話 題 『 よもやま話 』 2013年4月〜2013年6月
 
          話  題  一  覧
2013. 6.23 鉢の木物語                 投稿;須貝義弘
2013. 6.14 続「犬伏の別れ」              投稿;須貝義弘
2013. 6. 9 もう少し隣国中国を知るために        投稿;清水有道
2013. 6. 2 東京計器時代の想い出            投稿:伊藤 誠一
2013. 5.26 中国はこれからどうなる?          投稿;清水有道
2013. 5. 5 桜散っても、花盛り!2013年版        投稿;小田 茂
2013. 4.21 大山街道を歩く(5)            投稿;砂田定夫
2013. 4.14 自 分 の 墓               投稿;清水有道
2013. 4. 7 元気なままで歳を重ねていく         投稿;清水有道
 

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          話  題  『 よもやま話 』
2013. 6.23 須貝 鉢の木物語
 
鉢の木物語 佐野市 須貝 義弘
 
 「鉢の木物語」を辿って
 主人公佐野源左衛門常世(つねよ)の生死の時期については現在も研究中であるが、
年号にはこだわらず「鉢ノ木物語」をご存知の多くの皆様が疑問に思われている『物
語の現場である下野の山本の里=現在の佐野市葛生の鉢木町に吹雪のような雪が降る
のか?』『鉢植えの木は燃えるのか?』の2点を中心に、物語を辿ってみた。
 「鉢ノ木物語」から
 (まずはこの物語の前段、主人公佐野源左衛門常世の生まれから結婚までを)
 鎌倉幕府の御蔵番であった佐野常春[禄高三千貫文](常世の父)は、ある夏の日、
お役目で蔵の中からいろいろ道具を出して「風入れ」を行っていた。「風入れ」とは
現在で云うと虫干しのことで、道具を出して点検していると、将軍頼朝公の名刀「笹
波(さざなみ)」がないことに気付き、どう探しても見つからない!「これは一大事だ
と」しばし考え込んでいたが名案が浮かばない。常春は親しい友人の三浦泰村(やす
むら)の所へ駆け込み、「風入れをしていたが、殿の御刀(笹波)が見当たらない、
かくなるうえは切腹してお詫びするしかあるまい。すまぬが介錯を頼む」と申し入れ
た。
 話を聞いた泰村は「まさに一大事だが、切腹などするには及ばぬ。あとから出てく
ると云うこともある。しかし(笹波)を紛失したとあればただでは済むまい。また、
この鎌倉にはおられまい。しばらく身を隠せ。下野に(山本の里)と云う所がある。
そこの願成寺という寺の和尚は私の古い友人だから、頼って行くとよい」と諭した。
泰村の言葉に、常春は妻を伴ない山本の里へ向かった。
願成寺の和尚は、泰村の云った通り、常春夫婦を心良く迎え、近くの正雲寺へ落ち着
くよう計らった。
 常春は、鎌倉時代の生活とは一変し、田畑を耕し、連れてきた馬を使って薪や炭な
どを運ぶ馬方までして、貧しい生活ながら、それなりの平穏な暮らしを守った。やが
て男の子が生まれ、願成寺の和尚が名付け親となって「虚空蔵(こくうぞう)丸(まる)」
と名付けた。虚空蔵丸は、和尚から「文武両道」を厳しく鍛えられ、成長するが、5
歳の折、母親をはやり病で亡なくした。 妻を亡くし困った父常春は和尚の世話で檀
家の娘マキと再婚。
 マキは当初は虚空蔵丸に優しく接していたが、虚空蔵丸12歳のとき妹「玉笹」が生
まれると、義母マキの態度が一変し、ことごとに虚空蔵丸につらく当るようになった。
しかし、和尚に厳しく教えを受けた虚空蔵丸は義母を恨むことなく、孝行しながら時
期を過ごした。 「謡本」宝生流・金春流・喜多流・観世流
「謡本」宝生流・金春流・喜多流・観世流
 やがて16歳になり、虚空丸は元服し名を「佐野源左衛
門常世」と改め武士になるため下男の勇助を伴に、一路
鎌倉に向かった。途中、田沼、足利、太田、川越を通り
武蔵野の六郷川の宿に泊まった。夜中にひとりの賊に襲
われたが、そこは鍛えた常世、難なくかわし、賊をとら
えてみると、何と伴の勇助!「泣いてばかりいては分か
らん。訳を申せ」常世がやさしく尋ねると、勇助は泣き
 
顔を拭いもせず、「実は奥様に頼まれた。奥様は佐野家 観世流謡本習物一番綴
観世流謡本習物一番綴 抜粋
を玉笹に継がせたい。それには常世が邪魔だから、お前
がお伴をして、すきを見て常世を殺せと云われた。一度
は断りもしたが、大事を打ち明けたからにはお前も殺す
と云われ、仕方なくお伴をして参りました」と云った。
 事情が分かった常世は、自分の髪の毛を切り、義母か
らもらった襦袢(じゅばん)とお守りを勇助に持たせ、
「これを持って故郷(くに)ヘ帰りなさい。母上には(常
世は辻斬りに会い死にました)と伝えろ。そうすれば母上もお前をゆるしてくれるだ
ろう。」と勇助を帰した。
(注1) 願成寺にある墓には建長六年五月七日没とあるが建長年間に常世が死んだと
は早すぎる。これは勇助が常世の髪の毛・襦袢・お守りを持って正雲寺に帰り「常世
を殺した」と報告したので、その時に墓を作ったと考えられる。
 この事があってから常世は武士になる気力も失せ、頭を丸めて仏門に入り、諸国行
脚の旅に出た。
(注2) 弘長記に諸国行脚は文応から弘長に至る3年とある。
 旅を続けるうちに、甲州から信州に向かう国境の小仏峠で、賊に襲われている一人
の娘を助けたが、この娘は父の友人三浦泰村の娘白妙(しろたえ)であった。娘の話に
よれば「父泰村は、幕府の武士たちから攻め滅ぼされた。自分は父の言いつけで、難
を逃れて下野の国の常世の下に行く途中であり、幕府の追手に捕まらぬよう遠回りを
して行く途中であった」とのこと。常世は白妙と夫婦となり、泰村達の供養をしなが
ら旅を続けた。
 ある寺で休んでいると、一人の旅僧が通りかかり、話してみるとそれが勇助であっ
た。勇助の話によれば「その後、故郷に帰り奥様(マキ)に常世の云ったとおり報告
すると、大変喜んだ。妹の玉笹は17歳になった時村内の源太と云う男を婿に迎え、男
の子も生まれたが、一家の幸せは永くは続かず、玉笹が疱瘡(ほうそう)にかかり、一
命はとりとめたが、治った顔が見るも恐ろしい顔つきになり、そのうちに源太が業病
にかかり、お医者様でも薬でも治らないというありさま。とうとう源太はわが子を自
分の手で殺してしまい行方不明、玉笹は長い髪を切り尼になり、わが子の霊を慰める
ためのお経三昧。母のマキは、たて続く不幸に、嘆き悲しんで病に倒れ、寝たきり」
とのこと。また、和尚も病気で急に亡くなり、父常春も和尚の後を追うように亡くな
ったと、勇助は涙ながらに語り終えた。
 これを聞いた常世・白妙夫婦は夜を日に継いで正雲寺に駆けつけ、寝たきりになっ
た義母マキを昼夜を分かたず看病に努めた。義母マキは一度は殺そうとした常世が、
夫婦で手厚い看病をしてくれることに感謝しながら、心安らかに亡くなった。
 その後常世は髪を伸ばし、還俗(注3)して正雲寺に住み、父常春と同じように農
業や馬方をして貧しいながらも平穏な暮らしが続いていた。
(注3)還俗(げんぞく)とは出家が、俗人にもどることで、師である和尚との子弟関
係を解く事。
 「鉢の木」の後段の「吹雪の一夜」
 さて、これからがよく知られた「鉢の木物語」である。
 厳しい寒さに明けた冬の朝、降り出した雪は間もなく激しい吹雪となり、(注4)
一日中降り続き、人っ子一人通らない大雪の夕暮れ近くに「一夜の宿を」と常世の家
の軒下に立った旅僧があり、常世は「御覧の通りのあばら家です。何のおもてなしも
できません。」と一度断ったが、「さようか、是非もない。」と冷たくなった手に息
をかけながら吹雪の中へ去ろうとする旅僧の後ろ姿に常世は声をかけ「これは私の心
得違いでした。申し訳もございません。こんな吹雪の中をお返ししたのでは旅僧(あ
なた)様がどんな目に遭われるか分かりません。荒家(あばらや)ですがどうぞお入
りください。」と旅僧を迎え入れ、囲炉裏の傍へと導き、炭火の上にいつもより多く
の薪(たきぎ)をくべたので、氷のようになった旅僧の手もやっともとのようになり、
ほっとしたところへ、妻の白妙が「こんなものしかありませんがどうぞ」と粟の粥を
差し出した。
(注4)物語の「山本の里」今の佐野市葛生地区の鉢木町に吹雪のような雪が降るか?
の検証。「結論は充分ある」私は願成寺に取材のため3月10日寺に向かった。佐野市
街は前日パラパラと雪が降ったが、当日は雪は残っていなかった。願成寺近くに降り
てみたが、付近の山々は残雪があり、寒さは佐野市街より厳しかった。取材を終えて
和尚の勧めで、車で時頼が向かったと云う出流への道を走ってみたところ、たちまち
10センチを超える雪道にあい、車の通った跡を頼りにさらに走ると、急に車の通った
跡は無くなり、両側の樹木は山道に覆いかぶさるように繁り、光を遮っていた。山道
に降り立つと一層の寒さと夕方かと思わせる暗さを感じた。車がUターン出来る所を
やっと見つけ、時頼も訪ねた満願寺まで戻ったが、ここも車から降りるとガタガタ震
える寒さ。入ったソバ屋で聞くと「今日の寒さは普通、少し暖かい方かも」との事。
佐野市街地と同じとは考えないこと。
宝生流謡本
宝生流謡本 抜粋
 ようやく生き返った心地なった旅僧が、あたりを見回
すと、ひどいあばら家だが、長押(なげし)に槍が掛けて
あり、床の間には古びたものだが、鎧・兜がきちんと置
かれている。これはダダの百姓ではあるまい。夫婦の言
葉使い、立ち居振る舞いにも、並々ならぬものがある
と感じ、「差し支えなくば、お名前と訳をお聞かせ願い
たい。」と尋ねるが常世は「申し上げるほどの者ではご
ざいません」と答えようとはしない。
 
