| 話 題 『 よもやま話 』-16 | 2010年1月〜2010年3月 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2010. 3. 7 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その5) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 2.28 | 古典落語をより楽しむために-3(正月風景-2)投稿;須貝義弘 | ![]() |
| 2010. 2.14 | 古典落語をより楽しむために-2(正月風景-1)投稿;須貝義弘 | ![]() |
| 2010. 2.10 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その4) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 1.27 | 『往生』に往生してちょっと一言 投稿:清水有道 | ![]() |
| 2010. 1.20 | 安住神社の大鏡餅 投稿;梅原 実 | ![]() |
| 2010. 1.17 | 古典落語をより楽しむために-1(江戸時代) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
| 2010. 1.13 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その3) 投稿;小田 茂 | ![]() |
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| 話 題 『 よもやま話 』 |
| 2010. 3. 7 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その5) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その5) | 横浜市 小田 茂 | |
| 3.山 手(その1) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 今回から、『横浜:山手』を何回かに分けてご紹介いたします。山手といえば瀟洒 | |||
| な洋館が建ち並び、開港当時の旧居留地の丘であります。≪その2≫の番外編でご紹 | |||
| 介いたしました「洋館」につきましては、写真のみといたします。 | |||
| (22)「山手イタリア山庭園」 | |||
| JR石川町駅南口を出て、 |
イタリア山庭園入口 |
洒落た水口 |
|
| 直ぐ近くの大丸谷坂を6〜 | |||
| 7分位歩くと「山手イタリ | |||
| ア山庭園」の入口に到達し | |||
| ます。 | |||
| 明治13年(1880年)から | |||
| 明治19年(1886年)にかけ | |||
| て、この見晴らしの良い高 | |||
庭園1 |
庭園2 |
台の場所にイタリア領事館 | |
| があったことから「イタリ | |||
| ア山」と呼ばれるようにな | |||
| りました。 | |||
| 特に一際目立つのが洋風 | |||
| 庭園で、中央にあります水 | |||
| 路を中心に、幾何学模様の | |||
| デザインの花壇は、四季折 | |||
| 々の花で訪問者の心を和ましてくれます。 | |||
| また、この敷地内に「ブラフ18番館」と「外交官の家」が建てられております。 | |||
ブラフ18番館 |
外交官の家 |
少しは似てますか? |
|
| (23) 「カトリック山手教会」 | |||
「カトリック山手教会」 |
「カトリック山手教会」右側面 |
イタリア山庭園から4分 | |
| 程度で「山手本通り」に出 | |||
| ます。この通りは両脇に西 | |||
| 洋館、教会、女学校等がな | |||
| らび、「外人墓地」をはじ | |||
| め数々の見所があり、最終 | |||
| 突き当りが「港の見える丘 | |||
| 公園」となります。 | |||
| 「山手本通り」を6分ほど歩くと、右側に「カトリック山手教会」があります。 | |||
| 文久2年(1862年)に現在の山下町にフランス人宣教師が建てた横浜天主堂を、明 | |||
| 治39年(1906年)に現在の場所に移築されました。大正12年(1923年)の関東大震災 | |||
| で倒壊した後、現在の建物は昭和8年(1933年)に再建されたものです。 | |||
| 庭には、真っ白な「聖母 |
「聖母マリア」の像 |
説明板 |
|
| マリア」の像が建っていま | |||
| す。説明文には『この美し | |||
| い聖母像は、1868年にフラ | |||
| ンスから贈られ開国後、初 | |||
| のキリスト教教会として | |||
| 1862年(文久2年)居留地 | |||
| に建てられた。 | |||
| イエズスの聖心教会の入口の上より人々を見守る形で設置されました。1906年(明 | |||
| 治39年)に教会が山手四十四番地に移転の際、現在の場所に移されました。』と書か | |||
| れていました。 | |||
| (24) 「日本最初のヒマラヤスギ」 | |||
ヒマラヤスギ1 |
カトリック山手教会の脇道を、山手本通りから外れて | ||
| 4〜5分先に「山手公園(洋式公園発祥の地・テニス発 | |||
| 祥の地)」があります。 | |||
| イギリス人によりインドのカルカッタからヒマラヤス | |||
| ギの種子が輸入され、山手居留地一帯に植えられたのが | |||
| 日本で始めてのヒマラヤスギです。(インドはイギリス | |||
| の植民地だった頃から、ヒマラヤスギをイギリスから取 | |||
| り寄せていたとのこと)この山手公園からヒマラヤスギ | |||
| は公園樹として全国に広がっていきました。 | |||
| 昭和40年(1965年)頃か |
ヒマラヤスギ2 |
旧「山手68番館」 |
|
| ら、大きくて邪魔だと伐採 | |||
| が進み、また、台風などで | |||
| 倒れ現在は直径1メートル | |||
| 以上の大木は数少なくなり、 | |||
| テニスコート周辺、近くの | |||
| フェリス女学院の校庭にと | |||
| 大変貴重な木です。横浜市 | |||
| の名木古木に指定されています。 | |||
| 園内のテニスクラブハウス(旧山手68番館)には、当時のテニス用品等が多数展示 | |||
| されています。 | |||
各種テニスラケット |
テニス風景のステンドグラス |
当時のご婦人にテニススタイル |
|
| (25) “宣教師の一世紀活動”の記念碑 | |||
| 山手本通りに戻って5分 |
“宣教師の一世紀活動”の記念碑 |
4人の宣教師 |
|
| ほど歩を進めますと「代官 | |||
| 坂上」バス停の前に「末日 | |||
| 聖徒イエス・キリスト教会」 | |||
| があり、碑の説明文により | |||
| ますと『1919.9.1、聖徒 | |||
| イエスキリスト教会の4人 | |||
| の宣教師がこの地で布教を | |||
| はじめ・・・・日本各地の忠実な教会員による一世紀にわたった献身を記念する。 | |||
| 2001.9.1』と記されていました。 | |||
| ≪番外編≫ 横浜中華街:今年の“春節”は2月14日(日) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 横浜中華街では、2月14日は中国の正月、旧暦の正月元旦「春節(シュンセツ)」 | |||
| で2月一杯いろいろなお祝いの行事で大賑わいです。新暦の正月より「春節」の方が | |||
| 新年ムードは一段と高いと言われております。ちなみに「春節」は、旧暦を基準にし | |||
| ているため、新暦に直すと毎年日日が異なります。 | |||
| 横浜中華街の歴史は、横浜開港(150年前)と共に歩ん |
春節で賑わう中華街 |
||
| できました。飲食・食材・雑貨等、500軒以上の店が軒を | |||
| 連ね、年間2,000万人を超える人々が訪れる世界最大級の | |||
| 中華街であります。 | |||
| 交通の便は、地下鉄みなとみらい線「元町・横浜中華 | |||
| 街駅」(中華街出口)下車直ぐで中華街東側で、JR根 | |||
| 岸線「石川町駅」北口(中華街口)から徒歩5分のとこ | |||
| ろで中華街西側入口となります。 | |||
