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6年3ヶ月を那須事業所(現那須工場)に勤務したが、いわゆる那須野原にある工 |
場の敷地からはいつも那須岳が見えた。地元では那須山と呼んで親しんでいる那須岳 |
は那須火山の総称で、主峰の茶臼岳を指す場合が多い。那須5岳というのは茶臼岳、 |
朝日岳、三本槍岳、南月山、黒尾谷岳であるが、白笹山も欠かせない1峰である。 |
月山と呼ばれた茶臼岳 |
筆者の那須岳初登山は21歳のとき(1960年)で、学友 |
たちと体力にまかせて茶臼岳から会津の二俣温泉まで縦 |
走した。那須在勤中は四季を通じてこの山域に親しみ、 |
ある年は1年を通じ1月から12月まで毎月登山を実行し |
たり、夏は出勤前に早朝車で峠ノ茶屋へ登り、峰ノ茶屋 |
まで早駆けしたこともあった。那須岳周辺の登山は通算 |
70回近いので、地元の人に負けないくらい詳しくなった。 |
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この那須岳において、かの有名な山形県の出羽三山(湯殿山、月山、羽黒山)を転 |
位させて信仰が行われていたことをご存知だろうか。茶臼岳は江戸時代「月山」と呼 |
ばれていた。今でもその南に「南月山」という山がある。出羽の月山には牛首、姥ヶ |
岳という地名(山名)があるが、那須岳にも牛ヶ首、姥平という所がある。那須の信 |
仰はご神体が御沢の俗称“幻ノ滝”付近の温泉源にあり、出羽三山の湯殿山にあたる |
もので、当時白湯山又は御宝前の湯と呼ばれた。現在の三斗小屋温泉は同じ湯脈であ |
る。出羽三山にもあるように、那須も白湯山信仰として「三山駈け」と称し、白湯山・ |
月山(茶臼岳)・朝日岳(毘沙門山と呼ばれた)の三山 |
御沢上流にある?幻ノ滝” |
を登拝した。行人道コースは三斗小屋口(宿)−シズの |
平−白湯山−姥ヶ平−南月山−月山−朝日岳だったと考 |
えられる。このシズの平は出羽三山の志津に相当する。 |
白湯山信仰は江戸後期に栄え第2次大戦頃まで続いたが、 |
戦後数年で自然消滅したようだ。 |
ところで、三本槍岳は那須連山の最高峰であるが「槍」 |
という山名からは似ても似つかぬ緩やかなどっしりした |
山容である。一般に「ヤリ」のつく山は見たままの姿からつけられた山名が多く、代 |
表格は北アルプスの槍ヶ岳である。今夏、27年ぶりに槍ヶ岳に登り(9度目の登頂)、 |
天狗池という場所から眺めた姿は天に向かって槍の穂先を突くようであり、改めて |
「日本のマッターホルン」と呼ばれるに相応しいと思った。姿かたちから付けられた |
山名には他に剣岳や鋸岳などがある。ところが三本槍岳は例外であり、かつて会津・ |
磐城・下野の3藩の境界点としての確認に3本の槍を立てたところから名付けられた |
という。 |
同じ那須連山に隠居倉という山が朝日岳の西方にある。更に三本槍岳から西へ大峠 |
を経て、流石山の続きに三倉山、大倉山がある。「クラ」というのは本来岩を表わす |
もので、もう一つの意味は尊いもの、すなわち神や首長がお座りになる場所(座)と |
いう意味もあり、よい例が長野県南佐久郡にある御座山で「おぐらやま」と呼んでい |
る。「クラ」には倉やーの字が当てられることが多く、谷川岳及びその山系の一ノ倉 |
沢(岳)、俎ー(マナイタグラ)、仙ノ倉山、茂倉岳、芝倉沢などのクラは岩の意味 |
だろう。尾瀬の象徴のような燧ヶ岳は福島県南会津郡に属するので東北地方の最高峰 |
になるが、その山頂部は柴安ーと俎ーのピークから成っている。神の座を思わせる威 |
風堂々の山で、尾瀬ヶ原を睥睨している。 |
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<第1日目 3月14日(金)北九州空港から中津市、耶馬溪を経て湯布院温泉へ> |
溜まったJALのマイルを使って羽田―九州の往復はJAL便を利用した。羽田発8時 |
15分JAL373便で北九州空港に10時に降り立ったところから、この旅は始まった。北九 |
州空港は開業してからまださほどの年は経っていない。関西空港のように、海に張り |
出した埋立地に出来た空港である。筆者は仕事で日産自動車(株)九州工場を訪ねる |
ときに使う玄関口である。 |
空港で予め頼んでおいたレンタカーをピックアップし、福沢諭吉の生家のある中津 |
市に向かう。車はトヨタの小型、パッソー(PASSO)で、メーカーのうたい文句では |
リッター当たり21.5キロメートルも走ると言われている車である。勿論乗るのは始 |
めてである。ハンドル近くのギヤー・チェンジ・レバーは教習所で始めて乗った車を |
思い出し、懐かしくさえあった。その日は中津市で福沢諭吉記念館と中津城を訪ね、 |
耶馬溪の「青の洞門」、「羅漢寺」に寄り、日田市を経て宿泊地の湯布院までの行程 |
とした。 |
方々をくまなく歩いている筆者にしては珍しく今回のコースは、全く初めての地の |
連続である。と言うより意識的にそのようにコースを組んだ。九州の東側をほぼ海岸 |
線に並行に南下というか、周防灘に沿って真東に移動と言ったほうが正しいだろうか。 |
豊前市を最後に福岡県とも別れ、大分県に入る。 |
中津城は黒田家、細川家、小笠原家、奥平家が連続して居城としたところ。西南戦 |
役で消失し、現在の天守閣は昭和39年に再建されたものである。中は4階まで全フロ |
アーが博物館となっている。余談だが、黒田孝高が城主のとき、文録元年(1592)、 |
孝高の長男長政が豊臣秀吉の命を受けて兵5000を率いてこの城から朝鮮に出征した。 |
最上階の展望欄干からは眼下に山国川の流れと周防灘に開けた中津港が見渡せる。 |
小雨の中の中津城から福沢諭吉記念館への歩みは静かな田舎町の風情を滲ませて、 |
ゆっくり楽しめる道筋であった。茅葺の福沢諭吉の生家は、当時のまま国の史跡とし |
