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| 29.宮大工の本領 (平成6年会報第37号掲載) |
| 『棟梁は木のクセを見抜いて、それを適材適所に使うことやね』、『木のクセをう |
| まく組むためには人の心を組まなあきまへん』。 |
| 宮大工の棟梁・西岡さんが先に文化功労者に決まり、この道一筋の年輪が数々の名 |
| 言を生ませたのであろう。氏の口伝『木に学べ』は木を語りそして建物人間を語って |
| いる。 |
| 明治41年、法隆寺棟梁の家に生まれ、昭和9年から20 |
宮大工 |
| 年間にわたる法隆寺の大修理が勉強ざかりで『大学どこ |
| ろか大大学へ行かせてもろうたようなもんだ』。 |
| “鉄を使うか使わないか”学者と大論争をやったのも |
| 『ヒノキの命のままが一番や』と大大学の勉強を知って |
| いたからだった。 |
| ヒノキがあって法隆寺千三百年の歴史である。 |
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| 30.アバンギャルトの浅草 (平成7年会報第38号掲載) |
| (1)50銭でフルコース |
| 昭和12〜13年の浅草をひと口で言えば、50銭で一日遊べる町だねと懐かしそうに語 |
| るのは、山の手に住むフトン屋のご隠居さん。 |
| 当時の住いは小石川、都電を乗り継いでの浅草行きは、まだ旧制中学生だった彼に |
| とっては大冒険だったのである。何しろ昼日中、学生服姿で歩いたり、女のコと手を |
| つないで歩こうものなら、お巡りさんに“補導”される時代だった。 |
| 映画と芝居をハシゴして、メシ食って、お汁粉食べて、ミルクホールでコーヒー飲 |
| んでシメテ50銭という按配です。 |
| 田谷力三の浅草オペラ、あきれたボィーズらのショウや軽演劇など、大衆料金で最 |
| 先端のエンターティメントが堪能できた浅草の思い出は、半世紀の流れた今でも鮮烈 |
| に焼きついているようだ。 |
| (2)デンキブランと共にモボ健在 |
| 50坪ほどの店内には、よく磨き込まれた6人掛けのテーブルがほど良い間隔で遊べ |
| られている。そうして居たのです。今では、これまた、ほど良く20年を召された往年 |
| のモボ連が、各テーブルに7人づつ、まだ昼下りだというのに、何と琥珀色の飲み物 |
| を召し上がっていらっしゃる。 |
明治45年当時の神谷バー |
デンキブラン |
現在の神谷バー |
| ここは浅草1丁目1番地。日本で一番古いバーと云われる“神谷バー”(創業明治 |
| 13年)として、ここの売り物が日本最古のカクテル『デンキブラン』である。 |
| 明治43年の新聞広告には『デンキブランデー、原料白ブドウ、電気応用、貯蔵久し、 |
| 香料特別上々』とある。モボはデンキブランと黒ビールや生ビールを交互に飲み、モ |
| ガは蜂ブドー酒を召し上がる。これが当時の一番ナウイデートのアイテムである。特 |
| に婦人方にはキネマ帰りの大冒険だった。 |
| (3)作家に因むあれこれ |
| 当時、“電気”という言葉をモダンというか新しいという意味で使っていたようだ。 |
| そう言えば、綿菓子を電気アメと言った時代もあった。萩原朔太郎は『神谷バーにて』 |
| という詩を書いた。小林秀雄は対談の中で『電気ブラン |
電気ブランとタバコ |
| と言うやつを私は愛好しているね。あれは安くて、なか |
| なかうまい酒でしたね』と。 |
| 神谷バーは二つの顔を持っている。一つは昼下りの常 |
| 連モボ氏の憩の場。あくまで紳士的だ。そうして残る一 |
| つは、午後5時以降の“下町の酒場”凡の顔。大正ロマ |
| ンの雰囲気」を味わいたい方は昼下りに。 |
| 永井荷風は浅草の洋食屋『アリゾナ』で倒れた。今は |
| 二代目、松本修は荷風先生へのあてつけという訳ではないが、和食懐石に変身してし |
| まった。新しがり屋の浅草っ子の血が、しっかり受けついでいるようだ。 |
| 江戸川乱歩は人嫌いであったからこそ、じろじろと顔を眺めたりしない、漠然たる |
| 群衆を、彼は一層愛したのであったかも知れぬ。 |
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| 31.遠き子供の夢 (平成7年会報第38号掲載) |
| 私が子供の大正5年の頃のこと。学校前の文房具店や駄菓子やの軒先に新聞紙を小 |
| さな三角の袋にしたのが糸で10個も20個も吊ってあって、これを2銭出して好きなも |
| のをひきちぎる。好きなのといっても、同じ袋だから中に何が入っているのか判らな |
| い。 |
| もちろん活動写真のフィルムの一駒である事は判っているのだが、何が当たるのか |
| の“あてもん”というお楽しみ。 |
| 大概は訳の判らぬ風景場面が多いのだが、時には思わざる大スターのそれもクロー |
| ズアップのフィルムに当たることがある。 |
| 一駒2銭でそのスター、エディ・ポロやメリー・ピックフォードを当てた時の嬉し |
| さ。けれども考えるとこれを当てるには20銭は投資したのであろう。 |
| また、写し絵といって、葉書よりやや小さい硝子枠の中に写真の印画紙をはさみ、 |
| 太陽にあて、ややたって取り出してその“タネガミ”を水につけると印画紙にスター |
| の顔がありありと浮かんでくる。これも連続活劇のスターのエディ・ポロやパール・ |
| ホワイトが多かった。かくの如く私らのジャリ時代は、ラジオもテレビもなく、どっ |
| ぷりと活動写真にひたっていたのいである。 |
| さて、昔のものでこの時季食べたいものは何だろうと考えたら『ミルクセーキ』が |
| 思い浮かんだ。 |
| 『氷屋の柱ンところにコップ受けみたいな金具が取り付けてあって、それに玉子と |
| 牛乳を混ぜたのを入れたコップをはめ込んで、ハンドルを廻すヤツ』である。 |
| 今のシャーペットなんてよりもっと目が荒くって20銭位したかな。かき氷(スイ) |
| が5銭で、種物(イチゴ・レモン・ブドウ)が8銭だったろうか。 |
アジサイ七変化 |
この間、銀座のパーラーでミルクセーキがあるってン |
| で頼んだ。そうしたら、あれの凍る前みたいなのに、氷 |
| を入れて来たんだ。 |
| みんな、ひと夏のうちに、一遍か二遍しか飲ませて貰 |
| えなかった。昔のミルクセーキを想い出し、ゴクッとツ |
| バを呑み込み、あの頃を偲んだ。 |
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| “漏れて咲く アジサイ初夏に 七変化” |
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| 『金だけが命』とか、『金を儲けて何が悪い』というような思想が蔓延して、金融 |
| 資本主義の名のもとに米英両国で大展開されたビジネス・マインドが、日本でも国の |
| トップから政・財界挙げてがむしゃらに信奉者を増やして、その挙句が『構造改革』 |
| の呼び声と共に、規制緩和や民営化が実行に移され、在来の秩序ある諸制度がごちゃ |
| 混ぜにされて、見るも無残にぶち壊され、元には戻れないようにされたばかりか、新 |
| たに大きな社会問題を生み出しつつ、世の中のいろいろな分野の仕組みが歪められて |
| る。筆者はこのことをただぽけっと指を咥えて見ている訳には行かないと思うのであ |
| る。筆者には、米国の住宅金融債権から始まり、各種の金融デリバティヴ(派生商品) |
| の統合、分離、組み替えなどを繰り返して、責任も義務も相手構わず移し変えて、こ |
| れが恰も近代的な取引のシステムであり、新しい仕事をするときの最も巧みな、斬新 |
| な方法でもあるかのように一人歩きして、折角軌道に乗り始めていた良い意味での発 |
| 展途上国をも含めたグローバル化戦略を打ち砕いているように思えるのである。現に |
| その結果、大変な格差社会と非効率な自由競争(謳い文句は『自由競争』であるが、 |
| 外枠を偏差値と格差、格付けで埋めた中での形ばかりの競争)が生まれ、少しじっく |
| り考えれば、明らかに見せかけであることが見抜けるのに、いとも易々と『市場原理 |
| 主義』とかいう訳の分らぬ不可思議な言葉によってカムフラージュされた『新自由主 |
| 義』の下で制御不能になってしまった、と言えるのではないでしょうか。 |
| 筆者には幸いアメリカ合衆国の住宅金融問題から破綻が始まった金融資本主義の時 |
| 代は漸くその終焉を迎えそうな情勢にあると思われるので、世界各国の為政者も財界 |
| 人も、国民も総力を上げて実情をゆっくり見直すことが出来る絶好の機会が訪れたと |
| 思いたいのである。もう少し堅実に努力が実り、真面目に物を作り、サービスを生む |
