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三浦さん(クライネシャイデックにて) |
私は昭和43年(1968)4月に東京計器製造所に入社し、 |
| 電子機器部レーダー検査課に配属されました。 |
| その後、研究所、トーテックを経て、企画室に配属さ |
| れ、平成2年(1990年)バブル絶頂期に空調の子会社 |
| トキメックランディスギア(後のトキメックビルシステ |
| ム)に出向いたしました。 |
| バブルの崩壊など苦しい時期がありましたが、何とか |
| 会社を再建させ、2000年にトキメックビルシステムが松 |
| 下電工に譲渡され、新しい会社に生まれ変わりました。私は2001年に同社を退職し、 |
| 曲折がありましたが、2002年10月から愛媛県今治市に本社のある四国溶材鰍ノ勤務し、 |
| 社員の能力開発のシステム作りを担当いたしました。同社には4年5ヶ月在職いたし |
| ましたが、62歳になったのを期に2007年2月末退職いたしました。 |
| OB会の各位にはトキメック在職中大変お世話になり、有難うございました。 |
| 四国は私にとってほとんど縁のなかった場所であり、右も左も判らなかったのです |
| が、住めば都で今では今治にいた4年5ヶ月を大変懐かしく感じています。たまたま |
| 今治市にはトキメックの今治営業所があり、現職の方々とも交流を図ることが出来ま |
| した。トキメックOBの重鎮大滝さんをはじめ沢山のトキメック時代の知人が今治を |
| 訪ねて頂き楽しい時間を持つことが出来き大変感激いたしました。 |
| トキメックの社員、OB会の皆様にも今治勤務経験者や今治地区出身の方がいらっ |
| しゃいます。私はまったくの偶然で今治勤務をした訳ですが、たまたま縁があって生 |
| 活をした今治という街を皆様にご紹介いたしたく寄稿させていただきました。 |
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今治城 |
今治市は愛媛県の県庁の所在地である松山市の東に位 |
| 置し、瀬戸内海に大きく飛び出ている高縄半島の先端に |
| ある街である。廃藩置県の直後には今治県という県が置 |
| かれ、県庁所在地であったが、その後、愛媛県となり、 |
| 松山市が県庁所在地となった。 |
| 今治市は瀬戸内海の中央に位置し、古くから海運で栄 |
| えた街である。瀬戸内海といえば潮の満ち干の激しさと |
| 渦潮が有名である。特に四国の今治から本州の尾道にか |
| けての瀬戸内海は中小の島が点在し、その複雑な地形の織り成す複雑な潮の流れがあ |
| り、昔から航海の難所として有名である。そういった地理的条件の中で村上水軍や越 |
| 智水軍といった海を取り締まる領主が存在していたことは良く知られている。 |
| 話しは横道にそれるが、この地には越智、村上といった姓の人が多い。病院に行く |
| とカルテを整理する棚があるが、そこを見ると「アイウエオカキクケコ」のように苗 |
| 字の頭文字が棚に一文字づつ書かれているが、なんと「アイウエオ」の「オ」の次が |
| 「カ」ではなく「越智」となっている。 |
| また、街で男の人に会うと社長と思えといわれるくらい社長の多い街でもある。そ |
| の理由は古くから海運が栄え、造船所も多かったため、自分で船を作り、それを用船 |
| するという商売が生まれ、船を一杯作るたびに会社を作り、社長が誕生していく、と |
| いうものである。さすがに金融の街といわれるだけあって、その面目躍如たるものが |
| ある。 |
| また今治という街は「本四架橋」の内の一つ「西瀬戸道路」(通称、しまなみ海道) |
| の四国側の玄関口である。この街の主要な産業はというと日本一のタオルの生産であ |
| り、また造船(これも多分日本一になっていると思われる)である。
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| 今治に来て初めて判ったことであったが、造船業界が |
進水式 |
| 大変な活況である。造船は重厚長大を代表する産業であ |
| り、かつては大手も参入し、日本の基幹産業であったが、 |
| 何度かの造船不況を経て、また韓国などの新興国の台頭 |
| もあり、かつての造船大手は次々と業界から撤退して |
| いった。今やその大手を凌駕し、世界を代表する造船会 |
| 社が今治にある。 |
| 安い労働力を確保し、積極的な設備投資を行うことに |
| よって韓国などとの国際競争力もつき、造船王国復活の様相である。近年の中国の急 |
| 速な経済成長は北京オリンピック開催の決定で益々弾みがつき、世界の工場と化した |
| 中国から全世界への荷動きは急速に増加している。新造船建設の需要は高く、各造船 |
| 会社のドックは3〜5年は満杯であるとのこと。東京にいては判らない今治という地 |
| 方都市における特需景気に驚いた。 |
| 造船は所有しているドックの数で生産量(売上高)が決まる。瀬戸内、特に今治は |
| 島が多く、結果として海に面している面積が多いので、造船にてきした所であり、多 |
| くの中小造船所が集まっている場所である。大手の造船所は受注した仕事を早くこな |
| すため、近辺の中小の造船所を買収し、ドックの数を増やしている。このことは結果 |
| として地域の経済を活性化させているはずである。 |
| かつて私が若い頃一度だけ四国に行ったことがあるが、そのとき訪問した造船所は、 |
| その後、幾多の変遷を経て、新経営体制のもと、思い出の残る同じ場所で今治造船会 |
| 社として、もう一つの雄として生まれ変わっていた。 |
| 造船会社を主な顧客としていたが、私の入社時に77億円の売上規模の会社であっ |
| たが、毎年増収増益を重ね、5年後の退職時はなんと年商150億円にまで成長した |
| のである。 |
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| 3.タオル業界 |
| 今治は日本一のタオルの産地である。歴史を遡ること100有余年、明治27年(1894 |
| 年)、阿部平助が綿ネル機械4台を改造し、タオルの製造をはじめたのが始まりとい |
| われている。明治30年代には何人かの人達がタオル産業に参入するようになってきた |
| が、当時の今治タオルは、技術が幼稚で品質も悪いものが中心であったようである。 |
| 明治43年(1910年)に麓常三郎が平織物用の機械をタオル織機に改造して、タオル |
| を同時に二列織ることのできる麓式二列織機を考案し、効率が倍以上になった。改造 |
| が簡単だったこともあり、タオル転業が増えていくことになる。 |
| その後、幾多の改良開発、変遷を経て、大正10年(1922年)には、大阪に続き、タ |
| オル生産高が全国第2位に成長している。設備の近代化、デザインの向上、アパレル |
| 製品の活用などの努力により、戦後、今治市は全国一のタオル産地となった。 |
贈答用タオル |
暫くはタオル業界の隆盛が続いたが、中国の近代化と |
| 工業の発展により、安いタオルが輸入されるようになり、 |
| 今治のタオル業界は大きな打撃を受けることになる。 |
| かって戦後の日本が急速に工業発展を遂げたとき、最初 |
| の日米貿易摩擦になったのも繊維関係の業界であったこ |
| とを考えると、衣食住の一角を成す、繊維関係の工業は |
| 近代化の魁なのであろう。 |
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| 糸の取り扱量が6万梱(こおり)(180キロが1梱)以下になると産地が産地でな |
| くなると言われているが、今治の糸の取扱量は1991年当時30万梱だったのが、現在は |
| 10万梱しかなくなっている。1990年に14.8パーセントだった輸入浸透率(全品のなか |
| にしめる輸入品の割合)は2003年には72.2パーセントに激増し、今治のタオル関係の |
| 企業数は390社から185社へ、染色工場の数も最盛期は24社有ったのが10社程度に激減 |
| している。従業員は6,533人から3,498人へ、生産量は48,710トンから16,239トンへと |
| 激減し、タオル業界は産地崩壊の危機になっている。 |
| タオル会社各社は人件費の安い中国に工場を移転させ、コスト競争力をつけたり、 |
