| 話 題 『 よもやま話 』 | 2010年5月〜2010年7月 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2010. 7.25 | 快晴に恵まれ知床半島探勝 投稿:清水有道 | ![]() |
| 2010. 7.18 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その9) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 7.11 | 益 子 陶 器 市 投稿:梅原 実 | ![]() |
| 2010. 7. 7 | 中国上海で「第九」を歌う 投稿;稲垣 貢 | ![]() |
| 2010. 7. 4 | 古典落語をより楽しむために−9(水無月の行事)投稿;須貝義弘 | ![]() |
| 2010. 6.13 | いま、高尾山があつい! 投稿:砂田定夫 | ![]() |
| 2010. 6. 6 | 蓼科高原をベースに春咲き山野草を楽しむ 投稿:清水有道 | ![]() |
| 2010. 5.29 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その8) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 5.23 | 古典落語をより楽しむために−8(江戸の春) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
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| 話 題 『 よもやま話 』 |
| 2010. 7.25 | 清水 | 快晴に恵まれ知床半島探勝 | ![]() |
| 快晴に恵まれ知床半島探勝 | 横浜市 清水 有道 | |
| 1.はじめに | |||
| 数年前に思い立った辺境の世界文化・歴史遺産や世界自然遺産を巡る旅も、ペルー | |||
| のマチュピチュ空中都市、カンボジアのアンコール・ワットに代表されるクメール文 | |||
| 化の歴史遺産、トルコのカッパドキア、パムッカレに代表されるギリシヤ・ローマ時 | |||
| 代の遺跡をしっかり訪ね歩き、日本の屋久島、白神山地等の自然遺産も既に巡った。 | |||
| そこで、今年こそは知床をもう少し詳しく探勝しようと計画し、5月の連休明けの13 | |||
| 日(木)から17日(月)にかけて北海道に赴き、知床には2泊3日をかけて回った。 | |||
| 学生時代にまだ宇登呂(ウトロ)から羅臼に抜ける知床国道(R334)もないときに、 | |||
| ザイルを結び合っていた岳友と二人でテントを背負い真夏に一ヵ月半をかけて北海道 | |||
| の山々を踏破したことがある。そのときに羅臼の町から知床の最高峰・羅臼岳を往復 | |||
| しているので、知床の背骨である山並み、オホーツク海と太平洋の気流が知床半島の | |||
| 真上、即ち羅臼の山頂でぶつかる様も目にしている。空気というか、雲の密度に相当 | |||
| の違いがあり、オホーツクのものは粒子の大きい集まりなのだろうか、白濁していて | |||
| 透明度がなく、その中に入れば衣類もびっしょり濡れてしまうのに対し、太平洋側は | |||
| 天空まで抜けるように透明で、陽光が透けて通っている様が良く分った。羅臼の頂上 | |||
| からの眼下に見える国後島(クナシリトウ)はとても今は異国に属しているなどと思 | |||
| いもよらぬ光景であった。利尻富士山頂からの樺太(カラフト)を見たときの航空写 | |||
| 真を見るような、間近に見える景観は全く違う世界を眺めているような気がしたのを | |||
| 今でも鮮やかに思い出す。 | |||
| 知床を巡るには早い時期を選んだとしても5月はまだ寒すぎるし、動けなければ他 | |||
| に室内で見るものは何もない。観光船も半島先端の岬まで行くものは6月に入らない | |||
| と運航されない。波が高く、気象が不安定で、危険なため許されていないのである。 | |||
| 上述の知床国道の知床峠(738m)を越える道路も表面が凍結して通行禁止になること | |||
| が多く、旅行日程を確保することは全て自然任せのためなかなか思うようにはなら | |||
| ない。ロスタイムを十分に見る必要があり、時間的にも経費的にも厄介な旅を強いら | |||
| れるところである。 | |||
| 2.先行き心配な北海道の初日 | |||
| さて、このような状況の中を5月13日午後3時近くに降り立った女満別空港の気候 | |||
| は霧雨で、摂氏1度と寒く、薄暗い鬱陶しい空気に包まれていた。レンタカーとはい | |||
| え、宇登呂まではとても入れないと思い、出発前からサロマ湖畔にあるリゾートを予 | |||
| 定していたのでゆっくりできた。連休が終わったばかりで、ウイークデーということ | |||
| もあり、ホテル内には殆んど人影がなく、客も我々(女房と二人)を入れて3組くら | |||
| いと見えた。ただ近郊の部落から温泉浴に来る人が10人くらい混ざっていた。 | |||
| 3.2日目はひたすら翌日の天候回復を願う | |||
| 翌14日も同じような天気で、遠方は霞み、景色を眺め |
超モダンJR釧路本線「知床斜里駅」 |
||
| る風情にもならないので、途中“道の駅”で2回休憩を | |||
| 取った以外は何処を訪ねることもなく、斜里の町に入っ | |||
| た。先ず驚いたのは筆者の知っている昔の町とはすっか | |||
| り様変わりしていたことだ。JR釧網本線の駅舎は超モダ | |||
| ーンな平屋のタイル張りで、一見駅舎とは思えない。 | |||
| 駅舎正面にはこれまたモダーンな欧州の美術家の針金を | |||
| 使って作られた知床を代表する天然記念物のオジロワシ | |||
| の大きなモニュメントが据えられていた。駅名も斜里か |
「知床斜里駅前」のオジロワシのモニュメント |
||
| ら「知床斜里」と変えられていた。文字通り知床半島の | |||
| 玄関口を意識しての変革なのであろう。 | |||
| 斜里町では先ずは知床全体の予備知識を得るため、駅 | |||
| 前を海岸の方へ少し走り、「知床博物館」を見学した。 | |||
| 知床の歴史、アイヌ文化の影響、自然の樹木、動植物、 | |||
| 鳥、昆虫に至るまで幅広い展示がされていたが、これと | |||
| 言って目を見張るものはなかった。 | |||
| 現地の学校で理科を教えている先生方が主導して調査された知床の蝶や蛾の生態や | |||
| 分布についての報告がカラー図版の小冊子2冊として販売されていたので、筆者の趣 | |||
| 味の参考資料に入手した。 | |||
| 網走から斜里までのオホーツク海に沿った通称「流氷街道」(R244)には道の駅が | |||
| 充実していて、資料の入手、食事、土産品の調達にも非常に便利である。中でも網走 | |||
| の「流氷街道網走」と斜里の「ユートピア知床」が共に首位を競うものと思えた。ユ | |||
| ートピア知床のレストランで昼食を取った。土地物のナメタガレイや羅臼ホッケの焼 | |||
| き魚膳が美味だった。途中のオシンコシンの滝にも下車見学することなく通過し、宇 | |||
| 登呂温泉に直行し、連泊する丘の上のホテルにひとまずチェックインした。翌日の天 | |||
| 候を確認すれば、一転して一年に一、二度あるかないかというような雲一つない快晴 | |||
| になり、気温も一気に上昇し、初夏を思わせる陽気になるという予報に、早速翌日の | |||
| 観光船と知床五湖探訪の手配を終えた。日没までまだ時間があったので運動不足を補 | |||
| うために下検分を兼ねホテルから宇登呂港の観光船の乗り場まで歩いて往復した。 | |||
| 閑話休題 | |||
| 知床には知床八景がある。どういう経緯で決められたものか筆者の知識の及ぶとこ | |||
| ろではない。今までにこのあたりの事情を説明した文章にはお目に掛かったことはな | |||
| い。その八景とは、 | |||
| (1)オシンコシンの滝 | |||
| 宇登呂港に着く直前、国道の脇にあり、名瀑が容易に眺められる。 | |||
| (2)宇登呂港のオロンコ岩 | |||
| 標高60mの独立した巨岩。頂上からの知床の山並 |
オロンコ岩全景 |
||
| みの眺望は一見に値する。 | |||
| 北海道は何処でもエゾシカが繁殖しすぎて貴重 | |||
| な植物が食べ尽くされて減り、人家の庭の草花や | |||
| 樹木が一夜にして姿を消したり、畑が荒らされた | |||
| りするため金網や防護壁、電流を通した柵で囲う | |||
| など対応に追われているのが現実である。この岩 | |||
| には鹿が登れないために貴重な植物が残されてい | |||
| て、隠れた宝庫となっている。 | |||
| (3)宇登呂温泉の夕陽台 |
ホテルの窓からのオホーツク海に沈む夕陽 |
||
| 知床一の夕陽が見られるところとして有名だそう | |||
| である。ただ、その機会は年に数えるほどしかな | |||
| いそうだ。筆者が泊まったホテルがその丘にあり、 | |||
| 港を見下ろす最上階からの夕陽は最高と宛がわれ | |||
| た部屋がそれに当たると説明された。それもその | |||
| はず、曰くのある特別室で、登山がお好きな現在 | |||
| の皇太子殿下が数年前に羅臼岳に登られた際に使 | |||
| われた部屋だそうで、そのために内部が整えられたという。床の間付きの和室 | |||
| もあり、床の間には本物ではなかろうが村上華岳の風景画軸が架けられていた。 | |||
| (4)プュニ岬 | |||
| 絶景と夕陽の名所。 | |||
| (5)乙女の涙(フレぺの滝) | |||
| 100mの断崖の割れ目から流れ落ちる水の様が涙を思わせることから命名され | |||
| た。 | |||
| (6)知床五湖 | |||
| 注ぎ込む川はなく、全て地下で繋がり、地下水脈によって維持されている。知 | |||
| 床の山並みの雪解け時には湖面が上昇し、水がオーバーフローするそうである。 | |||
| 風がないときには静寂な湖面に知床連山が映って美しい。 | |||
| (7)カムイワッカの湯の滝 |
知床峠からの羅臼岳 |
||
| 活火山の硫黄山の中腹から湧き出る温泉が川に注 | |||
| ぎ込んで、川全体が自然の露天風呂になるため、 | |||
| 多くの登山家や好事家の訪問が絶えないと言う。 | |||
| (8)知床峠 | |||
| 知床半島横断の国道の頂上になり、斜里郡斜里町 | |||
| と目梨(メナシ)郡羅臼町の境界となっている。 | |||
| 羅臼岳の眺望が素晴らしい。 | |||
| 話を本題に戻そう。宇登呂港には知床八景の一つ、オロンコ岩という独立した大き | |||
| な岩がある。標高60mあり、頂上からは知床の山並みが見渡せるというので急な階段 | |||
| に息を弾ませ挑んだ。ちょうどカモメの繁殖期に当たるのであろうか、岩棚にたくさ | |||
| んの雌鳥が卵を抱いていた。近付くと威嚇のために一斉にカチカチと嘴を叩いて合奏 | |||
