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2011年にそれまでに綴ったエッセイを何分冊かにして纏めて、親しい友人や知人に |
送り、読んでいただいた。その後もちょっとした空き時間を使って書き綴り、2013年 |
6月に溜まった作品をエッセイ集と紀行文の2分冊に纏めた。それらを配らせていた |
だく際の上書きに次のような文章を書いた。 |
“今までに幾度となく経験したことですが、思い切ってある場所を訪ねると、その |
直後に新聞や雑誌あるいはTVの放映が同じところを扱ったり、紹介した本のことが著 |
名人の取り上げるところとなって紹介されたり、自分がここぞと決めて構図取りした |
絵や写真が専門の画家や写真家の作品として、2・3日後の新聞や雑誌に取り上げら |
れたり、夢に見たストーリーが新作の小説として専門誌に現れたり、と霊感にも似た |
”闇の中の通い“(あまりに不思議な現象ですので、筆者が勝手にそう名付けたので |
すが・・・)が実体験出来ることがあります。 |
自分が訪ね歩いた中で特にスポットとして推せる場所と思ってメモノートにリスト |
アップしていると、同じような試みが旅の雑誌やパンフレットとして公表されること |
が多々あります。嬉しいと率直に感じるだけに留め置けばよいのでしょうが、何か一 |
種の不気味さを伴って、心の中に妙な深い井戸のような落とし穴が出来るような錯覚 |
に陥るのです。 |
書き物も絵画も同じように考えようによっては、純粋に創作活動でしょうから、こ |
のようなことがあってもさほど不思議でも無いのかもしれません。今回取り上げまし |
た文章の幾つかはこのような背景の下で誕生した作品でもあります。 |
この上書きの文章を読んで、筆者の高校時代の級友が、「自分の兄貴もよく同じよ |
うなことを言っています」、と知らせてくれた。そしてその人は筆者の経験を親しい |
人に会ったようだと共感して下さったと言うのである |
また、筆者の元の勤め先の先輩で、筆者が卒業したと同じ大学の先輩にも当たる読 |
書家のS氏が筆者の経験したこの現象を『共感現象』であると教えて下さり、以下の |
文を寄せてくれた。 |
“共感現象は、ユング派の心理学で言う『シンクロニ |
河合隼雄さん(故人) |
シティー』のこと。人間心理の多重構造で、原始時代か |
らの膨大な量のイメージや記憶の蓄積が集団無意識とし |
て世代や個体を超えて伝わり、時に応じて出現すると説 |
くもので、日本では文化庁長官にもなった河合隼雄さん |
(故人)に多くの研究があると聞いています”。 |
流石は大先輩であり、読書家でよくご存じの事よ!と |
恐れ入ったのでしたが、自分でもユングの言う『シンク |
ロニシティー』とは然らば何ぞや?と調べてみたくなり、専門書に相談してみた。 |
すると、次のような面白い記述が見つかった。 |
Carl Gustav Jung |
“ユング(カール・グスタフ・ユング Carl Gustav |
Jung 1875年7月26日―1961年6月6日)は自分の患者で |
あった精神疾患者の語るイメージに不思議と共通点があ |
ること、またそれらは、世界各地の神話・伝承とも一致 |
する点が多いことを見出した。 |
そこで、ユングは、人間の無意識の奥底には人類共通の |
素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通する |
イメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。また |
晩年、物理学者のウォルフガング・パウリとともに『共時性(シンクロニシティー= |
意味のある偶然の一致)』に関する共著を発表した”。 |
ユング心理学(分析心理学)が個人の意識、無意識を |
Wolfgang Ernst Pauli |
分析する点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、 |
個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通し |
ていると言われる集合的無意識(普遍的無意識)の分析 |
をも含むところが一歩進んでおり、他派よりも心理臨床 |
において夢分析を重視している。すなわち、夢は集合的 |
無意識としての「元型イメージが日常的に表出している |
現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとし |
ている。無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものであるとも強調している。 |
河合隼雄さんは別の著書で“私個人の二重性”につい |
脳_心理学 |
て「語り」の場合を例に説明している。私個人が自分の |
内的経験を語るとき、どこまでが本当の経験で、どこか |
らが上積みされた誇張や他人が以前に経験したことで、 |
自分の記憶の中に蓄積されて、あたかも自分の経験の一 |
部になったかのように感じられているものなのか、必ず |
しも判然としないことが多い。そこで私個人の主体が二 |
重性を持ってしまうことになる、と説かれる。 |
同じようなことが事実を説明する自然科学的な言葉や用語と、同じことを詩歌や小 |
説、絵画や音楽に置き換えて表現する際の言葉や用語との間には、見かけは同じ文字 |
の並びであっても必ずしも等値の関係にはならない。その場合の「私個人は私である |
と同時に一個の他者でもある」ということになるのだ。文芸作品になれば、極端な例 |
は非常に誇張して全く違う方向にさえ持って行きかねないし、自分の心の中で意識し |
て変えてしまうことだって行われ、真底から脚色を加えてしまうことだってあり得る |
のだ。 |
筆者の絵にしても実際の風景を一見写実している風に見えても、眼に写った景色を自 |
分の受けた心象風景に変換していることの多いのに気付くのだ。欧米の心理学ではこ |
の現象を「無意識」と呼び、東洋の心理学では少し意味が分かるように「深層意識」 |
と呼んでいるようである。事実の通り話しても伝わり難いものは少し説明を加えたり |
引いたりして伝わり易くすることもわれわれの生活の中では日常茶飯事に行われてい |
ることにも気付かされる。 |
KingsCollegeChapel_University of Cambridge |
因みに英国の権威のあるケンブリッジ大学出版の英語 |
辞典によれば、“synchronicity”を次のように説明して |
いる。 |
”Specialized the happening by chance of two or |
