話 題 『 よもやま話 』最新 2014年9月〜2015年3月
 
          話  題  一  覧
2015. 3.29 「父権」復活を筆に託すノーベル文学賞受賞作家パトリック・モディアノの『パリ環状通り』を読んで 投稿;清水有道
2015. 3.22 転換期の歌謡曲への考察           投稿;清水有道
2015. 3. 8 「水面(ミナモ)を描いた画家たち」展を見て思ったこと 投稿;清水有道
2015. 2.22 初夢から差し当たりの余生の過ごし方を見直して 投稿;清水有道
2014.12.15 恒例の横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2014”始まる!投稿;小田 茂
2014.11.23 2014年秋季IRANの会 開催         投稿:伊藤誠一
2014.11. 9 日本文学100年の名作             投稿;清水有道
2014. 9.28 “ヨコハマ砂の彫刻展”           投稿;小田 茂
2014. 9.14 わが庭に新しく迎えた珍しい植物       投稿;清水有道
2014. 9. 2 秋田県立美術館との交歓会で藤田嗣治の超大作壁画“秋田の行事”を観賞する 投稿;清水有道
 

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          話  題  『 よもやま話 』
 
2015. 3.29 清水 「父権」復活を筆に託すノーベル文学賞受賞作家パトリック・モディアノの『パリ環状通り』を読んで
 
「父権」復活を筆に託すノーベル文学賞
受賞作家パトリック・モディアノの
『パリ環状通り』を読んで 横浜市 清水 有道
 
 2014年のノーベル賞文学賞受賞のフランス人パトリック・モディアノ(Patrick
Modiano)について筆者は、ほとんど予備知識なしにいたが、同氏が1972年に刊行し、
パリ環状通り
パリ環状通り
今回の受賞にも大きな影響力を与えたと言われる“Les
boulevards de ceinture (邦訳『パリ環状通り』”)が
早稲田大学文学部仏文科名誉教授野村圭介氏の訳により
2014年12月4日に講談社から出版されたのを機会に飛び
ついて読んだ。この作品は、1945年生まれの著者が弱冠
27歳で書いたものだが、簡潔な文体とみずみずしい情感
を併せ持つ名作と評価され、フランスのアカデミー・フ
ランセーズ大賞を受賞し、作家としての地位を不動のも
のとした代表作と言われているものである。
 筆者は何よりもまず、著者モディアノがこの本の序文に書いている、この作品に込
めた意気込みと情熱、特に世界中で言われている現在の「父権」なき時代、「父」な
き時代を憂い、何とかしてこれら両方の権利を取り戻したいとして書いたと言われる
作品に込められた著者の心意気に率直な共鳴を感じた。この世界共通の人道上の問題、
社会問題とも思われることを主題にして作品にした試みは勿論立派であり、偉いと思
うが、その点を逃さず捉えて、正当に評価したスウェーデン・アカデミーのノーベル
賞選考委員会の人々がさすがだと感心した。
 少し紙面を取ることになるが、この序文を全文野村圭介氏の訳文で紹介したい。
 「ドイツのある社会科学者によると、現代とは「父」なき時代である。 かつて、
父は、伝統的社会の要石であった。が、父のイメージは徐々に風化した。そして、そ
れとともに、権威、道徳、安定、均衡などといった、父に結び付いたあらゆる価値も
風化した。かつて父は、範を垂れ、水先案内人となった。時にはまた、反抗すべき対
象でもあった。いずれにしろ、父は、恒久不変と堅固の象徴だったのだ。
 私たちの生きている社会は、日々激しく変貌する。もはや私たちは、しかとした目
印も、頼るべき伝統も、根を下ろすべき土壌も持たない。誰一人として、私たちの道
案内をしてくれない。流砂の上を歩むように、手探りで、行き当たりばったりにやっ
ていくしかない。生まれながらの孤児である私たちは・・・。」
 『パリ環状通り』で、作者は、同世代の多くの若い人々が感じる、『父』の喪失に
よる不安や心配を、語り手の青年と共に生きようと試みた。  
 語り手が探し求める曖昧模糊とした哀れな父親は、私たちの生きる不安定な社会の
象徴ともいえ、彼を取り巻く様々の登場人物も、すべて人生の余計者や落伍者たちで
ある。
 『パリ環状通り』は、不安と混乱の雰囲気、たそがれ時の漠とした情調を持つ作品
である。そして、このような雰囲気や、男爵とか自称する父をはじめとするあやしげ
な人間たちは、今日、パリにも、ロンドンやニューヨークにも、また東京にも見られ
るのだ。  
 『パリ環状通り』は、過去とのつながりを断ち切られ、手探りで生きていくしか方
法のない語り手「私」セルジュ・アレクサンドルは著者自身でもあり、混迷の現代を
生きる『父』なき世代を代表する若者の姿を写し出した作品なのかも知れない。過去
に一家の生きる道、集合体としての共同体の進む道を切り開き、導いていた父を有し
た時代の親との断絶を余儀なくされた現代の世代が、気が付いて、『父』そのものの
姿を求め、その過程で、親交のあった取り巻きの人を思い出して、追跡していく方法
で物語は進んでいく。
 『父』デブのシャルベことシャルベ・デックケールは読んでいて類推されるように、
多分フランスが宗主国であった植民地アルジェリアかチュニジアからの流民亡命者で、
息子の「私」はフランス生まれで、フランス国籍を持っていて、将来大学にも進める
受験資格バカロレアをも保持しているインテリ物書きという仕立て。『父』は定職が
持てなかったために、あらゆる下層の仕事、裏社会のことに関わっていて、そのつな
がりで特に行動を共にしている二人、咥え煙草のジャン・ミュラーユとたくましい身
体つきの通称“ギィ!”ことギ・ド・マルシュとの生活に行き着くことで、『父』と
その時代の人々が現在いかに情けなく、進む道を失っていったかを示そうとするス
トーリーである。これら3人と彼らが出入りし、寄り合うホテル、居酒屋の女将モー
ガラや淫売女シルビアンヌとの絡みで、交わされる会話の用語は意識的に下品な言葉
が使われ、例えば、“ドイツの食通の屁のように、時折発せられる極めて品のない”
などの言葉がたくさんである。
 混沌の現代と言うものの、著者の作品の舞台は常にドイツによるフランスの占領下
という特殊な状況のときであり、著者のいう『父』とその時代人が時流に流されて左
右に揺れ、本来の各人が目指す人生が歩めないときの落伍者を扱っているので、真の
現代と一様に論ずるには少し尺度が違いすぎ、したがって飛躍が過ぎるのではなかろ
うか。この辺りが筆者の偽らざる読後感であった。一つ言えることは、重苦しい時代
背景と物語の内容であるにも拘らず、非常に軽妙に筆は進められ、全体として軽い読
み物になっているところが楽しめるところと言えようか。           了        
                             2015年1月5日 記
 
2015. 3.22 清水 転換期の歌謡曲への考察
 
転換期の歌謡曲への考察 横浜市 清水 有道
 
 歌謡曲と演歌とはどう違うのだろう。『歌謡曲』と『演歌』という言葉は何時、ど
のようにして生まれたのだろう。人によっては、演歌を艶っぽい歌として『艶歌』と
いう人もあれば、いや恨み節だとして『怨歌』と呼ぶ人もある。この辺りはどう区別
されているのか、定義されているのか、疑問に思ったのを機会に少し世間の知恵を探
ってみた。これらが整理できたなら、是非筆者がレコード・CDで馴染み、自らも幾
つかのシステムの変遷を経て来たカラオケによって歌った歌の多く集まっている1960
年代、70年代のわが国の歌謡曲界を概括してみたい。偶然にも、この20年間が以下に
述べるように日本の歌謡曲界が大きく様変わりした時代でもあった。その意味でもこ
の20年間の推移を整理しておくことは基本的な認識を得るためにも無駄ではなかろう
と思う。
 筆者の予備知識として多少勉強するために参考書を探したら以下の数冊が見つかっ
た。
 *『歌謡曲――時代を彩った歌たち』  高 護著 岩波新書
                         2011年2月18日初版第1刷
 *『歌謡曲から「昭和」を読む』    なかにし 礼著 NHK出版新書
                         2011年12月10日初版第1刷
 *『北のはやり歌』          赤坂憲雄著 筑摩選書
                         2013年10月15日初版第1刷
 *『歌謡曲が聴こえる』        片岡義男著 新潮新書
                         2014年11月20日初版第1刷
 
