されていることを知り、心底計り知れぬ心細さを感じてしまう。
 
 筆者も今まではその立場であったと強く反省するのだが、従来中国の製品は勿論の
こと提出される論文に至っても粗製乱造と決めつけてきたが、近年は質も高まり、先
端技術でのアプローチはそれまでの先進各国を遥かに凌駕するものに水準が移り変わ
っていることにもっともっと注目する必要があるだろう。このような現実の姿を突き
付けられて、改めて感じることは、わが国の対応が誠に生ぬるい状態であったこと、
研究開発に対する政府の予算配分や各大学を始めとする研究機関の扱いがあまりにも
過去の延長線上に安住し、振興策に乏しかったと言わざるを得ないのではなかろうか。
 
 前述の30テーマの内、トップの中国が23で、米国はわずか7つでトップになってい
るにとどまっている。わが国は残念ながらトップは一つもなく、わずかに3位のもの
が3、4位にあるものが8つにとどまっている。これら30の研究テーマについて、ど
の国の大学や研究機関が論文を公表しているかを調査した結果をも同時に明らかにし
ているが、その結果、30のテーマ全てにおいて中国が4位までを独占し、23のテーマ
でトップであった。
 
 日本は「免疫療法」、「二酸化炭素の有効利用」、「ゲノム編集」の3つのテーマ
で米、中に次いで第3位を占めたのが最高位であった。中国が上位を占めた背景には、
科学技術研究への強化、特に米国やわが国に比べてずば抜けて実用化を視野に入れて
の投資を集中的に行ったことの成果であると言われているようだ。分野としては材料
科学の割合が高く、電子デバイスやEVを念頭に置いた応用分野に注力を払っている
と日経紙は報じている。
 
 中国が集中的に強化している先端技術研究は、5〜20年先の産業競争力につながる
ことを見込んでおり、研究テーマは同国の産業政策「中国製造2025」を睨んで決定さ
れているようである。
 
 最後に、日経紙はこのままでは日本の次世代技術における存在感は薄く、研究費の
年間総額でも米国や中国が40兆円を超えているのに反し、日本は遥かに少ない18.4兆
円にとどまっている。その上、政府予算に占める研究費の割合でも2016年比で米中で
は20%を超しているのに対し、日本では17.4%と下回っている。国際競争力を保つた
めにも、次世代技術を支える政府予算に占める研究開発費の拡充を図ることが必要で
あると結論している。
 
3.エピローグ
 日経紙の報道を離れて、筆者は今後の研究開発に注力し、将来の国際競争力をリー
ドするためにも、わが国としては、それらの活動に従事できる予備軍を充実させる必
要があり、そのためには、今問題が深刻化している少子化・高齢化社会を確実に正常
化させる施策を短・中・長期に分け、それぞれ企画力を持たせて、一日も早く確立し、
中央と地方の政府・自治体の政策を同一軌道に乗せて一本化すること、および政・官・
学界と産業界の一層の協働作業も必要であることを改めて強調しておきたい。
                                     了 
                         2019年1月10日(木)  記 
 
2018.10.18 清水 佐伯一麦の「空にみずうみ」を読む
 
佐伯一麦の「空にみずうみ」を読む 横浜市  清水 有道
 
1. はじめに
 週刊誌の読書欄の書評で面白そうに思え、駅ビルの書店に立ち寄って求め、早速一
気に読んだ。著者佐伯一麦(さえき かずみ)にも、書 佐伯一麦の「空にみずうみ」
佐伯一麦の「空にみずうみ」
名にも何の予備知識も持ち合わせてはいなかった。まっ
たく下調べもなく飛びついた。
 地方の大きな都市に住む早瀬と夫人の柚子という中年
夫婦の日常を綴った私小説で、植物や昆虫、花に果物など
を題名にした8篇のエッセイを集大成したものである。
読み終えた後の巻末の解説で分かったことであるが、こ
の本に纏められた文章はすべて2014年6月23日か
ら2015年5月26日までの約11ヶ月にわたって「読売新聞」夕刊に連載された
もので、著者はほぼ毎日一回分のペースで朝の時間帯に書き記したものだそうである。
 
2. 綴られている内容
 読み進むうちに、筆者にはこの著者が何となく身近な存在に思え、歳も近いのかも
知れないという気になった(注:実際には50歳代の大分若い方と分かったが・・・)。
8篇の小篇のいずれにも、これでもかというくらい野鳥の名、蝶・蛾、蝉、甲虫、蛇
等の動物から、ネジバナ、ヤマボウ(山帽子)、無花果、アキノキリンソウ、フジバ
カマ等の植物の名が次から次へと登場するので、相当博物学に造詣の深い著者ではな
かろうかと、一段と興味を引き立てられ、筆者の好奇心の絶好の餌食になったのであ
った。
 感心させられた一つには、これら個々の動植物にまつわる話の展開の中に、徳川夢
声、古今亭志ん生、内田百閨A伊達政宗、福原麟太郎、松本俊介、松尾芭蕉、伊藤静
雄、斎藤茂吉、小宮豊隆、ルノアール、ブラームス等世の東西の著名人と絡む逸話が
巧くちりばめられていて、文章表現のみならず、風景描写に何とも言えぬ奥深さとバ
ックミュージックの中に輝いている心地よい雰囲気が感じられる。
 作品の中頃、8番目の小篇「大きなスイカ」には、たくさんの昆虫が登場する。
アメリカシロヒトリの習性やエダナナフシとナナフシモドキの違いやモンシロチョウ
やアゲハの幼虫の観察、これら幼虫とアシナガバチとの天敵関係など数多くのまるで
「ファーブルの昆虫記」を読んでいるような気にさせられる。勿論併せて植物や樹木
の名前も次から次へと現れ、博物をめぐるエッセイのようだ。
 次の9篇目の「チョッキリ」と題する小篇では、カモシカの植物の食べ方やキビタ
キの囀りやチョッキリという甲虫目のオトシブミの一種がどんぐりの実に穴を掘って
卵を産む話とかが紹介される。
 約一年にわたる大きな季節の移り変わりを、登場する野獣、小鳥、昆虫、植物、花
が気象と共に綴られて行くが、柔らかい文章と、気の利いた観察力が交互に編み込ま
れて気持ちよく読めた。
 
