| 話 題 『 よもやま話 』 | 2010年10月〜2010年12月 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2010.12.25 | 『巣ごもり消費』 投稿:清水有道 | ![]() |
| 2010.12.12 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その12) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010.12. 5 | 『二人の紅葉見物』 投稿;大桶 誠 | ![]() |
| 2010.11.23 | 介護と川柳 投稿;金子 健吉 | ![]() |
| 2010.11.14 | 我が家の掛け軸 投稿:江島 正憲 | ![]() |
| 2010.11. 5 | 古典落語をより楽しむために−11 (江戸の行事) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
| 2010.10.27 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その11) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010.10.24 | アメリカの地方の町 投稿:廣川洋一 | ![]() |
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| 話 題 『 よもやま話 』 |
| 2010.12.25 | 清水 | 『巣ごもり消費』 | ![]() |
| 『巣ごもり消費』 | 横浜市 清水 有道 | |
| OB会のメンバーでどのくらいの方々が日常生活の中から生まれては消え、消えて | |||
| は生まれる流行語に敏感に反応されておられるでしょうか。毎年「流行語大賞」が発 | |||
| 表されています。選ばれた流行語には新聞や雑誌などの印刷物の他に、テレビ、ラジ | |||
| オ、インターネットの画面を飾り、声に響いて人々の心の中に残った言葉で、なるほ | |||
| どと合点の行くのもが多いのは事実です。 | |||
| しかし、筆者には噂にも上らなかったにも拘らず、表 |
ファースト・フード店 |
||
| 題の『巣ごもり消費』という言葉くらい言い得て妙なる | |||
| ものはなかったように思えてなりません。読者の皆さん | |||
| にはこの言葉の意味がお分かりになるでしょうか。ある | |||
| いは耳にされたことがおありでしょうか。 | |||
| 近年とみに売り上げが伸び悩んでいるファースト・フ | |||
| ード店や新たに脚光を浴び、我も我もと雨後の筍のよう | |||
| に溢れんばかりに生まれ出てきた「B級グルメ」店がコ | |||
B級グルメ店 |
ンスタントな売り上げに繋げるために考え出された変則 | ||
| の「テイクアウト」に当る言葉であります。単純なテイ | |||
| クアウトではなく、車に乗ったまま降りることなくブレ | |||
| ークスルーするだけで注文した温かい食事を持ち帰ると | |||
| いう考え方から生まれたものです。米国などで盛んな銀 | |||
| 行の預金や引き出しが車に乗ったまま出来る便利な方式 | |||
| を食べ物のテイクアウトに適用したものであります。我 | |||
| が国でも最近は調剤薬局にもこの方式が応用されて来て | |||
| いるようであります。 | |||
| さて、本題の食べ物のブレークスルー方式では、温かい料理が冷めないように保温 | |||
| 容器に入れられて、値段も手ごろな殆んどが1000円以下とあって、過去に利用した人 | |||
| たちの口コミと新たな宣伝によって、利用者は少しずつ増えているようです。 | |||
| 問題は入手した食べ物を直ぐに車中で食べたり、途中どこか公園のベンチなどを利 | |||
| 用して食べるのではなく、家に持ち帰り、一人もしくは数人で寂しく食べるために、 | |||
| 表題のような言葉が冠され、使われているようです。その背景に引きこもりに通じる | |||
| 発想が潜んでいると思われます。そのため一層今日の社会のあり方に密着した言葉だ | |||
| と感じ、生み出した人のアイデアルな踏み込みに喝采を送りたい気持ちになりました。 | |||
| 一人でも同調者を募りたく一文にしました。 | |||
| 完 | |||
| 2010年12月20日 記 | |||
| 2010.12.12 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その12) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その12) | 横浜市 小田 茂 | |
| 4.JR関内駅周辺・日本大通り方面(その3) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| JR根岸線「関内駅」南口を出発点として、「日本大通り」を中心に港の方向へ向 | |||
| かって日本大通り方面3回目のご紹介となりますが、今回は時節柄、「番外編」に力 | |||
| 点を置きました。 | |||
| (52)「神奈川運上所跡」の石碑 | |||
| 11月下旬の日本大通りは、銀杏の紅葉で黄金色一色で |
神奈川県庁 |
||
| す。地元の人は勿論、観光客の目を大いに楽しませてく | |||
| れております。 | |||
| 「神奈川運上所跡」の石碑は、銀杏の木で囲まれた神 | |||
| 奈川県庁本庁舎敷地内の南角に建てられております。 | |||
| 「運上」というのは江戸時代の税金のことで、開国通 | |||
| 商の開始とともに、安政6年(1859年)に、この場所に | |||
| 運上所(横浜税関の前身)が設けられました。 | |||
「神奈川運上所跡」碑 |
説明板 |
開港に当って幕府は、神 | |
| 奈川奉行所を設け、神奈川 | |||
| 奉行所の一つの機関として | |||
| 運上所が置かれました。 | |||
| 単に関税に関する事務を | |||
| 扱うだけでなく、外国に関 | |||
| する事務所であって幕府の | |||
| 外務を扱い、その他港の行 | |||
| 政・刑事、洋銀両替などを含めた幅広い仕事をしていました。 運上所は明治4年 | |||