 これら4冊はそれぞれ特色があり、視点、力点が違っていて面白く読めた。
高 護
高 護
 高氏は、「歌謡曲は誕生からまだ100年を経ない近代
文化であるが、文学と音楽が融合された支配文化として
捉えられる」とし、主に1960年代、70年代の進化・発展
の過程を回顧分析し、演歌の二度にわたる進化とニュー
ミュージックの誕生・発展と日本経済の高度成長との相
関関係にまで触れた的確な著作で、案内書としてもまさ
に当を得て、的を射た力作であると思った。なお、著者
は直接音楽の雑誌の出版から歌手のマネージャー、プロ
デューサーとして音楽界をマネージし、グループを含む歌手の育成に従事し、活動さ
れておられるこの道の達人の一人である。
 2冊目の著者、なかにし氏は、ご承知の通り、多くの なかにし礼
なかにし礼
歌詞を世に送り、たくさんのヒット曲が知られている。
氏は昭和の時代を流行歌=歌謡曲の全盛期として懐かし
むと同時に、平成に入って音楽業界が激変し、楽曲の分
散化とジャンルの細分化、パッケージとして簡素化され
た結果、極端に歌謡曲が衰退してしまった(既に過去形)
と嘆かれ、国民の誰もが知り、歌え、全国津々浦々まで
鳴り響いていた歌は何処へ消えてしまったのかと、再び
の隆盛を期待されているようであるが、筆者にはこれは後述するように無理な願望で
あり、特に日本の歌謡曲を世に送り出すために、数社のレコード会社が作詞家と作曲
者の何人かを抱えて所属の歌手のために曲を作り、歌わせるというシステムが、フリ
ーの作詞者、作曲者(多くの場合は両方を兼ねる)が自分で歌ったり、歌手を決めた
りするようになって、世の中の歌に対する環境、特に新曲が市井に出回るあり方が一
変してしまったことと、ITの世界が一般に完全にオープンになってしまった今、筆
者には絶対に有り得ない過去への戻り願望にすぎないとさえ思われる。
赤坂憲雄
赤坂憲雄
 3冊目の著者の赤坂氏は自ら東北学を打ち立てられた
著名な民族学者で、優れたフィールド・ワークに支えら
れた筆者も尊敬する文化人学者の一人である。氏はご自
分の研究の場の東北が日本の流行歌の故郷であるとして
次の10曲を例にそれらの曲が日本全土に伝搬し、歌われ
た経緯と背景を説明されているが、なるほど不思議にそ
うなっているように思えた。
 1.「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞、万城目正作曲、昭和20年10月、        
           歌手は並木路子)
 2.「北上夜曲」(菊地規(のりみ)作詞、安藤睦男作曲 戦時中からあったが、
          昭和36年のうたごえ喫茶からヒットした、特定の歌手はないが、
          ダーク・ダックスが広める力になった)
 3.「北帰行」(宇田博作詞、作曲、戦前からあったが、同じく昭和36年うたごえ
         喫茶からヒットした、歌手は小林旭)       
 4.「ああ上野駅」(関口義明作詞、荒井英一作曲、昭和39年、歌手は井沢八郎)        
 5.「港町ブルース」(深津武志・なかにし礼作詞、猪俣公章作曲、1969年、
            歌手は森進一)  
 6.「浜昼顔」(寺山修司作詞、古賀政男作曲、1974年、歌手は五木ひろし)
 7.「北国の春」(いではく作詞、遠藤実作曲、1977年4月、歌手は千昌夫)
 8.「津軽海峡・冬景色」(阿久悠作詞、三木たかし作曲、1976年、
              歌手は石川さゆり)
 9.「俺ら東京さ行ぐだ」(吉幾三作詞・作曲、1984年、歌手は吉幾三)
 10.「みだれ髪」(星野哲郎作詞、船村徹作曲、1987年、歌手は美空ひばり)
 
 最後4冊目の著者、片岡氏はまだ東京の某私大の4年 片岡義男
片岡義男
生であったある日、東京の竹島桟橋でふと耳にした“こ
まどり姉妹”の『ソーラン渡り鳥』に横顔を張られる思
いをして以来、歌謡曲が流れているということは、多
くの人々がそれを聞いているということであり、どうい
う場面で、どういう気持ちで聴いているのかを自分の目
で見、自分の耳で聴くことを、昔の自分の人生の節目に
遡って体験できないか、そしてその体験を通して自分が
日本人として歌謡曲を聴いている周りの日本人とどう関わっていたのかを突き詰めて
みたいと思われたようである。流行作家のアプローチの仕方を知る上でも面白い読み
物であった。中でも感動的な片岡氏の体験は訪ねた新宿の店々でホステスか、客の誰
かが必ず八代亜紀の『なみだ恋』を歌うので、「同じ歌だなあ!」、「同じ歌手の持
ち歌だなあ!」と実地の認識をしたという件が何とも印象的だった。これが本当の
“流行”と言うものだろうし、そしてそういう歌こそ正真正銘の“流行歌”だという
ことだろう。因みに、この『なみだ恋』は筆者も好んで歌う歌の一つで18番に限りな
く近い歌である。
 ここで冒頭の疑問に戻って流行歌、歌謡曲と演歌の関係、演歌と怨歌と艶歌との関
係に解を出してみよう。もう既にお分かりのように、流行歌と歌謡曲は同じものであ
るが、NHKが戦後流行歌を特集した番組を持ちたいと計画した際、流行歌と言う響き
があまりに大衆的に過ぎるとして代わりに編み出した言葉が歌謡曲なのだそうである。
実際に今となっては笑い話になるが、NHKのテレビ番組に“歌謡ショウ”があるが、
毎週火曜日にあるので、筆者は最近までてっきり“火曜ショウ”だと思っていた。
歌謡曲の中に演歌、ニューミュージックがあり、最近はニューミュージックも細分化
されて、フォーク、ロック、ポップスに分かれるらしい。怨歌と艶歌はごく一部の特
定な人が語呂合わせに半ば冗談として使われたようであるが、一般の用語として定着
したものではなさそうである。これらの経緯を歌謡曲、特に演歌の最盛期であった19
60および70年代に限って振り返って見よう。
 60年代に演歌は二度にわたって進化を遂げている。はじめに大きなムーヴメントを
起こしたのは船村徹、遠藤実、市川昭介といった昭和一桁時代の新進作曲者と作詞家
星野哲郎らによって生まれた新たな作品とそれらを具現した歌手の一群であった。
『なみだ船』をひっさげて登場した北島三郎とその音楽的特徴は、戦後の新しい演歌
のはじまりを告げるものであった。戦後の新しい聴衆に向けた新時代演歌の誕生であ
った。
 70年代は、ニュ―ミュージックが誕生し、発展し、定着した10年と言われている。
ニューミュージックは自作自演が前提で、プロ作家による作品を基本とする歌謡曲特
に演歌とは大きく異なる。ニューミュージックは上述のように、フォーク、ロックと
ポップスに細別される。従って、大括りにして歌謡曲と呼んでいたものがこの10年間
で細分化がはっきり進み、並行して71年から72年にかけてジャンルとしての演歌もし
っかりその位置を定着させたのであった。因みに、これらの推移を70年代のレコード
大賞曲で見れば一目瞭然である。
 70年 菅原洋一の『今日でお別れ』
 71年 尾崎紀世彦の『また逢う日まで』
 72年 ちあきなおみの『喝采』
 73年 五木ひろしの『夜空』
 74年 森進一の『襟裳岬』
 75年 布施明の『シクラメンのかほり』
 76年 都はるみの『北の宿から』
 77年 沢田研二の『勝手にしやがれ』
 78年 ピンク・レディーの『UFO』
 79年 ジュディ・オングの『魅せられて』
 
