話 題 『 よもやま話 』最新 2017年10月〜2018年3月
 
          話  題  一  覧
2018. 3.19 第二の故郷 広島!              投稿:田中隆通
2018. 3.18 かごんま(鹿児島)便り            投稿:猿渡一義
2018. 3.17 ふるさと『北見』とカーリング         投稿:鈴木富雄
2017.12. 8 恒例の横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2017”始まる!投稿;小田 茂
2017.12. 2 「未来をアウトソーシングしてはいけない」   投稿:清水有道
2017.11.23 「ポピュリズム」への疑問           投稿:清水有道
2017.11.12 "POWER OF TWO"(邦訳「二人で一人の天才」)を読んで 投稿:清水有道
2017.10.25 カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞で思いだすこと  投稿:清水有道
 

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          話  題  『 よもやま話 』  
 
2018. 3.19 田中 第二の故郷 広島!
 
      第二の故郷 広島! 広島市 田中 隆通
 
 早いもので会社を退職してから一年近くになろうとし 宮島・弥山に
宮島・弥山に
ています。退職する前は退職後にあれもやろう、これも
やろうといろいろ計画していたのですが、実際には半分
もやれていないですね。それでも、大相撲の相撲取りだ
った父親の遺伝なのか身体は至って健康で、近くに住ん
でいる娘ファミリー2家族もしょっちゅう我が家に出入
りしていて、平穏かつ賑やかに暮らしていることに日々
感謝しています。
 思えば1971年(昭和46年)に入社してから、船舶の営業畑を主に転勤が多く、長崎
を振り出しに神戸、今治、高知、札幌、横浜、広島に住みました。最後に退職までの
15年間は家族を広島に残して二度目の横浜での単身生活でした。どこも、よく言う
“住めば都”で楽しい思い出が沢山できました。それは、その土地ならではの風土、
気候、食べ物の違いなど、大いに勉強になりました。特に刺身大好物人間の私には仕
事での出張時の魚市場巡りが楽しみで、良い思い出として残っています。又、そこで
の仕事繋がりを含めての友人が多く出来たことは私にとっての大きな財産です。
マツダスタジアムにて
マツダスタジアムにて
 現在、住んでいる広島は24年前に赴任して20年前にそ
こで自宅を購入しましたが、結局、私にとっては第二の
故郷となりました。私の母は長崎で原爆に被爆したので、
私は原爆二世となります。同じ被爆地である広島に住む
のも何かの縁だと思っています。
 退職後の現在は週に三日のアルバイトを除くと自由時
間も多くあることから、新たに昨秋からトレッキングを
始め、我妻と近くの低い山から登り始めています。昨年
の11月には宮島の弥山に登り素晴らしい瀬戸内海を一望してきました。今年の夏は鳥
取の大山に、来年あたりには鹿児島の屋久島に登ることが当面の目標です。
 ここ広島でもいろいろなところで外国人の観光客を数多く見ることがあり、昨今の
国内各地で見られるインバウンド効果を実感しています。私も少しずつでも広島の良
いところを再発見していきたいと考えています。また、 西表島にて
西表島にて
近いうちには少しでも世の中の役に立つために地域活動、
ボランティア活動にも取り組みたいと思っています。
 個人的には、これからの健康寿命を延ばすことを意識
して、週に一回のジム通い、定期的なゴルフプレー、10
年前から我妻と始めたスキューバダイビングなどを楽し
みながら第二の故郷である当地で残りの人生を謳歌して
いきたいと思っています。
 これからもOB会皆様のご健勝を大いに祈念します。
 最後に野球はCARP!! サッカーはサンフレッチェ!!
 
2018. 3.18 猿渡 かごんま(鹿児島)便り
 
   かごんま(鹿児島)便り 鹿児島市 猿渡 一義
 
 はじめまして、1974年油圧事業部に入社、2011年9月PC営業で定年退職しま
した。2011年10月から郷里の鹿児島市吉野町に住んでいます(出身は薩摩川内市
隈之城)。  今回から、たまに、かごんま(薩摩)のトピックスを皆様にお届け
していこうと思います。
 かごんまについて、ご質問等、ございましたらOB会事務局までご連絡願いま
す。 自宅892-0871 鹿児島市吉野町6490-5 080-5092-5058(携帯)
 
<近況について>
 2011年に横浜を離れて、早や6年、遂に鹿児島に根付 蘇州・無錫・上海カニツアーで(1月)
蘇州・無錫・上海カニツアーで(1月)
いた感じです。わずかばかりの借畑を耕し農夫になった
り、体を鍛えてフルマラソンに挑戦したり、月一ゴルフ
ができたり、細君の茶道、華道の手伝いをしたり、学生
時代の友人・知人に逢いに遠方まで出向いたり、そんな
日々を過ごしながら四季の移ろいを肌で感じています。
 近頃、ちょっと能力アップしたことは、作物の育て方
の技術が身につき、花の名前を覚え、在住の吉野台地上
之原(かみのはら)の方々とも仲良くなりました。朝夕挨拶をかわし、何も私らしく
なく穏やかな日々を過ごしています。楽しみは三度の食事です。特に夕食の献立を見
ながら晩酌に合うお酒をと巡し、ビール、ワイン、焼酎から選ぶのが嬉しいおやじに
なり下がりました。
 
市内・鴨池港からスケッチ
市内・鴨池港からスケッチ
 この地に住み不思議なことがあります。ほとんどの住
民たちは、眼下に鹿児島湾(錦江湾)と桜島とを俯瞰す
る吉野台地、別荘地と思えるような場所で当たり前に無
意識に暮らしていることです。それは、遠く240年前、江
戸時代の安永年間(1778年)に桜島が大爆発しました。
その折、桜島の黒髪地区に住んでいた住民は被害が甚大
で島を出て避難民となりますが、これを観た島津氏が鹿
児島城下に土地を与え救済したそうです。しかしながら、
住民たちは桜島への愛着から桜島が良く望める地への移住を嘆願しました。それが許
され、移った所がこの吉野台地でした。ひとびとは木を伐り根を取り除いて今の土地
を開墾し手に入れた祖先様でした。だから、200余世帯ある住民の大半は「櫻井」「中
森」という姓なのです。
 最近、とみに感ずるので 市内与次郎ガ浜から(10月)
市内与次郎ガ浜から(10月)
自宅近く公民館前から(10月)
自宅近く公民館前から(10月)
すが、ここの住民の多くは
祖先の苦難を忘れたのか、
世界でも珍しく類を見ない、
爆発・噴火する山を眺望で
きる雄大なロケーションに
居るという意識が鈍感なこ
とに驚くばかりです。240年
の歴史が醸し出したDNAの性かもしれません。
 
