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| 現在筆者が従事している自動車用サスペンション機器の協働開発や開発提案を採用 |
| いただいている大手自動車メーカーが所属している日本自動車工業会および部品工業 |
| 会が、3.11東日本大震災で被害を受けた東京電力福島原子力発電所の発電ストップ |
| からもたらされた電力不足に対応するため、これら工業会に属する企業では消費電力 |
| 量が嵩む木・金曜日を休日にし、代りに土・日曜日を出勤日にする策がこの夏には行 |
| われています。 |
| 筆者はこの変則の出勤日交代の開始時期を狙って、愚妻を伴い6月28日(火)から |
| 3泊4日のフリースティで登別温泉に出掛けました。まだ梅雨明け前で、梅雨前線が |
| 日本列島を真横に横断して架かっていたときでしたので、天候は今ひとつ不安定でし |
| た。滞在中の一日レンタカーで登別の奥からクッタラ湖、オロフレ峠を経て洞爺湖、 |
| 壮瞥、室蘭、苫小牧とドライブをしました。そのときも山の中は深い霧に包まれ、山 |
| 並みも谷や渓谷、湖沼も眺望が利かず、あまり楽しめませんでした。 |
| その日クッタラ(倶多楽)湖畔の一軒だけあるレストハウスの駐車場脇で見たこと |
| のない、大きな葉の植物が、中央の芯が大きな花の蕾を上に伸ばそうとしているのを |
| 見付けたのです。早速帰宅後その写真を添えて、鎌倉市にある神奈川県立フラワーセ |
クッタラ湖畔のオオウバユリ1 |
ンター大船植物園に鑑定を依頼し、オオウバユリ |
| 〔Cardiocrinum cordatum Makino var. glehnii〕である |
| と教えてもらいました。 |
| 和名は漢字では「大姥百合」と書かれます。この植物 |
| はユリ科ウバユリ属ウバユリの変種の多年草で、関東地 |
| 方以西から四国、九州に分布するウバユリより大型で、 |
| 花の数も多いため変種として取り扱われ、オオウバユリ |
| と別に名が付いています。学名にはウバユリと区別する |
| ため命名者の牧野富太郎博士の名前が入っています。本 |
クッタラ湖畔のオオウバユリ2 |
| 州の中部以北、北海道に分布し、やや湿り気のある林の |
| 中や林の縁に自生するものだそうです。茎は伸びると1.5 |
| 〜2.0mくらいまでの高さになり、7〜8月の花期には10 |
| 〜20個の黄褐色の花を付けるようです。この鱗茎(いわ |
| ゆるユリ根)は澱粉を含み、アイヌはトウレプの名で食 |
| 用にしています。アイヌ民族が用いる植物質の食品の中 |
| では穀物以上に重要な位置を占めていると言われていま |
| す。 |
| ここまでなら、いつもの好奇心の弾みで、ちょっと変わった植物だと気付いて、写 |
| 真に撮ったものが、専門家によって同定されただけのことで、何も改めて文章にして |
| 残す程の事ではなかったのですが、どうも毎度偶然が重なるもので、2011年7月17日 |
| (日)の The Japan Times の10面に北海道に住み、東南アジアの野鳥や日本の野鳥観 |
| 察に関する著作で有名な世界的なナチュラリストであるマーク・ブラジル(Mark Braz |
| il)氏が日本人の緑に対する関心の高さ讃えつつ、これからの日本、地球に緑の保護 |
| が必要であることを約紙面半分を使って書かれているのに気付いたのです。それとい |
| うのも、その文章の中では、特にオオウバユリについて書かれていた訳ではなかった |
| のですが、紙面を飾る写真として夏期のオオウバユリの花と秋の実が階段状に上に伸 |
| びている植物全体が載せられていたのです。オオウバユリのご自身が撮られた写真が |
| 紹介されていました。 |
The Japan Timesの7月17日当該写真を合成 |
原文では“Pictures of lily: A towering Heartleaf |
| lily in woods near my home in autumn, and one in |
| flower in August.” |
| 拙訳するまでもありませんが、念のために記せば、「ユ |
| リの写真:秋に自宅の森で見たタワー状に実を付けたオ |
| オウバユリ(注:『ハート型の葉のユリ』直訳すればこ |
| うなりますが、これが英文の名称なのです)と8月に開い |
| たその花」となりましょうか。 |
| この説明文からオオウバユリは英文名では“Heartleaf lily”と呼ばれるのだとい |
| うことが分ったのですが、なるほど筆者が見付けたときにも、瞬間感じたことは葉が |
| ハート型をしていて、スミレ(菫)やアオイ(葵)のようだなと思ったことで、まさ |
| かユリ科の植物だとは思いも及びませんでした。 |
| それにしても、筆者が北海道でする行為には全くの偶然なのでしょうが、不思議な |
