話 題 『 よもやま話 』-15 | 2009年10月〜2009年12月 |
話 題 一 覧 |
2009.12.16 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その2) 投稿;小田 茂 |
2009.12. 9 | 第43回 神戸OB会 投稿;青木 聳 |
2009.12. 3 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その1) 投稿;小田 茂 |
2009.11.29 | 落語を楽しむための裏話(その3/最終回) 投稿;須貝義弘 |
2009.11.17 | 森繁久弥さんの想い出 投稿;稲垣 貢 |
2009.11.15 | 落語を楽しむための裏話(その2-2) 投稿;須貝義弘 |
2009.11. 4 | “発祥の地”を訪ねて!(その11/最終回) 投稿;小田 茂 |
2009.11. 1 | 落語を楽しむための裏話(その2-1) 投稿;須貝義弘 |
2009.10.28 | “鏝絵(左官職人の芸術)”に魅せられて! 投稿;渡辺定彦 |
2009.10.18 | 落語を楽しむための裏話(その1) 投稿;須貝義弘 |
2009.10. 4 | “発祥の地”を訪ねて!(その10) 投稿;小田 茂 |
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話 題 『 よもやま話 』 |
2009.12.16 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その2) |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その2) | 横浜市 小田 茂 |
1.本牧(ほんもく)地域(その2) | |||
<本牧市民公園:〔面積:103,336u(約31,300坪)〕> | |||
本牧市民公園は、三渓園の裏側に隣接する総合公園です。昭和43年(1968年)に終 | |||
了した本牧埠頭関連造成用地の海面埋立てにより、それまであった海を失った人々や | |||
港で働く人々のために庭球場、運動広場、池などの施設を整備し、昭和44年に公開さ | |||
れました。 | |||
正面入口前の通りの上は「高速」が走り、向い側の埋立地は工業地帯で新日本石油 | |||
の基地になっています。 | |||
昔は海だった |
昔は海だった |
海水浴場であった三渓園 | |
の裏側の海には小学校の頃、 | |||
よく潮干狩等に行ったもの | |||
です。 | |||
左の写真は、大昔の海で | |||
あった様子を三渓園内で展 | |||
示されていたものです。 | |||
(5)入口に“錨” | |||
公園の入口に海を埋め立 |
「錨」 |
説明版 |
|
てたのを象徴するように | |||
“錨”が置かれています。 | |||
タンカー船「プレジデン | |||
トウエンセスロウ」号、 | |||
33,620トン。 | |||
現物はもっと大きいそう | |||
です。 | |||
(6)本牧市民プール | |||
本牧プール入口 |
説明版 |
写真右の「説明版」には、 | |
『海水浴や潮干狩りなど | |||
市民に長い間、親しまれて | |||
きた名勝の地三渓園、八聖 | |||
殿前の海面一帯にわたって | |||
本牧ふ頭および工業地帯を | |||
建設するため、約五百十万 | |||
平方メートルの埋め立てが、 | |||
昭和38年4月から港湾局の手によって行われました。そのひとつとして、海を失った | |||
市民のためここに大プールを建設したものであります。 昭和44年5月』と書かれて | |||
います。 | |||
(7) 本牧漁業協同組合“記念碑” (本牧市民公園内) | |||
本牧漁業協同組合“記念碑”の碑文を紹介しますと | |||
『 由来 | |||
本牧は、往昔小田原北条氏の所領であり、後に徳川幕府直轄の地となり、武蔵 | |||
国久良岐郡本牧村大字本牧郷と呼んだ。 | |||
風光明媚な漁村で、緑濃い背後の丘陵地は、貢馬を育てた牧場であったと伝え | |||
られる。 | |||
浮世絵師廣重も、この地を描いた。 | |||
波静かな海に、豊かな資源に恵まれた漁場を持った |
本牧漁業協同組合“記念碑” |
||
私達本牧漁業協同組合員は、祖先より受継いだ土地 | |||
と海に誇りをもって守り育ててきた。 | |||
昭和38年4月1日横浜市が施行される本牧ふ頭関連 | |||
造成事業のため本組合は、市発展の大乗的見地に立 | |||
って愛する海の埋め立てに同意した。 | |||
かっては、この海で泳ぎ魚貝を採り、海苔の香に親 | |||
しみ十二天神社の勇壮なるお馬流しの神事を行った | |||
ことも今は、思い出となる嗚呼。 | |||
由緒と伝統あるこの海も新しい土の下に永遠に眠る。往時を偲び父祖の労苦に | |||
感謝の意を捧げ子孫の繁栄を永劫に祈念して、この碑を建てる』とあります。 | |||
当時、魚業に携わっていた人の思いがよく表されている碑文ですね。 | |||
(8)「上海横浜友好園」 | |||
「上海横浜友好園」 |
「湖心亭」後「三渓園」 |
「上海横浜友好園」は、 | |
横浜市と上海市が友好都市 | |||
となって15年を記念して、 | |||
平成元年(1989年)に上海市 | |||
から寄贈されたものです。 | |||
横浜市が上海市に寄贈し | |||
た「横浜上海友好館」のお | |||
返しとして資材のほとんど | |||
は中国から運ばれ、中国人によって建てられた中国江南様式による庭園です。 | |||
ここから写真右側の池に浮かぶ「湖心亭」の脇を行くと三渓園の南口(裏側)に繋 | |||
がっています。 | |||
(9) その他 | |||
園内には「トンボの池」・「蒸気機関車」・「陶芸の焼き物施設」等々いろいろな | |||
ものがあります。 | |||
トンボ池標識 |
蒸気機関車 |
標識 |
|
(10) 本牧大里町の“耕地整理”の碑 | |||
市民公園から近い「本牧大里町」(八聖殿の丘の下) |
本牧大里町の“耕地整理”の碑 |
||
にあまり知られていませんが“耕地整理”の碑がありま | |||
した。昭和8年11月に建てられたものですが、近くに丘 | |||
が沢山ありますが、これらを切り拓いた記念碑と思われ | |||
ます。(説明文はありませんでした) | |||
≪ 番 外 編 ≫ 横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2009”公開 | |||
クリスマスへ向けて地元の「山手西洋館」では、「世界のクリスマス2009」を各館 | |||
毎に「テーマ国」を決めて開催していますので、ご紹介いたします。 | |||
したがって、今回は地元の「珍風景」はお休みです。 | |||
@ 外交官の家 (テーマ国:ノルウエー) | |||
JR石川町駅南口から直ぐ後ろの丘に向って徒歩7分位で、昔イタリア領事館が置 | |||
かれていたいたことから「イタリア山」と呼ばれている庭園内に「外交官の家」があ | |||
ります。明治43年(1910年)に建てられたもので、ニューヨーク総領事を務めた明治 | |||
政府の外交官が住んでいた日本人の邸宅です。東京都渋谷区にあったものを、保存の | |||
ためこの地に移転しました。 | |||
外交官の家 |
「外交官の家」クリスマスのダイニング |
「外交官の家」クリスマス・ツリー |
|
A ブラフ18番館 (テーマ国:イタリア) | |||
「ブラフ18番館」は「外交官の家」と同じイタリア山庭園内で隣にあります。 | |||
関東大震災を免れた建物の部材を利用して大正末期に山手町45番地に建てられ、カ | |||
トリック山手教会の司祭館として平成3年(1991年)まで使用されていたものをイタ | |||
リア山庭園内へ移築されたものです。 | |||
ブラフ18番館 |
「ブラフ18番館」クリスマスのダイニング |
「ブラフ18番館」クリスマス・ツリー |
|
B ベーリック・ホール (テーマ国:イギリス) | |||
イタリア山庭園から山手本通りを「港の見える丘公園」へ向って、12〜3分歩いた | |||
「元町公園」内にあります。英国の貿易商B・R・ベーリックの私邸で、昭和5年 | |||
(1930年)に建てられたものです。その後、セントジョセフ・インターナショナル・ | |||
スクールの寄宿舎として使われてきました。 | |||
ちなみに、近くにありましたセントジョセフ・インターナショナル・スクールは、 | |||
平成12年(2000年)閉校し100年の歴史に幕をおろしました。閉校に伴い父兄との間で | |||
裁判ざたとなりました。「ベーリックホール」も存続が危ぶまれたが、幸いにも市が | |||
土地を取得し、それに伴って建物は市に寄贈されることになりました。校舎の跡地は | |||
マンション建設で「山手の美観を損なう!」と地元の大きな反対運動がありましたが、 | |||
今は、大変大きな立派なマンションが建っています。時代の流れを感じます。 | |||
ベーリック・ホール |
「ベーリック・ホール」クリスマス・ツリー |
「ベーリック・ホール」ダイニングのクリスマス・ツリー |
|
C エリスマン邸 (テーマ国:フランス) | |||
「ベーリックホール」の隣にあります。スイス人貿易商エリスマンの私邸として | |||
大正15年(1926年)に建てられたものだそうです。明治21年(1888年)に来日、戦前 | |||
最大と言われた生糸貿易商シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍しました。 | |||
エリスマン邸を設計したのは「日本現代建築の父」とも呼ばれるアントニン・レー | |||
モンドだそうです。 | |||
エリスマン邸 |
「エリスマン邸」クリスマス・ツリー |
「エリスマン邸」ダイニング |
|
D 山手234番館 (テーマ国:コスタリカ) | |||
「エリスマン」前の山手本通りを隔てたところに「山手234番」があります。 | |||