more related or similar events at the same time. |
The twins died, with eerie synchronicity, on the |
same day in different countries.” |
(二つ、あるいはそれ以上の関係のある、あるいは似通 |
った事柄が偶然に同じときに起こることを言う。別々の国に住んでいる双子が不気味 |
なシンクロニシティーにより同じ日に死んだ、など)。 |
纏まりのない文章を綴ってしまったが、筆者が冒頭に掲げた不思議な現象も別段さほ |
ど不思議でも無く、多く見られる現象のようで、有史以来の人類のあらゆる経験が累 |
々と遺伝継承されて個々人の内面に蓄積されているものが、何かの弾みで驚愕や感動 |
とともに、あるいはその個人の経験としては初めてのことに直面して実在現象として |
表面化するのであろう。だから、「意味のある関連があるように見えて、その実因果 |
関係のはっきりしない二つ以上の出来事が同時発生する、同時性・共時性現象になる」 |
“シンクロニシティ―”はあり得るのだと納得した次第。ちょっとした心理学の勉強 |
でした。 了 (2013年7月15日“海の日”に記す) |
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1.プロローグ |
過日、宮崎 駿監督作品の「風立ちぬ」という映画を、久しぶりに家内と一緒に鑑 |
賞しました。日本と戦ったアメリカ軍が恐れていた、日本海軍の零式戦闘機の設計者 |
として有名な、堀越二郎氏の伝記をアニメで紹介された映画です。 |
米国で復元されたゼロ戦 |
戦中派の私と家内は、共に学徒動員で、私は飛行機の |
エンジンのディストリビュータ(空冷複列18気筒のエン |
ジンの点火栓に、順序良く高圧の電気を送る配電部品) |
の最終試験の仕事を、当時、横河電機の子会社で品川に |
在った東亜航空電子という会社に、東京市立麻布工業学 |
校(中学校レベルの実業学校)の4年になったばかりか |
ら、卒業するまで働いていました。当時は若い職工さん |
はどんどん戦争に引っ張り出され国内で兵器を作る若者 |
は、中学校の生徒が主力になりつつ在ったのです。後に、この、エンジン部品は隼戦 |
闘機に搭載されていたものであることを知りました。 |
家内は、渋谷区笹塚の丸二という板金工場で、飛行機の翼の竜骨(翼の骨組)に使 |
うジュラルミン板の歪取りの仕事を、女学校(昭和商業実践女学校、現在、富士見丘 |
女子高等学校)に入学直後から勤労動員で働いていたそうです。然し、不思議なこと |
に、この仕事は他の友達よりも正確に早くできたし、嫌いではなかったのに、突然、 |
次の職場、東京急行の審査課に移されて、各駅の売り上げ計算の仕事を、終戦までや |
っていたそうです。この職場に澄川さんという指導員がいて、「この戦争は負けるよ」 |
などと言いながら、灰田勝彦の歌う「憧れのハワイ航路」などを口ずさんでいました。 |
当時の特高警察(国民の思想を監視して、嫌戦思想の人を摘発して収監する役目の警 |
察)の目によく止らなかったと思える人に、指導されていたためか、家内は終戦を、 |
私のような悲壮感はなかったようです。そして、勤労動員中は皆で、当時の国民歌謡 |
で若き日の藤山一郎氏が歌っていた「崑崙超えて」などを合唱しながら、結構楽しく |
働いていたようです。それでも、自分が作った飛行機が邀撃するB29に歯が立たなか |
ったのを見て悔しくって涙が出たそうです。このような経験を持った私達が、この映 |
画を見て感じたことは!もっともっと戦争で私達日本人が受けた厳しい面を描いても |
らい、人が人を抹殺しなければ済まない戦争を決してしてはならないという気持ち、 |
そして日本だけでなくこの地球上から一切の戦争を排除しなくてはならないという気 |
持ちを、この映画を見た戦争を知らない今の若い人たちに持たせる様な、構成にして |
欲しかったという思いがあります。 |
2.若き日の堀越少年と同じ夢を持っていた私の少年時代の思い出 |
堀越二郎氏の少年期から青年期は、日本が閉塞感の激しい時代であったようで、関 |
東大震災のシーンにも、わが生家で見たことのある1週間で発売禁止になったといわ |
れた、震災の絵葉書に焼け死んだ人が道にごろごろしていたようなシーンはありませ |
んでしたが、なんとなく当時の社会情勢の感じられるシーンも何箇所かありました。 |
私も3〜4歳の頃、突然居間で寝ていたところへ、どやどやと人が入ってきて、あ |
ちこちの家具に、赤い紙を張られているのをみて怖かった記憶があります。 |
あとで、当時家長で地域の長老(町会長をやっていた)であった祖父が、友人の金 |
策の保証人になって、その友人に逃げられ家具を差し押さえられたのだということを |
知りましたが、最も日本経済の疲弊した時代だったようです。 |
この借金の返済に、祖母は髪結いの仕事を、母は着物を縫う賃仕事をして、父と共 |
に祖父を助けていました。この時代に堀越氏は三菱重工に入られて飛行機作りに、幼 |
い夢の実現に向っていたのだなと知り、感無量でした。 |
私も小学校時代からの夢は、飛行機の操縦士になることでしたが、目が近視だった |
ため、操縦士になることを諦め工業学校を父の反対を押し切って受験し入学したので、 |
勤労動員の仕事が自分が憧れていた飛行機の心臓部分を作ることに喜びを感じ、5年 |
生になった時には、最終検査部門の責任者として、下級生2名と当時の尋常高等小学 |
校の女子生徒3名を使って、正規の工員さん以上の成績を上げて、昭和19年12月8日 |
の開戦記念日にはこの工場で働いていた勤労動員4校から2名だけ表彰された内の一 |
人です。 |
昭和20年2月の大雪の日に早稲田大学専門部工科電気通信科の受験をし、3月始め |
に風邪で寝込んだ私に代わって、父が合格発表を見に行き、合格を喜び合いましたが |
、3月10日の東京大空襲で中学・大学共校舎が焼けて、卒業式も入学式もできず早稲 |
田からは、別命あるまで家庭待機という状態でした。 |
昭和20年3月10日の東京大空襲は、港区新橋の生家で経験し、幸い家への被害は、 |
近くのビルに落ちた小型爆弾の爆風で、台所の扉が吹き飛ばされた程度でしたが、新 |
橋駅の方面から敵機B29が、探照灯の光に照らしだされて、まさに大男が、我々消火 |
に携わっている者たちに、覆いかぶさってくるように見え、その機体の下側が、焼夷 |
弾で燃え盛る新橋銀座方面の火事の炎で真っ赤に染まっていた、あの光景は無念の思 |
いに押しつぶされそうでした。今でも時々夢に見ることがあります。 |