| ことが重なるのです。以前に阿寒湖近くのオンネトーの紅葉を絵にしたときの構図が、 |
| その作品を展示した個展が開かれる数日前に、朝日新聞紙上に著名な写真家が自分の |
| 一番好きな紅葉の名所としてこのオンネトーを挙げられ、作品として殆んど筆者の拙 |
| 作と違わぬ構図の紅葉の写真が掲載されていたことがあり、そのときにはそのことを |
| 展覧会場で新聞記事を示して、説明させてもらったことを今でも鮮やかに思い出せま |
| す。 |
| また今回は、大船植物園の担当者からオオウバユリである旨の同定の通知を受け取 |
| ったのが7月13日(水)で、4日後の新聞で上記の記事が特にその記事の内容とは関 |
| 係がないにも拘らず、写真としてオオウバユリが取り上げられて紹介されているとは、 |
| あまりにも偶然にしても何か一種の恐ろしささえ感じないわけにはゆきません。 |
| 了 |
| (2011年7月17日 記) |
| | | |
| 1995年ごろから神奈川県湘南地域を中心に、チョウ目タテハチョウ科に属する“ア |
| カボシゴマダラ”の棲息が蝶や昆虫の関係誌に次々と報じられ、2008年ごろから朝日 |
| 新聞、読売新聞等の紙面にも藤沢市、鎌倉市、横須賀市、二宮町などでの捕獲記録や |
| 生態写真が載せられるようになった。以来何時の日か筆者の住む横浜市港北区の日吉 |
| 地区にもこのアカボシゴマダラの姿が見られることと期待していた。しかし、残念な |
| がら昨年までは自分の目で確認することは出来なかった。それが今年に入って、近所 |
| を歩いているときに、高い樹木の上を悠然と飛んでいる模様はゴマダラチョウに似て |
| いるが、飛び方がもっとゆっくりしたまがいもなきアカボシゴマダラの個体を見る機 |
| 会がぐーんと増えてきた。 |
チョウ目タテハチョウ科に属する “アカボシゴマダラ” |
アカボシゴマダラは和名で、リンネが中国広東産の標 |
| 本で最初の命名をした原亜種は中国語で『紅星斑◇蝶』 |
| と言い、英名では“Circe”(ギリシャ神話の魔女キルケ |
| ーに因んで名付けられ、魅惑的な女とか妖婦型の美人を |
| 指す名刺が当てられている。多分成虫=蝶の状態になっ |
| たもの=が毒蝶のマダラチョウ類に擬態していることに |
| 起因していると思われる)とか、別に”Red Ring Skirt” |
| とか“Nymphalid Butterfly”と呼ばれることもあるよう |
| である。あらゆる蝶の中でも最も早く発見され、命名された種類の一つで、我が国で |
| は本来奄美大島と加計呂麻島に分布する亜種を除いて、本州に現れている中国原産亜 |
| 種は「要注意外来生物」に指定され、人工交配種の誕生を防ぐために、要観察中の蝶 |
| である。 |
| 学名では、中国、ヴェトナム、朝鮮半島に分布する原亜種は |
| “Hestina assimiles Linne”、 |
| 台湾の亜種は |
| ”Hestina assimiles formosana Moore”、 |
| そして我が国の奄美大島と加計呂麻島に分布する亜種は |
| “Hestina assimiles Linnaeus” |
| と3学名が区別されて登録されている。 |
| 筆者が今年の7月18日(海の日、月曜日)に我が家に隣接している遊歩緑道で見つ |
| けて採集したもの(添付写真参照)がこれらのどれに該当するのかはまだ調べていな |
| いので何とも言えない。常識的には我が国固有の亜種が温暖化によって北上し、我が |
| 家の近くにも乱舞するようになったものと解釈したいが、ひょっとすると中国、朝鮮 |
| 系の亜種が対馬を経由して飛来し、住み着いたのかも知 |
初めて標本として捕獲したアカボシゴマダラ |
| れない。しかし、実際にはそうではなく、中国の原亜種 |
| を直接日本に持ち込んで放蝶したものが日本のエノキ |
| (榎)で育ち、増え続けているらしい。いずれにせよ筆 |
| 者には鑑定しても、これらのいずれに属するものか同定 |
| することは出来ないので、学会に相談して判断してもら |
| うつもりである。それにしても対象個体数が1体ではは |
| っきりした証拠を導くには余りにも貧弱なので、注意し |
| て少なくとももう2〜3体くらいは捕獲したいと構えているところである。 |
| この蝶を捕まえたときの劇的な様子を是非ともお伝えしなければならない。近所に |
| 用足しに出かけるために玄関を出て、緑道に入らんとした時に正面から飛来したのが |
| このアカボシマダラだった。筆者にははっきり識別できた。てっきりそのまま飛び過 |
| ぎてゆくものと思っていたところ、敵も大入道に出会いびっくりしたものか、一瞬た |
| じろぎ、ふんわりと低潅木の葉の上に翅をたたんで止まったので、すぐさま後から手 |
| を近付け、指で翅を挟んで捕まえたのであった。全くの偶然で、高いところを悠々と |
| 飛ぶこの蝶をこんな具合に捕まえることはめったに出来ない経験だろうと思う。嬉し |
