話 題 『 よもやま話 』 2014年5月〜2014年8月
 
          話  題  一  覧
2014. 8.17 境川を散策する(2)            投稿;砂田定夫
2014. 8. 3 境川を散策する(1)            投稿;砂田定夫
2014. 7.20 鉄斎展で思い出すこと            投稿;清水有道
2014. 6.22 喜寿を迎えても山歩きを楽しむ        投稿;清水有道
2014. 5.25 アリス・マンローを読む           投稿;清水有道
2014. 5.19 菊次さんの映画鑑賞記を読んで        投稿;八木 宏
2014. 5.11 記念日無情                 投稿;清水有道
2014. 5. 2 桜散っても、花盛り!2014年版        投稿;小田 茂
 

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          話  題  『 よもやま話 』
2014. 8.17 砂田 境川を散策する(2)
 
       境川を散策する(2)  相模原市 砂田 定夫
 
1.境川上流へ向って
 境川の川面を見ているうち、いったいこの流れはどこから始まって、どのような経
路で水を集めながら河口までの旅をするのか、それをこの目で、この脚で確かめてみ
たいという気持が湧いてきて、いつか歩いてみようと思っていた。
 境川は城山湖の近く、東京都町田市の最高峰草戸山(標高364m)の尾根から湧き出
る小さな水滴を集めて始まり、東京都と神奈川県の境から江ノ島片瀬まで流れる全長
約52kmの2級河川である。その源流への旅を思い立ったのは、今年春まだ浅い3月15
日だった。自宅から1q強の新中里橋まで下り、上流へ向ってスタートしたのはもう
昼に近い11時30分。いつもの山歩きとは違って、今日はデイバックに昼食の菓子パン
と握り飯、それにスポーツドリンクだけ入れ、足ごしらえはスニーカーという軽快な
いでたちだ。川に沿って両岸に遊歩道があり、私は左岸側(東京側)から歩き出した。
いくつかの橋を数えたころ、はるか前方に雪を戴いた蛭ヶ岳など丹沢主脈の山々が、
まるで雪の日本アルプスを見るようだった。宅地の間に畑地が見られるようになると、
ウグイスの声が近くで聞こえた。見ると庭先で囀りながら飛び跳ねる1羽のウグイス
が見えた。ウグイスが姿を見せることは滅多にない。それも民家の庭でのこと、珍し
かった。あちこちウメが満開で、時折早咲きザクラも咲いており、ようやく春らしさ
が満ちていた。左岸側が町田市小山町、右岸側が宮下本町の位置まで来ると行く手に
奥多摩の三頭山と大沢山らしい二つの山が見える。次々に出会う大小の橋、今日1日
で30を超えた。橋の名もいろいろあって面白く、「平成」「昭和」「大正」の名がつ
いた橋が続くところもあった。橋本駅から下って来る道を過ぎると境川は大きく蛇行
する。国道16号を渡り、八王子バイパスの高架をくぐる。元町本町まで来ると、左の
方に橋本の高層マンション群が見える。相原1丁目あたりで川沿いの道が途切れ、方
向を失ってしまった。結局、町田街道へ出るしかなかった。しばらく歩いて畑仕事の
人にたずねると境川沿いに遊歩道があるという。教えられたとおり河原へ下ると、な
るほど整備された幅3mほどの歩道ができていた。相原から城山町へ入って、右岸側
へ渡ると貯水場の広場がある。川島橋で左岸へ移り、次の夕焼け橋近くまで来たとき、
道の先をノコノコ歩くタヌキを見つけた。5mくらいの距離である。愛嬌のある顔で後
ろを振り返っては、また距離を保って小走りに先を行く。夜行性の獣なのに珍しいこ
とだった。やがてタヌキ君は民家の間へ消えたが、気配を感じたのか近くの飼い犬が
けたたましく吠える声がした。歩道は終わり、団地のへりにある草地を行くと、風戸
橋で再び川沿いに進めなくなり、車道に出た。法政大の入り口近くを過ぎ、行く手に
草戸山や峯ノ薬師の丘陵らしきも見えて、境川の終盤に近づいた感じがした。大イチ
ョウのある慶長元年開創という古刹、大戸観音堂があり、大戸沢交差点に出る。青少
年センター入口のバス停があり、ここから上流は境川が大地沢と名を変える。先日降
った大雪が林道の脇に積まれ、降雪量のおびただしさを示していた。青少年センター
の建物やキャンプ場を経て沢沿いに奥へ進むと、平成23年に建設されたばかりの堰堤
があり、これを越えると「境川源流地」と書かれた標柱が立っていた。草戸山の尾根
から滲み出た小さな流れが二筋合流していた。以前草戸山からこの地に降りて、別の
コースをまた尾根へ登ったことがあり、見覚えある景色だった。到着は16時40分、途
中道迷いもあったが、新中里橋から約18km、5時間、28,000歩だった。帰路は青少年
センター入口バス停へ戻って、バスでJR横浜線の橋本駅へ出た。
 