| になる。登山道にはこのカモメを狙って食べたのであろうか、たくさんの羽毛と足首 | |||
| や嘴がところどころに散らかっていた。調査目的のためであろう人間が足に嵌めた識 | |||
| 別環が足首と一緒に、あるいは単独に道に散らばっているのは、見て哀れを誘う。 | |||
| 多分トンビか、天然記念物のオジロワシ、タカ、ひょっとするとカラスの仕業かもし | |||
| れない。余りいい気持ちではなかった。 | |||
| 余談になるが、地元通人の話では頂上までの階段が203段あるところから、俗称 | |||
| 「203高地」と呼んでいるそうである。因みに名前はアイヌ以前に当地に住んでい | |||
| た北方狩猟民族「オロッコ族」に由来している。それ以前は「サマッケワタラ」 | |||
| (“横になっている岩”の意)と呼ばれていたそうである。 | |||
| 4.3日目、超快晴の中を知床観光の醍醐味を味わう | |||
| 前日に手配したとおり、午前中に全行程1時間半の硫黄山(1,563m)の真下に当た | |||
| るところで折り返す硫黄山航路に「オーロラ観光船」による海からの知床半島の絶壁 | |||
| と中央に背骨となって聳える知床連山を観賞し、午後はガイド付きの知床五湖めぐり | |||
| の2時間のハイキングを楽しんだ。 | |||
硫黄山沖で(知床岳が上半分雪を冠って見える) |
知床第二湖に映える知床連峰 |
湖畔に現れたエゾシカ |
|
| (1) 海からの観光船による知床半島の断崖と山並みの観賞 | |||
| 午前の観光船は当日が土曜日であったことと、暫く続いた雨模様のあとの、しかも | |||
| 年に1,2度あるかなしかという360度見回しても空には一点の雲もない文字通りの | |||
| 超快晴であったためか、この時期にしては乗客が多いと言っていたが、全長45m、総 | |||
| トン数491トン、最高速度14.3ノット、定員400名という小さな船にも拘らず、20% | |||
| くらいの人しか乗っていなかった。10時半に宇登呂港を出た当日の第2便であったが、 | |||
| 考えてみれば例え北海道内であっても、札幌や旭川といった大きな町から訪ねて来る | |||
| となれば、とてもその時間に間に合わせることは難しく驚くべきことでもなかったの | |||
| だと思った次第でした。小さな船と書いたが、運航している道東観光開発(株)の宣 | |||
| 伝では大型観光船の謳い文句である。 | |||
| 片道45分で、宇登呂港から突端の知床岬までのほぼ中間点に当たる硫黄山直下まで | |||
| 行く間に、上述した知床八景の内、地上にある知床峠と知床五湖と出発地点よりも西 | |||
| になるオシンコシンの滝を除けば、出航地点のオロンコ岩の他、残りの五つを全て船 | |||
| 上から眺めることが出来た。 | |||
| 観光船から最初に見えるプュニ岬は地上の岬が夕陽を見るスポット、真冬には迫り | |||
| 来る流氷を眺めるスポットとして有名で、八景の一つに選ばれているが、船上からは | |||
| さして特徴のあるスポットとは見えなかった。船中の案内も余りないと見えて、森繁 | |||
| 久弥の創った「知床旅情」を加藤登紀子が歌っているものを流していた。 | |||
| 次に現れた名所は「乙女の滝」と呼ばれるフレペの滝。断崖上のウトロ灯台が見え | |||
| るその真下辺りがこの滝だった。羅臼岳の噴火によって噴出した溶岩流が固まって出 | |||
| 来た台地が海面から100mくらい垂直に連なり、知床五湖からの地下水が噴出してこ | |||
| の高い断崖を幾筋もの絹糸の流れのように落ちているのが見られたが、さほどの凄み | |||
| は感じなかった。続いて「象の鼻」という形の岩が現れ、「クンネポール」という不 | |||
| 思議な洞穴の光景が続く。奥行きの深そうな洞穴が並んでいて不気味、しかも断崖は | |||
| 垂直か、逆にオーバーハングしていて、この辺りは流石に熊も出没できないそうであ | |||
| る。 | |||
| 暫くして断崖が切れて小さな流れが見えると岩尾別川である。ここは鮭も昇ってく | |||
| るらしくヒグマがでるところだそうである。上流には鮭の孵化場もあり、狭い海岸に | |||
| は番屋も見られた。やがて再び断崖の切れ目が現れると「カムイワッカの滝」である。 | |||
| この滝はカムイワッカ川の海に落下するところで、この川の上流は「カムイワッカ湯 | |||
| の滝」がある。滝壺が自然の露天風呂となっている由。その直ぐ先に硫黄川の流れが | |||
| ある。これら二つの川には昔の硫黄採取の柵があって、良質の硫黄が取れたとか。硫 | |||
| 黄山の真下に当り、ここがこのシーズンでは観光船のUターン場所である。遠く半島 | |||
| 奥の山並みには知床半島最東端の知床岳(1,254m)が上半分雪を頂いた姿を見せてい | |||
| た。 | |||
| (2) ホテルからの送り迎えつき知床五湖ガイドツアーを頼む | |||
| 午後2時ぴったりに小柄な若い男性が我々夫婦をピックアップにホテルに現れた。 | |||
| 差し出された名刺には“知床アイヌエコツアー 吉村 衛(ヨシムラ マモル)”と | |||
| 書かれていた。まだ3年くらいの経験だと言う。それ以前は横浜、厚木、相模原等で | |||
| 勤めていたらしく、会話や動作から前の日に京浜地区から訪ねてきた人のように少し | |||
| も違和感のない人に思えた。服装は米国の国立公園の監視員であるレンジャー様のい | |||
| でたちで最悪のケースを想定してのクマ避けスプレー、警笛等の装備をしっかり持っ | |||
| ているようであった。写真が好きのようで、知床の自然風景や動植物の写真を大きく | |||
| 引き伸ばして、ルーズリーフ式のアルバムにして、自分の車に常時備えているらしく、 | |||
| 客にその都度見せているのであろう、我々にも見せるのであった。知床五湖の入口ま | |||
| では専らこれらの写真がメインの話題であった。 | |||
| 前日はヒグマが出て、五湖めぐりは禁止になっていたので、当日の状況が心配され | |||
| た。午前中は一湖、二湖のコースのみ許可されていたので、我々もそのつもりで入っ | |||
| たところ、ちょうどその時から運良く五湖めぐり全てのコースがOKとなったので、 | |||
| ガイドに変更を依頼し、ゆっくり全てを回ることが出来た。 | |||
| パックツアーでくる団体は一湖と二湖をめぐるだけである。入口前の駐車場はほぼ満 | |||
| 車であったが、コースに入ると人影はまばらで、ガイドつきの4名のパーティが一つ | |||
| 見られただけで、我々2人とガイドだけの静かな山歩きだった。 | |||
| シーズンになれば入口で駐車場の空きを待つだけで2時間以上を費やしてしまうそう | |||
| である。クマが出没しても常時訪れた人が見分できるように、環境省が駐車場からつ | |||
| ながるバリアフリーでクマ避けの電気柵に覆われた木道が従来の道とは別に設けられ | |||
| ていて、現在一湖の終わりのところまで利用できるようになっている。近々二湖まで | |||
| 延長されるとのことであった。 | |||
| 入口から山道を暫く行くと、一湖の湖岸に出た。木道が付いていた。両脇には一面 | |||
| 今を盛りとミズバショウが咲いていた。思ったより花も葉も小さいと思った。その通 | |||
| りで、これから気温が上がるにつれて、葉がどんどん大きくなり、化け物のようにな | |||
| るものらしい。ヒグマもエゾシカもこの水芭蕉の茎が大好物のようで、苞と花を残し | |||
| て根元から皆食べてしまうらしく、あたり一面に千切れた苞と花が散らばっていた。 | |||
| 根は有毒なことを彼らも分っていて絶対に食べないそうである。 | |||
| 文字通りの快晴で、風も無風に近く湖に映るまだ上部に雪を冠った羅臼岳をはじめ | |||
| とする知床の雄大な山並みは確かに絶景に値するものだった。天気は晴れでも山がガ | |||
| スに隠れていたり、風が強く水面が荒波だって山の反射が見られないことが殆んどで、 | |||
| 当日のような好条件は一年に数日を数えるほどであると聞き、運の良さをしみじみ神 | |||
| に感謝したことだった。 筆者が入社して数年して語学の勉強のためにスペインに向 | |||
| かう途中スイスに寄り、ツェルマットから登山電車の終点ゴルナーグラートまで行き、 | |||
| 復路をツェルマットの町まで全てを歩いて下ったときに、途中のグリンジィゼーだっ | |||
| たか、グリュンゼーまたはライゼーのいずれであったかは忘れてしまったが、湖面に | |||
| 映る逆さマッターホーンの姿のあまりに優美なのにしばし呆然と見とれていたことが | |||
| あったのをふと思い出した。 | |||
| 木道が切れた一湖の終わりのあたりから山が見られる |
知床第二湖に映った主峰「羅臼岳」 |
||
| が、羅臼岳と左隣の三ッ峰だけで、山並み全ては一湖か | |||
| らは望めない。 | |||
| 次ぎの二湖は山を見るには最も良いところで、湖自体 | |||
| も最も大きく、羅臼岳から硫黄山までの連山の湖映も最 | |||
| も美しい。主峰羅臼岳を撮る絶好のポイントが幾つかあ | |||
| るという。知床五湖は羅臼岳の噴火による溶岩流によっ | |||
| てできたもので、これら五湖に注ぐ川はない。山並みの | |||
| 雪や雨が伏流水となって地下でつながっている。五湖の水面は全て標高239mという。 | |||
| 春から夏にかけて雪解け水が増えたときはオーバーフローして湖がいくらか大きくな | |||
| り、小さな流れも出来るらしい。一湖と二湖には木々が覆い茂る浮島がある。 | |||
| 二湖を過ぎた辺りから木々にヒグマが爪を研いだりよじ登ったりした爪痕がたくさ | |||
| ん見られ、また樹皮が20〜30cm幅でぐるりと剥がされた木が枯れ木となっているの | |||
| が目立つ。冬になって深い雪の中、食べるものがなくなり、数ばかり増えたエゾシカ | |||
| のなせる業である。 | |||
| 次ぎの三湖は五湖中最も眺めが良い。知床の山々は八ヶ岳のように繋がって一直線 | |||
| 上に並んでいるが、八ヶ岳が峻厳たる男性的な岩肌を見せているのに対して、知床の | |||
| 山肌は膨らんで、緩やかにやや女性的な感じを与える。これはそれらの山々が比較的 | |||
| 新しい地質時代に出来た山々で、まだあまり侵食が進んでいないためである、とその | |||
| 違いを説明した親切な案内板が建てられていた。世界遺産ともなると道の整備やトイ | |||
| レの増設等々大変なことだと思う。ただ残念なのは、指導標識や案内がバイリンガル | |||
| になっていないことである。 | |||
| 四湖は鬱蒼とした林に覆われている。この四湖と次ぎの五湖は小さい。五湖では視 | |||
| 野は開けないが、樹木越しに羅臼岳から硫黄山までがきれいに眺められた。幸いにヒ | |||
| グマに出くわすこともなく、道も高低差が余りなく、足の具合の悪い女房も普段どお | |||
| り歩けたので、ゆっくり落ち着いた散策が出来たのは嬉しかった。四湖畔ではエゾシ | |||
