| | | |
筆者はドイツ文学者で学園紛争の最中に東大教授を辞 |
「小説宝石」表紙・光文社 |
した名文家 池内紀氏の著作が好きである。多作の人な |
ので全てを読破することなど今の筆者の自由時間ではと |
ても無理なことで、勢い好みに合せて選んでの読書とな |
る。その中で、次の二作にいかにも池内氏の真髄を見る |
思いがする。それらは『二列目の人生 隠れた異才たち』 |
(晶文社刊)と『ひとつとなりの山』(2006年10月から |
『小説宝石』に18回にわたり連載され、今年に入って加 |
筆の上、『光文社新書』に収められた)である。 |
充分に実力がありながらマスコミの話題に乗らないとか、陰に隠れているその道の |
達人や特定の人が独断と偏見で選んだとも言えるいわゆる100名山などの呼び声に消 |
されているその土地その土地の名山を掘り起こして、日を当てようとする試みに心か |
ら拍手を送りたい気持ちがいっぱいになるからである。実のところ、わが国の学会や |
芸術文化界の大勢を眺めても、第2、第3のランクを占める達人の層が厚いことが特 |
徴の一つとして挙げられ、そのことが、わが国の国力を大きなものとして世界に向か |
って喧伝しているところだと思われる。 |
筆者がいまこの二列目の人物やとなりの山を敢えて吟味したいのは、余りに今の日 |
本が実力主義というか、差別化された人を優遇したり、格差を当然のこととして容認 |
し、差別化された人たちの仲間意識を盛り上げて、好みの生活を享受しようとする傾 |
向に甚だ疑問を持つからである。疑問を持てば持つほど、池内氏のようなアプローチ |
の必要を痛切に感じるのである。ごく一握りの人だけではとても思ったことが出来る |
訳はなく、戦後の日本の発展にしても、すべての分野の男性が朝早くから夜遅くまで |
あくなき努力を重ねた結果、今の日本の発展した社会が築き上げられたとは良く言わ |
れることであり、この蔭にはいろいろな他人に言えない不自由と苦しみに必至に耐え |
抜いた、各家庭の主婦の献身的なサポートを考えなければならないだろう。ひとたび |
世の中が平和になれば、家庭の主婦は自分の権利ばかりを主張し、平等を謳う余り、 |
子供の教育や躾にも怠惰になり、ただ只管に自分の自由の謳歌に暇無しということが |
余りにも目立ち過ぎるのではないだろうかとの思いを強く感じるからである。 |
実力者であっても、その人をサポートする周囲の人々が無能であったり、働きが悪 |
ければ、その実力者の力は少しも伝播されては行かないだろうから支える人々の重要 |
性は言わずもがな当然のことである。昔からよく言われる「あの人は副官向きだ、指 |
揮官としては使えないよ」というように自ずと役割分担が決められると思われるが、 |
今はかなり自選がものを言う時代であるから、特に筆者には、日本ではこの辺りの理 |
解に対する感覚が年々少しずつ欠如して来ているように思える。集団としての力の和 |
をお互いに作り出す雰囲気はどの世界にも薄れて来ているのではなかろうか。結論は |
ともかくこの辺りにして、少しばかり上記の2冊について読後感と思うところを記し |
てみたい。 |
『二列目の人生』 |
『二列目の人生』では著者が述べているように、身近なところに実はすごい人が隠 |
れていることを思い知らせてくれる。また、実力がありながら歴史の蔭に埋もれて日 |
の目を見なかった人に日を当てるという地味ながら、人生にとって非常に参考になる |
ことを教えられる思いがした。 |
「二列目の人生」表紙・集英社 |
本の帯にも書かれているように、いま一番を選ばない |
生き方を考えてみようとか一流を超えているのに名声よ |
りも大切にするものがあって、敢えて自ら一流人になら |
なかった人が大事であるし、素晴らしいと思えるのであ |
る。 |
筆者は絵画と動植物に若い頃から興味を持ち続けてい |
るため、著者が挙げられた人の中でも、市井の植物学者 |
の南方熊楠と対比される同じ紀州の人、大上宇市(オオ |
ウエ ウイチ)、女流画家として初めて文化勲章を受けた上村松園のライバルと言わ |
れながら未だに余り口の端に乗らない島 成園、常に棟方志功を見返そうとの気持ち |
はあれど作品では競えず、生まれた故郷の富山で一生を終えた篁 牛人(タカムラ |
ギュウジン)と日本山岳会の設立に尽力し、多額の私財を投じながら初代会長には着 |
かず、2代目の会長に甘んじた高頭 式(タカトウ ショウ)に強い感銘を覚えた。 |
人は有名になればなるほど、高名になればなるほど、修行時代や一人前になるまで |
の競争者や同時代の同志の人々については伝記でも普通はあまり触れられない。特に |
昨今はトップ至上主義にも似た偏向がまかり通っているためか、必要以上にトップを |
褒め、余計ごとまで書き連ねる趣があるように思われるので、もう少し平等に、縦軸 |
のみならず横軸にも目を向けて紹介して欲しいと思っていたので、久し振りに筆者の |
願望に沿った本に出合えた思いがした。 |
本の帯にも書かれているように、いま一番を選ばない生き方を考えてみようとか、 |
一流を超えているのに名声よりも大切にするものがあって、敢えて自ら一流人になら |