| 横浜山手中華学校卒業生による、中国伝統文化の継承を目的として活動しています。 | |||
華麗な踊り |
獅子舞@ |
獅子舞A |
|
| ☆ 横浜中華街の“牌楼(門)” | |||
「善鄰門」 |
横浜中華街の“牌楼(門)”は10基あります。横浜中 | ||
| 華街正門ともいわれる「善鄰門」は大通り入口に建って | |||
| おりまして、平和を願い看板に、隣国や隣家と仲良くす | |||
| るという「親仁善隣」という言葉を掲げてあります。牌 | |||
| 楼にはそれぞれ意味があり、中国の風水思想の影響を受 | |||
| けているそうです。 | |||
| 中華街を囲むように「東・南・西・北」(東西南北で | |||
| はありません)に配置された牌楼は、特に深い意味を持 | |||
| っております。守護神は東:青竜神、南:朱雀神、西:白虎神、北:玄武神でそれぞ | |||
| が順番に邪を見張ることにより、中華街の繁栄と安全をはかるということです。 | |||
| ★東方:≪朝陽門(チョウヨウモン)≫ |
「朝陽門」 |
||
| 地下鉄みなとみらい線「元町・横浜中華街駅」(中華 | |||
| 街出口)を出たところにあります。道路の反対側は山下 | |||
| 公園、マリンタワーが直ぐです。 | |||
| 意味合いは「日の出を迎え朝日が街全体を覆い繁栄を | |||
| もたらす。」です。 | |||
| ★南方:≪朱雀門(スザクモン)≫ | |||
「朱雀門」 |
南門シンクロードの南端で、すぐ側の前田橋(堀川) | ||
| を渡れば「元町商店街」です。 | |||
| 意味合いは「厄災をはらい、大いなる福を招く。」 | |||
| ★西方:≪延平門(エンペイモン)≫ | |||
| JR根岸線「石川町駅」北口(中華街口)から徒歩3 | |||
| 分のところにあります。右側が「港中学校」、左側が | |||
| 「みなと総合高等学校」で、以前は「港商業高等学校」 | |||
| で、東京計器OGに卒業生は何人もいます。また、その |
「延平門」 |
||
| 昔(昭和20年代後半)「大鳥中学校」であり、校舎は替 | |||
| わっておりますが私の母校であります。当時、地元本牧 | |||
| は米軍に接収され中学校がなく、ここ「吉浜橋」まで市 | |||
| 電で通学していました。当時は「中華街」でなく「南京 | |||
| 町」と呼んでいました。 | |||
| 話を戻しますが、意味合いは「平和と平安のやすらぎ | |||
| が末永く続くことを願う」ということです。 | |||
「玄武門」 |
★北方:≪玄武門(ゲンブモン)≫ | ||
| 大桟橋通りに面し、斜め前が「横浜スタジアム」です。 | |||
| 近くに「中区役所」があります。 | |||
| 意味合いは「子孫の繁栄をもたらす」です。 | |||
| ★≪西陽門(セイヨウモン)≫ | |||
| 石川町駅北口を出て、ガードを通ると直に、「西陽門」 | |||
| があります。延平門より更に西端に位置しており、西の | |||
| 太陽に一番近いので「西陽 |
「西陽門」 |
「市場通り門」 |
|
| 門」と名付られたそうです。 | |||
| ★≪市場通り門≫(2基) | |||
| 「中華街大通り」と「関帝 | |||
| 廟通り」を結ぶ横道の「市 | |||
| 場通り」の両端に建ってい | |||
| ます。 | |||
「天長門」 |
「地久門」 |
★商売の神様「横浜中華 | |
| 街関帝廟」がある通りを象 | |||
| 徴する門です。 | |||
| 「関帝廟通り」の | |||
| 東側に≪天長門≫ | |||
| 西側に≪地久門≫ | |||
| があります。 | |||
| ★ 「横浜中華街 関帝廟(カンテイビョウ)」 | |||
| 「三国志」の武将・関羽を祀っております。正義の味方としての武人の他に理財家、 | |||
| そして簿記の方法も発明したということで「商売の神様」として厚く信仰されていま | |||
| す。横浜中華街の関帝廟は日本最初の関帝廟で、明治6年(1873年)に建てられ、そ | |||
| の後、大正12年(1923年)関東大震災、昭和20年(1945年)大空襲、昭和61年(1986年) | |||
| 火災で焼失し、現在の廟は平成2年(1990年)に再建された4代目であります。 | |||
| 中国の伝統建築工芸をこらした豪華絢爛な廟は、横浜中華街の中でもひときわ異彩 | |||
| を放っており横浜中華街のシンボル的存在です。 | |||
関帝廟全景 |
「三国志」の武将・関羽 |
獅子・狛犬? |
|
| ★ 「横濱 媽祖廟(マソビョウ)」 | |||
| 「横濱 媽祖廟」は「横浜中華街関帝廟」とともに華僑の人々の信仰を集めていると | |||
| ころです。 | |||
| W媽祖”とは、中国沿岸地方で広く信仰されている海の女神のことで、航海通商の | |||
| 安全を守り、自然災害・疫病を防いでくれる神様とされる神「媽祖」が祀られており | |||
| ます。 | |||
媽祖廟全景 |
獅子・狛犬? |
「金亭」金紙券をここで燃やす |
|
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (横浜中華街その@) | |||
ジャンボ・ブタまん |
馬さんの店@ |
馬さんの別店A |
|
私、売り物です |
縁起の良い案内板 |
路上の記念碑 |
フカヒレ@ |
フカヒレA |
コックさん |
フカヒレまん |
赤い石? |
交番 |
| 2010. 2.28 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−3(東京計器の正月風景) | ![]() |
| 古典落語をより楽しむために−3 | |||
| (東京計器の正月風景) | 佐野市 須貝義弘 | |
| 東京計器の職場風景 | |||
| 昔、東京計器の正月はどんなだったか。 | |||
| 会社の正月の行事を述べる前に、私が入社した1954年(昭和29年)頃、の職場風景は | |||
| どんなだったか、先輩方はご存じだが、OB会も私より若い人が多くなったので、そ | |||
| の人たちのために書いてみる。 | |||
| ◇土曜は半日であった。私の妻は結婚してから一年くらいは此の事を知らなかった。 | |||
| ◇社内に理髪店があり、日時指定の利用券を購入すると、仕事中でも行くことがで | |||
| きた。 | |||
| ◇昼の食事時には、味噌汁が配られた。(好評であった) | |||
| ◇小僧さんと呼ばれる人がいた。無論正式の呼び名ではないが、現場作業グループ | |||
| (当時は組と云っていた)で一番若い人(中学出身 |
職場の小僧さん |
||
| 者が多かった)で、この人達の仕事は雑用が多く、 | |||
| 職人さんの使い走り(購買へたばこを買いに行く等) | |||
| や前述の味噌汁を賄いまで取りに行くのもこの人達 | |||
| の仕事。「現場での仕事は、技術を盗め」と云われ | |||
| た時代で、雑用を片付けながら、少しづつ先輩の仕 | |||
| 事を見習いながら技術を身に付けていくのは大変だ | |||
| ったろうと思いました。さらに私が感服したのは、 | |||
| この人達の中に定時制高校、大学と進学する人が大勢おられたこと。こうしてそ | |||
| れぞれの部門で一人前の職人になっていった。ただ敬服するばかりである。 | |||
| ◇小僧さんに感謝。職人さんは小僧さんをこき使うだけではなかった。ボーナス時 | |||
| (一時金と云わないと叱られるかな)には、組長(現在では班長)さんが皆から | |||
| お金を集め、自分のポケットマネーを足して、小僧さんに渡したものである。 | |||
| 現金の時もあったようだが、入社したての人(中学卒業したばかりの子)などに | |||
| は組長さんが配慮して(彼の希望を聞いたのだろうか)学用品だったり、身につ | |||
| ける物だったりした。 | |||
| 職人さんの中には「俺はいけなかったけどお前は |
昼休み(磁鋼プール)で遊ぶ小僧さん |
||
| 頭がいいから高校で大学で頑張れよ」とお年玉を渡 | |||
| す人もいました。私は事務方だったので、小僧さん | |||
| を使う立場にはありませんでしたが、組長さんに | |||
| 「気持ちだけですが」と少しのお金を渡すことにし | |||
| ていました。こういう時、組長さんは妙な遠慮はし | |||
| ないで「気持ちは伝えるよ」と受け取ってくれたも | |||
