話 題 『 よもやま話 』 2011年1月〜2011年2月
 
          話  題  一  覧
2011. 2.20 古磁石は語る                投稿;吉田誠治
2011. 2.10 初めてのコンドミニアム体験         投稿;三橋春夫
2011. 1.23 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その13)   投稿;小田 茂
2011. 1.16 四季を眺める美意識から絵が生まれる     投稿:清水有道
2011. 1. 9 富士山を雑学散歩する(4)         投稿:砂田定夫
 

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          話  題  『 よもやま話 』
2011. 2.20 吉田 古磁石は語る 
 
  古磁石は語る  東京都 吉田 誠治
 
 TVで「何でも鑑定団」が人気で骨董品が注目されていますが、私は陶磁器や絵画
などの美術品を見る目がなく、肝心の購入する資金もありません。もっとも骨董マニ
アは生活費も考えず衝動でなけなしの金を使い買ってしまうそうですが、それだけに
眼力がないと苦渋をなめるようです。
 昔、我が家に古い磁石があり、十二支の方位目盛が気になり何となく興味を抱いて
いました。世田谷のボロ市や骨董市を歩くうち、ガラクタのなかに昔の方位磁石があ
り、価格も手ごろで集められそうと乗り気になりました。相場は3千円から2万円ぐ
らい。
 古磁石蒐集マニアは少なく、詳しく研究されていないため店主も説明できないもの
が殆どです。形状、構造、方位表示などが昔の出所、用途を語るのみであり、文献を
しらべ推察するのが楽しみです。
1.骨董市で集めた古磁石
 上野不忍池の青空骨董市で購入した船磁石。 船磁石・明治時代
船磁石・明治時代
出所不明であるが羅牌(コンパスカード)は十二支の方
位とN、S、E、W 表示があり目盛は32方位です。
 
 
 
 
 
 
 埼玉アリーナ骨董市で購入した船磁石。 船磁石・江戸時代
船磁石・江戸時代
 江戸時代の作で時平の銘があり「極上」の刻印がある。
 方位表示は十二支と東、西、南、北。
 当時は大阪の「はりや九兵衛」製が多いが時平、時卯、
時正斉などがあります。
 当時の廻舟に使われた北前型弁才船、千石船で使用さ
れたとのこと。
    (1千石=約150トン)
 
 明治時代の地図用磁石。 地図磁石
地図磁石
 川口の「時代屋」骨董店で購入、
 東西南北と十二支方位。
 かなりの珍品と言われたが?。
 
 
 
 
 
 埼玉アリーナ骨董市で購入した大航計器羅針儀。 羅針儀(修復品)
羅針儀(修復品)
明治時代の後期でほぼガラクタ状態で購入し全分解して
修復しました。羅牌は当時の先端技術のセルロイド製で
ふにゃふにゃに曲がっていましたが裏にCDRをエポキ
シ接着剤で圧接し平面に修正しました。(大成功!)
 NSEWと十二支及び360度目盛外周の目盛板は腐食
で汚れていたので、水ペーパーで研いだら綺麗になりま
した。
 ネジも腐食のため交換しました。古いネジが無いのでISOネジとなり残念!!
 日本のセルロイド製造は明治41年(1908)ダイセルの堺工場が始まりとのこと。
2.古船の見学
 戦艦三笠の司令塔 三笠司令塔
三笠司令塔
 三笠の甲板から上部は進駐軍の命により解体
され処分させられたため、砲塔、マスト、煙突などはレ
プリカ又は他の船体からの移設復元とのことです。
 羅針儀(磁気コンパス)は日露戦後東郷元帥の意向で
海戦に近い九州の宗像神社神宝館に奉納され三笠で現存
する唯一の計器とのこと。
         (トキメック100年誌より)
 艦橋の羅針儀
 1961年日本船舶装備会社が復元した。本体は東京計器製作所製 TKSマークが懐
かしい。
艦橋羅針儀
艦橋羅針儀
羅針儀拡大
羅針儀拡大
 左右に自差修正用の鉄球
が見えますが、現在では棒
磁石とパーマロイで各自差
係数に対し修正しているよ
うです。
 自差は船体の永久磁気、
感応磁気(地磁気の誘導成
分)など船体の向きによる
誤差を修正するもので、広い海域で行い大変な作業のようです。
  予備羅盆
予備羅盆
予備羅盆拡大
予備羅盆拡大
 三笠の展示品 予備羅盆
 
 
 
 
 
 
3.古磁石の方位目盛について
 各方位を漢字1字で表現できる優れもの、ただし現代人には方角がピンとこない。 
何と無く方角に神秘性を感じさせるので風水向き。
 昔中国では「南」が良い方向とされ指南針とか指南器とか言われ用いられていたよ
うです。
方位名称
方位名称
12方位 古来より十二支で表示
24方位 主に風水の方位で使用される 
 
 
 
 
 
 
 
元祖羅針盤
元祖羅針盤
24方位羅針盤
 
 
 
 
 
 
 
 
12方位と24方位の表
12方位と24方位の表
   癸  艮  巽   坤   乾   壬
など見慣れない漢字は易の八卦に用いられている8方位です。
4.360度目盛
 地球公転周期(1年)365.25日を12で割り切れる数とし、円の1周を360度にした説
が有力で60や12との相性もよく時計の12等分目盛も人間の感覚にマッチするようです。
正三角形や二等辺3角形の内角も端数の出ない切りの良い単位のようです。
5.磁気コンパスの自差修正について
 船の自差修正方法はインターネット「船の豆知識」に詳しく解説されています。
  http://www.nexyzbb.ne.jp/~j_sunami76/jisa_syuusei.html
 大型航空機はノーススレーブの慣性航法装置を装備していますが、一般の航空機は
ジャイロ(DG,AHRS)を地磁気センサー(FV)で追従させているため空港などのコン
パスエリアで修正、確認するようです。
 右の写真はGoogleマップで見た羽田空港の巨大コンパ 羽田空港コンパスエリア
羽田空港コンパスエリア
スエリアです。大きさは略ジャンボ機のサイズです。
Googleマップで上空から各空港をみるのも楽しみです。
 世界一のコンパスエリアはスペースシャトルの帰還基
地で有名なエドワーズ(Edwards)空軍基地にあるそう
です。(Google参照)
 