2.境川下流へ向って
 風薫る5月3日、今度は境川の下流へ向って歩いた。この日はできれば河口の江ノ
島(片瀬)までの予定だった。
 新中里橋を出発したのは9:25、左岸沿い(町田市側)から歩く。このコースは
「ゆっくりロード」と名付けられ、緑の多い散歩道として整備されている。民家の庭
先には最盛期を過ぎたハナミズキに代わって、モッコウバラ、フジ、ツツジ類が華や
かである。歩道の脇にはナノハナやカタバミ、眩しいば 中流風景(金森付近)
中流風景(金森付近)
かりの新緑の木々の中でミズキの花が満開だ。JR横浜線
の架橋をくぐり、小田急線の下を抜ければ町田駅、ここ
から先は私にとって未踏のエリア、何となく心が弾む。
予報では27度の夏日を報じていたが、川面に沿って伝っ
て来る風は爽快だ。境川は”鯉の川”、至る所にマゴイ、
ときどきヒゴイが泳いでいるのも見える。
 丁度1万歩を数えた町田市金森あたりでカワセミに出
会う。”飛ぶ宝石”と呼ばれる美しいコバルトブルーが2羽、川に沿って”猟場”を
求め、超音速機のように飛行していた。町田市と相模原市の境を流れていた境川は、
アーチ型水道管(鶴間付近)
アーチ型水道管(鶴間付近)
大和市に面するあたりから大きく蛇行し始める。大和バ
イパス、田園都市線の架橋をくぐると、川をまたいで4
本の水道管が美しいアーチを描いていた。道志川と相模
湖の水を送るもので、最初明治20年にできたという。大
和市と横浜市の境界に入って、目黒の交差点がある。こ
のあたりは、4年前に歩いた「大山街道」と交差する懐
かしい場所だ。国道246号、次いで東名高速の下を通った
のが正午、川にかけられて風になびく鯉のぼりの群れは
季節の風物詩である。厚木街道と交差する先、下瀬谷の小さな公園で昼食タイム10分、
川沿いにアヤメやシランが植えられ、ツバメも飛び交い、川面には大きなアオサギの
姿も。新道大橋で中原街道を渡り、東海道新幹線の下を通る。このあたりは歩きやす
さを考えながら右岸、左岸を選んで歩く。右岸側が藤沢市になるあたりで、歩数計は
丁度3万歩を示していた。この辺から「歩行者・自転車歩道」として整備されており、
自転車愛好者の姿が多くなった。相鉄線いずみの線の下を15時に通過。この周辺では
広々して風が吹いているので凧揚げが盛ん、大きな凧がいくつも空に舞っていた。和
泉川との合流点近くに鷺舞橋というアーチ型の新しい橋 鷺舞橋(和泉川合流点付近)
鷺舞橋(和泉川合流点付近)
が架けられており、サイクリングの休憩地があった。脚
に疲れを感じたので、休憩して水分補給をする。このあ
たりには鷺の名がつく橋があるが、確かに川にはコサギ
の姿が目についた。藤沢市湘南台と横浜市戸塚区の境ま
で来た。美しい菜の花畑があり、次第に広々した田園風
景が多くなった。やがて境川は「市界」の役目を終え、
国道1号線(東海道)にぶつかる。川沿いの遊歩道も終
わり、かろうじて人が一人歩ける道になって、一旦藤沢橋の交差点で国道467号に出
て市街地歩きとなった。再び川沿いの道へ戻ってみたが、結局東海道本線に阻まれて
川から離れた。仕方なく藤沢駅へ出たが、すでに17:20、この日はそこをゴールとし
た。歩程約31q、48,000歩だった。
 
3.河口へ向って
柏尾川合流点
柏尾川合流点
 爽やかな陽気の続く間に残りの4.1kmを、と思って歩い
たのは5月17日だった。正午に藤沢駅南口を出発、にぎ
やかな商店街を東へ進むと境川の大道橋に着く。両岸歩
けるが、木立の多い右岸を歩く。すでに青々と葉をいっ
ぱいにつけた桜並木を行くと、すぐに柏尾川が合流、そ
の中間は舳先のような形をしている。一段と川幅を増し
た境川は水を満々と湛え、コイに交じってアユらしい魚
影も見られる。ときどき水面上に跳ね上がり、きらりと
光る腹を見せる。海からの距離が0.5kmごとに表示され、 河口近づき水満々と(鵠沼付近)
河口近づき水満々と(鵠沼付近)
3km位になったころから川面を渡ってくる風に潮の香り
を感じる。川のへりには係留されたレジャーボートが多
くみられるようになった。国道467号をくぐり、江ノ電
の鵠沼駅近くを通る。やがて特徴ある弁天橋、右手には
小田急江ノ島線の片瀬江ノ島駅が見え、俄然人の往来が
多くなった。片瀬橋を渡って砂浜を歩き、堤防の突端に
13:55に着いた。そこが境川の河口だった。草戸山の尾
弁天橋(片瀬)
弁天橋(片瀬)
江の島で相模湾へ注ぐ
江の島で相模湾へ注ぐ
根からにじみ出た小さな水
滴の集まりが大地沢源流の
細い水流となり、ついには
2級河川となって相模湾に
そそぐ、河口までの52kmの
旅はここに終わった。
 この後、江ノ島弁天橋を
渡って、久しぶりに江の島
を観光した。週末とあって、多くの観光客でにぎわっていた。同じ江の島の風景に接
しても、今日の江の島は私にとって小さな夢を果たした大きな終着点に思えるのだっ
た。                                   了
 
2014. 8. 3 砂田 境川を散策する(1)
 