 70年代の10年間にレコード会社専属のプロの作曲家、作詞家がほぼなくなり、フ
リー作家の台頭により、曲の幅が広がり、作品の質は逆に向上したと言われている。
多種多様の音楽が無限の広がりを見せてきた。71年のレコード大賞新人賞とレコード
会社名、所属プロダクションは
 小柳ルミ子 『わたしの城下町』 ワーナー・パイオニア、渡辺プロ
 南 沙織  『17歳』 CBS・ソニー、 オリエンタル・ミュージック(OMC)
 本郷直樹  『燃える恋人』 RCA・ビクター、バーニング・プロ
 欧陽菲菲  『雨の御堂筋』 東芝、ミュージック・ポスト(渡辺プロ)
 シモンズ  『恋人もいないのに』 RCA・ビクター、南里エンタープライズ
の7組である。過去歌謡曲の保守本流にあったコロンビアとビクターを筆頭とする老
舗5社の名前が全く見当たらないというサプライズとなった。60年代末のグループ・
サウンズの定着と女性ポップス歌手の隆盛に加えて、フォークの台頭によって歌謡業
界は完全に様変わりしてしまった。演歌では、森進一(ビクター)、青江三奈(ビク
ター)、美川憲一(クラウン)、内山田 洋とクールファイヴ(RCA・ビクター)も
強く、藤圭子(RCA・ビクター)が新作を、五木ひろしは『よこはま・たそがれ』で
デビューし幅を広げていった。
 71年10月からスタートした『スター誕生』からも新人歌手が誕生した。森昌子が
『せんせい』で第一号となり、レコードは72年に出た。桜田淳子と山口百恵が73年に
続いた。大手プロダクションのスカウトはこの番組を中心に新人発掘に凌ぎを削り、
審査員の作曲者はこの番組を通して自作のヒット曲のアイデアをゲットしたと言われ
る 。
 72年を転機として、アイドル・ポップス、演歌、フォーク/ロックの三つのジャン
ルにそれぞれヒット曲が誕生し、賑やかになった。男性アイドル郷ひろみの『小さな
体験』、西条秀樹『ちぎれた愛』、野口五郎『君が美しすぎて』、女性歌手としては、
麻丘めぐみ『女の子なんだもん』、フォーク/ロックとしてはよしだたくろうのシン
グル『結婚しようよ』、アルバム『元気です』、井上陽水のシングル『傘がない』、
アルバム『断絶』、チューリップ『魔法の黄色い靴』、キャロル『ルイジアンナ』、
73年にはガロ『学生街の喫茶店』、『ロマンス』、チェリッシュの『てんとう虫のサ
ンバ』と『白いギター』、南こうせつとかぐや姫の『神田川』、チューリップの『心
の旅』がヒットした。
 74年の第一次オイルショックでは、歌謡曲界は反発もあってか、逆に各分野とも隆
盛を極め、ピアノ弾き語りの小坂明子『あなた』、殿さまキングスの『なみだの操』
とその後の『夫婦鏡』、中条きよし『うそ』の演歌が21週間シングル盤売れ行きの首
位を占め、井上陽水、かぐや姫、よしだたくろうとカーペンターズがポッピュラー界
の首位を占め、中でも井上陽水は『氷の世界』だけで7週、『二色の独楽』が10週と
2曲で実に一年の約半分の一位独占を果たした。74年からはニューミュージック系の
アーティストが歌手への書下ろしをする作品という新分野が登場した。森進一『襟裳
岬』(吉田拓郎)、布施明『シクラメンのかほり』(小椋佳)(筆者注:これら2曲
は上述のように、連続してレコード大賞に輝いている)、中村雅俊『いつか街で会っ
たなら』(吉田拓郎)、和田アキ子『もっと自由に――SET ME FREE――』(宇崎
竜童)、アグネス・チャン『白いくつ下は似合わない』(荒井由実)、研ナオコ『愚
図』(宇崎竜童)など一時期を風靡した。70年代半ばの特徴の一つは筒美京平作品の
輝きであろう。テレビ番組『スター誕生』から生まれたアイドル歌手岩崎宏美の『ロ
マンス』、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』の2曲はミリオン・セールスを記録し、
歌謡曲界のポップスの劣勢を挽回する大きな力となった。70年代も後期、即ち77年以
降になるとピンク・レディー、山口百恵、沢田研二の3人が歌謡界のリーダーとなる。
中でもピンク・レディーの『S・O・S』、『カルメン‘77』、『渚のシンドバッド』、
『UFO』、『カメレオン・アーミー』までの9作品が2年間で58週にわたりシングル・
チャートNo.1を記録した。山口百恵は『青い果実』からはじまってセクシャル路線を
売りものに映画、テレビ、ドラマにまで手広く広げ、『横須賀ストーリー』後は阿木
燿子、宇崎竜童、萩田光雄のトリオの強力バックアップ陣の作品によって独自のイメ
ージの完成に成功した。男性の沢田研二は阿久悠、大野克夫、船山基紀のトリオによ
り『勝手にしやがれ』、『憎みきれないろくでなし』、『サムライ』、『ダーリング』
と次々のヒットを飛ばし、第二の黄金期を確立した。
 ピンク・レディーの低迷に伴い新しくニューミュージック界には矢沢永吉『時間よ
止まれ』、松山千春『季節の中で』、アリス『チャンピオン』などの大ヒットが生ま
れ、『勝手にシンドバッド』でデビューしてきたサザンオールスターズが『いとしの
エリー』でデビュー曲をしのぐ大ヒットを記録している。他にシングル・トップに躍
り出た曲の中には甲斐バンドの『HERO(ヒーローになる時・それは今)』、岸田智史
『きみの朝』、さだまさし『関白宣言』、『親父の一番長い日』、久保田早紀の『異
邦人』等が名を連ねている。これらはいずれも自作自演の曲でプロの作詞家、作曲家
の手になる曲は激減してしまった。このような傾向の中、70年代最後に桑名正博が松
本隆と組んで『セクシャルバイオレットNo.1』 でシングル・ヒットNo.1を取り、ジ
ュディ・オングは阿木燿子の作詞による『魅せられて』で9週間のシングル・ヒット
No.1を続け、前述のように79年のレコード大賞を得たのであった。残念ながらピンク
・レディーは79年にアメリカ進出を果たしながら失速、山口百恵は80年に引退発表。
その後は読者の皆様もよくご承知の松田聖子がリードする80年代に続くことになる。
 
 以上歌謡界に大きな変化の見られた60年代、70年代に限って歌謡曲全般の動きを総
括してみた。読者の皆様には60年代以前や80年代以降についての記述のないことに不
満もおありでしょうが、興味のある方は冒頭に掲げた参考書を参照していただきたい。
また、60年代、70年代でも筆者が触れていない歌そのものも他にまだまだたくさんあ
り、この限られた短い20年間でも名前の知られた歌い手は10指に数えきれないくらい
いる。この点も併せてご理解いただくことにして筆を置くことにしよう。 
                                    了
                             2015年1月5日 記
 