 
 筆者は古磁石について素人のため、ご存知の諸兄が居られたらぜひご教示お願い致
します。地磁気といえばアンテナ自動指向装置を担当していた当時フラックスバルブ
やジャイロに関して先輩から教えて頂いたことがあります。
 参考文献
   「トキメック・ルネッサンス」 百年史
   「日本の船」和船編      安達洋行 著
   「ものと人間の文化史」和船T 石井謙治 著
   「航空電子装備」     日本航空技術協会
   インターネット  「船の豆知識」
   「航空・軍事用語辞典」 ・ Google マップ
   Wikipedia 方位」「八卦」ほか
 
2011. 2.10 三橋 初めてのコンドミニアム体験
 
  初めてのコンドミニアム体験  茅ヶ崎市 三橋 春夫
 
 昨年11月29日より3週間、ハワイ州マウイ島で初めての格安のコンドミニアム生活
を体験してきた。私たち夫婦がマウイ島を初めて訪れたのは平成2年(1990年)2月
である。事の始めは、共稼ぎだった二人の退職後を、どこか海外に長期滞在し、好き
なゴルフやスノーケルなどを楽しもうと、当時、マウイ島へ施設を建設中のリゾート
・クラブの会員となったことである。以来、多いときには年に3往復するほど気にい
ってしまったが、平成21年夏、非常識な管理費の値上げ問題を契機に退会した。
その間、海外でのゴルフはタイとグアムで楽しんでいたが、平成16年11月に家内とと
もに取得したハワイ州の運転免許証の更新期限が、私の場合、今年の1月誕生日とな
っていたため、その更新手続きとゴルフを兼ねて1年9ヶ月ぶりの訪問となった。も
う行くことはないと思っていたので、今回の訪問は特別に感慨深いものがあった。
 到着した翌日、近くのKIHEI SATELLITE OFFICE<DEVISION OF MOTOR VIHICLES&
LICENSING>へ行き、書類に必要事項を記入し、簡単な視力検査、写真撮影後、受領ま
で12分程度、どこかのように後期高齢者講習もなく、たった$10で更新手続きが終わ
り、新しい免許証を手にした。
 ハワイ州での車の運転はアメリカ本土と異なり、日本の免許証で運転は可能である
が、ハワイ州の免許証を所有すると、島民同様、ゴルフをはじめ、ある価格以上の買
い物をするときに特別に割引されるので大きなメリットとなる。ちなみに、車で3分
程で行けるエリエール・マウイGCは、12時過ぎのプレー代は$95であるが、$35で
プレーができる。
 今回の訪問はリゾート・クラブを退会したので、年金生活者に相応しい格安の宿泊
先を探さなければならない。しかし、マウイ島は今、アメリカで最も人気のあるリゾ
ート地である。ホテルの宿泊料金は、近くのワイレア、マケナ地区でオーシャン・ビ
ューの部屋だと最低一泊$300から$1,000を超えるものもあり、年金生活者には手も
足もでない。
 そこでインターネットでいろいろ調べた結果、キヘイ コンドミニアム全景
コンドミニアム全景
地区の中心地でスーパーマーケットも歩いて3分、さら
に、ステーキハウスをはじめ、寿司などの和食、イタリ
ア、ベトナム、メキシコなどのレストランにも近いロケー
ションで、目の前は美しい芝生とビーチが広がる3階建
て(59ベッドルーム)のコンドミニアムに決めた。
 ハワイ諸島の中でも、マウイ島は最もコンドミニアム
の数が多い島。同じコンドミニアムでもホテル同様の施
設を有し、フロントでチェックインやチェックアウト手続きができる所もあるが、今
回利用したところは規模も小さく、管理人が1室に常駐しているだけでフロントもな
いところである。このため、チェックイン、チェックアウトは上記のレストランや土
産店が集る広場の中にあるAA OCEANFRONT CONDOMINIUM RENTALSというオフィスが小規
模コンドミニアムの業務代行を行っていた。
 カフルイ空港の敷地内にあるバジェット・レンタカー・オフィスで車を借り、事務
所に直行しチェックイン手続きを行った。女性スタッフから利用規則、備品リストが
入った封筒と鍵(部屋用とプール用)を渡されて、時間外の緊急連絡用の電話、出発
が早い時間の場合の鍵を返却する投函ボックスの場所説明等があり、5分ほどですべ
ての手続きが完了した。車で1分もかからず、3週間滞在する「HALE KAI O KIHEI」
というコンドミニアムへ到着した。幸いに二階の階段に近い219号室である。駐車場は
60〜70台以上駐車可能なスペースが確保されており、どこに駐車しても問題はないが、
滞在中は部屋のほぼ前にレンタカーを止めることができた。
3枚の絵
3枚の絵
 この利用契約書を読むと、契約社会に相応しい内容が
ビッシリ。室内の器物破損や鍵を紛失した場合の金額請
求、夜10時〜翌朝8時までの騒音規制、車のアイドリン
グの禁止、鳥への餌禁止、25歳以下は宿泊契約不可など、
さすがアメリカ社会と感心した内容であった。
 部屋は1BR(1ベッドルーム)と称されるものであ
るが、慣れないキングサイズのベッド1台ではお互いの
寝返りが気になるので、事前にシングル2台にしてもら
った。その他、ソファのクッションをどけるとベッドが現れ、手前に引っ張ると大人
2人が楽に寝られるベッドとなり、最多4人まで収容可能となるタイプである。
 手前に寝室、海が一望できるフル・キッチン付き(当室には食器洗い機は設置され
ていなかった)のリビング・ルームとの間が洗面所・バス・トイレ室である。大きな
食卓とソファもアメリカン・サイズである。部屋の白い リビング
リビング
壁に飾られている3枚のハワイ風の絵が部屋の中の調度
品とマッチして実に素晴らしい。部屋は禁煙で、タバコ
を吸う男性が読書がてらバーベキュー施設の傍でいつも
喫煙しているのをテラスから見ていた。
 リビング・ルームの外は大きな丸テーブルと椅子2脚
が置かれているテラスで、毎日、手入れの行き届いたガ
ーデンを行き来する宿泊客と挨拶を交わし、海やビーチ
テラスでの朝食
テラスでの朝食
を散歩する人を眺めながら格別に美味しい朝食が楽しめ
た。
 アメリカ社会で生活するコツの一つは、コミュニケー
ションである。道ですれ違う人に、「ハーイ!」「Good
Morning」「カヌー楽しんだ?」などの挨拶が重要である。
多分、西部開拓時代からか、あるいは多種多様な人種の
国であるが故、相手に自分は敵意がないことを示す挨拶
と笑顔の習慣だと思う。これは子どものころから両親に
厳しくしつけられる。だから、子どもと顔を合わせると テラス
テラス
自然と笑顔で答える。気持ちは立派な大人(社会人)な
のである。
 この時期、17時40分ごろに始まるサン・セットは、毎
日見ていても飽きなかった。海の彼方、水平線に沈む寸
前にサン・セットの中心に薄い緑色のグリーン・ボール
現象をまれにみることができる。サン・セットが始まる
と、どこからともなく車のクラクションを鳴らし知らせ
てくれるのも、いかにも観光地らしい。
 一般のアメリカ人やカナダ人が利用し、快適な生活を保証するコンドミニアムであ
るため、一度に4基の電気コンロ(Cooking Stove)と大型オーブンをはじめとする
フル・キッチン設備に、各サイズの鍋、フライパン、料理用品、定員分の皿、ワイン
グラスと各種グラス、フォーク、ナイフ・・など、家では使用したことがない高級な
ものが完備されており、さすがだと感心させられた。
サンセット1
サンセット1
サンセット2
サンセット2
 一方、スターター・キッ
トと称される到着時の無料
コーヒーやキッチン用ペー
パーやトイレット・ペーパー
食器洗い用洗剤、洗濯用洗
剤、バス用石鹸は一定の在
庫があるが、足らなくなっ
た場合は各自スーパーで購
入し補充をするか、有料でメイドを入れて補充をする。
 また、シーツ、枕、バス・タオル、ビーチ用タオル、バス用足拭き、キッチン・タ
オルなどはスペアが用意されていて、自由に利用可であったが、汚れた場合は、共用
のコイン・ランドリー(大型洗濯機2機、同乾燥機2機)を利用することになる。利
用時は備え付けのコイン交換機に$1紙幣を挿入し、25¢コインに交換し、1回利用
するごとに25¢4枚をコイン入れに入れて利用する。かつては、25¢コインは公衆電
話の利用、レストランのチップ用に、いつも持ち歩いていた時期があったが、カード
社会のアメリカ。カフルイ空港では、昔$2、現在は$4と値上がりしていたが、い
くら少額でもカードが利用できるのは便利である。他のコンドミニアムではコイン・
ランドリーもコインを使わず、カードで利用できるところがあるのではなかろうか。
 旅慣れしてきた私たちは、小さいスーツケース2つに最低限度のウオッシャブルな
ウエアしか持参しないので洗濯はバスタブ内で済ませてしまう。乾燥しているのでバ
ビーチより見たコンドミニアム全景
ビーチより見たコンドミニアム全景
スルームに干しておくと翌朝には乾いている。
 コンドミニアムになくてはならないのがバーベキュー
施設である。敷地内の両隅に二箇所、バーベキュー施設
があり、夕方になると男性がいつも黙々として料理をし
ている。アメリカではバーベキューは必ず男性の担当で
ある。ご主人はいつも自宅でのパーティで腕をふるって
おり、料理人のプライドを持っているようである。
 