| さが込み上げてきて、100%童心に戻ったことを意識した瞬間だった。 |
| 幼虫がどういう生活をしているのか、筆者には全く知るところではないが、食草の |
| “クワノハエノキ”(別名“リュウキュウエノキ”)はニレ科の樹木で、本州の山口 |
| 県と九州以南に自生するのみで、本州の湘南地域にはない。国蝶のオオムラサキやゴ |
| マダラチョウの食草である普通のエノキやエゾエノキでは飼育がうまくいかなかった |
| という論文を大分前に専門学術誌で読んだ記憶がある。近年は初令からエノキで飼え |
| ば問題がないという実例が幾つも報告されている。また、自生するエノキで卵や幼虫 |
| を発見することもそう難しくはないとの好事家の報告も多い。 |
| 日本産の蝶の一生については大まかに言って卒業したつもりであったが、このとこ |
| ろ年々南方系の蝶が北上し、ホソオアゲハやオオモンシロチョウなどの北方系の蝶が |
| 南下してくるために幾つもの新種を相手に調べることが増え、暫くは筆者も趣味の時 |
| 間のアジェンダには事欠かないようである。 了 |
| 2011年8月13日 記 |
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| 「そんなもの私はどうでもよいことです」とか、「だってそうなんだもの」、「そ |
| んなもったいぶったものはありませんよ」とか、「その |
“もの”“?” |
| ように褒めてもらえるようなものは何もありませんよ」 |
| とか、はたまた口喧嘩の果てに「ものの道理のわからん |
| 奴だ」などと日常幾たびとなく使われる“もの”とは一 |
| 体何なのでしょうか。筆者も日常茶飯の言葉として使い |
| 続けていますが、仕事でこの“もの”を例えば、英語に |
| 訳そうとすると、しっかり限定した名詞を使わないと文 |
| 章として相手に伝えることが出来ません。日本語特有の |
| 曖昧さに悩まされ、その都度文意を考えて“もの”に該当する言葉を選んで訳します |
| ので、とても何時でもこの“もの”に同じ単語を当てることは出来ないと思っていま |
| す。日本語では“もの”一つの単語ですが、多分他の言葉に訳すときには一つの単語 |
| では言い換えることは不可能だろうと思います。 |
| 筆者はこの日本語の曖昧さにも似た表現法を、日本語 |
『樹液そして果実』(集英社刊) |
| に特有のもので、だからといってこれを煎じ詰めて考え |
| ようと思ったことはありませんでした。ところが、文芸 |
| 評論家 丸谷 才一氏が最近の評論を纏めて一冊にされた |
| 『樹液そして果実』(集英社刊)を読み進めているとき、 |
| 日本の古典の名著を評論されている中に、丸谷氏も長年 |
| 不可思議に感じておられたこの“もの”について、言語 |
| 学者の大野 晋博士がタミル語を研究しているときに、 |
| “もの”の元になった単語の意味が、『掟』とか『理法』であることが分ったことを |
| 引用されて、その説明で丸谷氏自身も長く喉に痞えていたものがとれて急にすっきり |
| した感じがしたと書かれていました。 |
| そして、「『ものの道理』の分らん奴だ」の中の『ものの道理』は“もの”が掟、 |
| 理法であれば、重ね言葉になる、と説いておられます。理法というのは人間の力では |
| どうにも変えられない、動かせないものを指すので、何時別れが来るのか、どういう |
| 別れになるのかが決められない様に、四季が移り変わっていくことも人の力では如何 |
| にもならない、こういうことが“もの”であって、この“もの”の厳しい現実や運命 |
| (さだめ)をそのまま受け入れる心地、情趣を解することが“もののあわれ”なのだ |
| となる訳です。率直にそのことを認めるのが人間として立派なことと言っても良いか |
| もしれません。従って、“もののあわれ”を知るということは、人間の生き方の心得 |
| や嗜みを受動的に受け入れる自然な心地がなければならないということにもなるので |
| しょう。 |
| 筆者には従ってこの掟や理法を表す“もの”は、法律や規則で規制されたり、人間 |
| の行動の原点として引合いに出される儒教や仏教のいわゆる教えとも違い、個々人が |
| 自らあるがままの自然や人間との付き合いのあり方を、素直に受け入れる態度、心の |
| 豊かさを求められるのであろうと思うのです。 |
| このような基本的なことを文にしてみることも筆者には初めてのことのように思わ |
| れますが、“もののあわれ”を噛みしめるには今の世が余りにも違い過ぎて、噛み合 |
| わないようにさえ思えるために、書いてみる気になったのかもしれません。他人のこ |
| とや周囲の動きに気を取られねばならない余り、自分のスローでステディなものごと |
| の進め方や思考の純粋な展開が妨げられるようでは、人間としての出発点が違ってし |
| まっているとか、主客が逆転してしまっているように思えてなりません。更に一段と |
