話 題 『 よもやま話 』-14 | 2009年7月〜2009年9月 |
話 題 一 覧 |
2009. 9.20 | さらにこれからの10年を失わないために 投稿:清水有道 |
2009. 9.16 | 2009年ブラインドゴルフ・ボランティア参加 投稿;三橋春夫 |
2009. 9. 6 | “発祥の地”を訪ねて!(その9) 投稿;小田 茂 |
2009. 9. 3 | 見事に再生した“フジの花” 投稿:川田 維 |
2009. 8.30 | 九州南部の山行を楽しむ(その3/E) 投稿:清水有道 |
2009. 8.26 | 最初に剱岳に登ったのは誰か? 投稿;砂田定夫 |
2009. 8.16 | 九州南部の山行を楽しむ(その2) 投稿:清水有道 |
2009. 8.12 | 佐野市に残る芭蕉の句碑 投稿:須貝義弘 |
2009. 8. 5 | 九州南部の山行を楽しむ(その1) 投稿:清水有道 |
2009. 7.29 | “発祥の地”を訪ねて!(その8) 投稿;小田 茂 |
2009. 7.15 | 「完全試合」「一球入魂」そして「痛恨のミスジャッジ」 投稿;仲本隆信 |
2009. 7. 8 | 小学校の安全パトロールのボランティアに参加して 投稿;秋山暢利 |
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話 題 『 よもやま話 』 |
2009. 9.20 | 清水 | さらにこれからの10年を失わないために |
さらにこれからの10年を失わないために | 横浜市 清水 有道 |
−長い海外との仕事を通して今後の日本の方向性を思う− | |||
「現在までに日本は自らの手で能動的にこれといった国際的なアクションをしてこ | |||
なかったために、いたずらに10年を棒に振ってしまった」、と最近しきりに言われる | |||
ようになった。 | |||
確かに10年前までの英国サッチャー首相の施策の幾つかには、現在の状況を予測で | |||
きる事例が見て取れていたはずなのに、日本はその上にさらに悪乗りして、英米の言 | |||
行に追随し、挙句の果てに今日の哀れな状況を迎えるに至ってしまった。英国の事例 | |||
の中で最も顕著なものは、派遣労働の問題である。派遣労働者からワーキング・プア | |||
ーへの転落の顛末は既に10年前ごろ、ちょうど筆者が東京計器(当時はトキメック) | |||
を辞す1〜2年前に大量に発生していた。英国の場合には、今日の日本よりもある意 | |||
味ではもっと始末が悪いと言えるかもしれない。と言うのは、民間の活力を導入して | |||
生産活動のみならず事務的な仕事にまで生産性の向上、事務能率のアップを謳い文句 | |||
にして、公的機関にまで派遣会社からの人員を振り向けたからである。その結果ひと | |||
たび計画通りに進まなかったり、経済状態が悪化するとなると、関係官庁から一通の | |||
通達や一片の通告で派遣会社に派遣人員切りが申し渡され、多くの人が路頭に迷った | |||
のであった。 | |||
また、現在日本でも盛んに話題にされているが、地方 |
地方都市・シャッター通り |
||
都市の衰退についてもその典型的なモデルを英国に見る | |||
ことが出来る。かつての名店街はシャッター通りとなり、 | |||
デパートは効率の悪い地方都市の支店を閉じ、その結果 | |||
表通りの商店は多くが消費者金融か、何処にでもあるフ | |||
ランチャイズ店舗で占められ、地方都市の特色は完全に | |||
失せてしまった。この一連の変遷の裏には資本の性格と | |||
役割の変化があると思う。筆者が学生時代に勉強したの | |||
は、資本は産業資本、商業資本と金融資本の三つのカテゴリーに厳密に区分されて存 | |||
在し、それぞれ特有の機能を果たしている、ということだった。もう少し分りやすく | |||
するために誇張して言うなら、現在では金融資本のみが飛び抜けて大きな勢力になり、 | |||
強固になって、他の二つは殆んど影を潜めている、と言っても過言ではない状況とな | |||
ってしまった。この勢いを持った金融資本に結び付いている特定少数の人々だけが新 | |||
しいスーパー・リッチ・グループを構成し、他は逆に一蓮托生で沈み行くグループに | |||
変わり、従来の社会構成は最早存在しないところにまで追い詰められている。既に世 | |||
界各地で著名な産業が潰れ、中小企業規模の商業組織が死滅し、地方都市・農村は砂 | |||
漠化・過疎化し、これらに従事していた人々は仕事を失い、生活を支える手段を見出 | |||
せないでいる。その結果、所得や地域の格差は開く一方である。かなり概説した極端 | |||
な考察かもしれないが、これが現在の姿であり、少なくとも近未来に日本全土を見舞 | |||
う姿であろう。注意しなければならないのは、この方向性がここ10年くらいで決めら | |||
れてしまったということである。何が原因であったか?誰がこのようなレールを敷い | |||
てしまったのか? | |||
−議論を展開する前に− | |||
議論を展開する前に、忘れてはならないことがあるように思う。それは、わが国に | |||
おいてしきりにグローバル化、国際化が叫ばれ出した1990年あたりから、恰もちょう | |||
ど東西の冷戦体制が崩れて、弱体化した旧ソ連およびそのサポート地域に対して米英 | |||
の資本主義体制が一気呵成にお互いに集結し、融合し合っていわゆる金融資本が主導 | |||
する現在の経済構造が生み出されてしまった、という事実である。 | |||
わが国はあまり深く吟味することなく、英米両国から付随して要求された、構造改 | |||
革、殆んど例外を認めずに突き付けられた開放経済の実現要求、各種の規制緩和、市 | |||
場原理に任せた経済運営等々を受け入れざるを得なくなり、見るも無残に新自由主義 | |||
体制の中に組み込まれてしまったことである。徐々に恰も真っ当な命題そのものに向 | |||
かっているかの如き喧伝に載せられて、一般国民に何ら吟味する余地が与えられる前 | |||
に、国として突き進むことになってしまったのである。どこか太平洋戦争に突入した | |||
時の政府のリードの仕方や体制の運び方に非常に似ているように思えてならない。 | |||
大きな枠組みはその通り進んでいるが、わが国では殆んど吟味せずに追随してしま | |||
ったために、筆者にはいまさら修正不可能かも知れない幾つかの過ちを犯してしまっ | |||
たと思われる。 | |||
その一つは、日本が従来輸出依存で進んできたために、関係する製造業、それらの | |||
企業の生産する工業製品に自由化が極端に偏重してしまった。したがって自由化とは | |||
無縁に近い幾つかの分野、例えば、医療、教育、放送通信、農業等ではいまだに多く | |||
の官僚統制の下でなければ仕事が進められない状態に追い込まれ、老齢者医療費や介 | |||
護保険料等で、他の文明国に比べて異常とも思われる扱われ方がまかり通っている。 | |||
子供や青少年の教育や躾、女性の社会進出を促す社会の仕組みの劣悪さも目に余るし、 | |||
農業に至っては自給率が40%そこそこであるにも拘らず、一方では理屈の分らぬ減反 | |||
政策が取られているし、企業化農業への道も隔てられている。 | |||
二つ目は、日本式国際化の考え方の悪弊であろう。この紙面で改めて細かく国際化 | |||
論議をしようとは思わないが、「国際化」とか「グローバル化」について、為政者の | |||
理解が十分でなかったか、筆者から見れば、勘違いに近いものであったと思う。もっ | |||
と極端に言うなら、米国で行われていること、米国から言われることが、世界的に通 | |||
用することの取っ掛かりであるとの理解しかなかったということ。この理解レベルを | |||
矯正することが取りも直さず日本の「国際化」、「グローバル化」であることに何故 | |||
気付かなかったのか。他の文明や歴史を踏まえて現状にこれほど無知で、理解の乏し | |||
い国も少ないと思う。いまだに理解のレベルで言うなら、OECDの構成国の中でも | |||
間違いなくどん尻であろう。 | |||
三つ目の失態は、人、物、組織体、国の進歩・発展を「成長」それも「成長率」と | |||
いう尺度でしか判断できない頭の固い考え方にあると思う。この尺度では幸福や情愛、 | |||
文化や文明、表現力、情緒の醸成は望めまい。他に挙げればまだ幾つもあろうが、こ | |||
れらを今からでも本来の姿に戻してみれば、もっともっと格好の良い日本人になれる | |||
のではなかろうか。 | |||
いまイタリアの地震で大きな被害を受けた中部の小都 |
G8(先進主要八カ国首脳) |
||
市ラクイラでG8(先進主要八カ国)会議が行われてい | |||
る。大事な会議をこのような特殊な状況の場所を選んで | |||
行う選択肢というか、考え方に先ずは感心と敬服を禁じ | |||
得ないが、皆様もお気付きであろうが、メンバー国の中 | |||
で、非キリスト教国は日本だけである。しかも、このメ | |||
ンバー国の中で、有史以来「一国家、一文明」を維持し | |||
てきている国も唯一日本だけである。日本はその意味で | |||
は突拍子もなく思い切ったことを言い出せる、またとないポジションを与えられてい | |||
るとは言えないだろうか。 | |||
−バロック・オバマ大統領誕生− | |||
筆者には米国にバロック・オバマ大統領が誕生したときに新聞や雑誌を飾った言葉 | |||
が、いまでも幾つか頭に残っている。それらの言葉は、特に日本のジャーナリストの | |||
質問に応えてオバマや国務長官のクリントンによってこれでもかというくらい使われ | |||
た。“Cornerstone”(礎)、“Smart”(目から鼻に抜けるような、 | |||
卒のない、機知に富んだ、仕事を手早くする)、“Dialogue”(対話)、 | |||
“Public Diplomacy”(対世論外交)、“Cordination” | |||
(同盟)といったような単語である。両国間にしっかりした礎を築き、共通の基盤の | |||
バロック・オバマ大統領 |
上に、幅広い話し合いをしよう。その際、あらゆる階層 | ||
の人々と対話を通じた世論外交を展開し、その上に同盟 | |||
を結束・強化して行こうとする姿勢を見せたのだった。 | |||
中でもお互いにスマートな人間、関係でありたいとする | |||
意思表明は分りやすく、人の心を掴む術を心得ていると | |||
感じた。ただここで注意しなければならないのは、アメ | |||
