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中高年登山愛好家へのガイドとして有名な岩崎 元郎氏は著書『ぼくの新日本百名 |
山』の中で、恵山を紹介して、「ハイキング・レベルで楽しめる山なのに、本格的な |
登山の雰囲気を醸(かも)し出している。もっと多くの人に気軽に登ってもらえたら |
と思う山である。」と記しておられるのを記憶していて、筆者もなんとか機会を捉え |
て一度は登っておきたい山として毎年密かに山行計画の中に据えてきていた。 |
たまたまここ数年孫娘が好いている函館市湯の川温泉の某ホテルで夏の日数日を過 |
ごすのが習わしになってきて、今年も8月17日(金)から21日(火)まで5日間滞在 |
したのを機に、やっと長年の夢を叶えるチャンスとばかり、娘の家族全員と20日(月) |
に恵山(エサン、618m)に登った。 |
権現堂登山コース入り口にて |
登り口にある通称賽の河原駐車場から眺める山肌は一 |
面の爆裂口に覆われ、箱根の大涌谷か、那須の殺生河原 |
を思わせたが、全体の感じは青森の恐山にも似た不気味 |
さが漲(みなぎ)っていた。登り始めたころは、山頂に |
雲が懸っていて山容が望めなかった。ガスが晴れてどこ |
までも青い空が抜けてきた時には、現れた容姿は上高地 |
の焼岳を思わせる堂々とした威厳のあるものだった。 |
海抜618mそこそこの低い山ではあるが、どうしてどうして十分な貫禄を示していた。 |
登り始めは孫がどんどん一人で登っていたが、夏も終わりに近づき、登山道には一 |
輪の花もなく、出会う人もない変化のなさに加えて、盛んに吹き上げてくる硫化ガス |
の臭い匂いに興味が殺(そ)がれたと見え、途中からしきりに下山を言い出した。そ |
れを宥(なだ)め賺(すか)して無事山頂を極めたのであった。 |
登山道風景(1) |
登山道風景(2) |
恵山山頂にて |
登山道はきれいに整備されていて、しっかり木と石で階段が敷かれていた。山頂に |
は祠(ほこら)が祀(まつ)られていた。三角点は探しても見当たらなかった。観測 |
上の拠点は近くの他山の頂にあるのであろう。山頂付近はやや平らな地面が広がり、 |
たぶん6月ごろの花のシーズンには一面お花畑になるのであろうと思ってみた。頂上 |
で俊敏に飛ぶが、頻繁に地上に止まる蝶を見かけ、念のためにと持って行った捕虫網 |
を取り出して捕獲してみた。最初は余りにも個体が大きく、瞬間国蝶のオオムラサキ |
かと見間違えて、一瞬喜んだが、ゆっくり手に取ってみれば、コムラサキの♀(雌) |
山頂で採集したコムラサキ雌雄各1頭を標本に作った |
であった。コムラサキも雌の方が雄よりも大きいのは当 |
然なのだが、本州のものより断然大きく、体長も翅の開 |
長も実際オオムラサキに匹敵するものであった。その後 |
直ぐに娘が今度は雄を一頭仕留めた。羽化してから大分 |
日にちが経過していると見えて、翅は相当痛み、鱗粉も |
かなり剥(は)がれ落ちて、雄に特有の鮮やかな紫の輝 |
きはほとんど見られないくらいだった。当日採集した雄 |
雌各1頭の写真をお目に掛けることにしよう。 |
帰路はまた同じ道を下ったが、頂上から暫くは眼下に |
山頂直下から見る |
恵山岬や白いかわいい恵山灯台が見え、真南から東にか |
けては津軽海峡を隔てて、本州青森県の下北半島の尻屋 |
崎から大間崎にかけての陸地がすぐ近くに眺められた。 |
恵山は恵山道立自然公園の中にあり、その麓には恵山、 |
石田および水無海浜の三つの温泉があり、また付近一帯 |
は恵山自然休養林として保護されている。なかなかいい |
環境にある山として冒頭に引用した岩崎氏の言葉通りの |
山であった。 |
娘家族 |
案内書によれば、通常健康体の人であれば、登り往路 |
の所要時間は1時間から1時間30分、復路降りは1時間 |
前後と書かれていたが、我々は登りに1時間35分、下り |
に1時間20分を要したが、素人メンバーの構成を考えれ |
ば、我々のパーティもどうして十二分の速さと体力を発 |
揮したと言えるであろう。 |
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平和の祭典2012年ロンドン オリンピックも、開会式の日本選手団が係員誤誘導で |
行進途中から退場というハプニングがあったものの、懸念されたテロリストによる妨 |
害もなく無事17日間の熱戦の幕を閉じましたことは喜ばしいことです。 |
開会式 |
日本選手行進 |
閉会式 |
日本は、金メダル7個、銀メダル14個、銅メダル17個を獲得し過去最高の38個とな |
り、日本選手の健闘が寝不足を忘れさせました。心から拍手を贈ります。 |
予想外のメダル獲得、メダル期待で敗退等悲喜こもごもでしたが“勝てば官軍”で |
はないですが、帰国後のメダリストのテレビへの掛け持ち出演は大変なもので、一同 |
に家族・仲間・支援者との「絆」を口にしている姿がテレビで放映されていました。 |
メダリストに見られる傾向として、3才9ヶ月から卓球の英才教育を始めた、福原 |
愛ちゃんに代表されるように、多くの選手が小さい頃からオリンピックという目標に |
向かって、過酷とも思われる日夜の練習に励んできたことが良く判ります。 |
このことは、血筋だ!遺伝子だ!環境だ!と簡単に片付けられない努力の賜物とお |
もわれます。ただ、残念なことにはその努力の結果が、“いざ本番で十分発揮できた |
か否か”で明暗を分けているような気がします。 |
