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1. はじめに |
週刊誌の読書欄の書評で面白そうに思え、駅ビルの書店に立ち寄って求め、早速一
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気に読んだ。著者佐伯一麦(さえき かずみ)にも、書 |
佐伯一麦の「空にみずうみ」 |
名にも何の予備知識も持ち合わせてはいなかった。まっ |
たく下調べもなく飛びついた。 |
地方の大きな都市に住む早瀬と夫人の柚子という中年 |
夫婦の日常を綴った私小説で、植物や昆虫、花に果物など |
を題名にした8篇のエッセイを集大成したものである。 |
読み終えた後の巻末の解説で分かったことであるが、こ |
の本に纏められた文章はすべて2014年6月23日か |
ら2015年5月26日までの約11ヶ月にわたって「読売新聞」夕刊に連載された |
もので、著者はほぼ毎日一回分のペースで朝の時間帯に書き記したものだそうである。 |
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2. 綴られている内容 |
読み進むうちに、筆者にはこの著者が何となく身近な存在に思え、歳も近いのかも |
知れないという気になった(注:実際には50歳代の大分若い方と分かったが・・・)。 |
8篇の小篇のいずれにも、これでもかというくらい野鳥の名、蝶・蛾、蝉、甲虫、蛇 |
等の動物から、ネジバナ、ヤマボウ(山帽子)、無花果、アキノキリンソウ、フジバ |
カマ等の植物の名が次から次へと登場するので、相当博物学に造詣の深い著者ではな |
かろうかと、一段と興味を引き立てられ、筆者の好奇心の絶好の餌食になったのであ |
った。 |
感心させられた一つには、これら個々の動植物にまつわる話の展開の中に、徳川夢 |
声、古今亭志ん生、内田百閨A伊達政宗、福原麟太郎、松本俊介、松尾芭蕉、伊藤静 |
雄、斎藤茂吉、小宮豊隆、ルノアール、ブラームス等世の東西の著名人と絡む逸話が |
巧くちりばめられていて、文章表現のみならず、風景描写に何とも言えぬ奥深さとバ |
ックミュージックの中に輝いている心地よい雰囲気が感じられる。 |
作品の中頃、8番目の小篇「大きなスイカ」には、たくさんの昆虫が登場する。 |
アメリカシロヒトリの習性やエダナナフシとナナフシモドキの違いやモンシロチョウ |
やアゲハの幼虫の観察、これら幼虫とアシナガバチとの天敵関係など数多くのまるで |
「ファーブルの昆虫記」を読んでいるような気にさせられる。勿論併せて植物や樹木 |
の名前も次から次へと現れ、博物をめぐるエッセイのようだ。 |
次の9篇目の「チョッキリ」と題する小篇では、カモシカの植物の食べ方やキビタ |
キの囀りやチョッキリという甲虫目のオトシブミの一種がどんぐりの実に穴を掘って |
卵を産む話とかが紹介される。
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約一年にわたる大きな季節の移り変わりを、登場する野獣、小鳥、昆虫、植物、花 |
が気象と共に綴られて行くが、柔らかい文章と、気の利いた観察力が交互に編み込ま |
れて気持ちよく読めた。
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3. 引用文の巧みさと充実した結末 |
最後の小篇「四年ののち」がなかなか内容濃く、素晴らしい締め括りの役割を果た |
している。題の4年とは椿の種を蒔いてから花が咲くまでの期間のことだと分かった |
が、実が生るまでには誰でも知っている「桃栗3年、柿8年、梅はすいすい13年」 |
という諺があるが、この4年は椿の花が咲くまでの時期を指していて、赤の濃い黒椿 |
を枕元に活けて、寝ているうちに、深夜バサッという音を立てて花がまとまって床に |
落ちた瞬間の描写が率直で、実際のところ筆者も読んでいて不気味さを感じた。この |
箇所でも、著者は巧みに里見 ク(さとみ とん)の「椿」という短篇を思い出して |
引用しているのが面白い。里見は椿の花が落ちて、バサッという音を立てると、ギョ |
ッとして怖がり、血が垂れているようだと気味悪がった果てに、居合わせた女性二人 |
は可笑しくなって、思い切りくっくっと笑い転げる様を書き写している。ところが、 |