       境川を散策する(1)  相模原市 砂田 定夫
 
1.ある日の境川
 私の散歩は、せいぜい4,000〜6,000歩程度である。速足、大股で歩き、途中でスト
レッチ体操をすることを心がけている。自宅から1.2qくらいの距離にある境川は、
東京都町田市と神奈川県相模原市の境界である。境川に架けられた橋の上から川面を
眺めながら、自然の営みや四季の移ろいを感じたり、少年時代田舎に疎開中小川で遊
んだ郷愁にひたるひと時は安らぎの瞬間でもある。自宅から境川へ向かう道は市道で、
かつては「当麻道(たいまみち)」と呼ばれ、町田方面から当麻寺と呼ばれた名刹無
量光寺へ続く参詣道であった。山号は当麻山、一遍上人を開祖とする時宗の寺である。
 境川までの途中には、旧街道の八王子道と交差する中渕があり、向かい側にカルピ
ス工場のある一帯は昔「松くれっぱ」と呼ばれ、遠くからも目立って旅人の道しるべ
となった大きな二本松が立っていて、追いはぎが出たり、 @縁切り榎
@縁切り榎
人馬が一休みしたり、時には死馬を埋めたようなところ
だったらしい。その交差点を通って町田市側の市街を眺
めながら「大坂(おおざか)」と呼ばれる坂道を下って
行くと境川に着く。この坂は昔当麻寺へ向かう人にとっ
て大変な坂道だったようだが、現在は相模原市側の丘陵
台地が切通しされて緩やかな勾配になっている。坂を下
って境川に架けられているのが新中里橋、その50m位下流
に中里橋、さらに20m位下流に歩道専門の小橋がある。
 春まだ浅いある日、いつものように中里橋から川面を眺めていると、主のように悠
々と泳いでいる肥えたマゴイたちや、留鳥化したらしいカルガモたちがいた。この日
は珍しく3種のカモ、すなわちオナガカモ、コガモ、それに常連のカルガモたちが泳
いでおり、共生を認め合ってそれぞれの仕草で過ごしていた。この日は壊れた堤防石
の上には潜水泳法の名手カワウ、華麗な貴婦人のようなオオサギ、すばしこく飛び交
うセグロセキレイも目に入る。突然、るり色の美しい姿が川面に沿って矢のように飛
来し、枯れたカヤトの先に止まった。”飛ぶ宝石”と呼ばれるカワセミだ。水中へ向
って急降下したとみるや見事小魚をとらえて空中へ舞い上がり、川の側壁の中段で獲
物をくわえ直すシーンを見ることができた。最近、どこから来たのかニシキゴイを見
かけるようになった。どこかの池須から脱出したのか、飼いきれずに放たれたのか分
からないが、橋の下に定住してマゴイたちに交じって元気に泳いでいた。最近見かけ
なくなったのは寂しい。また、よく見ると無数の小魚が群れをなして泳いでいるのが
見える。オイカワ(ヤマベ)と思われるが、季節によってはあちこちで盛んに銀色の
腹を反転させたりしてキラキラ光る様子が見られる。
 あるとき、コイとはまるで体型も泳ぎ方も異なる真黒な魚影を見た。ナマズである。
くるりと体を反転させたとき、白い腹と長い2本のひげがはっきりと見えた。5回ほ
ど見かけた後、しばらく姿を見せなかったが、初夏を迎えたある日、久しぶりにコイ
たちに交じって体をくねらせて泳いでいるのを見た。同じナマズかどうかはわからな
いが、久しぶりに友人に会ったようで嬉しかった。また、つい先日、カルガモの親子
が泳いでいた。生まれて1ヶ月くらいだろうか、子ガモは全部で8羽、親ガモの先に
なり後になったりして、すばしこく動き回る姿は愛らしく、どうか成鳥になるまで無
事に育ってほしいと祈った。
 境川には他に忘れてはならない常連がいる。カメである。爬虫類なので、寒い冬は
せいぜい日射しのある時に甲羅干しをしている姿を見かける程度だが、夏は活発に動
き始める。大きなカメが小さいカメを追っているのを見かけたことがあるが、地上で
はのろまの象徴みたいな動作のカメも、水中ではカワウ並みのスピードで泳ぐ姿には
驚きだった。
 
2.境川の遺蹟
 新中里橋から少し上流へ行くと、右岸の相模原市側には縄文時代の遺物や遺構、集
落跡が発見された山王平遺跡があり、上矢部には鎌倉時代の武将矢部義兼の居館土塁
跡とか弥生式土器が発掘されている。一方、川を挟んで左岸の町田市側も昔から人が
多く住んだらしい。新中里橋を渡った左岸側(木曽西)にある町田市立木曽中学校に
遺跡があり、そこに建てられた解説板によれば、中学校建設に先立つ1981(昭和56)
年10月から7ヶ月にわたって発掘調査が行われ、旧石器時代の槍先、縄文時代中期
(約4,700年前)の竪穴住居跡3軒、平安時代、平安時代(約,1000年前)の竪穴住居
跡5軒などが発掘されている。縄文時代の土器や石器、平安時代の土師器(はじき)、
須恵器(すえき)や鉄製品などが出土したが、中でも大きな特徴をもつ縄文期のクル
ミ形土器は、全国的にも珍しい造形といわれる。境川流域に最初に人類が住んだのは
約3.5万年前といわれる。 多くの遺蹟は、悠久の時代を越えて境川に人々の生きた証
拠である。古くから相模原に住む80歳を超える人の話では、どちらかと云えば町田市
側に民家が多く、相模原市の方には数えるくらいしか人家がなかったという。
 
3.忠臣か逆臣か
 右岸側の相模原市東淵野辺(昔は淵野邊村)には、南北朝時代にこの地方の地頭だ
った淵邊伊賀守義博に関する遺跡や伝説が多く残っている。義博は後醍醐天皇の第一
皇子、護良(もりなが)親王の殺害を主君の足利直義(尊氏の弟)から命ぜられたが、
代わりの首で主君をごまかし、親王を近くにある龍像寺の裏山に暫くかくまっていた。
A忠臣の説明板
A忠臣の説明板
やがて親王を奥州石巻(宮城県)へ落ちのびさせる決心
をする。義博主従は境川沿いの橋の下で妻子と縁を切り、
橋の上で別れを告げて北へ旅立ったという。それが現在
の中里橋で、別名「わかれ橋」と呼ばれ、橋のたもとに
あるエノキの木が「縁切り榎」と呼ばれる由縁となった。
 一方、『太平記』では、建武二年(1335年)七月、義
博は親王を「中先代の乱」において恵源入道の指揮によ
り、鎌倉薬師堂の谷で親王を殺害した張本人ということ
になっている。以前は縁切り榎のそばに地元の公民館が建てた二つの説明板があり、
左に逆臣説、右に忠臣説が書いてあったが、いつの間にか書き改められて、忠臣説の
ひとつだけになっていた。義博伝説に対する地元の身びいきからであろう。その近く
に庚申塔と地神塔(いずれも自然石に文字を彫り込んだもの)があり、今でも注連縄
がかけられ、隣には石祠も新たに建てられた。周辺には義博にまつわる史跡が多い。
中里橋の上流へ約1q行った右岸段丘の上(淵野辺本町)には、義博の居館跡を示す
記念碑が立っている。歴史の上では、義博は建武二年、 B龍像寺山門
B龍像寺山門
駿河国手越河原(静岡県安部安倍川のほとり)で北条方
と戦い、直義の身代わりとなって討ち死にしたことにな
っている。
 縁切り榎から500m位下流右岸側には曹洞宗の龍像寺
(山号淵源山)がある。この寺の縁起によれば、暦応年
間(1338〜1342年)に、境川に「龍池」という淵があり、
そこに住む大蛇がたびたび害を及ぼし、村人は他村へ離
散するようになった。地頭の義博が幕府の許可を得て矢で大蛇を退治した。蛇体は三
体に切れて飛び散り、各々の場所に葬って龍頭、龍像、龍尾の三寺が建てられたが、
荒廃し、弘治二年(1556年)巨海和尚が再建したのが龍像寺という。寺宝として竜骨
の一部と義博使用の矢じり及び坂碑が所蔵されているという。義博居館跡と龍像寺の
間には、義博が大榎に巻き付いていた大蛇を、矢を放って退治したと伝えられる場所
が民家の敷地内にあるようだ。土地には義博の英雄伝説がこのような形で語り継がれ
ている。
 