願成寺24世
願成寺24世 宏道和尚と筆者の対談風景
そこへ妻白妙が「薪が無くなりましたが」と困った顔つ
き。普段なら夫婦で充分に間に合うだけの薪があったが、
今夜は旅僧のために倍以上の薪を燃して「お持て成し」
をしたのだ。「そうか。」と常世は答えて土間に行き取
り込んでおいた鉢植えの木を運んで来て、惜しげもなく
折って火にくべ始めた。見れば、梅、松、桜、のいずれ
も立派な盆栽。
これを見た旅僧はびっくりして止めたが、常世は「いや
お恥ずかしい次第です。貧しくて何のお持て成しも出来ませんが、せめてこれだけで
も暖まって、お休みいただこうと存じます。」と云う。
 旅僧はますます感心し、重ねて「是非お名前を」と問う。常世も隠しきれず、父常
春のことから今日までの全てを語り「私も鎌倉武士の子です。鎌倉幕府に万一、大事
が起きた時は真っ先に駆け付け、命がけで奉仕する覚悟です」と答えた。
 次の日は雪もすっかり上がり、日が雪に輝く朝、旅僧は常世夫婦に厚く礼を述べ出
流(いずる)を指して旅立った。
 その年の十月、鎌倉に一大事が起き諸国の大名や武士が続々と鎌倉に駆け付けると
云う噂が伝わって来た。常世は時こそ至れりと、鎧兜に身を固め、槍を小脇に、やせ
馬に鞭打って、鎌倉に馳せ参じた。
 時頼公は、並みいる諸国の大名や武士の面前で常世を 願成寺の「鉢の木」の解説と筆者
願成寺の「鉢の木」の解説と筆者
呼び出し、「わしは、いつぞや大雪の晩、一夜の宿をそ
ちの家で過ごした旅僧である。この度の兵集めは其方
(そち)の忠誠心を試めさんがためであった。あの時の
言葉通りよくぞ駆け付けた。天晴(あっぱ)れである。」
とお褒めの言葉があり、下野の36ヶ郷のほか、大事な梅・
松・桜の木を炊いて持て成しをしてくれた礼にと、加賀
の梅田の庄、上州松井田の庄、越中桜井の庄を与えた。
 
 父常春の「笹波」紛失事件も、調べた結果当時手入れ 願成寺にある常世のお墓参り
願成寺にある常世のお墓参り
(研ぎ)に出していたことが分かり、常春の罪も晴れた。
そして常世は六万三千石の大名にとりたてられ、小田原
城を賜ったのである。
 昨日に替わる今日の出世、常世は亡き父の罪も晴れ、
家名を上げ、亡き師願成寺の和尚にも恩返しができた
と、涙して喜んだ。
 過ぐる年のある日、常世は鎌倉に住む三浦氏の遺族を
訪れる途中、馬入川(現在の相模川)にさしかかった時、常世は舟を出させたが、梅
雨時で川は濁流で渦巻いており、舟は濁流にのまれ、全員が死んだと云う記録が残っ
ている。また、常世の死体も見つからなかったともある。
 常世の菩提寺願成寺には「仏手院(ぶつしゅいん)殿(でん)一(いち)山道(ざんどう)
覚(かく)居士」の立派な位牌が本堂の正面に安置され、今に至るまで供養が続けられ
ている。
 (注5) 鉢の木(鉢植えの木)が燃えるか?の検証
 答えは「良く燃える」と願成寺24世宏道和尚が解いてくれた。物語にあるように、
訪れた旅僧に「お持て成し」として倍の薪をくべた。炭火を使っているので、樹液を
含んでいる生の木は、枯れ木より強く、永く燃えると、実験済みの宏道和尚は誇らし
げに語る。なるほど生の木が燃えないなら山林の火事はすぐ消える筈
 では、「鉢の木物語」の主人公佐野源左衛門常世(つねよ)は、
                   いつ生まれたのか?の検証
 実は現在も、詳しいことは分かっていない。また死んだのも、現在の佐野市鉢木町
にある願成寺と云う寺に立派なお墓があるが、墓には「建長六年(1254年)五月七日
」とあるが、前後の事情から少しおかしい。 そこで現地「鉢木町」に取材に行き、
物語に出てくるもう一人の主役「北條時頼」との関係から常世の生まれたのは何時な
のか辿ってみることにした。
 北條時頼(鎌倉時代中期の幕府第五代執権)が生まれたのが、1227年(安貞元年)
死去したのが1263年(弘長三年)わずか37歳である。1246年(寛元四年)から1256年
(康(こう)元(げん)元年)まで第五代執権に就いている。
 第五代執権(注6)に就いた時頼は、質素倹約を唱え、善政を敷いた。また開幕以
来の雄族三浦義村の一子「康村(彼も物語に登場する)」を滅ぼし、北條氏の専制体
制を揺るぎないものにしたと云われる。執権政治の最盛期だと見る歴史研究家もいる
が、一方変装して各地を巡ったと云う伝説があり、多くの逸話が残っているので、下
野の山本の里(今の佐野の鉢木町)へ行った時は、執権を持っている時に変装して行
ったのか、執権を譲り出家して諸国行脚の途中に寄ったのか、不明(注7)だが、こ
こでは後者をとることにした
(注6)「執権」とは
 鎌倉幕府の創設者、源頼朝に始まる源氏の将軍は三代で断絶。以降は公家、皇族が
将軍職に就いたが、幕府の実権を握ったのは将軍を補佐して政務を統治したのが執権
である。
(注7)別の資料によれば、北條時頼は1256年(康元元年)出家し、執権を重時の子
長時に譲っている。旅に出たのはこの後のことと考えられる。
 すると願成寺に寄ったのが執権後の1257年(康元二年)から1260年(文応元年)に
あたり、常世の墓にある1254年(建長六年)没は執権後の時頼との出会いは無理であ
る。
 1254年の意味は、常世が元服して鎌倉に向かう途中下男の勇助に常世の髪の毛を渡
し「常世を殺して来た」と報告させたので、その時に墓が建てられたと考えられる。
この説は、現在の願成寺二十四世宏道和尚も有力と考えておられる。常世の生まれた
のは逆算すると、1237〜1238年頃(喜禎三〜四年)となるがまだ研究の途上で、私も
調査を楽しんでいる。
 最後に、能楽の「鉢の木」にも少しふれておきたい。
 舞台となった佐野は、金春流では栃木県の佐野としているが、他の4流(観世、宝
生、金剛、喜多)は群馬県の佐野としている。
 佐野源左衛門常世については、5流とも架空の人物とし、能では「貧しいながらも、
鎌倉の大事に備えた天晴れなる武士道」を称えているのに対し、願成寺24世宏道和尚
は、お墓があることと、唐沢山神社保持の系図に名前があることを根拠に、源左衛門
は実在したと主張している。また、伝えたいのは、貴重な「鉢の木」を囲炉裏にくべ
ての「持て成しの心」だと強調している。
 私自身は、いろいろなことに思いをよせず、和尚同様「持て成しの心」を伝えてい
きたい。
 参考文献
 ◎「佐野源左衛門常世とお持て成しの心について」・・・臨済宗建長寺派梅秀山
  願成寺 長尾宏道住職。
 ◎「鉢の木」・・・願成寺由緒 長尾宏道住職
 ◎「女」・遠藤周作 講談社1995年5月発行
 ◎謡本習物一番綴
  観世流 著作 丸岡 明 能楽書林発行
  喜多流 著作 喜多節世 喜多流刊行会
  金春流 著作 金春信高 金春刊行会
  宝生流 著作 宝生九郎 わんや書店
 