リカ人は何時の場面でもナイーヴに平和的な解決がもた | |||
らされるとやや気安く考えているが、これらの言葉の共 | |||
通点としてこのことが見て取れることである。 | |||
一方ヨーロッパの人々は、はるかに現実的な物の見方をしており、少なくとも解決 | |||
したかに見えても、その後10年間はその地には紛争が次々と絶え間なく続くだろうと | |||
冷めた見方をしている。第一次世界大戦後に人為的に創られた中央ヨーロッパのチェ | |||
コスロヴァキアとユーゴスラヴィアのその後を見れば一目瞭然のことである。民族間、 | |||
国家間の長い紛争を通して、現在のEUの実現がもたらされたことを考えれば、それ | |||
なりにEUの持つ意義と重みが理解できるような気がする。 | |||
これからは、加えてアジアとの真剣な付き合いを強化して行く必要があろう。アジ | |||
ア諸国との関係は欧米以上にわが国にとっては、難しいアジェンダ(検討課題)を含 | |||
んでいる。欧米諸国と比べて最も大きな違いは、あらゆる面での多様性だと思う。紙 | |||
面の都合もあり、ここで更に詳しい議論を展開しようとは思わないが、日本は差し当 | |||
たりもっと真剣にアジアについて勉強し直す必要があるだろう。筆者には、日本がア | |||
ジアの国々の近くにありながら、余りに知らないことが多すぎるように思えてならな | |||
い。アジア諸国との関係修復と強化が将来の世界における日本の位置付けを左右する | |||
ことになるだろう。 | |||
筆者が日頃仕事を通して接触する海外の人々に対しては今後とも、「できるかぎり | |||
多方面にわたる協働作業(現在よく使われる英語では“Mass collabor | |||
ation”)」を主導しながら、伝統と因襲にとらわれない自主的な(“Eman | |||
cipated”)考え方、やり方をもって順境にあっても、逆境にあっても信念を | |||
一つにして突き進むことに、余命を専心したいと思っている。四字熟語で表せば『夷 | |||
険一節』となろうか、これが最近の主題に向かう筆者の心境であることをお伝えして | |||
本稿を閉じることにしよう。 (完) |
2009. 9.16 | 三橋 | 2009年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・ボランティア参加 |
2009年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・ |
チャンピオンシップにボランティア参加 | 茅ヶ崎市 三橋春夫 |
去る8月17日、18日の両日、世界ブラインドゴルフ協会(IBGA)公認、日本ブ | |||
ラインドゴルフ振興協会(JBGA)主催のジャパンオープン・チャンピオンシップ | |||
が、群馬県みなかみ町の水上高原ゴルフコースで開催され、神奈川県から参加した6 | |||
名の選手に同行して、横浜市戸塚にお住まいのNさんのキャディ(世界の正式名・ガ | |||
イド)として参加してきました。 | |||
始球式前に行われた写真撮影 |
大会にはイスラエル・オーストラリア・北アイルラン | ||
ド・オランダ・スコットランド・韓国から17選手、国内 | |||
から34選手が参加しましたが、アメリカ・カナダからの | |||
参加がなかった分、レベル的には、少し低かったように | |||
感じました。 | |||
私自身は、オーストラリアやカナダなどでプロ・アマ | |||
戦を含めて3日間の経験はありますが、今回は日本では | |||
初めての2日間の公式競技で、IBGAルールによるノ | |||
ータッチ競技、視覚障害者には厳しい競技会となりましが、天候には恵まれ、素晴ら | |||
しい大会となりました。 | |||
JBGAと今大会のホスト・プロとして、山本善隆、 |
キャシー・ウイットウオース選手(左)の始球式 |
||
小林 旭、岡田美智子、吉川なよ子、高須愛子、稲葉真 | |||
寿美、の各プロの他、視覚障害者ゴルフを支援している | |||
ゴルフ殿堂入りを果たしたキャシー・ウイットウオース | |||
・プロも応援に駆けつけて、始球式に花を添えました。 | |||
結果は、初めてJBGA主催の大会に参加されたゾハ | |||
ー・シャロン選手(イスラエル)が全盲の部で98、90、 | |||
トータル188ストロークで優勝。 | |||
弱視B2の部では女性ジャン・ディンズデール選手(北アイルランド)。弱視B3の | |||
部では我々神奈川県から参加した新井豊三選手が唯一日本選手として優勝を果たしま | |||
した。 | |||
表彰式でのシャロン選手 |
大会の圧巻は、初日に行われたドラコンとニア・ピン・ | ||
コンテストの結果を見てビックリ!ドラコンは日本人選 | |||
手の257ヤード、ニア・ピンは2m98cmでした。 | |||
10月には、恒例のOBの皆様が一堂に会する湘南ゴル | |||
フコンペが迫っています。障害者の皆さんも頑張ってお | |||
られます。私たちも負けてはおれません。当日は、大い | |||
に飛ばし、限りなくピンに近づけましょう。 | |||
参加される皆様に多いに期待をいたしております。 |
2009. 9. 6 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その9) |
“発祥の地”を訪ねて!(その9) | 横浜市 小田 茂 |
16.“近代街路樹”発祥の地 | |||
JR根岸線「関内駅」北口を出て近くに由緒ある吉田 |
“近代街路樹”発祥の碑 |
||
橋を挟んで、左が「伊勢佐木町、右側が「馬車道」であ | |||
り、ここに“近代街路樹”発祥の碑が建っています。 | |||
碑文によると「〜馬車道の街路樹〜 街路樹は、近代 | |||
に入ってから人口の過密な都市の景観的魅力を向上させ | |||
る為に発達したものであり、参道並木、街道並木などい | |||
わゆる地方並木とは区別されている。 | |||
日本における街路樹は、明治以後、欧米都市の影響を | |||
発祥の地付近の街路樹 |
受け、樹種の選択、植栽手入法の改良などによって著し | ||
く進歩普及した。1867年(慶応3年)開港場横浜の馬車 | |||
道では、各々の商店が競って柳と松を連植した。 | |||
これが日本での近代的な街路樹の先駆となった。1872 | |||
年(明治5年)になって馬車道に日本最初のガス灯が点 | |||
火されるとこのこの街路樹はさらに美しく映え夜の涼を | |||
楽しむ人々で賑わった」とあります。 | |||
現在、碑の建っている周辺は、流石“近代街路樹”発 | |||
祥の地であるという面影は、残念ながら見当たりませんでした。 | |||
17.“ガス灯”発祥の地 | |||
“近代街路樹発祥の碑”前の馬車道交差点を渡り、馬車道通りを港方面に向って | |||
右側に「関内ホール」があり、建物の壁面レリーフには |
壁面レリーフ |
||
明治末期の馬車道の様子が描かれており、その前に“日 | |||
本で最初のガス灯”の説明版が設置されています。説明 | |||
文によりますと「ガス灯は、明治5年(1872年)に、高 | |||
島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通 | |||
り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス | |||
灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、 | |||
灯具は日本人職人により製造されたと言われます。・・」 | |||
と記されています。 | |||
ガス灯 |
ガス灯 |
点火されたガス灯 |
|
また、日本で初めてのガス灯10数基が大江橋から馬車道本町通りまでの間で点火さ | |||
れたようですが、“碑”なるものは見つけることができませんでした。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ 吉 田 橋 <鉄(かね)のトラス橋> | |||
JR根岸線「関内駅」北 |
史跡吉田橋関門の碑 |
現在の吉田橋(左後方関内駅) |
|
口を出て近くに由緒ある吉 | |||
田橋は、日本で2番目の鉄 | |||
(かね)の橋です。 | |||
<説明文> | |||
『安政六年(1859)六月 | |||
二日、横浜が開港となって | |||
交易場、貿易港として栄え | |||
るにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜 | |||
路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋 | |||
を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。 | |||
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋の | |||
たもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。 | |||
説明版(二本) |
説明版(鉄の橋) |
説明版(ブラントンと横浜) |
|
関門は、当初港町側に設けられましたが、文久元年(1862)2月に吉田町側に移設 | |||
されました。 | |||
関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側 | |||
を指し、その関門は明治4年(1871年)に廃止されました。 | |||
★ 伊勢佐木町 (関外) | |||
伊勢佐木町という名称は、明治7年(1874年)に制定 |
現在の伊勢佐木町 |
||
されました。町名の由来につきましては二つの説があリ | |||
まして、一つは最後に神奈川奉行の勤めを果たした依田 | |||
伊勢守と佐々木信濃守の2人の名前から取ったという説 | |||
であり、もう一つは、市街化開発に貢献した伊勢屋文蔵 | |||
と佐々木治平の2人の名前から取ったという説でありま | |||
す。 | |||
いずれにしましても、伊勢佐木町は戦後、横浜で一番 | |||
栄えていた繁華街でありました。 | |||
松屋、野沢屋等のデパート、オデオン座、松竹、日活、大映等の映画館が軒並み並 | |||
んでおり、娯楽として旅行などあまり考えられない時代であり、ハマっ子にとっては | |||
“伊勢ブラ”“ザキ”が日常生活に完全に根を下ろしていた様な気がします。私も昭 | |||
