話 題 『 よもやま話 』 | 2010年8月〜2010年10月 |
話 題 一 覧 |
2010.10.16 | 2年かかりの『ルリタテハ』飼育記 投稿:清水有道 |
2010.10. 8 | 富士山を雑学散歩する(3) 投稿:砂田定夫 |
2010. 9.19 | 『クロアゲハ』の塩水吸水の決定的瞬間を撮る 投稿;清水有道 |
2010. 9.12 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その10) 投稿;小田 茂 |
2010. 9. 5 | 富士山を雑学散歩する(2) 投稿:砂田定夫 |
2010. 8.15 | 支笏湖畔紋別岳ハイキング 投稿;清水有道 |
2010. 8. 8 | 富士山を雑学散歩する(1) 投稿:砂田定夫 |
2010. 8. 1 | 古典落語をより楽しむために−10 (文月の行事) 投稿;須貝義弘 |
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話 題 『 よもやま話 』 |
2010.10.16 | 清水 | 2年かかりの『ルリタテハ』飼育記 |
2年かかりの『ルリタテハ』飼育記 | 横浜市 清水 有道 |
『ルリタテハ』はタテハチョウ科の蝶で、英国では『ブルー・アドミラル(Blue | |||
Admiral)』と呼ばれている。学名は“Kaniska canace”、漢字では『瑠璃立羽』と | |||
書かれる。 | |||
日本でも全国の山間部に幅広く見られる『アカタテハ』が欧州でも広く分布してお | |||
り、子供たちの間では『アドミラル』と呼ばれて、昆虫採集の恰好の獲物として垂涎 | |||
の的となっている。赤色のアドミラルが余りにも普遍的な種であるために、瑠璃色の | |||
ルリタテハにはアドミラルにブルーが冠せられて、ブルー・アドミラルという固有名 | |||
詞で呼ばれるようになったのであろう。 | |||
一昨年(2008年)に横浜市港北区日吉地区の我が家の庭にも温暖化現象のためかナ | |||
ガサキアゲハ等の南方系の蝶が訪れることを書き、その際に野草の『ホトトギス』に | |||
ルリタテハの幼虫毛虫がたくさん見付かり、花を見る前に無残に食い尽くされてしま | |||
ったことも書き添えたように記憶している。昨年(2009年)も同じホトトギスの群落 | |||
に6匹の毛虫を見付け、4匹を飼育して綺麗な標本4頭を手にすることが出来た。 | |||
ホトトギスの葉の裏にぶるさがっているルリタテハの蛹 |
最初の1頭{蝶や蛾を数える単位は匹ではなく、頭(ト | ||
ウ)が正式}は9月17日に、更に18日にもう1頭が蛹化 | |||
(ヨウカ)した。葉脈だけ残ったホトトギスの花の下に | |||
逆さ釣りにぶら下がった蛹(サナギ)の様は異様である | |||
(筆者の拙いデッサン図を参照下さい)。2日遅れて20 | |||
日に残る2頭が蛹化し、それぞれ4日後に羽化した。直 | |||
ぐに標本にするため展翅板(テンシバン)に固定した。 | |||
お蔭で4頭とも完全な標本として収納することが出来た。 | |||
勿論、成虫の蝶も今までに幾度も自分の網にしているけれども、敏捷に飛ぶ蝶だけに | |||
採集した蝶の鱗翅(リンシ)の完璧な美麗標本は意外に少ないので標本箱に彩を添え | |||
たことは言うまでもない。 | |||
今年は庭のホトトギスの株が増えたのと関係があるのかは定かではないが、30匹は | |||
下らないと思われるくらい、たくさんの毛虫が見られた。しかし、しっかり蛹になれ | |||
たものは、僅かに6頭であった。 | |||
蛹化が始まったところを蟻の集団に襲われたり、毛虫 |
羽化したルリタテハとその蛹の殻標本 |
||
のときや蛹化する際、静止して変態し、ホトトギスの茎 | |||
に逆さにぶら下がるときに、イモリやトカゲに食われて | |||
しまうものが多く、やっと9月1日、6日にそれぞれ1 | |||
頭、9月7日に3頭、12日に1頭の計6頭が蛹になれた。 | |||
しかし、この6頭の内、羽化できたものはたったの2頭 | |||
で、9月1日と12日に蛹化したものだけだった。通常蛹 | |||
化してから1週間か遅くとも10日以内には羽化するのだ | |||
が、9月6日に蛹化した1頭、9月7日に蛹化した3頭については、待てど暮らせど | |||
羽化する様子が見られない。そこでよく蛹を調べてみると、毛虫のときに寄生蜂に卵 | |||
を産み付けられていたのであろうか、蛹になってからこの寄生蜂が幼虫になり、蛹 | |||
(サナギ)の中身を食い尽くしてしまい、蛹に大きな穴を開けて飛び出して行った後 | |||
昨年(2009年)に羽化したものを標本にした。 |
だったのである。蛹はすっかり軽い、もぬけの殻になっ | ||
ているではないか。完全に騙された思いで、虚しい世話 | |||
を悔いたことだった。毛虫のときにも、蛹に変態すると | |||
きにも、いろいろ天敵があり、すんなり羽化できる蝶や | |||
蛾は卵の数や毛虫の数に比べたらほんの少ししかない。 | |||
結局のところ、昨年以上の毛虫の数にも拘らず、無事羽 | |||
化できて、筆者が標本に作ることが出来た個体はたった | |||
の2頭だった。労多くして実り少ない試みであった。 | |||
余談になるが、我が家では環境汚染を心配して農薬や殺虫剤を控えているためか、 | |||
庭には鱗翅目(リンシモク)(蝶や蛾)の幼虫の発生がよく見られる。数の多いもの | |||
を挙げれば、山茶花にはチャドクガ、竹にタケドクガ、もみじにヤママユガ科のオオ | |||
ミズアオ、グレープフルーツの木には何種類ものアゲハチョウ、クチナシにはスズメ | |||
ガ科のオオスカシバの幼虫が毎年見られる。ドクガには今年も腕の皮膚をいやっとい | |||
うほど刺されて、皮膚科の世話になった。学生の頃には、毎日のように触れていたせ | |||
いか、ドクガの仲間にはどの蛾に対しても免疫になっていたが、触れる機会の減って | |||
いるこの頃はもう神通力は無くなってしまったらしい。スミレで飼育したツマグロヒ | |||
ョウモンの幼虫は、今年は全部鳥に啄(ツイ)ばまれてしまった。来年はもう少し変 | |||
わった種類がお目見えしてくれるだろうか。 完 | |||
2010年9月30日 記 |
2010.10. 8 | 砂田 | 富士山を雑学散歩する(3) |
富士山を雑学散歩する(3) | 相模原市 砂田 定夫 |
1.富士山の祭神は美しき女神 | |||
近世まで山は悪魔の棲家とされてきたヨーロッパとは違って、日本では山は太古の | |||
昔から水を育み、豊穣をもたらす神の座す所として崇められてきた。山は神が降臨す | |||
る神聖な磐座(いわくら)であり、祖霊が集う霊地でもあった。 | |||
わが国では、もともと神仏混淆(こんこう)といって、 |
美しき女神の座す霊峰富士(思親山より) |
||
本地(本来の姿)を仏とし、その垂迹(すいじゃく)す | |||
なわち仮の姿を神とする、仏教と神道が一体の宗教だっ | |||
た。富士山は大日如来を本地とし、その垂迹神は浅間大 | |||
菩薩、浅間大明神とされ、寺社は神仏一体化していた。 | |||
明治以降は、後で述べる神仏分離令によって山梨県富士 | |||
吉田市の浅間神社、静岡県富士宮市の浅間大社、裾野市 | |||
の須山浅間神社などに統合され、いずれも浅間大神が富 | |||
士の祭神とされた。浅間は今では「センゲン」と発音するが、もともと「アサマ」で、 | |||
これも語源はマレー語など南方系言語の煙・灰・湯気などを「アサ・アサプ」といっ | |||
たことから、各地の火山や温泉周りにアサマ・アソ・アタミなどの地名が散在する理 | |||
由となっている、と解く説もある。脱線したので元に戻そう。大日如来の垂迹は普通 | |||
アマテラスオオミカミ(天照大神、天照大御神)とされるが、富士山の場合、浅間の | |||
神がコノハナ(ノ)サクヤヒメ(木花開耶姫命、木華咲耶姫命など表記は神社によっ | |||
てまちまち)と一体化して主神となった。秀麗な富士に相応しい美しき女神という観 | |||
念は、奈良時代からあったといわれるが、具体的にコノハナサクヤの名前が謂われる | |||
ようになったのは慶長年間のことらしい。コノハナサクヤは、山の神であるオオヤマ | |||
ツミ(ズミ)(大山津見神、大山祇神)を父神とし、高天原から神々を率いて高千穂 | |||
のクシフルタケに降臨した天孫ニニギ(邇邇芸命)に見初められて皇姫となった。 | |||