<あと何年楽しめるかな!>
県立吉野公園から(2月冠雪)
県立吉野公園から(2月冠雪)
 最近、ときに、僕は、あと何年生きれるかな!
 これから何をなすべきだろうと思い、すぐに忘れる始
末ですが、大好きなスイカとトマトの手入れだけは欠か
さずばっちりして里芋の手入れには見向きもしません。
しかし、この里芋は煮物に最適、甘くて旨いのです。こ
の間はソバ打ちのそば粉のつなぎに使ってみて良い仕上
がりでしたよ。
 私は、今、この地に住むことの素晴らしさを先住民に
訴え、全国に、世界に発信しようと呼びかけています。 自宅近くバス停前から(2月)
自宅近くバス停前から(2月)
世のひとはこれを余生と呼んでいることでしょう。これ
が余生なら、自分は幸せなシニアであります。あるがま
ま、なすがまま、自然体で多くものを欲しがらず、自作
農の野菜を食べて、かんま特産の黒豚、黒牛、黒さつま
鶏、黒酢、黒砂糖、クロマグロにニンニクで長生きを狙
っているところです。
 
 
イラスト
イラスト
「今後の活動予定」
3月:鹿児島マラソン かんまちや桜ウォーキング大会
                     (主催)
  大腸がん内視鏡検査 高校同期同伴親睦会(主催)
4月:トラピックス・吉野千本桜ツアー(志布志〜
              サンフラワー号で行く)
 
 
 
2018. 3.17 鈴木 ふるさと『北見』とカーリング
 
平昌オリンピック(種目:カーリング)
  ロコ・ソラーレ北見の銅メダルを祝して 横須賀市 鈴木 富雄
 
 今、私のふるさと「北見」の地名が全国的に知れわた 鈴木富雄さん
鈴木富雄さん
り脚光を浴びている。ご存じのとおり、平昌オリンピッ
クで銅メダルを獲得したロコ・ソラーレ(LS北見)の
活躍が話題の中心である。
 私自身が特にカーリングに精通しているわけでもない
が、OB会の皆様に北見市常呂町とカーリングの面白さ
や魅力を知っていただき、カーリングファンが増えれば
いいなとの思いから投稿させていただいた。
 
【北見市/常呂町の紹介】
 
北見市常呂町の地図
北見市常呂町の地図
 私が生まれ育った北見市は道東(北海道の東側を呼ぶ)
に位置し、人口約12万人、面積1,428平方キロメートル
で、全国の市町村の中で4番目の大きさ(香川県とほぼ
同面積)である。平成18年の大合併で、北見市、常呂
町、端野町、留辺蘂町が合併し新しい北見市が誕生した。
この合併で北見市は、工業、商業、農業、観光事業に加
えて漁業と広範囲の事業が展開されるようになった。常
呂町はオホーツク海とサロマ湖に接する滋味豊かな土地
柄で、漁業(鮭、ホタテ等の海産物)と農業(玉ねぎ、じゃがいも、ニンニク等の農
産物)が主体の人口約4千人の町である。
 カーリングが注目される前は、「常呂」とは何と読むのですか、「じょうろ」です
かとよく聞かれたものである。今や各種メディアで取り上げられ、日本のみならず、
世界でも「カーリングの町、KITAMI/TOKORO」として知られるようにな
った。
 
【3位決定戦、銅メダル獲得の瞬間】
 
 今思い出しても、2月24日(土)の強豪国イギリス(世界ランク4位)との3位決
定戦は、最後まで手に汗を握る緊迫したゲーム展開となり、テレビにくぎ付け状態と
なった。10エンドの勝利の瞬間は「やった、やった」と訳の分からない感動の声を連
呼して狭い部屋を徘徊している自分がいたのを覚えている。妻はテレビではなく、私
の姿を見て唖然としていた。因みに勝利の瞬間の22時43分の毎分瞬間視聴率は42.3%
と高視聴率を記録していた。
 
3位決定戦の得点表
3位決定戦の得点表
 
 この試合、序盤から中盤まではイギリスのペースで進み、応援しながらも戦況の悪
さを感じざるをえなかった。9エンドを終えたところで1点差でリードしていたにも
かかわらず、イギリスの後攻め有利が予想され、追い詰められた心境で見守っていた。
予想通り10エンドは最もスリリングな場面を迎え、最後に投げるのは、スキップとし
て世界的に有名なイブ・ミュアヘッド選手である。神に祈る気持ちで見ていたら、名
手といえども重圧に耐えかねたのか、信じられない失投(神のいたずらだと思う)が
生まれた。何と、LS北見が五輪史上初のメダルを手中にした。正に、薄氷を履むが
ごとしの勝利であった。運も実力のうちである。
 
日本8投目、ダメかも・・・
日本8投目、ダメかも・・・
英国8投目、No1は日本だー
英国8投目、No1は日本だー
抱き合う選手たち『勝ったー』
抱き合う選手たち『勝ったー』
 
【ロコソラーレ(LS北見)の創立メンバーからの現在への変遷】
 
 この「ロコ・ソラーレ(LS北見)」の誕生は、常呂町出身の本橋麻里(31才、現在
主将、愛称:マリリン)の頑張りによるところが大である。それ迄活躍していたチー
ム青森にいるときから暖めていた「故郷に戻って五輪に出られるチームを作りたい」
という思いが強くなり、8年前にその夢をかなえるために故郷に戻ったことから始ま
る。 2010年7月(当時本橋24才)にロコ・ソラーレ(太陽のように明るい常呂っ子)
という名前で、北見/常呂に根ざした地域に愛され続ける、実業団ではないクラブチー
ムを立ち上げた。強力なスポンサーもなく、選手は本橋の呼びかけに応じて集まった
馬淵恵(当時27才)、江田茜(当時21才)、地元にいた鈴木夕湖(当時19才)、吉田
夕梨花(当時17才)であった。
 
「LS北見」選手一覧
「LS北見」選手一覧
 
 設立から数年間は、日本選手権等の大会に出場しても優勝に届かず、強豪の中部電
力や北海道銀行等の実業団チームの後塵を拝していた。物心両面で苦渋・苦難の日々
が続いていた時期でもあったが、勤務する企業・団体の理解・協力を得る中で、チー
ム力をアップしてきた。また、2013年11月に通年利用可能な「アドヴィックス常呂カ
ーリングホール」が完成し練習環境も整った。
 そんな中で、道銀カーリングチームで活躍していた吉田知那美(当時22才、ソチ五
輪出場経験あり)が戦力外通告されフリーの状態でいた。そんな彼女に旧知の本橋麻
里が「ロコ・ソラーレで一緒にやろう」と声かけて2014年6月に加入した。
 さらに、藤澤五月が(当時23才)北見北斗高校を卒業して中部電力のカーリングチ
ームに所属し日本選手権4連覇に貢献したが、ソチ五輪の代表決定戦で道銀チームに
負けて心身共に消沈し、2015年3月に中部電力を退社し故郷の常呂に戻ってきた。こ
の時にも本橋麻里からロコ・ソラーレは、次のオリンピック代表を目指して動いてい
ることや激励の言葉に癒され、常呂でオリンピックを目指す気持ちが強くなり、同年
5月にロコ・ソラーレに加入し現在のメンバーが出揃った。
 
