話 題 『 よもやま話 』 2011年11月〜2012年2月
 
          話  題  一  覧
2012. 2.28 6年ぶりに全面凍結した「袋田の滝」を撮る   投稿;斎藤 俊晴
2012. 2.26 ALWAYS三丁目の夕日’64鑑賞記 その2  投稿;三橋 春夫
2012. 2.25 「ALWAYS三丁目の夕日'64鑑賞記 その1」を読んで 投稿;佐藤 雅寿
2012. 2.19 ALWAYS三丁目の夕日’64鑑賞記 その1  投稿;三橋 春夫
2012. 2.12 “いたち川”川沿いを探索する(その5/最終回) 投稿;野村 一信
2012. 1.12 飲み屋の「つまみグルメ」          投稿;三橋 春夫
2011.11.27 介護日誌                  投稿;金子 健吉
2011.11.20 “いたち川”川沿いを探索する(その4)   投稿;野村 一信
 

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          話  題  『 よもやま話 』
2012. 2.28 斎藤 6年ぶりに全面凍結した「袋田の滝」を撮る
 
6年ぶりに全面凍結した「袋田の滝」を撮る 宇都宮市 斎藤 俊晴
 
 今年は、久しぶりの寒さに「袋田の滝」が全面凍結(6年ぶり)しそうなので、皆
様よりも早く写真を撮ろうと思って先週(1月29日)日曜日に、まずは行って見まし
た。凍結はしていましたが、全面凍結には少し早く氷の下に岩盤が透けて見える状態
でした。皆様よく知っていて、そのときには観光客もまばらでした。
 今日は(2月4日)十分な厚みを増して全面凍結をしているはずです。朝は早めに  ところが、この氷壁を登る人達が明け方から集まってきて楽しんでいます。
自宅を出発して、途中の道路凍結に注意をしながら、約60キロの道のりを無事に「袋
田の滝」に到着しました。先週に比べるとかなり観光客も多めでしたが、まだ、それ
ほど多くもなく勇躍滝の音が消えた白い壁面に見入っていました。滝の音が途絶えて、
ただ、真っ白な氷の壁面を見せる景観は何か神秘的な雰囲気を感じます。
第一展望台に10時07分到着
第一展望台に10時07分到着
6年ぶりの全面凍結
6年ぶりの全面凍結
一組だけまだ登っていた
一組だけまだ登っていた
 ところが、この氷壁を登る人達が明け方から集まってきて楽しんでいます。皆様、
夜のあけないうちから滝の氷壁を登り始めて、朝の10時ごろにはそろそろ氷がもろく
なってくるので、引き上げるそうです。私の到着時間はちょうど10時ごろでしたが、
運よくまだ1組の方が登って楽しんでいましたので、早速写真を30分ほど撮っていま
した。この辺で下からの写真は終わりにして、上の展望台に行くエレベータに乗ろう
としたら、いつの間にか搭乗口は長蛇の列になって乗るのに20分待ちになってしまい
ました。
一段目の滝を望遠撮影
一段目の滝を望遠撮影
今日の滝全景。第二展望台より
今日の滝全景。第二展望台より
 展望台にやっとの思いで
到着して夏場は滝音を轟々
と響かせている水が真っ白
な氷壁になって音が消えた
景色を見ることができまし
た。
 
 
 
 ここ「袋田の滝」は四季 2006年8月15日撮影夏の「袋田の滝」
2006年8月15日撮影夏の「袋田の滝」
2008年11月15日撮影の紅葉の「袋田の滝」
2008年11月15日撮影の紅葉の「袋田の滝」
を通じて変化があり楽しめ
るところです。秋の紅葉も
素晴らしい景色になります。
観光客で道路も大変混雑し
て駐車場を確保するのが難
しいほどです。
 
 今までに撮った夏と秋の写真を1点ずつ貼ります。こちらに来た時にはこの「袋田
の滝」もドライブコースに加えると楽しみも倍加するのではないでしょうか。
 
2011.02.26 三橋 ALWAYS三丁目の夕日’64鑑賞記(2012.2.9)その2
 
ALWAYS三丁目の夕日'64鑑賞記 その2 茅ヶ崎市 三橋 春夫
 
<物語のあらすじ> 三丁目の夕日
三丁目の夕日
 東京タワーを見上げる夕日町三丁目で自動車修理販売
会社「鈴木オート」の社長・鈴木則文(堤 真一)とト
モエ(薬師丸ひろ子)夫妻と一人息子で高校生の一平(
小清水一揮)、青森から集団就職で働いている主人公の
星野六子(堀北真希)と、お向かいは東大出で一流の小
説家を目指しており、芥川賞の最終選考に二度残ったこ
とがあるが文芸雑誌の連載が叶わず、生活のために少年
芥川龍之介
芥川龍之介
誌「冒険少年ブック」に「銀河少年ミノル」を連載中で
あったが、事情あって預かって同居している高校生・古
行淳之介(須賀健太)が内緒で書いていた小説「ヴィー
ルス」に人気を奪われ、連載の打ち切りが決まりピンチ
にたたされている貧乏作家・茶川竜之介(吉岡秀隆)と
身重のヒロミ(小雪)夫妻を中心に、笑いあり、涙あり
の心温まる2時間22分の物語である。
 時代は昭和39年(1964年)、東京オリンピック開催の年、
オリンピックに向けて日本では、新幹線、地下鉄、モノレール、首都高速道路やビル、
ホテルなどが急ピッチで建設が進められていた高度経済成長の真っただ中であった。
ところで、昭和39年はどんな時代だったのか、当時にタ 首都高速1号羽田線
首都高速1号羽田線
イムスリップしてみようと資料をいろいろ調べてみた。
世界は?日本は?東京計器は?主なトピックスをピック
アップしてみた。
 昭和30年〜同40年の東京計器は国産技術の拡大と自社
技術の開花著しい時代であった。昭和33年から「岩戸景
気」と呼ばれる高度成長期がスタートした。
特に昭和34年から36年までの3年間の実質成長率は平均
12.4%という伸びを示した。その中で会社は経営体質の強化に重点を置き、拡大基調
の推進により増収増益を図った。更に昭和37年7月には従来の職能別組織から製品別
東京計器旧社屋
東京計器旧社屋
コストセンターへと大規模な組織変更を行い、これによ
り、舶用機器部、電子機器部、工業機器部、油圧機器部
及び磁鋼製造部を独立させ、製品別の収益性の分析と管
理の徹底が図られた。そして、これらを経て迎えた昭和39
年は・・・、
【経営・組織】
01/25東機産業叶ン立
02/04一般管理、人事、営業、技術及び生産の5部門制
                に移行 橋井眞社長
橋井眞社長
02/06城南運輸叶ン立
03/31資本金を12億1,400万円に増資
05/13「管理会計制度」調査研究のためビッカース社へ
   社員を派遣
07/01清水サービス・ステーション新設(舶用)
07/−社長 橋井 眞 (社)日本油圧工業会の初代会
   長へ就任
08/28三菱製鋼鰍ニ磁鋼製造事業の譲渡契約締結
11/01磁鋼製造部廃止
【人事・制度】
04/01東京計器健康保険組合、川崎支部(不二サッシ)を分離
04/27社内報「弥生」発刊
05/26技能士会発足
10/08オリンピック聖火リレー本社前で引き継ぐ、副走者、従走者、沿道整備隊員に
   同好会が参加 UF-100型大口径超音波流量計
UF-100型大口径超音波流量計
【技術・生産】
10/−川崎義人著「信頼性のはなし」をTKS技術ニュ
   ースに連載
−/−新幹線レール探傷装置完成/MK-20ジャイロコン
   パス発売/社内認定試験制度(IQT)制定/世界初
   のUF-100型大口径超音波流量計完成
【業界・一般】
 