| 品質や納期管理での差別化で輸入品に対抗しようとしているが、業界の規模の縮小は |
| 否めない。 |
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| 4.来島海峡の魚 |
| 今治は愛媛県の瀬戸内海にこんもりと飛び出た高縄半島の先端にある小都市である。 |
| 愛媛県外の人が今治市のことをどの程度知っているか定かではないが、思いつく今治 |
| のキーワードは「高校野球」「タオル」「橋が架かっている場所」といった所であろ |
| う。私もかつては今治に対する知識は殆ど無かったが、世間一般には今治市の認知度 |
| はそれ程高くない。愛媛県の旅行者調査によると、愛媛に旅行した人の内、今治地域 |
| に旅したは人たった7.8パーセントとのこと、愛媛といえば松山、道後なのである。 |
| 今治市は古くから瀬戸内海の阪神と九州を結ぶ航路の中央に位置するため、商工業 |
| ・交通、文化の要として発展してきた。古墳時代の遺跡も沢山有り、デベロッパー泣 |
| かせの地である。開発中に土器や遺跡らしきものが出土し、建設を遅らせた例も多々 |
| ある。奈良時代には国府・国分寺がおかれ、戦国時代には全国に名高い村上水軍が活 |
| 躍した。17世紀初めには関ヶ原の戦功により藤堂高虎が20万石で封じられ、今治城が |
| 築かれる。江戸時代は久松家がこの地を統治し、明治時代の廃藩置県の際には今治県 |
| として4ヶ月間、石鉄県として1ヶ月間、今治に県庁がおかれたこともあったが、そ |
| れはつかの間の夢で、すぐに県庁は松山に移された。 |
| 2005年に市町村合併が行われ、周辺の町村と島嶼部が今治市に併合され、今治市の |
| 人口は約18万人になった。海岸部の白い砂の長い汀と緑の松林のコントラストが美し |
| く、海水浴に最適。また、来島海峡の急潮の景観や中世の石造文化の遺跡、春祭の継 |
| ぎ獅子など観光資源も豊富である。 |
| 今治出身の有名人というと、東京都庁を設計した丹下健三、オペラ歌手で日本初の |
| プリマドンナ今井久仁恵、日本画家の智内兄助やイラストレーター空山基、ジャズ |
| トランペッターの近藤等則、古いところでは立川文庫の創設者山田敬などがいる。 |
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| 今治の街並みを眺めると、料理屋の数が異様に多い。今治市と大島の間に来島海峡 |
| という瀬戸内海第一の航海の難所がある。鳴門海峡に負けず劣らず、潮流が速い。 |
来島海峡の渦潮 |
春秋の大潮の時には10ノット以上の潮流となり、直径10 |
| メートル以上の八幡渦が発生する。この海峡が今治市に |
| 料理屋が多い一因を担っている。 |
| 来島海峡は鯛やアコ、瀬戸の小魚を初めとする瀬戸内 |
| 海の美味い魚の宝庫なのである。魚は来島海峡の潮を乗 |
| り切るために身体の各部を激しく動かさなくてはならな |
| い。そのため、魚の身が締まる。潮に鍛えられた魚が美 |
| 味しくなるのは当然の理。フィットネスクラブのような |
| 存在が来島海峡なのである。同じ愛媛県でも南予や伊予灘、新居浜とは味が違う。県 |
| 内では来島の魚はブランド化している。こうした瀬戸内海の美味しい海の幸が容易に |
| 手に入ることが料理屋の興隆を促したのではないかと考えられる。 |
| 弊害もある。美味しい材料のため、料理に手を加えることをしなくなったこと。懐 |
| 石料理のように料理人の工夫と手技を加えることが今治では少ないのである。また、 |
| 刺身は新鮮な、弾力のあるものでなくては喜ばない。魚はコリコリ賭していないと駄 |
| 目なのである。魚を寝かせるとアミノ酸が増え、旨味が増す。しかし、今治では生簀 |
| 殻上げたばかり、魚の身体が動いているような活造りが尊ばれる。寿司ネタも同じで |
| ある。従って、江戸前の寿司の美味しさが今治の寿司には無い。 |
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| 5.やきとり |
| 今治のもう一つの特徴は焼き鳥屋さんが多いことである。自称日本一と言っている |
| が、他にも日本一と称している街もあるので、真偽のほどは定かではないが、街中に |
| 焼き鳥屋さんが沢山有る。今治に現在のような鉄板焼き鳥の店が誕生したのは昭和36 |
| 年頃のようである。旭町にある「五味鳥」が元祖らしい。以前から、せんざんき(今 |
| 治では鳥のから揚げをこう呼ぶ)で有名な「スター」という店があったが、そこは焼 |
| き鳥はメインではなかった。「五味鳥」が新しい発想で焼き鳥店を始めるまでは、焼 |
| き鳥を中心に営業していた店はなかった。焼き鳥を鉄板 |
美味しいやきとり |
| で焼くというアイデアは、定説を翻すという意味で、天 |
| 動説の定説を翻し、地動説を唱えたコペルニクス的発想 |
| と言えるかもしれない。このように「五味鳥」は偉大な |
| アイデアと味を今治にもたらした。炭焼や直焼だと時間 |
| がかかるが、鉄板で焼くとお客へのメニュー提供時間が |
| 短くできる。しかも、個性的で美味しい、ということで |
| 爆発的な人気を呼んだ。当時、「五味鳥」の前には人の |
| 列がとぎれることがなかったという伝説がある。 |
| 今治は昭和初期から立花村・日高村などで養鶏が盛んだった。昭和30年に3万羽だ |
| った飼育数が昭和45年には5倍強の16万羽に達している。昭和35年頃からブロイラー |
| の生産が始まっている。こうした今治市の環境が焼き鳥屋の美味しい食材の確保に役 |
| だった。 |
| 「五味鳥」の人気に刺激され、続々と鉄板焼き鳥屋が誕生した。設備投資が少なく |
| て済み、特別の技術がいらない焼き鳥屋は素人でも参入しやすかった。当時誕生した |
| 店は「八味鳥」「百味鳥」など「五味鳥」を参考にしたネーミングが多かった。各々 |
| の焼き鳥店が味と個性に研鑽を重ね、昭和40年代には「五味鳥」「無味」「八味鳥」 |
| 「鳥林」が焼き鳥四天王と称された。それぞれが独特の味を持ち、店の個性を全面に |
| 出してサラリーマンや自営の人たちの憩いの場となっている。 |
| 老舗といわれる鉄板焼き鳥屋では、長い歴史を感じる店舗のたたずまいと焼き方、 |
| そして店主の味のある対応振りや人柄で根強いファンを獲得している。若い人たちの |
| 来店も多い。同じことをずっとやってきた人は強いし、個性的だ。40年の歴史を通じ |
| て発展してきた今治の焼き鳥は時代の流れにどの様に対応していくのであろうか、今 |
| 後が楽しみである。 |
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| 6.無 尽 (むじん) |
| 無尽(?)という言葉は日本では殆ど死語になっているのではないだろうか? |
| 昔子供の頃商店街で、なにやら四角い箱を持って各商店を回りながら、中に現金を入 |
| れていたのを見たことがあるが、それを無尽といっていたような気がする。 |
無尽の会 |
今は時代が変わったが、実は、今治はこの無尽が大変 |
| 盛んであり、各企業、仲間、友人、知り合いなど色々な |
| 単位で無尽の集まりがある。内容は、グループを作り、 |
| 定期的に幾ばくかの金を掛け、入り用の際に資金を融通 |
| するというもの。形式は様々であるが、入札制が基本で |
| ある。興味深いのはその入札の規則である。 |
| 例えば10人の仲間で毎月1万円掛けの場合、10万円の |
| 掛け金をメンバーで入札を行い、一番少ない入札金額の |
| 人がお金を手に入れる、というのがこの無尽の仕組みとなっている。入札を面白くす |
| るために、入札金額が1番高かった人や入札金額の2番目の人から罰金を取ったりし |
| 楽しんでいるらしい。 |
| また、無尽はタダ単に金融のためだけではなく情報交換・情報収集の場として利用さ |
| れメンバーの親交をあたためるとともに貴重な情報を手に入れる絶好の機会という訳 |
| である。 |
| 今治市の有象無象の情報は無尽で伝わると言っても過言ではなく、近所の話題や業 |
| 界での出来事、会社の経済状態、果てはメンバーの知っている人物評までありとあら |
| ゆることが無尽の場で話され、まさに地域情報の増幅機として、情報が広がっていく。 |
| この無尽は、お金が急に必要になった時に活用できるため、事業主や自営業者に |
