連 載『 佐 野 処 々 』 横浜市 真木守俊
 
          話  題  一  覧
2007. 3.20  佐野処々(その1)“ 桜 ”        投稿;真木守俊
2007. 4.13  佐野処々(その2)“みかも山 ”      投稿:真木守俊
2007. 5.13  佐野処々(その3)“唐沢山 ”       投稿:真木守俊
2007. 6. 3  佐野処々(その4)“越名沼”       投稿:真木守俊
2007. 6.24  佐野処々(その5)“室町・戦国時代の佐野”投稿:真木守俊
2007. 7.15  佐野処々(その6)“江戸時代の佐野”   投稿:真木守俊  
2007. 8. 5  佐野処々(その7)“お盆のころ”     投稿:真木守俊
2007. 8.26  佐野処々(その8)“秋口には”      投稿:真木守俊
2007. 9.15  佐野処々(その9)“天明鋳物”      投稿:真木守俊
2007.10. 7  佐野処々(その10)“秋は楽しく”    投稿:真木守俊
2007.10.28  佐野処々(その11)“簗・陶芸”      投稿;真木守俊
2007.11.18  佐野処々(その12)“越名・馬門河岸”  投稿;真木守俊
2007.12. 9  佐野処々(その13)“佐野の産業”    投稿;真木守俊
2007.12.26  佐野処々(その14)“惣宗寺”      投稿;真木守俊
2008. 1.20  佐野処々(その15)“大慈寺・慈覺大師” 投稿;真木守俊
2008. 2.10  佐野処々(その16/最終回)“鉢之木”  投稿;真木守俊
 

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          話  題  『 よもやま話 』
2007. 3.20 真木  佐野処々(その1)“ 桜 ”
 
佐野処々 (その1) “ 桜 ” 横浜市 真木 守俊
 
佐野工場の桜
佐野工場の桜
 この見事な桜、何処かご存じですか? トキメック
佐野工場の桜です。工場建設の昭和43年頃は、周囲は畑
ばかりで人家もなく、工業団地は未完成で草茫々です。
冬になると猛烈な赤城颪が砂塵を巻き上げて吹き抜けま
す。これでは機械が堪らぬと、急遽計画を変更して植樹
を増やし、裏の空き地には大量のクローバーの種を撒き、
会社創設の記念として、桜の苗木数十本を植えました。
その桜は40年近く、今は盛りと咲き誇り、旧50号バイパ
スを走るドライバーの目を楽しませています。今年は暖冬です。おそらく3月下旬に
は見頃を迎えると思います。        (写真 佐野市 石関賢一 会員提供)
 
 佐野のご紹介は、まずは佐野の工場からとさせていただきます。
 
2007. 4.13 真木  佐野処々(その2)“みかも山”  
 
佐野処々(その2) “みかも山 ” 横浜市 真木 守俊
 
「かたくり」の群生地
「かたくり」の群生地
 佐野は東京の真北70粁に位置します。東京から東北自
動車道を北上し最初に車窓の近くに見える山が、みかも
山です。佐野工場の東約2粁です。3月に入る頃からは
日毎に山肌の緑が濃くなり、春の近付きを知らせてくれ
た山です。佐野の郷土史などには真っ先に、この名が出
てきます。西暦756年平城京時代に作られた「万葉集」
に、みかも山を詠んだ旅人の歌があるからです。
 山の北端の北向き斜面に「かたくり」の群生地があり
ます。昭和40年代後半の山草ブームで少し荒れましたが、 「かたくり」の花
「かたくり」の花
その後、佐野市が遊歩道などを整備し、駐車場も作りま
したので、佐野インターから近いこともあり、シーズン
中は関東各地から遊覧バスや自家用車が集中し、佐野の
一大名所になりました。花期は桜の咲く頃です。
 貴重な白花の「かたくり」も見られましたが、今はど
うでしょうか。
        (写真:佐野市 石関賢一 会員提供)
 
2007. 5.13 真木  佐野処々(その3)“唐沢山”  
 
佐野処々(その3) “唐沢山 ” 横浜市 真木 守俊
 
 佐野事業所の北約3粁・高さ250米程の唐沢山は、佐野の人の心の拠り所です。
遠くに見える「唐沢山」
遠くに見える「唐沢山」
明治天皇御製
明治天皇御製
唐沢山神社
唐沢山神社
 西暦938年天慶の乱が起きました。平の将門が武蔵・常陸と勢力を延ばし、中央政府
に反抗したのです。朝廷は藤原秀郷を派遣、秀郷は唐沢山を根拠地として将門を鎮圧
し、下野の国守になります。秀郷の子孫は足利姓・佐野姓と変わりますが、徳川幕府
の政策で廃城になる迄約650年・唐沢城の盛衰が、佐野の歴史なのです。城の本丸は、
小田原の北条氏との戦いで焼き払われ、跡は秀郷を祭る唐沢神社になっています。
唐沢山神社境内
唐沢山神社境内
宮司と焼き米を手にする辻会員
宮司と焼き米を手にする辻会員
食料庫の跡
食料庫の跡
 今は神社の宮司の佐野さんに案内して頂いた時、佐野さんが木の枝を折って、神社
の横の土手を突くと焼き米が出てきました。そこに食料庫があったそうです。
 城壁の中の広場の周りには数十本の桜の老木があり、2週間ほど平地より遅れて満
開になります。
唐沢山神社広場
唐沢山神社広場
城壁内の広場で剣道大会
城壁内の広場で剣道大会
南城居城跡の庭
南城居城跡の庭
 その頃蒲田から新入社員が工場研修に来ます。研修の科目に唐沢山のマラソンを入
れるのが恒例でした。工場のマラソン愛好者が先導して工場から約4粁の山頂まで、
桜吹雪の中を駆け登ります。一汗かいて頂上の茶店で「おでん」を貰い、持参の弁当
を食べる頃には、すっかり盛り上がって、仲間意識が強くなるようでした。
 田沼の工場は唐沢山の裾野の西側にあります。
                           写真提供 辻 会員
 
