| 話 題 『 よもやま話 』 | 2011年3月〜2011年4月 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2011. 4.29 | 富士山を雑学散歩する(5) 投稿;砂田定夫 | ![]() |
| 2011. 4.24 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その15) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2011. 4.17 | “我が人生をかえりみて” 投稿:堀 保胤 | ![]() |
| 2011. 4.10 | 那須國造碑雑話(その2) 投稿:檜山 湧二 | ![]() |
| 2011. 4. 3 | 那須平成の森を歩く 投稿:大野 健治 | ![]() |
| 2011. 3.27 | 那須國造碑雑話(その1) 投稿:檜山 湧二 | ![]() |
| 2011. 3.20 | 栃木県人生活37年間の今昔 投稿;渡邊浩子 | ![]() |
| 2011. 3.13 | 東京計器旧社屋の写真 投稿;吉田誠治 | ![]() |
| 2011. 3. 7 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14) 投稿;小田 茂 | ![]() |
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| 話 題 『 よもやま話 』 |
| 2011. 4.29 | 砂田 | 富士山を雑学散歩する(5) | ![]() |
| 富士山を雑学散歩する(5) | 相模原市 砂田 定夫 | |
| 1.富士のビューポイントをめぐる | |||
| 八面玲瓏(はちめんれいろう)とは、富士山を表現する言葉であろう。どこから見 | |||
| ても美しい。どうせ眺めるなら、富士の息づかいが感じられるような周辺からがよい。 | |||
| ビューポイントを探索してみよう。 | |||
| 先ず北側では富士五湖の、河口湖から西湖にかけて湖面を前景にした絵のような風 | |||
| 景を眺めることができる。また、御坂峠、黒岳、大石峠、王岳など御坂山地の山々か | |||
| らはいずれも甲乙つけがたい富士を観賞できるが、私の好きなポイントは三ツ峠山か | |||
| らの富士の姿である。ところで葛飾北斎の代表作『凱風快晴』がどこから見た富士な | |||
| のかを考察した人がいる。山岳展望研究家の田代博氏で、パソコンソフトで傾斜のき | |||
| つい描画をした結果、三ツ峠山からではないかと推論された。北斎は1810(文化7) | |||
| 年前後に、地元の人の案内で三ツ峠山や石割山に訪れて |
富士お中道で見た笠雲 |
||
| いるらしい。 | |||
| 西側へ回ると、本栖湖から朝霧高原へかけての裾野や、 | |||
| 竜ヶ岳、雨ヶ岳から毛無山、長者ヶ岳、天子ヶ岳といっ | |||
| た天子山地の静寂な山々からは、山頂に達した喜びを富 | |||
| 士の姿が倍加してくれる。 | |||
| 南側といえば、田子の浦、三保の松原など駿河湾に面 | |||
| した場所、伊豆半島の大瀬崎、黄金崎なども鑑賞に適し | |||
| ているが、十里木高原や愛鷹(あしたか)連峰の富士見峠から眺めると宝永山の爆裂 | |||
| 口を正面に見ることができる。 | |||
| 東側からは、山中湖、忍野八海、少し離れて箱根の芦ノ湖、乙女峠、金時山などか | |||
| らの富士は人気があるが、筆者としては石割山からその北へ連なる尾根を歩きながら、 | |||
| 三日月形の山中湖を前景に眺める富士が好きである。三国山に近い鉄砲木ノ頭(明神 | |||
| 山)からの眺めも遮るものがないので、時間が経つのを忘れるほどの展望地であった。 | |||
| 冬晴れの日など、舞い上がる山頂付近の雪煙をはっきり目撃することができる。 | |||
| ある時期、東海自然歩道のうち起点の高尾山から富士川まで、何度かに分けて歩き | |||
| 通したことがある。高尾山頂から始まる富士山の展望は、丹沢山地を越え、富士五湖、 | |||
| 溶岩台地の剣丸尾(けんまるび)、紅葉台、青木ヶ原樹海、朝霧高原、田貫湖(たぬ | |||
| きこ)、白糸ノ滝など経由しながら、最後の思親山に至るまで常に富士を眺めながら | |||
| の想い出深いトレッキングだった。この中で、田貫湖ではダイヤモンド富士のビュー | |||
| ポイントになることで知られているが、私はまだそれを見る幸運に恵まれていない。 | |||
| そのダイヤモンド富士とは、富士山頂から太陽が出る瞬間(日の出)と、太陽が沈 | |||
| む瞬間(日の入り)の、ほんの1、2秒間に見られるシーンで、太陽がさながらダイ | |||
| ヤモンドが光り輝くような光彩を放つことである。見る位置と富士山と太陽を結ぶ線 | |||
| が一致する場所で、見る位置、時刻、気象条件が揃わないと見ることはできない。太 | |||
| 陽は季節によって出る方向が変わるから、日の出は富士に対して西北西〜西南西から、 | |||
| 日の入りは富士に対して東北東〜東南東から見ることになる。日の出では田貫湖のほ | |||
| か、身延山地の七面山(しちめんざん)からのご来迎が有名である。この山は身延山 | |||
雲上の富士山(毛無山より) |
と共に、日蓮宗の聖山になっている。 | ||
| 〔先ごろ、三浦弘幸氏がダイヤモンド富士の見事な | |||
| スナップを「季節の風物詩」に寄せられていた〕 | |||
| いずれにしても富士は季節、気象、前景などによって | |||
| 様々な姿を見せてくれる。雲上に突き出た山頂、逆さ富 | |||
| 士、笠雲を冠った富士、赤富士、影富士、朝焼け・夕映 | |||
| えの富士、ダイヤモンド富士など、それぞれが別の表情 | |||
| で見る人の感動をさそう。 | |||
| 2.富士の見える最遠地はどこ? | |||
| 筆者の生まれたのは、現在の東京都港区南麻布(当時は麻布区)で、町名は富士見 | |||
| 町だった。疎開するまでの幼時をそこで育ったが、幼な心に2階の物干しから富士を | |||
| 見た記憶がある。戦後は港区白金台で暮らしたが、昭和46年に現在住む相模原市に移 | |||
| った。当時はまだ建物も少なく、ベランダから子供たちと夕映えの大山を眺めながら、 | |||
| 山岳展望の得られる夢のような暮らしの始まりを実感し |
夕暮れの富士山(大山より) |
||
| た。自宅付近からは西南側に屏風のように連なる神奈川 | |||
| 県の屋根、丹沢山地の最高峰である蛭ヶ岳から丹沢山に | |||
| かけての最も高い部分が遮って富士山は見えない。 | |||
| しかし、同じ市内でも少し北へ寄ると、蛭ヶ岳の右に低 | |||
| くなった姫次(ひめつぐ)の尾根の上に富士が見え、 | |||
| 富士見という町名もある。 | |||
| 「富士見」の付く地名は各地に多い。因みに「富士見」 | |||
| の地名は、県別で@東京36、A静岡32、B山梨19、C神奈川17、D埼玉・千葉16の順 | |||
| で、意外にも北海道14で8位になっているが、これは前に書いた「郷土富士」である | |||
| 蝦夷富士とか利尻富士を眺めて地名にしたものである。余談だが、徳川家康が江戸城 | |||
| を決めた理由は、富士が見えるところだったためで、「富士見」が「不死身」につな | |||
| がるという武士らしい縁起をかついだという説もある。 | |||
| ところで、遠方から富士を見出したときの喜びは、誰でも実感することである。北 | |||
| アルプスの北部、例えば白馬岳辺りから望見したような記憶もあるが、私が最も遠く | |||
| から望んだのは那須の朝日岳からだった。那須事業所に転勤して2年目の9月下旬、 | |||
| 丁度部分日食の日で、遥かなる富士を見つけて感動したことを覚えている。富士山と | |||
| 朝日岳の距離は約226kmであるが、その日は余程恵まれた条件の日だったのだろう。那 | |||
| 須の山には70回ほど登っているが、富士山が見えたのは後にも先にもこのときだけだ | |||
| ったと思う。 | |||
| 観測記録上、富士山の見える北東の最遠地は、福島県の阿武隈山地にある麓山(は | |||
| やま。羽山とも書く。標高897m)で、富士山との距離は297kmである。最近では、同 | |||
| じ阿武隈山地の日山(ひやま。天王山ともいう。標高1057m)が最遠とされ、富士山と | |||
| の距離は299kmである。2峰とも郡山から西北約30kmの位置にある。平成4年の2月に | |||
| 日山、同年4月に麓山に登ったことがある。両日ともに快晴に恵まれたので遠くの山 | |||