| 気を引き締めてことに当ることが要求されるのでしょうが、加齢に伴い軟弱になりか |
| ねない思考と両立させるのはそんなに簡単なことではなさそうです。もう十歳若かっ |
| たらとまたまた叶わぬ夢を追ってしまいました。 了 |
| (2011年10月24日記す) |
| 追記: |
| この拙文を物した翌日、上記丸谷 才一氏の文化勲章受章の記事が新聞に出ました。 |
文化勲章受章・丸谷才一さん(朝日新聞より) |
毎々特定のことや特定の人について文章を綴ると決まっ |
| て直ぐ後に、その事や人が新聞に載るという不思議な因 |
| 縁があります。余計ごとですが、筆者は同氏が今でも旧 |
| 仮名遣いで文章を書かれているのが、懐かしく、日本語 |
| の響きがはるかに良く思えるために何人かの同様な思い |
| で文章を書かれる作家や評論家の文章とともに愛読して |
| います。 |
| “い”と“ゐ”、“え”と“ゑ”、“お”と“を”は |
| 発音が微妙に違い、他国語の発音に非常に役に立つと思うのですが、どうして戦後妙 |
| な改悪をして折角元からあった美しい響きを無くしてしまったのでしょうか。 |
| 昔学校で習った「上のい、下のゐ」の言い方まで思い出し、一言付記しました。
|
| | | |
| 中国の旅から |
| 筆者は正月休みも早々に仕事で関係している米国の自動車部品製造会社が中国武漢 |
| 市(現地の発音では“ウーハン”、英文の綴りでは“Wuhan”となる)に持っている |
| 100%出資現地法人に対する日本自動車メーカーのソーシング前工場審査に立ち会うべ |
| く同市を訪れた。 |
| 往路北京から武漢に向かう中国国際航空(Air China)の国内線の中で配られていた |
| 中国語のローカル紙のヘッドラインを盗み見すれば、「野田佳彦為推動増税改組内閣」 |
| の文字が並んでいた。日本の野田首相が内閣改造を行った翌日に当たっていたからだ |
| った。同紙の論旨は明らかに消費税増税を推進するために、内閣を改組したとはっき |
| り示しているのであった。序ながら、中国には消費税と言うものがあるのか、あると |
| すればどのくらいなのか、うっかり聞き漏らしてしまった。 |
| 宿泊したホテルはフランスのシタジン(Citadines)系列のアパートメント形式のも |
| のだったが、1泊朝食付きで400中国元(邦貨で5.600余円)で広い2部屋、調理設備 |
| 付き、テレビも最近日本の三洋電機の家電部門を買収した中国メーカーの大型薄型液 |
| 晶ものが2台も入っているにしては大層安いものだった。驚いたことに、毎朝食堂で |
| 出会う殆どの宿泊客は日本人で、それも作業服姿の人達ばかりであった。武漢市にも |
| 大きな経済開発特区があり、日本からたくさんの企業が進出している。これらの現地 |
| 法人に対して技術指導するために多くの技術提供元の日本人技術者が必死に働いてい |
| るのだ。彼らには上述のようなアパートメント形式のホテルがどんなにか有難い存在 |
| だろうと思った。辺鄙な開発新地には十分な飲食店やクリーニング屋など現実の生活 |
| に必要な施設は少なく、それらを代行してくれるこのようなアパートメント式のホテ |
| ルは大変便利な、都合の良い存在であるはずだからである。 |
| 筆者は武漢には殊の外思い入れが強いと言うか、一度は訪ねてみたいという強い思 |
| いを抱いていた。と言うのも高校時代まで、当時人文地理という教科があって、習っ |
| た一つに、武漢は「武漢三鎮」という言葉と共に、中国の重工業の中心都市であると |
| いうこと、二つには1927年2月に、往時の汪兆銘らの中国国民党左派と共産党が武漢 |
| に樹立した武漢国民政府という政権についての思いが強く息付いていたからである。 |
| 最初の武漢三鎮の「鎮」は村や集落のことで、武漢を構成する三つの村すなわち、 |
| 漢昌(現在の武漢市内の地域名としては「武昌」となっている)、漢口そして漢陽が |
| 合併して誕生したのが武漢市であることを意味しており、現在でもこれらの地名は武 |
| 漢市の中を分ける地域名として地図上にも存在している。 |
| 二つ目の武漢に誕生した武漢国民政府は、蒋介石の国民革命軍の北伐途上に出来上 |
| がった政権であり、のち共産党が弾圧されて、国共分裂して1927年9月に南京国民政 |
| 府に合併させられて短命に終わったが、蒋介石にも毛沢東にも関係の深い現在の中国 |
| の礎となる土地柄という記憶が抜けていなかったからである。 |
| 次に、市内の最も人口に膾炙している名勝地の「黄鶴楼」について一言触れておき |
| たい。このタワーは武漢市内の洪山の南に位置していて、 |
黄鶴楼入場券(観光地最高ランクAAAAA) |
| 420〜479年に建てられ、元々は東山寺と呼ばれていたが、 |
| 明時代に宝通禅寺と改称されたところである。現在も武 |
| 漢仏教四大寺の一つである。この楼は長江岸の丘陵上に |