3. 引用文の巧みさと充実した結末
 最後の小篇「四年ののち」がなかなか内容濃く、素晴らしい締め括りの役割を果た
している。題の4年とは椿の種を蒔いてから花が咲くまでの期間のことだと分かった
が、実が生るまでには誰でも知っている「桃栗3年、柿8年、梅はすいすい13年」
という諺があるが、この4年は椿の花が咲くまでの時期を指していて、赤の濃い黒椿
を枕元に活けて、寝ているうちに、深夜バサッという音を立てて花がまとまって床に
落ちた瞬間の描写が率直で、実際のところ筆者も読んでいて不気味さを感じた。この
箇所でも、著者は巧みに里見 ク(さとみ とん)の「椿」という短篇を思い出して
引用しているのが面白い。里見は椿の花が落ちて、バサッという音を立てると、ギョ
ッとして怖がり、血が垂れているようだと気味悪がった果てに、居合わせた女性二人
は可笑しくなって、思い切りくっくっと笑い転げる様を書き写している。ところが、
物語が終わりに近づくと、柚子夫人が英語のレッスンの友人と病気で入院後再会した
のが4年後であった。同じ柚子が無事に個展をオープンできたのも4年前だったこと
も分かってくる。他にも住んでいるところの周囲の樹林が茂っていたのが、欅のほか
幾つかの木々が生き残ったものの、昔の面影は感じられないと気付くのも4年後とな
っている。また、ある時大雪が降って来た時に慌てて布団を注文したが、売り切れで
買えなかったのを思い出したのも4年後再び大雪を迎えとときのことだった。日常の
大きな変化が4年周期で起きていると著者は言いたいようである。4年という期間は
確かな思い出をしっかり話に出せる最長の期間なのかもしれない。他にもこれでもか
と幾つもの4年周期の話が並べられる。特別な思いで見た月が巡って来るのも4年目
であるし、この小説の一貫した舞台となっている野草園の中の急坂には4年前に地滑
りが起きていたことも思い出されて書き足されている。あらゆる可能性を見付けて、
羅列し、読者に思い込ませることも小説の必要な一つの手段、テクニックなのかと筆
者には考えさせられた。
 
4. おわりに
 最後はこの小説の多くの部分の舞台となっている野草園の池の周りをゆっくり歩き
ながら、蛙の姿を探し、ザリガニやアメンボを認め、他に何も見付けられないと気付
くと近くの林で啼く鶯の声と、競争するように啼く画眉鳥の声を聞きながら、池に小
石を投げ込み、広がる波紋を面白く眺めて心を静めるところで終わる。
 仙台を中心に東北に育ち、今も住まいする著者が優しく自然を見詰めて、毎日少し
ずつ筆を進めて書き溜めた詩人にも似た心優しい文人の静かな生活を羨ましく思い、
嬉しく読み終えることが出来た。
                                    了
                           2018年9月24日  記
 
2018. 9.25 清水 歴史教育変遷の驚き−白村江の戦いを端緒にして
 
歴史教育変遷の驚き
白村江の戦いを端緒にして 横浜市  清水 有道
 
1.プロローグ
 学者でもなく、歴史に精通している訳でもない筆者には甚だ重い首題ながら、受け
た教育を通しての理解と現在行われている歴史的事実及びその解釈と理解があまりに
も隔たっていて、大きな齟齬を生じていることを感じずには得ないため、敢えてこの
題の下に一文を物してみようと考えました。筆者は第二次世界大戦後の新教育制度に
なっての昭和24年入学の2期生で、中学、高校の歴史教育の中で学んだ日本史では、
現在の学者の歴史構造の背景の解釈と論理の展開には大きな違いがあることを発見し
て、一方では唖然とし、他方ではどうしてそうなってしまったの? と驚きと不可思
議を感じる場面が多いのに、正直言って、相当に面食らっている。筆者も自分の考え
方を直して、現代版の解釈に倣わなければならないのか。そうするためにはどうすれ
ば良いのか。内心かなりの辛い思いを抱いているというのが、偽らざる昨今の気持ち
です。
 
2.“白村江の戦い”を典型的な例として
 ごく卑近な主題を提起して、考察を加えてみましょう。 白村江の戦い_関連図
白村江の戦い_関連図
第一に思いだされるのが、天智称制2(663)年に日本か
ら一方的に戦いに挑んだ“白村江の戦い”についての、
筆者が中学、高校の日本史の教科で学んだことと、現在
学会の統一見解として言われている学説との間には、大
きな隔たりがあると言わざるを得ません。少なくとも、
筆者には今日までこの疑問が解けずにいるのです。
 まず初めに、“白村江の戦い”の読み方です。筆者は
中学・高校・大学を通して、常に「はくすきのえのたたかい」と教わりました。が、
現在では、「はくそんこうのたたかい」と呼んでいます。未だにその理由が分かりま
せん。このように勝手に変えてしまってよいものなのでしょうか。門外漢ながら甚だ
不思議に感じています。そう言えば、この戦役に関係した“新羅”を筆者は「しらぎ」
と習いましたが、今は「しんら」と呼んでいます。同じく関係国であった“百済”は、
筆者は「くだら」と教わりましたが、現在では、「ひゃくさい」と称しています。お
かしいとは思われませんか。日本の例えば京都泉涌寺の百済観音も奈良斑鳩の里法隆  
百済観音
百済観音
寺の百済観音もまた依然として「くだらかんのん」と呼
んで説明されています。それにも拘らず、歴史上では
“百済”は「くだら」ではなく、「ひゃくさい」なのだ
そうです。筆者には正直には従えない気持ちです。これ
らは単なる読み方の違いに過ぎないのかもしれませんが、
わざわざ紛らわしく読み方の違いを設けなければならな
い理由がどこにあるのでしょうか。次に、もう少しこの
戦いの背景の解釈の違いを見てみましょう。
 