| 々が見えたが、富士は見えなかったと思う。南西の最遠地は、和歌山県の妙法山北西 | |||
| にある色川富士見峠(小麦峠ともいう。標高900m)で、富士山との距離は322.9kmとい | |||
| う。富士山と東京の距離が約100kmであるから、北も南もその3倍前後の距離から見え | |||
| ることになる。将来、空気が完全に清澄な条件が整ったときに、もっと遠くから観測 | |||
| されるかもしれない。 | |||
| かつて富士見十三州(次項参照)といわれたが、現在富士山の見える都府県は19、 | |||
| 昔の州と現在の都府県は一致しないが、富士の見える範囲は広がっている。 | |||
| 3.富士山の名数について | |||
| 越中小原節に、 | |||
| 「越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山三国一だよ」 | |||
| と謡われたように、昔からこの日本三名山は全国的に知られていた。その筆頭にある | |||
| 富士山については名数もいろいろ多かった。 | |||
| ・一富士、二鷹、三茄子(なすび) | |||
| ・富士の二名水:金明水、銀明水 | |||
| ・富士見三景:御坂峠、花水坂、西行坂 | |||
| ・富士の三関:足柄関、清見関、横走関 | |||
| ・富士五湖:山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖 | |||
| ・富士八海:上記の富士五湖に四尾連湖(しびれこ)、明日見湖(あすみこ)、泉瑞 | |||
| 又は浮島沼を加える | |||
| ・富士八葉:本稿(3)参照 | |||
| ・富士見十三州:遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、 | |||
| 信濃、上野、下野 | |||
| このうち、富士八海は八湖のことで、修験道の行者が数えたものと思われる。前に | |||
| 大町桂月の「富士に登らずんば富士を説く勿れ」を引用したが、これは「日光を見ず | |||
| んば結構を説く勿れ」という俗諺から転じさせたもので、桂月は更に「富士八海廻り | |||
| を為したる者にして、始めて富士山を説くを得べし」と |
富士八海のひとつ四尾連湖 |
||
| も書いている。桂月は実際に八海全部を訪ねた結果、富 | |||
| 士山に近く、湖水らしいのは富士五湖であり、四尾連湖 | |||
| については小さいながらも近くにある蛾ヶ岳(ひるがた | |||
| け)の眺望絶景で、まんざら見捨てたものではないと評 | |||
| したが、明日見湖は平地の沼であり、泉瑞はあまりにも | |||
| 小さな池のようだと失望している。2年前の秋に山岳部 | |||
| OB会でこの四尾連湖を訪れたことがある。龍神伝説を秘 | |||
| めた湖水は神秘的で、周囲の紅葉と山を映す湖面は美しい景観を見せてくれたものの、 | |||
| 富士山は峠に登ると辛うじて頭だけが見えた。なお、桂月は八海巡りの旅で、富士五 | |||
| 山の一つ大石寺を訪れたとき、 | |||
| 酔堂の喉(のど)に一杯また一杯 | |||
| またまた一杯御華水(おみず)哉 | |||
| と詠んだ。8月だったので、余程のどが渇いた旅だったようである。富士五山とは日 | |||
| 蓮宗の寺を数えたもので、上條の大石寺、妙蓮寺、北山の本門寺、西山の本門寺、小 | |||
| 泉の久遠寺のことである。 | |||
| 2011.04.24 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その15) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その15) | 横浜市 小田 茂 | |
| ≪はじめに≫ | |||
| 今回は、今まで訪れた横浜市中区の「“発祥の地”を訪ねて!」、「いろいろな | |||
| “碑”」取材中に、見落としていたもの、また、知らずに初めて出会ったもの等を掲 | |||
| 載いたしました。したがって「碑」の所在場所もあっち飛び、こっち飛びとなってし | |||
| まいましたがご容赦ください。 | |||
| 66.「関東大震災慰霊碑」 | |||
| 日本大通り、神奈川県庁近くの横浜地方裁判所の庭に「関東大震災慰霊碑」が建て | |||
| られております。 |
「関東大震災慰霊碑」 |
||
| 大正12年(1923年)9月1日に発生した「関東大震災 | |||
| 慰霊碑」ですが、中庭に入れず外からの写真で、碑文は | |||
| 大変多い字数ですが、何と書かれているか遠くて判読で | |||
| きませんでした。 | |||
| この写真を撮っている時は、関東大震災(神奈川県相 | |||
| 模湾沖:マグニチュード7.9)の被害の大きさを改めて | |||
| 感じ、ニュージーランド地震で行方不明になっている若 | |||
| い留学生のことなどのことを思いながら、何か最近地球全体がおかしいという思いで | |||
| した。まさか、それから1週間後に東日本大震災(マグニチュード9.0)が発生するな | |||
| ど夢にも思わず、次の碑を目指して歩いていました。 | |||
| 67.「港町魚市場跡」碑・「港町魚市場を偲ぶ」碑 | |||
「港町魚市場跡」碑 |
「港町魚市場跡」碑と「港町魚市場を偲ぶ」碑の二つ | ||
| は、横浜市役所の裏側(JR関内駅南口斜め前)に並ん | |||
| で建てられていますが、私は本“碑”シリーズに取り組 | |||
| むまで、この碑の存在を「灯台下暗し」でまったく知り | |||
| ませんでした。 | |||
| 左の「港町魚市場跡」碑の文字は、昭和38年(1963年) | |||
| 横浜市長に就任し、その後昭和52年(1977年)に社会党 | |||
| 委員長に転出した、飛鳥田一雄氏が書かれたものです。 | |||
| 右の「港町魚市場を偲ぶ」碑の碑文の概略を記します |
「港町魚市場を偲ぶ」碑 |
||
| と『明治4年(1871年)高島嘉右エ門が市場開設の許可 | |||
| を得て、翌明治5年(1872年)に相生町の官の用地を借 | |||
| り受け、魚・鶏食肉・青物を扱う四品市場を開設した。 | |||
| 明治7年(1874年)高島嘉右エ門は、さらに船便に便 | |||
| 利な川脇の官有地(現在の横浜市役所所在地)港町に市 | |||
| 場を移転した。 | |||
| 明治42年(1909年)横浜港町魚問屋組合長太田徳次郎 | |||
| は横浜食品市場鰍設立し、市場一切を買収し、建物も新築し大市場に発展。大正12 | |||
| 年(1923年)の関東大震災にて消失し再建営業後も市場隆盛であったが、昭和6年 | |||
| (1931年)横浜市中央卸売市場開設に伴い、市場業者一同移転今日に至りこの地の関 | |||
| 係者昔日を偲び記念碑を建立す。 | |||
| “浜っ子の 河岸を 偲ぶや港町” 昭和56年10月吉日 』 | |||
| 68.「我国西洋歯科医学発祥の地」碑・「西洋歯科医学勉学の地」碑 | |||
| JR関内駅北口から馬車 |
「我国西洋歯科医学発祥の地」碑 |
「西洋歯科医学勉学の地」碑 |
|
| 道通りにでて、少し脇道に | |||
| ある神奈川県歯科保健総合 | |||
| センターの前に「我国西洋 | |||
| 歯科医学発祥の地」碑・ | |||
| 「西洋歯科医学勉学の地」 | |||
| 碑が並んで建っています。 | |||
| ただ、この場所は「発祥 | |||
| の地」・「勉学の地」ではありません。“発祥の地”を訪ねて!(その10)で紹介し | |||
| ました「我国西洋歯科医学発祥の地」碑は、横浜中華街の側にあり、その碑とまった | |||
| く石材・文字は同じものです。 | |||
| また、「勉学の地」は、明治3年(1870年)居留地57番地(山下公園近く)にエリ | |||
| オット博士が歯科診療所を開設し、後任のパーキンス博士共々、日本人門下生に西洋 | |||
| 歯科医学を伝承しました。その功績を称え神奈川県歯科医師会創立70周年記念として | |||
| 平成7年(1995年)に建てたものです。 | |||
| なお、木戸孝充(長州藩士・桂小五郎)、西郷従道(西郷隆盛の弟)等がエリオット | |||
| 博士の治療を受けたといわれています。 | |||
| 69.「横浜駅長室跡」碑 | |||
「横浜駅長室跡」碑 |
見つかりにくい「碑」(黒色矢印) |
JR桜木町駅の側にある | |
| 「鉄道発祥の地」碑に近い | |||
| ところに「横浜駅長室跡」 | |||
| 碑がありますが、この碑は | |||
| 桜木町駅から野毛商店街へ | |||
| 通じる幾つかある地下道の | |||