 写真説明:
 @ 中里橋(わかれ橋)に近くにある「縁切り榎」、夏は葉をいっぱいに付ける。
 A かって淵邊義博の忠臣説と逆臣説を書いた二つの説明板があった。
  (現在は忠臣説の説明板が書き改められて掲げられている)
 B 龍像寺山門。厚木市七沢にある広沢寺の末寺。
 
2014. 7.20 清水 鉄斎展で思い出すこと
 
鉄斎展で思い出すこと 横浜市 清水 有道
 
 富岡鉄斎といえば、東京計器の国際部で一緒に仕事をし、以後今日まで長く付き合
いのある冨永 侃(あきら)氏を思い出す。というのも、彼が東京計器を辞し、横浜
の自宅を引き払って郷里の兵庫県宝塚市に居を移し替えられて、川崎重工業(株)と
米国ヴィッカース・インコーポレテッドが設立した合弁会社に勤めるようになったあ
る日、今からざっと10年前くらいのことになるだろうか、お誘いを受けて、旅の途上
京都から宝塚に赴き、紹介をいただいて同市の清荒神清澄寺の境内にある鉄斎美術館
で鉄斎の絵画を十分に堪能したのが鉄斎を観賞した最初のように思うからである。
 鉄斎は天保7(1836)年に京都に生まれた。生まれた日が中国北宋の文人蘇東坡と
同日であったがために、蘇東坡を生涯大事にしたそうである。大正13(1924)年に持
病の胆石症が悪化して12月31日大晦日に89歳で没している。
 鉄斎は儒学者であるから当然のことであるが、仙郷画と呼ばれる水墨画を基調にし
た絵画に、ほとんどといっていいほど独特の主として漢文による賛文が入れられてい
るのが筆者には堪らなく嬉しい。仙高フように機知・頓智に富んだものではなく、逆
に硬い儒教の教えとも受け取れる戒めが書かれているものが多い。これが逆に老境に
入った筆者には例えば揮毫を求められた際に、そのようにすらすらと賛が入れられた
らどんなにかよかろうと思うのである。筆者のオヤジも 「勇」の古字
「勇」の古字
国漢地歴専攻の学者まがいの生活をしていた教育者であ
ったため、筆者の名前「有道」も論語の「道徳のあるこ
と、およびその人」を意味する“学而「就有道」而正焉”
を父の名前(「勇」の古字)の音である「ユウ」と母の
名前である美智子の「ミチ」の音を引いて「ドウ」と組
み合わせ、しかも姓の「清水」と意味を通して、「清水
の流れるところ必ず道あり、即ち、必ず自分で自分の行
く先を探せる男」として命名してくれたくらいである。
鉄斎展のチケット
鉄斎展のチケット
 余計な話に脱線してしまったが、話を本題に戻そう。
上記の宝塚の美術館を除けば、東京の出光美術館に鉄斎
の作品が多く揃っている。その出光美術館でこの6月14
日(金)から7月13日(日)の会期で没後90年鉄斎展が
開かれている。
 展覧会には多くの名作の中に初めて見る作品も多く、
今回もまた大いに堪能することができた。中でも特に次
の2作品の賛文が気に入った。
1)「富士山図」 明治2(1869)年鉄斎34歳の作  
 明治天皇が東海地方に巡遊される際にその神輿に鉄斎が付き従ったときのことを記
した以下の賛が入っている。この旅行中にその3年前に娶ったばかりの21歳の若妻
“達”を亡くしている。  
 釈文には、   
 「東海之天秀気鍾。峻嶮削出玉芙蓉。孰知萬古扶桑鎮。五大州中第一峰。  
  己已春三月   
  皇上東巡。供奉扈輦。有勅詩。重録。」  
 訓読は、  
 「東海の天、秀気鍾(あつ)まり、峻嶮して削り出だす玉芙蓉。孰(た)れか知ら
  ん 萬古扶桑の鎮、五大州中 第一峰。
  己已春三月
  皇上東巡す。供奉して輦(れん)に扈(したが)う。勅詩有り。重ねて録す」。  
 もう一点は、
2)「秋山深趣図」 40歳代の作と伝えられるもの
 その釈文には、
 「歳月本長也。而忙者自促之。天地本寛也。而鄙者自隘之。風花雪月本阮轣B
  而勞攘者自冗之。総因不知足也」。
 訓読は、
 「歳月本(もと)より長し、而(しか)れども忙き者は自から之れを促す。
  天地は本より寛(ひろ)し。而れども鄙(いやし)き者は自から之を隘(せま)
  くす。風花雪月は本より閨iしずか)なり。而れども労攘する者は自から之を冗
 (わずらわし)くす。総(すべ)て足るを知らざるに因(よ)るなり」。
 自然の移ろいに対して、人間の努力が足りていない。十分に満たされていることに
気付かずに騒ぎ立てていると戒めているのであろう。
 時折激しい風雨の見舞う今年の梅雨のさなかにゆっくり鑑賞できた鉄斎の作品につ
いて綴ってみました。                           了
                            2014年7月3日  記
 