関東大震災後の昭和2年(1927年)頃に建設された二階建の外国人向けアパートで | |||
4住戸からなる共同住宅でした。横浜市内に現存する数少ない遺構の一つです。 | |||
会場の案内板に「(CNN)英国のシンクタンク、新経済財団(NEF)が、世界 | |||
143ヶ国・地域の「幸福度」の調査結果“世界一幸せな国”に、中米コスタリカ共和国 | |||
が選ばれた。ちなみに先進国では、英国74位、日本75位、米国114位だそうです。 | |||
というわけではありませんがクリスマスの展示を見た中では、一番“暖か味”有! | |||
二階のギャラリーは一般にも貸し出しが行われ、私の趣味の水彩画「麦の会」の発表 | |||
会でも2回ほどこの会場で行いました。 | |||
山手234番館 |
「山手234番館」クリスマス・ツリー |
「山手234番館」温かみのあるダイニング |
|
E イギリス館 (テーマ国:イギリス) | |||
「山手234番」から4〜5分の「港の見える丘公園」内の「ローズガーデン」のとこ | |||
ろにあります。昭和12年(1937年)に上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事 | |||
公邸として、現在の地に建てられました。東アジアにある領事公邸の中でも、上位に | |||
格付けられていたそうです。 | |||
イギリスの国花「ばら」にちなんで周囲には色とりどりの「ばら」だらけです。 | |||
イギリス館 |
「イギリス館」シャンデリア |
「イギリス館」薔薇のモチーフで飾られている |
|
F 山手111番館 (テーマ国:ポルトガル) | |||
「イギリス館」の直ぐ並びに噴水広場を挟んで「山手111番館」があります。 | |||
大正15年(1926年)に両替商を営んでいたアメリカ人ラフィン氏の住宅として建てら | |||
れた、スペイン風の洋館です。「べーリック・ホー」「根岸競馬場観覧席」を設計し | |||
たJ.H.モーガンです。 | |||
山手111番館 |
「山手111番館」暖炉とダイニング |
「山手111番館」見事な薔薇の花瓶 |
|
G 山手68番館 (テーマ国:アメリカ) | |||
「イタリア山」から6〜7分の山手本通りからチョッとはずれた「山手公園」内に | |||
あります。前に紹介しました「テニス発祥の地」でもあります。 | |||
昭和9年(1934年)に某社の社員が住宅として建設したものです。 | |||
昭和61年(1986年)に現在地へ移築されました。現在は「テニスのクラブハウス」と | |||
して使われています。 | |||
山手68番館 |
「山手68番館」可愛いサンタさん |
「山手68番館」おとぎの国風の飾りつけ |
|
※1日〜25日は 9:30〜17:00 開催です。ただし 19日〜23日は 9:30〜19:00 |
2009.12. 9 | 青木 | 「第43回 神戸OB会」 |
第43回 神戸OB会 | 横浜市 青木 聳 |
平成21年度「第43回神戸OB会」は11月14日(土)〜15日(日)に15名の会員によ | |||
り定例懇親会を那須リゾートで開催しました。 |
観光組(見事な紅葉をバックに) |
14日(土)は生憎の雨の中、ゴルフ組と観光組に別れ | ||
ての行動でしたが、午後からは陽が射し始め晩秋の那須 | |||
高原を満喫しつつ夫々が那須リゾートに入りました。 | |||
なおゴルフ組の写真はありませんでした。 | |||
紅葉組(左から) | |||
岡崎さん、万名さん、永滝さん、稲垣さん、 | |||
越智さん、北条さん、菊池さん、森さん、 | |||
山田さん、木村さん。 | |||
今年の「神戸OB会」は3人の方が亡くなられると言う悲しい年になりました。 | |||
1月10日三浦康英さん(83歳)、4月21日武禧之さん(71歳)、10月15日中島賢二さ | |||
ん(67歳)と43年になる会が始まって以来の痛哭の年でした。 | |||
懇親会を始めるにあたり3人の方々のご冥福を祈って黙祷を捧げ、気持ちも新たに | |||
献杯と乾杯により宴が始まりました。 | |||
例年より控え目な感じでしたが歓談やお喋りに、得意 |
懇親会集合記念写真 |
||
な歌、新しい歌などが披露され高原の夜が更けるととも | |||
にお開きとなりました。 | |||
懇親会(左から)(参加者全員) | |||
後列 | |||
万名さん、菊池さん、永滝さん、藤井さん、 | |||
町田さん、山田さん、本田さん、深野さん。 | |||
前列 | |||
渡辺さん、稲垣さん、森さん、越智さん、北条さん、木村さん。岡崎さん。 | |||
越智会長の乾杯で懇親会スタート |
傘寿のお祝い(木村幹事長から越智会長へ) |
||
懇親会は越智会長の乾杯 | |||
でスタートしました。 | |||
今年、80歳になられた、 | |||
越智会長にお祝いの記念品 | |||
を木村幹事長より贈呈しま | |||
した。 |
2枚の2ショット写真 |
2ショット(越智さんと菊池さん) |
2ショット(渡辺さんと稲垣さん) |
|
この懇親会を本当に楽しん | |||
でいます。 | |||
翌日は朝食のあと自主解 | |||
散とし43年目の定例懇親会 | |||
を終了しました。 | |||
なお、森さんは神戸から参加され、しかも何時もビールを差し入れて頂き本当に有 | |||
難う御座いました。 | |||
今回の幹事:永滝、岡崎、藤井、木村。 | |||
文:木村 写真:岡崎 纏め:青木 |
2009.12. 3 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その1) |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その1) | 横浜市 小田 茂 |
≪はじめに≫ | |||
横浜開港150周年記念行事にちなんで、私の地元、横浜市中区内に散在する『我が国 | |||
発祥の地』を11回(24ヶ所)にわたってご紹介してきました。 | |||
前回で一応完了としまして、今回から、今まで取材した段階で出会った『その他の | |||
碑』をはじめ、地元にとっては名所的なもの、また、<番外編>として商店の『看板』、 | |||
『マスコット』等々の珍百景的な写真を含めて地域ごとにまとめて、ご紹介いたしま | |||
す。 | |||
1.本牧(ほんもく)地域(その1) | |||
本牧は戦後、米軍居住地としてかなり広い部分を接収されておりました。 | |||
場所的には、JR根岸線石川駅南口を出て、東に向い「元町商店街』の手前から右 | |||
折して「山手トンネル」(地元では“麦田のトンネル”と呼んでいる)を出れば麦田町 | |||
であり、麦田から「本牧通り」沿い一帯は住宅街が続き、三渓園近くの「間門(まかど) | |||
(根岸駅の方が近い)」まで本牧方面と呼んでいます。私の地元でもあります。 | |||
(1)横浜市電:“麦田車庫跡地”の碑 | |||
山手トンネル(麦田のトンネル)を出て、直ぐ右側に |
“麦田車庫跡地”の碑 |
||
市電の“麦田車庫跡地”の碑が建っています。ここは | |||
現在、跡地は老人福祉センター「麦田清風荘」、「地域 | |||
ケアプラザ」があり、「麦田清風荘」には、私も“水彩 | |||
画”“パソコン”の有志の会で月に4〜5回お世話にな | |||
っています。また、“カラオケ”の人気は凄いですョ。 | |||
横浜に路面電車が走り出したのは、明治37年(1904年)神奈川電気 | |||
横浜電気鉄道(株)によって「神奈川と大江橋(桜木町)」 | |||
間であり、大正10年(1921年)に横浜市営電車となりました。その後、街の発展と共 | |||
に市内各方面に延びていきました。 | |||
“麦田車庫跡地”の碑に刻み込まれている「麦田車庫年表」 | |||
明治44年12月26日 横浜電気鉄道株式会社の桜道下引込線として発足 | |||
大正2年4月1日 横浜市営電車となる | |||
昭和3年3月3日 引込線から市電40両収容の車庫となる | |||
昭和3年10月15日 桜道から麦田と改称 | |||
昭和45年7月1日 59年間市民に親しまれた麦田車庫廃止 | |||
開港100周年「花電車」昭和34年1 |
開港100周年「花電車」昭和34年2 |
昭和40年代に、市電の路 | |
線は次々に廃止され、最後 | |||
は昭和47年(1972年)3月 | |||
31日を以って全廃となりま | |||
した。 | |||
市民にお別れの告げる | |||
「花電車」が最後の一週間 | |||
運転されました。 | |||
「花電車』写真は、地元の先輩知人にご協力いただいたものです。 | |||
(2) “下村観山顕彰の碑”(本牧山頂公園) | |||
我が家の直ぐ裏の丘が、「本牧山頂公園」の一部です。戦後、本牧一帯は米軍に接 | |||
収され、駐留軍の住宅地でした。この丘は、将校や士官のための高級住宅地でした。 | |||
接収されていた本牧地区の返還が、昭和57年(1982年)に行われ、丘の部分が「本 | |||
牧山頂公園」として全域開園したのは平成14年で新しい公園です。 | |||
この山頂公園に近代日本画の巨匠、下村観山の顕彰碑が建てられております。 | |||
顕彰碑の説明文には |
下村観山顕彰碑 |
||
『日本画の巨匠 下村観山は岡倉天心、横山大観ととも | |||
に日本美術院創立者であり、大正2年(1913年)原 三渓 | |||
の招きで、ここ和田山にアトリエを構えた。 | |||
当時は、白帆の舟が行き交う本牧の海を臨む景勝の丘 | |||
で、国の重要文化財に指定された代表作「弱法師(よろ | |||
ぼし)」などを描いている。昭和5年(1930年)57才で | |||
死去』 | |||
顕彰碑の説明版 |
別の説明版には、「原 三渓と下村観山」として、 | ||
『明治後期、生糸貿易で財をなした原 三渓(本名・原 | |||
富太郎)は、本牧三渓園を造り、日本民族の美術遺産の | |||
収集、保存に努め、近代日本画運動を支援するとともに | |||
本牧のまちづくりを進めました。 | |||
山手トンネルの開通により、明治44年(1911年)路面 | |||