| 建てられた絶景を眺めるのに最適の場所にある。その絶 |
| 景を謳った漢詩に崔(サイコウ)の作品がある。この |
| 詩は同詩人の作品の中でも秀逸と言われており、当地を |
| 旅し、一作を物そうとしたかの李白もこの詩を見て、 |
| | | |
| 南宋の詩人厳羽(ゲンウ)は著書「滄浪詩話」の中で、「唐人の七言律詩は、まさに |
| 崔の黄鶴楼を以って第一となす」と述べていることからも、数ある漢詩の中でも秀 |
| 作と言われるものらしい。 |
| この詩には当地に伝わる説話がある。すなわち、 |
| 「むかし、ここに辛という酒屋があった。毎日、一人の老人が酒を飲みにきた。勘 |
| 定はあとで、と言って、一度も金を払ったことはなかったが、辛は少しも嫌な顔もせ |
| ずに飲ませてやっていた。半年ほど経ったとき、老人は辛に別れを告げ、金がないか |
| らと言って、壁に黄色い鶴の絵を描いて去った。その後、店の客が歌うと壁の鶴がそ |
| れに合わせて舞ったので、店は大いに繁盛し、辛は大もうけをした。十年後、老人は |
| また現れて笛を吹いた。すると白雲が生じて壁の鶴がその前に舞い下りた。老人は鶴 |
| の背に跨り、白雲に乗って飛んでいった。辛は記念のためにそこに楼閣を建てて黄鶴 |
| 楼と名付けた。」 |
| (出典:筆者の愛読書、駒田信二選「漢詩百選 人生の哀歌」28〜29頁 (株)世界文 |
| 化社刊 1993年1月10日初版による。) |
黄鶴楼入り口風景(中国の若い女性の姿のよさに見とれて写した1枚です) |
黄鶴楼5層の全景 |
幾つもある境内の門の一つで当日の筆者 |
| 現地に立って、景色は煤煙と急速なモータリゼーションからもたらされた排ガスの |
| ポリューションに加えて西方からの黄砂の襲来で殆ど見えず、この漢詩の風情を味わ |
| うなどと言う雰囲気ではなかったが、情景は十分に理解できたので、作者の生きてい |
| た時代に同席しているような錯覚を覚え、名作の地に立っている感慨をなんとも言え |
| ぬ心境で味わったことだった。ともあれ訪ねた価値は十分であった。中国のことは未 |
| だ筆者の人生にいろいろ大きな力を与えてくれるようである。今更ながら有難く、高 |
| 校時代に漢詩を教えて下さった先生の顔を思い浮かべ、これらの文章の書かれていた |
| 書物の頁の組み方まで思い出されて、こういうことが教育の大きな力なのかも知れな |
| いと思い至るのであった。 |
| 了 (2012年2月17日記) |
| | | |
| 文京区本郷の東京大学総合研究博物館を訪れた。 |
| 日本蝶類学会の調査隊が78年ぶりにブータンを訪れて棲息を確認したブータンシボ |
| リアゲハの雄の標本2頭が昨年11月に来日されたブータンのワンチェク国王から恵贈 |
| され、調査隊員が勤める東京大学総合研究博物館と東京農業大学「食と農」の博物館 |
| で展示されている。 |
| 去る2月18日(土)付けの朝日新聞朝刊で報道された |
2月22日の朝日新聞朝刊 |
| のを機会に、「ヒマラヤの貴婦人」と呼ばれる幻の大蝶 |
| の姿を一目眺めておきたいものと、2月22日(金)に東 |
| 京都文京区本郷の東京大学総合研究博物館を訪れた。 |
| 狭いこじんまりとした建物の入り口の扉を押して中に |
| 入れば、そこが展示場で、土間に置かれた展示台の中に |
| ブータンシボリアゲハを1頭だけ入れた標本箱と、近似 |
| 種のシボリアゲハ、シナシボリアゲハおよびウンナンシ |
| ボリアゲハの標本各1頭を入れたもう一つの標本箱の2箱が並べられており、好事家 |
| が周りを取り囲んで、熱心に写真に収めようと競争で場所取りをしていた。筆者も負 |
| けじと何枚かのシャッターを切った。が、あとでゆっくり眺めてみると、満足なもの |
| はなかった。 |
| ただ展示品には、ラテン語による学名がなく、英文名で |
| “Judlow’s BhutanSwallowtail”と記されているだけで、きわめて不親切である。 |
| 筆者は手元に中国で近年出版された蝶の図鑑を2冊持っている。1冊は「中国蝶類 |
| 図譜」(Atlas of Chinese Butterflies)−上海運東出版社刊、1992年5月第1版第 |
| 1次印刷、定価200元(日本円で3.000円弱)で、これは1952年から56年まで山東大学 |
| 農学院および理学院任教授を勤められ、1956年から現在まで日本鱗詩翅学会名誉会員 |
| である李伝隆先生と1975年から1991年まで上海自然博物館動物部助理研究員、現在昆 |
| 虫学会会員であり、自然科学博物館協会会員の朱宝雲さんとの共著で、中国語で褐鳳 |
| 蝶(日本でいうシボリアゲハ)として、次の3種を載せている。 |
| 1)褐鳳蝶(いわゆるシボリアゲハ)学名:Bhutanitis lidderdalii Atkinson |
| 2)雲南褐鳳蝶(ウンナンシボリアゲハ) 学名:Yunnanitis mansfieldi Riley |