【平昌オリンピック代表決定から銅メダル獲得まで】
 
 その後の活躍は圧巻で、記憶に未だ新しい2016年にカナダで開催された世界女子カ
ーリング選手権でロコ・ソラーレが準優勝し、銀メダルを獲得するという快挙を達成
した。気心知れた5人のチームワークは抜群で、本橋麻里を主将として、更に一人ひ
とりが技能や戦術面で精進を重ねてチーム力を上げてきた。
 そして2017年9月に地元常呂町で開催された平昌オリンピック代表をかけた女子カ
ーリング日本代表決定戦では、藤澤五月の古巣、中部電力を相手に3勝1敗で勝利し
代表権を手中にした。そして本番の平昌オリンピックでは、クラブチームのロコ・ソ
ラーレ(LS北見)が世界の晴れ舞台に登場し、強豪国チームを相手に予選を突破し、
日本のカーリング史上初のオリンピックでの銅メダルを獲得した。
 「カーリングはスポーツではない」とかの屈辱的な言葉に屈することなく、真摯に
取り組んできた努力が報われたのである。LIVEで見せた「そだねージャパン」の
方言や「もぐもぐタイム」の表情・しぐさには親しみを感じ、観戦している側の心が
癒された。
 
いつも明るく『そだねー』
いつも明るく『そだねー』
チーム一丸で『もぐもぐタイム』
チーム一丸で『もぐもぐタイム』
カーリング日本初の銅メダル
カーリング日本初の銅メダル
 
 このチームには「ロコ・ソラーレ」(太陽のように明るい常呂っ子)の名前が似合
っている。
 今回は「ロコ・ソラーレ(LS北見)」についてご紹介したが、そもそも北見市常呂
町にカーリングが根付いた経緯などをお話ししたい。私もふるさとの歴史を今一度勉
強し、続編として皆様にご紹介したいと思っています。
 
2017.12. 8 小田 恒例の横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2017”始まる!
 
  恒例の横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2017”始まる!
 
 12月25日(月)まで開催(休館なし)開館時間 9:30〜17:00
      ただし、土曜祝日は18:00まで (入場無料)
 
 今年も12月1日から横浜: 山手西洋館案内図
山手西洋館案内図
サンタクロース
サンタクロース
山手西洋館“世界のクリス
マス2017”が始まりました。
 「山手西洋館」とは、横
浜港開港時の外国人居留地
の面影を残す山手地区にあ
り、大正末期から昭和初期
に建てられた外国人向け住
宅を復元した洋館のことです。現在は何れも横浜市が管理し、館長は全員女性という
ことです。
 山手西洋館以外にも途中には、「外国人墓地」、「港の見える丘公園」など見応え
ある場面が沢山あり、「港の見える丘公園」から坂を下れば、「元町商店街」、少し
足をのばせば「横浜中華街」、「山下公園」など見所、食べ処がいっぱいあります。 
天候の良い日に、散歩がてらお出掛けください。 
 
 1.ブラフ18番館(ドイツ連邦共和国のクリスマス)
 JR根岸線:石川町駅元町口(昔の南口)から上り坂を徒歩で約5分ほどで、右側
に「山手イタリア山庭園」の案内板があり、階段を上るとプラフ18番館です。
庭には、今年も4本の大銀杏木が丁度見頃で、見事な“黄金色”を競っていました。
ブラフ18番館
ブラフ18番館

イチョウ
イチョウ
 ブラフ18番館は、関東大震災後、山手45番地に建てられた木造2階建ての外国人住
宅です。戦後の所有者だったカトリック山手教会から部材の寄付を横浜市が受け、平
成3年(1928年)に、この「山手イタリア山庭園」内に移築復元されたものです。
 
 各国の「クリスマス」に関するコメントは、主催者:公益財団法人・横浜市緑の協
会発行のパンフレットの掲載内容を引用しました。
『ドイツの冬はとても寒く、暗い日々です。そんな冬を明るく希望に満ちたものにし
てくれるのが、クリスマス。アドベントからクリスマスまでの約4週間、各地にクリ
スマスマーケットが立ち並び、人々は集い、グリューワインで冷えた体を温め、買い
物をし、クリスマスの訪れを待ち望みます。そして、イヴは家族や親戚が集い、食卓
を囲みディナーの後は、家族の健康や幸せを願いながら、プレゼント交換を楽しみま
す。』
室内_1
室内_1
ツリー_1
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ツリー_2
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室内_2
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室内_3
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室内_4
室内_4
 
 2.外交官の家(ルーマニアのクリスマス)
 外交官の家は「山手イタリア山庭園」内で、ブラフ18番館の直ぐ隣りです。
外交官の家(表)
外交官の家(表)
外交官の家(裏)
外交官の家(裏)

 
 外交官の家のすぐ裏が山 山手イタリア山庭園_1
山手イタリア山庭園_1
山手イタリア山庭園_2
山手イタリア山庭園_2
手イタリア山庭園で、その
中に建っています。
 明治政府外交官の内田定
槌氏の邸宅として明治43年
(1910年)にアメリカ人建
築家の設計により、現東京
都渋谷区に建てられた塔屋
付き木造2階建ての西洋館です。国の重要文化財に指定されています。
 平成9年(1997年)に内田氏のお孫さんから横浜市に寄贈され、現在地に移築復元
されました。 
 
『ルーマニアのクリスマスは25日から三日間祝います。クリスマス前夜(24日)から
子供達が親戚や近所の家を回って訪ねてキャロルを歌います。世界のキャロルも歌わ
れていますがルーマニア独特のキャロルは皆の心を動かせます。
 多くのルーマニア人は家族でクリスマスを過ごし、クリスマスツリーとクリスマス
の伝統料理が欠かせないものです。特に、くるみとココアでつくるフィリング入りの
伝統的な甘パン「コゾ ナック」の香りは各家に漂っています。』
室内_1
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室内_2
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民族衣装_1
民族衣装_1
民族衣装_2
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民族衣装_3
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民族衣装_4
民族衣装_4
ウールカーペット
ウールカーペット
 
 3.山手68番館(ガーナ共和国のクリスマス)
 山手68番館は、外交官の 山手68番館
山手68番館

家から山手本通りに出て、
左方向(海の方向)へ10分
ほどでカトリック山手教会
の角の信号を右折して脇道
に入り3〜4分位で到着し
ます。(案内板有り)
途中70〜80m手前に「テニス
発祥記念館」がありますので、お立ち寄りください。
 山手68番館は、日本最初の西洋式公園で、明治3年(1870年)に造られた山手公園
内にあり、昭和9年(1934年)に建造された外国人向けの平屋の賃貸住宅です。
ここは、テニス発祥の地(明治9年:1876年)でもあり、現在は横浜市営テニスコー
トのクラブハウス、管理事務所として利用されています。
 
『ガーナでは広くキリスト教が信仰されており、12月はクリスマスの催事や装飾で街
中がでとても賑やかになります。
 教会や学校では賛美歌が英語やチュイ語で歌われ、家庭では芋をついたフフに山羊
肉を使ったスープなどがふるまわれます。』
室内_1
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室内_3
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室内_4
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室内_5
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室内_6
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室内_7
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テニス発祥記念館
テニス発祥記念館
当時の女性のテニスファッション
当時の女性のテニスファッション
 