オオヤマツミはアマテラスの兄神であり、ニニギはアマテラスの孫神である。(天孫 | |||
降臨神話は九州に渡来したヤマト王権のルーツにつながる言い伝えではないだろうか) | |||
因みにコノハナサクヤの姉神はイワナガヒメ(磐長姫、岩長姫)で、吉田口五合目に | |||
ある小御嶽神社に祀られている。こちらは妹のコノハナサクヤとは対照的に容姿が劣 | |||
った女神とされている。こんな伝説もある。富士の神のコノハナと、八ヶ岳の神のイ | |||
ワナガが争って、コノハナが八ヶ岳を蹴飛ばしたため、山が裂けて今のような連峰の | |||
姿になったという。美しくも荒っぽい女神様の話である。 | |||
2.仏の受難−神仏分離令 | |||
1868(明治元)年、明治政府による神仏分離令が発せられ、それによって起った廃 | |||
仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動で全国の多くの仏像や文化的遺産が廃棄、破壊され | |||
た。日本の文化史上例を見ない天下の悪法だったといわれている。1874(明治7年) | |||
須山口登山道の起点となる須山浅間神社 |
年、仏教的地名が改称され、山名なども影響を受けた。 | ||
富士山の頂上には、かつて地蔵、観音、阿弥陀、弥勒、 | |||
薬師、文殊、普賢、大日など仏名があった。直径約800m | |||
の噴火口(内院という)を取りまく火口縁を一周するこ | |||
とを「御鉢巡り」というが、ピークが八峰あって、八葉 | |||
と呼ばれた。これは仏には欠かせない蓮華に見立てたも | |||
のである。富士山の絵を描くときに、誰もが山頂の部分 | |||
を三つか四つのギザギザで表すのは、この八峰の手前側 | |||
の幾つかが常に見えるからである。因みに、その八峰を最高峰の剣ヶ峰から時計回り | |||
に紹介すると(かっこ内は改称前の山名)、剣ヶ峰、白山岳(釈迦ヶ岳)、久須志岳 | |||
(薬師ヶ岳)、大日岳(朝日岳)、伊豆ヶ岳(阿弥陀岳)、成就ヶ岳(勢至ヶ岳)、 | |||
駒ヶ岳(浅間ヶ岳)、三島ヶ岳となり、仏名ではかろうじて大日岳のみが現用されて | |||
いる。 | |||
明治以降は、仏や寺が廃されて、富士浅間神社として神が祀られるようになった。 | |||
3.昔の富士登山は宗教者に限られていた | |||
前にも述べたように、役行者小角(えんのぎょうじゃ・おずぬ)は、680年ごろ富士 | |||
山へ登って修業したと伝えられる。大和葛城山で修行し、吉野大峯山を開き、後に神 | |||
変(じんべん)大菩薩として、山岳修験道の開祖と崇められている。讒言(ざんげん) | |||
されて伊豆大島へ流されたとき、夜間に空を飛んで富士へ登り、修業したという伝承 | |||
のあることも前に書いた。伝承を裏付けるかのように、富士周辺、伊豆、箱根などに | |||
は像があったり、関東一円の山に伝説が残されている。身近なところでは、丹沢表尾 | |||
根の行者岳に役行者の石像があり、八王子の高尾山にも神変大菩薩の堂として中に像 | |||
が祀られている。実在の人物だが、その能力や行動の伝承があまりにも超人的なので、 | |||
どこまで信じてよいのか分からないというのが正直なところである。昨年6月、大峯 | |||
奥駈道を歩いたとき、山上ヶ岳(ここは今でも女人禁制の山)の山頂にある大峯寺本 | |||
堂で、宿坊の管理人の特別な計らいで役行者像を拝顔させてもらった。大峯に10年間 | |||
籠って修業したと伝えられるその表情は非常に厳しかった。 | |||
平安後期になると、これも前に触れたが、末代上人が |
《お鉢めぐり》正面の山は白山岳 |
||
村山口から数百度にわたって富士登山を行い、富士上人 | |||
と呼ばれた。上人は十国峠に近い日金山(ひがねさん) | |||
東光寺に葬られているが、この東光寺への参道は、今で | |||
もハイキング道として熱海と湯河原からのコースがある。 | |||
富士山頂に大日堂を建てたことも既に書いたが、末代が | |||
自然崇拝の信仰から、仏教色の強い山岳宗教へ変えたと | |||
いわれ、13世紀には親鸞や日蓮も登ったと伝えられてい | |||
る。 | |||
富士信仰が庶民のものになるのは江戸時代だが、末代の時代から江戸時代中ごろま | |||
で、富士山に登るのは、修験の行者、山伏、僧侶、神官など宗教関係の人に限られて | |||
いた。戦国時代には、稀に北条早雲や武田信虎などの武将が戦勝祈願のため登拝した | |||
と伝えられる。 | |||
1600年ごろ、長谷川角行(かくぎょう)という行者が現われ、富士山に128回も登っ | |||
て修行し、次第にその名声が江戸市民に広がっていく。角行は「富士は根本神」「山 | |||
頂には浄土がある」と説いて、その教えは後々伝えられ、信者は増大の一途をたどっ | |||
た。 | |||
江戸後期になると、もう一人の行者が登場する。食行身禄(じきぎょうみろく)で | |||
ある。貧乏生活をおくり、「乞食身禄」と呼ばれた。時あたかも八代将軍吉宗の時代 | |||
で、享保改革が断行され、米価が高騰したり、打ちこわしが頻発したりして社会情勢 | |||
は不安定だった。身禄は幕府の政策に反抗して富士山の七合五勺で断食入定し、生き | |||
仏となった。平等思想を説いた身禄の教えは富士信仰を一層隆盛化させ、江戸の民衆 | |||
の間に浸透していった。 | |||
4.レクリエーション化していった庶民の富士信仰 | |||
「富士講」と呼ばれる団体がある。これは大山講とか御嶽講と同様で、富士山に参 | |||
詣する目的で結成された団体、互助会的な仕組みで、江戸八百八講、講中八万人とい | |||
われるほど沢山できた。富士登拝を総括する御師(おし)が神職と宿坊を兼ね、その | |||
下に講のまとめ役の大先達、講の行動を指揮する先達がいた。富士講は江戸市中の商 | |||
工業者が多く、やがてレクリエーション的な要素も加わって派手になったので、幕府 | |||
が禁止令を出したこともある。この拡大化した富士講に一大変化をもたらしたのは、 | |||
前述の明治新政府による神仏分離令や修験道廃止令であり、続いて起った廃仏毀釈 | |||
(はいぶつきしゃく)運動だった。あれほど栄えた富士講は、明治以降急速に衰退し | |||
ていった。 | |||
羽田神社にある富士塚《羽田富士》 |
ところで、江戸市中や周辺地域に富士山が幾つも存在 | ||
すると言ったら、「そんな馬鹿な!」と言われるかも知 | |||
れない。実は富士講に参加できない人や、女人の信仰心 | |||
を満たすため、富士山を模したミニチュア富士を人工的 | |||
に築いたのである。富士塚と呼ばれ、都内に100基近く築 | |||
かれた。現存するのは70基ほどである。驚くことに、関 | |||
東地区では1000基近くも築かれたという。いかに富士信 | |||
仰が普及したかを物語っている。因みに、大田区で残っ | |||
ているのは、羽田神社(大鳥居駅から徒歩15分、大師橋の袂)にある「羽田富士」で、 | |||
この塚は明治初年に築かれた。本殿の左奥、木立に囲まれた中にあるのだが、登山道 | |||
も設けられ、途中に「合目」を示す石柱も立っており、頂上には浅間神社の祠が祀ら | |||
れている。講名は「木花講」となっている。 |
2010. 9.19 | 清水 | 『クロアゲハ』の塩水吸水の決定的瞬間を撮る |
『クロアゲハ』の塩水吸水の決定的瞬間を撮る | 横浜市 清水 有道 |
『クロアゲハ』の塩水吸水の決定的瞬間を撮る | |||
動物がよくミネラルを摂取するため、土壌や岩石をかじったり、嘗めたりする習性 | |||
を持って、かなりの距離を厭わず集団で移動して、その行為を定期的に繰り返してい | |||
ることは、動物学者の報告にも、テレビの報道でも紹介されているところである。 | |||
筆者も蝶を中心に昆虫の行動を観察し、記録に留めることを高校生のときから続け | |||
ている。この夏小学校一年生の孫娘の相手に彼女の両親と共に西伊豆の阿久須を訪ね | |||
た折、偶然に海岸の粗い砂浜で表題の『クロアゲハ』の海水を吸水する様を写真に収 | |||
めることが出来た。ときは2010年8月8日(日)の午後4時ごろのことだった。しき | |||
りに一頭のクロアゲハが海浜を左から右へ、右から左へとゆっくり飛翔し、時々砂地 | |||
に降りて吸水をするが、落ち着かずに直ぐに移動してしまう。暫く彼女のあとを追い | |||
