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(1)「共育」 |
近年「共生」という言葉は大分フアンもでき、巷間使われるようになり、環境問題 |
に人々の意識が高まるにつれてすっかり市民権を得たように思われる。筆者も今まで |
に幾つかの紙面で「共生」という言葉を幾度か俎上に乗せた記憶がある。今回は、ま |
たまた「共育」という耳慣れない言葉をご披露したい。 |
意味はなんとなく「共に育む」と書くところから、普段は対峙しているグループや |
相手が、ある共通の目的のために利害や需給を対等に論じて両者に最適、最大効果の |
ある成果を求めようとするものであるらしいとは想像がつく。筆者も確かに、幾つか |
使われている実例を文書や討論会の場で見聞きしている。筆者がこの言葉を何回か聞 |
いて、その使われ方に「最適だなあ!」「誠に意に適っているなあ!」と驚嘆したの |
は、いま流行の有機栽培の無農薬野菜の作り方をテーマにした議論の場であった。 |
即ち、折角体に良い無農薬野菜を作るに当たって、作り方が従来は生産者個人の好 |
き好きで、トマトであったり、玉葱であったり、キュウリであったり、じゃがいもで |
あったりしていた。その生産数量や種類の決定には、殆ど世間の動向が反映されてお |
らず、そのために、作っては見たものの、十分に利益を得る値段で売り切るとか、一 |
番美味しいときに、適正な数量が捌けるとは限らず、元値も取れない安値で、売り捌 |
かざるを得なくなったり、さっばり売れずに更なる値崩れを抑えるために、捨てて、 |
次の作物の肥料にするしか方法がなかったりしている例が多く見受けられた。そこで、 |
しっかりした取引先を決めて栽培に入るとか、直接最終需要者との相談の上で、出荷 |
時期を決めて野菜の種類や量を決定するとか、無農薬野菜の栽培を事業として育てて |
行こうという場合に使われ、引用された言葉であった。NHKのテレビ番組のフォー |
ラムでは、わざわざ画面の下の方に字幕でこの「共育」という文字が示されていたの |
は、いまでもはっきり思い出すことができる。 |
現在の深刻なデフレについても供給者が身勝手に大量にこれでもか、これでもかと |
ばかりに作り過ぎて、その結果もたらされた現象であると言えなくもない。需給の字 |
の示す通り、需要と供給によって取引の数量や価格、時期、タイミング、その他の条 |
件が決められることは、事の道理であり、古来からの経済の原則である。しかし、長い |
間インフレを警戒するあまり、米国のレーガン大統領や英国のサッチャー首相が専ら |
その使い手として有名になったサプライサイドの経済の影響でもあろうか、いずれの |
国においても供給者の力の方が勝って来てしまっている。別の言い方をすれば、現在 |
のデフレ現象は、デフレ対策の必要など何年も感じたことがなかったために、対策と |
しては全く逆のインフレ対策の手ばかりを打ち続けてきた結果なのかも知れない。そ |
のよって来たる所は何処であろうとも、需要の側であれ、供給の側であれ、一方的に |
自らが対峙する側の態度や考え方を変えられると考えることは、これからは少し傲慢 |
に過ぎると言うべきなのであろう。そこでやはり近代経済学の父、ケインズの説いた |
「供給が需要を喚起し、創造できる」とした考え方も確かに終焉を迎えていると見る |
べきなのであろう。 |
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(2)「渡米」日本人の依存性と自主性について |
さて、次にがらっとテーマを変えて、日本人の依存性と自主性について少し議論を |
進め、いま高校生の間に流行っている「渡米」という言葉について触れてみよう。 |
他人に寄り掛かることによって自分を保とうとする依存性の強さは、日本人に長い |
間習慣のように進められて今日に至って来た。しかし、近時若年層を中心にこのこと |
を悪癖であると率直に認め、このことが日本人の自主性の無さを招いていることに漸 |
く気付き始めているように見受けられる。若者の間ではかなり自主性を持ってことに |
当たる、或いは、他人はどうであろうと、目分は独立で動こうという気持ちが出てき |
ている。しかし、筆者がこのように感じたことが、実は次のような極端な高校生の話 |
し合いを聞き齧(かじ)ってみると、この会話の裏側にある考え方には些か眉を顰(ひ |
そ)めざるを得ない気持ちになってしまう。日本人の行動や思考方法の振れ方は両極 |
端になるとしばしば言われるが、ここに引こうとしている高校生の会話の内容もその |
典型と言えるのではなかろうか。 |
いまの高校生は卒業が近付くと、その先の進路として、次の3つを考えるそうであ |
る。 |
1)4年制大学に進む(これを彼等の省略した言葉では「四大」と言うらしい) |
2)専門学校に進む(大学に進む力には乏しいが,もう少し専門性を身に付けたい者が選 |
ぶらしい。略称して「専門」と呼ぶようだ) |
3)これらの両方に進めない者は、一部のやる気のある人は浪人をして予備校に通い、 |
翌年のチャンスに挑むが、それができない者は何はともあれ、アメリカに渡って、 |
先ずは語学学校に入って英語力を身に付け、上手く行けばアメリカの大学を卒業す |
る(この方法を彼等の流行語では「渡米」と言う)。 |
筆者がこの3つの進路に対して何ともやりきれない気持ちになるのは、これらの内の |
3番目の「渡米」が上記の1番、2番目の希望の進学ができない場合の逃げ道として、 |
いまの高校生にかなり一般的に、一種の流行のように当然視されていることである。 |
筆者にはこの考え方は、非常に卑怯で、甘いと思うからである。「英語ができないから、 |
苦手であるから、英文科には進めないし、4年制の大学にも行けない。だからアメリカ |
に行く」という発想には、筆者はどうしても付いて行くことができないし、与(く)み み |
することができない。というのも、極めてあっけらかんとしており、余りにも安易に |
過ぎているようで恐ろしさすら感じてしまうからである。自分が十二分に勉強してい |
なかった、努力しなかったという反省はあっても、その直ぐ先に、「どうにかなるさ!」 |
という安易な気持ちが続いて来るようでは、全面的に自主性があるとは言えず、全く |
別の問題だと思う。 |
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日は照らず、やや涼しめの日であるとの当日の天気予報を幸いに、7月7日に小金 |
井の「はけの森美術館」を訪ね、物故作家の中で筆者の好きな洋画家の一人である中 |
村研一の風景を中心とした作品を鑑賞した。 |
JR中央線の三鷹駅から国分寺駅間の開かずの踏み切り解消工事の一部として下り線 |
のみ高架化が最近実現した。筆者にとってはこの日が「乗り初め」というか「通り初 |
め」、初めての車窓の景色である。今まで地上を眺めていた目線が上がり、民家や商 |
店の屋根越しに点在する武蔵野の森や遠方の丘陵が眺められ、まるで別世界を訪ねた |
思いであった。JR武蔵小金井駅南口からまっすぐに伸びる商店街に続く小金井街道を |
通り抜けて進み、更に連雀通りを渡って、一筋目を左折し、右手に金蔵院のあるとこ |
ろを左折し、暫く歩を進めると左側にあるのが「はけの森美術館」である。案内には |
徒歩15分とあったが、5分くらいは余分を見た方が良さそうである。 |
この地は画家中村研一が昭和20(1945)年12月50歳のときに転居して来て以来、昭和 |
42(1967)年8月に72歳で死亡するまでアトリエを構え、居住していた土地である。 |
美術館が面している通りを土地の人々は「はけの道」と呼んでいる。筆者にはこの |
「はけ」の意味が分からず、調べてみると次のことが分かった。小金井市の南部を東 |
西に伸びている崖は、武蔵野台地を古多摩川が削った名残りで、この崖が「はけ」な |
のだそうだ。何年も掛けて多摩川が掃いて作り上げた作品ということなのだろうか。 |
美術館の右隣りから「美術の森公園」に入れるようになっている。元の中村邸の茶 |
室や遊泉式庭園がそのまま残されている。池もあり、井戸もあり、さぞかし美しい庭 |
であったろうことは想像できる。現在は手入れが殆んどされていない様子で、正直、 |
相当荒れている。水琴窟も作られていて、美しい響きが聴けた。暗い曇り日に開館時 |
間直後に飛び込み展覧会を見たあと続けて訪ねたため、やぶ蚊の絶好の餌となってし |
まい、半袖シャツからはみ出た腕はたちまち凸凹にされてしまった。筆者は咄嗟に先 |
月6月から一般公開が始まった京浜急行・京急富岡駅そばにある日本画家川合玉堂の |
元別邸「二松庵」が横浜市の管理下になり同じような荒れ放題であったことを思い出 |
していた。 |
大分前置きが長くなってしまったが、次に中村研一の生い立ちと作品について筆者 |
の思うところを記してみたい。 |
筆者が中学・高校生時代を通して水彩画の指導を受けた松本慎三画伯が「日本人の |
絵描きにも優れた人が何人もいる。良く作品を見て勉強するように」と名前を挙げら |
れた作家たちの中に、この中村研一も入っていた。同氏には琢二という東京帝大出の |
同じく絵描きの弟があり、才技の揃った絵描き兄弟として筆者の頭にもその頃からイ |