| 時代が訪れることを心待ちにしたい。いずれにせよ、筆者は新自由主義だの、成果主 |
| 義だの、はたまた市場原理主義に悩まされる時代は終わりにしたいと心底から願う者 |
| である。 (2008年12月8日 記) |
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| 「神戸OB会」は晩秋の11月22日(土)〜23日(日)に第42回平成20年度定例懇親 |
| 会を那須リゾートで開催しました。 |
| 中村賛蔵初代会長、川岸一正2代目会長、越智豊3代目会長と世代交代を経ながら、 |
| 会名も「とんぐり会」「神戸会」「神戸OB会」と変遷を重ね、今年で42年目になり |
| ます。 |
| 参加者は例年ですと20名前後ですが、今年は3連休と高齢化による体調不良の方が |
| 増えた為11名と少し寂しい集まりとなりました。 |
蕎麦処「美乃福」前にて |
好天の那須塩原駅に集合し、昼食は予約をした林の中 |
| の一軒家蕎麦処「美乃福」に向かい、大変美味しい蕎麦 |
| 定食を頂きましたが、量が少々が多かった様です。 |
| 後列(左より) |
| 中島さん、岡崎さん、木村さん、渡辺さん、 |
| 北条さん、青木さん、稲垣さん。 |
| 前列 |
| 菊池さん、永滝さん。 |
| 昼食後、今年オープンと聞いておりました「那須ガーデンアウトレット」に向かい |
| ました。広大な敷地に多数の店舗が並び見て回るだけでも一苦労です。 |
| 品揃えは若い人向けが殆んどで私たち会員に合いそうな商品は見つからず、年配者 |
| にはチョッピリ期待外れの |
アウトレット前にて(菊池、北条、木村、稲垣、永滝、渡辺、青木) |
アウトレット内にて(青木さん迷子?) |
| 感じを受けました。 |
| |
| アウトレット内で青木さん |
| ウロウロ、迷子? いいえ |
| あまりにも広いので仲間と |
| はぐれてしまい一生懸命に |
| 探しているところです。 |
| 那須リゾートに到着してからは早速温泉に入る人、宴会の予行演習をする人など |
| のんびりした一時を過ごしいよいよ懇親会の始まりです。 |
懇親会ー1 |
懇親会ー2 |
今年は越智会長が所用で |
| 不参加の為、最長老の稲垣 |
| さんに挨拶と乾杯の音頭を |
| とって頂きました。 また |
| 歌舞音曲は無しとの要望に |
| より、幹事交代や年次報告 |
| を交え専らお喋りに専念し |
| た宴となりました。 |
| 懇親会ー1 (このメンバーが今回参加者全員です) |
| 後列(左から) |
| 中島さん、本田さん、青木さん、深野さん、木村さん |
| 前列 |
| 北条さん、渡辺さん、菊池さん、稲垣さん、永滝さん、岡崎さん。 |
| 夜の部には深野さんと本田さんが参加され一段と賑やかな懇親会になりました。 |
| 幹事部屋での二次会のあと部屋を間違える人も無く無事就寝しました。 |
那須リゾート前にて |
翌日も好天のもと焼物の里「益子」を訪ねチョッピリ |
| 芸術の秋を味わいながら帰途につきました。 |
| 「神戸OB会」が何時までも続くことを念じながら筆 |
| をおきます。 |
| 後列 |
| 菊池さん、木村さん、中島さん、永滝さん、渡辺さん。 |
| 前列 |
| 岡崎さん、北条さん、青木さん、稲垣さん。 |
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| 「けいき」編集委員から「干支談義」が戌年から始まって一巡したことを知らされ、 |
| 改めて、「時」の流れの速さを知らされた次第である。 |
| 思い返すと、記憶の片隅に「上野の西郷さんの犬」や |
上野の西郷隆盛の銅像 |
| 「渋谷の忠犬八公」や「名古屋駅の盲導犬サーブ」等の |
| 銅像のこと等を書いたことが残っている。 |
| 新しい年は、紀元二六六六年、西暦二〇〇六年、 |
| 明治一三九年、大正九十五年にあたり、昭和八十一年、 |
| 平成十八年となる。 |
| そして新しい年の『干支』は、『五行』が「火」、 |
| 『十干』が「丙」。そして『十二支』が「戌」で、 |
| 『丙戌』となる。『丙戌』の音読みは『へいじゅ』で、訓読みは『ひのえ・いぬ』 |
| である。 |
| 「戌」の方角は「西北西」、時刻は「午後八時」又は「七時から九時」をさした。 |
| 『十二支』の一巡は十二年だが、「十干」と組み合わせると一巡は六十年かかる。 |
| いわゆる『還暦』であり、数え年六十一歳を呼ぶのである。 |
| 因みに、「七十歳」を『古希』と呼ぶのは、昔の中国の詩人『杜甫』の詩に『人生 |
| 七十古来稀(まれ)なり』とあり、それから引用した。 |
| 「七十七歳」を『喜寿』と呼ぶのは、「喜」の字の草書体「?」が七十七に見える |
| からである。 |
| 「八十歳」を『傘寿(さんじゅ)』と言うのは、「?」が傘の略字だからである。 |
| 「八十八歳」を『米寿』と呼ぶのは、八十八を一字に書けば「米」となるからである。 |
長寿のお祝い |
「九十歳」を『卒寿』とよぶのは、「卒」の略字が |
| 「卆」だからである。 |
| 「九十九歳」を『白寿(はくじゅ)』と呼ぶのは、 |
| 『百』から「一(いち)」を取れば『白』となるからで |
| ある。 |
| 小生は今年八十九歳となるが、「八十九」には特別の |
| 呼称は無い。そこで、自分流に「八十九歳」を「感謝の |
| 年」と呼ぶことにした。理由は「八十」は「?」である |
| から「八十九」は『?九』と書いて『さんきゅう』と読めるからである。 |
| 筆者のような凡人が八十九年も生きながらえ、その間、『第二次世界大戦』にも狩 |
| り出され、『捕虜』にもなり、微力ながら戦後の『日本再建』に参加できたことを、 |
| 今更、『天地神明』、『森羅万象』に感謝の意を表する次第である。 |
| その上、老後の十三年間、拙い『新春干支談義』を書かせてもらったことを、『け |
| いき』関係各位に深く感謝しております。 『トキメック(東京計器)』が、今後ま |
| すます発展して、『OB会会員』の諸兄姉が、いよいよ御多幸でありますことを御祈 |
| りいたしまして、拙作『新春干支談義』を完了といたします。 |
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| 先ず最初に、この『パラダイス鎖国』という言葉をご存知でしょうか? 多分多く |
| の方が「聞いたこともないよ」とおっしゃるでしょう。それもその筈、特定の年齢層 |
| の少しばかり変わった考え方の若者の間に通用している流行語だからです。筆者も最 |
| 初聞いたときには何のことか全く想像も付かず、意味を図りかねていましたが、真意 |
| を明かされて改めて唖然とさせられました。くだらないと一笑に付して忘れてしまっ |
| ても良かったのですが、考えれば考えるほど背後にある思想が貧弱で、情けなくなり、 |
| こんなことではとても将来の日本をこのような若者に託すわけには行かないという憤 |
| りに圧され、今まで苦労して現在の日本を守り、育てて来た先達や同輩の方々の生き |
| 様に連続性を持たせることにはならないと思い、敢えてこのHPの読者の皆様にも一緒 |
| に考えていただこうと一文にした次第です。このような情けない若者が増えないよう、 |
| 世の中のシステムを改善して、日本という国の存在の根拠を改めて学習することが何 |
| より急務だと思ったからです。 |
| 答えを明かす前に、訳の分らぬままに、抽象的な精神論をいきなり展開しても始ま |
| りませんので、早速『パラダイス鎖国』の意味から申し上げましょう。この基本とな |
| る考え方は、われわれの住んでいる日本という国が、そこそこの国として他国から侵 |
| されずに存在すればよいというものです。その裏には、わざわざ自分から進んで海外 |
| に出掛けて行くとか、他国相互の争いの中に仲裁も含めて立ち入ったりして、あらぬ |
| 疑いを掛けられたり、相手に要らぬ刺激を与えて、欲してもいない中傷や反発を買っ |
| て批判の的にされることには与(くみ)したくないというもので、この考え方に沿っ |
| て顕著に現れる振る舞いとしては、自分の自由時間が持てない、宛がいぶちのパック |
| 旅行で海外に行くとか、自分の不得意な外国語を使って不自由な、誤解を受けること |
| も多いであろう個人での海外旅行をしたり、またそのために外国語の勉強を自分から |
| 求めてする等ということは真っ平御免だとなるのです。 |
| 筆者は海外旅行に行く、行かないや外国語を自分から求めて勉強するか、しないか |
| について干渉する気は一切ありませんが、海外に向かって自ら何の行動も起こしたく |