つつ行動を観察していると、最終的には決まった場所に長く留まり、吸水し、人が近 | |||
付くと舞い上がって様子を見て、安全を確かめるとまた戻って来て、吸水活動を続け | |||
るといった具合だった。 | |||
口吻をまげて探っている |
すっかり安心しきって塩水を吸引している |
運良く、その何回目かの | |
戻りのときを捉えて、ここ | |||
に載せている写真を撮るこ | |||
とが出来た。カメラはデジ | |||
カメが世に現れた初期に市 | |||
場に出た“OLYMPUS CAMEDIA | |||
C-700 ULTRA ZOOM | |||
(10倍ズーム)” | |||
という名機であるが、残念ながらその後どんどん優れた製品がたくさん世に出て、こ | |||
の機種は廃盤となり、専用のカード(ID 64 MB)も入手できないことになってしまっ | |||
た。それもその筈、本機のCCD画素数はたったの211万であるから、現在の1千万を | |||
超える画素数が標準のカメラから見れば粒子が粗く、よい写真が得られる訳もなく、 | |||
カメラ屋の親父が言うように捨てるより他ないのかも知れない。しかし、10倍ズーム | |||
の機械にはあまりお目に掛かっていないので、昆虫の生態写真や高山植物、山野草の | |||
花を撮るにはまだ捨て難い未練が残っている。表題に決定的瞬間としたのには理由が | |||
ある。通常蝶の吸水は淡水系の河川敷や山間の渓谷の河原でよく見られるが、海岸の | |||
砂浜での吸水はあまり聞いたことも見たこともなかったからである。ここに2枚の写 | |||
真をお見せしていますが、左側の口吻を曲げて探っている場面では、まだしっかり吸 | |||
水の態勢に入っていないので、写真でも翅、特に前翅が少しぼけています。これは、 | |||
周囲を警戒して何時でも飛び立てる状態にあるからですが、このときには、翅は幾分 | |||
立てて、せわしく震わせています。これがどうでしょうか、右側の写真になると、す | |||
っかり安心して吸水の態勢に入っていますので、翅も心持ちリラックスして開き加減 | |||
ですし、震えが一切ないのがお分かりいただけるでしょう。 | |||
勿論蝶の中でもタテハチョウ科の国蝶『オオムラサキ』を初めとする多くの種が椚、 | |||
楢等の樹液を吸いに集まったり、動物の糞や死骸に集まって腐食養分を吸うので、同 | |||
好の士には逆にこれらの習性を利用して蜂蜜に味醂や黒砂糖を加えた溶液を樹木に塗 | |||
布したり、缶詰の缶を地表に埋めて肉の腐食したものを中に入れ、引き寄せられて集 | |||
まる蝶を捕ることに使ったりしている。少し尾篭な話になるが、蝶の採集地のメッカ | |||
として有名な台湾南投県埔里付近の渓谷では人が小便をする場所が決めてあり、その | |||
小便の滲みた土にミネラルを求めて多種多様の蝶が集まってくる。台湾には蝶の採集 | |||
のガイドを専門にする案内人が何人もいるが、彼らも伝統的なそれらのあらゆる方法 | |||
を駆使し、踏襲して蝶を呼び集め、好事家の欲を満たさせて生計を立てている。 | |||
話を本題に戻そう。筆者が出会ったクロアゲハも吸水と言うよりは海水の滲みた砂 | |||
の水分に含まれるエキス、マグネシウムやナトリウム等のミネラルを吸収しているの | |||
であろうと推察できる。気温が上がると蝶は吸水をして体の中に水を循環させ肛門か | |||
らどんどん水を排出して体温を下げている。この場合は淡水に限られるようである。 | |||
筆者が台湾で聞いた専門家の話では、吸水に集まるのは決まって雄(♂)で、雌(♀) | |||
は絶対に混ざっていないとのことである。理由はまだ分っていない。まだまだ身近な | |||
ことで少し気を付けて観察すれば、分らないこと、不思議なことは幾つもある。とこ | |||
ろで今回見たクロアゲハは果たして雄だったのだろうか雌だったのだろうか。 | |||
了 | |||
旅先のクロアチア国ドゥブロヴニク市のホテルにて | |||
2010年8月15日記 |
2010. 9.12 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その10) |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その10) | 横浜市 小田 茂 |
4.JR関内駅周辺・日本大通り方面(その1) | |||
≪はじめに≫ | |||
今回はJR根岸線「関内駅」南口を出発点として、「日本大通り」を中心に港の方 | |||
向へ向かって2回に分けてご紹介いたします。 | |||
(43)横浜公園 | |||
横浜公園につきましては、「発祥の地を訪ねて」その3の<番外編>で少し触れま | |||
したが、「日本庭園」の改修工事も終り、公開されましたので重複しない程度にご紹 | |||
介いたします。関内駅南口から徒歩3分の所にあり、横浜市役所に隣接しております。 | |||
噴水と日本庭園 |
日本庭園@ |
日本庭園A |
|
明治9年(1876年)に開園され、横浜:山手公園に次ぐ、我が国二番目の西洋式公 | |||
園であり、外国人と日本人が共有の西洋式公園としては日本最初のものであります。 | |||
「横浜公園」の碑 |
碑は昭和4年(1929年)に建てられたものですが、下 | ||
記の内容から始まり、かなりの字数が刻まれています。 | |||
横濱公園 | |||
横濱公園は明治九年を以って創設せる我国最古の公園 | |||
なり初は神奈川縣の所管なりしか同四十二年に至り改造 | |||
に着手し漸く整美を得たり斯くを大正十二年九月大震災 | |||
の際本市の大半猛火に・・・・ | |||
とあり、大震災時に多くの人が公園に避難し助かった旨 | |||
も記されておりました。 | |||
もともとこの地は、幕末 |
「岩亀楼の灯籠」 |
説明板 |
|
の開港直後は港崎(みよざ | |||
き)遊郭があった場所で、 | |||
慶応2年(1866年)に起き | |||
た大火災のために遊郭は焼 | |||
失してしまい、復興に際し、 | |||
遊郭を関外に持っていき、 | |||
この地を公園としたそうで | |||
す。港崎(みよざき)遊郭の名残として、日本庭園部分にはかつての港崎遊郭にあっ | |||
た「岩亀楼の灯籠」が置かれています。ただ、亀の形をした置石は、永年の風雨にさ | |||
らされたためかなり風化していました。 | |||
春には20万本近い地元中区の区花「チューリップ」が公園全体に咲き誇り「チュー | |||
リップ祭り」が、賑やかに開催されます。 | |||
「チューリップ」1 |
「チューリップ」2 |
「チューリップ」3 |
|
開園時の公園内には、外人居留地運動場(野球場を兼ねたクリケット場など)も建 | |||
「横浜スタジアム」 |
設されました。それが現在の「横浜スタジアム」です。 | ||
昭和9年(1934年)には、ルー・ゲーリック等を筆頭 | |||
とする米大リーグのオールスターが来日し、ここで全日 | |||
本チームと対戦しました。戦後の米駐留軍に接収された | |||
時代は「ゲーリック球場」と改称し、その後「横浜公園 | |||
平和球場」(通称:平和球場)となり、昭和53年(1978 | |||
年)に老朽化した平和球場が取壊され、横浜ベイスター | |||
ズの本拠地「横浜スタジアム」が建設されました。 | |||
(44) 横浜ベイスターズ:優勝モニュメント「煌」 | |||
横浜市役所脇の尾上町通りを隔てて、「ベイスターズ通 |
ベイスターズ通り |
||
り」があり、東京電力のビル前に「横浜ベイスターズ: | |||
優勝モニュメント“煌”」があります。 | |||
平成10年(1998年)に日本シリーズで西武に4勝2敗 | |||
で勝ち38年ぶり2回目のリーグ優勝・日本一となった時 | |||
の「胴上げシーン」のレリーフと権藤監督以下栄光の選 | |||
手の「手形」が並んでいます。 | |||
「胴上げシーン」 |
説明板 |
全員の手形 |
権藤博監督 |
佐々木主浩選手 |
石井琢朗選手 |
三浦大輔選手 |
鈴木尚典選手 |
駒田徳広選手 |
|
初めての日本一は昭和35年(1960年)に前年西鉄の監督であった三原氏を招聘し、 | |||
それまで6年連続最下位の大洋ホエールズをリーグ優勝させ、日本シリーズで毎日大 | |||
映オリオンズに総て1点差の4連勝で日本一に輝きました。正に三原魔術師様様でし | |||
た。 | |||