| (1871年)の廃藩置県で大蔵省の管轄となり、翌年に横浜税関となりました。 | |||
| (53)「香淳皇后御歌」(ララ物資に感謝の気持ちを詠まれた) | |||
| 神奈川県庁から15分弱のところに新港埠頭(赤レンガ倉庫のそば)があり、そこに | |||
| 昭和24年に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に訪れたとき詠まれた「御歌」の | |||
| 碑が建てられております。説明文は以下の通りですが、「御歌」の碑については拡大 | |||
| してご覧ください。 | |||
| 第2次世界大戦後の多くの日本人を救った「ララ」物資 | |||
| 第2次世界大戦後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していました。この中で、 | |||
| 全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志アメリ |
新港埠頭記念碑 |
||
| カ協議会は、特に日本はじめアジア諸国の救済事業を行 | |||
| うために『アジア救済公認団体』を設置し、ミルク類、 | |||
| 穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、衣料品、 | |||
| 靴、石鹸、裁縫材料などの消費物資のほか、乳牛、山羊 | |||
| などを送り、多くの日本人を救いました。 | |||
| この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組 | |||
| 織の方々の多大なご尽力があったと伝えられます。 | |||
| この救済物資は、『アジア救援公認団体』の英語名 “Licensed Agencies for | |||
| Relief in Asia”の頭文字から「ララ」物資と呼ばれ、昭和21年11月30日に「ララ」 | |||
| 物資を積んだ第1船ハワード スタンズペリー号が、ここ横浜新港埠頭に接岸し、以後 | |||
| 昭和27年6月までの6年間送られ続けました。 | |||
香淳皇后御歌 |
記念碑の香淳皇后御歌は、昭和24年10月19日に昭和天 | ||
| 皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸啓になられた | |||
| 時に、詠まれたものです。 | |||
| 「ララ」物資を送って頂いた方々への深い感謝と、当時 | |||
| ご尽力された方々のご功績を後世に永く残すため、多く | |||
| の方々からの募金により、この記念碑を建立しました。 | |||
| 平成13年4月5日 「ララ」の功績を後世に残す会 | |||
| ≪番外編≫ | |||
| (1)海上保安資料館横浜館(工作船展示館) | |||
| 11月23日の北朝鮮による韓国・延坪島への突然の理不尽な砲撃に驚き、平和ボケ解 | |||
| 消を含め、9年前の事件を思い出し、再度、海上保安資料館横浜館へ訪れ、北朝鮮とい | |||
| う国の認識を再確認してきました。 | |||
| この事件は、私達にとっても対岸の火でなく、北朝鮮の後継者問題、軍の暴発そし | |||
| て中国がどう出るのか、拉致問題はどうなるのか等々、大いに懸念されるところです。 | |||
| 海上保安資料館横浜館は、「香淳皇后御歌」の碑の直 |
工作船展示館 |
||
| ぐ近くの横浜海上防災基地の中にあります。 | |||
| 平成13年(2001年)12月22日九州南西海域で発生し、 | |||
| 海上保安庁巡視船に対し、不審船から自動小銃、ロケッ | |||
| トランチャーによる攻撃を受けました。その後、不審船 | |||
| は、海面へ証拠品(薬物?)投棄し、自爆用爆発で沈没 | |||
| しました。 | |||
| その後、水深90mの海底から工作船を引揚た結果、北朝 | |||
| 鮮の工作船であったことが判明し、この工作船ならびに証拠物が展示されています。 | |||
船首 |
船前方 |
不審船説明 |
|
| 工作船(母船)は、全長29.68m、総トン数44t、速力約33ノット(61q/h)で船名 | |||
| 「長漁3705」ですが、中国、韓国、日本の漁船名に偽装できるようになっています。 | |||
| 観音扉を開ければ、船腹に「小型舟艇」全長11.21m、総トン数2.9t、総力約50ノット | |||
| (約90q/h)が収納できます。 | |||
観音扉から船腹 |
小型舟艇 |
小型舟艇説明 |
|
対空機関銃 |
機関銃説明 |
水中スクーター |
|
| (2)横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2010”開催 | |||
| 今日から(12月1日)恒例の山手の西洋館で、それぞれのテーマ国に合わせたクリス | |||
| マスの装飾が飾り付けられオープンしました。12月25日まで開催です。(入場無料) | |||
| クリスマスが終れば、直ぐにお正月です。皆さん良いお年をお迎えください! | |||
| ★ブラフ18番館(ベルギー) |
ブラフ18番館 |
銀杏の木 |
|
| 大正末期に建てられた外 | |||
| 国人の住宅で、平成5年に | |||
| イタリア山庭園内に移築復 | |||
| 元され、大正末期〜昭和初 | |||
| 期の外国人住宅の暮らしを | |||
| 再現しています。庭の銀杏 | |||
| の木が素晴らしいです。 | |||
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外交官の家 |
クロガネモチ |
★外交官の家(ドイツ) | |
| 明治4年に明治政府の外 | |||
| 交官の邸宅として、アメリ | |||
| カ人建築家が設計し渋谷区 | |||
| に建てたものを平成9年移 | |||
| 築。庭のクロガネモチがお | |||
| 見事。センリョウの親玉か | |||
| と思いました。 |
2428 |
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| ★ベーリック・ホール(フィンランド) |
ベーリック・ホール |
||
| イギリス人貿易商ベリックの邸宅として、旧横浜根岸 | |||
| 競馬場1等馬見所、横浜山手聖公会等を手掛けたモーガ | |||
| ンの設計で、昭和5年建てられました。したがって東京 | |||