2013. 6.14 須貝 続「犬伏の別れ」
 
   続「犬伏の別れ」              佐野市 須貝 義弘
 
 −家康と秀勝−   
 以前の話(第5稿)では東西に別れた真田父子が戦うことになり東軍が勝利したの
で、東軍についた信之が、父昌幸、弟幸村の命を、自分の手柄と引き換えに助命嘆願
し、家康は、これを受け入れ、昌幸・幸村の紀州高野山麓九度山(くどやま)への蟄居
(ちっきょ)を命じたとしたが、事実はそう簡単にはいかなかったようである。
話をもう一度、犬伏の密議まで戻すと。
真田昌幸
真田昌幸
 当時、昌幸らは、家康に対し、敵対的会津(福島県西
部)の上杉景勝討伐に参陣するために、小山(現在の小
山市)に向かう途中であった。
 兄弟が「別れ別れ」になったのは、それぞれの岳父
(信之・本田忠勝、幸村・大谷吉継)の関係もさること
ながら、幸村には(NHKの大河ドラマにもあった)父
昌幸が、かって上州沼田の領有をめぐり家康と対立した
ことがあり、父昌幸は、所領死守のため上杉景勝を頼り、
真田家からは19才の幸村が人質として差し出されている。 真田父子犬伏の密談
真田父子犬伏の密談
 上杉家家老直江兼続(なおえかげつぐ)は「当家では何
よりも義を重んじる。同盟を結んだ以上、あくまでも相
手を信じる。幸村を人質ではなく、上杉の客将として、
一千貫の知行(ちぎょう)を与える」と云っている。
 幸村にとり大恩ある上杉を攻める家康にはもともと強
い抵抗があったと推察される。
 密議の後、昌幸・幸村は上田城へ戻る途中、信之の沼
田城に寄り、孫の顔を見て行こうとしたが、信之の妻小松殿は「敵と決まった父子を
城のなかにいれることはできない」と断り「さすが忠勝の娘」と昌幸を感心させたが、
そこは小松殿、近くの寺に案内し、子供達と対面させている。
 上田城にもどった真田父子が、戦いに備えた軍勢はわずか2,500。一方家康は群を二
手に分け、自身は東海道を西進。息子秀忠は主力軍38,000を率いて、中山道(なかせん
んどう)を進み途中、真田父子の上田は行進して行けば踏み倒せるぐらいに思ってい
たが散々な目に会い、関ヶ原に着いた時は、なんと合戦は終っていたのである。
 もう一つ家康と忠勝の間に、隠された対決があったのである。
 それは、信之の岳父(信之の妻小松は忠勝の娘)である本田忠勝の決死の一言が家
康の堅い決意を変えさせた秘話である。
 話を戦いが終わった時点まで戻すと
戦いが勝利に終り、家康が戦後処理にあたり、西軍についた真田昌幸・幸村父子に対
し、「あの者どもを生かしておいては何をするかわからん。死罪にすべし」と厳罰を
もって臨んだのである。家康が怒るのも無理からずで、真田父子は名うての戦上手、
信州上田城にたて籠もり、中仙道を進んで来た秀忠軍を足止めし、決戦の場に遅参さ
せたのが、この真田父子だったのである。
 そこへ信之を伴ない、真田父子の助命嘆願にあらわれたのが本田忠勝であった。
 信之は、父と弟の命だけは助けてくれるよう懇願したが、家康の心は変わらない。
懸命に何度も何度も訴え続けましたが、家康は「ならぬ!」の一点張りである。
 取り付く島もないとはこの事、もはやこれまでかと信之が諦めかけた時、傍に居た
舅(しゅうと)の忠勝が、家康を睨みつけ、「ならば、殿と一戦つかまつるーツ!」と
大きな声で云い放ったのである。
 忠勝はこう言いたかったのであろう。「この戦国の世、武将達は戦のあるたび、ど
ちらに付くか決めなければならない。時には親子兄弟と云えども分かれて戦わなけれ
ばならぬ時もある。勝者となった者が、敗者となった肉親のことを思うのは、あたり
まえのことだ。そう云う肉親の情が理解できないなら、たとえ相手が殿であろうとか
まわぬ。命を捨てて戦い、そのような殿をお諫め致そう!」と。これには家康も感じ
入ったのであろう。罪一等を減じ、蟄居(ちっきょ)となったのである。
忠勝のこうした発言は、場合によっては主君の不興をかい、自分に災いが及ぶ可能性
もあっただろう。忠勝はそれを承知の上で義侠心を示した。忠義を貫く時は全うし、
意見を云うべき時は命を賭して云う。だから相手の心に伝わるといえよう。見事な武
士(もののふ)の生きざまである。
 さんざん苦しめられた父子だから、家康も簡単には許せぬのはあたりまえであろう。
 しかし忠勝の生命を賭しての言葉に、願いを聞き入れた家康も見事!の一言に尽き
る。家康・忠勝の主従の絆の深さを伺わせる物語である。 
真田紐
真田紐
 罪一等を減じ、蟄居となった父子は、流人(るにん)と
して送った紀州高野山麓の九度(くど)山での生活は困窮。
父昌幸は配流(はいる)から11年が過ぎた1611年(慶長十
六年)無念のうちに世を去っている。
 しかし幸村は、1614年(慶長十九年)九度山の配流地
から脱出し、大阪冬の陣に参加、徳川方を散々な目に会
わせている。家康は「わが味方につけば、信濃に三万石
を与える」と利をもって切り崩そうとした。幸村が断る
と、家康はさらに信濃一国を条件に誘っているが、それに対し幸村は、「一旦の約の
重きことを存じて較(くら)ぶれば、信濃一国は申すに及ばず、日本国を半分賜るとも
飄(ひるがえ)し難し」と答えている。
 真田家には「人は利に弱い。利に誘われれば忠義の心も、死の危険も忘れる」と云
う言葉があるが幸村が、この時目先の利を超えて、上杉家から学んだ「義の思想に基
づく不動の信念をもっていたと考えられる。
 家康の誘いを断り、あえて夏の陣の決戦で壮烈な死を遂げたのは、大きな価値観が
幸村の心にあったと思われる。
 おわり
参考文献
「名将の決断」朝日新聞平成22年発行
「古語辞典」小学館昭和38年発行
「日本史総覧」2002年度東京法令出版
「女」遠藤周作著1995年5月発行
 
2013. 6. 9 清水 もう少し隣国中国を知るために
 
もう少し隣国中国を知るために 横浜市 清水 有道
 
 もう少し隣国中国を知るために
 昨今筆者の仕事が中国づいている序に、外国人に中国を紹介するために出版されて
いる本を何冊か紹介してみよう。
 最初に中国のあらゆる事を紹介する『中国紅系列(Chinese Red Series)』という
シリーズ100冊を挙げておこう。いわゆる中・英のバイリンガル版(中国では『中英双
語版』と呼んでいる)である。価格は1冊59元(日本円で約900円弱)。
100冊シリーズの中から特に興味をそそるものを11冊選んでみると、
*長城(The Great Wall)
*中国名湖(Famous Lakes in China)
*中国名山(Renowned Chinese Mountains)
*中国名泉(Famous Springs in China)
*中国名寺(Famous Temples in China)
*中国石窟(Grottoes in China)
*歴史名城(Historical Cities)
*四大名著(Four Masterpieces of Chinese Fiction)
*唐詩(The Poems of the Tang Dynasty)
*漢字(Chinese Characters)
*中国酒(Chinese Wine)
などであろうか。
 参考までに手持ちのシリーズの中から、最後に挙げた 「中国酒(Chinese
「中国酒(Chinese Wine)」
「中国酒(Chinese Wine)」を例に取り、その内容、筋
立てを見てみよう。大きく次の3章に分けて書かれてい
る。
 1.中国の酒の歴史
 2.中国の酒の種類
 3.中国の酒にまつわる文化
 
 中国の酒の種類について少し書いておこう。中国の酒には大きく分けて次の四種類
がある。(1)白酒(Liquor)(2)黄酒(Rice Wine)(3)薬酒(Medicinal Wine)
(4)中国少数民族の作る特色酒(Special Types of Wine made by Chinese Ethnic
Minorities)である。
(1)白酒(Liquor)
 アルコールの含有量は30〜60%と千差万別である。原材料がモロコシのものは高粱
酒(Sorghum Liquor)、馬鈴薯のものは地瓜酒(Potato Liquor)という名前がある
ほか、産地によってマオタイ(如茅台)酒(Maotai)や蘭陵大曲(Lanling)の名が付
けられている。別に寝かした貯蔵年数により、特曲(Tequ),陳曲(Chenqu)および
頭曲(Touqu)の区分で呼ばれる。別に、次のような区分もある。
 *清香型白酒(Light-aroma Liquor)
  汾酒(Fen Wine)が代表的。
 *濃香型白酒(Strong-aroma Liquor)
  瀘州老特曲(Luzhou Laojiao Tequ)など。
 *“風香型”白酒(“Fenxiang” Aroma Liquor)
  西風酒(Xifeng Wine)など。
(2)黄酒(Rice Wine)
 アルコール含有量は12〜18%。この区分には三種類がある。
 *江南黄酒
  =紹興加飯酒(Shaoxing Cooking Wine)
  =花雕酒(Carved Wine)
  =女児紅(Daughter's Wine)
 *山東黄酒
  =即墨老酒(Jimo Old Wine)
  =青酒(Qing Wine)
  =蘭陵美酒(Lanling Wine)
 *福建黄酒
  =福建老酒(Fujian Old Wine)
  =和沈缸酒(Sunken Jar Wine)
(3)薬酒(Medicinal Wine)
(4)中国少数民族の作る特色酒(Special Types of Wine made by
                         Chinese Ethnic Minorities)
 中国少数民族の作る特色のある酒で
 *蒙古族の馬乳酒(Horse Milk Koumiss)
 *蔵(チベット)族の青?(?は、禾偏に果旁)酒(Tibetan Barley Wine)
 *柯楽克孜(キルギス)族の黄酒(Kirgiz people's“Baozao”Wine)
 *門巴族の“曼加”酒(Monba Manjia Wine)
 *水族の肝胆酒(Shui people's Jinquian Wine)
 ほか多数がある。
 特に最後の文化の章では酒と中国を構成する各民族のしきたり、名作の多い唐や宋
時代の酒を詠んだ有名な詩や文学、酒を詠んだ詩や名文を題材にした書画、各時代の
酒宴に使われた名器など、興味深い内容がいっぱいである。
中でも中国を代表する名著
 『三国志(英文名は“Romance of the Three Kingdoms”) 』、
 『水滸伝(“The Water Margin”)』、
 『西遊記(”Journey to the West”)』
 『紅楼夢(“A Dream of Red Mansions”)』
では物語が誕生するのに酒が欠かすことのできない役割を演じている点を強調してい
る。
 次に中国文学を紹介する書が毎年何冊か出版されている。筆者が手元に持っている
ものは“中国文学”編集会編の『中国文学 2012年第一輯(ChineseLiterature,
English-Chinese Bilingual Edition)』で、298頁、35元(日本円で600円弱)である。
中国文学
中国文学
中国園林(Chinese
中国園林(Chinese Gardens)
『中国古典の名言至言ベスト100』
『中国古典の名言至言ベスト100』
 筆者は2012年のノーベル文学賞をもらった作家、莫言の農民を扱った『豊乳肥臀』、
『蛙鳴(アメイ)』、『赤い高粱』、『白檀の刑』、『転生夢現』他の作品を読みた
いと思い求めたが、まだその号には納められていなかった。莫言は中国国内では反体
制派の作家として位置づけられているからであろうか。その後の第二輯以降に納めら
れているかどうか、それを確かめるのも次回の訪中の際のお楽しみである。
 数年前に週末を過ごした蘇州(Suzhou)の幾つかの世界遺産に登録されている留園、
獅子林、西園、寒山寺等を訪ねた際に入手した『中国園林(Chinese Gardens)』と
いう大判の中英併記の写真集も座右の書にして眺めるには手ごろなものだと思った。
 最後に、これは中国で発行されたものではないが、現在ではほとんど日本の諺のよ
うに思われている中国古典の名言、名句や至言の中から人口に膾炙しているもの100を
集めて竹内良雄氏が今年の3月に出版された『中国古典の名言至言ベスト100』(集英
社刊1575円)を挙げておきたい。著者の竹内氏は長年慶應義塾大学で中国文学を講じ
ておられた名誉教授である。中国人の血肉になっている教えを理解し、併せて中国人
との日常の会話の話題として使えるだろう。特に、この本には英訳が付いているので、
筆者は諺や比喩の好きな欧米人との話にも使えると思って求めたのだった。
 一つだけ『口は禍のもと』の出典になっている馮道(フウドウ)の『舌詩』を紹介
してみよう。
 舌  詩    馮 道
 口是禍之門   口は是れ禍の門
 舌是斬身刀   舌は是れ身を斬る刀
 閉口深蔵舌   口を閉ざし深く舌を蔵すれば
 安身処処牢   身を安んじて処処に牢なり
 作者の馮道は唐滅亡後、五代十国と呼ばれる時代に、五王朝、十一人の皇帝に仕え
た。乱世に宰相職を20年間も務めたという傑物である。この自作の詩の真髄を実践し
た成果なのであろうか。浅学の筆者は不用意に確信の持てないことを口走ったばかり
に大変な禍を招いてしまった経験は幾つもあり、改めてこの詩を肝に銘じた次第であ
る。
 因みに、この詩の英訳では、
 “The mouth is the door to disaster; the tongue is the knife that can kill
you”. としてあった。分かりやすい訳だと思った。
                                   了
                      (2013年5月6日  記)
 