| ないとか、何もしないで、日本がそれなりに住み心地の良い状態で続いて欲しいとい |
| うのは、何とも虫の良い話だと思わざるを得ません。現在のグローバル化した時代で |
| は絶対にあり得ない考え方であるばかりか、公平な賛同を得ることは出来ないと思い |
| ます。自分からは積極的に働き掛けること無くして、平和な生活の自由だけは享受し |
| たいというのは全くふざけた話で、このようなことを本気で考えているとすると、こ |
| のこと自体を嘆かわしく思うだけでなく、この先のわが国には誠に暗い、危険な社会 |
| が待っているように思えてなりません。筆者にはどうしてもっと逞しく生きようとい |
| う目標が持てないのかと不思議でなりません。自分が生きてゆくために、自分が周囲 |
| の人々と協調融和しながら、お互いのそれこそ共存共栄を図る道を見付けて行こうと |
| するのがごくごく当たり前の生き方の基本であり、この世に生を受けた人の避けて通 |
| れぬ権利と義務というものではないでしょうか。このベーシックな権利と義務を省み |
| ることなく、自由だけ謳歌して一生が終われれば良いということは成り立たないと思 |
| うのです。別の言い方をするなら、自分だけよければ良いとする独りよがりの利己主 |
| 義そのものではありませんか。 |
| 関西で初めて日本全体では三番目の生命保険会社である日本生命を興した弘世助三 |
| 郎はいみじくも事業の基本精神は「自分によし、相手によし、世間によし、この三方 |
| よし」であると述べていますし、セメント王として有名な浅野総一郎も「運はいつも |
| 水の上を流れている。命がけで飛び込んでつかむ度胸と、その運を育てる努力がなけ |
| れば、その運は身につかない」と自分の一生を振り返っています。例えとして引くに |
| は余りにも少し相手が偉すぎますが、上述した若者の考え方では立ち行かないことを |
| 如実に理解するのに相応しい真髄を突いた言葉ではないでしょうか。 |
| 表題の言葉が偶々日本が外国に対して鎖国を解き、横浜、神戸、函館等の港を開い |
| て以来明年で150年を迎えるときに当たっての一種のパロディとして、おちょくっ |
| て言われている言葉だろうと筆者は信じたかったのですが、どうもそうではないらし |
| いと分って、一言申したくなった次第です。 |
| 序(ついで)ながら、わが国の学者の中には日本の鎖国を正当化して、鎖国があっ |
| たればこそ、日本が列強に侵略されることなく明治のわが国特有の産業革命と文明開 |
| 化が迎えられたのだとする説も耳にしますが、筆者としては、これはあくまで後日歴 |
| 史的な事実を事後解釈していると思わずにはいられません。一つ言えることは、鎖国 |
| とは言え、何処かには必ず別ルートがあるもので、事実出島を通してのオランダとポ |
| ルトガル両国を窓口とした通商があったことを思うと、わが国はこの狭い窓口を経由 |
| して最低の西洋事情は入手できていたことは全くの幸いでしたが、常時こういう状態 |
| が生まれるものだとするのは少し拡大解釈に過ぎると思います。 |
| 面白い形の変わった言葉から、いろいろのことを考えさせられて、筆者には楽しい |
| 頭脳のトレーニングの機会でした。 |
| 了 |
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| 28.お金のあれこれ (平成6年会報第37号掲載) |
| (1)最初の硬貨 |
| わが国で最初に鋳造された硬貨は、和銅元年(708)鋳 |
和銅開珎 |
| 造の『和銅開珎』と言われます。 |
| これには銀銭と銅銭の2種類があり、当時の国内で生 |
| 産される金、銀、銅の量は微々たるものでしたが、708年 |
| 秩父地方から多量の銅が産出し、これが朝廷(元明天皇) |
| に献上されたので、朝廷は慶雲から和銅と改め、同2年 |
| 催鋳司を設けて和銅開珎の鋳造を始めたのです。 |
| このモデルになったのが唐の銅銭『開元通宝』。当時 |
開元通宝 |
の遣唐使らが渡唐した際に持ち帰ったもので、和銅開珎 |
| の最良の見本だった。 |
| さて、日本最初の金貨というと、これから50年後の淳 |
| 仁天皇の時代・天平宝字4年(760)に鋳造された『開 |
| 元通宝』が最初。 |
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| (2)江戸時代の貨幣 |
| 幕府が定めた通貨は一般に三貨と呼ばれ、金、銀、銅の3種類でした。 |
| 処で、幕府が与えるお手当、御褒美などを見てみると、御目見得以上の武士、大名 |
| には金貨で、御家人以下の下級武士には銀貨で、百姓町人には銭で与えていました。 |
| これは、幕府開設当初から規定があった訳ではないけれど、長い間の慣例が次第に |
| 定例化していったもののようである。 |
| また、将軍に献上する場合にも、献上する身分によって金馬代、銀場代という区別 |
| はありました。 |
| 日常生活では、砂糖、茶、薬などは銭で売買されるのが普通で、更に遊女代にして |
| も銭店という小店、銀銭店と言えば中位の店、一番上等は銀店という事になっていた。 |
三貨制度(金)一両小判 |
三貨制度(銀)一分銀 |
三貨制度(銅)十分銭 |
| (3)千両箱の重さ |
| 千両箱は、元来幕府の金箱として作られた檜製の箱で |
千両箱 |
| すが、すべが千両入りだった訳ではなく五百両入り、2 |
| 千両入り、或いは五千両入り、1万両入りがあり、箱の |
| 大きさや重さはまちまちだったようだです。 |
| 然し、普通のものは幅25cm、長さ50cm、深さ13cm、の |
| 大きさで、重さ3〜4s位。入れ方は千両入りの場合、 |
| 小判あるいは一合判金を25両づつ包み、それを40個入れ |
| た。 |
| 慶長小判から幕末の万延小判になると質が下がり徳川幕府の衰退は、千両箱まで軽 |
| くしたようだ。 |
| (4)円の歴史 |
| 明治政府にとって新しい貨幣制度の確立は,焦眉の急で、明治2年(1869) |
| 大隈参与は、造幣判事・久世治作の説を内閣に建議した。 |
| その説は、貨幣の形状を世界各国にならって円形とすること、両、分、朱という四 |
| 進法を十進法にして価名も円、銭、厘にすること。 |
| 久世説を採用した明治新政府は翌3年銀本位制を採ろうとしたが、大蔵少輔・伊藤 |
| 博文が世界の大勢に順応して金本位制を採用することを主張したため、政府は貿易と |
| の関係を考慮して金本位制を採用することに決定し、明治4年、円が正式通貨単位と |
| なった。 |
| (5)360円こうして決めた |
| 円切り上げ前の1ドル360円はどのようにして決められたのか。戦前は1ドル4円 |
| 26銭でしたが、終戦直後は新円切換えやインフレと続く事態で為替レートはメチャク |
| チャ。 |
| これではならじと為替相場の一本化へ大ナタを振るうべく、GHQから全権を委任 |
| されたのがドッジ特使、彼の手のよって1ドル360円のレートが決められたが、その決 |
| 定理由の一つとして彼の側近の話によると・・・“円”というのはマルのこと。マル |
| は90度を4つ合わせたものだ。つまり90°×4=360°だから、1ドルは360円にすれ |
| ばいいと言うことになったと。 |
| 何分、GHQから一方的指令で決められたこと、その理由に付いては色々と言われ |
| ていますが、頓智問答のような話です。 |
| (豆辞典より) |
| | | |
| 平成7年の新春を迎え、会員諸兄姉には愈々御清栄のことと心から御祝い申し上げ |
| ます。 (以下敬称略) |
| さて、今年の「えと」つまり十干・十二支の組合せは「乙亥」で、訓読は「きのと・ |
| い」音読は「いつがい」である。 |
| 亥は猪のことで、哺乳動物・偶蹄類・いのしし科の野 |
|
| 生動物で日本全土に棲息し、犬歯が長く牙になっており、 |
| 鼻づらが強く、食物は植物性で、早い速度で突進するが |
| 首が短いので急に曲れないと言われている。全身は黒く |
| て強い粗毛で覆われているが、仔どもの時は縦縞模様で |
| 「うりっこ」とか「うりぼう」と呼ばれ可愛らしい。 |
| 猪は昔から狩の獲物で、肉は「山くじら」とか「ぼた |
| ん肉」と呼ばれ、冬期山里での「ぼたん鍋」は情緒豊か |
| である。約四十年前私が計器検査の頃、設計の三浦康英兄外三、四名と、伊那の佐久 |
| 間発電所の消火装置の装備に出張し、山村の旅館で特注の「ぼたん鍋」を囲んだ事は |
| 懐しい東京計器での思い出の一つである。「しし」と言えば普通は猪だが、時に鹿で |
| あり、場合により野生獣の総称でもあるらしい。 |
| 豚は人間が家畜化したと言われ、現在でも「いのぶた」が人為的に作られている。 |