て残されていた。ここに生まれた諭吉は蘭学を学ぶため長崎に遊学するまでの19年間 |
を過ごした。現在は同じ敷地内の正面右側に二階建ての福沢諭吉記念館が建てられて |
いて、中には福沢諭吉に縁の著作や写真が展示されていた。売店には福沢諭吉をあし |
らった現行1万円札そっくりの大きさの煎餅が土産品として並べられていたが、聊か |
悪趣味のように思えた。 |
中津市と言えば筆者には、現在の日展の洋画を支える大きな団体「白日会」の会長 |
を務める日本芸術院会員の洋画家中山忠彦の生誕地であることを思い出す。奥様をモ |
デルに女性美を追求して止まぬ姿勢に芸道の一つの研ぎ進めかたを見る思いがして好 |
きな画家である。因みに同画家が現存するわが国の洋画家の中では群を抜いて価格の |
高い画家としても有名である。 |
中津市は山国川の東側に位置する大分県最西端の都市であり、県境になる山国川沿 |
いの国道212号を遡れば耶馬渓に入る。桜には少し早く、ところどころに梅の花が見 |
られるのみで、静かな渓谷筋の風景を楽しみつつドライブ。出会う観光客もまばらで |
あった。山国川が本耶馬渓町に入って幾つかの支流に分かれるが、本耶馬溪の際に聳 |
え立つ秀峰、その名も「競秀峰」の裾野に「青の洞門」がある。どちらも菊池寛の小 |
説“恩讐の彼方に”の舞台になったところとして有名である。青の洞門の一部は禅僧 |
禅海が一人ノミとツチで掘り抜いたと言われるトンネルである。現在はトンネルも足 |
されて立派に国道が通っているが、所詮道幅が狭いため、洞門部分は片側交互通行で |
ある。歩いての観光も短い距離のためあっという間。聞こえている名前ほどには感激 |
の材料はないと見た。 |
それよりも羅漢寺のほうが一見の価値があるだろう。上述の支流の一つ跡田川と言 |
うより羅漢寺の名を取って羅漢寺耶馬溪と呼ばれる川沿いにある羅漢寺山の岩肌を刳 |
り貫いて作られた洞窟に全国羅漢寺の総本山である羅漢寺はある。寺の本堂も山門も |
全て洞窟に嵌め込まれたように作られ、3700体を超える石仏が安置されている。 |
この後の湯布院までの道をどう取るかで悩んだ。別府寄りの比較的直線を選び宿に |
直行するか、折角近くまで来ているのだから、耶馬溪も例え車の中からとは言え、そ |
の全てを眺め、序に日田市を翳めて三角形の二辺を行くかである。結局後のほうを選 |
んだが、日が落ち、ライトを付けてのドライブとなり、宿に着くまでさらなる見学を |
重ねることは出来なかった。由布院の宿はずっと東はずれの昔の公営施設だった「ゆ |
ふいん七色の風」を選んだ。由布岳が間近に望めることと翌日の登山口に一番近いか |
らだった。が、この選択は良くなかった。公営の名残のためか、融通が利かず、朝食 |
の時間が遅く、昼の弁当を別途注文することも何としても叶わず、登山のスタートが |
思うようにならなくて往生したからである。 |
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<第2日目 3月15日 土曜日 由布岳登山> |
予定では別府の鶴見岳から縦走して由布岳の東・西両峰を極める心算であったが、 |
上記したような事情で旅館を出たのが8時を回ってしまったので、鶴見岳は見送り、 |
由布岳のみ正面の登山口から同じ道を往復することにした。 |
由布岳は鹿島槍ヶ岳、谷川岳、筑波山などのように頂上が2峰ある双耳峰である。 |
その独得の容姿は端正であり、どこからも見え、見る方向によってはトロイデ型特有 |
の裾野を引いたきれいな山、「豊後富士」とも呼ばれる所以である。 |
高さは1583mと余り高くはないが、独立峰で特に西峰(この方が東峰より高い)には |
鎖場が3ヶ所もあり、いろいろ楽しめる山であった。 |
正面登山口は湯布院の町を眼下に眺めることが出来る狭霧台の展望所を過ぎて、 |
「やまなみハイウエー」を別府方面に走り、峠の最高所(地図の上では740m余と読 |
める)にあり、登山口を示す大きな標識が立っている。向かって右側正面には東峰に |
代表される由布岳、左側には山頂まで枯れた萱に覆われた、形の良いお椀を伏せたよ |
うな草原の小山・飯盛ヶ城(イイモリガジョウ)が目の前と感じられるくらい近くに |
眺められる。登山口には20台くらいは十分に駐車できるパーキング・スペースがあ |
り、当日が土曜日であったので、近隣の山好きな夫婦や山岳部の面々6つばかりのパ |
ーティが登山靴に履き替えたり、服装を直したり、出発前の柔軟体操をデモったりし |
ていた。 |
枯れ草の一本道を進めば程なく登山道に作られた柵があり、柵の木戸を開けて入る。 |
この柵から広葉樹林帯が始まるが、未だ木々は枯れ木の如く葉を落としており、強い |
日差しは遠慮なく直接頭や顔に強く当たる。登山口からは想像も出来ない谷筋があり、 |
これらを巻きながら越えると合野越(ゴウヤゴシ)に出る。案内書ではここまで登山 |
口から40分とあるが、筆者は45分を要した。これは多分柵を越えて程なくして登山道 |
を左から右に横切った鹿4頭の群れの見事なジャンプとそのスピードを感心して眺め |
ていたためであろう。 |
暫く樹林帯をジグザグと幾重にも折れながら高度を稼いで森林限界に出、草原を日 |
に炙られながら登れば噴火溶岩がゴロゴロした急坂になってマタエに着く。合野越か |
ら1時間余りである。しかし、筆者には2時間かかった。マタエは東峰と西峰の鞍部 |
で、ここから共に20分くらいの登り頂上になる。東峰に先に登った。東側の別府湾、 |
大分市街、鶴見岳や猿で有名な高崎山などが見渡せ、良い眺めである。暫くこの眺め |
を楽しみながら昼食を取った。 |
マタエに戻り、西峰にア |
中央登山口からの由布岳 |
由布岳西峯 頂上で |
タック。鎖場をクリヤーし |
て迎えた頂上は東峰よりも |
平らな平地があった。西側 |
には久住山系、北側にはか |