3.背景にある歴史学者の解釈の功罪
 もうしばらく、“白村江の戦い”に留まって、筆者が学んだ中学・高校でのこの戦
いの意味合いと現在日本の歴史学会で行われている理論付けとの違いというか、ギャ
ップについて、どのようなことになっているのかを綴ってみたいと思います。
 では、まず朝鮮半島への出兵の本当の理由は何だったのでしょうか。筆者は学校で
は100%百済への救援であった、と教わりました。でも、戦争当時の日本の考え方は国
際的には認められず、現在では日本の歴史学者の間でも、出兵は必ずしも百済の救援
ではなく、敗れても良い、敗れることによって唐や新羅が倭国に攻めてくるかもしれ
ないという危機感を煽ることが主目的で、極端なことを言えば、戦争をすること自体
が真の目的であったとまで公然と述べられているのです。大事なことは、当時では国
内を一つに纏め、自分たちの権力基盤を固めることにあったようです。もっと極端な
見方では邪魔な豪族を派遣して、死なせてしまい、亡き者にして、勢力を殺ぐことに
も利用されたと説くのです。
 これまで例に挙げた“白村江の戦い”に限ってみても、現在日本の歴史学会の先生
方の統一見解は以下のようになっていると考えられますが、筆者の理解とは大きな乖
離があります。即ち、対外的な危機感を煽ることで、国内統治や権力の行使を円滑に
するために朝鮮出兵に踏み切ったのだと求めたいのです。出兵こそがそのための「手
段」であったとしたいのです。外敵の襲来に備えて、幾つもの城が日本に築かれまし
たが、筆者も対馬への旅で訪ねた金田城(かなたじょう)(現在長崎県対馬市美津島
在)や讃岐の屋島城(現香川県高松市屋島在)が思い浮かびます。
 
4.エピローグ
 いずれにしても、歴史学上の共通見解というか、学会の統一解釈は該当する国のそ
の時の国際上の立場や発言力で大きく左右され、必ずしも公平性が担保されていると
は言えないものだと言わざるを得ません。筆者もしみじみそのように感じている昨今
です。考えてみれば、古代ローマ時代から、歴史は人類が学ばねばならない基本的な
学問の一つとして、大きなウエイトをもって扱われてきていますので、その意味でも、
例え難しくても避けて通れない学問の本筋を成すものだと思われます。そうであれば
なおのこと、返ってもっと真剣に考える必要があるのではないでしょうか。また機会
を見て、もう少し本題を深く掘り下げて取り上げてみたいと思いますが、今回はこの
辺で一つの区切りと致しましょう。
                                     了
                          2018年9月2日(日)  記
 
2018. 9.24 清水 ブームになってきた須賀敦子を読む
 
ブームになってきた須賀敦子を読む 横浜市  清水 有道
 
1. プロローグ
 1958年9月ローマに留学した須賀敦子(1929年兵庫県生まれ、聖心女子大卒。1953
年よりパリ、ローマに留学)はその後ミラノに在住、1971年に帰国後、慶應義塾大学
で文学博士号取得、上智大学比較文化学部教授を務めた。1991年以降滞欧時の生活や
交流のあった人々について記した短編やエッセイを次々に上梓し、1991年『ミラノ霧
の風景』(1990年、白水社刊)で講談社エッセイ賞およ 須賀敦子全集
須賀敦子全集
び女流文学賞を受賞。著書としては『コルシア書店の仲
間たち』(1992年文藝春秋新社刊)、『ヴェネツィアの
宿』(1993年文藝春秋新社刊)、『トリエステの坂道』
(1995年みすず書房刊)がある。1998年逝去、享年69歳。
没後『須賀敦子全集』(全8巻・別巻1)が河出書房新
社から出版されている。2006年から文庫としても出され
ている。
 近年、須賀敦子(以下本文中では「須賀」と略称する)の著作のみならず、彼女が
積極的に努力して翻訳し、日本に紹介したフランスやイタリアの詩作や短編にも関心
が寄せられ、彼女の生い立ちを紹介するもの、例えば、東京芸術大学美術学部建築学
科卒の作家で評論家である松山 巌 氏が表した『須賀敦子の方へ』(平成30年3月1
日初版、新潮文庫)や須賀とは雑誌「LITERARY Switch」のインタビューで知り合っ
てから、彼女が亡くなるまで親しい関係にあった小説家、エッセイスト、批評家と横
断的なジャーナリストとして国際的に活躍された大竹昭子(1950年東京生まれ)が、
須賀の没後、『須賀敦子のミラノ』、『須賀敦子のヴェネツィア』、『須賀敦子のロー
マ』(いずれも河出書房新社刊)を刊行し、須賀のこれらイタリアの代表的な都市に
須賀敦子の方へ
須賀敦子の方へ
須賀敦子の旅路
須賀敦子の旅路
滞在中の生活や交流された
宗教上、文学上の人々との
足跡を細かくフォローして
紹介している。大竹昭子さ
んは、『須賀敦子の旅路―
ミラノ、ヴェネツィア、ロー
マ、そして東京―』を2018
年3月10日初版で文春文庫
から出版されている。
2. 筆者がひかれる須賀敦子の流麗な文章
 筆者が初めて欧州に足を踏み入れた1968年より15年も前にフランス、イタリアに赴
き、イタリアの書店主と結婚し、書店の経営を助ける傍ら、イタリア、フランスの文
学者の作品を積極的に日本に紹介した功績もさることながら、須賀の文章の流れと響
きが非常に力みがなく、気張らない自然体であることと、筆者より年配の日本人、特
に著作に携わる方々は、往々にして漢語の多い文章や漢字を多用する固い文章が多い
ように思われるが、彼女の文章は逆に漢字が使える場面でも敢えて使わず、柔らかい
ひらがなの綴りを続けておられる姿勢に身近な親しみというか、温かみを感じるので
ある。上記に参照した短編やエッセイの中から2つ、3つ拾い出してみたい。
 
