| 話 題 『 よもやま話 』 | 2011年5月〜2011年7月 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2011. 7.24 | 『足利学校で論語を学ぶ』 投稿;須貝 義弘 | ![]() |
| 2011. 7.17 | “ あの日の出来事 ” 投稿;綱島 健一 | ![]() |
| 2011. 6.26 | 『岩船山崩落』 投稿;辻 隆太 | ![]() |
| 2011. 6.19 | “いたち川”川沿いを探索する(その1) 投稿;野村 一信 | ![]() |
| 2011. 5.29 | 加齢男性の小便作法 投稿;清水 有道 | ![]() |
| 2011. 5.22 | 富士山を雑学散歩する(7)最終回 投稿;砂田定夫 | ![]() |
| 2011. 5.15 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その16最終回)投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2011. 5. 8 | 富士山を雑学散歩する(6) 投稿;砂田定夫 | ![]() |
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| 話 題 『 よもやま話 』 |
| 2011. 7.24 | 須貝 | 『足利学校で論語を学ぶ』 | ![]() |
| 『足利学校で論語を学ぶ』 | 佐野市 須貝 義弘 | |
| ー 子曰、温故而知新、可以為師矣 ー | |||
| 平成23年5月29日、「第2回全国論語素読の集い」が、日本最古の孔子廟のある史 | |||
| 跡足利学校で行われ、参加しましたので、その概要と感想を報告します。 | |||
史跡「足利学校跡」 |
「方丈」 |
方丈内部 |
|
| 集まった人は、西は大阪辺りから、東は東京から、もちろん地元足利からも、個人 | |||
| や団体、家族連れなど150人余りでした。 | |||
| 足利学校の「方丈の間」で、全員が素読を行い、先生の解説で論語を学ぼうという | |||
| ものです。今は生涯学習の時代、「自学自習」の精神を今に伝える教育の原点、日本 | |||
| 最古の学校と言われています。 | |||
| 足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野 篁(たかむ | |||
| ら)説、鎌倉時代の足利 義兼(よしかね)説等がありますが、歴史が明らかになる | |||
| のは、室町時代に上杉 憲実(のりざね)が現在国宝にしてされている書籍を寄進し、 | |||
| 庠主(しょうしゅ=学長)制度を設ける等、学校を再興したころからと言われていま | |||
| す。 | |||
| 天文18年(1549年)にはフランシスコ=ザビエルにより、「日本国中最も大にして、 | |||
| 最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されています。 | |||
| 江戸時代の末期には、役割を終え、明治5年幕を下ろしましたが、足利学校の精神 | |||
| は現在に引き継がれています。 | |||
| 昭和57年より「史跡足利学校跡保存整備事業」を実施し、平成2年、江戸中期の姿 | |||
| に甦り今日に至っています。 | |||
| 学んだ論語は、どれも意味深く、孔子の教えを説(と)いています。その中から | |||
| 2、3をご紹介します。 | |||
| 学而第一 | |||
| 子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而慍、不亦君子乎 | |||
| 子曰わく、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋有り、 | |||
| 遠方より来る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(いきどお)らず、亦た君子なら | |||
| ずや。 | |||
| 通釈:「朋(とも)、遠方より来る。亦楽しからずや」で、広く多くの皆様に知られ | |||
| ていますが、前後の言葉を入れると、通釈は次のようになる。 | |||
| 孔子が言った。学問をして、何回も何回も復習すると、自分の知識として完全に消 | |||
| 化され、身に付く。これはなんと喜ばしいことではないか。しかし、勉強して知識が | |||
| 豊かになっても、それを認めてくれない人もいる。たとえ、そうした人がいたとして | |||
| も怨まない。それでこそ学問も人柄も、とても優れた君子と言われる人だ。 | |||
| たくさんあるおしえの中からもう一つ、 | |||
| 為政第二 | |||
| 子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、 | |||
| 六十而耳順七十而従心所欲、不踰矩 | |||
| 子曰わく、吾十五にして学に志す。三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にし | |||
| て天命を知る。六十にして耳に順(いたが)う。七十にして心の欲(ほっ)する所に | |||
| 従えども、矩(のり)を踰(こ)えず。 | |||
| 通釈:孔子が言った。私は十五歳で学問に志し、三十歳で思想・見識も確立した。 | |||
| 四十歳で心の惑いも無くなり、五十歳で天から与えられた使命を自覚した。六十歳で | |||
| 何を聴いても耳にさからうことがなくなり、七十歳になると自分の欲望のままに振舞っ | |||
| ても、その行動が道徳からはずれることは無かった。 | |||
| 感想:私は今年(2011年)で76歳になり、少し遅いとは思いますが、せっかく「足 | |||
| 利学校に入学したので、勉強を続けようと考えています。皆さんも如何ですか。特に | |||
| 私より若い人たちにおすすめします。次回の素読会は今年の11月19日(土)です。 | |||
| 最後に、これからは、孔子の弟子「子夏」(しか)が言った言葉を心がけていこう | |||
| と思います。 | |||
| 子張第十九 | |||
| 子夏曰、日知其所亡、月無忘其所能、可謂好学也己矢 | |||
| 子夏曰わく、日に其のなき所を知り、月に其の能(よ)くする所を忘るること無き | |||
| を、学を好むと言うべきのみ。と | |||
| 通釈:子夏が言った。一日のうち、また一月のうちに、今まで自分に無かったもの | |||
| を知ったり、自分の良くできたことを忘れないように努める人は、好学の人といえる。 | |||
| と要約すると、「要は、自分の知らないことは、これを知ろうと努め、すでに知って | |||
| いることはこれを忘れないように努めること」である。 | |||
入学証書と筆者 |
「論語素読会」参考資料 |
:今回の素読会での感想: | |
| 印象に強く残ったのは、解 | |||
| 説の先生が言われた「戦国 | |||
| 時代」の武将で、論語を読 | |||
| んだのは、加藤清正が少し | |||
| 読んだようだが他の武将た | |||
| ちはだれも論語を勉強して | |||
| いない。信長も、秀吉も。 | |||
| しっかり勉強したのは家康だけ。だから徳川時代が永く続いた一因かも・・・」と | |||
| 論語研究者の間では、もっぱら言われているそうです。 | |||
| こういう観点から歴史を見るのも面白いと思いました。 (完) | |||
| 2011. 7.17 | 綱島 | “ あの日の出来事 ” | ![]() |
| “ あの日の出来事 ” | 那須塩原市 綱島 健一 | |
| 『平成23年3月11日14時46分』と書けば、誰しも忘れられない、東北地方太平洋沖 | |||
| で発生しましたマグ二チュード9.0、震度7という大地震の発生した時でした。 | |||
| その直後の想像を絶する大津波、さらに東京電力福島第一原子力発電所の事故が重 | |||
| なり皆さん周知の通りの超大災害となりました。 | |||
| 特に大津波による被害が大きく、行方不明の方を含め |
大震災 |
||
| て2万人超える方々の尊い生命を失い、改めて心からご | |||
| 冥福をお祈りいたします。 | |||
| また、家屋を流されたり、破壊された方々ならびに原 | |||
| 発事故の関係で避難された方たちを含めて10万人におよ | |||
| ぶ避難者の皆様方々に謹んでお見舞い申しあげます。 | |||
| 私の70年間の人生の中でも、この日は強烈に印象に残 | |||
| った1日となりました。と言いますのは、私は那須塩原 | |||
| 市シルバー人材センター元気アップデイサービスで利用者の方々を車で送迎する仕事 | |||
| をしており、3月31日を以って卒業することになっていまして、しかも11日が最後の | |||
| 勤務日でありました。 | |||
| この日は、朝から晴天に恵まれ、自宅から本部事務所までの車窓から見える那須連 | |||
| 山は3月中旬は、まだ、山頂付近は残雪があり、それは見事に素晴らしい姿を見せて | |||
| くれました。特に茶臼岳は最近あまり見られないほど、噴煙がハッキリと見えました。 | |||
| 事務所に着くと、同僚達も同じことを言っており、利用者の皆さんも同じ会話を交 | |||