なかった人が大事だし、素晴らしいと思えるのである。 |
『ひとつとなりの山』 |
『ひとつとなりの山』、この本も本当に面白い本である。あらゆるかしましさや賑 |
「ひとつとなりの山」表紙・光文社 |
やかな宣伝・案内に導かれて登る有名な山よりも一人静 |
かに山や木々、植物、花鳥と対話できる登山の方がどん |
なにか山好き人間に迎えられることかを実践されている |
著者ならではの本だと思う。特に老いてからの山登りは |
必ずしも頂を極めることが山登りでもなければ、好きな |
ところで思う存分いい空気を吸い、気に入った風景を絵 |
画、詩歌、俳句に留めて満足する、これ以上の晴れ晴れ |
とした時間の使い方もあるまいと思うからで、筆者のこ |
れからの生き方の手本にしたい本だと思う。筆者が登っている山としては、秋田県の |
乳頭山、岩手県の早池峰山、栃木県の那須三山(茶臼岳から朝日岳を経て三本槍ヶ岳 |
まで)、新潟県の八海山、長野県の独鈷山、山梨県の七面山、長野県の蝶ヶ岳、徳島 |
県の剣山への記述は非常に懐かしかった。 |
秋田「乳頭山」眺望 |
岩手「早池峰山」からの眺望 |
栃木 那須三山「朝日岳」(左)と「茶臼岳」(右) |
| | | |
今年、3月東京計器OB会ホーム・ページの作品コー |
水彩風景画制作を楽しむ |
ナーに掲載いただいた、(2000年から昨年2008年までに |
描いた風景画を中心に)その中から絵葉書に作った17点 |
について、作者として作品を描いた動機や裏話、作品に |
込めた意気込み等について、5回にも分けて掲載してい |
ただき私自身は大変満足しています。しかし、OBの皆 |
様には毎回しつこく見せられて食傷気味になられたので |
はないかと案じています。沢山の方々に直々に会場を訪 |
ねていただき、実物をご覧いただいていますが、それでもOB会の会員から見ればご |
く一部の方々でしかありませんので、前号で佐藤雅寿様が言われていましたように、 |
近々OB会メンバーの作品展でもございますなら、是非参加してより多くの方々に見 |
ていただければと希望致しております。 |
ここ数年は3〜5月に関西以西に水彩画の取材旅行を致していますが、今年は仕事 |
で関係しております米国の自動車部品のメーカーでビッグスリーとの取引が6割くら |
いになり、その売掛金が凍結されている関係で、昨年の10月以降私も無償で働かざ |
るを得ない状況で、とてもゆっくりデッサンをしたり、旅の風情を味わうどころでは |
なく、戦々恐々の毎日です。 |
今日(6月1日)にビッグスリーの最後のGMが破産法のチャピター11の適応申請 |
になることで一段落致しましたが、従来の車種の整理や引取り分担の決定等々まだま |
だ今後の作業が目白押しにありますし、GM自身が何を売る目玉として日本のトヨタ、 |
ホンダ、日産の先行している環境対応車などの新コンセプト車と張り合える状態に移 |
行できるのか、工場のレイアウト、製造ラインの組み換え、適合部品メーカーの選定 |
や電池を初めとした新製品・部品の供給元や協働開発作業の契約等現時点では全く目 |
処が立っていませんので、暫くはビジネスの相手として今までの何%くらいが続けら |
れるのか、私の関係しているメーカーの仕事量確保も大苦戦が予想されます。 |
でも時間を見つけては描くことだけは続けるつもりです。また、次の機会を楽しみ |
に待っていてください。長い間お目障りでした。本当に有難うございました。 |
| | | |
<今頃出掛けた理由> |
旅で雨天に出会ったことが殆んどない筆者が、さらに自慢したい5泊6日の山行を |
入梅直後の南九州で一滴の雨にも遭わず実現することが出来た。最初から、自分から |
望んで作った計画ではなかったが、折角貯めたJALのマイルが4000マイルほど近々消 |
滅すると聞かされては勿体無くて、シーズン・オフにどちらかと言えば嫌々特典航空 |
券に換えて実行することになった旅行だった。でも、終わって見れば全てのことに運 |
良くツキがあり、天然記念物ミヤマキリシマの今春最後のチャンスに間に合い、同じ |
く地域の名花オオヤマレンゲやシロドウダンツツジにも出会え、紫陽花に似た白い4 |
枚花弁の花の集まりが群れて咲くコガクウツギに辛い山の登りを癒されるなど、いず |
れも筆者には初めてのことで、大変に嬉しく、旅の大きな思い出になった。 |
注:今回投稿いただいた原稿は、3回に分けて掲載いたします。(HP編集部) |
<開聞岳(924m)に初めて登る> |
開聞岳には指宿(イブスキ)の民宿に泊り、タクシーで二合目の登山口を往復する |
ことで登った。深田久弥が1000m以下の標高の山で100名山に入れたのは、この開聞岳 |
と筑波山の2座である。筆者も正直なところ、この開聞岳を少々小馬鹿にして掛かっ |
ていたが、なんと相違して、相当に苦しい山であった。1000mに満たないとは言え、 |
海抜の殆んど全部を登ることになり、しかも螺旋状に巻いて一本道を登るため、直線 |
距離にすれば、相当の道程となる筈である。確か水泳の故木原美智子が当地を訪れた |
