| 話 題 『 よもやま話 』-12 | 2009年1月〜2009年4月 | |
| 2009. 4. 9 | “発祥の地”を訪ねて!(その2) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009. 3.22 | 東京計器と共に昭和を綴って(その13最終回)投稿;野村光雄 | ![]() |
| 2009. 3.14 | “発祥の地”を訪ねて!(その1) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009. 2.25 | 東京計器と共に昭和を綴って(その12) 投稿;野村光雄 | ![]() |
| 2009. 2.20 | 福島信夫三山暁まいり 投稿;白坂正一郎 | ![]() |
| 2009. 2. 8 | 「相模野基線」を歩く 投稿;砂田定夫 | ![]() |
| 2009. 1.25 | 「二列目の人生」と「ひとつとなりの山」 投稿:清水有道 | ![]() |
| 2009. 1.18 | 東京計器と共に昭和を綴って(その11) 投稿;野村光雄 | ![]() |
をクリックすると記事詳細が表示され、
をクリックすると予定・報告の一覧表に戻ります。
青色の枠で囲まれた
は、クリックすると図や写真が大きく表示されます。
| 話 題 『 よもやま話 』 |
| 2009. 4. 9 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その2) | ![]() |
| “発祥の地”を訪ねて!(その2) 横浜市 小田 茂 | |||
| 4.「近代競馬場」発祥の地 | |||
| 「近代競馬場」発祥の地(横浜市中区根岸台)は、本牧の我が家裏の「本牧山頂公園」 | |||
| (米軍接収後返還されて公園となる)から、近道で徒歩45分位のバス停「滝の上」に | |||
| 出て、その真正面にあります。 | |||
| 現在は、「根岸森林公園」、「中央競馬・馬の博物館」、「観戦スタンド」の一部 | |||
| がある「モーガン広場」、「米海軍基地」となっています。 | |||
| 「根岸森林公園」の入口 |
「根岸競馬場」説明 |
左写真拡大(明治30年代競馬場) |
|
| に「根岸競馬場」が誕生し | |||
| た時の説明文があります。 | |||
| 《説明文の概要》 | |||
| 『慶応2年(1866年)に | |||
| この地に幕府の手によって | |||
| 日本最初の近代競馬場が外 | |||
| 国人遊歩道に沿う根岸の丘 | |||
| に設置されて(14,920坪)、 | |||
| 「根岸競馬場」が誕生いたしました。翌3年に第1回競馬会が開催されました。 | |||
| 新スタンド(馬見所)が昭和5年(1930年)に完成しました。昭和17年(1942年) | |||
| 秋のレースを最後に、昭和18年(1943年)日本海軍に、昭和22年(1947年)米軍に接 | |||
| 収され、昭和44年(1969年)「観戦スタンド」と現「米海軍基地」を除く部分が返還 | |||
| され「根岸森林公園」となり、「観戦スタンド」は、昭和57年(1982年)に返還され、 | |||
| 横浜市の管理となりました。』 | |||
「根岸森林公園」運動場 |
目を楽しませています |
現在は、市民の憩の場と | |
| して、梅、桜、ハナミヅキ、 | |||
| アジサイ等々「森林公園」に | |||
| 相応しい木々で覆われた自 | |||
| 然環境の中に、家族連れを | |||
| はじめ、ジョギングをして | |||
| いる老若の元気な姿が多く | |||
| 見られます。 | |||
| 森林公園よりチョット小高いところに、現在も「米海 |
米海軍基地 |
||
| 軍の基地」があり、そんなに広くはない基地内には「日 | |||
| 米の国旗」が掲揚されていました。もともと、日本海軍 | |||
| に接収されたのも競馬場から横須賀軍港が一望でき、海 | |||
| 軍の通信所として適所であったと言われています。現在 | |||
| の米海軍基地も米海軍横須賀の分室のようです。 | |||
| 私の自宅附近の本牧一帯は。昭和60年代まで米軍の家 | |||
| 族用住宅で占められていました。返還後は現在の「本牧 | |||
| マイカル」を始めとした道路沿いの商業地区と当時“億 | |||
| ション”と言われたマンションのオンパレードであり、隔世の思いであります。 | |||
| 「根岸森林公園」に隣接の「米海軍基地」の直ぐ後に「観戦スタンド」すなわち | |||
| 「一等馬見所」の一部が現在でも残っております。 | |||
「一等馬見所」スタンド |
昭和5年完成:蒲田本社・工場 |
昭和5年に完成した威厳 | |
| のある「一等馬見所」を見 | |||
| ながら、昭和5年といえば、 | |||
| 東京計器が小石川から蒲田 | |||
| に本社・工場を完成され「デ | |||
| パートのような近代工場」と | |||
| も言われ当時としては超モ | |||
| ダンな建物と“同期生”な | |||
| のだと、東京計器生活の中の大半を過ごした昔の建物、時計台、大理石のトイレ等を | |||
| 思い出し、「一等馬見所」の残骸?を眺めながら非常に感慨深い一時を味わいました。 | |||
| 「根岸競馬場」は、昭和12年(1937年)に「日本競馬会・横浜競馬場」と呼ばれるよう | |||
| になりました。 | |||
| 競馬場「観戦スタンド」は、一等馬見所、二等馬見所、下見所等の施設があり、全 | |||
| ての施設は、アメリカ人建築家J・Hモーガン(1877-1937年)による設計でした。現在 | |||
| は「一等馬見所」の一部だけが残っている場所を、J・Hモーガンの功績を讃え「モー | |||
| ガン広場」とし、幾つかの案内文が建てられています。 | |||
モーガン案内 |
モーガン案内 |
モーガン案内 |
|
| 「根岸森林公園」の一角 |
馬の像 |
乗馬練習所 |
|
| に、「根岸競馬記念公苑」 | |||
| があり、その中に「中央競 | |||
| 馬・馬の博物館」が建てら | |||
| れ、また「ポニーセンター」 | |||
| では乗馬の訓練が行われて | |||
