話 題 『 よもやま話 』-17 | 2010年3月〜2010年5月 |
話 題 一 覧 |
2010. 5.16 | 「ロダン」と「ユトリロ」 投稿;稲垣 貢 |
2010. 5. 9 | 古典落語をより楽しむために−7(町奉行) 投稿;須貝義弘 |
2010. 5. 2 | ”「今」、何故ドラッカーなのか ” 投稿:遠藤 実 |
2010. 4.25 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その7) 投稿;小田 茂 |
2010. 4.18 | 「ユニオンジャックの矢」に見る旧大英帝国のしたたかさ 投稿:清水有道 |
2010. 4.11 | 古典落語をより楽しむために−6(古から今へ) 投稿;須貝義弘 |
2010. 4. 4 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その6) 投稿;小田 茂 |
2010. 3.28 | 古典落語をより楽しむために-5(米山古墳) 投稿;須貝義弘 |
2010. 3.21 | “ 鴨 の 子 育 て ” 投稿;檜山湧二 |
2010. 3.14 | 古典落語をより楽しむために-4(藩の予算) 投稿;須貝義弘 |
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話 題 『 よもやま話 』 |
2010. 5.16 | 稲垣 | 「ロダン」と「ユトリロ」 |
「ロダン」と「ユトリロ」 | 鎌倉市 稲垣 貢 |
ロダンとユトリロを西山美術館でみてきました | |||
フランス・パリの有名なロダン(彫刻)とユトリロ(絵画)を東京都町田市の西山 | |||
美術館で見てきました。この西山美術館は4千坪の広大な庭園にあり、5階建ての素 | |||
晴らしいところでした。 | |||
オーギュスト・ロダンはパリに生まれ、ミケランジェロに強い影響をうけ、力強い | |||
造形と感情表現を通して人間の精神の深さを表した、彫刻界の巨匠です。 | |||
ロダンの一番有名なのは |
「考える人」オーギュスト・ロダン |
モンマルトルのムーラン・ド・ラ・ギャレット |
|
ご存知のとおり「考える人」 | |||
他には「バルザックの胸像」 | |||
などを、ここでみることが | |||
できます。 | |||
ユトリロは、50年間にわ | |||
たりモンマルトルを中心に | |||
パリを描き続けた画家。 | |||
ユトリロと母で画家シュザンヌ・ヴァラドンとの恐るべき生涯は興味深々でした。 | |||
私は何年か前にパリの美術館でユトリロを見たことがありました。 | |||
モンマルトル「モーリス・ユトリロ」 |
西山美術館前で |
実は、今日一緒に見に来 | |
ているのは、息子夫婦です。 | |||
息子たちは、たまたま今日 | |||
(4月17日)はパリに出か | |||
ける予定でしたが、ご存知 | |||
のアイスランドの大規模な | |||
火山噴火によりヨーロッパ | |||
便が各地で欠航したために | |||
成田空港から引き返してきたんです。順調に出発していれば明日はパリでルーブルを | |||
見に行く予定だったのに・・・と残念がっていました。 |
2010. 5. 9 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−7(町奉行について) |
古典落語をより楽しむために−7 |
町奉行について | 佐野市 須貝義弘 |
ものを書くことがもっとも苦手な私がこのところ「もの書き」に追われている。昨 | |||
年入院中に書いた「江戸時代の時刻」に始まり「古典落語をより楽しむために」、佐 | |||
野の観光ボランティアを引き受けているので、佐野の歴史「芭蕉の句碑」、私の住ん | |||
でいる町「犬伏の別れ」、「厄除け大師」、「田中正造」、「秋山川原の出流事件志 | |||
士処刑地」を紹介してきました。 | |||
いろいろ本を読む中で、何よりも私が勉強になっていますが、夢中になってしまい | |||
脱線することもありますがお許しを。今3月の原稿を書き終えたところですので「脱 | |||
線」のついでに「町奉行」について、勉強したことを私流に表現を変えて書いてみま | |||
した。 | |||
「町奉行」 | |||
先ずは呼び方だが、ドラマや映画の中で「江戸町奉行」とか「南町奉行」とあるが、 | |||
これは誤りである。本来は単に「町奉行」であり、「江戸町奉行」の略ではない。 | |||
がしかし、地方の町奉行の場合は幕府の公文書にも「大 |
町奉行 |
||
阪町奉行」などと地名をつけていた。大阪、京都などの | |||
町奉行と並べて記すときは「江戸町奉行」と書くことも | |||
あったが、この場合は「江戸ノ町奉行」とするのが正し | |||
いとされている。(よくある話で、私の関係する能楽界 | |||
でも、多くの人が「狂言師」と云うが、これも誤りで、 | |||
正しくは「狂言方」と云うのが正しい。能楽は能の「シ | |||
テ方」「ワキ方」と呼び「囃子方」「狂言方」で成り立 | |||
っている。誰も「シテ師」「ワキ師」などとは言わない) | |||
奉行とは、職制上の最高責任者である。奉行と云っても段階があり、大名の持ち場 | |||
である「寺社奉行」、千石以上旗本が任命される「町奉行」、「勘定奉行」があり、 | |||
下級旗本が任命される「牢屋奉行」、「寄場奉行」などもあった。町奉行の役目は一 | |||
言では云えないが、幕府内にあっては、寺社奉行、勘定奉行と共に、(俗に三奉行) | |||
すべての政事と法律の制定に老中の補佐役として参与し、評定所一座役人と呼ばれ、 | |||
老中・若年寄に次いでの重職であった。(テレビで云えば、将軍吉宗と大岡越前守の | |||
関係)江戸の町人に対しては、現在で云えば都知事、警視総監、消防庁長官、裁判所 | |||
長官、税務署長を兼ねた最高統治者であり、責任者でもある。町奉行の起源は諸説あ | |||
り、詳しいことは不明だが、慶長末期(1610年頃)には、2人が任命され、その後、 | |||
増減があったようであるが享保4年(1719年)には南北2人の町奉行になり、以降は | |||
遠山の金さん |
変わらなかったとある。町奉行に登用されるのは三千石 | ||
以下の栄俊の旗本に限られていた。天保年間(1830〜 | |||
1843年)刺青の名奉行遠山左衛門尉影元のように一足飛 | |||
びに(しかも遠山の場合、旗本の末っ子でありながら) | |||
任命されることもあったが、これは例外で、出世街道を | |||
過ちなく勤めた者がその職についたのである。たいてい | |||
の町奉行は町人から親しまれ、大過なくその職責を果た | |||
し得たのも以下に述べる前歴により各方面のことに通じ | |||
ていたことと、その配下に練達の同心がいたればこそである。 | |||
「町奉行への道」 | |||
若い英俊の旗本が初めて勤めるのは、先ずお使い番、火事場見回り役で、勤役中に | |||
江戸の地理や様子、出火の事情などを覚え、その後御目付けとなって城中のこと一切、 | |||
規則、法律、制度、その他を学ぶ。次いで、特に成績の良い者が遠国奉行(奈良、駿 | |||
府、静岡、甲府、山田、浦賀、佐賀)に抜擢され、配下の与力や同心の使い方、民政、 | |||
公事(訴訟)その他万端の経験を積み重ねてから、長崎奉行に転じて外交・対外関係 | |||
の知識を広める。その功績の大きい者が京都町町奉行に進み、難しい朝廷関係の諸事 | |||
万端を覚え、さらに大阪町奉行に栄進し、商業関係一切を覚える。無論すべて町奉行 | |||
がこの過程を必ず通るというわけではなく、大岡越前の守のように、山田(伊勢)奉 | |||
行から一躍して町奉行になるものもいたのである。 | |||
南北2人の町奉行は、式日、立会、内寄合日(6日、18日、27日の南北両奉行所の | |||
事務連絡日)以外は、四ツ(午前十時)に登城して、老中に所管事項を上達したり、 | |||
老中からの御用を伺ったりして、用の済み次第奉行所へと戻り、(但し、出火など緊 | |||
急の時は中途で戻った)訴訟、罪人の取調べ、判決などを行った。 | |||
町奉行所 | |||
江戸の後期には数寄屋御門内に南町奉行所(地図によ |
奉行所 |
||
ると南町奉行所は、現在の朝日マリオンのある場所)が、 | |||
呉服橋御門内(地図によると吉良義央{通称上野介}の | |||
屋敷あたり)に北町奉行所があった。庶民はこれを南の | |||
御番所、北の御番所と呼んでいた。(南、北とは方角に | |||
よる俗称で正式のものではない)建物は南の方が大きか | |||
ったが、大門、お白州をはじめ、主要な部分の構造は大 | |||
体同じと云われる。 | |||
表門(大門) | |||
表門の左右には、小門が設けられ、向かって右の小門は夜中の急訴を受けるため終 | |||
夜開かれていた。また左の小門は囚人の出入りする門であり、正門は非番の月には閉 | |||
めてあったとされている。門から玄関の式台までの十数間は青い敷石が数列敷き詰め | |||
てあり、その両側の広場には、那智の黒い砂利が一面に敷いてあった(映画やテレビ | |||
の1シーンを想像して下さい)。玄関の右側は、訴えを受理する当番所で、「大工調 | |||