和29、30年頃の高校時代は、友人とよく封切館でない2本立て55円の映画館に“ター | |||
ザン”、“西部劇”が一番のお目当てでよく通ったものです。50数年前の話ですが! | |||
※「伊勢佐木町」を全国区にした青江三奈さんの“伊勢佐木町ブルース”! | |||
昭和43年(1968年)青江三奈が唄った“伊勢佐木町ブルース”(作詞:川内康範、 | |||
作曲:鈴木庸一)が、魅惑的な歌唱によって100万枚を売り上げる大ヒットとなり、 | |||
レコード大賞歌唱賞を受賞しました。イントロ部分の「ためいき」がひどく印象的だ | |||
ったのを皆さんも良く覚えておられると思います。 | |||
青江三奈さんの歌碑 |
平成13年(2001年)7月、伊勢佐木町四丁目(吉田橋 | ||
から見て奥の方)に歌碑が建てられ、青江三奈の一周忌 | |||
に合わせて除幕式が行われたそうです。 | |||
歌碑は、グランドピアノを象った歌碑は高さ、幅とも | |||
に2mほどの御影石で造られており歌碑の前面には青江 | |||
三奈の肖像のレリーフと、その下には作曲家鈴木庸一直 | |||
筆という「伊勢佐木町ブルース」の楽譜を刻んだパネル | |||
が埋め込まれています。 | |||
歌碑建立の費用は全国のファンからの寄付金にるものだといわれております。 | |||
★ 馬 車 道 (関内) | |||
吉田橋を挟んで伊勢佐木町の反対側が「馬車道」通りであります。この「馬車道」 | |||
という名の由来は、横浜開港以来、当時は万国橋付近に船が停泊し荷物や人々を馬車 | |||
などが吉田橋付近まで運んでいたため、その道を「馬車道通り」と呼ぶようになった | |||
そうです。 | |||
この「馬車道」通りには、今回紹介の“近代街路樹”“ガス灯”また前に紹介いた | |||
しました“アイスクリーム”の発祥の地碑があります。 | |||
※「馬車道十番館」と「牛馬飲水槽」 | |||
馬車道の信号を渡って左 |
「馬車道十番館」 |
「牛馬飲水槽」 |
|
側の一番目の路地に入った | |||
所に、老舗のレストラン | |||
「馬車道十番館」の建物が | |||
あります。 | |||
この入口の所に、当時の | |||
「牛馬飲水槽」が置かれて | |||
おります。これと同じ「牛 | |||
馬飲水槽」が馬車道通りでも見られます。「馬車道十番館」の説明版のよりますと | |||
『〜牛馬飲水槽〜 この牛馬飲水槽は大正6年、当時横浜の陸上交通の主力であ | |||
った牛馬のために、神奈川県動物愛護協会が現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたも | |||
のです。このほか中区の生糸検査所、西区高島町駅前久保山のガ−ド下としました。 | |||
また、荷馬車協会には三千頭の牛馬がいて、夏ともなればしゃれた麦わら帽子をつけ | |||
気どった足どりで荷物の運送をしました』と書かれています。 | |||
※ 国指定史跡 旧横浜正金銀行本店(現:神奈川県立歴史博物館) | |||
「馬車道十番館」から馬車道通りに戻って、300m位?の所に、旧横浜正金銀行本店 | |||
(現:神奈川県立歴史博物館)の歴史漂う、威厳ある見事な建物に出会います。 | |||
旧横浜正金銀行本店 |
国指定史跡の碑 |
現在神奈川県立歴史博物館として |
|
説明版のよりますと『横浜正金銀行は安政6年の開港以来、外国商人が主導してい | |||
た貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。 | |||
その後、政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長 | |||
し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。 | |||
この建物は、明治37年に横浜正金銀行として建設され、ドイツの近代洋風建築の影 | |||
響を受け、明治時代の貴重な建築物であることから、昭和44年3月12日には国の重要 | |||
文化財の指定を受けております・・・さらにこのたび・・・・。国の史跡に指定され | |||
ました。 平成8年3月30日 神奈川県教育委員会』と記されています。 | |||
※“日本写真の開祖”記念碑 | |||
旧横浜正金銀行本店の斜め前の通り越しに、“日本写 |
“日本写真の開祖”記念碑 |
||
真の開祖”記念碑があります。 | |||
この記念碑には「写真師・下岡蓮杖 顕彰碑」と刻み | |||
込まれています。また、碑の上部には写真機を模ったも | |||
もが置かれています。 | |||
わが国の商業写真の開祖と言われている下岡蓮杖は、 | |||
西(長崎)の上野彦馬、東の下岡蓮杖と称されわが国の | |||
写真術の草分け的な存在です。 | |||
蓮杖は下田の生まれで、文久元年(1861年)にに横浜市中区野毛町に小さな写真館 | |||
を開業し、その後、横浜弁天通りへ移転し、次いで一時期下田へ移ったそうですが、 | |||
再び横浜弁天通りに戻り、慶応3年(1867年)頃には横浜馬車道の太田町に「全楽堂」 | |||
の名称で新築店舗を構えたようです。 | |||
上野彦馬は、文久2年(1862年)に長崎で写真館を開業したそうで、その点では、 | |||
下岡蓮杖の方が1年早い開業でありますが、これが正確に判明できず、西の上野彦馬、 | |||
東の下岡蓮杖という表現の仕方になったようです。 | |||
また、蓮杖というのは号で、蓮根の杖を年中使っていたところから付けられたそう | |||
です。 |
2009. 9. 3 | 川田 | 見事に再生した“フジの花” |
見事に再生した“フジの花” | 京都府宇治市 川田 維 |
定年退職後10年間の苦労が、今年“古希の年”に実を結ぶ! | |||
小生、昭和33年4月に18才で東京計器に入社いたしま |
川田_維さん |
||
した。20才になった時、当時55歳で定年となった父親が | |||
縁あって“宇治”の地へ転居し、茶畑の一画を分けても | |||
らい、自力でコツコツと現在の実家を建てて、『お化け | |||
屋敷』と呼ばれていました。 | |||
小生が初めて里帰りしたおりに、樹齢200年といわれる | |||
平等院の『天下のフジ』を観に連れて行ってくれ、その | |||
見事さに感激しました。 | |||
早速、小さな苗を購入して庭先に植えたのですが、間もなく父が亡くなり、小生も | |||
転勤等で仕事にかまけて、40年間放置したままとなり、朽ち果てていました。 | |||
定年を機に何とか再生してやろうと、以後10年間を要して整備を続け、廃材で棚を | |||
作り、枝を少しづつ広げた結果、今春やっと花を咲かせてくれました。 | |||
我が家の藤棚(その1) |
我が家の藤棚(その2) |
我が家の藤棚(その3) |
|
『天下のフジ』にはかないませんが、通りがかりの人が足を停めて観てくれるよう | |||
になりました。(上記3枚の写真は今年4月19日撮影) | |||
植物の生命力の強さには感服の至り、小生もあやかりたく思っております・・・。 |
川田 維(マモル)さんの「返信はがき」に記載されたW近況報告”紹介 | |||
(1) 定年後はや10年、古希を迎えることが出来ました。会報を拝読して、お世話 | |||
になった先輩の方々が次々と亡くなられ寂しさが募ります・・・・。 | |||
(2) 顔だけが福原 愛ちゃん似の孫娘も小学2年生となり、小生と同じ“左手” | |||
でラケットを振り廻して遊んでおります。(隔世遺伝!?)<注:川田さんの | |||
趣味の一つに“卓球”があります> 事務局記 |
2009. 8.30 | 九州南部の山行を楽しむ(その3/E) |
九州南部の山行を楽しむ(その3/E) | 横浜市 清水 有道 |
<霧島山塊の最高峰・韓国岳に登る> | |||
当日はまた予想もしない好天に恵まれ、両腕と首筋、顔をすっかり日焼けしてしま | |||
った。前々日の一年半振りの開聞岳登山による膝関節の痛みの心配もなく予定時間で | |||
往復できた。当初計画では韓国岳から獅子戸岳(シシコダケ、1429m )、新燃岳(シ | |||
ンモエダケ、1421m )を経て中岳(ナカダケ、1345m )まで縦走し、高千穂河原の登 | |||
山口に下りることにしていたが、河原からホテルに戻る交通の便がなく、タクシーを | |||
呼べば4,000円も弾まねばならないことが分り、すんなり往復することとした。六合 | |||
目から上はミヤマキリシマの群落がそれは見事に花の盛りであった。 | |||
天然記念物 ミヤマキリシマの花 |
頂上から眺める縦走路は圧巻だった。直ぐ隣の獅子戸 | ||
岳の噴火口は御椀のように頂上に口を開け、その向う裏 | |||
側の新燃岳は陰に隠れて姿は見えぬが、噴火煙が立ち昇 | |||
っているのが見られ、一番奥の高千穂峰には霧か流れ雲 | |||
か分らぬが、左側から強く山全体に吹き流されて、綺麗 | |||
な富士山様の雄姿が見え隠れしていた。楽しみにしてい | |||
た九州の最高峰、屋久島の宮之浦岳も開聞岳も見ること | |||
は出来なかった。頂上に向かって登山中左手雲海の奥に | |||
先の尖った高峰が突き出て見えていた。何人かの人に聞いてみたがしっかりした返事 | |||
は返ってこなかった。 (注)獅子戸岳( 1429m )・高千穂峰( 1574.0m ) | |||
日曜日のせいか家族、夫 |
韓国岳山頂(1700.1m)にて |
韓国岳山頂から大きな噴火口の獅子戸岳と高千穂峰 |
|
婦の登山者が多く、東京近 | |||
郊の山と違って、若いカッ | |||
プルや女性の団体登山客も | |||
多く、皆その割りに服装が | |||
すっかり登山家風で、登山 | |||
がリクリエーションやアス | |||
レチックの試みの中で、大 | |||
きなウエイトを占めているらしく、純粋な人が多く、平素都会派の人間しか観察して | |||
いない筆者としては、こんなところにも地方のいい意味での精神的な強みを支える基 | |||
盤を感じ、格差ばかりを議論するのではなく、地味な生活を支える活動を評価するこ | |||
とを是非とも考えなければと思った。六合目より山麓までの樹林帯ではクマゼミの鳴 | |||
き声とは違うけたたましいコーラスを奏でている蝉がたくさんいるようであった。姿 | |||
が見えないので断定は出来ないが、ハルゼミの仲間で多分この地方に多いヒメハルゼ | |||
ミだろうと思った。昼過ぎから夕方まで間欠的に鳴くが、ピークは午後4時ごろと言 | |||