| うち、一番人通りの少ない | |||
| 地下道入り口の壁脇に貼ら | |||
| れていて、私が存在を知らなかったのも無理ないと自分を納得させています。 | |||
| すなわち、文字もハッキリせず、いろいろな碑を見てきたが、本当に「申し訳ない」 | |||
| といわんばかりの存在で、日陰の身の碑で本当に“可哀想な碑だな〜”との思いです。 | |||
| 70.「横浜市設貯木場発祥の地」記念碑 | |||
| 「横浜市設貯木場発祥の地」記念碑は山下公園から本 |
「横浜市設貯木場発祥の地」記念碑 |
||
| 牧方面に向かって、バス停「貯木場前」で下車して7〜 | |||
| 8分のところにあります。 | |||
| 大正12年(1923年)の関東大震災を契機に、復興用の | |||
| 米国産木材が大量に輸入されましたが、当時、貯木場が | |||
| 無く港内・河川に氾濫繋された木材で、港湾一般荷役機 | |||
| 能に大障害が発生しました。 | |||
| 横浜市は、昭和8年(1933年)この地に最新式の設備 | |||
| を持つ「貯木場」を完成し翌年稼動しました。 | |||
| 戦後、復活しましたが昭和40年代の最盛期には、常に満杯状態で機能を果たさず、 | |||
| 昭和49年(1974年)市内金沢区に新設された「金沢木材専用港」へ移されました。 | |||
| この碑は、昭和59年(1984年)に「横浜市設新山下貯木場開設50周年記念」として | |||
| 建てられたものです。今は昔の面影が全く無く、ヨット・ハーバーとなっております。 | |||
記念碑A |
記念碑B |
記念碑C |
|
| 71.「ふぐ」の碑 | |||
「ふぐ」の碑 |
説明板 |
横浜市民公園脇の小高い | |
| 丘の上に「ふぐ」の記念碑 | |||
| があります。直ぐそばに八 | |||
| 聖殿がありますが、何故こ | |||
| こに「ふぐ」の碑が建てら | |||
| れたのか皆目分からず、ま | |||
| た私も今日までまったく知 | |||
| りませんでした。 | |||
| 神奈川県ふぐ条例公布および神奈川県ふぐ協会創立20周年記念の「ふぐ祭典」の昭 | |||
| 和45年(1970年)に建てられました。何ともユーモラスな碑ですね! | |||
| 碑文『ふぐ 古名ふく 福に通ず。その味わいは「肉白く、味淡脆、美にて飽かす」 | |||
| なる・・・・ながらく人びとの食生活に仕えた舌根をたのしませ、厨人の包丁の研磨 | |||
| とともに悠々愈々本来の風味を発揮して極なし』と書かれていました。 | |||
| 72.「横浜海岸教会」 | |||
| 「横浜海岸教会」は、横 |
「横浜海岸教会」 |
碑 |
|
| 浜大さん橋の入り口にあり | |||
| ます「開港広場」に隣接し | |||
| て建てられて日本キリスト | |||
| 教会のきれいな建物です。 | |||
| 明治4年(1871年)にア | |||
| メリカ人宣教師2人により | |||
| この地に石造の小会堂が建 | |||
| てられました。 | |||
| 明治5年(1872年)日本人信者による最初のプロテスタント教会である日本基督公 | |||
| 会が設立され、明治8年(1875年)には大会堂が建設されて横浜海岸教会と改称されま | |||
| したが、大正12年(1923年)の関東大震災で教会堂は壊滅してしまい、現教会堂は昭 | |||
| 和8年(1933年)に再建されたものです。 | |||
| ≪番外編≫★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? その他 | |||
| JR関内駅南口から近くの「横浜公園」では、毎年「チューリップまつり」が開催さ | |||
| れます。今年は4月16日〜18日のようですが、チョット早い4月6日に訪れると、早 | |||
| くも70品種以上ある内の約1割の7種類位のチューリップが咲いていました。 | |||
アーリーグローリー |
アプリコットインレッション |
モモタロウ(桃太郎) |
|
ワールドファボリット |
ワタボウシ(綿帽子) |
名前無しのコーナーで |
|
横浜公園内の[横浜緋桜] |
また、同公園内に「横浜緋桜(ヨコハマヒザクラ)」 | ||
| というはじめて耳にする名の緋桜が満開でした。平成8 | |||
| 年(1996年)横浜公園開園120周年を記念して植樹され | |||
| たものです。 | |||
| この種の桜なら、自宅の裏山「本牧山頂公園」にもっ | |||
| と沢山あったな〜と思い、翌朝出掛けてみました。 | |||
| 驚いたことに案内板には、「ひざくらの丘」と明示さ | |||
| れ 前に掲載しました近代絵画の巨匠「下村観山」が居 | |||
| を構えた場所で「観山広場」と名付けられた場所でした。 | |||
| 約30本の「横浜緋桜」が正に今“満開!”見事なものです! | |||
| さらにビックリしたことには、「横浜緋桜」の原木が植えられていたことです。 | |||
原木(白い花は山桜) |
説明板 |
横浜緋桜の並木 |
|
| この桜の生みの親は、市内港北区在住の白井勲氏で昭和47年(1972年)頃、早咲き | |||
| の冬緋桜と山桜(兼六園熊谷)を交配させ丈夫で美しい桜を誕生させました。 | |||
| 昭和60年(1985年)に「横浜緋桜」と命名されました。 | |||
| 平成9年(1997年)最初の木(原木)が、白井氏から中区制70周年記念実行委員会 | |||
| に寄贈され、本牧山頂公園の「観山広場」に植樹されたものです。 | |||
| こんな近くに「横浜緋桜」の原木があったとは、“灯台もと暗し”の典型ですね! | |||
| 2011.04.17 | 堀 | “我が人生をかえりみて” | ![]() |
| “我が人生をかえりみて” | 埼玉県加須市 堀 保胤 | |
| 名誉会員(90歳 卒寿)を機に「自分史を!」(一部分) | |||
| <事務局から> | |||
| 堀さんは、3月12日にめでたく卒寿(90歳)を迎えられ、OB会から「名誉会員称 | |||
| 号記」をお贈りしました。そのお礼状にあわせて、 “我が人生をかえりみて”を同 | |||
| 封いただきましたので、堀さんのご健勝を願いつつご紹介いたします。 | |||
| 1.はじめに | |||
| 元来、骨が細くて、肉付きも悪く、家系を見ても長命 |
堀_保胤さん |
||
| の例は少なく、知る範囲では祖母が75歳、父が79歳11ヶ | |||
| 月で亡くなっている。 | |||
| 体格的に常にコンプレックスを感じ、小太りの人をう | |||
| らやましく思っていた。 | |||
| このような小生が、90歳まで生き延びていたのは不思 | |||
| 議でならない。いくつかの運、周囲の人に恵まれていた | |||
| と思い、我が人生をふりかえってみよう。 | |||
| 2.中等学校卒業まで | |||
| 昔の赤坂区青山北4丁目106番地の、6畳、4畳半、3畳台所の2軒長屋に生まれ、 | |||
| 小学校は青山尋常小学校で神宮外苑から青山通りを隔てて約200m位の所にあり、裏手 | |||
| は青山墓地で、写生に墓地や外苑に行ったものである。 | |||
| 青山通りは、原宿駅に皇室用のプラットホームがあり、多摩御陵への行事、代々木 | |||
| 練兵場で観兵式への通路であり、1時間前に整列してお見送りをしたものである。 | |||
| 代々木練兵場も5年生までは、ただの原っぱで自由に野球ができて、他のチームと | |||
| の試合もできた。 | |||
| 中等学校に入った頃から練兵場として、我々も年1回は軍事教練のため利用したも | |||
| のである。 | |||
| 中等学校は、東京府立化学工業学校で深川区千石町にあり、そこまで市電で通った | |||
| ものである。 | |||
| 渋谷発、水天宮行の市電、青山4丁目で乗り、青山1丁目・赤坂表町・赤坂見附・ | |||
| 平河町5丁目・三宅坂・桜田門・日比谷町・数寄屋橋・銀座4丁目・三原橋・築地・ | |||
| 新富町・西八丁堀・茅場町で大手町発錦糸町行に乗り換え、佐賀町1丁目・撹橋・門 | |||
| 前仲町・木場1丁目・木場3丁目・洲崎・東陽公園前・化工前で下車、約100m位のと | |||
| ころにある。 | |||
| また、錦糸町から須田町・神保町・九段上から三宅坂へ行くこともでき、2・26事 | |||
| 件の後そちらへ回り、兵隊さんがいた光景を見た。 | |||
| 当時、剣道が必須科目であり、寒稽古もやらされた。修学旅行もゲートルも巻き、 | |||
| かばんと水筒を十字に掛け軍事教練へ行く姿で旅行に行った。 | |||
| 3.東京計器時代 | |||
東京計器時計台写真 |
昭和13年4月、鞄結梃v器製作所へ入社、研究所材料 | ||