01/29インスブルック冬季オリンピック開幕 第49代横綱栃の海
第49代横綱栃の海
01/30南ベトナム軍事クーデター、グエン・カーン政権
02/01栃の海、第49代横綱に
02/23国鉄、座席予約装置MARS運転開始
03/18早川電機(シャープ)初の電卓を開発、
   1台50万円
03/24米ライシャワー大使、刺される
04/01日本、IMF8条国移行、
 
   観光目的の海外渡航自由化 新宿ステーションビルLUMINE_EST開店
新宿ステーションビルLUMINE_EST開店
04/28日本、経済協力開発機構(OECD)に加盟
05/20新宿ステーションビル開店
   地下に自動式コインロッカー初登場
05/28パレスチナ解放機構(PLO)設立
06/01三菱3重工合併、
   ビール・酒類、25年ぶりに自由価格に
06/16新潟大地震発生
 
06/19日米間の海底電話ケーブル開通、 東京モノレール開業
東京モノレール開業
   池田首相とジョンソン米大統領が初通話
07/10池田勇人、自民党総裁に3選、川島副総裁
08/02トンキン湾事件(ベトナム戦争始まる)、
   8月、東京、異常渇水で水不足
09/17東京・羽田空港と浜松町を結ぶモノレール開業
09/23王貞治選手、本塁打55本の日本新記録
10/01東海道新幹線開業
 
10/03九州横断道路開通 マーチン・ルーサー・キング牧師
マーチン・ルーサー・キング牧師
10/10第18回オリンピック、東京で開催、参加国:93の
   国と地域、実施競技:20競技、163種目、日本が獲
   得したメダル:金16個(重量挙げ・三宅義信、体
   操・遠藤幸雄、ボクシング・桜井孝雄、女子バレ
   ーなど)、銀5個、銅8個、計29個
10/14マーチン・ルーサー・キング師にノーベル平和賞
10/15フルシチョフ首相兼第1書記解任、後任にコス
 
   イギン首相、ブレジネフ第1書記を選出/英労働 YS11量産1号機初飛行
YS11量産1号機初飛行
   党勝利、ウイルソン政権へ
10/16中国、初の原爆実験成功
10/23YS11量産1号機初飛行
11/03ジョンソン氏、米大統領に
11/09佐藤栄作内閣成立
11/17公明党結成
12/01日本特殊鋼倒産→12/12サンウエーブ倒産。戦後
   最高の倒産記録
12/23金田正一投手の巨人入団決定
 以上が昭和39年の主な出来事であるが、テレビでは4/12に東京テレビ12チャンネル
が開局。「木島則夫モーニングショー」「逃亡者」「私の昭和史」「赤穂浪士」「ひ
三船俊郎アリナミン
三船俊郎アリナミン
ょっこりひょうたん島」「題名のない音楽会」「お天気
ママさん」「日曜劇場・愛と死を見つめて」などが人気
番組だった。
 一方、コマーシャルでは、「飲んでますか」(三船俊
郎、アリナミン)、「ファイトでいこう」(王 貞治、
リポビタンD)、「ハウスバーモントカレーだよ〜」な
どが思い出される。
 マガジンでは、その1で紹介した"みゆき族"は流行し
た麻袋やVANの紙袋、中には、4月に創刊された「平 オバケのQ太郎
オバケのQ太郎
凡パンチ」だったようだが、東京都は「平凡パンチ」「
週刊実話」を有害図書第1号に指定している。このとき
の東京都知事は東龍太郎氏であった。
 映画は「砂の女」「白日夢」など数多くあったが、こ
こでは省略する。コミックでは、藤子不二雄「オバケの
Q太郎」、白土三平「カムイ伝」、森田拳次「丸出だめ
夫」などだろうか。
美空ひばりと小林旭
美空ひばりと小林旭
 カラオケ好きの方ならご存知、歌は「アンコ椿は恋の
花」「ウナ・セラ・ディ・東京」「お座敷小唄」「サン
・トワ・マミー」「夜明けのうた」「幸せなら手をたた
こう」「大阪しぐれ」・・・。男性歌手では橋幸夫、舟
木一夫、西郷輝彦の御三家時代だった。6/25、小林 旭
と美空ひばりが離婚して話題となった年でもある。
参考:100年史、「戦後50年」(毎日新聞社)、その他イ
ンターネットなど
 さて、皆様はこの年、いかがお過ごしでしたでしょうか?記憶から遠ざかっていく
過去をいつまでも追っても無駄でしょうが、映画に登場するとやはり懐かしくなりま
す。そう言えば忘れていました!「ALWAYS 三丁目の夕日'64」のシーンに三人
の子どもと、トモエが赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」 おそ松くん
おそ松くん
の人気ギャグである"シェー"のポーズを披露する場面も
ありました。
 昭和39年のタイムスリップから戻り、現実の問題にも
どりましょう。連日の寒さと乾燥でインフルエンザが大
流行しています。恐ろしい香港A型です。くれぐれもご
自愛下さい。
 