2013. 6. 2 伊藤 東京計器時代の想い出 
 
 東京計器時代の想い出 品川区 伊藤 誠一
 
1.プロローグ
 NHKのテレビドラマ「梅ちゃん先生」を楽しんで見ていたら、昭和26年10月から
昭和58年8月(1951〜1983年)まで勤めていた東京計器の想い出が蘇ってきました。
 すでに半世紀も前の事ですが、今年85歳になった私の定年後の人生の基礎を培った
道場でした。今でも東京計器が、ここに勤める人々の良き人生道場であって欲しいし、
その道場で後輩の皆様が、本当の自分自身の定年後の人生の基礎を築きあげて頂きた
いという思いでこの文を書いています。
2.東京計器に入社前のこと
 昨年8月に当ホームページに投稿しました「戦中・戦後の想い出」に続きますが、
昭和23年4月に早稲田大学専門部工科電気通信課(新制大学法の第二工学部)を卒業し、
K主任教授の推薦で世田谷の中小企業に就職しました。入社面接の時云われた仕事の
内容と余りに異なる実務に、私と同じ思いの社員と一緒に組合を作る相談がばれて、
社業縮小を理由に1年半で首になりました。
 その後1年間は失業保険を貰いながら、材木屋の手伝いで戦後の復興建築中の多い
銀座へ大八車に積んだ材木の運搬をしたり、職安から紹介されてO電気へ設計のアル
バイトに行ったりしていました。するとこのことを聞いて、当時の工学部長H教授が
N無線から分離した「医理学研究所」を紹介してくださいました。レントゲンや電気
メスなどの製造会社で、ここの第2研究室に配属されて、やれやれやっと再就職出来
たと思ったら、この会社も1年半近くで経営難に陥り、所属していた研究室を閉鎖す
ることになりました。この研究室のO室長は彼の自宅でこの研究を続けるために、そ
れまでの研究資料の大部分を持ち出して、仲間の研究員を引き連れて退社してしまい
ました。 東京計器旧社屋(昭和27年頃)
東京計器旧社屋(昭和27年頃)
 私は紹介して下さった教授の手前このメンバーと合流
しないで、残った資料を集め自分の実験データすべてを
整理して一緒に会社の総務部に渡して半年後に、会社に
時々訪問されていたIさん(当時の東京計器の顧問弁護
士の実弟)の紹介で、東京計器の電子技術者募集の試験
を受けて、昭和26年10月に途中入社で無線研究室のO室
長のもとに配属されました。
3.東京計器入社後一番先に手がけた仕事
 当時の東京計器は、提携先のアメリカSPERRY社の電子航海計器の国産化を考えて、
電子技術者を集めており、当時日本では研究も製造も禁止させられていたレーダーで
も、日本海運の安全を守るために、日本の船舶にSPERRY製の航海用レーダーの搭載が
許されていて、その設置作業とサービスを日本の提携会社である東京計器が受け持つ
ことになっていました。
レーダー
レーダー
 今でも想い出すのは、入社2ヵ月目の12月25日に、横
浜港で三井船舶の「大瑞丸」という一万トンクラスの船
にレーダーを装備する仕事で、サービス部のS課長の手
伝いに駆り出されて、横浜港の沖で装備をしたことです。
輸入レーダーの到着が遅れ船の停泊期間中に作業が完了
せず、そのまま名古屋港まで荒れた太平洋を、ウエーブ
ガイドをレーダーマストに固定する作業などしながら航
海しました。
 同じ様にジャイロのサービス作業で乗船していた、サービス部のM先輩と一緒に名
古屋営業所に寄る途中、港から町までの電車の待ち時間を停留場そばのパチンコ屋で
初めてパチンコをして、なぜか私の所だけすごく玉が出たのをその儘にして電車が来
たので店から出てきたら、Mさんに「なんでその玉を持ってこなかったんだ」とえら
く叱られました。当時はどこのパチンコ屋の玉も共通だったので、その玉でどこの店
でも遊べる時代だったのです。
 名古屋港でも完成検査が出来ないので、結局神戸港まで行きやっと検査を受けて、
神戸営業所に着いたのが28日の夜。日帰りで出かけた仕事が3日間の宿泊出張になり、
帰りの汽車賃を貰って帰りました。家では随分心配していた様ですが、それでも両親
はやっと安定した企業に、長男坊が職を得た事を喜んでいました。
4.電子製造部勤務時代
 東京計器の電子航海計器の国産化の第一歩は、ロラン ロラン
ロラン
の国産化でした。当時の上司はA課長、T主任とY主任
でした。部長はHさんでした。
 最初の作り方は、ロランのシャーシー毎に製作班を決
めて手分けしてシャーシーに取り付ける電気部品を、そ
れぞれの担当班で作ってから取り付けるという生産シス
テムでした。このシャーシーにつける中間周波トランス
とか、高周波チョーク等という部品は、市販品は無いの
でSPERRY社の仕様書や現物を見て、手作りすることしか出来なかったのです。またハ
ーネスという、電線をあらかじめ各部品の取り付ける場所の長さに合わせて、長さと
色を選んで纏める作業などがありました。
 製品の需要が増えて仕事量が増えるに従って、グループ毎にそれぞれ自分のところ
につける部品をその都度作らなくてはならないので、一つのシャーシーを組み立てる
仕事の能率が上がらず、製品のバラつきも多くなるので部品だけを作る専門班を作っ
て、ここから各組み立て班に共通する生産方式を提案しました。
 結果はその部品作り班の班長を命ぜられてしまいました。部品作りは、各組み立て
班より少なくても1ヵ月は先行していなければならないのに、同時進行なので工業高
校卒で入社早々のM、I君とハーネス担当に若い女子工員2名を部下にしてもらい、
必死に頑張って残業はさせないで1ヵ月後には、なんとか組み立て班の要求に応ずる
ところまで持っていく事が出来ました。
運動会で走る橋井社長
運動会で走る橋井社長
 このころの東京計器の従業員数は橋井社長以下600名
程度でしたので、裏のグラウンドを使って全員で秋の
運動会などをやりました。
 私が驚いたのは、まだ入社して間のない私の名前を
社長さんが覚えていて、休日出勤で作業台に向かって
いた私の肩を叩いて「ご苦労さん伊藤君」と言われて
振り返ると、橋井社長さんがにこにこしながら立って
いらっしゃったことでした。本当に家庭的な雰囲気の
社風でした。
 また、労働組合青年婦人対策部というのがあって、この職場委員にさせられたお蔭
で、自分の職場以外の多くの人との交流ができ、社員のクラブ活動も活発でしたので、
「万緑」と言う機関紙の発行を手伝ったり、コーラス部のクリスマス会でワインの乾
杯で顔を赤くしたのは私だけで、くじ引きで決められた席の周囲の女性社員は皆ケロ
ットしていて、すごく恥ずかしい思いをしたことなどは本当に懐かしい想い出です。
 次の年からは立川の米軍基地で働らいていたNさんなど何人かが、電子製造部に加
わりロランだけではなく、やっと国産化を許されたレーダーの生産も始まりました。
この時代に多くの人々との交流があり、仕事には直接関係のなかった輸送課のT課長
さんや原価計算課のH課長さんに可愛がられて、いろいろ便宜を図って頂いたりご指
導頂いたりしました。  
5.BENDIX FEAF DEPOTへ出向
 当時、日本の空を守るのはアメリカ空軍で日本中26ヵ 僻地にある警戒用レーダー
僻地にある警戒用レーダー
所の僻地や諸島にある警戒用レーダーは、提携会社の
BENDIX社のサーチレーダーが使われていました。この修
理や定期点検、そして新しい機種の装備などを行う場所
として、東京計器が場所の提供を行い、油圧工機部の一
部にBENDIX のオフィス(BENDIX FEAF DEPOT)ができま
した。 
 やがて日本の空を守るのも、航空自衛隊に移管される
と同時に、このレーダーのメンテナンスも、日本が行なう事になるであろうとの読み
で、この技術を習得する日本人技術者として、白羽の矢が立ったのが、Nさんと私で
した。結局二人はそれぞれの所属からF重役直属の外業部に移籍されました。
 Nさんは東京計器に入社前、立川の米軍のレーダー修理工場で働いていた経験もあ
り、選ばれる理由は分かりますが、なぜ私がといささか驚きました。
 ある日、家に親しい小学校の先生が訪ねて来て、「伊藤君何か悪い事をしたのか?
 警官とMPが学校に来て、お前の事をいろいろ聞いて帰ったぞ」と言われました。
セキュリテイを守れる人間かどうかの調査だったのだろうと思いました。
 しかし、社命での出向なので、とにかくNさんの後について、約20名近くいた外国
技術者の中に2人で飛び込んで、彼らの技術を学びとる事に覚悟を決めました。
 中学2年から敵性国語の英語教育は打ち切られ、大学時代も外国語は全く駄目だっ
た私が、なんとかこの仕事についていけたのは、終戦直後に自宅の前で、ジープのエ
ンジン過熱に水を要求されたアメリカ軍人の言葉がギブミーワラーと聞こえて、水は
ウオータと覚えていた私には、暫く何のことか分からず慌てた事や、隣の洋服屋のお
やじさんから「兄ちゃんは大学出だから、アメリカ人が来たら通訳して」なんて言わ
れてこれは大変と、暇を見て勤めの帰りに新橋駅近くのリバテイ塾という二世の作っ
た英語塾や慶応外語学校の夏季講座に通った事などが幸いしたのかも知れません。
 初めてレーダーサイトに行かされたのは、房総半島の先端にあるレーダー基地に、
補修部品を届けるためでした。
 緊急に必要な部品を届ける為の出張を夕方急に命ぜられて、両国駅から汽車に乗り
3時間、駅弁を買う暇もなく、鴨川の駅に着いたのが10時過ぎで食堂も皆終わってい
て、とうとう夕食抜きで待っていた黒人の運転するウイポンスキャリヤ(武器輸送用
トラック)に乗せられて、暗い山道をくねくねと登って基地に着き、BENDIXの技術者
に無事持参した部品を手渡しました。あとは、すきっ腹を抱えて基地のボイラー室に
毛布に包まって朝まで過ごし、再びトラックで駅まで送ってもらい、駅前の食堂でや
っと朝食にありついて昼近くに帰社したことなど今思えば懐かしい想い出でもありま
す。 私達がBENDIXへ派遣される時に会社から「君たちを社内留学させるのだから、
しっかり勉強してきてください」と言われたのでしたが、後で調べたらBENDIXと東京
計器の契約書は日本人レーバの派遣という事になっていたのでした。その為か、当初
はBENDIXの技術者が、私達2人に対して英会話の不十分さもあったのかも知れません
が、扱いは余り温かいものではなかったような気がします。
 しかし、次の年からは立川の基地から、ここで働いていたTさんを始めとして、A、
O、A、K氏等の技術者と、立川以外からも経験豊富なMさんなどが招聘され、社内
からもS、O、T、W氏など大学出のそうそうたる人々が、外業部に加わり、初めて
系統的な技術教育が、立川の米軍基地でインストラクターをやっていたというT氏が
担当して始まりました。そして次第に仕事をアメリカ人から日本人へと移管し、モー
ビルチーム等が出来ました。
基地向かうトラックで筆者(右)
基地向かうトラックで筆者(右)
 この頃からレーダーの新しい機種との入れ換えが始ま
り、日本人技術者が中心になってチームを作り、1基地
に大体2から3ヵ月かけて建設する仕事が始まりました。
 現地の旅館や民宿に、大体12〜15名程度で合宿して、
山の上の基地までトラックで往復し、最後の2週間くら
いは昼夜2交代で調整作業をやって、航空自衛官への教
育を終えて修了する作業でした。私も5つの基地の建設
に携わりました。この時の私の立場は建設と教育班の班
長だったアメリカ人のW氏の下で、新たにこの仕事に駆り出されてきた人々や、すで
に米軍から日本の航空自衛隊にバトンタッチされたレーダーの操作や保守の教育を航
空自衛官に現地で行う仕事を時折しながら、機械的な保守部品の製造を会社に依頼す
るための図面作製などをしていました。 
 この関係の仕事が2012年現在も那須の工場のIRAN(Inspection Repair And
Necessary)グループの仕事として続いているようです。
6.営業部門への転向
 当時、航空営業部の航空特機課は、H課長がK氏やA氏などと、航空自衛隊関係の
営業窓口を営んでいましたが、A氏の急逝で急遽私が移籍されました。たしか2年位
一緒にもっぱら事務的な手伝いをしているうちに、生産管理部からのお声がかかり、
M課長の許で働くことになりました。この話が来た時に私の大きな錯覚で「生産技術
部」と間違えて着任して、「しまった!」と思ったがもう間に合いません。というの
は仕事の内容が「そろばん」での計算業務でした。各部門ごとに営業から上がってく
る販売計画(金額)によって、使用する材料毎の購入計画を算出する仕事で、舶用と
油圧部門担当にはT氏ともう一人のベテランがいて、私は航空と産業(新しい分野)
を担当することになりました。小学校時代に「そろばん」が苦手で父の勧めた商業学
校を拒否して「そろばん」の授業のない工業学校を選んだ私には思いもかけない苦難
な仕事でした。毎晩夢に「そろばん」が出て来てうなされた何日かが過ぎましたが、
何とか3〜4ヵ月で仕事に慣れる事ができました。仕事が分かってくると、営業から
の売上予定が金額で示され、これを適当に機種の数量に生産管理部で分解して材料手
配をすると、実際に販売した機種との差で、材料の過不足が出て、再手配の手間や過
在庫による無駄を生ずると思い、営業部門に販売予定を機種別数量で示してくれるよ
うに申し入れ、客先に営業マンと一緒に頼みに行きました。
 この事が、当時のN営業部長のお耳に入ったのか、それなら「お前が営業に来てや
ってみろ」と当時の産業営業部に移籍される事になりました。そして、課長代理とい
う肩書を頂けるとのことで、課長代理はラインなのかスタッフなのかを人事部に問い
合わせました。この頃はまだライン・スタッフの区別がはっきりしていない頃でした
ので、全く営業経験の無い私がラインとして部下をもって仕事をする事は出来ないの
で、1年間課長代理への昇進は遅らせて欲しいと、N部長に上申しました。結局は肩
書きを頂き半年の間ベテラン営業のカバン持ちを勤めて、営業の勉強をさせて頂きま
した。 全く酒が飲めない私に「貴方に営業が出来るの?」って笑った家内の心配を
よそに、当時最も華やかな建築関係客先ばかりの空調事業部の営業を、恙無くすごす
ことができたのは、O産業営業部長に「飲めない奴の接待の仕方」などを伝授して頂
いたお蔭です。
 この頃から社内の仕事以外に関連工業会での仕事が増え、幸い自宅と工業会の事務
所が近かった事もあり、工業会の仕事も精力的に勤めたお蔭で、社外の人脈も次第に
増えていきました。     − 了 − 
                    (注: 写真/トキメック百年史) 
 
