| 話 題 『 よもやま話 』-13 | 2009年4月〜2009年7月 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2009. 7. 5 | “発祥の地”を訪ねて!(その7) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009. 6. 8 | 第5回水彩風景画展17点の詳細説明(その5E)投稿:清水有道 | ![]() |
| 2009. 6. 5 | “発祥の地”を訪ねて!(その6) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009. 5.27 | 『日本一』の“道標” 投稿:土田晃幹 | ![]() |
| 2009. 5.24 | 第5回水彩風景画展17点の詳細説明(その4)投稿:清水有道 | ![]() |
| 2009. 5.21 | シネマ歌舞伎 投稿:小出一光 | ![]() |
| 2009. 5.17 | “発祥の地”を訪ねて!(その5) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009. 5.10 | 第5回水彩風景画展17点の詳細説明(その3)投稿:清水有道 | ![]() |
| 2009. 5. 2 | “発祥の地”を訪ねて!(その4) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009. 4.27 | 第5回水彩風景画展17点の詳細説明(その2)投稿:清水有道 | ![]() |
| 2009. 4.24 | 横浜市街に“巨大くも”現れる! 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009. 4.21 | 茅ヶ崎春のイベント大岡越前祭 投稿;三橋春夫 | ![]() |
| 2009. 4.15 | “発祥の地”を訪ねて!(その3) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009. 4.13 | 第5回水彩風景画展17点の詳細説明(その1)投稿:清水有道 | ![]() |
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| 話 題 『 よもやま話 』 |
| 2009. 7. 5 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その7) | ![]() |
| “発祥の地”を訪ねて!(その7) | 横浜市 小田 茂 | |
| 12.“ 鉄 道 ”発祥の地 | |||
| JR桜木町駅は、自宅からバスで25分弱の所です。 |
現在のJR桜木町駅 |
||
| 中区と西区の境で、桜木町駅は中区で、直ぐ側のラン | |||
| ドマークは西区です。 | |||
| 桜木町駅近くの関内駅よりの高架下のひっそりとした | |||
| 場所に「鉄道発祥の地」記念碑が建っております。この | |||
| 場所は開業当時の駅前広場にあたります。 | |||
| 我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、 | |||
| 横浜(現在の桜木町)⇔品川間で仮営業され、所要時間 | |||
| 35分、1日2往復でした。 | |||
| その後、品川から新橋(後の汐留貨物駅、現・廃止)まで延長され、9月12日に開 | |||
| 通式、翌13日から本営業9往復片道所要が開始され途中駅は神奈川、鶴見、川崎、品 | |||
| 川の4駅で、路線29q、時間53分。当時、馬車だと4時間かかったといわれています。 | |||
| 開業時は横浜駅でしたが、大正4年(1915年)に東海道本線の延伸にともない、 | |||
| 「横浜駅」の名称を現在の「横浜駅」に譲り、「桜木町駅」と改称いたしました。 | |||
| 平成16年(2004年)1月までは、地下鉄「みなとみらい線」の開通にともない廃止 | |||
| されました東京急行「東横線」の終着駅でもありました。 | |||
| なお、現在は、明治5年9月12日が新暦1872年10月14日でしたいで、10月14日を | |||
| 『鉄道の日』と平成6年(1994年)に定めました。 | |||
| “記念碑”は高さ4m強? |
記念碑:正面 |
創業当時の「横浜駅」 |
|
| 位で、3つの凹面のもので | |||
| あります。 | |||
| 正面には、当時の横浜駅 | |||
| の駅舎が描かれています。 | |||
| 現在の駅と風貌を比較し | |||
| ますと戦後の桜木町駅を思 | |||
| い出すような大変立派なも | |||
| ので見事な風格を備えていますね。 | |||
記念碑:左側面 |
左側面には、開業時の“時刻表・運賃表など定めが刻 | ||
| み込まれています。 | |||
| これは、当時(明治5年)の様子を伺うのに大変参考 | |||
| になり、大変興味深いものでしたので全文写してきした | |||
| (注:振り仮名は省略、読みやすいようにレイアウトも | |||
| 変えてあります。) | |||
| 下記に全文ご紹介いたします。 | |||
| 定 | |||
| 鐵道列車出發時刻 | |||
| 上り 下り | |||
| 横濱發車 品川到着 品川發車 横濱到着 | |||
| 午前八字 午前八字三十五分 午前九字 午前九字三十五分 | |||
| 午後四字 午後四字三十五分 午後五字 午後五字三十五分 | |||
| 賃金表 車の等級(片道) | |||
| 上等:壹圓五十錢 中等:壹圓 下等:五十錢 | |||
| ★<上記の時刻表・賃金表の下に書かれていた全文> | |||
| 『來る五月七日より此表示の時刻に日々横濱並に品川ステイションより列車出發す | |||
| 乘車せむと欲する者は遅くとも此表示の時刻より十五分前にステイションに來り切手 | |||
| 買入其他の手都合を為すべし 但發車並に着車共必ず此表示の時刻を違はざるやうには | |||
| 請合かねたけれども可成 尤 遅滞なきやう取行ふべし | |||
| 手形は其日限り乘車一度たるべし 小兒四歳までは無賃 其餘十二歳まで半額の事 | |||
| 旅客は總て鐵道規則に随ひ旅行すべし 手形検査の節は手形を出し改を受 又手形取 | |||
| 集の節は之を渡すべし 旅客自ら携ぶ小包みドウランの類は無賃なれとも若し損失あ | |||
| らば自ら負ふべし 其餘の手廻り荷物は目方三十斤迄ニ十五錢を拂ひ荷物掛へ引渡取 | |||
| 證書を求め置くべし 尤 一人に付目方六十斤迄を限とす 手廻荷物は總て姓名か又は | |||
| 目印を記すべし 旅客中乘車を得ると得さるは車内場所の有無によるべし | |||
| 犬一疋に付片道賃錢二十五錢を拂ふべし 併し旅客車に載すると許るさす犬類箱或は | |||
| 車長の車にて運送すべし 尤 犬首輪首綱口網も備へて相渡すべし | |||
| 發車時限を惰らさるため時限の五分前にステイションの戸を局さすべし 吸煙車の | |||
| 外は煙草を許るさす | |||
| 旅客車上中下三等の内乘らむと欲する所の賃金を過金取引ねきやうに用意致し來る | |||
| べし 明治五年 鐵 道 寮 』 | |||
| 上記内容を読んで、2〜3疑問に思ったことを調べてみました。 | |||
| ☆ 時刻表に書いてある「時刻」の“字”とは? | |||
| 日本は、明治5年に鉄道が開業した年の12月3日に |
珍しい時刻の“字”の表現 |
||
| 太陰暦から太陽暦に改暦され、明治6年1月1日とし | |||
| ました。 これを機に、江戸の時刻制「不定時法」 | |||
| すなわち、常に日の出のおよそ30分前を明け六つ、 | |||
| 日没のおよそ30分後を暮れ六つとし夜明けから日暮 | |||
| れまでの時間を6等分する時間法で、季節により昼 | |||
| 夜の長さが変わるので時間の長さが変わってしまい | |||
| ます。この「不定時法」から西洋で使われていた | |||
| 「定時法」に切換えました。「定時法」とは、1日を24時間に等分割し、時間 | |||
| の長さは季節に依らず一定な現代の時間法です。 | |||
| 当時は、まだ時計が普及しておらず、鐘などで時刻を知らせており、この「不定 | |||
| 時法」の「時(とき)」と間違いやすいので、書くときは“字”を使いまいた。 | |||
| 翌年「時」の文字に統一されました。したがって“字”と書いた時刻表は大変珍 | |||
| しいものです。 | |||
| ☆ 137年前に「横濱ー品川」間、35分!速くない? | |||
| 「えっ!そんなに速かったの?」と思った以上に速いのに驚きです。 | |||
| 決め手は見つかりませんでしたが、一つの大きな要因としては、「途中の駅ゼロ」 | |||
| ということです。それにしても大変なスピードと感心してます。 | |||
| ちなみに、現在は、京浜東北線で28分、東海道本線(湘南)で18分、京急快特で | |||
| 17分と、これまた昭和30年頃と比較しますと随分速くなりましたね! | |||