丁度、小学生の集団疎開地の塩原から中学生になるた |
B29焼夷弾爆撃の図 |
めに帰宅した5歳下の弟が、凍傷で足の指を一本落とし |
ていて歩けないので背負い、たまたま千葉の疎開先の母 |
の実家から、4歳の弟と一緒に帰宅していた母に、その |
弟を背負わせて空襲の合間を見て近くの小学校の地下室 |
に送り込みました。そして、私は再び自宅の前の歩道の |
縁に作ってある、小さな防空壕に戻って反撃できない悔 |
しさにじりじりしながら、B29の編隊が行き過ぎるのを |
待っていました。 |
一方、家内のほうは新宿の家は焼かれ、母を亡くして兄弟を無縁故疎開で山形に疎 |
開させたあと、都庁の役人だった父と二人で防空壕生活をしていたそうです。 |
堀越氏の幼い頃のシーンは、平和な日本が列強に抗して軍隊の増強に国費を使い、 |
丁度、今の北朝鮮のように、市民に生活を犠牲にしているような考えを持たせないよ |
うに洗脳して、反抗するものは全て粛清する風潮の時代であったようです。このこと |
を彷彿させるシーンとしては、社命で航空機の開発では先輩のドイツで学び、西回り |
で帰国した堀越氏が、当時の特高に睨まれた挿話などからも容易に推察できることで |
した。 |
然し、その頃の私達を始め多くの日本人は、神の国日本が敗戦するなどとは全く思 |
わず、早稲田の入学式は10月に多摩川縁の北辰電機の屋上で行われ、そのまま学徒の |
勤労動員として、終戦までひたすら御国の為と、一生懸命頑張った時代でした。 |
3.終戦前年から終戦翌年(昭和19年〜21年)までの思い出 |
過日、書斎を整理していたら「閑歌集」と表題にある古いノートがでてきました。 |
見ると私が書いた当時の詩日記で、懐かしいままページをめくると、その頃の気持ち |
が鮮やかに思い出させるノートでした。このうち主なものをご紹介してみたいと思い |
ます。 |
閑歌集表紙 |
序文として先ず徒然草(平安時代に清少納言が書いた |
随筆集)の中から、次の文章を引用し、男としての生き |
方をイメージして描いていたようです。 |
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「ありたきことは、まことしき文の道、作文、和歌、 |
管弦の道、また有職に公事のかた、人の鑑ならむこそ、 |
いみじかるべけれ、手など、つたなからず、はしり書き、 |
声おかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬ男はよけれ」。 |
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4.戦争後期から終戦直後の我が家の状況。 |
第2次世界大戦の終結直前から日本の敗戦、そして、厳しい戦後の生活や不安定な |
世情の中で、どのように生きていくべきかを考えて過ごした、あの時代の生活を思い |
出して見ました。 |
戦争末期、生家の強制疎開によって国から支給された金銭と、東京から空襲を恐れ |
て、田舎に疎開する人々からの荷物の荷造りや運送の仕事で得た利益などで、戦争中 |
は比較的我が家の経済状態も安定していたようですが、戦後は、国の経済破綻を救う |
ため政府の施策で、それまで貯めた個人の貯金は、旧円として封印されてしまいまし |
た。そして、わずか1ヶ月1000円だけを新円として貯金から下ろすことしかできなく |
なりました。その上、急激なインフレと物資不足で、生活用品の統制と、これを破る |
闇市の跋扈で、焼け残った親戚の家の一間を間借りして、父と私と中学に入ったばか |
りの弟との3人で生活している状態では、父の本業である運送業が出来ない為、生活 |
維持に必要な主な収入が殆ど得られない状態でした。なんとか、母と下の妹と弟と祖 |
母を千葉の疎開先から呼び戻して、2重生活を解消し皆で一緒に住むための家を元の |
場所に建てようと、徹底的に生活費を詰めて生活していました。 |
私の早稲田への合格時に、父が「お兄ちゃんお前の学費の心配はしないでいいんだ |
よ」と言ってくれたことは不可能になり、私も専門部の2年からは自分で学費と生活 |
費の一部を稼ぎ出さなくては、ならなくなりました。幸い、北辰電機での勤労動員中 |
に親しくなった、早稲田の先輩から指導を受けた電子技術で、当時不足していたラジ |
オの製作や修理を、学校帰りに神田周辺でアメリカ軍からの放出品や、旧日本軍の残 |
留電気部品を集めて売っている露天から必要部品を調達してから帰宅し、夕食後に父 |
や弟が寝床に入るまで作業音の大きいラジオの製作や修理の作業を行い、二人が寝て |
しまってから学校のノートの整理(当時教科書は無く、すべて教授の板書きをノート |
に写すのが授業のパターンでした)をして、毎晩寝るのは午前2時近くになる生活を |
続けて、学費と生活費を稼ぎ出し学業も人並み以上に励みました。 |
当時、町で売られている一番簡単なラジオは、並4と呼ばれていた受信機で、ラジ |
オ店では800円で売られていました。 私はそれより高い性能の高周波1段といわれた |
受信機を、400円で売ることが出来たので、買ってくださった方が次々と買い手を紹介 |
してくださったので、多くの注文を抱えていました。然し、学校にも行かなくていけ |
ないし、クラス委員と学生連合の委員としての仕事も、先輩の卒業後のクラブ活動無 |
線部の部長としての仕事も抱えていて忙しく、せいぜい土・日をフルに使っても、1 |
週間に1台しか出来ませんでした。それでもこの受信機の材料費は200円で済んだの |
で、1台200円の利益が出て月にすると800円の収益が得られたのです。この様にして |
、なんとか2重生活での家の預金の目減りを抑え、小さな家を自分たちの手で作り上 |
げることが出来ました。 |
ページをめくると、この歌集の始まりは、昭和19年(1944年)3月15日に、現在の |
南房総市鋸南町にある母の実家に春休みを利用して遊びに行った時、亡き姉を偲んで |
読んだ長歌から始まり、最後は昭和23年4月18日に鎌倉の友人の家を訪ねた時の短歌 |
で終わっていました。 |
昭和22年元旦も詩 |
中には、中学4年のときに、富士の裾野で軍事教練を |
受けた時に読んだ歌が長短15首、勤労動員のときの短歌 |
が5首、中学時代からの書道の友人の入営に2首、戦争 |
中の航空記念日に自分達の作った飛行機を思って2首、 |
疎開した弟からの手紙を見て長短3首、家が強制疎開で |
壊されるときの短歌2首、勤労動員で工場の寮に入る前 |
日の2首、そして一緒に学んだ習字友人との別れの歌が |
9首、拙いながら、終戦の詔勅を聞いた時の思いをぶつ |
けた漢詩があり、終戦後の情景描写や、青春の思い出などもあり、当時のことが昨日 |