われる。合唱性があるのがこの蝉の特徴で、音頭取りが鳴き始めると周辺の仲間が一 | |||
斉に唱和するので、樹林がすさまじい大合唱に包まれる。筆者も初めての経験だった。 | |||
筆者の記憶が正しければ、この蝉は昆虫学者松村博士が1917年に千葉県で見付けられ、 | |||
ラテン語の学名に千葉で見付けられたことを示す“chibensis”が取り入れられてい | |||
て、発生地が限定されている各地で国の天然記念物に指定されている筈である。発生 | |||
地が限定されているのはこの蝉の食する樹木がシイ(椎)とカシ(樫)だけに偏って | |||
いるためであるとされている。登りの日が昇ってから暫くは殆んど聞けない鳴き声が、 | |||
下山時にはコーラスの雨であったから驚いた。 | |||
韓国岳は山としては面白い山である。周囲の眺めも変化があり、山自身が会津の磐 | |||
梯山のように大噴火で山頂が飛び、大きな陥没が出来て、見るところによっては典型 | |||
的な双耳峰に見える。森林限界があり、その上部には天然記念物のミヤマキリシマの | |||
大浪池と今が盛りのミヤマキリシマの花 |
天然記念物のシロドウダンツツジの花 |
群落があり、見応えがある。 | |
その他にもいろいろな花が | |||
楽しめる。 | |||
特記すべきは二合目か三合 | |||
目付近で少し登山道から外 | |||
れて横の樹林に入り込んだ | |||
ときに、幸運にも天然記念 | |||
物のシロドウダンツツジに | |||
出会えたことだ。 | |||
韓国岳には取り巻く山々に旧噴火口に水の溜まった湖や沼が多く、周囲を取り巻く | |||
断崖に溜まった水の色が少しずつ違って見える角度により微妙な自然のモザイクを見 | |||
る思いである。絶壁に取り囲まれているために人は近付けず、硫化物が多く混ざって | |||
いるために酸性が強く、特有のコバルトの濃く澄んだ色をしている。北欧の湖沼のよ | |||
うに魚は全く棲んでいない。 | |||
屋久・霧島国立公園の中なので、動植物はもとより昆虫採集も出来ないので趣味の | |||
蝶採集の網も勿論持っては行かなかったが、たくさんの珍しい蝶を見掛けた。 | |||
南方系の蝶のオンパレードだった。ホテルの近くで野生の日本鹿を見掛けた他には動 | |||
物にも蛇にも出会わなかった。 |
=今回の山行の試みとして、韓国で読んだ花を織り込んだ下手糞な句を2首= | |||
韓国(カラクニ)をミヤマキリシマ飾り立て | |||
韓国(カラクニ)でコガクウツギとまた見(マミ)え |
=コース・タイム= | |||
ホテル(1180m)7:40…韓国岳登山口7:45…殺生河原8:10…一合目8:15…二合目 | |||
8:20…8:30三合目8:35…四合目8:50…9:05五合目9:15…六合目9:30…9:40 | |||
八合目9:45…10:00韓国岳頂上(1700m)10:30…八合目10:40…五合目11:10… | |||
二合目11:50…11:55一合目…地獄分岐…12:10県道1号道路沿いの見晴らしの良い | |||
ところ昼食)12:40…12:40 ホテル |
<湖沼めぐりと白鳥山と甑(コシキ)岳ハイキング> | |||
梅雨の最中の山行だったので、予め予備日を一日取っていたが、一日も雨に遭わず、 | |||
予定の山登りは済ませ、その日も好天に恵まれたので、えびの高原の湖水巡りのコー | |||
スに独立峰の白鳥山(シラトリヤマ、1363.1m)と甑(コシキダケ、1301.4m)の登山 | |||
を加えて一日のハイキングを楽しんだ。 | |||
朝早くホテルを出たためと月曜日ということもあって、ハイキングコースには誰も | |||
先客はなく、一人でゆっくり白鳥山までの道を楽しんだ。山道の両側には開聞岳で見 | |||
たコガクウツギがたくさん見られたし、他のウツギもあった。360度眺望ができる白 | |||
鳥山山頂にはテレビの送受信用の大きなアンテナが設置されていた。白鳥山からは前 | |||
日韓国岳からは見られなかった開聞岳が真西の方角に手前の栗野岳(1097.7m)の左 | |||
奥に独得の三角形で眺められた。薩摩富士と呼ばれる割には遠景では相当に縦長の三 | |||
角錐として見える。 | |||
湖水巡りの道に多いコガクウツギの花 |
白鳥山山頂(1363.1m)から見る開聞岳(924m) |
白鳥山から見る甑岳(1301.4m)と白紫池 |
|
白鳥山の真下に見えるのは百紫池(1272m)。もう少し進むと六観音堂とそこに参 | |||
拝するために大昔に人々が植え込んだと言われる杉の古木が日光の杉並木のように何 | |||
本か繋がっているところが現れる。そこからの六観音堂御池(1196m)も美しい。 | |||
白鳥山中腹からの六観音御池 |
六観音御池と韓国岳 |
ここの池に張り出した展 | |
望所で同年輩と見受けられ | |||
た一組の男女に出会った。 | |||
後から考えて見ると非常に | |||
不思議な出会いなのだが、 | |||
その日は結局甑岳の登山も、 | |||
頂上での昼食をも一緒にす | |||
ることになったし、名花オ | |||
オヤマレンゲもこの女性が自生の場所を知っていて案内してもらったお蔭で見るチャ | |||
ンスが得られた。筆者のホテル近くの駐車場で別かれるまで、行動を共にすることに | |||
なった。この男性は68歳で鹿児島市から見えた方で、女性は奥さんではなく、学生時 | |||
代の友人だとか。朝一緒に鹿児島市から自分の車で高速道路を約40分のドライブで来 | |||
たとのことで、白鳥山には登らず白紫池から池巡りのコースだけを歩いてきて出会っ | |||
たらしい。例によってお互いに何処から来たかを挨拶しているとき、筆者が横浜から | |||
と名乗ったら、横浜の何処だとかいろいろ尋ねて、彼は鹿児島の生まれで、兄弟が多 | |||
かった(8人兄弟の一番下)ので、定時制高校を卒業して京浜急行に定年まで勤めた | |||
と言い、在職中は金沢文庫に住んでいた由。奥さんには先立たれ、男女一人ずつの子 | |||
供は独立して横浜に住んでいる。娘さんは横浜市大病院の看護士だったが、日本製鋼 | |||
所から頼まれて従業員の災害予防関係施設の仕事をしているとか。女性は会社勤めの | |||
時には山岳部にいて方々に行ったとか。大変な健脚だった。しょっちゅう歩いている | |||
らしく、道を良く知っていた。 | |||
甑岳山頂(1301.4m)にて |
甑(コシキ)岳はしっかりした山で、最後の詰めは厳 | ||
しく、簡単ではなかった。山頂からの眺めは素晴らしく、 | |||
折りしも激しく噴煙を噴き上げた桜島が、もくもくと上 | |||
に向かって昇ってゆく真っ黒の噴煙と共に眺められたこ | |||
とは決定的な瞬間として、九州を訪ねたことを印象付け | |||
たメモリーとして頭に刻み付けられた。甑岳の山道から | |||
県道1号の車道に出て直ぐ硫黄山の下に当たるところで、 | |||
確かこの辺だからと女性がどんどん樹林の中に分け入り、 | |||
姿を消した。と思ったら、見付けたと大声で呼ぶ。慌てて靴跡を頼りに声のする方に | |||
向かうと、ほのかに甘い芳香が漂ってくるではないか。何の変哲のない木だが、咲い | |||
ている花や蕾は思ったよりも大きく、立派である。これぞモクレン科の名花オオヤマ | |||
レンゲ(大山蓮華)である。5,6株はあったろうか。この花の特徴は下を向いて咲 | |||
くことだ。名前の由来は大群落が見付かった大山というところから取られ、蓮華は花 | |||
の形がハス(蓮)に似ていることからと言われる。 | |||
時期の名花・オオヤマレンゲの花 |
|||
=ここで花を織り込んだ迷句(?)を二首= | |||
えびのはらオオヤマレンゲの尋ね人 | |||
霧島路オオヤマレンゲにめぐり会え | |||
=コース・タイム= | |||
ホテル7:40…8:15二湖パノラマ展望台8:20…8:30 | |||
白鳥山分岐…8:40白鳥山(1363.1m)8:50…9:05 | |||
白鳥山北展望台9:15…9:20白鳥山分岐…9:25白紫池(1272m)9:30…9:45 | |||
六観音堂、六観音御池、巨大杉10:05…甑岳分岐10:15…11:15甑岳(1301.4m) | |||
(昼食)12:30…13:03車道に出る…13:15硫黄山付近の樹林でオオヤマレンゲを見 | |||
る13:20…不動池13:30… | |||
駐車場で鹿児島市在の人と横浜での再会を約して別れる 13:45…13:55ホテル | |||
(完) |
2009. 8.26 | 砂田 | 最初に剱岳に登ったのは誰か? |
最初に剱岳に登ったのは誰か? | 相模原市 砂田定夫 |
〜映画「劔岳 点の記」に寄せて〜 | |||
この夏、山に関する話題が二つあった。一つは記憶に新しいと思うが、7月16日に | |||
発生した北海道大雪山系で10人の死亡者を出した遭難事故。そのうち9人はトムラウ | |||
シ山の遭難で、旅行会社主催の応募登山であり、ツアー登山の問題、ガイドのあり方、 | |||
中高年登山者の心構えなど、多くの教訓を残した。 | |||
もう一つは6月20日から上映されている映画「劔岳 点の記」の話題である。観客 | |||
の入りは好調のようであり、筆者も7月初めに丸の内で観てきた。新田次郎原作の山 | |||
岳映画で、監督は木村大作。明治の時代、日本の地図を完成させるという使命のため、 | |||
当時空白となっていた前人未到(踏)の剱岳山頂に三角点標識を設置しようと、命を | |||
賭けて苦闘する男たちを描いた作品。「点の記」とは、三角点設定の記録で、三角点 | |||
の戸籍に当たるもの、現在は国土交通省国土地理院に保管されている。山に関心があ | |||
るなしに拘わらず、多くの方にこの映画の観覧をお薦めする。スクリーンいっぱいに | |||
映る自然の美しさと迫力だけでも一見の価値があると思 |
@剱岳の全容(剣沢小屋より) |
||
う。すべて現地ロケであり、近頃の映画に多用されるC | |||
Gを一切使わない本物である。立山町に在住する知人か | |||
ら聞いた話だが、エキストラもすべて現地の登山家や登 | |||
山愛好者に限定したという。先日北八ヶ岳の山小屋で実 | |||
際にロケのガイドを務めた人に会ったが、転落シーンな | |||
ども人形を使わずに人が演じたと話していた。木村監督 | |||
が徹底して3ゲン主義(現場・現物・現実)にこだわっ | |||
たと言えるだろう。 | |||
実在した主な登場人物は以下の通り(カッコ内は俳優)。主人公が測量士(官)・ | |||