ンプットされていた。また、フランスに骨を埋めたあのレオナール・嗣治・藤田がフ |
ランス語の発音に合わせ自分の名前をFoujitaと綴り、サインしているのと同じよう |
に、藤田と渡仏時に親交のあった中村もまたスペルをNakamouraと綴って作品にサイ |
ンしているのも名前を記憶した大きな拠りどころとなった。 |
中村が絵描きになるきっかけは福岡の名門中学・修猷館の2年先輩で、後に独立美 |
術協会の重鎮となった児島善三郎と同校時代に一緒に作った絵画部の活動を通してで |
あった。ただ作風は児島が形を大きくフォルムで捉えて、色彩を思い切って使い分け |
ているのに対して、中村は的確な描写をむしろ控えめに抑えた色彩をベースにすると |
いうように相容れないものであった。そこで、柔らかい雰囲気を大事にし、理想とす |
るモダニズムを追求するため、中村は児島と袂を分かった。それは、サロン・ドート |
ンヌ会員としてフランスでの活躍が認められて昭和3(1928)年に帰国するや、辻永 |
(つじひさし)の進めに従って光風会を活動の舞台に選んだときに決定的となった。 |
中村は亡くなるまで光風会に籍を持ち続け、生涯分派活動は行わなかった。 |
筆者が当日見ることが出来た作品は、卒業制作で東京芸術大学が所有する「自画像」 |
から戦前の人物画や欧州滞在中の小品数点に、軍艦「足柄」に乗船し、英国王ジョー |
ジ6世の戴冠式に出席する各国の要人の模様を記録に残す仕事を日本海軍から委嘱さ |
れた際、航海中に残したデッサンや小品、太平洋戦争中に従軍絵師としてガダルカナ |
ル等で制作した戦争画、戦後の一転した色彩とかなり濃いめの黒の輪郭線で構成され |
る力強い人物、裸婦、花を中心とした静物画等であった。全点数40点余りでゆっくり |
自分のペースで楽しく鑑賞することが出来た。他に、中村は陶磁器制作も好きだった |
ようで、十数点が展覧されていた。輪切りのレモンをいろいろの角度から皿絵にした |
小皿セットなど手元に置いて使ってみたい魅力を感じた。全体としては戦前の若干暗 |
さを感じさせる作品よりも、戦後ののびのびとしていながら力強さが感じられる人物 |
や風景、静物も、筆者の制作に参考になるところが多く、見ごたえがあった。こじん |
まりした一人の作家の作品を鑑賞する優れた場を見出した思いだった。10月23日から |
は京都の堂本印象美術館のコレクション展が企画されている。 |
(2007年7月10日 記) |
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60年くらい前に教えられた歌が未だ脳の奥の方にしっかり格納されて保持されてい |
ることの不思議をこの時ほど強く感じ入ったことはなかった。海の向こうの国で、詰 |
まらぬことに感心したのである。おかげで筆者は面目を保つことができたばかりか、 |
逆に筆者の自国文化に対する理解の深さを褒められたのであった。 |
最近の小学校の音楽の時間では、習う歌も大変モダンなものに変わってしまい、日 |
本の伝統の唱歌や昔話に因んだ歌を習う機会も薄れてしまった。引用した「浦島太郎」 |
や「桃太郎」、「花咲かじじい」、「かちかち山」、「猿蟹合戦」等の歌を知らない子供達 |
は多い。事の善し悪しは別としても、昔から伝わる民話や昔話を引き継ぐ事が日常忘 |
れ去られてしまうのは問題ではなかろうか。このことを憂い、事の重大さを意識して |
日本の民話や昔話、そして古典文学を語りとして残そうとする運動が静かにブームを |
迎えていることは筆者としても喜ばしいことと感じている。しかし、この語りの会場 |
でも客筋はシニアが圧倒的に多く、若い人たちの注目を集めるところには、残念なが |
ら未だなっていないようである。筆者も尋常小学校唱歌を歌うことから日本の歴史に |
触れ、それこそ源氏と平家の戦い、平家の最後、弁慶と義経の東北への落ち延びの道 |
行き等唱歌で初めて知って、歴史にいたく興味を持ったことを昨日のことのようにし |
っかりと覚えている。唱歌の歌詞に盛られていることの中味は驚くほど濃く、今の社 |
会科や歴史の教科書よりも何倍か詳しいのではなかろうか。こういう下地があったれ |
ばこそ、歌舞伎や文楽が素直に理解でき、講談や浪花節にも抵抗が無く、浮世絵や錦 |
絵の場面も理解できたのだと思う。現代はややもすると幼年時の何でも覚え込める時 |
に、これらの下地を教え込むことをしないか、することが恐ろしく少ないために、自 |
分が、生まれ育ち生活をしている自分の国の歴史認識が貧弱であったり、無理解であ |
ったりしてしまうのであろう。自国の歴史と文化を正しく理解し、大いにそれらを誇 |
りに思う心根が必要である。筆者は海外に出る度に、一般的に、外国人に比べて、日 |
本人はこの点が特に惨めであり、情けないと思わされる場面に幾つも出くわす。 |
シニアに熱烈にサポートされているNHKの「ラジオ深夜便」という番組には毎晩 |
「ナツメロ」、童謡、唱歌と戦後のラジオ歌謡のいずれかが組まれ、懐かしい曲を聴 |
くことができる。昨年の暮れにも、尋常唱歌の番組があり、その最後に「蛍の光」の |
合唱が放送された。筆者も寝床の中で、一緒に口ずさんでいたが、「蛍の光」も2番 |
の歌詞までは付き合えたが、3番、4番はさすがに全く手が出なかった。そう言えば、 |
筆者もこれまでの人生でそれこそ何回も何回も「蛍の光」は歌ってきたが、3番や4 |
番まで通しで歌った記憶はない。習慣として歌っていれば自然に脳裏にしまわれてい |
ただろうが、実践していなければ情けないかなタンスにしまうこともできない。習慣 |
の大切さ、大事さと同時に知らず知らずに脳裏に刻み込まれてしまうことの恐ろしさ |
も、しみじみ思い知らされたことであった。 |
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かねてから訪ねてみたいところとして一番に考えていたインカに関係する遺跡にや |
っと今年5月の連休時に訪ねることができた。丸一日24時間以上の空の旅でペルーに |
入り、体調を整え、高山病を予防するための高度順応もスケジュールに入れて、主要 |
なところだけを訪ねても出入り10日にはなってしまう。南米は確かに日本から遠い。 |
個人旅行としては、どうやっても合理的に、経済的に短期間の旅行を組み上げること |
は不可能に近い。 |
筆者は今まで一度も海外旅行で旅行社のパック旅行を利用したことはなかったが、 |
今回に限ってはどのようにやり繰りしても、旅行社がこじんまり少人数で改善を積み |
重ねながら実施している旅に勝るプランは立てられないことが分かった。そこで、余 |
り気乗りはしなかったが、自分の年齢を考えて、訪問を来年以降に先送りすればする |
ほど実現が難しくなるであろうから、パック旅行で可能性のあるもの全てを比較検討 |
して、最も時間的に余裕があり、無謀さが少ないものとして、JTBの旅物語「ペルー |
世界遺産紀行10日間」に参加することにした。 |
決めるに当たって最も期待したことは世界遺産として全世界で一番人気があるイン |
カ空中都市マチュピチュを二日間に亘って訪れ、しかも二日目にはインカ道をトレッ |
キングすることが予定されていることだった。世界の各大陸にそれぞれ一度はトレッ |
キングくらいの足跡は残したいことも筆者の旅行に際しての優先事項の一つだからで |
ある。また、折角待望の土地を訪ねても天候が悪ければ、成果や満足度は半減してし |
まうからである。一日が雨でも、もう一日は少し良い天気になることは充分有り得る |
ことだからである。博物館や建物の中を訪ねるには、天候は正直余り大きな要素には |
ならないが、屋外の少なくとも歩くことが主になるところでは天気の良いことは何よ |
りも望まれることである。 |
今回の選択はその点でまさに正解であった。マチュピチュ訪問の第一日目は午後で |
雷雨となり、高低差のある石組みと泥と水溜りの道を傘さしての足運びは正直難渋し |
た。しかし、二日目のインカ道トレッキングの日はからっとした打って変わった快晴 |
日であった。眺めた空中都市の景観は全く見違えるような変化であった。ところで、 |
後で自分の撮った写真を比べてみると、雨の中の霧や霞に煙る山肌をバックにした古 |
代都市の方が何倍も重みのある実際に遺産に相応しいものであることに気が付いた。 |
不思議なものである。 |
後日幾冊かの書物を読んでみると、著名な写真家でマチュピチュを訪ねたことのあ |
る人は全員訪ねるなら雨の日の方が趣あり、写真を撮るのならなおさらであると記し |
ている。これも経験してみて初めて知ることであった。 |
ペルー行の仔細をここに |
4月29日(雨天のマチュピチュ) |
4月30日(快晴のマチュピチュ) |
文章にするつもりはない。 |
以上のような背景のもとに |
数葉の写真を見ていただこ |
う。皆さんは初日4月29日 |
の雨天のときと,翌日4月 |
30日の快晴時の写真とどち |
らがお好きでしょうか。 |
(2007年6月30日 記) |
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筆者は幼少の頃より昆虫に魅せられ、高校時代も、大学生のときもずっとサークル |
は生物部に属して、主に蝶・蛾を追い回していました。社会人になってからも、蝶と |