電車が本牧に乗り入れ、その後、住宅地として開けてゆ | |||
きました。和田山の周辺は高級別荘地として売り出され、 | |||
芸術家や文化人が住むようになりました。 | |||
近代日本画の巨匠、下村観山は岡倉天心、横山大観とともに日本美術院創立者であ | |||
り、大正2年(1913年)原 三渓の招きで、本牧の海を望む景勝の丘和田山に住居と画 | |||
室を構え、数々の傑作を生みだしました。 | |||
観山の住宅が有ったことから、ひざくらの丘の芝生広場は「観山広場」と名付られ | |||
ました。 | |||
余談ですが、私の中学時代の同期生に、下村観山先生の“お孫さん”がいましたが | |||
下村君が絵が格別上手であったという記憶はありませんでした。 |
また、この山頂公園には「見晴らし山」と呼ばれる標高45mの展望台があり、360° | |||
本当に見晴らしの良いところであります。東は房総半島鋸山、西は天気が良ければ丹 | |||
沢、富士山が見え、南に三浦半島、北方面にいずれも近間ですがランドマーク、ベイ | |||
ブリッチというように大変壮観なところです。 | |||
“富士山”見えました(9月) |
“富士山”見えました(11/20) |
カラスも早起きです |
|
ただ、ここ山頂公園は迷惑カラスの安全な宿泊所となっており、写真のようにあま | |||
り人を怖がらず微笑ましいのですが、日頃の残飯漁りには住民は苦慮しています。 | |||
(3) “原 三渓”の碑(国指定名勝:三渓園) | |||
“原 三渓”の碑は三渓園内のお茶屋さんの前にあり |
三渓園風景 |
||
ます。三渓園は前項の「本牧山頂公園」から東南へ向け | |||
て徒歩で15分位のところにあります。 | |||
三渓園は、パンフレットによりますと、『生糸貿易で | |||
財をなした横浜の実業家:原三渓(本名:富太郎)の元 | |||
邸宅で、ここに京都や鎌倉などから歴史的に価値のある | |||
建築物を移築し、明治39年(1906年)“三渓園”として | |||
一般に公開いたしました。175,000u(約53,000坪)の園 | |||
“原三渓”の碑 |
碑の説明版 |
内には、10棟の重要文化財 | |
を含む17棟の古建築物が四 | |||
季折々の自然の景観の中に | |||
たくみに配置されています。 | |||
第2次世界大戦では大き | |||
な被害を受けましたが、昭 | |||
和28年(1953年)原家から | |||
財団法人三渓園保勝会の手 | |||
に移されたのを機に復旧工事が行われ、5年後の昭和33年のほぼ昔の姿をとり戻し一 | |||
般に公開されました』と記されています。 | |||
私が訪れた11月20日は久し振りの好天で、丁度、「菊花展」の最中で、大菊、小菊盆 | |||
裁が沢山出品されていました。下記にその一部をご紹介します。 | |||
大菊 |
大菊 |
大菊 |
小菊盆栽 |
小菊盆栽 |
三渓園の池は水鳥の天国 |
|
★横浜市民の方は、「長寿のしおり」(65歳以上)を提示すれば「無料」です。 | |||
(4) “全国吟詠大会発祥の地”の碑(八聖殿) | |||
“八聖殿”(正式名称:横浜市 八聖殿 郷土資料館 |
“全国吟詠大会発祥の地”の碑 |
||
(無料))の建物入口に“全国吟詠大会発祥の地”の碑 | |||
が建てられています。 | |||
いろいろな「碑」があるものだ!と思いつつ、そう言 | |||
えば、詩吟をやる親友のU君と飲んでいる時、「来週は | |||
八聖殿で発表会だよ!」と何回か聞いたことがあり、そ | |||
の時は“清閑な小高い丘の上なので、月を見ながら詩吟 | |||
とはおつなものだね!と思っていましたが、詩吟と深い | |||
繋がりが有ったのですね! | |||
八聖殿 |
説明版 |
八聖殿が郷土資料館にな | |
ったのは昭和48年(1973年) | |||
で、横浜の昔の懐かしい漁 | |||
具・農具が展示されていま | |||
す。 | |||
それよりも八聖殿が有名 | |||
なのは、八角形の建物は、 | |||
法隆寺夢殿(奈良)を模し | |||
昭和8年(1933年)逓信・内務大臣を歴任した安達謙蔵 |
八聖像 |
||
がが建立し完成させたものです。昭和12年(1937年)、 | |||
横浜市に寄贈されました。 | |||
完成時に、有名な彫刻家8人による「八聖人」彫像が | |||
飾られまました。 | |||
写真左から、「キリスト」、「ソクラテス」、「孔子」 | |||
「釈迦」、「聖徳太子」、「弘法大師」、「親鸞」、 | |||
「日蓮」の8聖人です。 | |||
★ 番外編 | |||
☆“横浜国際女子マラソン”地元本牧通りを3回走る!(11月15日) | |||
第1回横浜国際女子マラソンが11月15日好天のもと開催されました。山下公園が発 | |||
着で横浜駅の先まで行って、主に地元中区を走る周回コースを3周します。自宅に近 | |||
い本牧通りを走りますが、そこまで徒歩2分です。テレビ中継でトップグループが麦 | |||
田のトンネルを出たのを確認して応援に自宅を出ました。 | |||
不況のせいか、良くみられる後援の新聞社などから配られる小旗は有りませんでし | |||
た。バス停本牧2丁目は、10キロ強走ったところです。(参加ランナー400名強) | |||
大南姉妹がどんな走りをするか期待しながら待っていると、トップグループの集団 | |||
8〜9名がアッというまに通り過ぎ、姉の博美選手、北京五輪金メダルのディタ(ル | |||
マニア)が先頭で、20m位遅れ北京五輪銀メダルのケニアのヌデレバ、そこから200 | |||
m位の 遅れで妹敬美選手と外国招待選手の二人が通り過ぎましたが、一般参加(ゼ | |||
ッケンNo.3桁)は一人もいませんでした。かなり待ってから10名程度の集団がやっ | |||
と来ました。そこからは50〜100m間隔で次々と一つの塊が走り抜けていきました。 | |||
最後と思われる選手を応援して、家に帰りテレビを付けると、トップグループは、 | |||
早や、2周目で横浜駅を通り過ぎていました。 | |||
トップ選手と一般参加選手(実業団、大学生、市民ランナー等)との実力の差を、 | |||
痛感した次第です。2周目、3周目はテレビ観戦の応援となりました。 | |||
先頭集団見える |
北京五輪金メダルのディタ |
北京五輪銀メダルのヌデレバ |
|
☆ デジカメが見た<街の珍百景?!> | |||
とんかつ屋さん |
かに料理屋さん |
早くもサンタクロース出現 |
早くもサンタクロース出現 |
ホテル屋上に「自由の女神」 |
向い7階マンションから撮影 |
2009.11.29 | 須貝 | 落語を楽しむための裏話(その3/最終回) |
落語を楽しむための裏話(その3/最終回) | 佐野市 須貝 義弘 |
三枚起請(さんまいきしょう)について | |||
この噺は、廓噺としては私は大好きな一つだが現在では難しいのか、落語家がこの | |||
噺を高座にかけるのは、めったにないようである。 | |||
看板「三枚起請」 |
この噺は、遊女が三人の客に渡した起請文に由来する | ||
のだが、古くから大阪に伝わっている噺で、それを初代 | |||
三遊亭円右が東京へ持ち帰り高座へかけたのが最初と言 | |||
われている。 | |||
大阪の噺を移す場合、たいてい題名や内容を変えるの | |||
であるが、円右は題名もそのまゝに筋も殆ど変えず、た | |||
だ舞台を吉原に変えた程度であったとされる。その後志 | |||
ん生が手を加え、師匠一流のクスグリ、例えば「親切が | |||
着物を着ているような人」とか「三匹の雄犬に起請文」 |
「三枚起請を語る」五代目・古今亭志ん生 |
||
をはじめ、ふんだんに使って面目を一新させたとされる。 | |||
私もラジオで何度か聞いた記憶があるが、遊女が客に | |||
送る起請文とは、こんな感じになっていた。 | |||
「ふとした御事よりも深く御なじみ申し、つねづね御 | |||
志の程も忘れやらず、かねがね御かたらひにも、末は女 | |||
夫(みょうと)となり候、こなたことも其の心に少しも | |||
変わり御座なく候、たとへ親兄弟のうち何と申し候とも、 | |||
この御約束決してたがへ申すまじく、また外に心を通わす誓ひをもどき候御事、御座 | |||
候、いかようとも思し召し次第に、被成度(なされたく)候。殊に日本(ひのもと) | |||
の神々の御罰うけ申し候。かしこ ○○□□様参る (参考資料B起請文の文) | |||
かくの如く、“起請文”は遊女のラブレターで、昔は海千山千の遊女が、これはと思 | |||
う甘い客をだまして金銭を絞り取る際に起請という常套手段として用いた。つまり年 | |||
期があけたら、夫婦になろうと神(熊野神社)にかけて誓い、誓紙を取り交わしたも | |||
ので、これを 起請または起請文といったものである。 | |||
起請は廓でのみ書かれたのではなく、古くからあらゆる階級の人々が厳粛な気持ち | |||
で取り交わしたもので、江戸時代にもこの風習は残っていたようだ。 | |||
例えば、家来が主人に対して中世を誓う際とか、戦国時代(今NHKのドラマ天地人 | |||
にもある)においては隣国同士が攻守同盟を結ぶ時違約しないと誓う際、起請文が交 | |||
わされた。とされる。 | |||
起請の約束は堅く守ったが明治以降は次第に形式化してしまい「起請一枚書くごと | |||
に烏が三羽死ぬ」ということだけが伝えられ、殆ど廓だけのものになったと伝えられ | |||
ている。 | |||
東京では明治以後「午王宝印(ごおうほういん)」(起請文を書く用紙)を売り歩く | |||
尼も来なくなったので遊女たちは普通の半紙などを用いるようになった。先ほど「起 | |||
請文1枚に烏が三羽死ぬ」と言ったのは、この噺のサゲに関係しているからである。 | |||
サゲは、大阪式では「三千世界のカラスを殺す」で、これは幕末の勤皇派の一人高 | |||
杉晋作の作った都々逸「三千世界のカラスを殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」による | |||
ものであるとされている。 | |||