2007. 6. 3 真木  佐野処々(その4)“越名沼”  
 
佐野処々(その4) “越名沼 ” 横浜市 真木 守俊
 
 佐野の工業団地と東のみかも山の間の凹地に越名沼がありました。西暦1083年に陸
奥で後3年の役が起きますが、清原氏の勢いが強く争いが長引きます。そこで足利源
氏の八幡太郎義家が応援に行き平定したのですが、義家は出動に際し越名沼に軍船を
を集め、盛大な出陣式をしたと記録が残っています。この頃には京都から奥州に向か
う東山道も整備されて旅人も増え、佐野の風物を詠んだ歌も多くなりました。それに
よると旅人は越名沼を舟で渡り、みかも山を越えて奥州白河の関に向かっています。
@
@ 越名沼は干拓され三杉川に
A
A 稲穂の垂れる米作地帯
B
B 白鳥も飛来する越名地区の沼
 みかも山の北側には平坦な土地があるのに何で面倒な所を通るのか不思議に思いま
す。地元の郷土研究家に聞きますと、今は市内を南北に流れている秋山川が東に流れ
て越名沼に流れ込み、水量は豊かで沼はもっと広大で、慶長年間に流が変わって北側
が通れるようになったとのことでした。
 鯉や鮒など淡水魚の宝庫だった越名沼も、昭和の初期に干拓され、佐野事業所開設
の頃は稲穂の垂れる米作地帯になっていました。それが最新の都市計画で佐野が関東
平野のほぼ中心に位置し、南北に縦断する東北自動車道と東西を走る国道50号の交差
点である利点を生かし、大規模な流通施設や商業施設が誘致され成田や羽田・東京・
大阪・仙台等への長距離バスの発着地点も出来て様相がすっかり変わり、長閑な風景
は見られなくなりました。
C
C 「越名沼」の名が残る欄干
D
D 大規模な流通・商業施設
E
E 佐野市中心地
           写真提供 @〜Dは辻会員 Eは島田元佐野市商工部長殿
 
2007. 6.24 真木  佐野処々(その5)“室町・戦国時代の佐野”  
 
 佐野処々(その5)“室町・戦国時代の佐野”  横浜市 真木 守俊
 
 西暦1338年・足利尊氏が室町幕府を開きましたが、長引く南北朝の争いや応仁の乱
などで政府は疲弊し、地方に強力な豪族が輩出して勢力を競います。関東は小田原の
北条と越後の上杉が対立し、中間に位置する北関東の小藩は右往左往します。事は
1551年関東管領の上杉憲政が北条氏康との争いに敗れ、越後の長尾景虎に頼ったのが
始まりです。景虎は名を上杉謙信と改めて出兵、北条勢を破って関東管領になります。
翌年、謙信は佐野を巡見、藩主昌綱と同盟を結び、末子虎松丸を養子にします。その
後、北条が唐沢城を攻めた時は、謙信自ら手兵を率いて包囲網を突破し佐野を救いま
した。昌綱が没し更に謙信に仕えていた佐野光綱が越後で不祥事を起こすと、両者の
関係は冷却し虎松丸は佐野に返されます。この頃佐野藩の内部に越後派と小田原派が
出来て、北条派が政権を握ると上杉が攻め、上杉派が取ると北条が佐野を攻める状態
が続きます。1590年豊臣秀吉が小田原城を攻めると、関東の諸藩は北条方に組みしま
すが、小田原は落城しました。佐野藩主、宗綱の弟天徳寺は秀吉に仕えており、宗綱
の没後佐野に戻って藩内の北条派を一掃、更に秀吉側近の信吉を藩主に迎え、佐野藩
は下野第一の勢力に伸張していきました。
 こんな乱世に、佐野の人は柔和な「みかも山」の姿に和らぎを感じていたものと、
思います。
東武線で館林から佐野へ向かうと、進行右側で「ようこそ佐野へ」と出迎えてくれる、三毳山(みかも山) 
東武線で館林から佐野へ向かうと、進行右側で「ようこそ佐野へ」と出迎えてくれる、三毳山(みかも山) 
「つわものどもがゆめのあと」雑草の向こうに、今は私たちと時をともにする、三毳山(みかも山) 
「つわものどもがゆめのあと」雑草の向こうに、今は私たちと時をともにする、三毳山(みかも山) 
                 麓の散策路で見つけた、小さな花たち。
                 麓の散策路で見つけた、小さな花たち。
                       写真提供 佐野市 辻隆太会員
 
2007. 7.15 真木  佐野処々(その6)“江戸時代の佐野”  
 