蛾の生態研究と採集を続けたくて日本鱗翅学会や日本蝶類学会に籍を置いていました。 |
筆者は現在までに40年以上に亘って海外との仕事に従事していますので、海外に長期 |
駐在したり、短期間出張することも多かったため、世界各地で珍しい蝶・蛾に出くわ |
す楽しみを今に至るまで味わい続けています。 |
思い返せば、筆者の学生時代には、井の頭公園にまで行かずとも、例えば都心の永 |
田町日枝神社、小石川界隈、池上本門寺や青山墓地周辺でも、オオムラサキやゴマダ |
ラチョウを何頭{注:正式に蝶・蛾を数える単位は頭(トウ)と言います}も採集す |
ることができました。榎の木の枝葉に独得の形をしたこれら2種の幼虫を見付けるこ |
ともさほど難しいことではありませんでした。これら2種に限らず、東京都内で採集 |
できる蝶の種類も相当の数でした。筆者は今も当時採集した標本を多数所持し続けて |
います。 |
しかし、近年は自然が残る土地もどんどん開発されて少なくなり、田畑では除草・ |
殺虫剤あるいは農薬の使用が増えて、蝶類の個体数もめっきり減ってしまいました。 |
都会ばかりでなく、郊外でも所轄の自治体が条例を設け、蝶が貴重な動物の仲間とし |
て保護されることが多くなり、筆者のような研究者や好事家には採集できる場所も狭 |
められ、年々活動し辛くなって来ています。 |
勿論当時でも南方系のヒョウモンチョウであるツマグロヒョウモンは、関東では筆 |
者の知る限り、全く見られませんでした。それがどうでしょうか。このところ2〜3 |
年筆者の住んでいる横浜市港北区の日吉地区では、沢山のツマグロヒョウモンが飛び |
交い、とくに秋に入って9、10月の2ヶ月には垣根や空き地に咲き乱れるキバナコス |
モスの花に、ヒメアカタテハ、アカタテ、キチョウと共に群がって吸蜜しています。 |
よく秋には台風と共に南方系の蝶が迷蝶として関東でも採集されたり、記録に留め |
られたりしています。それにしても、このところ数年のツマグロヒョウモンは余りに |
も個体数が多いのに本当にびっくりさせられます。どう見ても迷蝶ではなく、明らか |
に当地で育ち、羽化したものとしか考えられません。 |
筆者が少年時代から学生時代を通して座右にしてきました昆虫図鑑や蝶類図鑑でも、 |
ツマグロヒョウモンの説明には、「日本で唯一の暖地性ヒョウモンチョウで、日本の |
北限は関西である」と必ず特記されていたことを思い出します。筆者の経験でも、主 |
に5月の連休の頃から奈良の秋篠寺周辺やその付近の古の天皇や皇族の陵の間に、東 |
京や横浜近郊のキャベツ畑で普通に見かけるモンシロチョウのように、多くのツマグ |
ロヒョウモンの飛び交う姿を目にしています。 |
同じように、筆者は上記の現住所で、昨年と一昨年の2年間に数回、暖地に多い種 |
で、関西が北限とされているシジミチョウのムラサキシジミをネットに納めています。 |
今年に入っても何回か我が家の庭木にやって来たのを目にしています。強い陽光を浴 |
びて輝く雌の前翅の暗色に縁取られた中心部に特有の青紫色は、蝶に興味のある方な |
ら目を輝かせて見入る存在です。 |
さて、都会の蝶が減ってきていると書きましたが、上記の日吉地区ではこのところ |
5年くらいの間に年毎に蝶の種類が増えているように思えてなりません。これは多分、 |
農薬使用が控えられていること、緑道を造り樹木を植え込み、野草を育てていること |
と大いに関係があるように思います。因みに、緑道のコナラやクヌギの枝にはミドリ |
シジミの類が見られますし、秋口に入ると付近の民家の藤棚では卵を産み付けるウラ |
ギンシジミの姿をよく見かけます。また、昨年のことですが、筆者の庭に植えて可憐 |
な花を愛でているホトトギスにいっぱいの真っ黒い毛虫が付き、往生しました。これ |
も都会や平地ではやや珍しいルリタテハの幼虫でした。周囲には野生のアケビが生い |
茂っていますので、蛾としては立派で綺麗なアケビコノハも筆者の庭で2度ばかり採 |
集しています。緑道の比較的大きな木の幹には時々オオミズアオが大きな翅を広げて |
静止しているのを見かけたりもします。これらは地球の温暖化とは直接関係はないで |
しょうが、筆者には蝶・蛾の生活環境が徐々に改善されてきていて住み易くなって来 |
たことを教えてくれているように思います。もう少し注意を払って観察を続ければき |
っと大きな変化が起きていることが分かることでしょう。 |
ここまで筆を進めてきましたら、2007年8月25日の土曜日にまたまたとんでもない |
ことに出くわしました。猛暑日が続いておりますので毎日午後4時から5時の間に庭 |
の木々や植物、植木鉢やプランターに水遣りをする習慣にしていますが、庭に下りる |
べく大きなガラス戸を開けますと、傍の紅蜀葵の幹に止まっていた大きな黒い蝶がゆ |
っくりと飛び立ちました。クロアゲハかモンキアゲハかと思っていると、一回りして |
再び戻って来たのです。そこで更に良く観察してみると、何とナガサキアゲハの雌で |
はありませんか。ここ1〜2年朝日や読売と言った大新聞にまで何回か記事として、 |
湘南の大磯、二宮、秦野地域にナガサキアゲハが本格的に自生しているらしいことが |
紹介されてきました。筆者も一度これらの地域を訪ねて実際に自分の目でナガサキア |
ゲハの実在を確かめてみようと思っていた矢先のことでしたから、驚きも一入でした。 |
筆者の見た個体は通常見られる上翅の白色は殆んどないくらい一面黒っぽかったので |
すが、後翅の白色はほぼ全面に及んでいるようでした。一度戻ってきてから急に飛び |
去ってしまいましたので、捕獲することも写真に収めることも残念ながら出来ません |
でした。このナガサキアゲハにしてもその和名が示す如く、嘗てはわが国では九州や |
奄美諸島にしか生息しない貴重な品種で、蝶マニアには垂涎の対象でありました。ま |
してや京浜地区で見られるなどとは到底考えられないことでした。 |
ナガサキアゲハ(雌) |
← 写真のナガサキアゲハ雌は前翅の黒色はやや淡く、 |
産地によってはさらに白化の程度に差を有します。雌の |
特徴は前翅中室基部にある赤褐色の紋と後翅の白斑です。 |
また、ナガサキアゲハは日本に産する黒い翅を持つアゲ |
ハチョウ類の中で、唯一尾を持たない種であることも大 |
きな特徴です。台湾や南方系の亜種には有尾型も多く産 |
します。 |
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ここまで綴ってきたところ、またまた夢のような現実が訪れました。それは9月に |
入って最初の日曜日の2日正午前、何とはなしに庭を眺めていると、前述した紅蜀葵 |
の赤い大輪の花でこともあろうにナガサキアゲハの雌が吸蜜しているではありません |
か。出掛けるために正装していましたが、捕虫網を取りに行く暇も惜しく、何もかも |
忘れて飛び出し手?みで見事取り押さえました。個体は翅も大きく欠けていて、羽化 |
してからは相当の日数が経っているものでしたが、蝶類図鑑と照合してみれば正真正 |
銘の雌のナガサキアゲハでした。早速標本に作りましたので、ツマグロヒョウモンの |
雄・雌一対とムラサキシジミの雌とともに写真でご覧下さい。 |
ツマグロヒョウモン(雄) |
ツマグロヒョウモン(雌) |
ムラサキシジミ(雌) |
ご覧のようにツマグロヒョウモンの雌雄の前翅模様は全く違っており、異種と見誤 |
るくらいです。雌の前翅の翅表では翅頂にかけて約半分が紫黒色となり、その中に斜 |
めの白帯が走り、ヒョウモンチョウの中では美種です。ヒョウモンチョウでは何故か |
雌に違った色合いや模様が現れるものがあり、メスグロヒョウモンは前翅も後翅も翅 |
表の模様は完全に異なっています。雌の翅表は青みがかった黒褐色で、その中に白斑 |
や白帯が目立ちます。雄は普通の数あるヒョウモンチョウ類の色彩や斑紋に似ており、 |
区別することは容易です。和名の由来も全く納得です。 |
(写真のムラサキシジミの雌は雄よりは綺麗で、明るい青藍色をしています) |
上記のナガサキアゲハやツマグロヒョウモンと言い、ムラサキシジミの例と言い、 |
明らかに暖かい地方の特産とも言えた種が北上して、京浜地区で普通に見られるよう |
になるというのは、北海道の近海で多種の暖流の魚が獲れることと同様、地球が温暖 |
化していることの確かな証拠と言えるでしょう。 |
話は変わって蝉のことになりますが、地球の温暖化現象の一例として思い出します |
のは、1993年9月12日の朝日新聞朝刊に紹介された東京都内のクマゼミ大量発生のこ |
とです。これは国内で最大の蝉で、北限の神奈川県を越えて、都内で盛んに見られる |
ようになった、という記事でした。このときも、単に鳴き声が聴かれるというだけで |
はなく、幼虫の抜け殻まで見られるようになったので、間違いなく東京に住み着いて |
いることが実証されたと、蝉の研究家の見解まで添えられていました。これなども、 |
地球温暖化によって、東京の人工の森や公園が住み易い環境に変わってきたために起 |
きた現象と言えるでしょう。 |
また、都会では天敵が少ないため、個体の生存率がぐんとアップすることも寄与要 |
因になっています。ご承知のように、生物を取り巻く環境では、一定の捕食関係があ |
って、一巡する生命の輪鎖が出来上がっています。この捕食関係を崩す天敵の有無や |