ときに、往復1時間半もあればと大見得を切って大変難渋したと言う話が当地では語 |
り草として伝えられているとか。 |
開聞岳山頂(924m) |
階段と大きな岩石の中の道で、決して登り易い道では |
ない。おまけに頂上まで樹林の中を行き、眺望が殆んど |
望めなく、変化に乏しい山道である。加えて、登った当 |
日は前日までの雨の後とあって非常に蒸し暑く、風はそ |
よとも吹かず、山の中腹から上はすっぽりガスの中で、 |
頂上からも何も見えず、展望を全く楽しむことなく登っ |
た。 |
ただ本当に登ったという証拠を作るためのものだった |
と言っても過言ではない。しかも、当日が金曜日だったため登山者も少なく、地元の |
人が7,8名と鹿児島大学の漕艇部とトライアスロン部OBの合同登山とか説明を受 |
けた熟年者の6,7名が狭い頂上の風の当たるところを占拠していてゆっくり座る場 |
所も見当たらない。その場所は瞬間霧が晴れれば眺望があるのであろう。今は登山口 |
が一つだけになり、同じ道を戻るしかなく、登りに追い抜かれた人にもう一度顔を合 |
わせることになり、お互いに良く分る。一組カナダの初 |
コガクウツギの花と9合目の標識 |
老の夫婦が筆者を抜いて登って行った。夫人は何とスカ |
ート姿であった。何でも大学に通っている息子がラグビ |
ーの交歓試合で日本に来ているので、その試合を見て序 |
に日本各地を観光するのだとか。その日は福岡まで汽車 |
で出るのでと大急ぎで下山して行った。基本的なスタミ |
ナの違いを感じて少々自分が情けなく感じたことだった。 |
さほど面白味のない登山道で唯一筆者を慰めてくれた |
のは、紫陽花に似た白い4枚花弁の花がいっぱい集まって咲いていたコガクウツギ |
(ユキノシタ科アジサイ属)で、もちろん筆者には初めての花であった。 |
この山で少々興味を持ったことは、頂上一面にぜんまいの長(タ)けた葉が茂って |
いたり、地表を這うように広がっている通称「血止め草」がびっしりと生えていたり |
で、1000m 近い標高があるとはとても思えなかった。また、登山道の両側に3〜5m |
くらいのひょろひょろっとした細い幹の木がたくさんあり、何かと思ってしっかり見 |
れば、野生の「やつで」だった。 |
思い返せばこの山行は、昨年3月に同じ九州で由布岳、久住山、阿蘇山に登って以 |
来の約1年半振りの山行であったので当然のこと、苦しみを感じるのは不思議でも何 |
でもないと納得した。苦しみの中で生まれた拙句二首。 |
“開聞の コガクウツギに 足軽く” |
“梅雨空に コガクウツギを 愛でる山” |
蛇足になるが、ガイドブックによっては開聞岳の標高が922mとなっている。 |
この表示は古く、最近の計測で924mというのが正しい高さである。 |
*コース・タイム* |
二合目登山口8:40…五合目(あと頂上まで2.0km)10:00…仙人洞11:23 |
…八合目(あと0.3km)11:45…13:00開聞岳山頂(924m、昼食)13:30…八合目 |
14:05…仙人洞14:25…五合目15:15…16:05二合目登山口 |
<指宿今昔> |
筆者には指宿は殊の外思い出多き場所である。この指宿の地は40年前新婚旅行で屋 |
久島に赴いた帰路に立ち寄ったところである。確か開聞岳の中腹、現在では近くまで |
ゴルフコースになっているようであるが、新婚旅行の記念に美老樹(?)とか呼ばれ |
ていた亜熱帯の樹木を植林した。しかし、当時に比べて今回民宿の窓から眺める街頭 |
の景色に大きな違いがあった。街路樹にジャカランタの木と赤紫の花、民家の垣根に |
西洋朝顔、ブーゲンビリアそしてハイビスカスとたくさんの熱帯植物に取り囲まれて |
いるではないか。日本古来の植物が取って代わられてしまっている。まるで恰もフィ |
リピンかインドネシアにでもいるような気分にさせられた。どうしてこんなことにな |
ってしまったのであろうか。温暖化現象に乗って、栽培に容易な植物がはびこった結 |
果なのであろうか。筆者の目にも心にもその景観を見ての喜びは正直なかった。 |
今回は、指宿では与謝野 寛・晶子夫妻の歌がやたらに目に付いた。しつこいくら |
いだった。宿の民宿でも朝夕の紙のテーブル・マットにプリンターから印刷した二人 |
の和歌が刷られていた。プリントして直ぐに使っているものと見え、上に水気をこぼ |
すと跡形もなく歌は消えてしまう。全くお粗末であった。その歌は、朝食時が寛の歌 |
で、「砂風呂に潮さしくれば かりそめの 葭簀の屋根も 青海に立つ=霧島の歌 |
与謝野 寛」とあり、夕食時には晶子の歌で「しら波の下に 熱沙の隠さるる不思 |
議に逢へり 指宿に来て」=浜砂風呂にて 与謝野 晶子」であった。 |
それにしても、酒の肴として特別に注文したキビナゴの刺身の美味しかったことは |
どうしても一言触れて置きたい。下ろした生姜と搾ったレモンで和(ア)えた味噌で |
食べるのだが本当にいい味だった。余りの美味しさに二晩続けて頼んだものだ。きら |
きら、ピカピカ光る青く透き通った肌が並んでいるのは見るからに新鮮しそうで食欲 |
を誘った。一緒に飲んだ地元の焼酎の捗(ハカ)がいったのは言わずもがなである。 |