| わしており、正に平和な場面の一こまでよく覚えています。 | |||
| 仕事に取り掛かり事務所を出発する時、若い主任さんから「綱島さん、今日は最後 | |||
| の仕事なので、車の運転には十分気を付けて有終の美を飾ってください!」と励まし | |||
| の言葉を掛けられ、「はい、今日は特に運転には十分気を付けます!」と答え事務所 | |||
| を出発しました。 | |||
| この日の担当はデイサービス2ヶ所で、コースは市内中心部の利用者の多い所なの | |||
介護用バス |
で、比較的短時間で終わるところです。また、この日は | ||
| 私の最後の仕事であることを同僚や、利用者のお年寄り | |||
| の皆さん方は知っていて、車内で皆さんから“感謝”、 | |||
| “慰労”の言葉を頂き、感激とともにお年寄りの皆さん | |||
| に少しでも貢献できたとの思いとで胸の中が熱くなりま | |||
| した。そうこうしている内に、午前の迎えの仕事は無事 | |||
| 終了いたしました。 | |||
| 午後の仕事は14時から、最初の施設の利用者皆さんを | |||
| 自宅へ送ることです。この時間帯は比較的道路が空いており、走りやすい時なのです。 | |||
| 最初の施設は11人と人数が多いので2回に分けて送ることになりました。2回目の | |||
| 最後の利用者を自宅前で降ろして、次の施設へ向かう途中、朝方の好天気が嘘のよう | |||
| な空模様で、特に東北側は黒い雲が覆い、反対側は、太陽が強く出ていたのを覚えて | |||
| います。 | |||
| 何時もの道を車で走らせ1分も経たない所にある友人宅前を通過しようとした時、 | |||
| 友人が庭先から私の顔を見て何か大きな声で空を指差し叫んでいました。私は何を言 | |||
| っているのか良く分からなかったが、何時ものように笑顔を返して通過しようとした | |||
| ら、友人が再度何か訴えようとしたので、直ちに窓を開けて「どうしたの!」と聞い | |||
| たら、「綱島さん、今、大きな地震が起きているよ!」叫んでいるので、直ぐに車を | |||
| 止めて空を見上げたら、丁度真上の電線が大きく揺れていました。 | |||
| これはただ事ではないと車のエンジンを止め車外に出ました。そして友人と「これ | |||
| は大きいね!」と話した時、再度大きな揺れが襲って来た。二人は家の前の庭木につ | |||
| かまり揺れが治まるのを待っていました。揺れが小さくなったので友人は家の中の様 | |||
| 子を見に行きましたが、「わあ〜、これは大変だ!」と叫んだので、私も家に入ると | |||
| 家具類や本箱などが倒れ散乱しておりました。 | |||
| 私は、利用者の皆さんが待っている施設へ戻らなければならないと、車を走らせま | |||
| したが、市内のあちらこちらでブロック塀が倒れたり、石材店の展示品の石塔が大き | |||
| く崩れて道をふさいでいて大変でした。皆さんが待っている施設へ早く行かなければ | |||
| とコースを変えてやっとの思いで施設にたどり着きました。 | |||
| 施設ではお年寄りの皆さんが外へ出て、私の到着を今か今かと待っておられました。 | |||
| 早速、皆さんを車に乗せ、道路の状態を説明し「何時ものように走れませんが、必ず | |||
| ご自宅までお送りしますのでご安心ください」と言いました。 | |||
| 車中のお年寄りのなかには、あまりにも大きな地震で |
イラスト |
||
| 目に涙を浮かべている人、お題目を唱えている方もいま | |||
| した。私は明るい顔で大きな声で皆さんに話しかけたり | |||
| して冷静さを保つよう努めました。 | |||
| 一人、二人とお宅まで送りましたが、なかには家族が | |||
| 心配顔で外で待っていたり、家具類や食器類が散乱して | |||
| 中に入れない家もありました。また、遅いので事務所に | |||
| 電話したがつながらないと怒っている家族もいました。 | |||
| このような混乱した状況の時に、その人の人間性が出るものだと思いながら、何時 | |||
| もより約30分程遅れて最後のお年寄りのお宅に到着し、ホットして、さあ〜これでな | |||
| んとか事務所に戻れると安心しました。この時点ではじめて“我が家はどうなってい | |||
| るのか?、一人でいる妻は大丈夫か?”と思い、電話を入れたがつながらないし、心 | |||
| 配から不安な思いでなんとか事務所に戻りました。 | |||
| 早々に事務所を後にして我が家に向かいましたが、停電で信号が切れているなどで | |||
| 渋滞に巻き込まれたが、どうにかたどり着き、まずホットしたのは我が家が無事であ | |||
| ったことと妻の元気な姿を見た時でした。私が住んでいる那須塩原市は幸いにも大き | |||
| な被害少なかったようですが、近隣の市町村では大きな被害に遭われて死者も出まし | |||
| した。 | |||
| 停電でその夜からローソク暮らし、ローソクの灯りでの味気ない食事、携帯ラジオ | |||
| で聞く被災地のニュースはなんとも言えず不安でした。その後、余震が有ると、あの | |||
| 時の恐怖は二度と味わいたくないと不安でピリピリしたものです。 | |||
| 東日本大震災から4ヶ月近く過ぎた現在も、自宅には戻れないし、職場を失くし、 | |||
| いまだに避難所・仮設住宅で生活している方々を見ると、私たちはこれで良いのかと | |||
| 思います。今回の大震災と原発問題ではいろいろな人が「想定外」とか「予想もしな | |||
| い出来事だった」と言っていますが、それは言い逃れにすぎないと思います。 | |||
| 今回の出来事で、私は次のことを教訓として生きていきたいと考えています。 | |||
| 『災害は忘れた頃にやってくる』で、“喉もと過ぎれば・・・”じゃ〜ないけれど、 | |||
| 昔の苦い経験を時が経つにつれて忘れてしまい活かしきれない点です。 | |||
| また、『人間、何事も腹八分』、これは私たちが何でもおカネを出せば手に入り、 | |||
| 自分さへ良ければ他人はどうなってもかまわない。これでは人間性が失われてしまう | |||
| ことになります。これからは、自然を大切に!、心に豊かさを!人に優しさを持つ社 | |||
| 会を創り出す!ように心がけて生活し、自分に残された時間を有意義に過ごし、悔い | |||
| の無い人生としたいと思います。 | |||
| 2011. 6.26 | 辻 | 『岩船山崩落』 | ![]() |
| 『岩船山崩落』 | 佐野市 辻 隆太 | |
| 東北本線の「小山駅」からJR両毛線に乗り換え、「佐野駅」の一つ手前の「岩舟 | |||
| 駅」で降りて、佐野方面へ250メートルくらい行くと標高約170メートルの岩船山への | |||
| 登山入口がある。約600段の古い石段を登ると、770年(宝亀8年)頃に開かれた岩船 | |||
| 山高勝寺(こうしょうじ)がある。 | |||
高勝寺山門 |
高勝寺仁王門 |
高勝寺三重塔 |
|
| このお寺は、岩舟町の資料によれば、全山奇岩怪岩で知られた岩船山の山頂に建て | |||
| られかつては関東の高野山と呼ばれ、一大霊場として栄えたそうだ。また新田義貞が | |||
| 難病に罹ったとき本尊に願をかけて全快したとも伝えられている。 | |||
| 本尊地蔵菩薩は、岩舟地蔵の名で親しまれ、子授け・安産・子育ての地蔵信仰とし | |||
| ても有名とのこと。境内には三重塔や仁王門など県指定の文化財があり貴重な信仰の | |||
| 山となっている。 | |||
| その岩船山(いわふねやま)は山の形が船のようで、岩肌が多く露出しているとこ | |||
| ろからこの名が付いたそうだ。山の北尾根にある舟形の岩の上に地蔵尊が出現したと | |||
| 云うことから、地蔵信仰の地として慕われてきたとのこと。 | |||
| 一方、この山から採れる岩舟石は加工がし易いため、1600年代後半ごろから採石が | |||
| 始まり、土木建築の材料として利用され、江戸時代には城や神社・寺の石垣や土留め | |||
| 用の石、土台用の石として、また、明治時代には栃木県庁庁舎建設や、渡良瀬川河川 | |||
| 工事にも多く使われていたそうだ。 | |||
| 昭和に入り、採石や加工技術、運搬手段の発展に伴って需要が拡大し、戦後の高度 | |||
| 成長期には建設ブームに乗って大量に採石され、日用品として釜戸や七輪にも使わ | |||
| れていたとのこと。また、苔が付きやすい性質利用して庭石などにも使われたそうだ。 | |||
| 昭和44年ごろには「岩船音頭」に♪ハアー、お山 |
日本一小さい「岩舟石の資料館」 |
||
| 岩船切りだす石は 平和日本の要石・・♪」と歌われ、 | |||
| 町の産業として大いに栄えたそうだ。 | |||
| しかし、現在では建材や構築方法の変化で、岩舟石の | |||
| 需要は激減し、30軒を越す採石業者も今は1軒になって | |||
| しまったとのことである。 | |||
| これらの歴史を、今は岩舟駅の近くにある日本一小さ | |||
| な資料館「岩舟石の資料館」が保存している。 | |||
| 大地震と岩船山 | |||
| 3月11日(金)14時46分、突然、体験外の大地震に見舞われた。佐野工場の前の道 | |||
| (旧50号)を小山方面へ約2km行くと、峰の一部がV形に崩れた岩船山が見えてく | |||