| 「しし喰った報い」等しか思いつかない。「花かるた」では「萩の札」に登場して、 |
| 所謂「いの・しか・ちょう」で活躍する。 |
| 仏教では常時「日の神」の前に居て自在の通力を有する「摩利支天」と言う神が猪 |
| に跨っており、古来武士の守護神であるのに何故か女神である。 |
| 歌舞伎で猪が出て来るのは「仮名手本忠臣蔵」の「おかる・勘平」の話で、山崎街 |
| 道に於て「定九郎」が「与市衛」を殺害し、「おかる」の身の代金五十両を奪った時、 |
| 縫いぐるみの猪が舞台を駆け抜けて行く。 |
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歴史上では、一一九三年(建久四年)時の将軍「源頼 |
| 朝」が史上最大規模の狩猟である「富士の巻狩」を催し |
| た折、御座所に向かって荒れ狂った手負の大猪が突進し |
| て来た。『誰かあれを仕止めよ』との君命に應え、ヒラ |
| りと此の大猪に飛び乗り、見事これを仕止めた「仁田の |
| 四郎忠常」の話は有名である。 |
| 中国の西遊記に登場する「猪はっかい」は猪でなく豚 |
| だと記憶している?。 |
| 此のように吾々人間と深い関わりのある猪だが、その棲息地は、森林の乱伐やリゾ |
| ート地・ゴルフ場の開発等人間による自然破壊の為に現在急速に狭められている。 |
| しかし、一歩退って考えて見ると、猪も人間も生物であり、猪が棲めない土地なら |
| 人間も棲み悪い筈である。現に昨年の各地の水不足は山林地帯の保水力の極端な低下 |
| がその一因と思はれ、正に人間は「しし喰った(猪の棲めなくした)報い」を受けて |
| いるのではなかろうか?。 |
| 今年は終戦五十周年記念で、色々の行事が行われるだ |
地球自然環境 |
| ろうが、戦前戦後を生き、捕虜まで経験した私にとって、 |
| 此の五十年の物質文明の発展は想像も出来ない素晴らし |
| いものだった。 |
| しかし、精神文化の面はどうだろう?むしろ後退して |
| いるとすら感ずるのは老人の僻みだろうか?。 |
| 次の亥年は平成十九年「丁亥」で「乙亥」は六十年後 |
| であるが、その頃はどんな世の中になっているのだろう。 |
| 何はともあれ、今年こそ最良の年であるよう、そして、吾が親愛なるOB会の諸兄 |
| 姉が益々御多幸ならん事を御祈りしつつ禿筆を措く次第である。 |
| 平成乙亥 元旦 |
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| 筆者には、最近いわゆる旅行業者の主催するパック旅行の形態が変わってきて、単 |
| 純な観光旅行から一工夫されて、いろいろの目的や意味を持たせたものに移行しつつ |
| あるように思われる。たまたま、この7月に一泊二日でいろいろ業種の違う企業を訪 |
| ねる「大人の社会科見学旅行」という謳い文句の旅に参加してみた。 |
| 往復とも利用客の少ない東海道新幹線「こだま」のグリーンを利用、現地のつなぎ |
| の交通手段は観光バスを利用するというものだった。ツインルームの一人利用、一泊 |
| 二食、列車はグリーン車利用を考えれば、旅行代理店に支払う二日間の費用3万円弱 |
| は決して高くはないのではなかろうか。 |
| この旅の最遠の地は名古屋で、一日目は静岡県牧之原の製茶工場、浜松の航空自衛 |
| 隊の広報館とうなぎパイ製造工場見学後浜名湖畔の雄踏温泉のロイヤルホテル宿泊で |
| あった。二日目はトヨタ自動車の豊田市元町工場と本社に付設のトヨタ会館の見学か |
| らスタートし、アサヒビールの名古屋工場と岡崎市の八丁味噌製造工場訪問であった。 |
| 参加を決めてからも正直言って余り魅力を感じているわけではなかったので、参加 |
| 者も精々30〜40名と思っていたが、あに図らんや総計90余名、観光バス2台満 |
| 席という有様であった。昼食に至ってはレストランや食堂を使うでもなく、高速道路 |
| のサービスエリアすら利用せず、何と連日走行中にバスの車内で折り詰め弁当を取る |
| という心底腰の座った文字通り社会科見学重視の旅そのものであった。 |
| 参加者は、それでは何に注意を引かれ、参加を思い切る魅力を感じていたのであろ |
| うか。筆者も自問自答してみるが、自分に納得の行くものは得られていない。終わっ |
| てみても正直良く分からないことだらけである。現役のサラリーマン男性(勿論会社 |
| を休んで参加をしている)、若い単身参加の女性、学生、一線をリタイアした品のい |
| いサラリーマンOB、その構成も多くの分野に跨っており、実に不思議な人間の組み |
| 合わせと言うか、寄せ集めであった。明らかに息抜きの旅行ではなく、あるしっかり |
| した意味を持った社会勉強であり、体験旅行なのであった。これにはさすがに筆者も |
| びっくり仰天であった。 |
| 一日目を終わって、早めにチェックインしたホテルは、部屋の調度はビジネスホテ |
| ル並ではあったが、ツインの広い部屋をシングル・ユースでまあゆったりとした気分 |
| を味わうには申し分はない。が、しかし、周りには特に散策する場所やお店がある訳 |
| でもなく、個人参加の多い人々はいったいどうやって時間を潰すのであろうかと要ら |
| ぬ心配をしながら、改めてこの旅そのものを考え直してみたのだった。別段格別の疲 |
| れを覚えてもいなかったので、仮眠することも出来ず、筆者は殆どの時間をゆっくり |
| 露天風呂の温泉に身を浸していた。館内にはマッサージや女性用の全身美容、スポー |
| ツジム、卓球場等の設備は見られたが、それ以上の特徴のあるものは特に用意されて |
| いるようには見受けられなかった。 |
| 二日目のホテル発は8時きっかり。大人数の旅ではかなり早い方である。トヨタ自 |
| 動車(株)と約束された午前9時半に間に合わせるため、一目散に豊田市を目指す。 |
| 元町工場の組立部門の見学は圧巻であった。筆者も過去幾度か、たくさんの自動車組 |
| 立工場の現場を見てきているが、今回のトヨタの工場が一番綺麗に整頓されているよ |
| うに思われる。今回の旅行には以前27年間もこの工場で働いていたと言う男性が参 |
| 加していて、自分がいたときとどのくらい変わったかを見たかったので参加したと言 |
| っていたが、彼の言うところをそのまま信じれば、あまり変化は見られず、結果とし |
| て相変わらず単純作業をわき目も振らずにこなすラインの仕事のやり方に人間性無視 |
| を見る思いがして嫌だったと漏らした。同氏は何年経っても仕事が少しも変わらない |
| ので嫌気が差して辞めたのだが、今ラインで働いている人たちを見て相変わらずだな |
| と、同情を禁じ得ないと不満顔であった。自分がいた頃にはフォーマンがストップウ |
| オッチを持って作業時間を厳密にチェックしていたとか。異常な反抗心を持ったもの |
| だった、と回想していた。筆者にはチャップリンの名画「モダンタイムス」を何故か |
| 思い出させるのであった。 |
| 話を元に戻すとしよう。一昔前までは会社の株主総会等でも出席者に対して、参加 |
| 御礼としてちょっとした品物や買い物券、交通機関利用券、観覧券等が用意されたの |
| で、個人投資家、特に家庭婦人にはそれらを当てにして出掛ける者もかなり居た。旅 |
| 行の際にも物を作っているところ、特に食品関係では何かしらちょっとした土産にな |
| るものを用意していたものである。 |
| しかし、現在の事情は変わって、社会科見学で企業を訪れても特にこれといった土 |
| 産がある訳でもない。となれば、余計のこと何を好き好んで企業見学の旅に参加する |
| のであろうか。精々一箇所について1時間半から2時間半の滞在時間しかなく、ぞろ |
| ぞろと引率されて工場や展示物を巡っても通り一遍の説明を受けるだけで、余り印象 |
| に残ることは期待できない。筆者には結局分らず仕舞いというのが今回の旅の印象で |
| あった。それでも参加者の大半の人々にはそれらの企業のやっていることを垣間見た |
| ことで満足し、見ないよりはましと納得したのだろうか。とまれ筆者には摩訶不思議 |
| であった。 |
| 筆者は横浜美術館協力会のメンバーとして、地方の美術館や芸術・文化事業の施設 |
| を訪ねる旅に参加して交歓活動に微力を注いで今日に至っているが、今回の社会科見 |
| 学旅行と比べてみれば、遥かに充実していると思われる。訪ね先の美術館や名所・旧 |
| 跡の専門の学芸員やキュレータが少なくともそのときの展覧会の見所、押さえどころ |
| は説明してくれるし、時間があればかなりの作品についても、その作品の生まれた故 |
| 事来歴を分り易く解説してくれるので、自分の観賞の参考になり、大変勉強になる。 |