私が今回のオリンピックで強い関心を持った中の一つに、女子重量挙げの銀メダリ |
ストの三宅宏実選手父娘であります。女子レスリングの浜田京子選手の父娘のような |
知名度や派手さ?はありませんが、見ていて父娘の絆の素晴らしさがすがすがしく感 |
じられました。 |
宏実選手は、オリンピック出場は今回3回目で、1回 |
三宅 宏実選手 |
目アテネで9位、2回目は北京で6位入賞、そして今回 |
のロンドンでは重量挙げ48kg級で、3度目の正直で日本 |
新記録を更新しての銀メダル獲得は正に“お見事”とい |
う言葉がピッタリです。 |
親子のメダリストとしては、体操の相原、塚原親子に |
次いで3番目ですが、父娘としては初めてです。 |
宏実選手は、1985年に父、義行氏の3番目の長女とし |
て誕生。名前に3つの“うかんむり”が付くのは、三宅の三のあと「宅」「宏」「実」 |
であり、これはこの年にプロ野球で落合博満選手(ロッテ)、ランディ・バース(阪 |
神)の2人が三冠王を達成したのにあやかったとも言われています。 |
シドニー オリンピックから採用された女子重量挙げの勇姿に感動し、中学3年の時 |
から競技を始め父親から指導を受けだしました。音大出身の母親は、自分と同じピア |
ノの先生の道をと小さい頃からピアノを教えていたのに・・・・・本人の意志硬く。 |
今回の48kg級での銀メダルは、スナッチ87kg、ジャーク110kg、トータル197kgの日 |
本新記録での達成ですが、53kg級でも昨年の全日本選手権でトータル207kgの日本新記 |
録を出し、現在2階級の記録保持者です。身長147cmというあの小さな体で、よくあん |
な重いものを持ち上げる力が有るな〜とビックリ感嘆です。 |
宏実選手と父親の三宅 義行氏 |
父親は、1968年のメキシコ オリンピックでフェザー級 |
で銅メダルを獲得、また、1969年、1971年の世界選手権 |
優勝者でもあります。 |
次兄の敏博さんは、77kg級で4度の日本チャンピオン |
に輝き、現在は全日本女子チームのヘッドコーチを務め |
ております。 |
また、長兄の敏充さんも重量挙げ経験者であります。 |
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さらに伯父(父の兄)さんが、ローマで銀、東京とメ |
伯父の三宅 義信氏 |
キシコで金の快挙を達成しました三宅義信氏であります。 |
メキシコでは兄が金、弟が銅とよく似た顔で兄弟揃っ |
て同じ種目で表彰台に上ったのが当時話題となりました。 |
伯父の義信氏は1997年自衛隊体育学校校長を最後に退 |
官されました。 |
金メダリストの三宅義信氏には、校長時代の1991年と |
記憶していますが、蒲田社会保険事務所との関連で、講 |
演をお願いしたことがあります。その時、金メダルを触らしてもらったり、色紙をい |
ただきその時の感動が甦って来て、これらのご縁もあって、重量挙げ一族の宏実選手 |
に特に関心を持ったのかもしれません。 |
改めて、この快挙に祝福申し上げますが、お母さんとしては娘さんの結婚を願って |
おられるかも知れませんね。 次は、是非とも2016リオデジャネイロで金メダルに挑 |
戦して欲しい気持ちで一杯です! |
≪最後に一言≫ |
ロンドンオリンピック開会式直前の7月22日にソフトボール日本女子が、カナダで |
開催の第13回世界選手権で見事“優勝”いたしました。 |
それも1970年の第2回大会以来の11大会42年振り2度目の優勝を、8連覇を目指す |
王者米国を延長10回2対1で破り偉業を達成しました。 |
(準決勝で米国に敗れましたが、敗者復活戦でカナダに勝ち決勝戦進出) |
上野 由岐子投手 |
しかし、テレビ、新聞等の報道は寂しい限りでありま |
した。4年前の北京オリンピックでの金メダル獲得時に |
は、“神様、仏様、上野様”と上野由岐子投手を賞賛し |
ていましたがが、今では“大和撫子”の活字も完全に女 |
子サッカーの“なでしこジャパン”に変わってしまいま |
した。何か大和撫子が気の毒でかわいそうな気持ちです! |
今回のオリンピックから消えてしまったこともあり、 |
大衆の注目度合いというか、移り気の早さに驚くととも |
に、前述した“勝てば官軍”という言葉を使いましたが、勝っても?? “塞翁が馬” |
ではありませんが!、東京オリンピックでは競技復活するかもしれません。その時の |
女子ソフトボール選手の活躍を心から願って応援いたします!。 |
「えっ!東京オリンピック実現すると思っているの!」“国民の気持ち次第です!” |
「その頃、貴方はご健在ですか?」と言われないうちに終わりといたします。 |
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東京計器入社前にタイムスリップ・・・ |
NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」を見ながら、忘れかけていた東京計器に入社した |
頃の想い出が甦ってきました。終戦の年の5月末に焼け野原になった旧東海道を、自 |
転車で横浜まで往復したのが、それまで学徒動員で品川の工場より先の、横浜方面に |
行ったことのなかった私の思い切った冒険でした。 |
芝公園の近くにあつた家を出て、三田から横浜までの国道の両脇は、5月24日と25 |
日夜の京浜地区一帯の激しい空襲で、焼け野原になっていて、所々、焼け残つて煤け |
たコンクリートの中が真つ黒に焼けたビルや、焼けた学校の防火壁と思われる家の格 |