| 3)中華褐鳳蝶(シナシボリアゲハ)学名:Sinonitis thaidina Bsdv. |
| 期せずして、これら3種が東大博物館のもう一つの標本箱に納められていた。 |
| もう1冊は、「中国蝶類誌」(Monograph of Chinese Butterflies)(Monographia |
| Rhopalocerorum Sinensium)といい、河南科学技術出版社出版で、定価788元(日本円 |
| で11.000円強)。アゲハチョウ(鳳蝶)シボリアゲハ蝶亜科(鋸鳳蝶亜科−Zerynthiinae) |
| の3種として次を挙げている。 |
| *多尾鳳蝶 Bhutanitis lidderdalii Atkinson (前掲の単なるシボリアゲハに当たる)。 |
| *不丹尾鳳蝶 Bhutanitis ludlowi Gabriel (これが今回のメイン、ブータン シボリ |
| アゲハである)。 |
| *三尾鳳蝶 Bhutanitis thaidina Blanchard |
| 他に持っているもう1冊の英国のポール・スマート(Paul Smart)博士が著し、米 |
| 国のランダムハウス(Random House) が配布を行っているサラマンダー・ブックス |
| (Salamander Books)から1975年に刊行された“The Illustrated Encyclopedia of |
| the Butterfly World”にはシボリアゲハとして次の2種を載せている。 |
| *Bhutanitis lidderdalii Atkinson |
| *Bhutanitis thaidina Blanchard |
| | | |
| ―― 四つの要素の達人になってください! ―― |
| 今回は臆面もなく自己主張120%で主題の考え方をご披露したいと思います。筆者が |
| 自らエキスパートなどと吹聴しようという訳ではありませんが、人間を75年以上やっ |
| てみて、たくさんの外国人と仕事を共にし、良い意味でも、悪い意味でも日本人に特 |
| 有の考え方が確かに存在していることを認めざるを得ないと同時に、それが場合によ |
| っては、命取りになるくらい、大いに毛嫌いされていることを残念ながら認めた上で、 |
| それらのことをすべて公平に斟酌してみて、筆者が自分なりに伝えたい主題に立ち向 |
| かう心構えを記してみたいと思い至ったからです。全く独断と偏見の産物であること |
| をお断りした上で、多少なりともこれからの日本を背負って立つ若い皆様の生き方に |
| 参考になれるなら、それに過ぎる筆者の喜びはありません。 |
| では早速以下の四つの大切な要素を提案させていただきましょう。 |
好奇心 |
最初に最も重要なファクターとして『好奇心』を挙げ |
| たいと思います。「なぜ?」、「どうして?」、何時で |
| もこの身構えが大変必要だと思うからです。英語で言え |
| ば“Curiosity”ですが、この好奇心があれば、それを解 |
| くためにあらゆる努力を惜しまずに、挑戦(“Challenge |
| ”)し、解決のために必ず『学習』(”Learning”)と |
| いう行動を起こすでしょう。その結果は、何らかの形を |
| 伴って得たものを自分の身に着け、『創造』(“Creati |
| on”)という行動に表すことになるでしょう。その集大成はやがて新たな『提案』 |
| (“Proposal”)となって、周囲の人々の前に、あるいは広く世界の人々の前に『披 |
| 露』されることになるでしょう。 |
| 二つ目に大切な心構えは『信頼』(“Trust”)だと思います。これがあって初めて |
| 関係者との『友情』(”Friendship“)が醸成され、作業の『協調』が生まれ、自分 |
| の意志や思いのたけが、”Cooperation“、”Collaboration“あるいは”Coaction” |
| という形のあるものに育って、周囲の人々の目の前に姿を伴って現れることになるで |
| しょう。 |
確信 |
| 三つ目には、『確信』(“Confidence”)を挙げたい |
| と思います。確信を伴わない申し出や意見は説得力があ |
| りません。そこで、勿論確信の裏には充分な『裏付け』 |
| (“Evidence”)があることが前提になるのですが、こ |
| の確信こそが仕事の質の良さ、『品質』(“Quality”) |
| に直接結び付いていると思うのです。激烈な競争に打ち |
| 勝つにも、同じ考えの人々や会社を纏めてグループ化し、 |
| 一緒に仕事をする礎を作り上げる大前提になるでしょうし、それが出来て初めて個々 |
| の分野、仕事で言えば市場のリード、占有率の優位性を保つ基礎が築けるのではない |
| でしょうか。 |
| ここまでで主題に対して、一応の完成の姿は描け得たと思うのですが、世の中は広 |
| く、地球上には自分たちの言葉だけでは通じない世界のほうがはるかに広く存在して |