2014. 6.22 清水 喜寿を迎えても山歩きを楽しむ
 
喜寿を迎えても山歩きを楽しむ 横浜市 清水 有道
 
 筆者は2014(平成26)年3月で喜寿を迎えた。余生を掛けて登りたい(まだ登れそ
うな)手持ちの山のリストは国の内外を含めてまだ200座を下らない。我ながら強欲な
ことだとそのバカさ加減に呆れるやら、向う見ずだと思わざるを得ない。その上に、
並行して日本の島嶼巡りも進めているし、世界を股にかけての世界遺産を訪ねる旅も
少しも減速していないのだから、バカさ加減も推して知るべしということか。
 喜寿を迎えて最初に歩いた山は箱根の駒ケ岳と神山だった。5月の連休の一日芦ノ
湖湖畔に一泊した折に、孫娘の家族と歩いたものだった。
順調な天候の中宿を出て、箱根園駅からロープウェイを利用して駒ケ岳と神山を往復
して、またロープウェイで降りることにして出掛けたまでは良かったが、何しろ昨今
の我が国を取り囲む異常気象の中、急に強風に見舞われ、神山の頂上から戻ろうとす
るとき、遠くから聞こえるロープウェイ駒ケ岳山頂駅からの拡声器の放送が「強風の
ため本日のロープウェイのサービスは午後1時の下りをもって終了とします。係員も
全員下山しますので、明朝まで運行の再開はございませんのでご承知ください」と伝
えるのが聞こえてきた。腕時計の時間を見れば、軽昼食を取った後の12時半に近く、
それから駒ケ岳の鞍部、お中道分岐を経て駒ケ岳を登っても山頂発午後1時には到底
間に合うはずもなく、往復切符が無駄になるばかりか、箱根園に戻って車をピックア
ップして横浜まで戻る算段をしなければならなくなった。神山から大涌谷に抜けるコ
ースは何年か前の台風か何かの折の土砂崩れで廃道となっていると聞かされていたし、
平素あまり使われない防ヶ沢のハイキングコースで箱根園に戻るしか方法はなかった。
足元の悪い道を急ぎ足で下ったため、左足のふくらはぎのこむら返りを起こしてしま
い、岩石の飛び出ている坂道でひっくり返ってしまった。大事に至らず、幸いであっ
た。神山の山頂には多くの 箱根駒ヶ岳山頂(娘婿・孫娘・筆者)
箱根駒ヶ岳山頂(娘婿・孫娘・筆者)
神山山頂(娘家族)
神山山頂(娘家族)
人々が昼食を楽しんでいた
が、彼らがそれからどうす
るのだろうかと余計なこと
まで心配したのだった。 
今年の富士は雪が多く残っ
ていて、駒ケ岳山頂から間
近に見る富士の霊峰は殊の
外美しく、厳かな姿に見えた。
キクザキイチゲ
キクザキイチゲ
 駒ケ岳を下り、神山との鞍部、お中道分岐にかけては
アシビ(馬酔木)の花が登山道の両側に多く、下生えに
はニリンソウ(二輪草)、とキクザキイチゲ(菊咲一華)
がところどころに群落をなして、ちょうど今を盛りの花
を付けていた。
 コバイケイソウも大分丈が伸びて、ところどころに群
れを成していた。お中道分岐から防ヶ沢を下り、県道57
号のハイキングコース登り口までの斜面にはゼンマイの
株が並んで生えているのが見られたが、食べられる方の茎はすべて摘まれた後で、胞
子の付いた俗に鬼ゼンマイと呼ばれる茎だけが残されていた。県道57号に出たころに
は、それまでの強風は嘘のように和らいでいた。急な強風のために久し振りに少し長
い距離の山歩きが楽しめた一日だった。
<当日のコースタイム>
ホテル・ザ・プリンス箱根9:30・・・駒ケ岳ロープウェイ箱根園駅10:15―――10:30
駒ケ岳山頂駅(1315m)・・・お中道分岐11:00・・・12:00神山山頂(1438m、軽昼食)
12:20・・・お中道分岐13:15・・・14:15防ヶ沢ハイキングコース登り口・・・15:20ホテル
                    ―――2014年5月20日(火) 記―――  
 
2014. 5.25 清水 アリス・マンローを読む
 
アリス・マンローを読む 横浜市 清水 有道
 
1.最初の読後感と思い立った無謀な試み
 2013年度のノーベル文学賞受賞者アリス・マンロー(Alice Munro)は、カナダ人
としては初めて、また女性としては13人目の受賞者となった。スエーデン当局が発表
した授賞理由は、「短編の名手であること」とされているし、現にマンロー自身受賞
のインタビューに答えて、「従来短編は長編のための下敷きや練習扱いとされてきた
が、自分の受賞を機に、これからは短編小説それ自身の重要性が認識されるようにな
ディア・ライフ
ディア・ライフ
ってほしい」と述べている。選考委員の一人は、マンロー
の作品について、「人間の持つ複雑な内外に秘めた側面
を卓越した手法で描き出す」ことに賛辞を呈している。
 何冊かを読んでみた後の筆者の率直な印象は、不実な
夫の身勝手な、独りよがりの行為を洗いざらい暴くよう
に描いて見せたかと思うと、こういう男の独断、不浄を
心に留め、胸に刻みながらも、それでもなお誠を尽くす
女を描いて、人間とはそんなに本人が思うようには単純
にきれいごとでは生きられないのだとマンローは言いたいように感じた。だからこそ、
筆者には事情の分からない第三者がごちゃごちゃ言って批判し、評価することも出来
ないのが人間という難しい生き物なのだとも言っているように映る。でも、なかなか
観察が鋭く、彼女の筆力は人間の心理に緻密に分け入るので、筆者には恰もサスペン
スを読み解いているように、心ふるわせて吸い込まれていくような独特な心地も味わ
える不思議な一面も兼ね備えているように思えるのが楽しい。
 長編小説ならともかく、これを短編で惜しみもなく表している短編の女王の作品を
通して、折角だから「人間の生活とは何なのか」を十二分に検証し、逆に作品に通じ
る著者の考察の真髄を読み取りたいと思う。やっかいな上に、時間も相当必要だろう
に、著者の作品の多くを読み進めてみたいという大変な試みを実行に移すことにして
しまった。このような大それた試みに挑戦する機会を与えてくれた喜びを満たすため、
いま日本で手に入る原書と訳本を数えてみたら20冊以上も買い込んでしまった。
 