| います。 | |||
| ≪ 番 外 編 ≫ | |||
| ★ 三 溪 園 (横浜市中区本牧三之谷) | |||
| 三溪園は、自宅から徒歩で20数分のところにあります。 |
三溪園 |
||
| 三溪園は、生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪 | |||
| によって、外苑は明治39年(1906年)開園、原家の私邸 | |||
| であった内苑は昭和33年(1958年)公開されました。 | |||
| 53,000坪(175,000u)の園内には10棟の重要文化財を | |||
| 含む17棟の古建築物があります。 | |||
| 「三重塔」は、京都燈明寺にあったものを、大正3年 | |||
| 3月に移築したものです。康正3年(1485年)の建立で、 | |||
| 関東地方では最古の塔であると同時に、移築されたもの | |||
| とはいえ、横浜市最古の建築物です。 | |||
| 桜も有名ですが、今年は3月29日現在で、まだ1分咲きです。朝から観光バスは多 | |||
| 数来ていましたが、本来ならば今年は29日は最高のお花見だった筈です。「桜」の方 | |||
| も天候不順で、準備は出来ているのですが、何時開花して良いのか戸惑っているよう | |||
| です。 | |||
“桜道”の満開桜 |
昨年の三溪園入口 |
この様子ですと、4月の | |
| 第1週の土・日曜日が良い | |||
| のではないでしょうか。 | |||
| ちなみに、65歳以上の入 | |||
| 園料は、横浜市民で「長寿 | |||
| のしおり」を持参すれば | |||
| “無料”、市外在住者はシ | |||
| ニア料金で300円です。 | |||
| 追記: 上記写真左は、三溪園へ行く途中の“桜道”のバス停の脇の一本だけが、 | |||
| 種類が違うと思いますが満開!、右は三溪園入口の昨年のものです。 | |||
| “桜道”を通り抜けて信号を渡って、三溪園の通りに入って、すぐ左側に地元の人 | |||
| にしか知られていない“亀の子石”というのがありますので、紹介します。由来は、 | |||
| 『大昔のこと、漁師の網 |
“亀の子石” |
由来説明版 |
|
| にかかった大亀がそのまま | |||
| 石に化したのだと伝えられ | |||
| ている。いつの頃からか、 | |||
| この“亀の子石”は「のど | |||
| を守る神」、特に百日咳の | |||
| 効験ありとして信仰され、 | |||
| 百日咳などを患うと、この | |||
| 神様から、“たわし”を借りてのどをこすり、また小児が食した茶碗を、このたわし | |||
| で洗うと不思議に咳が治ると言われている。三七(サンシチ)の結願で治ると“亀の | |||
| 子たわし”を倍にして返礼する習わしである。』 | |||
| そういえば、新しい“亀の子たわし”が幾つか乗ってますね! | |||
| 2009. 3.22 | 野村 | 東京計器と共に昭和を綴って!(その13 最終回) | ![]() |
| 東京計器と共に昭和を綴って!(その13最終回) | 野村光雄 名誉会員 | |
| 35.谷間の人間と呼ばれて (平成14年会報第52号掲載) | |||
| 明治が華麗に開花を、昭和という新しい日本が生まれたのも、大正という辛抱強く | |||
| 心優しい裏方があればこそであった。 |
関東大震災(大正12年) |
||
| ある友人は『大正生まれは高齢化社会の青年部だ』と | |||
| 言った。思わず拍手である。 | |||
| 次ぎに、物事を忘れることとボケは違うと、あるドク | |||
| ターは書いておられる。 | |||
| 物忘れは子供にも若い人にもある。 | |||
| 二、三度忘れたからといって『ああ!自分はボケが始 | |||
| まった』と思うのはやめましょう、とあった。 | |||
| 大正生まれの青年部よ、意地を示せよ、わが人生! | |||
| 36.余生を見つめて (平成14年会報第52号掲載) | |||
| 人は誰でも、歳を重ねるにつれて、自分の人生の砂時計の残りが気になる。さらさ | |||
| らと落ちる砂の音に怯え、焦り、達観した振りをする。老境を迎えて尚生きるとは何か。 | |||
| 正者必滅、会者定離は浮世の定めとはいえ、昨年ほど自分の友人で他界された人達 | |||
| が多い年も珍しい。 | |||
| 人の生死は天地の運行と同じ自然のならいであれば悲しむことではない。と言って | |||
| しまえば、それまでだが、天候の不順が、あの世に旅立たれた人たちの死期を早めた | |||
| のではの想いにかられる。 | |||
| 37.中12期 (平成14年会報第52号掲載) | |||
| 正者必滅、会者定離、時は流れ、風景は変わったけれど、あの日の感激は今も心に | |||
| 流れている。 | |||
| 悲しいことだが、歳を取ると葬式に出ることが多くなる。当然のことながら、故人 | |||
| とは別れたくなかった。 | |||
| 葬式の列に並びながら想い起こせば、故人と過ごした素晴らしい時が想い起こされ | |||
| て悲しい。 | |||
| 故人の生前の面影が浮かび、この世の儚かなさに胸がふさがれる。 | |||
| 莫煩悩、天命を俟つ! | |||
| ≪事務局≫『東京計器と共に昭和を綴って!』は、今回をもって終了いたします。 | |||
| 野村さんは、平成19年1月12日に満百歳の誕生日をめでたく迎えられましたが、そ | |||
| の後、体調を崩され3月13日に惜しまれて他界されました。 | |||
| 野村光雄さんの『東京計器と共に昭和を綴って!』は、会報「けいき」第3号から | |||
| 『幻の小石川工場を尋ねて」をはじめとして第56号まで67編にわたって、会社のこと | |||
| 地元蒲田に関すること、エッセイ調に纏めた社会面の裏話など多岐にわたりご紹介く | |||
| ださいました。 | |||
| この素晴らしい記事を、新しい会員にも読んでもらおうということで、平成8年3 | |||
| 月から今回まで13回にわたり代表作を掲載しました。 | |||
| 後輩達に多大な教訓を与えてくださいましたことを、改めて感謝申し上げます。 | |||