2015. 3. 8 清水 「水面(ミナモ)を描いた画家たち」展を見て思ったこと
 
「水面(ミナモ)を描いた画家たち」展を見て思ったこと
横浜市 清水 有道
 
 気が付いてみると、筆者の描く水彩画でも好んで撮る写真でも多く水面(ミナモ)
を選んでいることが分かった。ことさらに意識して焦点を当てて水面を絵や写真に写
そうとしているのではないが、心惹かれて足を止め、それらを自分の作品として手を
動かして制作した結果が水面を扱ったものにかなり偏ってしまったようである。
 2014年の秋に白金にある松岡美術館で「水面を描いた画家たち」と題する展覧会が
開かれた。筆者の上記のような制作のありようを意味付けすることができるかも知れ
ないと思い、早速訪ねてみた。広く世の東西の著名な画家の作品が並べられていた。
作品点数では34点とこじんまりした展覧会であったが、フランスの画家では海や港に
題材を求めたウジェーヌ・ブーダン、クロード・モネ、ギュスターヴ・ロワゾ―、
モーリス・ド・ヴラマンク、アンリ・マルタンにアルベール・マルケといったよく作
品のイメージが思い起こせる常連とも思われる画家たちの作品に交じって、あのオー
ギュスト・ルノワールとカミーユ・ピサロの作品も川と池を対象としたものが並べら
れていた。
 嬉しかったのは、日本人作家の中に、すでに物故作家となられた新制作協会の重鎮
であった石川滋彦の「運河風景」、東光会や日展で活躍された江藤哲の代表作の一つ
「犬吠崎」が出展されていたからである。筆者は両画伯とは個人的なお付き合いが
あったからである。即ち、石川画伯は筆者が卒業した大学の美術部の顧問として指導
をされていたし、江藤画伯とは筆者がスペイン留学時にマドリードとセビリヤ両都市
でお会いする偶然の機会を持って以来のお付き合いが続いた。筆者がT社の秘書室在
籍時に会社の応接間に江藤画伯の得意のテーマである犬吠崎を描いた作品を直接画伯
のアトリエにお邪魔して当時お手持ちの作品の中から選ぶことを許されて、購入した
ことを覚えている。
 日本の作家としては他にフランスのオンフルール港を描いた二紀会の坂本益夫と内
田晃、オホーツクの海を描いた新制作協会の野村昭雄、漁村を描いた同じく新制作協
会の佐々木一郎や川や池を描いた一水会の金子博信、日展の吉田善彦、創画会の信太
金昌、院展の加藤勝重といった往年の画家の作品が並べられていた。これらの画家が
何を水面として捉えていただろうか。海岸や海辺の波の形状、夕陽の輝き、運河や岸
辺に映る山容、樹木、建物や木々の緑や花の反射している様、水が動いて滝となって
落ちるさまに美を見、音を感じて応えた作品にしていたように思えた。
 筆者も水面をスケッチしたり、写真に収めたりするときの気持ちは、水面に映る色、
光、影であり、水面の静けさや時としては激しく動く様にあるように感じる。それら
に心惹かれ、一瞬の注意が喚起されるように思う。  
 そこで、2014年には何としても持ちたいと思った水彩画の個展用に描き溜めた作品
の中から6点、今でも写した時の瞬間の気持ちを思い出せる写真6葉を以下に紹介し
て筆者の水面に寄せる思いをお伝えし、駄文を連ねることは止めにしよう。
 
〈絵画作品〉
作品_1
作品_1
作品_2
作品_2
作品_3
作品_3
・作品_1:朝霧に霞む京都浄瑠璃寺(4号、2003年5月制作)
・作品_2:高千穂峡真名井滝(8号、2008年3月制作)
・作品_3:アドリア海の真珠と言われるクロアチア国ドゥブローヴニク風景
                       (8号、2010年8月制作)
作品_4
作品_4
作品_5
作品_5
作品_6
作品_6
・作品_4:錦秋の秋田抱返り渓谷(6号、2011年10月制作)
・作品_5:韓国釜山市広安浜の朝暘と広安大橋(4号、2012年12月制作)
・作品_6:足利市フラワーパークの睡蓮(8号、2014年10月制作)
 
〈写真作品〉
作品_7
作品_7
作品_8
作品_8
作品_9
作品_9
・作品_7:スロヴェニア国ヴィントガル渓谷の静寂な流れ(2010年8月撮影)
・作品_8:名古屋市徳川美術館庭園の龍仙湖と観仙楼(2011年6月撮影)
・作品_9:長崎県壱岐左京鼻の観音岩と対岸の対馬の眺望(2011年12月撮影)
作品_10
作品_10
作品_11
作品_11
作品_12
作品_12
・作品_10:国立科学博物館筑波実験植物園にて国指定絶滅危惧種であるアサザ
     (?菜、ミツガシワ科アサザ属の多年草)を撮る(2014年5月撮影)
      ↑:表示不能文字「くさかんむり」に「杏」、Unicode 8395
・作品_11:韓国済州島城山日出峰(世界遺産)(2014年8月撮影)
・作品_12:錦秋に映える日光湯ノ湖(2014年10月撮影)
                            2014年12月20日 記
 
2015. 2.22 清水 初夢から差し当たりの余生の過ごし方を見直して
 
初夢から差し当たりの余生の過ごし方を見直して
横浜市 清水 有道
 
初夢
初夢
 喜寿を超えてこのまま自然に寿命を終えるのは何とも
忍びないので、意外なことを一つか二つ全うして余命を
繋ぎたいと思う今日この頃である。ただ、意外なことで
も度外れた柄にもないことをするのではなく、普段でき
ない、あるいは出来難いことを平然と挑戦することに心
してみようと思うのである。
 年間200冊以上の本を読むことへの挑戦も過去5年続け
てみて、余り続けることに興味を抱けなくなってしまっ
た。何故なら、誠にそれぞれの書籍の著者には申し訳ないが、学術書でも経営書でも
文学書でも超一流のものかどうかの判定は、ここで特に書き記すまでもなく筆者の仕
事ではなく、正直すべての書が該当するなどとは到底思っていない。やたらにたくさ
ん読むことが必ずしも薦められたことではないと思うに至り、ややもすれば貴重な人
生の残り時間を無駄に潰してしまうことにもなり兼ねないとしみじみ感じたからであ
る。そこで、的を他に幅広く移して、以下の5項目を当面の目標にすることにして、
早速新年早々から実行に移してみようと考えている。
 第一には、出来るだけ多く訪ね歩いた日本と世界の土地を自分の筆で文章と絵に託
して作品に残したい。実際に過去五回の水彩画個展に出展した作品の数は優に200点を
超えていながら、訪ねたところで1点の作品も残していないところがたくさんあり、
旅行記やコースタイムすら残していないところも多数に及ぶ。心に残る景色や絵にし
たい構図は今の時点でさえ鮮やかに脳裏に刻まれ、瞼に浮かぶ。これらを是非とも作
品に蘇らせたいと思うのである。
 第二に、今までに物したエッセイを一般的なものと、旅行記の二つに分けて、自選
して2冊の本に纏めてみたい。
 新しいところを訪ねたとき、珍しい植物や動物・昆虫に出会ったとき、出来るだけ
詳しく記録に残して置きたいと思い、また、新しい本を読んだとき、展覧会を訪ねた
ときにも、関係の文書に纏めてきた。たくさんの文章が手元に残った。そこで、これ
らを整理して一般のエッセイと旅行記に区分して、本にしてみたいと思う。
 第三には、すでに試みた朝顔に留まらずに、椿や芙蓉など幾つかの植物で、交配に
よる新種の育成に挑戦してみたい。幸い近年植物の発根を促す薬品が幾つも発明され
て、種から育てなくとも容易に挿し木から増やすことが可能になった。園芸にも少々
の研究心を働かせて自分の固有種を育て、花を咲かせてみたい欲望に駆られている。
 第四には、日本の著名な山登り、半島めぐりをほとんど制覇してしまったので、数
年前から新たに始めた島巡りの完成に努めたい。差し当たり、今年の対象として、八
丈島、佐渡島、小笠原諸島、桜島、樺太および国後島あるいはアリュウシャン列島に
足跡を残そうと計画している。
 そして最後の五番目に、大分先になるであろうが、英文によって300頁以上の私小説
をわが人生の集大成として表してみたいと思いめぐらしている。
 相当誇大妄想に近い少年のようなそれこそ正夢であろうが、ハングリー老人の“た
わごと”とお笑いください。                        了
                             2015年1月3日 記
 
2014.12.15 小田 恒例の横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2014”始まる!
 
  恒例の横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2014”始まる!
横浜市 小田 茂
 
12月25日まで開催(休館なし)開館時間 9:30〜17:00(20日〜24日19:00)
 
 今年も12月1日から横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2014”が始まりました。
 お馴染の内容ですが、今年は8箇所の西洋館のうち、 山手地図
山手地図
「横浜市イギリス館」を除く7つの西洋館では、昨年と
異なる国のクリスマスの様子を紹介しています。また、
室内の点灯下での紹介は20日前は時間的制約で無理なの
で、外観のイルミネーションだけでご勘弁ください。
ただし、「山手イタリア山庭園」内にあります「ブラフ
18番館」と「外交官の家」は、まだ準備されていません
でした。
 上記の日程・時間帯で開催していますので、近くの方は天気の良い日に出掛けられ
たら如何でしょうか。山手西洋館以外にも途中には、「外国人墓地」、「港の見える
丘公園」など見応えのある場所が沢山あります。 
 
1.ブラフ18番館(シンガポール共和国のクリスマス)
 JR石川町駅南口から上 ブラフ18番館
ブラフ18番館

り坂で約5分ほどで、右側
に「山手イタリア山庭園」
の案内版があり、階段を上
るとブラフ18番館に到着。
 ブラフ18番館は、関東大
震災後、山手45番地に建て
られた木造2階建ての外国
人住宅です。 
 戦後の所有者としてカトリック山手教会から部材の寄付を横浜市が受け、平成3年
(1993年)に、この「山手イタリア山庭園」内に移築復元され一般公開されています。 
ブラフ室内_01
ブラフ室内_01
ブラフ室内_02
ブラフ室内_02
ブラフ室内_03
ブラフ室内_03
 