| 研究室へ日給1円60銭分析工として配属された。室主任 | |||
| 斉藤雄治氏は東北帝国大学金属材料研究所から来られた | |||
| 方で、材料試験、顕微鏡写真の判定などを叩き込まれ勉 | |||
| 強もした。住居も池上から久が原へ、売家を手に入れ移 | |||
| 住した。 | |||
| 昭和17年7月20日、召集令状により東部77部隊(高射 | |||
| 砲連隊)へ入隊した。我孫子駅から徒歩で約1時間、柏 | |||
| 方面に斜めにもどる方向にある。外地要員として召集されたようであった。 | |||
| 入隊後1ヶ月して黄疸になり、しばらく休んだが無事復帰し、幸いに外地へ行かず | |||
| 首都防衛に回り、板橋・鶴瀬・五井、そして終戦時は新潟の万代橋の下で迎えた。板 | |||
| 橋時代に演習中、日本の双発の戦闘機の正面衝突を目の前で見た。一生忘れられない | |||
| 記憶であった。 | |||
| 終戦後は東京計器に戻り、材料研究室に配属され山口隆男氏の指導を受けた。その | |||
| 後、F86戦闘機、T33ジェット練習機の部品受注のため、材料検査係へ移り非破壊検 | |||
| 査、特殊工程の検査等を特殊行程検査等を担当した。 | |||
| 40歳の成人病検診で血糖が高く糖尿病で「オカラでも食べていろ」と計器の医者に | |||
| 言われた。近所の情報等をもとに蒲田で「東邦友の会」という東邦医大の先生が主宰 | |||
| していた会に入会し、30年間は定期的に検診を受けていた。 | |||
| 4.東京計器「定年退職」のあと | |||
| 59歳で定年退職し、鞄高精機に入社。六郷工場火災後、矢板工場へ移り小生も東 | |||
| 京、矢板を往復して品質管理思想の導入に尽力した。 | |||
| 72歳の3月に退職したが、前立腺肥大で東邦医大大橋病院に入院し手術した。これ | |||
| も「東邦友の会」のすすめによる。担当の小島助教授は、巨人軍の牧野コーチの診察 | |||
| をされた名医であった。平成13年位までは大橋病院に通った。 | |||
| 「東邦友の会」が利用している西元クリニックが廃院となり、「友の会」は解散し | |||
| たが、友の会の下田先生とは今でも文通してご指導をいただいている。その後は、近 | |||
| 所の医者で定期健診を行っていた。 | |||
| 平成16年、左足の水虫が悪化し、左足の第3指の外側 |
昭和医大東病院 |
||
| が「エソ」となり、5ミリ位の穴があき骨まで見えてお | |||
| り、両足が「カイヨウ」となり歩くことも困難であり、 | |||
| 昭和医大病院東病院に入院した。当時、新しい治療が当 | |||
| 病院で生まれ、小生に適用できるよう皮膚科の教授が尽 | |||
| 力され、当方も準備していたが年齢制限「80歳まで」で | |||
| 受けられず、[当時、小生83歳]ほかの部分肉を移植し肉 | |||
| の盛り上がりを 助長する手術を2回行い、6ヶ月経過 | |||
| したので7月に池上病院に転院したが、担当の先生が昭和医大と関連があり、肉の盛 | |||
| り上がりをさせて1ヶ月様子を見ることになったが、全治したので8月中旬退院した。 | |||
| 幸いなことに切断しないですんだ。自宅で家内と共に暮らし、だんだん家事をするよ | |||
| うになった。 | |||
| 平成17年12月下旬、息切れを感じ頭を上げないと寝られないので、翌日、池上病院 | |||
| の診察を受けると即入院となり、絶対安静で酸素を吸入された。家内にあとで聞くと、 | |||
| かなり悪かったらしい。正月は病院、ただし、2日間は帰宅を許された 約1ヶ月で | |||
| 無事退院したが、心不全とのことであった。 | |||
| 何とか平成20年12月初めまで生活していたが、12月9日夕方、何となく肩がこるよ | |||
| うな、おかしい状態だったので近所の医者で心電図をとると「心筋梗塞」の疑いがあ | |||
| るので、かかりつけの池上病院へ行くように指示され、同院で診察の結果同じ診断で | |||
| あった。救急車で担当の先生が同乗されて昭和医大病院に入院、9時頃カテーテル挿 | |||
| 入の手術を受け、緊急室にいた。3日後一般病棟に入り負荷検査を行った結果、血管 | |||
| に「セマイ」部分があり、もう1回カテーテルを入れることとなったが、幸いに22日 | |||
| の実施で12月28日に退院。息子が退院の用意準備をしてくれていた。 | |||
| 現在居住している「ソゾ・ライフ」は、埼玉県加須市砂原の大久保病院の敷地内に | |||
| にあり、食事は1,700〜1,800カロリーであるが、小生は半ライスなので1,400〜1,500 | |||
| カロリー位で、塩分控え目(6g程)で血糖値も落着いてきた。 | |||
| 5.おわりに | |||
| ふりかえってみると、我が人生は幾つかの転機があり、これが全部良い方向へ向い | |||
| ていたような気がする。 | |||
| (1)軍隊に召集されたが、防空隊の照射班となり比較的楽な軍隊生活で、地方 | |||
| (一般社会)よりは何とか食べることができ病気をしないですんだ。 | |||
| (2)戦後の買出しでお米でなく、さつまいもを買い集めたのが良かったのではな | |||
| ないか。 | |||
| (3)成人病検査で糖尿病を早期に発見し、また「東邦友の会」に入会し、月1回 | |||
| の定期的な検診が身についていた。 | |||
| (4)身体の調子に少しでも異常を感じたら、直ぐに医者に見てもらうことが月2 | |||
| 回の検診で身についていた。 | |||
| 少なくとも2回は、早期発見で延命していると思う。 | |||
| (5)タバコを吸っていたが、常に仁丹を常用していたことも悪くなかったのでは | |||
| ないか。また、お酒を飲まないことも。 | |||
| 思いつくまま綴ってみたが、あらためて | |||
| 我が人生は“運”ということをすごく感じている次第である。 | |||
| 2011. 4.10 | 檜山 | 那須國造碑 雑話(その2) 投稿:檜山 湧二 | ![]() |
| 那須國造(なすのくにのみやつこ)碑 | ||
| 雑話(その2) | 大田原市 檜山 湧二 | |
| 那須國造(なすのくにのみやつこ)碑から南へ7km程の那珂川と箒川とが合流する | |||
| 西側地域は、温暖な気候に加え豊富な水と水運の便にも恵まれ、また隣接する陸奥へ | |||
| の入り口としての交通の要所で、7世紀後半頃那須国の中心地として大変栄えた所で | |||
| ある(旧小川町、現在の那珂川町)。 郡役所跡と考えられる那須官衙(かんが)遺跡 | |||
| がありまた東山道(7道のひとつで近江⇒美濃⇒飛騨⇒信濃⇒上野⇒下野(栃木県) | |||
| ⇒岩代⇒磐城⇒陸前・多賀城に至る各国を縦貫する政治道路の跡やその道路上の駅家 | |||
| 「那須國造碑の近くの磐上(いわかみ)駅家」の跡なども発掘調査で明らかになりつつ | |||
| ある。この地域及び周辺には多くの遺跡・古墳が集中していて、その出土品の中に中 | |||
| 国製の鏡を始め、中国や朝鮮半島由来の物も含まれている。また那須国の政治、文化 | |||
| その他の面での繁栄に、百済や新羅を中心とした渡来人が大きく貢献していたことが | |||
| 記録や物として残っている。これらの点から考えても、那須國造碑は那須国発展に貢 | |||
| 献した渡来人の意思表示ではないかとする学者がいても不思議ではないと思う。なお | |||
| 何故優れた文化を有する渡来人が沢山住んでいたのかなどについては、別の機会に投 | |||
| 稿させて頂こうかとも考えている。 | |||
| 那須國造碑(西暦689年頃、栃木県)、多胡(たこ)碑 |
那須國造碑 |
||
| (西暦711群馬県)、多賀城碑(西暦762宮城県)は日本 | |||
| の三古碑と云われていて、那須國造碑はこの中で最も古 | |||
| い碑である。単に極めて古いから注目されてきただけで | |||
| なく、前述した様に碑文そのものが思想・文学(古い中 | |||
| 国思想、文字研究、書法観賞)、政治(古代日本の地方 | |||
| 行政組織の変遷ほか)、文化(中国・朝鮮半島からの渡 | |||
| 来文化)などを研究する上で非常に価値ある情報が刻み | |||
| 込まれていると云われている。 | |||
| 明治44年国宝になった由縁がそこにあるらしいが、私に |
碑文 |
||
| は難かしくて良く分らない。 | |||
| また大金重貞や徳川光圀などが碑の文字の一部を読み | |||
| 違えたと云うことはあったにしても、この碑の存在がも | |||
| とで、碑主解明のための「上および下侍塚古墳」発掘に | |||