| とって大変有り難いシステムである。銀行よりも早く必要な金を手に入れることが出 |
| 来るのがなんと言っても嬉しい。「石を投げれば社長さんに当たる」といわれるほど |
| 小さな会社が多い今治では無尽は欠かせないものとなっているとか。 |
| もう一つ興味深いのは、実は今では常識になっている月賦販売の発祥の地も今治で |
| あるということである。月賦の発想はこの無尽から思いついたというのが定説らしい。 |
| 桜井漆器という会社は無尽講を結成してもらい、漆器を先渡しして、掛け金を集金し |
| て廻ったのが、これが日本初の月賦となったということである。 |
| 無尽の盛んな都市はほかにどこがあるのかを調べてみると、今治以外に山梨県甲府 |
| 市、福島県会津若松市が盛んだということが判った。これらの地域では、大人の男性 |
| の大半が「無尽講」「積立無尽」「ゴルフ無尽」「旅行無尽」に参加し、情報交換の |
| 場としているらしい。 |
| かつては各商店街で行われ、盛んであった無尽であるが今でも残っている地域は大 |
| 変少なくなっているのは金融機関の発展によるものだろうと思われるが、それによっ |
| て情報交換の場、楽しみの場がなくなっていくのは寂しい限りである。 |
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| 7.その他 |
| 東京ではどこに行っても都銀があるのは当たり前であり、またコンビニに行けば24 |
| 時間お金の出し入れができる。私はこちらに来る前は、今治も当然そうだろうと |
| 思ってきたのであるが、それはとんでもない話であった。四国中探してもほんの一 |
| 部にしか都銀の支店はない。都銀網が整備されていないということは、つまり四国 |
| では都銀は機能していないということである。中央では当たり前の金融商品も、こ |
| の地方には提供されていないとなれば、伝統的な無尽の必要性がまだ残っているの |
| も、なるほどと納得である。 |
| その他、無尽とは関係がないようであるが、これら地方都市の共通点としては、中 |
| 央志向である反面排他的である、性格は明るい、交通マナーが悪いなどがあげられ |
| る。これらはなるほど地方都市らしい特徴である。中央志向である反面排他的はど |
| の地方都市にも共通したマインドであろう。市内には知り合いが多く、大都市に比 |
| べれば、隣近所と血の通ったコミュニティーを作っており、性格は明るくて親切で |
| ある。 |
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信 号 |
交通マナーの悪さは実は、 |
| 私にとっては意外であった。 |
| 今治に来て車を運転してい |
| て最初に驚いた点である。 |
| 曲がろうとしても走ってく |
| る車は絶対入れまいとして |
| スピードを上げて走ってく |
| る、ウインカーを出して車 |
| 線変更の意思表示をしていても、譲ろうとせず近づいて来る。極め付きは交差点に |
| 右折車がいるときのマナーの悪さである。 |
| 直進して交差点に入り対向車が右折しようとしている場合、もしその時信号が黄色 |
| に変ったら、通常なら進めるタイミングであっても対向の右折車に気の毒と思って |
| 直進車は止まるのがマナーであるが、そんな気持ちは全くない。黄色は当然進む、 |
| 赤に変ってもまだ交差点に入ってくる、といった具合であり、右折車は結局交差す |
| る車線が青になる頃にやっと右折できるという様である。 |
| 東京はどこに行っても渋滞が多く、皆に「少しでも交通の流れをスムーズにしよう」 |
| という考えが浸透しているのだということと、「東京の交通マナーの良さは世界一」 |
| ということが、こちらに来て初めて実感できた。 |
| マナーの悪さというのは気の毒であるが、地方都市は車社会であり、年寄りも沢山 |
| 運転している。横道から割り込んできてゆっくり走っている、ウインカーを出さず |
| に曲がるなどは日常茶飯事であるので、かなり神経は使う。 |
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| 7. お遍路さん |
お遍路さん |
四国といえばお遍路さんである。88ヶ所の霊場を回り、 |
| 自分の願いを祈願する巡礼の旅は古くから行われている。 |
| 今でも毎日沢山のお遍路さんを見ることが出来る。 |
| 「四国88ヶ所霊場めぐり」の起源は、今から1,200年前、 |
| 弘法大師が42歳のときに人々の災難を除くために開いた |
| 霊場が四国霊場といわれており、後に大師の高弟が大師 |
| の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりと伝えられて |
| いる。人間には88の煩悩があり、四国霊場を88ヶ所巡る |
| ことによって煩悩が消え、願いがかなうといわれている。徳島阿波(発心の道場1番 |
| から23番)、高知土佐(修行の道場24番から39番)、愛媛伊予(菩提の道場40番から |
| 65番)、香川讃岐(涅槃の道場66番から88番)に至る1,450キロを巡拝する四国遍路は |
| 昔も今も人々の人生の苦しみを癒し、生きる喜びと安らぎを与えてくれる祈りの旅な |
| のである。 |
| 今治には88ヶ所のうち、54番近見山延命寺(宝鍾院)、55番別宮山南光坊、56番金 |
| 輪山泰山寺(勅王院)、57番府頭山栄福寺(無量寿院)、58番作礼山仙遊寺(千手院)、 |
| 59番金光山国分寺(最勝院)の6ヶ所の札所がある。一つの市に6ヶ所の札所がある |
| のは、これは四国の中でも多いほうである。四国を知るには、お遍路さんや88ヵ所に |
| 付いての知識は大変大切である。この機会に、常識的な部分をまとめてみよう。 |
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| B 弘法大師 |
弘法大師 |
| 弘法大師(774〜835)は「空海」として広く知られ、 |
| 「お大師さま」の名称でも親しまれている。高野山の開 |
| 創者で、広く密教の教えを多くの人々に導いた。密教の |
| 宗派の一つである真言宗を開祖し、遍路で行われる参拝 |
| 作法は密教真言宗のものを基本としている。大師は讃岐 |
| の国(香川県)の出身で、善通寺(75番札所)が誕生寺 |
| として有名である。青年期には、四国の山中海岸、太龍 |
| 岳、室戸岬、石鎚山などで山道修行を行うことで虚空蔵求聞持法の智恵を得たとさ |
| れ、このことが四国遍路の基礎の一つとなっている。「虚空蔵求聞持法」は真言を |
| 100万回唱えると、すべての経典を暗記種の記憶術であったらしい。 |
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| C 順打ち、逆打ち、区切り打ち |
| お遍路では札所を巡る順番に決まりはない。お遍路で札所にお参りすることを「打 |
| つ」といい、四国を時計まわりに巡ることを「順打ち」、反時計まわりに巡ることを |
「順打ち」と「逆打ち」 |
「逆打ち」とう。一般的には「順打ち」が基本とされて |
| いるが、弘法大師が順打ちで四国を巡っているので逆打 |
| ちのほうが大師に出会いやすいということと、遍路道が |
| 順打ちを基本として作られている為、逆打ちのほうが巡 |
| 礼することが難しいとされている為に「逆打ち」の方が |
| 功徳が大きいと言われているそうである。実際に遍路道 |
| では案内板や道標が順打ちを基本に設置されている為、 |
| 逆打ちは初心者には巡りにくい。 |
| | | |
| D「納札」と「納経帳」 |
| 遍路では各札所で「納札」(おさめふだ)を納め、「納経帳」(のうきょうちょう) |
| に印をもらいながら四国を巡る。「納札」は手のひらほどの紙札に氏名を書き、各札 |
| 所の本堂と大師堂におさめ |
納 札 |
納 経 帳 |
| るというもので、これは |
| “碑伝”という参拝慣習に |
| 由来していると考えられて |
| いる。この慣習は自分が参 |
| 拝した証を残すためのもの |
| で、これを多く残すことが |
| 功徳だとも考えられていた。 |
| 本来は木柱を立てたり、木製や銅製の札を打ち付けたりしていたのだが、現在は建物 |