 
2012. 2.25 佐藤 「ALWAYS三丁目の夕日'64 鑑賞記 その1」を読んで
 
「ALWAYS三丁目の夕日'64 鑑賞記 その1」を読んで 習志野市 佐藤 雅寿
 
三丁目の夕日
三丁目の夕日
 今年になって映画「ALWAYS 続三丁目の夕日」
の第三作目が公開された。先日、三橋会員からホームペ
ージにその「鑑賞記」が寄せられた。文章と添えられた
写真で、映画の内容はほとんど理解できるぐらいに詳細
を究め、また氏が感懐する昭和39年前後の時代の空気を
うまく表現されていたし、特殊な撮影技術にも言及して
おられたのには感心した。
 小生も公開初日に観て、第一作時からメインの役者は
大きく変わっていないが、茶川竜之介とヒロミが結婚しており、身重になっていたこ
と。鈴木オートに勤める星野六子が想いを寄せる青年医師が登場したり、茶川が勘当
された父親の危篤の報をう 星野六子が想いを寄せる青年医師
星野六子が想いを寄せる青年医師
登場人物
登場人物
け、実家に戻って初めて父
親がわが子をいつも心配し
ていたことなど。特に第一
作時小学生だった淳之介少
年はそのまま大きくなり、
大学受験生となっており、
親代わりの茶川先生との表
に出ない確執もあったりと、盛りだくさんな話の中に当時の下町の人情がからまり、
随所に暖かな気配りとほろりとさせるものがあった。
 第一作は昭和33年(東京タワー完成、小生16歳)、この第三作は昭和39年(東京オ
リンピック開催、小生22歳、東京計器入社3年を経過したところ)であり、東京墨田
地蔵坂通り商店街
地蔵坂通り商店街
昭和の生活
昭和の生活
区の向島で生活をしていた
ころである。映画のロケ地
は違えども、地蔵坂商店街
と鳩の街商店街というふた
つの商店街に挟まれた、ま
さに前の家の食卓がのぞけ
るほどの狭い路地裏の生活
であり、「三丁目の夕日」
を見るたび、狭いながらも楽しいわが家を思い起こす。
 今年は墨田区に「東京スカイツリー」がオープンし、新たな街おこしが始まってい
るが、昭和30年代のような盛り上がるような元気は取り戻すことは難しいだろうが、
「ALWAYS 続三丁目の夕日」をご覧になって、若かりし日のころの感慨に浸っ
てください。
 
2012. 2.19 三橋 ALWAYS三丁目の夕日'64鑑賞記(2012.2.9)その1
 
ALWAYS三丁目の夕日'64鑑賞記 その1 茅ヶ崎市 三橋 春夫
 
 最近、新聞やテレビで「ALWAYS 三丁目の夕日’64」の宣伝を目にして、以
前、会報62号で映画通の小出会員の映画雑感(邦画編)「ALWAYS 三丁目の夕
東京タワー
東京タワー
日」の寄稿を思い出し、本作品を鑑賞した。
 小出会員が寄稿された第一作は東京タワーが完成する
昭和33年(1958年)、東京下町の夕日町三丁目に暮らす
個性豊かな住人の物語を見事に当時の生活ぶりを再現し、
平成17年(2005年)11月に公開され、日本アカデミー賞
をはじめ、数々の賞を獲得した山崎 貴(監督・脚本・V
FX)のロングラン ヒット作品であった。その二年後に
同「ALWAYS 続三丁目の夕日」が公開され、第一
作を上回る大ヒット作品となった。(注VFX:Visual Effectsの略、特撮により現実
では見ることのできない画面効果を実現するための技術=視覚効果)
 今回の第三作は昭和39年(1964年)、東京オリンピック開催の年、オリンピックに
向けて日本では、新幹線、 オリンピック開会
オリンピック開会
新幹線開業
新幹線開業
地下鉄、モノレール、首都
高速道路やビル、ホテルな
どの建設が急ピッチで進め
られていた高度経済成長の
真っただ中にあり、日本が
一番元気だった時代ではな
かろうか。そして、多くの
OB会会員各位も青春を謳歌し希望に燃えておられたころの、東京下町の庶民の人情
味溢れる生活が舞台で、しかも、シリーズ初の3D映像である。
 東京タワーを見上げる夕日町三丁目で自動車修理販売会社「鈴木オート」の社長・
鈴木則文(堤 真一)とトモエ(薬師丸ひろ子)夫妻と一人息子の一平(小清水一揮)、
東北から集団就職で働いている主人公の星野六子(堀北真希)と、お向かいは東大出
で一流の小説家を目指しており、芥川賞の最終選考に二度残ったことがあるが文芸雑
誌の連載が叶わず、生活のために少年誌「冒険少年ブック」に「銀河少年ミノル」を
連載中であったが、事情あって預かり実の息子のように育てられている高校生・古行
淳之介(須賀健太)が内緒で書いていた小説「ヴィールス」に人気を奪われ、連載の
打ち切りが決定しピンチにたたされている貧乏作家・茶川竜之介(吉岡秀隆)と身重
のヒロミ(小雪)夫妻を中心に、世話好きなたばこ屋のキンおばさん(もたいまさこ)
や精肉屋、自転車屋、氷屋、電気屋の隣人たちが取り巻き、笑いあり、涙ありの心温
まる物語である。
 しかし、この作品の見所は、なんと言ってもVFX技 ブルー
ブルー インパルス
術で我が国のリーダー的存在の山崎 貴監督と渋谷紀世
子VFXディレクターが関わっていることもあり、その
技術の素晴しさである。
■オリンピック開催日、雲ひとつない青空の下、10月10日
の開会式には、会場で、都内で、そして多くの国民がテレ
ビの画面で見た航空自衛隊ブルー インパルスのF-86
Fにより、五輪の輪を見事に再現するシーン。
 