| 繋がり、結果として日本における学術的目的をもった古 | |||
| 墳発掘に200年近くも先駆けた学術調査となり、そのこ | |||
| とは高く評価されているようである。 | |||
| そして発掘→絵図作成(侍塚の場合、藩のお抱え絵師が出土品のスケッチをした) | |||
| →埋め戻し(埋蔵品収納木箱は松脂で密封)→墳丘修理→植林(墳丘の崩壊防止)→ | |||
| 公有などといった、今流にいえば文化財保護の重要性を意識した工程を採用し、以後 | |||
| の他藩等における古墳の学術調査の在り方に大きな影響を及ぼしたとも云われている。 | |||
| 光圀から出された作業指示内容を佐々介三郎宗淳が全て文書にして現場へ伝えたこと | |||
| が、「宗淳書簡」として残っている。調査に対する光圀・宗淳のしっかりした取り組 | |||
| み姿勢をうかがうことができる貴重な資料である。 | |||
| 古墳からの出土品は鏡、甲破片、鎧破片、太刀、高つき(杯)等々で、那須國造碑 | |||
| 主が誰であるか見定めることのできる物は見つからなかった。それもその筈で、これ | |||
| までの考古学的研究結果の積み重ねによると「上および下侍塚」は今から1600年位前 | |||
| の古墳時代前期のもの、國造碑は1300年程前の飛鳥時代のもので、300年程の年代差が | |||
| あり、両方の間に直接的な関係は無いことが、今になって分かるのである。 | |||
| 笠石神社 | |||
笠石神社 |
那須國造(碑)は、それを御神体とする笠石神社と名 | ||
| 付けて祀られ、幾多の歳月を経て今日に至っている。特 | |||
| に幼児の虫切り(癇の虫)にご利益があるといわれ、遠 | |||
| 方から参詣するする人も多いと聞いている。3月15日が | |||
| 恒例の大祭で、この時だけは祠の戸が開けられ石碑を直 | |||
| に見ることができる。 | |||
| ただし拓本、写真撮影は許されていない。下侍塚古墳の | |||
| 近くには「那須風土記の丘資料館・湯津上館」、那須官衙 | |||
| 跡近くには「那須風土記の丘資料館・小川館」がそれぞれあり、当地域にある遺跡群 | |||
| からの出土品、東山道調査関連資料、那須産金関連資料、渡来文化流入関連資料、那 | |||
| 須國造の碑関連資料などが展示してある。またその道のベテラン歴史学者が学芸員と | |||
| して町から派遣され研究に取り組んでいる。 | |||
| 機会を見て、当雑話でご案内いたしました旧湯津上村・旧小川町地域に足を運ばれ、 | |||
| 遙か昔に思いを馳せて見ては如何でしょうか。 | |||
| ≪参考文献≫ | |||
| 真保 昌弘 著 2008年「侍塚古墳と那須國造碑」(株)同成社 | |||
| 針生 宗伯 著 1970年「那須拾遺記」非売品 | |||
| 真保 昌弘 作成 2008年「黄門さまの考古学」市民大学テキスト」非売品 | |||
| <お断り> | |||
| 那須國造碑:は「碑文」の写真通り、「なすのくにのみやつこのひ」と読みます。 | |||
| また「碑文」の写真は、「国造」と表記していますが、本文は「國造」と表記さ | |||
| せて戴きました。 東京計器OB会HP担当 | |||
| 2011. 4. 3 | 大野 | 那須平成の森を歩く | ![]() |
| 那須平成の森を歩く | 那須町 大野 健治 | |
| 旧那須御用邸用地「那須平成の森」の一部「ふれあいの森」と「学びの森」が平成23 | |||
| 年5月22日に開園されると環境庁から発表された。 | |||
| これに先立ち、一般公開前に行われた自然観察会に運よく当選し、平成21年11月10日、 | |||
| 夫婦でその一部を歩くことが出来た。 | |||
ガイドマップ |
場所は那須甲子道路の途中にあり、大正15年以前は民間 | ||
| で使われていた土地故、あまり山深さは感じられない。 | |||
| 計画では山側に「森を憩うゾーン」と「森を体験するゾ | |||
| ーン」(現「ふれあいの森」)、下側に「森を知るゾー | |||
| ン」(現「学びの森」)が設けられ、今回の観察会コー | |||
| スは有料公開予定の「森を知るゾーン」内。山側の「森 | |||
| を体験するゾーン」は無料公開予定で、車椅子でも散策 | |||
| 可能な遊歩道などが設けられる予定とか。 | |||
| 今回歩いた約3キロの山道は落葉のクッションが心地よく、環境省の自然保護官・解 | |||
| 説員のガイドを受けながら2時間程かけてゆっくり散策した。後半は天皇陛下を始め | |||
| 皇族方が散策された歩道を歩き、御休所「清森亭」でひ |
御休所「清森亭」でひと休み 左から、奥様、大野様。 右端は同行者さん。 |
||
| と休みと皇族気分。各所に配置された小動物観察用の巣 | |||
| 箱に感心したり、ブナの大木に残されたツキノワグマが | |||
| 登った爪あとや、アカゲラがあけた穴を見付けては喜ん | |||
| だりと、初対面多数の同行者(11名)との会話を楽しみ | |||
| ながら有意義なひと時を過ごした。 | |||
| 開園されたら、再度歩いてみたいなと思う。 | |||
| 2011. 3.27 | 檜山 | 那須國造碑雑話(その1) | ![]() |
| 那須國造(なすのくにのみやつこ)碑 | ||
| 雑話(その1) | 大田原市 檜山 湧二 | |
| 話の内容は市民大学(自称、雑学塾)での講義、歴史講演会、地元の人の話等々か | |||
| ら聞きかじった、にわか仕込みの知識によるところが多いので、歴史通の方からはお | |||
| 叱りを受ける部分もあるかと思いますが、その際はお許しを頂きたい。肩の力を抜い | |||
| て気楽に読んで頂ければ幸いです。 | |||
| 「那珂川の寒突き漁で捕まえた鯉が手に入ったから取りにおいでよ」、いつものよ | |||
| うに受話器の向こうから元気な声がした。声の主は大田原市の湯津上地区(旧湯津上 | |||
| 村)に住むHさん(以後H氏と呼ぶ)で、雑学塾の仲間である。郷土の風俗、歴史に | |||
| ついて豊富な知識があり、それを時折聴くのがとても楽しみである。彼の誇りは「古 | |||
| 代ロマン湯津上(ゆづかみ)の里」のほぼ中心地とも云えるところに住んでいることだ。 | |||
| 事ある毎にそれを熱く語るのである。侍塚古墳松守会代表を長い間務めていて、強風 | |||
| や大雨などの際は、やり掛けの仕事を放り出してでも真っ先に侍塚に駆け付けると云 | |||
| う、本気で郷土を愛する素晴らしい人物である。H氏の住まいの北方向300m程の所に | |||
| 「笠石神社」また南東方向に同じく歩いて5分足らずの所には「下侍(しもさむらい) | |||
| 塚古墳」、更にそこから南方向へ5〜6分位の所に「上侍(かみさむらい)塚古墳」が | |||
| ある。正に彼の云うその里の一等地ともいえる場所であ |
旧湯津上村H氏宅 |
||
| る。広い屋敷林に囲まれ、古い茅葺の家もまだ残してあ | |||
| り現在もその一部分を使っている。その庭先に立ち、下 | |||
| 侍塚の美しい松の緑に目をやり、そして静かに目を閉じ | |||
| ると何故か遠い昔にすうーつと吸い込まれて行くような | |||
| 気持ちになる。少しきざな云い方になるが、私はここを | |||
| 訪れた時、よくそうして遠い昔に思いを馳せてみること | |||
| がある。それがとても好きである。 | |||
| <参考> | |||
| 1)古代ロマン湯津上の里:この地域は八溝山系西側裾部の那珂川右岸にあり、自然 | |||
| の恵み(温暖な気候、水運・交通の便など)を受け、古き時代に農耕、文化が栄 | |||
| えた。その誇りをこのキャッチフレーズに込め、農業(特に米、梨、にら、アス | |||
| パラ)を始め観光等も含めた町おこしを図っていると聞いている。 | |||
| 2)「上侍塚古墳」「下侍塚古墳」⇒両方とも前方後方墳で国指定の史跡。 | |||
| 黄門様の巡視 | |||
| 1676(延宝4)年、草むらの中に倒れ埋もれていた石碑が、磐城(昔の陸奥の国) | |||
| の旅の僧、円順の目にとまった。この話が川向こうの水戸藩領武茂(むも)の郷、小口 | |||
| 村(旧馬頭町)の名主、大金(おおがね)重貞(しげさだ)の耳に入り、重貞は調査のた | |||
| めこの碑に通い詰めたことが記録に残っている。調査結果を自ら編纂中の「那須記」 | |||
| に盛り込み、調査を始めてからほぼ7年後に藩領巡視で訪れた徳川光圀(水戸藩第二 | |||
| 代藩主で、大日本史の編纂で有名)に「那須記」を献上し、その中から石碑のことも | |||
| 光圀の知るところとなった。 | |||
那須國造碑 |
この様に三者の偶然の出会いが重要な歴史をひも解く | ||