| 計器鰍フ蒲田の旧本社・工場と同級生でもあります。 | |||
| 戦前の西洋館としては、最大規模を誇り、建築学的に | |||
| も価値ある建物といわれています。 | |||
2436 |
2434 |
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| ★エリスマン邸(スイス) |
エリスマン邸 |
2438 |
|
| 絹糸貿易商の支配人エリ | |||
| スマンの私邸として、大正 | |||
| 15年に日本の建築界に大き | |||
| な影響を与え「現代建築の | |||
| 父」と呼ばれたレーモンド | |||
| 設計により建てられ、平成 | |||
| 2年現在地に移築復元。 |
2437 |
2439 |
2441 |
山手234番館 |
★山手234番館(ポーランド) | ||
| 日本人建築家・朝香吉蔵の設計により昭和2年に外国 | |||
| 人向けの集合住宅(アパートメントハウス)として、4 | |||
| つの同一形式の木造2階建て住戸が建てられました。 | |||
| 時節柄、紅葉の木が今が盛と色鮮やかに紅葉し、来訪 | |||
| 者の目を楽しませています。 | |||
| ちなみに隣の「えの木てい」の建物も、朝香吉蔵が同 | |||
| 時期に設計したものと言われています。 | |||
2461 |
2460 |
2459 |
| ★イギリス館(イギリス) |
イギリス館 |
2451 |
|
| 昭和12年に英国総領事公 | |||
| 邸として建築されたもので | |||
| す。重厚な美しさは当時の | |||
| 大英帝国の風格をよく現わ | |||
| しています。 | |||
| 昭和44年に横浜市が買い | |||
| 取りました。 |
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山手111番館 |
2454 |
★山手111番館(ハンガリー) | |
| アメリカ人ラフィンの住 | |||
| 宅として、大正15年モーガ | |||
| ンの設計による建物です。 | |||
| 赤瓦と白い壁が美しい西 | |||
| 洋館です。平成8年に横浜 | |||
| 市が敷地を購入し、建物は | |||
| 寄贈されました。 |
2453 |
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| ★山手68番館(日本) |
山手68番館 |
2465 |
|
| 昭和9年に平屋建てでバ | |||
| ンガロースタイルの外国人 | |||
| 向け賃貸住宅として建てら | |||
| れた。日本最初の洋式公園 | |||
| である山手公園内にあり、 | |||
| また、ここはテニス発祥の | |||
| 地でもあります。 |
2466 |
2464 |
2463 |
| ★ おまけ! |
2311 |
2313 |
|
| JR桜木町駅周辺から、 | |||
| 横浜港大さん橋で見かけた | |||
| クリスマス風景を紹介いた | |||
| します。 | |||
| 2011年が、皆様にとって | |||
| 健康で、明るく過ごされる | |||
| 良い年でありますように! |
2315 |
2362 |
“2011年もよろしく!” |
| 2010.12. 5 | 大桶 | 『二人の紅葉見物』 | ![]() |
| 話 題 『二人の紅葉見物』 | 矢板市 大桶 誠 | |
| 久しぶりで鬼怒川方面の紅葉見物を妻と二人でしてきました。 | |||
| 季節柄、農業をやっていますので秋本番になり、椎茸 |
大桶_誠さん |
||
| の発生が始まり忙しい日々でしたが、やっと今週は市場 | |||
| 出荷日(日曜日・月曜日)が休みになるため、前日出荷 | |||
| 包装の作業は休みで、久しぶりに紅葉見物で鬼怒川方面 | |||
| に出かけてきました。 | |||
| 龍王峡の紅葉は、一週間から十日程遅かった感じです。 | |||
| それでも二百段の階段を下りて行って見物しました。 | |||
| 以前(約20年ほど前)は、この階段も苦にならなかった | |||
| んですが、下りは何とかなったが、登りはかなりきつかったが、久しぶりの妻との紅 | |||
| 葉見物ができ、日頃の農作業の疲れが癒されました。 | |||
龍王峡1 |
龍王峡2 |
龍王峡3 |
|
龍王峡4 |
帰りは、天気も良かったし気分よくして、「上みより」 | ||
| 経由で塩原温泉の紅葉を眺めて帰宅となりました。 | |||
| 2010.11.23 | 金子 | 介護と川柳 | ![]() |
| 介護と川柳 | 東京都 金子 健吉 | |
| 6年前に脳出血で倒れ、不自由な生活を送って来た妻が、今年4月再度発病し、要 | |||
| 介護5度の寝たきりの状態となり、食事はもとよりすべての日常生活に介助を必要と | |||
| するようになった。病院からはひと月もしないうちから退院を迫られ、施設を探した | |||
| が適当な場所がなく、全く途方にくれてしまった。やむを得ず前後の見境もなく自宅 | |||
| 介護をすることにしたが、当然のことながら自分の時間がなくなり、いろいろな趣味 | |||
| 活動も制限されることになった。そのような生活の中で、ぶつぶつつぶやいたものが、 | |||
| 川柳となって出てきた。一介護者の心の動きを聞いてもらえれば、と思っている。介 | |||
| 護は夫婦生活の中でマイナスだけでなく、そうならなければわからなかった世界があ | |||
| った、と思っている。 | |||
| 4月に入院した病院からすぐ退院を迫られ施設を探したが適当なものが見つからず、 | |||
|
|||
| ・病院も 施設も行けず 立ち往生 | |||
| ・5人部屋 自宅介護を 決断し | |||
| ・テレビみる 後姿に 迷い絶つ | |||
| ・治すべき 手立ては済んだと 追い出され | |||
| そして自宅での介護が始まった。 | |||
|
|||
| ・介護して 初めて知った 夫婦愛 | |||
| ・幸せを 求めてわれと 結びしに | |||
| ・ただじっと 見つめるまなこ 何思う | |||
| ・想い出は 何故か悲しい ことばかり | |||
| ・食べさせて 歌う赤城の 子守歌 | |||
| ・語り合う 二人で行った 青の洞窟 | |||
|
|||
| ・死にたいと 言う本人を 生かさんと | |||