思えば、私が入社して4年目、20代のはじめで、川崎球場へはよく足を運んだ半世 | |||
紀前の話です。 | |||
地元の横浜ベイスターズは、2年連続最下位で今年も期待を裏切らず?にガッチリ | |||
最下位を守っております!。後は“夢よもう一度”で連続最下位で翌年優勝の三原マ | |||
ジックの再現を祈るのみです。 | |||
「神奈川県電気発祥」の碑 |
|||
★ 「神奈川県電気発祥」の碑 | |||
同じ東京電力ビルの右角には、「神奈川県電気発祥」 | |||
の碑が建てられています。 | |||
(45)“ホテル”発祥の地 | |||
横浜公園から大桟橋通りを5分程度歩いたところにある横浜情報文化センターの裏 | |||
側の交差点反対側角に“洋菓子:かをり”があります。この“洋菓子:かをり”の場 | |||
所が“ホテル”発祥の地であります。 | |||
ホテル発祥の地説明板 |
「かをり」の店頭 |
「かをり」の全景 |
|
平成16年3月16日に建てられた碑の碑文によりますと、 | |||
『開国150年記念「ホテル発祥の地」』 | |||
ホテル発祥の地とは、『1860年(万延元年)、開港直後の2月、横浜のホテルの元 | |||
祖がこの地(居留地70番)で生誕した。 | |||
この「ヨコハマ・ホテル」は オランダ人が造ったもので、内部に食堂、ビリヤード | |||
室、酒場を設け、数年後には、フランス人のシェフのレストランや洋酒、洋菓子の売 | |||
店、ボーリング場も付設した。 | |||
宿泊者のハイネは、ここで美味な料理をとれると賞賛し、他にシーボールト・ワー | |||
グマン、クラーク等の著名文化人も多数、宿泊し滞在した。これらの人たちを通じて | |||
最新の外国文化の受入れ窓口として我が国の近代文化に果たした役割はまことに大き | |||
い。』と記されています。 | |||
なお、横浜ホテルは慶応2年(1866年)年末の港崎(みよざき)町一帯の大火災で | |||
焼失しましたが再建されませんでした。 | |||
(46)「岡倉天心生誕の地」碑 | |||
「岡倉天心生誕の地」碑は、横浜公園から5〜6分の本町通りの神奈川県庁に隣接 | |||
した横浜開港記念会館の建物の前に建てられています。この碑の右隣に「横浜町会所 | |||
跡」、左隣には「横浜商工会議所発祥地」の三つの碑が並んでおります。 | |||
岡倉天心は、この地で生 |
「岡倉天心生誕の地」碑 |
岡倉天心「ざんぎり頭」 |
|
糸を扱う石川屋の支配人を | |||
していた父の次男として、 | |||
文久2年(1862年)誕生し | |||
ました。 | |||
天心は明治期に活躍した | |||
美術家、美術史家、美術評 | |||
論家、美術教育者でありま | |||
して、東京美術学校(現:東京藝術大学)の設立に大きく貢献しました。日本美術院 | |||
の創設者としても知られております。 | |||
レリーフをアップしますと髪型が当時流行の「ざんぎり頭」なのが良く分ります。 | |||
「横浜町会所跡」碑 |
説明板 |
「横浜商工会議所発祥地」碑 |
|
≪番外編≫ “ 横 浜 三 塔 ” | |||
横浜三塔とは、「横浜市開港記念会館」(ジャックの塔)、神奈川県庁本庁舎(キ | |||
ングの塔)、横浜税関庁舎(クイーンの塔)の塔のことです。 | |||
偶然なのかしりませんが、横浜公園(JR関内駅方面)から歩いていくと建物の竣 | |||
工の早い順に港へ向かって建っております。また、塔の高さは低い順に並ぶ形になっ | |||
ています。 | |||
名前の由来は、建設された当時は、周りに大きな建物もなく、横浜港に入る船の目 | |||
標ともなり横浜港のシンボル的存在でありました。外国人船員達が、トランプのカー | |||
ドになぞらえて呼ぶようになったと言われております。 | |||
★ 「横浜市開港記念会館」(ジャックの塔)塔の高さ36m | |||
「横浜市開港記念会館」(ジャックの塔) |
説明板 |
「ジャックの塔」と呼ば | |
れ、赤いレンガと白い大理 | |||
石の時計台があるルネッサ | |||
ンス式の美しい建物です。 | |||
この建物は明治42年(19 | |||
09年)の横浜の開港50周年 | |||
を記念して、市民からの寄 | |||
付金を基に大正3年(1914 | |||
年)に着工し、大正6年(1917年)7月に竣工しました。 | |||
しかし、大正12年(1923年)の関東大震災では、外壁を残して屋根・内部を焼失し | |||
てしまいました。 | |||
ドームが完全に復元したのは、開港130周年、市制施行100周年に当たる平成元年 | |||
(1989年)でした。 | |||
★ 「 神奈川県庁本庁舎」(キングの塔)塔の高さ49m | |||
「キングの塔」と呼ばれ、昭和3年(1928年)に竣工 |
「 神奈川県庁本庁舎」(キングの塔) |
||
いたしました。関東大震災で焼失した庁舎の再建にあた | |||
り、公募で当選した設計をもとに、帝冠様式(西洋の鉄 | |||
筋コンクリート造りの現代建築に和風の屋根瓦をのせ和 | |||
洋折衷の建築様式)の重厚な建物、その風格は正に王様 | |||
です。 屋上部分は五重の塔をイメージし、バルコニー | |||
には西洋の城館によく用いられた「矢はざま」が設けら | |||
れております。 | |||
★ 「横浜税関庁舎」(クイーンの塔)塔の高さ51m | |||
「クイーンの塔」と呼ばれ、昭和9年(1934年)に竣 |
「横浜税関庁舎」(クイーンの塔) |
||
工いたしました。関東大震災で税関庁舎も倒壊しました。 | |||
震災後の財政困窮のためなかなか再建へ向かいません | |||
でしたが、時の大蔵大臣:高橋是清が「失業者救済のた | |||
め土木事業を起こすべき・・・」の後押しもあり、昭和 | |||
7年(1932年)22代税関長に就任した金子隆三は、三代 | |||
目にあたる庁舎の建設に着手しました。 | |||
逸話として、この当時、横浜の高層建築物といえば、 | |||
“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”でした。 | |||
新税関庁舎の塔の高さは当初の設計図では47mでした。これを見て、金子税関長は | |||
「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき・・・」と言及 | |||
し、当初計画より4m高く設計変更させ51mの税関庁舎が完成したとのことです。 | |||
高橋是清直筆の表札 |
横浜税関100周年記念碑 |
正面玄関の表札は、庁舎 | |
新築当時の大蔵大臣高橋是 | |||
清の直筆と伝えられていま | |||
す。また、1階には「横浜 | |||
税関資料展示室」があり、 | |||
ワシントン条約該当品、 | |||
偽ブランド品等が展示され | |||
ております。 | |||
★ 「横浜三塔物語」 | |||
この横浜三塔を地上から同時に見られる場所が、神奈川県庁の正面、赤レンガ倉庫、 | |||
大さん橋国際客船ターミナルの3ヶ所です。 |
歩道の「横浜三塔」 |
||
右の写真は、県庁正面の分庁舎前の歩道に埋め込まれ | |||
た三塔の方向を示したものですが、今の時期は神奈川県 | |||
の木である「いちょう」の葉が生い茂って 「ジャックの | |||
塔」は良く見えませんでした。 | |||
この3ヶ所で横浜三塔を眺めると、「願いが叶う」と | |||
の伝説があります。その由来としましては、 | |||
@「外国の船乗りが、横浜三塔に航海の安全を願掛けをした」。 | |||
A「三塔が震災などの試練を乗り越えてきたことから、カップルが困難を乗り越えて | |||
結ばれる」。との二通りが伝えられています。 | |||
ちなみに、毎年3月10日は語呂合わせで「三塔の日」として、いろいろなイベント | |||
が開催されております。 |
2010. 9. 5 | 砂田 | 富士山を雑学散歩する(2) |
富士山を雑学散歩する(2) | 相模原市 砂田 定夫 |
1.全国にある「おらがくにの富士山」 |
利尻富士(利尻山) |
||
富士山は古くから日本中に知られていたようで、全国 | |||
には富士山に似た山を○○富士又はそのまま富士山と呼 | |||
んでいる山が沢山ある。『日本山名辞典』(三省堂)に | |||
よれば、富士山名を冠する主要な山が218座あり、一説に | |||
よれば300座を超えるともいう。筆者が登った主要な山だ | |||