好をした厚みのない建造物、丁度、舞台装置の背景のようなものが、ポツンポツンと |
残っているだけでした。瓦礫の上を吹きわたる強い風で巻き上がる埃を、手拭いで鼻 |
と口を覆って夢中で走りました。当然、国道沿いにある東京計器の、焼け残った本社 |
の前も通ったはずですが、気がつきませんでした。 |
制空権確保した米空軍 |
大空襲後の下町 |
焼け跡を避難する人たち |
どうしてこんな冒険をしたのか理由は、この年の2月に早稲田の入学が決まり、大 |
学でやがて使うと思った専門書を買い集めて、何時、焼け出されるか分からない家か |
ら、横須賀の山中にある叔父の家に、疎開しようと思ったからです。当時、叔父は横 |
浜反町の小学校校庭に首都圏防衛の高射砲陣地を構築して、隊長として横須賀から通 |
勤していました。このように苦労して集めた本も、叔父が家に持ち帰らず、隊の弾薬 |
庫に保管しておいて、空爆の被害ですっかり焼けてしまいました。戦争も終わり、除 |
隊した叔父が、焼け残った本の一部を持って謝りに来られましたが、やっと10月に学 |
校が再開され、晴れて通学出来るようになった教室では、教科書のない授業の、教授 |
の盤書を必死にノートした想い出があります。 |
いよいよ東京計器に入社! |
昭和30年代時計台の東京計器 |
私が東京計器に就職が決まったのが昭和26年10月。 |
「梅ちゃん先生」の家が新築された頃かと思います。卒 |
業後、給料の遅配・欠配が当たり前だった、当時の中小 |
零細企業2社を経て、やつと歴史ある中堅企業に就職で |
きて、しかも、製造会社では珍しく土曜日が半日勤務と |
いう会社へ就職できた喜びは、これで経済的に苦しい父 |
の手伝いが出来ると、本当に嬉しかったことを思い出し |
ます。入社後先輩に「計器の従業員は生活するのに、蒲 |
田じゃぁ一ヶ月全く現金はいらないんだよ」と言われて、本当に良い会社に勤められ |
たのだという実感がありました。会社の北側の通りを挟んで蒲田の三業地があり、小 |
さな食堂も多く、昼休みにこれらの食堂で昼食を食べている時に、近くの置屋から芸 |
子がおさらいでもしているような、長閑な三味線の音が聞こえてきたりしました。 |
調理台のすぐ下に、何時も煮立っているスープ鍋に、 |
昭和30年代の東京計器工場 |
切り落とした野菜だけではなく、卵の殻まで放り込んで |
いた中華食堂のおやじさんや、私の円形脱毛症を見つけ |
て、「何か最近心配事があるの」って、心配してくれた |
理髪店の店主、そして、気に入らない客が来ると「お前 |
に喰わせるものなんかない、帰れ帰れ」と怒鳴る有名な |
飲み屋の親父など、着飾らない本音で暮らせるイメージ |
の街、蒲田でした。 |
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今年に入って、特に4、5月に集中して読み甲斐のある、示唆に富んだ本が何冊も |
出版された。それらの中で、以下の5冊は是非とも一読をお勧めしたい。折角の良書 |
をあまり余分な内容を勝手に解釈することも適当ではないでしょうから、筆者の読後 |
の感想とどこに感銘を受けたか、何を根拠に今回推薦書として挙げたいかを上位2冊 |
について少し記してみたい。 |
これら5冊を筆者の独断と偏見で順位を付ければ次のようになろうか。 |
1)「0点主義 新しい知的生産の技術57」(荒俣 宏著 講談社刊) |
2)「舟を編む」(三浦しをん著 光文社刊) |
3)「第四の消費 つながりを生み出す社会へ」(三浦 展著 朝日新書) |
4)「『方言コスプレ』の時代」(田中ゆかり著 岩波書店) |
5)「失われた30年 逆転への最後の提言」(金子 勝・神野直彦共著 NHK出版新書) |
第四の消費 つながりを生み出す社会へ |
『方言コスプレ』の時代 |
失われた30年 逆転への最後の提言 |
1)「0点主義 新しい知的生産の技術57」(荒俣 宏著) |
著者荒俣氏は筆者より10歳年下になるが、筆者が物心ついた時から現在まで、最も |
尊敬している作家兼“何でも屋さん”の一人である。物事に対する取り組みから、考 |
え方、世の中のありように対する身構え方が筆者がほとんど理想に近いと思うくらい |
に肩入れできそうに思えて、知らず知らず日々の過ごし方や書斎の机の周りのありよ |
うまでしみじみ似て来たなあと思っている人である。 |
先ず本論に入る前に、本の帯のうたい文句が面白い。いわく、「あきらめろ、バカ |
になれ!そうすれば成功の『ニッチ』が見えてくる。」、またいわく、「競争なしで |
一人勝ちできる! 人生が逆転する秘密の勉強法!!」。 |
序章から第6章まで全体が7章で組み立てられており、各章が多い章で12、一番少 |
ない章で4つの知的生産の技術が新しく紹介されている。筆者には一つ一つは必ずし |
も新しいとは思えないが、それぞれの章のくくりとその章の中に収められている知的 |
生産技術の捉え方が非常に適切であると感じた。 |
以下少し筆者が心底同調したい、「その通り!」と拍手喝采したい項目を幾つか紹介 |
したい。 |
第2章 情報整理なんていらない |
*アウトプットの姿勢で知識のつき方も変わる |
「アウトプットを公表することは、多くの人に見てもらい、検証を受けることと考 |
えるべきなのだ。間違いを指摘されれば大恥をかくが、それは内容を訂正できる |
チャンスでもある。人生なんて、死ぬまで恥のかき通し。失敗を気にしていても |
始まらない。」(P111) |
*ライブ感をもって授業のメモを取る |