柴崎芳太郎(浅野忠信)と案内人・宇治長次郎(香川照之)、それに測夫・生田信 | |||
(松田龍平)、日本山岳会・小島烏水(仲村トオル)、元測量士・古田盛作(役所広 | |||
司)などで、実名で登場する。柴崎測量官は、陸軍参謀本部陸地測量部に属するいわ | |||
ゆる文官であるが、「国家のため、死を賭しても目的を達せねばならぬ」という強い | |||
使命感を持っていたと伝えられる。 | |||
映画の印象としては、山の厳しさが強調され過ぎて、風雨・吹雪・雪崩・滑落など | |||
が次々に映し出されるので、山での体験とオーバーラップして体に力が入ってしまっ | |||
た。登山の専門的な目から見ると、比較的最近のザックの型やガソリンコンロなどが | |||
登場したりして気になったが、映画の評価に影響するものではないだろう。また、主 | |||
人公のライバルとして登場する日本山岳会の小島烏水と岡野金次郎は、実際には剱岳 | |||
に関与していないし、彼らを対抗させることでストーリーをドラマティックに描こう | |||
とした原作者の意図による創作である。因みに小島烏水と岡野金次郎は、近代登山と | |||
して日本人で初めて槍ヶ岳に登ったコンビである。また、実際に日本山岳会で剱岳に | |||
最初に登ったのは吉田孫四郎一行で、柴崎測量官らが登山した2年後であった。 | |||
A剱岳と長次郎雪渓(八ツ峰より) |
この映画で重要な役割を果すもう一人の主役は、案内 | ||
人の宇治長次郎である。実際の長次郎は岩場、雪渓、藪 | |||
などでの身のこなしと勘がよく、寡黙で温厚、謙虚な人 | |||
だったという。昨年、立山山麓で見た銅像から受ける印 | |||
象は実に柔和な表情だった。彼を案内人とした登山家が | |||
長次郎の印象について言っていることは、普段は黙って | |||
ゆっくり歩いているが、いよいよ難場(通過が難しい場 | |||
所)へ来るといつの間にか先頭に立って、わけのわから | |||
ない歌を口ずさみながらその能力を発揮し、リードしたという。当時剱岳はその厳し | |||
さから地獄の「針の山」とされ、宗教上の理由で登ってはならない山であった。長次 | |||
郎は敬虔な仏教徒であり、柴崎隊が初めて登ったとき、彼は辞退して登らなかったの | |||
では、という説もある。また、最初に登ったのは柴崎測量官ではなくて、測夫の生田 | |||
信と人夫であり、2回目の測量登山のときに柴崎測量官が登ったとも謂われている。 | |||
2年後の吉田孫四郎一行のときは、長次郎が案内人として同行している。 | |||
最もミステリアスなことは、柴崎測量官一行が登頂したとき、それまで人跡未踏と | |||
信じられてきた剱岳の頂上に銅の錫丈頭と鉄剣を見つけたことである。しかも、それ | |||
らは奈良末期から平安初期のものと鑑定された。さらに近くには岩窟や焚火の跡も発 | |||
見されたという。少なくとも1000年も昔に登ったのは一体誰だったのか。諸説あるが、 | |||
僧侶・修験者・行者などの誰かが宗教的な目的で登ったと考えるのが順当な推理であ | |||
ろう。弘法大師空海が草鞋千足を費やしても登れなかったという伝説さえあるこの峻 | |||
険な山に、何者かが決死の覚悟と強い意志で登ったことは事実であり、正に驚きであ | |||
る。 |
B岩場の懸垂下降(八ツ峰にて) |
||
さて、三角点そのものはつい5年前まで剱岳にはなか | |||
った。2004年8月、初めて三等三角点が設置され、剱岳 | |||
の「点の記」が初めて作成された。すると、柴崎測量官 | |||
たちの登頂はどのように記録されたのかといえば、「選 | |||
定・明治40年7月13日、選定者・柴崎芳太郎」と記され | |||
たという。今年9月、筆者は6年ぶりに剱岳に登る予定 | |||
であり、新しい三角点に触れるのが楽しみである。 | |||
最後に、剱岳の標高について言及しておこう。筆者が初めて剱岳に登ったのは1960 | |||
(昭和35)年で、柴崎測量官一行と同じ長次郎谷からのルートだった。この頃の剱岳 | |||
の標高は 3003m とされていた。何度か測量し直される度に、2998m、2999m と変更さ | |||
れているが、3000m を超えることはなかった。私は山の標高にこだわる方ではないが、 | |||
剱岳が素晴らしい山だけに、3000m 超級であってほしかったというのが本音、しかし | |||
こればかりは如何ともしがたいことである。 |
<備考>山名表記として「剣岳」「剱岳」「劔岳」「劒岳」などあるが、本文は最新 | |||
の国土地理院の表示にあわせて「剱岳」を用いた。なお、映画は原作に合せて「劔岳」 | |||
になっている。 |
2009.08.16 | 清水 | 九州南部の山行を楽しむ(その2) |
九州南部の山行を楽しむ(その2) | 横浜市 清水 有道 |
<えびの高原への移動の途中霧島神宮に参拝> | |||
えびの高原の麓は神話の故郷(フルサト)と言うか誕生の地である。その本拠とな | |||
るところが霧島神宮である。天粗天照皇大神(アマテラススメオオミカミ)の直系の | |||
孫に当たる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、正式には天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵 | |||
尊(アメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコト)を御祭神にいただ | |||
くお社(ヤシロ)である。瓊瓊杵尊は天照大神の御神勅と皇位(コウイ)の御璽(ミ | |||
シルシ)である三種の神器(シンキ)を持って高千穂峰に天降(アマクダ)り皇基 | |||
(コウキ)を建てられたと伝えられ、高千穂峰の近く、現在の高千穂河原に最初の社 | |||
殿は建てられたが、度々の噴火による火災で炎上を繰り返し、五百年前に現在の社地 | |||
へ鎮座されたと言われている。その後明治7年に現在の霧島神宮と社名が改定され、 | |||
今日に至っている。 | |||
例え神話の伝えごととは言え、天皇家直系の最古の敬虔な社であれば、どうしても | |||
一度は参拝したいと思い、えびの高原に登ってしまう前に立ち寄った。開聞岳登山の | |||
ために泊った指宿からJR指宿枕崎線の始発駅鹿児島中央駅(つい最近まで西鹿児島 | |||
駅と呼ばれていた)に出て乗り換え、日豊本線の霧島神宮駅まで約1時間余りの時間 | |||
を特急「きりしま6号」という3両編成の列車に乗った。車体全体が真っ赤に塗られ、 | |||
先頭車両の正面には大きな文字で“RED EXPRESS”と描かれ、火の国九州 | |||
の足を象徴しているのであろう。強烈に迫ってくる迫力を感じた。駅から神宮までは | |||
車で10分くらいの距離であるのに、バスの便は2時間に1本しかなく、当節バスに乗 | |||
る人が殆んどいないのだとつくづく感じた次第。止む無く1,900円もの大枚を払って | |||
タクシーを使ったが、駅に戻るには時間を調整してバスを利用した。バス代はたった | |||
の240円であった。 | |||
神宮の敷地は広く、鳥居も幾つも潜り、海抜500mの展望台から晴天ならば錦江湾か | |||
ら桜島、開聞岳の雄大な眺望が得られると言うのに、一面の濃い霧か靄の中では遠方 | |||
の眺めは全くなかった。今回は時間の都合で登れなかったが、高千穂峰(1574m)の | |||
頂上には神代の旧物(筆者注:由来がはっきりしないが、古くからそこにあるものと | |||
いう意味)「天の逆鉾(アマノサカホコ)」がある。この逆鉾が相撲の井筒親方、現 | |||
霧島神宮社殿全景 |
役名「逆鉾」の由来である。因みに同親方は鹿児島県の | ||
出身である。 | |||
神宮には古くから九つの面が奉納されており、これを | |||
「九面(クメン)」と称している。何事にも工面が付く | |||
と言われ、縁起物として信仰の守りとされている。筆者 | |||
も小型の一面を求め、携帯電話のストラップとして持ち | |||
歩くことにした。 | |||
<えびの高原はいいところ> | |||
えびの高原も訪ねるのは今回が初めてである。何年か前に「えびの高原」の名前の | |||
由来を観光パンフレットか旅行案内書で読んだ覚えがあるが、確か秋の草もみじのと | |||
き、高原の地肌色が恰も海老を茹でたときの赤い色が敷き詰められたように見えるか | |||
らだと説明されていたように思う。標高 1200m くらいあるのだから立派に高原であ | |||
る。宿には以前「国民宿舎高原荘」と呼ばれていた宿泊施設が古くなり、払い下げら | |||
れて現在の「えびの高原温泉ホテル」として運営されているところを選んだ。と言う | |||
のも、えびの高原のバス停や韓国岳(カラクニダケ)の登山口に近いところには、唯 | |||
一このホテルだけが温泉で、他は民宿のような施設しか見当たらなかったからである。 | |||
暫く前までは他に2軒の温泉があったが、湯量が枯れて来て十分に湯が回らず、これ | |||
ら2軒は廃業してしまった由である。シーズンともなれば予約がいっぱいでなかなか | |||
泊まれないらしいが、筆者は今回シーズンオフのため、割安でオール込み1泊2食で | |||
11,950円というリーズナブルな料金で8畳間に一人悠然と泊まることが出来、3泊も | |||
したため毎日ダブルことのない料理を吟味して出してくれた。なかなか温かみのある | |||
ホテルであり、従業員の接客態度が非常に気持ちが良かった。前述の花コガクウツギ | |||
を調べてくれたのもホテル売店の主任女性の親切であった。 | |||
宿のレストランからは正面に噴火で頂上が飛ばされて、大きく口を開けた霧島山塊 | |||
の最高峰、韓国岳(1700m)が眺められ、福島の裏磐梯から眺める磐梯山と非常に似 | |||
た景観を見せている。山頂近くの斜面が心持ち赤く帯のように見える気がするのが多 | |||
分斜面に這松のように這って群れて咲く天然記念物のミヤマキリシマの群落であろう | |||
か。多分前に花のことを調べていたときに、ある本の記述にあったようにうろ覚えで | |||
あるが、ミヤマキリシマツツジは活火山の硫化ガスのあるところでなければ育たない | |||
とか。生育地が九州の南部火山地域に限定されている所以であろうか。 | |||
<霧島山塊> | |||
霧島山塊はちょうど鹿児島県、熊本県と宮崎県の県境に位置し、西側と南側の鹿児 | |||