| ・あの時の 面影残す 寝顔にも | |||
| ・何もかも 自分の咎(とが)に 見えてくる | |||
| ・もういいと 言うつぶやきに ただ涙 | |||
| ・介護して やっと戻れた 二人きり | |||
| ・ごめんねと その一言で 報われて | |||
| そのうち疲れも出てくると、 | |||
|
|||
| ・知らぬ間に 介護が仕事に なっている | |||
| ・介護して 何処まで続く ぬかるみぞ | |||
| ・車椅子 自己満足の 散歩かも | |||
| ・介護して こんな筈では なかったに | |||
| ・これもまた 一つの運命(さだめ)と 達観し | |||
| ・神よなぜ かくも試練を 与えるか | |||
| ・こんなこと 男柳が 泣くものか | |||
| ところで、施設に入る入居金は安くて数百万円もかかる、 |
|
||
| ・この分は 施設に入る 命金(いのちがね) | |||
| ・自宅売り ホームに入って すっからかん | |||
| ・入居金 消費が増える わけがない | |||
| ――― 川柳が つらい介護を 明るくし ――― | |||
| 2010.11.14 | 江島 | 我が家の掛け軸 | ![]() |
| 我が家の掛け軸 | 埼玉県 江島 正憲 | |
江島_正憲さん |
もう二十年も前のこと、納入した製品がトラブルを起 | ||
| こし、対応のため中国の寧波へ出張したときの話です。 | |||
| 当時の中国はまだ未開放の時代で、怖いもの見たさと製 | |||
| 品トラブルへの不安を抱えながら、香港経由で上海空港 | |||
| へ向かいました。空港到着後は驚きの連続で、今でもは | |||
| っきりと記憶がよみがえるので道中記の一部を書いてみ | |||
| ました。 | |||
| 空港へは少し暗くなって到着したのですが、人はまばらで、軍服を着た警備員が目 | |||
| 立ちました。荷物を持ってロビーを歩いているといきなり自転車のベルを鳴らされビ | |||
| ックリ、ロビー内を自転車が走る光景に唖然としました。空港出口は巨大なサーチラ | |||
| イト一個だけで空港玄関を煌々と照射し、周囲の景色はほとんど見えない不思議な空 | |||
| 間でした。上海市内のホテルへ向かう道中も、ネオン一つない真っ暗な道のりです。 | |||
| ホテルの門にもまた軍服の人が立っており、相変わらず異様な雰囲気! | |||
| 翌朝、目覚めとともに事件発生。高級ホテルのはずなのに、室内のトイレで用をたした | |||
| 後、水を流すと便器に水が溢れそうになり、寸前で止まったのには肝を冷やしてしま | |||
| いました。 | |||
| 気を取り直してホテルを出発、人民広場と称するバス |
カーフェリー |
||
| ターミナルへ。ここは砂埃が舞うだだっ広い建物もない | |||
| 広場でした。ここからフェリー乗り場まで数時間バスの | |||
| 旅になると言うことで、まずはトイレ探し。同僚と一緒 | |||
| に駆け込んだトイレでまたビックリ。ちょろちょろ流れ | |||
| る溝にまたがり仕切りのないところで並んで用を足して | |||
| いるではないか。小のほうは昔の田舎のトイレと同じだ | |||
| が、大のほうは緊急時でも無理!バスもまた驚きの連続、 | |||
港の露天かに売り |
クラクションは鳴りっぱなし、歩行者や自転車を掻き分 | ||
| け猛スピードで走るのである。 | |||
| またバス停でもないところでいきなりバスを止め、道 | |||
| 路端で立ちションするのが普通であることにショックを | |||
| 受けました。 | |||
| バスの次は数時間のフェリーの旅、乗客が鶏を籠に入 | |||
| れて乗り込んでくる。フェリーのあちこちに籠に入れた | |||
| 鶏が置いてあり、その前に米粒が撒いてある。最新型の | |||
| スウェーデン製のカーフェリーも形無しです。乗客は全て色あせた青のジャンパーと | |||
| 青の作業帽姿で、背広の我々が逆に異常に見えたかも。売店はなく、飲み物と言えば | |||
| マイコップを持ってないとお茶も飲めないことが分かり、ただ川を見つめるだけで散 | |||
| 々な目に合いました。目的地の寧波に着く頃には日が完全に落ち真っ暗闇でした。港 | |||
| は、柱に裸電球が1個だけで港の様子は分からずじまいです。しかし裸電球のそばへ | |||
| 行くと、先方の会社要人たちが整列しており拍手で迎えられたのには驚きました。宿 | |||
| 泊ホテルに送ってもらい、休む間もなく歓迎会と称する大げさな晩餐会に招待されま | |||
| した。出席者を聞いてまたビックリ。地区共産党の要人や日本で言う電電公社の幹部 | |||
| も同席しての盛大な晩餐会となりました。乾杯攻撃も驚きましたが、正に食い散らか | |||
| すという表現がぴったりで、鳥の骨などはテーブルクロスの上に山盛りで汚れた手も | |||
| それで拭くなど、習慣の違いは恐ろしいものです。 | |||
| 次の日は製品トラブルについての打ち合わせ、終始穏やかに話が進み大過なく終わ | |||
| りました。その後、工場見学したのですが、プリント版をかみそりで削って回路パタ | |||
| ーンを作っている光景には驚かされました。やはり人海戦術の国だ! | |||
| 次の日は、一日中名所巡 |
上海街並 |
上海路地 |
|
| りの接待を受け、結局、何 | |||
| をしに行ったのか分からな | |||
| い出張になりました。 | |||
| 旅行中特に気になったの | |||
| はホテル・空港待合のテレ | |||
| ビに流れる映像の全てが旧 | |||
| 日本軍と戦う女性戦士の英 | |||
観光した天道寺全景 |
天道寺の道元修行碑 |
雄物語ばかりで、聞くと昔 | |
| からの人気番組とのこと。 | |||
| 今の中国の若い指導者もこ | |||
| のような英雄物語ばかり見 | |||
| て育った人達で、敵は常に | |||
| 日本。現状の対日政策にも | |||
| 多少なりとも影響を与えて | |||
| いるような気がします。 | |||
| 帰り際に、先方の総経理から書を頂き、帰ってから表 |
我が家の掛け軸と扇子 |
||
| 装し掛け軸にしたのですが、我が家の掛け軸はそれ以来 | |||
| この掛け軸がかかっており、それを見るたびに当時の驚 | |||
| きの連続がよみがえってきます。 | |||