*まず、1992年に文藝春秋新社から出版された『コルシア書店の仲間たち』に収録さ
れている「入口のそばの椅子」と題する短編には以下のような文章が見える。
「私たちの経済状態を親身になって心配していたのは、たしかにツィア・テレーサだ
けではなかった。でも、彼女の透明な善意は、いつも受ける人間のこころをゆたかに
してくれた。彼女の贈り物にかこまれて、私は単純によろこんでいた。
(中略)けっして自分のストーリーをみなのまえで持ち出さない彼女は、どんなとき
にも率直で、高貴で、こどもみたいに無邪気だった。
(中略)きらめきを失ったツィア・テレーサの大きな目が、宙をまさぐり、小さな
レースのハンカチをにぎった骨太の手が、ひざのうえでかすかにふるえていた」。
 
*また、同じ本に収録されている「夜の会話」と題する小品の中には、次の様な綺麗
な文章が見える。  
「だれよりも気のきいたことをいおうとする話し手が、才気ばしった会話で客間の話
題を独占してしまうこともあり、そんな夜は、時間の流れがおそく感じられた。自分
たちのおしゃべりは、要するに、主人たちの余暇のお相手にすぎないのではないかと、
ふと、空しくなることもあった。それでも、招かれれば、またなにかを期待して出か
けていくのは、やはり、会話で織りなしていく虚構の世界の愉しさに誘われてのこと
だったろう。今日は、おもしろかったとか、今日はまったくだめだった、などと、ま
るで作品を論じるように、私たちはその日の会話の成果を批評した」。
 
 また、1995年にみすず書房から出版された『トリエステの坂道』に収められている
エッセイ「キッチンが変わった日」の中には、次のような微妙な女心の表現が筆者の
気を引いた。
「あの子は、まるでいいとこのぼっちゃんみたいだった。それが21年の短い生涯を終
えた、彼女のかけがえのない長男への哀悼の言葉だった。面長で、色白で、私たちの
どちらにも似ていなかった。それに、わたしはマリオのことで一度だって苦労したこ
とはない。そうも姑は言いつづけた。あの子は、私たち 須賀敦子エッセンス1
須賀敦子エッセンス1
をよろこばせるためにだけ、生まれてきた。毎年、彼の
命日の1月18日が近づくと、姑は、わたしが死んでしま
うがよかったのに、と繰り返した。気をわるくしないで
おくれ、と姑は私にあやまった。こんなこと言って。こ
の時期になると、なにをどう考えていいやら、わからな
くなるのよ。おなじ月の19日が誕生日の私は、ながいこ  
と、そのことを彼女に言い出せなかった」。
3. エピローグ――以来の須賀かぶれは何時全快するのだろうか?――
 設問を自分で設定していながら「答えは難しいな!!」と思っているが、後にも先
にも彼女のような欧州人との生活を送った人は、少なくとも筆者は知らないし、彼女
が積極的に行動に移した幾つかの事柄については一つひとつ違って、筆者にも意見が
ないと言えば嘘になる。でも、意見の共通している部分は多く、問題視することはそ
んなに多くないと思っているので、心配することなく時間と共に解決できるものと思
っている。 
 今年の5月の連休に、上記に参照した大竹昭子さんが須賀を訪ねて取材していた頃
の大竹さん自身が撮った写真の展覧会「須賀敦子のいたところ」が、森岡書店銀座店
で行われているのを見付けて、出掛けた。多分今となっては、これらの活動中の須賀
を物語る記録写真は残されていないだろうから、本当にモニュメンタルな試みだと目
を輝かせて逐一吟味して眺めた。その時にも自分自身が主体になって周囲に影響を及
ぼし、交流の輪というか、議論の輪というかを広めて行けることは日本人には極めて
珍しい存在であったことだろうと思った。筆者も長い間国際的な仕事に身を投じてき
たが、とても須賀のように自己の主張を貫けてはいないし、まだまだ弱いと思ってし
まう。須賀も必ずしも順風満帆の人生が送れたとは思っていないが、その都度迎えた
難問・苦汁に対し、周囲のいろいろ立場の違う人々の力を借りて、先送りすることな
く解決してきたように思われる。近年日本の最低賃金レベルが欧州の平均以下になっ
て、近くの中国や韓国の人々にさえも、さほど魅力をもって評価されない状況になり
つつあるが、この相対的貧困率の上昇を食い止めるためにも、1990年代以降確実視さ
れるようになった格差社会を現在以上に拡大させないよう、公の力を借りて修正・補
正するだけでなく、周囲の社会や人々とのつながりを各人の努力で強化することによ
り、つながりの場を創り出すよう、「共助」の力を大いに利用すべきで、この辺りの
努力が最近の日本人には欠けてきているのではないか。65歳以上のいわゆる「下流老
人」も含めて、新しい階級社会の「アンダークラス」を構成する俗にいう「貧困」も
単にお金がないだけではなく、周辺社会や人々とのつながりが薄れてきていることに、
日本の今の時代の大きな問題が隠されているように思えてならない。
 いずれにしても、須賀の作品には改めて、しっかりした毎日の生活の有難さ、尊さ
を思い知らされ、元気をなくしつつあるこのところの毎日に新たな張りと勇気を与え
られたようで、大変清々しい気持ちにさせられた。久し振りに味わった得難い読書経
験であった。                               了
                         2018年8月5日(日)  記
 
2018. 8.21 清水 日本語は難しい_時代遅れのワーディング?
 