物語が終わりに近づくと、柚子夫人が英語のレッスンの友人と病気で入院後再会した |
のが4年後であった。同じ柚子が無事に個展をオープンできたのも4年前だったこと |
も分かってくる。他にも住んでいるところの周囲の樹林が茂っていたのが、欅のほか |
幾つかの木々が生き残ったものの、昔の面影は感じられないと気付くのも4年後とな |
っている。また、ある時大雪が降って来た時に慌てて布団を注文したが、売り切れで |
買えなかったのを思い出したのも4年後再び大雪を迎えとときのことだった。日常の
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大きな変化が4年周期で起きていると著者は言いたいようである。4年という期間は |
確かな思い出をしっかり話に出せる最長の期間なのかもしれない。他にもこれでもか |
と幾つもの4年周期の話が並べられる。特別な思いで見た月が巡って来るのも4年目 |
であるし、この小説の一貫した舞台となっている野草園の中の急坂には4年前に地滑 |
りが起きていたことも思い出されて書き足されている。あらゆる可能性を見付けて、 |
羅列し、読者に思い込ませることも小説の必要な一つの手段、テクニックなのかと筆 |
者には考えさせられた。 |
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1.プロローグ |
学者でもなく、歴史に精通している訳でもない筆者には甚だ重い首題ながら、受け |
た教育を通しての理解と現在行われている歴史的事実及びその解釈と理解があまりに |
も隔たっていて、大きな齟齬を生じていることを感じずには得ないため、敢えてこの |
題の下に一文を物してみようと考えました。筆者は第二次世界大戦後の新教育制度に |
なっての昭和24年入学の2期生で、中学、高校の歴史教育の中で学んだ日本史では、 |
現在の学者の歴史構造の背景の解釈と論理の展開には大きな違いがあることを発見し |
て、一方では唖然とし、他方ではどうしてそうなってしまったの? と驚きと不可思 |
議を感じる場面が多いのに、正直言って、相当に面食らっている。筆者も自分の考え |
方を直して、現代版の解釈に倣わなければならないのか。そうするためにはどうすれ |
ば良いのか。内心かなりの辛い思いを抱いているというのが、偽らざる昨今の気持ち |
です。 |
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2.“白村江の戦い”を典型的な例として |
ごく卑近な主題を提起して、考察を加えてみましょう。 |
白村江の戦い_関連図 |
第一に思いだされるのが、天智称制2(663)年に日本か |
ら一方的に戦いに挑んだ“白村江の戦い”についての、 |
筆者が中学、高校の日本史の教科で学んだことと、現在 |
学会の統一見解として言われている学説との間には、大 |
きな隔たりがあると言わざるを得ません。少なくとも、 |
筆者には今日までこの疑問が解けずにいるのです。 |
まず初めに、“白村江の戦い”の読み方です。筆者は |
中学・高校・大学を通して、常に「はくすきのえのたたかい」と教わりました。が、 |
現在では、「はくそんこうのたたかい」と呼んでいます。未だにその理由が分かりま |
せん。このように勝手に変えてしまってよいものなのでしょうか。門外漢ながら甚だ |
不思議に感じています。そう言えば、この戦役に関係した“新羅”を筆者は「しらぎ」 |
と習いましたが、今は「しんら」と呼んでいます。同じく関係国であった“百済”は、 |
筆者は「くだら」と教わりましたが、現在では、「ひゃくさい」と称しています。お |
かしいとは思われませんか。日本の例えば京都泉涌寺の百済観音も奈良斑鳩の里法隆
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百済観音 |
寺の百済観音もまた依然として「くだらかんのん」と呼 |
んで説明されています。それにも拘らず、歴史上では |
“百済”は「くだら」ではなく、「ひゃくさい」なのだ |
そうです。筆者には正直には従えない気持ちです。これ |
らは単なる読み方の違いに過ぎないのかもしれませんが、 |
わざわざ紛らわしく読み方の違いを設けなければならな |