 4.ベーリック・ホール(オランダ王国のクリスマス)
 ベーリック・ホールは、山手公園から山手本通りに戻り、海の方向へ10分弱ほど歩く            
と左側に建物が見えます。
イギリス人貿易商のB.R ベーリック・ホール
ベーリック・ホール

べーリック氏の邸宅として、 
昭和5年(1930年)に建て
られました。
(東京計器・蒲田の旧建物
と同期生です)
 スパニッシュスタイルを
基調とした建物で、設計は
アメリカ人建築家のJ.H.モーガンで山手111番館、山手教会、根岸競馬場など数多
くの建物を残しています。
 平成12年(2000年)までは、外国人学校の寄宿舎として利用されていましたが、学
校閉鎖に伴い寄宿舎も閉鎖されました。(学校跡地には現在、建設反対運動が長く続 
きましたが、大きなマンションが建っております) 
 横浜市は元町公園の拡張に伴い、平成13年(2001年)に用地を買収し、建物につい
ては宗教法人から寄付を受け、復元・改修工事を終えました。
 
『オランダのクリスマスは、日本のお正月と同じように、1年で一番大事なファミ
リーイベントです。12/25が1st クリスマスデー、12/26が2ndクリスマスデーで両日
とも祝日です。
 お店はお休みとなりますがレストランはとても混み合います。家族全員が集まり、
自宅やレストランでパーティーをしたり、それぞれのファミリーでクリスマスを楽し
みます。』
室内
室内
ツリー_1
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装飾品_1
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装飾品_2
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装飾品_4
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装飾品_5
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装飾品_6
装飾品_6
 
 5.エリスマン邸(デンマーク王国のクリスマス)
 エリスマン邸は、ベーリック・ホールと小さな道を挟んだお隣りさんです。
 生糸貿易商社の横浜支配 エリスマン邸 
エリスマン邸 

人として活躍したフリッツ・
エリスマン氏の邸宅として
大正14年(1925年)から15
年にかけて建てられました。
 昭和57年(1982年)に解
体されたが、平成2年
(1990年)元町公園内の現
在地に復元されました。
 
『家族の結びつきを大切にし、食事や灯りの時間を楽しみ、キャンドルの灯った暖か
い雰囲気のなかでくつろいで過ごします。
 デンマーク人の大切にしているライフスタイル「Hygge (ヒュッゲ)」(居心地の
良い雰囲気)の典型とも言えます。装飾ではハートのモチーフがポイントです。』
室内_1
室内_1
装飾品_1
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装飾品_2
装飾品_2
 
室内_2
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室内_3
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館内公衆電話 
館内公衆電話 
 
 6.山手234番館(アメリカ合衆国のクリスマス) 
 山手234番館は、山手本通りを挟んでエリスマン邸の向い斜めに位置したところにあ
ります。エリスマン邸から1分弱。正面の“もみじ”(葉は小さい)は素晴らしい見
事な色彩を放っておりました。
 昭和2年(1927年)頃外 山手234番館
山手234番館

国人向けの共同住宅(アパ
ートメントハウス)として、 
関東大震災により横浜を離
れた外国人に戻ってもらう
ための復興事業の一つとし
て建てられたものです。
 平成元年(1989年)に横浜
(1989年)に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得し、現在は一般公開されています。
 
『米国でのXmasは家族や親戚が一堂に会しお祝いをする一大イベントです。
子供も大人も楽しみにしているプレゼント交換をしたり、食卓には大きな塊のハニー
マスタードハムやターキー等それぞれが持ち寄るお料理が所狭しと並びます。』
室内_1
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室内_2
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室内_3
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室内_4
室内_4
装飾品
装飾品
二階窓からの眺め
二階窓からの眺め
 
 7.横浜市イギリス館(英国のクリスマス)
横浜市イギリス館までは山手234番館から5〜6分ほどで、山手本通りのはずれにあ
る「港の見える丘公園」内の一部と思われるように、公園の入口右側に位置していま
す。
 昭和44年(1969年)に横 横浜市イギリス館
横浜市イギリス館

浜市が取得しました。
 イギリス館に相応しく、
「ローズ・ガーデン」に隣
接しております。隣接とい
うより「ローズ・ガーデン」
の中にありますの方が分か
り易いと思います。
残念ながらバラの開花時期は、終わりを告げていました。
 
『英国のクリスマスの歴史はビクトリア女王の夫君アルバート公の祖国ドイツの習慣
からも伝えられました。クリスマスティは、チャールズ2世の王妃キャサリンがポル
トガルより持参のお茶から発展しました。クリスマスには、優雅な雰囲気の香り高い
お茶でおもてなしをします。』
装飾品
装飾品
室内_1
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室内_2
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室内_4
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室内_5
室内_5
 
 8.山手111番館(フランス共和国のクリスマス)
 山手111番館は、横浜市イギリス館の南側の噴水広場を挟んですぐお隣に建っており
ます。
 スパニッシュスタイルの 山手111番館
山手111番館

この洋館は、大正15年
(1926年)にアメリカ人の
住宅として建てられました。
 設計者は先に出てきまし
ベーリック・ホールを設計
したJ.H.モーガンです。
 平成8年(1996年)横浜
市が敷地を取得し、建物の寄贈を受けました。
 
『フランス北西部のノルマンディー地方。沿岸の温暖な気候の港町。オンフルールの
港からは海の恵み牡蠣が揚り、大地には林檎が実ります。家族の集まる食卓では果実
酒シードルやカルヴァドスでトリップを煮込んだ郷土料理「ドリップ・ア・ラ・モー
ド・カン」、デザートには林檎のお菓子「クルスタッド・オ・ポム」など温かなママ
ンの手料理でクリスマスの夜も華やぎます。』
室内_1
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室内_2
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室内_3
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装飾品
装飾品
室内_4
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室内_5
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 ≪おわりに≫ クリスマスが過ぎますと、直ぐに“お正月”です。
 皆さま、“良い年”をお迎えられますよう 心からお祈り申し上げます。
 