 佐野処々(その6)“江戸時代の佐野”  横浜市 真木 守俊
 
 豊臣秀吉の歿後、関ヶ原の合戦では東軍が大勝し、徳川家康が江戸に幕府を開きま
した。西暦1603年です。秀吉の後盾で勢力を伸ばした佐野藩には、代官として本多正
純が来て実権を握ります。折しも江戸城で火事があり藩主信吉がお見舞いに駈けつけ
ると、高い所から見て不敬であると堅い要塞の唐沢城から平地の春日城に、更に後年
松本藩お預けにして豊臣との縁を絶ちきります。又、佐野家と関係の深い寺を口実を
設けて取り壊します。佐野が長い歴史を持ち、地震・水害などの災害の少ない土地な
のに、徳川時代以前の文化財が比較的少ないのは、そのためと云われています。
 正純が宇都宮に移った後は、彦根の井伊藩の飛地になりますが、井伊藩は一転して
佐野家縁故の寺の修復をしたり、天明鋳物などの産業を奨励したりして人心の安定を
計り、明治維新まで特に問題が起きていません。春日城は両毛線佐野駅の直ぐ北側で、
今は城山公園として市民の憩いの場となっております。地方には、民話や言い伝えが
たくさんあります。事の真意は勿論不明ですが、その中に何か本音が隠されているよ
うな気がします。ドラマなどでよく取り上げられる宇都宮城の「釣り天井事件」の張
本人が本多正純とされているのも、そんな類かもしれません。
 なお、佐野家ゆかりの天応寺の奥には井伊直孝・直澄・直弼・3代の墓が苔むして
おり、この縁で佐野市と彦根市は親善都市になっています。
JR佐野駅北口は城山公園の一角を整備し、市民の憩いの場となっている。
JR佐野駅北口は城山公園の一角を整備し、市民の憩いの場となっている。
スロープ散策路を登ると城山公園入り口
スロープ散策路を登ると城山公園入り口
本丸はこのあたりにありました
本丸はこのあたりにありました
 
佐野家ゆかりの天応寺
佐野家ゆかりの天応寺
井伊家の墓
井伊家の墓
井伊家の墓碑
井伊家の墓碑
                     写真提供 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007. 8. 5 真木  佐野処々(その7)“お盆のころ”  
 
 佐野処々(その7)“お盆のころ”  横浜市 真木 守俊
 
 8月、佐野の商店街が七夕飾りやお盆の準備で活気づ 鋳銅梅竹文透釣灯籠 ≪転載禁止≫
鋳銅梅竹文透釣灯籠 ≪転載禁止≫
くころ、事業所(現佐野工場)近くの引地観音にお祭り
の大きな白旗がたちます。本尊は馬頭観音で馬を扱う人
の信仰が高いのです。 ここに所蔵されている釣り灯籠
(鋳銅梅竹文透釣り灯籠)は高さ、大きさ約30糎程の
小形ですが、戦国時代に作られたもので六角形の各面に
は、優美なデザインの梅や竹が透かし彫りになっており、
しかも扉以外は一体の鋳物という、大変高度の技術が評
価され国指定重要文化財に指定されております。
 お盆の期間中には、赤見の大門音頭・鐙塚(アブツカ)の宮比講神楽・上羽田の八
幡神楽・芦畔(アシグロ)の獅子舞など、昔の各部落の伝統行事が行われます。何れ
も無形文化財ですが、後継者の問題で頭を痛めているようです。
 8月16日は「みかも山」の姿が京都の東山に似ているところから、これに倣って
送り火の大文字が焚かれます。丁度、工業団地の会館の真正面で、会館の会議室が絶
好の見物席になります。8月18日は仏教各派合同により灯籠流しが行われます。
夕立で増水した川面を数百の灯籠が流れに沿って、行儀良く一列に並び、静かに闇に
消えて行く光景は、何ともいえず人の心をシンミリさせるものです。
 定番の盆踊りには、佐野でも八木節が使われますが、やはり国定忠治は上州が本家、
特に伊勢崎の盆踊りの晩は、街のあちこちに作られた櫓から太鼓が鳴り響き、即興の
八木節も混じって街中が湧き上がります。
引地観音寺
引地観音寺
大文字が焚かれる「みかも山」
大文字が焚かれる「みかも山」
八木節のふるさと「八木宿」交差点
八木節のふるさと「八木宿」交差点
               写真提供(鋳銅梅竹文透釣灯籠)佐野市郷土博物館
               写真撮影(下段の3枚) 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007.08.26 真木  佐野処々(その8)“秋口には”  
 