「本を読んでいる間も、人の話を聞きながらもメモを取る。些細なことにはこだわ |
らず、目を凝らし、耳を研ぎ澄ませて、ライブ感をもってメモを取ることが重要 |
になる。」(P119) |
筆者の高校時代から現在までの経験を紹介してみよう。高校時代往復2時間の電車 |
通学の時間を読書に使うことに決め、当時の岩波文庫と新潮文庫を片っ端から読み進 |
め、3年間にすべてを読破してしまった。でも、ストーリーや内容が何だったかを良 |
く分かるように説明できる本は限られた数冊かもしれない。名文の出だしを覚えてい |
て口ずさめるもの、主人公の“名セリフ”を自分でも使ってみたいと思って覚えてい |
るもの等々いろいろあるので、自分でもよく読んだと思っている。それぞれの本の内 |
容をA4一枚くらいの纏め書きにする練習は長く続けたが、大変有効だった。現在で |
は本を購入するたびに、ノートに最低でも書名、著者、その版の日付、読了日を記し、 |
必要に応じ、読後感を入れている。 |
電車の中で本を読んでいても、耳に入った乗客同士の会話の面白いものはメモに取 |
って役立つ日のために自分のストックとしている。そのために、絶えずメモ帳は携行 |
している。 |
*自分の持ち時間に制約をかける |
「忙しい時のほうが、かえっていろいろなことができるーこれは、多くの人が体験 |
していることではなかろうか。勉強も同じだ。私自身、サラリーマンと今の仕事 |
の二足のわらじを履いていた9年間のほうが、現在よりも時間を有効活用し、ア |
ウトプットも多かった。」(P121) |
「野球やサッカーも、前半よりは後半、その後半も最終場面になるほど緊迫する。 |
その瞬間、人は全神経が集中できているのだ。たぶん、ふだんの自分の10倍は |
能力アップしているはずだ。」(P122) |
0点主義 新しい知的生産の技術57 |
筆者が高校生の時に、「学燈」という受験雑誌の座談 |
会に出されて勉強の仕方を話す機会があったが、そのと |
き筆者が話したのは教科書とノートと限定した参考書に |
絞って、その代りそれらを少なくとも3回読む、1回目 |
は鉛筆で、2回目は青鉛筆で、3回目は赤鉛筆で大事と |
思うところ、まだ覚え切っていないところ、頭に十分入 |
っていないところに線を付すことを自分の勉強法として |
披露したのを思い出した。試験の前日には赤鉛筆の線の |
入ったところだけを拾い読みすれば漏れがないという自信に繋げていた。 |
第3章 勉強を高尚なものにしない |
*西洋絵画史における私のヘンな発見 |
「私は美術が好きで、よく美術書を眺めたり、美術館へ行ったりしている。そうや |
って古今東西のさまざまな絵に接し、メモを取っているうちに、私は二つ発見を |
した。一つは魚に関すること、もう一つは近代西洋絵画における人体画像に関す |
ることだ。」(P133) |
二つの発見の内容まで書いてしまっては読書の楽しみがなくなるでしょうから、読 |
者諸氏それぞれにトライしてみてください。 |
*背伸びをすると世界が広がる |
「かつては“背伸びをする”ことがよしとされたが、今は『等身大』の時代だ。無 |
理せず、ありのままでいることが素敵だと思われる。」(P158) |
*競争不要の「隙間」をたくさんみつけていく |
「ビジネスをするうえでライバルが生まれにくいジャンルは、そこに目を付ければ |
大きな利益につながる可能性がある。」(P161) |
*人生、途中下車するのも悪くない |
「未知のものにアクセスする勇気と好奇心が、まず必要だと私は思う。」(P168) |
「ただ、一つ問題なのは、未知のものに手を出す勇気や好奇心が、歳を重ねるほど |
薄れていくという現実だ。」(P169) |
第4章 苦手な勉強こそ意外なチャンスをもたらす |
*一番やりたくない仕事が最高におもしろい勉強になった |
「会社に入ったばかりの若者は『石の上にも3年』と上司に言われ、『またそれか』 |
と思うこともあろう。しかし、勉強においてこのことわざは正しい。ダメだと思 |
うことでも、3年続ければ道はかならず開けてくる。」(P177) |
*もっと叶えたいベスト3を人生から外してみよう |
「人気ベスト3(成功したい。お金持ちになりたい。異性にモテたい。)を、とり |
あえず人生から外してしまうのだ。すると、それらが人生の相当な重しになって |
いたことに気づくはずだ。」(P199) |
*自分を低い評価にとどめると、学べるものが多くなる |
「プライドはたいがい必然的に、生きることへの負担を強いてくるものである。そ |
うではなくて、自分への評価を反対に低く設定しておくと気が楽になり、人の目 |
を気にせず思い切っていろいろなことができる。」(P202) |
*短所を克服するとかけ算で伸びる |
「『長所を伸ばせ』という人がいるが、私はむしろ、短所に目を向けたほうがいい |
と考えている。」(P205) |
第6章 「人生丸儲け」の勉強法 |
*「定年退職後に勉強しよう」では遅い |
「0点主義とは、点数という束縛から離れて、さまざまな知的関心を楽しく広げて |
いくことだといえる。そのような『幸福色』をした知識や体験は、かならずいつ |
か、他人をも幸福にするだろう。なぜなら、本人がそれによって幸せに生きてこ |
られたからだ。」(P249) |
と結んでいる。なんと心に響くエンディング・メロディではないか。 |
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「大山講」の人々はどんないでたちで歩いたのだろうか。一つのヒントとして歌川 |