| 筆者は友人と展覧会に出掛けて、作家や作品について、知識や勉強したことを披露し |
| たり、説明したりすると、美術館やギャラリーのキュレータと間違われるのだろうか、 |
| 時々周りを囲まれて、話を聞き込まれたり、挙句の果てには質問攻めに合ったりする |
| ことがある。いつの間にかたくさんの作家の作品や作家その人の多くを知ることにな |
| って、一層楽しく美術館や画廊、ギャラリー通いができるのが嬉しい昨今である。 |
| 社会科見学の旅を一方的にけなす訳ではないが、上記のような状態では、まだまだ物 |
| 足りなく、筆者にはやはり文化・芸術の施設を訪ねる旅の方が何倍か、生き甲斐に通 |
| じるように思えてならなかった。 |
| (2008年7月 記) |
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| この夏、白馬岳でまた遭難があった。その一つは大雪渓の上部にあるネブカ平とい |
| う所で起きた土砂崩落(岩ナダレ)による事故である。白馬岳は夏の北アルプスでは |
| 入門コースとして親しまれてきた山であるが、この大雪渓コースでは時々事故が起こ |
| っている。「山はどこにも危険が潜んでいる」という現実を示しているようだ。 |
| ところで、皆さんはテレビなどで遭難が報じられる中で、ややこしさを感じられな |
| かっただろうか。それは白馬岳を「シロウマダケ」、白馬大雪渓を「ハクバダイセッ |
| ケイ」と報じていることである。同じ白馬の文字でもシロウマと言ったり、ハクバと |
| 読んだりしている。なぜこのようになったのか、いきさつを詮索してみよう。 |
八方尾根からの白馬三山(2月、左から白馬鑓ヶ岳・杓子岳・白馬岳) |
明治年間、国土地図作成のため地名調査をする測量役 |
| 人が、白馬を訪れて村の長老に白馬岳を指して山名を問 |
| うと、長老は「代馬岳(シロウマダケ)」と答えた。 |
| それは毎年5月になると、白馬岳右肩の残雪の中に馬の |
| 姿の“雪形”が現われると、地元の農家が田植えの代掻 |
| きを始めることから、「代掻き馬の現れる山」という意 |
| 味で「代馬岳」と呼び、文字でもそのように書いた。そ |
| れを役人が「白馬岳」と誤った文字で台帳に書き込んで |
| しまったのがそもそもの間違いの始まりであった。 |
| (文政年間の絵地図の中に「白馬」の文字が書かれているので、これも江戸時代の役 |
| 人の聴き取り間違いだったのだろうか?) |
| 古来、白馬岳を信州側では単に「西山」と呼び、越中側では「上駒ヶ岳」、越後で |
| は「大蓮華岳」と呼んだ。日本アルプスを世界に紹介した英国人宣教師、W・ウェス |
| トンは、明治27年、日本海の海上から見て「遠く南の方に大蓮華(大きな蓮の花の峰) |
| の頂が聳え立っている」と表現している。 |
| ところで、残雪の雪形は山肌が形となって黒く現れるものと、残った残雪そのもの |
| が形となるものとがある。白馬岳は前者の方だから、色の表現で言えば白馬というよ |
| り黒馬(黒駒)である。この黒駒は白馬岳周辺に3つ現れ、有名なものは白馬岳の北 |
| 方にある三国境の下から左に向かう黒駒であり、次に有名なものは小蓮華岳の東尾根 |
| に現れる小馬である。 |
| 昭和31年、北城(ホクジョウ)と神城(カミシロ)の2村が合併し、白馬村(ハク |
| バムラ)となり、昭和43年信濃四ツ谷駅が白馬駅(ハクバエキ)に改名した。若い頃 |
| スキーのメッカである八方尾根に行ったことのある人には、信濃四ツ谷駅の名が懐か |
| しいと思う。 |
| 余談であるが、昨年夏、針ノ木峠から烏帽子岳まで縦 |
白馬岳頂上にて(4月主稜を登攀して、右端が筆者) |
| 走し、ブナ立尾根を下って高瀬ダムからタクシーに乗っ |
| て信濃大町へ向かうとき、話好きの運転手から聞いたと |
| ころによると、昔安曇野一帯には「安曇族」が住み着い |
| ていた。その安曇族の流れを汲むこの地方の人々の気質 |
| には、「まあええじゃないか」と妥協するところがあり、 |
| 白馬をハクバにしたときもそんな気質が働いたという。 |
| 安曇族の歴史(注)は事実のようだが、その気質につい |
| ての真偽のほどはわからない。 |
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| さて、昭和50年代初め、国鉄(現在のJR)が「いい日旅立ち」キャンペーンを繰 |
| り広げたとき、白馬の下に「HAKUBA」と書いた。ある山屋さん(登山愛好家を |
| 我々はこう呼ぶ)がおかしいのでは、と投書した。国鉄は地元で「ハクバ」と呼んで |
| いると回答した。地元白馬村役場の見解は、「山名は正式にはシロウマです。しかし |
| 若い登山家が増えてハクバと呼ばれるようになった。地元でもどちらでもよくなった。 |
| しかし、白馬岳で発見される固有の植物名はシロウマという冠詞が付けられているし、 |
| 山の本名はシロウマです。」だった。山の正式名がシロウマダケならば、白馬大雪渓 |
| は「シロウマダイセッケイ」と報道すべきである。大雪渓の末端を白馬尻というが、 |
| 地元では「ハクバジリ」とか、略して「バジリ」などと呼んでいる。これも「シロウ |
| マジリ」が正しい筈だ。冬期オリンピックのときも「ハクバ」のイメージが強かった。 |
| 中高年になってから山を始めたような人は大抵山の名前まで「ハクバダケ」と呼んで |
| いる。筆者の白馬岳初登山は昭和34年だから抵抗なく「シロウマダケ」と呼んでいる |
| が、平気で「ハクバダケ」と呼んでいる登山者は経験が浅い人か、不勉強な人と思う |
| ことにしていた。ところがつい先日、旧友M君が経営する白馬村みそら野のペンショ |
| ンに泊まったところ、白馬の事情を熟知している彼でさえも、話の中で白馬三山を |
| 「ハクバサンザン」と言っていた。本名を知っていても、“通称”の方を用いた方が |
| 相手に通じるという事情もあるようだし、地元の大勢に迎合せざるを得ないのかもし |
| れない。 |
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| 26.薫床しき (平成8年会報第40号掲載) |
| (1)パー爺さん〜 |
| ご存知のように「オールド・パー」の瓶の裏には白い |
オールド・パー肖像画 |
| 髭を生やしたパー爺さんの小さな肖像画が貼ってあって、 |
| トマス・パー152才と書いてある。更に表には1483年に |
| 生まれ、1635年ウエストミンスタ寺院に葬られる、享年 |
| 152才と書いてあるのに気が付いた。 |
| 爺さんは酒の名前になるほどだから、何となく大酒飲 |
| みかと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。 |
| この老人は農夫で80才迄独身でいて、80になって初め |
オールド・パー |
て結婚したと云うから不思議である。何故それ迄独身で |
| いたのか、何故80になって細君を貰う気に・・・・。 |
| その細君と32年間一緒に暮らして、細君に先立たれた |
| ので、それから8年経って2度目の妻を貰ったのが 120 |
| 才の時だから何とも偉いものだと思う。 |
| 152才の時、彼の領地を持つ殿様が長寿の話を聞いて、 |
| ロンドンに招待し、老人だから殿様の方も気を遣って担 |
| い駕籠にのせ、供に道化師を加えたりして退屈させない |
| ようにしたそうである。 |
| 爺さんはロンドンに来て,王様のチャールズ一世にも会ったりしているが、果たし |
| てこの上京を喜んだのかどうか判らない。 |
| 長い間田舎暮らしをして来た爺さんには、都会の生活は眼を丸くすることばかりで、 |
| 鳴かし草臥れたことだろうと思う。その噂を聞いて毎日沢山の人が爺さんを見に来た |
| そうだから、落着く暇もなくロンドンに来て数ヶ月後、病気になって死んだ。この上 |
| 京は有難迷惑だった。 |
| (2)コウモリ安〜 |
| 『ゴールデンバットは煙草のおしん』という話を聞いた。明治39年生まれの89才。 |
| 高齢者に拘らず、若い人や企業の重役達に大モテ。サービスセンターを例にとると、 |
| 3百にのぼる内外の銘柄中、売上高はベスト10の常連。 |
ゴールデンバット |
| 会社の重役さんが目を細めるあたり、おしんと似通う |
| が、バーや料亭で『あらそれ、珍しい!』の黄色い声を |
| 期待してのことというから、動機はやや不純と言えなく |
| もない。 |
| 一方、若い人は物珍しさから。横文字追放のあおりで |
| 『金鶏』と改名したり、GOLDEN BATの文字が片カナに |
| なったりした期間はあるが、2羽のコウモリと緑色の色 |