| のです。 | |||
| そうして「お前も大変だろう。大学へ行きたいだろうが、こう忙しくてはそれ | |||
| もできないな。俺がもう一つ別の{大人への道を教える大学}へ連れてってやろ | |||
| う」と云っ連れてってくれました。その大学は川崎の堀之内にありましたが、昭 | |||
| 和三十二・三年惜しくも閉校になりました。 | |||
| その後仕事はどんどん忙しくなり「悩んだり」「失敗」もしましたが、皆さんが温 | |||
| かく指導してくれました。中でも忘れられないのは油圧が大きくなり、エレメントだ | |||
| けでなく、ユニットとしても生産販売することが決まった時です。 | |||
| 配管ができる人が必要になったのですが、社内にはで |
配管の技能士 |
||
| きる人がいません。募集しましたが配管の経験者は一人 | |||
| だけでした。二・三人は仕上げ師だったのですが、募集 | |||
| 条件の中に「配管の仕事」とことわっていましたので、 | |||
| 採用の時、確認させていただきました。この人達の採用 | |||
| テストは上司の考えで、職人にぺ―パーテストは不要。 | |||
| 1p角のサイコロを仕上げ、かどからかどへ出来るだけ | |||
| 細い孔を空ける。がテーマでした。 | |||
| それでも人員は足りません。困っている私を見て「配管屋さんにでもなるか」と同 | |||
| 年輩の人達が異動を承知してくれたのです。涙が出るほどうれしかったものです。昔 | |||
| の現場は問題を抱えながらも皆が協力して油圧の事業を大きくして来たのです。少し | |||
| 前置きが長くなりましたが、昔の職場の皆さんに知っていただきたかったのです。 | |||
| 東京計器の正月風景 | |||
| 当時の職場の正月の様子について。私が入社した1954年(昭和29年)頃は、初出社 | |||
| の日は半日で10時まで新年の挨拶と決められていたような気がするが、仕事はせず、 | |||
| やかんで酒が熱燗にされ、ストーブのまわりは、するめを焼く匂いと酒の香りでいっ | |||
| ぱい。着物姿の女子社員の初仕事に、湯呑みに酒をついでもらったものである。湯呑 | |||
| みはアルコ―ルで茶渋がきれいに取れた? | |||
新年式(弥生会館・S34年) |
弥生会館ができてからは、全員が一堂に集められ、社 | ||
| 長の話や組合委員長の挨拶などがあり、職場にもどり仕 | |||
| 事となっていたが、前述の習慣はなかなか直らなかった | |||
| ように思う。 | |||
| 私は若い頃は大晦日から山に登っていました。前述の | |||
| 油圧ユニットを製造するようになってからは、定期のオ | |||
| ーバーホールや改造工事の依頼が、年末年始、また夏休 | |||
| みに集中し、正月や盆休みには、家に居たことはなかっ | |||
| た。私達はお客さんの工場が休んでいる時に改造や修理など働かねばならなかった。 | |||
| 私の持ち前のキャラで、はやり歌の曲に、勝手な歌詞を作り、宴会で歌っていました。 | |||
| ちょっと思出してみると(名古屋営業時代) | |||
| 1)東京計器のポンプでも 2)部品加工が立派でも | |||
| 油研工業のポンプでも 効率よくて立派でも | |||
| ポンプに変わりはないけれど 納期遅れにゃ勝てやせぬ | |||
| ちょっと回せばすぐわかる 泣いて別れたご注文 | |||
| 3)僕がしばらく来ないとて | |||
| 短気起してお客さん | |||
| バルブばらして壊すなよ | |||
| 貴方独りじゃ直りゃせぬ | |||
| 東京計器の成人式 | |||
| 一月十五日は成人の日でした。二十歳になった人に対し、お祝いの式典があったり、 | |||
| 紅白のまんじゅうとアルバムが配られました。私は仕事が忙しく、式には出られませ | |||
| んでしたので、内容は分かりませんが、大田区からも同じようはお祝いがあったよう | |||
| に記憶しています。 | |||
| 付録(シヤナギ・バー) | |||
| シヤナギとは組長の名前で、(四柳組は羅盆を製造) |
一盃機嫌の職人さん |
||
| 羅盆は羅針盤の心臓部で(純度99.9%)アルコールが使 | |||
| 用されており、このアルコールを「出庫表」で出して来 | |||
| て水で薄めて呑んだ、先輩からの命令で。このお使いは | |||
| 私の役目で、少し試飲したこともあるが、口当たりは良 | |||
| いが、意識ははっきりしているのに足がもつれて歩けな | |||
| くなった、ことも思い出します。 | |||
| 東京計器の正月風景 終わり | |||
| 2010. 2.14 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−2(正月風景) | ![]() |
| 古典落語をより楽しむために−2 | 佐野市 須貝義弘 | |
| 正月風景 | |||
| 呼び名には、一月。正月。睦月。初春月。孟春。太郎月。年始の月。等がある。 | |||
| 「暦・行事」としては、元旦。年賀。初詣などは一日に。初荷、初夢、書き初めは | |||
| 二日に。小寒、寒の入りは六日。七草は七日。鏡開き、蔵開きは十一日。成人の日、 | |||
| 小豆粥は十五日。藪入りは十六日。大寒は二十日である。 |
若水を汲む |
||
| 「季語」としては、初春。新春。厳冬。春寒。若菜。 | |||
| 寒梅。寒すずめ。などがある。 | |||
| 「落語的になると」元日の行事として、若水。恵方詣 | |||
| (えほうまいり)。屠蘇。雑煮。などがある。 | |||
| 新年の行事は早朝(家によっては八ツ=午前2時ころ) | |||
| より、輪飾りを付けた新調の手桶を歳男(としおとこ) | |||
| (本来は主人または長男)が持って恵方に向かって井戸 | |||
| 水を汲むことから始まる。(注)若水は、昔は立春の日に宮中の主水司(もいとりの | |||
| つかさ)から天皇に奉った水。後世は元旦に初めて汲む水をいうようになった。 | |||
| (注)恵方詣は、その年の干支に基いて定めた吉祥の方位、歳徳神(としとくしん) | |||
| その年の恵方に当たった神社に参詣し、年中の福徳を祈ること。(広辞苑より) | |||
| ◎元旦は原則として年始廻りはしない。 | |||
| 「かつぎや」が、宝船売り |
宝船の絵 |
宝船売り |
|
| に来た。また宝船を三年続 | |||
| けると運が開けると云って | |||
| 職人、商店の若旦那も売り | |||
| に歩るくと運が開けると云 | |||
| って職人、商店の若旦那も | |||
| 売りに歩いた。家によって | |||
| は金を出すのを忌み嫌い、 | |||
| 終日箒を持たない。 | |||
| ◎二日は事始め。 | |||
| 商売、仕事始め、初荷、年始廻り、初買(蛤と海鼠(なまこ))、初湯、初結(髪を | |||
| 結う)。消防の出初式、各種芸事始め、ひめ始め(姫始、姫飯を初めて食べる日、ま | |||
| た姫糊始めの意で女が洗濯、張りものなどを始めてする日とも、新年に夫婦が初めて | |||
| 交合することとも解する。(すべての事始めである) | |||
| *年始廻りの様子。大店の主人は麻裃、或いは紋付き |
年始廻り(門礼者) |
||
| 黒羽二重羽織。小袖(着物)、白足袋、雪駄履、脇差を | |||
| 腰に差し、鳶頭に年始用の扇子を入れた挟箱(はさばこ) | |||
| (着替え用の衣服などを中に入れて、棒を通して従者に | |||
| 担(かつ)がせ)年始廻りに歩いた。また、中小店の主人 | |||
| は紋付の羽織、袴、白足袋姿で、小僧を供に連れて年始 | |||
| 廻りに歩いた。扇子は一対を箱に入れたもので、暮の内 | |||
| に扇子売りから買っておく。 | |||
| *湯屋は大晦日は終夜営業のため元旦の午後は休み、二日は早朝から営業を始める。 | |||
| 江戸時代は自家から火を出すと罰せられたので、地主階級以下は、大抵銭湯を利用し | |||
| た。従って初風呂は相当に混んだ。昔は当日(二日)は番台に三宝が置かれあり、客 | |||
| はお年玉として十二文を紙にひねって、その上に載せ、同時に番頭、女中にも身分相 | |||
| 応のお年玉をやる。(此の頃かな、そば一杯と湯銭が同じだったのは)三宝は七草ま | |||
| で置いてある。また二日は、早仕舞といって日暮には店を閉めた。 | |||
| *初荷は今日(こんにち) |
初荷風景(大商店) |