2.外交官の家(アメリカ合衆国・ニューヨークのクリスマス)
 「山手イタリア山庭園」 外交官の家
外交官の家

内で、ブラフ18番館の直ぐ
隣りです。
 外交官の家は、明治政府
外交官の内田定槌氏の邸宅
として明治43年(1910年)
にアメリカ人建築家の設計
により、現東京都渋谷区に
建てられました塔屋付き木造2階建ての西洋館です。国の重要文化財に指定されてい
ます。
 平成9年(1997年)に内田氏のお孫さんから横浜市に寄贈され、現在地に移築復元
され一般公開されました。
 外交官の家(裏側)とイタリア庭園の構図は、絵画愛好家からは、写生ポイントの
一つとなっておりまして中高年方々の写生姿をよく見かけます。
外交官の家室内_01
外交官の家室内_01
外交官の家室内_02
外交官の家室内_02
外交官の家室内_03
外交官の家室内_03
 
3.山手68番館(フィンランドのクリスマス)
 山手68番館は、外交官の 山手68番館
山手68番館

家から山手本通りに出て、
左方向(海の方向)へ向か
います。カトリック山手教
会の角の信号を右折して脇
道に入り3〜4分位で到着
します。(案内板有り。)
 途中、70〜80m手前に「テニス発祥記念館」がありますので、お間違いにならない
68番館のイルミネーション
68番館のイルミネーション
ようご注意ください。
 山手68番館は、日本最初の西洋式公園で、明治3年
(1870年)に造られた山手公園内、昭和9年(1934年)
に建造された外国人向けの平屋の賃貸住宅です。
 ここは、テニス発祥の地でもあり明治9年(1876年)
に、現在は横浜市営テニスコートのクラブハウス、管理
事務所として利用されています。
 
68番館室内_01
68番館室内_01
68番館室内_02
68番館室内_02
68番館室内_03
68番館室内_03
 
4.ベーリック・ホール(スペインのクリスマス)
 ベーリック・ホールは、 ベーリックホール
ベーリックホール
onClick=OpenWin1('wad_dat/wd141215_19.jpg')
山手公園から山手本通りに
戻り、海の方向へ10分弱ほ
ど歩くと左側にあります。
イギリス人貿易商のB.R
べリック氏の邸宅として、 
昭和5年(1930年)に建て
られました。
 スパニッシュスタイルを基調とした建物で、設計はアメリカ人建築家のJ.H.
ベーリックホールのイルミネーション
ベーリックホールのイルミネーション
モーガンで山手111番館、山手教会、根岸競馬場など数
多くの建物を残しています。
 平成12年(2000年)までは、外国人学校の寄宿舎とし 
て利用されていましたが、学校閉鎖に伴い寄宿舎も閉鎖
されました。(学校跡地には現在、建設反対運動が長く
続きましたが、大きなマンションが建っております。) 
 横浜市は元町公園の拡張に伴い、平成13年(2001年)
に用地を買収し、建物については宗教法人から寄付を受
け、復元・改修工事を終え平成14年(2002年)一般公開をいたしました。
ベーリックホール室内_01
ベーリックホール室内_01
ベーリックホール室内_02
ベーリックホール室内_02
ベーリックホール室内_03
ベーリックホール室内_03
 
5.エリスマン邸(イタリア共和国・アッシジ地方のクリスマス)
 エリスマン邸は、ベーリ エリスマン邸
エリスマン邸

ック・ホールと小さな道を
挟んだお隣りさんです。
 生糸貿易商社の横浜支配
人として活躍したフリッツ・
エリスマン氏の邸宅として
大正14年(1925年)から15
年にかけて建てられました。
 昭和57年(1982年)に解体されましたが、平成2年(1990年)元町公園内の現在地
エリスマン邸のイルミネーション
エリスマン邸のイルミネーション
に復元されました
 エリスマン邸の横(建物からみれば裏)は、元町公園 
の裏側入り口で、モダンな公衆電話、トイレ(トイレは 
普通の公衆トイレ)があります。
 ここから先の左側には、外国人墓地の敷地が続きます。
 
 
 
 
エリスマン邸室内_01
エリスマン邸室内_01
エリスマン邸室内_02
エリスマン邸室内_02
エリスマン邸室内_03
エリスマン邸室内_03
 
6.山手234番館(フランスのクリスマス) 
 山手234番館は、山手通り 山手234番館
山手234番館

を元町公園と隔てた右側に
位置したところにあります。
 エリスマン邸から1分。
 昭和2年(1927年)頃外
国人向けの共同住宅(アパ
ートメントハウス)として、
関東大震災により横浜を離
れた外国人に戻ってもらうための復興事業の一つとして建てられたものです。
234番館のイルミネーション
234番館のイルミネーション
えの木てい
えの木てい
 平成元年(1989年)に横浜
市が歴史的景観の保全を目
的に取得し、現在は一般公
開されています。
 左隣は、山手で有名な自
家製ケーキが大きくて美味
しいカフェ“えの木てい”
です。
 
234番館室内_01
234番館室内_01
234番館室内_02
234番館室内_02
234番館室内_03
234番館室内_03
 
7.横浜市イギリス館(イギリスのクリスマス)
 横浜市イギリス館までは  イギリス館
イギリス館

山手234番館から5〜6分ほ
どで山手本通りのはずれに
ある「港の見える丘公園内」
に位置します。
 イギリス館は、昭和12年
(1937年)英国総領事公邸
として建てられました。
 昭和44年(1969年)に横浜市が取得し、現在は一般公開されています。
イギリス館のイルミネーション
イギリス館のイルミネーション
バラ園
バラ園
 イギリス館に相応しく、
『ローズ・ガーデン』に隣
接しています。隣接という
より『ローズ・ガーデン』
の中にあるといった方が分
かり易いと思います。
 他の西洋館では、毎年違
う国のクリスマスをテーマ
に取り上げていますが、イギリス館だけは毎年同じ「イギリスのクリスマス」です。
この建物が領事公邸であったという歴史から、他の国のクリスマスを取り上げるのは
難しいのかもしれませんネ!
イギリス館室内_01
イギリス館室内_01
イギリス館室内_02
イギリス館室内_02
イギリス館室内_03
イギリス館室内_03
 
8.山手111番館(日本のクリスマス)
 山手111番館は、横浜市イギリス館の南側の噴水広場を挟んで建っております。
山手111番館
山手111番館

111番館のイルミネーション
111番館のイルミネーション
 スパニッシュスタイルのこの洋館は、大正15年(1926年)にアメリカ人の住宅とし
て建てられました。
 設計者は先に出てきましベーリック・ホールを設計したJ.H.モーガンです。
 平成8年(1996年)横浜市が敷地を取得し、建物の寄贈を受けて、現在は一般公開
されています。 
111番館室内_01
111番館室内_01
111番館室内_02
111番館室内_02
111番館室内_03
111番館室内_03
 8箇所の「世界のクリスマス」巡りは、所要時間は約3時間程度でした。あとは
近くの横浜中華街まで足を運び遅い昼食などは如何でしょうか。 
 ここからは、最寄り駅:みなとみらい線 元町・中華街 駅まで 下り坂で徒歩7分位
です。ここが元町商店街で、横浜中華街も橋を渡れば直ぐです。 また、JR桜木町駅
行きの市営バスも「港の見える丘公園」前から出ています。 
 