| 調は不変。いわば、之れほど伝統を誇る銘柄はないにも拘らず『何だ、これ?』と若 |
| 者は“驚き買い”に走る。 |
| 昭和の初め『バット党』という流行語まで生んだこの煙草、もともと中国(当時の |
| 清国)への輸出用として誕生し乍ら、現地に類似品があったため国内用に回された経 |
| 緯を持ち金鶏時代には図案が不敬とされる等、おしんに劣らぬ運命を辿ってきた。 |
| (3)珍奇!落とし紙〜 |
トイレットペーパ |
元慶応大の西田教授は、自らの足跡をしるした世界62 |
| ヶ国から『トイレット ペーパー』400種を集めた。突然 |
| トイレット ペーパーを集め始めることになったのは昭 |
| 和41年、学生を連れてヨーロッパを旅行したのがきっか |
| け。 |
| パリのホテルに泊まったら、そこのは茶色。日本でい |
| うハトロン紙のようなもの。翌日ベルサイユ宮殿へ行っ |
| て、賓客用のトイレへ入っても同様。ロンドンのホテル |
| では僅かに上等だったが、矢張り薄茶色のゴツゴツもの。 |
| それ以前アメリカを旅行した時は白かったので、世界中、白いと思い込んでいた。 |
| だから、この体験は青天の霹靂。確かにファッションの都“花のパリ”だからと云っ |
| て、わざわざトイレに流す紙まで漂白加工して白くする必要はない。紙資源の乏しい |
| 国の考え方やその合理精神の徹底が判った。 |
| 珍品は折り紙の代用にもなる正方形で硬いソ連製。ブータンのシラカバのような木 |
| の皮。竹の繊維で作られたタイの紙。米国中南部の農家のトイレで、バケツに入れて |
| 置かれていたトウモロコシの穂などである。 |
| 27.『のんべえ流』罪滅ぼし (平成5年会報第35号掲載) |
| 居酒屋「長兵衛」は鎌倉の若宮大路・二の鳥居の路地 |
小町通り路地有った居酒屋「長兵衛」跡 |
| を入った処にある。フナムシに喰い荒らされた舟板の看 |
| 板は、50年の歳月に店の名前がかすれている。 |
| 鎌倉では一、二を競う古い居酒屋で、かって久米正雄、 |
| 久保田万太郎、大仏次郎たち鎌倉の文人が此処で酒に花 |
| を咲かせた。 |
| この春、常連が「開店50周年行事」を持ちかけたら、 |
| 「これ以上騒がなくてもいいでしょ」と3代目のあるじ |
| 中川典子さんに断られた。 |
| 一旦諦めかけたが此の程とうとう口説き落とした。「多数の酔っ払いの御相手、本 |
| 当にご苦労様でした。呑兵衛一同、日頃の罪滅ぼしに・・・・」と案内状にある。 |
| でも果たして罪滅ぼしなのかどうか。発起人の漫画家、横山隆一さんたち5人、そ |
| れに下働きの若手漫画家や童話作家、考古学研究の女性たち運営委員10数名は、連夜 |
紅白幕を巡らせ、四斗樽・酒・酒 |
の打合せにも酒が入って纏まらず、遂に昼間、素面で開 |
| く有様となった。 |
| その結果、一枚ずつ違う手作りポスターを他所の飲み |
| 屋まで張り出した。「長兵衛」は夜10時で店仕舞する。 |
| 呑兵衛たちは他所へ流れる。梯子客を受け入れる店は、 |
| 庇を貸さない訳にいかない寸法だ。 |
| お陰で200人から参加の申し出があった。若手の陶芸 |
| 家は当日の料理を盛り付ける皿を焼いたり、皆本番前か |
| ら楽しんでいる。 |
| 宴の場所は鶴岡八幡宮境内の「源平茶屋」こちらも100年の歴史がある。此処に源 |
| 平の旗と同じ紅白の幕を張り巡らし、四斗樽とウイスキー、ビール、焼酎を持ち込む。 |
| 普段はおでんにラーメンを揃え、修学旅行の団体が弁当を広げる茶屋だから「こん |
| な宴会、初めて」と姐さんたちもびっくり。「準備大変でしたね」と運営委員の中年 |
| 画家に水を向けたら「だてに酒飲んでるじゃないよ。鎌倉の酒飲みだょ」とのことだ |
| った。 (鎌倉便りより) |
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| さて今年は「甲戌の歳」で甲戌の訓読みは「きのえいぬ」音読みは「こうじゅ」です。 |
| 犬と人間の付き合いは古く、古代の壁画等にも画かれてあり、現在何処でも何時で |
| も吾々の目に触れる家畜です。したがって犬にまつわる諺や言葉は沢山あり、良し悪 |
| しはさておき、思い付くまゝに並べてみますと、 |
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犬も歩けば棒に当たる。一犬虚を吠えて万犬その実を |
| 伝う。夫婦喧嘩は犬も喰わぬ。煩悩の犬追えども去らず。 |
| 犬は三日飼えば恩を忘れず。飼犬に手を噛まれる。犬の |
| 遠吠え。鶏鳴狗盗。羊頭狗肉。喪家の狗。犬猿の仲。犬 |
| 侍。犬死。負け犬根性。狛犬。犬張子。等、 |
| また「桃太郎」や「花咲か爺さん」等の昔噺や、「南 |
| 総里見八犬伝」や「名犬ラッシー」「家なき子」「のら |
| くろ上等兵」等物語や漫画にも登場したり。昨今は、警 |
| 察犬・軍用犬・麻薬捜査犬・盲導犬・遭難救助犬・牧畜犬・猟犬・番犬・橇引き犬・ |
| 競争犬・等、並々ならぬ活躍をして、人類の為に大変役立っております。 |
| ところで皆さん、此の様な健気(けなげ)な犬の行動 |
|
| を讃えて建造した「犬の銅像」を御存知ですか?渋谷の |
| 「忠犬八公」は余りにも有名ですが、「盲導犬サーブ」 |
| の像は余り知られていないようです。サーブは盲導犬と |
| して、主人を車の事故から守り、おのれの足一本を車に |
| ?(も)ぎ取られ、現在三本足の像となって名古屋駅の |
| 表口(トキメックの営業所のビルの方)の傍らに立って |
| おります。 |
| そのように訓練されたとは言え、おのれの義務を死守しようとした「サーブ」の行 |
| 動と現代の義理人情を重ねたとき、誰か憾なしと言えるでしょうか? |
| 現代世相に対する「神の戒」だったのか、昨年は天変地異が続きました。本年はど |
| うか良い年でありますよう、そして親愛なるOB会の皆様が呉々も御自愛専一に、 |
| 愈々御多幸でありますよう御祈り申し上げまして私の「戌歳」に関するとりとめのな |
| い話を結びます。 |
| 平成甲戌 元旦 |
| | | |
| 蓮台寺駅に着いた伊豆急行下り線の普通列車からは駅前の高校に通う男女生徒がた |
| くさんに吐き出されてくる。筆者の巨体も大勢の中に取り囲まれ否応無しに改札口に |
| 押し出される。ほかに登山装束の人もなく、筆者一人だけ異物とも写りそうな感じで |
| ある。駅から直進する生徒たちと別れて、今通ってきた線路沿いに道を戻り、3,400m |
| 先の信号のある十字路を右折し、細い道を部落の中に進み、小さな雑貨屋を左に見て、 |
| 右折し山道に入る。伊豆急の踏切を渡り、薄暗い登り道に入る。高根山(タカネサン) |
| は、地元の船乗りや漁師の信仰を背負ってきた歴史のある山のようで、頂上の18丁目 |
| まで1丁目毎に石柱が立っており、登る際疲れを癒してくれる思いである。雑貨屋を |
| 回ったところが2丁目である。 |
| 前日までの本州の太平洋を北上した台風4号の風雨のためか登山道は大変じめじめ |
| しており、かなり大きな枝も折れて登山道を塞いでいる。台風通過後筆者が最初の通 |
| 行人のようである。道は細い沢沿いに登っているが、沢に水の流れはなく、虫や動物 |
| の姿も見当たらない。丹沢では鹿や猪等の動物が増えすぎ、そのために彼らに寄生し |
| ている蛭が異常発生して登山者を苦しめているとマスコミは伝えているので、伊豆の |
| 山中にもこれらの動物は多いことでもあり、同じことではなかろうかとかなり深刻に |
| 懸念していたが、幸い下山するまで一匹の蛭も目にすることはなかった。 |
| 30分近く歩けば山道と高根山への道との分岐が現れ、石仏と石柱が並んでいる。左 |
| に高根山の道を採り、沢沿いの道を登る。雑木や檜、大きな孟宗竹の林が登山道に被 |
| さるように続く道は、猪が食した後なのか竹の子の皮が散乱し、頭部竹の皮の集まっ |
| た部分が無造作に投げ散らかされていて少し気持ちが悪い。石のない登山道の土のと |
| ころには動物の足跡か深くめり込んだ穴があり、ところどころにはモグラが掘り上げ |
| た土が山盛りに膨れている。暫く行くと、再び山道と高根道の分岐が現れ、尾根筋に |
| 出て、地蔵堂に着く。広場状になっているが、ここは頂上ではなく、三角点はもう少 |
| しNHKのアンテナ塔の方に寄った所にある。山の名前を示す標識は一切何もない。 |
| 標高は343mである。 |
| アンテナ塔の周囲は立ち入れないように高い金網が張り巡らされている。この金網 |
| に沿って下るのが寝姿山への縦走路である。山頂の眺望はあまりないが、伊豆半島の |