 これも初めて知ったのだが、宿泊者が無料で利用できる二人乗りのカヌーが二艘、
余り上等ではない自転車が数台常備されていた。特にカヌーは人気があり、寒さに強
いアメリカ人は早朝から楽しんでいた。敷地内にはプールがあるが、滞在中泳いでい
る人を見たことがない。理由は簡単である。目の前の美しい海で泳いだり、スノーケ
ルを楽しんだり、カヌー遊びをする方が彼らには楽しいからである。
 ちょっと脱線するが、運転免許証の更新を終え、駐車場の一画にマウイ郡営のプー
ルが3面あったので覗いてみた。コース・ロープも張られた公認の25mプールが2面
と、リハビリ専用1面の利用は、備え付けのノートにサインをするだけで無料である
と聞き、びっくりした。次回訪問時の楽しみがまた一つ増え嬉しい限りである。
 今回の滞在で、意外に支出があったのは調味料と食材 何キロも続く美しいビーチ
何キロも続く美しいビーチ
であった。リゾート・クラブの会員であったときは、あ
る程度の私有物はウエアハウスで保管してくれたが、そ
れも退会時にすべて破棄してしまった。そのため、出発
前に我が家の冷蔵庫などにあった在庫品を少々持参した
が、部屋に置かれていたのはオリーブ・オイル、ビネガー
塩胡椒だけであった。前に宿泊した人の使い残しと思わ
れ、ビネガーは気が抜けたような味であった。ゴルフ後、
サン・セットを眺めながらの楽しい夕食をと思うと、ステーキ・ソースから不足調味
料はすべて現地で調達するにいたったが、それもほとんどが日本と比べると容器が大
きく使い切れずとなってしまった。スーパーマーケットで安いチキン料理などを買っ
て食べるのなら安くあがるが、自分たちで料理し、楽しもうとすると、家にあるもの
を出来るだけ持参するのが得策である。
 海外のホテルに宿泊するとメイドさんへのチップで頭を痛めるが、今回は気が楽で
あった。ベッドメイク、タオル交換は毎日、リネン交換は3〜4日に一度、メイド・
サービスがある高級なコンドミニアムと異なり、今回宿泊した格安のところは、要請
すればやってくれるが、すべて有料となる。念のためメイド・サービス費用は$30程
度とあった。
 私たちはゴルフをできるだけ多く楽しむため、不要な支出をケチって、部屋の掃除
機掛けなどは自分たちで行い3週間を過ごした。掃除機の吸引力が足らず、絨毯に付
着したゴミが完全に取れない。リビングの中央に敷かれた濃緑の絨毯に、外出するた
びに、靴やサンダルに付着したゴミを持ち込み、それが絨毯に付着する。テレビを見
ながら気になるので、茅ヶ崎では「島忠」に当たる「LONGS」で梱包用の粘着テープを
買い、暇があるときは絨毯のゴミ取りをするのが日課となった。
 毎日出るゴミは、駐車場の出口付近にある幅150cm、奥行き100cm、高さ130cmの鉄
製のゴミ箱に勝手に捨てると、毎朝、超巨大なゴミ収集車が来てクレーンで吊り上げ、
反転させてゴミを収納して行く。この間、1分もかからない早業である。
 今回の訪問で失敗したことは、インターネットが無料利用できることを知っていな
がら手荷物の制限でパソコンを持参しなかったことである。前のリゾート・クラブで
は日本各社の新聞もあったし、日本人向けのTV番組からNHKのニュースも時間差はある
が見ることができた。しかし、今回は日本の新聞は売っていないし、日本人向けのTV
番組もなく情報に飢えてしまった。さらに、今までにない珍現象があった。以前はゴル
フ場や街中で多くの日本人を見かけたが、3週間滞在して5,6名しか見かけなかっ
た。また、以前はホノルルから一日観光で訪れる日本人観光客を乗せた大型バスをよ
く見かけたが、これも見かけなかった。しかも、日本人の観光客が減少したことで、
ゴルフ場やみやげ店で利用できたJCBカードが使えないところが増えていた。
 帰り、ホノルルへ着くと日本の若者で溢れていた。それ以上に目立つのが韓国や中
国からのツアー客である。こんなところにも低迷する日本を見たような気がする今回
の旅行であった。
 成田空港でチェックインするとき、家内だけが米国旅行に義務付けられている電子
渡航認証システムESTA(Electronic System For Travel Authorization)が登録され
ていないので搭乗券が発券されないという。"夫婦で一緒に登録しているし、その間、
二度もグアムへ出かけている。どうしてなのか?"カウンターのスタッフに喰ってかか
ったが、最終的に、最近家内がパスポートを更新したためということが判明した。更
新すると有効期間内のESTAも無効となるという。こんな大切なことが一般に周知され
ていないことに腹をたてながら、搭乗時間が迫っている中、空港内のインターネット
で再度登録して事なきを得たが、本当に出発ぎりぎりとなるハプニングがあった。さ
すが、家内はパソコンの講師、元米国企業の秘書という職歴を生かし、英語Versionの
画面に向かって落ち着いて対応、カード利用・$14を支払って登録が終了したが、一
時は、一日以上出発が遅れるのではとホテル代など不要な出費を心配してしまった。
 しかし、これを除けば、初めて体験した格安なコンドミニアムの生活は実に快適で
あった。
 