 ≪おわりに≫ クリスマスが過ぎますと、直ぐに“新年”です。
 皆さま、“良い年”をお迎えられますよう 心からお祈り申し上げます。
 
2014.11.23 伊藤 2014年秋季IRANの会 開催
 
2014年秋季IRANの会 開催 品川区 伊藤 誠一
 
 日本防衛の一環である、対空サーチレーダーの一部に 集合写真
集合写真
対するメンテナンスを担当したOBが中心に集まってい
る「2014年秋季IRANの会」が、予定通り10月19日
(日)午後開催されました。
 この仕事の始まりを会社の命令で、20人近い外国人技
術者の中で故 中村 浩二氏と一緒に働いた伊藤 誠一氏
の自宅階下のミニホールで開催されました。
 先回ゲストで参加されたOB会幹事の小池 芳光氏と
松為専務夫人、伊藤氏の奥様を含めて17名が参加され、欠席の連絡を頂いた方は16名
でした。
 出席者は後列左から、松為 専務夫人、小池 芳光、吉田 誠治、平野 誠、安田 彰、
若竹 日方、森 忠彦、堀田 修靖、松尾 優、工藤 忠、鳥井 匡、伊藤 誠一の皆さん。 
 前列左から、南 紀子、鷲北 修、若林 弘夫、新井 正美、伊藤 夫人の皆さん。
 欠席者のなかには、今回限り体調不良でメンバーから外れたいとのご連絡を頂いた
若松 富男氏をはじめとして、恐らく平均年齢70歳を超えたメンバーだけに、体調の
不良を欠席の理由に挙げられている方も多くなりました。
 何時も那須からは、品川 治男さんか宮川 鉄也さんが来られたのが、今回はどちら
もお見えにならず淋しかったです。品川さんは体調の具合とのことですが、宮川さん
はシルバー大学を卒業し、いろいろご活躍ですが、ご都合が悪かったとのことです。
ちなみに、この会では出席者に欠席者の情報をコピーしてお渡ししています。
 今回は、伊藤ご夫妻が品川区芸術祭に招待を受けているので、昼食後に集合写真を
撮影したあと退席されました。退席に当たり、ホールの設備の一つカラオケセットを
使って、伊藤 夫人が皮切りに、元気のでる歌詞のある「風に立つ」を歌い、カラオケ
の大好きな南 女史にバトンタッチして出かけられました。伊藤 夫妻の出かけけられ
たあとは、カラオケを楽しむ事よりも、それぞれ幹事の用意した十分な飲み物とおつ
まみで、喧々諤々それぞれの想い出や現状の報告などに時を忘れて話し合い、4時過
ぎには写真を持って帰ると云って出掛けられた伊藤夫妻の帰宅を待ちましたが、お帰
りにならず、次回2015年5月の第3日曜日に又皆で元気に会いましょうと約束して、
外が暗くならない内の4時半近くに解散しました。
             写真/伊藤、 文/幹事:工藤、鳥井、堀田、平野。
 
2014.11. 9 清水 日本文学100年の名作
 
日本文学100年の名作 横浜市 清水 有道
 
 新潮社が文庫を発刊して今年(2014)で100年になることを記念して、「日本文学
100年の名作」シリーズ10巻の刊行が決定され、去る9月1日にその第1巻が出版さ
れた。長編は含めず、中編・短編小説に限られ、しかも作者一人に対し収録作品は一
篇に限るという基準によっている。
 筆者の大好きな池内 紀と川本三郎に松田哲夫の3氏が編者となっている。筆者は
主に高校時代に当時の岩波と新潮の両文庫の文学書全てを往復2時間の通学時間で読
破したが、その後読んでいないものも数多くあり、また、中編・短編の中にはそれら
が存在することすら知らないものも多いので、この機会にシリーズ10冊全ては読み切
新潮文庫「日本文学100年の名作」第1巻
新潮文庫「日本文学100年の名作」第1巻
れないかもしれないが、余命の続く限り、読んでみるこ
とにして第1巻を買い求めた。巻末には3人の編者が交
代で“読みどころ”をダイジェストしてくれているので、
読む前の予備知識として非常に参考になった。
 第1巻の収録作家は、荒畑寒村、森 鴎外、佐藤春夫、
谷崎潤一郎、宮地嘉六、芥川龍之介、内田百閨A長谷川
如是閑、宇野浩二、稲垣足穂と江戸川乱歩の11人で、新
潮社文庫が創刊された1914年から10年間に活躍された文
士の作品が納められている。
残念ながらこの対象期間には該当する女性作家は一人もいない。筆者が既に読んでい
たのは、全体の45%、5氏の作品だけであった。森 鴎外の「寒山拾得」、谷崎潤一
郎の「小さな王国」、芥川龍之介の「妙な話」、内田百閧フ「件」に江戸川乱歩の
「二銭銅貨」である。これらは全てそれぞれの作家の全集で読んだものだったと思う。
戦前の改造社から出されたクロス製本の当時としてはかなり立派な全集だったと思う。
 収められている10篇の作品は作家それぞれが固有の当て字の漢字の使い方や旧かな
使い表現に何とも言えない懐かしさを覚えて一気に読んでしまった。一つ一つの作品
の内容を紹介するなどと言う野暮なことは勿論したくない。ただただこのような面白
い試みがなされたことをお知らせし、文庫も100年になったという感慨を新たにしたの
で、一文を綴ってみた。同好の士と読後感でも話し合えたら・・・、と楽しみにして
いる。                                  了
                       −−−2014年9月20日 記−−−  
 
2014. 9.28 小田 “ヨコハマ砂の彫刻展”
 
“ヨコハマ砂の彫刻展” 横浜市  小田 茂
 
横浜市と泉州市(中国)、光州広域市(韓国)の3都市が交流し、
  文化芸術による相互理解と都市の発展を目指す「東アジア文化都市2014横浜」
 
 「東アジア文化都市2014横浜」活動の一環として、私 会場入口
会場入口
の地元、横浜市中区の本町6丁目・弁天橋のたもとで“ヨ
コハマ砂の彫刻展”が11月3日まで開催されています。
 9月15日(敬老に日)に女房と一緒にノコノコ出掛け
てきました。会場は特設テント張りで、JR桜木町駅か
ら徒歩5分、みなとみらい線馬車道駅から徒歩1分、本
牧の自宅からはバスを利用して30分弱の所です。
 入場料大人1,200円ですが、当日は“敬老の日”という
ことで、65歳以上は200円の割引で1,000円でラッキーでした。
 会場に置かれた「説明書」によると、「鳥取砂丘の砂は、10万年以上の前から岩や
石が川や海によって削られた貴重なもので、この砂を約1,300トン使用しています。
ちなみに、1,300トンという重量は、一機150トンのジャンボジェット機9機分と同じ
重さであり、一頭平均8,500キロのアフリカゾウ約153頭分に相当します。」とのこと。
 
★ 守護神として 「鳳凰と横浜の風景」「龍と横浜の風景」でお出迎え!
鳳凰
鳳凰
龍をバックに
龍をバックに
 「世界中の建造物や神殿
の入口に一対の守り神がい
るように、この空間にも日
中韓それぞれの歴史文化が
根付いている。想像上の生
き物たち、繁栄のシンボル
の“龍”と縁起の良いもの
に用いられる“鳳凰”を、
一対の守護神として製作した。21世紀の横浜の風景と守護神をつなぐ三本の翼は、日
中韓3つの国を象徴している。」
 
★韓国エリア(李氏朝鮮の世宗(セジョン)大王の像・南大門など)
世宗大王
世宗大王
貨幣と時計
貨幣と時計
南大門_1
南大門_1
 
南大門_2
南大門_2
 韓国エリアでは、「14世紀4代目の王・世宗大王(セ
ジョン大王)が民衆へ目を向けた文化の息吹と国を象徴
する建物をメインに表しています。世宗大王は朝鮮文字
(ハングル)を創案し、漢文が難解だったため民衆にも
読めるように創製しました。」
南大門(宗禮門)は、「李氏朝鮮時代の都城の城門の
一つで、ソウルの木造建築のなかで最も古く、韓国の国
宝第1号となった城門です。」
 
★中国エリア(万里の長城、秦の始皇帝と兵馬俑(へいばよう)など)
 万里の長城は、「1987年 万里の長城_1
万里の長城_1
万里の長城_2
万里の長城_2
に世界遺産に登録された、
世界最長の城壁です。
 中国では、古くは紀元前
から北方の異民族の流人を
防ぐため、山脈や大河を横
断するように城壁が修造・
増築され続けており総延長
は、21,000kmで、現存する人口壁は6,200kmで、そのほとんどが明の時代に造られまし
た。」
 秦の始皇帝と兵馬俑は、 兵馬俑_1
兵馬俑_1
兵馬俑_2
兵馬俑_2
「秦の始皇帝は中国史初の
皇帝であったが、その強大
な力を利用し大きな陵墓を
建てた。これが秦始皇帝陵
である。1974年に地元の住
民により発見された。
 また兵馬俑坑は、この陵
を取り巻くように配置されており、その規模は2万u余におよぶ、きわめて大きなも
ので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で
8,000体ちかくあり、みな東を向いている。」
 