2.マンローが自分で推す読んで欲しい作品
 ノーベル賞受賞を機に、初めてマンローの作品に触れる読者に、作家として先ずど
の作品を勧めるかと問われて、やっぱり『ディア・ライフ(Dear Life 無理に訳せば、
「愛しい人生」とでもなるのでしょうか)』でしょうと答えている。勿論、その理由
は最新刊であり、作家として筆を折ることを宣言したために出版する最後の作品にな
るからである。
 『プライド(Pride)』という短編の出だしに
“Some people get everything wrong. How can I explain? I mean, there are
those who can have everything against them ? three strikes, twenty strikes,
for that matter ? and they turn out fine.
         (Omitting several sentences).
But good use can be made of everything, if you are willing.”
「何もかもまずいことになってしまう人というのがいる。どう説明したらいいだろう?
つまり、何もかもが思うようにいかない人がいる、ということだ―スリー・ストライ
ク、それどころかトゥエンティ・ストライク ―でも結局はうまくいく。
              (中 略)
 だが、どんなことでもうまく利用することはできる。意欲さえあれば。」(最新に
して最後の短編集『ディア・ライフ』の中の『プライド』162頁、小竹由美子訳、
新潮社クレスト・ブックスによる)。
 随分悲観的なことを前提に話を進めるのだな? と思いながら読み続けてすぐに、
「どんなに悪いこと続きでも、それをうまく利用すれば、問題なく良い結果を得られ
るのだ。ただし、意欲があっての話だが・・・」と、うまく蓋を被せているのがまず
もって見事だと感心した。
 『湖の見えるところで(In Sight of the Lake)』の出だしでは、少しエイジング
が進んでいて、自分のすることに不安を持ち始めた女性が女医を訪ねる場面が設営さ
れている。誰にでもある普通の局面であるのに、何かサスペンスの物語のはじめに幾
つか設定される環境、背景、登場人物など作家が舞台設計をする心理にも似ているた
め、筆者は直ぐに夢中で引き込まれるような思いに駆られた。大変な筆力だと思わざ
るを得なかった。
 後ろの方に『フィナーレ(FINALE)』というパートを設けて、著者自身の人生につ
いて最初にして最後の、もっとも事実に近い自伝的な作品(著者の言葉を引用すれば、
“I believe they are the first and last - and the closest ? things I have to
say about my own life.” となるが)、 “The Eye (目)”、“Night(夜)”、
“Voices(声)”、そして“Dear Life(ディア・ライフ)”の4篇が棹尾を飾る。
この中では、著者の両親のこと、自分の子供に対する母親としての立場について興味
のある記述がところどころに散りばめられている。
 最後に著者が推す『ディア・ライフ』の最後の締めくくりの一節はじんと胸にこた
える。“We say of some things that they can’t be forgiven or that we will
never forgive ourselves. But we do ? we do it all the time.”(何かについて、
とても許せることではないとか、けっして自分を許せないとか、わたしたちは言う。
でもわたしたちは許すのだ ― いつだって許すのだ。―上記小竹由美子訳による)。
「わたしたちはたくさんの悔いを背負いながら、取り返しのつかない過去を自分に語
り直し、語り直しして生きている」。まさしく人生は愛おしいと思って暮さねばなら
ない。本人の気持ちの持ち方次第、心掛け次第ということになるのだろう。
 
追記:ほかに新潮社のクレスト・ブックスの中に下記の    他の代表作品
他の代表作品
3冊が収められている。
 *『小説のように』(原題:“Too Much Happiness”)
 *『イラクサ』(原題 :“Hateship, Friendship,
          Courtship, Loveship,Marriage”)
 *『林檎の木の下で』(原題:“Dance of the Happy
                     Shades”)
 また、英国の“Vintage Books”から次の2作も手に
入り易い。
 *“The View from Castle Rock”
 *“Selected Stories”
                             2014年3月19日 記
 