 佐野処々(その8)“秋口には”  横浜市 真木 守俊
 
 お盆の行事も終わって、朝夕には涼しい秋風の吹き始 唐沢ゴルフ倶楽部(正門)
唐沢ゴルフ倶楽部(正門)
めるこの時期、炎天と落雷を敬遠していたゴルファーも
待ちきれなくなることでしょう。佐野には、事業所(現
佐野工場)から車で10分程の所に名門の唐沢ゴルフ倶
楽部がありますし、田沼地区の北部の山裾には幾つかの
コースがあります。何れも丘陵地の自然を生かした設計
で変化に富んでいます。打ち下ろしホールで藪の中にボ
ールを打ち込んだら、そこに「かたくり」が群生してい
て、驚いたこともあります。
 家族連れならば、渡良瀬川に近い羽田の梨狩り、佐野東端から岩舟町・大平町と続
くぶどう狩り、双方とも出荷の時期を迎えて甘い幸水や、大粒の巨峰が楽しみです。
 また、佐野市や隣りの足利市など古い歴史のある街には、沢山の神社・仏閣があり
ます。歴史に出てくる藩主や武将を祭ったもの、各派の宗教や信仰に関するものの末
寺などが揃っています。これらの神社、仏閣が一斉に秋祭りを開きます。皆、独特の
行事を持ち、縁日の出店も違ってきます。皮切りとして、9月には大祝町の宝龍寺の
呑龍様からはじまり、年末まであちこちで祭りが続きます。昔ながらの、焼き栗・焼
きいか・綿あめ・縁起物・さてはテレビ漫画の主人公のお面なども並んで懐かしくな
ります。
唐沢ゴルフ倶楽部(クラブハウス)
唐沢ゴルフ倶楽部(クラブハウス)
史跡 足利学校(全景)
史跡 足利学校(全景)
鑁阿寺「ばんなじ」(山門)
鑁阿寺「ばんなじ」(山門)
                      写真撮影 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007. 9.15 真木  佐野処々(その9)“天明鋳物”  
 
 佐野処々(その9)“天明(天命)鋳物”  横浜市 真木 守俊
 
 天明(天命)鋳物は、佐野の伝統的な工芸品であり、また明治初期まで約900年
もの間、佐野の経済を支えた基幹産業でもありました。西暦938年、天慶の乱の時、
藤原秀郷が京都から鋳物師を連れてきて武具を造らせたのが始りで、その後、農具・
寺の梵鐘・灯籠・仏像・鳥居などを作り、桃山時代、茶の湯が盛んになると天命釜と
して、九州の芦屋、京都の京釜と並び称される釜を作っております。
     安楽寺門前
     安楽寺門前
     安楽寺鐘楼
     安楽寺鐘楼
     安楽寺梵鐘
     安楽寺梵鐘
 
 佐野市の中心街には、金屋上町・仲町・下町・金吹町などの町名が残り、1022
年設立の火の神様を祭る立派な金山神社もあって、昔の盛況を思わせます。戦争中の
金属の供出を免れた製品は、重要文化財などに指定され、処々(7)で紹介した引地
観音の灯籠は、国指定重要文化財になっております。大型の梵鐘は、佐野市に5個残
っており、鐘の表面にはいろいろなデザインが施されております。一番古い安楽寺の
鐘には飛雲・流水・桜花・蓮華が画かれており、大聖院の鐘には、その内外に法華経
7万字が鋳出されている労作です。近隣の市にも足利市の鶏足寺・館林駅前の普寺、
更には鎌倉五山のひとつ壽福寺の巨大な鐘にも佐野の銘が入っています。こんな重量
物の材料を何処から持って来たのか、燃料は、設備は、更に製品の運搬は、など気に
なります。仏像や灯籠は地元にも数多く残っていますが、地理的にも日光の東照宮等
にもある筈です。こんな天明鋳物も明治の新政府の宗教政策で需要が減少し、日本の
社会が近代化すると、一斉に織物産業に変わり、伝統の鋳物を引き継いでいる工場は
2〜3個所となり、花瓶や記念品などを製作しております。
     大聖院門前
     大聖院門前
     大聖院鐘楼
     大聖院鐘楼
     大聖院梵鐘
     大聖院梵鐘
                       写真提供 佐野市 辻会員
 
2007.10. 7 真木  佐野処々(その10)“秋は楽しく” 
 
 佐野処々(その10)“秋は楽しく”   横浜市 真木 守俊
 
 10月も半ばになりますと、朝夕は涼しく紅葉の便りも届き始め、温泉が恋しくな
ります。栃木県には那須・塩原・鬼怒川・川治など有名な温泉がズラリと並びます。
温泉の湧く所、紅葉の名所です。疲れを癒やすのも良し、ハイキングやゴルフで運動
不足を補うのにも良い季節です。佐野には温泉は出ませんが、群馬県の伊香保・四万
・草津・水上の温泉が同じように利用出来、選択に困ります。往復に新道をドライブ
するのも快適ですが、目的地では旧街道や横町を歩いて 今でも「例幣使街道」の名が残る
今でも「例幣使街道」の名が残る
見てください。必ず懐かしい風景やホッとする光景に出
会います。こんな所が佐野の市内にもあります。旧国道
50号線は佐野の中心街を東西に貫通していますが、そ
の東部堀米・犬伏辺りは今でも例幣使街道の名が通用し
ます。例幣使とは京都から日光東照宮に参詣する勅使の
ことです。この辺りは宿場があり道路の真ん中に掘割り
があったそうです。
 街道沿いの「大庵寺」は大きな樹木に包まれた由緒ある寺院であり、「光徳寺」の
(びゃくしん)は樹齢八百年と云われております。また小さなお店の裏が立派な日本
庭園であったりして時計の針がゆっくり廻っているような気がします。
街道沿いの「大庵寺」
街道沿いの「大庵寺」
「光徳寺」の(びゃくしん)
「光徳寺」の(びゃくしん)
民芸店(佐野土産・土鈴など)
民芸店(佐野土産・土鈴など)
 田沼地区を貫く飛駒街道も気持ちの良い街道です。この付近は、戦国時代に佐野藩
が、ある時は上杉と、ある時は北条と戦った史跡の多い所です。立派な松並木を持っ
た佐野家の菩提寺「本光寺」、落ち着いた風情の「密蔵院」、城壁のような石垣を持
つ「加茂別雷(かもわけいかずち)」神社など歴史や民話を思い出しながら、赤松の
疎林と梅の古木の多い街道を、ご家族で歩くのも良いでしょう。
佐野家の菩提寺「本光寺」の並木
佐野家の菩提寺「本光寺」の並木
「本光寺」の本堂
「本光寺」の本堂
落ち着いた風情の「密蔵寺」
落ち着いた風情の「密蔵寺」
 