■一平が鈴木オート前から模型飛行機を飛ばし、路地か 東京タワー骨組み
東京タワー骨組み
ら表通りに出て東京タワーの方に向かって都電の架線を
避けて街中を飛ぶシーン。
■圧巻だったのは、東京タワー建設時に基礎工事から鉄
骨を組み立てて行くシーン。昭和38年の写真はまだ空き
地が多く、昭和39年夏時期を写真にするためにスタッフ
の苦労が相当あったとのことであるが、初めて見る東京
タワーの俯瞰シーン。
 
■更に物語の中で、星野六子がアイビールックに身を包 みゆき族
みゆき族
み、自家用車を持つ青年医師・菊地孝太郎(森山未来)
とデートするシーンに、当時流行の"みゆき族"のシーン
は銀座の三越の設定であるが、日本橋・三越の建物を使
い、"みゆき族"の撮影は何と横浜の情報文化センター横
の通りで撮影し合成されたというシーン。
■東京駅から六子と医師・菊地孝太郎が新婚旅行に出発
するシーンがあるが、当時活躍した新幹線の車両 0系
 
は2008年に既に引退しているため、青梅鉄道公園に保存 国鉄キハ58系の車両
国鉄キハ58系の車両
されている車両を利用し、横にホームを作って撮影し、
東京駅新幹線ホームを再現したシーン。
■貧乏作家・茶川が父(米倉斉加年)危篤の電報を受け
取り、信州・松本の実家に帰省するときに使用された、
例の懐かしい「国鉄キハ58系」の車両は、和歌山県の
有田川鉄道公園に保存されている現場で3Dスキャンし、
CGに取り組み、三重県の阿曽で撮影した実写風景と合
 
成したそうだが、見ていて、当時、信州に足繁く通って ミゼット
ミゼット
いたときの風景と思い込んで見ていた。
 また、物語に登場する小道具類が懐かしい。先ず自動
車(含む三輪車)は「パブリカ」、「ダットサン」のト
ラック、当時のタクシーの再現、日本に一台しか現存し
ない「ホープスター」三輪車、小児科医師(三浦友和)の
愛車・「ラビット ジュニア」、更に「ミゼット」も登場し
、これも懐かしい。
 夕日町三丁目のいろいろな店の看板も当時の懐かしい字体のもの、貧乏作家・茶川
家の副業である駄菓子屋に無造作に並べられている駄菓子、ナショナル製のブラウン
管式テレビ、コカ・コーラの自動販売機、茶川の妻(小雪)が駄菓子屋の一部を改装
初期のテレビ
初期のテレビ
ビール広告
ビール広告
してオープンした居酒屋に
ある日本酒やウイスキーも
当時のラベルを作り、見事
に再現させていた。そして、
この居酒屋の壁に張られて
いる値段は二級酒80円、ビ
ール140円、好物のもつ煮が
50円・・・・・とある。
こんな時代だったのである。
 既にご覧になられた方もおられると思いますが、まだご覧になられておられない方
は是非ご鑑賞をお薦めします。その2では、昭和39年という時代にタイム・スリップ
してみようと思います。
 
2012. 2.12 野村 “いたち川”川沿いを探索する(その5/最終回)
 
“いたち川”川沿いを探索する(その5/最終回) 横浜市 野村 一信
 
   本郷台駅付近から柏尾川合流点向かってに歩く
 本郷台駅改札口を背に右側の道路を南に進むと「いたち川」に出ます。前回渡った
城山橋の一つ下流側の橋に出ます。この橋の正面に制服 ニッコリと挨拶をしてくれる警察学校生
ニッコリと挨拶をしてくれる警察学校生
を着た若い人が通行人に敬礼してくれます。思わずこち
らも挨拶を返すとニッコリとして良い雰囲気になります。
ここは神奈川県警察学校です。(前回の本郷台駅付近の
歴史に出てくる海軍燃料廠後地で戦後PXとして使われ
ていた広大な跡地の一部)冬のこの時期は橋の袂には冬
桜がちらほらと可憐に咲いています。
 気分よく川沿いのプロムナードを下流に向かって歩き
ますと程なく左側に若いお母さんの裸体を模した彫刻が目に入ります。5人もの女性
がそれぞれのポーズで踊るような姿を見せています。その先にある花之木公園には大
型バイクに乗った青年の姿が彫刻されています。
裸婦像
裸婦像
風
タイトル?
タイトル?
 この付近の川面はいたち川としては広くなりいろいろな鳥と鯉などが観察できます。
鳥は、カワセミ・コイサギ・アオサギ・カルガモ・コサギ・かもめ・メジロなど。鯉
は大きくて色とりどりなのが悠然と泳いでいて、先日は川面の真ん中にある石の上に
亀が日向ぼっこをしていました。この亀は誰かが放したんでしょうね。
アオサギ
アオサギ
サギ
サギ
亀
 新橋(にいばし)という橋を左に曲がっていくと笠間十字路に出ます。笠間十字路
はこの付近の交通渋滞の名所ですが、昔はこの付近で農耕用の馬を洗っていたようで
笠間十字路近くの今泉不動尊道標
笠間十字路近くの今泉不動尊道標
す。 ここを旧鎌倉街道の方面に歩いてみましょう。
すぐに今泉不動尊の道標が民家脇においてあります。昔
はこの道標で旅をしていたと思うと朽ちかけたこの道標
を愛おしく思いますね。
 この道標のすぐ先には法安寺があります。ここは室町
時代南北朝の騒乱さなかに建てられたといわれています。
もと鎌倉光明寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来。文安2年
(1445年)持阿智光了専によって創建されたと言われま
す。一時衰退し、永正5年(1508年)再建されたと伝えられます。本堂はもと鎌倉建
長寺の客殿を明治11年(1878年)移築したものといわれています。ここの本堂には、
弘法大師が一晩のうちに、川原の石を爪で彫ったという伝説が残されている観音像が
あります。
 観音像は高さ10cmほどですが胸の前に11個の丸印があります。このために11面観音
像といわれています。今はそれを模したものが境内に祭ってありますので写真を撮っ
てみましたが見えますか?
創建以来法安寺入り口石塔
創建以来法安寺入り口石塔
法安寺山門
法安寺山門
法安寺石仏
法安寺石仏
 