| また、「横濱ー新橋」(途中駅4駅)間で53分ですが、馬車を利用すると4時間 | |||
| はかかったそうです。 | |||
| ☆ 運賃はどの位高額なの? | |||
| 運賃はかなり高額で、一般庶民には高値の花で目的地まで歩くという今までと同 | |||
| じであったようです。その当時、ソバが一杯5厘といわれ、一番安い下等の運賃 | |||
| で50錢であったので、ソバ100杯分であります。現在、モリソバ500円で100杯分と | |||
| すれば50,000円です。ビックリ!私も歩きます! | |||
| ちなみに、JR280円、京急290円 思わず安い!と独り言。 | |||
| 記念碑の右側面には、日本語・英語で建碑の由来が刻まれています。 | |||
建碑の由来 |
説明文は「我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦 | ||
| 5月7日、この場所にあった横浜ステイションと品川ス | |||
| テイションの間で開通し、その営業を開始しました。わ | |||
| たくしどもは、当時の人の気概と努力をたたえ、このこ | |||
| とを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、 | |||
| さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであり | |||
| ます。」と書かれています。 | |||
| ≪ 番 外 編 ≫ | |||
| ★ “空洞”のあるホテル・・・「ナビオス横浜」 | |||
| JR桜木町駅の東側に出ますと、目の前には「ランドマークタワー」を左側に見な | |||
| がら「赤レンガ倉庫」方面 |
「ナビオス横浜」 |
ナビオス横浜空洞部分から撮影 |
|
| に向って「汽車道」を歩き、 | |||
| 5〜6分で「運河パーク」 | |||
| と呼ばれている広場に出ま | |||
| す。眼の前に「ナビオス横 | |||
| 浜」が建っています。 | |||
| 一見、凱旋門?を想い起 | |||
| こす空洞部分のある面白い | |||
| 建物です。この建物の反対側空洞部分から撮った写真ですが、「ランドマークタワー」 | |||
| と「大観覧車」が上手く納まってくれて、チョット面白いと思いませんか! | |||
| ★ “錨”のモニュメント | |||
“錨”のモニュメント |
「ナビオス横浜」の建物の反対側空洞部分の直ぐ脇に | ||
| “錨”のモニュメントがあります。説明文によりますと、 | |||
| 『この錨は、(株)アイ・エイチ・アイ・アムテック | |||
| 横浜工場によるもので、石川島播磨重工業(株)横浜工場 | |||
| で1971年に建造され中近東から日本へ原油を運搬した | |||
| 大型原油輸送船「高岡丸」(全長316m、幅50m、深さ | |||
| 25.5m、積貨重量213、850K/T)に備え付けられていたも | |||
| のと同型のものです。錨の重量18.27K/Tで、長さは4.8 | |||
| m、幅2.9mあります』と書かれております。(説明文は原文のまま) | |||
| 20万トン級のタンカーの“錨”は、私の身長の2.8倍の高さに感嘆しながら、しばし | |||
| 見上げておりました。 | |||
| なお、現役時代舶用で、この“高岡丸”に関連して設計、装備、サービスなどで直 | |||
| 接、携わった方がおられると思うのですが、ご一報頂ければ幸いです。 | |||
| 2009. 6. 8 | 清水 | 第5回水彩風景画個展17点の詳細説明「その5」 | ![]() |
| 第5回水彩風景個展17点の詳細説明(その5E) | 横浜市 清水 有道 | |
| 今年、3月東京計器OB会ホーム・ページの作品コー |
水彩風景画制作を楽しむ |
||
| ナーに掲載いただいた、(2000年から昨年2008年までに | |||
| 描いた風景画を中心に)その中から絵葉書に作った17点 | |||
| について、作者として作品を描いた動機や裏話、作品に | |||
| 込めた意気込み等について、5回にも分けて掲載してい | |||
| ただき私自身は大変満足しています。しかし、OBの皆 | |||
| 様には毎回しつこく見せられて食傷気味になられたので | |||
| はないかと案じています。沢山の方々に直々に会場を訪 | |||
| ねていただき、実物をご覧いただいていますが、それでもOB会の会員から見ればご | |||
| く一部の方々でしかありませんので、前号で佐藤雅寿様が言われていましたように、 | |||
| 近々OB会メンバーの作品展でもございますなら、是非参加してより多くの方々に見 | |||
| ていただければと希望致しております。 | |||
| ここ数年は3〜5月に関西以西に水彩画の取材旅行を致していますが、今年は仕事 | |||
| で関係しております米国の自動車部品のメーカーでビッグスリーとの取引が6割くら | |||
| いになり、その売掛金が凍結されている関係で、昨年の10月以降私も無償で働かざ | |||
| るを得ない状況で、とてもゆっくりデッサンをしたり、旅の風情を味わうどころでは | |||
| なく、戦々恐々の毎日です。 | |||
| 今日(6月1日)にビッグスリーの最後のGMが破産法のチャピター11の適応申請 | |||
| になることで一段落致しましたが、従来の車種の整理や引取り分担の決定等々まだま | |||
| だ今後の作業が目白押しにありますし、GM自身が何を売る目玉として日本のトヨタ、 | |||
| ホンダ、日産の先行している環境対応車などの新コンセプト車と張り合える状態に移 | |||
| 行できるのか、工場のレイアウト、製造ラインの組み換え、適合部品メーカーの選定 | |||
| や電池を初めとした新製品・部品の供給元や協働開発作業の契約等現時点では全く目 | |||
| 処が立っていませんので、暫くはビジネスの相手として今までの何%くらいが続けら | |||
| れるのか、私の関係しているメーカーの仕事量確保も大苦戦が予想されます。 | |||
| でも時間を見つけては描くことだけは続けるつもりです。また、次の機会を楽しみ | |||
| に待っていてください。長い間お目障りでした。本当に有難うございました。 | |||
| 「西沢渓谷初夏」 2005年3月制作 F6 サイズ(41x32) | |||
「西沢渓谷初夏」 |
|||
| 山登りやハイカーにはとくに名高いところ。筆者も何 | |||
| 回も訪ねているが、季節により違った姿を見せる「七ッ | |||
| 釜五段の滝」をゆっくり描いたのはこのときが初めてで | |||
| した。エメラルド・グリーンの渓谷を洗う水を少しずつ | |||
| 色合いを変えて湛える釜と呼ばれる淵が新緑に映えて美 | |||
| しかった。 | |||
| 「北海道の白樺林にも遅い春」 2006年5月制作 F6 サイズ(32x41) | |||
「北海道の白樺林にも遅い春」 |
5月の連休に訪れた洞爺湖のホテルの庭に続くゴルフ | ||
| 場にある白樺林の枝先にも春に目覚めた目が萌え出でて、 | |||
| 美しく、清清しく感じられた。種類の少ない色をしっか | |||
| り塗り上げ、手抜きをしなければ、作品としても清清し | |||
| さが写し出せることが分った。一見何でもない当たり前 | |||
| の景色の中に、日本らしさが潜んでいるのかもしれない。 | |||
| 何か惹かれるものがあって、ついつい取り組んでしまう | |||
| から不思議である。 | |||
| 「睡蓮の池―上三依水生植物園」 2006年6月制作 F6 サイズ(32x41) | |||
「睡蓮の池―上三依水生植物園」 |
今までに同じような睡蓮を描いてきたが、この睡蓮は | ||
| 葉も花も細かく、反って美しく思えた。未だに、何故そ | |||
| う思ったのか、良く考えてみると分らない。 | |||
| モネの睡蓮を真似たわけでは勿論ないが、自分でも何 | |||
| となく似ているようには思う。正直な話、展覧会では一 | |||
| 番来訪者の目を集め、最初に売約された作品になった。 | |||
| 伊東市在住の陶芸家に求められたのだから作者としても | |||
| 本望である。 | |||
| 「オゼコウホネの咲く池―上三依水生植物園」 2006年6月制作 | |||
| F6 サイズ(32x41) | |||
| スケッチした場所、上三依水生植物園は栃木県にあり、 | |||
「オゼコウホネの咲く池―上三依水生植物園」 |
福島県との県境の山王峠に近いところにある。尾瀬の水 | ||
| 芭蕉、龍金花等の植物が深い雪の中で花も見られない頃、 | |||
| この植物園ではいち早く花盛りを迎えるため時々訪れた。 | |||
| オゼコウホネの姿も花もこの時ほど優美に感じられたこ | |||
| とはなかった。 | |||
| 青く澄んだ空を深く映し込んだ鮮やかなブルーの水に、 | |||
| 光を跳ね返すような艶のある若緑の葉と黄色の毛玉のよ | |||
| うな花の取り合わせが嬉しい景色でした。しかし、その | |||
| 照り輝く葉の表面や池底に映る葉や茎の陰をビビッドに | |||