一皿たくさんに盛って貰って、たったの600円というお値段。それでもすっかり贅沢 |
をしたように思うのだから、つくづく旅の醍醐味だと、この旅行中、毎日夕食時にな |
ると思い出したものだった。 |
開聞岳、韓国岳ほかを登る(その1)終 |
| | | |
<えびの高原への移動の途中霧島神宮に参拝> |
えびの高原の麓は神話の故郷(フルサト)と言うか誕生の地である。その本拠とな |
るところが霧島神宮である。天粗天照皇大神(アマテラススメオオミカミ)の直系の |
孫に当たる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、正式には天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵 |
尊(アメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコト)を御祭神にいただ |
くお社(ヤシロ)である。瓊瓊杵尊は天照大神の御神勅と皇位(コウイ)の御璽(ミ |
シルシ)である三種の神器(シンキ)を持って高千穂峰に天降(アマクダ)り皇基 |
(コウキ)を建てられたと伝えられ、高千穂峰の近く、現在の高千穂河原に最初の社 |
殿は建てられたが、度々の噴火による火災で炎上を繰り返し、五百年前に現在の社地 |
へ鎮座されたと言われている。その後明治7年に現在の霧島神宮と社名が改定され、 |
今日に至っている。 |
例え神話の伝えごととは言え、天皇家直系の最古の敬虔な社であれば、どうしても |
一度は参拝したいと思い、えびの高原に登ってしまう前に立ち寄った。開聞岳登山の |
ために泊った指宿からJR指宿枕崎線の始発駅鹿児島中央駅(つい最近まで西鹿児島 |
駅と呼ばれていた)に出て乗り換え、日豊本線の霧島神宮駅まで約1時間余りの時間 |
を特急「きりしま6号」という3両編成の列車に乗った。車体全体が真っ赤に塗られ、 |
先頭車両の正面には大きな文字で“RED EXPRESS”と描かれ、火の国九州 |
の足を象徴しているのであろう。強烈に迫ってくる迫力を感じた。駅から神宮までは |
車で10分くらいの距離であるのに、バスの便は2時間に1本しかなく、当節バスに乗 |
る人が殆んどいないのだとつくづく感じた次第。止む無く1,900円もの大枚を払って |
タクシーを使ったが、駅に戻るには時間を調整してバスを利用した。バス代はたった |
の240円であった。 |
神宮の敷地は広く、鳥居も幾つも潜り、海抜500mの展望台から晴天ならば錦江湾か |
ら桜島、開聞岳の雄大な眺望が得られると言うのに、一面の濃い霧か靄の中では遠方 |
の眺めは全くなかった。今回は時間の都合で登れなかったが、高千穂峰(1574m)の |
頂上には神代の旧物(筆者注:由来がはっきりしないが、古くからそこにあるものと |
いう意味)「天の逆鉾(アマノサカホコ)」がある。この逆鉾が相撲の井筒親方、現 |
霧島神宮社殿全景 |
役名「逆鉾」の由来である。因みに同親方は鹿児島県の |
出身である。 |
神宮には古くから九つの面が奉納されており、これを |
「九面(クメン)」と称している。何事にも工面が付く |
と言われ、縁起物として信仰の守りとされている。筆者 |
も小型の一面を求め、携帯電話のストラップとして持ち |
歩くことにした。 |
|
<えびの高原はいいところ> |
えびの高原も訪ねるのは今回が初めてである。何年か前に「えびの高原」の名前の |
由来を観光パンフレットか旅行案内書で読んだ覚えがあるが、確か秋の草もみじのと |
き、高原の地肌色が恰も海老を茹でたときの赤い色が敷き詰められたように見えるか |
らだと説明されていたように思う。標高 1200m くらいあるのだから立派に高原であ |
る。宿には以前「国民宿舎高原荘」と呼ばれていた宿泊施設が古くなり、払い下げら |
れて現在の「えびの高原温泉ホテル」として運営されているところを選んだ。と言う |
のも、えびの高原のバス停や韓国岳(カラクニダケ)の登山口に近いところには、唯 |
一このホテルだけが温泉で、他は民宿のような施設しか見当たらなかったからである。 |
暫く前までは他に2軒の温泉があったが、湯量が枯れて来て十分に湯が回らず、これ |
ら2軒は廃業してしまった由である。シーズンともなれば予約がいっぱいでなかなか |
泊まれないらしいが、筆者は今回シーズンオフのため、割安でオール込み1泊2食で |
11,950円というリーズナブルな料金で8畳間に一人悠然と泊まることが出来、3泊も |
したため毎日ダブルことのない料理を吟味して出してくれた。なかなか温かみのある |
ホテルであり、従業員の接客態度が非常に気持ちが良かった。前述の花コガクウツギ |
を調べてくれたのもホテル売店の主任女性の親切であった。 |
宿のレストランからは正面に噴火で頂上が飛ばされて、大きく口を開けた霧島山塊 |
の最高峰、韓国岳(1700m)が眺められ、福島の裏磐梯から眺める磐梯山と非常に似 |
た景観を見せている。山頂近くの斜面が心持ち赤く帯のように見える気がするのが多 |
分斜面に這松のように這って群れて咲く天然記念物のミヤマキリシマの群落であろう |