| 掲載終了にあたり、改めて、野村大先輩の“ご冥福をお祈りいたします” | |||
| 2009. 3.14 | 小田 | 発祥の地(その1) | ![]() |
| “発祥の地”を訪ねて!(その1) | 横浜市 小田 茂 | |
| ≪はじめに≫ | |||
| 2月のトップ・ページで、野村一信本部幹事から「今年は横浜がアツい!」の記事 | |||
| の内容のように「横浜開港150周年」を迎え、数々のイベントが予定されております。 | |||
| 私も“浜っ子”の一人として、何か記念にと思い行動に移したわけです。 | |||
| 私は横浜市中区に住んでいます。中区というのは横浜 |
浜っ子の小田です |
||
| の中心を意味し「中」とつけたと思われるが、区内には | |||
| JRの桜木町・関内・石川町駅があり、@県庁、市庁舎 | |||
| など官庁をはじめとするビル街、Aランドマークタワー、 | |||
| 横浜港大さん橋、山下公園、山手外人墓地、三渓園、横 | |||
| 浜中華街、伊勢佐木町・元町の商店街等々観光的にも有 | |||
| 名なものが沢山あり、Bそして私の住んでる本牧(ホン | |||
| モク)方面の住宅街と多彩な顔をもっております。夜の | |||
| 人口(住民)より昼間の人口が数段多いところであります。 | |||
| この中区には、『発祥の地』というのが沢山存在いたします。開港150年を記念して、 | |||
| 何回かに分けて、我が家の周辺(中区)にある「発祥の地」をご紹介いたします。 | |||
| ただ、掲載写真については、全くのド素人なのでデジカメの性能だけが頼りですので | |||
| ご容赦ください。 | |||
| この「発祥の地」をご覧いただき、皆さんの住んでいるところで、“発祥の地”と | |||
| か“日本一”と称するものなどがありましたら、ドンドンご投稿いただけることを強 | |||
| く願っているところであります。どうかよろしく! | |||
| 1.「君が代」発祥の地 | |||
| 「君が代」の発祥の地は“妙香寺”(中区妙香寺台8)にあり、自宅(本牧)から徒 | |||
| 歩で15分のところです。参道の入口には『國歌君が代由緒地』の碑が出迎え、階段を | |||
| 登りつめたところの「山門」には“本牧山”と書かれています。 | |||
『國歌君が代由緒地』碑 |
「山門」 |
「妙香寺」 |
|
| 明治2年(1869年)の秋、英国公使の擁護のため横浜に駐屯していた英国陸軍常備 | |||
| 歩兵隊10連隊第1隊所属軍楽長ジョン・ウイリアム・フエントンが妙香寺に宿泊して | |||
| おり、日本語は知らない彼が作曲したメロディを基にしたものである。 | |||
『國歌君が代』発祥の地碑 |
歌詞は、平安時代に詠まれた和歌「和漢朗詠集」を基 | ||
| にしたそうです。 | |||
| 明治3年(1870年)9月わが国最初の陸軍観兵式に際 | |||
| して明治天皇の前で初めて演奏されました。 | |||
| その後、明治13年(1880年)になって宮内省楽師・奥 | |||
| 好義が作曲、海軍軍楽雇いのドイツ人エッケルトが洋楽 | |||
| に編曲して公表されたのが現在の「君が代」であります。 | |||
| 2.「日本吹奏楽」発祥の地 | |||
| 同じ妙香寺境内の中に、日本吹奏楽発祥の地碑があります。碑文(裏面)によると | |||
| 『明治2年(1869年)10月,薩摩藩の青年藩士30余名が当妙香寺に合宿し英国陸軍第 | |||
| 10連隊第1大隊属軍隊の指導者ジョン・ウイリアム・フ |
「日本吹奏楽」発祥の地碑 |
||
| エントン(John William Fenton) から吹奏楽を学びまし | |||
| た。これが日本人による吹奏楽団創立の序であり、吹奏 | |||
| 活動の緒となりました。 | |||
| 発祥から120年にあたる平成元年(1989年)日本吹奏 | |||
| 楽が悠久に発展することを祈念し、ここに吹奏楽界同志 | |||
| に誘い、これを建立。 | |||
| 謹しで日蓮宗本牧山妙香寺に献呈するものである。 | |||
| 日本吹奏楽発祥の地記念碑建立発起人会 代表 春日 學 』 | |||
| 3.麒麟麦酒開源記念碑(日本最初のビール工場) | |||
| “妙香寺”から歩いて5〜6分の北方小学校の側に「麒麟園」(現在のキリン園公 | |||
| 園)に「麒麟麦酒開源記念碑」が建てられております。 | |||
「麒麟園」 |
「麒麟麦酒開源記念碑」 |
麒麟山手工場記念碑 |
|
| 石碑は大変大きく、土台は2m位の高さでキリン山手工場跡から掘り出されたレンガ | |||
| が使われ、その上に高さ6m、幅3m,厚さ0.6m位の一枚岩に見える石に碑文が刻みこ | |||
| まれています。 | |||
| こんなに大きいと「拓本」で数々の賞を得ている名人の大隅豊治さんでも大変だろ | |||
| うなと思いながら、碑文を見ると約1,000文字がビッシリ・・・ | |||
| 碑文の出だしの部分的だけを紹介しますと『安政五年徳川幕府が獨断専行して國を | |||
| 開くや歐米人續々として横濱に来りしが彼等は居留地と稱せらるゝ一區域の中に居住 | |||
| す天沼は此居留地に属し・・・・ 明治5年米人ダブリウ・コープランド此處に工場 | |||
| を建設し・・・・』 昭和12年1月に建てられたものであります。 | |||
| ここ北方小学校付近はビール醸造業発祥の地で、清泉が湧出していたそうです。こ | |||
| の碑があるキリン園公園から北方小学校へ向かう道は、“ビヤザケ通り”と呼ばれて | |||
| います。 | |||
| 北方小学校の正門脇敷地 |
ビール醸造に使われた井戸 |
井戸の説明文 |
|
| 内には、明治21年(1888年) | |||
| から此処でビールが作られ、 | |||
| 明治28年〜34年(1895年〜 | |||
| 1901年)までビール醸造に | |||
| 使われた井戸が残っており、 | |||
| ビヤザケ通りから柵越えに | |||
| 見ることができます。 | |||
| ≪ 番 外 編 ≫ | |||
| ★ 函館高速船『ナッチャンWorld』横浜港に入港! | |||