| の保護のために紙の札をおさめるという形をとっている。 |
| 「納経帳」は何も書かれていない冊子に各札所で黒書と朱印をいただくというもの |
| で、これはお寺にお経をおさめた証としてその寺の印をもらうというものである。多 |
| くの印がある納経帳はその巡礼者の徳をあらわし、また、そういった納経帳自体が御 |
| 利益を持つとされている。 |
| いずれも現在に残る慣習であるが、現在では、お遍路そのものが人気化し、その意 |
| 味が失われつつある。お経をおさめることはおろか、お堂に手を合わせることすらな |
| く、単に納経帳に印を集めるような観光的な遍路も多くなっている。しかし、“遍路 |
| はお心”と言われ、それぞれに合った遍路をすればよい訳であるから、寺々を巡る以 |
| 上、仏道への礼節を尊重したいものである。 |
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| E「お接待」 |
| 遍路の道中、見知らぬお婆さんが「お茶でもどうぞ」と招いてくれるようなことが |
| ある。これは巡礼者に施しをする古くからの慣習であり、これを「お接待」と言う。 |
| 「お接待」には食べ物や飲み物などを施したり、[接待所]と呼ばれる休憩所を開放し |
| ていたり、[善根宿]として遍路に宿を提供するなど、その形態は様々である。これら |
お茶をどうぞ! |
の手厚い「お接待」は地元の人々や他県の接待講の人々 |
| の尽力により無償で行われている。もし、こういった |
| 「お接待」をいただくときは、「南無大師遍照金剛(ナ |
| ムダイシヘンジョウコンゴウ)」の宝号を唱え、納札を |
| 手渡す。基本的に「お接待」は出来るだけ受けるべきで |
| あるとのこと、その理由は「お接待」は「行けない私の |
| 分まで宜しくお参り下さい」という代参の意味があり、 |
| 「お接待」自体が施す人の行でもあり功徳となるからと |
| のことである。従って、参拝するときは、「お接待」を施してくれた人の分までお参 |
| りするという気持ちを持って参拝する意識が必要である。 |
| 「お接待」の好意の裏には地元の人々の人知れぬ尽力と苦労があるはずであり、 |
| 「お接待」を受ける時には、その人々への感謝と敬意を忘れてはいけない。今は車社 |
| 会であるから、道中で、車に乗っている人が「お接待いたします。お乗りください」 |
| と車で送るという申し出があることも考えられるが、もし、全てを歩いてまわろうと |
| 決めている時には、正直に「歩くことを行としております」と言って断ることはかま |
| わない。 |
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| 8. 離婚の多い街 |
| 今治は四国でも際立って離婚の多い街といわれている。 |
昔はお互いに愛していたのに! |
| その理由は他の地域に比べて今治は女性の働く職場が沢 |
| 山あるかららしい。なるほどと納得する理由であろう。 |
| 愛媛県は東予、中予、南予という3つに分けて呼ばれ |
| ることが多い。今治、西条、新居浜などの工業地帯は東 |
| 予に属している。中予は松山を中心にした商業地域であ |
| る。南予は海にも面しているが、山岳地域も多く、農業 |
| が中心の地域であり、この方面の離婚率はかなり低いら |
| しい。 |
| 今治には伝統産業もあり、また多くの優良な会社があるのが大きな特徴である。た |
| だ、今治市が他の都市と比べて特徴があるのはこれらの優良企業のほとんどが非上場 |
| のオーナー会社であるということである。いまや大手を凌駕している造船会社も非上 |
| 場のオーナー会社である。 |
| 優良会社があればその周りには相乗効果で更にそれらを支える産業が生まれている。 |
| 従って、南予と比べれば市内で就業できる機会ははるかに多くなり、離婚しても自活 |
| できるのは確かである。 |
| しかし、他の地域よりも優良企業が沢山あって、伝統産業があっても、町全体のた |
| たずまいに何かすっきりしないものが残る。何故、旧商店街はあんなに寂れたままに |
| なっていて、街に活気がないのであろうか? 何故、新都心計画は宅地造成になって |
| しまったのだろうか? 何故、今治駅前は更地の駐車場ばかりなのであろうか? |
| 2年程前に或る会合の講演で、愛媛県の市の比較をした話を聞いたことがあるが、 |
| その講師の人が「今治は新居浜に次ぐ愛媛県、第3の都市ですが(市町村合併後新居 |
| 浜を抜き第2の都市になった)、もっと小さい宇和島市の方が街に活気があるような |
| 気がします」と言った話が印象に残っている。 |
| オーナー会社の論理と、この街に住んで働いている人の論理は、当然利害は一致し |
| ないから、違うはずである。オーナー会社の経営者は行政とは近いところにいる訳で |
| あるから、政策運営や行政はこれらオーナー会社の経営者の意向がかなり反映されて |
| いるのではないかと考えるのが自然であろう。 |
| 他の地域も、その地域の実力者の思惑によって政策が決められ、実行されていく訳 |
| であるが、優良なオーナー会社が多いという、今治の特徴が、その特徴を守るために |
| 宇和島などの他の都市と違った形で政策面に現れているのではないだろうか? |
| | | |
| 1. 観光の目玉は道後温泉だけか |
| 私は、行きつけのお店で時々、持論を展開している。 |
| 「観光は松山と今治を一緒にしてはいけないと思います。今治に来た人は今治に泊 |
| まってもらいましょう」熱っぽく語るが、今治の人の反応は決して芳しくない。 |
| 「道後に行かなければ宿泊施設がないじゃないですか。 |
今 治 城 |
| 道後温泉には、繁華街があるけど、今治は夜出かける場 |
| 所もないので誰も泊まりませんよ」 |
| でも観光客の求めているものは本当にそうなのだろう |
| か?テレビで見たことがあるが、旅行のイニシアティブ |
| を持っているのは、中高年の女性だとのこと。旅行の目 |
| 的についてのアンケート調査の結果は「温泉に入って、 |
| 美味しいものを食べる癒しの旅」が9割以上の圧倒的支 |
| 持を得ているのである。皆が旅行に行きたいと思っているのはひなびた温泉で、その |
| 地方の美味しい物を食べる癒しの旅である。 |
| 道後温泉は日本最初の温泉であり、100年前に夏目漱石が書いた小説「坊ちゃん」の |
| 舞台になった有名な温泉地である。昔を懐かしんで、明治の風情を求めて道後温泉を |
| 訪ねるのも大変価値のある、意義深い旅行であろう。同じ県人としてそれはそれで是 |
| 非応援したいものである。 |
| でも、実は今治も大変優れた観光地なのである。全国区の道後温泉に引けを取らな |
| い、全く質の違う観光地が今治にはあるということを是非全国にアピールしたいと思 |
| っている。道後温泉ツアーの中に“しまなみ海道”があるというだけではなく、「今 |
| 治の観光は自然です。そしてそれを最大限に生かすのは時間です」を合い言葉にした |
| 新しい、今治を中心にした、敢えて言えば「道後温泉」というフレーズの出てこない、 |
| 癒しの旅の場としての「観光地今治」を是非全国に認知させたいと思っている。それ |
| では、以下に私と友人が体験した素晴らしい「観光地今治」を紹介しよう。 |
| | | |
| 2. しまなみ海道の自然 |
糸山公園から見た来島大橋 |
2006年6月24日(土) |
| (満潮:9時03分、干潮:15時36分、日没:19時23分) |
| 梅雨の合間の晴れた休日であった。朝9時に国際ホテ |
| ルを出発した私たち一行は、まず今治城に行った。 |
| 最高の観光日和であるが、観光客とおぼしき人たちはほ |
| とんどいなかった。お堀の傍のお城が美しく見える場所 |
| で記念撮影をした。大浜での美しい来島大橋眺め、糸山 |
| 公園にある来島大橋記念館では時を忘れて海峡を行き交 |
| う大型船を眺めていた。航海の難所といわれる来島海峡は船の動きが複雑である。大 |
| きく回っていく船、小型の船はまっすぐ進んでくる。東京から来た私の友人は、瀬戸 |
| 内海の美しさに目を奪われている。 |
| 小高い山の頂上にある海山城からの眺めは360度、どの |
海山城展望公園 |
| 方角にも海が見える、これは自然の織りなす妙であるが、 |
| 海山城は島ではないが高縄半島の先端に近いところに位 |