か。多分前に花のことを調べていたときに、ある本の記述にあったようにうろ覚えで |
あるが、ミヤマキリシマツツジは活火山の硫化ガスのあるところでなければ育たない |
とか。生育地が九州の南部火山地域に限定されている所以であろうか。 |
<霧島山塊> |
霧島山塊はちょうど鹿児島県、熊本県と宮崎県の県境に位置し、西側と南側の鹿児 |
島県側は霧島市に属し、えびの高原は最近の市町村合併で宮崎県えびの市の中に入る |
ことになった。宮崎県では右隣の小林市と幾つかの町村を入れて北霧島地域という呼 |
び方をし、統一した観光協会の下に事業を展開している。 |
| | | |
<霧島山塊の最高峰・韓国岳に登る> |
当日はまた予想もしない好天に恵まれ、両腕と首筋、顔をすっかり日焼けしてしま |
った。前々日の一年半振りの開聞岳登山による膝関節の痛みの心配もなく予定時間で |
往復できた。当初計画では韓国岳から獅子戸岳(シシコダケ、1429m )、新燃岳(シ |
ンモエダケ、1421m )を経て中岳(ナカダケ、1345m )まで縦走し、高千穂河原の登 |
山口に下りることにしていたが、河原からホテルに戻る交通の便がなく、タクシーを |
呼べば4,000円も弾まねばならないことが分り、すんなり往復することとした。六合 |
目から上はミヤマキリシマの群落がそれは見事に花の盛りであった。 |
天然記念物 ミヤマキリシマの花 |
頂上から眺める縦走路は圧巻だった。直ぐ隣の獅子戸 |
岳の噴火口は御椀のように頂上に口を開け、その向う裏 |
側の新燃岳は陰に隠れて姿は見えぬが、噴火煙が立ち昇 |
っているのが見られ、一番奥の高千穂峰には霧か流れ雲 |
か分らぬが、左側から強く山全体に吹き流されて、綺麗 |
な富士山様の雄姿が見え隠れしていた。楽しみにしてい |
た九州の最高峰、屋久島の宮之浦岳も開聞岳も見ること |
は出来なかった。頂上に向かって登山中左手雲海の奥に |
先の尖った高峰が突き出て見えていた。何人かの人に聞いてみたがしっかりした返事 |
は返ってこなかった。 (注)獅子戸岳( 1429m )・高千穂峰( 1574.0m ) |
日曜日のせいか家族、夫 |
韓国岳山頂(1700.1m)にて |
韓国岳山頂から大きな噴火口の獅子戸岳と高千穂峰 |
婦の登山者が多く、東京近 |
郊の山と違って、若いカッ |
プルや女性の団体登山客も |
多く、皆その割りに服装が |
すっかり登山家風で、登山 |
がリクリエーションやアス |
レチックの試みの中で、大 |
きなウエイトを占めているらしく、純粋な人が多く、平素都会派の人間しか観察して |
いない筆者としては、こんなところにも地方のいい意味での精神的な強みを支える基 |
盤を感じ、格差ばかりを議論するのではなく、地味な生活を支える活動を評価するこ |
とを是非とも考えなければと思った。六合目より山麓までの樹林帯ではクマゼミの鳴 |
き声とは違うけたたましいコーラスを奏でている蝉がたくさんいるようであった。姿 |
が見えないので断定は出来ないが、ハルゼミの仲間で多分この地方に多いヒメハルゼ |
ミだろうと思った。昼過ぎから夕方まで間欠的に鳴くが、ピークは午後4時ごろと言 |
われる。合唱性があるのがこの蝉の特徴で、音頭取りが鳴き始めると周辺の仲間が一 |
斉に唱和するので、樹林がすさまじい大合唱に包まれる。筆者も初めての経験だった。 |
筆者の記憶が正しければ、この蝉は昆虫学者松村博士が1917年に千葉県で見付けられ、 |
ラテン語の学名に千葉で見付けられたことを示す“chibensis”が取り入れられてい |
て、発生地が限定されている各地で国の天然記念物に指定されている筈である。発生 |
地が限定されているのはこの蝉の食する樹木がシイ(椎)とカシ(樫)だけに偏って |
いるためであるとされている。登りの日が昇ってから暫くは殆んど聞けない鳴き声が、 |
下山時にはコーラスの雨であったから驚いた。 |
韓国岳は山としては面白い山である。周囲の眺めも変化があり、山自身が会津の磐 |
梯山のように大噴火で山頂が飛び、大きな陥没が出来て、見るところによっては典型 |
的な双耳峰に見える。森林限界があり、その上部には天然記念物のミヤマキリシマの |
大浪池と今が盛りのミヤマキリシマの花 |
天然記念物のシロドウダンツツジの花 |
群落があり、見応えがある。 |
その他にもいろいろな花が |
楽しめる。 |
特記すべきは二合目か三合 |
目付近で少し登山道から外 |
れて横の樹林に入り込んだ |
ときに、幸運にも天然記念 |
物のシロドウダンツツジに |
出会えたことだ。 |
韓国岳には取り巻く山々に旧噴火口に水の溜まった湖や沼が多く、周囲を取り巻く |
断崖に溜まった水の色が少しずつ違って見える角度により微妙な自然のモザイクを見 |
る思いである。絶壁に取り囲まれているために人は近付けず、硫化物が多く混ざって |
いるために酸性が強く、特有のコバルトの濃く澄んだ色をしている。北欧の湖沼のよ |
うに魚は全く棲んでいない。 |
屋久・霧島国立公園の中なので、動植物はもとより昆虫採集も出来ないので趣味の |
蝶採集の網も勿論持っては行かなかったが、たくさんの珍しい蝶を見掛けた。 |