| カがゆっくり草を食んでいる姿も見られた。北海道には正式にはエゾXXXXゲラと | |||
| 言うような、俗に言うキツツキが多く棲んでいて、この知床五湖の周囲の樹木にも彼 | |||
| らが開けたたくさんの穴が見受けられる。本土のリスよりも一回り大きいエゾリスも | |||
| 見ることが出来た。 | |||
| ガイドもホテルの従業員も当日の夕方には名物の夕陽が間違いなく部屋の窓から眺 | |||
| められると太鼓判を押してくれたので、夕方になるのが待ち遠しく、何回も何回も窓 | |||
| から覗いて、まあまあ満足のいく写真が撮れた。勿論今までにもっともっと素晴らし | |||
| い夕陽を数え切れぬほど見てきているし、カメラに収めてもいるが、この夕陽もオホ | |||
| ーツク海に沈むものとして筆者のメモリーの一項目に覚え込んだ。 | |||
| 5.恵まれた知床観光の思い出に酔いつつ知床峠を通って帰路に着く | |||
| 次の日も知床峠の通行が出来ることを確認して、予定通り、知床横断道路を羅臼方 | |||
| 面に車を進めた。 了 | |||
| (2010年6月23日記) | |||
| 2010. 7.18 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その9) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その9) | 横浜市 小田 茂 | |
| 3.山 手(その5) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 『横浜:山手』に付きまして、5回目となりますが、今回が『横浜:山手』の最終 | |||
| となります。 | |||
| なお、『番外編』の「横浜中華街」の『お店のマスコット・看板』等々の珍百景?の | |||
| ご紹介も今回の4回目で終り、次回から新しい地域となります。 | |||
| (37)“港が見える丘公園”の碑 | |||
| “港が見える丘公園”の碑は、山手本通りの東側の一 |
港の見える丘公園 |
||
| 番外れに位置し、地下鉄みなとみらい線「元町・中華街 | |||
| 駅」から谷戸坂を10分弱上りきった所の「港の見える丘 | |||
| 公園」の中に建てられております。 | |||
| 公園の名前は、昭和22年(1947年)のヒット曲「港が | |||
| 見える丘」(作詞・作曲 東 辰三、唄 平野愛子 ) | |||
| ♪ あなたと二人で来た丘は ♪港が見える丘 ・・・ | |||
| この歌が広く市民に歌われていたこともあって、横浜 | |||
| 市が命名したそうです。 | |||
「港が見える丘」歌碑 |
説明板 |
ただ、命名にあたって、 | |
| 何故、“港が見える丘”か | |||
| ら“港の見える丘”公園に | |||
| なったのかという疑問が残 | |||
| るが、幾つかの候補の中か | |||
| ら当時の市長が選んだそう | |||
| です。 | |||
| ★「港の見える丘公園」 | |||
| 「港の見える丘公園」は昭和37年(1962年)に開園しました。横浜のエキゾチックな | |||
| イメージを代表する観光スポットの一つで、日本の都市公園100選に入っています。 | |||
| 公園一帯は横浜開港当時、外国人居留地で、丘の上にイギリス軍、下にフランス軍 | |||
| が駐屯していました。 | |||
| 「展望台」から横浜港を180°眺めますと、晴れた日は房総半島も見えます。 | |||
マリンタワー(左) |
ベイブリッジ(中央) |
晴れていれば房総半島も(右) |
|
| 園内にイギリス館、山手111番館、大仏次郎記念館、神奈川近代文学館なども開館。 | |||
| 霧笛橋は大仏次郎記念館と神奈川近代文学館とを結び、メルヘンの雰囲気を持つ歩 | |||
| 道橋です。橋長は51mで、昭和61年に完成し、かながわの橋100選の一つです。 | |||
| また、大仏次郎記念館を観ると、大仏次郎がネコ好きだったことが伺えます。 | |||
| イギリス館の脇には、横浜市の花に「バラ」が選ばれたのを記念し、80種・1,800株 | |||
| が咲き競うバラ園も設けられ5月、10月とバラの開花時期には見事な花を咲かせ、訪 | |||
| れる人々の目を楽しませています。 | |||
イギリス館 |
111番館 |
大仏次郎記念館 |
|
神奈川近代文学館 |
霧笛橋 |
バラ園 |
|
| (38)フランス山の“領事館跡地(風車)” | |||
| 「港の見える丘公園」の北側部分は「フランス山」と呼ばれ、「港の見える丘公園」 | |||
| の中の一区画でありますが、独立した公園のように思わせています。 | |||
| 「フランス山」は幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯したところで、そこか | |||
| ら「フランス山」の名がつきました。 | |||
| 文久2年(1862年)に起きた生麦事件をはじめとする、攘夷派の浪人などによる外 | |||
| 国人殺傷事件が頻繁に起こり、これを受けてイギリスとフランスは自国民の保護を名 | |||
| 目に、横浜居留地への自国軍の駐屯を幕府に要求、幕府もこれを認めました。 | |||
| 文久3年(1863年)にはフランス海兵隊が横浜に到着し駐屯したのが、現在の「フ | |||
| ランス山」でした。ちなみにイギリス軍はフランス軍到着の翌年、文久4年(1964年) | |||
| 現在のイギリス館のあたりから岩崎博物館にかけての地域に駐留したそうです。 | |||
| フランス軍が撤退した後、その跡地にフランス領事館と領事官邸が完成したのは、 | |||
| 明治29年(1896年)のことでした。井戸水を汲み揚げるための風車が設置され、明治 | |||
| 42年(1909年)頃まで活躍していました。 | |||
| かってを偲びモニュメントとして多翼型の風車を設置し、色はフランス国旗の色 | |||
| にちなんで、青・白・赤に塗り分けられており、現在、その跡地に当時を思わせる | |||
| “風車”が浜風を心地良く受けて廻っておりました。 | |||
現在の風車 |
昔の風車 |
当時の領事官邸 |
|
| (39)愛の母子像(フランス山) | |||
| 昭和52年(1977年)9月27日、アメリカ海軍の偵察機(ファントム)が、厚木基地 | |||
| を離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こし、横浜市緑区荏田町(現・青葉 | |||
| 区荏田北)の住宅地に墜落し、周辺の家屋を炎上させた。墜落地周辺では、火災によ | |||
| り一般市民9名が死傷、うち男児2名の兄弟が翌日死亡した。また、兄弟の母親であ | |||
| る女性は全身にやけどを負い、長期間にわたる治療のかいなく事故から4年4ヶ月後 | |||
| に亡くなられた。最終的には死亡者が3名に上る惨事でした。(乗組員2名はパラシ | |||
| ュートで墜落前に脱出して基地に無事帰還) | |||
| 遺族の要望により、横浜 |
愛の母子像 |
説明板 |
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| 市へ寄贈する形で「港の見え | |||
| る丘公園」フランス山地区 | |||
| に、犠牲者をモデルとした | |||
| 「愛の母子像」というブロ | |||
| ンズ像が、昭和60年(1965 | |||
| 年)設置されました。 | |||
| なお、「碑文」につきまし | |||
| ては、その文面に横浜市と | |||
| しては問題ありとして、「碑文」の設置は認めませんでした。事件の概要を簡素化し | |||
| た内容で、「碑文」が建てられたのは像設置後、21年経過した平成17年(2005年)の | |||
| ことでした。 | |||
| (40)レンガ造り井戸遺構(フランス山) | |||
レンガ造り井戸遺構 |
説明板 |
レンガ造り井戸は、明治 | |
| 29年(1896年)のフランス | |||
| 領事公邸竣工時に、上下水 | |||
| 道が山手に敷設されていな | |||
| かったため設置されたもの | |||
| です。 | |||
| 水はすでに涸れています | |||
| が、井戸の深さは約30mで | |||
| 使われているレンガは円形に積むため扇形をしています。 | |||
| (41)初期の鉄骨様式アーチ(フランス山) | |||
| 地下鉄みなとみらい線「元町中華街駅」の直ぐ側に「フランス山」の元町からの入 | |||
| 口があり、入ったところに「初期の鉄骨様式アーチ」が建てられております。 | |||
鉄骨様式アーチ |
鉄骨様式アーチ土台 |
説明板 |
|
| 説明板の概略を述べますと、この「鉄骨様式アーチ」は、パリの中央市場で19世紀 | |||
| の後半に建てられ、実際に使われたものです。市場は、主要部分を占める地上階と倉 | |||
| 庫である地下部分からなりたっていました。 | |||
| 地上階の鉄骨上屋はパリ郊外に復元されており、当公園に設置された構造体は、地 | |||
| 下階部分のものとして、上部構造を支える、柱・アーチ・梁など総て鋳鉄製で構成さ | |||
| れている珍しいものとのこと。 | |||
| 建造時期は、エッフェル塔(1889年)より前のものであり、初期の鉄骨様式を知る | |||
| うえで大変貴重なものだそうです。 | |||
| (42)横浜ボウリング発祥の碑(フランス山) | |||
| フランス山の麓に「横浜ボウリング発祥の碑」がヒッ |
横浜ボウリング発祥に碑 |
||
| ソリと建っています。説明文によりますと、 | |||
| 『1864年(元治元年)横浜外国人慰留地区に、長崎に | |||
| 次ぎボウリングサロンを開場した記録がある。協会発足 | |||
| 30周年を記念し、ここに横浜ボウリング発祥の碑を建立 | |||
| する。 平成7年10月20日・・・・』と記せられ | |||
| ています。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? ( 山 手 編 ) | |||
ネコも山手お散歩 |
住宅です! |
憩の場所“えの木てい” |
|
大仏次郎館ネコ@ |
大仏次郎館ネコA |
園内の日時計 |
イギリス館の窓 |
郵便受け |
アメリカ山公園 |
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| 上記の一番最後の写真は、昨年8月にオープンしたばかりの、「アメリカ山公園」 | |||
| の屋上での写真です。この公園の面白さは、地下鉄みなとみらい線「元町・中華街駅 | |||
| 舎」の上層部と横浜外国人墓地の北側斜面を一体化した全国初の立体都市公園です。 | |||
| 駅舎の3〜4階と屋上部分が横浜市の所有で、駅舎の1階からエレベーターまたは | |||
| エスカレーターで屋上に出ますと庭園が広がり、デパートの屋上を思い出します。 | |||
| しかも、そのまま進み屋上の庭園を出ますと、外国人墓地北側へつながり高低差の大 | |||