べ」の与太郎が駆込み訴えをしたのはここである。表門から十間ほど入った左側にお | |||
白州への入り口があり、そこを入って鉤の手に曲がると一番奥がお白州である(映画 | |||
やテレビなどの観賞時に確認して下さい)。 | |||
町奉行所の職制 | |||
江戸後期の南北奉行所には、奉行の下におのおの、与力25人(23人という説もあり) | |||
と同心150人が所属し(時代により少し異なることもあった)その他に、奉行の直臣 | |||
である公用人3人(内与力という。平岩弓枝作の「隼新八郎」はこの内与力である。) | |||
と目安方(与力)2人、玄関番(士分)3人、門番(足軽)2人がいた。 | |||
与力と同心 | |||
最近のテレビや映画に出てくる与力、同心と云えば、十手・捕り縄を持った役人が | |||
多いが、間違いとは云えないが、与力は課長級の身分で、同心は平役人であるので、 | |||
いたるところの職場に居たのである。その人たちを呼ぶ場合、勘定与力、寺社与力、 | |||
鉄砲同心などと呼んだ。与力は戦場へ出る場合、騎馬であるところから一騎、二騎と | |||
数え、同心はかち徒なのでひとり、二人と数えた。 | |||
町与力 | |||
南、北両町奉行所の与力は、町与力と称え、身分は一代限りの抱え入れであるが、 | |||
実際はよっぽどの無能者や、不始末を犯した者以外は世襲であった。その禄高は、大 | |||
縄地と云って全町与力50人で1万石の領地を持っていたから、平均二百石(年年の出 | |||
来高で異なる)の検見取りであった。(検見とは、役人が田をまわって米の出来によ | |||
り、年貢米を定めた)勤務は内役と外役とに分かれ、内役は毎日所属の奉行所へ四ツ | |||
(午前10時頃)出勤した。 | |||
内役の仕事 | |||
年番方とは、町奉行所の補佐役で3人。多くは年長者で所内の監督、同心の任免、 | |||
詮議 |
営繕、会計、その他総括的仕事をする大切な役。吟味方 | ||
とは、詮議とも云い、与力10人(配下に同心25人)から | |||
成る。公事(刑事、民事、の裁判)の犯罪人を取り調べ | |||
判決を行う。 | |||
市中取締諸色掛とは、与力8人と同心16人から成り、 | |||
天保改革の際に設けられ、商工業全般にわたり諸色(物 | |||
価)、出版、風俗などを取り締まる。但し、青物・魚類 | |||
は南町、米穀は北町というように、分担して取り締まる | |||
ものもあった。 | |||
*猿屋町会所見廻りとは、蔵前の札差の会所を見廻る役であった。 | |||
*御仕置例繰方とは、例繰方とも云い、与力4人同心8人から成り、判決文が渡され | |||
ると法規、先例、類例を調べて報告したり、犯罪人の罪状を記録、編纂したりする | |||
役。 | |||
*御赦掛・撰よう要編纂掛とは、与力4人同心8人で構成され、大赦、恩赦関係の仕 | |||
事を行い、撰要とは、法規の編纂、記録の分類などをする役であった。 | |||
*非常掛とは、与力8人同心16人から成り、幕末近くの嘉永五年(1852年)に市中取 | |||
締諸色掛を改組してでき、治安、町廻り、火事場見廻り等をする役。 | |||
*番方与力とは、編成人数は不定であるが検使見分け、臨時加役(他の役の応援)、 | |||
毎日の当直勤務、評定所への出役、山王の祭りの警固をはじめ沢山の役があった。 | |||
これは新米の与力が番入り(就職)して勤め、順次他の役に替わる。なお、幕末近 | |||
くには、外国掛が設けられ、与力8人同心16人で外人居留地の仕事や外人が外出す | |||
る時の警固の役などを勤めた。 | |||
外役の仕事 | |||
*町会所掛とは、江戸市内の町会所(諸組合の事務所)や籾蔵(救済米貯蔵所)の見 | |||
廻り、貧窮者の救助などを司る役である。 | |||
*高積見廻は、防火のために、市内の道路、河岸などの高積、往来の邪魔になる積荷 | |||
などを注意・監督する役。 | |||
*養生所見廻は、貧民の施療所を管理する役。 | |||
*牢屋敷見廻は、小伝馬町の牢屋敷の見廻りを担当する。牢屋敷奉行石出帯刀の勤務 | |||
ぶりを監督し、処刑に立ち会う。また、浅草、品川、両溜(病人収容所)の監視も | |||
行った。 | |||
*昼夜見廻・風烈廻とは、市内の警戒、火事に備えての烈風のときの見廻りをする役。 | |||
*火消人足改めとは、鳶の者を監督する。また出火の場合火消しの指揮をした。 | |||
*本所見廻は、本所と深川を見廻り、道普請、橋普請、川浚いの監督、上水、下水の | |||
管理などを担当する役。外回りの役はこの外にもあり、時代によって違いがあった。 | |||
役付きの与力は消火人足改め3人、町会所掛2人の外は各役とも与力1人で、その | |||
下で1〜4人の同心が働いていた。 | |||
町与力(町方与力)と町同心 | |||
町方同心は俗に八丁堀と称された場所(江戸時代は武 |
与力 |
||
家地には、町名はなかった)に組屋敷(集団的住宅)を | |||
拝領して住んでいたので、通常「八丁堀の旦那衆」と呼 | |||
ばれた。髪は「八丁堀銀杏」という独特の結い方をし、 | |||
み身なり姿、歩き方にもひと目でそれとわかる特徴があ | |||
った。このことは与力が継裃、紋付肩衣姿で番署へ通勤 | |||
するので、当時「雪駄チャラチャラ江戸の町、巷を貫抜 | |||
差の刀の柄へ袂の先をちょいと載せ、突き袖の力み姿…」 | |||
と諷誦されたことからも知ることができる。 | |||
町与力の生活 | |||
屋敷(敷地)は250坪前後。冠木門(笠木を二柱の上方に渡した屋根の無い門)か | |||
長屋門(左右に長屋を建て構えた門)を設け、式台付きの玄関があり、役柄によって | |||
は相当の別収入があるため、200石取り(玄米70石前後。当時一石一両として換算す | |||
れば70両)の侍にしては家屋も不似合いに広く、女中なども大勢使っている連中もあ | |||
った。しかし大部分の与力は屋敷の一部に家を建てて、医者などに賃貸ししていた。 | |||
収入については、家賃の上がり高は知れたものだったが、外役の仕事をしていた連中 | |||
は、禄高と同額あるいはそれ以上の公然とした付届けを諸大名や大商人から盆、暮、 | |||
その他臨時に沢山もらえた。とりわけ、年番方、吟味方、市中取締諸色掛、廻り方な | |||
どは「御用願い」と云って御三家、諸大名をはじめ、寛永寺、増上寺、浅草寺、諸商 | |||
人から盆暮、年始、暑さ、寒さの挨拶、参勤交代の折など贈り物があり、莫大な金額 | |||
になった。なかには、御三家や諸大名から扶持米をもらっている者さえあった。幕末 | |||
近くには綱紀が乱れ、民事裁判の場合に、原告、被告双方に賄賂を強要し、その多い | |||
方を勝訴にした吟味方もいたそうである。 | |||
町同心の生活 | |||
同心 |
八丁堀の組屋敷に150坪の土地を拝領していたが、屋敷 | ||
の道路に面した所へ長屋建ての貸家を造り、幕末近くに | |||
は驚いたことに長屋を博奕打、売春婦、ポン引きなどい | |||
かがわしい連中に高い家賃を取って貸したりする同心さ | |||
えいたとか。 | |||
同心の役料は、数々のテレビに登場しているので皆さん | |||
も御承知の通り、年額30俵2人扶持(一人扶持=玄米一 | |||
日五合)で、別途に役料が年額3〜10両ぐらいあったが、 | |||
役によっては足りる筈の無い者もあった。特に隠密廻、定廻、臨時廻などは岡ッ引き | |||
を使っていた関係で相当に金がかかった。しかし、そこはよくしたもので、役得も与 | |||
力と同様大きく、その上諸大名からの扶持米、盆暮の付け届け、大店からの依頼事の | |||
謝礼を始め、相当額の収入があった。 | |||
取り調べと判決 | |||
お白州での取り調べは、民事・刑事共に奉行が直々に |
お白州 |
||
行うのが原則であったが、さほどの重要でないものは詮 | |||
議掛の与力が行うのが実情であったと云う。また奉行は | |||
厳寒の折にも座蒲団、火鉢を使うことはなく、夏でも扇 | |||
子を使わず、常に威儀を正して座っていた。そして巻羽 | |||
織(羽織の裾を巻き上げて座る)をした同心(二人)の | |||
傍に控える目安が訴状を読み上げるのを聞いたのである。 | |||
刑事事件の場合、被告を伝馬町の牢屋に入れるには、 | |||
奉行の許可を必要とした。また強情な容疑者に対しては、奉行所では詮議のみで、拷 | |||
問などは絶対にしなかったとある。 | |||
詮議が決着しない容疑者は、伝馬町の牢に連れ戻されて責問いに掛けられた。責問 | |||
は三角の木棒を並べた上に座らされて、玄蕃石(考案者の名をとって名付けられ、長 | |||
さ三尺、幅一尺、厚さ三寸の石)を三枚〜五枚ないし十枚を抱かされる石抱きや、海 | |||
老責めと云って手足を縛って体を腰から二重に折るように締め付けるものなどがあっ | |||
た。それでも自白しない者は、さらに拷問蔵で後ろ手に縛った両腕をつるしあげる拷 | |||
問にかけられた。 | |||
詮議の済んだ件は、奉行が判決を言い渡すのであるが、遠島以上の重刑の場合には | |||
奉行の手限(独断)ではなく、老中に伺い出てから判決を言い渡したとされる。 | |||