2011. 1.23 小田  「いろいろな“碑”」を訪ねて(その13)
 
 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その13) 横浜市  小田 茂
 
 ≪はじめに≫
 あけましておめでとうございます。皆様お元気で新年をお迎えのこととお慶び申し   
上げます。
 本投稿も、一昨年の横浜開港150周年記念行事にちなんで、私の地元、横浜市中区
内に散在する『我が国発祥の地』を11回に亘ってご紹介し、さらに「いろいろな“碑”
を訪ねて」という形でご紹介させていただきました。今年の3月で丸2年となります
が、あと2回で最終投稿の予定でありますが、今年もよろしく、ご高覧のほどお願い
いたします。
 
 (54)明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水管
 横浜開港資料館(神奈川県庁本庁舎真向かい)に隣接した「開港広場」に、明治14
年(1881年)から明治20年 1.マンホールと下水管案内板
1.マンホールと下水管案内板
2.マンホールの中
2.マンホールの中
(1887年)にかけて、旧関
内外国人居留地(現在の山
下町と日本大通りの一部)
一帯で下水道改造工事が実
施され、卵形レンガ管と陶
管の下水道が整備されまし
た。
 これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道と言われ、このマンホールは明治
15年(1882年)頃築造されたもので、昭和57年(1982年)4月にこの公園の整備中に
発見され、当時のままの状態で保存されています。平成10年(1998年)9月に下水道設
備ではわが国初めての国登録有形文化財に登録されました。
3.開港の泉とマンホールと下水管
3.開港の泉とマンホールと下水管
 上記右の写真は、ガラス越しで地下を撮ったのですが、
何が何やら分らない写真ですが、“幻想的”“芸術的”
?写真だと一人で悦にいっているところです。
 ★ 開港の泉(円形池と噴水) 
 この広場の中心に海を表現した池と噴水が設置されて
います。このような池と噴水はヨーロッパの都市広場に
も見られる浅床式の池と樹氷形の噴水です。
 水面は、潮の干満を表わし、池の底には、ペリー来航
当時のアメリカの軍艦に多く使用されていた羅針盤を型どった鋳鉄板が敷かれている
とのことですが、落ち葉でよく判りませんでした。
 
(55)“英一番館” 跡地  
4.“英一番館” 跡地碑
4.“英一番館” 跡地碑
5.碑文
5.碑文
 開港広場と道路を隔てた
真正面に“英一番館”跡地
の碑があります。
 明治4年(1871年)英国
ジャーディン・マセソン商
会が、この地で貿易業を始
めました。(現シルク博物
館)
 
  外国人居留地一番館であったことから、当時の人々が 6.冬の全景
6.冬の全景
“英一番館”と呼ばれていたそうです。
 この“英一番館跡地の碑”の直ぐ後に、乙女の裸像が
建てられています。これは、“シルク博物館”とあり、
“英一番館”とは直接関係はありません。
 ただ、“絹と女”の全体像が見れるのは、この季節だ
けで、像の周りは「桑の森」といわれ、桑の木の葉で夏
場は全体がよく見えません。ラッキーですね!
 
 (56)100年前の「横浜港」
 開港広場前の交差点を渡り、「横浜港大さん橋」の方へ向うと、直ぐに「開港の道
山下臨港線プロムナード」(赤レンガ倉庫から山下公園までの歩道橋)の橋の下の壁
に、100年前の横浜港の絵が書かれています。
7.100年前の「横浜港」
7.100年前の「横浜港」
 
 絵は、明治43年(1910年)頃の横浜港で、中央に明治 8「えきさい会・横浜大桟橋診療所」
8「えきさい会・横浜大桟橋診療所」
27年(1894年)創建の大桟橋。大正12年(1923年)の関
東大震災で壊れたが、昭和初期の復旧工事などを経て、
現在にいたっています。
 ★横浜出張所(後の関東サービスステーション)
 ガードをくぐると直ぐに左側には、「えきさい会・横
浜大桟橋診療所」の4階建てのビルがあり、昭和31年に
このビルの3階に「横浜出張所」として入居しました。
 30年後の昭和61年に関東サービスステーションは蒲田へ移転しました。
 私が会社に入社したのが、昭和31年であり、また地元ということもあり懐かしく想
い出い深い建物の一つであります。
 