| きい谷戸坂を上る大変さが大幅に緩和されました。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (横浜中華街そのC最終) | |||
中華街案内板・その裏では⇒ |
重たいよう〜! |
店名看板 |
|
横浜関帝廟重建紀念碑文 |
横浜関帝廟重建紀念@ |
横浜関帝廟重建紀念A |
肉まんの碑 |
肉まんカラクリ人形 |
巨大餃子の宣伝 |
| 2010.07.11 | 梅原 | 益子陶器市 | ![]() |
| 益子陶器市 | 矢板市 梅原 実 | |
| 東京計器OBの皆様、いかがお過ごしですか。 東京計器OB会のホームページに | |||
| 2回目の投稿をさせていただきます。今回は、栃木県益子(ましこ)町の“陶器市”を | |||
| 訪れたときの様子を紹介させていただきます。 | |||
@ 共販センター広場の遠景 |
|||
| 1.益子町と益子焼 | |||
| 益子町は、宇都宮から東へ約20キロのところにある“益子焼”で有名な町です。 | |||
| 陶器市は、毎年、春(ゴールデンウィーク)と秋(11月)の年2回開催されています。 | |||
| 益子には400を超える窯元があり、陶器市にはこれらの |
A 共販センター広場のシンボル的たぬきの 焼き物 |
||
| 窯元や販売店が約500ものテントを張って作品を並べてい | |||
| ます。女房は、ほぼ毎年ゴールデンウィークにこの陶器 | |||
| 市を訪れて、いろいろな店をひやかしているようですが、 | |||
| 私はこの期間毎年舞鶴の実家に帰省しており、一緒に行 | |||
| ったことがありませんでした。 今年は都合で帰省しな | |||
| かったので、5月4日の夕方に女房のお供をして行って | |||
| みました。 | |||
B-1 共販センター広場のテント売り場の にぎわい |
B-2 共販センター広場に立ち並ぶテント群 - |
B-3 共販センター広場のテント売り場の内部(力作もあります) |
|
| 2.値段交渉 | |||
| 我が家から車で30分くらい走って、大駐車場に着いたのは夕方の4時頃でした。 | |||
| 我が家では、何でも値段の交渉をするのが通例になっています。女房は毎年来てい | |||
| るので、5時になると駐車場がタダになる(係りの人がいなくなる)ことを知っていた | |||
| ので、駐車料金(500円)の交渉をしてみました。しかし、今回は交渉不成立で500円払 | |||
| って車を止めました。 | |||
C 共販センター付近から里山通り方面を望む(5時頃でもこのにぎわい) |
|||
D 共販センターから陶芸美術館への道 (期間中テント売り場が並ぶ) |
女房と一緒に“ショッピング”に行く時は、私はたい | ||
| てい一人で勝手にブラブラしています。 | |||
| 今回も「じゃーね、何かあったら携帯に」と、カメラ | |||
| 片手にあちこち見て歩きました。 | |||
| 今回は、その時に撮った写真もいくつか紹介させて | |||
| いただきます。 | |||
| 3.益子焼と人間国宝:濱田庄司 | |||
| にわか知識ではありますが、益子焼は、近くで良質の |
E 陶芸美術館へ行く通路にあった焼き物の 説明(へー、そうなんだ) |
||
| 粘土がとれたことから、江戸時代末期ころから水がめ、 | |||
| すり鉢、土瓶、壷、皿等台所用品・日用雑器を作るよう | |||
| になり、大消費地江戸へ供給していた、ということです。 | |||
| 信越線の横川駅で売られている、かの有名な“峠の釜 | |||
| めし”の器“窯っ子”も益子焼であると、初めて知りま | |||
| した。 | |||
| 益子焼を世界的に有名にしたのは、大正13(1924)年 | |||
| に神奈川県生まれの陶芸家濱田庄司(後に、第1回の人間国宝に認定)が益子に居を構 | |||
| え、登り窯を作って独自の作品を生み出したことからでした。 | |||
F 陶芸美術館内の旧濱田庄司宅 (益子焼を有名にした陶芸家) |
G-1 旧濱田庄司宅内部 (製作中の濱田庄司の写真と壷) |
G-2 旧濱田庄司宅内部 - |
|
H-1 復元された登り窯の遠景 |
H-2 復元された登り窯 |
陶芸美術館には、旧濱田 | |
| 庄司宅が移設・保存され、 | |||
| 登り窯が復元されています | |||
| (写真F〜H)。 | |||
| また、旧濱田庄司宅の庭 |
I 旧濱田庄司宅の庭にある昭和天皇歌碑 |
J 絵付け(皆川マスさん?) |
|
| には、昭和天皇が昭和22(19 | |||
| 47)年に益子を訪れられ、益 | |||
| 子焼の製造工程をご覧にな | |||
| られた際、74歳になるおば | |||
| あさん(皆川マス)が山水画 | |||
| の絵付けをする工程の実演 | |||
| に感銘されて詠まれたとい | |||
| う歌を、濱田庄司が書として表したという歌碑が立てられています(写真I、J)。 | |||
| 「さえもなき媼(おうな)のゑかくすゑものを |
K かまぐれの丘に設置されたテント売り場 “かまぐれ”とは、焼き物の世界を渡り歩く渡り 職人のこと |
||
| 人のめつるもおもしろきかな」 | |||
| 歌碑の横に立つ説明書きにはこのあたりの事情が書か | |||
| れていますが、歌の内容については、よく分かりません | |||
| でした。 | |||
| 後日Webで調べてみましたが、なかなか歌の意味に | |||
| ついて解説したものが見つかりませんでした。 | |||
| が、やっと勇気ある人が歌の解釈を紹介したものを見 | |||
| つけ納得しました。いわく「学問がないようにみえるおばあさんが陶器に絵付けした | |||
| ものを(学問がある)人たちがその出来栄えをほめているというのは、素晴らしいこと | |||
| だ」とか。 | |||
| 4.お気に入りの壺と晩ご飯の焼き魚皿 | |||
| 1時間半ほど歩きまわったところで女房から携帯に連絡が入り、「気に入った壷と | |||
| 焼き魚を乗せる皿が見つかった」というので指定された店に急行、買い求めました。 | |||
| ちなみに、壷については交渉の末、30%の Discount を Get できました。 | |||
| 陶器市の期間の最終日間近だったので、思い切ってまけてくれたのかも。 | |||
L 焼き魚の皿を買い求めた大宿窯店内 |
M 壷を買い求めた大誠窯の前景 |
N 壷を買い求めた大誠窯店内 |
|
| 2010. 7. 7 | 稲垣 | 中国上海で「第九」を歌う | ![]() |
| 中国上海で「第九」を歌う | 鎌倉市 稲垣 貢 | |
| 中国と「第九」のジョイントコンサートが上海で開かれる | |||
| 神戸市と上海市が「第九」のジョイントコンサートを上 |
上海市の私 |
||
| 海で行うこととなり、我々東京地区も特別参加しました。 | |||
| 会場は上海市の大変立派な上海東方芸術センターで、 | |||
| 「第九」を日本と中国が一緒に歌うために、気分も高揚 | |||
| して勇躍上海を目指して出かけました。 | |||
| おりしも上海市は5月1日から10月31日まで『中国20 | |||
| 10年上海万国博覧会(万博)』が華々しくオープンした | |||
| ばかりでした。5月26日に出発した我々を迎えてくれた | |||
| 上海は目を見張るばかりの賑やかさで、特に万博会場は呆れるほどの広さで設備も素 | |||
| 晴らしく、中国館をはじめ日本館も大変賑やかに頑張っていました。この万博に中国 | |||
| が力を入れているのがひしひしと感じられました。 | |||
太鼓が上海に鳴り響く! |
豪華な中国館 |
万博会場風景 |
|
豪華な中国料理屋 |
世界最高上海球金展望台の観光 |
動物園のパンダ赤ちゃんは可愛かった |
上海東方芸術センター |
実は4年前に「第九」を北京で歌った時にも、帰りに | ||
| 上海にも立ち寄って高層ビルの凄さに驚いたものでした | |||
| が、4年後のいまの街は更に高層ビルが多くなっていま | |||
| した。 | |||
| 今回は万博会場内でも「第九」と中国の歌を歌う機会 | |||
| がありました。大勢の聴衆からは大変な大きな拍手をい | |||
| ただき感謝でした。 | |||
| このたびの「第九」のツアーでは4千年の歴史を持つ |
上海ビル街 |
||
| 中国という国の力を、マザマザと見せ付けられた気を強 | |||
| く感じた1週間でした。(上海のホテルも大変立派、食 | |||
| 事もとても美味しく満足) | |||
| 歌った「第九」では『人類みな兄弟だ・・・』と言う | |||
| が、今回は、まさに『人類みな兄弟だ・・・』と感銘を | |||
| 受けたよい「第九」のツアーでした。 | |||
| 「隣の国とは仲良くしなければ・・・」との思いを強くした思い出に残るツアーで | |||
| した。 | |||
| 2010. 7. 4 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−9(水無月の行事) | ![]() |
| 古典落語をより楽しむために−9 | ||
| 水無月の行事 | 佐野市 須貝 義弘 | |
| 富士詣り | |||
| 「富士詣り」と云う噺があるが、江戸時代には、六月朔日の富士山の山開きを中心に、 | |||
| 五月二十八日頃から、六月中旬にかけて、五〜六人から二十人前後の人達が白装束、 | |||
| 草鞋、菅笠姿、大きな数珠の襷がけで、金剛杖をついて富士を目指した。 | |||
| 一方、いろいろな都合で登山できない人達は、「心眼」 |
富士詣り |
||
| と云う噺にもでてくるように、各所神社境内の富士山に | |||
| 見立てて作られた小丘に、前述の姿をして登山?した。 | |||
| 江戸後期の富士信仰は、現在では想像もできないほど | |||
| 盛んであったようで、石を積み上げて作った箱庭式の富 | |||
| 士さんでも、けっこう信仰の対象になったようである。 | |||
| 手習い始め | |||
| 上流社会と云うか、比較的余裕のある家庭の子供たちは、男女とも六才になると、 | |||
| 六月六日から手習い師匠の家(女子は女師の家)へ通い始めた。この事は、現在も残っ | |||
| ており、例えば私の関係する能楽界の先生方も、六才の六月六日に稽古を始める人が | |||
| 多いと聞く。昔のこれらは、俗に云う寺子屋であって、読み、書き、算盤、師匠によ | |||
| っては行儀作法、徳義の教育まで行った。寺子屋は、江戸市中殆ど、どこの町にもあ | |||
| って、小規模の所でも五十人、大きなものでは二百人以上の弟子(俗に手習い子)を | |||
寺子屋 |
寺子屋の教科書 |
預かっていた。入門の際は、 | |
| 親が連れ添って師匠宅へ伺 | |||
| い、城扇一対か、銭百文か | |||
| ら一朱(一両の十六分の一) | |||
| を包んで届け、盆、暮、五 | |||
| 節句にも、身分相応の金を | |||
| 包んだ。尚、手習い師匠の | |||
| 教えた書道には、「御家流」、 | |||
| 「溝口流」、「大橋流」、「花形流」などがあり、なかでも、御家流、溝口流が盛ん | |||
| であったようである。 | |||
| 山王祭り | |||