| きっかけとなったのである。その後光圀の指示で、佐々 | |||
| 介三郎宗淳(ささすけさぶろうそうじゅん)(家臣の儒学 | |||
| 者)が中心となり、大金重貞や地元の人達の協力を得て、 | |||
| 倒れていた石碑を起こす事業がおこなわれた。その後16 | |||
| 91年頃、光圀はこれ以上風化することを心配し、祠を作 | |||
| りその中に碑を収めたと云われている。 | |||
| ところで、光圀が藩領巡視などの際に定宿としていたと云われている大金邸は如何 | |||
| なる場所にあり、そして重貞とはどのような人物であったのか少し触れてみることに | |||
| する。当時、小口村と呼ばれていた所は湯津上の里のH氏宅からさほど遠くないと聞 | |||
| いていたので、秋も終りに近いある日、H氏に案内を依頼した。那珂川の流れに沿っ | |||
| て連なる左岸丘陵の急坂を登り、小砂燒(こいさごやき)(栃木県で益子と並んで有名 | |||
| な焼き物)の窯元が幾つもある郷に出て、そこを南北に走る道路を横切ると、かなり | |||
| 深い谷にぶつかった。谷を越え急な坂を登り詰めた左手の大変静かな場所に大きな屋 | |||
| 敷があった。今からおよそ300年以上も時が流れているので、当時の様子を伺うことは | |||
| やはり無理であった。その屋敷は当時、那珂川の矢倉の渡しと呼ばれていたと思われ | |||
| る舟着き場からだと、およそ40〜50分位の所である。例えば水戸から舟でさかのぼる | |||
| 場合、川から丁度手頃な距離で、そこは那須地域の歴史面での貴重な情報源である頼 | |||
| もしい人に会える宿でもあったように思われる。光圀は馬頭方面(湯津上を含む)へ | |||
| は10回ほど足を運んだと云う記録が残っている。大金家は常陸の名族、佐竹家に長年 | |||
| 仕えた土着の豪族で、代々小口村の名主を務めた家柄である。重貞も32歳の若さで家 | |||
| 督を継ぎ名主となった。また文筆家、歴史家としても近在に知れ渡っていたそうであ | |||
| る。現在は重晴という方が後を継いでいるらしい。 | |||
| 草むらの中から見つけ出され、徳川光圀等の思慮、熱意に基づき大切に祀られた石 | |||
| 碑の、その文章については江戸時代の頃から現在に至るまで多方面に及ぶ研究の対象 | |||
| となり、多くの歴史学者、歴史研究家等によって研究されてきて、ほぼその概要が明 | |||
| らかになってきてはいるが、しかし未だ解明されていない部分も少しあり、全体とし | |||
| ては解き明かされていない様である。 | |||
| 那須直韋提(なすのあたいいで)が永昌元(689)年、評 |
上侍塚古墳 |
||
| 監(こおりのかみ)を賜り、庚子(かのいね)(700)年に死 | |||
| 去したことが刻まれていて、この部分の解釈は間違いな | |||
| いと思われるので、碑主は那須直韋提である。しかし当 | |||
| 時の徳川光圀、佐々介三郎宗淳、大金重貞等の碑文解釈 | |||
| のベースを示す「那須記」や「佐々宗淳訓点」等では、 | |||
| 今日的に那須直韋提としている部分が、那須專(宣)事 | |||
| 提とされ、直が「專(宣)」「韋」が「事」と記されてい | |||
| る。従って碑文中には碑主の記載が認められず、その解 |
下侍塚古墳 |
||
| 明のため光圀の歴史研究心に火がつき、碑主の墓誌を求 | |||
| めて近くにある「上(かみ)および下両侍(しもりょうさむ | |||
| らい)塚古墳」発掘に及んだものと見られている。 | |||
| {1691(元禄5)年〜} | |||
| (注)「宣事」は長官である那須國造を補佐する官職名 | |||
| と考えられていたのではないかと見られている。 | |||
| 正しくは、直(あたい)は苗字、葦提(いで)は名前 | |||
| である。 | |||
| 碑文の大意 | |||
| 碑文は「書き下し」を行った上で解読するのが常道であるが、当雑話は碑文を詳し | |||
| く掘り下げることが目的ではないので、書き下しは省略し、いきなり大意的に触れて | |||
| みることとする。 | |||
| 永昌元年(中国の年号で、当時朝鮮半島にあった新羅の国では中国の年号を使用。 | |||
碑文 |
元年は西暦689年。日本では飛鳥時代)の巳丑(つちのと | ||
| うし)4月に飛鳥浄御原(きよみがはら)の大官(おおみや) | |||
| (持統天皇)から、那須國造の追大壹(ついだいいち)(那 | |||
| 須国の長官・正六位)であった那須直韋提は評監(こおり | |||
| のかみ)(郡の役人)に任命された。そして、庚子(かの | |||
| えね)の年の正月二日壬子(みずのえ)の日(西暦700年1月 | |||
| 2日)の辰の節(午前8時頃)に長逝しました。そこで、 | |||
| 遺嗣子(息子)の意斯麻呂(おしまろ)を首とする私ども | |||
| は、碑銘を建て遺徳を称え故人を偲び祀りました。 | |||
| 回顧してみると、亡くなられた郡役人直韋提は広氏(こうし)(那須氏の祖のことで、 | |||
| 解釈が種々あり定まっていない)の尊い後胤(子孫)で那須国の柱、朝廷の重鎮とも | |||
| 云うべき方でした。その一生は、浄御原の大宮より追大壹にあげられ、更に評監職を | |||
| 戴き、二度にわたった光栄にあずかり、名誉ある命を高めました。ここより最後まで | |||
| の部分は、意斯麻呂らが父君の遺徳を肝に銘記し、自分達も立派に遺志を継承して行 | |||
| くことをのべている様である。 | |||
| なお碑の建立時期については、銘文には記載されていないが、韋提の死後からそう | |||
| 遠くない時期と考えられている。 | |||
| 碑文をみると | |||
| @冒頭より永昌と云う唐年号を使用。 | |||
| A来歴をしるした部分の文章の出典は漢書である。 | |||
| B書体は中国の六朝時代(呉,東晋,宋、斉,梁、陳の各朝廷)の書風で非常に優 | |||
| れている。 | |||
| C石碑造営の行為は日本固有の文化でない。 | |||
| D笠石形石碑は新羅形である。 | |||
| 等々と学者達は分析し、つまり、この碑は渡来文化(百済、新羅)の影響を強く | |||
| 受けていると見られている。 | |||
| <参考> | |||
| 國造(くにのみやつこ):6〜7世紀の時代、倭(やまと)政権が全国各地を治め | |||
| るために置いた地方官、在地の有力豪族等が任命された様である。管下の裁判・刑 | |||
| 罰・祭祀・軍事などに関する権能を一手に掌握していた地域の最高首長であったら | |||
| しい。全国では大勢いた。 | |||
| <お断り> | |||
| 那須國造碑:は「碑文」の写真通り、「なすのくにのみやつこのひ」と読みます。 | |||
| また「碑文」の写真は、「国造」と表記していますが、本文は「國造」と表記さ | |||
| せて戴きました。 東京計器OB会HP担当 | |||
| 那須國造碑雑話(その2)に続く。 4月10日UP予定 | |||
| 2011.03.20 | 渡邊 | 栃木県人生活37年間の今昔 | ![]() |
| 栃木県人生活37年間の今昔 | 那須塩原市 渡邊 浩子 | |
| 横浜育ちの私が、主人の転勤を機に栃木の地を踏んで |
渡邊_浩子さん |
||
| 早や37年、人生のなかで一番長くこの土地で生活し、す | |||
| っかり栃木県人になりました。 | |||
| 昭和40年に社内結婚、3年後に念願のマイホームを購 | |||
| 入、そして第一子出産と順調に生活を送っていました。 | |||
| 当時は出産と同時に退職する女性が多い中、周囲の理解 | |||
| を得てその後も仕事を続け、仕事・家事・育児と忙しく | |||
| も楽しい毎日でした。 | |||
| そんなときに主人が矢板へ転勤となりました。入社一年目の社員旅行で訪れた那須 | |||
| 高原界隈に住むことになるとは、人生なにがおこるかわからないものだと今は笑って | |||
| 話せますが、当初はあまりの環境の違いに戸惑ったものでした。 | |||
| 特に冬の寒さは半端ではなく、水道管は凍る、4月に雪は降る、車はよく暖めない | |||
| とエンスト・・・とトラブルばかりでした。今と変わらず健康第一主義だったので、 | |||
| 寒さが原因で風邪はひかないと判っていても予防したくてニンニクをストーブの上で | |||
| 焼き毎日家族で食べたものです。 | |||
| スーパーは駅前に一軒だけ、流通は悪く内陸のこの地では新鮮な魚は手に入らない・ | |||
| ・・など等、すごいところに来てしまった!というのが本音でした。 | |||