刑罰 | |||
江戸時代の刑罰は罪の軽重により次のような段階で行われた。 | |||
「叱」‥小言を云われるだけである。 | |||
「急度叱」‥強く叱られる。 | |||
「過料」‥一貫文〜五貫文の罰金に処す。重過料もある。 | |||
「手鎖」‥三十〜百日間手鎖をかけられる。外から見えぬように懐中にて両手を組み、 | |||
鉄製の鎖をおろして担当の同心が封印をする。さらに自己の印を押し、掛 | |||
の与力の検視を受けて後、自宅へ帰り謹慎する。この場合、自宅で商売を | |||
することは差し支えないが、隔日〜六日目ごとに町奉行所へ行き封印改め | |||
を受ける。 | |||
「敲」‥伝馬町牢屋の門前で箒尻にて背中を五十回敲かれる。但し、追放刑と併合し | |||
て課せられることもあった。(箒尻とは、長さ60センチの竹片二本を麻で巻 | |||
き、その上にこよりを巻いて作ったもの) | |||
「重敲」‥箒尻で百回敲かれる。追放刑と合わせて行われることもあった。尚、侍、 | |||
僧侶、女には敲刑を課さなかった。 | |||
「入墨敲」‥入墨と敲きを課せられる。 | |||
「晒」‥日本橋南詰東側の晒場で、三日間柱へ縛られて座らされる。 | |||
「追放」‥一番軽いのが所払いと云って住んでいた町から追い出される。但し隣町に | |||
住むのは許された。 | |||
「江戸払」‥朱引線(町奉行の監督範囲)内に住むことができない。即ち高輪の大木 | |||
戸、目黒、内藤新宿の大木戸(新宿御苑の前)板橋、千住、本所、深川 | |||
を結んだ線の内側で暮らすことが禁じられた。 | |||
「江戸十里四方追放」‥日本橋を起点に五里(20キロ)以内に住うことができない。 | |||
「軽追放」‥江戸10里四方、京都、大阪、東海筋、日光道中の御構(立ち入り禁止区 | |||
域)以外へ追放。 | |||
「中追放」‥武蔵、山城、摂津、和泉、大和、備前、下野、甲斐、駿河、東海筋、木 | |||
曽路筋、日光道中の御構以外へ追放。 | |||
「重追放」‥中追放区域に加え、上野、相模、安房、上総、下総、常陸の御構以外へ | |||
追放。 | |||
「闕所」‥追放、死罪などの付加刑として家屋敷、家財、田畑などの財産の取り上げ。 | |||
「非人手下」‥非人頭に下付けしその部下に落とす。 | |||
「遠島」‥江戸の場合は伊豆七島の一つに追放。 |
市中引き回し |
||
「下死人」‥伝馬町の牢屋で首を斬られ、死体は取捨て | |||
にされ、遺族に引き渡さないのが原則。 | |||
「死罪」‥首を斬られ、死体を様斬にされる。様斬とは | |||
新刀の斬れ味をためすこと。 | |||
「火罪」‥品川鈴ケ森又は千住小塚原の刑場で火炙りに | |||
処す。放火犯に限る。 | |||
「獄門」‥一日中江戸中引回し、日本橋の晒場で二日間 | |||
晒し、その後、磔になる。これは主(雇い主)殺しの場合の刑である。 | |||
「磔」・・江戸中引回しの上、鈴ケ森か小塚原で磔柱に縛り付けて槍で刺し殺し、三日 | |||
間そのまま晒す。 | |||
「江戸時代の牢屋について」 | |||
牢屋は小伝馬町にあって、俗に囚獄と云われた牢屋奉行が統轄し、家康時代からの | |||
世襲の石出(いしで)帯刀が勤めた。奉行は牢内一切のことを宰どり、拘禁、護送、 | |||
給養、牢屋敷の修理が主な仕事だった。奉行の外に同心50人がおり、それぞれ鍵を保 | |||
管する「鎰役」4人、敲刑を執行する「数役」1人、「打役」1人、その他「小頭」、 | |||
「世話役」、に分かれた。また牢屋下男38人(幕末には46人〜50人)は、年一両二分 | |||
の給金をもらって囚人の食事、身の回りの面倒をみた。そのほかに本道(内科)の医 | |||
師二人と外科の医師が一人いたし大勢の非人が刑罰を受 |
牢屋 |
||
けた者の処分を担当して、その女房達は女囚の世話をし | |||
ていた。牢屋敷は、周囲に溝をめぐらし、泥と瓦の練塀 | |||
で囲まれていた。内部は有宿舎(戸籍登録者)を収容す | |||
る大牢が東西に各々一室、無宿者を入れる二間牢が同じ | |||
く二室、女牢一室、百姓牢一室、別棟に御目見以外の侍 | |||
を収容する揚りや一室、旗本を収容する畳敷きの揚り座 | |||
敷四室、その他責問蔵や処刑を行う土壇場などを含めて | |||
全敷地の広さは2600余坪であったされる。この牢屋敷を与力が毎日或いは、隔日に見 | |||
廻っていたのである。 | |||
幕府は町政の運営と同様に牢内を自治的に運営させるために、牢名主を任命して、 | |||
牢内の秩序、規律を守らせた。牢名主は、牢内の掃除、点呼、給食、病人の看護、自 | |||
殺の見張り、脱獄などを防ぐため、添役、角役、二番役〜五番役、本役、本役助、詰 | |||
番、詰番助、五器口番の11名を指命し、おのおのに仕事を分担さて牢内の規律を守ら | |||
せた。牢内は11人の役付き囚人によって外見上は見事に運営されたが、反面には実に | |||
悲惨なことが平然と行われていた。 | |||
寛政の改革の際、松平定信が獄内の不正、虐待その他について、風聞書で牢屋奉行 | |||
の石出帯刀を問いただしたところ、いずれも否定したが、役人と結託、又は黙許のも | |||
とに、ひどいことが行われていた。例えば、牢名主が見張り役の牢屋下男と結託して、 | |||
囚人の衣服、金銭、差し入れ物を取り上げ、ツル(金銭)の無い囚人を虐待した。ま | |||
た牢内では公然と役付き囚人たちが、厳禁されている喫煙、飲酒、博奕などを日常行 | |||
っていたとされる。まさに「地獄の沙汰も、かね次第」だったと云うことか。 | |||
おわり |
2010. 5. 2 | 遠藤 | ”「今」、何故ドラッカーなのか ” |
”「今」、何故ドラッカーなのか ” | 東京都 遠藤 実 |
1.はじめに | |||
遠藤さん |
この3月、NHK番組「クローズアップ現代」に、首 | ||
題のテーマが放映された。私も「懐かしいなぁ」という | |||
感じで、ちょぃ見をしていた記憶が残っていたが、後日、 | |||
OB会幹事会から「現代世相の時宜に適したテーマであ | |||
り、後輩たちの経営上の参考になるやもしれないので、 | |||
現代世相の所感を述べて欲しい」旨の要請があった。 | |||
「恐らく、在職中実際の職務体験の中で、ドラッカー | |||
を活用したのは、遠藤さんぐらいだろう」からとのこと | |||
であった。ドラッカーを含めて、生くさい経済、経営書の類は、退職を機会に決別し | |||
ようと全て処分し、今では書棚に宗教、歴史関係の蔵書が並んでいる具合である。今 | |||
更、ドラッカーを再読し、研究し直すのもおっくうだと思い躊躇していたが、「ちょ | |||
つと待てよ」と書棚を整理していたら、かなり奥の隅の方から、茶色に古ぼけた書籍 | |||
二巻が出てきた。何と、ピーター F ドラッカーの名著、「現代の経営」−原書名 | |||
「THE PRACTICE OF MANAGEMENT」ではないか。やはり、若き日の思い出の一冊として | |||
愛着があり、捨て切れずに処分を惜しんだのか、ドラッカーさんがあの世から声をか | |||
けて来た結果ではなかろうかと思ったりしている。 | |||
再読してみると、30歳代には難解、理解しにくかった部分も多々あった本書が、そ | |||
の後、40数年間に及ぶマネージメント論、とりわけ組織管理論の研鑽と経営実務を体 | |||
験した今日、全編にわたり批判も交えて、理解できるようになったのと同時に、現代に | |||
おいてもその内容に新鮮さを感じたので、一筆とる気力が湧いてきた次第である。 | |||
2.ドラッカーのこと | |||
首題に“「今」、何故”とあるように、ドラッカーは既に無き過去の人物である。 | |||
まして、一部の関係経済、経営人ならいざ知らず、一般人にとっては馴染みの薄い人 | |||
物である。それがNHKという一般公共放送で何故取り上げられたのか、その背景に | |||
ついて、私見ではあるが少々論述してみたい。 |
書棚 |
||
「PEATER F DRUCKER」は、1909年オーストリアに生ま | |||
れ、昔日の大英帝国の面影を失っていた英国へ渡り、新 | |||
進気鋭の経済記者としてスタート。1937年、大量生産産 | |||
業の勃興期にあった米国へ渡り、大企業経営者の新しい | |||
姿を求めて、「経済人の終焉」− THE END OF ECONOMIC | |||
MAN −を世に問い、古き資本主義的経営像からの決別を | |||
提唱した。 | |||
この書、「現代の経営」二巻は、ドラッカーがニュー・ヨーク大学教授時代に書か | |||
れたものであるが、シーアーズ・ローバック、フォード、GM、IBM、GEなど豊 | |||
富な経営コンサルタントとしての体験を踏まえ、その目指すところは、経営哲学やイデ | |||
オロギーを述べるのではなく、常に実務に密着したケース・スタディーを中心とした | |||
経営学を紹介し、自由企業の経営とは何をすべきかを述べている。 | |||
ドラッカー自身の言葉で言えば、「 WHAT IS BEING DONE と WHAT CAN BE DONE 」 | |||
との距離を縮めることが本書の第一義の目的であるとしている。 | |||