★日本エリア(黒船・ペリー提督とその一行、世界遺産の富士山など)
ペリー提督_1
ペリー提督_1
ペリー提督_2
ペリー提督_2
 ペリー提督が横浜に上陸
したのは、1854年(寛永7
年:安政元年)2月10日でし
た。浦賀来航の翌年になり
ます。ペリーは横浜応接所
で日米和親条約締結のため
会談を4回にわたって行な
い、3月3日日米和親条約
締結に至りました。正式には「日本國米利堅合衆国和親条約」です。幕末から明治に
かけて、アメリカ合衆国を「米利堅・メリケン」と呼んでいました。
 日本最高峰の活火山であ 富士山_1
富士山_1
富士山_2
富士山_2
る「富士山」は、山梨県と
静岡県に跨り、標高3,776m
の日本人の誇りの山です。
 2013年(平成25年)6月
12日世界文化遺産に登録さ
れました。
 
 
西洋館
西洋館
横浜の親子
横浜の親子
 文明開化の頃の横浜の風
景です。
 
 
 
 
 
 
 
 ★“砂の彫刻”が完成するまで 
 鳥取砂丘の約1,300トンの砂と横浜の水を混ぜ合わせて準備し、砂利やゴミをふるい
を欠けて取り除くのに約1ヵ月、水で固めて積み上げるのに約1ヵ月、彫刻するのに
“日中韓”などの彫刻家10人が、スコップやコテを使い、約2週間掛かったそうです。
 「ペリー来航」の様子や「万里の長城」を模した幅17m、高さ4mほどの大きな作品
はじめ魅力ある作品が見られました。 製作過程を順を追って紹介しますと、
  砂固め
砂固め
型枠への詰め込み
型枠への詰め込み
 @4辺を囲った木の型枠
  に、砂と大量の水を入
  れ、空気を抜きます。
 
 A転圧機でシッカリと締
  固めします。
 
 
 B作品のサイズまで型枠 型枠の積み上げ
型枠の積み上げ
彫刻の開始
彫刻の開始
  を積み上げます。
 
 C水が抜けたら、上から
  慎重に型枠を外し、上
  から慎重の掘り進めま
  す。作成中に崩れてし
  まうこともあります。
 
★砂像づくり体験教室
親子で体験
親子で体験
作品例
作品例
 「ミニ鳥取砂丘」のスペ
ースでは、“砂像づくり”
の体験ができます。時間は
40分間で、プロの彫刻家達
が使っているものと同じ道
具を使って、親子で挑戦し
ていました。結構素晴らし
い作品が出来上がっている
ようです。
親と子のコミュニケーションを図るには最高の場面ですね!(参加料1,000円)
 
★ お わ り に
 「中国エリア」の前のベンチに座り、「秦の始皇帝と兵馬俑」や「万里の長城」の
砂像を眺めていると、会社のOB有志の旅行会で出掛けた、2001年中国、2002年韓国、
2007年中国への旅行が想い出され、懐かしいご対面となりました。
 テントの中では、横浜市、泉州市(中国)、光州広域市(韓国)の3都市の交流と
いうことで、日中韓の素晴らしい芸術作品を眺め、平和そのものを肌で感じました。
 しかし、テントを一歩出て現実の世界に戻りますと、「日中関係」「日韓関係」は
“領土問題”・“歴史問題”などがあるにしても、各国の指導者、マスコミなどの
思惑的内容に各国の国民が踊らされたかのように、それぞれの共同世論調査の結果は、
戦後最悪の結果が出ているのが遺憾でなりません。
 そんななか、9月19日には、“一つになるアジア”ということで「第17回アジア競
技大会」が韓国・仁川で開催されようとしています。
 これを機に、“一つになるアジア”=“紛争の無いアジア”へのスタートと期待し
ていきたい思います。
 
2014. 9.14 清水 わが庭に新しく迎えた珍しい植物
 
わが庭に新しく迎えた珍しい植物 横浜市 清水 有道
 
 昨年9月、筆者の高校時代の級友が蓼科に持っている山荘に世話になって蓼科・
霧ヶ峰高原を歩いた折、霧ヶ峰高原で採種したカワラナデシコ(河原撫子)と茅野市
の農家からいただいたオオセンナリ(大千成)の種子からたくさんの芽が出て、苗が
育ち、この夏には見事な花を見せてくれた。
 
<カワラナデシコ(河原撫子)> Dianthus superbus var. longicalycinus
 ナデシコ科ナデシコ属の多年草。本州から九州まで分布し、低地や山間部の草原に
好んで繁茂する。花期は7月から10月。
 霧ヶ峰のものは、5枚の花弁の縁の色が神秘的な赤の縁取りになっていてきれいだ
が、低地の都会の気温の高い中で育ったせいか花全体がやや実際よりも白っぽく、赤
の縁取りも精彩を欠いてい カワラナデシコ_1
カワラナデシコ_1
カワラナデシコ_2
カワラナデシコ_2
る。一般的に、同じ花でも
高原の高いところに、ある
いは緯度の高いところに咲
いたものは、花の色が鮮や
かできれいだ。筆者がオラ
ンダに駐在していた折には、
現地では平地に咲いていた
マツムシソウ(松虫草)の紫色が余りにも鮮やかで、きれいなのに驚いたことを今で
も忘れることが出来ない。
 
<オオセンナリ(大千成)> Nicandra physaloides
 英名では“Apple of Peru” あるいは “Shoo-fly plant” と呼ばれるナス科
オオセンナリ属の耐寒性一年草である。
オオセンナリ_1
オオセンナリ_1
オオセンナリ_2
オオセンナリ_2
 ペルー原産で江戸時代に
観賞用に導入されたという。
1964年に北九州で野生化が
確認された帰化植物である。
通常のセンナリホオズキよ
り大きい実を多数つけるこ
とからこの名が冠せられた。
 7〜10月に葉腋(茎と葉
の間の、人間で言えば脇にあたる部位)に上向きに4cm程の淡青色の漏斗形の花を一
つずつ付ける。葉は互生し(向かい合って2枚の葉が付くのではなく、互い違いに付
くことの意味)、ホオズキによく似た実を付ける。
 この二つの新入草本に加えて、7月25日(金)には、冒頭に挙げた級友からまたま
たナス科の珍種シホウゲ(紫宝華)の苗を貰った。7月が花期の始まりの草本である
が、この分だと多分今年は花が見られないかもしれない。
 
<シホウゲ(紫宝華)> Solanum laciniatum
 英名を“Kangaroo Apples”と呼ぶ通り、オーストラ シホウゲ
シホウゲ
リア南東部の原産のナス科ナス属の多年草である。最近
になって園芸品種として紹介されたらしく、詳しいこと
は分かっていない。筆者も図鑑や園芸植物案内書にも紹
介されているのを目にしていない。お分かりの方がおら
れたら、是非教えて下さい。
 なお、近似種にシホウカ(和名のカタカナ名は“ゲ”
と“カ”と違っているが、漢字名は同じ“紫宝華”であ
る)、別名をソラナム・ラントネッティもしくはナスノキ(茄子木)とも呼ばれるナ
ス科ナス属の落葉低木、蔓性植物の落葉樹がある。野菜のナスに極めて似た花を付け
るため、この名が付いたものと思われる。シホウカは学名をSolanum rantonnetii, 
英名を“Blue potato bush”,“ Paraguay nightshade” あるいは “Royal Robe”
と呼ばれるようで、原産地はブラジルからパラグアイにかけての地域と言われる。花
の後に実る果実は直径3cm程になり、黄色く熟し、食用になるという。原産がスペイ
ン語圏であるため “Solano de flor azur {暗青色の花のソラーノ(茄子の意)}”
とか、“Dulcamamara perenne {多年生のヒヨドリジョウゴ(鵯上戸)}”という西語
名が付けられている。なお、南米には草本、木本ともに多くのナス科ナス属の植物が
自生していることが知られている由である。
 