| とはいえ、前向き志向で頑張っていたら『住めば都』効果が早々に現れました。病 | |||
| 気療養していた義母が栃木の新鮮な空気のおかげか元気になり、老人会行事やゲート | |||
| ボールを楽しむまで回復したのです。見渡す限り田んぼと畑という環境下、美味しい | |||
| お米と新鮮な野菜や果物が安価で手に入るという贅沢も知りました。 | |||
| 自身は、より便利に生活を送るために車の免許を取得しました。このとき子供は5 | |||
| 歳と1歳、この二人を連れての教習所通いは今思えば不可能極まりなかったのですが、 | |||
| お掃除のおばさん、事務員さん、それでも手が足りないときは生徒さんが代わる代わ | |||
| る面倒をみてくれました。都会では考えられないおおらかな土地柄をこの時感じたの | |||
| を覚えています。 | |||
| 『知らない土地』が、すっかり『うちの庭』になったころ、夫婦共々、無事会社勤 | |||
| めを終え毎日が日曜日になりました。そして11年。 | |||
| 健康維持のために食生活を充実させつつ、スポーツクラブで体を鍛えるのを日課に | |||
| しています。そして主人は合唱、私は登山という趣味を満喫しています。 | |||
| 数年前までは身近な友人と近場の日帰り山歩きで満足していたのですが、いろいろ | |||
| な山に行ってみたいと思ったのをきっかけに『山の会』なるものに入り、様々な山巡 | |||
| りが始まりました。年々仲間が増え、昨年にいたっては高山・低山を含め35回も山歩 | |||
| きをしました。 | |||
| 規則正しい生活を送るのが身上なので、早朝出発ならいいけれど夜行はちょっと・・ | |||
| ・・と敬遠していましたが、 |
桃の花満開 |
大山山頂で |
|
| 『夜行1泊大山2,000キロの | |||
| 旅−観光付き!』とか『大 | |||
| 菩薩方面2泊3日雪山の旅 | |||
| 〜桃の花見物付き!』とい | |||
| った企画にも挑戦し、今で | |||
| は一晩寝なくても山歩きは | |||
| 出来る!!と豪語している | |||
| 次第です。 | |||
| 山歩きの魅力はなんといっても四季折々の表情豊かな景色を味わうことです。しか | |||
| し、見逃せないのがお財布にやさしい点でした。この費用でこれだけの満足感を得ら | |||
| れる遊びがあるかしら?という気持ちが、ここまで山にのめりこませたのかもしれま | |||
| せん。「相変わらずヒロコさんらしい」と笑われることでしょう。 | |||
| まさに悠々自適な生活なのですが、世の中見渡すと我々の世代は定年退職後にも | |||
| 『孫育て事業』が待ち受けていることが多いようです。我が家にも独立した2人の娘 | |||
| がおり、孫も授かりました。遠方で暮らしているためしょっちゅう面倒をみているわ | |||
| けではありませんが、ヘルプがかかると泊り込みで手伝いにいきます。友人には「行 | |||
| ったついでに西日本旅行ができていいわね」なんて言われますが、私の性分上、働く | |||
| ぞ!モードで行くのでとても観光しようという気分にはなりません。かわいい・楽し | |||
| いだけでは済まない子守に携わるたび、これが毎日だったら負担大だと現実的に感じ | |||
| たりもしています。 | |||
ディズニーランドにて親子三代 |
そんな手のかかる孫たちもあっという間に成長し、昨 | ||
| 年は始めての家族旅行が実現しました。旅行といっても | |||
| 孫主体で行き先は西日本在住の子育て中ファミリーにと | |||
| ってはあこがれのディズニーランドでした。この年にな | |||
| ってテーマパークなんて、またもや子守要員かとも思い | |||
| ましたが案外大人も楽しむことができました。2歳の孫 | |||
| が熱を出してホテルで子守という想定内のおまけ付きで | |||
| したが、いい思い出です。 | |||
| 今年もまずは体調を整え、充実の一年を送りたいと思います。 | |||
| 2011.03.13 | 吉田 | 東京計器旧社屋の写真 | ![]() |
| 東京計器旧社屋の写真 | 板橋区 吉田 誠治 | |
| 以前、OB会HPに故野村光雄名誉会員の投稿エッセイが連載され興味深く拝読さ | |||
| せて頂きました。酒を愛し、仕事を極め、人生を楽しまれたお人柄が偲ばれます。 | |||
| 私も酒を嗜みますが不粋のためいろいろ教えられました。 | |||
| 昔の写真は思い出深いのですが退色し劣化してしまうため、徐々にスキャナーで | |||
| ディジタル化し整理しています。これにより、大量の写真もコンパクトになりアルバ | |||
| ムも不要となりました。反面、データの消去が気になり、予備HDDでバックアップ | |||
| しています。野村先輩が言われたように、私の砂時計の残りも僅かになっているので | |||
| ホントは気にすることは無いのかも知れません。 | |||
| 古い写真のなかに東京計器の旧本社工場の写真があり整理してみました。会社には | |||
| 公式の建築記録写真があると思いますが、従業員の目で見た写真として投稿させて頂 | |||
| きました。 | |||
| 人間の砂時計は時々神様が反転してくれますが、会社の砂時計は人間の英知で反転 | |||
| させないと存立出来ない厳しい現実のようです。 | |||
| センター構想は大英断で消え行く旧社屋と建設の跡を見ることが出来ます。 | |||
旧本社・工場(東京・蒲田) |
|||
| 昭和5年(1930年)6月 蒲田・本社工場完成 | |||
| 昭和60年(1985年)9月 センター構想発表 | |||
| 昭和61年(1986年)9月 解体開始 | |||
| 昭和62年(1987年)2月 本社ビル(Eセンター)着工 | |||
| 昭和63年(1988年)4月 本社ビル(Eセンター)完成 | |||
| 年表及び上空写真は100年史より参照 | |||
懐かしい工場棟 |
すでに工場部門は移転し閉鎖していますが、懐かしい | ||
| 工場棟です。 一階 航空油圧、二階 航空製造部、三階 | |||
| 航空特機技術部、四階 レーダー実験室、そして大きい | |||
| 扉の中は油圧事業部で油圧装置の組立が行われていまし | |||
| た。 | |||
| 私には入社時から関係があり特に懐かしい写真です。 | |||
旧建物は解体され、Eセン用地に整地された |
旧工場4階から見たEセン用地 |
昼休みにこの通路でテニポンやバトミントン を楽しんだ |
工場棟の屋上に電波暗室が置かれていた |
建設現場(4階から写す) |
着々と進む工事現場 |
高層階建設用巨大クレーン |
本社ビル正面 |
完成した本社ビル。 | |
| 竣工:昭和63年(1988年)、 | |||
| 今年(2011年)で23年目を | |||
| 迎える近代的本社ビル。 | |||
| 我々OBの生活基盤であっ | |||
| た東京計器が社会に貢献し、 | |||
| ますます発展することを | |||
| お祈り致します。 | |||
| 参考資料 トキメック・ルネッサンス ―100年の歴史の上に― 100年史編纂室 | |||
| 2011.03.07 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14) | 横浜市 小田 茂 | |
| ≪はじめに≫ | |||
| 今回は横浜の観光名所の一つである「山下公園」内にあります、「碑」等をご紹介 | |||
| いたします。(注:「西洋理髪発祥の地」記念碑は、“発祥の地”を訪ねて(その3) | |||
| で掲載済ですので省略) | |||
| 山下公園は、関東大震災〔大正12年(1923年)〕の復興事業として、海を大震災の | |||
| 瓦礫で埋め立てて造成し、我が国最初の「臨海公園」ともいわれ昭和5年(1930年) | |||
| 3月15日に開園しました。 | |||
| 現在、公園から眺めると次のような景色が見られます。 | |||
| @左に横浜ランドマーク |
みなとみらい方面 |
港 |
|
| タワーをはじめ“みなとみ | |||
| らい”方面を展望 | |||
| A横浜港大さん橋 | |||
| 飛鳥Uのような3万dク | |||
| ラスなら4隻、クインエリ | |||
| ザベスU7万dクラスなら | |||
| 2隻同時に接岸可能。 | |||
横浜ベイブリッジ |
氷川丸とかもめ |
横浜マリンタワー |
| (59)インド水塔 | |||
| インド水塔(水飲み場で現在は使用不可)は、山下公園の大桟橋側入り口から直ぐ | |||
| の所にあります。 |
インド水塔 |
天井部分 |
|
| 大正12年(1923年)の関 | |||
| 東大震災時に横浜在住のイ | |||