無力化が生じたときに、突然我が者顔に振舞い続ける種が出現し、猛烈な勢いで増え |
ることがあります。 |
紹介しました上記3種の南方系の蝶についても、天敵がいるかどうか、これから先 |
の個体数の現われ方を注意して見守りたいと思っています。以上書きましたように私 |
たちの身の回りの自然にも注意して観察していると年々少しずつ変化の見られること |
に気付かされます。 |
(2007年9月3日 記) |
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仙高フ俳句をもじった揮毫 |
70歳を超え敬老の対象ともなれば、いろいろな機会にいろいろな人から揮毫を求め |
られる。筆者も30〜50歳代では専ら「誠実」の二文字をくそ真面目に習慣の如くに認 |
めてきた。 |
あるとき、筆者の生まれ年のちょうど百年前に没した横浜生まれで、晩年は九州に |
禅寺の住職として暮らした禅宗の文化僧仙高フ画賛の中に「よしあしの 中を流れて |
清水哉」の句があることを知り、仙高ノは申し訳ないが、その句をもじり自分に都合 |
よく書き直し、「善し悪しの 中を流れて 清水かな」と「良いか悪いか、あるいは |
どちらか分からないこの世の中を流れて(生き長らえて)今日の自分、清水がありま |
す」と言う意味の文字を揮毫にすることにした。仙高フ句の元の意味は勿論、水を濾 |
過する作用を持つ良い芦(Reed)の中を流れて本当の清水が生まれているということ |
を言っている |
人々は古から琵琶湖などの「よし」(関西では特に芦を“あし”と呼ばず、“よ |
し”と呼ぶ。これは、“あし”が“悪し”に通じることを嫌っての使われ方である。 |
水辺のウグイス科の小鳥で「ヨシキリ」がいるが、漢字で書けば「芦切り」である。 |
このほうが確かに「アシキリ」よりは美しく響き、きれいである。)を大切にして手 |
を掛け、水の浄化に努めていることは良く知られている。仙高烽アのよしの浄化作用 |
をよほど快く思っていたようで、上記の句の「よしあしの中に流れて」の部分はその |
ままにして、最後の5文字を入れ替えて幾つかの画賛を作っている。 |
2007年9月1日から東京の出光美術館で「没後170年記念仙香@禅画にあそぶ」展 |
が開かれた。筆者が冒頭に引用した句がどのようなよしの絵と共に仙高ヘ作ったのか |
を改めてもう一度確認したく、早速に出向いた。確かにありました。葦画賛と題して |
軸仕立てのものと、他の画賛と4枚組の縦長の衝立屏風様にしたものと二つの違った |
絵のものが見られた。「座禅して 人は佛に なるならハ」で知られる座禅蛙画賛や |
判じ物のようなマルと三角と四角だけを描いた「○△□」、「を月様幾ツ 十三七 |
ツ」と賛された指月布袋画賛などがよく知られた作品である。いずれにしてもユーモ |
ラスで自由奔放な書画は、やたらとせせこましい現代に反って不思議な魅力を持って |
迎え入れられているように思われる。余生をより自由に快活に生きるために、仙国T |
師の生き方を学びたいと思うことしきりである。当分上に紹介した揮毫は続けたいと |
思っている。 |
(2007年9月記) |
| | | |
読後感を一言で表すなら、いま横光利一の『上海』を改めて読んで、ことさら面白 |
いと思い、「歴史は繰り返す」を感じざるを得なかった、となろうか。 |
横光利一が東洋とヨーロッパの新しい戦いであった五三十事件(大正14年5月30日 |
に上海を中心として起こり、上海事件とも呼ばれる)を扱い、昭和7年の日支事変に |
いたる社会的背景を書き残したいとして昭和3年から6年まで「改造」誌を中心に発 |
表した画期的な小説がこの度岩波文庫から復刻出版されたのを機会に求め、一気に読 |
んだ。現在も東南アジアで日本を凌ぐ金融・商業の中心たらんと大変な意気込みで発 |
展を続けている上海を考えるとき、この横光の作品はなんと新鮮な教材であることか。 |
岩波書店の時代感覚の鋭さに先ずは感心させられた。 |
余計ごとながら、長年海外の仕事に従事し、かなり際どい事件に遭遇している身で |
あれば、自分でも立ち会った事件についてできるだけ詳しく記録を残して置けたなら |
と、その都度思いながら、筆を進める余裕と力が無いため果たせないでいる。そこで |
勢い小説の中でもこの手の主題が一番注意を惹きつける。 |
カンボジアのアンコール遺跡地区のバンテアイ・スレイ寺院から4体の美しい女神 |
デヴァターを盗み出して捕まったフランスの文化大臣で作家のアンドレ・マルローが |
アンコールの歴代の王を主題にした小説『王道』や上海事変に続く広東革命を自ら参 |
加の上で表した『征服者』、スペインの市民戦争を扱ったアーネスト・へミングウエ |
イやケストナーの多くの作品等々枚挙に暇のないくらい対象としたい小説は探せます。 |
ニューヨークの9.11爆破事件の数日前に同ビルに出入りし、他人に会い、食事を |
共にしていた事実、円・ドル関係が急激に動き、考えられない円高に向かっていた最 |
中に欧州駐在員として現地通貨(当時のオランダ・ギルダー)での毎月の手取り給与 |
が10万円以上の変動に晒されたり、ロンドンのハロッズ・デパートを訪ねれば当日は |
「アラブの王様が全館の品物全てを買われましたので一般の人は立ち入れません」と |
の不思議なアナウンスで追い返され、用が果たせなかったこと、リビヤで例の奇人変 |
人のガダフィ大佐が地方の議員を招集してトリポリで開く全国議員大会の開会当日に |
見事に命中してしまい、予約したホテルに入れなかったこと。市中のホテルというホ |
テルは砂漠の中のオアシスから出てきた地方議員とその随行員の宿舎に当てられ、一 |
般客は締め出されると言う聴いたこともない目に合わされ、既に泊っていて追い出さ |
れた外国人20人くらいと一緒に砂漠の中のテントで10日間過ごした水もシャワーもな |
く、食事もない素泊まり生活は今考えてもぞっとするおぞましいものであった。しか |
しながら、そんな惨めな経験の中でも、筆者には、そういう普通では考えられない非 |
常時にたまたま隣り合わせたり、話の輪の中に入った人々とそのとき以来続いている |
交友が何とも言えぬ他に変えがたい宝物に思えるのだ。1968年にスペインの国立バル |
セロナ大学とセビリア大学でスペイン語が母国語でない全世界の学生、教授、作家、 |
報道関係者等に解放されていた外国人口座を受講していたときのことも今でも鮮やか |
に瞼に蘇らせることが出来る。この年の春、パリの大学生は一斉に決起し、第2のフ |
ランス革命と言われた騒ぎのあった年である。当時スペインではまだテレビは殆んど |
普及しておらず、毎日パリから送られてくるラジオ報道を大学の寄宿舎に集まって聴 |
き入り、何時間にも亘って議論を重ねたときのあの真剣でビビッドな聴講生の語り口 |
やまなざしは筆者の外国人と過ごした日々の生活の中でも特異な経験であった。 |
かなり妙な方向に脱線してしまいました。話を元に戻しましょう。 |
横光利一が『上海』を単行本として出したときの序文に、「私がこの作を書こうとし |
た動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというより、むしろ自分の住む惨めな東洋 |
を一度知ってみたいと思う子供っぽい気持ちから筆を取った」と書いているように、 |
日本の知識人に上海事変の本当の姿を知ってもらいたいという気持ちの強さが支えに |
なっているのだろう。内地で伝えられる現地の状況と、現場で直に体験する事実とは |
どれだけ隔たっていたことか想像に余りある。地域的にも業種間にも、二重にも三重 |
にも経済格差が存在する現在の中国にあって、資本主義末期を迎えているとも言える |
ニューヨーク、ロンドン、東京以上にどぎついカネと権力による強引な変革や路線が |
敷設されつつある今の上海が、横光が書いた上海事変の植民都市の姿と妙にダブり、 |
改めて当時の中国社会を裏側から見たものが今の姿であるように見えてならないのは |
私ばかりではなかろうと思う。それにしても、当時の世界でも類を見ない厳しいわが |
国の官憲の統制や検閲の中で、作者が相当気を遣って書き換えているとはいえ、全編 |
を流れている共産主義思想や反帝国主義の考え方は相当危ないものであったと思われ |
てならないが、この作品が単行本化されたときに引っかからずにすんなり世に出たの |
がどうしても私には大きな疑問に思われてならない。横光利一はプロレタリア文学の |
旗手とは理解されていないから事なきを得たのかもしれない。その点では同作家の作 |
品の中でも確かにユニークなものである。 |
それにしても横光利一の情景描写が非常に生々しく、文章に表された風物が直ぐに |
読者の瞼に描けるようである。一例をご披露するなら、 |
「泥の中から起重機の群れが、錆がついた歯をむき出したまま休んでいた。積み上げ |
られた木材。泥の中へ崩れ込んだ石垣。揚げ荷からこぼれた菜っ葉の山。舷側の爆 |
(ハジ)けた腐った小船には、白い菌が皮膚のように生えていた。その竜骨に溜った |
動かぬ泡の中から赤子の死体が片足を上げて浮いていた。そうして、月はまるで塵埃 |
(ゴミ)の中で育った月のように、生色を無くしながらいたる所に転げていた。」 |
| | | |
<第1日目 3月14日(金)北九州空港から中津市、耶馬溪を経て湯布院温泉へ> |