法安寺11面観音像を模した石碑
法安寺11面観音像を模した石碑
本堂
本堂
境内石仏
境内石仏
 この先に行くと御蔵坂があります。ここは笠間村の年貢を納める蔵があったところ
からこの名前がついたようです。緩やかな坂道を登った(30〜40m)ところに蔵があ
ったようですが、今は舗装していて蔵もないし面影はほとんど残っていません。
 この先には青木神社があります。街道から見上げると100段もの階段が続いていて
チョット登るのを躊躇しますが、この付近の鎮守様です。
祭ってある神様は:
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
 天手力男命(あめのたじからおのみこと)
青木神社参道の階段
青木神社参道の階段
青木神社
青木神社
二十三夜供養塔
二十三夜供養塔
 
 社伝によると建武2年(1335年)近藤出羽次郎清秀が 二十三夜供養塔看板
二十三夜供養塔看板
領内笠間村の高所(現在の社地)に神社を建立し、近藤
一族と領内鎮護の社としたという。新編相模風土記には、
「青木明神社村の鎮守、村持」と記されているようです。
 明治6年12月政令により村社に列せられ神饌幣帛供進
神社に指定されている。明治41年村内の鹿島神社及び神
明社を合祀。昭和25年鹿島神社を分祀昭和28年宗教法人
青木神社として認証されました。」
と記されていました。場所はJR大船駅近くのS堂化粧品工場の裏辺りになります。
 ここでまた「いたち川川沿い散策路」に戻りましょう。笠間十字路をずっと南に歩
いたので、そのまま戻りますと新橋(にいばし)に出ます。この橋は鎌倉時代につく
られた「上の道」「中の道」「下の道」が作られたうち「中の道」となります。この
新橋(にいばし)は仁冶元年(1204年)北條泰時が中の道の新道を作り大船の離山か
ら笠間を通り飯島・長沼にいたる道ができたようです。この橋の一つ下流に水神橋が
架かっています。橋の袂には水神様を祭っていて小さな祠が置いてあります。近在の
水神様
水神様
方が今でも水神様にお花を手向けていてきれいに保存さ
れていますが、昔、「いたち川」は大暴れして、この付
近の農家作物が大変被害を被ったので水の神様を宥める
ために祭ったようです。 今はこの辺りは緩やかな川面
を見せて昔の暴れた荒々しさは感じません。(齢をとっ
たんでしょうね)ここまで来ると「いたち川」も合流す
る柏尾川に宥められておとなしく緩やかな流れで野鳥や、
川の鯉・他魚たちの楽園です。
 柏尾川に合流するところは今ではガソリンメータのタツノ社が「いたち川」の両側
を保有していて一般は立ち入ることができません。残念!
新橋(にいばし)付近のいたち川
新橋(にいばし)付近のいたち川
いたち川の鯉
いたち川の鯉
柏尾川合流付近の景色
柏尾川合流付近の景色
 
 (追伸)第3回に荒井沢川を散策した時に、(あらは あらはばき神
あらはばき神
ばき神)が薮蚊に守られて写真を取れませんでしたが、
季節が変わって冬になったので攻略できましたので掲示
いたします。
 
 
 残念ですが、「いたち川川沿いを探索する」はここで
終了となります。
 次回は、今泉不動尊と散在ヶ池(鎌倉湖)を予定しています。
 
          (資料は全て栄区郷土史・いたち川散策マップなどから)
 
2012. 1.12 三橋 飲み屋の「つまみグルメ」
 
飲み屋の「つまみグルメ」 茅ヶ崎市 三橋 春夫
 
  昨年の暮は例年と異なり、13日から17日まで連日、「忘年会」という名目で飲み
屋通いが続いた。年が明けて家族・親戚との集りが終わると、今度は「新年会」とい
う名目で3回予定が入っている。父親譲りのせいか、アルコールは結構いける方なの
で会合も断ることなく大いに楽しんでいる。
 子どものころ、東急池上線の久が原駅と御嶽山駅の中 ビールは冷やして美味く呑むぞ!
ビールは冷やして美味く呑むぞ!
間で線路から少し離れた一角、木々が鬱蒼と茂る静かな
住宅地に住んでいたが、夏になると、祖父と父が飲む
ビールを冷すため、井戸水を高いタンクへくみ上げる作
業を率先して手伝っていた。
 時間をかけて井戸水をくみ上げると、配管の表面が冷
たい水滴に覆われ、大きな洗濯桶にビールと西瓜、野菜・
果物などが結構冷えたのを覚えている。作業のご褒美な
のか、夕食時、祖父が私にビールを少し飲んでみるかと勧める。両親も別にダメだと
言わないので飲んでいた記憶がある。このせいか、仲間内では“ビールの三橋”で知
名度を上げてしまった。
 人によって、ビールは腹が膨れてダメという意見が多いが、私は利尿剤となり、や
たらとトイレが近くなるので腹は膨れない。出した分、水分の補給を十分に行うこと
だけを心掛けている。冬でもビールは美味しい。ワインも美味しい。身体のためには
焼酎もよい。要は、健康であれば何でも美味しいのである。
 のん兵衛論は、さておいて、飲み屋で注文する仲間の「つまみ」の注文は幹事役の
仕事である。いつもの飲み会なら幹事がふだんの実績で適当に数品を注文して納まる
が、初めての会で幹事が一苦労するのは量と安く上げるための「つまみ」選びである。
 昨年暮れの17日(土)、朝日新聞に、【輝く!居−1グランプリ】と題する居酒屋
つまみグルメの頂点を決める特集記事が掲載されたが、ご覧になられた方も多いと想
像する。おじさんをはじめ、若い女性たちはどんな「つまみ」を注文しているのだろ
うか?
 調査方法は予め居酒屋の定番つまみメニュー60品を選び、最大7品まで選ばせると
いうことで、2,500余名の協力で集計されたとのこと。以下が、その結果だという。
 「ランキング」1〜10位
 1・焼き鳥(明治時代中ごろからネギマ・ツクネ・ やきとり
やきとり
       砂肝などが人気メニュー)、
 2・枝豆(低カロリー・炭水化物、
       二日酔い防止に効果あり)、
 3・刺身(旬の魚)、
 4・鶏から揚げ、
 5・揚げ出し豆腐(ドラマ「JIN-仁」で登場で人気)、
 6・野菜サラダ、
 