| よく知られている神田明神、浅草三社祭、と並んで、 |
山王祭り |
||
| 江戸時代の三大祭りの一つで、特に山王祭は、神田祭と | |||
| 共に天下祭といって六月一五日が祭礼である。子、寅、 | |||
| 辰、午、申、戌年の隔年に行われ、その年を本祭りと云 | |||
| った。天下祭とは、将軍家から費用として金一封が出て、 | |||
| 将軍も上覧するところから名づけられたと云われる。 | |||
| 大山詣り | |||
| 落語「大山詣り」にあるように、六月二十八日に、 |
大山女坂 |
||
| 大山 石尊大権現へ登山するのを初山と云い、大山公の | |||
| 連中が登山した。 | |||
| 2010. 6.13 | 砂田 | いま、高尾山があつい! | ![]() |
| いま、高尾山があつい! | 相模原市 砂田 定夫 | |
| 〜ミシュラン三つ星で人気上昇中〜 | |||
| 1.人気の秘密は? | |||
| 近頃高尾山へ行くと、雰囲気が以前と大分変わったよ |
砂田さん |
||
| うに思います。ひところは中高年や家族連れが中心だっ | |||
| た登山道には、気軽な都会のファッションでやってくる | |||
| 若いカップルとか、ガイドブック片手に物珍しそうに訪 | |||
| れる外人客とかが目につくのです。 | |||
| 一昨年、地域のハイキングクラブで行ったときは、ハ | |||
| ッとするような若い女性が5人ばかり後ろから来たので、 | |||
| 「美女軍団のお通り!」と道をあけると、我々おじさん | |||
| おばさんを尻目にニコッと笑って颯爽と追い抜いていきました。最近では人気のTV | |||
| 番組「ちい散歩」でも高尾山が登場しました。高尾山ブームに火をつけた原因は、観 | |||
| 光地を星印で格付けするフランスのガイドブック、ミシュランの観光版(ギード・ベー | |||
| ル)日本編が2009年3月に発売され、最高評価の三つ星に高尾山が選ばれ、一躍人気 | |||
| スポットになったことによるのです。三ツ星というのは、「わざわざ訪れる価値のあ | |||
| る場所」が基準であり、例えば日光、法隆寺、姫路城、安芸の宮島といった名勝地が | |||
| 選ばれています。 | |||
| 週末、特に連休や桜・紅葉の季節など京王高尾線の高尾山口駅前は人、人、人でご | |||
| った返し、ケーブルやトイレの前では行列をよく見かけるし、狭い登山道では渋滞が | |||
| 起こるほどです。 | |||
| 2.高尾山の魅力とは? | |||
| 「山々には出あいがあった。いつの山にも、どこの山 |
緑豊かな自然林(稲荷山コース) |
||
| にも。しかし、小学校五年の秋の遠足に、はじめて武州 | |||
| 高尾山の頂きに立って、すぐ目の前にそそり立つ富士山 | |||
| を見仰いだときほど、大きなよろこびにひたされたこと | |||
| はない」これは田中澄江著『花の百名山』の一番目に登 | |||
| 場する「高尾山」の書き出しです。奇しくも私も最初に | |||
| 高尾山に登ったのが小学生5年の秋の遠足(昭和24年) | |||
| で、500mを超す山に登ったのもこれが初めてでした。京 | |||
| 王線はまだ通じてなくて、今のwR高尾駅が浅川駅だった頃です。以来、この山に35 | |||
| 回ほど登っています。東京から相模原へ引っ越して、近くなったせいもあって、今で | |||
| もよく出かけます。標高は599mの低山ですが、自然が豊かで、眺めがよく、歴史を感 | |||
| じさせる古刹があり、コースがたくさんあっていろいろ選択でき、次の山行のトレー | |||
| ニングにも向いているのです。四季折々楽しめ、特に秋から春にかけては最高ですが、 | |||
| 夏でも他の低山のように草いきれもなく、結構爽やかな風を感じながら快い汗をかけ | |||
| ば、下山してからのビールの味も格別というもの。身支度もさほど神経質に考えなく | |||
| てもよいので、私の場合は昼近くなって出かけても、1時間後には歩き出せるので、 | |||
| 気持ちのよい半日を過ごすことができます。心がけて朝のうち出かければ、頂上から | |||
| 足を延ばして城山、景信山、陣馬山などの何れかまで行って下ることもあります。 | |||
| 昨年の5月3日、GWの日曜日でしたが、混雑を覚悟でぶらり出かけてみました。 | |||
| 高尾山の頂上までは予想通り人が多かったのですが、一歩奥高尾の道へ足を延ばすと、 | |||
| 次第に人は少なくなり、モミジ台辺りからは人影もまばら、あとは眩しい新緑と八重 | |||
| 桜が咲く尾根を、ウグイスの声を耳にしたり、富士を眺めながらの楽しい山歩きでし | |||
| た。途中、中国人ファミリーらしい男女のグループと会いましたが、先頭を歩いてい | |||
| た男の子が「コンニチワ」と日本語ではっきり挨拶をしたのが印象的でした。縦走路 | |||
| にはミヤマスミレ、シロバナノヘビイチゴ、キジムシロ、チゴユリ、タツナミソウ、 | |||
| マムシグサが見られ、下り道ではヒトリシズカ、フタリシズカ、ナルコユリなどの花 | |||
| が咲いていました。この日は城山、小仏峠、景信山を越えて底沢峠から下り、旧甲州 | |||
| 街道(甲州道中)から相模湖駅まで歩きましたが、なかなか充実した一日でした。 | |||
| 3.高尾山の予備知識をちょっと! | |||
| 高尾山は関東山地の東端にあって、八王子市にある標高599mの山。都民や近郊の人 | |||
| のオアシスとして、日帰りハイキングのメッカになっていることはご存知の通りです。 | |||
| 1967年、明治の森高尾国定公園に指定され、自然研究路が設けられました。また、 | |||
| 東海自然歩道の基点にもなっています。ケーブルやリフトで470mくらいの高さまで | |||
| 簡単に行けますが、できれば足で登って達成感を味わいたいもの。 | |||
神変大菩薩(役の行者)像のあるお堂 |
この山の中腹にある薬王院有喜寺は古く、奈良時代に | ||
| 聖武天皇の勅願で行基が開いたと伝えられています。今 | |||
| 年は平城京遷都1300年で奈良は沸いていますが、聖武帝 | |||
| の時代といえば天平文化、遣唐使と共に大仏建立を思い | |||
| 浮かべます。初めは近江国(滋賀県)の紫香楽(しがら | |||
| き)に巨大な盧遮那仏(るしゃなぶつ)と大仏殿を着手 | |||
| し、後に遷都と共に今の東大寺に大仏を造りました。こ | |||
| のとき民衆に人気のあった僧行基が大きな力になったよ | |||
| うです。一大国家プロジェクトで260万人を動員し、関係の役所に勤務した官僚は1000 | |||
| 人を数えたという。高さ16mもの仏像の鋳造技術といい、全身の金メッキといい、当 | |||
| 時の人々の技術とかパワーは凄いとしか言いようがありません。寄り道してしまいま | |||
| したが、薬王院は後に真言密教の修行場となって栄えました。成田山新勝寺、川崎大 | |||
| 師平間寺と共に真言宗の三山とされています。 | |||
| 高尾山の自然林が今なお豊かな理由は、戦国時代、八 |
法螺貝を持った修験僧たち |
||
| 王子城主北條氏照が山内の森林を保護し、後に徳川幕府 | |||
| が直轄の御用林にしたためです。杉の巨木の並木があり、 | |||
| 山頂付近にはムササビが生息して、夜間その飛翔する姿 | |||
| を見て天狗を連想したのではないかという説もあります。 | |||
| 5〜6月には、セッコクというラン科の珍しい花が老木 | |||
| などに着生して咲くのも見所の一つです。自然が豊富な | |||
| 故に自然の保護という立場から、圏央道の工事に対して | |||
| 反対運動があったことは記憶に新しいところです。 | |||
| 山頂は十三州見えるという大見晴台となっており、富士山はじめ雄大なパノラマが | |||
| 得られます。中里介山はこの山の麓に草庵を結び、長編小説『大菩薩峠』を書いたと | |||
| いわれますが、この辺りの山水を愛したようで、作品の中では山頂からの眺めなど高 | |||
| 尾周辺のことを細かく書いています。 | |||
| 4.お薦めのコース | |||
| 最後に筆者がよく利用するお薦めコースをいくつか紹介します。詳しくお知りにな | |||
| りたい場合は、お問い合わせ下さい。 | |||
| @ 琵琶滝コース(6号路):ポピュラーな沢沿いのコース。登山道が細いので、休 | |||
| 日など渋滞することがあります。 | |||
| A 稲荷山コース:風と眺めの尾根コース。初めの登りと最後の階段がちょっときつ | |||
| いですが、筆者の好きなコースです。 | |||
| B 裏高尾コース:日影沢から森の尾根へ。静かな雰囲気を味わえるコース。 | |||
| C 蛇滝コース:しっとりした行者コース。琵琶滝と共に今でも滝に打たれて修行す | |||
| る人の姿が見られます。 | |||
| 以上のどれか二つを登り下りに組み合わせると、思い出に残るワンディハイクが計 | |||
| 画できます。唯一吊橋のある4号路は、現在通行止めになっているので予定する場合 | |||
| は確認して下さい。 | |||
| D 奥高尾コース:高尾山から陣馬山へ続く武相境尾根の縦走。途中、城山・小仏峠 | |||
| 景信山・底沢峠・明王峠・奈良子峠から下るコースがあります。 | |||
| 本格派向きには以下のハードコースがあります。 | |||
| E 南高尾山稜(峯の薬師・津久井湖への縦走) | |||
| F 北高尾山稜(八王子城山への縦走) | |||
| いずれにしても高尾山周辺には、初心者向きから健脚者向きの多様なコースがあり | |||
| ますが、事前調査と時間にゆとりをもってお出かけ下さい。 | |||
| 2010. 6. 6 | 清水 | 蓼科高原をベースに春咲き山野草を楽しむ | ![]() |
| 蓼科高原をベースに春咲き山野草を楽しむ | 横浜市 清水 有道 | |
| 例年よりも少し長いゴールデンウイーク連休の初めの3日間、高校時代の級友に誘 | |||
| われて、彼が白樺高原「緑の村」別荘地に持っている山荘をベースにして付近の春の | |||
| 山野草を愛でる旅をした。 | |||
白樺高原「緑の林」別荘地にある友人の山荘(標高1,400)からの八ヶ岳連峰 |
|||
| 1.初日の目玉はカタクリ、フクジュソウとニリンソウ | |||
| JRの特急「スーパーあずさ号」に乗れば新宿から2時間で茅野に着く。着く1時間 | |||
| 前までは寒冷前線の通過に伴う大雨が降っていたので、山道もまだ十分に水はけが良 | |||
| くないところを歩き始めた。友人が手際よく、効率的に方々に行けるようしっかり計 | |||
| 画を立ててくれたので、忙しいくらい盛りだくさんのスケジュールで回ることができ | |||
| た。 | |||
| 最初は茅野駅からさほど離れていない宮川地区西山に |
カタクリの花(八ヶ岳自然文化園) |
||
| カタクリの群生地を訪ねた。山地の中にあっても高度が | |||
| 多少低い土地であるためか、カタクリは既に花の盛りを | |||
| 過ぎて、少々色褪せかけていた。雨後のため花も十分に | |||