溜まったJALのマイルを使って羽田―九州の往復はJAL便を利用した。羽田発8時 |
15分JAL373便で北九州空港に10時に降り立ったところから、この旅は始まった。北九 |
州空港は開業してからまださほどの年は経っていない。関西空港のように、海に張り |
出した埋立地に出来た空港である。筆者は仕事で日産自動車(株)九州工場を訪ねる |
ときに使う玄関口である。 |
空港で予め頼んでおいたレンタカーをピックアップし、福沢諭吉の生家のある中津 |
市に向かう。車はトヨタの小型、パッソー(PASSO)で、メーカーのうたい文句では |
リッター当たり21.5キロメートルも走ると言われている車である。勿論乗るのは始 |
めてである。ハンドル近くのギヤー・チェンジ・レバーは教習所で始めて乗った車を |
思い出し、懐かしくさえあった。その日は中津市で福沢諭吉記念館と中津城を訪ね、 |
耶馬溪の「青の洞門」、「羅漢寺」に寄り、日田市を経て宿泊地の湯布院までの行程 |
とした。 |
方々をくまなく歩いている筆者にしては珍しく今回のコースは、全く初めての地の |
連続である。と言うより意識的にそのようにコースを組んだ。九州の東側をほぼ海岸 |
線に並行に南下というか、周防灘に沿って真東に移動と言ったほうが正しいだろうか。 |
豊前市を最後に福岡県とも別れ、大分県に入る。 |
中津城は黒田家、細川家、小笠原家、奥平家が連続して居城としたところ。西南戦 |
役で消失し、現在の天守閣は昭和39年に再建されたものである。中は4階まで全フロ |
アーが博物館となっている。余談だが、黒田孝高が城主のとき、文録元年(1592)、 |
孝高の長男長政が豊臣秀吉の命を受けて兵5000を率いてこの城から朝鮮に出征した。 |
最上階の展望欄干からは眼下に山国川の流れと周防灘に開けた中津港が見渡せる。 |
小雨の中の中津城から福沢諭吉記念館への歩みは静かな田舎町の風情を滲ませて、 |
ゆっくり楽しめる道筋であった。茅葺の福沢諭吉の生家は、当時のまま国の史跡とし |
て残されていた。ここに生まれた諭吉は蘭学を学ぶため長崎に遊学するまでの19年間 |
を過ごした。現在は同じ敷地内の正面右側に二階建ての福沢諭吉記念館が建てられて |
いて、中には福沢諭吉に縁の著作や写真が展示されていた。売店には福沢諭吉をあし |
らった現行1万円札そっくりの大きさの煎餅が土産品として並べられていたが、聊か |
悪趣味のように思えた。 |
中津市と言えば筆者には、現在の日展の洋画を支える大きな団体「白日会」の会長 |
を務める日本芸術院会員の洋画家中山忠彦の生誕地であることを思い出す。奥様をモ |
デルに女性美を追求して止まぬ姿勢に芸道の一つの研ぎ進めかたを見る思いがして好 |
きな画家である。因みに同画家が現存するわが国の洋画家の中では群を抜いて価格の |
高い画家としても有名である。 |
中津市は山国川の東側に位置する大分県最西端の都市であり、県境になる山国川沿 |
いの国道212号を遡れば耶馬渓に入る。桜には少し早く、ところどころに梅の花が見 |
られるのみで、静かな渓谷筋の風景を楽しみつつドライブ。出会う観光客もまばらで |
あった。山国川が本耶馬渓町に入って幾つかの支流に分かれるが、本耶馬溪の際に聳 |
え立つ秀峰、その名も「競秀峰」の裾野に「青の洞門」がある。どちらも菊池寛の小 |
説“恩讐の彼方に”の舞台になったところとして有名である。青の洞門の一部は禅僧 |
禅海が一人ノミとツチで掘り抜いたと言われるトンネルである。現在はトンネルも足 |
されて立派に国道が通っているが、所詮道幅が狭いため、洞門部分は片側交互通行で |
ある。歩いての観光も短い距離のためあっという間。聞こえている名前ほどには感激 |
の材料はないと見た。 |
それよりも羅漢寺のほうが一見の価値があるだろう。上述の支流の一つ跡田川と言 |
うより羅漢寺の名を取って羅漢寺耶馬溪と呼ばれる川沿いにある羅漢寺山の岩肌を刳 |
り貫いて作られた洞窟に全国羅漢寺の総本山である羅漢寺はある。寺の本堂も山門も |
全て洞窟に嵌め込まれたように作られ、3700体を超える石仏が安置されている。 |
この後の湯布院までの道をどう取るかで悩んだ。別府寄りの比較的直線を選び宿に |
直行するか、折角近くまで来ているのだから、耶馬溪も例え車の中からとは言え、そ |
の全てを眺め、序に日田市を翳めて三角形の二辺を行くかである。結局後のほうを選 |
んだが、日が落ち、ライトを付けてのドライブとなり、宿に着くまでさらなる見学を |
重ねることは出来なかった。由布院の宿はずっと東はずれの昔の公営施設だった「ゆ |
ふいん七色の風」を選んだ。由布岳が間近に望めることと翌日の登山口に一番近いか |
らだった。が、この選択は良くなかった。公営の名残のためか、融通が利かず、朝食 |
の時間が遅く、昼の弁当を別途注文することも何としても叶わず、登山のスタートが |
思うようにならなくて往生したからである。 |
| | | |
<第2日目 3月15日 土曜日 由布岳登山> |
予定では別府の鶴見岳から縦走して由布岳の東・西両峰を極める心算であったが、 |
上記したような事情で旅館を出たのが8時を回ってしまったので、鶴見岳は見送り、 |
由布岳のみ正面の登山口から同じ道を往復することにした。 |
由布岳は鹿島槍ヶ岳、谷川岳、筑波山などのように頂上が2峰ある双耳峰である。 |
その独得の容姿は端正であり、どこからも見え、見る方向によってはトロイデ型特有 |
の裾野を引いたきれいな山、「豊後富士」とも呼ばれる所以である。 |
高さは1583mと余り高くはないが、独立峰で特に西峰(この方が東峰より高い)には |
鎖場が3ヶ所もあり、いろいろ楽しめる山であった。 |
正面登山口は湯布院の町を眼下に眺めることが出来る狭霧台の展望所を過ぎて、 |
「やまなみハイウエー」を別府方面に走り、峠の最高所(地図の上では740m余と読 |
める)にあり、登山口を示す大きな標識が立っている。向かって右側正面には東峰に |
代表される由布岳、左側には山頂まで枯れた萱に覆われた、形の良いお椀を伏せたよ |
うな草原の小山・飯盛ヶ城(イイモリガジョウ)が目の前と感じられるくらい近くに |
眺められる。登山口には20台くらいは十分に駐車できるパーキング・スペースがあ |
り、当日が土曜日であったので、近隣の山好きな夫婦や山岳部の面々6つばかりのパ |
ーティが登山靴に履き替えたり、服装を直したり、出発前の柔軟体操をデモったりし |
ていた。 |
枯れ草の一本道を進めば程なく登山道に作られた柵があり、柵の木戸を開けて入る。 |
この柵から広葉樹林帯が始まるが、未だ木々は枯れ木の如く葉を落としており、強い |
日差しは遠慮なく直接頭や顔に強く当たる。登山口からは想像も出来ない谷筋があり、 |
これらを巻きながら越えると合野越(ゴウヤゴシ)に出る。案内書ではここまで登山 |
口から40分とあるが、筆者は45分を要した。これは多分柵を越えて程なくして登山道 |
を左から右に横切った鹿4頭の群れの見事なジャンプとそのスピードを感心して眺め |
ていたためであろう。 |
暫く樹林帯をジグザグと幾重にも折れながら高度を稼いで森林限界に出、草原を日 |
に炙られながら登れば噴火溶岩がゴロゴロした急坂になってマタエに着く。合野越か |
ら1時間余りである。しかし、筆者には2時間かかった。マタエは東峰と西峰の鞍部 |
で、ここから共に20分くらいの登り頂上になる。東峰に先に登った。東側の別府湾、 |
大分市街、鶴見岳や猿で有名な高崎山などが見渡せ、良い眺めである。暫くこの眺め |
を楽しみながら昼食を取った。 |
マタエに戻り、西峰にア |
中央登山口からの由布岳 |
由布岳西峯 頂上で |
タック。鎖場をクリヤーし |
て迎えた頂上は東峰よりも |
平らな平地があった。西側 |
には久住山系、北側にはか |
なり近くに英彦山の独得の |
山容が望める。西峰と東峰 |
を裏側で火口を巻いて歩む |
お釜巡りも出来るらしい。マタエから上は蔭の部分にまだ積雪の残りがびっしりと半 |
分氷状になって繋がっていて滑りやすく、筆者の登山靴のビブラム底も完璧には吸い |
付いてくれず、往生した。単独行の登山者は男女合わせて5人くらい見かけた。皆熟 |
年者であった。同行の士として語らいを持ったのは勿論である。 |
| | | |
<第3日目 3月16日 日曜日 久住高原・坊がつるに登り、黒川温泉へ> |
久住山塊を登り歩くこともこの旅行の一つの願望であったが、観光スポットを見逃 |
すことは心情として何としても許せないため、その妥協として3日目は一つだけ平成 |
18年10月に完成した九重「夢の大吊橋」に立ち寄り、その後の残り時間を使って、旧 |
制廣島高等師範(現広島大学)の山岳部の歌として京都大学の西堀名誉教授の作であ |
る「山男の歌」や尾瀬の歌と共に、コーラス・グループの定番になっている「坊がつ |
る讃歌」の舞台を訪ねることにした。 |
一昔前までは湯布院から |
久住山塊 雨ケ池 |
阿蘇中岳の火口 |
阿蘇に至る「やまなみハイ |
ウエイ」と呼んでいたが、 |
現在は別府から湯布院・九 |
重を経由して阿蘇に至る |
「やまなみハイウエイ」と |
呼んでいたが、現在は別府 |
から湯布院・九重を経由し |
て阿蘇に至る「やまなみハイウエイ」と呼ぶらしい。この道が九重の平原に入る少し |