けでも、北から利尻富士(利尻山)、知床富士(羅臼岳) | |||
、斜里富士(斜里岳)、蝦夷富士(羊蹄山)、津軽富士 | |||
(岩木山)、南部富士(岩手山)、出羽富士(鳥海山)、会津富士(磐梯山)、日光 | |||
富士(男体山)、谷川富士(谷川岳)、榛名富士、越後富士(妙高山)、信濃富士 | |||
(有明山)、八丈富士、出雲富士(大山)、豊後富士(由布岳)、薩摩富士(開聞岳) | |||
薩摩富士(開聞岳) |
など思い浮かべることができる。近郊では、神奈川県内 | ||
に低いながらも半原富士(仏果山)、荻野富士(経ヶ岳) | |||
、三浦富士があり、秩父の武甲山は、石灰石の採掘によ | |||
ってすっかり姿を変えてしまったが、地元では秩父富士 | |||
と呼んで親しんできた。 | |||
これらの中でも北海道の羊蹄山が雪を冠った姿などは | |||
本物の富士山によく似ているが、中にはあまり似ている | |||
とは思えない山もある。それぞれが「おらがくにの富士 | |||
」という故郷意識の表れであり、富士の名を付して親しんだり、崇めたりした証拠で | |||
あろう。 |
2.外国にあるそっくりの山 | |||
世界に目を向けると、富士山によく似た山があちこちに見られる。アメリカのワシ | |||
ントン州にあるマウント・レーニア(4,392m)は、コーヒーの商品名でよく耳にする | |||
山名であるが、「タコマ富士」と呼ばれている。これはタコマ市の日系人たちが祖国 | |||
の富士山を想ってそのように呼んだもので、確かにシアトル市から眺めた姿などは雪 | |||
を戴いた富士山を彷彿させる山容である。2001年7月、筆者はこの山に登ったが、同 | |||
じカスケード山系の周辺の山々が3千m級の高さなので断トツに高く、氷雪の本格的 | |||
な登山を目指すアメリカの若者たちが登りに来ていた。頂上部は富士山の噴火口のよ | |||
うな荒々しさはなく、スケールの大きい平坦なクレーターが広がっていた。アフリカ | |||
の最高峰でタンザニアとケニアの国境にあるキリマンジャロ(5,895m)もコーヒーの | |||
名で知られた名山だが、2000年1月に登ったことがある。最後の登山道の様子などは | |||
富士山に似ていたが、頂上部は全く巨大な地形になっており、氷河なども存在した。 | |||
遠くから眺めた山容は、どちらかといえば木曾御嶽に似ていた。 | |||
世界には他にも富士山に似ている山があり、「ニュー |
コトパクシ(南米エクアドル) |
||
ジーランド富士」と呼ばれるマウント・エグモント | |||
(2,518m)、「イラン富士」と呼ばれるダマバンド | |||
(5,670m)はじめ、ノアの箱舟で知られるトルコのアラ | |||
ラット(5,165m)、カムチャッカ半島のクリチェフスカ | |||
ヤ(4,750m)、南米にあるコトパクシ(5,897m)、リカ | |||
ンカブール(5,921m)、オルソノ(2,660m)など、い | |||
ずれも富士山そっくりである。 |
3.なぜ「フジサン」と呼ばれるか? | |||
世界に冠たる美しいコニーデ型の山、日本一の山を誰もが富士山=フジサンと呼ぶ。 | |||
一体なぜ「フジサン」なのか。この問題を詮索するとこれまた厄介で、この山名の由 | |||
来を論述するだけで一大論文ができてしまうほどである。 | |||
主な語源説のうち一つはアイヌ語説で、火の山をアイヌ語では「フンチヌプリ」と | |||
いい、このフンチ(フチともいう)がフジになったという説、また噴火を「プシ」と | |||
いうのでそこからフジになったという説もある。もう一つはマレー語説で、「素晴ら | |||
しい」を「プシ」又は「白い(雪)」を「フシ」ということからフジになったという | |||
説である。アイヌ語説はひと頃勢いがあったが、古代のアイヌ人が関東以西にいたと | |||
いう根拠も薄いし、アイヌ語研究で有名な金田一京助博士もアイヌ語説には否定的だ | |||
った。 | |||
最近では素直に、日本人が呼んだ地名「富士」から名付けられたという説が唱えら | |||
れている。裾野を長く引く様を藤の花にたとえたのでは、ということから「フジ」の | |||
地名となり、それが「フジの大山」の語源となったのではないかというのである。案 | |||
外「二つとない」から「不二」になったとも考えられなくはない。 | |||
ややこしい山名由来論はこのくらいにして、文字の上で「富士山」が登場するのは | |||
平安初期の漢文学者、都良香(みやこのよしか)が書いた『富士山記』が最初とされ | |||
る。もっと古く713(和銅6)年に出された『常陸風土記』にも書かれているが、そこ | |||
では「福慈岳」となっている。序にフジを表わす文字は、他に不尽、不二、布自、布 | |||
士、不時、富岻、藤、不死などと表わし、別称の富嶽、芙蓉ノ峰などを含めると相当 | |||
数あり、日本山岳会創立に貢献した一人、高頭 式(たかとう しょく)のまとめた | |||
『日本山嶽志』では36通り、また遠藤秀男という人によれば45通りもあるというから | |||
驚きである。一般に「富士山」として書かれるようになったのは、鎌倉時代以降の武 | |||
士の時代と思われる。 |
4.富士山に最初に登ったのは誰? | |||
富士山の祭神とされるコノハナ(ノ)サクヤビメ(木花開耶媛命、木花佐久夜比売 | |||
など表記はいろいろ)が「永遠の命を天にもとめるために登山した」といわれている | |||
が、これはあくまで神話の世界の話である(注.祭神については別章で触れる)。ま | |||
た、ヤマトタケル(日本武尊、倭健命)が東征のみぎり、富士山頂を征服したとされ | |||
るが、これも伝説的である。330年ごろ、秦の始皇帝の命により、徐福が不老長生・回 | |||
春の妙薬探しに東方の国日本にやって来て、富士山に登ったというが、これも伝説の | |||
域を脱しない。ましてや聖徳太子が甲斐産の黒馬にまたがって、天空より山頂に至っ | |||
たという話になるといよいよ空想の世界である。 | |||
役小角(えんのおづぬ、役の行者)は大和葛城山で修行し、吉野大峯山を開いたと | |||
して修験道の開祖とされる実在の人物なのだが、謎が多く、讒言(ざんげん)によっ | |||
て流された伊豆大島から夜な夜な空を飛んで富士山頂へ行ったというので、現実的に | |||
は考えられない。その他、天智天皇、桓武天皇、空海(弘法大師)らが登山したとい | |||
う伝えもある。 | |||
前述の都良香が著した『富士山記』の中に、富士山頂の様子を克明に書いた文があ | |||
り、その中に「山頂は蒸し器のようにくぼんで、神々しい池があり、池の中にはうず | |||
富士山火口 |
くまった虎のような岩があり、そこは常に蒸気が上って | ||
いる」という意味の記述がある。実際に火口には「虎岩」 | |||
と呼ばれる大岩があり、今は池こそないが春から初夏に | |||
かけては浅間神社奥宮近くに溜り水が現れたり、つい戦 | |||
前までは蒸気を上げていた所もあった。良香自身は富士 | |||
に登ったことがなく、想像だけでこれだけリアルに描写 | |||
できるものではないので、誰か実際に登った人がいて聞 | |||
き書きしたとしか考えられない。9世紀初め頃富士山は | |||
噴火を繰返し、登山は危険だったと思われるが、826年の噴火以降、864年の爆発まで | |||
の間安定期があり、その間に登った人がいて良香に山頂の様子を語ったのだろう。人 | |||
名は不明だが、その人が信頼できる記録上の初登山者ということになろうか。 | |||
はっきりしているのは平安末期(1149年)、富士上人と呼ばれた僧末代(まつだい) | |||
が登頂し、山頂(奥宮の位置)に大日堂を建立したということであり、その際埋めた | |||
といわれる経文が昭和5年に発掘されて史実が証明された。欧州アルプスの最高峰モ | |||
ンブランの初登頂より6世紀以上も早く、欧米人と山岳観が異なるとはいえ、日本人 | |||
が山に関わった歴史の長さを感じる。 | |||
女性登山者第一号は、武州鳩ヶ谷の富士講(注.富士講については別章で触れる) | |||
の一人「たつ」であり、1832(天保3)年のこと、女人禁制の山だったため、旧暦の | |||
登山期7、8月を外して9月に登った。男装の行者姿で登ったのではないか、といわ | |||
れている。 |
2010. 8.15 | 清水 | 支笏湖畔紋別岳ハイキング |