なり近くに英彦山の独得の |
山容が望める。西峰と東峰 |
を裏側で火口を巻いて歩む |
お釜巡りも出来るらしい。マタエから上は蔭の部分にまだ積雪の残りがびっしりと半 |
分氷状になって繋がっていて滑りやすく、筆者の登山靴のビブラム底も完璧には吸い |
付いてくれず、往生した。単独行の登山者は男女合わせて5人くらい見かけた。皆熟 |
年者であった。同行の士として語らいを持ったのは勿論である。 |
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<第3日目 3月16日 日曜日 久住高原・坊がつるに登り、黒川温泉へ> |
久住山塊を登り歩くこともこの旅行の一つの願望であったが、観光スポットを見逃 |
すことは心情として何としても許せないため、その妥協として3日目は一つだけ平成 |
18年10月に完成した九重「夢の大吊橋」に立ち寄り、その後の残り時間を使って、旧 |
制廣島高等師範(現広島大学)の山岳部の歌として京都大学の西堀名誉教授の作であ |
る「山男の歌」や尾瀬の歌と共に、コーラス・グループの定番になっている「坊がつ |
る讃歌」の舞台を訪ねることにした。 |
一昔前までは湯布院から |
久住山塊 雨ケ池 |
阿蘇中岳の火口 |
阿蘇に至る「やまなみハイ |
ウエイ」と呼んでいたが、 |
現在は別府から湯布院・九 |
重を経由して阿蘇に至る |
「やまなみハイウエイ」と |
呼んでいたが、現在は別府 |
から湯布院・九重を経由し |
て阿蘇に至る「やまなみハイウエイ」と呼ぶらしい。この道が九重の平原に入る少し |
手前の九酔渓の鳴子川渓谷に懸かる吊橋は歩行者専用の観光の目玉として生まれたも |
のらしい。長さは390m、一番高いところは173mあるそうである。筆者のような重量 |
級が大股で歩けばかなりの揺れが感じられる。全くの野次馬として往復してしまった。 |
通行料を500円取られた。昨年土佐祖谷のかずら橋を渡った際にも確か500円取られた |
ように思う。渡橋料は500円が相場なのだろうか。福島県の矢祭渓谷に出来て、塩原 |
に生まれ、全国各地に次から次にと歩行者用吊橋が生まれているが、一種の流行病 |
(ハヤリヤマイ)なのだろうか。 |
寄り道のために久住高原の出発点長者原に着いたのは午前10時を過ぎていた。向か |
おうとしている「坊がつる」は九州唯一の高層湿原である。標高は1300mである。登 |
山家にさらに人気を呼ぶのはこの湿原の南端に九州で最も高いところにある温泉「法 |
華院温泉」があることである。以外に知られていないのは、九州で一番高い山は屋久 |
島の宮之浦岳(1936m)であることだが、もっと知られていないことは、九州本土の |
最高峰がこの久住山塊の中岳(1791m)であることだ。阿蘇や霧島の山の方が高いと |
思っている人が8割を超えていると言って良いだろう。屋久島には中岳を凌ぐ1800m |
以上の山がさらに永田岳(1886m)、黒味岳(1831m)の2座がある。余計ごとにな |
るが、筆者は所帯を持つとき、もう宮之浦岳に登るような機会は持てまいと思い、せ |
めて機上から、運がよければ地上から見納めの山容を眺めたいと思い、わざわざ新婚 |
旅行に屋久島の地を選んだほどである。お蔭で泊った宮之浦港の木賃宿がどうすれば |
よいのかすっかり常軌を逸していた姿を今尚鮮やかに思い出すことである。 |
ここでちょっと「坊がつる讃歌」について触れてみよう。作詞者、補作者、作曲家 |
について長い間分らないことが多くあったが、全てが判明したのは何と昭和53年9月 |
であった。この辺の事情を書いていると長くなるので割愛するが、この歌も広島大学 |
に残された資料では「山岳部第一歌 山男(昭和15年8月完成)」となっているよう |
だ。歌手の芹洋子が昭和52年夏に阿蘇山麓の野外コンサートで出会った若者たちから |
「山男」の歌詞のところどころを直した今の「坊がつる讃歌」を聴かされ、勧められ |
て4番までを唄って全国に広まったと言われている。以下参考までに4番までの歌詞 |
を記してみよう。 |
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<第4日目 3月17日 月曜日 阿蘇三山を巡り、高千穂へ> |
黒川温泉から小一時間のドライブで阿蘇のロープウエイの仙酔峡駅に午前9時前に |
着いた。2日間山歩きをした後なので、このコースは往路をロープウエイで火口東駅 |
まで登って、そのあと中岳、高岳、高岳東峰(天狗の舞台)へと周り、高岳仙酔尾根 |
を下って仙酔峡駅に出ることにした。 |
当日は月曜日のため、さらに春も未だ浅い時期のためかロープウエイに乗る人は他 |
に一人もなく、筆者一人の貸切運転となってしまった。車掌は長く東京で働いていた |
とか、住まいは郊外を求めて南武線の宿河原駅近くであったとか、横浜から来たと話 |
した途端に昔話を始められてしまった。火口東駅からかなり風の強い中を一人で歩き |
出した。コンクリート舗装され、風除けの避難所が転々と置かれた道を一気に登り、 |
火口壁の中岳西稜展望所(1369m)に立った。風向きは別の方向であったが、吹き上 |
げる蒸気は硫化水素臭が強く、周囲一面に激しく漂っている感じであった。淡い霧の |
中で単独行は若干心細くもあったが、気を取り直して、予定した従走路に入った。高 |
低差があまりない尾根筋は徐々に晴れ上がるに連れて、気持ちの良い山旅に変わって |
行った。 |
高岳の山頂(1592.4m)から東峰(天狗の舞台)までの深い残雪の続く巨岩の蔭を |
辿る道はひどく、田んぼの中に足を突っ込んだような状態だった。天狗の舞台から見 |
る目の前の根子岳(1433m)はぎざぎざで大きな櫛の歯のような異様な稜線を晒して |
いた。昼食を取っていた老夫婦と山の話をした後で高岳まで戻り、黒川温泉で作って |
もらったむすびを昼食とした。 |