の事のように思われる文章でした。 |
特に、強制疎開で立ち退かされた元の場所に家を建てる為に、地主と再び借地の交 |
渉に、父母や世話役の人が行ってして、頑強に拒まれたのを、友人の父親(当時、芝 |
区役所建築課勤めの方)のアドバイスを受けて地主の事務所に行き、丁度発効された、 |
当時の臨時借地借家法(戦争中焼失家屋や強制疎開を受けた人へ、優先的に元の場所 |
に復帰させる法律)の法律論で崩して、区の建築許可書を手にした次の歌は、苦労し |
て得た許可書だっただけに、ひとしお想い出が深いものでした。 |
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この表題は、現在市販されていてついこの間までベストセラーであった単行本「憂 |
鬱じゃなければ、仕事じゃない」の第6章「成功への動機付け」の中の一つのタイト |
ルとして挙げられているキャッチ・フレーズを引用したものである。この本の著者で |
ある出版社「幻冬舎」社長 見城 徹氏がサイバー・エージェント社長 藤田 晋氏 |
と共著で表した本書の内容には必ずしも賛成できないところも多々あるが、首題に選 |
んだ項目には筆者も毎日の生活信条に通じるものを感じたため少し書き進めてみたい |
と思ったのです。 |
この本の中で、見城氏は次のように書いている。 |
「一日自分を苦しめた後に飲むワインの味は格別だ。僕は、夜うまいワインを飲む |
ために仕事をしているといっても過言ではない。藤田君は僕の還暦祝いにDRCの特別の |
年のモンラッシュをくれた。最高のプレゼントだった。僕は、ワインは、目一杯働い |
た男の血であると思う。僕は毎晩、血を補給しているのだ。」 |
(注:波線は筆者付記、上掲書219頁)。 |
さて、筆者は皆様もご承知の大食漢で、嫌いなものもなく、何でもよく食べ、よく |
飲んできた。そのため、食の細い上司からは「お前は、本当によく食うな!全く食は |
命なりだな!」と羨ましがられたり、蔑まされたりした。以来後期高齢者の枠組みに |
入ってからも、今年の正月まではわが身の体重をあまり気に掛けることもなく、自由 |
な飲食の楽しみを享受し続けてきた。今年の正月、年の初めに一念発起して少しばか |
り本腰を入れて、食生活の改善に取組んだ。とは言っても、筆者の計画は特に大それ |
ワインセラー |
たものではありません。朝食には軽く一膳の御飯に味噌 |
汁と一采の副食、昼は高校時代の級友である医者の提言 |
を入れて、バナナ一本にヨーグルト、夕食には飲むとき |
には、米飯もパンも麺類も一切の含水炭素は採らず、副 |
食のみで、飲むものも原則としてビールは控えて、9割 |
は赤ワインボトル半分(赤ワインもほとんどフランス・ |
ボルドーのもので、世界のコンペで金賞か銀賞をもらっ |
たという銘柄に拘っている)、清酒のときは2合、30度 |
未満の焼酎なら50:50の水割りでグラス2杯に制限している。週2日の休肝日を月曜 |
と金曜日にしている。旅に出た時や宴会の席では枠を広げて気を晴らして飲むことに |
している。 |
今年も半年を経過したが、結果は惨憺たるもの。体重はずっと横ばい、さしたる改 |
善効果は表れてない。しかし、体調はすこぶる良く、血圧降下剤8ミリの一錠を朝食 |
後にのむだけで、他には取り立てて問題にする疾病もない。歯医者からは歯の質の良 |
さを褒められているし、眼も近視がどんどん改善されて、現在の眼鏡が何故か少し見 |
づらいと思い、先月になって眼医者に相談すれば、なんと裸眼で1.0以上が見え、眼鏡 |
を架けると右が0.7、左が0.8と言われ、ほとんど近視がなくなっていることに気付か |
された。乱視も左にはほとんどないくらいの状態だった。ただ、加齢現象としてやむ |
を得ないのでしょうが、手足の爪先がクサビ状に割れて、生爪をはがしたような状態 |
に常時2、3本がなっているし、昼夜を問わず、頻尿が気忙しく熟睡の邪魔になり、 |
ゆっくりした思考や読書、レコード鑑賞の妨げになって落着けないのである。相変わ |
らず歩くことは続けていて、常時靴は登山家の三浦雄一郎氏ではないが、分厚いビブ |
ラム底をつけた片方だけで1キロ以上ある重たいチロリアンシューズを愛用し続け、 |
足の筋肉の鍛錬に努めている。 |
さて、話を本題のワインに戻そう。いまは、デパートやワイン専門店の通販に頼っ |
ているワインであるが、過去には一時名品を嗜むことを試みたことがあって、記念に |
ラベルを貰って溜め込んでいた。その内から5品を選び、ラベルを添えて紹介してみ |
よう。 |
1.シャトー・ムートン・ロートシルト(Chateau Mouton Rothschild) |
ボルドーのメドック(Medoc)地区のなかでも代表的な最高級の赤ワインを産出するこ |
とで有名なポーヤック(Pauillac)村が、メドック地区の五つの一級ワインの内、 |
シャトー・ラフィット、シャトー・ラトゥールとこのシャトー・ムートンの三つを作 |
っている。 |
ラベル1. Chateau Mouton Rothschild |
日本人には英語式にロスチャイルドの蔵と言った方が分 |
かり易いかもしれない。日本では有名デパート各店、明 |
治屋をはじめ多くのディーラーが扱っている。この蔵の |
ワインは毎年変わる著名画家のラベルが話題を呼んでい |
るが、筆者が飲んだのは1970年もので、かの有名な色彩 |
画家マイク・シャガールのラベルである(添付ラベル1 |
参照)。1本2万円以上の高級品である。 |
2.シャトー・ラヴィーユル・オー・ブリオン(Chateau Laville Haut Brion) |
ラベル2. Chateau Laville Haut Brion |
次も同じくボルドーのグラーヴ(Graves)地区の代表的 |
なワインである。グラーヴとは砂利のことで、この地区 |
は砂利の多い土壌で、ブドウ栽培に適している。この蔵 |
の場合は白が辛口タイプで優れたものが多いとされてい |
る。筆者が飲んだのは1978年製で、勿論“白”である。 |
駐在員時代にオランダで嗜んだものだが、日本で時価1 |
万五千円くらいだろうか。当時は日本円に換算して確か |
5〜6千円くらいだったと記憶している。日本では雪印 |
乳業が販売代理権を持っていた(添付ラベル2参照)。 |
3.シャトー・ラフォーリー・ペイラゲイ(Chateau Lafaurie-Peyraguey) |
次は同じくボルドーのソーテルヌ(Sauternes)地区の代 |
ラベル3. Chateau Lafaurie-Peyraguey |
表を取り上げよう。 |
ブドウはセミヨンとソーヴィニョンが主で、この地区の |