| いることを考えない訳には行かないのです。 |
| そこで、第四番目に複数の言葉を操る言語力(“Bilingual”、”Trilingual“) |
| が要求されると思います。我が国でも近年一つの尺度として、トーイック(TOEIC、 |
| 英語によるコミュニケーション能力を測る学力テスト。”Test Of English for Int |
| ernational Communication“の頭文字を取ったもの)やトーフル(TOEFL、主に米国 |
| へ留学を希望する外国人対象の英語学力テスト。”Test Of English as a Foreign |
| Language”の頭文字を取ったもの)が重要な武器のように持て囃されています。もち |
バイリンガル |
ろんそれらに果敢に挑戦して、自分の実力を試し、知っ |
| ておくことは大変よいことでしょうし、これからの地球 |
| 人には必要なことの一つではあるでしょう。でも筆者の |
| 友人がいみじくも語ってくれましたが、トーイックを900 |
| 点以上持っていても充分にしゃべり、意思疎通ができな |
| い人が半分以上もいると言うのです。何が災いしてそん |
| なことになっているのでしょうか。それは母国語である |
| 日本語をしっかりしゃべり、万人に理解される、しっか |
| りした文章が書けないという事実に由来しているのです。一所懸命にトーイックに挑 |
| 戦して英語力を蓄えたと思ってみても、元になる日本語の表現が充分に出来なければ、 |
| 他国の人を説得する力など持てるはずがありません。間違って解釈されないように、 |
| 適切な単語を選んで外国語で話し、自分の意思を自由自在に疎通させる能力を持つこ |
| とが最後に望まれることになると言えるのではないでしょうか。その意味では先ず日 |
| 本語をもっともっと真剣に勉強する必要があるでしょう。筆者には、現在の日常の生 |
| 活では学校での授業も含めて、書くことの必要性が少なくなっていると思われますし、 |
| 軽んじられているように思えてなりません。国会議員の質疑や学校の先生のしゃべり |
| の中には、聞いている筆者の方が居た堪れない情けなさを感じる場面が日常なんと多 |
| いことかと呆れるほどです。近年年を追うごとに、公共のテレビやラジオにおいての |
| しゃべりのみならず、字幕や使われるフリップの文章に誤字が多く、稚拙な文章が目 |
| 立つように思われます。大分議論が脇道に逸れてしまったようです。日本語の問題を |
| さらに先に進めることは辞めにして、ともあれ筆者が登場させたかった自分を主張し |
| て生き抜くための四つの要素をご披露させていただきましたので、今回の議論はこの |
| あたりで『了』とします。少々堅い話になりましたが勘弁してください。 |
| | | |
| 今年に入って、特に4、5月に集中して読み甲斐のある、示唆に富んだ本が何冊も |
| 出版された。それらの中で、以下の5冊は是非とも一読をお勧めしたい。折角の良書 |
| をあまり余分な内容を勝手に解釈することも適当ではないでしょうから、筆者の読後 |
| の感想とどこに感銘を受けたか、何を根拠に今回推薦書として挙げたいかを上位2冊 |
| について少し記してみたい。 |
| これら5冊を筆者の独断と偏見で順位を付ければ次のようになろうか。 |
| 1)「0点主義 新しい知的生産の技術57」(荒俣 宏著 講談社刊) |
| 2)「舟を編む」(三浦しをん著 光文社刊) |
| 3)「第四の消費 つながりを生み出す社会へ」(三浦 展著 朝日新書) |
| 4)「『方言コスプレ』の時代」(田中ゆかり著 岩波書店) |
| 5)「失われた30年 逆転への最後の提言」(金子 勝・神野直彦共著 NHK出版新書) |
第四の消費 つながりを生み出す社会へ |
『方言コスプレ』の時代 |
失われた30年 逆転への最後の提言 |
| 1)「0点主義 新しい知的生産の技術57」(荒俣 宏著) |
| 著者荒俣氏は筆者より10歳年下になるが、筆者が物心ついた時から現在まで、最も |
| 尊敬している作家兼“何でも屋さん”の一人である。物事に対する取り組みから、考 |
| え方、世の中のありように対する身構え方が筆者がほとんど理想に近いと思うくらい |
| に肩入れできそうに思えて、知らず知らず日々の過ごし方や書斎の机の周りのありよ |
| うまでしみじみ似て来たなあと思っている人である。 |
| 先ず本論に入る前に、本の帯のうたい文句が面白い。いわく、「あきらめろ、バカ |
| になれ!そうすれば成功の『ニッチ』が見えてくる。」、またいわく、「競争なしで |
| 一人勝ちできる! 人生が逆転する秘密の勉強法!!」。 |
| 序章から第6章まで全体が7章で組み立てられており、各章が多い章で12、一番少 |
| ない章で4つの知的生産の技術が新しく紹介されている。筆者には一つ一つは必ずし |