(57)101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭
9
9 螺旋杭
 「えきさい会・横浜大桟橋診療所」の斜め前に位置す
るところに「101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭」が横
たわっています。
説明板には、
『明治27年〜平成7年
 螺旋杭は桟橋を支えるため下端にラセン状の円盤が付
いた杭で、その形状を利用し人力で海底にねじ込まれた
ものです。この杭は関東大震災の復旧工事(大正13年〜
14年)で施工されたもので、長さ21m、円盤直径1.8m、重量約6t 』
と記されております。
 
 (58)“大砲三門”(旧居留地90番地の大砲)
 いろいろな碑を訪ねているうちに、似たような型の“三つの大砲”に出くわしまし
た。もともとこの三門の大 10.発掘された場所の大砲
10.発掘された場所の大砲
11.説明板
11.説明板
砲は同じ場所から発掘され
たものです。
 場所は旧居留地90番地で
現在の本町通りの中消防署
山下町消防出張所の直ぐ裏
のマンション脇に一つが置
かれています。
 調べてみますと、この大砲は嘉永7年(1854年)にペリー艦隊が再来日し、横浜で日米
会談が行われた際に幕府は松代・小倉の二藩に警備を命じました。
 松代藩佐久間象山は軍議役として大砲4門を率いて横浜へ布陣したものの、幕府は
開国を決定し過度な軍備の撤去を命じ、佐久間象山はこの地に大砲を埋めたと伝えら
れています。
12.「横浜開港資料館」(開港広場)の大砲
12.「横浜開港資料館」(開港広場)の大砲
13.説明板
13.説明板
 その後、この場所には生
糸と時計の輸入に従事して
いたスイスの商社、シーベ
ル・ブレンワルト商会が慶
応元年(1865年)に創立し、
明治維新の際の戊辰戦争中
は武器の輸入も行っていま
した。
 使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持って
いたものが、大正12年(1923年)の関東大震災の時に地中に埋まってしまったといわれ
ています。
 昭和34年(1959年)に、こ 14.「神奈川県立歴史博物館」の大砲
14.「神奈川県立歴史博物館」の大砲
15.説明板
15.説明板
の地にあった倉庫会社の建
物の基礎工事中に、3門の
大砲が見つかり、この地に
展示されていましたが、そ
の後、現在建っているマン
ションの施工会社である山
協商事に譲られ、平成15年
(2003年)に横浜市に寄贈されました。
 一門をこの発掘された、この場所に残し、残り二門を、「横浜開港資料館」と「神
奈川県立歴史博物館」にあげたと記されています。 
 
 ≪番外編≫ ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景?       
  @宮内庁御用達?
@宮内庁御用達?
A空いた口が塞がりません
A空いた口が塞がりません
@私の町内に“宮内庁御用
 達”?の自動車修理工場 
 が昔からあります。
 
A空いた口が塞がりません 
 (JR石川町駅前)
 
 
Bネコの手も借りたい!
Bネコの手も借りたい!
C出来過ぎ!
C出来過ぎ!
 
Bネコの手も借りたい!    
     (横浜中華街)
 
C眼の悪い人は、「これ食
 べよう!」と注文する人
 がいるかも!よく出来て 
 います。(元町商店街)
 
D“せんとくん” Dせんとくん
Dせんとくん
Eおばけ?
Eおばけ?
 2010年に奈良県で開催さ
 れた平城遷都1300年記念
 事業の公式マスコット
 2009年12月JR横浜駅に
 PRで現れる。
 
E おばけ? (馬車道)
 
F歩きづらい歩道
F歩きづらい歩道
Gカモメ大接近!
Gカモメ大接近!
F 歩きづらい歩道
 眼の錯覚で、凹凸が有る
 よう!(シルク博物館前)
 
G カモメ大接近! 
 カモメにソフトクリー 
 ムあげたら・・・・。     
      (山下公園)
 
H 何これ??? H何これ???
H何これ???
Iビール等もビックリ!
Iビール等もビックリ!
 手の平で、穴から覗くと
 165種類の手のひらが見え
 る???。(本町通り:
 神奈川芸術劇場前)
I ビール党もビックリ!
 飲みでありますね〜  
  (横浜大さん橋入口)
 
