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ラサ空港から都市のホテルへ向かう途中で見た磨崖仏。タカという絹の白布を周囲の岩に投げかけて願をかける。 |
ホテルへ向かう車の外は興味をそそるものばかり。 |
| 珍しい皮舟に乗ったチベット人、主食ツァンポの原料と |
| なる大麦の畑、家畜の群れ、ポプラの街路樹、そして色 |
| 彩豊かな磨崖仏など。市内の案内と通訳はシーチン(色 |
| 珍)、ラサ大学で日本語科を専攻した若い娘さん、観光 |
| 会社に勤める。チベットの宗教史を独学で勉強したとい |
| うことで、宗教について詳しいため、寺院の見学では名 |
| 解説振りを発揮した。 |
| ラサにあるヒマラヤホテルが我々の宿となる。テンジン(丹増)という世話役兼通 |
| 訳が迎えてくれた。彼は作家椎名誠氏の夫人渡辺一枝氏が50日間チベットを旅した |
| ときのガイドで、気に入られて日本に3年間滞在する機会を与えられた。そのため日 |
| 本語は堪能だった。 |
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| (注)人気俳優ブラッド・ビット主演で「セブン・イヤーズ・イン・チベット」と |
| いう映画になった。ハラーはオーストリアの登山家で、アイガー北壁の初登攀者。 |
| ヒマラヤ遠征中第2次世界大戦が勃発、インドで英軍の捕虜となり収容所を脱出、過 |
| 酷な旅の末チベットにたどり着き、ダライ・ラマ14世の個人教師となる。他に「白い |
| 蜘蛛」という著書がある。戦後、ナチスの親衛隊だったということが分かり、物議を |
| かもした。 |
| 「五体投地」といって、手を合わせ体を地に伏せながら数ヶ月かけて聖地ラサへ向 |
| かう巡礼者や、マニ車を回しながら経文を唱えて歩くチベット族の庶民と、新車を乗 |
| りまわす漢族などが入り混じった不思議な国。商店の看板は大きな漢字とその下に小 |
| さなチベット文字が併記されている。中国とチベットの異文化が混然と一体になって |
| いる中に、格差が感じられる。タクシーはじめ小型車は欧州車が多いが、4駆のRV |
| 車はトヨタのランドクルーザーや三菱パジェロなど日本車の人気があるようだ。 |
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| 交通規制や標識・信号などはまだ後進国という印象で、 |
ラサ川沿いを散策中に見た賭博風景。サイコロを使う、日本の「丁半」と似ている。 |
| 統制はとれていない。横断歩道の信号があっても車の方 |
| が優先したり、センターライン無視の追越しなど日常茶 |
| 飯事、すべてがクラクションで統制されている感じであ |
| る。だから事故はよく見かけたし、タクシーの助手席に |
| 座ったときは何度も肝を冷やしたものだ。(帰途、成都 |
| も観光したが、中国の大都市でもやはり交通秩序は日米 |
| 欧に比べ低いようだ。最近交通事故による死者の多さは |
| 中国政府の悩みの種と報道されていた。) |
| クラクションを鳴らす車の横行、その間をリンタク、自転車、歩行者がとりどりの |
| 服装で往来する。制服を着た軍人や警察官、都会風の中国人若者、赤い僧衣をまとっ |
| たラマ僧、ツバつきの帽子をかぶって古ぼけたスーツを着た色黒のチベット族、民族 |
| 衣装を着た少数民族、上半身裸でリヤカーを引く労働者、家の前でビリヤードに興じ |
| る人々、ラサの街は正にさまざまな人たちのオンパレードである。 |
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広場から見たポタラ宮殿の全景 |