2017.12. 2 清水 「未来をアウトソーシングしてはいけない」
 
「未来をアウトソーシングしてはいけない」 横浜市 清水 有道
 
「未来をアウトソーシングしてはいけない」は、蓋し至言ではなかろうか?
*「いま末梢的なものは将来コアなものになります。 「知の最先端」大野和基著
「知の最先端」大野和基著
 いまコアなものは将来、末梢的になります。
 ですから、いかなるものでも、アウトソーシングする
 ことには、リスクが伴います。」
*「・・・(中略)・・・、自社が将来成功するために
 必要な能力は必ず社内に残しておくといった、先を見
 据えた判断が必要とされるのです。」
*「・・・(中略)・・・、優れた経営理論はより素晴
 らしい人生を送るために活用できる、ということです。」
 いずれもジャーナリストとして主にインタビューを通して取材・執筆を業とされて
いる大野和基(おおの かずもと)氏が2013年11月1日に第1版第1刷をPHP新書とし
てだされた「知の最先端」の中でハーバード・ビジネス・スクールの看板教授クレイ
トン・クリステンセン博士(Dr.Clayton Christensen)とのインタビュー記事を「日
本は『イノベーションのジレンマ』の最先進国だ」と題した第6章にクリステンセン
博士の言葉として引用されている文章である。
 世界制覇を成したソニーの盛田、アップルのスティーブ・ジョブスのやり方、特に
企業の体質を改善することなく、体質に適した経営の仕方で、やりたいことをやり遂
げた。ソニーの「ウオークマン」による携帯型音楽プレイヤーの市場の創造が、既存
のステレオ・システムのメーカーを圧倒したことを大きな成功例として説明した後で、
しかし、1982年以降ソニーは新しい破壊的イノベーションもエンパワリング・イノベ
ーションの一つも起こすことが出来ず、今日の低迷を続けている、と説明し、いまア
ップルがソニーと同じ道を歩もうとしていると警告している。間違った選択の実例と
して引用されているデルがコンピュータをアウトソーシングした台湾のエイスースが
すっかりデルのコンセプトを学び取り、今や押しも押されもせぬ世界的コピュータ・
メーカーになってしまった話など怖い思いを禁じ得ない。
 クリステンセン氏は表題の言葉を、かつて日本でも流行った「選択と集中」という
言葉の説明として、「グローバル時代の中で何をアウトソーシングし、何を守るか、
その見極めをどのように行えばよいのでしょう。」と問い掛けている。まさにその見
極めが選択であり、その選択を誤ると企業の将来は予想もしない下降の道を歩まねば
ならないことになると忠告している。
映画「Never
映画「Never Let Me Go」より
 実は筆者はその本を第7章の「愛はクローン人間の悲
しみを救えるのか」と題した今年のノーベル文学賞を受
賞されたカズオ・イシグロとのインタビュー記事が読み
たくて求めたものだった。(注:インタビュー時は2005
年に刊行された“Never Let Me Go”、邦訳は翌2006年刊
の「わたしを離さないで」で、全世界がサイエス・フィ
クションとは言いながらクローン人間を題材にしている
ことに反応し、「人間とは何か?」が盛んに議論される
ようになって、著者大野氏のインタビューの対象者に選ばれたのであろう)。
 しかし、他の第1章から第6章までのそれこそ最先端の知識人とのインタビュー記
事に心ひき込まれる内容が盛り沢山で、筆者はこの一冊を読んで何年分かの勉強を短
期間に成し終えた思いがした。 特に第1章の「選択の科学」の著者で有名な盲目のコ
ロンビア大学ビジネス・スクール教授シーナ・アイエンガ―博士(Dr. Sheena Iyengar)
の提唱する「選択をするということは、すなわち将来と向き合うこと」で、優柔不断
、集団主義、決断が苦手と見做されがちな日本人にとって、いかなる時に、いかなる
選択をすべきかを教えられたようで、大きな悟りを得たように感じた。感銘を受けた
ことは、同博士が「アメリカ人はまず何が何でも選択をし、日本人はどうしても選択
の基準や基礎に経験を求めてしまい、経験が最も重視されている、と観察されている
ことである。
 また、第2章の世界的なベストセラーになった「歴史の終わり」の著者、日系三世
のスタンフォード大学のシニア・フェローであるフランシス・フクヤマ氏とのインタ
ビューで同氏の説く「日本は政党間の競争をもっと促進せよ」もなるほどとその洞察
力の鋭さに感心させられた。
 第3章のMIT教授を務めるダロン・アセモグル(Dr. Daron Acemoglu)が説く「中国
にはイノベーションは起こせない」や「経済が変われば政治も変わるという理論は間
違い」であるとする説の根拠も面白く読んだ。
 別の第4と5の両章のインタビュー記事については割愛したが、先端を行くこれら
7人とのインタビューの要点をうまくまとめて編纂された書「知の最先端」は、読み
やすく、何冊分かの読書や幾つかのセミナーを受講することに匹敵する含蓄のある内
容を理解できる絶好のガイドに思えた。是非一読をお勧めしたい。
 
                                     了
                         2017年11月7日(火)  記
 
2017.11.23 清水 「ポピュリズム」への疑問
 
「ポピュリズム」への疑問 横浜市 清水 有道
 
1. 「ポピュリズム」とは何か? 「ポピュリズム」が育った背景は?
 「ポピュリズム」は少数派支配を崩し、デモクラシー ノーラン・チャートによるポピュリズム
ノーラン・チャートによるポピュリズム
の実質を支える解放運動として出現した。政治から疎外
された多様な層の人々、例えば農民、労働者、中間層の
政治参加を利益表出の経路として、ポピュリズムが積極
的に活用された。特にラテン・アメリカの国々において、
社会政策の展開を支える重要な推進力として活用され、
目覚ましい成果を上げた。
 現在ほぼ定着したのではなかろうかと思われるポピュ
リズムの「定義」としては、一見矛盾しているようにさえ感じられるが、次の二種類
がある。
 最初の定義は、固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治のスタイル
を言うというもの。この定義から捉えるポピュリズム政治家としては、従って、それ
までの政治スタイルに変化をもたらし、斬新な政治手法、例えば国民に訴えるレトリ
ックを駆使して変革を追い求めるカリスマ的手法を採用することで、国民に幅広くア
ピールすることに成功した指導者たちを指すことになる。現在までの例としては、日
本の中曽根政権、イギリスのサッチャー政権、イタリアのベルルスコーニ政権などが
挙げられよう。勿論現在の米国のトランプ政権もこの分類に属するであろうが、トラ
ンプについては別に以下にもう少し細かに社会的背景と米国の置かれた現在の特殊な
立場を考えながら論じてみたい。
 次の定義は、「人民」の立場から、既成政治やエリートを批判する政治運動をポピ
ュリズムと捉える考え方である。即ち、政治改革を目指す勢力が、既成の権力構造や
エリート層を批判し、「人民」に訴えてその主張の実現を目指す運動とみるのである。
例としては、フランスの国民戦線、オーストリアの自由党が挙げられる。現在の政治
学者の間では、この定義を採用する立場の人が多いように思われる。運動と言う立場
から考えれば、「日本維新の会」も「希望の党」もこの定義に当てはまる代表例のポ
ピュリスト政党と言えるだろう。
 これら二つの定義から、一番目はリーダーの政治戦略や政治手法に注目し、二つ目
は中間・下層階級の人々からの政治運動に重点を置いた考え方と言えるだろう。
 去る10月1日にスペインのカタルーニャ州で行われた住民投票では独立賛成派が多
数を占め、スペイン政府とカタル―ニャ州の間の成り行きが注目を浴びている。住民
投票によって広く民意を問うことは、一見民主主義の意に適うように思われがちだが
、民意は往々にして感情的、非論理的になり、ロング・レンジの視野を欠いた目先だ
けの、自分本位の勝手なポピュリズムに嵌り込んでしまう危険性に満ちている。それ
が証拠には、イギリスのEU脱退後賛意を表した民意の多くが自分たちのしたことに疑
問を持ったり、反省したりで、改めて住民投票をやり直したら、結果は逆転しかねな
いほど不安定な状況に追い込まれているように思われる。
日本の「希望の党」現象については、今回の衆議院議員選挙の結果も踏まえて、最後
に一章を設けて補足したい。
 