初荷風景(商店) |
|
| でも所々で行われているが、 | |||
| 昔は店の格式や商売により | |||
| 盛大であった。当時は荷馬 | |||
| 車がなかったので、牛車や | |||
| 馬の背、大八車に商品を山 | |||
| のように積み重ね、特に日 | |||
| 本橋界隈(かいわい)の大商 | |||
| 店(おおだな)では、初荷の旗と屋号の記された弓張り提灯を立て、店員、鳶頭(とびが | |||
| しら)、出入りの者は新しい紺の印半纏(しるしばんてん)で付き添い、お得意へ初荷を | |||
| 届けたのである。 | |||
| なお魚河岸、新場の魚問屋や、多町、大根河岸の野菜問屋の主人や店員は、新しい | |||
| 着物で荷開きをする。 | |||
| ◎三日は俗に正月三が日終わりである。 | |||
| 商家では多少店を早くしまい、職人はこの日まで仕事を休む者が多かった。 | |||
| (私が名古屋で仕事をしていた頃、かなり大きな鋳物工場があったが、そこの職人さ | |||
| んは1月は月末まで休むと云われていた) | |||
| ◎七日は俗に七日(なのか)正月という。 | |||
| 七日正月といい、鏡餅(おそなえ) や輪飾りを撤し、売りに来た菜で七草粥を作る。 | |||
| ◎十日は商家では戎を祝い、金毘羅様の縁日。 | |||
| 金毘羅様の縁日なので、虎ノ門外や両国薬研掘(やげんぼり)、その他の金毘羅様へ参 | |||
| 詣する。 | |||
| ◎十一日は鏡開きで餅を割り翌朝雑煮(ぞうすい)を作る。 | |||
| 俗にこれを十一日正月という。 | |||
| ◎十四日は十四日正月で、太神楽、獅子舞等が来る。 | |||
| 室内の正月飾りを全部撤去して、削掛(けずりかけ)(柳の枝を総(ふさ)状に削る)を | |||
| 軒端や門口に飾る。正月の行事はこの日で全部終わる。 | |||
| ◎十五日は女正月で小豆粥を作る。 | |||
| 小豆粥を作り、産土詣(うぶすなまいり)り、砂見様(すなみさま)詣りをする。猿若三 | |||
| 芝居の狂言の初日でもある。 | |||
| ◎十六日は藪入り。閻魔(えんま)詣り。 | |||
| 俗に地獄の蓋が開くという。落語「藪入り」にある如く、小僧や女中の最も嬉しい日 | |||
| である。 | |||
| ◎二十日は二十日正月または骨正月、返り正月とも云う。 | |||
| 商家は恵比寿講を催し、親戚、知己、出入りの者を招待し素人芝居をしたり酒宴を開 | |||
| いた。 | |||
| ◎二十一日は初大師。 | |||
| 男女とも厄年の者は川崎大師を始め(佐野厄除け大師、 |
佐野厄除け大師 |
||
| 正しくは春日岡山・転法輪院・惣宗官寺という。お忘れ | |||
| なく)各地の大師へ厄除けのため参詣する。 | |||
| 男の厄年は25歳、42歳、女の厄年は19歳、33歳。特に42 | |||
| 歳は(死に)、33は散々の語呂を気にして大厄と云った。 | |||
| もちろん厄年など迷信であるが、今日でも厄除けが盛ん | |||
| なのは男女ともその年ごろは心身の変化が起きる確率が | |||
| 高いからだろう。 | |||
| ◎二十四日は亀戸天神。 |
亀戸天神 |
鷽替え(ウソカエ) |
|
| 文政三年以来、二十五日に | |||
| かけて「鷽替え(うそかえ) | |||
| の神事」が行われ、木彫り | |||
| の鷽を男女が袂から袂へと | |||
| 取り替えるので、面白がっ | |||
| て大変な人気であった。 | |||
| (鷽は“幸運を招く鳥”と | |||
| され開運・出世・幸運を得ることができる。亀戸天神社の“うそ鳥”は、檜で神職の | |||
| 手で一体一体心を込めて作られ、この日にしか手に入らない貴重な開運のお守りとし | |||
| てとても人気がある) | |||
| ◎二十五日は最初の天神様の縁日。 | |||
| 落語の初天人にあるように、当日は亀戸天神を初め各所の天神は手習子を連れた連中 | |||
| で賑わった。 | |||
| ◎二十八日は不動尊の縁日。 | |||
| 目黒不動を初め大変な賑わいだった。(注)成田不動へ参詣するには当時江戸からは | |||
| 最低三泊四日はかかったので、前日に出かけた。よく江戸時代のものとして深川の不 | |||
| 動を云々する人もあるが、(深川不動尊は、明治十年代の中期に成田から分祠したの | |||
| である)暇のあった連中は、七福神詣りといって神田明神の恵比寿・大黒、不忍の池 | |||
| の弁天、谷中天王寺の毘沙門天、同所裏の安禅寺の寿老人、日暮里の布袋、田端西行 | |||
| 庵の福禄寿を巡拝したり、根岸の里の鶯を聞きに行ったり遠く杉田の梅林まで出掛け | |||
| る人もあった。 | |||
| 「正月風景」終わり。次回「東京計器の正月」を掲載予定 | |||
| 2010. 2.10 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その4) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その4) | 横浜市 小田 茂 | |
| 2.JR石川町駅(南口):駅周辺・元町通り他 | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| JR根岸線石川町駅は、北口(桜木町より)を出れば |
石川町駅の「ステンドグラス」 |
||
| 横浜中華街方面、南口は山手、元町方面です。 | |||
| 私が会社通勤に利用しました馴染みの駅でもあります。 | |||
| 南口の改札を出ますと構内に、山手=異国情緒な色鮮 | |||
| やかな「ステンドグラス」がお出迎えです。 | |||
| すぐ後の丘を登れば、山手です。今回は、南口の西側 | |||
| 周辺と東側にあたります“元町通り”方面をご紹介いた | |||
| します。 | |||
| (15)「濡れ地蔵」 | |||
| 駅前を流れる中村川沿い |
「濡れ地蔵」 |
「濡れ地蔵」石碑 |
|
| に 西へ5分程度歩いた所 | |||
| にあります「亀之橋」の袂に、 | |||
| “濡れ 地蔵”があります。 | |||
| ここから南側の丘へ登る | |||
| 坂道には「地蔵坂」という | |||
| のがありますが、坂道には | |||
| 地蔵尊がありましたが関東 | |||
| 大震災で倒壊してしまいました。現在の「濡れ地蔵」は後に修復、再興され、平成13 | |||
| 年(2001年)に現在地に移されたそうです。交通安全や子育て地蔵としての御利益が | |||
| あり、地元の人々の信仰を集めたそうです。 | |||
| (16)「打越の霊泉」 | |||
打越の霊泉 |
打越の霊泉の碑 |
「濡れ地蔵」から10分位 | |
| 打越坂道を上り、下りバス | |||
| 停の「打越町館前」の直ぐ | |||
| 側に“打越の霊泉”(打越 | |||
| の湧水)があります。 | |||
| 「碑文」には『この霊泉は | |||
| 安政年間、横濱開港時出入 | |||
| 船舶に給水したもので、そ | |||
| の後、大正12年9月1日の関東大震災及び昭和20年5月29日の大空襲の際、この霊泉 | |||
| に数万市民の生命が救済された貴重なものである』と書かれています。 | |||
| 湧水は今でもかなり水量があり、今は自宅の水道より温度はかなり高目です。 | |||
| チョッと残念というかガッカリしたのは、湧水の汲み取り口が、水を汲みやすいよう | |||
| にペットボトルが取り付けられていたことと、自家用車から降りてきた若い男女がバ | |||
| ケツを持参して、湧水を汲みだしました。今でも自家用車でこの霊水を採りに来る人 | |||
| がいるのだ!と感心していたら、なんと“洗車”を始めたのにはビックリし、改めて | |||
| 注意書を見ましたら「水質が不安定ですので、飲用は避けてください」と書かれてお | |||
| りました。 | |||
| (17)「 打 越 橋 」 | |||
| 「打越の霊泉」から坂上を眺めますと、直線で100m先に神奈川県の“橋百選”の | |||
| 一つであり、横浜市の「歴史的建造物」に認定されています「打越橋」が見えます。 | |||
| 「打越橋」は、市電長者町線の開通した昭和3年(1928年)に架けられたもので、 | |||
| 切り通しの「打越坂」が造られた際に分断されてしまった丘上の道路を繋ぐ目的の架 | |||
