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| 1.はじめに |
| 2010年2月、突然の大病に見舞われた私は例年楽しみにしていた冬山から遠ざかざ |
| るを得なかった。退院から9ヶ月、体力もまだ7〜8割しか回復しなかった2011年1 |
| 〜3月、目標を失っていた時期にひとつの曙光を投げかけてくれたのが「大山街道完 |
| 歩」の実現だった。東京から相模原に移り住んで40年、晴れた日にはいつも丹沢の山 |
| 々を眺めて暮らしている。特にその左端に際立って端正な山容を見せているのが相州 |
| 大山(雨降山)である。そこには古くから石尊権現を崇拝する大山信仰が根付いてお |
| り、かつて「大山参り」として大山講を組んで多くの人々が江戸などから参詣に訪れ |
| た。その江戸から大山に至る大山街道をたどって、往年の人々が同じ空の下で眺めた |
| であろう風景を偲んでみようと思い立った。 |
| その夢を実現させるひとつの機会があった。山の団体で知り合って、今でも西丹沢 |
| の河原で一緒に夜を明かしたりするドクターで、平塚で開業医をしている人がいる。 |
| その人が主宰する会で催した講演会に招待された。そのときのテーマが偶々大山街道 |
| に関するもので、講師の著書(注)が会場で販売されていたので購入し、その本をガ |
| イドブックにして歩いてみようと思ったのである。 |
| (注)中平龍二郎著『ホントに歩く大山街道』(2007年発行、風人社) |
| 2.大山街道の概要 |
| 大山街道は、昔から一般には「大山道(おおやまみち)」と呼ばれているが、多く |
| の道が大山へ向かっていた中でメインの通りが「矢倉沢往還」であり、東海道の脇往 |
| 還として江戸時代に整備された道である。矢倉沢往還は区間によって「青山道」「厚 |
| 木街道」「富士道」などとも呼ばれ、伊勢原、矢倉沢から足柄峠を越えて沼津方面へ |
| 続いている。東海道が大名、武士などの往来にも利用された国道的大動脈であるのに |
| 対し、矢倉沢往還は主として煙草、生糸、茶、炭などの物資を相模、駿河、伊豆など |
| から江戸へ運ぶ経済的動脈でもあった。 |
| 私の歩いた道、すなわち赤坂御門から大山までのルートは、その大部分が矢倉沢往 |
| 還と重複している。厚木市と伊勢原市の境辺りまでは現在の国道246号線に大方沿って |
| はいるが、重複しているのは一部であり、大部分の区間は分離している。江戸中期以 |
| 降、赤坂御門と大山を結ぶ大山街道は、伊勢原(現伊勢原市)や曽屋(現秦野市)を |
| 登山口とする大山登拝のコースとなった。大山講に参加する人々は、両国にある垢離 |
| 場(こりば)で「懺悔懺悔(ざんげざんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」 |
| 「大山大聖(だいしょう)不動明王」「大天狗子天狗」などと唱えながら、一週間水 |
| ごりをして身を清めたという。長屋の熊さんたちが登場する落語で知られるように、 |
| 江戸庶民に広まった大山詣で(大山参り)の道として利用され、ガイドである先達に |
| 引率されたツアー旅行的な色彩をもつ観光の道路でもあった。 |
| 3.行程 |
| 実際に歩いた行程は以下の通りである。2011年1〜3月の3ヶ月間にわたって歩を |
| 進め、結果として10回にわたって歩いたことになる。東京に出かけるときに途中下車 |
| して歩いたり、雨天になって予定より短い距離で切り上げた日もあったが、1回ずつ |
| 無理のない歩程を履きなれた運動靴で、ガイドブック片手にウォーキング気分で楽し |
| く歩いた。 |
| @1/11 赤坂御門〜三軒茶屋 約8km 2時間 |
| A1/25 三軒茶屋〜梶ヶ谷 約10km 3時間25分 |
| B2/2 梶ヶ谷〜江田(荏田) 約8km 3時間20分 |
| C2/8 江田〜長津田 約12km 3時間30分 |
| D2/14 長津田〜すずかけ台 約2.5km 1時間15分 |