| 最近のテレビで見る上海の映像は当時からは想像もで | |||
| きず、こんなに短期間の激変に中国の人の頭の中は、ま | |||
| ともについていけてるだろうかと妙に心配になることが | |||
| あります。 | |||
| 2010.11. 5 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−11(江戸の行事) | ![]() |
| 古典落語をより楽しむために-11(江戸の行事) | 佐野市 須貝 義弘 | |
| 「江戸の七月」文月(ふみづき)の行事 | |||
| 煤払(すすはら)い、虫干し、風入れ、 | |||
| 二日から十三日頃までの、晴れた日を選び、家中の煤払いをしたり、衣類、書類、 | |||
| その他の虫干しをする。 特に衣類を干すことは、女にとって多忙ながら、楽しみの | |||
| 一つであり、着物の多いのを、ひそかに自慢したとある。 | |||
| 「風入れは」、鎌倉幕府の役人が、蔵の中の物を出して干すことを云った。 | |||
| 七夕(たなばた)七日 | |||
| 上は諸侯から、町人や吉原の遊女までが祝ったそうな。六日の早朝より手習い師の | |||
| 指導で、字が上達するように、和歌、詩、その他、年に相応した物を書いた色紙、短 | |||
| 冊、色紙の吹き流し、ほうずき、紙で作った模型の筆、硯、算盤などを竹に結び付け | |||
| て七夕を祭る。 | |||
| 本来、七夕は水を祭る行事の一つなので夕方になると、 |
七夕祭り |
||
| 竹を川に流したのである。(現在では無理)。また大名、 | |||
| 旗本の屋敷をはじめ、長屋に至るまで、七夕の日に井戸 | |||
| 替えをした。 | |||
| 「妾馬(めかうま)」と云う噺に、井戸替えが出てくる | |||
| が、最近では「井戸替え」のシーンをとばす落語屋が多 | |||
| いようだ。 | |||
| (注)過日(平成二十二年四月下席、末広亭で「人形 | |||
| 買い」をみたが、人形を買うところで、落としてしまい、後半の、小僧に人形を背負 | |||
| (しょ)やせてからの・・・略していた) | |||
| 井戸汲(いどくみ)(井戸替[いどかえ]) | |||
| 二斗桶(36リットル)に長い太縄を縛りつけ長屋総出で、縄を引いて水を汲み上げ | |||
| る。底近くなると井戸職が中へ入って、沈殿物や、落し物をあげ周囲を洗って終わり | |||
| とする。作業が終わると、滓(おり)や落ち込む虫類を食べさせるために、鮒を1〜2 | |||
| 匹入れて、最後に井戸神様へ、塩と酒を供えてからささやかな宴を張る。 | |||
| 四万六千日 | |||
| 俗に千日詣りという。「船徳」と云う噺に出てくるが、七月十日(九日の夜から) | |||
浅草寺山門(ほおずき市) |
を俗に四万六千日といい、土地(浅草観音付近)の者は | ||
| 略して単に六千日様ともいった。この日にお詣(まい)り | |||
| すれば四万六千日参詣したと同じご利益を戴けると信じ | |||
| て、信者や遊山客が浅草寺に殺到したので、当日は船宿、 | |||
| 駕籠屋はもちろん、両国から浅草へかけての商店、飲食 | |||
| 店は大繁昌であった。 特に浅草境内でには青(ほお)鬼 | |||
| (ず)燈(き)の店、唐もろこし屋台が立ち並び寺では雷除 | |||
| けのお守りを頒布した。この行事は現在でも行われてお | |||
| り、青鬼燈(ほおずき)市と呼ばれて親しまれている。 | |||
| 盆、略秋の七草 | |||
| 暇のある連中は十五日前後が向島の百花園、その他へ秋の七草の鑑賞に出かけた。 | |||
| 七草は、萩(はぎ)、薄(おばな)、葛(くず)、撫(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、 | |||
| 藤(ふじ)袴(ばかま)、朝顔(あさがお)であることはご周知のとおりである | |||
| 宿下がり | |||
| 十六日の藪入りは正月場合と同じであるが、正月の時より昼間の時間が長いので、 | |||
| それだけ余計に遊べた。「藪入り」と云う噺がありますが、「宿入り」が転訛したも | |||
| のと一説にあり、奉公先から一日又は数日暇をもらって実家に帰ることであるが、 | |||
| 盆と正月の場合に限り、「藪入り」といった。但し、公家奉公の連中は「宿下がり」 | |||
| と云った。 | |||
| 「江戸の八月」月見の行事 | |||
| 八月一日(八朔) | |||
| 江戸城中では、徳川家が天正十年八月一日に江戸に入国したところから、公式の祝 | |||
| 日と決め、諸大名、大旗本は、残らず登城してお祝いを言上した。一方、この前後が | |||
| 二百十日に当たるため、その年の米のでき具合が分かり、浅草御蔵(おくら)で、当年 | |||
| の米の価格が決まり、同所とお城の控所に張り紙が出たとある。 | |||
| 十五夜 | |||
| 十五日(旧暦では、いつも十五日が満月。昔は家々で、 |
お月見イラスト |
||
| 米を臼で挽いて、6〜7cm前後の団子を十五個と、小 | |||
| さいのをたくさん作り、芋、栗、柿、枝豆等と共に三宝 | |||
| に載せ、薄(すすき)・女郎花(おみなえし)・(その他を | |||
| 添えることあり)を供え、窓際、縁先へ飾って月見をし | |||
| た。私が子供(浜松で育った)の頃は、その家の人に見 | |||
| つからぬように団子を盗むと運が開くと云われ、あちこ | |||
| ちで団子釣りをする子供、中供がいたものである。 | |||
| 生活に余裕のある人の中には、隅田川に舟を浮かべて、月見をする者も沢山いたと | |||
| 云われる。また、前日より富ヶ岡八幡宮をはじめ、どこの八幡宮も祭礼で、たいへん | |||
| な賑わいであったそうである。 | |||
| 「江戸の九月」の行事 | |||
| 九月(長月) | |||
| 衣替え、重陽の節句、十三夜、神田明神祭礼、芝神明の祭り(飯倉神明)、根津権 | |||
| 現祭礼。 | |||
| 衣替え | |||
| 一日。本日より八日まで、袷(あわせ)小袖(こそで)(着物)を着る。 | |||
| 重陽の節句 | |||
| 五節句の最終。{正月七日(人目)三月三日(上巳)五月五日(端午)七月七日 | |||
| (七夕)九月九日(重陽)}当日より綿入れ小袖に着替える。各種の手習いの師匠の | |||