| 描き出すことは相当にしんどい作業だった。 | |||
| 事務局:第5回水彩風景画個展17点の詳細説明をこれまで5回にわたり紹介しました。 | |||
| 投稿いただいた作者、清水有道様に感謝し益々のご活躍を願っています。 | |||
| 2009. 6. 5 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その6) | ![]() |
| “発祥の地”を訪ねて!(その6) | 横浜市 小田 茂 | |
| 10.「消防救急」発祥の地 | |||
| 神奈川県庁(日本大通り) |
消防救急発祥の記念碑 |
当時の救急車 |
|
| の近くの「横浜都市発展記 | |||
| 念館」の駐車場に隣接した | |||
| 場所に、『消防救急発祥の | |||
| 地』の碑が建てられていま | |||
| す。(みなとみらい線「日本 | |||
| 大通り」駅のすぐそば) | |||
| 碑文は『昭和8年(1933年) | |||
| 2月 日本で初めて この地(当時の山下町消防署)に救急車が配置運用開始されまし | |||
| た』と記載されています。また、当時の“救急車”がプレートに描かれています。 | |||
旧居留地消防隊地下貯水槽 |
もともとこの場所は、明治初年から旧外国人居留地の | ||
| 消防隊が置かれ、防火貯水槽が建造されたものが、ほぼ | |||
| 当時の状態で残され「旧居留地消防隊地下貯水槽」とし | |||
| て残されております。ガラス張りの地下のことですから | |||
| 素人写真では上手く撮れませんでした。同じことで上記 | |||
| の「碑」の写真も私が反射して写ってしまいました。 | |||
| 消防署は、平成6年(1994年)まで「中消防署日本大 | |||
| 通消防出張所」として使っていましたが、建物が老朽化 | |||
| したため、現在はここから約100m離れた所に「中消防署山下町消防出張所」として新 | |||
| 築移転いたしました。 | |||
| 今、この消防署では“横浜開港150周年”に合わせて、シャッターに外国人居留地時 | |||
| 代の写真が2枚印刷されています。夜間はライトアップしております。 | |||
現在の中消防署山下町消防出張所 |
当時の消防隊員 |
当時の消防車 |
|
| 1枚は、明治14年(1881年)に撮影したイギリス人やオランダ人らでつくる消防隊 | |||
| 「横浜ファイヤブリゲード」の写真で、もう1枚は大正当時、最新鋭だったガソリン | |||
| エンジンを搭載した消防車とのことです。 | |||
| 余談ですが、シャッターが降りているうちにと朝早く出掛けたのですが、こんどは | |||
| 消防車・救急車が撮れず、昼間にまた出掛けるはめとなりました。 | |||
| 11.「クリーニング」発祥の地 | |||
| 自宅から徒歩で30分弱の所に「クリーニング」発祥の |
「クリーニング発祥の地」石碑 |
||
| 石碑があります。有名な「元町商店街」の東側はずれで | |||
| みなとみらい線「元町・中華街」駅の元町方面へ出ると、 | |||
| 直ぐに「港の見える丘公園」に向かう谷戸坂の登り口左 | |||
| 側に「フランス山公園」(「港の見える丘公園」の一部) | |||
| があり、その脇に「石碑」が建っております。 | |||
| 「石碑」の建っている所は、居留地の外国人相手に繁 | |||
| 盛したクリーニング業を営む脇沢金次郎の店の跡地と言 | |||
| われています。 | |||
| 石碑の表面には、碑文として『安政6年神奈川宿の人青木屋忠七氏、西洋洗濯業を | |||
| 横浜本町1丁目現在の5丁目にて始め、ついで岡澤直次郎氏横浜元町に清水屋を開業 | |||
| 慶応3年、脇澤金次郎氏これを継承し近代企業化の基礎を成した。この間フランス人 | |||
| ドンバル氏、斯業の技術指導および普及発展に貢献された。これら業祖偉業を顕彰し | |||
| こゝにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する』と記載されています。 | |||
| ≪ 番 外 編 ≫ | |||
| ★ 5月23日:「横浜マリンタワー」リニューアルオープン! | |||
| 開港150周年で沸くなか、ハマの名所「横浜マリンタワ |
一新された「横浜マリンタワー」 |
||
| ー」が、リニューアルオープンいたしました。 | |||
| 外装は、今までの赤と白のグラデーションから銀色と | |||
| ブラウンオリーブに化粧直しいたしました。 | |||
| 「横浜マリンタワー」は、昭和36年(1961年)に、横 | |||
| 浜開港100周年記念行事の一環として開業しました。 | |||
| 高さ106mで灯台機能を持ち、ギネスブックにも、最も | |||
| 高い灯台として記録されましたが、この灯台機能は昨年 | |||
| 9月に廃止されました。丁度、半世紀後にリニューアルオープンしたわけで、先にリ | |||
| ニューアルオープンした「永川丸」と共に横浜観光名所として、大いに活躍すること | |||
| をハマっ子として心から願っております。 | |||
| ★ 5月27日:「メキシコ海軍帆船」に乗船見学! | |||
メキシコ海軍帆船 |
横浜開港150周年記念イベント「開国博Y150」の一環 | ||
| で、メキシコ海軍の練習帆船「クアウテモック」(1,800 | |||
| 総d)が27日横浜港に初入港する。新港ふ頭に接岸され、 | |||
| 28日から6月5日までの9日間、船内が無料公開される。 | |||
| 同船は全長91mで1981年建造。272人が乗り組んでいる | |||
| 船名の「クアウテモック」は、アステカ帝国最後の皇帝 | |||
| の名前。 | |||
| 新型インフルエンザの最初の患者がメキシコで確認さ |
メキシコ国旗 |
||
| れる前の今年2月に今回の航行を始めた。5月下旬に大 | |||
| 阪港に入り一般公開し、横浜港には6月1日入港の予定 | |||
| を新型インフルエンザの感染が大阪市で広まったため、 | |||
| 大阪市の要請「・・・乗組員に感染する可能性がある」 | |||
| ということで大阪での一般公開を見合わせた。したがっ | |||
| て、その分、横浜での一般公開の日数が4日間増えた。 | |||
| (読売新聞27日朝刊から抜粋) | |||
| 27日入港する新港ふ頭(赤レンガ倉庫に隣接)へ出掛けました。「クアウテモック」 | |||
| が見えます。ただ残念なことに「帆」はたたまれていました。 | |||
| しかし、ラッキーなことに乗船見学することができました。両国間の親善を表に出 | |||
| した大いに感激するほどの乗組員の応対でありました。 | |||
「クアウテモック」甲板から |
可愛い水兵さん! |
上級水兵さんと一緒に! |
|
| 大変清々しい思いで“乗組員皆さんのこれからの航行の安全”を願いながら下船い | |||
| たしました。 | |||
| 2009. 5.27 | 土田 | 「日本一」の“道標” | ![]() |
| 「日本一」の“道標” 埼玉県入間市 土田晃幹 | |||
| 〜私の街に、高さ4.1メートルの日本一大きな“道標”があります〜 | |||
| OB会ホームページで「発祥の地」が連載で掲載され |
「道標」全景 |
||
| ておりますが、私が住んでおります埼玉県入間市内には、 | |||
| “日本一高い”と言われております「道標」があります。 | |||
| この「道標」は、昭和11年(1936年)に建立され、高 | |||
| さが 4.1m ということで、「日本一高い道標」として、 | |||
| 昭和61年(1986年)に国内ギネスブックに認定登録され | |||
| ました。 | |||
| 道標の刻印文字は、『狭山茶場碑道標』とあります。 | |||
| この「狭山茶場碑」とは、この道標のあります道路を、北西方向に約0.8km程に | |||
| 龍円寺(入間市新久)というお寺の境内に『狭山茶場』と刻印されました石碑があり | |||
| ます。その道しるべとして、上記『狭山茶場碑道標』と書き刻まれたとのことです。 | |||
「道標」に説明文 |
この「道標」のある場所は、市内『新久』地区という | ||
| 所にありまして、周囲は狭山茶の畑となっております。 | |||
| 市道で新久地区から、宮寺地区の国道16号に接続する市 | |||
| 道脇(新久寄り)にあります。 | |||
| 終戦前陸軍の狭山飛行場(現在工業団地に変っており | |||
| ますが)跡地に近い所です。 | |||
| 「道標」の説明文を紹介しますと、 | |||
| 『日本一の道標といちょう通り』 | |||
| “沿道を走るごとに工場、茶畑、住宅地と風景が変化していきます。 | |||
| 通り沿いの銀杏も四季それぞれに表情を変え、特に秋 |
道標建立の顕彰碑 |
||
| の紅葉は絶景。道標は「狭山茶場碑入道」と示され、日 | |||
| 本一の道標(4.1m)としてギネスブックに記載されてい | |||
| ます。”と書かれております。 | |||
| この説明文はギネスブックに認定登録された時に書き | |||
