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豊臣秀吉の歿後、関ヶ原の合戦では東軍が大勝し、徳川家康が江戸に幕府を開きま |
した。西暦1603年です。秀吉の後盾で勢力を伸ばした佐野藩には、代官として本多正 |
純が来て実権を握ります。折しも江戸城で火事があり藩主信吉がお見舞いに駈けつけ |
ると、高い所から見て不敬であると堅い要塞の唐沢城から平地の春日城に、更に後年 |
松本藩お預けにして豊臣との縁を絶ちきります。又、佐野家と関係の深い寺を口実を |
設けて取り壊します。佐野が長い歴史を持ち、地震・水害などの災害の少ない土地な |
のに、徳川時代以前の文化財が比較的少ないのは、そのためと云われています。 |
正純が宇都宮に移った後は、彦根の井伊藩の飛地になりますが、井伊藩は一転して |
佐野家縁故の寺の修復をしたり、天明鋳物などの産業を奨励したりして人心の安定を |
計り、明治維新まで特に問題が起きていません。春日城は両毛線佐野駅の直ぐ北側で、 |
今は城山公園として市民の憩いの場となっております。地方には、民話や言い伝えが |
たくさんあります。事の真意は勿論不明ですが、その中に何か本音が隠されているよ |
うな気がします。ドラマなどでよく取り上げられる宇都宮城の「釣り天井事件」の張 |
本人が本多正純とされているのも、そんな類かもしれません。 |
なお、佐野家ゆかりの天応寺の奥には井伊直孝・直澄・直弼・3代の墓が苔むして |
おり、この縁で佐野市と彦根市は親善都市になっています。 |
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今までいろいろな「宝物」を紹介してきましたが、私 |
私の本当の宝物“5人の孫” |
の連載も今回で最終となりました。最後に、私の本当の |
宝物は「5人の孫」です。結婚し、息子二人が誕生、成 |
長して結婚、それぞれに子供が誕生、いつの間にか「5 |
人の孫」になってしまいました。 |
人類の一員としてDNAは、次の世代に引き継ぎ完了 |
いたしました。しかし、後は用無しでご苦労様では面白 |
くありません。「5人の孫」の成長をじっくり見守りな |
がら、毎日を楽しみたいと思います。 |
一番年長は小学校4年の男の子、一番下は3歳の女の子で、男3人、女2人です。 |
命名・誕生日・七五三・入園・入学・クリスマス・正月・バレンタインデー・風邪・ |
病気・怪我など、毎月何かが起こり経費が必要になります。 |
「5人の孫」となりますと、手帳にきちんと書いておかないと覚えきれません。名 |
前を間違えたり、歳を間違えたり、たまに逢うときは脳内活性化をしてからでないと |
駄目です。「5人の孫」も成長するにつれ、個性が少しずつ現れてきました。小さい |
うちは女の子の方が何かに付けて長けてるようです。娘がいなかったので余計気にな |
って見ているのかも知れません。余りにも口が達者なので、こちらがあっけにとられ |
てしまいます。「5人の孫」が揃うと賑やかで、ご近所迷惑では・・、怪我をさせな |
いようにと、私でも気を配ります。 |
「5人の孫」が帰ると急に静かになり、どっと疲れが出てきます。ベテランのはずの |
妻が、もっと疲れると言っております。それでも、一人一人が立派に成長して、世の |
中の役に立つ人生を送って欲しいと願いを込めて、たまに会うのを楽しみにしていま |
す。 |
「年金」だけで他に収入が無いので無駄使いを止めないと、という訳で「私の宝物」 |
集めに支障が出てきました。「5人の孫」だけにして他は全部止めようか! でも、 |
もう少し!と、まだまだ悩みの多い今日このごろを楽しんでおります。 |
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西暦1338年・足利尊氏が室町幕府を開きましたが、長引く南北朝の争いや応仁の乱 |