2013. 5.26 清水 中国はこれからどうなる?
 
中国はこれからどうなる? 横浜市 清水 有道
 
 いろいろな国際機関や研究所から2015年までに中国はGDPでインドに抜かれるので
はないかとの試算が面白おかしく発表されている。 従来の日本を含む先進諸国は民
主主義と資本主義との両立は困難となって、危機を迎えている。中国も現在の成長は
高度成長を前提にした体制の下でのものであり、共産党一党支配の社会主義とグロー
バル資本主義の両立困難という局面に早晩陥るのではなかろうか。そのとき、安定成
成ゼロ成長を選択すれば、次の段階では現在のひずみにひずんだ各種構造や格差の是
正に対して調整作業が必要となり、もはや統治不能に陥るのではなかろうか。
 これが筆者の表題に対する答えであり、結論である。ここで少しこの結論に至った
背景やそれに対する筆者の意見を述べてみたい。
 現在では、中国の州都の居住区では解放前の資産家や外国人の洋館が並んでいるよ
うなところには、共産党や国営企業の幹部やセレブ階級が住んでいることは、一見し
て明らかであり、一般民衆とは歴然と区別された特権階級が存在しており、彼らが給
与の他に得ている便益が統計上は全く計算されずに実存していることが分かる。これ
らの矛盾した差別社会をこれから一般民衆の攻勢に対して納得させられる説明ができ
るか、そして格差社会を乗り切れるか、全く予断を許さないところである。低成長、
ゼロ成長を選ばなければならなくなったとき、現在のこれらの不平等と格差をそのま
ま固定することは一般民衆が許さないでしょうし、特権階級がそのまま存続すること
はまず不可能でしょう。無理強いすれば、大きな革命の力となって体制破壊が生まれ
るに違いありません。ここで、かなり早い時期に起こるであろうことは、何時一人っ
子政策が止めになるか、農村戸籍を廃止することが出来るか、の二点であるが、前者
は再び中国全体として人口増が早晩起こり、現在のひずみがさらに拡大してしまう恐
れがあり、後者は現在の都市人口、労働者がエンジョイしている生活が新しい農村民
のなだれ込みに都市戸籍を有する人々の優位と特権が脅かされる事態を迎えてしまう
ことになるでしょう。
現在かなり広く行われている議論に、近い将来(唱える各氏それぞれに迎える年代
を異にしているので、幅広く筆者は近い将来と大きく括っておきたいと思うが)、中
国が米国をGDPでも凌駕して世界の覇権を握るとする説が面白おかしくマスコミを賑
わしている。過去のスペイン、ポルトガルから16世紀のオランダ、19世紀のイギリス、
20世紀のアメリカ合衆国(以下アメリカと略称)という覇権国を眺め、現在のアメリ
カの衰退ぶりから考えると、筆者にはそう簡単に中国が覇権国になれるとは思えない。
何故なら覇権を握るには軍事力、政治力、経済力(これも分ければ、工業生産、商業、
金融等々)の全てに亘って遥かに他国を凌ぐのでなければならず、必然的に国連等の
国際活動の舞台で立派なコンダクターであることが要求されるからである。現在のド
ルの価値は相当に下落し、往時に比べれば、無残な状態であるが、一方では国際決済
通貨としての役割だけは未だにしっかり握っているではありませんか。この役割まで
中国の通貨『元』が担えるとは到底思えません。少なくとも、現在の中国の人権の考
え方、工業所有権ほかの権利の保護、世界標準化の解釈、卑近な例ではPM2.5や黄砂、
その他汚染された空気や排水についての自制や進んで世界の一翼を担う国際協力等が
見えてこなければ、とても他の国々が追随することに頭を振るとは思えません。
 たまたま筆者がここ数年仕事の関係で中国との間を往復する機会が増えて、今の中
国にこれからの中国のことを改めてしっかり考えてみたいとこの文章を書き始めた時
に、次の二冊の本に出会った。二冊とも冷静に中国の現状を分析、研究し、偏見のな
い見方で同国の今後を見据えている。同じようなカテゴリーの著作の中では期待以上
に示唆に富んだ高書であると思った。
『おどろきの中国』表紙
『おどろきの中国』表紙
 