| 換えられたものと思われます。 | |||
| 「道標」、「建立の顕彰碑」の周りは、写真でご覧の | |||
| ように、今の季節「緑」に覆われ、大変心を癒される素 | |||
| 敵な場所です。 | |||
入間市の「市の花:茶花」 |
なお、入間市の「市の花」は、狭山茶を象徴するに相 | ||
| 応しい“茶の花”です。 | |||
| この4月から始まった、TBSテレビで放映されてお | |||
| ります『夫婦道』(毎週水曜日PM9時〜)というドラ | |||
| マの舞台になっている茶畑はこの近くです。 | |||
| 交通の便としましては『日本一の高さの道標』、及び | |||
| 『龍円寺』には、西武池袋線入間市で下車、西武バス | |||
| 『青梅河辺』あるいは『中込』行き(約20分)を利用し | |||
| ます。機会がございましたら、是非お出掛けください。 | |||
| 2009. 5.24 | 清水 | 第5回水彩風景画個展17点の詳細説明(その4) | ![]() |
| 第5回水彩風景個展17点の詳細説明(その4) | 横浜市 清水 有道 | |
| 今年、3月東京計器OB会ホーム・ページの作品コー |
第5回水彩風景画個展「鑑賞する人」 |
||
| ナーに掲載いただいた、(2000年から昨年2008年までに | |||
| 描いた風景画を中心に)その中から絵葉書に作った17点 | |||
| について、作者として作品を描いた動機や裏話、作品に | |||
| 込めた意気込み等について、少し書いてみましょう。 | |||
| 今回は、前回の(その3)の続きで、 | |||
| 今後(その5)まで掲載を予定しています。 | |||
| 「クライネシャイデック風景」 2005年3月制作 F6 サイズ(41x32) | |||
「クライネシャイデック風景」 |
あまりにも有名な登山電車の中継基地である。下敷き | ||
| にしたデッサンがかなり昔のものなので、現在の景色は | |||
| かなり違っているので不思議に思われる人もあるだろう。 | |||
| 1968年筆者が初めてスイスを訪問した折、欲張って昔日 | |||
| 本の著名な登山家や皇室の方々を案内したというストイ | |||
| ユ老人(当時)を訪ねて、同人の経営するグリンデルバ | |||
| ルトのホテルを基地にして10日間くらいスイスの山々を | |||
| 巡り歩いた日々が懐かしく、今も鮮やかに思い出される。 | |||
| 「永観堂への道」 2005年10月制作 F6 サイズ(41x32) | |||
「永観堂への道」 |
京都・東山の紅葉には必ず引き合いに出されるところ | ||
| です。美しすぎて何度描いても、また描きたくなります。 | |||
| うまく写し取れない悔しさが何度でも挑戦しなければ止 | |||
| まぬ意欲を起こさせるのです。赤と紅の彩り(イロド | |||
| リ)が何とも見事ですが、その分描き分けるのが難しい | |||
| とその都度感じられるのです。これからも描き続ける首 | |||
| 題であり、アングルとなるだろう。画面右側上部のもみ | |||
| じの赤色は自分でもよく出せた明るい色だと感じている。 | |||
| 「新緑の阿武隈渓谷」 2007年6月制作 F6 サイズ(41x32) | |||
「新緑の阿武隈渓谷」 |
阿武隈川の上流、甲子(カシ)温泉近くの雪割橋から | ||
| の渓谷を異なる二つの新緑と紅葉の時期に風情の違いを | |||
| 描き分けてみた。この新緑の風景では、輪郭や幹や枝の | |||
| 線を出来る限り描かずに、色の明暗、重ね塗り、グラデ | |||
| ーションで渓谷の両側の山肌を表すことを試みた。 | |||
| 紅葉の風景描写に比べ、新緑の方が描き難いというか、 | |||
| 難しいと思ってはいたが、その思い以上に大変な作業を | |||
| 強いられた。 | |||
| 「夏みかん」 2008年5月制作 SM サイズ(16x23) | |||
「夏みかん」 |
|||
| SM(サムホール)で描いた余興の作品である。初夏 | |||
| に伊豆の河津を訪ね、付近の栽培農家の?(モ)ぎ立て | |||
| を買ったときに、急に描きたい衝動に駆られて持参した | |||
| デッサン帖に写したものである。みかんの肌のゴマ腑や | |||
| 熟した色合いを表すのに、結構真剣な取り組みを余儀な | |||
| くされた。 (その4 終わり) | |||
| 2009. 5.21 | 小出 | シネマ歌舞伎 | ![]() |
| シネマ歌舞伎 | 東京都 小出一光 | |
|
|||
| 春の日差しを背中にしっかりと感じながら、私は東銀座にある東劇へと足をはこん | |||
| でいました。戦後、劇場の不足から歌舞伎などを上演していた経緯もあるこの劇場は、 | |||
| 現在、歌舞伎の舞台をそのまま上映する、東京で唯一の映画館として人気を集めてい | |||
| るのです。 | |||
| このシネマ歌舞伎とは、多くの人に歌舞伎の心を伝えたいと、松竹映像表現者とソ | |||
| ニーの技術が、デジタルの世界でめぐり合い映画館での上映までに至った、といわれ | |||
| ています。 | |||
| 刺青奇偶(いれずみちょうはん)とは | |||
上映作品刺青奇偶の看板 |
観ましたこの映画!! | ||
| 今までNHKテレビでよくやる舞台中継とは雰囲気が | |||
| まるで違い、まず映像が平面的でないこと。必要な場面 | |||
| ではそれを切り取り、役者の目、指先の動き一つが、又、 | |||
| 頬を伝う涙が大画面に映し出される。涙は、長丁場の舞 | |||
| 台では、カットで撮る映画と異なり、目薬のお世話には | |||
| なれない事情があり役者の心根が舞台に伝わります。 | |||
| 演ずる役者は!! |
|
||
| *博打に明け暮れる半太郎 中村勘三郎 | |||
| *女房お仲 坂東玉三郎 | |||
| *親分 片岡仁左衛門 | |||
| 筋書は!! | |||
| 酌婦お仲の身投げを救い、ひょんなことから夫婦にな | |||
| った半太郎、好きな博打がたたり貧乏暮らし、お仲は、 | |||
| 胸を病み長くは無いとわが身を悟り、半太郎に残した遺 | |||
| 言は、夫の腕に博打はやめてとサイコロの刺青。それを |
|
||
| 彫るお仲の姿。カメラは、ロングからアップ。とめどな | |||
| く流れる二人の涙を追う。 | |||
| 金輪際博打は止めると心に誓う半太郎。これを最後と | |||
| お仲を喜ばせようと親分との丁半勝負。 | |||
| ふくろ叩きに遭いながらも勝負に勝ち、お仲死ぬんじ | |||
| ゃないぞと一走り〜花道へ。(幕) | |||
| 瞼の母 一本刀土俵入りで知られる、長谷川伸の名作。 | |||
| 笑いあり 涙あり 心温まる90分は、アッというまの時間でした。又、舞台の客席か | |||
| ら聞こえてくるあふれる拍手と笑い声には自然にシネマであることを忘れさせてしま | |||
| う臨場感を感じました。 | |||
現在の歌舞伎座 |
5月には、600年の伝統を持つ中国昆劇と日本歌舞伎 | ||
| 坂東玉三郎との合同公演“牡丹亭”が上映されます。 | |||
| 中国蘇州語での全編を唄と台詞で見事に演じる玉三郎に | |||
| 賞賛の拍手が贈られたといわれています。又、本家の舞 | |||
| 台でも歌舞伎座の建て替えが進められているそうです。 | |||
| 明治22年銀座4丁目に歌舞伎座は建てられたといわれて | |||
| います。昭和20年空襲で焼失。26年今の歌舞伎座が誕生 | |||
| したと記録にあります。これから4年後には、現在の瓦 | |||
| 屋根など一部を残し高層複合ビルとして生まれ変わるそうです。世間の騒がしさを横 | |||
| 目に、文化芸能の一翼を担う舞台、映像の世界は、とめどなく進化を遂げているよう | |||
| です。 | |||
| 《 注:タイトルおよび記事内の写真は、筆者が現地撮影およびカレンダーから | |||
| 写したものです 》 | |||
| 2009. 5.17 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その5) | ![]() |
| “発祥の地”を訪ねて!(その5) | 横浜市 小田 茂 | |
| 今回は、ご紹介する「発祥に地」でイベントが開催されていましたので、「番外編」 | |||
| と統合した形となりました。 | |||
| 8.「アイスクリーム」発祥の地 | |||
| 自宅からJR桜木町駅方面へ徒歩で40分位のところの馬車道(反対側:伊勢佐木町) | |||
| に、「アイスクリーム発祥の地」記念碑があります。 | |||
| アイスクリームは現在の常磐町4丁目で、町田房蔵が |
@「太陽の母子像」 |
||
| 明治2年(1869年)5月9日、日本最初の「アイスクリー | |||
| ム」を「あいすくりん」と呼んで、氷と塩とを用いて製 | |||
| 造販売いたしました。 | |||
| 記念碑は他のいろいろな記念碑と異なり、右の写真の | |||
| ような「太陽の母子像」があり、アイスクリームとの関 | |||