 もう一つ、庭の植物の話を付け加えよう。それは、日当たりの悪い場所に植えてあ
ったクスノキの幼木を昨年晩秋に日当たりの良い場所に移植したら、それがよほど嬉
しかったと見えて、今年の春には大きな若い枝芽が伸びて、若葉がたくさん茂り、高
さはまだまだだが、将来の大木を予想させるくらいに立派になった。若葉が育てば、
アオスジアゲハの3齢幼虫
アオスジアゲハの3齢幼虫
それを見逃すはずはなく、アゲハチョウ科のアオスジア
ゲハがすかさず卵を産み付け、6匹の幼虫が誕生した。
3齢以上出来るだけ終齢に近くなるまでそのままで育つ
姿を眺めようと思い、5月に1匹分だけ写真に収めて様
子を窺っていたところ、6月に入った途端に6匹とも全
て鳥か、イモリか、トカゲに食われてしまい、影も形も
なくなってしまい、さんざんに食い荒らされた若葉が無
残な姿をさらけ出していた。自然界の食物連鎖は厳しい
ものだと改めて思った。                          了
                          2014年7月26日(金) 記
 
2014. 9. 2 清水 秋田県立美術館との交歓会で藤田嗣治の超大作壁画“秋田の行事”を観賞する
 
秋田県立美術館との交歓会で藤田嗣治の
超大作壁画“秋田の行事”を観賞する 横浜市 清水 有道
 
1.はじめに
 筆者は横浜美術館がサポータ制度を設けて「横濱美術館協力会」を発足させて以来
のメンバーである。協力会ではほぼ毎月美術館の中で美術講演会を開き、著名な美術
評論家、作家、美術館キュレーターから作品の鑑賞の仕方、作品の生まれた背景や作
品に纏わるエピソードを聞いて楽しんでいる。また、年に3〜4回は国内各県の美術
館を訪ねて交歓会を持ち、所蔵の名作を鑑賞し、その作品に纏わる話や作家の該当作
品を制作した実話を勉強して楽しんでいる。この6月には実業家岡田氏がコレクショ
ンを公開している箱根にある岡田美術館で最近修復作業が終わって公開されたばかり
の喜多川歌麿の“深川の雪”をじっくり味わって、浮世絵の肉筆の大作の素晴らしさ
に心打たれた。他県にも数回訪ねている。この6月にも1泊2日の日程で、秋田の秋
田県立近代美術館、秋田市立赤れんが郷土館・勝平得之 秋田県立美術館
秋田県立美術館
記念館、秋田市民族芸能伝承館、秋田市立千秋美術館
・岡田謙三記念館、それに秋田県立美術館を訪ねた。訪
ねた5つの美術館のいずれにも名作があり、千秋美術館
の岡田謙三の具象から抽象に移る作品の流れや勝平得之
記念館の棟方志功と同時代の版画家勝平得之の心温まる
農村の民衆の生活を写した版画の集大成など、どれをテ
ーマにしても充分エッセイを作ることが出来るが、今回
は県立美術館の公益財団法人平野政吉美術財団所蔵の平野政吉コレクションの超目玉
作品であるレオナール・フジタの1937年制作の“秋田の行事”(3.65×20.5m)につい
て書いてみたい。
 
2.藤田嗣治と平野政吉との出会い
 藤田嗣治(フランスに帰化してからはレオナール・フジタ)は1886(明治19)年後
に軍医総監となる藤田嗣辛の次男、第4子として当時の東京牛込区に生まれ、1910
(明治43)年東京美術学校西洋学科を卒業、3年後の1913(大正2)年には横浜から
渡仏している。1919(大正8)年にはサロン・ドートンヌに初入選、翌年には会員に
推挙され、1922(大正11)年には審査員になっている。1929(昭和4)年日本に一時
帰国、東京で帰国展を開いた。この帰国展を秋田市の資産家平野政吉が観賞した。こ
のときが平野が藤田の作品に出会った最初であった。1930(昭和5)年にアメリカ経
由でパリに戻り、翌1931(昭和6)年に妻のマドレーヌを伴いブラジル、アルゼンチ
ン、ペルー、メキシコ、アメリカの中南北米を歴訪し、1933(昭和8)年に再び日本
に帰国、東京淀橋区戸塚町の次姉の嫁ぎ先に仮住まいとなった。帰国した藤田はたく
さんの注文をこなすため意欲的に東京、大阪、京都で制作に没頭している。1934(昭
和9)年東京の展覧会場で初めて平野が藤田に出会った。翌1935(昭和10)年藤田は
初めて秋田を訪れている。1936(昭和11)年映画撮影に関係して藤田が再び秋田を訪
問。この年6月に妻マドレーヌが東京戸塚のアトリエで急逝、その鎮魂のために平野
が秋田に美術館を建てることを提案した。それを受け容れて藤田も秋田入りし、壁画
制作の準備に入った。
 
3.“秋田の行事”とはどんな絵か
 この壁画は、秋田の全貌を映し出すものにしたいと考え、実際に絵に着手するまで
に半年を掛けて秋田の県内をくまなく歩き、主だった祭りである平野の本拠地外町
(とまち)の鎮守日吉(ひえ)八幡神社の山王祭、太平山三吉神社の梵天(ぼんてん)
奉納祭や外町の年中行事竿燈等々これら全てを織り込んだ壁画“秋田の行事”は3.65m
×20.5mという大きなもので、キャンバスに油彩で描かれているが、横に長くしたまま
では収まる部屋がなく、制作の場にした平野家の米蔵でも両側は折り畳んだと言われ
ている。
藤田嗣治「秋田の行事」
藤田嗣治「秋田の行事」
 壁画は、橋を境にして祝祭行事と日常が対照的に描か
れているが、約右3分の2が祝祭用に当てられ、左3分
の1が日常の風景となっている。右端に外町の鎮守社日
吉八幡神社の三王祭、太平山三吉神社の梵天奉納祭り、
外町の行事・竿燈が描かれている。梵天の彼方に三吉神
社のご神体である霊峰太平山の山容が写し込まれている。
祝祭行事と日常の生活の場面を分ける橋として描かれて
いるのは高清水丘陵にある香炉木(こうろぎ)橋で、古
代の城柵秋田城が築かれた丘を暗示していると説明される。右から奈良時代以降の秋
田の時間の流れが、この橋の上で昭和初期の秋田の民衆の生活に時空が切り替えられ
ている。その意味で秋田の時代考証を得る上にも大きな意義を持つ対策として受け取
られている。1937(昭和12)年3月、秋田を丸ごと絵にしたこの壁画は完成した。実
に米蔵での藤田の15日間の奮闘であった。筆者がこの絵に殊の外思い入れが強いのは、
この絵が完成した時の昭和12年3月がちょうど筆者がこの世に生を受けたときと時を
同じくしているためである。 秋田竿燈の実演
秋田竿燈の実演
 1938(昭和13)年、この壁画を展示するための美術館
が秋田市で着工されるが、直ぐに戦時体制のため建設中
止となり、1967(昭和42)年の一般公開まで、約30年余
平野家の米蔵で日の目を見ぬまま保管されることとなっ
た。なお、1967(昭和42)年の美術館も耐震強度などに
問題があり、建て替えられ現在の新しい秋田県立美術館
は大手門の堀を挟んだ広い場所に2013(平成25)年9月
に移された。旧美術館時代は常時展示されることはなく、新しい美術館が出来るまで
実際に観賞できた人は限られていた。筆者の記憶が正しければ、何年か前に東京竹橋
の国立東京近代美術館でレオナール・フジタの大回顧展が開かれた際、第1室の入り
口正面にこの壁画が掲げられていたように記憶している。多分この時が東京でのこの
壁画の正式なお目見えではなかったろうかと思う。特に女性の肌色が画伯得意の白い
肌とはなっていないが、構図の組み込み方が平野氏の想いを十二分に汲み取って歴史
と時の流れを工夫して絵巻物風に纏めながらも現実の庶民の姿をも隔てなく、違和感
を与えずに馴らし込んでいるところにさすがにと感心できる画伯の力量を感じた。
 県の宝であると同時に、日本中でも一番祭りが多く集客人員を誇る秋田県、お神酒
としての日本酒の消費量の一番多い秋田県を支える神への捧げ物、地元民の生活の鑑
になっていると思う。  
 参考までに秋田県立美術館は、安藤忠雄の設計による内外装ともコンクリート打ち
っぱなしの美術館である。“秋田の行事”のみを常設展示する2階の展示室は文句な
しに圧巻であるが、3階から壁画全体を見下ろして観賞するのも美術館を去る前の最
後の覚えとして良い試みであろう。                     了                        
                          2014年7月6日(日) 記