| 置し、ほぼ360度の方角に海を眺めることが出来る場所に |
| 位置しているのである。近見山が間近に見える、まさに |
| 大パノラマであった。見晴らしのいい場所なので昔は |
| 「のろし」の中継地としても使われたらしい。登り口に |
| あったヤマモモの木がたわわに実をつけている。「ヤマ |
| モモは焼酎漬けにすると良い」と誰かが言った。それではとビニール袋を持ってきて |
| みんなで協力して実を摘んだ。 |
| 「しかし、こんなに観光地が整備されているのに人が少ないね」と友人は観光客の |
| 少なさが不思議そうであった。東京は良い場所に行くとどこも沢山の観光客が来るが、 |
| 残念ながら今治は観光地としての認知度が低いのである。 |
| | | |
| ≪ “進 水 式”を 見 学 ≫ |
| 「今治は造船が有名だから造船所を見てみたいな」という友人の希望で、造船所に |
| 行くことになり、私は、また元の道を戻って、ところ狭しと、造船所が密集している |
| 造船所村へと一行を案内した。一番奥の造船所に行くと、 |
進 水 式 |
| なんと今日、進水式があることが判った。私は知り合い |
| の総務部長さんにお願いし、一行は特別席で進水式を見 |
| 学することが出来た。巨大な船体をかろうじて止めてあ |
| る細い糸を女性が儀式用のナタで切った瞬間、シャンパ |
| ンが割れ、ビルよりも大きなその構造物はジワジワと動 |
| き始め、ゴーゴーという音を立てて海に向って滑って |
| いった。初めて見るこの壮大で豪快な進水式に友人は声 |
| を失い感動した。大きな船体は海へと滑っていった。 |
| 小さなタグボートが来て船の向きを変え、大きな船体を所定の位置へと操っている。 |
| まだ興奮の余韻がさめないが、そろそろ昼食の時間である。 |
| 一行は予約していた日本料理店に行き、今治の美味しい魚と鯛飯を食した。これか |
| ら12時丁度の大島行きフェリーに乗らなければならない。今治から大島には来島大橋 |
| がかかっているがフェリーに乗ることにしていたのである。私は、みんなを促し、車 |
| に乗ってフェリーターミナルに向かった。たった30分足らずのフェリーの旅であるが、 |
| 晴れて静かな瀬戸内の海の雰囲気を満喫し、来島大橋の美しさを見ている間にあっと |
| いう間に大島に着いてしまった。 |
| 名駒、千年松という民宿を案内し、宮窪へ向かった。海から山道に入ったところに |
| 鈴なりの枇杷があった。みんな小振りで、到底売り物にはならない代物であったが、 |
| 食べてみると売り物の枇杷よりも味も濃く美味しいことが判った。またビニール袋を |
| 探し、帰ってからのデザートにと少量を収穫した。 |
| | | |
| ≪ “潮 流”の 体 験 ≫ |
| 私は手帳を見た。今日の満潮は午前9時頃、干潮は15時半頃という、予め調べて |
| あった潮の満ち干の時間のメモをもう一度確認した。 |
| 潮流体験のベストタイムは干潮の約2時間半前である。午後1時に潮流体験のチケ |
潮流体験 |
ットを買った。「今日はいい写真を撮れますよ」潮流体 |
| 験を世話している地元の漁師さんが言った。初めて体験 |
| する一行はワクワクする気持ちを抑えて、漁船に乗り込 |
| んだ。 |
| 船は鯛崎島の右を回って能島に向かった。ここは昔村 |
| 上水軍の居城があり、昔は鯛崎島と能島は橋で繋がって |
| いたらしい。海が音を立てて流れている様を初めて見た。 |
| 「これが海?」まるで渓流の流れのような潮の流れを |
| 見て、みんな驚いた。しかしこれはまだ潮流体験のプロローグであった。 |
| 潮の大きな流れの中を船は能島を大きく一回りする。昔の居城の名残なのであろう、 |
| 武者走りという岩を削った道が見え隠れしている。右前方には伯方島と大島を結んで |
| いる伯方大橋が見える。能島を反時計方向に回りながら船は能島と鯛崎島の間の海峡 |
| に向かって進んだ。ここはまるで渓流の岩から水が流れているように、水の高さに段 |
| 差がある。船の前方から水(海水)が船に向かって流れている。正に蕩々と流れてい |
| る様である。その流れに向かって船は進む、左右の岩に |
潮 流 |
| は急流が波を立てて流れている。 |
| 一番高いところまで進んで船のエンジンを止めた。海 |
| の急流が船を後方に流していく、左右の景色が前方に流 |
| れていく様に、自然の織りなす感動に酔いしれた。再び |
| エンジンをかけて船は鯛崎島を左に見ながら進み出した。 |
| 昔、迷い込んだ鯨を助けたという謂われのあるお坊さ |
| んの像が鯛崎島の右の先端に見える。 |
| 鯛崎島を反時計方向に回りながら船はゆっくり進みだした。そこは急流ということ |
| ではないが幅の広い潮流が鯛崎島の向こうから絶え間なく流れてくる。潮流は波を作 |
| り、時々大きな渦が見え隠れする。初めて間近に見る渦の様にみんな「すご〜い!」 |
| の言葉の連発であった。浅瀬にある岩の形状などによって、こういった潮流が作られ |
船折瀬戸 |
るということであるが、聞きしに勝る、素晴らしい潮流 |
| 体験であった。 |
| 約20分ほどで船は港に戻り、私たち一行は伯方島に向 |
| かった。伯方インターチェンジを出て左折し、整備され |
| た綺麗な道を進むと5分ほどで「船折瀬戸」と書いてあ |
| る広い場所に着いた。先ほど潮流体験をした能島が右前 |
| 方に見えている。伯方島と前方の鵜島の間の狭い海峡が |
| 「船折瀬戸」である。ここの眺めも素晴らしかった。左 |
| の広い海から、この狭い海峡に向かってゴーゴーという音を立てて、潮流が蕩々と流 |
| れている。スケールの大きなダイナミックな眺めである。急流に逆らいながら船が進 |
| んできた。潮の流れが速いので進んでいる感じではあるが、背景の島に対する動きは |
| ゆっくりとしている。正に船も折れよとばかりの豪快な潮流であった。 |
| | | |
| ≪ 今治の素晴しさを実感 ≫ |
| 潮流体験のすばらしさと船折瀬戸の豪快さに、私たちは、 |
| 「今治はすごい観光地だよ」 |
| 「どうしてみんな松山なんだろう、松山にこんな素晴らしい自然はないよ」 |
| 「道後温泉は確かに行ってみたいけど、今治にも鈍川温泉や、湯ノ浦温泉があるし、 |
| 今治だけの、この自然と、美味しい魚が有るんだから、すごい観光地になるよ」と、 |
| 口々に今治の素晴らしさをたたえた。 |
| 伯方島の開山ではしまなみ海道に掛かる5本の橋の内 |
鈍川温泉 |
| 3本を見ることが出来る。ここは桜の名所で、桜の時期 |
| は人々で溢れるとのことであったが、晴れた週末の土曜 |
| 日にもかかわらず、この整備された素晴らしい展望台に |
| は他に誰もいなかった。 |
| このあと私たち一行は大三島の大山祇神社に行き安全 |
| 祈願をし、広島県の生口島に向かった。ここは島全体を |
| 美術館にというコンセプトで、島の色々な場所に芸術家 |
| が作ったモニュメントが点在している。そのうちの一つは私の大学時代の1年後輩が |
| 作ったモニュメントである。生口島南インターを出て尾道の方向に進んでいくと右に |
| 小学校があり、そこの浜辺に後輩の作ったモニュメントがあった。彼の創作の原点は |
| 「一筆書き」である。子供たちが喜ぶようにと思って作ったのであろう。そのモニュ |
| メントは海水浴の飛び込み台としても使えるように考えられている。それは見事に一 |
| 筆書きの美しさを生かしたものであった。 |
| | | |
| この島には、平山郁夫美術館や耕三寺があるが、これから本日最後のメインイベン |
| トが残っているので、私たち一行は、そこには寄らず、時間調整を兼ねて、今日、一 |
| 日をいやしながらアイスクリームを食べ一服した。「あれがひょっこりひょうたん島 |
| だよ」「昔NHKの放送でやっていたひょっこりひょうたん島?」、「本物の島があ |
| るの?」そんな会話に答える知識はなかったが「観光案内に書いてあったよ」と、言 |
| いながら生口島を一周し、生口島インターから高速に乗り、今治方面に戻り、今日の |
| 最終イベントに向けて大島へと車を走らせた。 |
亀老山から眺める来島大橋と夕日 |
私は「18時30分だ、日没まで約1時間有るから丁度良 |
| い時間だろう」と思いながら、大島の亀老山へと向かっ |
| た。山道を登っていくと急に左側が開け雄大な来島大橋 |
| が見えてきた。 |