地上117m、13階という白亜の宮殿は、正にラサの象徴 |
| であり、真っ青なチベットの空に堂々と聳える様は一大 |
| 城塞を思わせる。もともと観世音菩薩が瞑想する場所と |
| して建てられたもので、その化身とされるダライ・ラマ |
| の居住地(注1)となり、今も700人のラマ僧が修業して |
| いるという。 |
| 7世紀に創建され、その後17世紀に増築されたという。 |
| (注1:ダライ・ラマ1〜4世はデプン寺にいたが、 |
| 6世を除く5〜13世はポタラ宮に居住した。) |
| 我々はラサ滞在3日目に、宗教史を独学で勉強したという通訳兼案内役のシーチン |
| (前出)の名解説を聴きながらポタラ宮を見学した。 |
| 赤い宮殿(紅宮)と呼ばれる部分には、歴代ダライ・ラマ像やその師とされるツオ |
| ン・カバ像が並び、特に権勢をきわめたダライ・ラマ5世の、高さ17m、使用した金 |
| 3.7トンという霊塔、7世紀のとき清朝第6代皇帝の乾隆帝が政治的影響力を及ぼした |
| ことを示す“皇帝万歳”の文字、青海省生まれでモンゴル侵入のとき脱出して行方不 |
| 明になったという数奇な生涯を送ったダライ・ラマ6世像など印象深く見た。 |
| それにしても夥しい数の経文(保存性を良くするため、毒を塗ってあるという)、 |
| 小さな仏像群、立体曼荼羅など珍しく、弥勒菩薩、薬師如来、釈迦如来といった仏像 |
| と同格に、ツオン・カバ像やダライ・ラマ像が並んでいるのも、活仏として当然の扱 |
| いとはいえ、不思議な感じがした。 |
| 文化大革命のとき偶像排斥が行われ、仏像が破壊されたというが、各寺院の仏像の |
| 多くはここの宮殿に集められ、保存されたという。 |
| 外に飾られたタルチョという経文の5色の旗がそれぞれ意味があるように、仏にも |
| 白は観音(慈悲)、赤は文殊(知恵)、黒は金剛(力)と色分けされるのも、チベッ |
| ト人が色彩に対する感性を持ち合わせた民族という感じを受けた。 |
| 最後に白い宮殿(白宮)と呼ばれる部分を見学する。ダライ・ラマ13世が使ったと |
| いう謁見の間、瞑想の間、寝室などはその生活の様子を想像させ、興味深かった。 |
| (なぜかシーチンの説明の中で、インドに亡命したダライ・ラマ14世のことには触 |
| れなかった。言論統制のためだろうか。) |
| 宮殿内には、灯明として使うバターランプの独特の匂いが立ちこめ、仏像の前には |
| 色々な国の紙幣が積まれ、チベット人巡礼者、観光の中国人や短パン姿の欧米人団体 |
| など多種多様な人びとが行き交っていた。 |
| 宮殿の前は広場となっており、一部公園になっている。以前はチベット人の家が集 |
| まっていたようであるが、中国政府による解放政策によって立ち退きさせられたので |
| あろう。それを象徴するように大きな解放記念碑が立っており、古いミグ機が置いて |
| あった。 |
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| 大昭寺を訪れたのは、ポタラ宮の前の日だった。午前 |
大昭寺(ジョカン)の入口、五体投地する巡礼者の姿も見える |
| 中西蔵博物館を見学後、ラサデパートへ寄ったり、チベ |
| ット料理屋で昼食をしてからこの寺へ行った。 |
| チベット仏教修業の中心となる名刹だけに、多くの仏 |
| 像や経文が残されている。寺の中はバターランプの匂い |
| がプーンと漂い、ラマ僧が所々で修業していた。一列横 |
| 隊に並んだ男女の作業者たちが、唄を歌いながら床の地 |
| 固めをする光景は珍しかった。並べられたマニ車を次々 |
| 回したり、寺の外で五体投地をしている巡礼者の姿を目の当たりにした。 |