| 橋で、道路を一跨ぎにするアーチ状の構造物で大変美しい姿を現しています。 | |||
打越橋下から |
橋の上の道路 |
上からの光景 |
|
| 私はこの「打越橋」の下を通る打越坂は、昔は市電、今は市バス・徒歩で何度も通 | |||
| ったことはありますが、橋を渡ったのは今回が初めてでした。橋の下から、また上か | |||
| ら日本一高いビル:ランドマークタワーがよく見える素晴らしい新たらな光景に出会 | |||
| い大満足でした。 | |||
| (18) 大丸谷震災地蔵尊 | |||
| 大丸谷震災地蔵尊は駅の |
大丸谷震災地蔵尊 |
碑文 |
|
| 裏手で、歩いて2〜3分の | |||
| 山手へ通じる道を少しの階 | |||
| 段を登った所にあります。 | |||
| この碑は、関東大震災時 | |||
| に、この地が火の海となり | |||
| 高台に避難しようと300名に | |||
| 近い人が狭い所に殺到しま | |||
| したが、下から迫る火勢の猛威に抗しきれず27名の方が亡くなられました。 | |||
| 震災50周年の昭和48年に、犠牲者のご冥福を捧げるとして地元・石川町の町内会が | |||
| 建てられたものです。 | |||
| ≪番外編≫★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景?(石川町駅南口周辺) | |||
賑やかな半額セール |
お店の中は? |
骨董屋さんのアイドル |
|
| (19) 元町のシンボル“フェニックスアーチ”≪ 元 町 通 り ≫ | |||
| 「元町」は、石川町駅南口から石川町の商店街を通リ抜け、本牧通りを渡った所に | |||
| あります。 入口から約800mにわたり、両側に魅力あるお店が並び、最後が地下鉄み | |||
| なとみらい線「元町中華街」駅の元町口となります。 | |||
| 横濱港開港以来、山手の居留地に住む外国人相手の商店街として発展してました。 | |||
| 現在は、日本有数のファッションタウンとして、特に2月と9月末の“チャーミン | |||
| グセール”は女性には大人気です。 | |||
“フェニックスアーチ” |
元町のシンボル“フェニックスアーチ”は、昭和60年 | ||
| (1985年)に元町のシンボルとして「伝統を受け継ぎな | |||
| がら、常に新しく生きるフェニックス」ととらえ、 | |||
| 「翔べ光の中へ」の意味が込められているそうです。 | |||
| 下記の3枚の写真は、横浜開港150周年記念の名残か、 | |||
| 元町通りで今も張り出されていたものを撮りました、昔 | |||
| の元町の風景です。 | |||
開港当時 |
外国人居留地と商店街 |
ハマトラブーム |
|
| (20) 元町厳島神社 | |||
| 「元町厳島神社」は、元 |
元町厳島神社 |
碑の説明 |
|
| 町通りの一筋脇道をそれた | |||
| 「仲通り」にありますが、 | |||
| あまり知られていません。 | |||
| (私がよくが知らないのか | |||
| もしれませんが)、でも歴 | |||
| 史は古く、今から約700年以 | |||
| 前横濱洲干島(横濱村の更 | |||
| に先端の地)に有ったのが、元町厳島神社と呼ばれるようななったのは、明治2年 | |||
| (1869年)のことです。現在の場所には昭和の初期に移り、何回かの焼失で現在の建 | |||
| 物は昭和38年(1963年)に建てられたものです。 | |||
| 商売繁盛・合格祈願・縁結びの神様で、元町発展興隆の守護神であります。 | |||
| (21) シドモア桜(ワシントンの桜の里帰り) | |||
シドモア桜 |
説明文 |
元町通りの一番東側にな | |
| ります谷戸橋の脇に「シドモ | |||
| ア桜」が植えられています。 | |||
| 碑文によりますと | |||
| 『ポトマック河畔 | |||
| からの里帰り、 | |||
| 1912年、東京からワシント | |||
| ンへ友好・親善のため桜の | |||
| 苗木(ソメイヨシノ)3千本が贈られました。その後は、ポトマック河畔一帯に植え | |||
| られ、世界的な桜の名所になりました。 | |||
| 桜の植樹にあたり、大きく貢献したのが紀行作家であり『日本・人力車旅情』(英 | |||
| 文省略)の著者であるアメリカ人女性エリザ・R・シドモアさんです。 | |||
| シドモアさんは今、横浜の外人墓地に眠っています。 | |||
| そのポトマック河畔の桜が、1991年に里帰りし、シドモア桜の会によって、シドモ | |||
| アさんの墓碑の傍に植えられました。そしてシドモアさんと桜のエピソードを伝える | |||
| ため、その桜から接ぎ木により苗木が作られまして、ここに植えられた桜は、その苗 | |||
| 木から育った桜です』と書かれています。話の起源は約100年前の出来事です。 | |||
| ≪番外編≫ 元町通り・仲通り | |||
| ★ウチキパン | |||
| 仲通りの一番東側にあり |
ウチキパン全景 |
売場 |
|
| ます「ウチキパン」は、慶 | |||
| 応元年(1865年)イギリス | |||
| 人ロバート・クラークが開 | |||
| いたパン屋「横濱ベーカリ | |||
| ー」の職人をしていた打木 | |||
| 彦太郎が明治21年(1888年) | |||
| に独立して開業したのがウ | |||
| チキパンの前身「横濱ベーカリー宇千喜商店」であり、現在の「ウチキパン」であり | |||
| ます。白い建物の3階・4階が工場です。元町の歴史を誇る老舗の一つです。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (元町通り・仲通り) | |||
家具屋さんの大椅子 |
現役ポスト |
走る広告塔 |
|
箸屋さんの招き猫 |
ペットバー案内 |
ペットバー |
革製品屋さん |
洋品屋さん |
いらっしゃい! |
時計 |
モダンな公衆トイレ |
KOBAN |
| 2010. 1.27 | 清水 | 『往生』に往生してちょっと一言 | ![]() |
| 『往生』に往生してちょっと一言 | 横浜市 清水有道 | |
| 仏教界では「往生」を「生まれる」と解釈しているため、英訳する際には“Birth” | |||
| としています。親鸞が言うように「往生とは浄土に生きること」を意味していますの | |||
| で、正しい、間違いのない土地に生まれることと考え、“Birth is to be borne in | |||
| Pure Land”と教えています。概念的には筆者も浄土は現世のような乱れた社会で | |||
| はなくて、もっと心から安らげるところなのだろうとは理解していますが、英訳のよ | |||
| うに“Pure Land” なのかは甚だ疑問です。筆者の名前の「清水」を直訳する際、 | |||
| “Pure Water” と良く言われますが、”Pure” くらい訳の分らない言葉の定義は | |||
| ないのではないでしょうか。規定する前に、社会の体制や人間社会組織のしっかりし | |||
| た枠組みや仕組みを明確にした上でなければ、筆者にはとても受け入れられることで | |||
| はなさそうに思われます。 | |||
| 筆者は言語学者でもありませんし、細かく詮索する権能も持ち合わせてはいません | |||
| が、浄土はむしろ“Paradise” の方が相応しいのではないでしょうか。”Pure”に | |||
| は余り深い意味がないだけでなく、ややもすると「単なる」とか「ただの」、「純粋 | |||
| の」、あるいは特に「混ぜる物のない」の意味あいのほうが強いので、この単語に | |||
| “Land” がくっついてもあまり適切な意味を成さないと思ってしまうからです。 | |||
| 優秀な若手技術者を連れて、鎌倉の禅寺を巡る | |||
| 旧年最後の月に、フランス人3人、タイ人1人の米国自動車部品製造会社で働く優 | |||
| 秀な若手技術者を連れて、日本の某自動車メーカーが近々市場投入することに決めた | |||
| 3車種の技術打合せ会を持ちましたが、ある日半日ほど時間の余裕ができて鎌倉の禅 | |||
| 寺を巡りました。次から次と繰り出される質問に満足な |
長谷寺を楽しむタイのTさんとフランスのFさん |
||
| 答えが出せず、閉口しました。筆者の長い人生の中に観 | |||
| 光案内の経験も豊富に有していると多少の自負がありま | |||
| したが、仏教建築や仏像の細部については未だ完璧な説 | |||