ブドウの育て方には貴腐状になるまで待って収穫するこ |
とに特徴がある。そのため糖分の高い、甘い香り高い白 |
ワインが売りである。筆者が嗜んだのは1975年製で、当 |
時1万円くらいだったと思う(ラベル3参照)。 |
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4.シュロス・グレーネシュタイン(Schloss Groenesteyn) |
ラベル4. Schloss Groenesteyn |
余興にドイツ・ラインガウ(Rheingau)のリューデスハ |
イム(Ruedesheim)村のグレーネシュタイン城の白を挙 |
げておこう。筆者が何かの折、東京会館で食事を共にし |
た時に試みたものである。1983年製であった。レストラ |
ンのメニューで1万円くらいだったと記憶している(ラ |
ベル4参照)。 |
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5.ケイムス・ヴァインヤーズ・スペシャル・セレクシ |
ラベル5. CAYMUS VINEYARDS Special Selection |
ョン (CAYMUS VINEYARDS Special Selection) |
最後にアメリカ・カリフォルニア州のナッパ・ヴァレー |
(Napa Valley)の富に評判の高い赤を紹介しよう。筆者 |
が仕事上で関係しているシャシックス社(CHASSIX INC.) |
の新任国際部門社長が今年の2月に来日した際、ワイン |
好きの筆者にとわざわざ米国から土産に担いで来てくれ |
たものである。 |
ブドウはカベルネ・ソービニョンである。味も香りも申し分のない逸品であった。実 |
はまだよく調べていないので価格情報は皆無である。日本では東京赤坂に1624年から |
酒問屋として続いている老舗「赤坂四方(YOMO)」が代理店のようである。 |
首題に多少は見合うでしょうか、筆者のワイン好きの一端をご披露しました。 |
(2013年7月15日 海の日に記す) |
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皆さんは、鹿児島県のことをどれ位ご存知でしょうか? |
関東から見ると、南の果ての街であることには変わりありませんが、海も山もキラ |
キラしていて色彩が濃いような、さわやかな風が吹く街ですよ。 |
昨年、九州新幹線が博多駅から鹿児島中央駅の間で開通しました。大阪から最短時 |
間は4時間20分、博多駅からは最速1時間15分ですから、藤沢から東京駅までと同じ |
ですね!博多のもつ鍋を、鹿児島の黒豚料理をその気になれば、昼に夕に摂ることが |
できるのです。大事なことは何処に行けば!何が美味しいか!ですね。自分の故郷が |
グルメの街であることに、びっくりしています。 |
さて鹿児島とは? |
歴史、衣食住、政治・経済、文化とそれぞれ思い抱く切り口によって思い浮かぶ鹿 |
児島を紹介することにします。 |
「歴史的」に鹿児島市は、薩摩藩=島津氏の城下町でした。あちこちに明治維新に |
関わる歴史的な偉人の誕生地(西郷さん、大久保利通、小松帯刀、斉彬、篤姫)が残 |
り、生麦事件、関ケ原の戦い敵陣突破(島津義弘)、いたる所でカルチャ―意識が刺 |
激されます。古事記編纂では、天孫降臨の霧島の山々とか。日露戦争までは鹿児島県 |
人(東郷平八郎・大山巌)の活躍が目立ちますが、人の良さとおおらかさのためか、そ |
の後の時代の活躍は長州に譲ってしまったようです。 |
高見橋ライオン像 |
「食」は黒豚、黒牛、黒鶏、きびなご、はまち、ソラ |
マメ、あくまきとか。胃袋を刺激してくれ、大変グルメ |
の街といえるでしょう。「台風の心配、桜島の降灰」な |
どなければ、南の楽園、東洋のナポリと豪語できるので |
すが。そして、アジアからの日本の玄関と言えるでしょ |
う、鹿児島県は多くの島嶼を持ち、南西諸島(種子島、 |
屋久島、奄美大島、硫黄島)控えトロピカルで沖縄と薩 |
摩の融合した文化を持つ島が点在しています。 |
鹿児島市は第二次大戦でその九割までが一面の焼野が原になってしまいました。だ |
から、名所、旧跡が消失してしまい、歴史好きにはとても残念と言わざるを得ません |
が、今では桜島に相対する明るい街に変貌しました。 この鹿児島は、島津七十七万 |
石、歴代の城下町ということで、鶴丸城跡が残り、英明な藩主たちの逸話やそれに因 |
む地名が残り、島津家は今でもそれなりに存在感を発揮しています。島津氏の別邸の |
仙巌園は庭園を代表し、斉彬を祀る照国神社は県下一番参拝者数が多い神社です。南 |
の島々に航路を持つ港があり、そのため南九州の政治・経済・学術・文化の中心地に |
なって行ったのです。 |
鎌倉時代以来、明治までには幾多の治乱興亡がありま |
明治維新吉井&伊地知像照国神社前 |
したが、島津二十九代、700年間連綿と続く一貫した城下 |
町は350年前、形作られました。なぜ長い間、興亡がなか |
ったのかは、中央政権から遠く離れ、島津氏が強固な防 |
衛をしていたからです。昭和の初めごろまでの町並みは |
“樟の木に夾竹桃の咲き交じり 石垣青き鹿児島の街” |
と与謝野鉄幹さんが謳っていらっしゃいます。庭木と苔 |
蒸した石垣に包まれた静かな城下町だったようです。今 |
でも各家にはイヌマキの木、南天の木を配した庭の造りが多いです。麓集落と言われ |
る郷士たちの集落が、県下113ヶ所に点在し、武士の家らしき佇まいを残しています |
から、おのずと庭造りがされているわけです。 |
中央駅前を路面電車が行く |
鹿児島市内の名所、旧跡を探訪する旅に便利な足とし |
て、路面電車160円、市内バス180円、観光路線バス・シ |
ティビュー600円等あります。勿論、観光タクシーも備 |
わっています。桜島へ渡るフェリーは24時間営業で180 |
円、昼間は15分おきに出航します。一番便利な乗り物は |
シティビューです。乗り降り自由で2コースが運転され |
ており、市内の名所、旧跡を手軽に回れるコースにまと |
めています。 |
市内を少し観光してみましょう! JR鹿児島中央駅 |
高見橋薩摩子供像 |
東口を出発、左方向天文館方向に向かいますと、すぐに |
甲突川(こうつきがわ)を渡ります。橋は高見橋と称し、 |
左手の銅像は幕末の加治屋町の子供たちの遊ぶ姿で、右 |
手はそれを見守る母像があります。この川は鶴丸城(鹿 |
児島城とも呼ぶ)の外堀に当っています。平成5年の水 |
害で架けられていた石橋(肥後の石工岩永三五郎の作) |
は壊れ、修復して祇園の洲公園に移設されています。 |
高見橋の大久保利通像 |
「大久保利通銅像」=橋を渡り終えた左手には、維新三 |