2. 米国の大統領選ではなぜ、トランプが勝ったのか?
 結論から先に言うなら、次の二つを勝因として挙げることが出来るだろう。一つは、
グローバル化する世界で、かつての特権的・例外的な地位から転落した「アメリカ社
会」に鬱積し続けた不満や不安が大きな力を与えたこと。もう一つは、「トランプ個
人の資質」と言えようか。
 世界が広く憧れたあの「アメリカン・ドリーム」が今や全く死に体になってしまっ
た。即ち、米国が何人(なんぴと)にとっても生活がより良く、より豊かな、より充
実したものになり、各人がその魅力を求めて、持っている能力と努力した達成度に応
じて、相応の機会と実現の夢を得ることが出来る土地ではなくなってしまった、とい
う社会環境の変化と言うか、地盤沈下に対する反感や反発は確かにあったであろう。
加えて、没落したミドルクラスの声が大きく反映された。自分がもはやミドルクラス
(中産階級)ではないどころか、中流から貧困層に滑り落ちそうだという嘆きの声で
溢れてしまったのだ。筆者はよく友人たちから聞かされる話がある。少なくとも年に
一度は勤務先から長期休暇を貰い、家族と遠出する。これは多くのアメリカ人にとっ
てミドルクラスの人々の暮らしの象徴であった。しかし、現在では「両親や子供をバ
ケーションに連れて行けない」と言う声が多く聞かれる。アメリカでの分厚いミドル
クラスが消費と生産を支えているという認識に修正が求められているのである。特に、
「ラスト・ベルト」が特徴的に取り上げられて報道されたことは昨日のことのように
思い起こされる。鉄錆を言う「ラスト」と鉄鋼業の一帯を「ベルト」として表した言
い得て妙な造語である。この一帯では、主要産業8鉄鋼、石炭、自動車)の衰退、廃
業、海外移転、合併などありとあらゆることが起きた。アメリカン・ドリームを実現
する機会はもうない。夢を失った地域は活力も失う。
ラスト・ベルト州地図
ラスト・ベルト州地図
ラスト・ベルト地帯の工場
ラスト・ベルト地帯の工場
親よりも裕福になる、とい
う夢が終わっただけではな
い。医療の進化などで他の
先進国の人々はより長生き
しているのに、アメリカの
中年白人の寿命は1999年以
降、短くなっている。親よ
り裕福になるどころか、寿
命が短くなっていたのである。1940年生まれの世代が親より裕福になる確率は約92%
だった。ところが、その後この確率が着実に低下を示してきた。50年生まれで約61%、
80年生まれになると約50%にまで落ちた。さらに興味深いのは、社会的な地位の上昇
の地域別の比較である。80年代に全米で生まれた人のうち、親の所得は下位20%であ
ったが、自分の所得は上位20%になった割合は地域的に分析すると、南部やミシガン
やインディアナなどのラスト・ベルトで低いことが判明した。これら2州はトランプ
の勝利を支えた州である。
 よく知られている貧富の格差の拡大も深刻である。2013年時点では、上流世帯と中
流世帯の中間値とのあいだには約70倍の差があり、いずれも過去30年間で最大になっ
ている。格差が存在するのみならず、今もその格差が拡大を続けている事実がある。
上位0.1%の保有する富の割合は、78年には7%だったものが、2012年には22%に増
し、過去の1929年にほぼ匹敵するレベルになっている。上位1%の保有する富の割合
は、1974年から2012年に25%から42%と1.7倍に、約1万6千世帯が該当する上位
0.01%は2.5%から11.2%へと4.5倍に開いている。
 その上に、自由貿易は米国の労働市場や産業構造に脅威であるという考え方と不法
移民が仕事を奪い、賃金の単価が押し下げられたとする批判を、アメリカ社会に根強
い「反エスタブリッシュメント」や「反エリート」の感情が重ね合わされた結果であ
ろう。
 
3. 大衆迎合主義に根差すポピュリズムの功罪
 確かに大衆迎合主義に拠り所を求めたポピュリズムは人間社会に大きな災いをもた
らした。ドイツのヒットラーの独裁もワイマール共和国下で民主的手続きを経て誕生
したが後に独裁政治体制を育んでしまった。イタリアのムッソリーニの独裁もフラン
スのヴィシー政権のペタンの独裁も同じような道筋を経て誕生している。であるから、
ポピュリズムと民主主義とはお互いに相反する関係にあるわけではない。ポピュリズ
ムの落としどころは民の声を直接政治に反映させること、大衆迎合と言えば聞こえが
悪いが、これは立派に民主主義の一側面であって、それ自体「悪」とは決して一方的
に攻められるものではない。
民主主義指数による国別の独裁傾向
民主主義指数による国別の独裁傾向
 
ヒットラーを国家や法の上位に就く総統に選ぶことについての1934年の国民投票では
投票率95.7%、うち89.9%が賛成票を投じたのであった。ペタン政権に対しても当時
の第3共和国の議会は85%の圧倒的な支持を与えている。然らば何故成熟した民主国
Adolf
Adolf Hitler
家から独裁性が生まれるのであろうか。民主制の下にお
いても、国民は熱狂的に独裁制への移行を指示してしま
うのである。このように民主制と独裁制は相反するもの
ではなく、むしろ相愛の関係にあると言っても過言では
なく、そのために、世界の現代史を学ぶときには、まず
このことを教訓として頭に入れて置くことが前提条件と
して要求されるだろう。
筆者の世代も含めて、戦後の民主主義を掲げたリベラル
派、さらには60年代の安保闘争時には「民主か、独裁か」がスローガンとして叫ばれ
たが、これは上述のように相反するものではなく、その過ちに当時の闘士が気付けな
かったのだと思う。
 