島県側は霧島市に属し、えびの高原は最近の市町村合併で宮崎県えびの市の中に入る | |||
ことになった。宮崎県では右隣の小林市と幾つかの町村を入れて北霧島地域という呼 | |||
び方をし、統一した観光協会の下に事業を展開している。 | |||
(その2)終わり |
2009. 8.12 | 須貝 | 佐野市に残る芭蕉の句碑 |
佐野市に残る芭蕉の句碑 佐野市 須貝 義弘 |
須貝義弘さん(2008年総会参加時) |
現在、私は佐野の観光ボランティア養成講座を受講し | ||
ていますので、まずは、そのなかから、佐野に、9ヶ所 | |||
ある芭蕉の句碑をご紹介します。 | |||
その前に、現在の佐野市と芭蕉についても勉強しまし | |||
たので、頭の中にイン・プットしてください。 | |||
現在の佐野市は、平成17年(2005年)、旧佐野市、田 | |||
沼町、葛生町が合併し、人口は約12万人になりました。 | |||
東京計器が佐野に進出した昭和43年(1968年)は人口約 | |||
7万でしたので、人口も土地も大きくなりました。 | |||
芭蕉については全く無知でしたので、ここに記すのは、講座で学んだことが全てで | |||
す。皆様方のほうが、詳しいと思いますが、私の学んだことは、以下の略歴。 | |||
松尾芭蕉は、正保元年(1644年)、伊賀の国(現・三 |
A旅を友とする芭蕉 |
||
重県)の生まれ、名を宗房、江戸時代前期の俳人。最初 | |||
は、武家奉公で、身を立てるつもりが、君主の急死によ | |||
り仕官の夢は破れ、俳諧師として生計を立てる道を歩む。 | |||
俳号は、はじめ宗房、江戸に下って、桃青と号する。京 | |||
都で北村季吟に学ぶ。江戸に出て、宗匠(俳諧の師匠) | |||
となり、延宝8年(1680年)、深川に芭蕉庵を作る。 | |||
旅を友とすることで、芸術性の高い俳諧を確立。元禄 | |||
7年(1694年)、旅先の大坂で病死。 | |||
そこで、佐野市内を芭蕉の句碑を求めて歩いてみました。9ヶ所ありました。 | |||
1.金屋下町・県立佐野女子高・市指定史跡『ほととぎす 鳴くや五尺の あやめ草』 | |||
B県立佐野女子高 |
C句碑の由来を書いてある案内板 |
『ほととぎす鳴くや五尺のあやめ草』 |
|
宝暦6年(1756年)に蕉門派の俳人たちにより建てられたとされる。碑は最初は相 | |||
生町の金成院の門前のあやめ池のほとりに建てられた。その後、数回の移動を経て、 | |||
昭和39年(1964年)、に現在地に移った。芭蕉の句碑にしては最古のものといわれる。 | |||
元禄5年(1692年)、芭蕉49才の時の句とされる。 | |||
2.大町・妙音寺(日蓮宗の寺)『静さや 岩にしみ入る 蝉のこ恵』 | |||
I妙音寺山門 |
J妙音寺庫裏横の句碑 |
L『静さや岩にしみ入る蝉のこ恵』 |
|
元禄2年(1689年)、山形、立石寺にて、芭蕉46歳のときの句とある。有名な句で | |||
あるがどうして蝉のこ恵なのか、私には理解できなかった。観光案内のときに、聞か | |||
れたらどうしよう。誰か、お教え願いたい。 | |||
3.富士町・唐沢山神社『城跡や 古井の清水 まづ問はむ』 | |||
N大炊の井 |
R唐沢山参道 |
P『城跡や古井の清水まづ問はむ』 |
|
元禄元年(1988年)、岐阜にて、芭蕉45才のときの句とされる。安政3年(1864年) | |||
建立で、大炊の井の畔にある。もう一つ唐沢神社にあった。 | |||
4.富士町・唐沢山神社『初桜 折しも今日は よき日なり』 | |||
Q唐沢山山門 |
S参道 |
22『初桜折しも今日はよき日なり』 |
|
元禄元年(1688年)の句とされる。元治元年(1864年)の建立で、場所は大炊の井 | |||
を少し登った参道の左側岩の上にあった。 | |||
5.富士町・泉応院『撞く鐘も 響くようなり 蝉の声』 | |||
23泉応院参道 |
24泉応院山門 |
25『撞く鐘も響くようなり蝉の声』 |
|
元禄元年(1788年)、稲葉山にて、芭蕉45歳の時の句とされる。なんとはなく私に | |||
も理解できたが、次の句は、私には理解できないでいる。 | |||
6.大栗町・関東五社稲荷神社『松すきを ほめてやかせの 薫る音』 | |||
28関東五社稲荷神社鳥居 |
27関東五社稲荷神社参道 |
30『松すきをほめてやかせの薫る音』 |
|
元禄7年(1694年)、芭蕉51歳の時、京都小倉山常寂光寺で読んだ句とされる。 | |||
7.石塚町・吉祥院『冠佛や 皺手合する 数珠の音』 | |||
31吉祥院全景 |
32吉祥院本堂 |
34『灌佛や皺手合する数珠の音』 |
|
「灌佛」を広辞苑でひくと、釈迦如来の降誕当日の4月8日に、その像に甘茶をそ | |||
そぎかける仏事とある。元禄7年(1694年)、芭蕉51歳の時の句とされる。本堂屋根 | |||
改修記念で大正2年(1913年)10月2日に建てられた。 | |||
8.出流原・弁天池畔『此のあたり 目に見ゆるもの 皆涼し』 | |||
35弁天池畔 |
39弁天池 |
39『此のあたり目に見ゆるもの皆涼し』 |
|
美濃国・長良川に臨む亭に命名した十八楼の記の名文を詠んだ句で、元禄元年 | |||
(1688年)、芭蕉45歳の時の句とされる。寛政5年(1793年)の中秋、土地の俳人に | |||
よって建立された。 | |||
9.戸奈良町・種徳院『鐘つかぬ さとハ何かを 春の暮』 | |||
41種徳院山門 |
42種徳院本堂 |
44『鐘つかぬさとハ何かを春の暮』 |
|
Aの「蝉のこ恵」や「さとハ何かを」は何を意味するのか私には、わかりかねます | |||
が、今後更に勉強して、理解していくつもりです。 | |||
何せ、佐野が観光スポットとしてPRしていくので、我ら、ボランティアもしっか | |||
りしなければならない昨今です。しかも、句碑と建てられた場所は、直接関係があり | |||
ません。 | |||
今回の、添付写真は、佐野市役所観光課から提供していただきました。 |
2009. 8. 5 | 清水 | 九州南部の山行を楽しむ(その1) |
九州南部の山行を楽しむ(その1) |
開聞岳、韓国岳ほかを登る | 横浜市 清水 有道 |
<今頃出掛けた理由> | |||
旅で雨天に出会ったことが殆んどない筆者が、さらに自慢したい5泊6日の山行を | |||
入梅直後の南九州で一滴の雨にも遭わず実現することが出来た。最初から、自分から | |||
望んで作った計画ではなかったが、折角貯めたJALのマイルが4000マイルほど近々消 | |||
滅すると聞かされては勿体無くて、シーズン・オフにどちらかと言えば嫌々特典航空 | |||
券に換えて実行することになった旅行だった。でも、終わって見れば全てのことに運 | |||
良くツキがあり、天然記念物ミヤマキリシマの今春最後のチャンスに間に合い、同じ | |||
く地域の名花オオヤマレンゲやシロドウダンツツジにも出会え、紫陽花に似た白い4 | |||
枚花弁の花の集まりが群れて咲くコガクウツギに辛い山の登りを癒されるなど、いず | |||
れも筆者には初めてのことで、大変に嬉しく、旅の大きな思い出になった。 | |||
注:今回投稿いただいた原稿は、3回に分けて掲載いたします。(HP編集部) | |||
<開聞岳(924m)に初めて登る> | |||
開聞岳には指宿(イブスキ)の民宿に泊り、タクシーで二合目の登山口を往復する | |||
ことで登った。深田久弥が1000m以下の標高の山で100名山に入れたのは、この開聞岳 | |||
と筑波山の2座である。筆者も正直なところ、この開聞岳を少々小馬鹿にして掛かっ | |||
ていたが、なんと相違して、相当に苦しい山であった。1000mに満たないとは言え、 | |||
海抜の殆んど全部を登ることになり、しかも螺旋状に巻いて一本道を登るため、直線 | |||
距離にすれば、相当の道程となる筈である。確か水泳の故木原美智子が当地を訪れた | |||
ときに、往復1時間半もあればと大見得を切って大変難渋したと言う話が当地では語 | |||
り草として伝えられているとか。 | |||
開聞岳山頂(924m) |
階段と大きな岩石の中の道で、決して登り易い道では | ||
ない。おまけに頂上まで樹林の中を行き、眺望が殆んど | |||
望めなく、変化に乏しい山道である。加えて、登った当 | |||
日は前日までの雨の後とあって非常に蒸し暑く、風はそ | |||
よとも吹かず、山の中腹から上はすっぽりガスの中で、 | |||
頂上からも何も見えず、展望を全く楽しむことなく登っ | |||
た。 | |||
ただ本当に登ったという証拠を作るためのものだった | |||
と言っても過言ではない。しかも、当日が金曜日だったため登山者も少なく、地元の | |||
人が7,8名と鹿児島大学の漕艇部とトライアスロン部OBの合同登山とか説明を受 | |||
けた熟年者の6,7名が狭い頂上の風の当たるところを占拠していてゆっくり座る場 | |||
所も見当たらない。その場所は瞬間霧が晴れれば眺望があるのであろう。今は登山口 | |||
が一つだけになり、同じ道を戻るしかなく、登りに追い抜かれた人にもう一度顔を合 | |||
わせることになり、お互いに良く分る。一組カナダの初 |
コガクウツギの花と9合目の標識 |
||
老の夫婦が筆者を抜いて登って行った。夫人は何とスカ | |||
ート姿であった。何でも大学に通っている息子がラグビ | |||
ーの交歓試合で日本に来ているので、その試合を見て序 | |||
に日本各地を観光するのだとか。その日は福岡まで汽車 | |||
で出るのでと大急ぎで下山して行った。基本的なスタミ | |||
ナの違いを感じて少々自分が情けなく感じたことだった。 | |||
さほど面白味のない登山道で唯一筆者を慰めてくれた | |||
のは、紫陽花に似た白い4枚花弁の花がいっぱい集まって咲いていたコガクウツギ | |||
(ユキノシタ科アジサイ属)で、もちろん筆者には初めての花であった。 | |||
この山で少々興味を持ったことは、頂上一面にぜんまいの長(タ)けた葉が茂って | |||
いたり、地表を這うように広がっている通称「血止め草」がびっしりと生えていたり | |||
で、1000m 近い標高があるとはとても思えなかった。また、登山道の両側に3〜5m | |||
くらいのひょろひょろっとした細い幹の木がたくさんあり、何かと思ってしっかり見 | |||
れば、野生の「やつで」だった。 | |||
思い返せばこの山行は、昨年3月に同じ九州で由布岳、久住山、阿蘇山に登って以 | |||
来の約1年半振りの山行であったので当然のこと、苦しみを感じるのは不思議でも何 | |||