| 中心部、天城峠の近くの名峰長九郎山(チョウクロウヤマ、996m )の丸い山容が周 |
| りからひと際突き出ているのが見られる。これから先が急に切り立った坂を下ること |
| になる。伊豆急の車窓からもこの切り立った斜面ははっきり眺めることができる。山 |
| 頂のNHKの塔が目印ですぐそれと気が付く筈である。距離はさほど長くはないが、 |
| 切り立った角度は相当で、補助に太い組縄のロープが下り方向右側にずっと張り巡ら |
| されている。下りきれば白浜と蓮台寺とを結ぶ横に走る道に突き当たる。ちょうどこ |
| のあたりで土地の人たちが登山道の草木を刈り、整備しているのに出会った。登山用 |
| にというより、NHKのアンテナ塔へのサービス員のための手入れなのかもしれない。 |
| ここで一休みしたが、人々が草木に手を入れたためか、あたり一面にたくさんの毛虫 |
| が這いずっており、休んでいるたった5分くらいの間に、ズボンを上ってくるもの、 |
| 袖口に動いているものなど、鳥肌が立つほど気色悪いことだった。大半が夜蛾とヒト |
| リ蛾の幼虫であった。 |
| ここで陽光とはしばしの別れで、道はほぼ横に移動している感じであるが、全く展 |
| 望のない暗い雑木林の中を30分近く歩かされる。鬱蒼とした林?森?の中を抜ければ |
| 広い通りにぶつかる。車の通れる舗装された寝姿山山頂に向かう道である。この道を |
| 横切ってなおも少し高度を稼ぐと、寝姿山の山頂である。広々としたキャンプ場のよ |
| うなところで、山頂には山梨か、山桃かよく分らないが大きな木がところどころに立 |
| っており、間の草地にはキャラブキの光沢のある幅広い葉が一面に敷き詰めたように |
| 繁っていた。一年中暖かく、雨量の多いためなのか、緑の色合いも心持濃いように感 |
| じられる。山頂の標高はたったの200mである。石楠花がシーズンのはずだがと今回の |
| 縦走路で懸命に探したが寝姿山に少し見掛けただけで思ったよりずっと少ない感じが |
| した。代わりに馬酔木は方々にシーズンの花房を垂れて満開だった。 |
| 道なりに詰めて行けば、ロープウェイの山頂駅に通じる道で、途中には右に左に展 |
| 望台が作られており、下田港の全景や反対側には伊豆急下田駅の駅舎の細長い屋根が |
| 見下ろせたり楽しい景色である。展望所にはこのあたりの開発に生命を捧げた東急の |
| 総帥五島慶太の石碑と銅像が建っていた。驚いたのはロープウエーを使わずに入山し |
| た人、下山する人は入山料として160円ほどを取られる旨の看板が見られ、山歩きの |
| 清清しい気持ちから一気に金、金の世界に引き戻された思いで複雑な気持ちで嫌気が |
| 差し早くこの場を離れたくなり、急いでロープウエーの客となって下山したのだった。 |
| この地、下田にはトキメック山岳部OBの高田三郎君がいることを思い出したが、 |
| 当人のアドレスも電話番号も持参していなかったので、残念ながら次回の邂逅に譲る |
| こととした。 |
| 寝姿山山頂ではたくさんの種類の違うアゲハ蝶が乱舞していた。後翅に白い紋のあ |
| るモンキアゲハ、瑠璃色の反射が綺麗なカラスアゲハ、真っ黒なクロアゲハ、後翅の |
| 長いオナガアゲハ、ゆっくり飛ぶジャコウアゲハ、山頂を独占したいキアゲハやアゲ |
| ハ、他に近年北上が伝えられる南方系の蝶であるナガサキアゲハに俊敏に飛ぶアオス |
| ジアゲハと実に9種類のアゲハチョウが交互に飛び交っていた。蝶を愛でる筆者には |
| しばし天国に憩う気持ちであった。 |
| 当日のコースタイムを参考までに記せば次の通りである。 |
| <コースタイム> |
| 5月15日(木) |
| 伊豆急今井浜海岸駅(7:47)――(8:02)蓮台寺駅(8:05)…(8:40)山道との分岐 |
| (8:45)…(9:17)高根山山頂三角点(9:30)…(9:50)蓮台寺駅方面への道との分 |
| 岐(10:00)…寝姿山と白浜への道との分岐(10:15)…寝姿山山頂(11:00)… |
| (11:10)下田市内展望台(昼食)(11:40)…ロープウェイ山頂駅(12:00)―― |
| (12:10)新下田駅…伊豆急下田駅(12:35)――(13:05)今井浜海岸駅 |
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| 23.地平かに天成る (平成元年会報第26号掲載) |
| 激動の昭和が幕を閉じ『平成』と改められた。政府の発表によると、新元号の『平 |
| 成』は、史記の『内平かに天成る』から、“平”と“成”の二文字を組み合わせて作 |
| ったものという。 |
| 新元号の候補には、このほか『修文』や『正化』も挙げられたようだが、竹下政権の |
| 強い意向が働いて、『平成』と決まったもののようである。 |
| 次に昭和の由来であるが、時の若槻首相は『書経の堯天』に『百姓昭明・協和満邦』 |
| の昭明の昭と協和の和を採り、和とは人間の徳の中で最も肝要で、和の徳を昭にして |
| 世界人類の平和を図るという意味であると説明している。 |
| この元号が決まる時、原案が枢密院会議に掛けられ、例によって何事にも一言文句 |
| をつけないと気のすまない顧問官の一人からやはり異議が出た。 |
| 昭和は書経堯天の『百姓昭明・協和満邦』から採ったというが、堯は禅譲の天使で、 |
| 位を子孫に譲らず、舜に譲り、舜は夏に譲って、いわば共和政治だから良くないという。 |
カレンダー |
後でその事を聞いた“西園寺公”は、日本の元号には |
| 今まで書経から出ているが沢山あるから、今更になって |
| と笑ったとか。 |
| そして老公は、年号は字画の多くないものが良いし、 |
| 慶応何年と書くには一般の人には難し過ぎる。特に平和 |
| とか調和の『和』の字が好きで、昭和に決まったのを大 |
| 変喜ばれたのである。 |
| 江戸時代にも改元は庶民に関心があったようで、その |
| あとの慶応から明治になるときも『延寿』になったというデマが飛び、昭和改元のと |
| き、ある新聞の『光文』誤報事件はよく知られている。 |
| < 余 禄 > |
| さて、平成元年から各年号の元年までの年数を早見表で調べてみると、古い順では、 |
| 1位:大化1345年、2位:白雉1340年、3位:白鳳1318年、4位:朱鳥1304年、5位: |
| 慶雲1286年となっている。 |
| なお、歴代元号数は合計で249となるが、そのうち最も多いのは、@“天”の字がつ |
| くものが、天平以下28回。A“永”は永観以下15回。B“元”は元慶以下14回である。 |
| 一方、一回限りの年号は、昌泰、平治、乾元、寿永、霊亀、興国、徳治、至徳、朱 |
| 鳥、齊衡、観応、和銅と計12もある。 |
| < 余 談 > |
| 今では考えられない事ですが、江戸時代には、日常生 |
芒種 |
| 活に欠かせない暦が、幕府の統制下にあって,民間では |
| 作ることも配ることも禁止されていた。 |
| ところで、この太陰暦も明治維新の大改革によって廃 |
| 止され、明治6年から現在の太陽暦となる。この改暦の |
| ショックは大きく、とりわけ旧暦のもとで作物栽培を続 |
| けてきた農家にとっては打撃であった。 |
| |
| 24.トルコ風呂で平謝り (平成元年会報第26号掲載) |
| 夜の街から消えた筈の『トルコ風呂』の名前が、関東その他に出回っているNTT |
| の電話帳にそのまま残っていることが判り、駐日トルコ大使がNTTに厳重善処を申 |
| し入れたという。 |
| NTTは全くのミスで申し訳ない、次の版から必ず取り消す事を堅く約束して平謝 |
| りしたということである。 |
| さて、この5月、久し振りの大型連休とあって、ある独身者が海外ツアーでトルコ |
| に行き混浴のトルコ風呂に入った。 |
| 300円で混浴に入れるのは安いと飛び込んだのはいいが、お客は野郎ばかりで期待 |
| はずれ。三助に体を洗って貰い身はすっきりしたものの、『心は晴れなかった』とし |
| きりにぼやいていた。 |
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| 25.酒にまつわる短章 (平成4年会報第33号掲載) |
| (1)利き酒コンクール |
| 第12回全国利き酒選手権大会が新宿のホテルのセンチュリーで行われた。2万人を |
| 越える各地の予選を勝ち抜いてきた、利き酒自慢の88人が登場。 |
| 回を重ねる毎にレベルが上がって、今回は3度のプレーオフが行われる大激戦の末、 |
| 個人の部では、長野県代表の金子淳子さん(23才)が見事優勝した。 |
酒 |
『初めてお酒を飲んだ歳は秘密です』と語る若くてチ |
| ャーミングな令嬢の優勝に会場は大いに盛り上がった。 |