| る。近づくと、その他の岩肌も数か所が崩れたり、ひび割れが生じている。 | |||
| 地震発生のときの様子は、佐野側(山の西側)の畑にいたおじいちゃんによれば「突 | |||
| き上げるような揺れとその後の波のような揺れで、何が起こったのかと、うろうろし | |||
| ていたら、雷のような音がして山肌が崩れ、続いて左の方の峰が聞いたこともない音 | |||
| を立てながら砂煙をあげV字型に崩れた」とのことである。 | |||
| V字型の崩落を目撃した、 |
岩船山の遠景 |
震災後の岩船山 |
|
| 山の東側の畑で作業してい | |||
| た農家のお婆ちゃんは「畑 | |||
| に居たら、ドシンという音 | |||
| がして、ぶりゅん、ぶりゅ | |||
| んと体が動いた。なんだな | |||
| ーと思って立ち上がろうと | |||
| したが、畑が動いていて立 | |||
| てなかった。 嫁が『地震だよ!ばあちゃん気を付けろ!』と怒鳴っていたが、どう | |||
| しようもなかった。そのうちに『どろん』という変な音がして、裏の山から黄色い煙 | |||
| がもうもうと出た。こりゃ大変だと思ったが、つかまるもんもないから、鎌だけを握 | |||
| って座り込んでいたら、今度は向こうの家の屋根瓦が流れるように落ちた。 | |||
| 目が回ったみたいで、こうグーッと来ちゃってさ。嫁が『ばあちゃん大丈夫か』と | |||
| 言っているのが聞こえて、やっと我に返った。 | |||
| 嫁の顔を見て安心した。やっと目が覚めたみたいだったが、また畑が揺れ始めた。 | |||
| 今度は嫁にしがみついた。・・・が、気がついたら嫁の後ろのほうが明るい。裏山が | |||
| ぶっつぁけていた。こりゃ大変だと思ったら、もう立てなくなった。生きた心地はな | |||
| かったよ。 | |||
| あとでテレビを見たら、海の方では大きな船が街中まで流されたり、家ごと、村ご | |||
| と、流されたりしたんだね。気の毒に大勢亡くなったり難儀しているそうですね。 | |||
| この岩船山もこんな形になってしまった。昔から地震・雷・火事・おやじと言うけ | |||
| れど、なるほど地震はおっかねーですね。 | |||
| わたしら、若いころはお参りも盛んだったし、男たちは採石で生き生きしてた。あ | |||
| りがたいお山だったのに・・・・。こんなことになっちまいました。今でも割れたあ | |||
| たりから、ときどき、カラカラッという変な音がするよ。雨の夜などは気持ちが悪い。 | |||
| あんた、写真機なんか持って、危ないから近寄らない方がいいよ。こんなことにな | |||
| るとはね・・・」と、しみじみ話してくれた。 | |||
| 貴重な体験を聞けてありがたかったが、大変な姿になってしまい、今も治まらない | |||
| 原発にも思いを馳せながら、おばあちゃんと自然の力に敬服した。 完 | |||
| 2011. 6.19 | 野村 | “いたち川”川沿いを探索する(その1) | ![]() |
| “いたち川”川沿いを探索する(その1) | 横浜市 野村 一信 | |
| 小田茂さんの、横浜市中区の発祥の「碑」からいろいろな「碑」を紹介していただ | |||
| き、それを読みながら私も自分の住んでいるところの、一部でも紹介してみようと思 | |||
| い立ちました。 | |||
| 私は横浜市栄区の上郷地域に住んで46年ほど経ちました。はじめに栄区について少 | |||
| し触れます。 | |||
| 栄区は横浜市の南部にあたり、鎌倉市に隣接しておりJR大船駅のプラットホーム | |||
| は横浜市栄区と鎌倉市の両方にまたがっております。この地域はもともとは戸塚区で | |||
| ありましたが、人口の大幅な増加により、昭和61年(1986年)に泉区と共に分区され | |||
| 栄区が誕生しました。 | |||
| 栄区の地域の人口は昭和30年(1955年)13,685人、私が移転してきた昭和40年(1965 | |||
| 年)30,304人であり、この頃から急激に増加し昭和55年(1980年)には104,192人とな | |||
| りましたが、その後はやや落ち着いて30年後の昨年は126,575人という状況です。した | |||
| がって私たち家族は、栄区では古株の区民となってしま |
|
||
| いました。 | |||
| 横浜市内全体と比較しますと、宅地割合が少なく、山 | |||
| 林割合の多い地域です。表現を変えれば、それだけ「自 | |||
| 然に恵まれた」地域ともいえます。 | |||
| 区内を流れる“いたち川”という奇妙な名前の小さな | |||
| 川が流れています。この川沿いを探索してみましょう。 | |||
| “いたち川”川沿いを探索する。 | |||
| まずこの川の名前が変わっていますね。いたち川は県道原宿六浦線の朝比奈トンネ | |||
| ル付近に源を発して東海道線大船駅近くを流れる柏尾川に合流する約8キロ弱の小さ | |||
| な川です。“いたち川”は昭和30年代(1960年代)までは緩やかに蛇行し湿地を残し | |||
| た川でしたが、市街地の開発などにより頻繁に水害が発生いたしました。その後の河 | |||
| 川整備により現在は「ふるさとの川整備モデル河川」に指定されております。また、 | |||
| 川のなかには“いたち”の置物がみられますが、“いたち川”という名前の由来は、 | |||
| 「出で立ち川(イデタチ)」からのもので、鎌倉街道を下っていくさいこの場所で食 | |||
| 事をして、「いざ、いでたち」と旅の安全を祈ったところから来たものと言われてお | |||
| ります。 | |||
| 小さな川ですが源流が3箇所ほどに分かれます。まず、朝比奈峠の横にある横浜霊 | |||
| 園付近が1箇所。次が、その少し下がって東側の上郷森の家付近に発する流れ。もう | |||
| 1箇所は、上郷森の家からまた下って山の中に入ると「せがみの池」と言うところが | |||
| あり、そこを源にして“古いたち川”となって県立柏陽高校グラウンド付近で本流と | |||
| 合流する流れです。では、本流の水源地近くを探索してみましょう。 | |||
| 相武トンネル入り口近くが横浜自然観察の森でこのエリア中に「自然観察センター」 | |||
| や「上郷森の家」があります。自然観察センターには野鳥の観察ができるように望遠 | |||
| 鏡が設備されています。これがなかなかよいタイミングで観察するのは難しいです。 | |||
| 自然観察センターの小屋にはいろいろな資料が置いてあるのでそれらを眺めながら鳥 | |||
| の来るよいタイミングを計ることが必要です。 | |||
横浜自然観察の森 |
上郷森の家 |
自然観察センター |
|
| ここから少し下っていくとミズキの池があり、ここには野鳥観察の板塀で囲われた | |||
| ところがあり、じっとタイミングを計って大きなカメラを構える人たちが居ます。こ | |||
| の池から流れ出た水が“いたち川”源流の一つです。少し山道を下ると人家のある長 | |||
| 倉町になり、ここから“いたち川小川のアメニティ”が始まります。 | |||
ミズキの池観察場所 |
長倉町小川アメニティ |
神奈川橋100選の昇龍橋 |
|
白山神社参道 |
街道に沿って流れる“いたち川”の最初に小さなアー | ||
| チ型石橋が架かっています。昇龍橋といい元は、この山 | |||
| の上にある白山神社への参道でした。神奈川橋百選にも | |||
| 選ばれていますが、今は近在の畑で作業する人の通り道 | |||
| ぐらいしか利用者は居ません。鎌倉時代にはこの所に白 | |||
| 山神社があったようです。白山神社は鉄の刀や農具を作 | |||
| る鍛冶職人の守り神でした。また、鎌倉時代、本郷が鎌 | |||
| 倉の北東にあたるため、北東から災いを持ってくる鬼か | |||
| ら守る神、つまり「守艮の神」として大切にされていました。このような歴史がある | |||
| ために、この近くから「たたら」の遺跡も発掘されています。 | |||
| (栄高校付近の猿田遺跡や深田製鉄遺跡など) | |||
| 街道から“いたち川”が見えなくなって少し県道を下 |
御嶽山神社(石碑) |
||
| っていくと、左側の住宅脇に変な石碑が見えます。これ | |||
| は御嶽山神社(石碑)です。明治時代のものですが、昔 | |||
| は御嶽山(木曾)に登るのは大変でしたので、ここで祈 | |||
| って病気回復を祈願したとのことです。ここを過ぎると | |||
| 光明寺です。 | |||
光明寺境内の親鸞聖人像 |
光明寺は7世紀に聖徳太子の弟子の秦河勝が建てたと | ||
| いわれ、浄土真宗の開祖親鸞ゆかりのお寺といわれてい | |||
| ます。 | |||
| 山門をくぐると右側に、聖徳太子を尊敬した親鸞聖人 | |||
| の像が建っています。親鸞は聖徳太子を尊敬して、この | |||
| 地で7体の聖徳太子像を刻みながら、お寺や民衆に教え | |||
| を説いていきました。親鸞の教えにとっても感銘を受け | |||
| た当時の住職は改宗をし、このお寺は浄土真宗になりま | |||
光明寺鐘撞き堂 |
した。 | ||
| また、そのとき改宗したお寺に与えられたといわれる | |||
| 聖徳太子像の一体が光明寺に残っています。 | |||
| この寺の鐘は大晦日には毎年近在の方が撞きに来るの | |||