などで政府は疲弊し、地方に強力な豪族が輩出して勢力を競います。関東は小田原の |
北条と越後の上杉が対立し、中間に位置する北関東の小藩は右往左往します。事は |
1551年関東管領の上杉憲政が北条氏康との争いに敗れ、越後の長尾景虎に頼ったのが |
始まりです。景虎は名を上杉謙信と改めて出兵、北条勢を破って関東管領になります。 |
翌年、謙信は佐野を巡見、藩主昌綱と同盟を結び、末子虎松丸を養子にします。その |
後、北条が唐沢城を攻めた時は、謙信自ら手兵を率いて包囲網を突破し佐野を救いま |
した。昌綱が没し更に謙信に仕えていた佐野光綱が越後で不祥事を起こすと、両者の |
関係は冷却し虎松丸は佐野に返されます。この頃佐野藩の内部に越後派と小田原派が |
出来て、北条派が政権を握ると上杉が攻め、上杉派が取ると北条が佐野を攻める状態 |
が続きます。1590年豊臣秀吉が小田原城を攻めると、関東の諸藩は北条方に組みしま |
すが、小田原は落城しました。佐野藩主、宗綱の弟天徳寺は秀吉に仕えており、宗綱 |
の没後佐野に戻って藩内の北条派を一掃、更に秀吉側近の信吉を藩主に迎え、佐野藩 |
は下野第一の勢力に伸張していきました。 |
こんな乱世に、佐野の人は柔和な「みかも山」の姿に和らぎを感じていたものと、 |
思います。 |
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「模型」制作を始めた頃はプラモデルが多く、日本製ばかり買っていましたが、あ |
る時レーベル社製を見つけ部品の出来の良さ、間違わずに組み立てる工夫に感心しま |
た。それからというものレーベル社製ばかり追いかけていました。 |
ある時「車の金属模型」組み立てセットを見つけ、病 |
組み立てセット |
み付きになってしまいました。船・汽車・車と組み立て |
セット全部を買い漁って組み立てました。毎月一台ずつ |
組み立て、丁度一年でセットが無くなりました。 |
名前は忘れたが親切なメーカーで部品が壊れたり、無 |
くなったりすると、組立図面から番号を見つけ、葉書を |
送ると暫らくして部品が無償で届きました。 |
わざと組み立てしにくくしている部分があり、それを |
乗り超えるのが一つの楽しみになっていました。 |
ロボット |
「金属模型」はプラモデルと違いなかなか壊れないの |
で、廃却するのに困りました。 |
子供が怪我をするのではと気を配り、あちこち削った |
ことを覚えています。今では部品が無くなったり、壊れ |
たりして満足なのは一台ぐらいです。ドアが開き、エン |
ジンが見え、ハンドルと車輪が連動してなかなか楽しい |
ものです。 |
同じ「金属模型」でもブリキ細工は嫌いなので見向き |
もしませんでした。ダイキャスト製が出来て壊れにくい、いろいろな製品が一気に増 |
えたようです。 |
孫たちは、この「金属模型」が大好きで、取り合いで |
完成した機関車 |
遊んでいます。ある時、車の上に乗って潰してしまいま |
した。これを直すのに一苦労しましたが、孫たちは作業 |
を見ていましたので、それからは丁寧に扱ってくれるよ |
うになりました。 |
実地訓練では有りませんが、良い勉強だったと今も思 |
います。 |
Uコンから始めましたので、ラジコン飛行機は曲芸飛 |
行を大いに楽しみました。ノーコントロールとなり墜落大破でしぶしぶ止めました。 |
完成したミニ自動車 |
車はずっと後からですが、場所の制約もなく簡単なの |
で長い間続きました。 |
お陰で部品を年中補給したので箱一杯残っていますが、 |
ラジコンは止めました。 |
ビー玉・メンコ・ベーゴマ・切手・絵葉書・鉄道切符・ |
水石・人形・万年青・ミニュチュァ酒瓶・マッチのラベ |
ル・映画のパンフレット等々、子供の頃からいろいろ集 |
めました。単品が気に入ると、2〜3個になり・数限り |
なく、というパターンです。 |