| 参加者の3分の1は女性という今大会、女性パワーは |
| 清酒業界にも押し寄せてきたようである。なお団体の部 |
| の優勝は岩手県。 |
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| (2)等 級 廃 止 |
| この4月から酒の等級廃止が実施され半年が経った。蔵元や小売店の話によると、 |
| 目下の処、さしたる混乱はないが、流れは完璧に二極分裂している気配であるという。 |
| 一つは、純米酒や本醸造酒を求めるクラス、今一つ、ぐっと安い酒を求めるクラス。 |
| 従って、交際費、交通費をへらされた会社のトップクラスが頻繁に使っていた中堅 |
| クラスの料飲店はガラガラになっている。でも大衆酒場の方は繁昌しているという。 |
| (3)百 撰 会 |
| さきごろ日本酒百撰を選ぼう、酒に自信のあるむきが集った。会合は4日間にわた |
| り、利き酒をして銘酒30傑を選出したが、1位から3位までを新潟勢が独占した。 |
| 順位を決める方法は、二百人の会員が夫々10〜30種の利き酒をし、その中から1人 |
| 3種類を投票するというもの。 |
| この会は2回目だが、1回目に1位を獲得した酒が、今回も1位に選ばれた。 |
| (4)荒い侍従 |
| 『お心得違いでございます。お慎み下さい』などとずけずけ厳しく言上するので、 |
| 山岡鉄舟は“荒い侍従”と仇名された。 |
| 明治天皇は鉄舟には、とくに近しい感じを持っておられたらしい。猟の帰りに、新 |
| 宿御苑で野宴があった。何かの弾みで、2人の間で論争が持ち上がった。鉄舟は完膚 |
| なきまでに説破した。悔しかった天皇は,全力をこめて鉄舟の耳を綱引きした。 |
| 帰宅したあとも鉄舟は『まだ痛くっていけねえ。バカをなさる。千切れるかと思っ |
| たわい』さすりながらぼやいた。 |
| やはり御苑の、別のガーデン・パーティーに関する記録がある。その日、天皇はや |
| けにご機嫌がよかった。宵の口から始めて夜も更けるのに、さっぱりお輿をあげよう |
| としない。 |
| 『予定の時刻も、遥かに過ぎましたので』何回も催促しても、コップを置かない。 |
| 『まだ、早い』『まだ,よい』しきりに談論風発している。11時を回って、やっと |
| 馬にまたがった。酔っ払い運転である。11時といえば今と違って、とてつもない深夜 |
| だった。 |
| 普段の酒は、天皇執務室の隣の御学問所で飲んだ。侍従の詰所でもある。ちょいち |
| ょいつぶれて、そこで雑魚寝もされている。 |
| (5)鍋物のシーズン |
| 秋が来て、鍋物のシーズンをむかえようとしている。 |
豆腐 |
| 鍋物といえば湯豆腐を先ず思い出すが、主役は豆腐その |
| 豆腐で驚いた事がある。 |
| デパートの食品売場で、『特製豆腐』というポスター |
| が目についた。覗いて見てびっくり、なんと1丁千円な |
| のだ。少々大きめだが千円の豆腐を誰が買うのだろうか。 |
| 豆腐で贅沢するならグルメ女史直伝の湯豆腐をすすめ |
| たい。水の代わりに酒を使うのだが、それこそ安い豆腐 |
| が高級もの以上にまろやかで美味しくなる。 |
| (6)小料理やの高級化 |
| しばらく振りに、その小料理やを覗いたら、店の雰囲気がちょっと違っていた。急 |
| に高級化したような、とりすました感じなのである。 |
| あんなに気さくだった女将さんは相変らず割烹着姿ではあるが、簡単に声をかけに |
| くい。亭主も一流の板前になったのか、悠然とかまえている。 |
| 違う店に来たのではないかと一瞬思った。しかし紛れもなくかって通った小料理や |
| である。まずビールを飲み、酒を注文した。そこまでは昔と変わらなかった。 |
| 料理を注文しようとしたら、女将さんがにこやかに言う。『オマカセです』 |
| 何のことか判らなかった。おまかせとは何ごとか。女賢しゅうして・・・であるが、 |
| もう顔を出さぬことに決めた。 |
| | | |
| 西洋史上に勇名をはせ、一時代を築いたフランスの「ナポレオン」が南へ遠征した |
| とき、アルプス越えは不可能と見られていた。しかし彼は『不能の二字は、吾が辞書 |
| に無し、豈(あに)、また吾を妨げるアルプス在らんや!』と、アルプス越えを敢行 |
| したという話は有名である。 |
| それに引き換え、現代(特に日本)においては「辞書」の中に『道徳』の二字は無 |
| いと思えるような、従来では考えられない忌まわしい事件が続発した「平成十六年」 |
| だったが、『天業健なり』の譬(たと)えに漏れず、『アッ』という間に新年を迎え、 |
| 筆者も不本意ながら「米寿」を迎えることになった。 |
| 新しい年は、紀元二六六五年、西暦二〇〇五、明治一三八年、大正九十四年、昭和 |
| 八十年、平成十七年となる。 そして新しい年の『干支』は、『五行(ぎょう)』が |
| 「木」、『十干(かん)』が「乙」、『十二支』は「酉(とり)」で、『乙酉』とな |
| る。『乙酉』の音読みは『いつゆう』、訓読みは『きのと・とり』である。「酉」は |
| 「十二支」の十番目で、「鶏(にわとり)」のことであり、『酉の方角』は「西」、 |
| 『酉の刻』は現在の午後五時から七時を指した。 |
|
鶏も「温血、卵生の脊椎動物」である。「鳥類」の一 |
| 種で、「きじ科」に属し、同種に日本雉(雉は日本特産)・ |
| やまどり・孔雀・錦鶏(きんけい)等がいる。 |
| 鶏と人間とは深い関係にあるが、いつごろからか?筆 |
| 者は知らないが、有史以前かも知れない(?)。 |
| 雄鶏を中心に生活している鶏の群れを見ると、人類の |
| 社会を思わせることが多い。(鶏は一夫多妻だが、広い |
| 地球上、人間社会でも無いとは言えない。そんな人は辞 |
| 書の中の「道徳」二字を守って下さい!!) |
| 鶏の種類で知られているのは『チャボ(矮鶏)』と『シャモ(軍鶏)』の二品種で |
| ある。『チャボ』は小型で足が短く、尾は長く直立しており、主として愛玩用で、 |
| 「インドシナ」の「占城(チャンパ)」から渡来したもので「チャボ」と呼んだらし |
| い。『シャモ』は気性が荒く闘鶏用だが、肉や卵も美味と言われており、原産地が |
| 「タイ国」なので「シャム」から転じて『シャモ』と呼ばれたらしい。 |
| 闘鶏は、二羽の「雄しゃも」を闘わせ、その勝敗に賭ける遊びであるが、東南アジ |
| アなどを中心に、現在も行われているようだ。 |
| 鶏類の頭部に羽毛の無い柔らかい肉質の突起があり、「鶏冠(とさか)」と呼ばれ |
| 特に雄鶏の「とさか」は赤色で大きく、立派で、足にある「蹴爪(けづめ)」ととも |
| に鶏の容姿の特徴だと思う。 |
| 鶏類は小鳥のようい囀(さえず)ることはないが、雄鶏は独特の鳴き声で、一日の |
| 中で、大方同じ時刻に何度か鳴くので、時計のなかった昔は「時刻(とき)告げ鳥」 |
| と呼んで鶏の声で時刻を推定したと言われている。明け方鳴く声を「一番鳥」と呼ん |
| で一日の始めとしたらしい。勤勉を表現して『朝(あした)に、鶏鳴と共に出で、夕 |
| (ゆうべ)に星屑(ほしくず)を戴いて帰る』という文章がある。 |
| 鶏の声に関しては、『鳥の虚音(そらね)』という有 |
|
| 名話がある。昔、『中国』で「孟嘗君(もうしょうくん) |
| 」という人の部隊が、難所として名高い「凾谷関(かん |
| こくかん)」の関所を越えようとしたが、夜明け前だっ |
| たので関所は閉まっていた。そこで、部隊の一人が鶏の |
| 鳴き声をすると、関所の役人は夜明けと思い、関所を開 |
| けたので部隊は無事に関所を越えることができた。 |
| 日本の古い歌集の『後拾遺集(あとじゅういしゅう)」 |
| に、この故事に準(なぞら)えた歌がある。 |
| 『夜をこめて 鳥の虚音(そらね)は 計(はか)るとも |
| 世に 逢(お)う坂の 関は ゆるさじ』 |
| 詠み人は誰か失念したが恋歌(こいうた)であり、歌の内容は次ぎのようだと思う |
| がいかに? |
| 『夜を徹して鶏の鳴き声を出しても、貴女と私の間にある逢坂の関は開かれず、二 |
| 人は逢うことができない。何と悲しいことでしょう』恋焦がれる人に逢えぬ悶々の情 |
| を託した歌と思うが、残念ながら無粋な筆者には、その真意は理解しにくい。 |
| 何はともあれ、新しい年が元気の良い鶏の声のように素晴らしい年でありますよう! |
| そして、「トキメック」や、その「関連企業」がますます発展し、「OB会の諸兄 |
| 姉」がいよいよ御多幸でありますように御祈り申し上げ、拙い「新春干支談義」の |
| 禿筆(とくひつ)をおく次第である。 |
| 最後に、「サラリーマンの悲哀」を慰め、「サラリーマンのうっ憤」を晴らしてく |
| れる『焼鳥』に、心から感謝しましょう! |