サゲはこの外に「勤めの身じゃもの朝寝がしたい」「よう考えておくれやす、勤め | |||
の身じゃもの朝寝がしたい」など幾通りかある。いずれも「途端落ち」というもので | |||
ある。 | |||
ーあとがきー |
夜の歓楽街 |
||
私が東京計器に入社した昭和二十九年頃はまだ赤線、 | |||
青線ばやりで、伊東の保養所へ行った時など宴が終わる | |||
と、先輩方は街へ繰り出したものです。この時代、保養所 | |||
の丹前や茶羽織は土地の人たちは事前に知らされていて、 | |||
どこへ行っても「はい、東京計器のお客さん」と云われ | |||
ました。夜の街へ繰り出した先輩たちは、茶羽織などを | |||
“やり手ばぁ―さん”に持たせご帰還。勘定は幹事が払 | |||
つわものどもが夢の跡 |
うという時代でした。剛の者は朝帰りという人もいてび | ||
っくりしました。私はと云うと、当時の事、私自身は酒 | |||
を呑み過ぎまったく「記憶にございません」よい気持ち | |||
でした。 | |||
もう一つ驚いたことは、夜の宴より朝食のときの酒の | |||
ほうが多かったことです。さらに帰りの電車の中もみん | |||
な酒びたりだった。 | |||
晩年は、いろいろな職場におせわになりましたが、朝 | |||
からあんなに酒を出す幹事さんはいなかったように思います。伊東もいい街でしたね。 |
参考資料 | |||
*「古典落語全五巻」 飯島友治編 (筑摩書房昭和43年) | |||
*「はやぶさ新八御用帳」 平岩弓子著 ―大奥の恋人― | |||
*「落語ハンドブック」 三遊亭円楽監修 1996年6月20日発行三省堂 | |||
*「日本の古典」 好色五人女 世界文化社 | |||
落語を楽しむための裏話(その3・最終回)終わり |
2009.11.17 | 稲垣 | 森繁久弥さんの想い出 |
森繁久弥さんの想い出 | 鎌倉市 稲垣 貢 |
11月10日、森繁久弥さん(96歳)が逝去されたことをテレビで見て、私が舶用営業 | |||
部にいたとき、ときどきお会いしたことを、フト想い出した。 | |||
昭和50年代は、映画俳優などの間にヨットやボートを |
佐島のヨットハーバー |
||
持つことが流行っていた。 | |||
(森繁久弥・三船敏郎・三橋美智也・加山雄三、等々) | |||
私は、たまたまヨットやボートの計器の担当で、足し | |||
げく、久里浜、横須賀、油壺のヨットハーバーや船主さ | |||
んへ通い、営業活動や集金に飛び歩いていた。 | |||
森繁さんの「ふじやま丸」の計器類はほとんど東京計 | |||
器製であったし、三橋美智也さんの艇にも、東京計器製 | |||
のジャイロやレーダーがが装備されていた。 | |||
「ふじやま丸」は森繁さんがもちろん船長で、長男が副船長であった。森繁船長に | |||
は二度お会いしたが、ジョウダンばかり言って周囲を笑わせていた。カメラを持参し | |||
ていたので、森繁さんをカメラに納めようとしたが、来客中で遠慮した。あの時は、 | |||
こちらを見て、ニコッと笑った顔が今となっては懐かしい想い出となった。 | |||
合掌 |
森繁久弥さん「ふじやま丸」の記事は、会報「けいき」59号(平成18年発行)に掲 | |||
載されていますが、改めて、ホームページに再掲載します(OB会編集部) | |||
「ふじやま丸」の想い出 鎌倉市 稲垣 貢 | |||
昭和39年と言えば東京オリンピックが華やかに開催された年で、日本は高度成長期 | |||
の真っ盛り、日本国民全体が希望に満ちていた時代でした。 | |||
当時は、映画も全盛の頃で、森繁さんも東宝映画「社長ものシリーズ」等で大活躍 | |||
でした。同時に芸能人達がボートやヨットのマリンスポーツを楽しみ始めたころでも | |||
ありました。 | |||
おかげでボート・ヨット用の舶用計器が売れるようになり、私が担当していた神奈 | |||
川県は逗子、葉山、佐島などの各マリーナが次々オープンしました。 | |||
森繁さんを始め、三船敏郎さん、歌手の三橋美智也さん等が争って億単位のヨット | |||
に当社の計器を採用してくれました。このため、営業担当の私も三浦岬方面のマリー | |||
ナへよく出張しました。 | |||
ヨットの中でもダントツに大型で豪華だったのが森繁久弥さんの「ふじやま丸」で | |||
した。このヨットに我が社の計器が装備され、この年の9月に進水式も挙行されまし | |||
た。10月10日の東京オリンピック開会式当日には、数百名のVIPを招待して「ふじ | |||
やま丸」の船上でシャンパンを片手にしてセレモニーを迎える予定でした。 | |||
ところが出港直後に巨大台風が日本列島に迫り、航行中のヨットは真っ正面から大 | |||
波・台風に向かってしまい「アワヤ・と思われましたが奇跡的に沈没を免れました」 | |||
これは、後日、当時の様子を佐島マリーナで森繁さんのご長男(故人)から聞いた内 | |||
容です。 | |||
結局、計器類は海水を被ったため全製品を新品と交換しました。(二度目に納入さ | |||
れた計器の代金も全品定価でいただきました。少々、気の毒な気もしましたが) |
次の手紙は、森繁久弥さんから(毛筆縦書き、原文のまま)当時の舶用営業部長の | |||
中村賛蔵氏宛のもので、「この手紙は担当の君が大切に保存するように」と手渡され | |||
今日まで41年間眠っていましたが、今日この場で皆さんにご覧いただく機会を得た次 | |||
第です。 | |||
生きて命あって 森繁 久弥 | |||
この手紙をしたためられる私たちは何と云ふ幸せかとただそれのみです | |||
自然の猛威の前にはひとたまりもない人間であることを知りました | |||
しかし又ひとたまりもない人間が99%の絶望に引きづられ乍らも最後の1%まで | |||
頑張れば自らそこに道が拓けることも悟りました | |||
型あるものは崩れ果てましたが命あるものはその1%の確率の中につつがなきえを | |||
得て皆様から「良かった良かった」と云っていただき泣きたい程の幸運を感じて居り | |||
ます 心の底から皆様に有り難う存じますを申し上げます | |||
神々や先祖の前に灯びをかかげ今どうやら平静を得た状態です 叱られる向きもあ | |||
るかと存じますが海と船を愛する根性はこれで失せたわけでは御座いません | |||
明日をまた | |||
その意味で元気に働きたいと全員誓い合って居ります | |||
早速の皆々様のお見舞い ご芳情 ここに謹んで御禮申し上げて近況お報らせに及 | |||
びました 昭和三十九年十月 | |||
森繁 久弥 | |||
ふじやま丸 乗組員一同 |
2009.11.15 | 須貝 | 落語を楽しむための裏話(その2-2) |
落語を楽しむための裏話(その2-2) | 佐野市 須貝 義弘 |
元吉原時代の遊女の階級 | |||
廓が出来た当時は、各所に散在していた頃と同じく、太夫と端女郎の二階級だけで | |||
あったが、間もなく中間に格子女郎が現われた。寛永十九年(1642年)の調べでは太 | |||
夫7人格子31人端女郎881人の遊女がいたとされる。更に末期に当たる正保・慶安 | |||
(1644〜1651年)の頃には局(つぼね)女郎と、切見世(きりみせ)女郎が登場する | |||
ようになったとされる。 | |||
*遊女の階級太夫とは | |||
文を書く太夫 |
俗に「松ノ位」とも言われ、容色はもとより、舞をは | ||
じめ諸芸に優れ、茶の湯、生花、碁、将棋、歌、俳諧、 | |||
書道、のたしなみのある遊女につけた称号である。 | |||
太夫の前身は、遊女、特に太夫級の連中は、関が原、 | |||
大阪夏・冬の両陣で浪人になった者や、幕府からにらま | |||
れて断絶した大・小名の家臣の娘が多かった。従って農 | |||
民、町民の娘より言語、立居・振舞いはもとより容姿も | |||
良かった。 |
遊女の最高位・大夫(たゆう) |
初期の頃に、読み書き、遊芸の出来る太夫の資格を備 | ||
えた遊女が多かった理由はここにある。 | |||
もちろん農民、町民の娘が太夫になったのも、禿(か | |||
むろ)(遊女が使う少女。その髪型)から出世したもの | |||
もいたが、数は少なかったとされる。また初めから太夫 | |||
として見世へ出た遊女は上方出身の者が圧倒的に多かっ | |||
たとも云われている。 | |||
記録によれば、当時太夫の揚げ代は金1両(銀六十匁) | |||
であったが、祝儀その他諸経費を含めると最低十五両位かかったといわれる。 | |||
*格子女郎は | |||
太夫の次に位し、京都、大阪あたりに寛永初期(1624〜1643年)に登場した遊女で | |||
ある。ある記録には、「大格子の内に部屋を構居る(座っている)。局女郎に紛れぬ | |||
ように格子と名を付けたり…」とある。 | |||
*局女郎は | |||
元吉原の末期、正保・慶安(1644〜1651年)のころに出来た遊女で、格子女郎の次 | |||
の位。新吉原時代の初期までは中級の遊女の名であったが、元禄(1688〜1702年)の | |||
末、埋茶(梅茶)女郎と位置が変わり、江戸後期には低級遊女の名となる。 | |||
今日では会社の事務所などで中年の女性を「局様」というようだが、この意味は知 | |||
らない方が多いと思われる。そこで調べてみると(吉原大全集によれば)「・・局と | |||
いふは大内官女の居所の名なり。しからば女郎の居所すべて{つぼね}と称すべきは | |||
づなれど、河岸(ごく低級の遊女屋)につとむる女郎の居所をいふ・・」とある。 | |||
局の構造は「異本洞房語園」という本によれば、表に、長押(なげし)を付け、局 | |||
の幅九尺(2.7メートル)奥行き二間(3.6メートル)、或は二間半、亦は幅六尺に奥 | |||
行き二間にも造る。入り口は三尺、表通りは横六尺の鶉(うずら)格子也(鶉格子に | |||
ついては調べてみたものの未だ不明)中閾(なかしきい)(中敷居=押入れなどを上 | |||
下に分けて各々に襖を立てる)と庭との堺に二尺ばかりの籬(まがき)(竹・柴など | |||
をあつく編んで作った垣)を付ける。入口褐(かち)染めの暖簾(のれん)をかける。 | |||