支笏湖畔紋別岳ハイキング | 横浜市 清水 有道 |
<この春二度目の北海道> | |||
一ヶ月も間を空けずにまた北海道に来てしまった。表 |
ハイキング・ルート |
||
向きは近々召し上げられてしまうJALのマイルが勿体 | |||
無くて、梅雨のない北海道に舞い戻ったと説明している | |||
が、本音はゆっくり連泊をして温泉気分を味わいたいと | |||
いうことで、ちょっとばかり贅沢をしたくなったためだ | |||
った。2006年5月に訪ねて、絵まで描き残している支笏 | |||
湖特有の静寂さと湖水の濃い青の色が妙に心に引っかか | |||
って、もう一度訪ねてみたい気分に駆られたのが偽らざ | |||
るところであった。 | |||
<支笏湖再発見> | |||
前回訪ねたときから5年しか経っていないのに、湖畔の雰囲気は一変していた。一 | |||
帯が広く公園として整備され、階段や散歩道も一新されていた。指導標もバイリンガ | |||
ルではなかったが完備され、樹木の名前も札にして下げられていた。多くの中国語や | |||
韓国語を話す人々の団体が後から後から観光バスでやってきては競ってデジカメで写 | |||
真を楽しんでいる。湖の名物のヒメマス(海洋性のベニザケの湖沼残留型、学術的に | |||
は陸封種と言う)をあしらった新ご当地グルメとして『支笏湖アキヒメ温玉ライス』 | |||
なるメニューが湖畔周囲9軒のレストランのシェフによって各店で味付けは異なるが、 | |||
汁物、デザート付きで税込み945円という統一価格で提供されていた。これは支笏湖 | |||
で獲れた産卵後のヒメマス(アキヒメ)をフレークにして、御飯と混ぜたものである。 | |||
御飯を名山・樽前山に似せて盛り上げ、内輪のドームまであしらい、あんやソースを | |||
支笏湖、野菜を森に見立てて、御飯の中には溶岩や温泉をイメージした温泉玉子が入 | |||
っているのがメニューの名前の由来だそうだ。湖畔のレストラン『メメール』(フラ | |||
ンス語で"おばーさん"の意)と泊まった『支笏湖第一寶亭留翠山亭』のレストランの | |||
2箇所で食べてみたが、盛り付けや汁物とデザートはかなり異なっていた。とまれ他 | |||
では余り例を聞かない、面白い試みだと思った。支笏湖ビジターセンター(支笏湖観 | |||
光案内所を兼ねる)も新しく立派に造り替えられていた。この大きな変化は、北海道 | |||
の各地にリゾートタイプの宿泊施設を展開している鶴雅(ツルガ)グループが、この | |||
湖畔に進出して『しこつ湖鶴雅リゾートスパ水の謌』を始めたときから始まったらし | |||
い。この湖畔の開発は大正時代に入って、王子製紙(株)が同地の材木をパルプ原料 | |||
として切り出し、苫小牧に運ぶために簡便鉄道を通したのが、そもそも開拓の始まり | |||
で、そのときに別の場所にあった英国人の設計・製造になる鉄橋を王子製紙が買い取 | |||
り、湖から流れ出る千歳川の出口に架けたのが現在も同じ場所に赤くペンキ塗りされ | |||
て、当時を偲ぶ産業遺産として保存されつつ、観光客の散歩ルートとして利用されて | |||
いる。この鉄橋は『山線鉄橋』と呼ばれ、道内最古の現役鉄橋として、日本の橋梁史 | |||
上希少かつ重要なものと言われる。現在でも当時の王子製紙経営者の縁者所有になる | |||
建物が湖畔に幾つも見られ、同社の保養所の施設も湖畔の景色の良いところに残り、 | |||
使われている。湖畔ぎりぎりにオープンテラスを有する『レイクサイドヴィラ翠明閣』 | |||
も対岸に古くから温泉宿を営む「丸駒温泉」が支笏湖温泉街の中に拠点を作りたいと | |||
して、近年王子製紙縁者の持ち物を買い取って始めたものと言われる。 | |||
筆者は定山渓や小樽を本拠にしてホテル業を拡げてい |
紋別岳山頂を望む |
||
る第一ホテルグループが湖畔の古い旅館を買い取ってリ | |||
ニューアル・オープンした上記の翠山亭に泊まった。部 | |||
屋数も少なく、特別のコース・メニューで宿代が幾通り | |||
にも分かれて、なかなか斬新な雰囲気のホテルであった。 | |||
とは言っても、丸二日湯にばかり浸ってもいられないの | |||
で、二日目には山頂に何本ものアンテナや鉄塔が立って | |||
いる紋別岳(モンベツダケ866m)に足の悪い女房はホテ | |||
ルに残して単身登った。頂上まで歩行距離5km弱、登り2時間、下り1.5時間のハイ | |||
キングだった。少し長い前置きになったが、それでは本題に入ることにしよう。 | |||
<晴天に恵まれて紋別岳を楽しむ> | |||
支笏湖の周辺には深田久弥氏も100名山の中に入れておられる樽前山(1,041m)と | |||
恵庭岳(1,320m)の二山のほか、樽前山に続く風不死岳(フッブシダケ、「フッブ | |||
シ」とはアイヌ語で「とど松のあるところ」の意味だそうである。1,102m)と紋別 | |||
支笏湖を挟んで左:樽前山。右:風不死岳を見る。 |
岳がある。通常宿泊が3日以上になれば、レンタカーを | ||
するのに、今回は2泊のために手配しなかったのが裏目 | |||
に出てしまい、100名山の方の2山には足の便がなく、タ | |||
クシーは千歳市からいちいち呼ばねばならず、料金が勿 | |||
体無いので、ホテルから歩いて往復できる紋別岳で我慢 | |||
した次第。 | |||
支笏湖温泉の宿泊ホテルを午前8時過ぎに発ち、札幌 | |||
方面に向かうR453に出て、北西方向に徒歩15分くらいで | |||
登山口に出る。登山口には大きな看板様の指導標識が立っていた。登る道の両側には | |||
個人の家や王子製紙千歳発電所関連の施設があり、10分ほどで両側に開く鉄の扉があ | |||
って、一般の車の出入りは出来ないように規制されていた。その扉の手前右側に登山 | |||
届けを書くノートの入った扉と屋根の付いたボックスが立っている。当日筆者より前 | |||
に入った登山者はこの記録ノートから見る限り2人しかいなかった。 | |||
麓から肉眼でもはっきり見える山頂には鉄塔が何本も |
支笏湖畔親水公園からみる紋別岳 |
||
建っているので、その施設の管理・運営のためにしょっ | |||
ちゅう作業者の往来があるのであろう、道路には山頂ま | |||
でずっと簡易舗装がされている。車のすれ違いは出来な | |||
いが、かなり道幅は広く、頭上も抜けているので、日光 | |||
を遮る物はなく、炙られ通しの道であった。道の斜面側 | |||
には上りと下りの里程をkm表示した道標が立っている | |||
ので、どのくらいの距離を進んできたのか、残りどのく | |||
らいかが分って、筆者には逆に味わいの少ない山登りに思えた。3合目くらいまでは | |||
各種カエデ、ブナやナラ等の樹木が続いていたが、それから上は殆んどダケカンバと | |||
白樺に変わり、9合目くらいからそれらも疎らになり、森林限界を超えた感じが味わ | |||
える。 | |||
フギレオオバキスミレと思われるスミレ |
7合目を過ぎた辺りから道の山側の斜面際にはまだ多 | ||
くの残雪が見られた。登山口辺りのふきのとうは花も終 | |||
わって、タンポポのような羽毛のある種子の綿帽子のよ | |||
うになっていたが、残雪の見られる辺りではやっと茎が | |||
伸び出したばかりで、摘み取れば立派な惣菜になりそう | |||
なものが並んでいた。道の両側にはこれと言った珍しい | |||
植物は見られず、僅かにスミレが何種か色とりどりに咲 | |||
いていた。その中に黄色のスミレがあり、オオバキスミ | |||
レかと思ったが、葉の周りの切れ込みから変種のフギレ |
ぽつんとひとつ咲いているシラネアオイの花。 |
||
オオバキスミレであろう。7合目辺りにはぽつんぽつん | |||
とシラネアオイが咲いていたが、花は本土で見るものよ | |||
りもも小さく、色も幾分白っぽく見えた。面白いことに | |||
1本だけぽつんと咲いていて、周囲を見ても群落にはな | |||
っていなかった。 | |||
3合目辺りからは終始支笏湖が左側に見えていたが、 | |||
徐々に高度を増すにつれ、湖の色合いがどんどん深く、 | |||
濃い青色に変化して行き、深度があることが見て取れた。 | |||
登山道からの恵庭岳 |
湖を跨いで対岸には、樽前山から風不死岳に続く山並 | ||
みが見え隠れし、少しずつ樽前山の頂上の内側にあるド | |||
ームがはっきり見え、そのドームの中央から蒸気の筋が | |||