| 処へ、挨拶に行く。 | |||
| 十三夜 | |||
| 後(のち)の月見とも云う。団子の数は十三個である。十五夜に団子を作って祀った | |||
| 家は、十三夜の時にも再び作る習慣(ならわし)であり、十三夜を欠くときは、片見月 | |||
| といって嫌われた。もともと片見云々というのは、客を呼ぶ手段として、吉原から出 | |||
| た風習で(吉原が出てくると、ついつい余計なことまで書いてしまうが)、十五夜に | |||
| 登楼した客は、十三夜にも登楼すべきものとされたとか。 | |||
| 神田明神祭礼 | |||
神田明神例大祭 |
十五日。山王祭(六月十五日)、浅草三社祭(三月十 | ||
| 七日十八日)と並んで江戸三大祭りの一つで、天下祭で | |||
| ある。 | |||
| 六十ヶ町の氏子が金に糸目をつけず、互いに競って山 | |||
| 車、屋台など引き出す、神田ツ子の勇ましい祭礼である。 | |||
| 山王祭(六月十五日)と同様に、江戸中へ神輿や、山 | |||
| 車がひきこまれ、将軍も上覧した。 | |||
| 芝神明の祭 | |||
| 正しくは、飯倉神明と云うそうである。祭日は十六日であるが、十一日より二十一 | |||
| 日まで祭が続くため、俗にだらだら祭とも云った。 | |||
| 根津権現祭礼 | |||
| 二十一日。同社は俗に犬公方と呼ばれた五代将軍綱吉の産土(うぶす)神(な)であっ | |||
| た関係で、江戸の中期には山王祭礼に準じらたこともある。 | |||
| 後期には、門前を中心に私娼窟が並ぶようになったが、四宿と同様岡場所ながら、 | |||
| 格は吉原に劣っても、遊女屋そっくりで、もちろん、遊客は根津の女郎屋と呼んだ。 | |||
| 客は遊興費の安かった関係もあったのか、職人、特に大工が多かったと云われる(ど | |||
| うも、岡場所が絡むと、つい深入りしていまいます) | |||
| こんな話もあります。 | |||
| ここは、明治二十年代の初期、当時の帝国大学(後の東大)がすぐ近くのため、学 | |||
| 生が盛んに遊び、落第する者が続出したので、文部省から移転を命じられて、州崎へ | |||
| 引っ越したのである。 | |||
| 「江戸の十月」の行事 | |||
| 十月(神無月) | |||
| 炉開き、お十(じゅう)夜(や)、お会式(えしき)、恵比寿講(えびすこう)、紅葉 | |||
| 炉開き | |||
| 一日。茶人は茶席の炉開きの茶会を催し、町家は、炬燵を使い始める | |||
| お十夜 | |||
| 六日〜十五日。十日十夜の間、浄土宗の寺院では、法要修業が行われ、特に増上寺 | |||
| は将軍家の御祈願所、檀那寺であった関係で盛大に行われたという。 | |||
| お会式 | |||
| 十三日。日蓮宗の寺院では、この日が宗祖日蓮上人の |
お会式 |
||
| 命日にあたるので、盛大な法会を催す。東京計器本社の | |||
| 近くで皆様ご存知の、池上本門寺でも、講中の団扇太鼓 | |||
| と、お題目が響き渡る日。 | |||
| 恵比寿講 | |||
| 1度は行ったこともある方がおられると思いますが、商家、特に大店では二十日に、 | |||
| 商売繁昌を願って、恵比須(寿)様を祭り、誓(せい)文(もん)払といって安売大売り | |||
| 出しをする店もあった。所によって、正月十日、二十日、十一月二十日にも行う店も | |||
| あった。 | |||
| 紅葉 | |||
| 名所は、江戸の各地にあったが、桜の名所と異なり、見物するのは、文士、僧侶、 | |||
| 隠居などが多かった。谷中天王寺、滝野川、根津権現、鮫州の海晏寺(かいあんじ)、 | |||
| 目黒滝泉寺、などが有名であった。吉原近くの正燈寺も名所とされていたが、ここは | |||
| 若い連中や、中年の亭主どもが吉原へ行く名目に使われたと見えて、それらを読んだ | |||
| 川柳などが沢山残されているそうな。噺の中にも使われていると思われる。 | |||
| 参考文献 | |||
| 「歴史読本」「しきたり」「礼法の基礎知識」新人物往来社一九九三年発行 | |||
| 「古典落語」飯島友治編 樺}摩書房昭和四十三年発行 | |||
| 新撰「古語辞典」中田祝夫編 小学館 昭和三十三年発行 | |||
| 2010.10.27 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その11) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その11) | 横浜市 小田 茂 | |
| 4.JR関内駅周辺・日本大通り方面(その2) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| JR根岸線「関内駅」南口を出発点として、「日本大通り」を中心に港の方向へ向 | |||
| かって日本大通り方面2回目のご紹介となります。 | |||
| (47)「玉楠の木」(タマクス) | |||
| 関内駅から横浜公園を通って、10数分歩くと神奈川県庁本庁舎があり、その正面脇 | |||
| に「横浜開港資料館」があります。地下鉄みなとみらい線「日本大通り」駅から徒歩 | |||
| 2分です。ここの中庭に“横浜の歴史に生き証人”といわれている「玉楠の木」が植 | |||
玉楠の木 |
説明パネル |
えられております。 | |
| 説明文を紹介しますと | |||
| 『中庭の玉楠の木は、江 | |||
| 戸時代からこの地にあり、 | |||
| 日米和親条約は、安政元年 | |||
| (1854年)この木の近くに | |||
| 設けられた応接所で結ばれ | |||
| ました。 | |||
| 大正12年(1923年)の関東大震災により、木の幹は焼 |
「ペリー総督横浜上陸」の図 |
||
| 失しましたが、生き残った根から芽が出て、いまや中庭 | |||
| いっぱになる枝を広げる大木となりました。 | |||
| 横浜の歴史の生き証人ともいえる玉楠の木は、昭和63 | |||
| 年(1988年)横浜市地域史跡に指定されました。 | |||
| 碑上面の「ペリー総督横浜上陸」の図は、アメリカ日 | |||
| 本遠征艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画(当館 | |||
| 所蔵)を陶版の上に複製したものです。右手の大木が玉 | |||