| 門前町は人の群れであふれ、無数のリンタクが行き交って賑やかだった。通りには |
| 露天商が並びある固定店舗では爆竹を派手に鳴らして電気製品を売り出していた。ど |
| こかで聴いたようなメロディーが流れているな、と思ったら、日本の歌謡曲「くちな |
| しの花」だった。日本製品でも売っているのだろうか。 |
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| ポタラ宮を訪れた日は、餃子屋で昼食をとってからセラ寺を訪ねた。明治の時代、 |
| 河口慧海(えかい)という日本人(注2)が滞在した名刹である。 |
| (注2:明治期の宗教家・探検家で、2度にわたり当時厳重な鎖国下にあったチベ |
| ットの聖都ラサへ、日本人として初めて潜入し、仏教学界、探検史に寄与 |
| した。著書『西蔵旅行記』にはヒマラヤを越えての苦難の冒険行が記述さ |
| れている。世田谷区九品仏に記念碑がある。) |
セラ寺で問答修業(弁教)する若い僧たち |
400人のラマ僧が修業するという。中庭へ行くと、弁教 |
| と呼ばれるラマ僧の問答修業の光景が見られた。 |
| 何グループかに分かれた若い僧たちが座り、そのうち |
| の2人が相対して問答をする。そのうちの1人が立ち、 |
| 座っている僧へ向かって次々に質問を発し、それに答え |
| るのだが、これは正式な学位をダライ・ラマ(現在はパ |
| ンチェン・ラマ)から取得するための練習なのである。 |
| この光景の撮影は許可されている。結構楽しそうであ |
| り、欧米人が目を丸くしてこの光景を見ているのが印象的だった。 |
| 寺には釈迦如来、弥勒菩薩、文殊菩薩、ツオン・カバなどの像をはじめ、六道輪廻 |
| (ろくどうりんね)の絵画や、バターで造ったバター花などあり、五葬といって、 |
| 鳥・土・火・水・塔の5種の葬儀が身分によって区分されるという説明があった。 |
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| 1.食べある記 |
| (1)大衆食堂 |
| ラサ滞在中は、ヒマラヤホテルのレストランは高価なので、向かいにある大衆食堂 |
| 「経済便餐」で朝食をとるのが常だった。メニューはおかゆ、肉まん(包子)、ゆで |
| 卵、豆乳、揚げパン(油餅)などのほか、大根の塩漬けはさっぱりして良かったし、 |
| 餃子やピータンは旨かった。夕食も何回か利用したが、肉めし、チャーハン、豆腐料 |
| 理、羊肉料理、松茸スープなどなかなかいけた。1人4元(1元≒14円)程度で安い |
| ので、金のなさそうなチベット人の若者がこの食堂をときどき利用していた。ビール |
| は「拉薩ビール」とか「青島(チンタオ)ビール」が置いてあったが、初めてこの食 |
| 堂で飲んだときは一口でカーッとなってしまった。ビールが強いのではなく、まだ |
| ラサの高度(3600m)に身体が順応していなかったせいであり、翌日からは馴れた。 |
| 因みにホテルのレストランで夕食をしたとき1人40元だった。 |
| (2)チベット料理 |
ジョカン寺の門前町にあったチベット料理店で昼食、ヤクという動物の肉料理が特徴である。 |
ジョカン寺の門前町にあるチベット料理店で昼食をし |
| たことがある。9品ほどオーダーしたが、チベット料理 |
| はヤクという高地・寒冷地に強い体毛の長い牛の一種で、 |
| 登山のときなどは荷物の運搬に使う動物であり、その肉 |
| が使われるのが特徴である。例えばヤクの肉と大根の入 |
| ったスープとか、ヤクの舌の焼肉とかである。全体とし |
| て辛い味付けだった。 |
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| (3)イタリア料理 |