下山は仙酔尾根を使ったが、道がはっきりせず、ところどころ日陰になったところ |
には凍り付いた雪が残っており、足場も悪く、予想外に時間が掛かった。仙酔峡駅付 |
近の山の斜面にはミヤマキリシマが一面にびっしり植え込まれていた。シーズンにな |
れば駅から見る斜面はそれこそ緋色の綾錦となることだろう。 |
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3月半ばから4月の初めにかけて阿蘇一体では野焼きを行う。既に一部焼かれた後 |
が見られた。山肌に木が殆んどなく、萱や牧草が冬場にすっかり枯れてしまうため、 |
新しく芽を吹く前に焼いて地味を肥やすためにするのだが、真っ黒な山肌が続く様は |
異様で、おどろおどろしい景色である。 |
高千穂町では一番古いというホテル高田屋に泊った。時期外れのためかお客はなく、 |
当日の泊り客は筆者一人だった。宿の女将小手川城子(クニコ)さんは新聞にもよく |
登場する名物女将である。当日は夕食時に筆者と指しで地酒を飲んだが、一升瓶から |
一合以上入るコップに注ぐのに、二杯づつあっという間に飲み干し、自分だけ三杯目 |
をさっさと注ぐ様は恐ろしささえ感じる威厳であった。翌朝勘定を払おうとすると、 |
酒代は女将の驕りだといって取らなかった。盛んに焼酎を勧められたが、もしかする |
と本人が相当飲みたかったのではあるまいか。土地の名物の孟宗竹を使っての「炊き |
込み御飯」や「カッポ鳥」、「竹の子寿司」は供されたが、「カッポ酒」の相手はし |
てもらえなかった。女将の自慢は娘で、東京の旧帝大クラスの大学を出て、米国のハ |
ーバード大のマスターコースを出、米国大手自動車メーカーの幹部社員に嫁ぎ、いま |
その夫婦はその自動車会社の日本法人の社長夫妻として東京に住まいしているとか。 |
肝心の会社名や娘婿の名前もあやふやで、一流の一夜話なのかとさえ勘ぐりたくなる |
のであった。ただ、既に亡くなっている女将の旦那は絵が好きで、しょっちゅう描い |
ていたらしく、たくさんの作品を引っ張り出してきては見せ、長々と講釈が続くので |
あった。筆者もが水彩画が好きで続けていると話したのが運の尽きであった。 |
夜は宿からの送り迎え付きで、重要無形民族文化財に指定されている高千穂神社の |
夜神楽4場の舞いを観賞した。ストーリーとしては神話を茶化したもので、大いに笑 |
えるものだった。天の岩屋に隠れた天照大神を引っ張り出そうと岩戸の前で代わる代 |
わるに踊り、夫婦で酒を作り、酌み交わし、機が熟して契りまで交わすのを天照大神 |
に見せるという想定で、代表的な場面のみを観光客用に縮めてアレンジして見せると |
いう言うなれば簡易版であった。実際は翌朝まで通しで催され、舞も32景ぐらいにな |
るらしい。 |
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21.「小石川時代」に於ける秘聞 (昭和62年会報第22号掲載) |
かって、ある先輩から・・・・明治29年、和田社長は |
和田式圧力計 |
車中で、山本海軍機関大尉との話から計測器の国内自給 |
が急務であることを知り、職人4人と圧力計の研究と製 |
作を始めた。 |
日夜懸命に努力されたが、時に材料代や工賃等の支払 |
いに追われ、本郷にいる親友、間(はざま)氏に資金の |
応援を求められたそうで、人知れず随分ご苦労された。 |
日露戦役のあと間もなき頃、突如として英国ロンドン |
にあるケルビン会社から合弁会社の申し出があった。川崎造船所の創立者、松方幸次 |
郎氏の仲介のよって進められる中、高齢なケルビン卿の逝去で不成功に終った。 |
その合弁会社はTKSは現物出資50万円、ケ社は現金出資50万円で、和田氏を社長 |
に、神戸駐在のブライス氏を副社長にすることまでを決めていたそうである。 |
大正6年、合名会社を株式会社(資本金300万円)にし、同時に光学部門を分離独 |
立させ、三菱と共同出資で日本光学工業(資本金200万円)を設立した。 |
三田豊岡町の本社工場では、和田社長統率の下、計器一色であったが、退任後は漸 |
次カラーも変わり、その後は引き続いて良きスタッフを得、増資を重ねて大発展の一 |
途を辿った。 |
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大正8年、全国不況のさ中、社長は病気に、留守を預かった専務が放漫経営で多額 |
の負債を作り、更に穴埋めせんと株式に手を出して失敗し、進退茲に極まり、競争相 |
手たる愛知時計(名古屋)へ身売り話を申し入れた。 |
然し、調印寸前、社長は売却を思い止り、その苦難時代を相馬電気部長と堀機械部 |
長を中心に従業員の努力で立ち直りに成功。 |
翌大正9年は幸いにも海軍待望の『八八艦隊』案が第43議会で成立し、各工廠は勿 |
論、民間の主力造船所である三菱長崎や神戸川崎の各船台が活気に溢れ出した。 |
但し、遺憾乍らこの好況は続かず、大正12年2月、日英米仏伊の五大海軍国の建艦 |
競争を抑制しようとするワシントン軍縮条約が調印されて『八八艦隊』案による大艦 |
巨砲主義に歯止めがなされてしまった。 |
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ご承知の如くこの条約は主力艦と空母の保有量を夫々 |
対米英の6割に制限するもので、所謂『八八艦隊』案と |
は・・・・既に完成している長門・陸奥並びに建造中の |
加賀・土佐。更に紀伊・尾張・駿河・近江の計八隻の戦 |
艦と、起工を終った巡洋戦艦『天城』型四隻と設計の終 |
ったもの四隻計八隻から成る『八八艦隊』を主力とした |
ものを、大正17年3月までに完成させようとするもので |
ある。 |
かくて、我が海軍は、日本の工業力や資源力からみて、無制限の建艦競争に対する |