でもないと納得した。苦しみの中で生まれた拙句二首。 | |||
“開聞の コガクウツギに 足軽く” | |||
“梅雨空に コガクウツギを 愛でる山” | |||
蛇足になるが、ガイドブックによっては開聞岳の標高が922mとなっている。 | |||
この表示は古く、最近の計測で924mというのが正しい高さである。 | |||
*コース・タイム* | |||
二合目登山口8:40…五合目(あと頂上まで2.0km)10:00…仙人洞11:23 | |||
…八合目(あと0.3km)11:45…13:00開聞岳山頂(924m、昼食)13:30…八合目 | |||
14:05…仙人洞14:25…五合目15:15…16:05二合目登山口 | |||
<指宿今昔> | |||
筆者には指宿は殊の外思い出多き場所である。この指宿の地は40年前新婚旅行で屋 | |||
久島に赴いた帰路に立ち寄ったところである。確か開聞岳の中腹、現在では近くまで | |||
ゴルフコースになっているようであるが、新婚旅行の記念に美老樹(?)とか呼ばれ | |||
ていた亜熱帯の樹木を植林した。しかし、当時に比べて今回民宿の窓から眺める街頭 | |||
の景色に大きな違いがあった。街路樹にジャカランタの木と赤紫の花、民家の垣根に | |||
西洋朝顔、ブーゲンビリアそしてハイビスカスとたくさんの熱帯植物に取り囲まれて | |||
いるではないか。日本古来の植物が取って代わられてしまっている。まるで恰もフィ | |||
リピンかインドネシアにでもいるような気分にさせられた。どうしてこんなことにな | |||
ってしまったのであろうか。温暖化現象に乗って、栽培に容易な植物がはびこった結 | |||
果なのであろうか。筆者の目にも心にもその景観を見ての喜びは正直なかった。 | |||
今回は、指宿では与謝野 寛・晶子夫妻の歌がやたらに目に付いた。しつこいくら | |||
いだった。宿の民宿でも朝夕の紙のテーブル・マットにプリンターから印刷した二人 | |||
の和歌が刷られていた。プリントして直ぐに使っているものと見え、上に水気をこぼ | |||
すと跡形もなく歌は消えてしまう。全くお粗末であった。その歌は、朝食時が寛の歌 | |||
で、「砂風呂に潮さしくれば かりそめの 葭簀の屋根も 青海に立つ=霧島の歌 | |||
与謝野 寛」とあり、夕食時には晶子の歌で「しら波の下に 熱沙の隠さるる不思 | |||
議に逢へり 指宿に来て」=浜砂風呂にて 与謝野 晶子」であった。 | |||
それにしても、酒の肴として特別に注文したキビナゴの刺身の美味しかったことは | |||
どうしても一言触れて置きたい。下ろした生姜と搾ったレモンで和(ア)えた味噌で | |||
食べるのだが本当にいい味だった。余りの美味しさに二晩続けて頼んだものだ。きら | |||
きら、ピカピカ光る青く透き通った肌が並んでいるのは見るからに新鮮しそうで食欲 | |||
を誘った。一緒に飲んだ地元の焼酎の捗(ハカ)がいったのは言わずもがなである。 | |||
一皿たくさんに盛って貰って、たったの600円というお値段。それでもすっかり贅沢 | |||
をしたように思うのだから、つくづく旅の醍醐味だと、この旅行中、毎日夕食時にな | |||
ると思い出したものだった。 | |||
開聞岳、韓国岳ほかを登る(その1)終 |
2009. 7.29 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その8) |
“発祥の地”を訪ねて!(その8) | 横浜市 小田 茂 |
<はじめに> | |||
今回は、自宅から歩いて25分程度の「元町公園」にあ |
元町公園記念碑 |
||
ります「発祥の地」を訪ねました。 | |||
「元町公園」は、若い女性に人気の元町商店街の東端 | |||
から外人墓地を目指す途中に位置しますが、我が家のあ | |||
る本牧からは逆に反対側から山手に登り、外人墓地の脇 | |||
を下ったところにあります。 | |||
「元町公園」は関東大震災後、復興のため、横浜市が | |||
この地を市有地として、湧水を利用した水泳場(プール) | |||
を中心として、昭和5年(1930年)に開園した古い公園です。 | |||
プールの管理棟は、「西洋瓦工場発祥の地」の跡地を表徴したように、レンガ造り | |||
で古き良き時代を想像させるような建物です。 | |||
この元町公園の中に幾つかの「記念碑」がありますので、以下にご紹介いたします。 | |||
元町公園水泳場事務所 |
緑に覆われたプール |
「ウォーターガーデン」 |
|
13.“ 西洋瓦工場”発祥の地 | |||
元町公園になる前のこの地は、明治初期にフランス人アルフレッド・ジェラールが、 | |||
日本で最初の「西洋瓦・レンガの工場」を造りました。ジェラールは文久3年(1863 | |||
年)に来日し、当初は食料品の船舶供給業から、その後 |
西洋瓦工場説明 |
||
かなり手広く事業を広げていったようです。 | |||
当時、建築建材の西洋瓦やレンガは舶来品に頼ってお | |||
りましたが品不足で、これに目をつけ、これが居留外国 | |||
人の洋館や市内の商館建築に用いられ、ジェラール瓦あ | |||
るいはフランス瓦とも呼ばれて、この事業は当りに当り、 | |||
大変な財を成したようです。明治6年(1873年)の製作 | |||
年号のある瓦が確認されている最古のものだそうです。 | |||
ジェラール瓦の説明書 |
ジェラールは明治11年(1878年)に帰国したようです。 | ||
その後、経営者が変わり、明治40年(1907年)に設備を | |||
更新したようですが、何時しか廃業となってしまったよ | |||
うです。 | |||
ちなみに元町の「仏蘭西料亭:霧笛楼」では、フラン | |||
ス人・ジェラールの「レンガ」が有名なことから、チョコ | |||
レートをレンガに見立てたフランス菓子「フォンダンシ | |||
ョコラ」を売り出しています。 | |||
14.“給水事業 ”発祥の地 | |||
アルフレッド・ジェラールは、「西洋瓦工場」設立より |
貯水施設 |
||
早い、明治元年(1863年)に船舶給水業に乗り出してい | |||
ます。 | |||
明治3年(1866年)までに、現在の元町公園の地で、 | |||
「給水事業」を興しました。元町公園の「ウォーターガ | |||
ーデン」部分からさらに北側の住宅街(元町商店街側) | |||
の中にその一部が残されておりまして、今もなお豊富な | |||
説明看板 |
登録有形文化財 |
水が湧き出ています。 | |
貯水施設には沢山の鯉が | |||
元気よく泳いでいました。 | |||
説明看板によりますと、 | |||
『横浜の市街地の井戸水は | |||
塩分を含んでいて、飲用に | |||
は適していませんでした。 | |||
他方、丘陵地帯の麓には良 | |||
質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、そうした |
現在も出ている『湧水』 |
||
湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も見られまし | |||
た。この点に着目したジェラールは、山手の麓に水源を | |||
確保し、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供 | |||
給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラールの給 | |||
水業のための施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになり | |||
ました』 | |||
15.“塗装業 ”発祥の地 | |||
元町公園内の「ウォーターガーデン」脇に4〜5mは |
「我国塗装発祥之地記念碑」 |
||
あると思われる「我国塗装発祥之地記念碑」が建てられ | |||
ています。 | |||
横浜開港資料館資料によりますと、『塗装業は慶応元 | |||
年(1865年)3月4日付「ジャパン・ヘラルド」に「サ | |||
イン・ペインター」の広告が掲載されている。これが塗 | |||
装業の広告第一号』 | |||
また『広東省順徳県出身で、塗装の技術を上海で学ん | |||
だ招相記は谷戸坂の山手184番地に塗装店「相記」を開き、多くの職人を抱えて、洋 | |||
館や西洋家具のほか、船体なども手広く扱っていた。塗装業・西洋建築の分野で、華 | |||
僑の人々が横浜の街づくりに大きく貢献した。』とあります。 | |||
ただ、「碑」の裏面の文字は風化して読めず、何故、元町公園の中に建てられてい | |||
るのか理由が分りません。「山手184番地」というのがありますので、まあ〜比較的 | |||
近いということでゴカンベンを! | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ “大正活映撮影所”発祥に地 | |||
大正活映撮影所記念碑 |
「我国塗装発祥之地記念碑」の直ぐ近くの元町公園の | ||
片隅に、大正9年(1920年)日本の映画界に一石を投じ | |||
たといわれる「大正活映」が西洋瓦工場跡地を買収し建 | |||
てられ、脚本家として招聘された谷崎潤一郎も洋館を好 | |||
み、山手に移り住んだということです。この「大正活映 | |||
撮影所」は短い期間であったようです。 | |||
この記念碑の文字は判読できず。ただ淋しく置かれて | |||
いるという感じです。 | |||
★ “生麦事件”犠牲者の墓 | |||
「水屋敷」から下って「元町商店街」の本通に出るチョット手前の所、外人墓地の | |||
一番下の外れなのか?ここで「生麦事件犠牲者」のお墓を発見!ビックリ! | |||
外人墓地の裏口に当るの |
「生麦事件」犠牲者の墓 |
埋葬位置の看板 |
|
か?鉄の門で閉められ「関 | |||
係者以外立ち入り禁止」と | |||
なっておりました。 | |||
脇の塀越しにお墓が見え | |||
ましたが少し距離があり、 | |||
写真が上手く撮れるかチョ | |||
ット心配です。 | |||
敷地内に入れない観光客への心温まる配慮なのか!お墓の案内板が塀にぶら下がっ | |||
ているではありませんか! | |||
案内板には埋葬された位置を示しているのでしょう、3人の名前が書かれています。 | |||
中央に殺害されたRICHARDSON、深手を負った2人は後に亡くなったと思わ | |||
れますが、左上にMARSHALL、右上にCLARKEの名前が記されていました。 | |||