1)橋爪大三郎、大澤眞幸、宮台真司の三氏鼎談形式
の『おどろきの中国』(講談社現代新書2182、
2013年2月23日刊)
 
 
 
 
 
『中国台頭の終焉』表紙
『中国台頭の終焉』表紙
 
2) 津上俊哉著『中国台頭の終焉』
(日経プレミアシリーズ、2013年1月23日刊)
 
 
 
 
 
 
 二冊とも筆者が平素から感じていること、纏めてみたいと思うことに大きな理論付
けを与えてもらったので、紙面を借りて少し紹介してみたい。前書では、三氏は日本
人が陥りやすい勘違いや落とし穴について具体例を記して、テーマとして拾い、それ
らに注意すべき点を吟味しつつ議論を進め、最終章の第4章では「中国のいま、日本
のこれから」という表題の下に総括して、注意すべき点を以下の10項目に要約されて
いる。
 1)「社会主義市場経済」の衝撃    2)ケ小平のプラグマティズム
 3)中国の資本主義は張り子のトラか  4)共産党の支配は盤石か
 5)民主化の可能性は?        6)中国は21世紀の覇権国になれるか
 7)日本は米中関係の付属物に過ぎない 8)台湾問題
 9)北朝鮮問題            10)日本がとるべき針路
 三氏を代表して橋爪大三郎氏が「あとがき」に書かれているように、橋爪氏は他の
二人よりひと回り年配で、戦後ベビーブーム時代の生まれ、東大社会学研究科博士課
程を経て現在は東工大教授、奥様が中国人ということもあって中国に多大の関心を持
たれている。他の二人の大澤、宮台両氏も東大の同じ博士課程を終えて、大澤氏は京
大教授を務められ、宮台氏は現在首都大学東京教授である。この著作は三氏が同じ関
心から一緒に中国を相当丹念に訪ね歩かれた結果生まれたものである。
 筆者は上記10項目の中でも特に5番目の『民主化の可能性』と10番目の『日本
がとるべき針路』に多くを学ばせてもらった。中でも筆者が痛く合点がいったことは、
日本人が他国の文化、社会を学ぶ上で、知らず知らずのうちに適用する理論や枠組み
設定が西洋を標準にしてしまうがゆえに、特に中国、インド等のアジアの国々の理解
が邪悪な常識と偏見に捉われすぎてしまう非常に危険な要素に左右されがちである
ことに、よく留意しておく必要があると指摘されていることである。
 橋爪氏が第一に非常に慨嘆されていることは、日本人がとにかくあまりにも中国の
ことを知らなさすぎるということで、少なくとも隣国である以上、英米や欧州の人た
ちよりも多くのことを知っているべきで、このまずさをどうやって校正するかに腐心
しておられる。筆者もまったくその通りだと思う。中でも多くの日本人が「これから
の中国はどうなる?」と問えば、ほとんど知識も体験も持ち合わせていないにも拘ら
ず、オウム返しに「民主化でしょう」と答えるのには辟易すると書かれている。日本
人の欠点をぴしゃりと指摘された思いで、筆者も胸がすく。
 二冊目の著者津上俊哉氏は1957年生まれ、東大法学部卒業後旧通商産業省に入り、
通商政策局北東アジア課長、経済産業研究所上席研究員を歴任後、民間企業の社長を
経て、現代中国を研究する自己の研究室を立ち上げ、津上工作所の代表をされている。
日本と日本人の新しい途の拓き方を世界に示し、孤立化を恐れるあまり、結果として
逆により孤立化を深めている日本と日本人に警鐘を鳴らしている。
 津上氏が見る現在の日中の対立の背景には、中国には“世界一”の経済大国にのし
上がった自信と傲慢さがあり、日本には面積的にも、人口的にも大国を背負う一党独
裁の共産主義集団のマスの力の大きさに恐怖感を抱いているところにある。しかし、
協調して両国が中国の実態をもっと率直に知るなら、つまらぬいがみ合いや嘲笑をし
あっていることがいかに無駄で、無益なことかが分かるのではないかと指弾されてい
る。原則ばかりを主張し合っても徒労に終わることを肝に銘じる必要があるだろう。
同氏はきっぱりと、中国が経済規模で米国を抜く日はやって来ないと結論されている。
 津上氏の『中国台頭の終焉』では、最後の章「東アジアの不透明な将来」の中で以
下の数々の傾聴に値する指摘をされているが、筆者もこれらには非常な共感と共鳴を
覚えた。
*「今後の中国の経済成長が世界中で過大に見積もられていることが、いまや中国
  と周辺国の外交・安全保障問題に看過できない悪影響を及ぼすようになった」。
                                (244頁)
*「中国人は中国の主権や領土を侵した帝国主義国を憎んでいるが、それ以上に憎
  んでいるのは、外敵の手先となった同胞{漢奸(はんじぇん=売国奴)}である。
 (中略)この伝統あるがゆえに、中国人は「領土・領海、主権、歴史」を巡る『ナ
  ショナリズムの空気』に逆らって、外国寄りの宥和的な発言でもしようものなら、
  『漢奸!』と非難、糾弾されるのではないかと怖れる心理状態に置かれる。周囲
  からの『漢奸』糾弾を怖れて、心ならずも対外強硬論に和してしまう――中国人
  が抱えるそんな内面問題を指す言葉が『漢奸タブーだ』」。(245頁)
*日中間の歴史問題でも、日中関係が波立つと、中国側の訪日・日本側の訪中の計
  画がいっせいにドタキャンされるといったかたちで、漢奸タブーがしばしば顔を
  出す。計画に関わる中国人は、日本のことより『こんな時期に訪中するとは(日
  本の訪中団を受け容れるとは)何事だ!?』という周囲の批判を気にしているだ
  けなのだが、日本側はドタキャンを『朝野を挙げての強い抗議』と受け取るとい
  った食い違いが生ずるのだ。『歴史問題』は日中間の国際問題であるが、同時に
  中国人の内面問題という別側面を持っていることは記憶しておいてほしい」。
                                (246頁)
 また、津上氏が「結び」に惹かれている以下の実情も中国が今後も順調に成長・
 発展していくとは思えない大きな要因であると思う。筆者もまったく同感である。
*「『少子高齢化』が音を立てて迫りくるのに年金の積み立てすらしていない中国
 が、今以上の軍拡路線に走り、東アジアの平和を乱すようなことがあれば、自滅
 が待つだけである。そのことを冷静に見抜いてほしい。そういう不安に駆られた
 心理が『いまを守る』ことにかえって逆効果に働くことは、今回の尖閣を巡る紛
 争でも証明された『心の弱いナショナリズム』で国を救うことはできないのであ
 る」。(268頁)
*「最近、森有正の日本語論を学んで、日本語の構造や語彙が日本人の考え方や対
 人関係をかたち作っているのだという考え方に強く惹かれた。その過程で
 empathyという言葉があることも知った。『他者の立場に立って、他者のことを
 思いやる』ことを指すのだそうで、『我(われ)が客体たる『他者』に対してす
 る sympathy は『立ち位置』が違う。私は empathy に長けた日本の文化・
 対人関係が外国人を惹きつけるのではないかと考えるようになった。サブ・カル
 チャーは、きっとそういう『日本ワールド』への入り口なのだ。
 これからは、『必要に迫られて国を開く』のではなく、そういう良さを活かし
 て、世界から『人を惹きつける』時代にすべきだと思う。招き入れた外国人をや
 さしい日本色に染めてしまうのである。おそらく、それは聞こえの良い小手先の
 事では済まないだろうが、途を拓かなくてはならない」。(270頁)
特に最後に引用したくだりは長く海外との仕事に従事してきた筆者には誠に強く胸
に響き、また、ここ数年中国との往来が密になるにつけ思いを一層強く感じている
ことそのものであった。したがって、これ以上浅学の筆者が蛇足を加えることは止
め、この辺でペンを置くことにしよう。
                      了
                            2013年4月2日 記
 
2013. 5. 5 小田 桜散っても、花盛り!2013年版
 
桜散っても、花盛り!2013年版 横浜市  小田 茂
 
 “よこはま  花と緑のスプリングフェア” 4月20日から開催   
 
 今年は桜の花見をしなかったような、アットいう間に 案内板
案内板
散ってしまいましたが、異変は桜だけでなく他の花も同
じような現象があるようです。
 地元、横浜市中区で開催される恒例の“よこはま 花
と緑のスプリングフェア”は今年は昨年より一週間遅れ
の4月20日から開催となりましたが、これがどのように
影響したのでしょうか?
 