手前の九酔渓の鳴子川渓谷に懸かる吊橋は歩行者専用の観光の目玉として生まれたも |
のらしい。長さは390m、一番高いところは173mあるそうである。筆者のような重量 |
級が大股で歩けばかなりの揺れが感じられる。全くの野次馬として往復してしまった。 |
通行料を500円取られた。昨年土佐祖谷のかずら橋を渡った際にも確か500円取られた |
ように思う。渡橋料は500円が相場なのだろうか。福島県の矢祭渓谷に出来て、塩原 |
に生まれ、全国各地に次から次にと歩行者用吊橋が生まれているが、一種の流行病 |
(ハヤリヤマイ)なのだろうか。 |
寄り道のために久住高原の出発点長者原に着いたのは午前10時を過ぎていた。向か |
おうとしている「坊がつる」は九州唯一の高層湿原である。標高は1300mである。登 |
山家にさらに人気を呼ぶのはこの湿原の南端に九州で最も高いところにある温泉「法 |
華院温泉」があることである。以外に知られていないのは、九州で一番高い山は屋久 |
島の宮之浦岳(1936m)であることだが、もっと知られていないことは、九州本土の |
最高峰がこの久住山塊の中岳(1791m)であることだ。阿蘇や霧島の山の方が高いと |
思っている人が8割を超えていると言って良いだろう。屋久島には中岳を凌ぐ1800m |
以上の山がさらに永田岳(1886m)、黒味岳(1831m)の2座がある。余計ごとにな |
るが、筆者は所帯を持つとき、もう宮之浦岳に登るような機会は持てまいと思い、せ |
めて機上から、運がよければ地上から見納めの山容を眺めたいと思い、わざわざ新婚 |
旅行に屋久島の地を選んだほどである。お蔭で泊った宮之浦港の木賃宿がどうすれば |
よいのかすっかり常軌を逸していた姿を今尚鮮やかに思い出すことである。 |
ここでちょっと「坊がつる讃歌」について触れてみよう。作詞者、補作者、作曲家 |
について長い間分らないことが多くあったが、全てが判明したのは何と昭和53年9月 |
であった。この辺の事情を書いていると長くなるので割愛するが、この歌も広島大学 |
に残された資料では「山岳部第一歌 山男(昭和15年8月完成)」となっているよう |
だ。歌手の芹洋子が昭和52年夏に阿蘇山麓の野外コンサートで出会った若者たちから |
「山男」の歌詞のところどころを直した今の「坊がつる讃歌」を聴かされ、勧められ |
て4番までを唄って全国に広まったと言われている。以下参考までに4番までの歌詞 |
を記してみよう。 |
| | | |
<第4日目 3月17日 月曜日 阿蘇三山を巡り、高千穂へ> |
黒川温泉から小一時間のドライブで阿蘇のロープウエイの仙酔峡駅に午前9時前に |
着いた。2日間山歩きをした後なので、このコースは往路をロープウエイで火口東駅 |
まで登って、そのあと中岳、高岳、高岳東峰(天狗の舞台)へと周り、高岳仙酔尾根 |
を下って仙酔峡駅に出ることにした。 |
当日は月曜日のため、さらに春も未だ浅い時期のためかロープウエイに乗る人は他 |
に一人もなく、筆者一人の貸切運転となってしまった。車掌は長く東京で働いていた |
とか、住まいは郊外を求めて南武線の宿河原駅近くであったとか、横浜から来たと話 |
した途端に昔話を始められてしまった。火口東駅からかなり風の強い中を一人で歩き |
出した。コンクリート舗装され、風除けの避難所が転々と置かれた道を一気に登り、 |
火口壁の中岳西稜展望所(1369m)に立った。風向きは別の方向であったが、吹き上 |
げる蒸気は硫化水素臭が強く、周囲一面に激しく漂っている感じであった。淡い霧の |
中で単独行は若干心細くもあったが、気を取り直して、予定した従走路に入った。高 |
低差があまりない尾根筋は徐々に晴れ上がるに連れて、気持ちの良い山旅に変わって |
行った。 |
高岳の山頂(1592.4m)から東峰(天狗の舞台)までの深い残雪の続く巨岩の蔭を |
辿る道はひどく、田んぼの中に足を突っ込んだような状態だった。天狗の舞台から見 |
る目の前の根子岳(1433m)はぎざぎざで大きな櫛の歯のような異様な稜線を晒して |
いた。昼食を取っていた老夫婦と山の話をした後で高岳まで戻り、黒川温泉で作って |
もらったむすびを昼食とした。 |
下山は仙酔尾根を使ったが、道がはっきりせず、ところどころ日陰になったところ |
には凍り付いた雪が残っており、足場も悪く、予想外に時間が掛かった。仙酔峡駅付 |
近の山の斜面にはミヤマキリシマが一面にびっしり植え込まれていた。シーズンにな |
れば駅から見る斜面はそれこそ緋色の綾錦となることだろう。 |
| | | |
3月半ばから4月の初めにかけて阿蘇一体では野焼きを行う。既に一部焼かれた後 |
が見られた。山肌に木が殆んどなく、萱や牧草が冬場にすっかり枯れてしまうため、 |
新しく芽を吹く前に焼いて地味を肥やすためにするのだが、真っ黒な山肌が続く様は |
異様で、おどろおどろしい景色である。 |
高千穂町では一番古いというホテル高田屋に泊った。時期外れのためかお客はなく、 |
当日の泊り客は筆者一人だった。宿の女将小手川城子(クニコ)さんは新聞にもよく |
登場する名物女将である。当日は夕食時に筆者と指しで地酒を飲んだが、一升瓶から |
一合以上入るコップに注ぐのに、二杯づつあっという間に飲み干し、自分だけ三杯目 |
をさっさと注ぐ様は恐ろしささえ感じる威厳であった。翌朝勘定を払おうとすると、 |
酒代は女将の驕りだといって取らなかった。盛んに焼酎を勧められたが、もしかする |
と本人が相当飲みたかったのではあるまいか。土地の名物の孟宗竹を使っての「炊き |
込み御飯」や「カッポ鳥」、「竹の子寿司」は供されたが、「カッポ酒」の相手はし |
てもらえなかった。女将の自慢は娘で、東京の旧帝大クラスの大学を出て、米国のハ |
ーバード大のマスターコースを出、米国大手自動車メーカーの幹部社員に嫁ぎ、いま |
その夫婦はその自動車会社の日本法人の社長夫妻として東京に住まいしているとか。 |
肝心の会社名や娘婿の名前もあやふやで、一流の一夜話なのかとさえ勘ぐりたくなる |
のであった。ただ、既に亡くなっている女将の旦那は絵が好きで、しょっちゅう描い |
ていたらしく、たくさんの作品を引っ張り出してきては見せ、長々と講釈が続くので |
あった。筆者もが水彩画が好きで続けていると話したのが運の尽きであった。 |
夜は宿からの送り迎え付きで、重要無形民族文化財に指定されている高千穂神社の |
夜神楽4場の舞いを観賞した。ストーリーとしては神話を茶化したもので、大いに笑 |
えるものだった。天の岩屋に隠れた天照大神を引っ張り出そうと岩戸の前で代わる代 |
わるに踊り、夫婦で酒を作り、酌み交わし、機が熟して契りまで交わすのを天照大神 |
に見せるという想定で、代表的な場面のみを観光客用に縮めてアレンジして見せると |
いう言うなれば簡易版であった。実際は翌朝まで通しで催され、舞も32景ぐらいにな |
るらしい。 |
| | | |
蓮台寺駅に着いた伊豆急行下り線の普通列車からは駅前の高校に通う男女生徒がた |
くさんに吐き出されてくる。筆者の巨体も大勢の中に取り囲まれ否応無しに改札口に |
押し出される。ほかに登山装束の人もなく、筆者一人だけ異物とも写りそうな感じで |
ある。駅から直進する生徒たちと別れて、今通ってきた線路沿いに道を戻り、3,400m |
先の信号のある十字路を右折し、細い道を部落の中に進み、小さな雑貨屋を左に見て、 |
右折し山道に入る。伊豆急の踏切を渡り、薄暗い登り道に入る。高根山(タカネサン) |
は、地元の船乗りや漁師の信仰を背負ってきた歴史のある山のようで、頂上の18丁目 |
まで1丁目毎に石柱が立っており、登る際疲れを癒してくれる思いである。雑貨屋を |
回ったところが2丁目である。 |
前日までの本州の太平洋を北上した台風4号の風雨のためか登山道は大変じめじめ |
しており、かなり大きな枝も折れて登山道を塞いでいる。台風通過後筆者が最初の通 |
行人のようである。道は細い沢沿いに登っているが、沢に水の流れはなく、虫や動物 |
の姿も見当たらない。丹沢では鹿や猪等の動物が増えすぎ、そのために彼らに寄生し |
ている蛭が異常発生して登山者を苦しめているとマスコミは伝えているので、伊豆の |
山中にもこれらの動物は多いことでもあり、同じことではなかろうかとかなり深刻に |
懸念していたが、幸い下山するまで一匹の蛭も目にすることはなかった。 |
30分近く歩けば山道と高根山への道との分岐が現れ、石仏と石柱が並んでいる。左 |
に高根山の道を採り、沢沿いの道を登る。雑木や檜、大きな孟宗竹の林が登山道に被 |
さるように続く道は、猪が食した後なのか竹の子の皮が散乱し、頭部竹の皮の集まっ |
た部分が無造作に投げ散らかされていて少し気持ちが悪い。石のない登山道の土のと |
ころには動物の足跡か深くめり込んだ穴があり、ところどころにはモグラが掘り上げ |
た土が山盛りに膨れている。暫く行くと、再び山道と高根道の分岐が現れ、尾根筋に |
出て、地蔵堂に着く。広場状になっているが、ここは頂上ではなく、三角点はもう少 |
しNHKのアンテナ塔の方に寄った所にある。山の名前を示す標識は一切何もない。 |
標高は343mである。 |
アンテナ塔の周囲は立ち入れないように高い金網が張り巡らされている。この金網 |
に沿って下るのが寝姿山への縦走路である。山頂の眺望はあまりないが、伊豆半島の |