| 「うわあすご〜い」 |
| また歓声が上がった。三連大橋と点在する島が眼下に |
| 見える。その向こうには日没1時間前の真っ赤に燃える |
| 太陽が輝いている。 |
| 「11月頃は太陽が丁度橋の方向に沈むので、ここはカレンダーの写真の撮影スポッ |
| トになっているらしいよ。そこにある、道から飛び出している柵は写真の撮影場所と |
| して特別に作ってあるらしい」 |
| 「この上に展望台があるから行ってみよう」 |
| 一行は日暮れ時の幻想的な景色を眺めながら、潮流体験に負けない感動を覚えた。 |
| 「三浦さん、今日は潮流体験といい、亀老山といい最高の時間に来たような気がす |
| るけど、予め調べていたの?」 |
| 友人は今日一日の素晴らしい感動を案内した私のアレンジに満足そうであった。 |
| | | |
| 3.時間も観光資源 |
| 今まで今治には観光バスがなかった。今治に来て観光 |
今治観光:高虎号 |
| をしたくてもその術が無くては、このような感動も限ら |
| れてしまう。2006年から市は今治観光のためにと「高虎 |
| 号」を走らせている。今治城、来島大橋記念館、野間馬 |
| ハイランド、タオル美術館を回るコースを走っているら |
| しい。しかし、友人が感動し、今治を見直したのはその |
| ような人工的に用意されたスポットではなかったのだ。 |
| 私と友人は、19時頃ホテルに戻った。街に出て、夕食 |
| を取り、今日一日の感動に話しが弾み、「三浦さん、今治はすごい!何故観光案内所 |
| に今治ツアーが無いのだろう? 」、「三浦さん、今の会社はあと何年? 退職した |
| ら東京に戻らないで、今治でツアーコンダクターをやったら。今日のようなコースは |
| 絶対みんな感動すると思うよ」。 |
| しまなみ海道を観光したときの友人の感動ぶりに、また私自身が体験した素晴らし |
| さに、私は日本のどこにも負けない今治の観光資源に確信を持った。今治に住んでい |
| る人はこの素晴らしさを体験したことがあるのだろうか。そういう私も東京で小さい |
| 頃から育ち、東京で働いていたが、東京の観光スポットはほとんど行ったことがない。 |
| | | |
| 今治の友人と話しをしても、みんなが口をそろえて言うのは、 |
| 「三浦さんの方が沢山色んな所に行っているね」 |
| という言葉である。余所者だから感じるのだろう。でも観光客はみんな余所者である。 |
| この素晴らしさに一度素直に耳を傾けて欲しい、是非一度自分で体験して欲しい。今 |
| 治市も観光振興に対する意識が高まってきているのは感じる。「高虎号」もその現れ |
| であろう。しかし、今のコースが今治の自慢なのであろうか? 定期的に毎日同じ時 |
| 間に回るのが良いのだろうか? 観光を振興するビューローもない今のままで本当に |
| 良いのだろうか? |
| 今治の見所は晴れた日の自然であり、眺めであり、大潮、中潮の時の干潮の2時間 |
| 30分前の潮流体験であり、日没前の亀老山なのではないだろうか。私は東京から来る |
| 友人のために素晴らしい今治を見てもらいたいために、観光案内を調べ、地図を見て |
| 案内するコースを考えただけである。是非首都圏、京阪神に対して今治観光をアピー |
| ルしようではないか。そして観光案内所には「今治の観光は自然です。そしてそれを |
| 最大限に生かすのは時間です」との合い言葉で、観光スケジュールを作って絶好の時 |
| 間に絶好の場所に観光客を呼び込みたいと私は考えている。 |
“鯛の骨蒸し”料理 |
その時には潮流体験も、もちろんTPOに合わせなけ |
| れば意味がない。画一的に土日運行ではなく、当然大潮、 |
| 中潮の時期(月の3分の2はその時期になる)に合わせ |
| た運行である。もう一つ付け加えるなら運行時間も毎日 |
| の干満の時間に合わせたら言うこと無しである。そして |
| 亀老山はサンセットの1時間前である。 |
| 鈍川温泉か湯ノ浦温泉でゆっくり汗を流し、今治の美 |
| 味しい魚を食してもらいましょう。鈍川温泉にはホテル |
| を建てましょう。美味しい料理を食べさせてくれるお店を沢山アピールしましょう。 |
| アーケード街を沢山の観光客が歩く街にしましょう。自分の街を案内するボランティ |
| アは各地で増えている。今治も各地でボランティアに活躍してもらいましょう。 |
| | | |
| 4.石鎚山と名水の里西条 |
| 2006年6月25日(日)、幸運にも今日も天気は良さそうである。私たち一行は今日 |
| も、朝9時にホテルを出発し、東へと進んだ。途中でお昼のおにぎりを買い、小1時 |
| 間で西条市に着いた。西条は今治の隣の市であるが、四国は山が入り組んでおり、猫 |
| の額のような平野に一つの市が存在していて、隣の市はまた違う平野になっている。 |
| 湯の浦温泉から海辺の峠を越えるとカブトガニの生息地で有名な河原津の海岸であ |
| る。ここからが西条市になる。西条市は石鎚山の麓に位置しており、石鎚山に降った |
| 雨や雪は、伏流水となり50年の歳月を掛けて西条市の地 |
弘法の水 |
| 下に流れて来ると言われており、西条市は市のいたる所 |
| でこの地下水が沸き、水の豊富なところである。市民は |
| その恩恵にあずかっているので、いわゆる水道代は払う |
| 必要がない。西条市ではこの湧き出る伏流水を「うちぬ |
| きの水」と呼んでおり、日本名水百選の一つにもなって |
| おり、2年続けて日本一になったこともあるほど美味し |
| い水である。 |
| 「うちぬきの水」は市内には2,000ヶ所ぐらいあるといわれているが、誰でも汲ん |
| でいけるように整備された場所としてはJR西条駅、西条郵便局、市役所など市内の |
| 主だった場所にあるが、私たち一行は海辺にある「弘法の水」に行ってみることにし |
| た。そこは水を汲む人のために屋根を作り、座って休めるベンチも設けられていた。 |
| 何人かの中年の女性がそこにいた。軽く会釈をしながら、弘法の水をペットボトルに |
| 汲み、コップ一杯の水を飲んで喉を潤していた。「どちらからいらっしゃったのです |
| か?」、何人かの女性の一人が声をかけた。私は今治から来たこと、友人は東京から |
| 来たことを説明し、西条市の見所を聞いた。「それは、是非石鎚山に行って下さい」 |
| と、その女性は即座に答えた。神の山であり、西条市の水を潤してくれる石鎚山は西 |
| 条市民にとって特別な山なのだろう。「実は我々はこれから行こうと思っています」 |
| と、私はこれからの計画を話した。「是非行って、成就に有る神社を詣いって下さい」 |
| との言葉に送られ一行は出発した。 |
| | | |
| 国道11号に出て右折し、暫く行くと「石鎚スキー場入口」の案内があり、そこを左 |
| 折し、ケーブル乗り場へと向かった。黒瀬ダムを過ぎた頃から、道はいたる所で工事 |
| をしている。台風によって道がかなり被害を受けた様子がわかった。道に沿って川が |
| 流れている。川には大きな石が散在している。河原は段々狭くなり渓谷の様子になっ |
| てくる。やがてケーブル乗り場に到着した。ケーブル乗り場までの急坂を登っている |
| と、石鎚山奥の院があり、山麓下谷駅に着いた。山開きに向けての雰囲気が何となく |
| 漂っていたが今日はそんなに人は多くないようである。山開きになるとこのケーブル |
| も多くの人で賑わい、登山道も長い列が出来、山頂は人で溢れるという。 |
| 山麓下谷駅から奥前神社のある山頂成就駅まで約1,815メートル、51人乗りのゴン |
| ドラはがらがらであった。約7分30秒で、標高1,300メートルの山頂成就駅に到着し |
西日本最高峰“石鎚山” |
た。ここは石鎚山の7合目にあたるが、山の気分は十分 |
| である。ここから徒歩20分程度で登山基地の成就社に着 |
| くということであったが、今日は登山をする予定が無い |
| ので、一行は観光リフトに乗り、展望台に向った。成就 |
| 展望台の標高は1,405メートル、目の前に石鎚山の偉容 |
| がまるで立ちふさがる壁のように見えた。山頂には新し |
| い石鎚神社の建物が見える。私たち一行は、暫くの間こ |
| の雄大な眺めを楽しみ、近くの草原で、昼食を取ること |
| にした。まるでヘリポートのような、瓶が森の立派な山容がすぐそこに見える。高山 |
| 植物が生え、名も判らない可愛い花が咲いていた。おにぎりと茹でたまごを食べなが |