| チベットでイタリア料理というのも変だが、好奇心の強い我々は登山後に一度イタ |
| リア料理店へ夕食に行った。ステーキ風のヤクの肉もあったが、やはりピザ、マカロ |
| ニスパゲティなど当たり前のイタリア料理が主体になった。 |
| 料理よりも雰囲気のあるレストランという印象で、ローソクの灯った中世のヨーロ |
| ッパ風であり、我々以外は欧米人観光客ばかりだった。 |
| (4)家庭料理 |
| ラサ最後の夜は、ガイドのパサンが最近建てたという豪邸へ晩餐に招待してくれた。 |
| パサン自身が調理したという何種もの料理で、鶏肉の煮込み、えび料理、羊の焼肉、 |
| 羊の肺、ところてんのような食材とキュウリ・ニンジンの炒め物、チンゲンサイのス |
| ープなどが並べられ、中でもドクダミのお浸しはくせがあるが珍味だった。 |
| プラという大麦の蒸留酒(焼酎)を勧められたが、強すぎてまともに飲めたのは広 |
| 島のK氏1人だけだった。 |
| (5)四川料理 |
| 帰途成都に寄ったとき、「チベット聖地株式有限公司取締役会長」という肩書きを |
| もつ実力者、スーピン(蘇平)氏の招待で一流の四川省料理店に入った。 |
| 大きな広間には中国人たちが幾組もテーブルを囲んで賑やかにディナーを楽しんで |
| いた。料理そのものは日本の都市によくある中華料理店の高級コースくらいだったが、 |
| 店内の雰囲気は豊かになった中国の一面を見る思いだった。 |
| (6)餃子料理 |
| ラサでも成都でも餃子料理を食べたが、専門店は何種もの餃子料理が用意されてい |
| る。ご存知のように中国人は蒸し餃子、水餃子として食べ、焼き餃子はあまり食べな |
| い。我々は特別に注文して焼き餃子を作ってもらった。成都では8種の餃子を食べて |
| 1人13元だった。 |
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| 2.見てある記 |
| (1)ラサ川とボンブリ山へハイキング |
| 宿泊したヒマラヤホテルの近く、ラサ川に面して中国人 |
ラサ川沿いを散策中に見た賭博風景。 |
| 民解放軍の駐屯地があり、ホテルの8階のベランダからは |
| 兵舎の一部が見えた。いつも朝は兵士たちの掛け声が聞こ |
| えてきた。ラサ川を散策したとき、門の近くに近づいたら |
| 衛兵に咎められた。 |
| 対岸で格闘訓練中の兵士たちを見たが、こちら側の岸で |
| チベット人の女性たちが平和そうに洗濯している光景と対 |
| 照的だった。ラサ川では護岸工事が行われており、日本の |
| 丁半に似た賭博光景も目にした。 |
| 登山中最初に高山病になって山からリタイヤし、回復してからずっとホテルに滞在 |
| していた静岡のTさんと二人でボンブリ(崩布)山へハイキングした。この山はラサ |
| 川の対岸に聳える岩山で、チベット人の信仰の対象になる聖山である。 |
| その朝はホテルで言葉のさっぱり分からない中国のドラマを見ていたら、正に反日 |
| ドラマで、旧日本軍の将校がひどい悪者に仕立てられていた。最近温家宝首相が来日 |
| して日中関係は「氷を解かす」関係になったと言われるが、当時重慶でのアジア・カ |
| ップ・サッカーで反日的騒動が起こったように、マスコミを利用して反日感情をあお |
| っていたとしか思えなかった。 |
ボンプリ山の頂上は「タルチョー」と呼ばれる経文の書かれたカラフルな旗が沢山あった。 |
さて、ボンブリ山はラサ大橋を渡ったところにある建 |
| 材工場を通り抜けて登山道が始まる。中腹に祈祷所があ |
| り、夥しい数のタルチョーと呼ばれる祈祷文を書いた5 |
| 色の旗がかけられ、風になびいていた。枝をくべて立ち |
| 上る煙の中でチベット人たちが祈りを捧げていた。山の |