い理由がどこにあるのでしょうか。次に、もう少しこの |
戦いの背景の解釈の違いを見てみましょう。 |
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3.背景にある歴史学者の解釈の功罪 |
もうしばらく、“白村江の戦い”に留まって、筆者が学んだ中学・高校でのこの戦 |
いの意味合いと現在日本の歴史学会で行われている理論付けとの違いというか、ギャ |
ップについて、どのようなことになっているのかを綴ってみたいと思います。 |
では、まず朝鮮半島への出兵の本当の理由は何だったのでしょうか。筆者は学校で |
は100%百済への救援であった、と教わりました。でも、戦争当時の日本の考え方は国 |
際的には認められず、現在では日本の歴史学者の間でも、出兵は必ずしも百済の救援 |
ではなく、敗れても良い、敗れることによって唐や新羅が倭国に攻めてくるかもしれ |
ないという危機感を煽ることが主目的で、極端なことを言えば、戦争をすること自体 |
が真の目的であったとまで公然と述べられているのです。大事なことは、当時では国 |
内を一つに纏め、自分たちの権力基盤を固めることにあったようです。もっと極端な |
見方では邪魔な豪族を派遣して、死なせてしまい、亡き者にして、勢力を殺ぐことに |
も利用されたと説くのです。 |
これまで例に挙げた“白村江の戦い”に限ってみても、現在日本の歴史学会の先生 |
方の統一見解は以下のようになっていると考えられますが、筆者の理解とは大きな乖 |
離があります。即ち、対外的な危機感を煽ることで、国内統治や権力の行使を円滑に |
するために朝鮮出兵に踏み切ったのだと求めたいのです。出兵こそがそのための「手 |
段」であったとしたいのです。外敵の襲来に備えて、幾つもの城が日本に築かれまし |
たが、筆者も対馬への旅で訪ねた金田城(かなたじょう)(現在長崎県対馬市美津島 |
在)や讃岐の屋島城(現香川県高松市屋島在)が思い浮かびます。
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1. プロローグ |
1958年9月ローマに留学した須賀敦子(1929年兵庫県生まれ、聖心女子大卒。1953 |
年よりパリ、ローマに留学)はその後ミラノに在住、1971年に帰国後、慶應義塾大学 |
で文学博士号取得、上智大学比較文化学部教授を務めた。1991年以降滞欧時の生活や |
交流のあった人々について記した短編やエッセイを次々に上梓し、1991年『ミラノ霧 |
の風景』(1990年、白水社刊)で講談社エッセイ賞およ |
須賀敦子全集 |
び女流文学賞を受賞。著書としては『コルシア書店の仲 |
間たち』(1992年文藝春秋新社刊)、『ヴェネツィアの |
宿』(1993年文藝春秋新社刊)、『トリエステの坂道』 |
(1995年みすず書房刊)がある。1998年逝去、享年69歳。 |
没後『須賀敦子全集』(全8巻・別巻1)が河出書房新 |
社から出版されている。2006年から文庫としても出され |
ている。 |
近年、須賀敦子(以下本文中では「須賀」と略称する)の著作のみならず、彼女が |
積極的に努力して翻訳し、日本に紹介したフランスやイタリアの詩作や短編にも関心 |
が寄せられ、彼女の生い立ちを紹介するもの、例えば、東京芸術大学美術学部建築学 |
科卒の作家で評論家である松山 巌 氏が表した『須賀敦子の方へ』(平成30年3月1 |
日初版、新潮文庫)や須賀とは雑誌「LITERARY Switch」のインタビューで知り合っ |
てから、彼女が亡くなるまで親しい関係にあった小説家、エッセイスト、批評家と横 |
断的なジャーナリストとして国際的に活躍された大竹昭子(1950年東京生まれ)が、 |
須賀の没後、『須賀敦子のミラノ』、『須賀敦子のヴェネツィア』、『須賀敦子のロー |
マ』(いずれも河出書房新社刊)を刊行し、須賀のこれらイタリアの代表的な都市に |
須賀敦子の方へ |
須賀敦子の旅路 |
滞在中の生活や交流された |
宗教上、文学上の人々との |
足跡を細かくフォローして |
紹介している。大竹昭子さ |
んは、『須賀敦子の旅路― |
ミラノ、ヴェネツィア、ロー |
マ、そして東京―』を2018 |
年3月10日初版で文春文庫 |
から出版されている。 |
2. 筆者がひかれる須賀敦子の流麗な文章 |