2014. 5.19 八木 菊次さんの映画鑑賞記を読んで
 
  菊次さんの映画鑑賞記を読んで 横浜市 八木 宏
 
 恒例の一泊バス旅行の日が近づいてきました。参加者が予定より少なめですが楽し
んできたいと思います。出欠を知らせていただく返信はがきに近況報告の欄を設けて
あり、いずれ小冊子にまとめて皆様にお届けする予定です。
 そのうち菊次愛咲さんの近況報告には、@「風立ちぬ」とA「永遠の0」によった
文作を送るので批評・コメント等をニュースで願いしますとあり、その後2点の文作
が送られてまいりました。 
菊次さんの文作
菊次さんの文作
 菊次さんは学友が主宰される「シネフレックス」編集
発行の映画にかかわる機関紙「ひょうふう」に時々投稿
しておられるようで、今回は昨秋号と今春号に掲載され
た2編です。
「風立ちぬ」(2013宮崎駿監督)を見て ―わが青春の1
コマを思う―
「永遠の0」(2013山崎貴監督)について ―特攻隊員の
家族愛に兄たちの戦いを思う―
 映画鑑賞記の批評というわけにはいかないので、その概要を記させていただきます。
 映画鑑賞記と書きましたが、2編とも単なる映画評論ではなく映画鑑賞により思い
出された青春やご家族のことに多くの紙面を割いておられます。
 アニメ「風立ちぬ」は有名な「堀越二郎」が主人公ということでゼロ戦中心の映画と
考えておられたようですが、この映画を見ていない私も今までそう考えていました。
 堀越二郎が関東大震災の折、路上で令嬢「菜穂子」の 映画誌「ひょうふう」
映画誌「ひょうふう」
急を救ったことで交際が始まること。
 大学卒業後、名古屋航空機製作所に進み海軍の新鋭機
の設計に当たり、戦雲急を告げる中でゼロ戦完成に没入
すること。軽井沢の病床にある菜穂子を励まし結婚する
こと。などのあらましを紹介されて「全編を通し、知性
と感性に溢れていて、心が和む。映画に出てくる虹は、
今にして余裕のように感じる」と記しておられます。
 さて映画の中で海軍の航空機の製造過程が描かれる中から菊次さんの若かりし日を
回想されます。まず製図室の様子が在学中のそれと似ていて楽しかったと語られてい
ます。また工場の様子の描写から、菊次さんが京都大学卒業後に東京計器販売の前身
である東京物産に入社(この時のいきさつはHPの2012.11.18『よもやま話』“輪廻”
参照)された数年後に新三菱重工業を受験したときの大江工場でのテストや面接の思
い出が語られています。採用通知が来て退職願を出したが翻意を求められて懇談を何
か月も続けて“航空は未だし”と感じて退職願を取り下げられたそうです。
 映画の後半、軽井沢のホテルの場面で「ただ一度だけ(Das gibt’s nur einmal)」
のピアノと歌声が流れ、若かりし頃に愛唱された菊次さんも画面に合わせ小声から次
第に大声で歌うことになり痛快だったそうです。また、この曲を1987年「佐倉朝日健
康マラソン大会」で走行中にも歌われたこと及び国立競技場での旧制高等学校OB陸
上競技大会の思い出につないでおられます。
 「菜穂子」は逝った。二郎が設計した名機「零式艦上戦闘機」は改良を重ね合計1
万430機が生産された。二郎は美しい「ゼロ戦」が爆弾を抱いた特攻機になるとは思っ
てもみなかったろう。と結んでおられます。
 つぎに「永遠の0」のほうはゼロ戦が縦横に出てくる映画だそうで、あらすじが簡
単に語られます。血のつながった祖父がいてゼロ戦のパイロットだったと聞いた姉弟
が祖父・宮部久蔵探しを始め当時の戦友を訪ねると、祖父は天才的操縦技術を持ちな
がらも仲間からは臆病者と蔑まれていたという話ばかり。
 画面は真珠湾攻撃から太平洋を転戦し次第に劣勢となり宮部は死線を彷復するが妻
と娘のために何としても生きて帰りたい思いで卑怯者と言われながらも技を尽くして
生き抜く。しかし沖縄米軍攻撃の特攻隊に加わった宮部は発進直前に自機のエンジン
不調に気づき予備士官・大石賢一郎の機体と交代する。大石機は喜界島に不時着。戦
後、大石は母娘を探し求め宮部の意志に報いる。そして姉弟は今の祖父・大石賢一郎
を再発見した。というような内容です。
 映画が終了したとき観客は寂として動くことなく、菊次さんも10分以上は座ってお
られた。映画の衝撃が大きく、映画館を出て駅のあたりを歩くうちに一時的に記憶喪
失のような状況を経験されたそうです。これが錯覚であることを確認するため後日そ
の付近を歩いた時に書店で原作「永遠の0」を買い求められました。その最後ヒーロ
ーは妻子への思いをメモとして交替機の操縦席に残す。「もし大石少尉が運よく生き
残ったら、お願いがあります。私の家族が路頭に迷い苦しんでいたら助けてほしい」。
この思いの真実性を感じられた菊次さんは、この後の数ページで戦争中のご家族のこ
とを披歴しておられます。菊次さんはご両親と3人の兄上、2人の姉上の8人家族で
した。長兄の方は昭和16年の大東亜戦争勃発により北海道大を繰り上げ卒業し学徒出
陣され佐世保の重砲連隊に入営されました。次兄の方は昭和17年に九州大へ進学され、
お二人は頻繁に交流されていたそうです。
 昭和19年、菊次さんたち家族は母方の祖父母のお宅に移り住んでおられました。あ
る日、中学校から帰ると長兄の方が帰宅しておられ座敷で飛びついて喜ばれたそうで
す。このとき人生の通行手形だとの言葉を添えて「コンサイス独和辞典」が手渡され
ます。帰隊の駅頭では「この戦争は間もなく終わる。何があろうとも高等学校へ進む
のだ」と諭され、この言葉を支えに飛行予科練習生や海軍兵学校予科への勧誘を断り
続けられました。そして戦後、京都に進学されてコンサイス独和辞典を使い始められ
ます。気がかりな語を引くと赤線が引いてあり次もその次も、毎回引く後にはアンダ
ーラインがあったそうです。黒鉛筆による書き込みもあり、コンサイスを経て兄上と
対話する心地だったと回想しておられます。母上は駅まで長兄の方を見送った日から
陰膳を供えられました。後に戦死広報が届いても断固として認めず陰膳を続けられま
した。後になって母上からの手紙に「吾子いづや 吾子は何処と 声の限り 探し求
めん 地の果てまでも」とあったそうです。
 ミッドウエー海戦での無残な結果となったあたりで米国との戦力・国力の違いを冷
静に認め、早期の講和交渉に踏み切っておれば、映画の主人公・宮部のみならず、我
が長兄も戦死せずにすんだものだと残念に思うとも書いておられます。父上はじめ他
のご家族の思い出もつづっておられますが割愛させていただきました。 
 私などは映画を見ることもめっきり少なくなりましたが、若い頃でも鑑賞に伴って
さまざまな思いを巡らせたり感想をまとめるということをした記憶がありません。
 2編とも外部発表に耐える文章構成や言葉選びできちんとした短編に仕上げておら
れるところに若々しさも感じ、会社及び学校の先輩である菊次さんが誇らしく少しは
見習わなければと思います。
 