皆様ご存知の「生麦事件」とは、私にとって何となく分っているようで本当はよく | |||
分っていないことが判明しました。調べた結果の一部だけを紹介いたしますと、 | |||
『江戸時代の末期の文久2年(1862年)現在の横浜市鶴見区生麦付近において、薩 | |||
摩藩主島津忠義の父、島津久光が幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて | |||
江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し京都へ帰る時に起こったものであります』 | |||
この行列に東海道で乗馬を楽しんでの帰り道、イギリス人4人が紛れ込んで来まし | |||
た。言葉の障害も有ったのでしょうが、この4人の行為を無礼とみた藩士達によって | |||
殺害された事件であります。 | |||
4人とは、男性3人(クラーク、マーシャル、リチャードソン)、女性1人(ボロ | |||
デール夫人)で、リチャードソンが殺され、マーシャルとクラークも深手を負い血を | |||
流しながらも馬をとばし、神奈川のアメリカ領事館(本覚寺)へ駆け込んで助けを求 | |||
め、ヘボン博士の手当を受けることになった。無傷のボロデール夫人が、まっさきに | |||
横浜の居留地へ駆け戻り、救援を訴えたそうです。 |
私は、小学校4年から横浜に60年以上住んでおりますが、このお墓のことは全然知 | |||
りませんでした。外人墓地といえば山手の頂上から見るだけでしたので、こんな下の | |||
外れに歴史的な事件に関係する人のお墓が有ったとは! | |||
私にとっては、“大発見”で素晴らしい体験をしたと、晩酌は最高でした! | |||
皆様方の、“小発見W・“大発見”・“珍発見”等の情報を気軽に投稿くださるよ | |||
う願っております。 |
2009. 7.15 | 仲本 | 「生涯現役」ー「完全試合」「一球入魂」そして「痛恨のミスジャッジ」 |
ー「生涯現役」ー |
「完全試合」「一球入魂」そして「痛恨のミスジャッジ」 | 川崎市 仲本隆信 |
私は昭和38年(1963年)から、アマチュア野球の審判 |
仲本隆信さん |
||
員となり、軟式野球、高校、大学、社会人野球と、今日 | |||
まで45年間続けておりますが、この間、数多くの好試合、 | |||
劇的な場面等に立ち会って来ましたが、その中で特に印 | |||
象に残るいくつかの試合について記してみます。 | |||
「完全試合」 | |||
昭和49年(1974年)7月、第56回全国高校野球選手権、神奈川大会、法政二高エー | |||
ス秋本投手が、県立川崎高校を2対0で破る「完全試合」を達成した時、私は主審と | |||
してこの試合を担当しました。 | |||
法政二高、一回裏2点を先取、その後、投手戦となり6回まで、緊迫したゲームが | |||
続く中で、私は、ふと球場の異状な雰囲気に気がつきました。ヒットは無い、フォア | |||
ボールも無い、デッド・ボールは無い、エラーも無い、「完全試合」継続中だと気付 | |||
きました。そして、いよいよ、9回表、秋本投手“大記録”を意識してか、先頭打者 | |||
に連続ボールを3つ、ノースリー“完全試合”は無理かなと、審判員としては、余計 | |||
なことを思ったが、エース秋本ここで開き直って、カウント、ツースリー、6球目を | |||
ショートゴロに打ち取り、次打者は、サードフライでツーアウト、スタンドは「あと | |||
一人」「あと一人」と、割れんばかりの大歓声、第3打者は、ツーエンドツーからの | |||
5球目、アウトコースやヽ低めの球を、当り損ねのセカンドゴロ、セカンドは小柄な | |||
浅井選手、じっくり腰を落とし、逸る心を抑えて一塁へ送球、「アウト」再び球場は | |||
大歓声、「完全試合」達成の瞬間でした。 | |||
「一球入魂」 | |||
平成12年(2000年)シドニーオリンピックの全日本代表監督、東芝太田垣耕造の現 | |||
役時代、投手として一球に対する執念の投球について。 | |||
昭和47年(1972年)太田垣は、青山学院大学から、社会人野球の名門東芝へ都市対 | |||
抗野球優勝を目指して入社、その年の春、三菱重工神戸とのオープン戦で私は主審と | |||
して、横浜、鶴見区の東芝末吉球場へ向う。太田垣、前評判通りの好投で、三菱神戸 | |||
を9回一死まで、ノーヒットノーラン(四球一つ)あわや大記録達成かと期待された | |||
が、三菱ここで代打を指名、これが見事的中して、サードへ強襲ヒット。ノーヒット | |||
・ノーランは達成出来なかったが、1対0の見事な完投勝利。 | |||
さて、太田垣が5回表、三菱の先頭打者にカウント、ツーエンド・ツーからの5球 | |||
目、右打者の肩口から大きく落ちる変化球を投球、“ボール”かなと思ったその瞬間、 | |||
鋭く切れの良い球は、インコースいっぱいに構えたキャツチャー尾崎(亜細亜大―前 | |||
東芝府中監督)のミットへズシリと入った。肩口でボールかと思った私の心が声にな | |||
り“ボール”と判定してしまった。「ストライク」なのに6球目がサードゴロで、ヤ | |||
レヤレ。試合が終わり審判控室に居ると、暫くしてから控室の前を太田垣がうろうろ | |||
している。「どうした」と私が聞くと、「すみません、一つだけ質問しても良いでし | |||
ょうか」と言う。さてはあの一球の事かな思っていると、案の定「5回の5球目のた | |||
まはボールですか?」と言う。審判員として選手には悪いが、今更「ストライク」と | |||
は言えない。「コースが少し外れてボールだった」と言うと、「ハイ分かりました、 | |||
勉強になりました」と帰って行ったが、いやはや、勉強になったのは私の方でした。 | |||
名投手の「一球入魂」の思いを込めた投球に、その後の私にとって審判技術の向上に、 | |||
大いに役立ちました。 | |||
「痛恨のミスジャッジ」 | |||
昭和52年7月(1977年)、第59回全国高校野球選手権、神奈川大会、東海大相模高 | |||
校対武相高校の試合、私は二塁審判を担当。5回裏ツーアウト、バッター3番原辰徳 | |||
(東海大―現読売巨人軍監督)ツーエンド・ツー後、5球目を叩くと、球はぐん々伸 | |||
びて川崎球場左中間フェンスを直撃の2塁打、続くバッターは4番津末(東海大―現 | |||
巨人二軍コーチ)初球を思いっきり引っ張ると、ライト頭上を遥かに越えて、フェン | |||
スを直撃、カバーに入ったセンター素早くボールを処理して、セカンドへ矢のような | |||
送球、津末、頭から猛然とスライディング、二塁手この球を津末の左手にタッチ、間 | |||
一髪「アウト」スタンドは割れんばかりの大歓声。その時、何とボールはベースの片 | |||
隅にポロリと落ち、白球が私の顔を見つめている。しまった「セーフ」だ、私は心の | |||
中で頭を掻きなががら、恥じも外聞も忘れて、2万を越える大観衆の前で改めて「セ | |||
ーフ」何とも恥ずかしい一瞬でした。あれから32年を経った今でも、夏の高校野球大 | |||
仲本主審の:ジャッジ |
会が始まると思い出します。 | ||
神奈川県の高校野球審判は60歳で勇退が決まり。 | |||
しかし、軟式野球の審判は年齢制限が無いので、 | |||
75歳の今も「生涯現役」を目指して、グラウン | |||
ド狭しと駆け巡っております。 | |||
(ご本人の希望により原文どおりとさせていただきました) |
2009. 7. 8 | 秋山 | 小学校の安全パトロールのボランティアに参加して |
小学校の安全パトロールのボランティアに参加して | 横浜市 秋山暢利 |
秋山暢利さん |
近くのF小学校の通学路に安全パトロールのボランテ | ||
ィアとして参加し、毎朝子どもたちの元気な「おはよう | |||
ございます。」の声に「行っていらっしゃい。気をつけ | |||
てね。」と答えながら、丁度満4年が過ぎました。 | |||
顧みますと、平成17年の新学期が始まって間もなく、 | |||
F小学校から町内会を通じて、登校時、子どもたちが安 | |||
心して通学できるように、ボランティアで安全パトロー | |||
ルをお願いしたいと要請されました。町内会では、早速、 | |||
シルバーパワーで協力できるボランティアに呼びかける |
|
||
とともに、指定されている通学路のうち、特に交通量の | |||
多い、信号がない十字路に立哨することが決められまし | |||
た。 | |||
立哨するこの十字路は、全校の子どもたちの約1/4が通 | |||
り、毎週月曜〜金曜の通学時間帯がトラック、タクシー | |||
など車両の交通量が多い場所で、従来から危険視されて | |||
いた場所です。応募したのは、町内の防犯部長、副部長、 | |||
私を含めて4人で、それぞれの角に立つことにしました。立哨する日時は、毎週月曜 | |||
〜金曜のウイークディーで、時間帯は午前7時45分〜8時25分まで、期間は夏休みな | |||
どの休日を除く期間です。 | |||
ボランティアでの立哨は、あくまでも一般人のボランティアであって、警察や特別 | |||
の権限を持つ者でないため、強制的に車両の通行を規制できず、子どもたちを交通事 | |||
|
故から守るため、もっぱら車両を運転する人に協力をお | ||
願いするというものです。このため、通る子供たちには、 | |||
その都度、勝手に飛び出さないように、「おじさんたち」 | |||
の指示に従うように教え込みました。 | |||
実際に参加して見ますと、このボランティアは、朝の | |||
短い時間帯ながら毎週月曜〜金曜までのため、自由時間 | |||
があるとはいえ、シルバーにはかなりハードでした。し | |||
かし、よい面が沢山あることも経験しました。 | |||
例えば、 | |||
・子どもたちが良く挨拶してくれるようになった。 | |||
・子どもたちがなついてくれる。 | |||
・町内での顔が広くなった。 | |||
・時折、子どもたちと一緒の学校給食に招かれる。 | |||
・学校の職員室の前の廊下に、立哨中のわれわれの写真が掲示され感謝の言葉が添 | |||
えられている。 | |||
・毎年の年度末には、子どもたちの寄せ書きされた色紙が各人に贈られました。 | |||
しかし、困ったことが一つありました。それは、次のボランティアに応じてくれる | |||
人が、ほとんどなく、その対策に1年掛かってしまいました。 | |||
現在は、お蔭さまで通学する子どもたちの「お母さん」方の協力を得て、月に何回 | |||
かの立哨でこのボランティアを続けています。 |