| 横浜港、函館港と共に開港150周年を迎え交流を深めるため東日本フェリー(函館 | |||
| 市)高速船『ナッチャンWorld』が2月28日横浜港大さん橋国際客船ターミナルに入 | |||
| 港、3月2日まで接岸。 | |||
| 函館=青森航路の新型高速船で、双胴船の船体には小 |
『ナッチャンWorld』 |
||
| 学生によるタコや魚等のイラストが色鮮やかに描かれて | |||
| いました。 | |||
| 1日と2日に各2時間づつ、船内の一般公開がされま | |||
| した。久し振りの好天に恵まれましたので私も参加しま | |||
| したが、日曜日で大変な人出、90分並んで待って、いよ | |||
| いよ乗船、1階・2階は車の収納場所、エスカレーター | |||
| で3階の椅子席の客室、4階は窓際豪華なテーブル・椅 | |||
| 子が並べられ、あとは売店があるくらいで甲板にも出られず、会社の製品が使われて | |||
| いるかなーと期待していたが、それも見られず20分間の乗船で終わりでした。チョッ | |||
| ト残念な気持ち!それでもまだまだ、乗船できないで並んでいる大勢の人達の前を通 | |||
| り過ぎる時は、何かチョット満足な気持ちでした。 | |||
「船尾」 |
「1階駐車場」 |
「船首」 |
|
| ★ 世界最大級の豪華客船『クイーン・メリー2』横浜港初入港 | |||
| 世界最大級の豪華客船『クイーン・メリー2』(151,400トンが3月6日午前6時半 | |||
| ごろ横浜港に初入港。午後5時には出港し香港に向いました。 | |||
| 『クイーン・メリー2』は総トン数151,400トン、全 |
『クイーン・メリー2』 |
||
| 長345m、(東京タワー333m、横浜ラウンドマーク296mの | |||
| 高さです)、全幅39.9m、乗客定員2,592名、乗組員数 | |||
| 1,253名と正に豪華ホテルですね。 | |||
| また、横浜港大さん橋国際客船ターミナルへの寄港は、 | |||
| あまりにも船体が大きく、世界最大級の斜張橋を誇る横 | |||
| 浜ベイブリッジの橋下約55mでもくぐれず、横浜港大さん | |||
| 橋国際客船ターミナルに接岸できず、鶴見区の貨物船用 | |||
| の大黒ふ頭にやむなく接岸となりました。平成元年(1989年)に開通した横浜ベイブ | |||
| リッジ関係者も、15年後の平成17年(2004年)に就航した『クイーン・メリー2』の | |||
| ような馬鹿でかい船が現れるとは想像もしていなかったのであろう。当日はあいにく | |||
| の大雨と接岸場所が遠いので見学を断念しましたが、来年2月19日に横浜港に寄港が | |||
| 決まっているそうですが、横浜港大さん橋国際客船ターミナルに接岸は矢張りダメで | |||
| すね! | |||
| (注)『クイーン・メリー2』の写真は朝日新聞社撮影 | |||
| 2009. 2.25 | 野村 | 東京計器と共に昭和を綴って!(その12) | ![]() |
| 東京計器と共に昭和を綴って!(その12) | 野村光雄 名誉会員 | |
| 33.『ゴシップ』物語(抜粋) (平成7年会報第39号掲載) | |||
| (1) ベターハーフ | |||
| 英国圏では、夫が妻を『ベターハーフ』と呼ぶそうだ。 |
結婚 |
||
| 直訳すれば『より良き半分』。一時、日本国内でもこの | |||
| 言葉がブームになって、今でも結婚披露宴の席でよく聞 | |||
| かれる。なぜ伴侶を『ベスト』と呼ばないのか。 | |||
| ある人曰く『未完成の二人が一緒になって、初めて完 | |||
| 成されるから』また、人曰く『お互いが善い縁となり、 | |||
| 共に完成を目指す意味だから』中には『ベストと思える | |||
| 意中の人が他にいても、もう少し身近な人と結婚する方 | |||
| がうまくいくという教訓』と解する人もいる。 | |||
| (2) 中 国 料 理 | |||
白菜 |
『中国料理の中で一番うまいものは何だとおもいます | ||
| か』こう聞かれた時は『そうですねえ、フカヒレのスー | |||
| プなのかなあ』などと。 | |||
| 『それはねえ白菜なんですよ』『えッ白菜』『白菜と | |||
| いうやつは肉やサカナと一緒に煮ますとね、たっぷりと | |||
| その味を吸い込むんですねえ。それにもかかわらず白菜 | |||
| 本来の味を何時までも失わないんです。』 | |||
| そのため古来、中国料理で最高の味とされているもの | |||
| は白菜と相場が決まっているのだという。当方としては、へえ、そんなものかなあと、 | |||
| ただ感心するばかりである。 | |||
| (3) お 茶 漬 け | |||
| 京都では、訪問先で『お茶漬けでも』と言われても断るのが礼儀と聞く。が、それ | |||
| で『京都人は口と腹が違うなどと批判するのは間違い』とある女子大の助教授が語っ | |||
| ている。 |
お茶ずけ |
||
| お茶漬けの誘いは親愛と謙遜の気持ちを表す。手間や | |||
| 迷惑を考えれば断るのが当然で、相手の心を思い、質素 | |||
| に、驕らずに。『利休以来の茶の哲学が生きているので | |||
| す』。 | |||
| お茶屋で『あいにくどす』と一見客を断るのは、それ | |||
| が付加価値を高める。遊べる客は特別扱いに満足し、他 | |||
| の人には、行ってみたいと思わせる。いわば京の商いの | |||
| 本道をいく。 | |||
| 34.片 言 隻 語 (抜粋) (平成7年会報第39号掲載) | |||
| 筆は中国の殷の時代に既に使われていたという。古代の筆は小動物の毛をたばねて | |||
| 穂としたものを、割った竹や木ではさんで外から紐で巻いていた。 | |||
弘法大師 |
其の後さまざまな工夫がこらされるが、日本には9世 | ||
| 紀の初めに弘法大師、空海が唐から帰国して広めたとさ | |||
| れる。空海は実際に筆を作らせており、作品を時の朝廷 | |||
| に献じた。タヌキの毛を用いたもので、真・行・草・写 | |||
| 書用の四種類あったというから(弘法筆を選ばず)は俗 | |||
| 説なのだろう。 | |||