筆者が初めて欧州に足を踏み入れた1968年より15年も前にフランス、イタリアに赴 |
き、イタリアの書店主と結婚し、書店の経営を助ける傍ら、イタリア、フランスの文 |
学者の作品を積極的に日本に紹介した功績もさることながら、須賀の文章の流れと響 |
きが非常に力みがなく、気張らない自然体であることと、筆者より年配の日本人、特 |
に著作に携わる方々は、往々にして漢語の多い文章や漢字を多用する固い文章が多い |
ように思われるが、彼女の文章は逆に漢字が使える場面でも敢えて使わず、柔らかい |
ひらがなの綴りを続けておられる姿勢に身近な親しみというか、温かみを感じるので |
ある。上記に参照した短編やエッセイの中から2つ、3つ拾い出してみたい。 |
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また、1995年にみすず書房から出版された『トリエステの坂道』に収められている |
エッセイ「キッチンが変わった日」の中には、次のような微妙な女心の表現が筆者の
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気を引いた。 |
「あの子は、まるでいいとこのぼっちゃんみたいだった。それが21年の短い生涯を終 |
えた、彼女のかけがえのない長男への哀悼の言葉だった。面長で、色白で、私たちの |
どちらにも似ていなかった。それに、わたしはマリオのことで一度だって苦労したこ |
とはない。そうも姑は言いつづけた。あの子は、私たち |
須賀敦子エッセンス1 |
をよろこばせるためにだけ、生まれてきた。毎年、彼の
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命日の1月18日が近づくと、姑は、わたしが死んでしま |
うがよかったのに、と繰り返した。気をわるくしないで |
おくれ、と姑は私にあやまった。こんなこと言って。こ |
の時期になると、なにをどう考えていいやら、わからな |
くなるのよ。おなじ月の19日が誕生日の私は、ながいこ
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と、そのことを彼女に言い出せなかった」。 |
3. エピローグ――以来の須賀かぶれは何時全快するのだろうか?―― |
設問を自分で設定していながら「答えは難しいな!!」と思っているが、後にも先 |
にも彼女のような欧州人との生活を送った人は、少なくとも筆者は知らないし、彼女 |
が積極的に行動に移した幾つかの事柄については一つひとつ違って、筆者にも意見が |
ないと言えば嘘になる。でも、意見の共通している部分は多く、問題視することはそ |
んなに多くないと思っているので、心配することなく時間と共に解決できるものと思 |
っている。 |
今年の5月の連休に、上記に参照した大竹昭子さんが須賀を訪ねて取材していた頃 |
の大竹さん自身が撮った写真の展覧会「須賀敦子のいたところ」が、森岡書店銀座店 |
で行われているのを見付けて、出掛けた。多分今となっては、これらの活動中の須賀 |
を物語る記録写真は残されていないだろうから、本当にモニュメンタルな試みだと目 |
を輝かせて逐一吟味して眺めた。その時にも自分自身が主体になって周囲に影響を及 |
ぼし、交流の輪というか、議論の輪というかを広めて行けることは日本人には極めて |
珍しい存在であったことだろうと思った。筆者も長い間国際的な仕事に身を投じてき |
たが、とても須賀のように自己の主張を貫けてはいないし、まだまだ弱いと思ってし |
まう。須賀も必ずしも順風満帆の人生が送れたとは思っていないが、その都度迎えた |
難問・苦汁に対し、周囲のいろいろ立場の違う人々の力を借りて、先送りすることな |
く解決してきたように思われる。近年日本の最低賃金レベルが欧州の平均以下になっ |
て、近くの中国や韓国の人々にさえも、さほど魅力をもって評価されない状況になり |
つつあるが、この相対的貧困率の上昇を食い止めるためにも、1990年代以降確実視さ |
れるようになった格差社会を現在以上に拡大させないよう、公の力を借りて修正・補 |
正するだけでなく、周囲の社会や人々とのつながりを各人の努力で強化することによ |
り、つながりの場を創り出すよう、「共助」の力を大いに利用すべきで、この辺りの |