「密蔵寺」にある(宝きょう印塔)
「密蔵寺」にある(宝きょう印塔)
立派な石垣を持つ「加茂別雷神社」
立派な石垣を持つ「加茂別雷神社」
疎林と古木の旧街道
疎林と古木の旧街道
                       写真提供 佐野市 辻会員
 
  寄稿者 真木守俊さんの訃報に接し謹んで哀悼の意を表します
                             HP事務局
 
 この「佐野処々」は、真木さんが東京ビッカース時代の社内報「からさわ」に掲載
されたものを再校、寄稿していただき平成19年3月から9回にわたって連載して参
りました。
 真木さんの生前中のご意思を尊重して、すでに寄稿いただいている遺稿を継続して
掲載して参りますので、ご愛読をいただきたいと思います。
 
2007.10.28 真木  佐野処々(その11)“簗・陶芸”  
 
 佐野処々(その11)“簗・陶芸”  横浜市 真木 守俊
 
 秋の楽しみにもう一つ、鮎の簗漁があります。竹で作 那珂川は鮎の季節
那珂川は鮎の季節
った簀の子を川面に流れに逆って斜めに沈め、産卵のた
め河口に下る鮎を掬い取る漁です。北関東では利根川・
鬼怒川・那珂川などに何カ所か仕掛けられ、鮎料理が食
べられます。鮎料理はなんと云っても塩焼きが一番です。
その点、佐野から少し遠いのですが那珂川の烏山の簗場
をお薦めします。子供さんは飛び跳ねる鮎を手づかみし
て歓声を上げますが、大人は食欲を満足させれば良いの
 
です。烏山では川岸に作られた大きな建物に暖炉が沢山 兄弟簗はおやじ譲りだぜ
兄弟簗はおやじ譲りだぜ
切ってあり、グループで焼きながらあつあつの鮎が食べ
られます。周辺に気を遣わず串刺しの鮎に頭からかぶり
付けば、香ばしい香りがプーンとして、食欲が進めば話
も弾みます。お気の毒ですがグループに下戸の方を加え
ておいて下さい。
 鮎料理に満足したら、帰りに益子町の益子焼きの店で
気にいった食器など求めるのも良いでしょう。特に11月
 
始めには益子焼の市が開かれ、掘り出し物を捜す客で賑 新食堂は満席
新食堂は満席
わいます。
 益子焼の陶芸で数々の賞を得られた田村耕一氏は佐野
富岡町の出身で、ご実家の隣には釜を設けて制作に励ま
れておりました。最近佐野市が中心街に田村耕一陶芸館
を作り作品を展示しております。陶芸のお好きな方は、
ここと、佐野と足利の境目の小高い丘の上にある伊万里
焼の栗田美術館を見てください。古伊万里や、欧州に輸
出した豪華な花瓶や奔走なデザインの絵皿が数多く陳列されています。又館内に埼玉
県から移設された日本家屋があり、赤松の疎林をバックにした白砂と巨石に、梅の林
を主体にした日本庭園が見事です。3月中旬が梅の見頃です。
佐野駅前にある陶芸館
佐野駅前にある陶芸館
人間国宝田村耕一さん
人間国宝田村耕一さん
高い丘の上の栗田美術館
高い丘の上の栗田美術館
 
美術館旧門
美術館旧門
一般入り口は大駐車場前
一般入り口は大駐車場前
 
                     写真提供 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007.11.18 真木  佐野処々(その12)“越名・馬門河岸” 
 
 佐野処々(その12)“越名・馬門河岸”  横浜市 真木 守俊
 
 当時、東京ビッカース(現佐野工場)の開設当初、佐 @刈入れの終わった水田風景
@刈入れの終わった水田風景
野市をよく知りたいと思い自転車で市中を見て廻りまし
た。市の南部、渡良瀬川に近い所は、広々とした水田と
畑、時期は今頃で稲は、すでに刈り取りが終わり、冷た
い風が吹きぬけていました。
 越名(こえな)・馬門(まかど)部落は人影も少なく、
秋山川が中央を流れていて、静かな田園風景でした。と
ころが家に帰って調べて驚きました。ここは徳川幕府か
 
ら明治の中頃まで北関東随一の貿易港だったのです。平 A繁栄当時の石積みを残す街角
A繁栄当時の石積みを残す街角
安朝時代から、越名沼は渡良瀬川・利根川・荒川などと
水運の便があったのですが、慶長年間に秋山川の流れが
変わり(処々4)越名沼の水位が下がり、舟の航行が不
便になったのでしょう。それと共に、江戸に幕府が開か
れて、人や物資の交流が増えた事もあり、佐野を飛び地
とした彦根藩は、秋山川を改修しここに長さ約1粁・幅
90米程の河川港を造ったのです。佐野からは江戸に米・
 