細く天井に向かって噴出しているのが眺められる。もう | |||
少し北西方向に目をやれば、形の良い恵庭岳がまだ相当 | |||
の雪を抱いた姿で見られる。恵庭岳は現在もアクティー | |||
ヴな活火山であり、7合目から頂上までの登山は禁止さ | |||
れている。目の前にはっきりと噴煙が眺められた。 | |||
紋別岳は866mと標高こそあまり高くはないが、独立峰 |
紋別岳山頂 |
||
のため眺望は360度開け、日本海とオホーツク海の両方が | |||
眺められ、東方には千歳、苫小牧の市街、北方には札幌 | |||
の街が眺められると言われたが、生憎周りはガスの中で、 | |||
全く遠望は利かなかった。千歳の駐屯地が近いせいか、 | |||
時々実弾演習のドーンという炸裂音が地底から響いてく | |||
る。近くの山肌はようやく出揃った新緑の彩錦が見事な | |||
景観を見せている。紅葉も良いが、新緑の山肌の輝きに | |||
も似た色模様は例えようもなく美しい。 | |||
筆者の直ぐ後から一人の男性が登ってきていたが、筆者が頂上に着くまで抜かれる | |||
ことはなかった。頂上直下で自転車で登ってきた若者に抜かれた。山頂に着いて休ん | |||
でいるときに熟年女性のパーティ3名、壮年男子1名に出会った。山頂では昼食には | |||
まだ聊か早い時間であったのと、左程ゆっくり出来る場所もなかったので、15分程度 | |||
で下山した。下山中に登ってくる人たち10名くらいに出会った。すれ違う人は皆クマ | |||
避けのベルを鳴らしていた。勿論筆者もスイス製のものを負けじと鳴らした。下山し | |||
て登山届けに下山時間を書き入れる際に筆者の後に何人の人々が記入しているかを調 | |||
べると16名であった。日曜日でこの数字であるから、ウイークデーは殆んど人影がな | |||
いことだろう。入山者の殆んどが近隣の人たちで一人千葉県船橋市からの男性の名が | |||
あった。登山道では終始ウグイスが友となってくれた。空には時折トンビが舞ってい | |||
たが、期待していたほかの猛禽類の姿はなかった。 | |||
筆者は非常に好天に恵まれて登山が出来たと喜んだが、ホテルに戻って聞けば、千 | |||
歳、苫小牧の方面は雨模様だった由。支笏湖の上空は気象上非常に珍しい現象が起き | |||
るとのことで、通常この時期では風が恵庭岳から樽前山に向かって吹き、支笏湖上空 | |||
は常時霞や霧、ガスから開放されるのだそうだ。周囲が雨でも支笏湖の上空のごく限 | |||
られた地域のみ晴れているということが多くあるようである。 | |||
キベリタテハ |
下山の終わりで入山届けの辺りで素早く上空を飛び交 | ||
うタテハチョウを見掛けたので少し時間を掛けて様子を | |||
見ていると、なんとキベリタテハであった。新しく生ま | |||
れたものではなく、越冬種が最後のペアリングの最中だ | |||
ったのだ。幸運にも2頭網にすることが出来た。その内 | |||
1頭は羽のどの部分も破損がなく、完全な個体であった。 | |||
上翅、下翅の周囲の黄縁(キベリ)は本土のものに比べ | |||
ると随分と白色に近い感じのものだった。序に飛んでい | |||
たエゾスジグロシロチョウも2頭採集した。本土のスジグロシロチョウよりも一回り | |||
小型で、白色が濃く、翅の形も心持丸みを帯びているように思えた。 | |||
この同じ場所で、一見タカネグンバイに似たアブラナ |
登山道入り口に咲いていた花。 |
||
科特有の花の植物を見付けた。ワサビやオランダガラシ | |||
(現在ではクレソンの方が分りやすいであろう)にも似 | |||
ているが、葉の形はキンポウゲ科の種かとも思え、自分 | |||
でははっきり同定できなかったため、神奈川県立フラワ | |||
ーセンター 大船植物園の園芸相談の先生に尋ねたとこ | |||
ろ、アブラナ科タネツケバナ属のヒロハコンロンソウと | |||
分った。この植物は本州中部以北の山地渓流沿いなどの | |||
湿った場所に生育する越年草である。 |
最後に当日のコースタイムを参考までに記しておこう。 | |||
<紋別岳ハイキング コースタイム> | |||
翠山亭(8:05)…(R453)…(8:10)登山口…登山届け場(8:20)… | |||
(10:00)山頂(10:15)…(11:30)入山届け場(キベリタテハ採集) | |||
(11:50)…(12:00)第一寶亭留翠山亭 | |||
「了」 | |||
(2010年7月6日記入) |
2010. 8. 8 | 砂田 | 富士山を雑学散歩する(1) |
富士山を雑学散歩する(1) | 相模原市 砂田 定夫 |
1.信長も絶賛した富士山(プロローグに代えて) | |||
標高3,776m山梨県と静岡県の境に位置する日本の最高峰であり、2番目に高い南 | |||
アルプスの北岳(3,192m)よりも584mも高いので、高さにおいては断トツなのが富士 | |||
山である。今年も夏山シーズンを迎え、富士登山は大人気である。特にここ2〜3年 | |||
は登山者も増加傾向にあり、環境省の調査によれば、一昨年は30万5千人、昨年は29 | |||
万2千人が登ったという。現在利用されている登山口は、吉田(河口湖)口、富士宮 | |||
口、御殿場口、須走口が主なもの(かつては村山口、精進口、船津口も利用された) | |||
で、このうちスバルラインの利用できる吉田口から登る人が56〜58%を占める。登山 | |||
者数のデータは、八合目で赤外線センサーによって測定されたもので、登山口におけ | |||
るデータと比較すると、山頂又は八合目以上に登るのは全登山者のうちの約7割と思 | |||
われる。 | |||
さて、古から日本人は富士を詠み、語り、描いてきた。 |
富士の全景(1月、乙女峠より) |
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山部赤人が『万葉集』に詠み、雪舟が水墨画に描き、北 | |||
斎や広重が浮世絵に描き、太宰治が執筆し、岡田紅陽が | |||
写真に撮った。日本人は古来富士に対して憧れ、信仰し、 | |||
畏怖の念を持った。日本人の心には気高く美しい富士山 | |||
が常に高く聳えており、象徴的な存在なのだ。 | |||
「富士に登らずんば山を説くなかれ」「富士に登って山 | |||
岳の高さを語れ」と言ったのは、明治の紀行文家、大町 | |||
桂月である。 | |||
いま、「歴女」という新語に象徴されるように、戦国武将や坂本竜馬などちょっと | |||
した歴史ブームになっているが、あの織田信長が最強の敵武田氏を滅ぼして、戦後の | |||
見分で甲州へ入ったとき初めて富士山に見参し、「高山に雪積って白雲の如くなり。 | |||
誠に稀有(けう)の名山なり」と絶賛したという(『信長公記』)。戦勝気分で得意 | |||
絶頂の信長が、富士を眺めながら裾野を馬で疾駆する姿が目に浮ぶようだ。天下統一 | |||
を目前にした風雲児信長は、このあと本能寺で波乱の生涯を閉じることになるが、正 | |||
に富士山の見物が冥土の土産だった。 | |||
時代は遡るが、源頼朝が平氏を滅亡させ、奥州藤原氏を滅ぼしたあと、1192年征夷 | |||
大将軍に任ぜられて鎌倉幕府を開いた。その翌年、富士の裾野で大規模な巻狩りを行 | |||
う。これは軍事訓練を兼ねたもので、武家による政権交代を内外に示す一大デモンス | |||
トレーションだった。覇者となった頼朝の目に、雄大な富士はどのように映ったであ | |||
ろうか。因みに有名な曽我兄弟の仇討ち事件はこのとき起ったものである。 | |||
2.富士山は三つの火山の合作である! | |||
現在、われわれが見る美しい裾野を引いて均整のとれた富士山の姿は、今から1万 | |||
年ぐらい前にでき上がった「新富士火山」であり、実はもっと古く富士山の母体にな | |||
る火山が二つもあったのである。 | |||
日本の本州はかつて南北に分断されていた時期があった。その間にある溝が糸魚川 | |||
ー静岡構造線という狭い地溝帯、いわゆる「フォッサマグナ」で、その後の造山活動 | |||
で御坂山地などが生まれ、さらに太平洋からフィリッピン海プレートに乗った丹沢山 | |||
地が、さらにその後伊豆半島がぶつかったりして、今のような陸地が形成されていっ | |||
た。70〜80万年前にその近くに愛鷹火山や箱根火山と共に「小御岳火山」が噴火し、 | |||
それぞれの火山が競うように噴煙を上げていた。小御岳火山の頂上は、現在のスバル | |||