努力が最近の日本人には欠けてきているのではないか。65歳以上のいわゆる「下流老 |
人」も含めて、新しい階級社会の「アンダークラス」を構成する俗にいう「貧困」も |
単にお金がないだけではなく、周辺社会や人々とのつながりが薄れてきていることに、 |
日本の今の時代の大きな問題が隠されているように思えてならない。 |
いずれにしても、須賀の作品には改めて、しっかりした毎日の生活の有難さ、尊さ |
を思い知らされ、元気をなくしつつあるこのところの毎日に新たな張りと勇気を与え |
られたようで、大変清々しい気持ちにさせられた。久し振りに味わった得難い読書経 |
験であった。 了 |
2018年8月5日(日) 記 |
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2)「自動車」 |
「隣の自動車の止め方もう少し何とかならないかね!」、あるとき筆者はそう娘に |
乗合自動車 |
問い掛けた。「親父はまだ『自動車』なんて言う単語を |
使うんだ!本当に戦前の人なんだね!」と、返事が返っ |
てきた。「そんならどう言えばいいの!」。「当たり前 |
に車だけでいいじゃないの。車の止め方を強調したいな |
ら、カーパークの仕方とか、パーキングの仕方とか言っ |
てもいいけど・・・」。これらの一連の会話の後、筆者 |
はなぜか、終戦直後の薪を焚いて走っていた当時のバス |
が『乗合自動車』と呼ばれていたことを思い出し、一人 |
で噴き出してしまった。
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第6回の蝦夷地探査の行程 |
武四郎は、第3回の蝦夷探査(自費)が終わった後に、 |
蝦夷地日誌や蝦夷大概図などをまとめ、更に松前藩の藩 |
士や場所請負人〈特権的商人〉が行ったアイヌ人との不 |
当な交易や、度を越したアイヌ人への過酷な労働等につ |
いてその実態を、松前藩に報告するが、取り扱ってもら |
えなかった。それどころか、松前藩からは、武四郎はけ |
しからん奴だとして命さえも狙われるようになった。 |
しかし、江戸では、蝦夷地を知る第一人者として認め |
られていたので、蝦夷地が江戸幕府の直轄地になった時には、幕府のお雇人として抱 |
えられ、第4回〜第6回の蝦夷探査は役人として行っている。残念ながら、この時点 |
でも、結局アイヌ人への不当な行為は続いていた。
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この間の膨大な調査資料をもとに、探査終了後には地誌や日誌、人物誌等を書き上 |
げている。 |
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7.新政府での栄光と失望 |
1868年(明治元年、51才)4月、明治政府から函館判官事を命じられ,従五位を叙さ |
れ、生活は安定した。 翌年(1869年/明治2年52才)には蝦夷開拓御用掛を命じられ
|
た。 |
この年7月、明治政府から蝦夷に変わる名称を求められ、6案を提案している。
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北加伊道、日高見道、開北道、海島道、東北道、千島道、であり、この中から、 |
「北加伊道」が選ばれたが、表記は「北海道」だった。 |
武四郎の名称には、思いが込められていて、地名には先住民のアイヌ人が使ってい |
た地名を盛り込むことであった。アイヌ人は地名にその土地の特徴を表していた。加 |
伊という言葉には「この地に生まれたもの」という意味が込められていて武四郎のア |
イヌ人への篤い思いが込められていた。 |
1869年8月には蝦夷開拓判官を命名された。(52才) |
1869年8月15日、太政官布告によって「蝦夷」から「北海道」と改名された。今年 |
の8月15日で150年を迎える。他にも11国名と86郡の命名者でもある。
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9.学問・交友関係 |
・平松楽斎は津藩にあった塾で、武四郎が13才〜16歳まで入塾していた時の先生。 |
大塩平八郎や中川遇所等の高名な学者に出会っている。 |
・津川蝶園(長崎の文化人、平戸に出入りし、外国の情報通)は、蝦夷地探査を決意 |