野菜・薪・炭・天明鋳物などを送り、帰りは海産物・塩・ B静かな里の秋山川
B静かな里の秋山川
呉服・日用品などを運びました。江戸・東京の人口が増
えると、益々交通量が増加し、最盛期には30人乗りの
客船は殆ど毎日の運行、70〜100俵の米俵を積む貨
物船は百数十隻就航したと云うから、その盛況振りがわ
かります。特に江戸城や大名屋敷・商店の蔵や壁の漆喰
に使う石灰には大量の需要があり葛生と越名の間約20
粁には木道馬車が走り、明治22年(1889年)に
 
両毛線が開通すると、佐野駅と越名間に1日8往復、蒸 C秋山川の畔にある復元図
C秋山川の畔にある復元図
気機関車が走ったと云います。しかし鉄道の輸送力が次
第に増強されると、水運は減少し、大正4年には両国ま
での船便が、大正8年には越名の駅舎が廃止となり、越
名・馬門河岸の役目は終わりました。
 テレビの長寿番組「水戸黄門」でも江戸から水路馬門
に上陸した黄門さまが、お定まりの悪を退治する場面が
2〜3度出てきました。
 
D川船奉行所跡碑
D川船奉行所跡碑
E奉行所跡碑の裏書
E奉行所跡碑の裏書
F少し上流の大聖寺にある歌碑
F少し上流の大聖寺にある歌碑
<写真説明> 
@渡良瀬川沿いの刈入れの終わった水田風景 
A越名・馬門河岸が繁栄していた頃、水害と盗賊から荷物を守るためにつみ上げたと
 思われる石積みが街角に残る。現在はこのお宅のこの角だけが丈夫に残っている
B秋山川は流れが変り、当時の秋山川は「旧秋山川」と呼ばれて静かに流れている
C忘れられたように、川沿いの小さな公園に説明図がある
D彦根市長の協力で、地元有志が歴史を伝えようと立てた、奉行所跡碑
E奉行所碑の裏書きです。地元有志の情熱が伝わる
F大聖寺にある、寺はボロでも歌碑は自慢、歌は当時のはやり歌
 
                写真提供・写真説明 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007.12. 9  佐野処々(その13)“佐野の産業” 
 
 佐野処々(その13)“佐野の産業”  横浜市 真木 守俊
 
 明治の中期、近代産業が進展すると、佐野を始め両毛線の沿線・足利、桐生、伊勢
崎などは養蚕・織物とその関連産業で発展しました。
 戦後、戦災を受けなかった佐野は、いち早く織機のガチャ万景気の恩恵を受けまし
たが、化学繊維の出現で長続きせず、縫製やひな人形、鯉織りなどの歳物産業も小規
模にとどまりました。
 一方、京浜間は復興景気、五輪景気で人手不足、地方の若手は続々と京浜地区に流
出しました。そんなとき、首都圏整備法が施行され、京浜間の工場は増改築が禁止さ
れます。企業は地方への進出を計画し、地方都市は企業誘致のため工業団地の造成を
競いました。佐野市の東部に100万平方メートルの団地を造り、五輪後の昭和42年こ
ろに漸く完成しました。
写真(1)織物産業の跡
写真(1)織物産業の跡
写真(2)佐野工場草創期
写真(2)佐野工場草創期
写真(3)現在の佐野工場
写真(3)現在の佐野工場
 
 東京計器は、昭和43年3月に購入契約を完了し、12月には先頭を切って第1期工場
が完成し、地元の多大な期待の中で開所式を開いたのですが、反面、その影響を懸念
する声も多くありましたが、自動車産業・カラーテレビ産業を軸とする岩戸景気の発
端と合致し、初年度からフル操業に入れた幸運に恵まれました。
 その後、団地には電機・自動車・機械・食品等の工場が相次いで進出し、佐野市の
財政の基盤になっております。
 昭和47年に東北自動車道が開通し、物流産業が新しく進出したことは、佐野処々
(その4)で述べました。これら進出企業は最新の設備と手法を用いますが、伝統を
堅く守って発展している地場産業もあります。日本酒醸造業です。
 佐野には豊富で良質な地下水があります。「第一酒造」は330年の伝統があり、栃
木県では一番古い会社です。前社長は長らく商工会議所の会頭をされた人望のある方
でした。工場の見学をお願いしたとき、日本酒造の各工程を詳しく案内された後、
「いろいろ新しい設備や新しい手法等試みますが、最後は人の「ベロ(舌)メーター
です」と言われましたが、含蓄ある言葉と思いました。10年程前から高級酒に限定し、
小口製法に磨きをかけ、客先の好みに応じた酒・季節限定の酒等、地元中心に売り出
し、更に成長しております。ここの銘酒、「開華」を短期間でしたが蒲田の購買会で
販売しました。仕事が終った後、購買会のカウンターで一杯引っ掛けて、ご機嫌で家
路につかれた経験をお持ちの方もおられるでしょう。
写真(4)第一酒造正門
写真(4)第一酒造正門
写真(5)第一酒造の看板娘
写真(5)第一酒造の看板娘
写真(6)佐野の昔が残る町並み
写真(6)佐野の昔が残る町並み
 (写真説明)
写真1:織物産業風景(現在佐野市内には縫製工場跡があり、その他は個人の内職に
    変わってしまいました)
写真2:佐野工場草創期の航空写真です。
写真3:同じような角度から現在の佐野工場を撮ったものです。
写真4:第1酒造の正門です。
写真5:“美味しいお酒を召し上がれ”第1酒造の娘さんです。
写真6:佐野の昔の写真はいろいろありますが、今も昭和初期を伝える町並みをゲッ
    トしました。
                写真提供・写真説明 佐野市 辻 隆太 会員
 