日本語は難しい_時代遅れのワーディング? 横浜市  清水 有道
 
1. はじめに
 このところ毎日のように筆者が家にいて使う日本語の単語がいかにも旧式で、「い
まそんな言葉は流行らないよ!」と女房や娘たちから言われて、「そんなに古い世界
に住んでいるのか」と、改めてがっかりしたり、「いや、決して間違っていないので
はないか?」と思ったり、落ち着かない自分では思いたくない年寄爺の毎日を過ごし
ている。それらの場面を幾つか思いだしてみよう。
 
 1)「荷 車」
 我が家の庭の横にもとの小川を埋めて緑道を作り周囲 荷 車
荷 車
に樹木を植え、雑草を移植したところをガタゴト音を立
てて“キャリヤー・カー”を引っ張って通り過ぎていく
宅配会社の“運搬車”を見て、何も考えずに「『荷車』
がうるさいね!」と言ってしまった。周りに見られる車
としては「荷車」は多分死語に入るものと言っても過言
ではあるまい。
 言ってしまってから「ああー、しまった!」と思った
が既に時遅しであった。
 
 2)「自動車」
 「隣の自動車の止め方もう少し何とかならないかね!」、あるとき筆者はそう娘に
乗合自動車
乗合自動車
問い掛けた。「親父はまだ『自動車』なんて言う単語を
使うんだ!本当に戦前の人なんだね!」と、返事が返っ
てきた。「そんならどう言えばいいの!」。「当たり前
に車だけでいいじゃないの。車の止め方を強調したいな
ら、カーパークの仕方とか、パーキングの仕方とか言っ
てもいいけど・・・」。これらの一連の会話の後、筆者
はなぜか、終戦直後の薪を焚いて走っていた当時のバス
が『乗合自動車』と呼ばれていたことを思い出し、一人
で噴き出してしまった。
 
 3)「洗面所」
 この言葉を使えば必ず、「また古臭いことを言う。まるで寄宿舎か。合宿所にでも
いるみたいで、いやだよ!堅苦しいよ!」と言われてしまう。
 
 4)「台 所」
 「なんでそんなに一世紀も二世紀も古い言い回ししかできないわけ? もう死ぬし
かないわね!一種の病だよ!」だって!!どうすれば良いのだろう。「キッチン」と
わざわざカタカナ語を使わねばならないのだろうか。
 
 5)「便 所」
 筆者が『便所』と言うと、女房も娘たちも「その言葉は嫌!何か匂ってくるようで
臭い感じがする。どうして「トイレ」とか「トイレット」とか言えないの?」と嫌味
を言われる。
 
 6)「呼び鈴」
 玄関のインターフォンが故障して来客がプッシュしても音も聞こえず、会話が出来
なくなったときに、「『呼び鈴(リン)』を新しいのと取り換えねばならないね!」
と食事時に家族に話し掛けて、またまた大笑いされてしまった。
 
 これだけ並べただけでも、筆者は立派に過去の人、古い人に違いないらしい。仕事
で横文字ばかりを使っているためか、日ごろの会話の単語は日本語というか、漢字を
使いたいと思ってしまうらしい。特に意識はしていないが、使い慣れているせいか、
それらの言葉をよく使っているために、自然にそうなるようだ。直さねばならない悪
癖なのだろうか。
 
2. なかなか使えないが、何とも言えない、これぞ日本語の中の日本語を思わせ
   る言葉
 1) 文章についての表現
 例えば「文章を編(ア)む」とか「文章を紡(ツム)ぎ出す」など実際に書いてみ
たいし、「秀雅(シュウガ)」な文章まどという表現もしてみたい。
 
 2)「生中(ナマナカ)」手に入ると・・・
 次の主文として表したい文章の内容にもよるでしょうが、特に次の主題によっては
「生半可(ナマハンカ)」の方が相応しいかもしれないし、「生半尺(ナマハンジャ
ク)」という言葉もある。いずれにしても、「中途半端で具合が悪い」という気持ち
を誇張するのにはもってこいの言葉だと思う。筆者のノートの中では使ってみたい言
葉の上位を占めている。
 
 3)「徒花(アダバナ)」
 「無駄花」を表したい時でも、「咲いて直ぐ散ってしまうはかない」例えとして利
用するにも最適の短い表現と思うが、なかなか使えないのが悲しい。思いだされる歌、
“風をだに待つほどもなきあだ花は 枝にかかれる春の淡雪(藤原行家)”。
 
 4)「岨(ソバ)伝いに歩いて・・・」「山の岨、海の汀(ミギワ)」
 平家物語に「一の谷、生田の森、山の岨、海の汀」と 山の岨
山の岨
いう段の表現があるが、山歩きの旅を綴るときに使いた
いと常々思っている。特に山のガレ場斜面を横切る道を
進めるときの表現に使いたいと思いながら、今日まで使
えないでいる言葉の一つである。汀(ミギワ)もたまに
は陳腐な渚(ナギサ)の代わりに使いたいものである。
陸地が海に接している、その接点を力強く感じさせるの
に効果があると思うが如何であろうか。
 