 7・冷奴、 冷奴
冷奴
 8・おでん、
 9・焼き魚、 
 10・もつ煮込み
 これを見ると、確かに仲間が選ぶメニューの8〜9割
は一致している。あとは仲間にポテトフライ、鳥皮やエ
ビから揚げが好きな御仁がおられ、最後は漬物でお開き
となる。おじさんたちの飲み屋の「つまみ」は、楽しく
語らうための、つまみで味より量と値段の勝負である。
 「ランキング」11〜20位
 11・卵焼き/だし巻き卵、 漬物
漬物
ギョウザ
ギョウザ
 12・ポテトフライ、
 13・アサリ酒蒸し、
 14・漬物、
 15・串カツ、
 16・鶏軟骨揚げ、
 17・ギョーザ、
 18・じゃがバター、
 19・子持ちシシャモ、
 20・タコから揚げ、(21位以下は省略)
の順だそうだ。さて、HPをご覧の皆様はいつも何を注文されますか?
 12月の中旬、会報「けいき」を依頼する印刷会社での最終校正作業が終了すると、
約2ヶ月半に及ぶ原稿依頼から校正作業の終了と、参加幹事の労をねぎらう意味で、
鶴見線「安善駅」前の酒屋の立ち飲み部屋で一杯飲んで帰宅するのが恒例となった。
6帖くらいの細長い、椅子もない、壁にそったカウンターと6〜7名のグループが利
用できるカウンターだけの酒場である。
 先の朝日新聞のタイトルは「行き着く先はギョニク、缶詰」とあるが、正に同酒屋
は、「おでん」、「煮込み」、「冷奴」、「枝豆」など「つまみ定番」のメニューは
あるが、その他は、「いわし」、「さんま」などの缶詰や、「ちくわ」、「魚肉ソー
セージ=ギョニク」などコンビニやスーパーで売られている商品である。
シシャモ
シシャモ
ツナ缶
ツナ缶
みんなと呑む美味い酒
みんなと呑む美味い酒
 夕方5時過ぎとなると、JR鶴見線沿線の工場に勤務する人々の、仕事を終えた後
のささやかな宴会場となる。皆さん常連らしく個々に静かに注文をしている。つまみ
も、「冷奴」、「ちくわ」、「缶詰」、「魚肉ソーセージ」などが多い。そして、静
かに飲んで短時間で出て行く。
 最近、新聞・テレビで飲食店の人気ランキング・サイト「食べログ」への不正投稿
が話題となった。本来、「食べログ」は実際の利用者が投稿し、その店の評価を5点
満点で表示するのだが、今回のようにお金で評価をよい方へ書き換えされているとな
ると、インターネット利用者は何を信じて飲食店を選べばよいのか?誠に困ったこと
である。
晩酌もまた良し
晩酌もまた良し
 それに比べて、年金者が通う立ち飲み屋は格安で、
「おでん」、「煮込み」などはカウンター越の店主家族
に言えば、待つことなく皿盛りしてくれて、自分で受け
取ってカウンターに運び、すぐ食べられ、味も裏切らな
いのが何とも嬉しい。ここではフォーマルな服装・場所
での会食では味わえない楽しい時間が過ごせる。
 
 
 立ち飲み屋と言えば、昔、会社の帰り、蒲田駅付近の 生ビールが美味い!
生ビールが美味い!
立ち飲み屋に立ち寄り、季節により常温や冷酒を1〜2
杯を飲み干して帰る現場部門の先輩方の顔を思い出す昨
今である。皆様、お元気でお過ごしなのであろうか?
 会員の皆様、今年も健康に留意し、元気で晩酌、仲間
との飲み会を大いに楽しみましょう。
 
 
 
2011.11.27 金子 介護日誌
 
介護日誌 新宿区 金子 健吉
 
×月×日
 今日はOB会の総会の日で出席する予定であったが、介護を続けてきた家内が前日
から熱を出し食事も咳き込んで食べられない。やむを得ず,欠席の旨連絡した。折角
旧交を深めることが出来ると思っていたので残念である。
 
×月×日
 夏の間たびたび暑さのため脱水症状になって食事が取れなくなり、その都度1〜2
回の点滴で回復していたが、今回は回復の症状が見られない。主治医から肺炎と嚥下
障害の心配があるとのことで急遽入院することにした。急なことなので有料個室しか
ないとのことであったが、翌日入院するよう手配をした。
 縣照雄さんから、介護の記事を見て心配してくれ、板橋の方にある介護病院を紹介
してくれたので、そこのケースワーカーと会う約束をしていたが、断り、電話で概要
を教えてもらい、後日訪問することにした。聞けば、縣さんも長い間奥さんの介護に
苦労されており、私などまだ良い方だと思わざるを得ない。
 
×月×日
 介護タクシーを準備し車椅子で、近くの国立医療センターに入院する。
 兎に角これで咳き込んだり、熱が出たりするたびに自宅で一人おろおろしないです
みそうなのでほっとした。
 
×月×日
 夕方病院に行くと広い個室で点滴をされ、私の顔を見ると雀の雛のように口を動か
している。入院後二日もたつのに嚥下評価がすんでいないとの事で何も食べていない。
今日撮る予定のレントゲンも明日に延期されている。本人は自分では身体も手足も動
かせず、何も言うことができない。看護ステーションに行き事情を話し医師との面談
の約束をきめる。家では週二回、訪問入浴の世話になっているのに、看護師の手が足
りないので入浴の代わりに清拭で済ますとのこと。個々の身体介護は自宅でヘルパー
の訪問介護を受けたほうがよい。病院とか施設ではどうしても多くの人の面倒を見る
ので手薄になる。
 折角病院にいるので家でゆっくりしようと思っても気になって落ち着かない。
 