| 頂上にもタルチョーが沢山あった。 |
| 山の途中には高山植物の花が咲き、ラサの市街や蛇行 |
| するラサ川の美しい河原や中洲が眼下に見え、ポタラ宮 |
| 殿も確認できた。 |
| (2)足按摩を体験 |
| 登山の前に隊長の伊東氏が推奨する足按摩へ、話の種にと出かけた。店の看板には |
| 「良子足道」と書いてあった。いわゆる按摩やマッサージとは若干異なる方法で、座 |
| ったままの姿勢ではじめにかなり熱い湯に足を漬け、1時間半くらいかけて足先のツ |
| ボを刺激しながらもんでもらう。20歳前後の若い娘たちがマンツーマンで行う。費用 |
| は1人60元(約840円)。登山後もリクエストが多く、同じ店へ行った。登山で疲れた |
| 足の回復には大いに効果があるようで、快適だった。娘たちは5、6人常勤していた |
| が、養成学校で訓練を受け、中国から出稼ぎに来ているようで、月1000元(約14,000 |
| 円)の手当てをもらうという。一般に足の裏には身体の全機能が集中していわゆるツ |
| ボがあり“第2の心臓”と言われるが、理にかなった疲労回復法だと思った。 |
| (3)その他 |
| 民族衣装などを展示した西 |
西蔵博物館で見た民族衣装。身分の違い、儀式によって色々な衣装が展示してあった。 |
テンプ寺の近くのある絨毯工場で働く女子の職工さん。若い男女が美しい絨毯を編んでいた。 |
| 蔵博物館、ラサの代表的なデ |
| パート「拉薩大百貨楼」。 |
| 観光向けのみやげ物店「民族 |
| 旅遊商城」など好奇心をもっ |
| て見て回った。 |
| 手作りのアクセサリーやバ |
| ッグなどの商品のほかにマニ |
| 車や数珠が多いのはいかにもチベットらしかった。 |
| 印象的だったのは、デプン寺の近くにある絨毯工場を見学したこと。通訳のシーチ |
| ン(前出)の案内で出かけたが、若い男女の職工10人位が薄暗い建物の中で、楽しそ |
| うに絨毯を編んでいた。シーチンは彼らの月給1000元(14,000円)位と説明していた |
| が、伊東氏はとてもそんなに高給は取っていないだろうと言っていた。 |
| 私は目的の山を登った後、胃腸が不調でベースキャンプへ着いてからラサの「西蔵 |
| 自治区人民病院」へ入って検診を受けた。「観留」といって検査を受けたり、酸素吸 |
| 入や点滴を受けたが、高山病の症状がないということがわかると、一晩で無罪放免と |
| なった。一緒に診察を受けたIさんは肺水腫か脳浮腫という重い高山病の疑いがある |
| というので2晩拘留され、心電モニターをつながれていた。 |
| 一晩入院したおかげで、貴重な体験をした。そのひとつがトイレである。当時中国 |
| のトイレはひどいと聞いていたが、自治区立の病院といっても扉が壊れていたり、仕 |
| 切りが低く立ち上がると隣が丸見えというお粗末なものだった。 |
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| 出発の日の朝食時、パルスオキシメーターという計測器(体内の酸素不足の程度を |
| 調べるためのもの)で測ると、血中酸素飽和度82%、心拍数62で、まずまずの及第点 |
| だった。我々の宿泊したヒマラヤホテルには他の登山隊も同泊していたが、日本隊が |
| もう一組来ており、その隊長が大蔵喜福(よしとみ)氏、有名な登山家で、椎名誠の |
| 「あやしい探検隊」シリーズには“たわしひげの大蔵”として登場する。ホテル前で |
| 一緒に写真を撮り、お互いの健闘を祈って分かれた。 |
| 2台のランド・クルーザーに分乗、他に荷物運搬用の中国製トラックと計3台で出 |
| 発。「青蔵公路」という国道を行くと、至る所で鉄道の敷設工事が行われていたが、 |