| 連がなんとも理解しがたいような気がします。 | |||
| 記念碑の説明文には、次のように書かれていました。 | |||
A「太陽の母子像」 |
B説明文 |
『横浜沿革史に、明治二 | |
| 年六月馬車道常磐町五丁目 | |||
| ニ於イテ町田房蔵ナルモノ | |||
| 氷水店ヲ開業ス、と誌るさ | |||
| れています。 | |||
| 日本のアイスクリームの | |||
| 誕生です。』 | |||
| ★ 「アイスクリーム」無料配布のイベント | |||
| 毎年、5月9日の「アイスクリームの日」には、ゆかりの馬車道で「アイスクリー | |||
| ム」が無料配布されます。昔ながらの素朴な味ということなので、興味津々、女房と | |||
| 大勢の列に並びました。待つこと1時間近く、配布開始、鹿鳴館時代のドレス姿の | |||
| 美女から直接手渡され、溶けないうちにと早速口元へ。バニラ、あずきなど5週類と | |||
| のことでしたが、貰ったのはカスタードでした。期待していた味の方は「完全な現代 | |||
| 版」でした。それでも4日続いた雨上がりの好天気であったので、格別な美味しさで | |||
| した。 翌日の新聞報道によりますと、配布個数5,000個、先頭の人は約2時間前か | |||
| ら並んでいたとのことです。 | |||
C 鹿鳴館時代のドレス姿 |
D 記念キャラクターと共に |
E 配布された「横濱馬車道アイス」 |
|
| 9.「近代街路」発祥の地 | |||
| 「近代街路」発祥の地は、我が家から徒歩で35分位の所で、“その3”で紹介しま | |||
| した「横浜公園(横浜スタジャム)」の脇から、神奈川県庁方面に向う『日本大通り』 | |||
| であります。右下の写真には、運良く観光用バス「あかいくつ号」が右折するところ | |||
| でした。 | |||
F発祥の地:説明文 |
G現在の「日本大通り」 |
||
| 「記念碑』というものは | |||
| ありませんが、「看板」が | |||
| 建っており、その説明文は | |||
| 『旧外国人居留地と日本人 | |||
| 街を区分する街路で、慶応 | |||
| 2年(1866年)の大火災後 | |||
| に防火帯を兼ねて計画・整 | |||
| 備された日本における近代街路の発祥地である。 | |||
| 当初は12mの中央道の左右3mの歩道と9mの植樹帯が設けられていた。 | |||
| 設計者プラントンは、横浜公園や旧居留地下水道など横浜の都市基盤整備に主導的 | |||
| な役割をはたしたイギリス人技術者である。沿道には、神奈川県庁本庁舎、旧英国総 | |||
| 領事館、旧横浜商工奨励館、旧横浜地方裁判所、三井物産横浜ビルといった歴史的建 | |||
H早朝の「日本大通り」 |
物が集積し、横浜でも有数の歴史的景観を形成している。 | ||
| 所在地:中区日本大通り | |||
| 構造・規模:幅員36m | |||
| 建設年代:明治4年(1871年)〜明治12年(1879年) | |||
| 設計:R.H.プラントン 施行:不明』 | |||
| 左の写真は、県庁を背にして写したもので、中央には | |||
| 「横浜スタジャム」の外野席照明スタンドが映し出され | |||
| ております。(朝、早いので人、車影ありません) | |||
| ★ 日本大通りで「フラワーアートフェスティバル」開催 | |||
| 5月2日から4日まで、日本大通りの車道で「フラワ |
I待機中の「観覧台」 |
||
| ーアートフェスティバル」が開催されました。 | |||
| 私は3日の朝5時半に家を出て、6時をチョッと回った | |||
| 頃現地に到着しましたが、既に24〜5名の写真愛好家の | |||
| 皆さんがパチパチ。「花絵」は、いや〜綺麗ですね! | |||
| 新聞報道によりますと、開港150周年記念イベントで、 | |||
| 前日の午後から市民ボランティア約1,800人の皆さんが、 | |||
| バラ約18万本、チューリップ約6万本の「花びら」を道 | |||
| 路に敷きつめて、「花絵」作りに取り掛かり幅9m、長さ220mの「花絵」が夕方に完 | |||
| 成したとのこと。ボランティアの皆さん本当にご苦労様でした。感謝いたします! | |||
| 右の「ペリー提督」「全 |
Jぺりー提督(小池さん撮影) |
K「全景」(小池さん撮影) |
|
| 景」の二枚の写真は、小池 | |||
| 芳光さんが、昼間「観覧台」 | |||
| (高さ10m、500円)から | |||
| 撮った写真を、本HP「お | |||
| 便り」コーナーに投稿いた | |||
| だいたものを、“矢張り高 | |||
| い所から撮らないと、本当 | |||
| 良さは分らない!”ということと、まだ小池さんの「お便り」をご覧になっていない | |||
| 方用に拝借いたしました。(小池さんの「お便り」もご覧ください。なお、私は500円 | |||
| をケチった訳で無く、朝早いため観覧台が閉鎖されていましたので、念のため!) | |||
Lお花畑その1 |
Mお花畑その2 |
Nお花畑その3 |
|
| 2009. 5.10 | 清水 | 第5回水彩風景画個展17点の詳細説明(その3) | ![]() |
| 第5回水彩風景個展17点の詳細説明(その3) | 横浜市 清水 有道 | |
| 今年、3月東京計器OB会ホーム・ページの作品コー |
第5回水彩風景画個展「会場入り口」 |
||
| ナーに掲載いただいた、(2000年から昨年2008年までに | |||
| 描いた風景画を中心に)その中から絵葉書に作った17点 | |||
| について、作者として作品を描いた動機や裏話、作品に | |||
| 込めた意気込み等について、少し書いてみましょう。 | |||
| 今回は、前回の(その2)の続きで、 | |||
| 今後(その5)まで掲載を予定しています。 | |||
| 「北山崎海岸風景」 2001年8月制作 F6サイズ(41x32) | |||
| 過去何回も同じ場所で描いているが、その都度新しい | |||
「北山崎海岸風景」 |
感慨を覚える風景である。それもその筈、当日の気象に | ||
| よって風景を受け入れる印象ががらっと変わってしまう | |||
| からである。このスケッチのときには、滅多にないよう | |||
| な好天に恵まれ、筆者の受けた感慨は最もフレッシュな | |||
| もので、まるで初めて出会った景色に思えた。断崖の表 | |||
| 面の色合いは太陽の光によって、千差万別の変化をする | |||
| ので、逆に見た感じを頭に焼き付けてその場を立ち去っ | |||
| たほうが安定した色を付けられるように思えるから不思 | |||
| 議である。刻一刻の変化を見詰めていると、彩色を施す | |||
| チャンスを逸してしまいそうだからである。 | |||
| 「支笏湖と恵庭岳」 2006年5月制作 F6サイズ(32x41) | |||
| 支笏湖を訪ねたことは数回になるが、残念ながら未だ | |||
「支笏湖と恵庭岳」 |
恵庭岳(エニワダケ1320m)にも樽前山(タルマエヤマ | ||
| 1041m)にも登っていない。メモリーに残す心算で描い | |||
| た作品である。色を足したり、アクセントを添える物が | |||
| 何も見付からず、早春の雪の残る北海道の湖畔の寂しい | |||
| 絵になってしまった。人の気配のない、ただ強い風が吹 | |||
| き渡る湖面の波のそよぎだけが作品の信憑性を示してく | |||
| れている。地元出身の実業家婦人が育ったところの思い | |||
| 出を傍に置きたいからと求めてくれた。このような役に | |||
| 立つことも嬉しいことである。 | |||
| 「剣山」 2007年8月制作 F4サイズ(24x33) | |||
| 襲来中の台風にまともに出くわしてしまい、前日には | |||
| 石鎚山の登山を諦め、強風雨の中を祖谷(イヤ)谷に逃 | |||
「剣山」 |
れ、その次の日も剣山に向かう車道は制限以上の風雨の | ||
| ため閉鎖されて、通れなかったのを、土地の町役場から | |||
| 特別の許可を貰って自己責任で通過し、山腹の宿に泊る | |||
| ことが出来たお蔭で、翌日東京へ戻る日の午前中にどう | |||
| にか頂上を極めることが出来たのはせめてもの救いだっ | |||
| た。 | |||
| このときの激しい気流が動く空を、何とか記録の意味 | |||
| も含めて、絵に残したくて描いた作品で、筆者としては、 | |||
| この辺の感じは十二分に表現できたと気を良くしたが、 | |||
| 如何であろうか。 (その3 終わり) | |||
| 2009. 5. 2 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その4) | ![]() |
| “発祥の地”を訪ねて!(その4) | 横浜市 小田 茂 | |
| 6.「洋式公園」発祥の地 | |||
| 日本最初の「洋式公園」は“山手公園(中区山手町230 |
@「洋式公園」発祥の碑 |
||
| 番地)”で、我が家から徒歩で20分位の所にあります。 | |||