広重の「東海道五拾三次」のうち、「藤沢」に描かれたさまざまな人々の姿を見ると |
鉢巻をして大きな木太刀を担いだ男を先頭に、境川にかかる大鋸橋(だいぎりばし、 |
現・遊行寺橋)を渡る一行が「大山講」の人たちらしい。揃いの法被を着ており、江 |
戸の職人たちと思われる。この絵は大山詣でとセットでツアー・コースになっていた |
江ノ島詣でのものであろう。 |
大山に参拝するときは、先達である御師の宿坊で白装束に着替えたのではないかと |
思う。 |
4.街道日記(前の続き) |
(2)三軒茶屋〜梶が谷(1月25日) |
前回に続いて、三軒茶屋駅をスタートし、二子玉川を経て梶が谷まで約10kmのコ |
ース。用賀までは世田谷通りから行くコースと、玉川通りから行くコースがあり、後 |
半期利用されたという後者をとる。分岐点にあたるこの三差路には江戸時代、三軒の |
茶屋があったことから「三軒茶屋」の地名が生まれたという。国道246号から外れて旧 |
道の中里通りに入り、名残りをとどめる庚申塔や地蔵尊を見て再び国道へ。上馬交差 |
点で環7を渡ると、駒沢大学の学生たちの群れに呑み込まれそうだ。新町1丁目の交 |
差点から国道を離れ、右の新玉川線(地下)沿いの道に入る。桜新町駅から用賀駅付 |
近の市街を過ぎると首都高のガードをくぐり、田中橋を渡る。この川は豪雨になると |
冠水し、旅人を困らせたらしい。用賀という地名は、鎌倉時代に今でいうヨーガの修 |
験道場があったことからつけられたという。 |
三軒茶屋で分かれた街道は一旦合流し、延命地蔵のある場所から再び二つのコース |
に分かれる。ここからは右の道を選んだ。選択基準は何もなく、“足の向くまま気の |
向くまま”の旅である。こちらの道には真言宗の慈眼寺や瀬田玉川神社があり、まも |
なく二子玉川駅だ。ところが賑わう駅付近で方角が狂ってしまい、結局交番で道を尋 |
ねる羽目に。山では勘のはたらく私も、都会ではよく“道迷い”する。「二子の渡し」 |
に訪れようと思ったが、工事現場があって確認できなかった。ここの渡しは昔大山街 |
道の難所で、暴れ川だった多摩川は架橋しても増水のた |
@二子の渡し場入口跡 |
びに流失するので、結局渡し舟に頼ったという。大きな |
二子橋を渡るとき、大菩薩連嶺、奥多摩三山、雲取山な |
どが望見された。これらの山々は私が山を始めた頃に最 |
初に登った想い出の山々だった。世田谷区から川崎市高 |
津区へ、二子橋を渡ると狭い場所に「二子の渡し場入口」 |
と書かれた柱があった。このあたり、二子新地はかつて |
「花街」だったという。 |
二子神社を過ぎ、高津、溝口に至る道は二子宿、溝口宿のあった街で今でも「大山 |
街道」と呼ばれ、毎年2月には「大山街道フェスタ」という祭りが行われて今でも活 |
気にあふれた街である。高津図書館の入口には国木田独歩の碑があり、碑文は島崎藤 |
村の筆になる。「大山街道ふるさと館」へ寄って往時の風景写真を見学する。高津、 |
溝口間には古い造りの商店があり、かつての溝口宿の面影が残っていた。溝口神社に |
参拝し、溝の口駅入口を経て梶が谷駅にゴールする。今日は約10km、3時間25分、 |
約2万歩の歩程だった。 |
(3)梶が谷〜荏田(江田)(2月2日) |
A高津の子育て地蔵堂 |
B高山の四等三角点 |
この日は厳しい寒さがや |
や弛んだ感じのする日だっ |
た。午後出かけて梶が谷駅 |
から歩き出し、国道246号を |
渡って宮崎大塚へ寄る。こ |
こだけ盛り上がって古墳だ |
か何だかわからないらしい |
が、頂上には供養塔があっ |
た。この辺り、戦時は高射砲陣地があったという。 |
庚申坂を下り、宮崎台駅の北を通ったが、どうも別の |
C鷺沼の阿弥陀堂 |
道を歩いているらしいので一旦宮前平駅へ下って位置を |
確かめ、出直す。田園都市線のガードをくぐり、小台坂 |
を登る。昔は急坂で、長雨ではぬかるんで通行困難だっ |
たらしいが、今は道幅も広く、勾配も緩くなっている。 |
高山と呼ばれる坂の頂点には民家の間に四等三角点 |
(746.6m)があった。鷺沼駅入口から八幡坂を下り、 |
246号に出て右に阿弥陀堂を見る。 |
鷺沼の地名は昔小さな沼がいくつかあり、「サギが飛来する沼」からつけられたら |
しい。 |
川崎市宮前区から横浜市都筑区に変わった辺りで道に迷ってしまう。今日はこれま |
でか、と半ば諦めながら歩くうち先刻通った見覚えのある街角に出たので、もう一度 |
現在地を確かめて出直した。この周辺は屈曲点が多くて目印がないのでややこしい区 |
域だ。細い尾根道があり、昔の街道を彷彿とさせる貴重な部分だろう。坂を下りたと |
ころは牢場谷(ろうばやと)と呼ばれ、「牢屋のあった |
D荏田下宿の庚申堂 |
場所」と記した文献もあるらしいが、「ろうば」は出入 |
り口の狭い地形の谷戸のことのようだ。市営地下鉄の高 |
架橋を渡り、住宅地を行くと、左側に霊泉・不動滝があ |
る。水は滴る程度落ちており、仏像が置かれていた。 |
石段を登ると老馬鍛冶山不動堂があり、隣には稲荷社も |
あった。早瀬川を渡るとすぐに庚申堂がある。荏田下宿 |
の女性たちが災い除けのため、寛政年間に建てたという。 |
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第2回目の新生IRAN会 を開催しました |
新生IRAN会の第2回目の懇親会を、先々月の5月 |
第2回_集合写真 |
20日に、西大井の拙宅一階小ホールにて行われました。 |