ドラッカーは、日本に対しても大変な興味を示し、戦後の日本経済の復興期にあた | |||
る1960年代に2度訪日している。そして、もし「マネージメントのチャンピオン」を | |||
選べと言われたら、迷うことなく「明治維新以来、40年間に日本経済の近代化という | |||
偉業を成し遂げた世代」を挙げるだろうと言ったほどの日本通でもあった。 | |||
手元にある蔵書は、昭和31年5月1日発行、37年第52版のもので、定価350円とある。 | |||
推薦文に経団連会長石坂泰三とあるのも懐かしい。その後、ドラッカーの新刊書も発 | |||
行されているが、それを今改めて紐解くほどの気力はもう持ち合わせていない。 | |||
「現代の経営」という愛着ある本書の範囲に留めさせて頂く。 | |||
3.ドラッカーとの出会い | |||
1965年、名古屋営業所から総務部経由企画室への転勤を命じられた。ベーン・ポン | |||
プの世界から、マネージメント論、とりわけ「組織管理論」の専門職を担当せよとの | |||
ことで、職務内容の急変に大変戸惑ったものがあった。その2年後には、伝統的に引 | |||
き継がれてきた典型的な「職能別組織」から徹底した「事業部制組織」への改変とい | |||
う伏線が秘められていたのではあったが。 | |||
組織論についてドラッカーから学んだこと。 | |||
(1)組織構造は、それ自体が「目的」ではなく、目標を達成するための「手段」で | |||
ある。したがって、手段である以上、どのような組織構造を必要としているかを見出 | |||
すためには、「組織活動分析」「意思決定分析」「諸関係分析」を現状組織に対して | |||
既成事実の追認ではなく、科学的な調査活動をせよ。 | |||
(2)その結果、結論として、企業組織の原理としては「連邦制分権制」 | |||
− FEDERAL DECENTRALIZATION −と「職能的分権制」 | |||
「FUNCTIONAL DECENTRALIZATION」の二つしか存在しない事がわかるであろう。した | |||
がって、そのいずれか一方、または双方を適用するしかない。この二つは競合するも | |||
のではなく、互いに補足し合う性質のものである。しかし、複数の事業分野をかかえ、 | |||
大企業化へのプロセスにある企業にとっては、前者の方がより効率的である。 | |||
(3)職能別組織の欠陥は、いかなる経営者、管理者も |
ドラッカー |
||
ひとたび職能的な組織に配属されると、たちまち自己の | |||
職能を最も重要な職能と考え、その支配領域の確立に腐 | |||
心し、自己の利益のためならば他の職能或いは全体の利 | |||
益を犠牲にしても止むを得ないという心情になる。自己 | |||
の職能をより良くしたいという欲望の形であるから、こ | |||
れを矯正しようとする道はない。したがって、ここでは | |||
専門的な技能の練磨や知識の増進だけに励む偏狭な職能 | |||
的専門家が輩出され、多角的な視野を必要とするいわゆる経営者と言われる者は育た | |||
ない。 | |||
(4)職能別組織の最大の欠点は、目標設定と計数的業績評価が困難なことである。 | |||
以上のドラッカーの指摘は、当時の事業部制施行以前の当社組織の特徴、欠点を以 | |||
下のような事例により如実に示せる側面も見受けられる。 | |||
戦前からの典型的な職能組織は、厳然たる存在として既定化し、これはまさに欽定 | |||
憲法のごとく動かさざるべき物の感があった。したがって、人事、処遇の面からの解 | |||
決のため組織が動かされ、組織は目標達成のための手段という思考が欠落していた。 | |||
一方、マネージメントの専門家としての職能意識が未分化であつたため、そのリーダー | |||
シップは専ら経営、管理者が固有に持つ生まれつきの能力や性格に依存せざるをえな | |||
かった面も残した。又、その職能重視は、何とか一家と呼称される和を尊ぶ家族的グ | |||
ループを形成させた。一方、過度な職能重視策は多くの博士や外部にも通用する職能 | |||
専門家を生み出すという功績もその副産物として産出した。なのに、最高経営者層は、 | |||
外部からの招請が為されるという面も多々あった。 | |||
船舶 |
業績評価面では、一見、華やかな長男事業である舶用 | ||
部門の損益を掴みきれなかった。事業部制施行以後これ | |||
が明確になる。こうした様々に内包していた経営上の課 | |||
題を解決すべく、ドラッカーの指摘を原理的に参考にし | |||
て、1968年事業部制は発足したのである。事業部制の採 | |||
用は単なる組織構造の変更だけではなく、こうした数々 | |||
の経営課題の革新を含んでいたのである。 | |||
4.主題「今、何故ドラッカーなのか」という背景 | |||
前述の組織論の部分は、「現代の経営」の続編部分での論述であり、私とドラッカー | |||
との出会いということで紹介した訳であるが、ドラッカーの主題は、むしろ本編部分 | |||
の「経営者、特に上級経営者の経営に対する課題」についての提唱部分にある。この | |||
部分が昨今、企業周辺で生起している諸問題に対するドラッカーの提唱がクローズア | |||
ップされた所以の部分ではなかろうかと思う。 | |||
近時、発生した企業を取り巻く経営上の諸問題 | |||
*最大利潤を追求し、多額の報酬をせしめて来たGMの最高経営層とその企業の破 | |||
綻その品質と生産管理の模範となった世界のトヨタ自動車のリコール問題と販売 | |||
不振、奇しくも、豊田社長はその原因を「利潤やシェアーの成長を急ぐあまり、 | |||
その成長に追従していくための人的資産の育成を疎かにした」と反省の弁。 | |||
*金融工学を駆使して、目先の最大利潤のみを追求し、その強欲のために世界中を | |||
恐怖に巻き込んだリーマンブラザースを代表とする金融、不動産界の醜態。 | |||
*日本経済の将来的成長戦略の欠如とGDP、財政赤字その他の経済指標に対する | |||
相対的、国際的低下現象。 | |||
*低コスト化を急ぐあまり、日本的経営の聖域であった人間組織の破壊、そこから | |||
派生する無縁化社会の発生など。 | |||
製鉄 |
こうした問題への対応策として、ドラッカーは経営層 | ||
に対して、8つの重要な事業領域の目標設定を提唱して | |||
いる。その一つとして、売り上げの増大は、その時々の | |||
経済状況によって左右されるものだから、それより大切 | |||
な事業目標はそのときの「市場における地位」であると | |||
して、以下項目のみ挙げれば、「生産性と革新性」「寄 | |||
与価値」「物的資源と財源」「収益性」「経営担当者の | |||
能力と育成」「労働者の能力と態度」「社会的責任」で | |||
あるとして、経営層は、企業組織はあくまで社会に於ける経済的成果の獲得を第一義 | |||
としつつも、その時々に置かれた社会的、経済的状況に関連させて、この8つの事業 | |||
領域を適宜バランスさせながら、成功に導けるか否かが経営者の有能、無能を端的に | |||
表すものであると言っている。 | |||
5.8つの領域の中で、特に「今」示唆に富むドラッカーの言葉 | |||
8つの重要目標領域の詳細を紹介することは、長文、煩瑣になるので、ここでは現 | |||
在の企業環境を取り巻く問題事項に直截的な提唱のみを紹介して終えることとしたい。 | |||
(1) 収益性 | |||
最大利益という概念につきまとう古き資本主義的残渣、社会性を無視した個人的欲 | |||
望目標を拭い去ることが現代の経営者には肝要なことである。経済活動は、全ての活 | |||
動がそうであるように、未来に焦点をおいているものである。未来について確かなこ | |||
とは、未来が不確かであって、かつ多くの危険性をはらんでいるという事実である。 | |||
この意味で「リスク」という言葉が、語源的には「今日の糧を稼ぐ」という意味のア | |||
ラビア語に由来しているというのは偶然ではなかろう。したがって、事業の第一的義 | |||
務は、「存続」し続けることである。言い換えれば、経営経済学の指導原理は、最大 | |||
利潤の追求にあるのではなく、むしろ「損失の回避」にあるのである。 | |||
事業の運営には、常に危険が伴うものであるから、事 |
自動車 |
||
業は常にこの危険に備え、危険を補填するに足るプレミ | |||
アムを作り出さなければならない。しかも、その源泉は | |||
ただ一つしかない。つまり、それが「利益」である。 | |||
(2)人的能力の育成、人的資産価値の向上 | |||
一つのものを二つにも三つにも拡大して利用すること | |||
の出来る「資源」は、明らかに人的資源、人間能力のみ | |||
である。その他の経営資源は、全て機械的な法則に従い | |||
利用の程度は異なり、投入量以上のものを生み出すことは出来ない。 | |||
他の資源と違って、人間は、個性、市民権、自由意志、動機、帰属感情、満足度、 | |||
誘引、報酬、指導権、地位と役割といった諸要素を考慮する必要がある。これらの諸 | |||
要素に関して、それを満足させうるのは、経営者のみであり、それは固有の職能である。 | |||
6.終わりに | |||