| 明治3年(1870年)に開園いたしましたが、説明文に | |||
| よりますと「慶応3年(1866年)に外国公使団との間で | |||
| 結ばれた『横浜居留地改造及競馬場、墓地等約書』に基 | |||
| ずき幕府によって認められ、競馬場の方は“根岸競馬場” | |||
| と実現しましたが、公園計画は具体化しないままでした。 | |||
| 明治2年(1869年)に居留民代表から改めて要求が出 | |||
A説明版 |
B説明版の当時の公園風景 |
されたことに際し、山手妙 | |
| 香寺付近の土地6,000坪を日 | |||
| 本政府は貸与した。』との | |||
| ことです。 | |||
| また、公園の造成は居留 | |||
| の人々が行ったそうです。 | |||
| 山手公園の周りの道が桜 | |||
| 道と言われる位、今年も見 | |||
| 事な桜の花を咲かせ、大勢の方々を楽しませて呉れました。 | |||
| 7.「日本庭球」発祥の地 | |||
| 「日本庭球」発祥の地は |
C「日本庭球」発祥の碑 |
D緑に囲まれテニスを楽しむ若人 |
|
| 「山手公園」の中にありま | |||
| す。 | |||
| 明治11年(1878年)近く | |||
| の居留地に住む婦人たちが、 | |||
| テニスクラブを結成し(現 | |||
| 在の横浜インターナショナ | |||
| ルテニスクラブ)5面のテ | |||
| ニスコートを建設したとのこと。 | |||
| 現在は、丘の中腹のためテニスコートは3箇所に分れ5面、3面、2面(数自信なし) | |||
| と各々緑豊な樹木に囲まれたコートであります。 | |||
| 夏は一汗かいたあとの木陰の風は爽やかだろうな!と思いながら、若人の試合を一 | |||
| 時観戦! | |||
| ≪ 番 外 編 ≫ | |||
| ★『開国博Y150』4月28日開幕。前日の招待『内覧会』に参加して! | |||
| 横浜開港150周年記念イベント『開国博Y150』が、4月28日から9月27日まで開催さ | |||
| れます。28日開幕を控えた前日の27日にベイサイドエリアの“有料会場”の「内覧会」 | |||
| が実施されました。この「招待券」を幸運にも知人から貰うという機会に恵まれ、早 | |||
| 速、ベイサイドエリアである赤レンガ倉庫周辺へ出掛けました。 | |||
E会場周辺(旗とランドマーク) |
F記念キャラクター |
G下記掲載の会場 |
|
| 「ベイサイドエリア」には、7つの会場があり、その内3会場が“有料会場”です。 | |||
| 今回は、下記の会場のみをご紹介して、後は“見てのお楽しみ!”といたします。 | |||
| なお、「象の鼻会場」会場は、6月2日オープンを目指して現在工事中です。 | |||
| ☆ NISSAN Y150ドリームフロント&スーパーハイビジョンシアター | |||
| (1)「スーパーハイビジョンシアター」 | |||
| スクリーンが540インチ、畳50畳分の大きさです。 | |||
| 場内に入るとスクリーンの大きさにビックリ。あまり |
H530インチ(ねぶた祭り) |
||
| 前だと首が疲れると思い最後尾を確保し、全部背もたれ | |||
| 付きの立ち席です。したがって写真も前の人の頭が主役 | |||
| になって“ねぶた祭り”の迫力伝えられません。残念! | |||
| NHKが開発したというが、超高精細映像と立体音響 | |||
| は、正に“ド迫力!”です。 | |||
| テーマは「こどもたちと感じる未来と想像力」という | |||
| ことで、10分間の上映ですが、人と自然が共生する大切 | |||
| な日本の物語を伝えています。特に「蒸気機関車」・「ねぶた祭り」の迫力は感動も | |||
| のでした。 | |||
I電気自動車(運転席ビボ君) |
(2) 電気自動車 | ||
| 日産の電気自動車ビボ君の案内で、日産が描く | |||
| 「思いやりの未来」が数あるテレビ画面に映り | |||
| 出されます。 | |||
| 地球に優しい電気自動車を目の前に見て、近い | |||
| 将来、こんな可愛い乗り物が街中を走る姿が | |||
| 瞼に映りだしました。 | |||
J地球型バルーン |
|||
| (3) コトバパーク | |||
| 地球環境の大切さを、電気自動車ビボ君に | |||
| 再教育?された後、いろいろな色の葉型の | |||
| 紙に各人が「思いやり活動」を書き込み、 | |||
| このコトバの“葉”を地球型バルーンの中 | |||
| に入れ “葉”は舞い上がっていきます。 | |||
| ★ よこはま“スプリング フェア”『花壇展』5/6まで 山下公園 | |||
| 帰り道、周遊会場の一つ |
K横浜市長賞 |
L横浜開港150周年協会会長賞 |
|
| である「山下公園会場」で | |||
| “スプリング フェア” | |||
| 『花壇展』が開かれており | |||
| ました。見事な美しさなの | |||
| でご紹介いたします。 | |||
| 写真の最後の3枚は、私 | |||
| が「港ヨコハマ」に相応し | |||
| との思い(氷川丸が映っているなど)で入選外の作品から選んだものです。 | |||
M横浜市会議長賞 |
N横浜市環境創造局長賞 |
O花壇展審査委員長特別賞 |
|
P私の推薦(1) |
Q私の推薦(2) |
R私の推薦(3) |
|
| なお、本番の方は、この会場では、ペリー来航時の外輪型帆船が来て、黒船体験ツ | |||
| アーが5/3〜5/10に予定され、夜間ライトアップは5/2からです。 | |||
| 2009. 4.27 | 清水 | 第5回水彩風景画展17点の詳細説明(その2) | ![]() |
| 第5回水彩風景個展17点の詳細説明(その2) | 横浜市 清水 有道 | |
| 今年、3月東京計器OB会ホーム・ページの作品コー |
第5回水彩風景画個展「案内状」 |
||
| ナーに掲載いただいた、(2000年から昨年2008年までに | |||
| 描いた風景画を中心に)その中から絵葉書に作った17点 | |||
| について、作者として作品を描いた動機や裏話、作品に | |||
| 込めた意気込み等について、少し書いてみましょう。 | |||
| 今回は、前回の(その1)の続きで、 | |||
| 今後(その5)まで掲載を予定しています。 | |||
| 「十二湖に映る崩山」 2003年8月制作 F8サイズ(46x38) | |||
| 今回の展示作品の中で最も大きな作品である。日本の | |||
| 世界遺産の一つとして青森県と秋田県に跨る白神山地の | |||
「十二湖に映る崩山」 |
麓にひろがる十二湖は、裏磐梯の五色沼のように、たく | ||
| さんの湖沼がそれぞれに特有の色合いを競い合って、見 | |||
| 事である。とてもこれが自然が織り成す景色の虚飾のな | |||
| い姿とは思えない。この沼は確か「青沼」と呼ばれてい | |||
| たと記憶しているが、コバルト・ブルーの水面に決して | |||
| 高くもないのにがれた山肌の切込みをおどろおどろしく | |||
| 写し返している様は確かに見事な景色である。それ自体 | |||
| がまさに絵画そのものと言えようか。色の取り合わせが | |||
| 文化勲章作家の東山魁夷の世界が見えると評してくれた | |||
| 何人かの友人があった。確かに湖岸に白馬を描けば似通 | |||
| った構図になるかもしれない。 | |||
| 「湯野浜温泉の夕陽」 2005年8月制作 F6 サイズ(32x41) | |||
| 夕陽は日本の何処にいても見られるが、言葉で表すこ | |||
「湯野浜温泉の夕陽」 |
との出来ない、荘厳な、燃焼の真っ最中のような夕陽の | ||
| 名所はそうやたらにあるものではない。日本海では夕陽 | |||
| の名所はたくさんあるが、この湯野浜温泉もその代表と | |||
| して相応しいものの一つと言っていいだろう。 | |||
| 空と太陽と海以外には何もない。波すら感じられない。 | |||
| その風景を筆にするときに助けてくれるものは唯一前景 | |||
| あるのみである。きらめく赤、黄、橙、紫の彩(イロド | |||
| リ)を、そして空と海で反射しあい、鬩(セメ)ぎあっ | |||
| を発しながら色を重ねたことであった。でも完成した作 | |||
| 品には充分納得が行っている。 | |||
| 「真夏の参道―亀岡文殊堂」 2005年8月制作 F6サイズ(41x32) | |||
「真夏の参道―亀岡文殊堂」 |
|||
| 東北ドライブ旅行の帰路、米沢市の郊外を車窓から眺 | |||
| めていると、ふと目に入った伽藍や屋根の覗くこんもり | |||
| した森に気が惹かれた。日本の三大文殊と言われるだけ | |||
| あって、なかなかの風情のあるところだった。木漏れ日 | |||
| の射す参道は魅力に満ちていた。しかし、参道の木立は | |||
| 意外と書き難い対象であると感じた。 | |||
| (その2 終わり) | |||
| 2009. 4.24 | 小田 | 横浜市街に“巨大くも”現れる! | ![]() |
| 横浜市街に“巨大くも”現れる! | 横浜市 小田 茂 | |