させた人。 |
・吉田松陰(24才)が1853年に武四郎(36才)を訪ね、蝦夷の海防について談議する。 |
二人とも寅年生まれ。松陰は1859年30才で死刑。 |
・徳川斉昭(水戸藩主)1800年〜1860年(61才)文武奨励、蝦夷探査の理解者・支援 |
者、蝦夷地図配布。伊能忠敬の全国地図作成支援、日本の国防対策の必要性を主張。 |
井伊大老と対立し永蟄居命ぜられる。 |
・西郷隆盛(1828年生まれ、武四郎より10才下)、大久保一蔵(利通)(1830年生ま |
れ、武四郎より12才下)は薩摩藩の郷士(下級武士)であり、1866年に武四郎(49 |
才)を訪ね、国防について談義する。武四郎が江戸幕府のみならず勤皇の志士達か |
らも期待され、信頼される存在であった。 |
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1.武四郎祭りと生家訪問 |
平成30年2月25日(日)彼の生地、伊勢国須川村(現在の三重県松坂市小野江町) |
にある、武四郎記念館で「武四郎まつり」(毎年2月開催)が開催されることを知り、 |
現地を訪ねてきた。前夜の2月24日(土)は、平昌オリンピックで日本代表のLS北見 |
がカーリング競技で銅メダルを獲得した日である。私の地元、北見/常呂が一気に全 |
国的に知れ渡り、「そだねー」や「もぐもぐタイム」の言葉が流行ったのを覚えてい |
るでしょうか。 |
武四郎記念館 |
武四郎記念館は、松阪市というよりも、伊勢神宮の近 |
くといった方がわかりやすいでしょうか。伊勢神宮まで |
約30kmの距離にあり、周りは畑もある静かな場所であっ |
た。当日は、生誕200年を記念して、模擬店等が出店さ |
れ、地元の人や遠くから駆けつけた武四郎フアンで溢れ |
ていた。 |
館内には松浦武四郎誕生200年記念事業のポスターが貼 |
られ「三重県松坂市が生んだ北海道の名付け親」と書かれていた。 |
松浦武四郎肖像画 |
武四郎生誕200年記念事業の案内ポスター |
特設舞台でのアイヌ人の演技 |
何でも、松坂市の三大有名人として本居宣長、蒲生氏郷、松浦武四郎が挙げられて |
いた。地元ではよく知られた人物となっている。また、館の外では特設舞台が設置さ |
れ、アイヌ人による民族舞踊や寸劇が披露されていた。アイヌ人のために尽した偉大 |
な武四郎の為に、わざわざ北海道の「静内民族文化保存会」の皆さんが参加してくれ |
たとのことだった。記念祭りイベントでは、特に、来場者の耳目を引いていた。
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更に、記念館から徒歩5分、伊勢街道に面した場所に武四郎の生家があった。母屋 |
の隣には客間があり、奥には、納屋(倉庫)が2軒あって、武四郎から送られてきた |
膨大な調査資料や書き上げた蔵書等を保管していたとのことである。 |
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2.家柄と環境 |
松浦家は徳川の紀州和歌山藩の郷士(平時の時は農業を行い、戦になったら兵士と |
して働く、下級武士)であり、代々庄屋(田畑10町歩、10万u、札幌ドーム5.3万u、 |
2個分)を続けていた。名字帯刀が許される比較的裕福な家庭であった。実家は伊勢 |
街道沿いにあり、人の往来が多く、東海道にも近い交通の要所であった。父親の圭介 |
時春は本居宣長の教えを受けた国学者であり和歌、短歌、詩歌にも通じていた。
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武四郎は、1818年2月6日に、姉1人、兄3人の5人兄弟の末っ子として生まれた。 |
奇遇なことに、江戸時代の探検家・地理学者で有名な伊能忠敬の没年にあたっている。
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名前は寅年生まれで、虎は竹林に関係することから「竹」をとり、四男と併せて竹 |
四郎と名付けられた。身長は成人になっても、150p弱と小さかったが、すこぶる健
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脚で、強情一徹な少年であったという。 |