| 空海が嵯峨天皇と共に筆の二聖、橘逸勢を加えて三筆 | |||
| と呼ばれていることはよく知られている。最澄に送った | |||
| 書状『風信帖』などに残る筆跡は、王義之や顔真卿の流れをくみ乍ら自由闊達、自在 | |||
| の妙を示しているという。 | |||
| (2) 人生にも挫折が | |||
| 最初にガンの宣告を受けた時、将棋の15世名人、大山 |
将棋のこま |
||
| 康晴さんは『あッ、しまった』とほぞをかんだ。次に | |||
| 『なぜ、気がつかなかったか』という腹だたしさを感じ | |||
| た。 | |||
| 然しその次の瞬間『ガンなら仕方ないな』と割り切り、 | |||
| 後はベストを尽くすことだと自分に言い聞かせた。8年 | |||
| 前の体験をそう記している。最初の『しまった』から | |||
| 『仕方ないな』まで、ほんの20秒か30秒だったという。 | |||
| それを将棋で悪手を差した時にたとえてもいる。将棋にも人生にも挫折はある。ガ | |||
| ン手術後の昭和61年には名人戦の挑戦者になるなど、不死身の勝負師振りを見せつけ | |||
| た。好んで色紙に記した字は『忍』その不屈の精神で幾多の苦境を乗り切ってきた。 | |||
| 5歳年長の兄弟子で実力制第4代名人・升田幸三さんとは167局指した。名人位を | |||
| 奪われ奪い返し、盤前で2千時間、が、『言葉を交わしたのは1時間もない』と勝負 | |||
| の執念を燃やした。15世名人にして永世10段、永世棋聖そして永世王将とその称号は | |||
| 永遠に残る。 | |||
| 2009. 2.20 | 白坂 | 福島信夫三山暁まいり | ![]() |
| 福島信夫三山暁まいり | 福島市 白坂正一郎 | |
|
日本の奇祭の一つとして、小生地元福島市に300有 | ||
| 余年の歴史を持つ“羽黒神社への大わらじ奉納と暁まい | |||
| り”があります。 | |||
| 大わらじは、昔、羽黒神社に仁王門があり、安置され | |||
| ていた仁王様の足の大きさに合った大わらじを作って奉 | |||
| 納したことが由来とされています。 | |||
| 因みに日本一の大わらじは長さ12m、幅1.4m、重さ2 | |||
| トンあり、担ぎ手100余人で五穀豊穣を祈願して市内 | |||
| を練り歩きます。 | |||
| 到着場所は市内に鎮座する山伏の修行地でもあった信夫山(昔、双差しの技巧派と | |||
| して関脇を長く務めた同じ名前の相撲取りを覚えておられる方もいらっしゃるのでは | |||
| ないでしょうか、(“信夫山”は自慢の郷土力士でした)その信夫三山の一つ羽黒神 | |||
| 社に奉納されます。 | |||
| 例年2月10日〜11日に、この行事は行われていますが、今回、この神社の御神札売 | |||
| りを依頼され、買う立場から白衣を身に纏い、売る立場になりました。 | |||
| その目線で、朝から神社での準備、大わらじ奉納、参拝者の動向など紹介してみます。 | |||
| 朝、神社を管理している山伏保存会会長の自宅から、鍵を借用し神社の各扉、社務 | |||
| 所等の開錠、境内の強風で落ちた杉の小枝、残雪など処理し、宮司を待って三山の御 | |||
| 神札、お守り、破魔矢、絵馬、福まさる(福島特有かな、別名“去年のまさる”・・・・ | |||
| これを持つと昨年より今年は良くなるの意)を揃え、スタンバイ。 | |||
| 準備中の露天商で30年も店を出している“だるま”売りの業者との雑談も楽しい。 | |||
| 「今まで四駆でスタッドレスタイヤにチェーン装着でないと登れなかったのに…今年 | |||
| は雪も無く、暖かく異常天候だね」「昔の参拝客は、必ず“だるま”を買って帰った | |||
| よ。ただ、昔は麓から歩いて登ったので、“だるま”を担いで神社まで何往復したこ | |||
| とか、でも売り場に並べると直ぐに売れたので張合いがあったなあ−」など昔話。 | |||
| 今では、大わらじが到着までの間、参拝客は健康志向なのでしょうか、リックを背 | |||
| 負った中高年の人たちが多く見受けられました。確かに御神札やお守りなどを買う人 | |||
| はいても“だるま”を手にした人は少なかったですね。 | |||
| さて、交通規制の中、市内を6時間掛けて練り歩き、 |
大わらじ奉納予定順路 |
||
| 我々の待つ羽黒神社に大わらじが最後の急な石段を駆け | |||
| 上がり到着、圧巻の櫓へ奉納が開始されます。 | |||
| 市の大きなイベントとしてテレビ局のカメラやラジオ | |||
| のレポーター含め、午後3時の奉納の瞬間には多くの観 | |||
| 衆が境内に溢れていました。 | |||
大わらじをやぐらに滑車で吊り上げ中 |
大わらじの最上部をやぐらに取り付け中 |
大わらじをやぐらに取り付け奉納 |
|
| 昔は巨大な杉木に掲げていましたが、昭和51年の火事で杉が消失、現在は櫓(やぐ | |||
| ら)に吊るします。その奉納の時の写真を添付いたします。 | |||
| 社務所の御神札売りも、この奉納前後がピークでしたが、深夜まで続きました。破 | |||
| 魔矢を飲み屋の女性に配るといって26本(1.000円/本)を纏めて買う太っ腹な人もい | |||
| ましたよ。 | |||
| その他のイベントとしては、地元の太太神楽(だいだいかぐら)公演2回、山伏保 | |||
| 存会の松明点火式、護摩が夕刻に行われました。 | |||
| 小生の小学生時代は“暁まいり”というように夕方から徹夜で実施、遠方からの参 | |||
| 拝客も多く、朝まで休みなく露天もやっていました。当然市内の映画館も深夜営業で | |||
| 客多数、真冬の冷え込んだ時間帯でしたから初電までの間、“だるま”片手に寝場所 | |||
| にしていた方も多かったようです。深夜に急傾斜な雪の積もった山道を滑って転んだ | |||
| り、多数の人々と汗をかきながら連なって山登り、鈴を鳴らすのが面白かった。帰り | |||
| には“だるま”や“柚子飴”、“福まさる”を買って帰った楽しい懐かしい想い出が | |||
| あります。 | |||
| 興味ある方は、来年、是非お出でください。ただ、足腰が弱い方には厳しいので、 | |||