 5)「恬然(テンゼン)として恥じない」
 心に何のわだかまりも、悪意も故意もなく、平然として安らかな状態で、自信をも
って意見を述べたりするときに使ってみたい言葉の一つである。使えていないのはひ
ょっとしてそういう純粋な気持ちになれなかったこと、何か心に一物があったがため
にできなかったことを意味しているのであろうか。
 
 6)「擱(オ)く」
 中止する、止める、を表す言葉だが、「筆を擱く」などちょっと格調高い表現にな
るのではなかろうか。
 
 7)「馥郁(フクイク)たる初夏の風」
 昨今のただ無暗に暑く湿り気の多い空気がよどんでいる風景とは違って、いかにも
心地よい、香りを載せた、肌に優しい希望を感じさせる風を思ってしまう。情景描写
として、“馥郁たる初夏の風が、目の前の池の上を渡り、林の木々の間を通り抜けて
いきます。”何処か奥深い森や裏庭のある屋敷を思い描いて、気持ちが安らぐ思いで
ある。
 
3. エピローグ
 これらの夥しい数の日本語の語彙を無尽蔵に操れる書き手になれればと念じている
が、しみじみ日本語は奥が深いと感じる。いずれにしても、無味乾燥な通り一遍の文
章よりも、当意即妙にその場その場、そのときの感情や情景にうまく適応した素晴ら
しい表現を試みられればと何時も思っている次第である。世の東西を問わず、特に言
葉で生活し、意志疎通を図る仕事をしていると、いかにして一つの意味や伝えたい事
柄を数多くの他の表現や言い回しに変えて、あるいは置き換えて意思疎通の貫徹を企
てるかが当人の力の見せどころだと思うようになった。これからも更にさらに多くの
語彙を身に着け、活用できるようになりたいという思いを強くしている。
                                     了
                         2018年7月15日(日)  記
 
2018. 8. 5 鈴木 松浦武四郎とはどんな人(2/2)
 
    松浦武四郎とはどんな人(2/2) 横須賀市 鈴木 富雄
 
6.蝦夷地探査(計6回)の動き
 武四郎は蝦夷地探査を、第1回の1845年から第6回の1858年までに6回行っている。
そのうちの3回(28才、29才、32才)は、松前藩が蝦夷地を支配していて、彼は自費
で探査を行っている。
 第3回の蝦夷探査を終えて渡航蝦夷日誌を出した33才の頃には、間宮林蔵等の先駆
の探検家達は他界しており、武四郎が蝦夷通の第一人者となっていた。
 残りの3回(39才、40才、41才)は、37才の時には、江戸幕府のお雇人になってい
たので、官費で役人として探査を行っている。
 
 第1回は、函館、森、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室  (28才)
 第2回は、江刺、宗谷、樺太、紋別、知床、宗谷、石狩、千歳 (29才)
 第3回は、函館、国後島、択捉島へ渡る。          (32才)
 第4回は、函館、宗谷、樺太、根室、様似、有珠など     (39才)
 第5回は、函館、石狩、上川、天塩など           (40才)
 第6回は、函館、石狩、宗谷、北見、十勝、阿寒、日高など  (41才)
 
第6回の蝦夷地探査の行程
第6回の蝦夷地探査の行程
 武四郎は、第3回の蝦夷探査(自費)が終わった後に、
蝦夷地日誌や蝦夷大概図などをまとめ、更に松前藩の藩
士や場所請負人〈特権的商人〉が行ったアイヌ人との不
当な交易や、度を越したアイヌ人への過酷な労働等につ
いてその実態を、松前藩に報告するが、取り扱ってもら
えなかった。それどころか、松前藩からは、武四郎はけ
しからん奴だとして命さえも狙われるようになった。
 しかし、江戸では、蝦夷地を知る第一人者として認め
られていたので、蝦夷地が江戸幕府の直轄地になった時には、幕府のお雇人として抱
えられ、第4回〜第6回の蝦夷探査は役人として行っている。残念ながら、この時点
でも、結局アイヌ人への不当な行為は続いていた。
 この間の膨大な調査資料をもとに、探査終了後には地誌や日誌、人物誌等を書き上
げている。
 
 彼の偉大な業績は、13年間に6回に及ぶ蝦夷地探査を行い、蝦夷地の地理、文化、
生活様式、動植物等をまとめ上げたのに加えて、蝦夷地先住民、アイヌ人を同等の人
間として扱い、和人の非道を許さず彼らの為にできることに尽力したことにある。
 
7.新政府での栄光と失望
 1868年(明治元年、51才)4月、明治政府から函館判官事を命じられ,従五位を叙さ
れ、生活は安定した。 翌年(1869年/明治2年52才)には蝦夷開拓御用掛を命じられ
た。
 この年7月、明治政府から蝦夷に変わる名称を求められ、6案を提案している。                     
北加伊道、日高見道、開北道、海島道、東北道、千島道、であり、この中から、
「北加伊道」が選ばれたが、表記は「北海道」だった。
 武四郎の名称には、思いが込められていて、地名には先住民のアイヌ人が使ってい
た地名を盛り込むことであった。アイヌ人は地名にその土地の特徴を表していた。加
伊という言葉には「この地に生まれたもの」という意味が込められていて武四郎のア
イヌ人への篤い思いが込められていた。
 1869年8月には蝦夷開拓判官を命名された。(52才)
 1869年8月15日、太政官布告によって「蝦夷」から「北海道」と改名された。今年
の8月15日で150年を迎える。他にも11国名と86郡の命名者でもある。
 
 因みに北見国は「北方に遠い樺太が見える」ということで名づけられた。当時の北
見国は宗谷地方から知床半島までの広範囲にわたっていた。北見市は、昭和17年の市
制改革の年に、当時の野付牛町(アイヌ語で、「ヌプンケシ」と呼ばれ、野の端の意
味)から、北見国の中心に位置しており、北見へと改名されている。
 