| ら、爽やかな高山の気分を満喫することができた。帰りは、国道11号線に出て左折し、 |
| 伊予小松で国道196号線に入り、丹原に向った。ここには10番、番外札所の西山興隆 |
| 寺がある。鬱蒼とした、たたずまいの境内は正に深山の寺社の趣がある。地元では別 |
| 名「紫陽花寺」とも呼ばれるらしく、丹精こめた紫陽花が境内のいたるところに見事 |
| な花を咲かせていた。他には誰もいない。「シーン」と |
見事な“紫陽花” |
| した静寂さが漂っていた。このお寺は紅葉の時期は人で |
| にぎわうということであったが、この紫陽花の時期もま |
| た格別である。二日間の今治近郊の観光を終えた私たち |
| 一行は、素晴らしい自然とめぐり合えた満足感で一杯で |
| あった。 |
| 「今夜は我が家で夕食を取ろう」ということになり、 |
| スーパーで食材を買い、酒屋でお酒を買って、皆でそれ |
| ぞれが得意の料理を作って、私と友人はホームパーティーを楽しんだ。この二日間の |
| 観光の思い出話に花が咲き、心地良い酔いに時間が経つのを忘れて、素晴らしい今治 |
| の観光名所について語り合った。 |
| ここまでは、今治の持つ観光資源について私の体験をもとにまとめてみたものであ |
| る。まだ今治に来て日の浅い私の体験だけでこれだけあるのだから、観光資源につい |
| て、いろいろな人の意見を聞けばもっともっと素晴らしいアイディアが出てくるので |
| はないだろうか。 |
| もう一つ四国はやはりお遍路さんである。実は今治にも沢山の札所がある。愛媛県 |
| 全体を視野に入れて、次回は最後にそれを案内することにしよう。 |
| | | |
| 5.菩提の道場巡り(市内の札所6ヶ寺巡り) |
| 第1話で前述したとおり、愛媛県(伊予)の札所は菩 |
お遍路さん |
| 提(ぼだい)の道場と呼ばれ第40番から第65番までの26 |
| ヶ寺がある(菩提とは煩悩を断じ、真理を明らかに知っ |
| て得られる境地)。この巡礼の旅はいわゆる普通の観光 |
| の旅とは違うが、四国だけにある巡礼の旅であり、知名 |
| 度は全国区である。今治は地の利もあり、是非「菩提の |
| 道場巡り」と「今治6ヶ寺巡り」を観光産業の一つとし |
| て取り上げてはどうかと考えている。26ヶ寺は松山以西 |
| に14ヶ寺あり、今治以東に12ヶ寺あるので、「菩提の道場巡り」の拠点は松山でも今 |
| 治でもどちらでも殆ど同じ条件である。飛行機で来る人はどうしても松山が拠点とな |
| ると思うが、車や電車で来る人は今治拠点で行動することが一番便利であろう。偶然 |
| 松山と今治の間には一つの札所も無く、第53番須賀山円明寺(松山市和気町)と第54 |
| 番近見山延命寺(今治市阿方)の間は35キロ以上離れている。松山市と共同して、こ |
| の「菩提の道場巡り」を2つに分けて各々が分担して行うのもアイディアであろう。 |
| また、このような取組が「発心(ほっしん)の道場の徳島県」、「修行(しゅぎょ |
| う)の道場の高知県」、「涅槃(ねはん)の道場の香川県」でも行われれば、四国の |
| 大きな観光産業になるのではないだろうか。 |
| ここでは「菩提(ぼだい)の道場の愛媛県」に限定して、アイディアをまとめてみ |
| ることにする。 |
| | | |
| 第54番 近見山 延命寺 (ちかみざん えんめいじ) |
| ★ 本 尊:不動明王 |
| ★ 真 言:のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ |
| そわたや うんたらたかんまん |
| ★ 詠 歌:くもりなき かがみのえんと ながむれば のこさずかげを うつすものかな |
| ★ 開 基:行基菩薩 |
| ★ 宗 派:真言宗豊山派 |
| ★ 紹 介:松山から瀬戸内海沿いにたどると、今治の手 |
第54番 近見山 延命寺 |
| 前6キロほどのところに近見山(海抜244メー |
| トル)がある。いまでは斎灘、燧灘にかこま |
| れた芸予諸島の南半と、来島海峡の全景を展 |
| 望する絶好の地となっているが、昔この山頂 |
| に延命寺があった。寺の創建は行基菩薩が不 |
| 動明王を刻んで本尊として安置したのにはじ |
| まり、後に嵯峨天皇の勅願によって弘法大師 |
| が再興し、近見山円明寺と号した。 |
| そのころ七堂伽藍が整い、荘厳をきわめていたが、たびたびの兵火にか |
| かり、そのたびに寺は移転し、天正年間の兵火にあってから山の麓に移建 |
| された、明治以降寺名が円明寺から延命寺に改められた、宝永元年(1704) |
| の梵鐘は住職の私財で鋳造したもの。 |
| それ以前の梵鐘は戦乱の合図の鐘に使われ夜になると叩かないのに「い |
| ぬるいぬる」と鳴くので恐れられた。また、松山城へ持出されそうになっ |
| て「イヤーン、イヤーン」と鳴くので置き去りにされたという。 |
| ★ 住 所:愛媛県今治市阿方甲 63 電話 0898(22)5696 |
| ★ 交 通:@ < 徒 歩 > |
| 円明寺→堀江→北条→菊間→大西→延命寺、8時間45分、35.5キロ |
| A <交通機関利用> |
| 円明寺→(徒歩1分)→和気→大西(JR予讃本線1時間)30.6キロ→ |
| (のりかえ)→阿方(せとうちパス今治営業所行7分)3.4キロ、下車後 |
| 徒歩6分 400メートル |
| ★ 宿 泊:いづみ旅館 20人 5,000円前後 電話 0898(22)2275 |
| | | |
| 第55番 別宮山 南光坊 (べっくざん なんこうぼう) |
| ★ 本 尊:大通智勝如来 |
| ★ 真 言:なむ だいつぅちしょうぶつ |
| ★ 詠 歌:このところ みしまにゆめの さめぬれば べつぐうとても |
| おなじすいじゃく |
| ★ 開 基:行基菩薩 |
| ★ 宗 派:真言宗醍醐派 |
| ★ 紹 介:今治から船で1時間のところに大三島があり、 |
第55番 別宮山 南光坊 |
| 大山祗神社がある。大宝3年(703)この神 |
| 社の別宮を越智郡日吉郷に移し、24坊あった |
| 別当のうち8坊を和銅5年(712)との2回 |
| にわたって同地へ移した。弘法大師は四国巡 |
| 錫のとき、別宮に参拝し、坊で法楽をあげて |
| 霊地とした。後に天正年間の良曽我部元親の |
| 兵火で8坊は焼失し、その中で禄の少ない南 |
| 光坊のみが再興され、明治の神仏分離まで別宮の法楽所として存続した。 |
| この間藤堂高虎は今治城修築中に薬師堂を建立し、次の城主久松氏も祈祷 |
| 所に定めて祭祀料を奉納したという。明治以降は本社本尊である大通智勝 |
| 仏を移したが、昭和20年8月の戦災で本堂、薬師堂などを失い、大師堂と |
| 護摩堂が残された。近年本堂が再建されている。ご本尊の大通智勝仏は法 |
| 華経第七化城諭品に説かれており、迦如来の第16番目の弟子で修行の結果 |
| 仏になることができたという。寺には書家、川村驥山の菅笠や筆塚がある。 |
| ★ 住 所:愛媛県会治市別宮町3―1 電話 0898(22)2916 |
| ★ 交 通:@ <徒 歩 > |
| 延命寺→(国道192号線)→海禅寺→南光坊、約1時間、3.7キロ |
| A <交通機関利> |
| 用延命寺→(徒歩6分)→阿方→今治バスセンター前(せとうちバス今 |
| 治営業所行13分)3.8キロ、下車後徒歩5分、300メートル |
| ★ 宿 泊:@ 宿 坊 50人 3,800円 |
| A 菊水旅館 40人 6,000円前後 電話 0898(23)3330 |
| | | |
| 第56番 金輪山 泰山寺 (きんりんざん たいさんじ) |
| ★ 本 尊:地蔵菩薩 |
| ★ 真 言:おん かかかび さんまえい そわか |
| ★ 詠 歌:みなひとの まいりてやがて たいさんじ らいせのいんどう |
| たのみおきつつ |
| ★ 開 基:弘法大師 |
| ★ 宗 派:真言宗醍醐派 |
| ★ 紹 介:弘仁6年、弘法大師がこの地を巡錫した時、 |
第56番 金輪山 泰山寺 |
| 梅雨のため蒼社川の水が氾濫していた。伊之 |
| 子山(872メートル)附近に源を発する蒼社 |
| 川は、玉川村から今治市の東南を抜けて燧灘 |
| へ流れ込んでいる。そのころこの地に伊予の |
| 国府があったが、国の力では防ぎようがなく、 |
| 毎年梅雨期になると川が氾濫して田地や家屋 |