枠が各国に嵌められることを是とする条約派と艦隊派たちとの感情的ともいえる相剋 |
は、長く尾を引いていった。 |
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22.「蒲田」に由来 (昭和63年会報第24号掲載) |
高砂香料、上林重役のお話・・・・・昭和4年2月発行、中里右光郎著「蒲田史料」 |
によると、従来、蒲田には徳川以前の歴史及び史料というものが一つも無く、今回、 |
考古学者として有名な中里機庵先生が、或る尊き御文庫の中から日本に一つしかない |
写本の『武蔵草紙』なるものを発見された。 |
蒲田は上代から非常な歴史に富むところで、数度に及ぶ古戦場であることが判った。 |
本書によると、、武蔵国荏原の蒲田(上代は牟邪去江波原、加満田又は加波田)と |
書けりしが、国史および地法に見えたのは、上代からであるから、武蔵野の中にても、 |
早く土地、人家の開けしものと推知せねばならぬ。されど古書の記するところ、漠然 |
として明確ならず。且つ一々これを考証するのは至難である。 |
景行天皇の時、武内宿彌が東国を観察して、武蔵野を巡った。 |
宿彌の歌に、カバオル、タハラノサトラ、ツキイデモ、とある。これは蒲織りは田 |
原の里に、月出でも、と言うのであって、宿彌が多摩川の下流に出て、然る後に歌を |
咏じたのであるから、この歌は当然、蒲田であろう。 |
元素、蒲はカマとも読み、あやめ菖蒲とも通ずる。然 |
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るに支那の古書に、蒲(かば)とは一種の草木にして水 |
沢に生ず葉の長大なれば探りて蓙(むしろ)に織ると、 |
ある。 |
孔子家波という書に「妾織蒲」と書いてあるから、蒲 |
を草花とするよりか、蒲の葉を織ったものと見える。 |
日本でも古くから、あやゐがさ(綾藺笠)があって、 |
蒲と同系の藺草で製織したもの。 |
とにかく宿彌の歌から考案すると、蒲草が蔓延して、しかしこの辺の男女が蒲を織 |
っていたのである。しからば、古代すでに織物が開け、その生活も野蛮から、一歩文 |
化へと踏み出しつつあったものと観なければならぬ。 |
明記を徹するに、荏原とは花草の原である。荏原は一名、荏土とも唱した。江戸氏 |
の祖はこ荏土からでた。 |
これを要するに、荏原一帯は、荏蒲の原が蔓々と生じ、しかして住民は荏草から油 |
を採った記録もある位で、天然生物に対する応用智識と、有外発達したと触せられる |
のである。とある。 |
これが「蒲田」という地名の由来である。 |
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儒教の祖「孔子」が、川の流れを指し『逝くものは斯(か)くの如し』と弟子たち |
に説いた話があるが、「時の流れ」も正に同じで、二度と戻らず、その速さは夢の間 |
で、筆者のような年齢になると、なおさら、その感が深い。『一休和尚』が『門松は |
冥途の旅の一里塚、目出度くもあり、目出度くもなし』と詠んでいるが、 『筆者の |
八十六年の歳月は一体、何だったのか?』と今更、自問して悩み、「悟り」ではなく |
「諦観」の心境から『細川 頼之』の詩『南海行』を思い出している。 |
人生五十愧無功 花木春過 夏已中 満室蒼蠅 掃難去 起 尋禅榻 臥清風 |
(じんせいごじゅうこうなきをはず かぼくはるすぎて なつすでになかばす |
まんしつのそうよう はらえどもさりがたし たちて ぜんとうをたずねて |
せいふうにがす) (注:禅榻は禅に使った椅子) |
『細川頼之』は「足利時代」、幕府の要職に在った人だから良かったが、筆者の場 |
合は禅榻に臥しているわけにはいかない。本題に筆を戻そう。 |
新しい年は、紀元二六六四年、西暦二〇〇四年、明治一三七年、大正九十三年、昭 |
和七十九年、平成十六年。干支は、五行が『木』。十干が『甲』。十二支は『申』で |
『甲申』となり、音読みは『コウシン』、訓読みは『きのえ・さる』となる。 |
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「申」は猿のことだが、干支の場合は「日本猿」を指 |
していると思う。 |
猿は人間に次いで知恵があり、直立して歩くことや、 |
指を使って物を掴むことや、木や石を道具のように使う |
才能を持っている。 |
猿は総称して「猿猴類(えんこうるい)」と呼ばれる |
が、その中で「チンパンジー・ゴリラ・オランウータン・ |
手長猿」の四種類は最も人間に近いので「類人猿」と呼ぶ。 |
又、猿の種類もいろいろで、「ポケット・モンキー」のような小型のものや、「む |
ささび」のように、前後肢間の「膜」を利用して滑空する種類もいる。 |
昔は、時刻や方角に「干支(えと)」が使用され、午後四時台と五時台を「申の刻 |
(さるのこく)」と呼び、四時台を「七つ時」、五時台を「七つ半時」と呼んだ。 |
又、現代の西南西の方位を「申の方角」と呼んだ。 |
猿に纏(まつ)わる言葉や物はたくさんある。猿知恵・猿まね・犬猿の仲・さる戸・ |
猿轡(ぐつわ)・猿芝居・猿まわし・さるまた(名前の由来を筆者は知らない)・さ |
るすべり(百日紅)・猿のこしかけ(きのこ)・さる(雨戸のかぎ・囲炉裏(いろり) |
の自在かぎ)等々多々ある。 |
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読後感を一言で表すなら、いま横光利一の『上海』を改めて読んで、ことさら面白 |
いと思い、「歴史は繰り返す」を感じざるを得なかった、となろうか。 |
横光利一が東洋とヨーロッパの新しい戦いであった五三十事件(大正14年5月30日 |
に上海を中心として起こり、上海事件とも呼ばれる)を扱い、昭和7年の日支事変に |
いたる社会的背景を書き残したいとして昭和3年から6年まで「改造」誌を中心に発 |