| これが本稿の冒頭で紹介した青蔵鉄道として2年後に開通することになる。 |
| 羊八井(ヤンパーシン)という地方に入ると、雪を頂いた山々が現われ、興奮した。 |
| 国道から分かりにくい分岐点で、僅かに轍(わだち)が残る程度の道に入った。ある |
| ようでないような道で、湿地あり、小川あり、石のごろごろした所ありで、運転手の |
| 腕の見せ所だったが、しばしば立ち往生するのだった。ヤクや羊を飼う牧畜業の集落 |
| がポツリポツリとあり、土で固めた粗末な家屋や塀が見られた。 |
| ラサから150kmのベースキャンプ(BC)は標高4,640m、すでにアルプスのマッター |
| ホルンの頂上より高い位置である。 |
ヤクの毛を紡ぐヤク使いの青年 |
広々としたなだらかな丘陵に囲まれ、広大なチベット |
| 高原を見下ろし、その彼方には高峰が連なる。近くには |
| 氷河から流れてくる乳白色の川があり、あちこちに愛ら |
| しいリンドウが咲き、丘には羊飼いと犬に追われた羊の |
| 群れが移動しているのが見える牧歌的でのどかな別天地 |
| だった。 |
| 食堂兼炊事場の大きなテントと、隊員用のドーム型テ |
| ント4張が設営される。チベット人のヤク使いやポーター |
| たちが興味深げな顔をして集まってくる。一人の精悍な |
| 感じの青年はヤクの毛を独楽のような道具でくるくる回しながら紡いでいた。コック |
| は若い青年二人、そのうちリーダー格はズダンという利発そうな明るい若者だった。 |
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| 3日目に、外でポーターたちが飲んでいたバター茶というのを一口飲ませてもらう。 |
| チベット人の常用茶だが、くせのある風味がして慣れないと違和感がある。 |
| 荷上げに使うヤクが14頭集まった。ヤク使いたちがヤ |
ヤクに荷物を載せる光景 |
| クの毛で縒った20mもあるロープ2本を張って、それに |
| 1頭ずつ轡(くつわ)を結んで整列させ、荷物を括りつ |
| ける。壮観な光景だ。中には荷を乗せられるのを嫌って |
| 逃げ出すヤクもいた。普段おとなしいのに、ヤク使いの |
| 怒声にも言うなりにならず、反抗的な性格を示すときも |
| あるようだ。他にポニーが3頭、これはポーターたちの |
| テントや器材の運搬用らしい。 |
BCからC1へは馬で行く |
我々隊員はやや小型のがっちりした馬に乗り、1人ず |
| つチベット人がついた。乗馬は初めてだったがすぐ慣れ |
| た。どんな崖っぷちや川の渡渉でも、馬に任せて自然体 |
| で力を抜き、馬のリズムに合わせて座っていればよいよ |
| うだ。段丘を越えたり、河原に沿ったりして、チュガ谷 |
| の奥へ進むと白く輝く6,000m級の山々が近づいてきた。 |
| 最後は大きな段丘にぶつかって馬を降り、徒歩で上に登 |
| ると、200mを超える岩壁の下に広い河原が広がり、そこ |
| が第1キャンプ(C1)の予定地だった。標高5,170m。 |
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| 4日目、C1からC2へ。朝食でお粥が多いのは、前日のアルファ米(山で使う乾 |
| 燥米)の残りを利用するからで、それに味噌汁と梅干というあっさり系のメニューが |
| 多い。高山病の症状がひどくなったIさんはC1に残り、回復したら後から追いかけ |
| ることになった。C1から上はもうヤクが歩けない険しい地形であり、11人のポーター |
| たちが共同装備を分担して運び、我々隊員は行動用の荷物だけを持った。河原や氷河 |
| の雪上を歩いたりして、モレーン(堆積地帯)の段丘を3つ程超えたとき、突然ポー |