| E2/22 すずかけ台〜さがみ野 約8km 4時間 |
| F2/26 さがみ野〜本厚木 約11km 3時間30分 |
| G3/5 本厚木〜愛甲石田 約7km 3時間 |
| H3/17 愛甲石田〜追分 約11.5km 5時間30分 |
| I3/26 追分〜大山頂上 約7km 3時間 |
| 4・街道日記 |
| (1)赤坂御門から三軒茶屋へ(1月11日) |
@起点となる赤坂御門跡の石垣 |
| この日は京橋で会合があるので早めに上京し、午後3 |
| 時過ぎから地下鉄「永田町駅」を振出しに歩き出した。 |
| 大山街道起点の赤坂御門跡の石垣、背後には間もなく閉 |
| 館し生まれ変わるというグランドホテル赤坂がそびえて |
| いる。右に弁慶橋(堀)を見て国道246号線(青山通り) |
| へ。この日は豊川稲荷に初詣でして直進するが、後日本 |
| 来の街道筋である牛啼(鳴)坂を歩いてみた。現在はビ |
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| 「大山講」の人々はどんないでたちで歩いたのだろうか。一つのヒントとして歌川 |
| 広重の「東海道五拾三次」のうち、「藤沢」に描かれたさまざまな人々の姿を見ると |
| 鉢巻をして大きな木太刀を担いだ男を先頭に、境川にかかる大鋸橋(だいぎりばし、 |
| 現・遊行寺橋)を渡る一行が「大山講」の人たちらしい。揃いの法被を着ており、江 |
| 戸の職人たちと思われる。この絵は大山詣でとセットでツアー・コースになっていた |
| 江ノ島詣でのものであろう。 |
| 大山に参拝するときは、先達である御師の宿坊で白装束に着替えたのではないかと |
| 思う。 |
| 4.街道日記(前の続き) |
| (2)三軒茶屋〜梶が谷(1月25日) |
| 前回に続いて、三軒茶屋駅をスタートし、二子玉川を経て梶が谷まで約10kmのコ |
| ース。用賀までは世田谷通りから行くコースと、玉川通りから行くコースがあり、後 |
| 半期利用されたという後者をとる。分岐点にあたるこの三差路には江戸時代、三軒の |
| 茶屋があったことから「三軒茶屋」の地名が生まれたという。国道246号から外れて旧 |
| 道の中里通りに入り、名残りをとどめる庚申塔や地蔵尊を見て再び国道へ。上馬交差 |
| 点で環7を渡ると、駒沢大学の学生たちの群れに呑み込まれそうだ。新町1丁目の交 |
| 差点から国道を離れ、右の新玉川線(地下)沿いの道に入る。桜新町駅から用賀駅付 |
| 近の市街を過ぎると首都高のガードをくぐり、田中橋を渡る。この川は豪雨になると |
| 冠水し、旅人を困らせたらしい。用賀という地名は、鎌倉時代に今でいうヨーガの修 |
| 験道場があったことからつけられたという。 |
| 三軒茶屋で分かれた街道は一旦合流し、延命地蔵のある場所から再び二つのコース |
| に分かれる。ここからは右の道を選んだ。選択基準は何もなく、“足の向くまま気の |
| 向くまま”の旅である。こちらの道には真言宗の慈眼寺や瀬田玉川神社があり、まも |
| なく二子玉川駅だ。ところが賑わう駅付近で方角が狂ってしまい、結局交番で道を尋 |
| ねる羽目に。山では勘のはたらく私も、都会ではよく“道迷い”する。「二子の渡し」 |
| に訪れようと思ったが、工事現場があって確認できなかった。ここの渡しは昔大山街 |
| 道の難所で、暴れ川だった多摩川は架橋しても増水のた |
@二子の渡し場入口跡 |
| びに流失するので、結局渡し舟に頼ったという。大きな |
| 二子橋を渡るとき、大菩薩連嶺、奥多摩三山、雲取山な |
| どが望見された。これらの山々は私が山を始めた頃に最 |
| 初に登った想い出の山々だった。世田谷区から川崎市高 |
| 津区へ、二子橋を渡ると狭い場所に「二子の渡し場入口」 |
| と書かれた柱があった。このあたり、二子新地はかつて |
| 「花街」だったという。 |
| 二子神社を過ぎ、高津、溝口に至る道は二子宿、溝口宿のあった街で今でも「大山 |
| 街道」と呼ばれ、毎年2月には「大山街道フェスタ」という祭りが行われて今でも活 |