「損失を抑える」という観点からの最大利潤の追求論については、ドラッカーを | |||
「後ろ向きの闘志」という批判がある。確かに観点をかえれば、そういう批判的要素 | |||
も含んではいる。しかし、いま少し深甚に企業組織の存在意義を深耕してみるとドラ | |||
ッカーの提唱が沁みだしてくる感がある。 | |||
8つの重要な事業領域へバランスを取りながら、資源配分することは、「永続」の | |||
指名を担う企業組織の要諦である。平たく言って、「パット作って、パット儲けて、 | |||
パット消える」企業経営ならさして難しいことではなかろう。 | |||
東京計器も百十余年の「永続」の重みを糧として、そのプロセスの中でバランスの | |||
とれた成長を期待して止まない。 |
2010. 4.25 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その7) |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その7) | 横浜市 小田 茂 |
3.山 手(その3) | |||
≪はじめに≫ | |||
今回は『横浜:山手』の3回目となります。 | |||
また、「番外編」も、前回に引続き3回目で「横浜中華街」の『お店のマスコット・ | |||
看板』等々の珍百景? をご紹介いたします。 | |||
(31) 山手十番館(ビアガーデン発祥の地) | |||
「山手十番館」は、明治100年を記念して昭和42年 |
山手十番館1 |
||
(1967年)に建てられた、明治からの古い伝統的なフラ | |||
ンス料理の店であります。店の真前が“外国人墓地”で、 | |||
この周辺の景観は大変エキゾチックであります。 | |||
また、案内板では「ビアガーデン発祥の地」(下記写 | |||
真拡大してください)とも書かれており、夏はビア・ガ | |||
ーデンで多くの人が楽しまれております。 | |||
「ビアガーデン発祥の地」 |
山手十番館2 |
山手十番館3 |
|
(32) 山手資料館 | |||
「山手資料館」は、日本人の大工さんにより5年がか |
山手資料館 |
||
りで、明治42年(1909年)に本牧に建てられた屋敷の洋 | |||
館部分であります。関東大震災でも奇跡的に大きな災害 | |||
をまぬがれ、昭和4年(1929年)諏訪町移転後も戦災の | |||
被害も免れました。戦後は洋館であることから米軍に接 | |||
収されましたが、返還後、昭和50年代に入り、マンショ | |||
ンに建て替えられることとなり、洋館も取り壊しするこ | |||
ととなりました。 | |||
この計画を知った「山手十番館」のオーナーが洋館部分を買い取り、昭和52年(1977 | |||
年)に「山手十番館」の地続きに移し「山手資料館」として、オーナーが収集した昔の | |||
品々が展示されております。 | |||
横浜に残る明治時代の唯一の木造洋館として、平成11年(1999年)に横浜市歴史的 | |||
建造物に指定されました。 | |||
看板 |
獅子頭の水道共用栓 |
説明文 |
|
(33)“居留地境界石” | |||
“居留地境界石”は、私にとって初めてのご対面であ |
居留地境界石 |
||
ります。「山手十番館」の建物の中心位のところに、背の | |||
低い石垣の間に有りました。 | |||
碑には『居留地境界石 | |||
慶応3年(1867年)山手居留地開設時の石標』 | |||
と彫られていました。 | |||
過去に、ここには何回も来た道ですが、今まで全然気 | |||
がつかず、その意味合いでは正に“大発見”です。 | |||
(34)「景勝の地・道」の碑 | |||
「かながわの景勝50選」の碑 |
「日本の道100選」の碑 |
「かながわの景勝50選」 | |
の碑は、「山手十番館」と | |||
「山手資料館」の境目のとこ | |||
ろに建っており、“外人墓 | |||
地周辺”と刻み込まれてお | |||
ります。 | |||
また、山手本通りを挟ん | |||
で、反対の外人墓地側には、 | |||
「日本の道100選」の碑があります。これは“山下公園通り・山手本通り”を対象と | |||
して、昭和62年8月10日に建設省:「道の日」実行委員会によって、選ばれたもので | |||
あります。確かに下記写真のように、「山手本通り」の中でも、この場所が横綱と思 | |||
われます。季節によって様々な顔を見せる風景・道です。 | |||
山手本通り1 |
山手本通り2 |
山手本通り3 |
|
(35) 岩崎博物館(岩崎ミュージアム)≪日本初の西洋劇場:ゲーテ座跡地≫ | |||
「岩崎博物館」は、山手本通りを挟んで、正面が「横浜 |
岩崎博物館 |
||
外国人墓地」の正門であり、右先が「みなとの見える丘 | |||
公園」です。 | |||
「岩崎博物館」は、明治18年(1885)年に建てられた日 | |||
本初の西洋劇場:ゲーテ座が、関東大震災で崩壊し、そ | |||
の跡地に、学校法人岩崎学園・横浜洋裁学院(現:横浜f | |||
カレッジ)の創立50周年記念事業として、当時のゲーテ座 | |||
の資料や世界の服飾装飾品などを展示する博物館として、 | |||
記念碑 |
山手ゲーテ座 |
昭和55年(1980年)に建てら | |
れたものです。 | |||
岩崎博物館の1階部分に | |||
「山手ゲーテ座」の名のホ | |||
ールを併設しております。 | |||
★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (横浜中華街そのB) | |||
料理皿の陳列 |
春節トラ |
「白いたいやきや」のマスコット? |
道標⇒こちらへ |
大皿 |
回転飲茶行列 |
酒屋の案内 |
中華街の朝鮮料理屋さん |
チャイハネ |
2010. 4.18 | 清水 | 『ユニオンジャックの矢』に見る旧大英帝国のしたたかさを思う |
『ユニオンジャックの矢』に見る旧大英帝国のしたたかさを思う |
横浜市 清水有道 |
超音速航空機『コンコルド』 | |||
1976(昭和51)年1月21日にかつての英仏両国協働開発超音速機『コンコルド』が | |||
英国航空のフラッグの下にロンドン・ヒースロー空港からバーレーン・マナーマ空港 | |||
港に初の商業飛行をしたとき(注:後に航路は本稿の題にある航路と同じオーストラ | |||
リアのシドニーまで延長された。同日エール・フランス機はパリ・シャルル・ドゴー | |||
ル空港からブラジル・リオデジャネイロに初飛行を行った)、筆者は偶然我が国の | |||
JETROとJSMEA(当時の社団法人日本舶用機械輸出振興会)の中東アラビア | |||
湾岸諸国への共同ミッションの一員としてバーレーンに滞在していた。バーレーンは | |||
旧ペルシャ湾、現アラビア湾の中にある旧英領の独立国であり、首都はマナーマである。 | |||
思い返せば翌日1月22日に鼓膜を劈くような轟音と共に飛び立ち、鳥のように翼を | |||
斜めに胴体にくっ付けた形に変えて飛び去った光景を目の当たりにした。バーレーン | |||
からの折り返し便を見送ったのだった。そのときの印象を末永く保ちたいと思い、フィ | |||
ラテリスト(切手蒐集家を指す英語)のために発行されているバーレーン国発行のコ | |||
ンコルド機就航記念切手の初日カバー(First Day Of Issue Cover)を買い求めた。 | |||
皆様既にご承知のように英国航空もエール・フランスもコンコルドのフライト・サー | |||
ビスは終えている。 | |||
バーレーン国発行のコンコルド機就航記念切手の初日カバー |
その「切手4枚」を拡大 |
切手4枚の内の「右上を拡大」 |
『ユニオンジャックの矢』 | |||
つい脱線が過ぎた。話を元に戻そう。このエッセイの主題は『ユニオンジャックの | |||
ユニオンジャックの矢 |
矢』であった。誰が生み出したか、物書きか、ジャーナ | ||
リストか、いずれマスコミのたぐいだろうが、主にドバ | |||
イやシンガポールを話題にするときにしばしば使われる | |||
言葉である。本来の意味は最近経済発展の目覚しいドバ | |||
イ、インドのバンガロール、シンガポール、そしてオー | |||
ストラリアのシドニーまでを起点のロンドンから繋いだ | |||
ときに旧大英帝国支配下のイギリス連邦主要都市が見事 | |||
に直線を描くことを指して呼んだ言葉である。 | |||
冒頭のコンコルドの航路はドバイの代りにマナーマであるが、当時はバーレーンの | |||
方が遥かに工業面では先端を走っていた。中東一のアルミ精錬工場があり、その工程 | |||
で生まれる熱を利用して海水からの淡水化が日本メーカーの技術指導の下に行われて | |||
いたし、中東一のハブ・修理ドッグを目指して、ポルトガル・リスナベ造船所の技術 | |||
指導の下に、50万トンドックが作られている最中であった。建設工事には韓国の現代 | |||
建設が当たっていた。多くの韓国人労働者が周囲の砂浜や道端で寝起きをしていた。 | |||
雨が降らない同地では十分可能なことであったろうが、こういう労働条件と国際入札 | |||
の競争をしても日本にはしょせん無理な相談だったと当時思ったことだった。しかし | |||