| で大変な行列になり撞き終って飲むお神酒がまた美味い | |||
| んです。その鐘の前に重さ約130kgのたまご型「力石」 | |||
| が置いてあります。上郷には「力石」が3つありますが、 | |||
| その中でもっとも重く、材質・形も良いといわれ、お祭 | |||
| りなどのたびに親しまれてきました。 |
近在一の美形力石 |
||
| 本郷の「民話と伝説」という本に「力石」についての | |||
| お話が出ています。『江戸の初め、本郷に左近、鎌倉の | |||
| 関谷に右近という2人の力持ちがいました。お祭りのた | |||
| びに、大きな力石を持って争い、観客をわかせていまし | |||
| た。「がんばれ左近」「負けるな右近」しかし試合を離 | |||
| れた普段の左近と右近は励ましあい助け合う親友でした。 | |||
| やがて2人の噂が将軍の耳に入り「力持ちで仲が良いと | |||
| は、ちょうど良い」と江戸城の大門を力を合わせて守るよう仰せ付けました。その後 | |||
| 2人は役目を立派に果たし、年老いてからも、仲良く幸せに暮らしたといわれていま | |||
| す。』 | |||
| 第1回“いたち川”川沿いを探索するは、この辺で終わり続きは第2回へ | |||
| 資料:栄区郷土史。栄区歴史散策マップ。 | |||
| 2011. 5.29 | 清水 | 加齢男性の小便作法 | ![]() |
| 加齢男性の小便作法 | 横浜市 清水 有道 | |
| 『フェルミーナ・ダーサがはじめて小便の音を聞いた男性は夫だった。新婚旅行で | |||
| フランスに向かう船のキャビンで、夜にその音を聞いたのだが、あのときは船酔いの | |||
| せいでひどく気分が悪かった。あのような立派な人物にふさわしくない、馬の小便を | |||
| 思わせる力強い音を聞きながら、自分の身がもつだろうかと不安になった。年齢とと | |||
| もに小便の音は小さくなっていったが、それとともにしばしば昔のことを思い出すよ | |||
| うになった。というのも、夫がトイレを使うと、そのたびに便器の縁が濡れるように | |||
| なったのだが、それがどうしても許せなかった。ウルビーノ博士は、分かる人にはな | |||
| るほどと思える説明をして妻を説き伏せようとした。お前が言うように毎日便器が汚 | |||
| れるのは、不注意だからではない。あれは生理的な理由によるものだ。これでも若い | |||
| 頃は勢いよくまっすぐ飛んだものだから、学校でビンを置いて放射競技をしたときに | |||
| 優勝したくらいだ。しかし、歳をとるにつれて、勢いがなくなり、斜めに飛んだり、 | |||
| 枝分かれするようになった。おしまいにはまっすぐに飛ばそうといきんでも、きまぐ | |||
| れな噴水のように四散してしまうんだよ。<<水洗便所というのは、男のことも何も | |||
| 知らない人間が考え出したものだ>>と彼はよく言ったものだった。結局、卑屈とい | |||
| うよりも屈辱的な行為を毎日行うことで、家庭の平和を乱さないことにした。つまり、 | |||
| トイレを使うたびにトイレット・ペーパーで便器を拭くようにしたのだ。彼女は気付 | |||
| いていたが、バスルームにアンモニア臭が立ち込めるまでは何も言わなかった。臭い | |||
| がひどくなると、犯罪行為を見つけでもしたように、<<まるでウサギ小屋みたいに | |||
| 臭うわね>>と言った。老いの坂にさしかかる頃になるとウルビーノ博士は身体が思 | |||
| うように動かなくなったが、その頃になってようやく最終的な解決法を見つけ出した。 | |||
| つまり、妻と同じように便器に座って用を足すことにしたのだが、おかげで便器は汚 | |||
| れなくなったし、本人も安らかな気持ちになった。』 | |||
| (G・ガルシア=マルケス著、木村榮一訳 | |||
| 『コレラの時代の愛』2006年10月30日新潮社発行単行本53〜54頁)。 | |||
| いきなりとんでもない文章を登場させてしまいました。この題名で今回文章を綴ろ | |||
| うと思い至る直接の引き金になったものとして引用したのですが、本文に入る前に、 | |||
| この文章の作者と筆者の好みについて一言付記させてください。 | |||
| 筆者はこの3月、忙しい毎日の仕事の合間を使って相 |
JR浜松町駅の小便小僧(5月) |
||
| 当の厚みのあるガルシア・マルケスの『コレラ時代の愛』 | |||
| (El amor en los tiempos del colera)を読破しました。 | |||
| 筆者は以前に何回かこの紙面に書いたように記憶してい | |||
| ますが、現代の海外作家では、ノーベル文学賞受賞作家 | |||
| の、コロンビア出身のガブリエル・ガルシア=マルケス、 | |||
| 英国ブッカー賞受賞作家のカズオ・イシグロとアニタ・ | |||
| ブルックナーの3人が好きで、これら3人の殆んどの作 | |||
| 品を原文と訳文の両方で2〜3回繰り返し読んでいます。カズオ・イシグロは若干他 | |||
| の二人とは趣を異にしています。何故なら、遠い昔の日本のことが潜在的な記憶の中 | |||
| に、大きく育ってきて、時々現実の中に現れ出でて、現実の社会との共生が難しくな | |||
| るさまを、角度を変え、首題を変えて表現しているのですが、他の二人はもっと現実 | |||
| 生活のそれも普通の事柄、人間関係、井戸端会議にも似た世間話に左右される個人の | |||
| 脆さ、たわいなさを見事に描いていると思えて共感する部分が多いためです。 | |||
| 今回読みきった『コレラ時代の愛』は著者が1985年に発表したものであります。ご | |||
| 承知のように、ガルシア・マルケスは1967年著者37歳のときに発表した『百年の孤独』 | |||
| (Cien anos de solidad)で一躍有名になり、その後の南米文学の先駆者として世の | |||
| 注目を浴び、不動の地位を築き上げた作家であります。育ったコロンビアという国の | |||
| 特殊事情もあって苦学の末、ジャーナリストの道を歩んで、広く欧州での取材を通じ | |||
| 目にしたいろいろな社会制度に批判を織り交ぜながら、この世にありえない仮想世界、 | |||
| 理想世界と現実世界の対比を描いて、どの作品も読んでいる読者自身の賛同がないま | |||
| ま納得させられ、少しも後味の悪い思いをしないという不思議な体験をさせられる作 | |||
| 者であると思っています。 | |||
ガルシア・マルケス |
今回取り上げようとしているガルシア・マルケスの文 | ||
| 章は、筆者が日頃家庭内で女房、娘といさかいになった | |||
| り、自分自身でわが身の加齢による放尿時の変化や若年 | |||
| 時には絶対になかった粗相やその他平生気に掛けている | |||
| 事柄を実に巧みに、しかもさらっと綴っている筆力に感 | |||
| 心して、是非皆様にも紹介したいと思ったからでありま | |||
| す。ポルノ小説ならともかく、尾篭なことを普通の文章 | |||
| の中に事細かく書くことはなかなか出来そうで出来ない | |||
| ことだと思うからです。筆者の家のトイレに男性用として、別に朝顔様の設備をすれ | |||
| ば事情はもう少し変わるのでしょうが、筆者の経験でも、男女兼用の西洋便器ではま | |||
| さにガルシア・マルケスの書いている有様が間違いなく起こるので、引用した文章は | |||
| けだし実話の描写としてよくもここまで書いてくれたものだと合点が行き過ぎるから | |||
| であります。それにも増して感心に堪えないのはトイレの汚れや臭いが加齢とともに | |||
| 夫婦間の会話に占める比重が高くなることを作家である著者は十分に心得ていて、文 | |||
| 中の老夫婦の会話にそれをうまく乗せていること、著者が自分の生活と身体の観察か | |||
| ら実証として捉えたカラダのあらゆる部分の衰え、男性の一物の萎えからもたらされ | |||
| る若いときにはなかった気が滅入るような不都合を分りやすく解説口調で語らせてい | |||
| ることです。当たり前といえば全くその通りなのですが、それを逆に真面目に取り上 | |||
| げて、避けて通れない人間の終焉に至る事象を優しい目で見詰め直しているようでも | |||
| あり、微笑ましさすら感じられるからです。絵画にも写真よりも精密とさえ思うほど | |||
| の超写実という手法がありますが、文章にも丁寧であって、書き過ぎにならない境が | |||
| あるということでしょうか。筆者が「歳を増して少し関心の的がおかしいのではない | |||
| の!」と言われるでしょうか。 | |||
| (2011年4月 記) | |||
| 2011. 5.22 | 砂田 | 富士山を雑学散歩する(7)最終回 | ![]() |
| 富士山を雑学散歩する(7)最終回 | 相模原市 砂田 定夫 | |
| 1.富士山に挑み続けるスーパーマンたち | |||
| これまで筆者は富士山へ都合31回訪れているが、登頂したのは14回だけである。登 | |||
| 頂しなかった理由は、もちろん途中で体調不良などにより引返したこともあるが、雪 | |||
| 上訓練、実地講習会、現地研修会などを目的とした場合も多かったし、他にお中道、 | |||
| 側火山、古道歩きが目的だった場合もあり、必ずしも登頂が目的でない場合があった | |||