傑の一人とされる大久保利通公がフロックコートをひる |
がえした姿で颯爽と立っています。(因みに、残り二傑 |
は西郷隆盛、木戸孝允) |
「加治屋町」=右手一帯を加治屋町と称し、昔、禄高の |
低い下級武士達の屋敷がありました。維新三傑のうち西 |
郷隆盛・大久保利通をはじめとして数々の偉人名将がこ |
こで誕生しました。(吉井友実、西郷従道、大山巌、東 |
郷平八郎、山本権兵衛、黒木為禎、田代安定)さらに天文館方向に進みます。 |
「黒田画伯誕生の地」=左手に大きなビル、商工会議所ビルでハローワークも入っ |
ています。(12階に食事処「梅の花」ヘルシーな昼食、夕食に良いでしょう) |
ここは、我が国洋画界の先駆者=黒田清輝画伯の生誕 |
英国留学17人像 |
の地でその名作の数々は市立美術館に保存展示されてい |
ます。近代洋画を確立した黒田は19歳でフランスに留学 |
し、ラファエロに学び、帰国してからも貴族院議員を務 |
める傍ら名作を残しました。 |
(作品 湖畔、アトリエ等) |
「天文館」=さらに路面電車通りを進みますと、天文館 |
通りに差し掛かります。ここには18世紀、薩摩の天文観 |
測の館があったことからその名称で呼ばれるようになりました。左手アーケード内に |
明治館の碑が残っています。 |
天文館は鹿児島一の繁華街ですが、最近、JR鹿児島中央駅アミュに訪問者数で後 |
れを取るようになっています。挽回策として、テンパラ(天文館パラダイス)協議会 |
を発足させ、シネマを配した町興し等に力点を置き頑張っております。電車通りを隔 |
てて真向いも繁華街です。かき氷「白熊」の名称で県下に名を馳せる有名な「無邪気 |
本店」もここにありますから食べてみては!鹿児島県人には絶大の人気です。 |
「いづろ通り」=昔、石灯籠が立ち並んでいたことから「石灯籠」とかいて「いづ |
ろ」と呼んでいます。正面にその面影を残す石灯籠が置かれています。この通りを真 |
石灯籠通り |
っ直ぐ海岸線に出ますとドルフィンポートがあります。 |
近年、再開発された地区で、鹿児島の食材を活かした和 |
洋、魚・肉料理のレストランや焼酎専門店、お土産店が |
あります。何と言いましても目前には雄大な桜島を望め |
るロケーションは壮観です。300メートル位隔てたすぐ隣 |
には種子島、屋久島とを結ぶジェット船のポートがあり |
ます。連休、休みの前には大変な人だかりになります。 |
|
「鹿児島水族館イオワールド」=ドルフィンポートの先に、オペラハウスのような |
建物が水族館です。鹿児島の海は、黒潮が東シナ海を北上し、奄美大島を通り、トカ |
ラ列島の辺りで本流が太平洋に流れ込みます。南のさかなが豊富です。錦江湾には真 |
鯛をはじめ日本を代表する温帯系のさかなもいます。そんな鹿児島の海を紹介すべく |
できたのが鹿児島水族館「イオワールド」です。因みに「イオ」とは鹿児島弁で魚と |
いう意味です。 |
海岸線に沿って進むと、鹿児島駅があります。かつては表玄関でしたが、今は、鹿 |
児島中央駅に取って代られ貨物専用駅となりました。近くに鹿児島港があり桜島フェ |
リーが就航しており、所要時間15分、15分間隔で桜島に運行して渡ることが出来ます。 |
「多賀山」=鹿児島駅から歩いて20分程度で多賀山へ歩いて行けます。この丘には |
かつての日本海軍の名提督=東郷平八郎元帥のお墓と銅像があります。明治38年5月 |
27日、ロシアのバルチック艦隊を日本海の波間に撃ち沈め、日露戦争を大勝利に導い |
た一人です。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と旗艦三笠の上 |
にスルスルと掲げられた「Z旗」でした。今でも、外国の軍艦が入港するたびに幹部 |
将兵の方々が参拝されると聞いています。さらに海岸線に沿って進めば、3キロ先、 |
仙巌園(磯庭園)を訪れることができます。県内いたるところに温泉が湧き、観光客 |
の為のホテルも充実しています。人々は他県の人に比べ、のんびり歩き、1年中温暖 |
で、冬でも春の花が咲きトロピカルな果物や太陽の恵みを受けた食材は本来の味と香 |
りを放ち、毎日、食を堪能することができます。そのほか、霧島、指宿、知覧など有 |
名な観光地も多数あります。 |
もし、皆さんが都会の雑踏にお疲れになった時など、自然に抱かれたこの街を訪れ、 |
散策して見てはいかがでしょうか。私も皆さんの案内人になるべく精進し故郷鹿児島 |
の勉強をしています。幸い、私の妻は観光のエキスパートで観光バス会社に勤務して |
いますから、皆さんが観光にお出でになる節にはお役に立てるでしょう。その際は、 |
御一報お待ちしております。桜島と錦江湾を間近に見、俯瞰する地に住まいながら、 |
遥か東京にお住いの皆様方に思いを馳せて暮らしておりますれば。 |
2013.6.30 猿渡一義 |
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図書 |
筆者が購読している雑誌の中に、岩波書店の『図書』 |
がある。月刊雑誌だが、岩波書店の出版案内に加えて、 |
岩波書店の書籍や雑誌に執筆、投稿されている作家、評 |
論家、学者がそれぞれの分野での新たな試みを紹介され |
ているので、小さな、薄い本とはいえなかなか読みごた |
えのある内容である。「今更なぜそのような難しい本を |
・・・」と思われる方も多かろうが、筆者は高齢者向け |
の公開講座の一つでも受けているようなつもりで読んで |
いる。 |
表紙をめくると目次の頁の上部7割くらいのスペースを占めて「読む人・書く人・ |
作る人」というコラムがある。毎号違う人が執筆されている。最近受取った6月号に |
は美術史家として著名な、特に日本美術の歴史に造詣の深い辻惟雄(つじ のぶお) |
氏が『見る人』というタイトルで、現在のコラムのタイトル「読む人・書く人・作る |
人」は「見る人」が入っていないのでいささか物足りないと書かれている。 |
大御所の先生方の論争の中に浅学の筆者が割って入る |
辻先生 |
ような大胆な試みをしようという気は毛頭ないが、辻先 |
生が「見る人」が必要と思われる気持ちは十二分に理解 |
できるし、先生のように作品を見て論評することを主な |
仕事にされている人には、まずは見なければどんな意見 |
も評論もなし得ないであろうから、誠にまともな立場だ |
ろう。怖れながら、筆者にはその前に「思う人」や「考 |
える人」もあってよいと思う。筆者にはいやむしろ、そ |
の方がより大切ではなかろうかとさえ思う。思い巡らすことやゆっくり考えてみるこ |
とが創造・創作を事とする人々には何よりも尊い、先行した行為のように思えるから |