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3.旅への思いから、旅立へ |
実家は、上述したとおり、当時、伊勢神宮へ繋がる伊勢街道(参道)に面しており、 |
小さい頃から、伊勢神宮を参拝する人が列をなしていた。武四郎は家の前を歩いてい |
く旅人の姿を目にして、この人たちはどこから来たのだろうか?その土地はどんなと |
ころなのだろうかと思うようになり、子供心に旅をしてみたいという願望が膨らんで |
きた。特に1830年(13才)には「文政のお蔭参り」がブームになり、全国から400〜 |
500万の人が、伊勢神宮を訪れていた。 |
13才で隣藩にある有名な平松楽斎塾に入門してからも、勉強する傍ら、諸国を回っ |
てみたいという気持ちが益々強まってきた。そんな武四郎が16才の時に、突然平松塾 |
を辞めて実家に戻り、諸国を回りたいとの話をするが、父親の猛反対にあう。強情一 |
徹な武四郎は、黙って家出し、平松塾で知り合った江戸出身の山口遇所宅を訪ねて江 |
戸に向かった。しかし、直ぐに父親圭介に知れることになり、1ケ月半後には戻され |
ている。 |
実家に戻ってからも、心は全国を旅することしかなく、何度も、武四郎は、父圭介 |
の説得に努めており、遂に17才の時に、父親の許しが出て、先ずは、京都へ向かって |
いる。旅立に際して、父親は、どうせ2年から3年もすれば戻ってくるだろうと思い、 |
路銀として1両(現在価値13万円位)を渡している。ここから、全国行脚の旅が始ま |
った。 |
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4.諸国巡り |
17才から、10年間の長旅が始まった。彼の踏破した経路を見ると、北海道(当時の |
蝦夷地)、沖縄を除いて、全国を対象に、東北、北陸、関東、近畿、中国、四国、 |
九州といった全国を回っており、特に西日本を多く行脚している。 |
この10年間のうち、21才の時に、仏門に入っているが、長崎で疫病にかかり、死ぬ |
寸前の時に僧侶に助けられたことがきっかけであった。僧侶(文桂、住職)になって |
も旅を続けていたが、この時点でも旅の目的は「見聞を広め、種々の人間にあって話
|
をしたい」という思いであった。 |
長崎では、平戸、壱岐、対馬に旅し、更に朝鮮、唐(中国)・天竺(インド)まで |
の渡航を考えていたとのことだが、当時の日本は鎖国体制が厳しく、出国も入国もで |
きなかったので、海外渡航は断念せざるを得なかった。 |
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5.津川蝶園との出会い、蝦夷地探査への決意 |
そうこうしている中で、26才の時に、長崎の平戸であった老人(儒学者)津川蝶園 |
なる人物と会って話しをしているときに、この老人から「あなたの旅の目的は何です |
か」と尋ねられ「全国を廻って、いろいろなことを知りたいのです。」と答えると、 |
その老人は徐に切り出し「今日本は外国から攻められていま。特に一番の危険は蝦夷 |
地をロシアやヨーロッパの諸国が狙っています。」と告げられる。この当時の江戸幕 |
府はもちろん、松前藩も鎖国体制のもとで、外国を相手にしていなかった。こんなこ |
とでよいのでしょうか?危機的状況が日増しに高まっていきます。」この時、武四郎 |
は、このままでは蝦夷地が危ない、当時は蝦夷地については、正確な地図がなく、国 |
境さえ曖昧だった。蝦夷地を守るためにも蝦夷地の正確な地図が必要であることを自 |
覚し、蝦夷地探査を決意する。
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一度決めたら、強情一徹な武四郎は、直ぐに、蝦夷地探査を実行に移すために、僧 |
侶を辞めて、名前も竹四郎から武四郎に変えた。26才の還俗であった。早速、長崎を |
離れ、故郷の伊勢国須川村に向かった。17歳で全国を巡る旅に出て10年の歳月が過ぎ |
ていた。既に父圭介は21才の時に他界し、母とうも、25才の時に他界していたので、 |
父の7回忌と母の3回忌の法事を済ませて、伊勢神宮を参詣し蝦夷へ向かった。
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(27才の時) |