| 鍛え直してチャレンジして欲しいですね。露天業者と神社関係者以外の方は、麓の駐 | |||
| 車場から徒歩で30分位の急な山道を神社まで登ることになります。 | |||
| 2009. 2. 8 | 砂田 | 「相模野基線」を歩く | ![]() |
| 「相模野基線」を歩く | 相模原市 砂田定夫 | |
| 〜わが国最初の三角測量の軌跡〜 | |||
| 日本の三角測量は「相模野基線」(武遠三角網)から始まった。三角測量とは、基 | |||
| 線を鋼製スケール等で精確に実測し、これを底辺として頂点に対する角度を精密に測 | |||
| 定すれば、三角法の正弦の法則(三角形の内角と一辺とを測量すれば、他の二辺は計 | |||
| 算によって求められる)によって位置と距離が求められる測量法である。 | |||
相模野基線図 |
この「相模野基線」は明治15(1882)年、陸軍省参謀 | ||
| 本部測量課(後の陸軍陸地測量部、現在の国土交通省国 | |||
| 土地理院)が定め、同年9月〜10月にかけて測量され、 | |||
| 全長が 5209.9697 mと算定された。 | |||
| この地が選ばれた理由は、標高差僅か20 m余の平坦で | |||
| 見通しの効く広い台地だったこと、更に周囲に三角を描 | |||
| くための適当な山があったことである。この約 5.2 km | |||
| の直線を見通せるように樹木は伐採されたという。この | |||
| 相模野基線を基点として日本全国の三角点網が作られることになり、大正14年に全国 | |||
| の5万分の1地形図が完成することになる。このような基線は、全国で15箇所設けら | |||
| れた。 | |||
| この相模野基線の北端点がわが相模原市内にあり、南端点がお隣の座間市にあると | |||
| いうことをつい最近知った。教えてくれたのは筆者の所属する日本山岳文化学会の仲 | |||
| 間で、同じ相模原市に住むS氏である。S氏はそのことを(社)日本山岳会の松田雄 | |||
| 一氏(第一次登山ブームのきっかけとなった昭和31年マナスル初登頂のときの登山隊 | |||
| 員の一人)と別件で電話をしているとき、教えてもらったという。 | |||
| 興味を持ったS氏は調査をしたり、一部実踏したりしてその位置を確かめた上で文 | |||
| 化学会のメンバーに声をかけ、南端点から中間点を経て北端点まで見て歩こう、とい | |||
| うことになった。このメンバーは、同じ分科会で登山史に関する話題を肴に盃を交わ | |||
| す山好き酒好きの仲間である。 | |||
相模野基線南端点 |
相模野基線中間点 |
相模野基線北端点 |
|
| 平成20年9月24日、小田急江ノ島線の南林間駅に10名が集った。S氏のガイドで市 | |||
| 街を歩き出して20分で、最初の南端点に着いた。座間市ひばりが丘1丁目の、ある病 | |||
| 院の敷地内にあり、解説盤の奥に雑草に囲まれた一等三角点(74.8 m)があった。 | |||
| ちょっと見落としそうな所である。次の中間点は座間市相模が丘2丁目にあったのだ | |||
| が、探し当てるのに時間がかかった。桜並木の近くで細い道路のマンホールの中にあ | |||
| り、中間点と表示のある蓋を開けるとちゃんと四等三角点の標石が設置されており、 | |||
| 近くにはロータリークラブが建てた説明板があった。最後に訪れたのは北端点で、相 | |||
| 模原市麻溝台4丁目にあり、S氏の近所であり、筆者の家からも自転車で行ける位置 | |||
| にある。ここは玉砂利が敷き詰められた中に一等三角点(97.0 m)が置かれ、市の教 | |||
| 育委員会が設けた立派な解説盤もある。市によって力の入れ方の差が感じられた。こ | |||
| の日は残暑で汗ばむ陽気であり、直線で 5.2 kmでも実際の歩程は 10 km 近く市街を | |||
| 歩いたと思われる。汗をかいた後は先ず相模原市立体育館内のレストランで生ビール | |||
| のジョッキを傾けて喉を潤し、更に相模大野駅前の居酒屋で締め括りとなった。 | |||
| 〜長津田高尾山と鳶尾山に登る〜 | |||
長津田高尾山一等三角点 |
後日(11月13日)S氏から「相模野基線踏査」の続編 | ||
| として、最初に三角測量された二つの三角形の頂点を訪 | |||
| ねようと声がかかり、4人のメンバーで出かけた。相模 | |||
| 大野駅に集合し、S氏の車で先ず横浜市緑区長津田町に | |||
| ある一つの頂点、長津田高尾山を訪ねる。畑地のある小 | |||
| 高い台地の一角にあり、「高尾さま」と呼ばれる飯縄 | |||
| (イイヅナ)権現堂の前に一等三角点(100.4 m)が設置 | |||
| されていた。飯縄権現は有名な八王子市の高尾山の飯縄 | |||
| 大権現を勧請したという。 | |||
| この日は温暖で快晴、湘南から大山、丹沢はじめ、もう一つの頂点、鳶尾山の丘陵 | |||
| までよく見渡せた。 | |||
| その鳶尾山(トビオサン、地元では「トンビョウサン」 |
鳶尾山一等三角点 |
||
| と呼んでいる)へ車で向かう。八菅(ハスゲ)修験にゆ | |||
| かりある八菅神社を経て「いこいの森」の駐車場まで行 | |||
| き、そこから歩き出した。暫く車道を歩いて登山道に入 | |||
| ると、落葉を踏んでの尾根道となり、やがて鳶尾山の広 | |||
| 々した山頂に着いた。位置は厚木市と愛甲郡愛川町の境 | |||
| 界で、そこに一等三角点(235m)がある。この三角点は | |||
| 一時、麓の中学校の近くに移設されていたが、再びここ | |||
| へ復帰したという(細かい事情は知らない)。見晴らしがよく、新宿の超高層ビル群 | |||
| や横浜のランドマーク タワーまで見えた。更に1km 尾根を行くと、展望塔のあるピ | |||
| ークがあり、ここには日清戦争で戦死した軍人の戦没記念碑があった。この丘陵は晩 | |||
| 秋から春にかけて、陽だまりの散策コースとしてなかなか良い所である。ひと汗かい | |||
| た後は、酒好きのメンバーゆえ、小田急相模原駅近くのそば屋で盃を酌み交わしたこ | |||
| とは言うまでもない。 | |||
| 2009. 1.25 | 清水 | 「二列目の人生」と「ひとつとなりの山」 | ![]() |