これを成し遂げたことが今日の韓国の強さの礎になったのだ、と今でも思い出される | |||
光景である。 | |||
ユニオンジャックの図 |
『ユニオンジャックの矢』が繋ぐ諸都市はアジアとヨ | ||
ーロッパを結んで、現在最も脚光を浴びている世界の成 | |||
長センターである。それぞれの都市は航空路、金融、原 | |||
材料の供給源であり、労働力をも運ぶネットワークの基 | |||
点をなしており、これらの基点を通してヒト、モノ、カ | |||
ネ、情報がロンドンに集められる仕組みが出来上がって | |||
いる。今になって我が国が今までの無策に気づき、遅れ | |||
ばせながらハブ空港化やハブ港湾計画とかを叫んでみた | |||
り、アジアを中心として次ぎの世代を担う留学生を招聘したり、労働力の受け入れま | |||
でも自由化しようとする声まで聞かれるようになったが、果たしてどういう筋立てが | |||
生まれ、血の通った、地に足が定着したネットワークを敷くことができるのであろう | |||
か。 | |||
今も大英帝国は隠然とした勢力を持って生きている。世界の隅々を知り尽くした民 | |||
の『輪』と『和』の巧みさと怖ろしさを改めて感じるのである。 | |||
(2010年3月15日 記) |
2010. 4.11 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−6(古から今へ) |
古典落語をより楽しむために−6 |
古から今へ | 佐野市 須貝 義弘 |
江戸時代(落語的に加えて)からあるものとしては、はつうま初午があります。 | |||
王子稲荷 |
2月の最初の午の日を初午と云い、この日は江戸の人々 | ||
は、王子稲荷を初め、豊川稲荷、笠森稲荷、羽田の穴守 | |||
稲荷などに行楽を兼ねて出かけたようです。 | |||
(ある書には稲荷神社の祭は京都伏見区の稲荷神社が最 | |||
も有名とある。) | |||
羽田の穴守稲荷は先輩方ならばご存知だと思います。 | |||
豊川稲荷 |
穴守稲荷 |
伏見稲荷 |
|
2月の節分は冬から春に変わる節の意であり、当日はひいらぎ柊の枝に鰯の頭を刺 | |||
したものを門口(かどぐち)へ掛け、歳男が鬼打ち豆を撒いたとある。私が関係して | |||
豆まき |
いる狂言にも「節分」と云う狂言があります。 | ||
注(節分は2月だけではなく、立春、立夏、立秋、立冬 | |||
の前日をすべて節分ということもすでにご存知) | |||
彼岸は、江戸時代は旧暦のため、2月の春分と、8月 | |||
の秋分の日を中日とした7日間であった。 | |||
春分の日は、二十四節気の一つで太陽の中心が春分点に | |||
来た時の称。春分を含む日を春分の日と云い、太陽暦の | |||
3月21日頃にあたる。太陽は赤道を直射して、全地球 |
天球儀 |
上の昼夜の長さがほぼ等しくなる。(時の説を参照) | ||
ここで春分点とは黄道と赤道との交点の中、太陽が南 | |||
より北に向かって赤道を通過する点のことで、この日を | |||
国民の祝日とした。 | |||
私と同じ年代(75歳)以上の方には「春季皇霊祭」 | |||
と云ったほうが早いかも。若い人たちのために、「春季 | |||
皇霊祭」とは旧制で大祭日の一つで、宮中皇霊殿で天皇 | |||
が歴代の天皇・皇后・親王を祭ったことである。 | |||
十軒店の雛市もありました。この市は、江戸時代から昭和の初期にかけて、日本橋 | |||
の本石町2、3丁目(現在の中央区室町3丁目あたり)の表通りの両側に、久月、光 | |||
月、などという人形店が約10軒ほど散在していたのでそ |
十軒店 |
||
の辺を俗に十軒店と呼んでいたようです。 | |||
現在は開かれていない市を取り上げたのは、また落語 | |||
の噺になりますが、この市を舞台に「人形買い」という | |||
噺があるのですが、この噺のサゲ近くに「初節句の祝い | |||
に、御仏前てえのがあるかい、そう云う時は御霊前と云 | |||
うんだ」と云うのがあるのです。現在ではこの噺を取り | |||
上げる噺家がいないということです。 |
この「仏・祝儀の袋」に関して、私は佐野で面白い体 |
お見舞袋 |
||
験をしたので、体験談を先ず一つ。東京にいる頃は、会 | |||
社の仲間のご家族に「お弔いがでた場合、夜お通夜、翌 | |||
日告別式となるのが普通で、私たちは昼間の告別式を避 | |||
け、お通夜に「黒いネクタイ」か、喪章をつけて「御霊 | |||
前」を持って行くのが通常でした。服は平服でよい。喪 | |||
服は「用意周到」と、とられてかえって失礼、とされて | |||
いました。 |
私は昭和四十九年(1974年)に佐野に赴任したのですが、 |
結びきり |
||
当時は自宅で葬儀を行う方がほとんどで、一部の地域で | |||
は土葬のところもあったと記憶しています。ある方のお | |||
通夜に伺ったとき、焼香を終え、「御霊前」を置こうと | |||
下を見ますと、驚くなかれ、のし袋「お見舞い」と書い | |||
てあるではありませんか! | |||
翌日この謎を、真木さん(当時東京ビッカース社長) | |||
が解いてくれました。「須貝君の年代だと承知している | |||
と思うが、通信機関が今日のように便利でなかった時代、急の知らせは電報だった。 | |||
打つ時は「チチシス」ではなく、先ず「チチキトク」を打ち、時間を経て「チチシス | |||
」と打った(私もこれは承知)。この辺(佐野)では、地域にも夜にお通夜に行く場 | |||
合は「危篤」の知らせでかけつけるので、お悔やみは言わず「少しでも話しが出来る | |||
かと思って来ましたが、残念です。お見舞いしか用意していません」となるんだよ、 | |||
とのこと。 | |||
この袋違いの噺は、前述 |
高座 |
円生 |
|
の落語「人形買い」の後半 | |||
にでて来る「袋違い」とは | |||
少し異なるが、佐野の古い | |||
習慣を紹介したかったので | |||
持ち出しました。 | |||
「人形買い」には特別な | |||
思いがあるからです。この | |||
落語百選 |
「人形買い」のように季節に関する風物を扱った噺を、 | ||
噺家は俗に「きわもの際物」と云います。一年中高座に | |||
かけるわけにはいかないので、この噺は4月下旬からせ | |||
いぜい6月までの出し物とされています。しかも登場人 | |||
物が多く、講釈師、占者、神道者、などが登場する後半 | |||
は難しいとされています。 | |||
私の持っている「古典落語」にも桂三木助の噺としてあ | |||
りますが、落語に夢中だった中学生の頃、ラジオで一度 |
浅草演芸ホール |
つるし |
聴いただけ、その時は確か | |
円生だったと思います。 | |||
近頃は昔の噺がCD化されて | |||
いますが、「人形買い」を | |||
私はみたことがありません。 | |||
「落語百選」とか「二百選」 | |||
とか近頃は落語関係の本も | |||
あるようですが「人形買い」 | |||
は見当たりません。どなたか、見つけたら教えてください。・・・・・・・・おわり |
2010. 4. 4 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その6) |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その6) | 横浜市 小田 茂 |
3.山 手(その2) | |||
≪はじめに≫ | |||
今回は『横浜:山手』の2回目となります。なお、≪その2≫の番外編で、ご紹介 | |||
いたしました「西洋館」につきましては、写真のみといたします。 | |||
また、「番外編」は、前回に引続き「横浜中華街」の『お店のマスコット・看板』 | |||
等々の珍百景? をご紹介いたしますが「横浜中華街」には面白いものが沢山あり、 | |||
まだまだ続きそうです。 | |||
(26) ペリーも訪れた「横濱村名主:石川徳右衛門の屋敷跡」 | |||
屋敷跡 |
説明板 |
山手本通りの「代官坂上」 | |
の交差点を左折し、「代官 | |||
坂」を元町商店街方向へ下 | |||
っていったところにありま | |||
す。この坂は、山手の丘を | |||
越えて本牧方面へ行く道で | |||
したが、横濱村名主石川徳 | |||
右衛門の屋敷があったこと | |||
から「代官坂」と呼ばれるようになりました。 | |||
幕末開港前後の当主石川徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場の設営、食 | |||
糧、その他の設備一切を掌りました。また、ペリーが嘉永7年(1854年)3月9日に | |||
この屋敷に訪れたとのこと。黒塀が少し昔を偲ばせているのかと思われます。表札を | |||
見ましたら「石川」さんでした。広い庭の奥には立派な洋館が建っておりました。 | |||
何代目か分りませんが子孫の方が住んでいるようです。また、「石川町」という町 | |||
名にも多分関連があるのだと勝手に思っているところです。 | |||
この屋敷跡の道路越し前に、「日本バプテスト発祥の地」の碑が建っていましたが、 | |||
後から出てきます記事と関連がありますので後述の(29)にまわします。この場所か | |||