| を流し、人命を奪った。農民は恐れ苦しみ、 |
| この川を人取川といって悪霊のしわざと信じていた。そこで大師は川原に |
| 壇を築き「土砂加持」の秘法を七座厳修された。満願の日にご本尊地蔵菩 |
| 薩を感得し、祈願成就したので一寺を建立してご本尊を安置し、延命地蔵 |
| 十大願の第一「女人泰産」から寺名をとられ「泰山寺」とした。後の天長 |
| 元年(824)淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍も完備、塔中十坊を有す |
| る大寺となった。しかしたびかさなる兵火で縮少し、山麓の現在地へ移建 |
| されるのである。近くに遍路へのサービス機関の同行新聞社がある。 |
| ★ 住 所:愛媛県今治市小泉 1-9-18 電話 0898(22)5959 |
| ★ 交 通:@ < 徒 歩 > |
| 南光坊→今治西高→泰山寺 50分、3.2キロ |
| A <交通機関利用> |
| 南光坊→(徒歩5分)→今治バスセンター前→小泉(せとうちバス鈍 |
| 川温泉・神子森本地ロ・葛谷・新谷土居行12分)、3.6キロ、 |
| 下車後徒歩8分 600メートル |
| ★ 宿 泊:宿 坊 100人 3,800円 |
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| 第57番 府頭山 栄福寺 (ふとうざん えいふくじ) |
| ★ 本 尊:阿弥陀如来 |
| ★ 真 言:おん あみりた ていせい からうん |
| ★ 詠 歌:このよには ゆみやをまもる やはたなり らいせはひとを すくうみだぶつ |
| ★ 開 基:弘法大師 |
| ★ 宗 派:真言宗高野派 |
| ★ 紹 介:府頭山(八幡山)を目指して田圃道を歩み山麓 |
第57番 府頭山 栄福寺 |
| からの急な参道を登る。正面は八幡宮、途中 |
| から右へ折れて栄福寺の境内へ入る。明治の |
| 神仏分離まで栄福寺は勝岡八幡と称し、神仏 |
| が同居していた。 |
| 縁起によれば、嵯峨大皇の勅願により弘法大 |
| 師の開創。大師が瀬戸内海を巡錫し、内海の |
| 風波海難の平穏を祈って大護摩を修されてい |
| ると、海上はたちまち穏やかになり、海中より阿弥陀如来を感得し、ご本 |
| 尊として奉安した。本堂は八幡宮への参道を背にし、他の堂より一段高い |
| 所にある。本堂向かって右手に回廊があり、大師堂、薬師堂など諸堂がコ |
| の字型に結んでいる。 |
| 本堂回廊には昭和8年に奉納されたイザリ車と松葉杖がある。奉納者の宮 |
| 本武正さんは当時15歳で、巡拝中にこの地で歩けるようになり、感謝のあ |
| まりイザリ車を奉納したのである。 |
| ★ 住 所:愛媛県今治市玉川町八幡 200 電話 0898(55)2432 |
| ★ 交 通:@ < 徒 歩 > |
| 泰山寺→バス停小泉→山手橋→バス停八幡→栄福寺、50分、3キロ |
| A <交通機関利用> 不可 |
| ★ 宿 泊:宿 坊 な し |
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| 第58番 作礼山 仙遊寺(されいざん せんゆうじ) |
| ★ 本 尊:千手観音菩薩 |
| ★ 真 言:おん ばざら たらま きりく |
| ★ 詠 歌:たちよりて されいのどうに やすみつつ |
| ろくじをとなえ きょうをよむべし |
| ★ 開 基:越智守興 |
| ★ 宗 派:真言宗高野派 |
| ★ 紹 介:近ごろ自動車道が開通して容易に登れるが、 |
第58番 作礼山 仙遊寺 |
| 昔から「おされさん」の名で知られ、海抜約 |
| 300メートルの作礼山の山頂に寺がある。名犬 |
| が発狂して飛び込んだ犬塚池より石門を入る |
| と急な坂道になり、両側に西国33ヶ所の観音 |
| 石像がまつられている。途中、弘法大師加持 |
| 水がある。大師が霊場に定めたとき、この加 |
| 持水で村人の諸病をなおされた霊水である。 |
| 寺は天智天皇の勅を奉じて国守越智守興公が堂宇を建立したのにはじまり、 |
| ご本尊の千手観世音は龍女が刻んだともいわれ、天智天皇の守護仏であっ |
| た。その後、阿坊仙人と称する憎が40年間参籠し、養老2年(718)4月8 |
| 日、天雲のごとく忽然と姿を消した。寺名はこの阿坊仙人の名にちなんで |
| 仙遊寺とよばれるようになった。。後に弘法大師が巡錫し、荒廃した寺を |
| 再興し寺運を盛んにしている。現在の本堂は昭和28年の再建。境内より今 |
| 治市街や瀬戸内海に浮ぶ美しい島々が展望でき、難行の疲れをいやしてく |
| れる。 |
| ★ 住 所:愛嬢県今治市玉川町別所 483 電話 0898(55)2141 |
| ★ 交 通:@ < 徒 歩 > |
| 栄福寺→犬塚池→駐車場→仙遊寺、45分、約2.4キロ |
| A <交通機関利用> 不可 |
| ★ 宿 泊:宿 坊 60人 3,800円 |
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| 第59番 金光山 国分寺(こんこうざん こくぶんじ) |
| ★ 本 尊:薬師如来 |
| ★ 真 言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか |
| ★ 詠 歌:しゅごのため たててあがむる こくぶんじ |
| いよいよめぐむ やくしなりけり |
| ★ 開 基:行基菩薩 |
| ★ 宗 派:真言律宗 |
| ★ 紹 介:創建当初の規模からすれば現在の寺域は縮少 |
第59番 金光山 国分寺 |
| されているが、本堂を中心に大師堂、金毘羅 |
| 堂など整備されて建ち並んでいる。 |
| ≪ご本尊は薬師如来(重文)≫ |
| 天平13年(741)聖武天皇の勅願によって行 |
| 基菩薩が開創し、七堂伽藍は整備されて諸国 |
| の国分寺にくらべ豪壮なかまえであった。 |
| 第三世智法律師のときに弘法大師が長く留ま |
| って五大尊の絵像一幅を残し、真如も2ヶ年滞留し、法華経の一部を染筆 |
| して残した。その後三度の戦火にあいながら、いずれも国主などの力によ |
| ってまもなく復興された。しかし天正12年(1584)の戦火で4たび堂塔を |
| 焼失してからは、経済的な支援者がなく、その後は復旧せず茅華の小堂が |
| 建っているのみだったが、寛政元年(1789)恵光上人が金堂(本堂)を建 |
| 立し、その後、諸堂が再建された。書院の展示室には、奈良時代から平安 |
| 時代初期にかけての鐙瓦や字瓦が保管されている。近くに七重塔の礎石が |
| ある。 |
| ★ 住 所:愛媛県今治市国分4−1−33 電話 0898(48)0533 |
| ★ 交 通:@ < 徒 歩 > |
| 仙遊寺→松木団地→国府橋→国分寺1時間40分、6.5キロ |
| A <交通機関利用> |
| 仙遊寺→(徒歩45分)→別所→郷森(せとうちバス今治営業所行8分)、 |
| 2.9キロ(乗換)→国分寺(せとうちバス志々満原行16分)、5.1キロ、 |
| 下車後徒歩2分、100メートル |
| ★ 宿 泊:東予国民休暇村 120人 5,000円〜 電話 0898(48)0311 |
| 正 善 寺 60人 3,800円 【生木地蔵 電話 0898(68)7371】 |
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| (あとがき) |
| 四国には自動車メーカーや電機メーカーなどの日本を代表する大企業がほとんど進 |
| 出していません。東京で生活をしていた私には地方生活について正しく語るまでの理 |
| 解は不足していますが、4年半住んで感じたことは経済、産業構造において四国は本 |
| 州、九州とは違って、非常に閉鎖された社会があります。本四架橋が3本通っていま |
| すが、交通量は少なく本州との交流が盛んだという感じはしません。 |
| そんなことを強く感じ、実は一昨年、単身赴任の暇な時間を使って、四国の発展を |
| 願って「四国州」なる本を小説風にまとめてみました。その中から架空の話や、私の |
| 勝手な現状分析などの部分を省き、今治というところを皆様にご紹介する目的で、 |
| 「第1話」、「第2話」として寄稿させていただきました。お読みいただき有難うご |
| ざいました。内容についての疑問、ご意見など是非OB会HPにお寄せください。 |
| 完 |