いろいろなものを集め過ぎましたが、“お金を集めるのは・・・・・・。 |
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佐野の工業団地と東のみかも山の間の凹地に越名沼がありました。西暦1083年に陸 |
奥で後3年の役が起きますが、清原氏の勢いが強く争いが長引きます。そこで足利源 |
氏の八幡太郎義家が応援に行き平定したのですが、義家は出動に際し越名沼に軍船を |
を集め、盛大な出陣式をしたと記録が残っています。この頃には京都から奥州に向か |
う東山道も整備されて旅人も増え、佐野の風物を詠んだ歌も多くなりました。それに |
よると旅人は越名沼を舟で渡り、みかも山を越えて奥州白河の関に向かっています。 |
@ 越名沼は干拓され三杉川に |
A 稲穂の垂れる米作地帯 |
B 白鳥も飛来する越名地区の沼 |
みかも山の北側には平坦な土地があるのに何で面倒な所を通るのか不思議に思いま |
す。地元の郷土研究家に聞きますと、今は市内を南北に流れている秋山川が東に流れ |
て越名沼に流れ込み、水量は豊かで沼はもっと広大で、慶長年間に流が変わって北側 |
が通れるようになったとのことでした。 |
鯉や鮒など淡水魚の宝庫だった越名沼も、昭和の初期に干拓され、佐野事業所開設 |
の頃は稲穂の垂れる米作地帯になっていました。それが最新の都市計画で佐野が関東 |
平野のほぼ中心に位置し、南北に縦断する東北自動車道と東西を走る国道50号の交差 |
点である利点を生かし、大規模な流通施設や商業施設が誘致され成田や羽田・東京・ |
大阪・仙台等への長距離バスの発着地点も出来て様相がすっかり変わり、長閑な風景 |
は見られなくなりました。 |
C 「越名沼」の名が残る欄干 |
D 大規模な流通・商業施設 |
E 佐野市中心地 |
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3月12日は何の記念日か分かりますか? 語呂合わせで「財布」の記念日です。 |
鰐皮・羊皮・牛皮・豚皮・熊皮・鰻皮・布・プラス |
沢山在る「財布」の一部 |
チック等々「財布」の材料は色々あり、木の葉でも財布 |
になりそうで、材料には事欠かせないわけです。嫌いな |
人が多いようですが、私は皮の匂いが好きなのです。 |
「財布」に興味をもったのは、海外に行くようになっ |
てから、集めものとしては一番遅く始めました。 |
パスポートをどうやってしまい、すぐに取り出せるよ |
うにするか、小銭をどうやって分類しておくか、海外用 |
と国内用をどう区別するか、そんなテーマから見つけ始めました。 |
免税店などで見ると「財布」はブランド品が多く高価になっていました。デパート、 |
専門店、バーゲンをのぞいたりしながら勉強しておりました。革製品は加工よりも素 |
材の良し悪しで決まるように思えました。確かに素材の良い物は値段が張るので、そ |
の分加工も良くなっているわけです。 |
「財布」はこういう形でこうなったものと定着するまでに時間が掛かりましたが、 |
今はそれを続けています。同じようなものが沢山有るので、知らない人が見たら驚く |
でしょう。お金をあまり使わずに気分転換するには「財布」「定期入れ」「名刺入れ」 |
を新しいものに替えることです。女房と畳は・・・・と同じです。 |
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佐野事業所の北約3粁・高さ250米程の唐沢山は、佐野の人の心の拠り所です。 |
遠くに見える「唐沢山」 |
明治天皇御製 |
唐沢山神社 |
西暦938年天慶の乱が起きました。平の将門が武蔵・常陸と勢力を延ばし、中央政府 |
に反抗したのです。朝廷は藤原秀郷を派遣、秀郷は唐沢山を根拠地として将門を鎮圧 |
し、下野の国守になります。秀郷の子孫は足利姓・佐野姓と変わりますが、徳川幕府 |