その模様を紹介させていただきます。 |
当日、遠くは那須から馳せ参じ、総勢16名が元気な姿 |
で一堂に会し、つもり積もった話に花が咲き、完全防音 |
のホールで外部に気兼ねなく歌えるカラオケで美声を聴 |
かせて頂いたりして、時の経つのを忘れるほどの楽しい |
会合でした。次回は10月21日を予定しています。 |
IRAN(アイラン)会とは |
IRAN会は、1954年東京計器の社内に設けられたBENDIX社のサイトレーダー |
の建設、出張修理などの仕事を引き継いだ航空特機部の一グループの懇親会です。 |
1998年に杉原智夫氏が提案し、拙宅一階小ホールを使用して始め、一年おきに東京 |
と那須(保養所)で交互に実施してきました。しかし、2009年1月の第12回目の会合 |
で、杉原智夫氏から継続中止の案が出されたが、継続したい人の中から幹事を選出し |
て、新生IRAN会として再出発することになりました。また、那須での会合は、諸 |
般の事情からやめることにし、年2回拙宅のホールにて、他のスケジュールの無い日 |
に開催することになりました。昨年春は、東日本大震災のこともあり中止し、新生第 |
1回を昨年10月16日に、20名の参加を得て行いました。形式は日曜日の昼食会です。 |
(IRANという名前は、装置名とのことですが、現在のところ詳細不明です) |
IRAN会の運営には、年会費的なものはなく、開催の都度、出席者が当日の会費 |
を払うだけです。会場はJR横須賀線西大井駅から徒歩5分の所にあり、拙宅一階 |
(半地下)完全防音の録音用ホールで約100u、グランドピアノ、映写装置、テレビ、 |
カラオケ機器の設備があります。会員は、現在28名となっております。 |
会員の皆さんの感想 |
◇高齢の方も増えているので、年1回だと次の時に会えなくなる人も出る。年2回 |
ならそれが防げるので有難い。 |
◇那須まで出掛けるのは、家族が心配してなかなか許してもらえない。会場が都内 |
なので家族も許してくれる。 |
◇仲間だけの会場なので周囲や他人を気にしないで話ができる。すごく楽しい。 |
◇那須からも湘南新宿線で宇都宮から一本だし、便利になったので助かる。また、 |
欠席者からの現状をコピーして渡してくれるのは有難い。 |
◇自分達のやってきた事がどう繋がっているかなど知ることができて、時代の変化 |
が分るのは有難い。 |
◇欠席者から・・・集合写真と会の報告をもらって「お互いに年を取ったな〜」と |
感じる。次回は何とかして出席したいと思う。 |
集合写真のみなさん |
椅子に腰かけている人、左から、若林弘夫氏、森 忠彦氏、工藤 忠氏、 |
南 紀子さん、伊藤美里(筆者夫人)。 |
立っている人、左から、宮川鉄也氏、堀田修靖氏、川島広海氏、矢澤 進氏、 |
若竹日方氏、新井正美氏、平野 誠氏、若松富男氏(通訳)、 |
松為近子さん。 |
後ろで手を挙げている人、左から、鳥井 匡氏、伊藤誠一(筆者)。 |
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―― 四つの要素の達人になってください! ―― |
今回は臆面もなく自己主張120%で主題の考え方をご披露したいと思います。筆者が |
自らエキスパートなどと吹聴しようという訳ではありませんが、人間を75年以上やっ |
てみて、たくさんの外国人と仕事を共にし、良い意味でも、悪い意味でも日本人に特 |
有の考え方が確かに存在していることを認めざるを得ないと同時に、それが場合によ |
っては、命取りになるくらい、大いに毛嫌いされていることを残念ながら認めた上で、 |
それらのことをすべて公平に斟酌してみて、筆者が自分なりに伝えたい主題に立ち向 |
かう心構えを記してみたいと思い至ったからです。全く独断と偏見の産物であること |
をお断りした上で、多少なりともこれからの日本を背負って立つ若い皆様の生き方に |
参考になれるなら、それに過ぎる筆者の喜びはありません。 |
では早速以下の四つの大切な要素を提案させていただきましょう。 |
好奇心 |
最初に最も重要なファクターとして『好奇心』を挙げ |
たいと思います。「なぜ?」、「どうして?」、何時で |
もこの身構えが大変必要だと思うからです。英語で言え |
ば“Curiosity”ですが、この好奇心があれば、それを解 |
くためにあらゆる努力を惜しまずに、挑戦(“Challenge |
”)し、解決のために必ず『学習』(”Learning”)と |
いう行動を起こすでしょう。その結果は、何らかの形を |
伴って得たものを自分の身に着け、『創造』(“Creati |
on”)という行動に表すことになるでしょう。その集大成はやがて新たな『提案』 |
(“Proposal”)となって、周囲の人々の前に、あるいは広く世界の人々の前に『披 |
露』されることになるでしょう。 |
二つ目に大切な心構えは『信頼』(“Trust”)だと思います。これがあって初めて |
関係者との『友情』(”Friendship“)が醸成され、作業の『協調』が生まれ、自分 |
の意志や思いのたけが、”Cooperation“、”Collaboration“あるいは”Coaction” |
という形のあるものに育って、周囲の人々の目の前に姿を伴って現れることになるで |
しょう。 |
確信 |
三つ目には、『確信』(“Confidence”)を挙げたい |
と思います。確信を伴わない申し出や意見は説得力があ |
りません。そこで、勿論確信の裏には充分な『裏付け』 |
(“Evidence”)があることが前提になるのですが、こ |