| 最近読んだ本『二列目の人生』と | ||
| 『ひとつとなりの山』 | 横浜市 清水有道 | |
| 筆者はドイツ文学者で学園紛争の最中に東大教授を辞 |
「小説宝石」表紙・光文社 |
||
| した名文家 池内紀氏の著作が好きである。多作の人な | |||
| ので全てを読破することなど今の筆者の自由時間ではと | |||
| ても無理なことで、勢い好みに合せて選んでの読書とな | |||
| る。その中で、次の二作にいかにも池内氏の真髄を見る | |||
| 思いがする。それらは『二列目の人生 隠れた異才たち』 | |||
| (晶文社刊)と『ひとつとなりの山』(2006年10月から | |||
| 『小説宝石』に18回にわたり連載され、今年に入って加 | |||
| 筆の上、『光文社新書』に収められた)である。 | |||
| 充分に実力がありながらマスコミの話題に乗らないとか、陰に隠れているその道の | |||
| 達人や特定の人が独断と偏見で選んだとも言えるいわゆる100名山などの呼び声に消 | |||
| されているその土地その土地の名山を掘り起こして、日を当てようとする試みに心か | |||
| ら拍手を送りたい気持ちがいっぱいになるからである。実のところ、わが国の学会や | |||
| 芸術文化界の大勢を眺めても、第2、第3のランクを占める達人の層が厚いことが特 | |||
| 徴の一つとして挙げられ、そのことが、わが国の国力を大きなものとして世界に向か | |||
| って喧伝しているところだと思われる。 | |||
| 筆者がいまこの二列目の人物やとなりの山を敢えて吟味したいのは、余りに今の日 | |||
| 本が実力主義というか、差別化された人を優遇したり、格差を当然のこととして容認 | |||
| し、差別化された人たちの仲間意識を盛り上げて、好みの生活を享受しようとする傾 | |||
| 向に甚だ疑問を持つからである。疑問を持てば持つほど、池内氏のようなアプローチ | |||
| の必要を痛切に感じるのである。ごく一握りの人だけではとても思ったことが出来る | |||
| 訳はなく、戦後の日本の発展にしても、すべての分野の男性が朝早くから夜遅くまで | |||
| あくなき努力を重ねた結果、今の日本の発展した社会が築き上げられたとは良く言わ | |||
| れることであり、この蔭にはいろいろな他人に言えない不自由と苦しみに必至に耐え | |||
| 抜いた、各家庭の主婦の献身的なサポートを考えなければならないだろう。ひとたび | |||
| 世の中が平和になれば、家庭の主婦は自分の権利ばかりを主張し、平等を謳う余り、 | |||
| 子供の教育や躾にも怠惰になり、ただ只管に自分の自由の謳歌に暇無しということが | |||
| 余りにも目立ち過ぎるのではないだろうかとの思いを強く感じるからである。 | |||
| 実力者であっても、その人をサポートする周囲の人々が無能であったり、働きが悪 | |||
| ければ、その実力者の力は少しも伝播されては行かないだろうから支える人々の重要 | |||
| 性は言わずもがな当然のことである。昔からよく言われる「あの人は副官向きだ、指 | |||
| 揮官としては使えないよ」というように自ずと役割分担が決められると思われるが、 | |||
| 今はかなり自選がものを言う時代であるから、特に筆者には、日本ではこの辺りの理 | |||
| 解に対する感覚が年々少しずつ欠如して来ているように思える。集団としての力の和 | |||
| をお互いに作り出す雰囲気はどの世界にも薄れて来ているのではなかろうか。結論は | |||
| ともかくこの辺りにして、少しばかり上記の2冊について読後感と思うところを記し | |||
| てみたい。 | |||
| 『二列目の人生』 | |||
| 『二列目の人生』では著者が述べているように、身近なところに実はすごい人が隠 | |||
| れていることを思い知らせてくれる。また、実力がありながら歴史の蔭に埋もれて日 | |||
| の目を見なかった人に日を当てるという地味ながら、人生にとって非常に参考になる | |||
| ことを教えられる思いがした。 | |||
「二列目の人生」表紙・集英社 |
本の帯にも書かれているように、いま一番を選ばない | ||
| 生き方を考えてみようとか一流を超えているのに名声よ | |||
| りも大切にするものがあって、敢えて自ら一流人になら | |||
| なかった人が大事であるし、素晴らしいと思えるのであ | |||
| る。 | |||
| 筆者は絵画と動植物に若い頃から興味を持ち続けてい | |||
| るため、著者が挙げられた人の中でも、市井の植物学者 | |||
| の南方熊楠と対比される同じ紀州の人、大上宇市(オオ | |||
| ウエ ウイチ)、女流画家として初めて文化勲章を受けた上村松園のライバルと言わ | |||
| れながら未だに余り口の端に乗らない島 成園、常に棟方志功を見返そうとの気持ち | |||
| はあれど作品では競えず、生まれた故郷の富山で一生を終えた篁 牛人(タカムラ | |||
| ギュウジン)と日本山岳会の設立に尽力し、多額の私財を投じながら初代会長には着 | |||
| かず、2代目の会長に甘んじた高頭 式(タカトウ ショウ)に強い感銘を覚えた。 | |||
| 人は有名になればなるほど、高名になればなるほど、修行時代や一人前になるまで | |||
| の競争者や同時代の同志の人々については伝記でも普通はあまり触れられない。特に | |||
| 昨今はトップ至上主義にも似た偏向がまかり通っているためか、必要以上にトップを | |||
| 褒め、余計ごとまで書き連ねる趣があるように思われるので、もう少し平等に、縦軸 | |||
| のみならず横軸にも目を向けて紹介して欲しいと思っていたので、久し振りに筆者の | |||
| 願望に沿った本に出合えた思いがした。 | |||
| 本の帯にも書かれているように、いま一番を選ばない生き方を考えてみようとか、 | |||
| 一流を超えているのに名声よりも大切にするものがあって、敢えて自ら一流人になら | |||
| なかった人が大事だし、素晴らしいと思えるのである。 | |||
| 『ひとつとなりの山』 | |||