4.「希望の党」をどう見るのが良いのだろう?
 大方の識者が発言されているように、「希望の党」も広義の「ポピュリスト政党」
と言えるだろう。民衆への訴え方が非常にオープンで、新聞、雑誌などのマスコミは
勿論のこと、テレビ、ラジオ等のメディアをも含めて断りや制限を加えることなく、
むしろ進んで積極的に利用する側に立っているようで、従来のポピュリズム政党とは
希望の党
希望の党
立憲民主党
立憲民主党
自由民主党
自由民主党
少し異なっていると言うか、ユニークな姿勢を貫いていると思っている。ただ基本的
に際立ってユニークな点は現行の権力構造に対する挑戦を直接その政権に向けるので
はなく、マスコミやメディアを極力活用する直接民衆に訴えることでなされている。
「希望の党」の場合は、明らかにイデオロギーを含む要素が見当たらないのが特徴
だったが、この度の選挙ではこの点が大きく災いした。まだ記憶に新しいことである
から、読者の皆様も合点していただけると思うが、「民進党」から「希望の党」に合
流したいとする党員を選別して、いわゆるリベラル派を拒絶し、その結果民進党が分
裂して選別により「希望の党」に映れなかった人が結集して「立憲民主党」が創られ
、枝野党首の熱情溢れる働きにより、急増した当選者を出すことになった一方で、「
希望の党」は伸び悩み、大きく数を減らすことになってしまった。「しがらみのない
日本を作る」とか、「日本をリセットする」とかというスローガンや訴えにはイデオ
ロギーの臭いは感じられないが、急造の党には本部もなければ、「勝利したときの宰
相候補もないという不完全状態であったため、国民の信頼と安定感のあるサポートを
得ることができなかった。少なくとも筆者にはそう見えた。最もおかしいのは、言い
出しっぺの責任者小池百合子が自分は衆院議員にも立候補せず、首相にもならないっ
というのではサポートする側の力は入りようがない。同じような状況下にある「日本
維新の会」が時を同じくして当選者の数を減らしてしまった。ポピュリスト政党には
陣頭指揮を執り、音頭を取る看板スターと言うか、カリスマ人間が不在であったとい
うことは致命的な失態だったと言わざるを得ない。救いは日本のポピュリズムは欧米
に見られるような偏ったナショナリズムを伴っていないことだろうか。残念なのは現
状の不満の空気の漲る中、未熟な「希望の党」の脆弱さでは日本の政治を変えるほど
の威力は発揮できなかったことである。どうかこの場限りで消え去るのではなく、是
非民意を集め、教宣を重ねて次回に目覚ましい成果を発揮されることを期待したい。
これは何も筆者だけの偏った願望ではあるまいと思いたい。
 
                                     了
                         2017年10月23日(月)  記
 
2017.11.12 清水 "POWER OF TWO"(邦訳「二人で一人の天才」)を読んで
 
“POWER OF TWO”(邦訳「二人で一人の天才」)
を読んで 横浜市 清水 有道
 
1. はじめに
 まずは本書の紹介をしなければならない。題名は首題 “POWER
“POWER OF TWO”「二人で一人の天才」
の通りで、ジョシュア・ウルフ・シェンク(Joshua Wolf
Shenk)著、矢羽野 薫訳(英治出版刊、本体2,300円)
である。著者はロサンゼルス在住のキュレーター、エッ
セイスト、作家と多才で、取り扱う範囲が歴史、政治、
文化、精神衛生、創造性等幅広く、ニューヨークを中心
に新聞、雑誌に寄稿を続けている。心理学から創造性を
研究する「アーツ・イン・マインド(Arts in Mind)」
を主宰している。
 邦訳本でも382頁にもなる分厚い本であり、取っ掛かりは「相当に骨が折れるな」と
思っていたが、書かれていることはどの組み合わせの二人を取り上げてみても、その
通りと言うか、合点が行くと言うか、分析に説得力があって、どんどんと読み進める
ことが出来た。
 
2. 読後感
 読み終えてみれば、今までに読んだ本の中でも相当上位に置いてよい本であり、下
手な伝記を読むよりはビジネス、科学、音楽、文学、スポーツ、コメディに至るまで
幅広い分野の第一人者を取り上げ、その人には影日向に一人のクリエイティヴなペア
になる人が存在している事実を知らされ、いろいろなことが一緒に読み解けた思いが
した。
 
3. 著者が云いたかった真意は?
 一人の天才が創造性を発揮するには、人間関係を支える心許せるパートナーや相手
が間違いなく必要であることを説きたいとして、日本人なら誰でも思い起こせるソニ
ーの創始者盛田昭夫と井深 大のクリエイティヴ・ペアをはじめ、キューリー夫妻や
ジョン・レノンとポール・マッカートニーまで数多くのペアについて六つの章に分け
て、ペアの邂逅から融合、弁証、距離を置いて一時離れるとか、絶頂期をどういう形
で迎えるとか、逆説的な中断や不干渉等時と場合に応じて、ペアがお互いをどのよう
にバランシングしてきたかを教えてくれる。どういう世界に身を置こうとも非常に参
考にできる示唆に富んだ本だと思った。読み終えて、帯に書かれている「一人では何
もできない。二人なら何でもできる。」の意味が良く分かったし、あのアップル、グ
ーグルやソニーが何故二人で起業したのかが合点がいった。
そう言えば、表紙の副題として英文で、“Finding the Essence of Innovation in
Creative Pairs”と書かれていたことを読み終えて本を裏表ひっくり返して、帯を外
して眺めて気付いた。そうなんだ、やっぱり「二人の力――創造的ペアによるイノベ
ーションの核心の発見」として全く別の見方を提案していたのだ。つまりは、天才は
一人で創造すると思っていたことは神話か、迷信で、実際には創造性を生み育てる基
本単位は一人でもなければ、多人数でもない。それはペア二人で、その組み合わせが
補完的で、歯車ではないが、凸と凹が巧く噛み合ったときにのみ創造という成果に繋
がるのだと説きたかったのだと分かった。
ただ、ここで大事なことは、ペアが長期にわたって刺激を与え続け、緊張関係や競争
を組み付けられるか否かである。そのためには、ペアの一人一人が類似点と相違点を
共存していることが肝心で、距離を保って、お互いの活動の自由を尊重するという難
しいことをある意味では一生繋ぎ続ける犠牲にも似た忍耐心と”あっけらかんさ“が
欠かせないのではなかろうか。その意味ではなるほど、一人の天才は存在しないのか
もしれない。スポーツや芸術の世界でも立派な作品や記録を残せるのは、好敵手や対
抗馬があることが必要十分条件であるように、一人だけでは花を咲かせることは適わ
ないのであろう。著者の言いたい神髄は良く分かったが、齢80にして創造の極意を
知っても遅きに失したとお笑い下され。漫画チックな年寄りの冷や水の端的な例示で
しょうか。
 
                                     了
                         2017年10月15日(日)  記
 
2017.10.25 清水 カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞で思いだすこと
 
カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞
で思いだすこと 横浜市 清水 有道
 
 カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞受賞者に決まったことの報道に触れて、
かなり前のことになるが筆 カズオ・イシグロ氏
カズオ・イシグロ氏
映画『日の名残り』
映画『日の名残り』
者が「ブッカ―賞作家に凝
って」と題して、同氏と同
氏の作品について紹介した
エッセイを書いたことがあ
るのを思い出した。手元の
エッセイの原稿の収録ファ
イルを見返して見付けるこ
とが出来た。
それはちょうど筆者が英国のブッカ―賞受賞作家のカズオ・イシグロとアニータ・ブ
ルックナーが好きで作品を漁るように読み進めていた時期の1999年に社団法人日本フ
ルードパワー工業会(JFPA)の季刊誌「フルードパワー FLUID POWER」(1999 No.3
Vol.13)の『ずいひつ』欄に載せた一文である。筆者が(株)トキメック(当時)の
常勤監査役を辞めた翌年に同工業会の元編集委員会の委員を務めていた好で寄せた一
文であった。原文では上記のようにイシグロとブルックナーについて触れているが、
ここではイシグロに絞って、その文章を再現してみたい。
 