 “チューリップまつり”(横浜公園) 4月20日から22日の開催
 地元・中区の花“チューリップ”は横浜公園内に秋に近隣小学校の生徒、中区民、
市民の参加で66種16万本の球根が植えられました。一番初めは昭和58年で36種7千本
から始まったものです。初日の20日に横浜公園に行きましたが・・・・。
 今年は一週間遅れの開催の影響か、名前を付した「チューリップ花壇」は咲き終り
やっと残っていたのが下記の3種だけでした。また遅咲きのチューリップ畑も最盛期
を過ぎ下り坂です。
 園内ではオランダのチューリップ大使の華道家・假屋崎省吾氏のチューリップ生け
花実演等がありましたが、全体的に咲き頃、見頃のタイミングを逸し、盛り上げに欠
けた感は否めない。
クインオブナイト
クインオブナイト
ホワイトトライアンファータ
ホワイトトライアンファータ
ドルドーネ
ドルドーネ
 
遅咲き@
遅咲き@
遅咲きA
遅咲きA
遅咲きB
遅咲きB
 
遅咲きC
遅咲きC
遅咲きD
遅咲きD
假屋崎省吾氏生け花実演
假屋崎省吾氏生け花実演
 
 “花と緑の園芸館”(横浜公園) 4月20日から22日の開催
 横浜公園内で“花と緑の園芸館”が設置され、草花を 看板
看板
はじめ盆栽等、市内の有志のグループから沢山寄せられ
た趣味の作品は見応えがありました。
 また、テント張りの植木市も出ており、ここだけは
色とりどりの草木・花を購入するのに黒山の人だかりで
大いに賑わっておりました。
 
 
 
趣味の作品@
趣味の作品@
趣味の作品A
趣味の作品A
趣味の作品B
趣味の作品B
 
趣味の作品C
趣味の作品C
趣味の作品D
趣味の作品D
趣味の作品E
趣味の作品E
 
趣味の作品F
趣味の作品F
趣味の作品G
趣味の作品G
趣味の作品H
趣味の作品H
 
 “花壇展(21区画)”(山下公園) 4月20日から5月6日まで開催     
 今年も市内園芸業者等の皆さんが趣向を凝らして21区 看板
看板
画の見事な花壇が揃いました。
 初日から3日間は、出品作品に対する“花壇コンクー
ル”投票のため、入選作が未決定のため26日に会場へ出
掛けました。
 入選作をご紹介しますが、入選外作品から私の好みで
3点選んでみました。
 会社の蒲田の旧本社・工場と同期生の昭和5年生れの
氷川丸
氷川丸
赤いくつ
赤いくつ
“氷川丸”も今年83歳とな
りましたが、“赤いくつは
いてた女の子”と一緒に花
に囲まれて健在です。
 氷川丸を見ると、会社の
製品も装備されているので
同期生ということも含めて
非常に親しみを感じます。
 
横浜市長賞
横浜市長賞
横浜市会議長賞・市民賞
横浜市会議長賞・市民賞
横浜市環境創造局長賞
横浜市環境創造局長賞
 
神奈川新聞社賞
神奈川新聞社賞
横浜市緑の協会理事長賞
横浜市緑の協会理事長賞
みどりアップ奨励賞
みどりアップ奨励賞
 
入選外推薦@
入選外推薦@
入選外推薦A
入選外推薦A
入選外推薦B
入選外推薦B
 
2013. 4.21 砂田 大山街道を歩く(5)
 
  大山街道を歩く(5) 相模原市 砂田 定夫
 
 大山街道は、どんな道だったのだろうか。金子勤著『大山道今昔』によれば、ほと
んど2間(3.6m)ほどの幅で、泥道が多く、松・竹・シノササが覆いかぶさってい
るので、山道は有効幅員1m足らず、イタチ・ムジナ・ノウサギの通るようなところ
もあったという。東海道などのように本陣、脇本陣があったわけではないので、参勤
交代や大名行列などの利用はなかったようだ。多くは庶民の交易などに利用されたの
である。
4.街道日記(前からの続き−最終回)
(9)愛甲石田〜追分(3月17日)
 この年(2011年)の3月11日に起こった東日本大震災は、日本中をパニック状態に
陥らせた。世の中が自粛ムードになり、気持まで萎縮してしまった。計画停電も行わ
れているので、暫く外出は控えていたが、それから6日後、思い切って大山街道歩き
の続きを実行することにした。11時近く、愛甲石田駅から国道246号線に出て、かや
ぶき屋根の山門がある浄心寺の前から石田交差点で旧道へ。この先白金地蔵がある。
3体の地蔵で、万延元(1860)年の創建だが、現在のも @歌川橋から大山を望む
@歌川橋から大山を望む
のは平成8年再建されたという。この辺りが「白金」と
呼ばれていたようだが、筆者が育った東京港区の白金と
同じだったので、親近感を覚えた。歌川橋を渡るとき、
大山が堂々とした姿を見せていた。かつて下糟屋(しも
かすや)宿のあった通りには、昔よく見た農家風の家屋
や庭、蔵や板塀などが雰囲気を残していた。普済寺とい
う寺の境内に入ると、伊勢原市最大の石造物という6m
 
もある多宝塔が、大山をバックに立っていた。しかし、 A普済寺の多宝塔
A普済寺の多宝塔
周囲の石造物が折り重なって倒れており、真新しい立入
禁止のロープが張り巡らされていた。大震災の爪痕はこ
んなところにも残っていたのだ。この寺は文化元(1804)
年、江戸幕府が蝦夷地(今の北海道)に三官寺を建て、
当時の住職が7年任官後、帰山して天保九(1838)年建
立したという。当時蝦夷地へ行くのに3ヶ月も苦難の旅
だったようだが、今日のような交通機関がなかったのだ
から想像に難くない。
 このあと太田道灌の首塚と、菩提寺である大善寺へ寄った。ここは以前、地域の
「史跡めぐり」のグループで見学したことがあった。東名高速をくぐって、鈴川(大
山川)から引水しているという千石堰用水沿いの道を行くと、太田道灌の墓がある。
ここも以前訪れたことがある。このあたり、もう正面に迫った大山へ向かってまっし
ぐらという感じだ。
 江戸赤坂を発した大山詣りの人々は、近づいた大山の姿に胸を躍らせたに違いない。
寛政十一年と記された「台の道標」を見て間もなく、石倉橋バス停に出た。ここは現
在、大山へ行く人たちが伊勢原駅からバスで通る道路である。突然痩せたサルが目の
前に現れ、悠々と道を横切って行った。この先には「こ B大山町のゲート
B大山町のゲート
のあたりは猿の生息地」という看板があった。比々多神
社、三の鳥居を過ぎ、「ようこそ大山へ」と書かれたゲ
ート越しに、いよいよ迫った大山があった。加寿美橋か
ら鈴川左岸の旧道へ入る。先導師(御師)の宿坊が並ぶ
風情のある通りで、ミツマタの花が咲いていた。日の出
橋で対岸にある権田公園、開運堂と良弁滝を見る。滝は
落差8mくらい、浮世絵では水量豊かな滝の下で大勢の
人たちが水行している光景が描かれているが、現在は水量少なく当時を想像できなか
った。左側の豆腐坂という細い路を登る。昔は手のひらに豆腐をのせ、歩きながら食
べてのどの乾きを癒したことから、この坂名がついたらしい。千代見橋からもみじ坂
を登り、途中茶湯寺へ寄る。苔むした雰囲気のある寺で、表情の面白いわらべ地蔵が
6体並んでいた。追分のケーブル駅を今日のゴールとして、バス停へ下る。もう4時
半近くで、参道に並ぶみやげ物屋は大半閉店していた。ダウンジャケットを着ていて
も寒さが沁みる夕暮れ時だった。
                 約11.5km、5時間30分、約24,000歩。
(10)追分〜大山頂上(3月26日)
 年の初めには毎年阿夫利神社下社へお札を収めに行くことにしている。大抵はその
際に大山の山頂まで登っている。過去大山にはいろいろなルートから登っているが、
登山記録を調べてみると、このときが丁度50回目、うち登頂は29回目になる。今回は
「大山街道」シリーズの最後として登ることにした。
 大山ケーブル駅バス停から歩き出したのは11時半にな C女坂のミツマタ
C女坂のミツマタ
っていた。追分から女坂を登ると、沿道に小学生たちが
植えたミツマタがきれいに花を咲かせていた。いつも素
通りする前不動と隣りの龍神堂に手を合わせる。龍神堂
はもともと二重滝にあったものを寛永十八(1641)年、
徳川家光が再建したもので、最初は奈良時代に良弁(ろ
うべん)上人が大山龍神を感得、雨乞いの本寺として崇
められたという。大山寺に参拝、さすがに本堂の造り、
特に木彫りは見事である。「女坂の七不思議」のひとつ、無明橋には芭蕉の句「山高
し心の底を水の月」が掲げてある。このあたりの雰囲気をよく表している。阿夫利神
社下社で参拝、お札を収める。相模湾、江ノ島、平塚、厚木、伊勢原などが望めたが、
霞がかっているのはいかにも春らしかった。半開きの登拝門から長く急な石段を登る。
D二十八丁目の鳥居と前社
D二十八丁目の鳥居と前社
十六丁目追分の碑があるところは一息入れるにはよいと
ころで、蓑毛(みのげ)からの表参道との合流点である。
(下社から蓑毛越へ行く道の途中から「かごや道」があ
り、女人禁制の碑を経て表参道へ出るコースで、こちら
の方が静かなので最近はこちらを登ることにしている)
富士見台(二十丁目)から富士山は見えたが、春霞でお
ぼろな輪郭だった。ここからの絶景は江戸時代に浮世絵
にも描かれたほどである。
 富士の右には丹沢大倉尾根の花立、左には愛鷹(あし E山頂の奥の院にて−完歩成る
E山頂の奥の院にて−完歩成る
たか)連峰や金時山が見えた。二十三丁目辺りから登山
道に残雪が出てくる。二十八丁目の鳥居をくぐり、前社・
本社・奥の院と続いて、二等三角点のある頂上に15時少
し前に着いた。大山街道の完歩が成った瞬間だった。山
頂付近には1〜2cmの雪があり、気温は2℃位だった
が、陽だまりでは意外に暖かく感じた。往路を下社まで
下り、男坂を下った。
                    約7km、3時間、約14,500歩。
5.おわりに
 去る3月6日の読売新聞に<伊勢原を国際観光都市に「大山を核にイベント続々」>
という見出しの記事が載った。伊勢原市が横浜、鎌倉、箱根に次いで神奈川県内第4
の国際観光都市を目指すという。それというのも3月15日、県から同市に対して「新
たな観光の核づくり構想」に設定されたのを機に、各種イベント作りに取り組むよう
だ。核となる大山は「関東のすべての道は大山に通じる」といわれ、山岳信仰の本山
であり、改めて大山の魅力を再発見するためのプロジェクトになるらしい。“大山フ
ァン”としては楽しみである。一方では人口減少が気がかりな伊勢原市と聞いている
が、昨年5月に皇太子が歩かれた「プリンスルート」もあるので、観光誘致で工夫し
て活気を取り戻してほしい。同時に「大山街道」がもっと多くの人に親しまれるよう
整備してほしいと願っている。 
                                完
 