表した画期的な小説がこの度岩波文庫から復刻出版されたのを機会に求め、一気に読 |
んだ。現在も東南アジアで日本を凌ぐ金融・商業の中心たらんと大変な意気込みで発 |
展を続けている上海を考えるとき、この横光の作品はなんと新鮮な教材であることか。 |
岩波書店の時代感覚の鋭さに先ずは感心させられた。 |
余計ごとながら、長年海外の仕事に従事し、かなり際どい事件に遭遇している身で |
あれば、自分でも立ち会った事件についてできるだけ詳しく記録を残して置けたなら |
と、その都度思いながら、筆を進める余裕と力が無いため果たせないでいる。そこで |
勢い小説の中でもこの手の主題が一番注意を惹きつける。 |
カンボジアのアンコール遺跡地区のバンテアイ・スレイ寺院から4体の美しい女神 |
デヴァターを盗み出して捕まったフランスの文化大臣で作家のアンドレ・マルローが |
アンコールの歴代の王を主題にした小説『王道』や上海事変に続く広東革命を自ら参 |
加の上で表した『征服者』、スペインの市民戦争を扱ったアーネスト・へミングウエ |
イやケストナーの多くの作品等々枚挙に暇のないくらい対象としたい小説は探せます。 |
ニューヨークの9.11爆破事件の数日前に同ビルに出入りし、他人に会い、食事を |
共にしていた事実、円・ドル関係が急激に動き、考えられない円高に向かっていた最 |
中に欧州駐在員として現地通貨(当時のオランダ・ギルダー)での毎月の手取り給与 |
が10万円以上の変動に晒されたり、ロンドンのハロッズ・デパートを訪ねれば当日は |
「アラブの王様が全館の品物全てを買われましたので一般の人は立ち入れません」と |
の不思議なアナウンスで追い返され、用が果たせなかったこと、リビヤで例の奇人変 |
人のガダフィ大佐が地方の議員を招集してトリポリで開く全国議員大会の開会当日に |
見事に命中してしまい、予約したホテルに入れなかったこと。市中のホテルというホ |
テルは砂漠の中のオアシスから出てきた地方議員とその随行員の宿舎に当てられ、一 |
般客は締め出されると言う聴いたこともない目に合わされ、既に泊っていて追い出さ |
れた外国人20人くらいと一緒に砂漠の中のテントで10日間過ごした水もシャワーもな |
く、食事もない素泊まり生活は今考えてもぞっとするおぞましいものであった。しか |
しながら、そんな惨めな経験の中でも、筆者には、そういう普通では考えられない非 |
常時にたまたま隣り合わせたり、話の輪の中に入った人々とそのとき以来続いている |
交友が何とも言えぬ他に変えがたい宝物に思えるのだ。1968年にスペインの国立バル |
セロナ大学とセビリア大学でスペイン語が母国語でない全世界の学生、教授、作家、 |
報道関係者等に解放されていた外国人口座を受講していたときのことも今でも鮮やか |
に瞼に蘇らせることが出来る。この年の春、パリの大学生は一斉に決起し、第2のフ |
ランス革命と言われた騒ぎのあった年である。当時スペインではまだテレビは殆んど |
普及しておらず、毎日パリから送られてくるラジオ報道を大学の寄宿舎に集まって聴 |
き入り、何時間にも亘って議論を重ねたときのあの真剣でビビッドな聴講生の語り口 |
やまなざしは筆者の外国人と過ごした日々の生活の中でも特異な経験であった。 |
かなり妙な方向に脱線してしまいました。話を元に戻しましょう。 |
横光利一が『上海』を単行本として出したときの序文に、「私がこの作を書こうとし |
た動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというより、むしろ自分の住む惨めな東洋 |
を一度知ってみたいと思う子供っぽい気持ちから筆を取った」と書いているように、 |
日本の知識人に上海事変の本当の姿を知ってもらいたいという気持ちの強さが支えに |
なっているのだろう。内地で伝えられる現地の状況と、現場で直に体験する事実とは |
どれだけ隔たっていたことか想像に余りある。地域的にも業種間にも、二重にも三重 |
にも経済格差が存在する現在の中国にあって、資本主義末期を迎えているとも言える |
ニューヨーク、ロンドン、東京以上にどぎついカネと権力による強引な変革や路線が |
敷設されつつある今の上海が、横光が書いた上海事変の植民都市の姿と妙にダブり、 |
改めて当時の中国社会を裏側から見たものが今の姿であるように見えてならないのは |
私ばかりではなかろうと思う。それにしても、当時の世界でも類を見ない厳しいわが |
国の官憲の統制や検閲の中で、作者が相当気を遣って書き換えているとはいえ、全編 |
を流れている共産主義思想や反帝国主義の考え方は相当危ないものであったと思われ |
てならないが、この作品が単行本化されたときに引っかからずにすんなり世に出たの |
がどうしても私には大きな疑問に思われてならない。横光利一はプロレタリア文学の |
旗手とは理解されていないから事なきを得たのかもしれない。その点では同作家の作 |
品の中でも確かにユニークなものである。 |
それにしても横光利一の情景描写が非常に生々しく、文章に表された風物が直ぐに |
読者の瞼に描けるようである。一例をご披露するなら、 |
「泥の中から起重機の群れが、錆がついた歯をむき出したまま休んでいた。積み上げ |
られた木材。泥の中へ崩れ込んだ石垣。揚げ荷からこぼれた菜っ葉の山。舷側の爆 |
(ハジ)けた腐った小船には、白い菌が皮膚のように生えていた。その竜骨に溜った |
動かぬ泡の中から赤子の死体が片足を上げて浮いていた。そうして、月はまるで塵埃 |
(ゴミ)の中で育った月のように、生色を無くしながらいたる所に転げていた。」 |
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18.「社員会」惜別の宴の想い出 (昭和61年会報第20号掲載) |
“別れといえば昔より この人の世の常なるを |