ら坂を下って140〜50mで元町商店街本通に出ます。 | |||
「山手本通り」へ戻るには、今度は急な登り坂なので大変でした。 | |||
「代官坂上」の交差点にもどり、ここから4〜5分先からは、山手らしい雰囲気が | |||
更に増してきます。 | |||
「元町公園」へ丘を下る入口周辺に「ベーリック・ホール」、「エリスマン邸」、 | |||
「山手234番館」等が建ち並んでおります。 | |||
「ベーリック・ホール」 |
「エリスマン邸」 |
「山手234番館」 |
また、レトロな「公衆電 |
「公衆電話」外観 |
「公衆電話」内観 |
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話」が、この山手の雰囲気 | |||
を一層かもし出しておりま | |||
す。今は皆さん、携帯電話 | |||
を持っているので、これを | |||
利用する方は本当に“オツ” | |||
な人が、多いのではないで | |||
しょうか! | |||
(27) 山手80番館遺跡 | |||
「エリスマン邸」の直ぐ脇の「額坂(ひたいざか)」の下り入口の所に、「山手80 | |||
番館遺跡」があります。関東大震災前の異人館遺跡です。日本語の説明文は、下記右 | |||
写真を拡大して(クリック)お読み下さい。 | |||
「山手80番館遺跡」 |
説明板 |
説明板(日本語部分) |
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(28) 土木遺産「ブラフ溝」 | |||
「ブラフ溝」 |
「山手80番館遺跡」から額坂を下ったところに、土木 | ||
遺産「ブラフ溝」が置かれています。説明板によります | |||
と、「ブラフ」とは居留外国人に“切りたった崖”と呼 | |||
ばれ、ここの山手の丘陵地が数々の谷戸を持ち、その雨 | |||
水が谷戸に流れないよう、明治7年(1874年)から翌年 | |||
にかけて造られた、洋風側溝としては現存最古のもので | |||
あります。右側がけ下は「元町公園プール」です。 | |||
ここの斜め前を10数m入ったところに「ヨコハマ猫の | |||
美術館」があります。普通の民家の二階屋ですが、ひっそりとしていました。 | |||
「ブラフ溝」のところに「猫に餌を与えない」との横浜市の看板が有ったのには、 | |||
「何で猫の美術館のこんな側に、このカンバン?!」と思わず一人笑いましました。 | |||
猫の美術館看板 |
入口の猫の置物 |
横浜市看板 |
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(29)「日本バプテスト」発祥の地 | |||
「額坂」をさらに1〜2分下った右側の民家に敷地の角地に「日本バプテスト」発祥 | |||
の地の説明板があります。『関東学院源流 日本バプテスト神学校発祥の地 1884 | |||
年10月6日、ここ山手でA・A・ぺンネットが横浜バプテスト神学校を設立した。 | |||
関東学院キリスト教教育の源流はここに発する。』創立125周年記念碑であります。 | |||
真ん中の写真で、向って左側が「額坂」で、ここを下ると「代官坂」と合流します。 | |||
写真の右側の方に「代官坂」があり、合流点の近くに「日本バプテスト発祥の地碑」 | |||
が建っております。碑には「明治6年2月7日ネーサン・ブラウン博士」がこの地に | |||
布教の本拠地を置いた旨のことが刻まれ、昭和11年9月23日に建立されたものです。 | |||
創立125周年記念碑 |
当時の神学校 |
「日本バプテスト」発祥の地碑 |
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(30) 横浜山手聖公会教会 | |||
文久3年(1863年)、横 |
横浜山手聖公会教会 |
キリスト像 |
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濱に居留していた英米人に | |||
よって居留地に、日本初の | |||
プロテスタント教会として | |||
建設され、明治34年(1901) | |||
山手の現在地に移されまし | |||
た。 | |||
「山手本通り」の「山手 | |||
234番館」の並びにあります。 | |||
関東大震災で倒壊し、昭和6年(1931年)に大谷石の外壁で現在の教会が再建され | |||
ました。しかし、昭和20年(1945年)の空襲で、屋根が飛ばされ、内部が焼失しまし | |||
たが、2年後米軍と米聖公会の援助を受け修復されました。 | |||
しかし、平成17年1月4日信者の放火で内部が全焼してしまいました。幸いに大谷 | |||
石の外壁は残り、写真のように重厚感あふれる外観を残しております。 | |||
ブリキのおもちゃ博物館1 |
ブリキのおもちゃ博物館2 |
教会裏手100m位の所に、 | |
テレビ「何でも鑑定団」で | |||
お馴染みの北原照久氏が館 | |||
長の「ブリキのおもちゃ博 | |||
物館」があります。 | |||
所有16,000点といわれる | |||
おもちゃの内、3,000点が | |||
展示されているとのこと。 | |||
★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (横浜中華街そのA) | |||
お祝い飾り@ |
お祝い飾りA |
お祝い飾りB |
お祝い飾りC |
お祝い飾りD |
巨大ソフトクリーム |
ソフトクリーム |
パンダ?キティーちゃん? |
チョットこわいな〜 |
「天后宮」の灯篭 |
おもちゃの「ぱんだや」さん |
チャンピオン実演中 |
「おもしろ水族館」入口 |
中華街雰囲気満開 |
中華街トイレ |
2010. 3.28 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために(犬伏の別れ・米山古墳) |
古典落語をより楽しむために−5 |
(犬伏の別れ・米山古墳) | 佐野市 須貝義弘 |
犬伏の別れ・米山古墳 | |||
「私の住んでいる佐野市犬伏下町」は、犬伏という町名ははっきりしたことは分か | |||
らないが一説によると、このあたりを山伏が通りかかると一匹の犬が怪我をしていた。 | |||
これを山伏が助けたので、それを地名にしたと云う。 | |||
昨年から佐野市の観光ボランティアになったので、この地の歴史も勉強しているが | |||
興味あることが分かって来た。それは真田昌幸(まさゆき)、信之(のぶゆき)、 | |||
幸村(ゆきむら)の親子がこの犬伏で密議を開いていたと |
佐野市犬伏町付近と米山古墳 |
||
いうもの。しかも場所は私の住まいから百メートルと離 | |||
れていない小学校の前に旧家がありそのあたりらしい。 | |||
(旧家が本陣であったことは勉強でわかっていた)碑も | |||
あるというので現在調査中)。 | |||
話しは1600年(慶長五年)にさかのぼる。この年は誰 | |||
もが知っている関ヶ原の戦いに全国の武将が、家康率い | |||
る東軍につくか、石田三成ひきいる西軍につくかで、二 |
分した戦国の一大決戦である。真田親子はこの犬伏で密 |
「犬伏の別れ」の場・米山古墳の薬師堂 |
||
議を開いた。無論どちらにつくか!である。 | |||
昌幸は秀吉に「表裏比興(ひょうりひきょう)」の者 | |||
(表の顔と裏の顔が一致しない者)と言われたそうだが、 | |||
この時代の武将は例外なく知略を駆使して戦国の世を生 | |||
き抜いてきたと云える。昌幸もNHKの昨年の大河ドラマ | |||
「天地人」でわかるように、幸村を上杉家に人質として | |||
差し出している。昌幸にすれば上杉家、豊臣家などと提 | |||
携することで真田家の存続を図ってきたのである。他の武将たちも同じで昌幸が例外 | |||
でない。 | |||
《犬伏の別れ》 | |||
話を密議にもどすと、父昌幸は信之、幸村弟にどちらかにつくか問うた。兄信之は | |||
東軍を、弟幸村は西軍を主張し、意見が分かれた。兄弟は意見が分かれたが、兄信之 | |||
は岳父(妻の父)が東軍の本田忠勝、弟の幸村の岳父が西軍の大谷吉継(おおたによ | |||
しつぐ)であったのも大きな理由だったであろう。昌幸は決断し、昌幸と幸村は西軍 | |||
へ、兄信之は東軍へと。 | |||
真田昌幸(父) |
真田信之(長男) |
真田幸村(次男) |
|
昌幸はこの時「いずれが勝っても家が存続するので二手に分かれよう」と云ったと | |||
ある。これを「犬伏の別れ」と云う。 | |||
決戦は東軍の勝利。東軍を苦しめた真田親子に厳罰が下されようとしたが、信之の | |||
嘆願が実って死罪は免れ、二人は高野山での蟄居(ちっきょ)謹慎を命じられた。 |
参考文献:{名将の決断}朝日新聞発行、外 おわり |
2010. 3.21 | 檜山 | “ 鴨 の 子 育 て ” |
“ 鴨 の 子 育 て ” | 大田原市 檜山 湧二 |
確か6月上旬の夕暮れ近くの事だったように思う。 |
檜山_湧二さん |
||
「ちょっと来てみな早く早く」、お勝手にいた妻に声を | |||
かけ、また急いで小川の縁へ降りてみた。数メートル先 | |||