 こうした新政府の仕事を遂行している矢先の1870年3月、53才の時に開拓判官を辞
職し、従五位の位階も返上している。理由は新政府に対して提案した@松前藩の転封
A場所請負人の廃止 が受け入れられず、期待した新政府にも裏切られた思いから辞
職したのであった。開拓判官の在職は8ケ月であった。
 ここでも、常に正義と人道の立場で物事をとらえ、提言、進言を貫くという彼の変
わらぬ一貫した生き方が見受けられる。
 
8.市井人としての自由な人生
 その後(54才以降)は、武四郎が42才の時に結婚した妻(とう、旗本の娘)と一緒
に、東京の神田の馬場先南の岩倉具視(明治政府の一の立役者)の長屋に落ち着いて
執筆活動を続ける、傍ら、旅を続けていた。晩年も忙しく、著作の傍ら、古銭、古鏡、
土器、古仏像等の蒐集(しゅうしゅう)に注力していた。
 68才〜70才まで故郷の大台ケ原探査を3回行っている。また、1887年には70歳で富
士山を登頂している。 武四郎のお墓(染井霊園)
武四郎のお墓(染井霊園)
 1888年に脳卒中で倒れ、2月10日午前4時に71才で永
眠された。
 遺骨は東京の駒込にある染井霊園の一画に埋葬されて
いる。その後、ふるさとの大台ケ原にも分骨が埋葬され
ている。
 
 
 
9.学問・交友関係
・平松楽斎は津藩にあった塾で、武四郎が13才〜16歳まで入塾していた時の先生。
 大塩平八郎や中川遇所等の高名な学者に出会っている。
・津川蝶園(長崎の文化人、平戸に出入りし、外国の情報通)は、蝦夷地探査を決意
 させた人。
・吉田松陰(24才)が1853年に武四郎(36才)を訪ね、蝦夷の海防について談議する。
 二人とも寅年生まれ。松陰は1859年30才で死刑。
・徳川斉昭(水戸藩主)1800年〜1860年(61才)文武奨励、蝦夷探査の理解者・支援
 者、蝦夷地図配布。伊能忠敬の全国地図作成支援、日本の国防対策の必要性を主張。
 井伊大老と対立し永蟄居命ぜられる。
・西郷隆盛(1828年生まれ、武四郎より10才下)、大久保一蔵(利通)(1830年生ま
 れ、武四郎より12才下)は薩摩藩の郷士(下級武士)であり、1866年に武四郎(49
 才)を訪ね、国防について談義する。武四郎が江戸幕府のみならず勤皇の志士達か
 らも期待され、信頼される存在であった。
 
10.多彩な才能
・地質・地理、 ・植物・動物、 ・絵画・スケッチ、 ・短歌・詩歌
・篆刻(てんこく)の技、山口遇所(江戸出身の平松塾の仲間)から伝授。
・仏教(21才〜26才)、般若心経他
・アイヌ語堪能 寝食共にする中で修得した。
・文筆家、出版業、蔵書200冊以上に及ぶ。
 
武四郎の記念碑一覧
武四郎の記念碑一覧
【最後に】
 北海道内には武四郎の記念碑が54か所あるという。
真に今日の北海道があるのは、「武四郎のお蔭」と言っ
ても過言ではない。道産子の私としては、いつまでも
「武四郎に感謝し、武四郎を忘れてはならない。」とい
う思いが強い。
 
 
 
2018. 7.22 鈴木 松浦武四郎とはどんな人(1/2)
 
    松浦武四郎とはどんな人(1/2) 横須賀市 鈴木 富雄
 
本テーマを北見市で講演
本テーマを北見市で講演
 松浦武四郎という人物をご存知であろうか?
 江戸時代末期から明治新政府の初期に、全国を行脚し、
特に蝦夷地探査を6回に亘って行い、北海道の正確な地
図を作った多才で偉大な探検家である。
 今年、8月15日に、蝦夷から北海道と命名されて150年
を迎える。この北海道の名付け親が松浦武四郎であり、
しかも生誕200年を迎えるという記念の年になっている。
彼の偉大で崇高な人生を多くの人に知っていただきたい
という思いから投稿させていただいた。
 
1.武四郎祭りと生家訪問
 平成30年2月25日(日)彼の生地、伊勢国須川村(現在の三重県松坂市小野江町)
にある、武四郎記念館で「武四郎まつり」(毎年2月開催)が開催されることを知り、
現地を訪ねてきた。前夜の2月24日(土)は、平昌オリンピックで日本代表のLS北見
がカーリング競技で銅メダルを獲得した日である。私の地元、北見/常呂が一気に全
国的に知れ渡り、「そだねー」や「もぐもぐタイム」の言葉が流行ったのを覚えてい
るでしょうか。 武四郎記念館
武四郎記念館
 武四郎記念館は、松阪市というよりも、伊勢神宮の近
くといった方がわかりやすいでしょうか。伊勢神宮まで
約30kmの距離にあり、周りは畑もある静かな場所であっ
た。当日は、生誕200年を記念して、模擬店等が出店さ
れ、地元の人や遠くから駆けつけた武四郎フアンで溢れ
ていた。
 館内には松浦武四郎誕生200年記念事業のポスターが貼
られ「三重県松坂市が生んだ北海道の名付け親」と書かれていた。
松浦武四郎肖像画
松浦武四郎肖像画
武四郎生誕200年記念事業の案内ポスター
武四郎生誕200年記念事業の案内ポスター
特設舞台でのアイヌ人の演技
特設舞台でのアイヌ人の演技
 何でも、松坂市の三大有名人として本居宣長、蒲生氏郷、松浦武四郎が挙げられて
いた。地元ではよく知られた人物となっている。また、館の外では特設舞台が設置さ
れ、アイヌ人による民族舞踊や寸劇が披露されていた。アイヌ人のために尽した偉大
な武四郎の為に、わざわざ北海道の「静内民族文化保存会」の皆さんが参加してくれ
たとのことだった。記念祭りイベントでは、特に、来場者の耳目を引いていた。
 更に、記念館から徒歩5分、伊勢街道に面した場所に武四郎の生家があった。母屋
の隣には客間があり、奥には、納屋(倉庫)が2軒あって、武四郎から送られてきた
膨大な調査資料や書き上げた蔵書等を保管していたとのことである。
 