| 横浜開港150周年記念イベント「開国博Y150」のプレイベント! | |||
| 4月19日快晴に恵まれた日曜日、新聞報道を見て、女 |
巨大くも1 |
||
| 房と二人で出かけました。横浜公園(横浜スタジアム) | |||
| より、日本大通りから県庁方面を見れば、大変な人出、 | |||
| しばし座れる場所を確保していましたが、一向に現れる | |||
| 様子がありません。躊躇する女房を促し、かって知った | |||
| る地元の強みで、出発方面へ人込みを掻き分けて向いま | |||
| ました。“大正解”でした。“巨大くも”は、まだ出発 | |||
| せず、赤レンガ倉庫でパフォーマンスを披露中。 | |||
巨大くも2 |
この“巨大くも”は、フランスのアート劇団「ラ・マ | ||
| シン」のショーで、“巨大くも”自体は高さ12m、重さ | |||
| 37トンとビックリする大きさです。14人?の操縦士が呼 | |||
| 吸ををあわせて、操縦しているそうです。また、クレー | |||
| ンの先に陣取り生演奏も素晴らしいものでした。 | |||
| “巨大くも”足の合間に見えるのが、横浜港大桟橋に | |||
| 停泊中の「モナリザ号」(28,891トン)の華麗な姿が見え | |||
| ますが、煙突部分に「モナリザ」の微笑している姿が描か | |||
| れているのが大変印象的に残ります。 | |||
華麗な“モナリザ号” |
モナリザ号の煙突部分 |
残念なことに大桟橋に行 | |
| うと思っていましたが、そ | |||
| の前に汽笛を鳴らして、出 | |||
| 港してしまいました。 | |||
| W巨大くも”のパフォーマ | |||
| ンスの方は、地上に置かれ | |||
| た鉄パイプから火が噴出し、 | |||
| W巨大くも”が水を掛ける | |||
| のですが、上から降ってくる水しぶきだけを浴びるだけで、よく見えませんでした。 | |||
| おお!“巨大くも”がもう一匹現れました。 |
巨大くも3 |
||
| 迫力ある二匹のW巨大くも”を後にして、また、県庁 | |||
| 方面へ戻りましたが、もの凄い人、人。沿道を埋め尽く | |||
| した人達を目にしながら、「申し訳けないがあと1時間 | |||
| 位待たなければ来ませんよ!」と思いながら歩いていま | |||
| した。小さいお子さんを見ると2〜3時間待っているの | |||
| が、本当に気の毒に思いました。 | |||
| しかし、“巨大くも”のパフォーマンスを目の辺りに | |||
| した時は驚きと感動で、長時間待ったことなど吹っ飛んでしまうことでしょう! | |||
巨大くも4 |
巨大くも5 |
巨大くも6 |
|
| 翌日の新聞報道によると、沿道に訪れた人は50万人とのこと。(昨年、2年ぶりに | |||
| 開催された“国際花火大会”が51万人) | |||
| ちなみに、“巨大くも”の一匹は、4月28日から閉幕の9月27日まで、赤レンガ倉 | |||
| 庫近くの広場「はじまりの森」(入場有料)で、イベントのシンボルと披露されます。 | |||
| 2009. 4.21 | 三橋 | 茅ヶ崎春のイベント大岡越前祭 | ![]() |
| 茅ヶ崎 春のイベント 大岡越前祭 | 茅ヶ崎市 三橋春夫 | |
| 今、横浜は開港150周年記念行事で連日賑わっています。テレビ・新聞などは機械 | |||
| 仕掛けで動く巨大なクモのパフォーマンスを紹介しています。同じ神奈川県の茅ヶ崎 | |||
| 市も4月はイベントが盛りたくさんです。天気がよかったので取材をしてきました。 | |||
| そのT 忠相公を偲ぶ墓前法要 | |||
| 去る4月18日(土)、19日(日)の両日、第54回大岡越前祭は浄見寺と茅ヶ崎駅周 | |||
| 辺で開催されました。大岡祭は茅ヶ崎にゆかりのある江戸時代の名奉行・大岡越前守 | |||
| 忠相公を偲び、その偉業を伝える祭です。 | |||
浄見寺で行われた墓前法要その1 |
18日(土)、茅ヶ崎市北部、我が家から徒歩で15分、 | ||
| スリーハンドレッド・クラブに隣接する忠相公の菩提寺・ | |||
| 浄見寺で、浄土宗僧侶20数名による読経、大岡家や市・ | |||
| 県関係者による焼香の後、江戸木やり保存会の皆さんに | |||
| よる伝統の江戸木やりも奉納される墓前法要が行われま | |||
| した。 | |||
| もともと大岡家は茅ヶ崎・堤村を領地として治めてお |
浄見寺で行われた墓前法要その2 |
||
| り、二代目当主忠政が初代忠勝の追善のため建立したの | |||
| が浄土宗・浄見寺です。ズタジイ、タブノキ、モチノキ | |||
| などの大木が茂る裏山の一角には大岡家初代忠勝から十 | |||
| 三代忠綱までの墓があり、近くにある茅ヶ崎里山公園な | |||
| どを含めた手ごろな散策コースとして、市内外の大勢の | |||
| 方々が訪れています。浄見寺は市指定の史跡となってい | |||
| ます。 | |||
| そのU 越前行列とビッグ・パレード | |||
神輿のパレード(イトーヨーカドー前) |
翌19日、汗ばむ日曜日の13時過ぎから恒例の「越前行 | ||
| 列とビッグパレード」が始まりました。神輿パレード、 | |||
| マーチング・バンドや鼓笛、交通安全を呼びかける20数 | |||
| 台のハーレーダビッドソンやサイドカーなど大型バイク | |||
| のパレード、最後は服部茅ヶ崎市長扮する忠相公が街中 | |||
| を練り歩く越前行列など、総勢2000名のビッグ・パレード | |||
| でした。 | |||
越前行列の先頭「奴」行列1 |
越前行列の先頭「奴」行列2 |
馬上姿の茅ヶ崎市長扮する忠相公の行列 |
|
| そのV 宇宙飛行士・土井隆雄さんの「手形」除幕式 | |||
| 大岡祭とは別に茅ヶ崎駅北口ペデストリアン・デッキ上では、昨年3月、スペース | |||
| シャトル・エンデバー号に搭乗し、「きぼう」船内保管室の取り付け作業に従事し、 | |||
| 無事帰還した茅ヶ崎市ゆかりの宇宙飛行士・土井隆雄さんの手形モニュメントの除幕 | |||
| 式が行われました。同8月、土井さんは上記の功績により茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞し | |||
| ています。 | |||
| このペデストリアン・デッキには、やはり当地出身の宇宙飛行士・野口聡一さんと | |||
| 俳優の加山雄三さんの手形モニュメントも設置されています。当地にお越しの節には、 | |||
| 一度ご覧になってください。 | |||
土井隆雄さんのモニュメント |
野口聡一さんのモニュメント |
加山雄三さんのモニュメント |
|
| そのW まだ続くイベント! 「湘南祭2009」 | |||
| 湘南祭は、毎年4月に開催される大岡越前祭の一環として、「市民参加型の祭」を | |||
| 合言葉に、今から15年前にスタートしました。今年は4月25日、26日の両日、近くの | |||
| 沖に烏帽子岩が見える「サザン・ボーチちがさき」で開催されます。くじ付き協賛券、 | |||
| ビーサン跳ばし、ストライク・ビゴ、ビーチで福釣り、ストリートモーション・コン | |||
| テスト、ビーチ・サッカー大会、桑田佳祐杯パドルレース・コンテスト、スキムボー | |||
| ド・コンテスト、マウンテン・ボードの他杉山清貴さん出演のFM湘南ナパサ生放送 | |||
| などが予定されています。26日は天候がよければ地引き網も行われます。 | |||
茅ヶ崎デザインのアロハシャツ |
湘南屋台村には40店以上のいろいろな店が出店する予 | ||
| 定です。茅ヶ崎市役所の職員はクールビズにアロハシャ | |||
| ツ姿が定着しています。ハワイほど派手さはないですが、 | |||
| なかなかよいデザインのシャツが揃っています。 | |||
| 7月中旬に開催される、もう一つの茅ヶ崎名物行事「浜降祭」が済むと、湘南地区 | |||
| は本格的な夏に入ります。 | |||
| 2009. 4.15 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その3) | ![]() |
| “発祥の地”を訪ねて!(その3) | 横浜市 小田 茂 | |
| 5.「西洋理髪」発祥の地 | |||
| 私の自宅から徒歩で30分位の所に、横浜の名勝地の一つの「山下公園があります。 | |||
| この公園の一角に「西洋理髪発祥の地」の記念碑が建てられています。 | |||
| 記念碑は、山下公園の「赤い靴はいてた女の子」像の後方、30〜40メートル位の所に | |||
| 建てられています。 | |||
| この記念碑は平成元年に、神奈川県理容環境衛生協同組合と全国理容環境衛生協同 | |||
| 業組合連合会が寄贈したものでありますが、地元の人にもあまり知られていない。と | |||
| いうのは、公園を訪れる人の流れが、海岸縁の「横浜港大桟橋に停泊の大型船」「氷 | |||
| 川丸」、「赤い靴はいている女の子」の方に眼が移り、公園の真ん中ほどの道の目立 | |||
| たない場所に建っているため、チョット淋しい存在であります。 | |||