| ためである。富士山は季節、気象条件、コースの選び方などによって別個の表情を見 | |||
| せてくれるし、目的によって有意義な登山ができる。チベットの6000m未踏峰へ出か | |||
| けたときは、高度に馴れるための目的で出発の前月に二度登って、山頂においてツェ | |||
| ルト(簡易テント)で夜を明かしたこともあった。 | |||
| ところで、「富士山に一度登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」と言う人もいるが、何度も | |||
| 登っている筆者など「大馬鹿」ということになるのだろうか。しかし、私など足元に | |||
| も及ばないくらい世の中には桁違いに多い回数富士山へ登り続けている人がいる。 | |||
| すでに数百回登った人が何人かいるし、中でも昨年10月に1000回登頂を達成した人が | |||
| いる。實川欣伸さんという67歳の方で、その登り方が凄い。ある年には4〜11月の8 | |||
| ヶ月間に248回、88日間連続して登頂し、75日間は連続1日2回登頂、その年の日に2 | |||
| 回登頂は通算109日という。時には、御殿場口→頂上→須走口→頂上→吉田口→頂上→ | |||
| 富士宮口→山頂→御殿場口(起点)というすべてのルートを一気に継続登山し、それ | |||
| を30時間52分で達成したというスーパーマンぶりである。また、私の知っている増子 | |||
| 春雄さんという方は、東芝の研究所を勤め上げた登山家であったが、「毎月富士登山」 | |||
| を何年も続けておられた。毎月ということは厳冬の12〜3月を含めてであり、最高レ | |||
| ベルの技術、体力、経験、意志が揃わなければできないことで、半端なことではない。 | |||
| 富士への多回数登山の歴史は古い。12世紀の中ごろ、 |
末代上人の宝篋印塔(日金山東光寺) |
||
| 修験道の目的で富士に登り続けて山頂に大日堂を建立し | |||
| た富士上人こと末代(まつだい)のことは前にも触れた | |||
| が、上人は数百回富士に登ったと伝えられている。多回 | |||
| 数登山のルーツと言えるだろう。現代の登山者と昔の修 | |||
| 験僧とは目的も動機も異なるかもしれないが、挑戦し続 | |||
| けるひたむきな精神、大自然から享受する清浄感、登山 | |||
| 行為の結果として得られる達成感などに共通するものが | |||
| あるのだろう。 | |||
| 2.富士山の魅力は無限? | |||
| よく「富士山は眺める山で、登る山ではないね」などと言う人がいる。田山花袋も | |||
| 「富士は山そのものとしては決して面白い山ではない。暑い思いをしたり汚い石室 | |||
| 〔山小屋〕のフトンにくるまったりして、わざわざ登って行って見たところで、別に | |||
| 心を引くところもないような山である。裾野にはそれでもすぐれたシーンがあるが、 | |||
| 森林帯などは日本アルプスや日光あたりに比ぶべくもないほど浅い。七〜八合目以上 | |||
| はただ岩石磊々(らいらい)たるばかりである。眺望もただ単調な雲の海を眺めるば | |||
| かりである云々」とこき下ろす。 | |||
| しかし賛辞も忘れない。「しかし、そう言われても、富士は決してその大を失わな | |||
春の富士山を登る |
い。またその名山たる資格を失わない。富士は背景又は | ||
| 前景として、実に無限の美しいシーンを至る所にひろげ | |||
| ている。富士はその周囲にあらゆるものを持っている。 | |||
| 山、海、湖に、平野、都会、河川、すべて天然のもった | |||
| あらゆるものを持っている」(『山水小記』)。 | |||
| 富士に対する評価はいろいろあるだろう。しかし、大 | |||
| 方の意見は「木を見て森を見ず」的なもので、富士登山 | |||
| といえば安全な夏山シーズンに五合目まで車で運ばれて、 | |||
夏の富士登山 |
そこから一般登山道を多くの人の群れの中に揉まれなが | ||
| ら登る何の変哲もない単調な登山をイメージしたもので | |||
| あろう。富士に登って本当の美とか自然の壮麗さを体感 | |||
| できるのは、むしろ夏山シーズンの7〜8月中旬を除く | |||
| 季節ではないだろうかと思っている。ただその季節の大 | |||
| 部分が本格的な登山心得のある人にしか許されない世界 | |||
| であることが、富士にとって不幸な一面かもしれない。 | |||
| 雪のある季節に登ると、朝のピンク色に染まる雄大な斜面、太陽に輝く氷雪のアイ | |||
| スバーン、舞い上がる雪煙、ぴりっと肌を刺す寒気など、夏山では想像もつかない厳 | |||
| しくも美しい世界が展開する。冬の富士山は強風、堅氷、酷寒の世界であり、その登 | |||
| 山には訓練と経験を積んだアルピニストだけが許される。彼らにとって富士山はより | |||
| 高く、より困難を克服する格好の目標となり、大きな達成感が得られる。桂月流に言 | |||
| えば、「冬富士に登らずんば登山を語るなかれ」といえるかもしれない。しかし、恐 | |||
| るべき強風は富士特有の突風となって登山者を襲う。登山者たちはこれに耐えるため | |||
| にピッケルを使って、抵抗を最小限にするための姿勢(これを「耐風姿勢」と呼ぶ) | |||
| を保って突風をやり過ごす。八合目以上はおそらく平均風速20m/s以上で、冬富 | |||
| 士に多く登っているベテラン登山家松永敏郎さんの体験によれば、山頂では平均風速 | |||
| 40m/s、最大瞬間風速はその倍くらいだったかもしれないという。突風に飛ばされ | |||
| て滑落死した登山者も多い。最近では、2年前に筆者と同じ市内に在住する有名な元 | |||
| F1レーサーの仲間がテントごと飛ばされて死亡した事故は記憶に新しい。 | |||
| 冬山にそなえて氷雪技術の訓練の場として富士山の利用度は高いし、ヒマラヤなど | |||
| の高峰へ臨むための高度順化の場としても活用される。富士を修練の道場として日本 | |||
| アルプスや上越国境の冬山へ、更にヒマラヤなどへステップアップしていったアルピ | |||
| ニストは多い。筆者の好きな季節は、厳冬の季節を過ぎた4〜6月頃で、富士の気象 | |||
| は厳冬期よりずっと穏やかになり、雪も豊富に残っているので楽しい雪山を満喫でき | |||
| る。 | |||
| 富士の楽しみ方は雪山に限らず、また登頂するばかり |
冬の雪上訓練風景 |
||
| とは限らない。例えばお中道、古道、側火山などを紅葉 | |||
| の秋に歩くことも趣きがある。お中道はかつて各五合目 | |||
| の森林限界を一周するコースであったが、大沢の崩壊で | |||
| 一周できなくなったものの、大沢崩れまではトレッキン | |||
| グできる。奥庭辺りから大沢崩れまでを錦秋のころ歩く | |||
| と、澄んだ空の下、山頂の新雪を仰ぎ、冠雪した南アル | |||
| プス連峰を眺め、紅葉を愛でながら静かな楽しい一日を | |||
| 過ごすことができる。また、須山古道などを往年の富士講信者や行者を偲びながら歩 | |||
| くのも趣きがあり、側火山の双子山と結べば最高級の散策が楽しめる。吉田口(河口 | |||
| 湖口)など夏のシーズンはスバルラインの利用によって車で一気に五合目まで行って | |||
| しまうが、シーズンを外して裾野の中ノ茶屋辺りから五合目までを歩くのも渋い楽し | |||
| み方である。今では冬山を目指す人だけが歩くようになってしまったが、富士講の信 | |||
| 者たちが辿った登山道を、多くの人たちがワラジを履いて通った息づかいを感じなが | |||
| ら、古い旧跡を確かめつつゆっくりと歩くのも興味深いものであろう。 | |||
| 3.世界に冠たる名山・富士山 | |||
| 日清戦争の起った同じ明治27年に発行されて、たちまちベストセラーになった一冊 | |||
| の本がある。志賀重昴(しげたか)著『日本風景論』である。地学、気象などの観点 | |||
| から日本の風景を説き、同時に登山の気風を啓発した。この本で感化された青年たち | |||
| は、やがて近代登山の歴史を創り上げていった。近頃は○○百名山とやたらに名山を | |||
| 決めてしまうが、志賀は何人かの外国人の賛辞を引用し、富士は全世界<名山>の標 | |||
| 準としている。 | |||
| また、本稿にたびたび登場する大町桂月は、「世界第一の名山と云えば、日本人は | |||
| 何人も必ず富士山の事なりと気付くべし。日本を代表する名山と云えば、西洋人とて | |||
| も東洋の事情に通ずる者は、必ずそれと合点するあるべし」とまで書いている。 | |||
| 山を愛し、山の文章を書き続けた作家・深田久弥の名著『日本百名山』は、いわゆ | |||
| る百名山信奉者たちのバイブル的な本であるが、深田はその中で富士山の世界一の資 | |||
| 格条件をあげている。 | |||
| ● これほど多く語られ、歌われ、描かれた山は他にない。 | |||
| ● このような高山に少なくとも平安期に確実に登られたことは世界記録である。 | |||
| ● 老若男女あらゆる層の人が登る大衆性を持つ国民的な山である。 | |||
山頂における筆者 |
さらに、「世界各国にはそれぞれ名山がある。しかし | ||