南方系の蝶のオンパレードだった。ホテルの近くで野生の日本鹿を見掛けた他には動 |
物にも蛇にも出会わなかった。 |
| | | |
<湖沼めぐりと白鳥山と甑(コシキ)岳ハイキング> |
梅雨の最中の山行だったので、予め予備日を一日取っていたが、一日も雨に遭わず、 |
予定の山登りは済ませ、その日も好天に恵まれたので、えびの高原の湖水巡りのコー |
スに独立峰の白鳥山(シラトリヤマ、1363.1m)と甑(コシキダケ、1301.4m)の登山 |
を加えて一日のハイキングを楽しんだ。 |
朝早くホテルを出たためと月曜日ということもあって、ハイキングコースには誰も |
先客はなく、一人でゆっくり白鳥山までの道を楽しんだ。山道の両側には開聞岳で見 |
たコガクウツギがたくさん見られたし、他のウツギもあった。360度眺望ができる白 |
鳥山山頂にはテレビの送受信用の大きなアンテナが設置されていた。白鳥山からは前 |
日韓国岳からは見られなかった開聞岳が真西の方角に手前の栗野岳(1097.7m)の左 |
奥に独得の三角形で眺められた。薩摩富士と呼ばれる割には遠景では相当に縦長の三 |
角錐として見える。 |
湖水巡りの道に多いコガクウツギの花 |
白鳥山山頂(1363.1m)から見る開聞岳(924m) |
白鳥山から見る甑岳(1301.4m)と白紫池 |
白鳥山の真下に見えるのは百紫池(1272m)。もう少し進むと六観音堂とそこに参 |
拝するために大昔に人々が植え込んだと言われる杉の古木が日光の杉並木のように何 |
本か繋がっているところが現れる。そこからの六観音堂御池(1196m)も美しい。 |
白鳥山中腹からの六観音御池 |
六観音御池と韓国岳 |
ここの池に張り出した展 |
望所で同年輩と見受けられ |
た一組の男女に出会った。 |
後から考えて見ると非常に |
不思議な出会いなのだが、 |
その日は結局甑岳の登山も、 |
頂上での昼食をも一緒にす |
ることになったし、名花オ |
オヤマレンゲもこの女性が自生の場所を知っていて案内してもらったお蔭で見るチャ |
ンスが得られた。筆者のホテル近くの駐車場で別かれるまで、行動を共にすることに |
なった。この男性は68歳で鹿児島市から見えた方で、女性は奥さんではなく、学生時 |
代の友人だとか。朝一緒に鹿児島市から自分の車で高速道路を約40分のドライブで来 |
たとのことで、白鳥山には登らず白紫池から池巡りのコースだけを歩いてきて出会っ |
たらしい。例によってお互いに何処から来たかを挨拶しているとき、筆者が横浜から |
と名乗ったら、横浜の何処だとかいろいろ尋ねて、彼は鹿児島の生まれで、兄弟が多 |
かった(8人兄弟の一番下)ので、定時制高校を卒業して京浜急行に定年まで勤めた |
と言い、在職中は金沢文庫に住んでいた由。奥さんには先立たれ、男女一人ずつの子 |
供は独立して横浜に住んでいる。娘さんは横浜市大病院の看護士だったが、日本製鋼 |
所から頼まれて従業員の災害予防関係施設の仕事をしているとか。女性は会社勤めの |
時には山岳部にいて方々に行ったとか。大変な健脚だった。しょっちゅう歩いている |
らしく、道を良く知っていた。 |
甑岳山頂(1301.4m)にて |
甑(コシキ)岳はしっかりした山で、最後の詰めは厳 |
しく、簡単ではなかった。山頂からの眺めは素晴らしく、 |
折りしも激しく噴煙を噴き上げた桜島が、もくもくと上 |
に向かって昇ってゆく真っ黒の噴煙と共に眺められたこ |
とは決定的な瞬間として、九州を訪ねたことを印象付け |
たメモリーとして頭に刻み付けられた。甑岳の山道から |
県道1号の車道に出て直ぐ硫黄山の下に当たるところで、 |
確かこの辺だからと女性がどんどん樹林の中に分け入り、 |
姿を消した。と思ったら、見付けたと大声で呼ぶ。慌てて靴跡を頼りに声のする方に |
向かうと、ほのかに甘い芳香が漂ってくるではないか。何の変哲のない木だが、咲い |
ている花や蕾は思ったよりも大きく、立派である。これぞモクレン科の名花オオヤマ |
レンゲ(大山蓮華)である。5,6株はあったろうか。この花の特徴は下を向いて咲 |
くことだ。名前の由来は大群落が見付かった大山というところから取られ、蓮華は花 |
の形がハス(蓮)に似ていることからと言われる。 |
|
時期の名花・オオヤマレンゲの花 |
=ここで花を織り込んだ迷句(?)を二首= |
えびのはらオオヤマレンゲの尋ね人 |
霧島路オオヤマレンゲにめぐり会え |
|
=コース・タイム= |
ホテル7:40…8:15二湖パノラマ展望台8:20…8:30 |
白鳥山分岐…8:40白鳥山(1363.1m)8:50…9:05
|
白鳥山北展望台9:15…9:20白鳥山分岐…9:25白紫池(1272m)9:30…9:45 |
六観音堂、六観音御池、巨大杉10:05…甑岳分岐10:15…11:15甑岳(1301.4m) |
(昼食)12:30…13:03車道に出る…13:15硫黄山付近の樹林でオオヤマレンゲを見 |
る13:20…不動池13:30… |
駐車場で鹿児島市在の人と横浜での再会を約して別れる 13:45…13:55ホテル |
(完) |