×月×日
 病院の主治医と治療の状況および今後の治療方針について話をする。
 食べたものが食道に行かず気管に入って誤嚥性肺炎を 医師との話し合い
医師との話し合い
起こすのが脳障害の場合のリスクであるが、今回の検査
ではその症状は見当たらない。しかし、嚥下(のみこみ)
の機能は落ちてきており、食事は全部ペースト状の介護
食になっている。今回は落ち着いたとしてもいずれ口か
ら食べることができなくなるので、鼻からチューブを通
して胃に栄養を送り込む経管栄養か、胃に直接穴を開け
て食べ物を入れる胃ろうか、どちらかの方法を施術する
ようにしたらどうか、との話があった。
こうなることは漠然と考えていたが、とうとうはっきりした結論を出さなければな
らないことになった。
 
×月×日
 主治医に対する返事を決めなければならない。
 私と妻の間では、終末医療の際いわゆる延命治療はお互い苦痛を避けるためしない
ことを約定書と言う形で約束している。このことは「けいき」会報65号に「医事に関
する契約書」と言う題で寄稿している。自分で食べる能力を失っている時、経管栄養
や胃ろうによって栄養を補給し、生命を維持することは本人の望んでいることなのだ
ろうか。言葉を発することが出来ない人の意思は忖度するしかない。
 自ら身体を動かすことも出来ず一日ベッドの上でせいぜいテレビを見るともなく眺
めている生活、「思念はあってもそれを表現できない地獄の世界」(村上春樹)で生
き続ける日々、口から食べる喜びを奪われ、回復が望めないまま過ごす数年、或いは
数十年の年月、いや決して彼女はそんなことは望んでいる筈がない。
 7年前に最初の脳出血で倒れてから、時々一人自室に閉じこもり、「死にたい、死
にたい」と言っていた。寝たきりになり夜介護を受けながら「大丈夫よ、もうじき死
ぬから」と言っていたことなどを思い合わせると、これ以上の苦しみをさせるわけに
はいかない。
 しかし、一日でも生きていて欲しい、体の温もりを感じ続けられればそれでよい、
世間の目もある、孫の生長も見せてやりたい、介護を全うしたいという気負いもある。
 口から食べられなくなり、日々やせ衰えていく姿を見て、堪えられるだろうか。
 胃ろうなどの延命処置は一度施術すると中止するのが倫理上、刑法上いろいろな問
題を生じることもあり、また、中止の判断をすること自体余計難しくなる。
 考えれば考えるほど迷うばかりである。
 もう一度本人に問い合わせてみる。じっと見つめる両方の目から涙が出ている。
 それは約束を守ってくれと訴えているように思えてならなかった。
 
×月×日
 3人の男の子を自宅に呼び寄せる。 家族介護の相談
家族介護の相談
 もう一度尊厳死や胃ろうを置いたその後の生活の実態
についての本などを再読し、その結果、経緯を話し、
介護者の立場や思いからではなく、本人の立場から考え
るべきであろうということで、延命処置はしない旨の話
をした。息子たちからは、尊厳死に関する文書に署名し
ていることもあり、二三の質問があったがやむを得ない
と納得してくれた。下の子は、「お母さんはやっぱり死
にたいのだろうな」といって泣いていた。
 
×月×日
 病院にケア・マネージャーや訪問看護師にも来てもらい。医師に家族で話し合った
結果を報告する。特に異論はなく、ここまで考えてのことならば、本人も感謝するだ
ろう、といわれたので、気が休まった。早速退院の日取りと自宅に戻ってからの介護
や看護の体制についての打ち合わせも行った。
 家に帰ってから、本当にあれでよかったのかとの思いに悩まされる。
 
×月×日
 介護タクシーを手配し、9日ぶりに自宅に戻った。
 肺炎の心配もなく、口から物を食べられるようになったが、米粒が残っているおか
ゆから重湯状のおかゆになり、おかずもペースト状のものになった。それでもスムー
スに飲み込んでくれるとほっとする。自宅に戻ったせいか、顔もいい顔をしているし、
口から物が入るので表情も豊かになったような気がする。
 
×月×日
 会社のOB会の「会報」担当三橋春夫さんから手紙が来る。
 前回のOB会総会の折、脇社長が会報70号に投稿した私の「介護と川柳」に共感さ
れ挨拶の中で言及されたとのことが書いてあった。出席できなかったことがいっそう
悔やまれた。ついては71号に続編をとの要望があったが、介護の現実を前にして取り
乱しおろおろした中で川柳がほとばしって出てきたもので、その後、日常化するに従っ
て、新作なるものが出てこない。もともと川柳つくりに趣味があるわけでもないので、
最近の出来事を日誌として投稿することにした。
 
×月×日
 区役所から申請中の特別養護老人ホームへの、入居順位の通知が来た。
 一番早いので252人中27番である。出来れば自宅介護を続けていくつもりでいるが、
いつも傍にいられるわけではない。症状の変化で心労も加わり、疲れを感じるように
なってきた。実際に入所の順番が来るまでには間があるが、施設に入ればまわりに誰
か人がいるし、本人は自宅にいたいのだろうが、果たしてそれが良いのだろうか、迷
いは尽きない。
 介護の問題は核家族化と共に社会問題化してきたもので、みんな、迷い、つまずき、
苦しみ、試行錯誤しながら介護生活を続けている。世の中には、例えば障害を持った
子供を育てる親、認知症の患者を抱えた家庭、津波で一切を失った家族など、困難に
遭遇している多くの人々がいる。是も一つの定めと考え、介護することを生活の一部
として取り組み毎日の営みを作り上げるようにすることが大切だ、と思っている。
                                   以上     
 
2011.11.20 野村 “いたち川”川沿いを探索する(その4)
 