2011. 1.16 清水 四季を眺める美意識から絵が生まれる
 
四季を眺める美意識から絵が生まれる 横浜市 清水 有道
 
 清少納言の『枕草子』冒頭の良く知られた「春は曙。」に続く一節の後に「夏は
夜」、「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて(早朝)」とそれぞれの季節について一日の
内で最も印象深い自然の情景が展開されています。
 平安時代には既に季節の美しい風物を「景物(ケイブツ)」と呼び、春は花(桜)、
夏は郭公、秋には月、冬には雪を四箇の景物として今でも盛んに絵画、詩歌、書の世
界で使われています『雪』、『月』、『花』に鳥を代表して『郭公(ホトトギス)』
を加えていました。平安も後期になりますと、景物が一つ増えて五箇となり、『紅
葉』が加わりました。ご承知のように、短歌や俳諧の世界では、これらの景物を愛で
るために、季節を代表させる言葉としての『季語』が生まれています。勿論、花も季
節によりいろいろ変化がありますし、鳥だけではなく動物も季節を代表するものがい
ろいろありますので、例えば『花札』の絵柄のように動物と植物・花を組み合わせて
季節を更に細分化して、12ケ月に分けて月々の草花や動物が決められていったものと
思われます。月は景物の中でも年間を通して見られますが、もっともその本性を発揮
する時期とそれを鑑賞し、享受する側の人々の美意識とが合致する時として秋が選ば
れています。この決定には特定の歌人の判断があったのですが、日本人の美意識を変
革させる上で、特に後世に大きな影響を及ぼすことになりました。
 美術評論家の高階秀爾氏は自著『東と西の出会い 増補 日本美術を見る眼(岩波
現代文庫、文芸部門158番)』の中で、「日本人にとっては美とはむしろ時の流れとと
もに消え去り行くもので、失われ行くものに対する愛惜の思いが、美意識の重要な要
素のひとつとなっているのである。」と述べておられます(III 移ろいゆく美 繰り
返される記憶、233/234頁)。要は季節の盛りの景物を愛でるよりも、移り、失われゆ
く景物に哀れみと慈しみを感じたのではないでしょうか。
 筆者も絵筆を取る身の一人として、自分なりに感じた四季に纏わる美意識をもって
描いた風景を思い返してみると感慨深いものがあります。以下自分で描いた作品で未
だに心に残っているそれらの作品を生み出す源になった意識や感慨を綴ってみたいと
思います。
 先ずは枕草子と同様、おぼろに代表される春から順を エニシダの花開く不退寺
エニシダの花開く不退寺
追って進めて行きましょう。春の心象として真っ先に思
い出されるのは、昔の大和、今の奈良県法隆寺から法輪
寺を経て法起寺に至る菜の花の黄色が映える、のどかな
春の田園・斑鳩の道筋です。虚子が句にした法隆寺の鐘
の音は柿の生る秋でしたが、大和の穏やかな春のうらら
に霞むこれら三寺の名塔はどうしてか、筆者の脳裏から
決して離れない日本の代表的な景観と思われてなりませ
ん。
 次に、京都府の南端、奈良の柳生の里に近い、野仏の多い当生(トウノ)の里の、
分けても岩船寺(ガンセンジ)から浄瑠璃寺への山道も春のうららと遠い歴史の道を
たどる思いがして大層好きなところです。
 もう一つ挙げるなら、文字通りおぼろに煙る瀬戸内の太古からの潮と風待ちの港、
広島県福山市に入っている鞆の浦のわびしい静かな昼下がりや現在の本四三架橋の一
つ『しまなみ海道』に愛媛県にまで果てしなくおぼろに連なる大小の島々の重なりと
天空との交わりも印象に残る景色として幾つかの作品を生むことになりました。
 若葉が芽吹いた新緑の枝垂れた柳が白壁をバックに運河に映える倉敷市の風致地区
の景色も心安らぐものとして心に深く刻み込まれています。何枚もアングルを変えて
スケッチし、カメラに収めました。勿論同じくらいの時間をかけて大原美術館の名作
を鑑賞したことは言うまでもありません。
薬師岳山頂からの安達太良山
薬師岳山頂からの安達太良山
八幡平頂上からの八幡平
八幡平頂上からの八幡平
新緑の奥入瀬
新緑の奥入瀬
 春は何と言っても花、すなわち桜の景観ですが、日本の各地に名花・銘木がありま
すが、筆者の心に残るものとしては山全体を包む桜模様としての吉野、色濃く密度の
ある桜を量として鑑賞できる醍醐寺の桜、周囲の武家屋敷の風景と調和したしとやか
に枝を垂れる秋田の小京都・角館、昔の歌の世界を思わせる京都の大徳寺や哲学の道
が思い浮かびます。京都東山と言えば、銀閣寺の近くにある一世を風靡した日本画家
橋本関雪のアトリエ兼住居跡『白沙山荘』庭園の池に映える桜も筆者の好きなところ
で、何枚もの作品にしています。
 清少納言は『夏は夜』としていますが、筆者の絵には夜の作品は殆んどありません。
正直なところ、どうしても絵として纏め上げられないのです。従って夏では勢い、北
アルプスや南アルプスの尾根筋から早朝の雲海に取り囲まれた清浄な空気の中で眺め
る峻険な山肌が陽光に赤く染まってゆく光景や朝の陽光と共に湖面から昇り行く朝霧
にきらめく山肌を埋める木々の葉が数多くの緑の綾織を作る様は確かに比べるものの
ない強烈なものです。しかし、余りにもダイナミックすぎて、絵心には意外と響かな
かったように思います。
 今も筆者の心に忘れ得ぬ情景は平成9(1997)年7月29日の夕暮れ、標高が高いと
ころであるため既に紅葉の始まった田んぼと山野の奥に連なる福島県と新潟県の県境
をなす帝釈(タイシャク)山系の山並みを南会津・栃木県境に近い湯ノ花温泉の民宿
『かじや』から眺めてスケッチに描いた景色です。暮れなずむ多色・多様の緑と、寂
しい山麓の黒ずんでゆく陰影が織りなす、平凡ではあるが例えようのない自然の姿が
たまらなく筆者の絵心を誘ったのでした。部屋の奥から夕食の膳の整ったことを知ら
せる呼び声が掛かっても、温泉で山旅の汗を拭うことも後回しにして、一心に鉛筆と
絵筆を進めたのを思い出します。
 夏の八幡平の風景も筆者には忘れられない作品となりました。日の出、日の入りと
共に移り行く彩光が地塘の趣を変えてゆく様が何とも言えぬ風情を感じさせてくれま
した。
真夏の参道 亀岡文殊堂
真夏の参道 亀岡文殊堂
 夏の強烈な陽射しが深い寺社の杜の木立を通して斜め
に射し込む木洩れ陽も絵になる風景です。東北旅行の帰
路、山形県米沢市郊外を走っているときに立ち寄った大
聖寺と言うより日本三大文殊堂と呼ぶ方が分り良いでし
ょうか、そこで描いた作品も印象に残る作品の一つであ
ります。
 