| | | |
−長い海外との仕事を通して今後の日本の方向性を思う− |
「現在までに日本は自らの手で能動的にこれといった国際的なアクションをしてこ |
なかったために、いたずらに10年を棒に振ってしまった」、と最近しきりに言われる |
ようになった。 |
確かに10年前までの英国サッチャー首相の施策の幾つかには、現在の状況を予測で |
きる事例が見て取れていたはずなのに、日本はその上にさらに悪乗りして、英米の言 |
行に追随し、挙句の果てに今日の哀れな状況を迎えるに至ってしまった。英国の事例 |
の中で最も顕著なものは、派遣労働の問題である。派遣労働者からワーキング・プア |
ーへの転落の顛末は既に10年前ごろ、ちょうど筆者が東京計器(当時はトキメック) |
を辞す1〜2年前に大量に発生していた。英国の場合には、今日の日本よりもある意 |
味ではもっと始末が悪いと言えるかもしれない。と言うのは、民間の活力を導入して |
生産活動のみならず事務的な仕事にまで生産性の向上、事務能率のアップを謳い文句 |
にして、公的機関にまで派遣会社からの人員を振り向けたからである。その結果ひと |
たび計画通りに進まなかったり、経済状態が悪化するとなると、関係官庁から一通の |
通達や一片の通告で派遣会社に派遣人員切りが申し渡され、多くの人が路頭に迷った |
のであった。 |
また、現在日本でも盛んに話題にされているが、地方 |
地方都市・シャッター通り |
都市の衰退についてもその典型的なモデルを英国に見る |
ことが出来る。かつての名店街はシャッター通りとなり、 |
デパートは効率の悪い地方都市の支店を閉じ、その結果 |
表通りの商店は多くが消費者金融か、何処にでもあるフ |
ランチャイズ店舗で占められ、地方都市の特色は完全に |
失せてしまった。この一連の変遷の裏には資本の性格と |
役割の変化があると思う。筆者が学生時代に勉強したの |
は、資本は産業資本、商業資本と金融資本の三つのカテゴリーに厳密に区分されて存 |
在し、それぞれ特有の機能を果たしている、ということだった。もう少し分りやすく |
するために誇張して言うなら、現在では金融資本のみが飛び抜けて大きな勢力になり、 |
強固になって、他の二つは殆んど影を潜めている、と言っても過言ではない状況とな |
ってしまった。この勢いを持った金融資本に結び付いている特定少数の人々だけが新 |
しいスーパー・リッチ・グループを構成し、他は逆に一蓮托生で沈み行くグループに |
変わり、従来の社会構成は最早存在しないところにまで追い詰められている。既に世 |
界各地で著名な産業が潰れ、中小企業規模の商業組織が死滅し、地方都市・農村は砂 |
漠化・過疎化し、これらに従事していた人々は仕事を失い、生活を支える手段を見出 |
せないでいる。その結果、所得や地域の格差は開く一方である。かなり概説した極端 |
な考察かもしれないが、これが現在の姿であり、少なくとも近未来に日本全土を見舞 |
う姿であろう。注意しなければならないのは、この方向性がここ10年くらいで決めら |
れてしまったということである。何が原因であったか?誰がこのようなレールを敷い |
てしまったのか? |
−議論を展開する前に− |
議論を展開する前に、忘れてはならないことがあるように思う。それは、わが国に |
おいてしきりにグローバル化、国際化が叫ばれ出した1990年あたりから、恰もちょう |
ど東西の冷戦体制が崩れて、弱体化した旧ソ連およびそのサポート地域に対して米英 |
の資本主義体制が一気呵成にお互いに集結し、融合し合っていわゆる金融資本が主導 |
する現在の経済構造が生み出されてしまった、という事実である。 |
わが国はあまり深く吟味することなく、英米両国から付随して要求された、構造改 |
革、殆んど例外を認めずに突き付けられた開放経済の実現要求、各種の規制緩和、市 |
場原理に任せた経済運営等々を受け入れざるを得なくなり、見るも無残に新自由主義 |
体制の中に組み込まれてしまったことである。徐々に恰も真っ当な命題そのものに向 |
かっているかの如き喧伝に載せられて、一般国民に何ら吟味する余地が与えられる前 |
に、国として突き進むことになってしまったのである。どこか太平洋戦争に突入した |
時の政府のリードの仕方や体制の運び方に非常に似ているように思えてならない。 |
大きな枠組みはその通り進んでいるが、わが国では殆んど吟味せずに追随してしま |
ったために、筆者にはいまさら修正不可能かも知れない幾つかの過ちを犯してしまっ |
たと思われる。 |
その一つは、日本が従来輸出依存で進んできたために、関係する製造業、それらの |
企業の生産する工業製品に自由化が極端に偏重してしまった。したがって自由化とは |
無縁に近い幾つかの分野、例えば、医療、教育、放送通信、農業等ではいまだに多く |
の官僚統制の下でなければ仕事が進められない状態に追い込まれ、老齢者医療費や介 |
護保険料等で、他の文明国に比べて異常とも思われる扱われ方がまかり通っている。 |
子供や青少年の教育や躾、女性の社会進出を促す社会の仕組みの劣悪さも目に余るし、 |
農業に至っては自給率が40%そこそこであるにも拘らず、一方では理屈の分らぬ減反 |