である。いかがであろうか。 |
勿論今更こんな浅薄な議論は必要もなければ、議論として見合わないことであろう |
けれども、それを弁えた上で、実際に作業に入る立場として、「読む人・書く人・作 |
る人」とタイトルされたのだろうと思う。それでも、どうしても「思う人」、「考え |
る人」についてもその大切なことを一度は書き物にして残して置きたいという衝動に |
駆られたのである。 |
筆者も下手でも下手なりに創作の喜びを感じて水彩画を描き、文章に綴っているの |
で、思っても体験できない人が多い中にあっては、これも幸運の一つと思わざるを得 |
ない。絵や文章のように姿を変えて自分の感じた気持ちを託せる対象物を持てること |
は、人間を長くやっていてことさら有難いと思うことの一つである。 |
日本美術の歴史 |
終わりに辻氏を紹介した序に、同氏が著書「日本美術 |
の歴史」(2005年12月9日初版、東京大学出版会)のま |
えがきに「『美術』とは、明治のはじめ、西洋の”fine |
art“を日本語に訳して出来たものであり、それ以前か |
らあった概念ではない。それに類する言葉として"art” |
に対する『技芸』があげられる程度だろうか。絵画と書 |
は『書画』として一緒になっていた。工芸は絵画ともど |
も『工』の概念のなかに収まっていた。建築、庭園も明 |
治の新造語である」。と書かれている。筆者が初めて同書を求めて読んだ時に、日ご |
ろ英単語の生い立ちをいろいろ調べていながら、肝心の母国語の熟語の生い立ちにあ |
まり注意が及んでいなかったことにしみじみ情けなさを感じたことを思い起こした。 |
同じ辻氏が監修された「日本美術史」(1991年10月15日初版、美術出版社刊)には美 |
術世界の用語の解説があって、筆者も便利に思い、歴史的な美術の理解に大いに役立 |
ったことを参考までに書き添えておこう。 了 |
2013年6月1日 記 |
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1.プロローグ |
幼少の頃は、虚弱体質で散々親に心配をかけた私も、成人してからは殆ど入院する |
ような病気に罹ったことがありませんでした。ところが、80歳になったとたんに心臓 |
の手術や、少し前までは、不治の病と言われていた「膠原病」の一種で、男子には罹り |
難い「リュウマチ性多発筋痛症」なる病気に罹り、その上、入院中に前立腺に癌がある |
ことが分かり、一昨年暮れまでは、昭和大学病院に入退院を繰り返していました。 |
今は3ヶ月に一度程度の通院で、毎日決められて服薬を確実に守り、血圧や体調の |
記録を取って担当医に報告し、無理をしない程度の日常生活を、普通に過ごしていま |
す。私のこの経験を、これから後期高齢者になる皆様にお知らせして、少しでも長く |
元気に過ごしていただく参考にしていただけたらと思って、筆を進めています。 |
昔から「病は気から」と言われていますが、まずはどんな病気に罹っても、決して |
弱気にならないことです。最近の医学の進歩は、今まで治らないと言われていた病気 |
をどんどん少なくしています。 |
2.リュウマチ性多発筋痛症について |
私の罹った「リュウマチ性多発筋痛症」は膠原病の一種で、文献によると約40年前 |
にヨーロッパで発見された病気で、日本の医学会で知ったのが約20年前とのことでし |
た。この病気は女性に多く発症する病で、体中の関節が痛くて、腰掛けて足を組むこ |
とも、シャツを脱ぐのにシャツの裾を、腕を組んで持ち上げることもできない状態で |
した。 紹介された整形外科で診察を受け、レントゲンで各関節の撮影をしてもらっ |
たのですが、「あなたの骨の状態は年より若く異常はありません。痛み止めの薬と、 |
貼り薬を処方しておきます」と言われて、一ヶ月以上この整形外科医に通いましたが、 |
一向によくなりませんでした。骨が正常なら筋肉の老化かと思い、マッサージを希望 |
したら「それもいいでしょう」と医師の回答で、二度三度マッサージを受けたら反っ |
て痛みが増すばかりでした。そのうちに両腕に浮腫が見られるようになりました。 |
丁度その頃、家内が品川区のシルバー大学で、昭和大学病院に痛みを和らげる医療 |
をする科があることを聞き、かかりつけの「いしい医院」の院長が、昭和大学医学部の |
講師もされているので相談して、昭和大学病院のリュウマチ膠原病内科を紹介してい |
ただき、診察を受けることができました。 |
診断の結果は、自己免疫力が異常に強くなって、自分の組織を自分で壊す病で、こ |
の自己免疫を弱める薬(ステロイド製薬)で自己免疫力の強すぎるのを落とす治療を |
するので、巷にあふれている肺炎菌やインフルエンザウイルスの感染に無防備になる |
可能性があるので、入院加療が必要で直ぐ入院手続きをするように言われました。 |
入院の翌朝から、ステロイド製薬40ミリグラムの他、この薬の副作用を抑える何種 |
類かの薬を飲みました。入院中は、食事の時と看護士が血圧を測りにくる時以外は、 |
全く何もすることないので、入院前も家でやっていた様に、薬を飲んだ後や、治療を |
受けたあとの状態をチェックするために、各部の筋肉を動かして、痛みの状況をチェ |
ックしていました。夕方の回診時に、担当された高橋医師が「如何ですか」と聞いて |
きたとき、「午後3時頃から少し痛みが軽くなったよう |
血圧の記録ノート |
な気がします」と答えることができました。 |
一日中ベットの上の生活では、退院後の生活に支障を |
来たす事は、72歳の時転んで右肘の骨折で入院し、5日 |
間腰骨のひびの疑いで、寝かされたままで、歩く許可が |
でても、掴まり立ちしかできなかったことを思い出した |
ので、何とか入院中の体機能を保つ工夫を考えました。 |
|
幸い少しずつ、日が経つにつれて痛みが少なくなってきましたので、病院中を歩き |
回る運動をするわけにも行かないので、6人部屋の他の患者が気が付かないような、 |
体全体の関節を動かす体操を考えて、朝・昼・夜の最低3回はベットの横でやってい |
ました。お蔭で3週間の入院を終えて年末に帰宅してすぐに日常生活ができました。 |
この体操の効果は毎日回診時に、はっきりしたその日の体調を、医師に伝えることが |
できたことだと思います。この体操は退院後も続けてこの体操と決められた服薬と、 |
ベットサイドに自動記録血圧計を用意して事毎に血圧を記録し、診察日のはこれと最 |
近の体調を書いて医師に渡すように心掛けています。 |
3.どんな体操(線画参照) |
この体操は |
(1)首の前後、左右の傾けと回転から初めて、 |
体操の線画 |
(2)肩を中心に腕の前後回転と |
(3)上下動 |