  
 夏場の変わったところでは、厚岸市の名前の付いたアツケシソウ(俗に珊瑚草と呼
ばれる)の真っ赤に群生している北海道能取湖畔の広大な原っぱの光景も富良野に広
がる花の絨毯模様とともに強い色彩の印象を伴って脳裏に焼き付いています。
 夏の夕暮れでは日本海に沈む夕陽に幾つかの心に残るシーンが思い出されます。山
口県萩市の郊外、須佐の小さな港町で、ゆっくり腰を落ち着けて入日を眺めるために
木賃宿に泊まってまで準備をし、同僚を3人も帯同して旅を強行した若き日の思い出。
でも今でも誘った同行者はあの時以来未だそれを上回る夕陽は見ていないと会う機会
ごとに思い出話を繰り返しています。
 石川県能登半島突端の海に接した露天風呂からの夕陽、 万座温泉からの四阿山
万座温泉からの四阿山
山形県鶴岡市湯野浜温泉で沈み行く夕陽を正面に見なが
らゆっくり海の幸で地酒を傾ける夢心地、秋田県男鹿半
島入道崎で風に顔面を痛めながら眺めつくした夕陽、そ
れに北海道礼文島の海浜からの夕陽も忘れられません。
それらの中では、唯一湯野浜温泉からの夕陽のみ作品に
残すことができました。日の入りは眺めていると絵にす
るチャンスを逸するか、作品にしても万分の一も受けた
印象を作品に写せないからです。長い全体が一幕のショーで、一コマの絵にきった物
ではこのショーは表せません。描く本人は脳裏に前後の情景が描けていますが、それ
らは絵を瞬間で見る人々に思い起こさせようとしても絶対にできない相談だからです。
 夏場の北海道では胸のすく思いの二つの場面を今でも鮮やかに思い出せます。一つ
は知床半島の最高峰羅臼岳山頂からの国後島(クナシリトウ)の眺望、もう一つは利
尻島の海水レベルからまるまる1700メートル以上を殆んど直登を強いられて登った利
尻富士山頂から樺太を眺めたときの驚き、共に日本の最果ての地から異国を眺めたと
いうなかなか味わえない経験にもなっています。
 反対に韓国の釜山市の高台から遥かに日本の対馬を見たときにもそれらに似た感慨
を味わったことを憶えています。これらはいずれも作品には作れませんでした。思い
返してみれば、空中写真のようなアングルは絵の世界には馴染めないものと決め込ん
でいたように思えます。
 日本古来の短歌の世界でも、清少納言の挙げる情景でも、秋は夕暮れであり、感傷
的な鹿などの動物の鳴き声や虫の音が断然上位にありますが、筆者にはやはり織りな
す彩錦の紅葉の風景が先ず思い浮かびます。大きな谷や山々の斜面を埋め尽くす錦秋、
彩鏤(チリバ)める谷紅葉が一番であると思います。印象に残るところでは、黒部の
峡谷、立山、上高地、中央アルプスの千畳敷カール(圏谷)、北八ヶ岳、鳥海山、早
池峰山、八甲田山などの雄大な斜面を覆う紅葉、阿武隈川、大井川などの源流、白鳳
渓谷、西山渓谷、昇仙峡など描いた場所はとても数え切れません。 他では、東京に
近いところでは、那須、塩原、日光、箱根も陳腐ではありますが、何回も自分の絵筆
に写しました。那須の茶臼岳の裏側、三斗小屋から沼っ原に抜ける道に沿って点在す
る小沼に映る紅葉の絨毯は大好きなアングルです。
錦秋天人峡羽衣滝
錦秋天人峡羽衣滝
紅葉燃ゆ
紅葉燃ゆ
荒管沢から雨飾山主峰
荒管沢から雨飾山主峰
 北海道の紅葉にも素晴らしいものがあります。函館市内の街路樹として植え込まれ
ているナナカマドの葉と赤い実の列も鮮やかですし、阿寒湖に近い静寂の湖オンネトー
に映える赤、紫、黄の錦、大雪山旭岳の姿見の池に映える紅葉、天人峡羽衣の滝と周
囲の紅葉も絵にした場面として思いで深いものがあります。
 紅葉の赤で忘れられないのは、京都の永観堂の景観でした。また絵にはできません
でしたが、真っ青の空を埋め尽くす無数の赤とんぼが山頂の空を覆い隠している東北
の主峰・尾瀬の燧ケ岳の景色も筆者には忘れがたい季節のエピグラフです。
 最後に冬ですが、真冬に外で絵の制作をすることは殆んどありませんので、しょせ
ん作品の数も数えるほどはございません。むしろ早春の残雪の風景に限られてしまい
ます記憶に残るシーンとしては会津駒ケ岳、湖面をなでて吹き寄せる風を受けて感じ
る冬静寂の中の支笏湖と周囲の恵庭岳や樽前山などの佇まい、北アルプス蝶ヶ岳や爺
ヶ岳、後立山連峰の残雪の山並みなどを挙げておきたいと思います。
 以上筆者の身勝手で偏見に満ちたものを紹介してしまいましたが、旅をし、山登り
の序に山野草を愛で、心にひらめく景観に出会って水彩画に写す絵が出来るまでの心
境を記してみました。 また近い内に次の個展の機会が持てましたら、そのときの絵
の背後に上記のような筆者の美意識が働いていることを思い起こしていただければ幸
せです。大げさに美意識と呼べるかどうか妖しいものですが、一緒に考えていただけ
れば嬉しく思います。
                                   完
2010年12月30日 記
 
2011. 1. 9 砂田 富士山を雑学散歩する(4) 
 