| 開いておらず、眺めるにも、写真にするにも今ひとつ迫 | |||
| 力がなかった。 | |||
| 次に諏訪市内湖南地区の板沢部落、「フクジュソウの | |||
| 里」に向かった。山村の田畑の土手に自生のフクジュソ | |||
| ウが咲き乱れていた。谷を上から下に段々の棚田があっ |
フクジュソウの群落(板沢部落フクジュソウの里) |
||
| たのだろうが、上部は殆んど畑となってしまったらしく、 | |||
| 今では半分くらいしか実際に使われていないようであっ | |||
| た。中には畑の中までフクジュソウがはびこっているよ | |||
| うである。養蜂家が日本各地に散って蜜集めをする前に、 | |||
| ミツバチ自身の成長、子孫育成用の蜜集めをこのフクジュ | |||
| ソウで行っている由であった。驚いたのはどの棚田や棚 | |||
| 畑の周囲の畦もフクジュソウの黄色一色に敷き詰められ | |||
| ていた。筆者は全国各地でフクジュソウにお目に掛かっているが、このように規模の | |||
| 大きい自生地を見るのは始めてである。しかし、秩父の宝登山に見られるような赤い | |||
| 花のものは一株もなかった。 | |||
| 次に移る前に、茅野市北山の杜鵑峡(トケンキョウ)に寄り、名物のサクラ蕎麦を | |||
| 出してくれる「東家」で昼食にした。蕎麦全体に桜の葉の香りが凍み込んだ美味しい | |||
| 出来であった。この場所は昆虫屋特に蝶屋には有名なところらしく、「キベリタテハ」 | |||
| を見付けて追ったが網に入れることは出来なかった。その代わりというわけではない | |||
| が、偶然渓谷や山地に多いシジミチョウの「コツバメ」を一頭捕獲できた。 | |||
| 昼食後は三番目の場所と |
ニリンソウの花(三井の森・龍神池畔) |
キクザキイチゲ(三井の森・龍神池畔) |
|
| して、ニリンソウ、キクザ | |||
| キイチゲ、フタリシズカの | |||
| 群落を見に茅野市豊平、広 | |||
| 見に跨る三井不動産の開発 | |||
| した別荘地「三井の森」の | |||
| 中にある竜神池畔に向かっ | |||
| た。この別荘地は広く、松 | |||
| 田聖子もここに別荘を持っていることで知られている由である。池の畔はザゼンソウ | |||
| の群落でも知られているが、シーズンはとっくに終わっているので、暗褐色の仏炎苞 | |||
| (ブツエンホウ)や花の跡形もなく、特徴のある葉のみが並んでいた。 | |||
| ニリンソウとキクザキイチゲが今を盛りにいっぱいの花の海であった。フタリシズ | |||
| カはこれからであろうか、蕾を付けた茎すら伸びてはいなかった。 | |||
| 以上の3箇所の訪問で初日は終わった。茅野市には市営の温泉が6箇所あるが、友 | |||
| 人の山荘に向かう前に、その内の一つ「尖石縄文(トガリイシジョウモン)の湯」に | |||
| 寄り、温泉気分を味わった。 | |||
| 2.2日目はカタクリとミズバショウ | |||
| 2日目は生憎寒冷前線の通過と重なり、朝から雷を伴うかなり強い雨が 降り続き、 | |||
| 昼前まで山荘で待機せざるを得なかった。一向に止む気配はないものの天気予報によ | |||
| れば、雨は午前中で上がり、急激に天候は好転し、初夏を思わせる陽気に変わると叫 | |||
| んでいるので、まだ降り止まぬ中を11時過ぎには山荘を出て茅野市内の「尖石考古館」 | |||
| を訪ねた。茅野の周囲に幾つもある縄文土器遺跡からの出土品を鑑賞したが、国宝や | |||
| 重要文化財もあって、大変見応えのあるものだった。 | |||
| 考古館から外に出れば、天気予報どおり、霧も雨も晴 |
多留媛(タルヒメ)神社の滝 |
||
| れ上がり、八ヶ岳の山並みも鮮やかに見える快晴に変わっ | |||
| ていた。早速喜び勇んで、市内の多留媛(タルヒメ)神 | |||
| 社の立派な滝を見に出かけた。かなり由緒有り気な神社 | |||
| にも拘らず、神社の真上に道路を繋ぐ橋が被さるように | |||
| 架けられていて、神社の鳥居もその陰に隠れて、これで | |||
| は神様のご利益を得ようとしていも、神様は許してはく | |||
| れまいと思った。観光案内書でも神社へのお参り目的で | |||
| はなく、市内にしては珍しい水量のある美しい滝を見る |
「まるやち湖」に映える八ヶ岳の山並み |
||
| ために一項を割いているとしか思えない記述がされてい | |||
| た。滝に続く渓流を跨ぐ歩道の小さな橋の袂にはリュウ | |||
| キンカが幾株か固まって育っているのが見えた。花は未 | |||
| だのようであった。 | |||
| 次に八ヶ岳自然文化園を訪ねた。長野県諏訪郡原村の | |||
| 財団法人原村振興公社が経営している。この公園にも、 | |||
| 「まるやち湖」という池があり、施設の外にはなるが、 | |||
| 風がなければ湖面に八ヶ岳の山並みが映えて美しい眺望 |
ミズバショウの花が盛り(八ヶ岳自然文化園) |
||
| ポイントとなっている。 | |||
| 周囲を現地では八ヶ岳中央高原と称している。大きな | |||
| 山野草園があり、木道を歩いて一周できるよう設計され | |||
| ている。訪ねたときはちょうどカタクリが満開で群生し | |||
| ている様と池のミズバショウの花が最盛期であった。 | |||
| 5月も中旬になればクマガイソウ、オダマキ、ウラジ | |||
| ロキンバイ、サクラソウ、クリンソウ、6月に入ればア | |||
| ヤメ、キスゲ、アカミメクサ、ヒメウツギ、エゾシモツ |
某別荘地 |
||
| ケ、ハコネウツギ等の花が見られるという。サクラソウ | |||
| とベニバナイチヤクソウが一面に芽吹いているのが眺め | |||
| られた。 | |||
| これで自然の花を見る旅もメイン・イヴェントを終え、 | |||
| 遅い昼食を自然文化園内のレストランで取り、前日同様 | |||
| 茅野市営の別の温泉「塩壷の湯」で温泉入浴して山荘に | |||
| 戻った。途中民間の山野草園に寄り、どういう山野草や | |||
| 花の樹木が売られているのかを眺めてみた。アズマシャクナゲの大きな株が3千円で | |||
| 売られていたのにかなり触手が動いたが買わずに済ませた。友人と共に付近の渓流で | |||
| 自生しているクレソンとセリを摘み、その日の夕餉の食材とした。山の辺の散策には | |||
| こういう楽しみもあり、嬉しい。遠い戦時中の疎開先での日常生活をふと思い出した | |||
| ことだった。 | |||
| 2010年5月12日(水)記 | |||
| 2010. 5.29 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その8) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その8) | 横浜市 小田 茂 | |
| 3.山 手(その4) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 『横浜:山手』の4回目となりますが、今回は「横浜外国人墓地」特集です。 | |||
| なお、「番外編」は、東京計器が小石川から蒲田に移転して80歳を迎え、その関連 | |||
| 情報と、地元横浜の80歳記念建造物をご紹介します。 | |||
| (36) 横浜外国人墓地 | |||
| 「横浜外国人墓地」が正式名ですが、地元では「外人 |
横浜外国人墓地正門 |
||
| 墓地」で通っています。しかし、「外人」という言葉が | |||
| 「差別用語」という説も有り、「外国人」と呼ぶように | |||
| なりましたが、右写真を拡大すれば分りますが、正門に | |||
| も「外人墓地」として残っている部分も有ります。 | |||
| 外国人墓地は、山手本通りの東側の一番外れに位置し、 | |||
| 地下鉄みなとみらい線「元町・中華街駅」から10分弱の | |||
| 「港の見える丘公園」の直ぐ側にあります。 | |||
| そもそもの始まりは、嘉永6年(1853年)にペリー提督が「黒船」4隻を従え、三 | |||
| 浦半島の久里浜に上陸して幕府に米国大統領の親書を渡し開国を迫りました。 | |||
墓地と桜とラウンドマークタワー |
ミシシッピー号 |
その翌年の安政元年(185 | |
| 4年)に、ぺリーは開国交渉 | |||
| のため7隻の艦隊を引き連 | |||
| れ再び来日しました。 | |||
| 横浜停泊中に、ミシシッ | |||
| ピー号の乗組員ロバート・ | |||
| ウィリアムズという24歳の | |||
| 二等水兵がマストから落ち | |||
| て死亡しました。この水兵の埋葬地としてぺリーは米国専用の墓地を要求し、その中 | |||
| に「海の見える地」という条件もあり、ウィリアムズはここに埋葬され外国人墓地埋 | |||
| 葬者の第1号ともいわれています。 | |||
| 外国人墓地の埋葬者数は40ヵ国4,800人といわれておりますが、墓地の管理は市や国 | |||
| でなく、財団法人の手によって維持管理されています。 | |||
| 基本的に内部は非公開ですが、その維持費の大半はボランティアの方の手にとって、 | |||
| 3月から12月のまでの土・日・祭日に行われる公開日の募金(1口200円)で賄われ | |||
| ているそうです。私も今回数十年振りに墓地敷地内に入りました。 | |||
資料館内ステンドグラス |
巨木 |
また埋葬されている人々 | |
| の業績を紹介する資料館が | |||
| 併設しています。 | |||
| 墓地内には歴史をうかが | |||
| えるように、巨木も見られ | |||
| ます。公開された場所は | |||
| 「墓地」の極一部分です。 | |||
| なお、今回の取材?にあたって、パソコン勉強会の先輩仲間のTさんの義母様が、 | |||
| 昭和50年にこの地に埋葬されておられる関係から、貴重な資料を参考にと貸してくだ | |||
| さいました。ありがたく感謝し、紹介文面に活用させていただきました。 | |||
| @ スウィフト(wohn Trumbull Swift)アメリカ人 |
スウィフト |
||
| 文久1年(1861年)〜昭和3年(1928年) | |||
| 北アメリカYMCA同盟から日本のYMCAに派遣さ | |||
| れた最初の名誉主事。 | |||
| 私財を献じて東京YMCA会館を建設。日本YMCA | |||
| の大恩人である。夫婦の墓は外国人墓地には珍しい連理 | |||
| 比翼の塚である。 | |||
グリフィン |
A グリフィン(Clarence Griffin)イギリス人 | ||
| 明治6年(1873年)〜昭和26年(1951年) | |||
| 日本初のボーイスカウトを創設。二歳の時来日、父は | |||
| 中華街の一画で一般貿易業。山手居留地に住む。明治44 | |||
| 年(1911年)に横浜に住むイギリス人など4ヵ国の少年 | |||
| 18名を集め、ボーイスカウト隊を結成、山手ゲーテ座で | |||
| 発会式を挙げたといわれています。 | |||
| B ブラック(Heney wames Black)イギリス人 |