の川面に親鴨に連れられたヒナ鳥がたくさん見え隠れし | |||
ている。一・二・三……、スズメほどの小さな可愛い8 | |||
羽のヒナが、川の流れに負けじと必死に泳ぎながら、親 | |||
に寄り添うようにしてこちらの様子を伺っている。妻は | |||
手馴れたもので、普段から友達(自称)になっている?小 | |||
鳥や鴨の餌用のパンくずを素早く用意し、上流から川面に流してあげた。ヒナ達は我 | |||
親鴨のヒナの員数点検 |
先にと飛びついた。我が家ではこの日の来るのを今か今 | ||
かと約2年間待ち続けたのである。それが遂に目前に現 | |||
れたのだから、その驚きは例えようがなかった。 | |||
実は2年前、鴨の親子についてとても淋しい、いや大 | |||
変哀しい思いをしている。今年とほぼ同じ時節に親がヒ | |||
ナ7羽を連れて、我が家の横を流れるこの小川のふちへ | |||
挨拶に来てくれたのである。 | |||
その時の親鳥の誇らしげな様子が昨日のことのように | |||
思い出される。しかし、2〜3日後に姿を見せた時、ヒナはたったの1羽だった。妻 | |||
が言うには親鳥は首を長く伸ばし、小さなとても哀しげな声で鳴き、何かを訴えてい | |||
るような仕草をしたというのである。 | |||
それからというもの妻も私も「カラス」が川辺で鳴くと“お前達が食べたんだろう” | |||
野良猫が庭を横切るのをみつけては“お前、食べなかったか”…いや「イタチ」かな | |||
「ヘビ」かな…と疑いをかけながら2年程が過ぎた。 | |||
幸いにも今年は8羽全部が無事に成長し何度も餌をねだりに元気に現れて、我が家 | |||
はもちろん、このことを知った友人達にも、この上ない「癒し」とそして大切な「教 | |||
訓」とを与えてくれた。下流の子育て場所と思われる所からおよそ200m近くの距離 | |||
を、沢山のヒナを引き連れ、水に流されないように又「イタチ」や「カラス」等の天 | |||
敵から守りながら、この上流へやっとの思いでたどり着くのだろうと考えられる。パ | |||
ンくずを与えても親鳥はほとんど口にせず、ヒナ鳥が食べるのを静かに見守っている。 | |||
小川は我が家のすぐ西側の少し低い所を流れていて、 |
親鴨の話を聴くヒナ達 |
||
庭から石段を降りていくようにしてある。妻から時々も | |||
らう餌を待ちきれないヒナ達はこの石段を何度も転げ落 | |||
ちながら懸命に這い上がってくる。そして‘ピヨピヨ’ | |||
と催促するのである。中には少し体力が無いのか石段を | |||
どうしても登れない子もいる。親鳥は庭まで上がってき | |||
て、庭にいるヒナの様子をみると直ぐに降りていき、石 | |||
段の下で、上に登れないヒナを見守っている。 | |||
親鳥の、どの仕草をみても、とても立派に見える。一体誰から教わったのだろう。 | |||
例えば自分だって子供以上に腹を空かしているだろうに! そんな姿を見て石段の下 | |||
の方へもパンくずを多めに撒いてやった。腹いっぱいになったヒナ達は、土手の上で | |||
見張り番をする親鳥の元へ行く。それから暫らくは川に飛び込んだり、土手に上がっ | |||
たりと無邪気に遊ぶのである。親鳥はその間じっと、ただただ辛抱強く待ち続け、辺 | |||
りが薄暗くなる頃にやっと親子揃って(1羽も置き忘れず)下流のねぐらの方向へ帰 | |||
っていくのである。そんな姿を見ていると、ほっ〜とすると同時に何故か胸の熱くな | |||
るものが感じられる。 | |||
我々人間社会では、親が我が子を虐待したり、それどころか殺してしまったり、そ | |||
してまた逆に子供が親殺しをしたなどと、あってはならない悲しい事件が頻繁に報道 | |||
されている昨今を思う時、この鴨の子育から多くのことを教えられているように痛感 | |||
させられた。 | |||
親子は7月上旬頃から全く姿を見せなくなった。ヒナ達の可愛い小さかった羽根も | |||
短期間の内に驚くほど成長しているように見えたので、巣立ち準備も早々に終わり、 | |||
家族揃って仲間たちのいる別の場所へ無事移り住んでいったもの・・・・と信じたい。 | |||
ちょっぴり淋しくもあるが安心している。 | |||
水元神社 |
ところで、我が家の横を流れるこの小川について少し | ||
触れてみることにする。家から北へ約50〜60m程のとこ | |||
ろに水元神社(土地の人は、すいげんさまと呼んでいる) | |||
と云う小さな神社があり、その社の下の二箇所から湧き | |||
出ている地下水が源である。場所は栃木県北部の、那須 | |||
与一の郷として知られている大田原市で、県立大田原高 | |||
校から歩いて5〜6分位の所にある。よほど注意しない | |||
と通り過ぎてしまいそうな、極く小さな神社である。地 | |||
元の古老の話や当地に伝わる民話(水元神社と白蛇さま) |
水元神社から湧出る小川 |
||
などによると、およそ300年もの大昔から飲用水・生活用 | |||
水・農業用水として使われ、大田原城下の多くの人達に | |||
よって大切に守られてきたそうである。今までに何度か | |||
県に水質検査を依頼した事があるが、むしろ水道水に比 | |||
べて不純物も少なく飲用水として適合の通知を貰った。 | |||
しかし今は飲用水として使用している人はいない。私が | |||
横須賀から当地へ引っ越してきた昭和54年当時は初夏に | |||
なると、この川辺には大きな蛍が沢山飛び交い、それはとても見事なものでした。 | |||
それが源氏蛍だということをこの時初めて教わった。当時が懐かしく思い出される。 | |||
直ぐ下流では、当地で老舗の呉服屋さんが、冬場だけこの湧水を利用して、商(あき | |||
な)い用の「天然氷」を昭和の半ば頃まで作っていたと聞いている。川に沿ってその西 | |||
側には大きな杉と檜の林がほぼ南北方向に続いていて、街中とは違った景色である。 | |||
その林の南外れに、氷をつくるのに使用していたと思われるコンクリート製のプール | |||
がまだ残っている。このプールの両側は林に覆われていて、陽があまり長時間当たら | |||
ないので空気も“ひんやり”感じる程である。さぞかし美味しい天然氷ができたもの | |||
と往時が偲ばれる。鴨はおそらくこのプールで子育てをしていたのではないかと思わ | |||
れる。湧き水の温度は一年を通して約15℃くらいで、水辺はこの水の流れと林の冷気 | |||
とによって、緑色にでも染まっているかのように感じられるほどきれいな空気に包ま | |||
れていて、健康にはとても良いように思える。そしてまた、冷たい小川に手足を浸け | |||
ながら、蝉しぐれを聞くことができる夏のシーズンは最高である。 | |||
来年もまた鴨がヒナを見せに来てくれることを楽しみにしている。 |
2010. 3.14 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−4(江戸時代の藩の予算) |
古典落語をより楽しむために−4 |
(江戸時代の藩の予算) | 佐野市 須貝義弘 |
江戸時代の藩の予算 | |||
今、日本は、平成二十二年度の国家予算(一般会計と特別会計)をどうするのか、 | |||
注目されている。私の乏しい知識では・・・。 | |||
一般会計は、通常の一般業務に必要とされる歳入・歳 |
代官所・陣屋(現代の税務署) |
||
出を予算化したもの。 | |||
特別会計は、個別の予算によって独立した管理が行わ | |||
れる会計。要は歳入の多い少ないに左右されず、アンタ | |||
ッチャブルな予算と支出のこと。 | |||
最近読んだ本の中に、この特別会計に似たものが江戸 | |||
時代の後期にもあったという話。それが「懸硯方(かけ | |||
すずりがた)」である。 | |||
江戸後期の佐賀藩では、藩政府が管理する蔵方(くらかた)(これが一般会計にあ | |||
たる)、藩主の側近が管理する懸硯方(これが特別会計にあたる)に分けられていた。 | |||
蔵方については、説明の要はないが、懸硯方については |
懸硯(かけすずり) |
||
時代劇小説ファンの私も聞いたことがなかったので、ちょ | |||
いと調べてみました。「懸硯とは、手提げ型の金庫のこ | |||
と」で、藩主がいつも身近に置いて自由に出し入れする | |||
ことが出来る。不心得の殿様だと懸硯方の金を殿様の趣 | |||
味・道楽につぎ込むはめになりそうだが、そもそもこの | |||
金は軍事費や政治工作などに使われる機密費といった表 | |||
に出せない性格のものだったようである。(時代は変わ | |||
っても問題は同じ) | |||
例えば、ある殿様は、藩財政が切迫してとうとう、懸硯方の収入は、藩財政(蔵方) | |||
の管理となり、殿様でさえその金を使うには借用書を書かなければならないほどだっ | |||
たと云う。またある藩主は財政改革に乗り出し、懸硯方管理の軍事費・機密費の確保 | |||
に成功している殿様もいると云う。時代が移った今日でも良い殿様(政党)が出てこ | |||
ないかぎり、借金(国債発行)に頼らなければならないでしょうかね。一般家庭にも | |||
云えること。私など「懸硯方」など思いもよりませんでした。 |
参考文献:{名将の決断}朝日新聞発行、外 おわり |