2014. 5.11 清水 記念日無情
 
記念日無情 横浜市 清水 有道
 
 多分北杜夫のエッセイ集で読んだことだったと思うが、同氏が「男性は記念日など
覚えられぬ生物である」と発言されている。筆者にも家庭内の記念日で、失念してい
て大変な失態を演じたことが幾度もある。幾つかある記念日の中で、最も曲者は女房
との結婚記念日であるが、その前の結納の日は正直今もってはっきり同定することは
出来ない。子供たちや孫娘の誕生日はどういう訳か間違わずによく覚えているし、記
念祝いの品を準備することも自然に出来ている。ところが、女房との結婚記念日の中
結婚記念日
結婚記念日
でも周期的に巡ってくる5年刻みの記念日については、
ついついうっかりして見過ごして、何年か後に「しまっ
た!次はしっかり覚えてその分も含めて取り返そう」と
思うが、気が付くと、また見過ごして後の祭りとなって
しまい、同じことを繰り返して今日に至っている。今年
2014年は結婚45周年のアニヴァーサリーを迎える。いわ
ゆる“ルビー婚”で、例えば、宝石のルビーの指輪など
を贈る年になるらしい。
 思い返せば、現在筆者の身の回りにあることの幾つかについて、具体的に何時から
そうなったのかを、見極めようとすると意外に容易でないことに気付く。例えば、何
時知人の誰それに知己を得ることになったのか?とか、その機会はどういう場面であ
ったのか?とかである。あるいは、庭に美しく咲いている花を何時、何を転機に植え
たのだったか?何処で手に入れたものだったか?意外に分かるようで分からないもの
である。これは筆者が加齢に伴う認知症の始まりだと責める女房の言い分も当たって
いるかも知れぬが、そんなに生活の毎日の事象を細かく記憶の中に留めているという
ことは難しいことであるし、他の大事な事象と比べて記憶の優先度で必ずしもメモリー
の中に残れないことになってしまうのであろうと思う。
 不思議なもので、人間は自分に不利なこと、失敗したことは出来れば忘れてしまい
たいと思うのが普通であるし、逆に、そのことで自分が優位に立ったと思うことは克
明によく覚えているものである。これが異常に発展し、しかもその功罪のギャップが
大きすぎると、殺人や大きな犯罪事件にまで繋がってしまうのだろうと思う。筆者は
その時、その時に出会った外部の人々に、一つ一つメモリーに残ることが多い。でも
これらの思いの方が時として、身内の大事なメモリーよりも強く心に残ってしまうの
で具合が悪い。いろいろ危ない目、疑惑の目、中傷の目に合う羽目になってしまう。
すべて世の中の皮肉と言うのでしょうか。読者の皆様には覚えがありませんか?「世
の中はどうしてこんなに都合悪く出来ているのでしょうか?」と、時として少し僻み
っぽくもなってしまう。要は結果が悪くなることを十分想定して物事の処理に当たる
ことに越したことは無いのでしょう。いまだに筆者は女房から言われ続けている、
「能天気な人はいいわねぇ」、と。機嫌の悪い時には、それに加えて「私の言うこと
をもう少し率直に聞いていたら、もっともっと今と違ったいい生活ができたでしょう
に」と。筆者はある部分は否定しないが、大部分はとんでもない誤解だとも思う。し
かし、大声では言えないが心の弱みを感じていることも確かに多いし、事実である。
若い時に散々威張り散らして、手を挙げてまで自分の主義主張を通してきた報いだと
思えば、差引勘定は意外としっかり合っているのか、まだ負い目をたくさん抱えてい
ると言えるのかもしれない。そんな具合だから、筆者は夫婦の関係で時々自分が本当
に強いのか、弱いのか分からなくなるのである。               了
                             2014年3月10日 記
 
2014. 5. 2 小田 桜散っても、花盛り!2014年版  
 
     桜散っても、花盛り!2014年版 横浜市  小田 茂
 
今年の“よこはま 花と緑のスプリングフェア” 昨年より9日早く開催!
 
 毎年、地元横浜市中区の『横浜公園・・・チューリッ 写真_01
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プ祭り』と『山下公園・・・花壇展』の“よこはま 花
と緑のスプリングフェア”をご紹介していますが、今年
はチューリップの開花が早く、昨年より9日も早い4月
11日開催となりました。
『チューリップ祭り』4/11〜13、『花壇展』4/11〜5/6ま
でとなりました。
 桜の散るのを名残惜しく見ている間に、チューリップ
の今年の開花が早いのを知らず、最盛期を見逃す失態をしてしまいました。遅まきな
がら4月28日に写真撮りに出掛けてきました。
 横浜公園では、69種類16万本のチューリップが咲きますが、最後の名残のチューリ
ップでご勘弁下さい。
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 チョッとだけ映っている「横浜球場」もDeNAが4/28現在、6勝18敗の最下位で
寂しそうです。
  ≪山下公園での“花壇展”・・・5月6日まで≫ お出掛け下さい!     
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 山下公園内では、横浜市内造園業者等による21区画の『花壇』が展示されておりま
す。「市民賞」は4/11〜13に訪れた方の投票結果によります。
 今年は、全作品をご紹介いたします。(タイトル省略)ご高覧ください!
横浜市会議長賞
横浜市会議長賞
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市民賞・横浜市環境創造局長賞
市民賞・横浜市環境創造局長賞
 
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みどりアップ奨励賞
みどりアップ奨励賞
 
横浜市長賞
横浜市長賞
神奈川新聞社賞
神奈川新聞社賞
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横浜市緑の会理事長賞
横浜市緑の会理事長賞