最高点の剣ヶ峰(7月) |
ライン終点の五合目付近にある小御岳神社の辺りである。 | ||
第二の富士山は、今から2〜3万年前に出現し、「古 | |||
富士火山」と呼ばれる。この火山は標高2,800mくらいで、 | |||
約1万年間激しい噴火活動を続けたという。 | |||
第三の富士山、つまり「新富士火山」は7〜8千年前 | |||
に噴火を始め、約5千年前に今のような円錐形になった | |||
とされている。新富士火山は巨大で、先輩の小御岳火山 | |||
や古富士火山を覆い尽くしてしまったが、宝永の大爆発 | |||
(1707年)のとき、二番目の古富士火山の山頂が宝永噴火口の近くに僅かに姿を現し | |||
た。それが現在赤岩と呼ばれる所である。このように富士山は三つの火山で成り立っ | |||
ているのである。 | |||
なお、「関東ローム層」と呼ばれる赤土の地層は、関東周辺の諸火山からの火山灰 | |||
の堆積であるが、特に古富士火山の噴火によるものが多いようで、西風に乗って関東 | |||
平野に降りそそいだものとされる。筆者の住む相模原は、ひと昔前には風の強いとき | |||
など物凄い土・砂塵が舞い上がり、「さがみっぱらの空は赤茶色に見える」と言われ | |||
たそうである。 | |||
3.富士山は再び噴火する!? | |||
富士山は過去に何度も噴火、爆発している。最も古い記録では781年であるが、それ | |||
以前も何十年に一回は爆発していたのであろう。大爆発の記録は800年に起ったもので | |||
「延歴の噴火」と呼ばれ、噴出する火山弾や火山灰が降りそそいだ。その2年後にま | |||
た噴火があり、当時御殿場から足柄峠を通っていた東海道は通れなくなり、箱根道に | |||
移したという。864年の大爆発は「貞観(じょうがん)の噴火」と呼ばれ、このときは | |||
頂上からでなく、北西の長尾山という側火山から溶岩流が流れ出し、現在の青木ヶ原 | |||
を埋め尽くし、やがて大樹海が形成される。かつて本栖湖と並んで存在した「せの湖 | |||
(うみ)」という大きな湖は、本栖湖、精進湖、西湖の三つに分けられた。それから | |||
10世紀には5回くらい、11世紀に4回くらいの小噴火があった。『太平記』の中にも | |||
「雪の中より立つ煙」とあるが、武士が活躍する時代には富士は噴煙を上げていて、 | |||
時々小規模な噴火をしていたのである。 | |||
時代は流れて1707年(宝永4年)、いわゆる宝永の大 |
宝永山(7月、第二火口付近より) |
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爆発が起って、江戸市民を恐怖のどん底に陥れた。この | |||
大爆発も頂上からでなく、南東斜面の宝永山の噴火口か | |||
らであり、山麓を3〜5mの火山灰層で埋め尽くした。 | |||
江戸では灰が降りそそぎ、地鳴り、地震、雷鳴がひっき | |||
りなしに起り、空は暗くなって昼間でも行燈(あんどん) | |||
を灯したという。現代の都会に当てはめたら、どんなパ | |||
ニックが起きるだろうか。江戸でもこんな状態であるか | |||
ら近隣の地方ではひどい惨状で、ひっきりなしに地震と地鳴りが起り、由比、蒲原辺 | |||
りの家屋は残らず倒壊し、東側の村々には火山灰や火山礫が降りそそいで家屋は燃え、 | |||
地割れ、がけ崩れが起り、村ごと残らず死亡した所や火山灰で埋没した村もあったと | |||
いう。 | |||
宝永の大爆発から現在まで約300年間、火山活動を休止している富士山はこのまま火 | |||
山活動を終了させてしまうのだろうか。他の火山を調べてみると、何百年も経って大 | |||
爆発を起した例は幾つもあるのだ。例えば、鳥海山は720年、磐梯山は1000年以上、那 | |||
須岳は400年、焼岳は300年、桜島は750年とそれぞれ活動休止期間をおいて大爆発した | |||
記録をもっている。だから300年から1000年活動しなかったとしても、火山活動が完全 | |||
に終ったとは言えない。「富士山は再び爆発する!」と考えておいた方が無難だろう。 |
2010. 8. 1 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−10 (文月の行事) |
古典落語をより楽しむために−10 |
文月の行事 | 佐野市 須貝 義弘 |
すすはら(煤払)い、虫干し、風入れ |
虫干し |
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二日から十三日頃までの、晴れた日を選び、家中の煤 | |||
払いをしたり、衣類、書類、その他の虫干しをする。 | |||
特に衣類を干すことは、女にとって多忙ながら、楽しみ | |||
の一つであり、着物の多いのを、ひそかに自慢したとある。 | |||
「風入れ」は、鎌倉幕府の役人が、蔵の中の物を出して | |||
干すことを云った。 | |||
たなばた(七夕)、七日 |
七夕 |
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上は諸侯から、町人や吉原の遊女までが祝ったそうな。 | |||
六日の早朝より手習い師の指導で、字が上達するように、 | |||
和歌、詩、その他、年に応じた物を書いた色紙、短冊、 | |||
色紙の吹き流し、ほうずき、紙で作った模型の筆、硯、 | |||
算盤などを竹に結び付けて七夕を祭る。本来、七夕は水 | |||
を祭る行事の一つなので夕方になると、竹を川に流した | |||
のである(現在では無理)。また、大名、旗本の屋敷を | |||
井戸 |
はじめ、長屋に至るまで、七夕の日に井戸替えをした。 | ||
「めか妾うま馬」と云う噺に、井戸替えが出てくるが、 | |||
最近では「井戸替え」のシーンをとばす落語屋が多いよ | |||
うだ。(注)過日(平成二十二年四月下席、末広亭で | |||
「人形買い」をみたが、人形を買うところで、落として | |||
しまい、後半の小僧に人形をしょ背負やせてからの…略 | |||
していた) | |||
いどくみ(井戸汲)む(いどかえ井戸替) |
井戸神様 |
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二斗桶(36リットル)に長い太縄を縛りつけ長屋総出 | |||
で、縄を引いて水を汲み上げる。底近くなると井戸職が | |||
中へ入って、沈殿物や、落し物をあげ周囲を洗って終わ | |||
りとする。作業が終わると、おり滓や落ち込む虫類を食 | |||
べさせるために、鮒を1〜2匹入れて、最後に井戸神様 | |||
へ、塩と酒を供えてからささやかな宴を張る。 | |||
千日詣り |
四万六千日 | ||
俗に千日詣りという。「船徳」と云う噺に出てくるが、 | |||
七月十日(九日の夜から)を俗に四万六千日といい、土 | |||
地(浅草観音付近)の者は略して単に六千日様ともいっ | |||
た。この日におまい詣りすれば四万六千日参詣したと同 | |||
じご利益を戴けると信じて、信者や遊山客が浅草寺に殺 | |||
到したので、当日は船宿、駕籠屋はもちろん、両国から | |||
浅草へかけての商店、飲食店は大繁昌であった。特に浅 |
浅草寺 |
草境内には、ほう青ず鬼き燈の店、唐もろこし屋台が立 | ||
ち並び寺では雷除けのお守りを頒布した。この行事は現 | |||
在でも行われており、ほう青ず鬼き燈市と呼ばれて親し | |||
まれている。 | |||
秋の七草 |
七草 |
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暇のある連中は、十五日前後か向島の百花園、その他 | |||
へ秋の七草の鑑賞に出かけた。七草は、はぎ萩、おばな | |||
薄、くず葛、なでしこ撫、おみなえし女郎花、ふじ藤ば | |||
かま袴、あさがお朝顔であることはご周知のとおりであ | |||
る。 | |||
藪入り |
宿下がり | ||
十六日の藪入りは正月場合と同じであるが、正月の時 | |||
より昼間の時間が長いのでそれだけ余計に遊べた。「藪 | |||
入り」と云う噺がありますが、「宿入り」が転訛したも | |||
のと一説にあり、奉公先から一日又は数日暇をもらって | |||
実家に帰ることであるが、盆と正月の場合に限り、「藪 | |||
入り」といった。但し、公家奉公の連中は「宿下がり」 | |||
と云った。 終わり |