| 富士山ほど一国を代表し、国民の精神的資産となった山 | |||
| はほかにないだろう。<かたりつぎ言いつぎゆかむ>と | |||
| 詠まれた万葉の昔から、われわれ日本人はどれほど豊か | |||
| な情操を富士によって養われてきたことであろう。もし | |||
| この山がなかったら、日本の歴史はもっと別な道を辿っ | |||
| ていたかもしれない」と書いている。 | |||
| 富士は世界文化遺産登録をめざすという。山小屋のし尿問題は改善され、登山者の | |||
| 意識向上や自然保護運動で山中のゴミは減っているようだ。しかし、昨夏は40万人が | |||
| 押し寄せ、オーバーユース(過剰利用)の状態である。トイレは微生物で分解する環 | |||
| 境配慮型だが、清掃などに年約1000万円かかるという。事業仕分けの対象となったよ | |||
| うだが、国の負担と自治体や山小屋の負担はどうなるのか。人が増えれば高山病はじ | |||
| め、病人や怪我人も増えるので、救護施設も配慮しなければならない。近年増加して | |||
| いる外国人へのマナー啓蒙も徹底しているわけではない。裾野に広がる自衛隊演習場 | |||
| は景観に支障ないのだろうか。課題はまだまだあるはずである。 | |||
| 静岡県は2月23日を「富士山の日」と定め、山梨県と共に世界文化遺産をめざして | |||
| 運動を進めている。両県が掲げた「富士山憲章」のうち次の一章を引用し、結びとし | |||
| たい。 | |||
| ●「富士山の自然、景観、歴史・文化を後世に末永く継承しよう」 | |||
| 完 | |||
| 2011. 5.15 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その16最終回) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その16最終回) | ||
| 横浜市 小田 茂 | ||
| ≪はじめに≫ | |||
| 本シリーズは、今回をもって終了いたしますが、今回は『昭和5年(1930年)特集 | |||
| 号』という形で編集いたしました。“東京計器”の発祥の地:東京府小石川区から昭 | |||
| 和5年に蒲田へ進出してから、昨年で80年を経過しました。 | |||
| 今まで訪れた横浜市中区の「“発祥の地”を訪ねて!」、「いろいろな“碑”」編 | |||
| 集にあたって探訪しているなかで、幾つかの「昭和5年生まれ同期生」に出会い、何 | |||
| となく親しみ、懐かしさを感じたものです。“東京計器”の建物は、再開発のため早 | |||
| めに卒業しましたが、現在も活躍している「同期生」に愛着を込めて紹介いたします。 | |||
| 73.「東京計器」(蒲田:旧本社・工場) | |||
| 「東京計器」が、明治29年 |
蒲田:旧本社・工場その1 |
蒲田:旧本社・工場その2 |
|
| (1896年)に誕生した東京 | |||
| 市小石川区の本社・工場が、 | |||
| 荏原郡蒲田町へ移転のため、 | |||
| 昭和5年に誕生した蒲田の | |||
| 旧本社・工場は当時、超モ | |||
| ダンな近代的工場として脚 | |||
| 光を浴びたものです。 | |||
| 幸いにも戦災は受けたもの修復可能な状態で生き残りました。しかし、戦災を受け | |||
| たことも関係しますが、蒲田の本社・工場再開発のため、新社屋が昭和63年(1988年) | |||
| に完成し、旧社屋は58年間で卒業となりました。 | |||
事務棟2階人事部の部屋 |
私は、昭和31年(1956年)入社し、平成13年(2001年) | ||
| に退職するまでの45年間、人事部一筋、すなわち会社の | |||
| 他の部署の経験が無く、しかも入社してから建物が取り | |||
| 壊されるまでの32年間は、旧社屋の国道に面した西日の | |||
| よく入る2階の角部屋で過ごしたという珍しい記録?を | |||
| 持っています。〔ただし、昭和41年(1966年)に3階の | |||
| 増設工事で一時期場所換えしました。また、新社屋で13 | |||
| 年間過ごしました〕ということで、私にとって、旧社屋 | |||
| は時計台・高い煙突・大理石のトイレ等々、大変懐かしく愛着のある建物でした。 | |||
| 74. 「山下公園」 | |||
| 「山下公園」は、横浜の観光の中心でありまして、近 |
山下公園全景 |
||
| くには「横浜大さん橋」、「氷川丸」が係留され、「横 | |||
| 浜マリン・タワー」、「横浜中華街」、「元町商店街」、 | |||
| 「山手(外人墓地)」等々あり、正に横浜の観光の“顔” | |||
| であります。 | |||
| 「山下公園」は、大正12年(1923年)の関東大震災の | |||
| 復興事業のひとつとして瓦礫や焼土を埋め立てて造成さ | |||
| れ、日本で最初の臨海公園として昭和5年に開園しまし | |||
| た。園内には、『赤い靴はいてた女の子』像をはじめ横浜にちなんだ数々の碑があり | |||
| ます。 〔「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14)参照〕 | |||
| 訪れた4月14日は、翌日から始まる“花と緑のスプリングフェア”の「花壇展」の | |||
| 準備中で、21ある美しい花壇が早めに見られラッキーでした。 | |||
「花花壇」1 |
「花花壇」2 |
「花花壇」3 |
|
「花花壇」4 |
「花花壇」5 |
「花花壇」6 |
|
| 75.「氷川丸」 | |||
| 「氷川丸」は、昭和5年 |
氷川丸 |
銘板 |
|
| に日本郵船が横浜船渠株式 | |||
| 会社(現:三菱重工業渇。 | |||
| 浜製作所)により竣工させ | |||
| た総トン数11,622t、全長 | |||
| 163.3m、全幅20.1m、定員 | |||
| 457名(客員331名・乗組員 | |||
| 126名)の貨客船で、北太平 | |||
| 洋航路に長らく就航し、昭和35年(1960年)現役を引退し、現在は「山下公園」岸壁に | |||
| 博物館船として係留されております。 | |||
氷川神社神棚 |
一等船客食堂 |
名前の「氷川丸」は、埼 | |
| 玉県大宮市(現:さいたま | |||
| 市大宮区)の「氷川神社」 | |||
| に由来するもので、今でも | |||
| 操舵室の神棚には「氷川神 | |||
| 社」が祭られています。 | |||
| 戦前は、昭和7年(1932 | |||
| 年)にチャーリー・チャッ | |||
| プリンが乗船、昭和12年(1937年)には、イギリス国王ジョージ六世の戴冠式からの | |||
| 帰国時に、秩父宮ご夫妻が乗船されるなど華やかな時代でした。戦中は海軍病院船、 | |||
| 戦後は引揚病院船として活躍しました。 | |||
| 「操舵室」には、東京計器の「エンジン テレグラフ」、スペリーの「レーダー」、 | |||
| そして東京計器のものだと思いますが「転輪羅針儀 ジャイロコンパス」と表示され、 | |||
| 色も薄緑のジャイロコンパスが置かれていましたが、銘板も無く、分からないのでチ | |||
| ョット失礼して蓋を開けてみましたら、中身は有りませんでした。 | |||
「エンジン テレグラフ」 |
「レーダー」 |
「転輪羅針儀 ジャイロコンパス」 |
|
船長室 |
ジャイロ コンパス リピーター |
「船長室」には、数少ない | |
| 機器のうち東京計器のジャ | |||
| イロ コンパス リピーター | |||
| が置かれており、“特に重 | |||
| 責を担っている我社の製品” | |||
| ということで優越感を覚え | |||
| ました。続き部屋は、船長 | |||
| 用のバス・トイレ付の立派 | |||
| な寝室でした。 | |||
| 76.「元町プール」管理棟(元町公園内) | |||
| 「元町公園」は、地下鉄みなとみらい線「元町・中華街駅」から10分位のところに | |||
| あり、外国人墓地と隣接しております。 | |||
| もともと、この地は、良質な湧水が湧いていたため幕末から横浜に居留したフラン | |||
| ス人アルフレッド・ジェラールが煉瓦工場とともに給水業を行っていました。大正12 | |||
| 年(1923年)の関東大震災で煉瓦工場、水屋敷などが崖崩れで倒壊してしまいました。 | |||
| その跡地を、昭和5年の昭和天皇のご大典を祝って、横浜市青年団が発案し、湧き | |||
| 水を利用して、横浜初めての公式プールが建設され、周辺一帯は元町公園として開園 | |||
| されました。 | |||
「元町公園水泳場事務所」表 |
「元町公園水泳場事務所」裏 |
「元町公園水泳場事務所」 |
|
| 昭和5年に建てられたプールの管理棟は、煉瓦は国産で建物の下には大きな貯水場 | |||
| があり、ジェラールの作った西洋瓦と同じものを使い、デザインは工場をイメージし | |||
| て建てられたそうです。管理棟の「元町公園水泳場事務所」という標識が昔を偲ばせ | |||
| ております。 | |||
| 77.「ベーリック・ホール」 | |||
| 「ベーリック・ホール」は、現在は横浜市所有で「元町公園」の一部となっており | |||
| ますが、もともとは、昭和5年にイギリス人貿易商B・R・ベーリックの邸宅として | |||