ブラック |
||
| 安政4年(1857年)〜大正12年(1923年) | |||
| 日本に帰化し最初の外国人落語家。青い目の落語家と | |||
| して人気を集め、明治36年(1903年)頃、落語を初めて | |||
| レコード化したともいわれています。 | |||
| また、明治26年(1893年)浅草の菓子商石井家養子と | |||
| なって娘と結婚後帰化したが、1年後に離婚しました。 | |||
| 芸名は「快楽亭石井ブラック」だそうです。 | |||
| C モレル(Edmund Morel)イギリス人 天保12年(1841年)〜明治4年(1871年) | |||
| 鉄道技術者で、我が国初めての鉄道建設に当り、鉄道建築師長として最初に来日し | |||
| た。創業時の鉄道建設計画をたて、初代建築師長として、新橋・横浜間の鉄道建設に | |||
モレル |
看板 |
鋭意努力したが、工事完成 | |
| 見ず29歳の若さで、過労に | |||
| よる肺結核が悪化し急逝。 | |||
| 日本が何時までも外国人 | |||
| に頼ることなく技術学校を | |||
| 創設して技術者の養成を進 | |||
| 言し、自らも教育指導に当 | |||
| たりました。 | |||
| D マイヨ(H.X.Maillot) フランス人 |
マイヨ |
||
| 天保2年(1831年)〜明治7年(1874年) | |||
| 東京帝国大学物理教授 明治5年(1872年)明治天皇 | |||
| が南校(東大の前身) 臨幸の際には、フランス語の | |||
| “御前講義”をされています。 | |||
| 墓碑には「法蘭西国人理学士邁誉君之墓」と漢字で刻 | |||
| みこまれています。 | |||
グラウェルト |
E グラウェルト(Herman Ludwig Grauert | ||
| 天保8年(1837)〜明治34年(1901)ドイツ人 | |||
| 横浜慰留地の貿易商。安政4年(1857年)兄と共に来 | |||
| 日、開港と同時に兄と「樟脳、砂糖、天然塩、ガラス、 | |||
| 生糸」等を扱い有力な商館となる。文久元年(1861年) | |||
| 横浜天主堂(山手カトリック教会の前身)の創建に尽力 | |||
| し日本開港後、最初のカトリック教会です。多分、資金 | |||
| 的援助でしょう。同じく横浜ゼネラル・ホスピタル(現 | |||
| 在の山手病院の前身)の創設にも大きく貢献しました。 | |||
| F カイパー(wennie M.Kuyper) アメリカ人 |
カイパー |
||
| 明治5年(1872年)〜大正12年(1923年) | |||
| 明治38年(1905年)宣教師として来日、フェリス英和 | |||
| 女子学校教師に就任、大正11年(1922年)フェリス女学 | |||
| 院第3代校長でしたが、大正12年(1923年)9月1日の | |||
| 関東大震災は、夏休み明けを間近にし、校務整理のため | |||
| 校舎内で執務していた彼女の命を奪ってしまいました。 | |||
| 現在のフェリス女学院中学・高校の礼拝堂は「カイパ | |||
| ー記念講堂」と名付かれて、その位置は正にカイパー殉職の場所とのことです。 | |||
| G トーマス(Thomas Thomas) 天保13年(1842)〜大正12年(1923年) | |||
| イギリス人 横浜居留地の手形仲買人。 | |||
| 万延2年(1861年)に来日、日本初の西洋式競馬場「根岸競馬場」の理事を明治33 | |||
| 年(1900年)〜大正11年(1922年)まで務めたが、翌年関東大震災に遭って死去。 | |||
| H ウォルター (wames Walter)弘化4年(1847年)〜明治42年(1909年) | |||
| イギリス人 横浜居留地の事業家。 キリスト教会設立の資金援助、震災や飢餓な | |||
| どの邦人救済、また日露戦争の傷病兵援助などに多大な尽力をされました。 | |||
| I ラウダー(wohn Frederic Lowder) | |||
| 天保14年(1843年)〜明治35年(1902年)イギリス人 | |||
| 文久元年(1861年)に来日、横浜駐在の領事、横浜税関法律顧問として明治19年 | |||
| (1886年)イギリス汽船ノーマント号沈没事件で、日本政府の代言人として日本人犠 | |||
| 牲者への補償追及に活躍されたのは裁判史上でも有名だそうです。 | |||
トーマス |
ウォルダー |
ラウダー |
|
エルドリッジ |
J エルドリッジ(Stuart Eldridge) アメリカ人 | ||
| 天保14年(1843年) 〜明治34年(1901年) | |||
| 明治4年(1871年)来日した医師で、明治8年(1875 | |||
| 年)居留地で開業。日本政府中央衛生委員。火葬の提唱 | |||
| 者で自らも遺言によって火葬に付された。夫人が眠る山 | |||
| 手外人墓地に娘の手によって埋葬された。 | |||
| 表通りの鉄柵のすぐ側で十字架の下に夫婦揃って永遠 | |||
| の眠りについています。 | |||
| K ゼーバッハ(日本の監獄制度を近代化改良に貢献) | |||
| L マリア像(セントジョゼフ カレッジ閉校後、旧校庭より記念碑として移築) | |||
| M 戦没者慰霊碑(横浜から第一次世界大戦へ出征し死亡した外国人達の慰霊碑で、 | |||
| 両面に沢山の戦没者の氏名が刻み込まれております) | |||
ゼーバッハ |
マリア像 |
戦没者慰霊碑 |
|
| ≪チョッと変わった碑のご紹介≫(詳細不明) | |||
墓碑21 |
墓碑22 |
墓碑23 |
|
墓碑24 |
墓碑25 |
墓碑26 |
墓碑27 |
墓碑28 |
墓碑29 |
| ≪番外編≫ 小石川から蒲田へ移転してから、80歳をを迎える! | |||
| 昭和5年生まれの同期生 “氷川丸”“日本丸”横浜で80歳誕生祝行事開催! | |||
| 大型連休は好天に恵まれましたが、皆様如何お過ごしでしたか。私は365日超大型連 | |||
| 休の身ですので、毎年この時期は、テレビで交通渋滞の画面を見ながら「うちが一番 | |||
| いいね!」と慰めあいながら?、家でおとなしくしているのが定番となりました。 | |||
| 地元横浜では、昭和5年生まれの、客船「氷川丸」、帆船「日本丸」の80歳誕生記 | |||
| 念の行事が新聞報道されました。 | |||
| 昭和5年といえば東京計器が小石川から蒲田へ移った年です。蒲田の私達が永年お | |||
| 世話になった時計台のある旧建物は、「氷川丸」、「日本丸」と同期生なんですね。 | |||
| 航海計器製造の会社に在職した者にとって何か感慨深いものを感じます。 | |||
| 会社は今年5月に114歳を迎えましたが、小石川で誕生して34才までいて、蒲田で80 | |||
| 年間と会社にとっては誕生後の70%が蒲田での活動だった訳ですね。 | |||
| 会員では昭和5年生まれの同期生の方は、22名おられます。皆さんお元気です。 | |||
| また、今では小石川時代、昭和5年の蒲田本社・工場時代を知っておられるのは、 | |||
| OB会最長老の名誉会員:廣瀬富三郎さんだけとなりました。廣瀬さんは、今年2月 | |||
| に104歳になられました。この度の「返信はがき」には、『100才の時には寫眞等を撮 | |||
| っていただきまして有難うございました。総会には出席したいと思っていますが、健 | |||
| 康に自信ありませんので欠席させて頂きます。皆様によろしく』と記されておりまし | |||
| た。100歳のお祝い時に野村幹事と川崎のご自宅にお伺いした時は、奥様共々お元気で | |||
| したが、その後奥様が亡くなられ、現在は有料老人ホームに移られ、歩行に難がおあ | |||
| りのようですが、お元気にお過ごしです。どうかお達者でお過ごしを祈願いたします。 | |||
| ★ 東京計器 | |||
| 明治29年(1896年)5月1日、東京市小石川区原町 |
東京計器(大谷幹事提供) |
||
| (現在の文京区白山)で誕生、創立以来34年間所存して | |||
| いた小石川本社から蒲田へ、昭和5年(1930年)5月移転 | |||
| を開始し、6月22日木工所、鋼工場、鍛工場を除いて | |||
| 大部分の移転を完了した。 | |||
| 蒲田工場の建物は余り立派すぎて工場というよりは | |||
| デパートのような感じであった。便所も大理石が使用 | |||
| された。当時近代的な模範工場といわれて、業界で有名 | |||
| になり、参観者も非常に多く、特に工員食堂、更衣室、洗面所は非常に立派であった。 | |||
| この歴史ある建物は、昭和63年(1988年)4月に竣工した本社ビル(Eセンター)の | |||
| 建設に伴い、56歳の生涯を終えた。 (参考:100年史) | |||
| ★ 氷川丸 | |||
氷川丸 |
氷川丸は、昭和5年(1930年)4月25日 三菱横浜造船 | ||
| 所(横浜船渠株式会社)にて竣工し、5月シアトル航路 | |||
| の処女航海をいたしました。 | |||
| 総トン数11,622t、全長163.3m、前幅20.1m、船客定員 | |||
| 331名、乗務員126名の日本の代表的豪華客船として活躍 | |||
| しました。 | |||
| 昭和7年(1932年)チャーリー・チャップリン、昭和 | |||
| 12年(1937年)には、イギリス国王ジョージ6世の戴冠 | |||
| 式からの帰国時に秩父宮夫妻が乗船する等、日本の代表的豪華客船として活躍しまし | |||
| た。 戦時中は病院船として、終戦後は復員・引揚者の輸送に使われました。その後、 | |||
| 昭和和28年(1953年)にシアトル航路に復帰し、昭和35年(1960年)に引退しました。 | |||
| 昭和36年(1961年)に生まれ故郷の横浜港(山下公園前)に係留されております。 | |||
| 船名は埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)の氷川神社に由来し、今でもブリッ | |||
| ジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され祀ってあるそうです。 | |||
| ★ 日本丸 | |||
| 日本丸は、昭和5年(1930年)1月27日、大型練習帆 |
日本丸(瀧川監査提供) |
||
| 船として神戸の川崎造船所で誕生いたしました。 | |||
| 総トン数2,279.7t、全長97.1m、全幅12.9m、総帆数 | |||
| 29枚、定員138名で、その帆走の美しく、かつ気高い姿か | |||
| ら「海の貴婦人」、「太平洋の白鳥」と呼ばれた日本丸も | |||
| 戦争のため、昭和18年(1943年)には、帆走を解かれ | |||
| ねずみ色に塗り変え瀬戸内海で石炭輸送に、また戦後は、 | |||
| 海外邦人の復員船として引揚者を輸送、遺骨収集の任務 | |||
| に従事しました。 | |||
| 昭和27年(1952年)に帆も復旧され、船体も純白に戻り活躍しましたが、昭和59年 | |||
| (1984年)9月に日本丸U世の誕生を機に引退しました。 | |||