| 明はできません。枯山水の特質も単純な説明では彼らは | |||
| 満足しませんし、「秘仏の真意は何処にあるのか?」と | |||
| か「『山門』と『三門』の使い分けをどのくらい厳格に | |||
| 行ってきたのか?それが日本人の実生活とどのくらい深 | |||
| い関わりがあるのか?」といった問いには簡潔には答えが出せませんでした。 | |||
| 「108の煩悩は絶対的なものなのか? 本当に他にはないのか? 何を証拠に108が | |||
| 編み出されたのか?」「除夜にしかこれらの煩悩の数だけ鐘を打つことはしないのか | |||
| ?」等々一つ説明すれば矢継ぎ早に派生する質問が増え、また密度が濃くなり、長時 | |||
| 間の問答になってしまいます。でも苦しいことに、これらの質問は、人間を70年以上 | |||
| もやっていて、少なくとも浄土真宗を宗派とすると書類に書いてきている筆者には、 | |||
| 今までに一度や二度は自らこれらの問いを発していなければならないことに当たるで | |||
| しょうし、改めて考えあぐねてしまうようでは困ったものだ、未だ成長していないな | |||
| と自省をした次第でした。もう少ししっかりした勉強をしておかないと「あの世」と | |||
| いうか「来世」にも安らかに旅立つことなどできないではないかと、大変情なく思い | |||
| ました。キリスト教徒であれば、何派に属していようと、新訳か旧約かの違いはあっ | |||
| ても聖書は殆んど諳んじているでしょうし、賛美歌もどれでも歌うことができるでし | |||
| ょう。しかし浄土真宗の筆者には経典を見ながら二つか三つのお経が上げられるだけ | |||
| で、歌に至っては一つも口にはできません。全く怠慢な信徒と言わねばなりません。 | |||
| 時間があればもう少しシステマティックに勉強したいと思った次第です。 | |||
| 「身辺整理」「あの世行き」の準備は? | |||
| それにつけても、女房がこのところ筆者に対し、五月蝿く物を増やすことを咎めて | |||
| きます。展覧会を見に行けば、解説書や絵葉書を買い求めることにもうるさく干渉し | |||
| てきます。旅行に行っても写真を撮ることに賛成しません。「あの世」に行くのに必 | |||
| 要なことは、極力整理することだけで、増やすことは許されないと言うのです。 | |||
| 筆者は読書が大好きで、年間250冊くらい読んでいますが、本が溜まることにも女 | |||
| 房は神経をとんがらせています。今更読んでもあの世に行くためにテストがあるわけ | |||
| ではなし、知識はいらないと言うのです。これらの言葉を聞くたびに無性に腹立たし | |||
| くなって、何故にそんなに毎日毎日身軽になることばかり心掛けなければならないの | |||
| か、全く理解に苦しんでいます。ある年になれば、いろいろ気配りをして「あの世」 | |||
| 行きの準備に入らねばならないのでしょうか。 | |||
| 筆者はつい先ごろパスポートも更新してあと10年は使えるようにしましたし、運転 | |||
| 免許証も更新して2015年まで有効です。まだまだしっかり生活するためのチケットは | |||
| 揃っていますので、さてこれからゆっくり本腰を据えて楽しい余生を過ごしたいと新 | |||
| たな気持ちになっているところですが、この考え方が女房の「あの世」行きの準備を | |||
| ・・・・という姿勢と相入れないのです。皆様もご承知のように、筆者は水彩画を描いて | |||
| いますが、年間20〜30の作品を作れば、3分の1くらいは残ります。これがまた女房 | |||
| の気に障ることなのです。ことほど左様に、筆者のすること為すことで毎日口論が絶 | |||
| えません。恥ずかしいことですが、筆者のやりかたは間違っているのでしょうか。 | |||
| 女房の言うように身辺整理をきちんとして、来世を待つことが正しい生き方なのでし | |||
| ょうか。 | |||
| 人生の晩年を迎えて、甚だ難しい問題に遭遇してしまい、疲れる毎日です。OBの | |||
| 諸兄姉、同輩の皆様には同じような問題を抱えていらっしゃる方は居られませんでし | |||
| ょうか。新年早々懈怠なことを書き連ねてしまいましたが、ご勘弁下さい。 | |||
| (2010年1月2日記) | |||
| 2010. 1.20 | 梅原 | 安住神社の大鏡餅 | ![]() |
| 安住神社の大鏡餅 | 矢板市 梅原 実 | |
| 新年明けましておめでとうございます。 | |||
| 東京計器OB会のホームページに初めて投稿させていただきます。私にとって初めて | |||
| の投稿は、栃木県高根沢町"安住神社"の大鏡餅奉納式及び元旦の初詣の模様です。 | |||
| 女房と私は、ほぼ毎年元旦の午前0時に安住神社に初詣しています。初詣の際には、 | |||
| いつも拝殿に供えられた大鏡餅の上に賽銭を乗せようとトライしています。しかし、 | |||
| 今まで大鏡餅奉納の様子を見たことはありませんでしたが、今回初めて大鏡餅の奉納 | |||
| 式に参拝しました。 | |||
安住神社のシンボル_大鳥居 |
安住神社は、宇都宮市の北東約15kmの田んぼの中にあ | ||
| る小さな神社です。私たち家族と安住神社とのかかわり | |||
| は、私が矢板に転勤して間もなく岡本に我が家を建てた | |||
| とき、地鎮祭に業者がこの安住神社の神主さんを呼んで | |||
| くれたことでした。その後は、毎年の初詣、厄払い、車 | |||
| 購入時の交通安全祈願等々、折に触れお参りしています。 | |||
| 安住神社をそのホームページ | |||
| (http://www.pto.co.jp/yasuzumi/)から簡単にご紹介し | |||
| ますと、次のようになります。 | |||
| 「本社創立は、平安初期の昌泰2年(899年)に新井吉明が国家鎮護のために、大阪の | |||
| 住吉大社の大神様をこの地におまつりしたものです。維新前は、正一位安住大明神と | |||
| 称しましたが、明治6年安住神社と改称して郷社になりました。 | |||
| 当社御本殿は、色彩に朱を主体としたもので江戸時代後期の建築手法によってまと | |||
| められており、宝暦4年(1754年)頃の建造で、昭和53年に県指定文化財に指定されま | |||
| した。 | |||
| 当社の大鳥居は、御鎮座1100年祭事業の一環として昭和57年に建立したもので、高 | |||
| さ15メートル、笠木の幅10メートルは、朱塗りの鳥居としては、関東一の大きさを誇 | |||
| ります。」 | |||
大鏡餅奉納式のお祓い |
振る舞い餅の餅つき |
この安住神社では、毎年 | |
| 大晦日の前の日に約500kg、 | |||
| 8俵の大鏡餅を奉納してい | |||
| ます。テレビのニュースな | |||
| どでも紹介されることがあ | |||
| り、ご覧になった方もある | |||
| のでは?と思います。この | |||
| 大鏡餅の奉納は、昭和57年 | |||
大鏡餅_1&2段目運び込み |
大鏡餅_1&2段目据え付け |
から五穀豊穣を祈って続け | |
| られている行事で、3段重 | |||
| ねの鏡餅は、高さ90cm、1 | |||
| 段目の餅の直径は110cmの | |||
| 巨大さを誇ります。宮司や | |||
| 氏子ら50人が近くの神田で | |||
| 収穫された餅米8俵を使い、 | |||
| 1週間かけて完成させたと | |||
| のことです。 | |||
| 約200人の参拝者らが見守る中、禰宜(ねぎ)の運転するフォークリフトで1段目と | |||
大鏡餅_3段目運び込み-1 |
大鏡餅_3段目運び込み-2 |
大鏡餅_3段目据え付け-3 |
|
| 2段目が台座に据え付けられた後、3段目が巫女(みこ)の担ぐみこしに乗せられて運 | |||
| ばれ、宮司らの手で供えられました。 | |||
記念撮影 |
初詣の準備OK |
東南アジア原産の世界最 | |
| 大級のかんきつ類、晩白柚 | |||
| (ばんぺいゆ)がてっぺんに | |||
| 飾られて拝殿に堂々たる鏡 | |||
| 餅が鎮座し、新年の初詣を | |||
| 待つだけになりました。供 | |||
| えられた鏡餅は年明けに鏡 | |||
| 開きが行われ、分けられた | |||
ライトアップされた大鳥居 |
元旦午前0時の打ち上げ花火ー1 |
約8千個の餅が節分で配ら | |