2.家柄と環境
 松浦家は徳川の紀州和歌山藩の郷士(平時の時は農業を行い、戦になったら兵士と
して働く、下級武士)であり、代々庄屋(田畑10町歩、10万u、札幌ドーム5.3万u、
2個分)を続けていた。名字帯刀が許される比較的裕福な家庭であった。実家は伊勢
街道沿いにあり、人の往来が多く、東海道にも近い交通の要所であった。父親の圭介
時春は本居宣長の教えを受けた国学者であり和歌、短歌、詩歌にも通じていた。
 武四郎は、1818年2月6日に、姉1人、兄3人の5人兄弟の末っ子として生まれた。
奇遇なことに、江戸時代の探検家・地理学者で有名な伊能忠敬の没年にあたっている。
 名前は寅年生まれで、虎は竹林に関係することから「竹」をとり、四男と併せて竹
四郎と名付けられた。身長は成人になっても、150p弱と小さかったが、すこぶる健
脚で、強情一徹な少年であったという。
 
3.旅への思いから、旅立へ
 実家は、上述したとおり、当時、伊勢神宮へ繋がる伊勢街道(参道)に面しており、
小さい頃から、伊勢神宮を参拝する人が列をなしていた。武四郎は家の前を歩いてい
く旅人の姿を目にして、この人たちはどこから来たのだろうか?その土地はどんなと
ころなのだろうかと思うようになり、子供心に旅をしてみたいという願望が膨らんで
きた。特に1830年(13才)には「文政のお蔭参り」がブームになり、全国から400〜
500万の人が、伊勢神宮を訪れていた。
 13才で隣藩にある有名な平松楽斎塾に入門してからも、勉強する傍ら、諸国を回っ
てみたいという気持ちが益々強まってきた。そんな武四郎が16才の時に、突然平松塾
を辞めて実家に戻り、諸国を回りたいとの話をするが、父親の猛反対にあう。強情一
徹な武四郎は、黙って家出し、平松塾で知り合った江戸出身の山口遇所宅を訪ねて江
戸に向かった。しかし、直ぐに父親圭介に知れることになり、1ケ月半後には戻され
ている。
 実家に戻ってからも、心は全国を旅することしかなく、何度も、武四郎は、父圭介
の説得に努めており、遂に17才の時に、父親の許しが出て、先ずは、京都へ向かって
いる。旅立に際して、父親は、どうせ2年から3年もすれば戻ってくるだろうと思い、
路銀として1両(現在価値13万円位)を渡している。ここから、全国行脚の旅が始ま
った。
 
4.諸国巡り
 17才から、10年間の長旅が始まった。彼の踏破した経路を見ると、北海道(当時の
蝦夷地)、沖縄を除いて、全国を対象に、東北、北陸、関東、近畿、中国、四国、
九州といった全国を回っており、特に西日本を多く行脚している。
 この10年間のうち、21才の時に、仏門に入っているが、長崎で疫病にかかり、死ぬ
寸前の時に僧侶に助けられたことがきっかけであった。僧侶(文桂、住職)になって
も旅を続けていたが、この時点でも旅の目的は「見聞を広め、種々の人間にあって話
をしたい」という思いであった。
 長崎では、平戸、壱岐、対馬に旅し、更に朝鮮、唐(中国)・天竺(インド)まで
の渡航を考えていたとのことだが、当時の日本は鎖国体制が厳しく、出国も入国もで
きなかったので、海外渡航は断念せざるを得なかった。
 
5.津川蝶園との出会い、蝦夷地探査への決意
 そうこうしている中で、26才の時に、長崎の平戸であった老人(儒学者)津川蝶園
なる人物と会って話しをしているときに、この老人から「あなたの旅の目的は何です
か」と尋ねられ「全国を廻って、いろいろなことを知りたいのです。」と答えると、
その老人は徐に切り出し「今日本は外国から攻められていま。特に一番の危険は蝦夷
地をロシアやヨーロッパの諸国が狙っています。」と告げられる。この当時の江戸幕
府はもちろん、松前藩も鎖国体制のもとで、外国を相手にしていなかった。こんなこ
とでよいのでしょうか?危機的状況が日増しに高まっていきます。」この時、武四郎
は、このままでは蝦夷地が危ない、当時は蝦夷地については、正確な地図がなく、国
境さえ曖昧だった。蝦夷地を守るためにも蝦夷地の正確な地図が必要であることを自
覚し、蝦夷地探査を決意する。
 一度決めたら、強情一徹な武四郎は、直ぐに、蝦夷地探査を実行に移すために、僧
侶を辞めて、名前も竹四郎から武四郎に変えた。26才の還俗であった。早速、長崎を
離れ、故郷の伊勢国須川村に向かった。17歳で全国を巡る旅に出て10年の歳月が過ぎ
ていた。既に父圭介は21才の時に他界し、母とうも、25才の時に他界していたので、
父の7回忌と母の3回忌の法事を済ませて、伊勢神宮を参詣し蝦夷へ向かった。
(27才の時)
 
<事務局注>
 「蝦夷地探査」から「新政府での活躍」については、2/2に掲載します。