流るる水を眺むれば 夢はずかしき涙かな (藤村の詩より) |
従来、吾社には各課毎に(課長10名)個々の親睦機関はあったが、社員相互に円滑 |
を欠く感もあり、昭和10年9月、全社員の慶弔禍福を共にする「社員会」が誕生した。 |
因みに前身は昭和6年に和田元之助、中山倉之助両氏を中心に有志僅か20人相寄り、 |
“火曜会”と名付け呱々の声を挙げたもの。 |
間もなく職員会に、そして社員会と改称した当時には会員数も260名に及び毎年懇 |
親会を開催して重役を招待し、談笑裡に意志の疎通を計り、和心協力以て事業に寄与 |
して来たのである。 |
今その会場など想い浮かべれば〜 ★大森・松浅本店・・・開宴前に随意入浴、 |
★横浜・磯子園・・・海水浴してから宴会 ★大森・小町園・・・小唄の名妓 |
“小花”登場。 |
さて昭和12年、東京航空計器の分立に伴い会員中より転籍者を見、永年同じ釜の飯を |
食べた親愛なる同志と分袂する、お別れパーテーは盛大にと色々な企画が考えられた。 |
出発当日は正門前広場で、先ず一行の記念撮影をし待機のタクシー60台に分乗して、 |
一路奥多摩までドライブを楽しむ。 |
名勝、鳩の巣にて再び撮影をすませ会場の“河鹿園”清流多摩川に面す200畳敷の |
大広間で若鮎の塩焼きなど肴に別離の宴となり、そぞろ惜別の盃を交し合う・・・。 |
彩りを添える同行の美妓連(10名)は懇に幹部席のサービスに之勤めていた。 |
愈、別れの日が近付く。記念として重役及び全社員は職場別に更めて写真を撮り以 |
て当時を永久に偲ぶよすがとした。 |
歳々年々人同じからず。星霜は移り人は去って逝く。当時健在なりし260名の諸先 |
輩は今僅かに30名足らずとなってしまった。感無量・・・・・。 |
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19.「与太郎会」の変遷 (昭和61年会報第20号掲載) |
蒲田に移転して間もなき頃、営業関係の独身者のみ数 |
昭和6年蒲田本社工場全景_100年史より |
人相寄り、旅行を主とした親睦機関を作り、「与太郎会」 |
が誕生した。 |
会長には先輩格の「道上庄之助氏」を推戴して、先ず |
皮切りにお盆のボーナス当日の午後から一泊旅行に出掛 |
けた。 |
間もなく春秋2回と回数を増やし乍ら与太の青春を謳 |
歌し、正に週末旅行の走りとも、斯くて15年末まで続い |
たのである。 |
このあと暫らく中断する。同志を戦病死などで多数失ってしまったが、名称を「世 |
太老」と改めて復活し現在に至る。(以下敬称略) |
記 |
初代会長 道上庄之助(47.3.10没) 第二代会長 今村 政夫(51.11.3没) |
第三代会長 松永七五三太 当時の会員を入会順に列記すると・・・ |
△道上庄之助 △鎌田太二馬 △田中 茂久 △今村 政夫 △甲賀幸次郎 |
船橋 節 松永七五三太 △笠井 武俊 △磯貝幸次郎 △福島信太郎 |
山田 龍雄 中村 賛蔵 野村 光雄 大海 貫一 △安田 誠 |
古賀 博 竹蔦喜久夫 計17名 |
物故者(戦死者を含む)△印は半数強の9名に達し、そぞろ歳月の流れ、人の世の |
儚さを痛感させられる。 |
尚ご参考に旅先きや宿舎は次のよう、旅費はいつも金10円止まりであった。 |
記 |
☆芦の湯(松阪屋) ☆三原山下田(河内館) ☆会津東山(ニ八屋) |
☆箱根湯本(玉泉荘) ☆古奈韮山(井川館) ☆飯塚穴川(角 屋) |
☆十和田浅虫(東奥館)☆下賀茂(伊古奈) ☆修善寺(仲田屋) |
☆四万沢渡(積善館) |
同志のM氏が修善寺の名妓S子と恋仲となり仲田屋へは都合3回訪れるロマンもあ |
った。昭和48年新年会、南房総「万年屋」に於いて、昭和12年、吾社に於ける応召第 |
1号「笠井武俊少尉」出征壮行会(自宅) |
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20.歴史を彩った宰相たち (昭和61年会報第21号掲載) |
昭和30年、保守合同による自民党結成以来、総裁は政権党のトップとして常に首相 |
の座を占め、これまでに11人の宰相が誕生している。 |
内閣総理大臣は国政に関する国民の関心の焦点だけに、国民の期待は大きい。 |
初代総理:伊藤博文公 |
明治18年12月22日に就任した初代伊藤博文公より第73 |
代、第3次中曽根内閣まで45人の宰相たちが日本の歴史 |
を彩った。 |
理想の首相像を求めるある新聞社のアンケート調査に |
よると、望ましいと考える条件として、国民は、特に |
「実行力」「指導力」「決断力」の三つを挙げ、更に |
“強力”と“しなやかさ”という二つの能力を併せ持つ |
ことが不可欠の要件となっている。 |
内閣制度がスタートして波乱100年の節目を迎えこの制度をめぐり、内閣機能の強 |
化という古くて新しいテーマが亦々浮上してきた。 |
懸案の政策を強力に推進するため「大統領的首相」を目指して内閣機能の強化に意 |
欲を見せる中曽根総理だが、課題は随分と多い。 |
次に歴代首相のあれこれを拾い出してみる。 |
《就任時の年令》 |
就任当時平均年令は62.3才。最年少は伊藤博文の44才。ずば抜けて若い。最高は終 |
戦時の鈴木貫太郎の77才。戦後だけで見ると、最も若いのは54才の田中角栄で、逆に |
70才以上の高令者は、幣原喜重郎(73)、鳩山一郎(71)、石橋湛山(72)、福田赳夫 |
(71)となっている。 |
《通算在職日数》 |
通算内閣数で数えると、つい先日の中曽根内閣が第73代で、一内閣の平均寿命は |
500日、1年4ヶ月余りである。最も短命だった首相は、終戦処理に当たった東久邇 |
稔彦氏の54日間。通算在職日数で最長寿は桂太郎の2886日間、佐藤栄作2798日間、伊 |
藤博文2720日間がこれに次ぐ。これまで通算日数が千日を越えたのは中曽根首相を含 |
め13人いるが、その中で中曽根氏は現在10番目である。 |