2007.12.26 真木  佐野処々(その14)“惣宗寺” 
 
 佐野処々(その14)“惣宗寺”  横浜市 真木 守俊
 
 年末になると、テレビに「関東の三大師・佐野厄除大師」とコマーシャルを流すの
は惣宗寺です。現在は中心街の近くにあります。元は藤原の秀郷が平将門の平定を祈
願して佐野の春日岡(現在の佐野駅北側の城山公園)に、春日明神の社殿とともに建
てた古いお寺です。社殿の横のお寺には正月の主役元三大師を祭りました。元三大師
は天台宗の高僧、慈恵大師のことで、正月の三日に死んだので元三大師とも言われ、
また、疫病が流行したとき大師も感染し痩せ苦しみ、鬼のような姿になりました。そ
の容貌怪異な自分の画像を門口に貼って置けば、悪霊は寄りつかぬと言ったとか、こ
の魔除けのお札の像を見て角大師とも言われています。
 以前、厄除は、佐野の西端、足利市岡崎山の南麓の寺岡元三大師の霊廟の方が参拝
客は多かったのですが、交通の便利なことと、テレビの力にはかないません。すっか
り惣宗寺の方が有名になり、正月には露天も並び大変な賑わいになります。
惣宗寺
惣宗寺
元三大師
元三大師
寺岡三大師
寺岡三大師
 徳川家康の遺骸を久能山から日光に改葬するとき、佐野に一泊し、本多正純が法宴
を開いたのがこの寺で、佐野家縁故の寺の僧侶の出席が悪いと怒って、寺々を破壊し
たことは「処々その6」で述べましたが、壊された東明寺や寺々の基礎などを集めて
小山を造り、東明が丘と名付け、隣に小さな八幡宮を建てて祭り、秀郷の幼名・田原
藤太から取った田原八幡宮と命名したのも、当時の住民の精一杯の反抗だったのでし
た。東明が丘は東武線の吉水駅の近くです。なお、惣宗寺境内にある細かい細工をし
たお宮は、日光東照宮を模して幕末に造られたミニ東照宮です。
 また、11月中旬には、境内で歴史ある関東菊花大会が開かれます。大輪の厚物・細
管・大門管・小菊の懸崖・一文字・盆栽・千輪咲き・菊人形など、数百点が研を競い
ます。部門別に審査があり、素人の私には優劣はつけられませんが、出品者は審査の
日まで、葉や花びらの一枚一枚までへの気の使い方は大変なものです。
東明が丘
東明が丘
東明寺古墳の由来
東明寺古墳の由来
ミニ東照宮
ミニ東照宮
                  写真提供・ 佐野市 辻 隆太 会員
 
2008. 1.20 真木  佐野処々(その15)“大慈寺・慈覺大師” 
 
 佐野処々(その15)“大慈寺・慈覺大師”
 
 新春の一日、佐野の東北隅からわずか岩船町に入った所の大慈寺(写真@)を訪ね
ました。ここは奈良の大佛建立に関与した大宗教家行基の造ったもので七堂伽藍の霊
地だったのですが、兵火に焼かれ、徳川時代に大師堂(写真A)と薬師堂(写真B)
が再建されました。隣接の村檜神社(写真C)の参道の見事な杉並木とあいまって、
静かな環境を作っています。
写真@
写真@ 大慈寺
写真A
写真A 大師堂
写真B
写真B 薬師堂
 
 大慈寺と深い関係のある 写真C
写真C 村檜神社
写真D
写真D 慈覺大師誕生之地
慈覺大師円仁は、みかも山
東側下津原の生まれ(写真
D)6歳の折り大慈寺に入
門、15歳で京都比叡山に登
り、最澄(さいちょう)の
弟子になりました。そして
最澄・空海らと遣唐使に選
ばれて唐に渡り文化の吸収に努めました。空海・最澄が1年余りで帰国し各々、真言
宗・天台宗を開きその開祖となったのに対し、円仁は10年ほど滞在して、佛教のメッ
カ五大山など長途の旅行をし見聞を広めました。
 この時の旅行記に盛られ 写真E
写真E ライシャワー氏記念碑
写真F
写真F 大使お手植えのマタセコイヤ
た円仁の世界観に共鳴した
米国の駐日大使で親日家の
ライシャワー博士は、自ら
英訳し、昭和39年に大慈寺
を訪れております。
記念に植えたマタセコイヤ
も大きくなっていることで
しょう。
 円仁は帰国後、最澄の後継者となり、佛教の布教に勤め、特に仏像や仏閣に知識が
広く、平泉の中尊寺・目黒不動・長野の善光寺などの建立に関与しましたと言われて
います。 写真G
写真G 相輪塔
写真H
写真H 奥の院
 大慈寺境内の法華経を蔵
める、相輪塔(写真G)は
高さ5メートル程の青銅鋳
物の(代表的な天明鋳物)
県指定有形文化財です。
 裏山の奥の院(写真H)
は円仁の修行した所で、関
 