(4)両腕を大きく開閉をした後、 |
(5)上体の前後の屈伸 |
(6)左右の屈伸 |
(7)大きく足踏みと |
(8)膝から下を後に蹴り上げる動作 |
(9)爪先立ち、 |
(10)スクワットしてから・・・ |
(11)腰の回転を行い |
(12)ベットまたは長いすに横になり足首の回転と上下 |
(13)腿を抱え込んで胸に近づけることと、膝を上下に大きく動かしながら、 |
膝から下を大きく上に伸ばして、そのまま下ろす運動 |
(14)逆腹式呼吸をしながら両足を上げる腹筋運動を、その日の体調に合わせて |
回数(3〜8回)を決めてやっています。 |
4.最近の状況 |
このような努力もあってか、最近は凄く元気そうに見られて、よく年を聞かれると |
「当年(10歳)とって、75歳ですと言うことにしています」。本当の年を知ると「お |
元気ですね、なにか運動でもしていらっしゃるのですか」と聞かれるので、「ええ私、 |
いま年間300万円になる仕事をしているのです」と答えると、「ヘェ〜そんな良い仕事 |
があるのですか」といわれるので「だって、IWC(在住外国人と地域住民との共生 |
支援活動)の仕事で、女房が忙しくて・・・女中さん頼んだら、年間300万円は払わな |
くてはならないでしょう。私は女中さん代わりを務めているんですからね」と言うと、 |
「その話は私の女房の前では言わないで・・・」という笑い話になります。 |
高齢者の使わなくなった機能は、どんどん退化していく時に、仕事としての家事は、 |
体の機能の退化を遅らせる最も手軽で有用な良薬になる |
料理をする私 |
ことを、この2年ほどの自宅療養で発見しました。掃除・ |
洗濯などで適当に体の各部を動かし、料理で頭と手を使 |
う。しかも、長時間同じ姿勢でいることのない生活は、 |
長寿の秘訣ではないかと思います。したがってTVを見 |
るときも、コマーシャルの間に家事の一部をしたり、C |
PUの前で作業をする時も時間を切って洗濯物を干した |
り、取り込んだりする作業をしています。 |
1日おきにする風呂掃除や、植木の水やりなどは手ごろのよい運動です。我が家は |
4階建てのビルで、1階に小さなホールと日本語教室・IWC事務局があります。2 |
階以上を住居にしていますので、2階の居間・台所・書斎や3階の寝室・風呂場を往 |
復することを含めて、毎日、家の中だけで4千歩近くを歩いています。また、入浴時 |
には湯船の中での正座を含め、体中の関節部分のストレッチ運動も必ずやっています。 |
とにかく、自分の体を自分で管理することが高齢者の健康を保つ手段だと思います。 |
5.突発性上室性頻脈症の発見と治療 |
確か80歳の大台に乗ったばかりの頃でした。特別に変わったことをしたわけでもな |
いのに、突然、胸苦しくなり脈拍が通常の2倍以上速くなり、最高血圧が100以下にな |
る症状が時々起こりました。それでも20〜30分くらい横になって安静にしていると、 |
全くそんなことがなかったように、ケロリと直ってしまうことが何回も起こりました。 |
いつもお世話になっている(いしい医院)の院長先生 |
自動記録血圧計 |
に、発作時に貼る薬処方してもらい、少しは発作時間の |
短縮ができましたが、発作の頻度は変わらずでしたので、 |
院長先生に昭和大学病院循環器内科を紹介していただき、 |
そこで、心臓の付加試験・ホルター心電計を24時間付け |
て検査していただきましたが、「全く異常は見つからな |
い」と診断されました。 |
ところが2009年7月2日(月曜日)19時ごろ、IWC |
| | | |
で打ち合わせを終わって2階の食堂に上がってきたとき、 |
自動記録血圧計記録紙 |
例の発作が始まり、居間の長椅子に横になって胸に貼り |
薬を貼って休みましたが、何時もは、30分から1時間で |
正常に復帰するのに、この日は2時間経っても治らず心 |
配で家内に病院に電話を掛けさせて処置方法を聞かせま |
した。病院からの指示は「救急車ですぐに来院せよ」と |
言われ家内は慌てて救急車を呼びました。救急車の中で、 |
いろいろ症状を聞かれましたが、その説明は全て私が行 |
い、家内は娘たちへの連絡で大わらわでした。 |
一度診察している患者であるためか、すぐに救急病棟に運ばれ診察を受けて点滴を |
してもらいました。1時間半ほどして症状がなくなりました。この夜は心配して駆け |
つけた娘婿の車で帰宅しました。 |
後日、診察結果を聞きに行くとこの病気は体質によるもので「突発性上室性頻脈症」 |
と言うのが病名で投薬では治らない病気で、これを直すには手術をする必要があると |
言われました。ただその手術は、肩と鼠頸部の動脈からカテーテルを挿入して、心臓 |
の一部で、時々発作を起こす原因の場所を高周波照射する単純な手術だと説明され、 |
入院してその手術を受けることにしました。 |
手術は本当に簡単で3日間の入院で無事終わりそれ以降は全く発作は起こっていま |
せん。この病気は意外と多く昭和大学病院はこの手術に手慣れていて、病院の近くの |
この患者は全て処置済みと担当の医師は笑いながら言っていました。 |
6.病気に罹ったら心掛けること |
前に述べた「リュウマチ性多発筋痛症」で入院している時に、トイレの回数が多く、 |
以前の健康診断で、前立腺肥大の可能性を指摘されていたのを思い出して、泌尿器科 |
に連絡してもらい、麻生医師の診察を受けると、癌の疑いがあり細胞診断を勧められ、 |
どうせ入院中なのでこの手術も受けて12ヶ所の採取した細胞の半分に癌細胞の所在が |
あることを確かめました。そして全身のCTとMRI検査で前立腺以外への転移の有 |
無を確かめて、年令などを考慮し最適なホルモン療法を選択していただき極めて有効 |
に効果を上げているようです。これは3ヶ月ごとの診察時に行う血液検査のPSA値 |
のデータでも確認しています。また、外で友人・知人に会ってもよほど近づかないと |
判別しにくくなっていた目の問題も、昭和大学病院眼科の手術の名手と定評のある岩 |
淵先生の手で白内障の手術を受けて、世の中の色彩がこんなに綺麗だったのかと驚き |
ました。丁度古いTVを新しいTVに変えた時のように、まさに世の中が変わったよ |
うに感じられました。 |
とにかく、最近の医療は進歩が著しいので、年令を気にすることなく、どんどん悪 |
いと思われる箇所は修復して、元気に長寿を楽しみましょう。 |
リュウマチ性多発筋痛症のステロイド製薬も最近は1日1ミリグラムの服用で済む |
ようになりました。通常の患者さんではなかなか1日1ミリグラム以下に持っていく |
のは大変でこれは極めて珍しい状態だそうで頑張っています。 |
以上 |
2012年10月30日 記 |