| 遠洋処女航海も横浜港から始まり、太平洋戦争までは遠洋航海時の出港は殆んど横 | |||
| 浜港でした。したがいまして、引退後は故郷であります横浜のwR桜木町駅近くの日 | |||
| 本丸メモリアル・パーク内(横浜船渠株式会社第一号ドック:石造りドック)の中に | |||
| 水をはった状態で、昭和60年(1985年)から一般公開されています。 | |||
| 2010. 5.23 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−8(江戸の春) | ![]() |
| 古典落語をより楽しむために−8(江戸の春) | 佐野市 須貝 義弘 | |
| 四月と云えば江戸時代は、ころもがえ(更衣)、かんぶつえ(灌仏会)、初鰹、藤 | |||
| 牡丹、物売り、植木屋、かきつばた(杜若)、ほととぎす(杜鵑)が浮かびます。 | |||
| 「更衣」 | |||
| 江戸時代は、多少極端と思われるくらい、季節と衣類の関係を重視した。四月に入 | |||
| ると朔日から綿入れを脱ぎ、五月四日まではあわせ袷で暮らし、足袋も九月八日まで | |||
| 履かないとある。 | |||
| 会社でも、私が入社した昭和29年(1954)頃は、決まった作業服は無く、「手前 | |||
| 持ち」であった。男性の中には旧陸軍の軍服を作業服にしていた方もおられた。その | |||
| 後会社から支給されるようになったが、衣更えの決められた日は無く、気候に合わせ | |||
| て半袖に着替えたと記憶している。 | |||
| 「灌仏会」 | |||
| 四月八日(釈迦如来の降誕の日)に花の御堂をつくり、中に銅の釈迦仏を置いて、 | |||
| 参詣人に頭から甘茶をかけさせた。甘茶は俗に云う甘茶の木の葉を煮出した液で、甘 | |||
| いところから甘露になぞらえて使ったとある。種々の花で飾った小堂を作り、水盤に | |||
| 釈迦の銅像を安置し、甘茶{正しくは五種の香水}をた |
灌仏会 |
||
| たえ、参詣者に小柄杓で釈迦の像に注がせる。参詣者は | |||
| 甘茶を持ちかえって飲む。古くからおこなわれてきたが、 | |||
| 記録上は平安初期の承和七年(841)に始まるとある。 | |||
| 上野寛永寺、芝増上寺、回向院等の灌仏会は有名であっ | |||
| た。もちろん他の寺でも行われていたが、真宗の寺では | |||
| 行われていなかった。潅仏会は平常あまり外出しない婦 | |||
| 女子の参詣人が圧倒的に多かったと云われる。 | |||
| 「初鰹」 | |||
| 江戸時代「鎌倉は生きてい出けん初鰹」と云う芭蕉の句が示すように、鎌倉周辺の | |||
| 沖で釣れた初鰹は、押送舟(帆を用いず艪だけで舟を押し送り=進めること)で、寸 | |||
| 時を争って河岸へ持ってきたので、最初は目の玉の飛び出るような高価であったそう | |||
| な。かつおの最盛期には、馬の背にも載せて運んで来たとある。当時、長屋の住人た | |||
| ちの中には「袷化して ひとえ単衣になるや 初鰹」の川柳どおり、おっちょこちょ | |||
| い天気の連中は高価をいとわず、それを食うのを自慢したとある。(私もディズニー | |||
| ランドや、東京ドームが出来たときなど、真っ先に駆けつけるし、この辺(佐野や栃 | |||
| 木)が本場の苺を一番早く食べるようにしているので、江戸っ子をおっちょこちょい | |||
| とは云えない) | |||
| 「藤や牡丹」 | |||
牡丹 |
牡丹は、江戸時代にはあまり栽培されてなかったので、 | ||
| 珍重され、百花園、谷中の天王寺の善明院、染井、特に | |||
| 深川永代寺の牡丹は江戸一の岡場所地の地続きなので( | |||
| すぐ、こういう噺になりますが、地図を見ても近い)遊 | |||
| 蕩児の口実に使われたようである。 | |||
| 藤は、「佃祭り」の噺にも出てくるように、佃島の住 | |||
| 吉神社境内と、広重百景にも描かれている亀戸天神境内、 | |||
| また下谷坂本の円光寺と小石川茗荷谷の伝明寺は共に藤 | |||
| 寺と云われたほどの名所である。近年では、足利のフラワーパークが有名で東京計器 | |||
| OB会に観光コースとして選ばれたり、NHKのテレビでも紹介されるなど見事なも | |||
| のである。 | |||
| 脱線の話でどうもすみません | |||
| また、落語の話になり、「どうもすいません」ですが、古典落語の中には、その原 | |||
| 話が中国やインド等に求められるものがあり、「佃祭り」と云う噺もその一つで、中 | |||
| 国清代初期(1680)前後に、元時代(1271〜1364)の出来事を収録した「輟耕」(陶 | |||
| 宗儀著)の中の「飛雲の渡」を参考にして作られた噺と云われる。この噺は人情噺「 | |||
| ちぎり伊勢屋」「白井左近」にも取り入れられているとあるが、私はこの噺は聞いた | |||
| ことがないので、詳しいことは不明だが、元の話の概要は次のようである。 | |||
| 風波で渡し舟が転覆するので有名な「飛雲の渡」で、 |
藤 |
||
| ある男がここを通りかかり、身投げしようとする女を助 | |||
| けた。訳を聴けば女は奉公先の主人の使いで、銀製の耳 | |||
| 飾りを届ける途中、紛失したという。男は金をやって別 | |||
| れたが、一年後、大勢の仲間とこの渡しへ来て、いざ船 | |||
| に乗ろうとしたとき、偶然にも、近くの床屋に嫁したと | |||
| いうあのときの女に会った。女は礼をしたいと無理に引 | |||
| き止め、彼だけが残ったところ、仲間たちの乗った船は | |||
| 転覆して、全員溺死したという話。 | |||
| 一方、文化四年(1807)8月19日には永代橋で深川よりの橋脚がめり込んで、数 | |||
| 百人の溺死者がでるという事件が起きた。原因は深川八幡の祭礼が数年ぶりに復活さ | |||
深川八幡祭 |
れ、さらに神輿の渡しが雨で同日に延期さていたので、 | ||
| いつにない人出があったからであったと云われている。 | |||
| この出来事から「おつこち」と云う語が流行し、ここか | |||
| ら素材を得て「佃祭り」の噺が出来たとされる。「江戸 | |||
| 時代の四季」から脱線したが、脱線ついでに「佃祭り」 | |||
| に関して話を続けると、佃島については異説もあるが、 | |||
| 天正十八年(1590)家康の入府にともない摂津の国の佃 | |||
| 村(地図がないので未確認だが、現在の大阪市西成区あ | |||
| たり)の庄屋(名主)森孫右衛門が一族六名を引き連れて江戸のこの地に移り住んだ | |||
| のが初めである。その後、同村の漁民を呼び寄せ正保元年(1644)故郷の名にちなん | |||
| で佃島と名づけたとされる。百間四方の土地と共に隅田川とその川口一帯の漁業権を | |||
| 与えられた島民は、その代償として捕った魚の一部を将 |
佃島 |
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| 軍家の毎日の食膳に献上した。そして余ったもの(と云 | |||
| ってもそれが大部分であるが)を、日本橋北詰の袂で商 | |||
| っていた。これが大正十二年関東大震災まで魚河岸とい | |||
| われた市場の起源である。 | |||
| 佃島の漁師は、漁に出るときの弁当の惣菜に魚を塩辛 | |||
| く煮付けて持参したが、これが江戸っ子の舌にあったた | |||
| め、佃煮と呼ばれて世間一般に普及したのである。江戸 | |||
| 時代から明治にかけて、佃の島民は残らず西本願寺の檀家であったが、日常生活では | |||
| 信仰の対象は航海と漁猟の神様といわれる住吉神社であった。これは大阪の住吉神社 | |||
| を分祠したものであって、その祭礼が「佃祭り」なのである。大阪住吉神社の祭礼も | |||
| 盛大であるが、佃島では土地と家屋との殆どが自分の所有で、借家がなく、従って比 | |||
| 較的裕福な島民が多かったから、佃祭りは江戸の名物となるほどの盛況であった。祭 | |||
| 礼の時に囃す「佃囃し」は「神田囃し」、「葛西囃し」と並んで「江戸の三大囃し」 | |||
| と云われ、立派な神輿が繰り出した。 | |||
| もともと、佃島は周囲の景観も良く、また住吉神社の境内は「藤」の名所であった | |||
| から落語に関係の深い江戸時代後期には、春から夏にかけ、江戸から大勢の人々が遊 | |||
渡し船 |
びに行ったとある。明治になっても文士と称する連中は、 | ||
| 避暑といっては佃島へ赴き、東京の庶民たちは海水浴を | |||
| 楽しんだとある。 | |||
| 佃の渡し舟は、島民が仕事の片手間に始めたものであ | |||
| るが、繁昌すると、自然に渡し舟の株制度が出来た。初 | |||
| めは一文であった舟賃が江戸の後期には、四文、明治に | |||
| なってからは五厘となり、俗に「五厘の渡し」と云われ | |||
| た。その後、近年佃大橋が出来るまでは都営で無料の蒸 | |||
| 気の渡し舟があった。 | |||
| 「物売り」 | |||
| 4月になると待ちかねた苗売りが、眠気を催すような |
物売り |
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| 声で、のんびりと「朝顔のない苗や夕顔のオオ苗、玉蜀黍 | |||
| の苗ゃア、へちまの苗、茄子の苗や唐辛子の苗、白粉の苗 | |||
| ゃア胡瓜の苗、瓢箪の苗や冬瓜の苗」と流して売り歩い | |||
| た。苗売りは蜜柑箱のような大・中・小の箱を天秤で担 | |||
| ぎ、山の手へも売りに行った。なお下町はもちろん現在 | |||
| とは比較にならぬものの、当時も空き地が少なかったた | |||
| め、植木鉢、また箱で苗を栽培して台の上や屋根の庇に | |||
| 置いておく家が多かった。 | |||
| 「植木屋」 | |||
| 「うえエ きー…花ア、うえ木やア…うえエ きア、うえエき」と呼んで草木を売りに歩いた。 | |||
| 4月の売り物は金盞花、延命菊、三色菫などの鉢物、下旬になると、花菖蒲、躑躅、 | |||
| 杜若などの草花と植木を持ち歩いた。各所の縁日でも植木屋は集団的に並んでおり、 | |||
| ひどい掛け値をふっかけたが、値切れば何分の一という値まで負けたのである。もっ | |||
| とも中には値切ったまではいいが、家へ帰って改めて見たら根が無く、「これが本当 | |||
| のねぎりだ」なんと負け惜しみを云う長屋の住人もいたのである。 | |||
| 「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」と山口素堂の句にもあるとおり、当時は江戸市中 | |||
| にも杜鵑の名所が沢山あり、風流人や、隠居は駿河台、谷中、芝増上寺、根岸の里、 | |||
| 雑司が谷、隅田川、本郷、根津などに聞きに行ったそうである。なお、「君はまだ | |||
| 駒形あたり ほととぎす」の高尾の句が示すように、駒形付近には、隅田川対岸に多 | |||
| 田の薬師の森や、大名の下屋敷の森があり、杜鵑の往き来が盛んであったと伝えられ | |||
| る。 おわり | |||