東平野が一望で見渡せます。 写真I
写真I 花鳥図の天井
写真J
写真J 住職からいろいろ伺う
 大師堂の天井の極彩色の
花鳥図(写真I)の下で住
職から(写真J)円仁の事
跡を伺い、唐から持ち帰っ
た寺宝の香炉(写真K)な
どを見せていただきました。
 壁に掲げられた最澄の直
書(写真L)「一隅を照らす者は国の宝なり」と詠み、現代風に言えば「一芸に秀で
た者は国の宝なり」の意味だそうです。
 当日は寒中でしたが比較的暖かく、心身ともに洗われたような気分になりました。
写真K
写真K 寺宝の香炉
写真L
写真L 最澄の自書
写真M
写真M 住職の奥様と辻会員
                  写真撮影 佐野市 辻 隆太 会員
 
2008. 2.10 真木  佐野処々(その16/最終回)“鉢之木” 
 
 佐野処々(その16)“鉢之木”
 
 最近は謡曲を口ずさむ人は余り見受けられませんが、能楽・鉢の木と、主人公の佐
野源佐衞門の名は広く知られています。私が佐野に転勤したと言うと、何人かの方々
から佐野源左衞門の佐野ですかと聞かれました。謡曲の筋は、鎌倉幕府の執権北条時
頼が僧の姿で地方の民情視察に出掛けるのですが、帰途大雪に遭い「駒とめて袖うち
払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」と夕方に佐野に着き、源左衛門の家に宿を
頼みます。この「佐野のわたり」というのが何処か?が問題になるのです。ところが、
佐野の市内には源左衞門せんべいを売る店(写真@)があるくらいで、北の葛生町に
は墓があります。葛生は車で15分くらい山間の道を進むと昔ながらの部落に、源左衛
門(館)跡(写真A・B)の立て札があり、更に1q程奥の禅寺、願成寺(写真C)に
源左衛門の墓石と右に妻・左に愛馬の墓(写真D・E)が並び重要文化財として保護
されています。
写真@
写真@ 源左衛門せんべい店
写真A
写真A 源左衛門館跡地
写真B
写真B 源左衛門館跡立て札
 
写真C
写真C 願成寺
写真D
写真D 源左衛門墓について
写真E
写真E 源左衛門の墓石・右に妻・左に愛馬
 
 訪れたのは秋の盛り、禅寺の庭の枝振りの良い、もみじの真っ赤な紅葉が印象的で
した。しかし、これだけでは「佐野のわたり」の結論は出ません。図書館に行き「鉢
之木」の全文を読んで見ました。北条時頼は帰り道、浅間山の噴煙を見、板鼻村(今
の安中市)の宿場を通っています。
 これは正しく昔の中仙道で、詳細な地図を見ると高崎の南に小さな文字で佐野とい
う地名があります。早速、次の日曜日に出掛けて見ました。JR南高崎を降りて西に
向い旧中仙道に出て南に進みます。道幅は5bくらい、両側に松並木、右手は低く烏
川の清流が流れ、その向こうには妙義連峰の岩山が並び、実に気持ちの良い旧街道で
す。20分程歩くと右側に小さなお宮があり、常世神社と書いてあります。常世とは源
左衛門の名前、屋敷跡の立札もあります。これだけ舞台装置が揃うと、鉢之木の佐野
はこちら、の方が本命と思われます。それでは葛生との関係は?室町時代に作られた
謡曲です。まったく分りません。名曲を味わえば良いのでしょう。
 「鉢之木」は、時頼が後年諸国の兵を鎌倉に集めたとき、源左衛門は約束どおり駆
けつけたので「時頼が賞を特別に与えた」ところで終わりますが、源左衛門は帰り道、
相模川を馬で渡ろうとしたとき、馬が溺れたという説があり、これが今も相模川の河
口付近を「馬入川」とも呼ぶのだそうです。
                  写真撮影 佐野市 辻 隆太 会員
 
 < おことわり > HP事務局
 昨年3月、真木守俊様ご寄稿の「佐野処々シリーズ」(その1)から始まり、今回
の(その16)まで、長い間ご愛読いただきましたが、今回をもって完了とさせてい
ただきます。ご愛読ありがとうございました。
 当初、真木様からは、このあと、「初午」「足利」「館林」「佐野新都市」の20話
まで、お引き受けいただく予定でしたが、原稿が完成する前に、昨年10月に急逝さ
れました。
 内容は、地元図書館、郷土博物館、関係市役所他のご専門の皆様のご協力をいただ
きましたので歴史的な背景など正確な裏付けもあり、更に佐野支部会員の皆様の取材、
写真撮影協力も加わり、郷土史としても素晴らしく、会員の皆様から大変ご好評をい
ただいておりましたので、誠に残念でいたし方ございません。
 ここに、改めてご寄稿いただいた真木様の霊に対し御礼を申し上げる共に、謹んで
ご冥福をお祈り申し上げます。