の確信こそが仕事の質の良さ、『品質』(“Quality”) |
に直接結び付いていると思うのです。激烈な競争に打ち |
勝つにも、同じ考えの人々や会社を纏めてグループ化し、 |
一緒に仕事をする礎を作り上げる大前提になるでしょうし、それが出来て初めて個々 |
の分野、仕事で言えば市場のリード、占有率の優位性を保つ基礎が築けるのではない |
でしょうか。 |
ここまでで主題に対して、一応の完成の姿は描け得たと思うのですが、世の中は広 |
く、地球上には自分たちの言葉だけでは通じない世界のほうがはるかに広く存在して |
いることを考えない訳には行かないのです。 |
そこで、第四番目に複数の言葉を操る言語力(“Bilingual”、”Trilingual“) |
が要求されると思います。我が国でも近年一つの尺度として、トーイック(TOEIC、 |
英語によるコミュニケーション能力を測る学力テスト。”Test Of English for Int |
ernational Communication“の頭文字を取ったもの)やトーフル(TOEFL、主に米国 |
へ留学を希望する外国人対象の英語学力テスト。”Test Of English as a Foreign |
Language”の頭文字を取ったもの)が重要な武器のように持て囃されています。もち |
バイリンガル |
ろんそれらに果敢に挑戦して、自分の実力を試し、知っ |
ておくことは大変よいことでしょうし、これからの地球 |
人には必要なことの一つではあるでしょう。でも筆者の |
友人がいみじくも語ってくれましたが、トーイックを900 |
点以上持っていても充分にしゃべり、意思疎通ができな |
い人が半分以上もいると言うのです。何が災いしてそん |
なことになっているのでしょうか。それは母国語である |
日本語をしっかりしゃべり、万人に理解される、しっか |
りした文章が書けないという事実に由来しているのです。一所懸命にトーイックに挑 |
戦して英語力を蓄えたと思ってみても、元になる日本語の表現が充分に出来なければ、 |
他国の人を説得する力など持てるはずがありません。間違って解釈されないように、 |
適切な単語を選んで外国語で話し、自分の意思を自由自在に疎通させる能力を持つこ |
とが最後に望まれることになると言えるのではないでしょうか。その意味では先ず日 |
本語をもっともっと真剣に勉強する必要があるでしょう。筆者には、現在の日常の生 |
活では学校での授業も含めて、書くことの必要性が少なくなっていると思われますし、 |
軽んじられているように思えてなりません。国会議員の質疑や学校の先生のしゃべり |
の中には、聞いている筆者の方が居た堪れない情けなさを感じる場面が日常なんと多 |
いことかと呆れるほどです。近年年を追うごとに、公共のテレビやラジオにおいての |
しゃべりのみならず、字幕や使われるフリップの文章に誤字が多く、稚拙な文章が目 |
立つように思われます。大分議論が脇道に逸れてしまったようです。日本語の問題を |
さらに先に進めることは辞めにして、ともあれ筆者が登場させたかった自分を主張し |
て生き抜くための四つの要素をご披露させていただきましたので、今回の議論はこの |
あたりで『了』とします。少々堅い話になりましたが勘弁してください。 |
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或る自主活動グループのメンバー数名で、昔から唐辛子業界で名前の知られた大田 |
原市の(栃木県の代表格でもある)唐辛子製品製造工場・Y社を見学させてもらった。 |
以下はその時伺った話の概要です。手の空いた折にでも、ちょっと目を通して頂けた |
ら幸いです。 |
◇原産地と日本への伝来 |
唐辛子の原産地は中南米とも云われていて、紀元前数千年の頃からペルーの中部山 |
岳地帯で栽培されていたことが、考古学的に明らかにされているらしい。しかし実際 |
にスパイスとして広く利用されるようになった歴史は浅く、僅か400年位しか経って |
いないそうである。日本への渡来は@南蛮渡来船説Aポルトガル宣教師説等があり、 |
いずれにしても16世紀半ば頃に持ち込まれたのが始まりと云われている。ところで唐 |
辛子の「唐」は中国のことではなく「南蛮渡来」という意味合いを含めてそう呼ばれ |
てきたのではないかと考えられる。 |
◇Y社の経歴 |
初代社長Y氏が昭和初期、東京でカレー粉及び唐辛子製品の製造販売を創業。その |
原料調達の一環として、北関東で唐辛子の契約栽培の開発に着手し、その進展に伴い |
乾燥とうがらし_栃木改良三鷹 |
1940年頃に現在地(大田原市)を本拠地と定めた。Y氏 |
は密かに唐辛子の育種作業に励み続けた。その執念と努 |
力でやっと1955年に新品種「栃木改良三鷹」の開発に成 |
功した。三鷹(さんたか)とは三河國(愛知県東部)で昔 |
から栽培されていた大変優れた品種、「鷹の爪」(鷹の |
足の爪のように少し弯曲した形の唐辛子)に付けた名称。 |
「栃木改良三鷹」はこの三鷹をベースに改良を積み重ね、 |
より優れた品種の唐辛子として誕生。(優れた点⇒辛み |
が強い、病気に強い、一気に完熟し収穫し易い、収穫量が多い、保存性が良い等々) |
◇特産地としての位置付けが定着 |
社内に「外交員」という制度を導入し契約栽培農家の勧誘・拡張並びに栽培の現地 |
指導に当たらせた。病虫害発生時などには「外交員」も農家と一体となって問題解決 |
に取り組ませた。外交員は栽培指導を行う過程の中から多くのノウハウを習得し、必 |