張見世(はりみせ) |
引きつけ(ひきつけ) |
流練(いつずけ) |
|
*元吉原の移転 | |||
江戸は開府以来、次第に整備され、同時に諸大名の叛乱を起こす心配も薄れた。一 | |||
方大名の家族を人質として江戸に留め置くための屋敷が必要となり、町人の居住地も | |||
不足した。 | |||
さらに遊郭が日本橋の近くにあることは風教上にもよくないなど、いろいろな理由 | |||
から明暦二年(1657年)浅草へ移転するように命じたようである。 | |||
ちょと本題からそれるかもしれないが新造(しんぞう)についてもご紹介すること | |||
にしましょう。 | |||
平岩弓子の小説「はやぶさ新八御用帳(上)に「吉原大門の殺人」というのがある | |||
その中に出てくる。いくつかの用語について。 | |||
*「隠密廻り」 | |||
町奉行所の御係の中に隠密廻りというのがあって、その役目のひとつに新吉原の大 | |||
門の傍にある番所に勤務する。 | |||
*浅黄裏(あさぎうら)(浅葱裏とも) | |||
新吉原で浅黄裏と呼ばれるのは国侍のことであった。江戸へ出府する大名の供をし | |||
てやってくる武士も江戸の土産話に色里へ遊びに来る。そうした連中が羽織の裏に浅 | |||
黄色の木綿地をよく用いたところから、彼らの野暮を嘲(あざけ)ての代名詞となった。 | |||
*惣籬(そうまがい) | |||
遊女屋の中では、最高級の格式を持つ妓楼(ぎろう)で入口を入ったところに細い | |||
格子が組まれているところから惣籬といった。妓楼の格が下がって、中見世になると、 | |||
籬が四分の一ほどあいているので半籬(はんまがい)と称し、更に格が落ちる小見世 | |||
(こみせ)では、下半分しか籬が組まれて居らず、それを 惣半籬(そうはんまがき) | |||
と呼んだ。 | |||
*新造(しんぞう) | |||
新造というのは、花魁についてくる若い遊女のことで、振袖新造、袖留新造、番頭 | |||
新造の三種類に分けられた。この節の遊女は昔のような松の位の太夫というのは無く | |||
なって一番上級なのが俗に昼三と呼ばれる花魁で、これは揚げ代が三分(さんぶ) | |||
であったためにその名がついたそうだ。 | |||
*振袖新造(ふりそでしんぞう) | |||
禿(かむろ)が大きくなったもので、振袖を着、姉貴分の女郎のお供をして座敷に | |||
出たが、原則として客は採らないとある。 | |||
*袖留新造(とめそでしんぞう) | |||
振袖新造によい客がついて、自分の部屋を部屋を持った者や、或いは禿(かむろ) | |||
上がりではなく、比較的年上で売られて来た者だという。 | |||
*番頭新造(ばんとうしんぞう) | |||
年季の明けた女郎で、これといった行き所もなく、その後も廓づとめを続ける妓で、 | |||
主として昼三の遊女の世話をして働く者とある。 | |||
<参考資料> | |||
*「古典落語全五巻」 飯島友治編 (筑摩書房昭和43年) | |||
*「はやぶさ新八御用帳」 平岩弓子著 ―大奥の恋人― | |||
*「落語ハンドブック」 三遊亭円楽監修 1996年6月20日発行三省堂 | |||
*「日本の古典」 好色五人女 世界文化社 |
2009.11. 4 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その11/最終回) |
“発祥の地”を訪ねて!(その11/最終回) | 横浜市 小田 茂 |
22. “日本ガス事業発祥の地”碑 | |||
JR桜木町駅から野毛山の方に向って、徒歩で10分足らずの本町小学校の校門入口 | |||
に“日本ガス事業発祥の地”碑が建てられています。 | |||
碑の説明文によると | |||
『明治3年、高島嘉右衛 |
“日本ガス事業発祥の地”碑 |
碑の説明文 |
|
門によって中区花咲町のこ | |||
の地に、ガス会社が設立さ | |||
れた。 | |||
高島はフランス人技師ア | |||
ンリ・プレグランを招いて、 | |||
明治5年9月29日、神奈川 | |||
県庁付近および大江橋から | |||
馬車道本町通りまでの間にガス街灯十数基を点灯した。 これがわが国ガス事業の発 | |||
祥である。』と記されています。 | |||
明治3年(1870年)県庁からガス灯の建設協力を頼まれ、「日本社中」を結成。 | |||
工場は伊勢山下石炭蔵前に建設することとなり、明治5年(1872年)9月に完成。この | |||
ガス工場は、明治8年(1875年)に町内会に譲渡され「横浜市瓦斯局」となり、現在 | |||
は「東京ガス」になっています。 | |||
「日本社中」があった場所は、現在の本町小学校ですが、ガス灯は文化財として1本の | |||
ガス灯が残されております。本町小学校は、神奈川県内でも有数の古い歴史をもって | |||
おり、明治38年(1905年)横浜市第一高等小学校として創立さてた名門校であります。 | |||
明治38年といえば、我がOB会名誉会員の廣瀬富三郎さん(103歳)の1年先輩です。 | |||
23. “機械製氷発祥の地” | |||
みなとみらい線終点の元町・中華街駅(山下公園)5番出口を出た直ぐ側に「山手 | |||
迎賓館」があります(元町商店街の一番外れ)。この「山手迎賓館」の右角にひっそり | |||
と「機械製氷発祥の地」のパネルがあります。パネルの説明文によると、 | |||
山手迎賓館 |
「機械製氷発祥の地」のパネル |
当時の工場全景 |
|
『開港から明治初期に至る時期、横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を | |||
扱う会社がいくつもつくられました。 | |||
ホテルのレストランやアイスクリ−ムサロンで氷が供されたという記録が残ってい | |||
ます。 | |||
明治12年(1879年)には、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ | |||
ー」がこの地に設立され、オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営されました。 | |||
設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの、翌年には再建し平成11年(1999年) | |||
まで、株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として再建当時 | |||
の姿のままで稼動していました』と記されています. | |||
24.“日本最初の和英辞典”の碑 | |||
前記23の“機械製氷発祥の地”前を流れる「中村川」(上は高速道路)の向い側の | |||
「横浜市地方合同庁舎」(横浜人形の家の裏手)の入口に、“日本最初の和英辞典” | |||
の碑が、ヘボン博士邸跡ということで建てられています。ヘボン博士とは、私達も知 | |||
っている「ヘボン式ローマ字」を広めた人物であります。碑文によりますと、 | |||
『開港とともに来日した |
“日本最初の和英辞典”の碑 |
説明文パネル |
|
宣教師の一人で神奈川成仏 | |||
寺に3年仮寓、文久2年 | |||
(1862)冬、横浜居留地39 | |||
番に移転、幕末明治初期の | |||
日本文化の開拓に力をつく | |||
した。 | |||
聖書のほんやく、和英辞 | |||
典のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に | |||
建てられた』と記されています。 | |||
ヘボンは、開国間もない安政6年(1859年)44歳の時、医療・伝道活動を目的とし | |||
て来日しました。来日当初は、神奈川宿にある「成仏寺」に住み、近くの「宗興寺」 | |||
で施療所として多くの日本人が治療を受けたそうであります。 | |||
本発祥の地の(その8)の「番外編」でもご紹介いたしましたが、文久2年(1862 | |||
年)の「生麦事件」で負傷したイギリス人2名の治療をしたのがヘボン博士です。 | |||
また、「生麦事件」の翌年には、キリスト教主義教育を日本に根付かせることを望 | |||
み、横浜にヘボン塾を開設しました。その後のヘボン塾は、他のプロテスタント・ミ | |||
ッション各派学校と連携し、明治20年(1887年)に明治学院として統合し、明治学院 | |||
初代総理に就任しました。高橋是清、島崎藤村など多くの人材を輩出したと言われて | |||
おります。 | |||
現在の「横浜指路教会」 |
明治7年(1874年)には、横浜第一長老公会を建て、 | ||
ここで新・旧聖書の和訳をしていたそうです。現在もJ | |||
R桜木町と関内駅の間で、馬車道のバス停から近い所に | |||
「横浜指路教会」として残っております。 | |||
ヘボン博士は、日本に33年間滞在し、多大な功績を残 | |||
され米国に帰国されましたが、19年後の明治44年(1911 | |||
年)96歳というご高齢で素晴らしい生涯を終えたそうで | |||
す。感謝!感謝!です。 | |||
≪番外編≫ | |||
我が家の“カメレオン・アサガオ”?の24時間! | |||
今年の“アサガオ”は種蒔きが遅かったせいで、10月20日頃まで咲いていました。 | |||
アサガオのイメージと異なり、一日中花を咲かせ、しかも色が変化していくのが、 | |||
面白く勝手に“カメレオン・ |
朝6時 |
正午 |
|
アサガオ”と命名して、10 | |||
月11日の三連休の中日に24 | |||
時間追ってみました。(本 | |||
人は365連休中ですが!) | |||
本人だけが、ビックリ、 | |||
感嘆してますが、当たり前 | |||
のことかも知れませんが! |
夕方16時 |
夜20時30分 |
翌朝6時 |
|
≪ おわりに≫ | |||
横浜開港150周年に関して、野村幹事の2月のホームページトップ記事に刺激され、 | |||
“浜っ子”の一人として150周年の自分なりの記念行事として、住居のある「横浜市 | |||