| れます。 | |||
| そして、新年を迎えるカウ | |||
| ントダウンの後、元旦の午 | |||
| 前0時ちょうどに朱塗りの | |||
| 大鳥居前の田んぼに数10発 | |||
| の打上げ花火が打ち上げら | |||
| れ、元旦の初詣が始まりま | |||
| す。私は、今年も家族及び親族の健康、安全と充実した生活が送れますようにと祈願 | |||
| しました。 | |||
元旦午前0時の打ち上げ花火-2 |
元旦の初詣の列 |
元旦の初詣 |
|
| 2010. 1.17 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−1(江戸時代を学ぶ) | ![]() |
| 古典落語をより楽しむために−1 | 佐野市 須貝義弘 | |
| (江戸時代を学ぶ) | |||
| 江戸時代を学ぶ | |||
| 佐野の観光ボランティアを引受け、地元の歴史を勉強するうちに、新しい発見があ | |||
| ったり、面白いものが見つかったりしたが、地元の人達は意外と知らないことが多い | |||
| ように思われた。 | |||
| 例えば、合併して大きくなった市内には芭蕉の句碑が |
ボランティアで案内役の筆者 |
||
| 九ヶ所もあるのに、知らない人が多いようだ。 | |||
| 佐野女子高の敷地内にもあるのだが、この学校の出身 | |||
| 者でも「知らない」と答えた人もいた。句碑があるのは | |||
| 知っていたが「なんだか覚えていない」と云う人もいた。 | |||
| 現代の生徒たち、先生を含めて、関心無いようである。 | |||
| 一般の人達でも、「知らない」と答える人が多かった。 | |||
| 句碑があるのは神社かお寺に多いのだが、なぜそこに句 | |||
| 碑があるのか?に至ると全滅に近かった。住職でも「先々代がなにか言っていたよう | |||
| だが、良く覚えていない」と云った調子で、現代の人達に伝わっていないと痛感した。 | |||
| 今の世の中では、私達が知っている事や、体験したこ |
被爆体験を話す筆者 |
||
| とを、次の世代に伝えていかないと折角勉強したことや | |||
| 貴重な体験が生かされない、と考えるに至った。 | |||
| 体験のほうは進める方がおり、昨年(2009)の秋に私 | |||
| も戦争の被爆体験を話す機会を得た。戦争体験談は、今 | |||
| 日では亡くなられた方が多く、生きている方も高齢なの | |||
| で、話す方が少ないと聞かされた。 | |||
| そこで一念発起したのが、昔の「四季の移り変わり」 | |||
| に於ける行事や、呼び方等について書き残すことである。私は幼年期を浜松で中学生 | |||
| から、39歳頃までは神奈川県で過ごし(この間4年ばかり仕事で名古屋生活)その後 | |||
| は単身赴任も含め、現在の佐野で生活している。80歳になるころには人生の半分を佐 | |||
| 野で過ごすことになる。私の四季感は、日常で体験するほかは、若いころ勉強した噺 | |||
| (落語)から得たものが多い。今の落語家は古典をやる人が少ないので、落語の稽古 | |||
| はどうやるのか知らないが、昔は一つの噺を稽古する時、噺の中に出てくる人物、場 | |||
| 所、季節などは師匠により異なるが、全部想定されていたものである。 | |||
| 例えば、人情噺に「文七元結(もっとい)」という話があるが、文七が22歳ぐらい、 | |||
| 長兵衛が40歳くらい、女房が34〜5歳、佐野槌の女将が44〜5歳の分別盛り、店の旦 | |||
| 那は60がらみ、一番番頭が45〜6歳、二番番頭の久助が43〜4歳と決めて稽古させら | |||
| れる。落とした金も元録前(1688〜1703)だから五十両とか三十両とか師匠により異 | |||
| なりはあるが、想定するのは皆一緒。 | |||
| 「道具屋」という噺では、与太郎が失敗する市は「年の市」と云われる市で、深川 | |||
| 八幡の14、15両日を皮きりに、17、18日が大きい浅草の市(観音市)をイメージに置 | |||
| いて演(や)る。尚、落語に登場する与太郎の年齢は大抵20歳前後、知能指数は?さ | |||
| まざまであるが、この与太郎は商売柄あまり若くてもいけないし「カラ馬鹿」でも困 | |||
| るので高座にかける際、わざわざ42〜3歳と前置きした師匠もいたほどである。 | |||
| 五代目柳家小さんは35〜6歳と設定、時代は大正から |
人間国宝「5代目柳家小さん」 |
||
| 昭和の初期としている。 | |||
| 少し話が横道にそれるが、「道具屋」は私が若いころ | |||
| は小さんの持ち種(ねた)になっていたが、古い頃から | |||
| 高座に掛けられていた噺である。この噺は当時の小咄 | |||
| (こばなし)を寄せ集めたものと云われていたが、筋も | |||
| 軽くて面白く、演出も難しくないところから、俗に前座 | |||
| 用の稽古噺と云われ、噺家を目指す者は、一度は習うの | |||
| である。尚、稽古用という理由は、通人(つうじん・通行人)、商人、職人、侍(或 | |||
| いは書生)、隠居、伯父、同業者などと沢山の人物が登場するが、会話(やりとり) | |||
| は与太郎と一対一なので、仕草、会話、間の呼吸を飲込むのに都合がよかったのだろ | |||
| う。この噺はクスグリの連続で面白く、時代の設定も幅広く、その上、切れ場(噺を | |||
| 止めて良い箇所)が多いので、伸縮自在、重宝な噺であった。従って寄席の高座では、 | |||
| 後(あと)に上がる噺家が楽屋入りするまでの時間を稼げるため俗に「繋ぎ噺」とも | |||
| 云われた。 | |||
| 話を元にもどして、いずれにしろ、のどかな情景を想いながら昔の四季をもう一度 | |||
| 想い起こしたいのが、私の願いである。 | |||
| 「江戸時代を学ぶ」終わり。次回「江戸時代の四季」を掲載予定 | |||
| 2010. 1.13 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その3) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その3) | 横浜市 小田 茂 | |
| 1.本牧(ほんもく)地域(その3) | |||
| (11)本 牧 神 社 | |||
| 本牧神社(本牧裕司宮司・ |
本牧神社碑 |
本牧神社全景 |
|
| 中区本牧和田19番:市営バ | |||
| ス三の谷下車)は、もとも | |||
| とは本牧岬の先端(本牧十 | |||
| 二天1番地)に張り出した | |||
| 出島の中にあり(現在の中 | |||
| 区下水処理場側で海は埋め | |||
| 立てられています)、創建 | |||
| は平安時代といわれ、建久2年(1191年)源頼朝が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門鎮 | |||
| 護のために既に存せる神殿に朱塗厨子 (六尺×四尺) を奉納したそうです。 | |||
| 弘長3年(1263年)正月元旦朝、海中より燦爛として皎明を発する大日霊女命(おお | |||
| ひるめのみこと)(天照皇大神)の像を郷人が拾い上げ、祠宇をたてて村の総鎮守と | |||
| したと伝えられています。 | |||
| 仏説十二天 (日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大自在天、 | |||
| 閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日霊女命を深く秘したり・・・」 | |||
| と記されており十二天社の呼称のいわれを伝えています。 | |||
| 明治政府の「神仏分離令」により、「仏」部分を同じ本牧の多聞院に預け、社号も | |||
| “本牧神社”と改め、船乗りや地元民の守護神として長年信仰を受けてきました。 | |||
仮遷座跡地の現況 |
しかし、第2次大戦後の昭和21年、米軍に本牧の土地 | ||
| 23万坪が強制接収され、十二天社も該当し、本牧町2丁 | |||
| 目に借地し仮遷座となりました。 | |||
| 接収は昭和56年(1981年)に解除されましたがその地 | |||
| は海が埋め立てられ、浜はなくなり、昔の本牧十二天で | |||
| はなくなってしまいました。再建された本牧神社は、平 | |||
| 成5年に本牧山頂公園を背にした本牧和田に境内地約千 | |||