中心部、天城峠の近くの名峰長九郎山(チョウクロウヤマ、996m )の丸い山容が周 |
りからひと際突き出ているのが見られる。これから先が急に切り立った坂を下ること |
になる。伊豆急の車窓からもこの切り立った斜面ははっきり眺めることができる。山 |
頂のNHKの塔が目印ですぐそれと気が付く筈である。距離はさほど長くはないが、 |
切り立った角度は相当で、補助に太い組縄のロープが下り方向右側にずっと張り巡ら |
されている。下りきれば白浜と蓮台寺とを結ぶ横に走る道に突き当たる。ちょうどこ |
のあたりで土地の人たちが登山道の草木を刈り、整備しているのに出会った。登山用 |
にというより、NHKのアンテナ塔へのサービス員のための手入れなのかもしれない。 |
ここで一休みしたが、人々が草木に手を入れたためか、あたり一面にたくさんの毛虫 |
が這いずっており、休んでいるたった5分くらいの間に、ズボンを上ってくるもの、 |
袖口に動いているものなど、鳥肌が立つほど気色悪いことだった。大半が夜蛾とヒト |
リ蛾の幼虫であった。 |
ここで陽光とはしばしの別れで、道はほぼ横に移動している感じであるが、全く展 |
望のない暗い雑木林の中を30分近く歩かされる。鬱蒼とした林?森?の中を抜ければ |
広い通りにぶつかる。車の通れる舗装された寝姿山山頂に向かう道である。この道を |
横切ってなおも少し高度を稼ぐと、寝姿山の山頂である。広々としたキャンプ場のよ |
うなところで、山頂には山梨か、山桃かよく分らないが大きな木がところどころに立 |
っており、間の草地にはキャラブキの光沢のある幅広い葉が一面に敷き詰めたように |
繁っていた。一年中暖かく、雨量の多いためなのか、緑の色合いも心持濃いように感 |
じられる。山頂の標高はたったの200mである。石楠花がシーズンのはずだがと今回の |
縦走路で懸命に探したが寝姿山に少し見掛けただけで思ったよりずっと少ない感じが |
した。代わりに馬酔木は方々にシーズンの花房を垂れて満開だった。 |
道なりに詰めて行けば、ロープウェイの山頂駅に通じる道で、途中には右に左に展 |
望台が作られており、下田港の全景や反対側には伊豆急下田駅の駅舎の細長い屋根が |
見下ろせたり楽しい景色である。展望所にはこのあたりの開発に生命を捧げた東急の |
総帥五島慶太の石碑と銅像が建っていた。驚いたのはロープウエーを使わずに入山し |
た人、下山する人は入山料として160円ほどを取られる旨の看板が見られ、山歩きの |
清清しい気持ちから一気に金、金の世界に引き戻された思いで複雑な気持ちで嫌気が |
差し早くこの場を離れたくなり、急いでロープウエーの客となって下山したのだった。 |
この地、下田にはトキメック山岳部OBの高田三郎君がいることを思い出したが、 |
当人のアドレスも電話番号も持参していなかったので、残念ながら次回の邂逅に譲る |
こととした。 |
寝姿山山頂ではたくさんの種類の違うアゲハ蝶が乱舞していた。後翅に白い紋のあ |
るモンキアゲハ、瑠璃色の反射が綺麗なカラスアゲハ、真っ黒なクロアゲハ、後翅の |
長いオナガアゲハ、ゆっくり飛ぶジャコウアゲハ、山頂を独占したいキアゲハやアゲ |
ハ、他に近年北上が伝えられる南方系の蝶であるナガサキアゲハに俊敏に飛ぶアオス |
ジアゲハと実に9種類のアゲハチョウが交互に飛び交っていた。蝶を愛でる筆者には |
しばし天国に憩う気持ちであった。 |
当日のコースタイムを参考までに記せば次の通りである。 |
<コースタイム> |
5月15日(木) |
伊豆急今井浜海岸駅(7:47)――(8:02)蓮台寺駅(8:05)…(8:40)山道との分岐 |
(8:45)…(9:17)高根山山頂三角点(9:30)…(9:50)蓮台寺駅方面への道との分 |
岐(10:00)…寝姿山と白浜への道との分岐(10:15)…寝姿山山頂(11:00)… |
(11:10)下田市内展望台(昼食)(11:40)…ロープウェイ山頂駅(12:00)―― |
(12:10)新下田駅…伊豆急下田駅(12:35)――(13:05)今井浜海岸駅 |
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筆者には、最近いわゆる旅行業者の主催するパック旅行の形態が変わってきて、単 |
純な観光旅行から一工夫されて、いろいろの目的や意味を持たせたものに移行しつつ |
あるように思われる。たまたま、この7月に一泊二日でいろいろ業種の違う企業を訪 |
ねる「大人の社会科見学旅行」という謳い文句の旅に参加してみた。 |
往復とも利用客の少ない東海道新幹線「こだま」のグリーンを利用、現地のつなぎ |
の交通手段は観光バスを利用するというものだった。ツインルームの一人利用、一泊 |
二食、列車はグリーン車利用を考えれば、旅行代理店に支払う二日間の費用3万円弱 |
は決して高くはないのではなかろうか。 |
この旅の最遠の地は名古屋で、一日目は静岡県牧之原の製茶工場、浜松の航空自衛 |
隊の広報館とうなぎパイ製造工場見学後浜名湖畔の雄踏温泉のロイヤルホテル宿泊で |
あった。二日目はトヨタ自動車の豊田市元町工場と本社に付設のトヨタ会館の見学か |
らスタートし、アサヒビールの名古屋工場と岡崎市の八丁味噌製造工場訪問であった。 |
参加を決めてからも正直言って余り魅力を感じているわけではなかったので、参加 |
者も精々30〜40名と思っていたが、あに図らんや総計90余名、観光バス2台満 |
席という有様であった。昼食に至ってはレストランや食堂を使うでもなく、高速道路 |
のサービスエリアすら利用せず、何と連日走行中にバスの車内で折り詰め弁当を取る |
という心底腰の座った文字通り社会科見学重視の旅そのものであった。 |
参加者は、それでは何に注意を引かれ、参加を思い切る魅力を感じていたのであろ |
うか。筆者も自問自答してみるが、自分に納得の行くものは得られていない。終わっ |
てみても正直良く分からないことだらけである。現役のサラリーマン男性(勿論会社 |
を休んで参加をしている)、若い単身参加の女性、学生、一線をリタイアした品のい |
いサラリーマンOB、その構成も多くの分野に跨っており、実に不思議な人間の組み |
合わせと言うか、寄せ集めであった。明らかに息抜きの旅行ではなく、あるしっかり |
した意味を持った社会勉強であり、体験旅行なのであった。これにはさすがに筆者も |
びっくり仰天であった。 |
一日目を終わって、早めにチェックインしたホテルは、部屋の調度はビジネスホテ |
ル並ではあったが、ツインの広い部屋をシングル・ユースでまあゆったりとした気分 |
を味わうには申し分はない。が、しかし、周りには特に散策する場所やお店がある訳 |
でもなく、個人参加の多い人々はいったいどうやって時間を潰すのであろうかと要ら |
ぬ心配をしながら、改めてこの旅そのものを考え直してみたのだった。別段格別の疲 |
れを覚えてもいなかったので、仮眠することも出来ず、筆者は殆どの時間をゆっくり |
露天風呂の温泉に身を浸していた。館内にはマッサージや女性用の全身美容、スポー |
ツジム、卓球場等の設備は見られたが、それ以上の特徴のあるものは特に用意されて |
いるようには見受けられなかった。 |
二日目のホテル発は8時きっかり。大人数の旅ではかなり早い方である。トヨタ自 |
動車(株)と約束された午前9時半に間に合わせるため、一目散に豊田市を目指す。 |
元町工場の組立部門の見学は圧巻であった。筆者も過去幾度か、たくさんの自動車組 |
立工場の現場を見てきているが、今回のトヨタの工場が一番綺麗に整頓されているよ |
うに思われる。今回の旅行には以前27年間もこの工場で働いていたと言う男性が参 |
加していて、自分がいたときとどのくらい変わったかを見たかったので参加したと言 |
っていたが、彼の言うところをそのまま信じれば、あまり変化は見られず、結果とし |
て相変わらず単純作業をわき目も振らずにこなすラインの仕事のやり方に人間性無視 |
を見る思いがして嫌だったと漏らした。同氏は何年経っても仕事が少しも変わらない |
ので嫌気が差して辞めたのだが、今ラインで働いている人たちを見て相変わらずだな |
と、同情を禁じ得ないと不満顔であった。自分がいた頃にはフォーマンがストップウ |
オッチを持って作業時間を厳密にチェックしていたとか。異常な反抗心を持ったもの |
だった、と回想していた。筆者にはチャップリンの名画「モダンタイムス」を何故か |
思い出させるのであった。 |
話を元に戻すとしよう。一昔前までは会社の株主総会等でも出席者に対して、参加 |
御礼としてちょっとした品物や買い物券、交通機関利用券、観覧券等が用意されたの |
で、個人投資家、特に家庭婦人にはそれらを当てにして出掛ける者もかなり居た。旅 |
行の際にも物を作っているところ、特に食品関係では何かしらちょっとした土産にな |
るものを用意していたものである。 |
しかし、現在の事情は変わって、社会科見学で企業を訪れても特にこれといった土 |
産がある訳でもない。となれば、余計のこと何を好き好んで企業見学の旅に参加する |
のであろうか。精々一箇所について1時間半から2時間半の滞在時間しかなく、ぞろ |
ぞろと引率されて工場や展示物を巡っても通り一遍の説明を受けるだけで、余り印象 |
に残ることは期待できない。筆者には結局分らず仕舞いというのが今回の旅の印象で |