| スパニッシュ風様式の建物です。設計はアメリカ人建築家J・H・モーガンによるも | |||
| ので、モーガンは山手聖公 |
「ベーリック・ホール」正門 |
「ベーリック・ホール」 |
|
| 会、111番館や山手、根岸競 | |||
| 馬場など数多くの建築を残 | |||
| しております。 | |||
| 戦後の昭和31年(1956年) | |||
| に遺族より宗教法人カトリ | |||
| ック・マリア会に寄付され、 | |||
| 平成12年(2000年)まで、同 | |||
| 法人が経営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使 | |||
| 用されておりました。学校の閉鎖とともに平成13年(2001年)に横浜市は、建物が所 | |||
| 在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物については宗教法人 | |||
| カトリック・マリア会から寄付を受けたものであります。 | |||
| ちなみに、近くの学校の跡地には、大規模なマンション建設が計画され、先住民の | |||
| 「山手の風致を乱す」と長らく反対運動が続いていましたが、今は大きい立派なマン | |||
| ションが建ち、大勢の方が憧れの?山手住民として住んでいます。 | |||
| 78.「根岸競馬場」一等馬見所(スタンド) | |||
| 日本で始めて洋式競馬が開催されたのは、居留外国人により造成中の旧横浜新田(現 | |||
| 在の横浜中華街)において、文久2年(1862年)といわれています。 | |||
| 慶応2年(1866年)に、日本初の近代競馬場が外国人遊歩道に沿う根岸の丘(現在 | |||
| の根岸森林公園)の上に設置されました。スタンドは関東大震災で被害を受けたもの | |||
| の、アメリカ人建築家のJ・H・モーガンの設計でスタンドが、昭和5年に竣工しま | |||
一等馬見所(スタンド)遺構 |
「根岸競馬場」全景 |
した。 | |
| 一等馬見所は4,500人を収 | |||
| 容し、7階建てで高さは約 | |||
| 28m、二等馬見所は12,000 | |||
| 人を収容でき、鉄筋コンク | |||
| リート造りとしては、我が | |||
| 国最初のスタンドでありま | |||
| した。 | |||
| 昭和57年(1982年)米軍に接収され「観戦スタンド」部分が返還されましたが、老 | |||
| 朽化のため解体されましたが、何故か一等馬見所部分が廃墟した形で残されています。 | |||
| 遺構として残すなら、もう少しそれなりの対応が必要と思われますが・・・・。 | |||
| 馬場やその他の箇所は、早めの接収解除で昭和52年(1977年)に森林公園として開 | |||
| 園しております。 〔“発祥の地”を訪ねて!(その2)参照〕 | |||
| 79.「本町旭ビル」(現:綜通横浜ビル) | |||
| 「本町旭ビル」は、地下 |
現:綜通横浜ビル |
現:綜通横浜ビルの壁面 |
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| 鉄みなとみらい線「日本大 | |||
| 通り」駅の近くで、横浜市 | |||
| 開港記念会館の真正面に建 | |||
| てられています。昭和5年、 | |||
| 地上5階、地下1階の壁面 | |||
| は、レンガ色のタイル貼り | |||
| でいろいろ模様(彫刻?) | |||
| を凝らした建物です。施工は大林組です。 | |||
| 平成7年(1995年)に地上10階、地下2階のビルに建て替えられました。歴史ある | |||
| 5階部分の外観を保存する形の新しいビルです。名前も「綜通横浜ビル」となりまし | |||
| た。現在1階部分はレストランでチョットした昔の雰囲気をかもしだしています。 | |||
| 80.「日本丸」 | |||
| 「日本丸」(ニッポンマル)は、JR桜木町駅東側を |
「日本丸」 |
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| でて直ぐ近くに係留されており、真横に「横浜ランドマ | |||
| ークタワー」が聳え立っています。ただ、この場所は中 | |||
| 区と西区の境目で、「日本丸」が係留しているところは、 | |||
| 「みなといみらい21」といって西区であります。 | |||
| 「日本丸」は、昭和5年(1930年)に神戸市の川崎造 | |||
| 船所で進水しました、総トン数2,278t、全長97m、全幅 | |||
| 13m、総帆数29、定員138名の航海練習船・大型練習帆船 | |||
| で、その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれました。 | |||
| 日本丸は、約半世紀にわたり活躍し、昭和59年(1984年)に引退し海洋練習船とし | |||
| ての役割は、後継の日本丸U世(現・日本丸)が担っております。 | |||
| 4月10日に「帆装」されるということで見学に行きました。はじめに練習生と思わ | |||
| れる若人が三本あるマストに登り、横柱にたたんである帆の結びをほどく作業と思わ | |||
| れます。メイン・マストは水面から46mとのことですが、女性も混ざっているのには | |||
| 驚かされました。帆は結び目を解いたら開くのかと思っていましたが、実際は総勢100 | |||
| 名位の練習生(女性は20名程度)が3グループにわかれ、太い綱を持って元気な掛け | |||
| 声をだして甲板で駆け回り、帆を持ち上げたり垂れ下げたりの約1時間の作業でした。 | |||
「帆装」@ |
「帆装」A |
「帆装」B |
|
| 見事に帆を張った「太平洋の白鳥」・「海の貴婦人」の再現に、作業を見守ってい | |||
| ました多数の見学者一同から万雷の拍手!拍手! | |||
| <おわりに> | |||
| 平成21年(2009年)3月から、「横浜開港150周年」を契機に私が住んでいる横浜 | |||
| 市中区に散在します「“発祥の地”を訪ねて!」を11回にわたって連載、引き続き、 | |||
| 「いろいろな”碑”を訪ねて」を連載し、今回の16回目で最終となりました。 | |||
| 私の拙い説明・写真でしたが2年3ヶ月わたり、都合27回の連載を、ご高覧いただ | |||
| きまして心からお礼申し上げます。 | |||
| この2年余りは、あっという間に過ぎましたが、私にとって大変有意義かつ貴重な | |||
| 体験でした。はじめは、「ボケ防止」的な思いも含めてスタートしましたが、60年以 | |||
| 上も住んでいた土地について如何に“無知”だったかを再認識させられました。新し | |||
| い発見に感激し喜びを感じ、今では何か無いか!とデジカメ片手にキョロキョロしな | |||
| がら歩くようになりました。これが「番外編」の珍風景に繋がったとも思われます。 | |||
| ただ、反省点としては、事前に十分準備されたものでなく、行き当たりばったりで | |||
| 計画性もなく、かつド素人のデジカメによる写真撮影であり、紹介する内容が地理的 | |||
| に「あっちへ飛んだり、こっちへ行ったり」と、見られる方にとっては分かりにくか | |||
| ったと思われます。“まあ〜、これもド素人の良さ!”と写真技術を含めて、勝手に | |||
| 自分を納得させています。 | |||
| また、いろいろな“碑”、“建物”が関東大震災と戦災の2回にわたる壊滅状態か | |||
| ら、見事復興した状況を数たくさん目にしました。東日本大震災の被災地も、これら | |||
| に負けない一日も早い復旧・復興を心から願うところであります。 | |||
| 最後に、この企画を実行するに当たって私の背中を「ポン!」と押してくれました、 | |||
| 横浜市栄区在住の野村一信さんが、引き継いでくださるとのことですので、どうか皆 | |||
| さんご期待ください。 | |||
| 2011. 5. 8 | 砂田 | 富士山を雑学散歩する(6) | ![]() |
| 富士山を雑学散歩する(6) | 相模原市 砂田 定夫 | |
| 1.大地震は山の高さを変える | |||
| 3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」は、有史以来といわれる規模の巨大 | |||
| 地震であり、続いて襲来した大津波による被害と福島第一原発の事故は日本はもとよ | |||
| り世界中を震撼させた。三陸地方の津波はこれまでに何度か記録にあるが、今回のよ | |||
| うな大規模なものは1000年に一度といわれ、古くは堆積した土砂から分析されて約2 | |||
| 千年前の弥生時代に大津波があったと推定されているようだし、その後史実の上では | |||
| 869(貞観11)年の「貞観(じょうがん)津波」(マグニチュード8.4以上、以下Mと | |||
| 表す)が発生した。古文書の『日本三代実録』によれば、その年仙台市北東の海岸で | |||
| 巨大な津波が発生し、1,000人以上(当時の東北地方の人口から見れば甚大な被害) | |||
| が死亡したことが記録されている。地震は長さ100kmの断層が7m以上もスリップし、 | |||
| 浸水は3km以上に及んだという。今回はそれを凌駕する大きさだった。ところで貞観 | |||