| 五百坪を得て御遷座しました。 | |||
| 仮遷座の場所は、我が家から70m 位の近い所で47年間ありました。現在はサクラの | |||
| 古木も切られ、写真のようにマンションと「跡地」を示す看板が建っております。 | |||
| 話はそれますが、このサクラの木には今思えば笑い話ですが、“事件”がありまし | |||
| た。長男が幼稚園年長組の時、近所の奥さんが「敏男ちゃんが神社のサクラの木の上 | |||
| で泣いている!」との知らせを受けて、祖母と母親が青くなって駆けつけると、かな | |||
| り高い所で身動き出来ず泣いている長男がいたとのこと。神社の梯子を借りて近所の | |||
| 男性の方がおろしてくれたそうだが、原因はお袋が編んだ網目の荒いセーターを着て | |||
| いて、それに枝が刺さって身動きできなくなったようであります。大騒ぎにお袋と妻 | |||
| は、怪我も無く安心したのか、ただただ恥ずかしかったと私にぼやいていました。 | |||
| 私は丈夫なサクラの枝に感謝していました。40年も前の話です。 | |||
| 本題に戻しますと、現在の本牧神社の境内には、「お稲荷さん」も祭ってあり、ま | |||
| た、縁の神:熊野速玉大社の「縁切り、縁結び」の榎が植えられています。 | |||
お稲荷さん |
「縁切り、縁結び」の榎 |
左の「説明版」 |
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| (12)お 馬 流 し | |||
| 本牧神社の神事の一つに「お馬流し」があります。 |
お馬流しの様子(八聖殿所有写真) |
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| 永禄9年(1566)から443年も受け継がれている「お馬 | |||
| 流し」は、神事として県無形民俗文化財にも指定されて | |||
| います。「お馬流しは、馬にあらゆる災厄を乗せて海に | |||
| 流し」無病息災や大漁・豊作を願う御霊信仰による行事 | |||
| であります。 | |||
| お馬はカヤで作った首から上が馬、身体が亀の神器。 | |||
| このお馬6体(昔の6ヶ村で1体づつ造った)を本牧神 | |||
| 社に供えたあと、氏子たちによって港へ運ばれ、浜があり、漁が盛んだった頃は、本 | |||
| 牧6ヶ村からそれぞれ手漕ぎの和船が出た。腕自慢の漁師たちが、村の威信をかけて | |||
| 速さを競うわけです。お馬さんが浜に来ないよう潮の流れなどを図りながら海へお馬 | |||
| を流すのです。 | |||
| 関東大震災があった年は、こうして流した「お馬」がすべて浜に戻ってきてしまっ | |||
| たそうです。 | |||
「お馬通り」道路標識 |
「お馬流し」歌碑 |
本牧通りから本牧神社へ | |
| 行く道を「お馬通り」とい | |||
| い、本牧神社の敷地内には | |||
| 「お馬流し」に関連する歌 | |||
| の「碑」もありました。 | |||
| 今は「舟置場」が本牧神 |
本牧神社境内の「舟置場」 |
昔の「舟小屋」跡地の記念碑 |
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| 社に一部ありますが、埋め | |||
| たて前の昔の「舟小屋」の | |||
| 跡地は本牧元町バス停側で | |||
| 民家の玄関先にひっそりと | |||
| 記念碑が建っており、正月 | |||
| なので門松が飾ってありま | |||
| した。 | |||
| (13)吾 妻 神 社 | |||
| 吾妻神社は、本牧神社から歩いて15分弱のところです。 |
吾妻神社全景 |
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| バス停で「吾妻神社前」で本牧原にあります。日本武尊 | |||
| (やまとたけるのみこと)本牧原の鎮守様戦災で消失し | |||
| たご神体は「文和3年(1354年)正月17日詞基新護平重 | |||
| 広」と銘記してあったといわれています。木更津にあっ | |||
| て「おあずまさま」とあがめられていましたが、対岸の | |||
| 本牧に流れ着き漁師の網にかかりここに祀られました。 | |||
| 子供好きで知られる「お吾妻さま」は、安産、虫封じ、 | |||
| 子供の健康の神様と崇められ、古くは漁師町であったことから、海上、漁師の守護神 | |||
| でもありました。 | |||
守り神(左) |
守り神(右) |
社殿の前に左右の守り神 | |
| でしょうか、なかなかの凝 | |||
| ったものですね! | |||
| また、下の写真のように | |||
| 漁師の守護神を表わすよう | |||
| に、お水取りにもよく現れ | |||
| ています。 | |||
| 境内には、大きな石碑が |
碑 |
漁師の守護神がうかがえる |
|
| 建っておりました。 | |||
| 石碑の裏には、文字が書 | |||
| かれていましたが、私には | |||
| よく判読できませんでした。 | |||
| ただ、文面の最後の“大和 | |||
| 魂”という文字と建立が | |||
| “明治41年7月”というの | |||
| は読み取れました。 | |||
| 推測するには、日露戦争で戦死された方の慰霊碑かなと思いましたが、神社の方も | |||
| 居られず確認がとれませんでした。日露戦争は明治38年(1905年)9月に終っており | |||
| チョッと時間が空きすぎるという疑問は多少ありましたが・・・。 | |||
| 「慰霊碑」で紹介するのが、何か引っかかるので後日、宮司さんにお伺いしたとこ | |||
| ろ、宮司さん曰く『私も詳しいことは分らないのですが、なんでも“ヤクザ”の喧嘩 | |||
| で亡くなった方の碑で、神社には直接関係のないものですよ!』とのこと。 | |||
| 「聞くは一時の恥」を痛感し、確認せずに「慰霊碑」で紹介していたら、本当に大 | |||
| 恥をかくところでした。あぶない!あぶない!それにしても立派な碑だな〜? | |||
| (14)横浜港シンボルタワー(本牧埠頭D突堤) | |||
| 住宅街である本牧地域のもう一つの顔は、本牧の海が |
「遥かなる横浜(貝)」 |
||
| 昭和38年(1963年)に埋め立てを開始され、「本牧埠頭」 | |||
| を昭和45年(1970年)完成し、その後もコンテナ船の大 | |||
| 型化に対処する事業を行い、平成17年(2005年)今の姿 | |||
| になっております。 | |||
| 本牧埠頭D突堤の最先端に、白亜の外見が美しい灯台 | |||
| があります。これが「横浜港シンボルタワー」です。 | |||
| 昭和61年(1986年)に完成し、船舶通航信号所および | |||
| 展望施設の複合塔です。船の往来は1日1,000隻以上と言われております。 | |||
| 高さは48m強で、「遥かなる横浜(貝)」というステンレス製の鋳造彫刻が置かれ | |||
| ています。 | |||
| また、展望台のすぐ隣の埠頭の様子も壮観です。 | |||
横浜港シンボルタワー全景 |
埠頭(後方ベイブリッジ) |
行交う船舶(後方房総半島) |
|
| ≪ 番 外 編 ≫ | |||
| ★ 本牧海づり施設 | |||
釣り施設 |
大漁旗 |
「本牧海づり施設」は横 | |
| 浜港シンボルタワーの少し | |||
| 手前にあります。 | |||
| 昭和53年(1978年)に開 | |||
| 設され、全長300mのL形の | |||
| 桟橋に休日には家族づれの | |||
| 太公望で大賑わいです。 | |||
| アイナメ、クロダイ、ス | |||
| ズキ、タコ等が釣れるようですが、館内には、お子さんが魚を抱えた写真が沢山貼ら | |||
| れていました。こんな魚が釣れるんだ〜、とビックリするような大きな魚を抱え満足 | |||
| うな顔をしている写真が数多く見られました。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (本牧通り中心) | |||
本牧ならではの道路標識@ |
本牧ならではの道路標識A |
本牧ならではの道路標識B |
|
南国風マンション |
崖の上のマンション |
完全防備?の家 |
スクールバス活用の八百屋さん |
おじいちゃんの台所 |
パチンコ玉抱えたワシ |
サテイの中屋上 |
変わった自転車(不動産) |
洋食屋さん |