 はじめに
 アメリカ合衆国にピューリッツァー賞があるように、日本に芥川賞や直木賞がある
ように、英国には文学界で最も権威のあるブッカ―賞(Booker Prize)がある。最近
の受章者の中で筆者は幼少時に日本から親に連れられて英国に赴き、そのまま英国に
帰化したカズオ・イシグロと大学の美術史の担当教授から転身したアニータ・ブルッ
クナー(Anita Brookner)が特に好きで、出版されているほとんどの本を読んでいる
気の入れようである。以下少しばかりその馬鹿さ加減にお付き合いいただければ幸い
である。
 
 カズオ・イシグロについて
 カズオ・イシグロは、1954(昭和29)年長崎県に生まれ、5歳のときに英国政府か
ら招かれた海洋学者の父と共に家族で英国に渡り、以来英国に留まり、ケント大学卒
業後イースト・アングリア大学の大学院で本格的に創作に打ち込み、作家の道に入っ
た。在学中から幾つかの短編で識者の間には知られていたようであるが、本格的なデ
ビューは1982年に出された最初の長編“A Pale View of Hills”(邦訳「女たちの遠
い夏」筑摩書房1984年刊)がいきなり英国王立文学協会賞(Wini Fred Holtbyy Prize)
に輝き、注目を浴びてからで、この作品は9ヶ国語に翻訳されて紹介された。
翌83年には国籍も正式に英国に移している。1986年に出された第2作”An Artist of
the Floating World”(邦訳「浮世の画家」、中央公論社1988年刊)は英国ではブッ
カ―賞に次いで重要なウイットブレッド賞(Whitbread Book of the Year Award)を
受賞し、併せてブッカ―賞の候補作品にもノミネートされた。第3作目が1989年の
“The Remains of the Day”(邦訳「日の名残り」、中央公論社1990年刊)でブッカ
―賞に輝く幸運に恵まれ、3作連続授賞という快挙を成した。押しも押されもせぬ現
在の英国を代表する作家の一人として『ボーダレスな現代において新しい文学の可能
性を示している』(1990年7月29日付「日本経済新聞」編集委員浦田憲治氏)とか
『題名といい、設定といい、この作家の文学的計算とそのパフォーマンスは鮮やかで、
まぶしい』(1990年7月30日付「読売新聞」書評)等、日本でも高い評価を受けてい
る。
 イシグロの生い立ち、信条、創作態度等々について更に詳細に興味のある向きには、
スイッチ・コーポレーション書籍出版部から刊行されている月刊誌“SWITCH,January
1991 Vol.8 No.6”に”A Long Way Home”(邦訳「もう一つの丘へ」と題された作
家カズオ・イシグロの特集が格好の題材となろう。特にノーベル賞作家大江健三郎と
の対談「作家の生成」は非常に興味のある読み物であるし、1989年5月21日付で英国
の代表的な日刊紙の一つである「オブザーヴァ―」に掲載されたサルマン・ラシュデ
ィ―氏の「日の名残り」についての書評の全てを翻訳者の小野寺健氏の訳文で載せて
いるが、鋭く示唆に富んだ適格な評であり、面白いと思う。評論家丸谷才一氏も『要
を得た 名品で、感心した』と評されている。このスイッチ誌の取材方法については、
日本経済新聞も『この特集はこれまでの文芸雑誌に見られない徹底した接近方法によ
って、作家の人間像を浮き彫りにするのに成功している』と「イシグロ特集に注目と
いう見出しの下に、1991年1月17日付朝刊の「文化往来」のコラムで特記を行ってい
る。
 現在イシグロの作品は22ヶ国語に翻訳され、「日の名残り」は英語圏だけでも100
万部以上の売り上げを記録し、国際的なベストセラーとなっている。また、「日の名
残り」はアンソニー・ホプキンスとエマ・トムプソンの共演で映画化され、日本でも
数年前ロードショーされ、ハリウッドのオスカー賞の候補にも推されたことは記憶に
新しいところである。
 筆者がイシグロに抱く興味と一作読む毎に毎回次作を待ち望む気持ちを呼び起こす
のは、一つには日本人でありながら完全に英国に同化し、専門に学んだ小説の組み立
てや西欧文学の伝統的な緻密な物語構成、文脈構成の上に、遠く離れた異国の地から
年を経てますます高まる日本への思いを繊細な文体で、小説の中に上述の西欧文学の
文脈に絡ませて展開して行く「動」と「靜」のバランスを持たせた手法が、通貨危機
以降、特にバブル崩壊後の国際化、グローバル化、ボーダレス化の世界の中に置かれ
た日本人の一人として対比してみるときに、一つの大きな示唆を与えてくれる部分が
大きいと思っているからである。ただ、どの作品もその受け取られ方は読む人の立場
や国際間の諸現象の経験の大小によって甚だ大きく違った感じに写るであろうことは
歪めず、一面には相当の難しさも潜んでいる作家であると思われる。
 因みに、近作の1995年ロンドンのフェーバー・フェーバー(Faber and Faber)刊
の“The Unconsoled”(邦訳「充たされざる者」(上)、(下)中央公論社1997年7
月初版)は、出版されたことを知って直ぐにブッククラブの通信販売で取り寄せて読
み始めたまでは良かったが、何しろ535頁の長編であることに加えて、いろいろな話し
手が登場して、話が幾筋も脇道に分け入り、どの話が本題につながる話なのかが読み
取れず、大変往生したことを思い出す。邦訳で読み返してみて、ある程度納得したも
のの、もう一度読み返す必要があるように感じた。改めて書評を幾つか当たってみた
ところ、今までの作品の中で最高の傑作・力作であると賞賛する評と、今回ばかりは
駄作ではないかとする酷評とに大きく二分されているようである。裏に脈々と流れて
いる精神的なものが難解で、小説としては相当に難しい作品であると言うことができ
るのではなかろうか。近々再度最後まで一気に読み切ってみたいと決心したところで
ある。」
 よく“10年ひと昔”と言うが、ほぼ二昔前に恰も今回の慶事を予感して記したよう
にさえ思えるエッセイを物していたことが、神の啓示か、不思議な因縁のようにさえ
感じられ紹介した次第である。
 筆者はイシグロのデビュー作「遠い山なみの光」(1982年)から「忘れられた巨人」
(2015年)までの全作品を英文の初版から邦訳の初版まで全冊を座右の書として持つ
一方、カズオ・イシグロの我が国における研究の第一人者である昭和女子大学教授平
井杏子氏が2009年刊の「夜想曲集」までを対象に表された本邦初のイシグロ論にいた
るまで読み極める熱の入れようになってしまった。このイシグロ論も是非一読される
ことをお勧めしたい。
  平井杏子著「カズオ・イシグロ ー境界のない世界―」(264頁)
                    水声社2011年2月10日第一版第一刷発行
 
                                     了
                         2017年10月6日(金)  記