| ターたちが騒然となった。この地点が第2キャンプ(C2)地点と勝手に思い込み、 |
| これ以上荷を運べないとサボタージュを起こしたらしい。 |
荷上を終えたポーターたち、若い娘さんもいた |
| 彼らは1回当たりいくらという手当てを受けるので、荷 |
| 上げ距離が短ければ楽ができるわけである。扇動したの |
| は一人の年長のポーターらしかった。 |
| これまで黙って後方を歩いていた伊東隊長が大声で一 |
| 喝すると、自ら先頭を歩き出した。意味を解した私も伊 |
| 東さんに従い、「もっと先まで」とポーターたちを促し |
| た。するとどうだろう、元気な若いポーターたちが声を |
| 上げながら先を争うように指示された方向へ駆け出した |
| のだ。文句を言っていたらしい年長のポーターも仕方な |
第2キャンプと6000m級の山々 |
| しについてくるのだった。 |
| 最前線キャンプのC2は標高5,500mの、開けた眺めの |
| よい平坦地で、明日アタックする未踏の山チュガチュチ |
| ン峰はじめ、6,000m級の山々がもう目と鼻の先にあった。 |
| 居住用テント2張と、炊事場兼食堂のテント1張が設営 |
| された。設営を終えたポーターたちは下り、そのあとコッ |
| クのズダンたちも下って行ったのでC2は隊員6人だけ |
| になった。 |
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| 5日目、いよいよ登頂日。血中酸素飽和度64%、心拍数80、昨夜少し酸素ボンベで |
| 酸素を吸ったので少し改善されたようだ。目指すチュガチュチン峰は6,174m、アラス |
| カのマッキンリーとほぼ同じ高さである。長い長い雪原(氷河)を赤旗の付いた標識 |
| ポールを立てながら登り続けた。5時間以上もかかって漸く稜線のコル(鞍部)に達 |
登頂したチュガチュチン峰(6,174m) |
する。ここは6,000mを超えている。そこからの雪稜は技 |
| 術的には易しかったが、高度による辛さは身体にこたえ |
| た。そのうえ二度にわたって瞬間的に風雪が襲ってきた。 |
| 幸いそれは長続きしなかった。トップに立った私の足に |
| 装着した12本爪アイゼンの爪あとは、この山が生成以来 |
| 初めて人間の歩行を許した刻印でもあった。最高点が近 |
| づくにつれ、言い知れぬ感動が私の五体を覆い包もうと |
| している。そして17時25分、頂上に着いた。未踏の山の |
| 頂点に立つ夢が生涯に一度でも叶えられれば、山を志す者にとってこんな幸せなこと |
| はないだろう。先ほどの風雪も忘れたように去って、いま四囲は開け、ぐるり360度の |
| 大パノラマが展開している。入山以来、いつも山頂部を雲に覆われていたこの山群の |
| 主峰ニンチェンタングラ峰(7,162m)がベールを脱いでその雄姿を現していた。従う |
| ように連綿と居並ぶ5,000〜6,000m級の無数の山々、蒼い湖面を山と山の間に見せてい |
| るのは、チベット最大の塩水湖ナムツォウだ。 |
| この日登頂できたのは8人の隊員のうち4人だけ。多くは大なり小なり高度障害の |
| 症状が出ており、BCやC1で涙を呑んだ人もいれば、アタック当日時間切れで登頂 |
| を断念する人もいた。前月には一緒に体力強化のため利根川水源の山を登ったり、高 |
| 度順応のため2度にわたって富士山に登り、頂上でビバーク(簡易露営)して備えて |
| きたパートナーのIさんは、高山病でC1までしか登れなかった。私も登頂後は胃の |
| 不調に苛まれたが、限られた日程の中で、登頂の日まで高所順応も比較的順調に推移 |
| し、頂上を踏めた1人であったことは幸運だったと言えるだろう。 |