| 気にあふれた街である。高津図書館の入口には国木田独歩の碑があり、碑文は島崎藤 |
| 村の筆になる。「大山街道ふるさと館」へ寄って往時の風景写真を見学する。高津、 |
| 溝口間には古い造りの商店があり、かつての溝口宿の面影が残っていた。溝口神社に |
| 参拝し、溝の口駅入口を経て梶が谷駅にゴールする。今日は約10km、3時間25分、 |
| 約2万歩の歩程だった。 |
| (3)梶が谷〜荏田(江田)(2月2日) |
A高津の子育て地蔵堂 |
B高山の四等三角点 |
この日は厳しい寒さがや |
| や弛んだ感じのする日だっ |
| た。午後出かけて梶が谷駅 |
| から歩き出し、国道246号を |
| 渡って宮崎大塚へ寄る。こ |
| こだけ盛り上がって古墳だ |
| か何だかわからないらしい |
| が、頂上には供養塔があっ |
| た。この辺り、戦時は高射砲陣地があったという。 |
| 庚申坂を下り、宮崎台駅の北を通ったが、どうも別の |
C鷺沼の阿弥陀堂 |
| 道を歩いているらしいので一旦宮前平駅へ下って位置を |
| 確かめ、出直す。田園都市線のガードをくぐり、小台坂 |
| を登る。昔は急坂で、長雨ではぬかるんで通行困難だっ |
| たらしいが、今は道幅も広く、勾配も緩くなっている。 |
| 高山と呼ばれる坂の頂点には民家の間に四等三角点 |
| (746.6m)があった。鷺沼駅入口から八幡坂を下り、 |
| 246号に出て右に阿弥陀堂を見る。 |
| 鷺沼の地名は昔小さな沼がいくつかあり、「サギが飛来する沼」からつけられたら |
| しい。 |
| 川崎市宮前区から横浜市都筑区に変わった辺りで道に迷ってしまう。今日はこれま |
| でか、と半ば諦めながら歩くうち先刻通った見覚えのある街角に出たので、もう一度 |
| 現在地を確かめて出直した。この周辺は屈曲点が多くて目印がないのでややこしい区 |
| 域だ。細い尾根道があり、昔の街道を彷彿とさせる貴重な部分だろう。坂を下りたと |
| ころは牢場谷(ろうばやと)と呼ばれ、「牢屋のあった |
D荏田下宿の庚申堂 |
| 場所」と記した文献もあるらしいが、「ろうば」は出入 |
| り口の狭い地形の谷戸のことのようだ。市営地下鉄の高 |
| 架橋を渡り、住宅地を行くと、左側に霊泉・不動滝があ |
| る。水は滴る程度落ちており、仏像が置かれていた。 |
| 石段を登ると老馬鍛冶山不動堂があり、隣には稲荷社も |
| あった。早瀬川を渡るとすぐに庚申堂がある。荏田下宿 |
| の女性たちが災い除けのため、寛政年間に建てたという。 |
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| この先にある大林寺という寺には、長津田領主だった |
お七稲荷 |
| 旗本岡野氏の墓がある。その近くに「お七稲荷」という |
| のがあった。有名な八百屋お七を祀るものだが、通りに |
| 背を向けた小さな社殿だった。なぜここにあるのか未調 |
| 査である。最後に長津田駅にゴール。 |
| 今日はロスを含め約12km、3時間30分、約24,000歩 |
| だった。 |
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| (5)長津田〜すずかけ台(2月14日) |
| この日、京橋にある山岳団体の事務局へ書類を届ける用事があり、その帰りに渋谷 |
| から田園都市線でスタート地点である長津田駅へ回るつもりであった。ところが渋谷 |
| へ行くと、人身事故があったとかで田園都市線は全線不通になっていた。仕方なく新 |
| 宿へ回って小田急線で町田へ出て、JR横浜線に乗換え長津田へ出た。南口の改札を出 |
| たのは午後3時に近い。 |
| 最初に大石神社へ向かうと、急坂の上に上宿常夜灯があるという説明版があったが、 |
| そのものは見当たらず、地神塔と秋葉講の石碑がある。常夜灯は前回8日に見た場所 |
| へ移設されたのだろう。秋葉講は静岡県浜松市の、火祭りで知られる秋葉神社の流れ |
| らしく、防火・鎮火の神を崇めるという。 |