 富士山を雑学散歩する(4) 相模原市 砂田 定夫
 
 
1.富士山を讃え、高さを測った外国人たち
 西洋人で早期に富士山を讃えた人は、元禄3年に渡来したドイツ人医師ケンペルで、
富士の印象を「その姿は円錐形で左右の形が等しく、堂々としていて、草や木は全く
生えていないが、世界中で一番美しい山というのは当然である」と書いている。これ
は『江戸参府紀行』に書かれているが、他に『日本誌』がその死後、蘭・独・仏語で
出版されて日本ブームを招いたという。日本の歴史、宗教、植物、地理を研究した人
で、その顕彰碑は箱根旧街道を元箱根から少し登った所 外国人も讃美し、登った富士山     (雨ヶ岳より)
外国人も讃美し、登った富士山     (雨ヶ岳より)
にある。
 幕末になると、気圧計で富士山の高度を測ろうとした
同じくドイツ人医師シーボルトが現れる。シーボルトは
もともとオランダ政府から日本研究の依頼を受け、商館
付医官として文政6年来日、長崎で塾を開いて日本の青
年たちに自然科学を教えた。来日5年目に有名なシーボ
ルト事件(日本地図持ち出し)で国外追放されたが、弟
子の二宮敬作が自ら登頂して測定した富士山の標高は3796m(実際の標高は3776m)
であり、その正確さには驚かされる。
2.最初に富士山に登った外国人
 シーボルトは富士山には登らなかったが、西洋人で最初に登ったのは、イギリス人
総領事(初代公使)ラザフォード・オールコック一行だった。当時ヨーロッパでは、
アルプス黄金時代と呼んで、アルプスの山々が次々に初登頂された時代で、特に産業
革命で豊かになったイギリス人が最も活躍していた。オールコックは、徳川幕府の閉
鎖的規制に対して執拗に許可申請を続け、遂に1860(万延元)年に日本人随行者を雇
って総勢約100人で登ることができた。幕府が渋った原因は、当時盛んだった富士講
(前述)が、幕府にとっては反体制的な傾向を見せていたことで、トラブルが起きる
のではないかという懸念が原因だったという。ところが実際に行くとなったら講の人
たちはただで登れるというので、進んで随行したらしい。 富士宮口五合目にあるオールコック     の顕彰碑
富士宮口五合目にあるオールコック     の顕彰碑
オールコックは登頂を祝して火口にピストルや小銃弾を
21発撃ち込んだというから、日本人にとって神聖な霊山
を穢されたことになるが、当時生麦事件や英国公使襲撃
事件などで日本人の印象が悪かったとき、彼はある出来
事をきっかけに、「日本人を敵視すべきではない。誠に
親切な国民である」と本国へ報告したという。富士登山
後、彼は熱海に約2週間滞在した。その出来事とは、彼
熱海大湯にあるオールコックの碑と     愛犬トピーの墓石
熱海大湯にあるオールコックの碑と     愛犬トピーの墓石
が本国から連れてきた愛犬トピーが熱海の噴湯に触れて
大火傷を負い死んでしまったときに、里人は人の死を悼
むかのように葬儀を行い、丁重に弔ったのである。後に
江戸に戻ったオールコックは、「かわいそうなトピー」
と刻まれた石を熱海に送り、墓石とした。熱海市にある
ニューフジヤホテルの横、大湯の間歇泉のところにはオ
ールコックの碑と、愛犬トピーの墓が並んでおり、親水
公園にもオールコックのレリーフがある(トピーの逸話
は碑文によった)。また、富士山の富士宮口五合目にもオールコックの登山を顕彰し
たレリーフがある。オールコックは、日本滞在記として、『大君(たいくん)の都』
を著し、その中に富士の美を讃えて世界に紹介した。
 なお、外国人女性で最初に富士山に登ったのは1867年、2代目イギリス公使パーク
スの夫人だった。富士登山が女人解禁になったのはその5年後である。
 明治になると、西洋人が盛んに富士登山をしている。大森塚発見のモース、日本ア
ルプスの名付け親ガウランド、フォッサ・マグナと象で有名なナウマン、日本アルプ
スを世界に紹介したウェストン、小泉八雲ことハーンなどである。
3.初めて冬富士に挑んだ人
 日本の高山・名峰の多くは、宗教登山によって開かれたが、幕末から明治前半にか
けては、お雇い外国人を中心として外交官や科学者たちが富士山をはじめ、日本アル
プスの高峰に盛んに登った。次いで山々に登ったのは、当時未整備だった地図作成の
ため、三角測量を実施した農内務省や参謀本部陸地測量部のお役人たちだった。いわ
ゆる日本人による近代登山の幕開けは、明治35年の、小島烏水と岡野金次郎という冒
険精神の旺盛な二人の青年が槍ヶ岳へ登った事件からとされている。当時は地図もな
い状態の探検的登山であり、すでに高山深谷を渡り歩いて、クマ、カモシカ、イワナ
などを獲って生活していた猟師などを案内人として実施された。その頃の登山は夏季
に限られ、積雪期の高山などとても対象にはなり得なかった。
 ところが、そんな時代に冬の富士山に挑み、しかもその山頂に3ヶ月も滞在して気
象観測を続けた人がいた。その人の名は、野中至(いたる、本名到)。気象変化の因
果関係を解く鍵が高層気象にあると信じ、その観測を志した。野中は観測に先立って、
冬の山頂の状態を確かめようとして、明治28(1895)年、単身御殿場口(当時は中畑
口)から山頂をめざした。夏の富士登山なら、天候が良くて、そこそこ健康体であれ
ば初心者でも登れるが、冬富士ともなるとその壮麗さとは裏腹に、厳しさ、難しさは
夏山の比ではなく、現在でもエキスパートだけに許される世界となる。野中の行手に
は困難が待ち受けていた。積雪は堅氷となり、五合目ですでに−9.8℃、現在のピッケ
ルに代わる鳶口(とびくち)は折れ、現在のアイゼン代わりに靴底に打った釘も曲が
って役立たず、結局は退却した。これに懲りることもなく、万難を排してリベンジし
ようと心に誓った野中は、2月再度冬富士に挑む。今度は装備に工夫をして、靴底の
釘も強化し、大型の鳶口と工事用のツルハシを持参した。そして遂に、「零時五十五
分、俄然頂上に出でたり、零下十八度二を示せり」。ここに厳冬期富士山の初登頂は
成し遂げられた。
4.壮絶な山頂滞在
 冬季の山頂の状況を知った野中は、同年8月から中央気象台の協力を得て観測所設
立の準備を始め、剣ヶ峰に粗末な観測小屋を建て、10月1日から観測を始めた。たっ
た一人になったときのことを「いよいよ俊寛も宜しくと云う境遇となり、全く孤独の
身となれり」と書いている。夫の身を案じる妻の千代子は、子供を郷里の父母に託し
て、決死の思いで山頂の小屋へたどり着く。炊事等の雑 野中至・千代子夫妻(山と渓谷社     『目で見る日本登山史』による)
野中至・千代子夫妻(山と渓谷社     『目で見る日本登山史』による)
事を夫人に任せ、至は観測に専念した。しかし、想像を
超える富士山頂の強風と酷寒は観測機器を破壊し、二人
の身体は寒気、高所障害、栄養偏重などで浮腫となって
衰弱していった。夫婦を気遣う有志たちが苦心の末登っ
てみると、二人の衰弱ぶりが余りにもひどいので驚いた。
改めて有志が救助隊を組織して急行し、説得して夫婦を
下山させたのだった。滞頂82日間であった。
 野中夫妻によって貴重な観測資料がもたらされ、これが後の測候所建設へとつなが
った。野中の苦闘と夫婦愛は、後に橋本英吉の『富士山頂』や新田次郎の『芙蓉の人』
などの作品に描かれた。野中自身は『富士案内』を著し、富士の登山ガイド、観測、
冬の登頂記のほか、冬の登山心得のような文を書いている。
 この時代、日本人は探検や冒険の気概に満ちていた。例えば、シベリヤ横断の福島
安正、千島の郡司成忠、チベットの河口慧海(えかい)、中央アジアの大谷光瑞、南
極の白瀬矗(のぶ)などである。富士山における野中至の挑戦も、これらに比肩する
一大ロマンであった。