政策が取られているし、企業化農業への道も隔てられている。 |
二つ目は、日本式国際化の考え方の悪弊であろう。この紙面で改めて細かく国際化 |
論議をしようとは思わないが、「国際化」とか「グローバル化」について、為政者の |
理解が十分でなかったか、筆者から見れば、勘違いに近いものであったと思う。もっ |
と極端に言うなら、米国で行われていること、米国から言われることが、世界的に通 |
用することの取っ掛かりであるとの理解しかなかったということ。この理解レベルを |
矯正することが取りも直さず日本の「国際化」、「グローバル化」であることに何故 |
気付かなかったのか。他の文明や歴史を踏まえて現状にこれほど無知で、理解の乏し |
い国も少ないと思う。いまだに理解のレベルで言うなら、OECDの構成国の中でも |
間違いなくどん尻であろう。 |
三つ目の失態は、人、物、組織体、国の進歩・発展を「成長」それも「成長率」と |
いう尺度でしか判断できない頭の固い考え方にあると思う。この尺度では幸福や情愛、 |
文化や文明、表現力、情緒の醸成は望めまい。他に挙げればまだ幾つもあろうが、こ |
れらを今からでも本来の姿に戻してみれば、もっともっと格好の良い日本人になれる |
のではなかろうか。 |
いまイタリアの地震で大きな被害を受けた中部の小都 |
G8(先進主要八カ国首脳) |
市ラクイラでG8(先進主要八カ国)会議が行われてい |
る。大事な会議をこのような特殊な状況の場所を選んで |
行う選択肢というか、考え方に先ずは感心と敬服を禁じ |
得ないが、皆様もお気付きであろうが、メンバー国の中 |
で、非キリスト教国は日本だけである。しかも、このメ |
ンバー国の中で、有史以来「一国家、一文明」を維持し |
てきている国も唯一日本だけである。日本はその意味で |
は突拍子もなく思い切ったことを言い出せる、またとないポジションを与えられてい |
るとは言えないだろうか。 |
−バロック・オバマ大統領誕生− |
筆者には米国にバロック・オバマ大統領が誕生したときに新聞や雑誌を飾った言葉 |
が、いまでも幾つか頭に残っている。それらの言葉は、特に日本のジャーナリストの |
質問に応えてオバマや国務長官のクリントンによってこれでもかというくらい使われ |
た。“Cornerstone”(礎)、“Smart”(目から鼻に抜けるような、 |
卒のない、機知に富んだ、仕事を手早くする)、“Dialogue”(対話)、 |
“Public Diplomacy”(対世論外交)、“Cordination” |
(同盟)といったような単語である。両国間にしっかりした礎を築き、共通の基盤の |
バロック・オバマ大統領 |
上に、幅広い話し合いをしよう。その際、あらゆる階層 |
の人々と対話を通じた世論外交を展開し、その上に同盟 |
を結束・強化して行こうとする姿勢を見せたのだった。 |
中でもお互いにスマートな人間、関係でありたいとする |
意思表明は分りやすく、人の心を掴む術を心得ていると |
感じた。ただここで注意しなければならないのは、アメ |
リカ人は何時の場面でもナイーヴに平和的な解決がもた |
らされるとやや気安く考えているが、これらの言葉の共 |
通点としてこのことが見て取れることである。 |
一方ヨーロッパの人々は、はるかに現実的な物の見方をしており、少なくとも解決 |
したかに見えても、その後10年間はその地には紛争が次々と絶え間なく続くだろうと |
冷めた見方をしている。第一次世界大戦後に人為的に創られた中央ヨーロッパのチェ |
コスロヴァキアとユーゴスラヴィアのその後を見れば一目瞭然のことである。民族間、 |
国家間の長い紛争を通して、現在のEUの実現がもたらされたことを考えれば、それ |
なりにEUの持つ意義と重みが理解できるような気がする。 |
これからは、加えてアジアとの真剣な付き合いを強化して行く必要があろう。アジ |
ア諸国との関係は欧米以上にわが国にとっては、難しいアジェンダ(検討課題)を含 |
んでいる。欧米諸国と比べて最も大きな違いは、あらゆる面での多様性だと思う。紙 |
面の都合もあり、ここで更に詳しい議論を展開しようとは思わないが、日本は差し当 |
たりもっと真剣にアジアについて勉強し直す必要があるだろう。筆者には、日本がア |
ジアの国々の近くにありながら、余りに知らないことが多すぎるように思えてならな |
い。アジア諸国との関係修復と強化が将来の世界における日本の位置付けを左右する |
ことになるだろう。 |
筆者が日頃仕事を通して接触する海外の人々に対しては今後とも、「できるかぎり |
多方面にわたる協働作業(現在よく使われる英語では“Mass collabor |
ation”)」を主導しながら、伝統と因襲にとらわれない自主的な(“Eman |
cipated”)考え方、やり方をもって順境にあっても、逆境にあっても信念を |
一つにして突き進むことに、余命を専心したいと思っている。四字熟語で表せば『夷 |
険一節』となろうか、これが最近の主題に向かう筆者の心境であることをお伝えして |
本稿を閉じることにしよう。 (完) |