中区」に点在している“我が国:発祥の地を訪ねる”企画をいたしました。 | |||
3月に第1回目を寄稿してから今回で11回を数え、“発祥の地・碑”の紹介数が、 | |||
24個所と予想以上に多くビックリしました。まだまだ有るのかも知れませんが、今回 | |||
をもって第一弾を終了いたします。 | |||
拙い案内文、幼稚な素人写真でしたが、ご覧いただき感謝申し上げます。 | |||
振り返ってみますと、何の計画性もなく、出たとこ勝負で、本来なら始めに“幾つ | |||
位あるのか”“地域ごとに効率的に訪れる”等々で、系統だってご紹介すれば、場所 | |||
等を頭に浮かべて見ていただけたのではと反省しているところです。 | |||
この活動に取組んで一番私自身驚いたの「60年以上住んでいて、如何に“地元を知 | |||
らなかったこと”“変わってしまった様子”」の多かったことに自分ながらあきれ返 | |||
っております。 | |||
しかしながら、新しい発 |
「生麦事件」犠牲者の墓 |
埋葬位置を示す看板 |
|
見!というのは素晴らしい | |||
ことげすね! | |||
私のとって今回の最大の | |||
新発見は、その8の番外編 | |||
で触れました「生麦事件」 | |||
被害者のリチャ−ドソン | |||
(死亡)、クラーク(負傷)、 | |||
マーシャル(負傷)の3人のお墓が、山手外人墓地の裾野で元町商店街に近い所のあ | |||
ったとは!掲載した時は負傷した二人は、間もなく亡くなったのかと思っていました | |||
が、その後知ったことですが、かなりの年齢まで生存されていたようです。 | |||
ヘボン博士の治療がよかったのか、傷が浅かったのか定かでありませんが。 | |||
計画性がないので、同じような地域へ何度も足を運んだお陰で、「発祥に地」では | |||
有りませんが、珍しい「碑」に出会い、また、面白い「看板・マスコット」との対面 | |||
など新しい発見もありました。これらにつきまして、少し整理した形で「第二弾」と | |||
して、次回からご紹介いたますので、懲りずにご覧頂ければ幸いです。< 完 > |
小田さん、お疲れさまでした。楽しみにしていましたが、もう11回になるんですね。 | |||
横浜は、OB会会員も沢山お住まいです。次回は少し範囲を広げて、またレポートを | |||
お願いいたします。待っています! 《ホームページ・ワーキング・グループ》 |
2009.11. 1 | 須貝 | 落語を楽しむための裏話(その2-1) |
落語を楽しむための裏話(その2-1) | 佐野市 須貝 義弘 |
その2では、落語の中でも多くある廓噺のことを取り上げたいが、現在は存在しな | |||
いので、いろいろな文献から吉原のこと、遊女の階級などについて調べ、私なりにま | |||
とめてみました。 | |||
まずは吉原について | |||
なかなかこれはという文献はないのですが、ある文献によると享保十年(1725年) | |||
当時の町奉行所の「撰要類集」によると、慶長のころ(1596〜1614年)には当時、傾 | |||
城屋(けいせいや)といわれた遊女屋が神田鎌倉河岸と麹(こうじ)町八丁目に十数件ず | |||
つ、その他の場所に二、三軒ずつあったといわれる。 | |||
鎌倉河岸のは、今の静岡県安倍川町から、麹町のは、京都の六条から傾城屋が移っ | |||
て来たのであり、他の場所のも、奈良の木辻町、伏見の夷(えびす)町の同業であった | |||
とされる | |||
少し飛ばそう。とにかく、関が原、大阪夏・冬、の戦いの後、政権が家康に完全に | |||
移り、慶長十一年(1606年)頃から、江戸城の大増築及び諸大名の藩邸の普請が一斉 | |||
に行われた。そのため膨大な人数の職人や商人が全国から集まってきたので、どこの | |||
傾城屋も大繁昌。新しく店をはじめる者も出てきたとある。 | |||
当時、柳町で傾城屋を営んでいた庄司基内(後に甚右衛門と改名)が代表となり、 | |||
慶長十七年、三箇条の理由をつけて、全国二十カ所以上も公許の遊廓があるのに、江戸 | |||
にはそれがなく、あちこちに散在しているのは、風紀上よくないからと、廓の設置を | |||
願い出ている。(三箇条の条件・参考資料@参照方) | |||
幕府はこれを受理して元和三年(1616年)に五個条の条件をつけて許可(五箇条の | |||
条件・参考資料A参照方)、堺町東の沼沢地を与えられてできたのが即ち吉原「後に | |||
元吉原(もとよしはら)と呼ぶ」であり古い書物では、元吉原は今の和泉町、高砂町、 | |||
住吉町、難波町の四箇所とある。 | |||
元吉原は、周囲を幅三間(約5.4m)の堀で囲み、北 |
遊郭の大門 |
||
に大門口を設けたいわゆる一方口である。創設当時は、 | |||
門を入った右側は江戸一丁目、それに続いて京町一丁目、 | |||
左側が江戸町二丁目、湿地を隔てて京町二丁目となって | |||
いたとされる。 | |||
江戸町一丁目には、前述の甚右衛門と、柳町で商売を | |||
していた江戸の遊女屋が見世を開き、同二丁目は府中 | |||
(静岡)弥勒(みろく)町出身の遊女屋、京町一丁目は麹 | |||
町で営業していた京都六条出身の遊女屋などなど、吉原開設を聞き二年遅れて京都、 | |||
伏見から移転してきた連中などで賑わい、当時「新町」とも呼ばれた。 | |||
超高級・某遊郭 |
そして約十年後の寛永三年(1626年)に京橋 角(すみ) | ||
町の遊女屋十軒ほどが、江戸町一丁目と京町一丁目の間 | |||
の湿地を整地して出来たのが角町である。 | |||
吉原の名の起こりは「 葭蘆(よしあし)が生えていた」 | |||
に由来し、初め「 葭原(よしはら)」と云いったが縁起を | |||
担いで寛永三年、「吉原」と改めたとも。また、甚右衛 | |||
門が東海道吉原の出身だからともいわれる。なお、浅草 | |||
田圃へ移転後は、その跡地を元吉原と呼んだ。 | |||
吉原が開設した当時の江戸は、まだ建設の途上にあったので、全国から単身で乗込 | |||
んで来た職人や一旗上げようとして集まった商人、それにも増して、圧倒的に多かっ | |||
たのは旗本、御家人、諸大名の家臣とそれに仕える中間(ちゅうげん)、小者(こもの) | |||
たちであったとされる。もちろん当時は大多数の人が家族を国へ残して来ていたので、 | |||
江戸の町は男子で満ち溢れていたようである。 | |||
そのような時代であったから、吉原開設後数年間の繁昌ぶりは大変なものだったと | |||
云われる。 しかし、やがて各所に私娼(しょう)窟(くつ)が増え、当時のことを記し | |||
たものなどによれば、廓は日に日に衰微していったと伝えられる。そのため、遊女屋 | |||
のなかには、風呂屋へ遊女を預けて稼がせる者さえ現われたのである。 | |||
廓が衰えた大きな理由の一つは寛永十七年(1640年)夜間の営業を禁止されたこと | |||
で、それがまた、湯女の繁昌した原因にもなっていたようである。 | |||
古い記録によると寛永十六年、奉行所から楼主十一人が呼び出され「風呂屋で遊女 | |||
を稼がせるとは不届至極のこと」である!と同年十一月大門口で楼主十一人が 磔(は | |||
りつけ)になっている記録があるそうである。 | |||
元吉原時代の遊びは | |||
当時下級遊女と遊ぶ場合は別として、高級な太夫、格 |
遊郭で楽しむ男 |
||
子を買う場合は、後期の新吉原のように遊女屋へ出向く | |||
のではなく、まず揚屋へ行き、遊女を名ざして依頼する。 | |||
揚屋は「揚屋差紙(さしがみ)」を月行事と連書で遊女 | |||
屋へ差し出してから遊女が揚屋へやってくるという按配 | |||
だったそうである。 なお、最盛期のころは、一流の太 | |||
夫を指名して会うには数ヶ月待たされたそうである。 | |||
その様式がいくつか残っているが「柳花通誌」という誌 | |||
によれば(古文は勉強していないので苦手です。少し内容が異なるかも) | |||
「貴殿御かゝへ、長門どの(太夫)御ひまに候はば、御かゝり申し度候。御客の儀は、 | |||
慥成(たしかなる)御法度の御客にては無御座候」とある。揚屋と月行事がそれぞれ | |||
捺印したとあり、これを 差紙(さしがみ)と云ったとある。まことに煩雑で、間もな | |||
く無くなることになる。例文の差紙は新吉原へ移転間もなくのものとされるが、元吉 | |||
原時代には、月行事がなかったので、何か代わりのがあったと思われるが、さだかで | |||
ない。 |
参考資料@ 三箇条の条件 | |||
1.遊女買いする者は身分をわきまえず、商売を忘れて傾城屋に居続ける。店は金さ | |||
え払えばいつまでも歓待するので、その結果は奉公先をしくじり、借金したり、 | |||
時には横領をする者さえある。遊廓を許可してくれれば自粛して自分が注意・監 | |||
督の上客を1日1夜以上長く逗留させないようにする。 | |||
2.人勾引(ひとかどわかし)は禁制にもかゝわらず、女子を勾引して遊女奉公させ | |||
る者がいる。また困窮な家の娘を養女にして、十四、十五才になると妾奉公、遊 | |||
女奉公に出し給金の大部分を取り上げて生活している者もいる。遊廓が許可され | |||
れば、そのようなことをする者はもちろんのこと、召し抱えた者は早速訴え出る | |||
ようにする。 | |||
3.近年は、世の中が静かに治まっているが油断を見すまして謀叛をたくらむ浪人も | |||
いる。また家出人でも金さえ出せば、遊女は事情を知っていても、いつまでも匿 | |||
ってくれる。従って悪事をしたり、家出をしたりした者には現在の傾城屋は、こ | |||
の上もない隠れ場所である。遊郭を許可してくれれば、不審の者の詮議に念を入 | |||
れ、怪しいものは直ちに訴え出ることができる。 |
参考資料A 五箇条の条件 | |||
1.土地は今までより五割り増しして、二町に三町を与える。 | |||
2.昼夜とも商売を許す。(それまでは昼間だけだった) | |||
3.江戸中にある湯女(私娼)のいる風呂屋二百軒を取り潰す。(当時湯女のため吉 | |||
原が寂れたくらいであった) | |||