2013. 4.14 清水 自 分 の 墓
 
自 分 の 墓 横浜市 清水 有道
 
 遅まきながら筆者は75歳の後期高齢者になってやっと自分の墓というか、家族全員
で入れる墓を自宅近くの新造民間共同霊園に造りました。筆者には父親が造った墓地
がありますが、生憎子供は娘二人だけで、清水の姓を名乗ることは無くなりそうです
し、従来の「XX家の墓」とか「XX家先祖代々の墓」の表記にはかなりの抵抗を感じま
すし、女房と結婚したときに筆者の浄土真宗本願寺派に宗旨替えをしたり、家紋を変
えたりすることは一切要求しませんでしたので、女房は実家の真言宗をそのまま踏襲
していますし、娘二人は育った学校の英国聖公会のキリスト教徒です。たとえ筆者が
父の墓に入っても娘たちがその墓を守ることは無理でしょうから、この際思い切って
自分で宗旨に関係のない新しい墓を造ろうと何年も考えてきました。
新しい墓
新しい墓
 2〜3年前に近くに共同霊園ができたのを機会に、新
しい考えによる墓を真剣に考え、横長の平たい石を建て、
前面の左上に英文で“Perpetuity”と刻み、右下に一匹
のテントウムシを図案化して入れました。テントウムシ
はクリスチャンが埋葬されていることの暗示です。娘た
ちから自分たちが将来入るための希望でした。刻む言葉
も日本語をやめて英単語にすることにし、どれにしよう
かと10余の単語を選択し、その中から最終的に数人の欧
米知人にも相談して決めたのが”Perpetuity”でした。
 この単語は、ラテン語の“perpetuitem”から出たもので、英語では1380年に
”perpetuite”として正式に使われ、その後”perpetual”という形容詞と
”perpetuity”という名詞になって今日に至っています。
 フランス語では “perpetuite”と初期の英語と同じスペルのまま今日も使われて
います。 辞典に載っている意味としては、
1)永遠、永久、 長嶋茂雄
長嶋茂雄
2)永久に続くこと、永続、永存、不滅、
3)永続する物、永代続く物。
ですが、「幾久しく、永久に後々の血縁の皆様とともに
います」の意味を表現したかったのです。まさに往年の
野球の名選手長嶋茂雄が巨人軍を退くときに残した名セ
リフ『巨人軍は不滅です』の感じでしょうか。ついでに、
この単語には英米では法律用語として、一定期間以上に
わたる譲渡禁止を意味する不動産の永久拘束、永久財産を表しますし、日本にも昔あ
りました公、候、伯、士、男の爵位等の終身位階や会計用語として日本の文化功労者
が受けるような一代限りの終身年金や単利が元金と同額になる年数を表す言葉でもあ
ります。
的確な単語の意味と、ある程度バランスの取れるアルファベットの字数に、また、置
くテントウムシの数ある種類の中から様になるデザインはどれか、また、向きや大き
さ、英単語との釣り合い等々ちょっとしたデザイナー気取りで考える楽しみも味わい
ました。これだけ気を遣っても筆者の死後それらがどれだけ受け継がれて生きながら
えるのか、皆目見当もつきません。これも馬鹿げた老人の愚行の一つとなるのでしょ
うか。                         2013年2月24日  記
 
2013. 4. 7 清水 元気なままで歳を重ねていく
 
元気なままで歳を重ねていく 横浜市 清水 有道
 
プロダクティヴ・エイジング(生産的老化)とは?
おそらく何人かの方々もお読みになられたとは思いますが、朝日新聞を購読していま
すとひと月に1〜2回の頻度で発行され、新聞と一緒に配られる“The Asahishimbun
Globe”という小冊子があります。ときどき非常に内容のある記事が載ることがありま
す。これから紹介したいと思う話もその小冊子の1月6日(日)〜19日(土)号のG-
14,15の両頁の“Breakthrough (突破する力)”欄に現在米国ワシントン大学で准教授
をされている今井眞一郎医学博士が提唱されている自己評価シートに絡めて寄せられ
た論文記事を基に内容を補足してお伝えするものです。
これらの項目は予め朝日新聞社が用意しており、毎回執筆される各界の代表、知名人、
近年輝かしい活躍をされている人が、それぞれ自己判断で10項目必要優先順位を決め、
今井眞一郎博士
今井眞一郎博士
並べ替えられたり、必要に応じては項目名を入れ替えた
りされていますが、今井博士が自己の研究を広く公にし、
突破するには次の10の力が必要だと挙げておられます。
その中でもトップ3は、
 1.独創性、ひらめき、
 1.分析力、洞察力、
 1.語学力、会話力、
で、全て同位の1位に挙げておられます。最初の二つは
相互に作用しあって、新しい研究の方向性や領域を開いていくために極めて重要であ
り、三つ目の語学力と会話力は、自己の研究の内容、成果を広く一般社会に発信する
義務があり、そのためにこれらの力は欠くことが出来ないとされます。念のために、
4番目以降の力を列記すれば、
 4.持続力、忍耐力、 10の力が必要
10の力が必要
 4.集中力、
 6.決断力、
 6.行動力、
 8.運
 9.協調性
 10.体力
となっています。
要するに、科学者に限らず、文筆稼業であれ、芸術家であれ、何の分野でも大成する
ためには、これら10の力に裏打ちされた当人の不断の努力が必要なのであり、他人か
ら毛嫌いされ、子ども扱いされるような、幾つになっても子供みたいに純粋で、好奇
心のかたまりのような人間であることが肝要ということでしょう。
 ご承知のように、同博士は、「老化とは何か?」のメカニズムに迫り、老化に関与
している遺伝子「サーチュイン」の存在を明らかにしたことで知られ、その働きを利
用して老化を遅らせ、高齢化ニッポンを元気にしたいと猛烈な意欲を持って研究に従
カロリー制限
カロリー制限
事されています。同博士が日常嘆かわしく感じておられ
ることは、極端に食事を減らしたり、特定の食品や都合
の良いうたい文句で、幾つもあとからあとから増え、マ
スコミを通じて喧伝されているサプリメント(いわゆる
サプリ)に頼ったり、きちんとしたデータに基づかない
方法論がはびこっていることです。そして、科学に基づ
く抗老化こそ、元気なままで歳を重ねていくことができ
るプロダクティヴ・エイジング(生産的な老化)につな
がると提唱され、高齢者にも是非そう信じて欲しいと説かれています。
 そこで、忘れてはいけない大事なことがあります。それは好き放題食べても、この
サーチュイン遺伝子は働くのかということです。現在までの動物(主に人間に一番近
いとされるアカゲザル)での飼育観察から、カロリーを制限した方が寿命が延びるこ
とが分かってきたのです。そしてカロリーを制限した時にこそ、大事なサーチュイン
遺伝子がその役割を果たすらしいのです。このことは、サルがエサが足りない時期を
生き延び、子孫を確実に残すために考えられた自然界の戦略ではないかと考えられる
のです。いま死に物狂いで探し求めているのが、サーチュインを効率よく活性化させ
る物質は何かということです。まず注目されたのは赤ワインにも含まれるレスベラト
ロール(英名:Resveratrol,スチルべノイド・ポリフェ サルの戦略
サルの戦略
ノールの一種、化学式:C14H12O3)でした。この物質は
サーチュインを活性化させ、血管内皮細胞の動脈硬化を
防ぐ機能を高めることが分かったのです。レスベラトロ
ールは赤ワインの原料のブドウの果皮の他、ピーナッツ
の皮、植物のイタドリおよびインドネシアに産する植物
メリンジョに含まれることが分かっています。いわゆる
サプリメントとして広く販売されているものは安価で入
手しやすいイタドリから多く作られていますが、日本ではイタドリからの抽出物は医
薬品区分になるため、違法サプリメントとなります。日本人にとって嬉しいことに、
このレスベラトロールは1939年に当時の北海道帝国大学の高岡道夫博士によって高山
植物として知られる毒草バイケイソウから発見され、命名されました。バイケイソウ
の学名(Veratrum Album)とその抽出物がレゾルシノール(Resorcinol)構造を有
することからその合成語として化学物質の名が付けられたのです。すでにたくさんの
サプリが普及していて、人体の試験も各種行われていますが、血圧が高めの人では、
血管拡張反応を改善し、動脈硬化を防ぎ、脳の血流量を増加させて、認知症を予防す
元気に老化
元気に老化
る可能性が期待されています。因みに、健常者にレスベ
ラトロールを250mgもしくは500mg摂取45分で前頭葉の血
流の亢進が認められ、脳機能の改善に役立つと専門誌上
に報告されています。
 なお、上記のサーチュイン遺伝子は、長寿遺伝子、も
しくは長生き遺伝子、抗老化遺伝子とも呼ばれ、その活
性化の程度により、生物の寿命が延びるとされます。サ
ーチュイン遺伝子の活性化により合成されるタンパク質
サーチュイン(英名:Sirtuin) はDNA結合に作用し、遺伝的な調節を行うことで寿
命を延ばすと考えられています。このようなサーチュインの作用メカニズムはマサチ
ューセッツ工科大学のレオナルド・ガレンテ博士のグループが1999年に見出しました。
 最後に念のため書き添えておきますが、このような赤ワインに含まれるレスベラト
ロールのために、筆者が赤ワインに固執して飲んでいるわけではなく、同じ飲むなら
赤ワインの効能が勝ると言われていたことに従ったまでで、その効能の一部にはレス
ベラトロールのサーチュイン遺伝子に及ぼす効果も含め 赤ワイン
赤ワイン
られてはいたのでしょう。グラス一杯の赤ワインに含ま
れるレスベラトロールの量は、0.3%に過ぎないため、大
人の体重で考えた場合には一日にボトル100本も飲まなく
てはマウス実験の成果は得られないと言われ、赤ワイン
を飲むだけではとても即効は期待できません。そのため
レスベラトロールのサプリが大量に市販されているよう
です。現に米国のサプリの大手のホームページによれば、
同社のサプリはアルツハイマー病等の神経変性疾患、動脈硬化、心不全、慢性閉塞性
肺疾患、炎症性腸疾患、2型糖尿病、肥満、筋肉減少症、廃用性萎縮症に実効がある
とうたっており、本当に有効であれば更に現在の高齢化が加速されることになり、新
たな社会問題が顕在化することに繋がるでしょう。まあ、続けて飲めば得られるレス
ベラトロールの分量も増えるでしょうし、せいぜいピーナッツも皮をむかずに食べる
としましょうか。一笑下さい。               2013年2月23日 記