の政策で廃城になる迄約650年・唐沢城の盛衰が、佐野の歴史なのです。城の本丸は、 |
小田原の北条氏との戦いで焼き払われ、跡は秀郷を祭る唐沢神社になっています。 |
唐沢山神社境内 |
宮司と焼き米を手にする辻会員 |
食料庫の跡 |
今は神社の宮司の佐野さんに案内して頂いた時、佐野さんが木の枝を折って、神社 |
の横の土手を突くと焼き米が出てきました。そこに食料庫があったそうです。 |
城壁の中の広場の周りには数十本の桜の老木があり、2週間ほど平地より遅れて満 |
開になります。 |
唐沢山神社広場 |
城壁内の広場で剣道大会 |
南城居城跡の庭 |
その頃蒲田から新入社員が工場研修に来ます。研修の科目に唐沢山のマラソンを入 |
れるのが恒例でした。工場のマラソン愛好者が先導して工場から約4粁の山頂まで、 |
桜吹雪の中を駆け登ります。一汗かいて頂上の茶店で「おでん」を貰い、持参の弁当 |
を食べる頃には、すっかり盛り上がって、仲間意識が強くなるようでした。 |
田沼の工場は唐沢山の裾野の西側にあります。 |
写真提供 辻 会員 |
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私が「サツキ盆栽」に興味を持ったのは、名古屋営業 |
団地で咲いた「サツキ盆栽」第1号 |
所勤務を始めて直ぐでした。今では少なくなりましたが、 |
当時は、あちこちで展示会が開かれていました。名前も |
知らない木でしたが、一本の木に色々な花が咲いて興味 |
津々でした。 |
「サツキ盆栽」を一鉢購入し団地のベランダで育てます |
と、翌年見事な花が咲きました。これに気をよくして農 |
協祭り、サツキ展に出向いては若木・盆栽の購入、挿し |
木、植え替え、気がつくとベランダが隙間なしになりました。ある時期は鹿沼市さつ |
き町に住みたいと真剣に考え、見に行きました。家は見もせず「サツキ盆栽」を買っ |
て来ましたが、運搬にはほとほと困り果てました。 |
新潟時代の1枚だけ残った写真 |
新潟転勤話で、ベランダ育ちの「サツキ盆栽」を桑名 |
に地植えしたのが、今から27年前です。驚いたことに三 |
条は日本有数の「サツキ」の産地だったのです。 |
またまた「サツキ」集めを始めましたが、今度は転勤を |
考え、小さくて優秀なものに専念しました。 |
桑名に戻る時に持ち帰りましたが、環境の急変か、運 |
搬方法不適か大半は枯れました。 |
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「サツキ盆栽」は、春の新芽・日一日濃くなる緑・蕾の膨らみ・肥料・水遣り・害 |
虫駆除・整枝剪定・植え替え・開花・秋の紅葉・枯葉とり、一年中手が掛かります。 |
植木・盆栽全般に言えることですが、「どうした元気ないな・肥料不足か・水か・ |
いつ花が咲くのか・剪定するよ」と話し掛けると良いと言われます。「盆栽タイム」 |
が必要なのです。本当は人間が二酸化炭素を吐き出すから植物に良いのでしょうが。 |
「ツツジ」も人気が有りましたが「サツキ」と同様に |
残っている、サツキとアザレア |
手間隙が必要で敬遠され、花の綺麗な「アザレヤ」に人 |
気が出ています。 |
言葉で説明しても「サツキ盆栽」の魅力は育てて見な |
いと分からないと思います。近年「サツキ盆栽」ファン |
が減るばかりで残念に思います。 |
「サツキ盆栽」だけで、一番多いときは250鉢ありまし |
たが、今は「ツツジ、アザレア」を含めて50鉢になりま |
した。 |
昨年、同じ町内で500鉢以上育てていた人が亡くなり、誰も手入れしないので全部 |
枯れたのを見て複雑な気持ちになりました。 |
「植木なんて本人と運命を共にすればよい」とやっとそんな気になりました。 |
それでも私は「皐月盆栽」の魅力が捨てきれないようで、次の世に1〜2鉢位は! |
(写真3枚・本人が撮影) |