西洋理髪発祥の地記念碑 |
顔には「ZANGIRI」と書いてあり、この彫刻名 | ||
| は「ザンギリ」であります。刻印をみれば、 | |||
| 『“〜ザンギリ頭をたたいてみれば | |||
| 文明開化の音がする〜” | |||
| 安政の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか政 | |||
| 府の「断髪令」に先がけ、明治2年(1869年)横浜に我 | |||
| が国初の「西洋理髪店」が開業され、欧米風「ザンギリ | |||
| 頭」は文明開化の一翼を担うこととなった。』 | |||
| 「断髪令」とは、正式には「散髪脱刀令(さんぱつだ |
記念碑の説明文 |
||
| っとうれい)」のことで、明治4年(1871年)に明治政府によって出された大政官布告で、「散髪脱刀令」は | |||
| 府によって出された大政官布告で、「散髪脱刀令」は髷 | |||
| (まげ)を禁止して散髪を強制する布告ではなく、髪型 | |||
| を自由にして構わないという布告であります。 | |||
| “ザンギリ(散切り)”を辞書で引くと、『さかやき | |||
| をそらずに髪を切り乱すこと』とあり、“さかやき(月 | |||
| 代)”を辞書で引くと、『江戸時代、男子がひたいから | |||
| 頭の中央にかけて頭髪をそったこと(部分)』と書かれています。 | |||
| 実際に西洋理髪業が本格的に始まるのは「断髪令」以降とのこと。 | |||
| 6.「外国郵便」創業の局 | |||
「外国郵便創業の局」の銘板 |
現在の日本の郵便制度は、明治4年(1871年)3月1日 | ||
| に東京−大阪間に導入されました。 | |||
| 郵便制度発足当時は、日本の郵便は外国には直接郵送 | |||
| できませんでした。この時期、日本にはフランス、イギ | |||
| リスなどの郵便局があって、これら外国郵便局を利用し | |||
| ていました。 | |||
| 日本の郵便を外国に直接出せるように、外国郵便局の | |||
| 業務を明治8年(1875年)1月5日に横浜郵便局(現在 | |||
| の横浜港郵便局)に移管してからです。ただし、このと |
外国郵便開始80周年記念像 |
||
| きはアメリカ宛だけでした。世界各国に出せるようにな | |||
| ったのは、明治10年(1877年)6月20日からです。 | |||
| 外国郵便局がすべて撤退したのは、明治13年(1880年) | |||
| 3月です。 | |||
| 横浜港郵便局は、日本大通りに面し、道路越えに神奈 | |||
| 川県庁が建ってます。 | |||
| 「外国郵便創業の局」の銘板は、入口の階段、エスカ | |||
| レータの右横の壁面に、銘板には「明治8年1月5日創業」と刻印されています。 | |||
| また、入口左脇には、外国郵便開始80周年を記念して設置されたブロンズのエンゼ | |||
| ル像があり、「郵便は世界を結ぶ」と記されています。 | |||
| ちなみに、日本で最初のポストは明治4年(1871年)に設置され、「書状集箱」と | |||
| 呼ばれました。現在のポストの正式名称は「郵便差出箱」ということだそうです。 | |||
| ≪ 番 外 編 ≫ | |||
| ★ 横浜公園 (サクラの次は私の出番と、咲き誇るチューリップ!) | |||
| 横浜公園は、私の自宅から徒歩で35分の所で、JR根岸線「関内駅」下車徒歩3分 | |||
| の所で横浜市庁舎の側面に位置します。 | |||
| 明治9年(1876年)、外国人と日本人が共に利用できる日本最初の洋式公園として | |||
| 開園されました。園内には我国最古の公園の碑があるのですが、現在「日本庭園」工 | |||
| 事中で写真は撮れませんでした。 | |||
| 横浜公園の設計者は、明治元年(1868年)政府の招聘 |
R・H・ブラントン像 |
||
| により来日した、英国人土木技師R・H・ブラントンで | |||
| 日本各地の灯台を建設。8年間にわたる活動の拠点とし | |||
| ていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うな | |||
| ど、横浜の近代的な街造りに大きな足跡を残しました。 | |||
| 6万3000u余りの敷地内には、横浜スタジアム、噴水、 | |||
| 日本庭園、遊具がありますが、何といっても今の時期で | |||
| すと、私の地元中区の“区花:チューリップ”です。 | |||
小学生が植えたチューリップ |
小学生が植えたチューリップ |
毎年、地元の小学校の生 | |
| 徒さんをはじめ市民の皆さ | |||
| んの手によって植えられた、 | |||
| 16万本のチューリップが咲 | |||
| く横浜公園では桜に変わり | |||
| “チューリップまつり”が | |||
| 4月24日(金)〜26日(日) | |||
| から始まります。 | |||
| ただ、心配するのは私が写真を撮ったのは、12日の日曜日で、それこそ「満開」に | |||
| 近いような状況で、鑑賞にお出掛けなら、18(土)、19日(日)頃と思いますが! | |||
花名:ヨコハマ |
花名:ヨウキヒ(楊貴妃) |
花名:レフェバースメモリー |
|
咲き誇るチューリップ |
咲き誇るチューリップ |
咲き誇るチューリップ |
| 2009. 4.13 | 清水 | 第5回水彩風景画展17点の詳細説明(その1) | ![]() |
| 第5回水彩風景個展17点の詳細説明(その1) | 横浜市 清水 有道 | |
| 今年、3月東京計器OB会ホーム・ページの作品コー |
清水有道さん |
||
| ナーに掲載いただいた、(2000年から昨年2008年までに | |||
| 描いた風景画を中心に)その中から絵葉書に作った17点 | |||
| について、作者として作品を描いた動機や裏話、作品に | |||
| 込めた意気込み等について、少し書いてみましょう。 | |||
| 【事務局注1・作品コーナーを見るには、作品展→絵画 | |||
| →第5回水彩風景画展→説明文で見られます】 | |||
| 【事務局注:月2回(その5)まで掲載します】 | |||
| 「紅葉の森」 2000年11月制作 F3サイズ(タテ27xヨコ22x) | |||
| 栃木県の当時の矢板市、塩原町と藤原町に跨る高原山 | |||
『紅葉の森』 |
(タカハラヤマ)の鶏頂山、御岳山、釈迦ヶ岳(最高峰 | ||
| で1794.9m)を登った後、あまりの紅葉の美しさに見惚 | |||
| れて、いったん日塩(ニチエン)もみじラインを塩原の | |||
| 終点まで走り、すぐツツジで有名な八方ヶ原を抜ける八 | |||
| 方ヶ原高原道路を回って矢板市へ抜ける途中、ちょうど | |||
| 高原山の東側山麓で見付けた風景である。 | |||
| 手前に描いた小木の黄色の広い葉がもみじの赤を引き | |||
| 締める効果を出しているのではないかと、実は密に悦に | |||
| 入った作品である。 | |||
| 「清秋の湖 ―北海道オンネトー湖」 2002年9月制作 F6サイズ(41x32) | |||
| 無音に近い静寂の大自然の中で、澄み切って、深い湖 | |||
『清秋の湖 ―北海道オンネトー湖―』 |
水に鮮やかな秋の色を愛でることが出来た。作品の題名 | ||
| を付けるときに、この情景をどう表現すべきか苦しんだ | |||
| が、季語の「さやけし」を思い出し、「清秋」という言 | |||
| 葉を冠してみた。 | |||
| ところが、偶然なことに、昨年2008年10月1日(水) | |||
| の日本経済新聞夕刊の連載コラム「季語の道端」に写真 | |||
| 家の野呂希一氏が時期の風景として「さやけし」と題し | |||
| てオンネトー湖を紹介されている文章に出くわした。 | |||
| 曰く、『さやけし』は「明けし」あるいは「清けし」 | |||
| 「爽けし」と書き、秋の季語とされています。どの漢字 | |||
2008.10.1日経夕刊より(オンネトー湖) |
を選んでも、澄んだ空気がさわやかで、すがすがしい明 | ||
| るい景色を思い浮かべる言葉です。 | |||
| この三つの漢字がすべて当てはまりそうなのがオンネ | |||
| トーという小さな湖。マリモで知られる阿寒湖の近くに | |||
| あり、神秘的な水の青さから北海道の三大秘湖の一つに | |||
| 数えられています。(残り文章略)』。 | |||
| それにしても名の通った芸術家が同じ場所で、同じ思 | |||
| いを感じられたことを知り、筆者もいっぱし芸術を理解 | |||
| できる領域に近付いているのかと聊か意を強くしたこと | |||
| であった。 | |||
| 「コスモスの咲く由布岳」 2006年10月制作 F6サイズ(32x41) | |||
『コスモスの咲く由布岳』 |
|||
| 上部が岩肌で覆われた山には、どうしても近景に秋を | |||
| 示す色が欲しくなる。夏から咲き続けているサルビアの | |||
| 赤といろいろな色の彩なすコスモスは格好の助人に思わ | |||
| れた。 | |||
| (その1 終わり) | |||