《出身地の県別》 |
100年間で45人の総理が誕生しているが、最も多いのが山口県で7人、伊藤博文、 |
山県有明、桂太郎、寺内正穀、田中義一,岸信介、佐藤栄作。2位が東京で、高橋是 |
清、近衛文麿、東条英機、鳩山一郎、石橋湛山の5人。3位は岩手で原敬、斉藤稔、 |
米内光政、鈴木善幸の4人。次いで鹿児島、京都が各3人。高知、広島、岡山、石川、 |
群馬の各県が2人づつ。全体的には関西、九州、四国地方出身者が約3分の2を占め、 |
北海道からは1人もでていない。 |
《 血 液 型 》 |
戦後16人の首相の中で、血液型が判明した13人のうち、O型が9人と圧倒的に多い。 |
日本人の血液型はA型4割、O型3割、B型2割、AB型1割といわれる、目的志向 |
性、政治性に富んだO型は政治家に多いようだ。 |
《閣議も時代につれ》 |
首相官邸で閣議を開くようになったのは、第2次大隈内閣(大正3年成立)から。 |
当時、内閣の部局の多くが皇居内の宮内省にあったが、足が不自由で、階段と長い |
廊下が苦痛となり、ある時、官邸での閣議が定着したものという。 |
《官邸にお鯉の間》 |
現在の首相官邸(昭和4年完成)が建つまでは、永田町にあった太政官々邸を使った。 |
桂太郎首相時代、その庭に有名な「お鯉の間」という離れ家があった。桂のために、 |
同じ長州の先輩である山県有明がやっと口説き落とした芸者のお鯉の家で、桂は官費 |
で妾宅を構えたのである。 隔世の感がする。 |
| | | |
誰もが大きな期待で迎えた「二十一世紀」の最初の年は、ITブームにも支えられ、 |
物質文明は確かに発展したが、反面、精神文化は荒廃の一途を辿り、国内では従来在り |
得ない犯罪が多発した。他方、米国では「同時多発テロ」の勃発で、『すわ!第三次 |
世界戦争か?』と、世界を驚愕と恐怖に陥れて「新世紀第二年目」を迎えたのである。 |
新しい年は「紀元二六六二・西暦二〇〇二・明治一三 |
|
五・大正九十一・昭和七十七年に当る。 |
平成十四年の「干支」は「五行」が五番目の「水」の |
前段で、「十干」は九番目の「壬(じん)」で「十二支」が七番目の「午(うま)」 |
で「壬午」となり、訓読みは「みずのえうま」、音読は |
「じんご」である。「午」の方角は南で、「午の刻(う |
まのこく)」は現在の十一時半から十三時半迄で、前半 |
を「九つ時(ここのつどき)」後半を「九つ半(ここの |
つはん)」と呼んだ。 |
午(馬)は「哺乳動物・有蹄類・馬科」の家畜で、現在は野生していないようであ |
る(縞馬や驢馬等の亜種は別)。 |
馬に関わる言葉の主なものを拾うと、「馬の耳に念仏(馬耳東風)」「人の尻馬に |
乗る」「馬脚を現わす」「馬齢を重ねる」「馬が合う」「馬には乗って見よ、人には |
添って見よ」「駿馬(しゅんめ)の一歩より、午歩の千歩」「付け馬(不払いの遊興 |
費を取る為に、客の家迄同行する人)」「白馬(しろうま)(濁酒(とぶろく))」等か。 |
昔は馬肉も「さくら」「けとばし」等呼んで食用とし、熊本では「馬刺」が名物 |
だったが馬が少なくなった最近はどうか? |
|
日本史上での馬の物語は、「源平・一の谷の合戦」で |
源氏の武将「畠山重忠」が、愛馬を背負って「鵯越え」 |
の谷を降りた動物愛護物語、「宇治川の合戦」で名馬 |
「磨墨(するすみ)(梶原景季騎乗)と池月(いけずき) |
(佐々木高綱騎乗)」の先陣争い(池月が先着)の話、 |
佐野(油圧の佐野)の住人「佐野源左衛門常世」が零落 |
の身で馬を大切にしていた話や、「寛永三馬術」一人 |
「間垣平九郎」が芝「愛宕神社」の石段を騎馬で上り降 |
りして、将軍「家光」に褒められた話、等が有名。 |
馬は人間の為に、軍事用・民事用を問わず、昔から非常に役立つ家畜で、乗物・運 |
搬・農耕等色々に利用されて来た。 |
| | | |
馬と人間の関わり方 |
昔の陸軍では、「騎馬連隊(全員乗馬部隊)」「砲兵連隊(大砲は馬で運ぶ)」 |
「輜重連隊(軍需物資の輸送)」等で大量の馬が必要だったのである。 |
鉄道の無かった頃の旅の乗り物は、日本では駕篭と馬が主力で、宿場から宿場へと |
旅人を乗せた馬の手綱を引き乍ら、馬子が唄った「馬子唄」は、各地の地名等が唄い |
込まれており、今までも唄われている。 |
製造三工場の在る北関東の、「上州馬子唄」♪赤城時雨(しぐれ)れて、沼田は |
雨よ。明日は水上湯檜曽(ゆびそ)まで。♪や、その他「箱根馬子唄」・「小諸馬子 |
唄」・「鈴鹿馬子唄」等が知られている。 |
大正時代、故郷(甲府)の街には「乗り合馬車(幌馬車式と鉄路を走る軌道馬車) |
があり、親に連れられて乗った事を憶えている。 また、年に一度(花の頃)「サー |
カス」の興業が街を訪れ、十日間位営業したが、猛獣の演技や、「娘曲馬団」の華麗 |
な妙技が少年の心を引付けた。 |
昭和十三年頃、アメリカ映画『駅馬車(ジョンフォー |
西部の荒野 |
ド作原名・ナイン・ストレンジャー(九人の見知らぬ人) |
・』を覧(み)た。 |
若い「ならず者」を護送する一人の保安官と、ならず |
者の恋人と、その他六人の旅人が乗った「驛馬車」が色 |
々な困難(インディアンの襲撃等)を乗り越えて、大陸 |
を横断する物語りだが、そのラストシーンで保安官が、 |
護送して来た若者とその恋人を馬に乗せ、馬の尻を叩き、 |
二人が草原に遠ざかるのを見ながら、『二人は仕合せにも文明の罪科から逃れたね!』 |
と言った言葉が、六十年経った今も筆者の心に残っている。 |
昔は、どこでも見かけた馬も最近は殆ど見ない。本来野生であるべきなのに、無理 |
に家畜化され、現在不用になりつゝある馬の運命こそ「文明の罪科」と言うべきだろ |
う?。 |
せめて「午年」の今年は、人種や宗教の違いを越えて、全人類が「文明の罪科」か |
ら逃れ、幸福になることを祈りつゝ、拙い「干支談義」の禿筆を措く次第である。 |