| 年間といえば、その5年前の864年には富士山が側火山から大噴火(「貞観の噴火」) | |||
| し、流れ出した溶岩流が青木ヶ原の樹海を形成したことは前にも書いた。偶然ではある | |||
| が、つい最近起った霧島連山の新燃岳噴火を連想したり |
富士山の二等三角点(剣ヶ峰) |
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| した。 さて、地震に伴う地殻変動があると、折角測量 | |||
| した成果(経度・緯度・標高)が変わってしまうので、 | |||
| 1891(明治24)年の濃尾大地震(M8.0)や1923(大正 | |||
| 12)年の関東大震災(M7.9)のあとは三角測量をやり | |||
| 直した。(これを「復旧測量」という)。関東大震災の | |||
| ときは、震源に近い三浦半島では水平方向に2m以上移動 | |||
| し、上下方向には1m以上の隆起があったという。関東大 | |||
| 震災の翌年1月に発生した余震(M7.4)は丹沢山地が震源で、ブナに覆われた山肌が | |||
| 一遍にガレと化し、塔ノ岳の山頂が1m沈下したという。今回の大震災はM9.0で観測 | |||
| 史上最大といわれるが、地殻変動は相当大きかった筈で、海岸線なども変化し、プレ | |||
| ートに平行した阿武隈山地や奥羽山脈などの山の標高も変わったかもしれない。関東 | |||
| 山地などを含めてGPSなどによって復旧測量することになるだろう。関東大震災後 | |||
| の復旧測量では、富士山周辺には及んでいないことが分かったが、今回の大地震の影 | |||
| 響はどうだろうか。 | |||
| 2.富士山を"身体検査"する | |||
| 改めて富士山の身体検査を試みよう。まず身長(標高)であるが、最初の測量は19 | |||
| 87(明治20)年に行われたが、1926(大正15)年に剣ヶ峰が2等三角点として再測量 | |||
三角点の解説盤(剣ヶ峰) |
された。しかし、設置された三角点は30年以上経って周 | ||
| 囲の岩石が崩れたりして倒壊しそうだったので、1962 | |||
| (昭和37)年埋め直された。いくらか低くなって3775.63m | |||
| となったが、四捨五入して3776m(昔の小学生は「皆な | |||
| ろう偉い人に」=ミナナロウと覚えたそうである)に落 | |||
| ち着いている。本当の最高点は三角点の北約12mにある | |||
| 岩で、約60cm高いので最高点は3776.2mとなる。いずれ | |||
| にしても「3776」は不変である。蛇足であるが、私のマ | |||
| イカーのナンバーは「3776」である。 | |||
| 富士山の体積を計算した人がいる。それによれば、体積は1,377立方kmで、重量は | |||
| 1,000億トン(密度を平均1立方pあたり2.1gとすると2.9兆トンとも)という。 | |||
| ウェストの代わりに、裾野の最大直径は49km、楕円形なので南北に38kmである。 | |||
| 序に頂上から裾野へ向かって描く美しいラインの平均斜度は30度で、最大斜度は33 | |||
| 度という。 | |||
| なお、履歴書として、これまで噴火した回数は記録の上で17回となっている。 | |||
| 3.富士に息づく動物たち | |||
| 富士山に生息する生物にはどんなものがいるだろうか。 |
丹沢で見たニホンジカ(大倉尾根) |
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| 鳥類は別として、これまで本州の山で出会った動物たち | |||
| を、見かけた数の多い順にあげると、ニホンジカ、ニホ | |||
| ンカモシカ、ニホンザル、ニホンリスをはじめ、ノウサ | |||
| ギ、オコジョ、ツキノワグマ、キツネ、タヌキ、ハクビ | |||
| シン、イノシシ、コウモリなどであり、他にアナグマ、 | |||
| イタチ、テンなどもいる。例外として三浦の山でよく見 | |||
| かけるタイワンリスのほか、アライグマなど野生化した | |||
| 外来種がいる。(北海道ではキタキツネ、エゾクロテン、エゾシマリスなどにお目に | |||
| かかれたが、幸か不幸かヒグマは見ていない。)このうち、外来種は別として、本州 | |||
| に棲む動物のうちサル以外は富士山に生息するようであるが、筆者自身は富士山では | |||
| あまり動物にお目にかかっていない。他の山では特にシカが増えすぎて、あるときな | |||
| ど日帰りで丹沢を縦走して出会ったシカの数はトータルで18頭だった。 | |||
| シカによる植物系の被害も多く、近年では彼らの爪先に付いて運ばれるヤマビルも人 | |||
| 里まで繁殖している。富士山もご他聞に洩れず、昨年1月に団体の主催するスクール | |||
| の講師として五合目まで雪上訓練に行って中ノ茶屋まで下山して来たとき、増えすぎ | |||
| て鹿狩りを依頼されたというハンターたちに出会った。 | |||
| 富士山では比較的小動物が多く、ネズミ類、モグラ類、ヤマネ、イタチ、テン、ム | |||
| ササビ、モモンガなどが場所によって生息するようだ。あるとき山頂の、吉田口頂上 | |||
| と富士宮口頂上の間辺りの岩間で可愛いらしいヒメヒミズ(モグラ科)を捕まえたこ | |||
| とがある。太陽に目がくらんだのか弱っていたが、そっと岩の間へ逃がしてあげた。 | |||
| また、裾野の東海自然歩道を歩いているとき日が暮れたが、キツネに出会った。彼は | |||
| 目を光らせて用心深くこちらの様子を窺っていたが、「ケーン」と甲高い叫びを残し | |||
| て走り去った。最も危険を感じたのは、けたたましく吼えながら近づいてきた野犬化 | |||
| した複数のイヌたちだった。 | |||
| 高山性の動物や鳥類は少ないようである。1960(昭和35)年、ある実験が行われた。 | |||
| 白馬岳の雷鳥7羽が富士山へ放鳥されたのである。昭和39年には10〜14羽に増えてい | |||
| ることを確認されているが、昭和45年1羽の目撃を最後に絶滅してしまったらしい。 | |||
| おそらく富士山にハイマツなどが繁生しないこと、直接の原因は天敵のテンやキツネ | |||
| によるものと考えられている。 | |||
| 4.逞しく生きる植物たち | |||
| 植物も限られた種類しか |
礫地に強いイタドリとホタルブクロ(双子山付近) |
富士固有種のフジアザミ(幕岩付近) |
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| 生息しないようだ。これは | |||
| 富士の生成に原因し、特に | |||
| 高山帯は溶岩流に覆われた | |||
| り、火山噴出物の砂礫で裸 | |||
| 地化しているためといわれ | |||
| ている。裸地は強い日光を | |||
| 直接受けるので、日陰を必 | |||
| 要とする植物は育たない。裸地化した火山荒原にはイタドリやオンタデのような荒地 | |||
| や礫地に強いものが多く、フジアザミなどの花が咲いているものの、花の種類は多く | |||
| ない。富士を代表する花といえば、フジアザミのほかフジハタザオ、サンショウバラ | |||
| 、マメザクラなどがあげられるが、五合目以上を歩く普通の登山道ではあまりお目に | |||
| かかれない。 | |||
強風に耐えるカラマツの偏形樹(御殿庭付近) |
樹木は2,300m前後の森林限界以下では、コメツガ、ト | ||
| ウヒ、シラビソなど針葉樹主体の原生林があり、森林限 | |||
| 界では風雪に耐えて生き抜くカラマツが偏形した枝を必 | |||
| 死に伸ばしている姿が見られる。場所によってダケカン | |||
| バ、イタヤカエデ、ヤマハンノキなどの広葉樹も針葉樹 | |||
| に混じって見ることができる。 | |||
| あるとき、富士山の森林限界近くで何かを一所懸命探 | |||
| している人に出会った。「何か採れるのですか」と尋ね | |||
| ると、「オニクだよ」と言って採取した奇妙なキノコのような植物を見せてくれた。 | |||
| 「これを煎じて飲むと精がつくよ」と言ってその一つをくれた。これが効いたかどう | |||
| か分からなかったが、図鑑で調べるとオニクは別名キムラタケという寄生植物で、ミ | |||
| ヤマハンノキの根に寄生するという。確かに強壮薬として知られるようで、木曾御嶽 | |||
| 山や富士山に多いらしい。中国で強壮薬とする肉じゅ容(ニクジュヨウ)に誤まって | |||
| あてられ、頭の「肉」だけに省略して上に敬語の「御」を付け「御肉」となったとい | |||
| う。昔、中国では東海にあるという幻の蓬莱の国に不老長寿の薬草があるという伝え | |||
| があり、秦の始皇帝の命令で330年ごろにそれを日本に探しにやってきた徐福のことを | |||
| 思い出した。彼は 富士山にそのような薬草あり、という噂を聞いて登ったのではなか | |||
| ったかと、ふと想像したりした。 | |||
| <お断り>7行上の「肉じゅ容」の「じゅ」について、投稿者様の原稿では、 | |||
| 「くさかんむり」に「從」の旧字体で表記(Unicode:84EF)されておりました。 | |||
| OB会HP表示では、この文字は表示されませんので、「ひらがな」で表記させて頂 | |||
| きました。 東京計器OB会HP担当 | |||