然的に唐辛子栽培のプロとして成長していったものと思われる。農家はこれ等のプロ |
から一流の(栽培)指導を受けることができた訳である。もちろん農家から教えられ |
ることも多くあったと思う。また種子も会社で厳格に品質管理(病気・虫・カビ防止 |
処置等)した良質のものを無料で農家に提供した。つまり大切な種子を会社の管理下 |
に置き、栽培も決して農家に任せきりにしないと云う企業戦略の下で、良質の唐辛子 |
を沢山買い付けることができた訳である。このようにして「栃木改良三鷹」はY社の |
契約栽培を中心として瞬く間に大田原地域に普及していった。次第に唐辛子は大田原 |
との評価が高まっていった。 |
◇大田原市は日本一の唐辛子産地だった |
更に追い風となったのが、朝鮮戦争と輸出振興策。1950年から始まった朝鮮戦争で |
は米軍による特需が生まれた。また1955年頃から国の外貨獲得のための輸出振興策が |
スタート。特定農作物(みかん、お茶、唐辛子)の栽培が奨励された。唐辛子栽培の |
実績が買われ大田原市に白羽の矢が立った。栃木県のバックアップもあり栽培に増々 |
拍車がかかり、やがて全国ナンバーワンのシェアを誇るまでになった。例えば1963年 |
当時の日本における唐辛子生産高(年間)は約7,000トンで、その中の5,000トンを大田 |
原市産が占めていたそうである。輸出も盛んに行われた。しかし日本の高度経済成長 |
に伴い、都会への人口流出が進み、手間のかかる唐辛子を栽培する農家が激減。また |
円高の影響で輸出も振るわず、国産唐辛子が品薄になりつつあったため、これまでに |
培われた栽培技術を生かし(外交員制度を流用)、中国での「栃木改良三鷹」生産に |
打開の道を求めた。しかし国民性の違い等により農業への取り組み姿勢に日本と大差 |
があり、筆述し切れない多くの難問に突き当たった。長い年月をかけて栽培法をはじ |
め品質管理、農薬管理等の教育・指導に取り組み、更に「生産の全行程を追跡可能に |
する仕組み」(トレーサビリティ)の構築に漕ぎ着けることができた。万一事故(農 |
薬・肥料・カビ・病原菌等が原因での事故)が発生しても、現品添付の工程(記録) |
票に基づき、「いつ・どこで・誰が・何を」・・・の手法で過去のどの行程へでも直 |
ぐさかのぼることができ、原因の究明や回収が容易になるシステムが確立。やっと国 |
内生産の「栃木改良三鷹」と同じ品質レベルのものを中国で生産することができるよ |
うになった。昨今では国内消費量のおよそ95%を輸入品で賄っているそうである。 |
「栃木改良三鷹」(乾燥唐辛子)は海外でも人気があり、国際間のスタンダードにラ |
ンクされているそうである。驚く一方、大田原市民の一人として大変誇りに思う。 |
◇唐辛子による大田原の町おこし |
新たな観光資源を発掘して町おこしに役立てようとの考えの下で、知名度の高い |
「栃木改良三鷹」を用いた各種商品の研究・開発が10年程前から盛んに行われている。 |
これまでにおよそ50種近くが商品化され、新名物として市中の店頭に並んでいる。 |
例えば、とうがらしラーメン、とうがらしパン、とうがらし羊かん、とうがらしソース、 |
とうがらし醤油、とうがらしジェラ−ト・・・等々。 |
とうがらし羊かん |
とうがらし醤油 |
とうがらしジェラ−ト |
近くにお出かけの切は、例えば「道の駅与一の郷」などを覘いて見ては如何でしょ |
うか。町おこし新商品の一部がご覧になれます。 |
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20年ほど前、中高年の登山ブームと前後して“栃木の |
200回記念登山 |
山100”と言う山の案内書が発行されました。内容は栃木 |
県の主な山100の登山ルート、交通ルート、難易度等を記 |
した解説書です。 |
そこで友達3名で栃木の山100を全部登ろうと決め平成 |
3年8月21日、第一回目として剣が峰(1,540m)に登り |
以後年間計画を立て毎月第2土曜(現在は第3木曜)を |
「山登りの日」と決め山登りを楽しんできました。会員 |
は増減しましたが現在は20名で、常時参加される人数は6〜10名です。会員の中には |
全国100名山を踏破された方もいます。会の名称は「栃木の山100を全部登る」、「100 |
歳まで山登りをする」、と言う気合を込めて “ 栃木100歩会 ”と名づけました。 |
会発足以来21年目、今年5月で202回を重ねました。平成13年既に100山は踏破しそ |
の後は季節に合わせ好みの山を登っております。同じ山でも季節によって趣きが変わ |
り何回登っても飽きる事はありません。夏の白根山は爽快で最近では毎年8月は白根 |
山と決めて登っています。また、11月は県外の山を選び一泊して会員相互の懇親を深 |
めています。 |
山登りの楽しみはなんと言っても山頂に上った時の達成感、爽快感と昼食時、各自 |
持ち寄った一品料理で缶ビールを味わう事です。 |
山登りは、年齢に関係なく歩ける人であれば誰でもゆくっり登れば登山が出来ます。 |
ただ、日帰りと言う時間制約の中での登山であり、その面で自ずと制約はされます。 |
これからも無理をせず、足腰の許す限り山登りを続けていくつもりです。
これからも無理をせず足腰の許す限り山登りを続けていくつもりです。
これからも無理をせず足腰の許す限り山登りを続けていくつもりです。
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