| 『ひとつとなりの山』、この本も本当に面白い本である。あらゆるかしましさや賑 | |||
「ひとつとなりの山」表紙・光文社 |
やかな宣伝・案内に導かれて登る有名な山よりも一人静 | ||
| かに山や木々、植物、花鳥と対話できる登山の方がどん | |||
| なにか山好き人間に迎えられることかを実践されている | |||
| 著者ならではの本だと思う。特に老いてからの山登りは | |||
| 必ずしも頂を極めることが山登りでもなければ、好きな | |||
| ところで思う存分いい空気を吸い、気に入った風景を絵 | |||
| 画、詩歌、俳句に留めて満足する、これ以上の晴れ晴れ | |||
| とした時間の使い方もあるまいと思うからで、筆者のこ | |||
| れからの生き方の手本にしたい本だと思う。筆者が登っている山としては、秋田県の | |||
| 乳頭山、岩手県の早池峰山、栃木県の那須三山(茶臼岳から朝日岳を経て三本槍ヶ岳 | |||
| まで)、新潟県の八海山、長野県の独鈷山、山梨県の七面山、長野県の蝶ヶ岳、徳島 | |||
| 県の剣山への記述は非常に懐かしかった。 | |||
秋田「乳頭山」眺望 |
岩手「早池峰山」からの眺望 |
栃木 那須三山「朝日岳」(左)と「茶臼岳」(右) |
|
新潟「八海山」頂上展望台からの紅葉 |
長野「独鈷山」山頂・彼方には蓼科山 |
山梨「七面山」のガレ場 |
長野「蝶ヶ岳」の稜線より穂高連峰 |
徳島「剣山」南側の登山口 |
山形・新潟「日本国山」全景 |
|
| まだ登っていない山で、2〜3年の内に登りたいと密に計画している鹿児島県の開 | |||
| 聞岳、兵庫県の雪彦山、東京都八丈島の八丈富士、山形と新潟県の県境にある『日本 | |||
| 国』という不思議な名を持つ山についても楽しく、嬉しく読ませてもらった。 | |||
| 登山の最中にふと思い出す同じような風景、会った土地の人々の会話を外国での場 | |||
| 面を対比して考察するなど、ゆったりとした思索の旅のような風情がつくづく羨まし | |||
| く思った。 | |||
| 読み終えて、筆者も単なる山登り、山歩きではなく、動植物の観察、水彩スケッチ、 | |||
| 好みのアングルで切った写真、土地の風土記的な伝承との対比、土地の人々との会話 | |||
| や出来れば一緒の湯浴みをもっと広く、深く進めてみたいと、更に更に強く感じた次 | |||
| 第であった。 (2008年12月8日 記) | |||
| (注記)今回、雑誌の表紙3点掲載されていますが、各出版社の了解を得ています。 | |||
| 2009. 1.18 | 野村 | 東京計器と共に昭和を綴って!(その11) | ![]() |
| 東京計器と共に昭和を綴って!(その11) | 野村光雄 名誉会員 | |
| 32.巷間酒談義(上) (平成9年会報第43号掲載) | |||
| もし人生に酒がなかったら・・・という仮説は、現実にそぐわないかも知れないが、 | |||
| 何時も、そのことに思いを巡らせてしまう。 | |||
| (1)ネーミング | |||
| 明日は菊の節句。全国調査によれば、『菊』の字のつ |
第1位『鶴』の一つ |
||
| くのは菊駒(青森)、晴菊(埼玉)、代代菊(新潟)などなど。 | |||
| 何と全国に170もあったが、これは第6位とまだ序の口。 | |||
| 断然多いお目出度いのトップは、『鶴』の一声で 259 | |||
| 銘柄。次いで土地のイメージがだせる『山』207。以下 | |||
| 『正宗』191。『泉』178が上位5傑である。 | |||
| 醸造元が古いため主力商品は、どうしても古典的な名 | |||
| 称になるが、新顔にはユニークなものもある。『カープ』 | |||
| 『タイガース』などプロ野球やヒット曲からとった『二人酒』。更にはNHKの大河 | |||
| ドラマのタイトルなど。 | |||
| (2) 二日酔い | |||
| 『二日酔いするようじゃ、酒を飲む資格はありませんよ』と酒の先生・坂口博士は | |||
| こう言っていた。酒を楽しんでの長寿(97才)、左党には頼もしい話だが、勘違いし | |||
| てはいけない。飲み始めたのが40過ぎ、若い時に胸をやられ禁じられていたからだ。 | |||
| 台湾旅行中にすすめられて味を覚え、やせていた体にも肉がつき、以後、痛飲して | |||
| も平気で、普段よりも早く研究室へ。発酵菌で博士に。晩酌は80過ぎて『お茶代わり | |||
| に』3合に。文化勲章を受章した先生には及ぶべくもないが、適量を心得たい。とは | |||
| 分かっちゃいるけど・・・・。今夜も気を付けて、ご同役。 | |||
| (3) 河童の憲法 | |||
焼き鳥 |
柳の並木をよそに、なぜか『さくら通り』の名がつく | ||
| 福島県郡山駅前に焼き鳥屋『河童』がある。10数人が入 | |||
| れば一杯で、常連客はこの店に『河童の四成』なる“憲 | |||
| 法”があるのを知っている。曰く『席外献酒』『大声歌 | |||
| 唱』『席祖と問答』『乱酒暴論』のご法度。これを犯せ | |||
| ば追い出される。 | |||
| この店のできた昭和29年当時、郡山では切った張った | |||
| の事件が絶えず、『東北にシカゴ』などと呼ばれた。そ | |||
| れが店内に持ち込まれることもしばしばで、たまりかねた店主の渡辺さんが大書して | |||
| 張り出した。 | |||
| 10年前に詩人の草野心平さんが、これに違反して一喝された。居合わせた客と『席 | |||
| 外問答』して、ついに声が高くなったのだが、それが縁で、この高名な詩人との仲は | |||
| むしろ深まったのだから、この店主も不思議な人物だ。 | |||
| (4) 公取委困る | |||
| 中華料理で愛好される『紹興酒』名称帰属をめぐって、 |
紹興酒 |
||
| 公取委に難問が持ち込まれた。日中友好協会では紹興市 | |||
| 附近で製造される醸造酒の名称と言い、台湾側は一般名 | |||
| として通用しているし、日本酒が米国で作られたとして | |||
| も日本酒と言うのと同じ筈。 | |||
| 名前の由来というなら『南京豆』や『南京錠』だって | |||
| どこで作っても同じじゃないですか。と反論する。公取 | |||
| 委は困っている。 | |||