| 楠の木の元の姿といわれています。』と書かれております。 | |||
| また、この玉楠の木は、かっての横浜村の漁師たちが寄港の目印にしていたともい | |||
| われています。 | |||
「たねまる」君 |
横浜にとっては開港のシンボルであり、昨年の開港 | ||
| 150周年マスコットキャラクター「たねまる」君も“玉楠 | |||
| の木の精”との設定だそうです。上半身は芽を出した種 | |||
| 子、下半身は船をモチーフにしており、横浜のタネが世 | |||
| 界に向け出航するイメージを表わしています。 | |||
| また、この近くに製菓「ありあけ」の店舗があります。 | |||
| 「ありあけ」の前身は、横浜の生まれの老舗「有明製菓」 | |||
| 平成11年(1999年)倒産、平成13年(2001年)に元従業 | |||
| 員が中心となり銘菓「ハーバー」を復活させた。 その時、横浜市民に生きる勇気を | |||
| 与えてくれた玉楠の木にあやかり、頑張りを続けたいとの思いで「モニュメント」を | |||
| 作ったそうです。 | |||
玉楠のモニュメント |
説明パネル |
横浜ハーバー |
|
| (48)「日米和親条約締結の地」 | |||
| 「横浜開港資料館」に隣接した「開港広場」には「日米和親条約締結の地」の碑が | |||
| 建てられおります。 | |||
| 嘉永7年(安政元年1854年)2月10日、ペリー提督は横浜に上陸しました。浦賀来 | |||
| 航の翌年のことです。 | |||
| ペリーは横浜応接所で日米和親条約締結のための会談を4回にわたって行い、漂流 | |||
| 民の救助・引き渡し、アメリカに物資(薪水・食料・石炭)を補給するための伊豆下 | |||
| 田・函館2港の開港、下田に総領事を置くことなどを取り決め、3月3日に日米和親 | |||
| 条約締結に至りました。 | |||
| 条約の正式名は「日本國米利堅合衆國和親條約」であり、幕末から明治にかけては | |||
| アメリカ合衆国を「メリケン」「米利堅」と呼んでいました。そういえば、子供の頃 | |||
| は港を「メリケン波止場」と呼んでいたのを思い出しました。 | |||
案内板 |
「日米和親条約締結の地」の碑 |
説明パネル |
|
| 記念碑の説明文は | |||
| 『〜日米和親条約締結の地〜 安政元年(1854年)2月から3月にかけて、日米 | |||
| 代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。これは、神奈川条約ともいわれ、 | |||
| 日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。歴史的舞台となった応接所の | |||
| あとは、現在の神奈川県庁の付近である。』と書かれています。 | |||
| (49)横浜天主堂跡(開国後最初のカトリック教会) | |||
| みなとみらい線「元町・中華街」駅の中華街出口で、本町通りに建ってます。 | |||
天主堂記念碑 |
天主堂パネル |
説明パネル |
|
| 説明パネルの内容を紹介しますと、 | |||
| 『横浜市地域史跡 横浜天主堂跡 (登録 平成13年11月1日) | |||
| 文久元年12月(1862年1月)、横浜居留地(現山下町80番地)において開国後最初 | |||
| のカトリック教会の聖堂の献堂式が行われました。 | |||
| 正式名称を「EGLISE DU SACRE-COEUR」(聖心聖堂)といいま | |||
| すが、建物に「天主堂」と記した文字がありましたので天主堂とも呼ばれました。 | |||
| パリ外国宣教会から日本管区長代理として指名され、フランス代理公使の通訳とし | |||
| て来日したジラ−ル(Girard)神父が、万延元年(1860年)6月頃、横浜居 | |||
| 留地80番地に聖堂建設用地の借地権を取得しました。 | |||
| まず司祭館の建設を進め12月に完成しました。11月に来浜したムニク(Mouni | |||
| cou)神父がここに住んで聖堂建設に従事し、翌年1月にはジラ−ル神父も来浜 | |||
| し、聖堂は文久元年(1861年)末に完成しました。 | |||
| その後、明治39年(1906年)、聖堂は、山手44番(現山手町44番地)に移転しまし | |||
| た。震災後再建されたのが、現在のカトリック山手教会です。 | |||
| 昭和37年(1962年)、天主堂創建100年記念して碑が建てられました。 | |||
| 平成15年8月 横浜市教育委員会』 | |||
| (50)「日本洋裁業発祥顕彰碑」 | |||
| 前項と同じ本町通りに近 |
日本洋裁業発祥顕彰碑 |
説明パネル |
|
| い旧ホテルサンポート脇に | |||
| 建てられております。 | |||
| 碑文を紹介しますと、 | |||
| 『「日本洋裁業発祥 | |||
| 顕彰碑建立」碑文 | |||
| 1863年(文久3年)ミセ | |||
| ス・ビアソンが横浜居留 | |||
| 地97番にドレス・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりである その頃か | |||
| ら在留西洋婦人は自家裁縫のため日本人足袋職人・和服仕立職人を人仕事として雇 | |||
| いこれにより婦人洋服仕立職人が育った以来130有余年、先人達の偉業を称え、その | |||
| 精霊をモニュメントに表徴して永く後世に伝えるべく、洋裁業発祥の地たる横浜に、 | |||
| 日本洋裁業発祥顕彰碑を建立する。 1995年 平成7年11月24日 』 | |||
| (51)タンカー「麻里布丸」錨 | |||
タンカー「麻里布丸」錨 |
説明パネル |
同じ本町通りの店先に置 | |
| かれています。 | |||
| タンカー「麻里布丸」の | |||
| 錨ですが、舶用関係の方で | |||
| ご存知の方がおられるかも | |||
| 知れませんね! | |||
| 説明文によりますと、 | |||
| 『このイカリは、かって | |||
| 東京タンカー所属の麻里布丸(載荷重量50,423トン)で使用され、三菱重工横浜造船 | |||
| 所より寄贈を受けたイカリで、総重量が10.5トン、錨柄の長さが3.4mあります。 | |||
| 麻里布丸は中東等の産油国から原油を運び続け、外航200航海を達成した後、昭和 | |||
| 54年に解体されて本牧ふ頭の護岸建設に利用された横浜港にゆかりの深い船です。 | |||