あった。それでも参加者の大半の人々にはそれらの企業のやっていることを垣間見た |
ことで満足し、見ないよりはましと納得したのだろうか。とまれ筆者には摩訶不思議 |
であった。 |
筆者は横浜美術館協力会のメンバーとして、地方の美術館や芸術・文化事業の施設 |
を訪ねる旅に参加して交歓活動に微力を注いで今日に至っているが、今回の社会科見 |
学旅行と比べてみれば、遥かに充実していると思われる。訪ね先の美術館や名所・旧 |
跡の専門の学芸員やキュレータが少なくともそのときの展覧会の見所、押さえどころ |
は説明してくれるし、時間があればかなりの作品についても、その作品の生まれた故 |
事来歴を分り易く解説してくれるので、自分の観賞の参考になり、大変勉強になる。 |
筆者は友人と展覧会に出掛けて、作家や作品について、知識や勉強したことを披露し |
たり、説明したりすると、美術館やギャラリーのキュレータと間違われるのだろうか、 |
時々周りを囲まれて、話を聞き込まれたり、挙句の果てには質問攻めに合ったりする |
ことがある。いつの間にかたくさんの作家の作品や作家その人の多くを知ることにな |
って、一層楽しく美術館や画廊、ギャラリー通いができるのが嬉しい昨今である。 |
社会科見学の旅を一方的にけなす訳ではないが、上記のような状態では、まだまだ物 |
足りなく、筆者にはやはり文化・芸術の施設を訪ねる旅の方が何倍か、生き甲斐に通 |
じるように思えてならなかった。 |
(2008年7月 記) |
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先ず最初に、この『パラダイス鎖国』という言葉をご存知でしょうか? 多分多く |
の方が「聞いたこともないよ」とおっしゃるでしょう。それもその筈、特定の年齢層 |
の少しばかり変わった考え方の若者の間に通用している流行語だからです。筆者も最 |
初聞いたときには何のことか全く想像も付かず、意味を図りかねていましたが、真意 |
を明かされて改めて唖然とさせられました。くだらないと一笑に付して忘れてしまっ |
ても良かったのですが、考えれば考えるほど背後にある思想が貧弱で、情けなくなり、 |
こんなことではとても将来の日本をこのような若者に託すわけには行かないという憤 |
りに圧され、今まで苦労して現在の日本を守り、育てて来た先達や同輩の方々の生き |
様に連続性を持たせることにはならないと思い、敢えてこのHPの読者の皆様にも一緒 |
に考えていただこうと一文にした次第です。このような情けない若者が増えないよう、 |
世の中のシステムを改善して、日本という国の存在の根拠を改めて学習することが何 |
より急務だと思ったからです。 |
答えを明かす前に、訳の分らぬままに、抽象的な精神論をいきなり展開しても始ま |
りませんので、早速『パラダイス鎖国』の意味から申し上げましょう。この基本とな |
る考え方は、われわれの住んでいる日本という国が、そこそこの国として他国から侵 |
されずに存在すればよいというものです。その裏には、わざわざ自分から進んで海外 |
に出掛けて行くとか、他国相互の争いの中に仲裁も含めて立ち入ったりして、あらぬ |
疑いを掛けられたり、相手に要らぬ刺激を与えて、欲してもいない中傷や反発を買っ |
て批判の的にされることには与(くみ)したくないというもので、この考え方に沿っ |
て顕著に現れる振る舞いとしては、自分の自由時間が持てない、宛がいぶちのパック |
旅行で海外に行くとか、自分の不得意な外国語を使って不自由な、誤解を受けること |
も多いであろう個人での海外旅行をしたり、またそのために外国語の勉強を自分から |
求めてする等ということは真っ平御免だとなるのです。 |
筆者は海外旅行に行く、行かないや外国語を自分から求めて勉強するか、しないか |
について干渉する気は一切ありませんが、海外に向かって自ら何の行動も起こしたく |
ないとか、何もしないで、日本がそれなりに住み心地の良い状態で続いて欲しいとい |
うのは、何とも虫の良い話だと思わざるを得ません。現在のグローバル化した時代で |
は絶対にあり得ない考え方であるばかりか、公平な賛同を得ることは出来ないと思い |
ます。自分からは積極的に働き掛けること無くして、平和な生活の自由だけは享受し |
たいというのは全くふざけた話で、このようなことを本気で考えているとすると、こ |
のこと自体を嘆かわしく思うだけでなく、この先のわが国には誠に暗い、危険な社会 |
が待っているように思えてなりません。筆者にはどうしてもっと逞しく生きようとい |
う目標が持てないのかと不思議でなりません。自分が生きてゆくために、自分が周囲 |
の人々と協調融和しながら、お互いのそれこそ共存共栄を図る道を見付けて行こうと |
するのがごくごく当たり前の生き方の基本であり、この世に生を受けた人の避けて通 |
れぬ権利と義務というものではないでしょうか。このベーシックな権利と義務を省み |
ることなく、自由だけ謳歌して一生が終われれば良いということは成り立たないと思 |
うのです。別の言い方をするなら、自分だけよければ良いとする独りよがりの利己主 |
義そのものではありませんか。 |
関西で初めて日本全体では三番目の生命保険会社である日本生命を興した弘世助三 |
郎はいみじくも事業の基本精神は「自分によし、相手によし、世間によし、この三方 |
よし」であると述べていますし、セメント王として有名な浅野総一郎も「運はいつも |
水の上を流れている。命がけで飛び込んでつかむ度胸と、その運を育てる努力がなけ |
れば、その運は身につかない」と自分の一生を振り返っています。例えとして引くに |
は余りにも少し相手が偉すぎますが、上述した若者の考え方では立ち行かないことを |
如実に理解するのに相応しい真髄を突いた言葉ではないでしょうか。 |
表題の言葉が偶々日本が外国に対して鎖国を解き、横浜、神戸、函館等の港を開い |
て以来明年で150年を迎えるときに当たっての一種のパロディとして、おちょくっ |
て言われている言葉だろうと筆者は信じたかったのですが、どうもそうではないらし |
いと分って、一言申したくなった次第です。 |
序(ついで)ながら、わが国の学者の中には日本の鎖国を正当化して、鎖国があっ |
たればこそ、日本が列強に侵略されることなく明治のわが国特有の産業革命と文明開 |
化が迎えられたのだとする説も耳にしますが、筆者としては、これはあくまで後日歴 |
史的な事実を事後解釈していると思わずにはいられません。一つ言えることは、鎖国 |
とは言え、何処かには必ず別ルートがあるもので、事実出島を通してのオランダとポ |
ルトガル両国を窓口とした通商があったことを思うと、わが国はこの狭い窓口を経由 |
して最低の西洋事情は入手できていたことは全くの幸いでしたが、常時こういう状態 |
が生まれるものだとするのは少し拡大解釈に過ぎると思います。 |
面白い形の変わった言葉から、いろいろのことを考えさせられて、筆者には楽しい |
頭脳のトレーニングの機会でした。 |
了 |
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『金だけが命』とか、『金を儲けて何が悪い』というような思想が蔓延して、金融 |
資本主義の名のもとに米英両国で大展開されたビジネス・マインドが、日本でも国の |
トップから政・財界挙げてがむしゃらに信奉者を増やして、その挙句が『構造改革』 |
の呼び声と共に、規制緩和や民営化が実行に移され、在来の秩序ある諸制度がごちゃ |
混ぜにされて、見るも無残にぶち壊され、元には戻れないようにされたばかりか、新 |
たに大きな社会問題を生み出しつつ、世の中のいろいろな分野の仕組みが歪められて |
る。筆者はこのことをただぽけっと指を咥えて見ている訳には行かないと思うのであ |
る。筆者には、米国の住宅金融債権から始まり、各種の金融デリバティヴ(派生商品) |
の統合、分離、組み替えなどを繰り返して、責任も義務も相手構わず移し変えて、こ |
れが恰も近代的な取引のシステムであり、新しい仕事をするときの最も巧みな、斬新 |
な方法でもあるかのように一人歩きして、折角軌道に乗り始めていた良い意味での発 |
展途上国をも含めたグローバル化戦略を打ち砕いているように思えるのである。現に |
その結果、大変な格差社会と非効率な自由競争(謳い文句は『自由競争』であるが、 |
外枠を偏差値と格差、格付けで埋めた中での形ばかりの競争)が生まれ、少しじっく |
り考えれば、明らかに見せかけであることが見抜けるのに、いとも易々と『市場原理 |
主義』とかいう訳の分らぬ不可思議な言葉によってカムフラージュされた『新自由主 |
義』の下で制御不能になってしまった、と言えるのではないでしょうか。 |
筆者には幸いアメリカ合衆国の住宅金融問題から破綻が始まった金融資本主義の時 |
代は漸くその終焉を迎えそうな情勢にあると思われるので、世界各国の為政者も財界 |
人も、国民も総力を上げて実情をゆっくり見直すことが出来る絶好の機会が訪れたと |
思いたいのである。もう少し堅実に努力が実り、真面目に物を作り、サービスを生む |
時代が訪れることを心待ちにしたい。いずれにせよ、筆者は新自由主義だの、成果主 |
義だの、はたまた市場原理主義に悩まされる時代は終わりにしたいと心底から願う者 |
である。 (2008年12月8日 記) |