 “いたち川”川沿いを探索する(その4) 横浜市 野村 一信
 
   本郷台駅付近の歴史
 “いたち川”に架かる城山橋を北向きに渡ると、すぐにJR根岸線本郷台駅に到達
します。昭和48年(1973年)に開業された駅ですが、元は戦後の名残でPXが保有し
ていたところです。この付近は昭和13年(1938年)に第一海軍燃料廠が造られて太平
洋戦争末期には、2,000人の人達が働いていました。
 ここで地元出身(小菅ヶ谷)の東京計器OB会会員でもある田中健次さんに「いろ
いろな思い」を書いていただきましたので紹介いたします。
 『この敷地の大半は小菅ヶ谷地区であり、平坦で肥沃な農耕地でありました。接収
された後は、広大な敷地の周囲を高い塀で遮られてしまい、東西交流もまならず、大
変不便な状況が続きました。しかし、満州事変から第二次世界大戦、太平洋戦争へと
続く過程では、国からの農地解放要求に対抗手段もなく、多くの地権者が提供を余儀
なくされました。
 終戦後も米軍のPX施設として長らく利用され、ついに旧地主への返還の機会もな
いまま現在に至っているのが残念でなりません。農地を失った地権者は、戦中・戦後
を通じて、苦労の絶えない生活を強いられてきました。
 現在は、ご覧のように平和な郊外の生活空間となって 本郷台駅前
本郷台駅前
います。本郷地区には唯一の本郷尋常高等小学校が現在
の柏陽団地内にありました。更に戦後(昭和22年)新学
制が発足し、唯一の本郷中学校が開校しました。いずれ
も、本郷地区全域から生徒は通学しました。交通手段も
なく、雨の日も風の日も徒歩で通学しました。現在では
想像し難いのですが、本郷地区全ての人が顔見知りでし
た。
 
 旧本郷尋常高等小学校内には二宮金次郎の銅像と本郷 本郷尋常高等小学校跡地に残る    二宮金次郎
本郷尋常高等小学校跡地に残る    二宮金次郎
地区戦死者の忠魂碑及び慰霊碑が設置されていました。
日清戦争では、戦死者はありませんでしたが、日露戦争
では6名の戦死者が出ました。明治39年(1906年)2月
に村会の決議により、当時鎌倉に在住の東郷平八郎大将
の揮豪による忠魂碑を設置しました。
 昭和30年には太平洋戦争の戦死者の慰霊碑を旧本郷村
の有志が本郷慰霊碑建設委員会を結成し、基金を集め、
 
当時の鎌倉建長寺管長の揮毫を得て同じ場所に建設しま 東郷平八郎大将揮毫による忠魂碑   ・慰霊碑
東郷平八郎大将揮毫による忠魂碑   ・慰霊碑
した。
 戦後の宅地開発にこれらの設置場所が追われて、現在
本郷台公園東側の一角に両碑を移設安置しました。
 ◆忠魂碑のトップには我が家出身の田中梅吉の名が
 (明治38年5月8日清国盛京省遼陽にて戦死)
 ◆慰霊碑には同じく田中茂の名が彫られている。
(昭和19年12月6日ニューギニアムミ方面に於いて戦死)
 本郷台駅の北側には、本郷の総鎮守といわれる春日神社があります。この神社は、
平安時代にこの辺りの山ノ内荘という荘園を支配していた山ノ内須藤氏がたてたので
はないかといわれています。源頼朝が石橋山に兵を挙げたとき、須藤氏は敵にまわっ
たために、この荘園を取りあげられました。そのため春日神社も次第に荒れ果ててい
きましたが、後に再建されました。
 春日神社の本殿は『中宮』といわれ、江戸時代末ごろの作品といわれる彫刻で四面
を飾ってあります。
春日神社本殿
春日神社本殿
春日神社境内
春日神社境内
春日神社の見事な神輿
春日神社の見事な神輿
 秋の例大祭や初詣は、地元や近隣の皆様で大変賑わいます。私共地元の氏子で維持
管理に当たっています。』
(以上。田中健次さん執筆による。)
 田中健次さん宅のすぐそばに大誓寺があります。この 聖徳太子の若いときを祭る大誓寺
聖徳太子の若いときを祭る大誓寺
寺の聖徳太子像は、16歳の若い頃の像です。作者は弘円。
大誓寺境内には、ザクロ、サルスベリ、イロハモミジと
いう横浜市の「名木古木」に指定された木が3本ありま
す。樹齢はそれぞれザクロ約420年、サルスベリ約420年
イロハモミジ約120年といわれています。
また境内には六体のお地蔵さんが祭ってあり六地蔵と呼
ばれ親しまれています。六地蔵は六つの場所で人々の苦
しみを助けてくださるといわれています。
横浜市名木のサルスベリ
横浜市名木のサルスベリ
横浜市名木のザクロ
横浜市名木のザクロ
苦しみを助ける六地蔵
苦しみを助ける六地蔵
 本郷小菅ヶ谷にも大変な歴史がありました。ここで本郷台駅に戻りましょう。
 今は駅東側の広い道を500メートルほど北に行くと長屋門があります。この長屋門は、
昔、小菅ヶ谷の名主をしていた田中家の門です。今から約150年ほど前に建てられたも
田中家長屋門
田中家長屋門
のだといわれています。
 長屋門はつくるのに許可が必要で、誰でもたてること
はできませんでした。そのため、武家屋敷や身分が認め
られた家にしかありませんでした。長屋門の両脇には、
よくみると部屋があり、人が住めるようになっています。
このような長屋門には馬や使用人が住んでいました。
 この長屋門は今でもごらんのように使われています。
 
 長屋門の田中家を過ぎてもう少し北に向かって歩くと、長光寺があります。ここに
OB会員の田中家墓所があるのでご存じの方も多いかと思います。
長光寺(花立薬師如来がある)
長光寺(花立薬師如来がある)
 江戸の始めごろ、将軍徳川家康は、本郷の辺りでよく
鷹狩りをしていました。あるとき、大切にしていた鷹が
一羽逃げてしまいました。家康も家来の者も慌てて後を
追いましたが、鷹は小菅ヶ谷の森の松のこずえにとまっ
て、なかなか降りてくれません。困った家康がふと辺り
を見まわすと、松のかたわらに薬師如来がまつられてい
る小さなお堂がありました。
「どうぞ、鷹が降りてきますように」と家康が熱心にお
祈をすると、すっと鷹が舞いおり、家康の腕にとまりました。喜んだ家康はお礼にと
足元の野の花を手折って、薬師如来に供えました。それからそのお堂の辺りは「花立」
と呼ばれるようになったといわれています。
 本郷台駅付近は、地元の方でないと分からない貴重な情報を田中健次さんからいた
だきました。ありがとうございました。
 次回は、“いたち川川沿いを散策するその5”を予定しています。
          (資料は全て栄区郷土史・いたち川散策マップなどから)