| また、このイカリの周囲柵は、戦前太平洋航路が華やかだった頃、船客送迎の中心 | |||
| であった新港ふ頭4号上屋が、昭和54年に解体された時に、船客待合所二階ホールの | |||
| 手摺の一部を移設したものです。』 | |||
| 2010.10.24 | 廣川 | アメリカの地方の町 | ![]() |
| アメリカの地方の町 | 鎌倉市 廣川 洋一 | |
| (愉快で活気のある不思議な地方の人達) | ||
| 最近は何かと厳しい局面が目立つアメリカですが、政治から離れた山深い地方に行 | |||
| くと別世界のように平穏で、愉快な人達がのどかに暮らしている様です。不思議な縁 | |||
| で知り合うことが出来た人達との、今も続いている付き合いを通して知った経験を、 | |||
| お話ししたいと思います。 | |||
| 話の発端は、今から20年以上も前にお土産に貰ったウイスキー・ジャックダニエル | |||
| に付属していたオールドポスターの応募葉書でした。ジャックダニエルは日本のファ | |||
| ンにも大変好評である旨を書き添えたところ「あなた方夫妻をテネシー州郷士会 | |||
| (Tennessee Squire)のメンバーにする。ついてはテネシーに土地を所有していなけれ | |||
| ば資格が得られないので、ウイスキー蒸留所付近の土地を1プロット差し上げる」と | |||
| 書類一式、会員証、土地の写真が送られてきました。さて、これからがいろいろと楽 | |||
| しく、また大変な出来事の連続となりました。 | |||
| カントリーミュージックのお好きな方はよくご存知の |
送ってきた会員証 |
||
| ナッシュビルから75マイル程はなれた所にリンチバーグ | |||
| (Lynchburg)という人口がたった361人の小さな町があり | |||
| ます。もちろんぜひ行ってみたいと思っているのですが、 | |||
| 私はまだ訪れていません。 | |||
| リンチバーグは故ジャックダニエル氏が造ったテネシー | |||
| ウイスキーの工場で成り立っている町です。町の人達は、 | |||
| 何でも売っている一軒の雑貨屋と、一軒の軽食バーを中 | |||
| 心に、日々の静かな暮らしを営んでいるらしく、私たち夫婦を遠い隣人として、町の | |||
| 行事の仲間に入れてくれ、お祭りや農作業の知らせなどを丁寧に写真や手紙で知らせ | |||
| てくれるようになりました。 | |||
| これまでの20年を越えるお付き合いを通して、西部劇に出てくるようなアーリーア | |||
| メリカンの精神が伝わって来た出来事について、いくつかご紹介させて頂きたいと思 | |||
| います。 とにかくアメリカの多様性というか、普段私たちが見聞きしているアメリ | |||
| カのイメージとは全く違った事ばかりでした。 | |||
| いきなりアメリカの地主にしてあげると言われて、最初に心配したのは税金等の義 | |||
| 務条項でした。それに訴訟社会ですから管理責任をいかなる形で問われることになる | |||
| かもしれません。これらについては、州の郷士会が全て面倒をみるからすべてノーオ | |||
| ブリゲーションでよいと言う、のんびりした規約があり助かりました。 | |||
| さてもらった土地1プロットとは、いかなる広さなのか分かりません。送られてき | |||
| た写真を見ると、ただ何もない山の中の光景でした。しかし、やがて、住民の方達と | |||
| の文通によって、この土地がずいぶん広いことが分かってきました。 | |||
| あなたの敷地の中の池は多くのブラックバスがいるので釣りをさせて欲しいとか、 | |||
| 餌の虫を捕らせて欲しいとか、いろいろの人達からの手紙で、1プロットの中には池 | |||
| があることが分かりました。また、国道に出るのに近いので毎日通らせて下さいとい | |||
| う要望もありました。これらに一つ一つお答えしていく内に、1プロットの土地の概要 | |||
| が分かってきました。 | |||
| この土地の広さを一段とはっきり予想できたのは、隣の土地に牧場を持っている隣 | |||
| 人からの手紙でした。この人が飼っている黒牛の中に、部分的に白い毛が混じった子 | |||
| 牛が生まれましたが、あなたの土地に白黒の牛を見かける時があり、放牧されている | |||
| のでしょうか、という問い合わせでした。とんでもない、私は牛など飼っていません。 | |||
| もし捕まえたら差し上げますと伝えましたが、山中の土地とは言え放牧された牛の姿 | |||
| が見え隠れする様な土地の広さに驚きました。 | |||
| 季節毎に家畜やペットの予防注射の知らせや、町の催し物への参加のお知らせがあ | |||
| り、農産地方の町特有の雰囲気が伝わって来ました。そして、まだ行ったことがない | |||
| リンチバーグという小さな町に、親近感を持つようになりました。 | |||
| それでも、山の中の平穏で小さな町は、やっぱりアメリカの社会なんだな、と感じ | |||
| させられることも数多くありました。それは交流する人達の多くが、何か一緒に事業 | |||
| をやってお金儲けをしませんか、というお誘いのニュアンスが含まれた手紙をくれる | |||
| ことでした。 | |||
| ほとんどが農家やウイスキー工場に勤めている人達ですが、何かを加工して売りた | |||
| いとか、土地を活用したいと言う起業家精神を常に持っていることに驚きました。 | |||
| どうも半分ジョークとしか考えられないアイディアもあって、理屈をこねて丁重に | |||
| お断り致しましたが、中には何度も熱心にメリットを説明してくる人もありました。 | |||
| 機会さえあれば、たくましく起業して儲けようとするエネルギーは、農家の主婦か | |||
| ら公務員まで、老若男女区別無く持っていることがわかり、全く圧倒されてしまいま | |||
| した。 | |||
| 最近のリンチバーグは、ウイスキーの里として観光業としての活路を見いだしたよ | |||
| うで、起業の話題は少なくなりました。州都ナッシュビルからシャトルバスが開設さ | |||
| れ、訪れる人も多くなったそうです。 | |||
| 町の様子をいろいろと伝えてくれる親切な人達に、何とかしていつか一度会いに行 | |||
| きたいと考えています。 | |||
| 2010.10.01 記 | |||