4.在来の山王、神田両祭礼及び火事の跡の火を消す役を免除する。(いずれも高額 | |||
の経費がかかった) | |||
5.廓(くるわ)全体に対して一万五百両の移転を下賜する。 |
参考資料B | |||
*「古典落語全五巻」 飯島友治編 (筑摩書房昭和43年) | |||
*「はやぶさ新八御用帳」 平岩弓子著 ―大奥の恋人― | |||
*「落語ハンドブック」 三遊亭円楽監修 1996年6月20日発行三省堂 |
2009.10.28 | 渡辺 | “鏝絵(左官職人の芸術)”に魅せられて! |
“鏝絵(左官職人の芸術)”に魅せられて! | 北杜市 渡辺 定彦 |
桃・栗3年、柿8年・・・・北杜市3年:地元に溶け込んでます! | |||
『よそ者』(他県よりの移住者)と地元の人からみられながらも、当番制の地区の | |||
世話役や、毎年の行事の参加で地域のことが少し分ってきました。 | |||
その一つが蔵の妻壁に円形の台座をつくり、この面に |
北杜市内の鏝絵・その1“寶” |
||
描かれた絵です。“鏝絵”です。 | |||
市内には、瓦屋根葺き白壁の蔵のある家が点在してお | |||
ります。蔵は昔から保存庫としての機能を重視して作ら | |||
れたもので、一種のステータス シンボルになっていたと | |||
思います。 | |||
“鏝絵”は、伊豆の長八(入江長八)という人が江戸時 | |||
代末期に一番最初に創ったと伝えられ、漆喰壁などを手 | |||
がける左官職人がその道具一つで見事な立体的造型絵を描き出し蔵を飾った蔵印のひ | |||
とつです。 | |||
北杜市内の鏝絵・その2 |
北杜市内の鏝絵・その3 |
また、妻壁のほかに戸袋 | |
や蔵の入口の観音開きの扉 | |||
にも絵柄が塗り出されたも | |||
のもあります。 | |||
絵柄は屋号印、家紋、七 | |||
福神、十二支、民間伝説の | |||
一場面、想像上の動物他さ | |||
まざまです。 | |||
施主に対する感謝の心を表するために仕事のお礼として、相談してどのような絵に | |||
するか決められたようです。家の商売繁盛、子孫繁栄などの願いをこめた絵にして技 | |||
術と共に芸術的域へと高められ、職人技の業が世に知られるようになった庶民の文化 | |||
遺産です。 | |||
近年は蔵を建てる家は少ないようです。蔵のある家の |
北杜市内の鏝絵・その4 |
||
側を通る際、この家の蔵はどんな絵かなと妻壁を見るの | |||
が癖になりました。 | |||
九月末、京都まで出向いた際、中央線(東、西)の沿 | |||
線で車窓より眺めた限りでは、線路沿いで視界が限られ | |||
ましたが、目にした蔵は妻壁に家紋が殆んどでした。茅 | |||
野、木曽福島あたりにも、存在しているようですが、確 | |||
認できませんでした。 | |||
北杜市内の鏝絵・その5 |
全国的に調査が進むなか、10数年前まで山梨県の“鏝 | ||
絵”の存在は詳しく知られておらず、県内の調査で100 | |||
を超える存在が明らかになり、北杜市内に半数が存在し、 | |||
うち30が須玉町内にあることが分っているそうです。 | |||
これは地元の左官職人、三井貴男氏(明治4年生れ) | |||
と弟である堀内秋雄氏、師匠である内藤可屯氏の3人の | |||
活躍と、比較的余裕のある農家の蔵を持ちたい願いが時 | |||
代的背景の中にあったと思います。 | |||
須玉町以外の町内にもありました。住所までは分らないので探し、蔵の写真を撮る | |||
ときは、無断では怪しまれ |
北杜市内の鏝絵・その6 |
北杜市内の鏝絵・その7 |
|
ますので、必ずお願いし許 | |||
しをもらっています。 | |||
紹介いたしましたのは、 | |||
北杜市内で写したものの一 | |||
部です。一番初めの写真は、 | |||
円形の台座に“寶”ですが、 | |||
このほかに水、龍、壽など | |||
の字の蔵もありました。水は蔵を火災から守ってもらう意味からのものでしょうか。 | |||
養老の滝、二宮金二郎、七福神、想像上の動物および実在する動物を題材にした蔵 | |||
印で、蔵の持ち主が、それぞれに願いをこめた絵柄かと思います。 | |||
これからも、地元の知り合いの人に聞くなどして、市内を探し回り、写真を撮りた | |||
いと思っています。また、つい先日、県内に「鏝絵研究会」なるものがあることも分 | |||
りました。 | |||
最後に、私の一家が北杜市に居住し間もない一昨年の春、OB会のバス旅行“甲斐 | |||
の国:風林火山博と八ヶ岳南山麓温泉の旅”て当地へ来られるということで、現地参 | |||
加いたし楽しく旧交を温めましたが、それから早や2年半が経ちました。 | |||
すっかりこの地に馴染み、元気で過ごしています。標高1,000メートルの地は紅葉も | |||
深まり、朝夕は一段と肌寒く感ずる今日、この頃です。 | |||
会員の皆様のご健康、OB会と会社のますますのご発展を願って筆を置きます。 |
2009.10.18 | 須貝 | 落語を楽しむための裏話(その1) |
落語を楽しむための裏話(その1) | 佐野市 須貝 義弘 |
はじめに | |||
この夏、ちょっと体調を崩し「2週間ほど入院して養生せよ」との診断に従った。 | |||
病院などに入っていると、世の中の動きなどは、トンと無関心になり、ボケがドンド | |||
ン進むようなので、若き日、噺家になろうかと勉強した「古典落語」や今まで読んだ | |||
小説等どの位記憶に残っているのか、看護師さんの勧め上手にのせられて筆を執って | |||
みた。 | |||
(その1)落語や時代劇に登場する「昔の時刻(とき)」と「落語・時そば」 | |||
時刻(とき)は、台詞(せりふ)を言う場面から、大体の時刻(じこく) | |||
は分かっても、今一詳しく知らなかった方(特に若い方)には、時代劇や | |||
ドラマを観る時、より楽しめると思います。 | |||
(その2)「廓噺(くるわばなし)壱」 | |||
(その3)「廓噺(くるわばなし)弐」 | |||
現在NHKのドラマに起請文(きしょうもん)が出ていることから思いつ | |||
いたのですが、手元にあるノートに記したものだけが頼りでしたので説明 | |||
が雑になったこと、お許しください。 | |||
(その4)あとがき「職場の話」 | |||
あれから五十余年経っていますので時効にしていただいてお許しください。 | |||
私の所属する職場は「粘度計とコンペンセーターの組み立て」を担当して | |||
いた「計圧器組立課」、そこへ油圧が入って来て次第に職場が大きくなり | |||
男くさい職場になってゆくのですが、コンペンセーターには四人の女性が | |||
いましたので、前述のことは“男のあそび”として黙認していたのでしょ | |||
うか。私には酒の飲み過ぎか?当時の諸行のことはトンとわかりません。 |
その1−1 昔の時刻について | |||
落語や時代劇の場面に出でくる時刻について考えてみると「時刻(とき)」とは江 | |||
戸時代は日の出から日没までの昼間、間を各々六等分して一時刻として、 | |||
明(あけ)六ツ(正卯の刻)・・・午前六時 | |||
明五ツ(辰の刻)・・・・・・・・午前八時 | |||
四ツ(巳の刻)・・・・・・・・・午前十時 |
時刻(とき)のダイヤル |
||
九ツ(午の刻)・・・・・・・・・正午十二時 | |||
八ツ(未の刻)・・・・・・・・・午後二時 | |||
七ツ(申の刻)・・・・・・・・・午後四時 | |||
暮(くれ)六ツ(正酉の刻)・・・午後六時 | |||
宵(よい)五ツ(戌の刻)・・・・午後八時 | |||
夜(よる)四ツ(亥の刻)・・・・午後十時 | |||
夜(よる)九ツ(子の刻)・・・・午前十二時 | |||
夜(よる)八ツ(丑の刻)・・・・午前二時 | |||
暁(あかつき)七ツ(寅の刻)・・午前四時 | |||
と呼んでいた。 | |||
日の出・日没を基準にして、六等分すれば極端に言うと、その一(いっ)時刻(と | |||
き)は、春分と秋分の日以外は、毎日多少異なることになる。即ち夏の昼間は長く、 | |||
夜は短い。冬の夜は長く、昼は短いので同じ一時刻でも昼と夜では大変な異なりとな | |||
る。仮に六月、一番昼の長い夏至前後の日を例にとり、日の出を今の午前4時とすれ | |||
ばこれが「明(あけ)六ツ」で日没を今の午後7時とすればそれが「暮(くれ)六ツ」 | |||
である。そこで午前4時から午後7時までの15時間を六等分すると昼間の一時刻は1 | |||
50分、夜は今の午後7時から今の午前4時まで9時間であるから一時刻は90分になる。 | |||
従って一番日の短い冬至前後はそれが反対となる。もっともこれは極端な場合で一年 | |||
のうちに幾日もあるわけではなく、普通は一時刻が2時間前後と考えてよいが、前述 | |||
の明(あけ)六ツが午前6時とあっても正確に現代の6時というわけではない。 | |||
この原稿を書いていた翌朝、看護婦さんが「須貝さん、明ケ六ツですよ」と優しく | |||
起こしてくれたのはうれしかったねぇ。なお一時刻では間隔が長いので、その真ん中 | |||
をたとえば「六ツ半」のように云った。また十二支で時間を云う場合は「正午(うま) | |||
ノ刻」「寅(とら)ノ上刻(じょうこく)」「申(さる)ノ中刻」「酉(とり)ノ下 | |||
刻」というように一時刻を三等分して呼んだとされる。 |
その1−2 落語「時そば」について | |||
明治の中期、三代目小さんが大阪落語の「時うどん」を持ち帰り、舞台を江戸に移 | |||
したものといわれる。もっともその源流と見られる小咄は江戸にもあったと云われる。 | |||
たとえば天明二年(1782年)の「甘酒」で「それ一文、二文、三文、なんどきだい」 | |||
「四ツでございます」という内容のものである。このほかにも似た内容の小咄がある | |||
ようで、いろいろな人が、工夫をして高座へかけていたようである。 | |||
なかでも、三代目桂 三木助の工夫を紹介しよう。私 |
寄席のイラスト |
||
もこの話を聞いた時には、落語は面白いと思ったもので | |||
ある。 | |||