| ンド人116名が被災し、死者 | |||
| も28名にのぼったそうです。 | |||
| 横浜市民は町の復興と共 | |||
| に、被災したインド人にも | |||
| 手厚い救済の手を差延べま | |||
| した。横浜市民への感謝の気持ちと、亡くなられた同胞の慰霊としての意味も含んで、 | |||
| 昭和14年(1939年)に在日インド人協会から寄贈されたものです。 | |||
| 内部の天井を見上げますと、その装飾が大変素晴らしく、色とりどりのタイルを使 | |||
| 用したモザイク模様は現在も写真のように大変素晴らしいものです。観光客の皆さん | |||
| が天井の素晴らしさを知らず外見だけを"パチリ”で見逃してしまうのが残念です! | |||
| (60)“赤い靴はいていた女の子”像 | |||
“赤い靴はいていた女の子”像 |
背後から |
氷川丸の方へ向かって歩 | |
| くと直ぐに、“赤い靴はい | |||
| ていた女の子”像がありま | |||
| す。 | |||
| “赤い靴”のモデルきみ | |||
| は、未婚の母かよがきみを | |||
| 置いて北海道に渡り(後に | |||
| 結婚する)、きみはアメリ | |||
| カ人宣教師夫妻に預けられたが、夫妻が本国に帰ることになったが、その時きみは結 | |||
| 核に冒されており、東京の教会孤児院に預けられました。その後母親に会うこともな | |||
| く明治44年(1911年)わずか9歳で結核で亡くなりました。一方母親の方は、きみが | |||
| アメリカに渡ったと思ったまま一生を過ごしました。 | |||
| 作詞した野口雨情が札幌市で新聞社に勤めている時、母親かよをはじめ関係者から | |||
| 「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」との話を聞かされ、この話が題材 | |||
| となり『赤い靴』大正11年(1922年)、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表されたと | |||
| いうのが定説です。 | |||
| ♪♪ 赤い靴(くつ) はいていた 女の子 | |||
| 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった | |||
| 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って・・・♪♪ | |||
| “赤い靴はいていた女の子”像のアメリカ大陸の方をを眺めている後姿には、特に | |||
| 何処か哀愁が漂っている気がします。 | |||
| (61)“水の守護神”石造 | |||
| 水の守護神石造は、山下 |
水の守護神石造 |
提携二十五周年記念碑 |
|
| 公園の中央、噴水の中心に | |||
| 建っている像です。 | |||
| 横浜市とサンディエゴ市 | |||
| は昭和32年(1957年)10月29 | |||
| 日に姉妹都市として提携し | |||
| ました。 | |||
| 昭和35年(1960年)7月に | |||
| この「水の守護神」が横浜市にサンディエゴ市から送られてきました。サンディエゴ市 | |||
| 庁舎前にも同じ像があるそうです。 | |||
「ミッションベル」 |
なお、この噴水は、横浜サンディエゴ姉妹都市提携50 | ||
| 周年を記念して「サンディエゴ友好の泉」と命名されまし | |||
| た。 | |||
| 噴水脇に「横浜サンディエゴ姉妹都市提携二十五周年 | |||
| 記念」としてサンディエゴ横浜姉妹都市協会から横浜市 | |||
| へ寄贈された「ミッション ベル」が建っています。 | |||
| (62)“美しいサンディェゴ”記念歌碑 | |||
| 記念歌碑は、「横浜サンディェゴ姉妹都市提携」25周 |
“美しいサンディェゴ”記念歌碑 |
||
| 年記念行事の一環として建てられました。 | |||
| 題名「美しいサンディェゴ」は、作詞:佐伯孝夫、作 | |||
| 曲:吉田正、歌:地元出身の渡辺はま子さんとそうそう | |||
| たるメンバーですね。 | |||
| ♪♪ ああサンディェゴ サンディェゴ美しい港 | |||
| 水青く、花赤く・・・・ ♪♪ | |||
| (63)“かもめの水兵さん”歌碑 | |||
“かもめの水兵さん”歌碑 |
係留されている「氷川丸」の付近に建てられています。 | ||
| 碑文の説明によりますと「この童謡は、作詞者の竹内 | |||
| 俊子さん(作曲:河村光陽)が、昭和8年(1933)秋に | |||
| メリケン波止場から布教でハワイへ行く叔父さんを見送 | |||
| りに来た時の、夕陽の映えた横浜港の美しさを描いたも | |||
| のだそうで、横浜港は“かもめの水兵さん”発祥の地と | |||
| いうことで、昭和54年(1979年)に建てられました。 | |||
| ♪♪かもめのすいへいさん ならんだすいへいさん | |||
| 白いぼうし 白いシャツ 白いふく・・・♪♪ | |||
| (64)“日米友好ガールスカウト”の像 | |||
| “かもめの水兵さん”歌碑の直ぐそばの「バラ園」の |
“日米友好ガールスカウト”の像 |
||
| 中に建てられています。 | |||
| この銅像は、日米友好の印として、アメリカ ガールス | |||
| カウト50周年とガール スカウト日本連盟の世界連盟へ正 | |||
| 式加盟を記念して、昭和37年(1962年)3月に建てられ | |||
| たものです。 | |||
| (65)リカルテ将軍記念碑 | |||
リカルテ将軍記念碑 |
記念碑はバラ園の隣の「おまつり広場」に建てられて | ||
| います。説明を要約しますと、 | |||
| 『フイリピン生まれのアルテミオ・リカルテは、明治 | |||
| 29年(1896年)祖国独立のため挙兵、大正3年(1915年) | |||
| 「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、 | |||
| 横浜・山下町に居住。 | |||
| 昭和18年(1943年)生涯の夢であった祖国の独立を目 | |||
| にしたが、80歳の高齢と病気のため昭和20年(1945年) | |||
| 7月北部ルソン山中に於いて波乱の一生を終える。 | |||
| リカルテは真の愛国者であり、フイリピンの国家英雄であった。ここに記念碑を建 | |||
| て、比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とする。 | |||
| (財)フイリピン協会 会長 岸 信介』 とあります。 | |||
| ≪番外編≫ ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? | |||
| <はじめに> |
モンチッチのひな人形 |
駅長さんとバスガイドさん |
|
| 月日の経つのは早いもの | |||
| で、正月気分が抜けたと思 | |||
| ったら節分、そして「ひな | |||
| 祭り」が終わりました。 | |||
| 右側は一昨年、江ノ島電 | |||
| 鉄鰍ェキャラクター人形 | |||
| 「モンチッチ」の誕生35周年 | |||
| を記念して発売されたもので、販売初日に藤沢駅まで足を運んで購入したものです。 | |||
“美空ひばり”の像 |
贔屓のお寿司屋さん |
(1)“美空ひばり”の像 | |
| JR桜木町駅近くの野毛 | |||
| に在る寿司屋さんが建てた | |||
| もので、昭和20年代にひば | |||
| りさんが横浜国際劇場(現 | |||
| 馬券売場)に出演時、よく | |||
| 訪れたお寿司屋さんだそう | |||
| です。 | |||
| (2)人形の家 山下公園前で横浜マリンタワーのならびにあります。 | |||
| “青い目の人形”・・・昭和3年(1928年)の春・ひな祭りにあわせて、日本の親 | |||
| 善と平和を願う米国市民の思いをこめた13,000体の青い目の人形が、はるばる太平洋 | |||
| の波とうをこえて横浜の港に着きました。 | |||
| 「かわいい親善大使」たちは、日本の津々浦々の小学校や幼稚園に送られ、友好促 | |||
| 進に尽くした。この人形彫刻のモデル「ポーリン」ちゃんは、その中の一体で、今も | |||
| 横浜市西区西前小学校に大切に保存されているとのことです。 | |||
“青い目の人形「ポーリン」ちゃん |
人形の家:入り口 |
人形の家;ロビー |
|
中国漢方(野毛) |
メキシコ料理店(馬車道) |
北欧料理店(大さん橋入り口) |
室内に象(象の鼻テラス) |
神奈川県警本部前の像 |
新聞少年(日本新聞博物館;日本大通り |