三木助は、三代目小さんの噺を数多く継承していた。 | |||
七代目三笑亭可楽からこの噺を伝授されて若い頃から高 | |||
座へかけていた。その間、随所に工夫・創案をこらして | |||
磨き上げたとされる。現在の若い無能落語屋には耳が痛 | |||
い話である。 | |||
例へば次の優れたクスグリは師匠の案出であるが、不思議なことに、江戸落語では | |||
不文律として高座で、 扇子(かぜ)、 手拭(まんだら)以外は使わないしきたりにもか | |||
ゝわらず、師匠は湯呑みを丼に見立てて使って「これぁ・・えぇー?・・ひびだらけ | |||
だねぇ。よくこう万遍なく欠けたねぇ・・これぁ・・丼にも使えるし、鋸にも使えら | |||
ぁ・・・」である。 | |||
皆さんもこの噺はよくご存知でしょうが前述の江戸時 |
「時そば」で有名な落語家 |
||
代の時刻(とき)の内容を知っていれば、与太郎が四文損 | |||
をした件(くだり)がはっきりわかると思います。 | |||
落語には見る楽しみもあると思います。私も子供の頃、 | |||
この「時そば」を演じて友人から「ここは上手いが、こ | |||
こはどうも」などといろいろ云われた。当時、多くの噺 | |||
家の「時そば」を聞いたが、晩年「古典落語」の本を見 | |||
たり、大学の落語関係の講座を受けてみたが演出上の注 | |||
意点は大体次のようなものになりそうである。 | |||
職人の蕎麦屋に対する会話(やりとり)を淀(よど)み無く行う。ここをモタつかせる | |||
と、この噺は壊れてしまう。お世辞をあれやこれや、トントントンと調子よくしゃべ | |||
り、いざ金を払うという件(くだり)は、いわばこの噺の要(かなめ)である。 | |||
「銭(ぜに)ぁ-こまけぇんだ。勘定して払(や)ろう、 |
「あったかい蕎麦を頼むよ」 |
||
手ぇ出してくんねぇ」息をつかず、声も低めの調子で | |||
「それっひとつ、ふたつ、みぃつ…」七つまで数える。 | |||
八つのところで多少声を張り「八ツ」を云い終えると大 | |||
声で「何(なん)時刻(どき)だい」とやる。まだまだ細か | |||
く云うと沢山あるのだろうが、要約すれば前半の職人の | |||
お世辞がよどみなく、流れ出るように調子が良ければよ | |||
いほど、後半において与太郎の間抜けさが浮き彫りにさ | |||
れて、おかしみを増す効果があるだろう。 | |||
職人が一文ごまかしたのも、別に一文ばかり儲けようと思ってしたのではなく、興 | |||
味半分、博奕(ばくち)打ちの禁(まじ)厭(ない)半分にしたまでで、常習の職業的詐欺 | |||
師(さぎし)のようにしてはならないとある。 | |||
落語の世界では、この種の洒落が通じるからおかしいのであって、決して悪者に仕 | |||
立ててはいけないサゲは「間抜け落ち」である。 | |||
次回は落語の中でも多くある廓噺のことを取り上げたいが、現在は存在しないので、 | |||
いろいろな文献から吉原のこと、遊女の階級などについて調べ、私なりにまとめてみ | |||
ました。 | |||
後半は落語「三枚(さんまい)起請(きしょう)」から起請文についても勉強したこと | |||
を述べてみたい。 |
2009.10. 4 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その10) |
“発祥の地”を訪ねて!(その10) | 横浜市 小田 茂 |
18. “我国西洋医科歯学発祥の地”碑 | |||
JR根岸線「石川町駅」北口を出て、横浜中華街方面 |
“我国西洋医科歯学発祥の地”碑 |
||
に向って、5〜6分の横浜市中土木事務所の近くの「駐 | |||
労会館」前に「碑」が建っています。 | |||
「碑」の裏面に書かれている「説明文」によりますと、 | |||
『ここは、万延元年(1860年)歯科医師として最初に | |||
来日した米国人ウィリアム・クラーク・イーストレーキ | |||
博士が、来浜3度目の明治14年に歯科診療所を開設した | |||
ゆかりの地である。 博士は、明治元年2度目の来浜に | |||
際し歯科診療所(所在地不詳)を開設し、献身的な診療活動のかたわら日本人歯科医 | |||
師の育成に努力を傾注し、日本近代歯科医学の世界的発展の端緒を開く役割を担われ | |||
た。・・・・・・』と記されています。 | |||
しかし、西洋歯科医学は横浜が最初ではなく、長崎において文政6年(1823年)に | |||
シーボルトによって日本で初めて発祥されたとされています。 | |||
19. “日本國新聞発祥之碑” | |||
前記、“我国西洋医科歯学発祥の地”碑から3〜4分歩いて、中華街「関帝廟」脇 | |||
の歩道上に「碑」があります。 | |||
浜田彦蔵(幼少時代は彦太郎)が、文久4年(1864年)に岸田吟香に協力してもら | |||
“日本國新聞発祥之碑” |
い横浜で初めて手書きの新聞紙を創刊し定期的に刊行す | ||
るようになりました。その時は改題され「海外新聞」と | |||
なり外国新聞の翻訳を用いた新聞でした。 | |||
海外事情が日本語に翻訳されており海外事情を明らか | |||
にすることが目的とされ郵便船が持ってきたが、新聞発 | |||
行が赤字であったため数ヶ月後に幕を閉じたようです。 | |||
この「海外新聞」こそが横浜から広まっていった日本 | |||
最初の邦字新聞です。 | |||
浜田彦蔵の人生も波乱万丈で、天保8年(1837年)に兵庫県で生まれ、13歳の時、 | |||
嘉永3年(1850年)に大阪・摂津の栄力丸で江戸からの帰帆途中に台風に遭遇して、 | |||
アメリカの船に助けられました。その後、アメリカの地で勉学をし、安政5年(1858 | |||
年)に帰化第一号としてア |
「海外新聞」 |
「ジョセフ彦」 |
|
メリカの市民権を得ていま | |||
す。またキリスト教の洗礼 | |||
を受けてクリスチャンネー | |||
ムの「ジョセフ」を用いて | |||
この頃から「ジョセフ彦」 | |||
と名乗るようになりました。 | |||
安政6年(1859年)に帰 | |||
国した「ジョセフ彦」はアメリカ領事館の通訳に選ばれ、日米修好条約の締結などの | |||
派遣などで活躍されました。 | |||
20. “電信創業の地”の碑 | |||
“電信創業の地”の碑 |
説明版 |
日本大通りに面した、横 | |
浜地方検察庁(神奈川県庁 | |||
側)の正面入口側に「碑」 | |||
があります。 | |||
明治2年(1869年)横浜 | |||
裁判所と東京築地運上所に | |||
設けられた「傳信機役所」 | |||
を結ぶ約32qの電信線架設 | |||
工事が開始され、同12月25日に業務を開始しました。これが、我が国における公衆電 | |||
気通信の最初であります。 | |||
21. “日本近代水道発祥の地” | |||
JR桜木町駅から野毛山公園、動物園に向って野毛の大通りを徒歩5分位の所にあ | |||
る「野毛地区センター」の入口の小公園の中に、“日本近代水道最古の水道管”が置 | |||
かれています。当時の紹介地図部分が鏡状になっており、完全に私の姿が映ってしま | |||
いました。説明文によりますと、 | |||
『明治20年(1887年)日本最初の近代水道が、イギリス人パーマの指導により、こ | |||
こ横浜の地に誕生しました。 |
近代水道最古の水道管 |
||
相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、 | |||
44km離れた野毛山貯水場に運ばれた水は浄化され、市内 | |||
に給水されました。この野毛坂の地下には、当時のイギ | |||
リス製水道管が埋設されていて、今も働き続けています。 | |||
当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パー | |||
マーを始め、多くの先人たちの偉業を讃え建立したもの | |||
です。・・・・・』と記されています。 | |||
この、ヘンリー・スペンサー・パーマの記念碑が、西区の野毛山公園の中に建てら | |||
れています。我が中区の“発祥の地”の紹介ですが、区境に当たり西区に越境して紹 | |||
介する形となりました。 | |||
野毛山公園内の動物園の真正面のところに「野毛山貯水池」があり、その前に“パ | |||
ーマ”の胸像が建てられております。 | |||
野毛山貯水池(入口) |
野毛山貯水池 |
パーマ胸像 |
|
パーマは、神奈川県から顧問工師長として、水道工事のいっさいを任されました。 | |||
水源を現在の津久井郡三沢村三井を流れる相模川支流の道志川と決定したパーマーは、 | |||
野毛山貯水池に至る44qに及ぶ水道工事を明治18年(1885年)4月に開始し、明治20 | |||
年(1887年)9月に洋式水道が完成しました。現在は、山梨県道志村からの清涼な水 | |||
が野毛山貯水池から市街へと配水され、横浜市民の喉を潤しています。 | |||
また、パーマは横浜のほかに大阪、神戸、函館、東京などの水道計画に貢献しまし | |||
た。明治26年(1893年)に54歳で歿し東京青山墓地に埋葬されているとのこと。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ 横浜下水道の始まり | |||
前記18.“我国西洋医科歯学発祥の地”碑の文中に出てきました「横浜市中土木事務 | |||
所」の入口に「珍品」が置かれていました。説明文によりますと | |||
『ここに展示の構造物は、昭和56年2月に中区山下町37番地先から発掘された卵形 | |||
下水管である。 |
卵形下水管 |
説明版 |
|
明治3年に関内居留地内 | |||
全域に陶管を埋設した。 | |||
これが、わが国最初の近 | |||
代的下水道であった。 | |||
その後、明治14年からこ | |||
れをレンガ造りの下水道管 | |||
に造り変えた。その断面が | |||
卵形をしているので卵形管と呼ばれる。 | |||
その時の卵形管の一部は、中華街南門通りで現在も使われている』とのことです。 |