| も新しいとは思えないが、それぞれの章のくくりとその章の中に収められている知的 |
| 生産技術の捉え方が非常に適切であると感じた。 |
| 以下少し筆者が心底同調したい、「その通り!」と拍手喝采したい項目を幾つか紹介 |
| したい。 |
| 第2章 情報整理なんていらない |
| *アウトプットの姿勢で知識のつき方も変わる |
| 「アウトプットを公表することは、多くの人に見てもらい、検証を受けることと考 |
| えるべきなのだ。間違いを指摘されれば大恥をかくが、それは内容を訂正できる |
| チャンスでもある。人生なんて、死ぬまで恥のかき通し。失敗を気にしていても |
| 始まらない。」(P111) |
| *ライブ感をもって授業のメモを取る |
| 「本を読んでいる間も、人の話を聞きながらもメモを取る。些細なことにはこだわ |
| らず、目を凝らし、耳を研ぎ澄ませて、ライブ感をもってメモを取ることが重要 |
| になる。」(P119) |
| 筆者の高校時代から現在までの経験を紹介してみよう。高校時代往復2時間の電車 |
| 通学の時間を読書に使うことに決め、当時の岩波文庫と新潮文庫を片っ端から読み進 |
| め、3年間にすべてを読破してしまった。でも、ストーリーや内容が何だったかを良 |
| く分かるように説明できる本は限られた数冊かもしれない。名文の出だしを覚えてい |
| て口ずさめるもの、主人公の“名セリフ”を自分でも使ってみたいと思って覚えてい |
| るもの等々いろいろあるので、自分でもよく読んだと思っている。それぞれの本の内 |
| 容をA4一枚くらいの纏め書きにする練習は長く続けたが、大変有効だった。現在で |
| は本を購入するたびに、ノートに最低でも書名、著者、その版の日付、読了日を記し、 |
| 必要に応じ、読後感を入れている。 |
| 電車の中で本を読んでいても、耳に入った乗客同士の会話の面白いものはメモに取 |
| って役立つ日のために自分のストックとしている。そのために、絶えずメモ帳は携行 |
| している。 |
| *自分の持ち時間に制約をかける |
| 「忙しい時のほうが、かえっていろいろなことができるーこれは、多くの人が体験 |
| していることではなかろうか。勉強も同じだ。私自身、サラリーマンと今の仕事 |
| の二足のわらじを履いていた9年間のほうが、現在よりも時間を有効活用し、ア |
| ウトプットも多かった。」(P121) |
| 「野球やサッカーも、前半よりは後半、その後半も最終場面になるほど緊迫する。 |
| その瞬間、人は全神経が集中できているのだ。たぶん、ふだんの自分の10倍は |
| 能力アップしているはずだ。」(P122) |
0点主義 新しい知的生産の技術57 |
筆者が高校生の時に、「学燈」という受験雑誌の座談 |
| 会に出されて勉強の仕方を話す機会があったが、そのと |
| き筆者が話したのは教科書とノートと限定した参考書に |
| 絞って、その代りそれらを少なくとも3回読む、1回目 |
| は鉛筆で、2回目は青鉛筆で、3回目は赤鉛筆で大事と |
| 思うところ、まだ覚え切っていないところ、頭に十分入 |
| っていないところに線を付すことを自分の勉強法として |
| 披露したのを思い出した。試験の前日には赤鉛筆の線の |
| 入ったところだけを拾い読みすれば漏れがないという自信に繋げていた。 |
| 第3章 勉強を高尚なものにしない |
| *西洋絵画史における私のヘンな発見 |
| 「私は美術が好きで、よく美術書を眺めたり、美術館へ行ったりしている。そうや |
| って古今東西のさまざまな絵に接し、メモを取っているうちに、私は二つ発見を |
| した。一つは魚に関すること、もう一つは近代西洋絵画における人体画像に関す |
| ることだ。」(P133) |
| 二つの発見の内容まで書いてしまっては読書の楽しみがなくなるでしょうから、読 |
| 者諸氏それぞれにトライしてみてください。 |
| *背伸びをすると世界が広がる |
| 「かつては“背伸びをする”ことがよしとされたが、今は『等身大』の時代だ。無 |
| 理せず、ありのままでいることが素敵だと思われる。」(P158) |
| *競争不要の「隙間」をたくさんみつけていく |
| 「ビジネスをするうえでライバルが生まれにくいジャンルは、そこに目を付ければ |
| 大きな利益につながる可能性がある。」(P161) |
| *人生、途中下車するのも悪くない |
| 「未知のものにアクセスする勇気と好奇心が、まず必要だと私は思う。」(P168) |
| 「ただ、一つ問題なのは、未知のものに手を出す勇気や好奇心が、歳を重ねるほど |
| 薄れていくという現実だ。」(P169) |
| 第4章 苦手な勉強こそ意外なチャンスをもたらす |
| *一番やりたくない仕事が最高におもしろい勉強になった |
| 「会社に入ったばかりの若者は『石の上にも3年』と上司に言われ、『またそれか』 |
| と思うこともあろう。しかし、勉強においてこのことわざは正しい。ダメだと思 |
| うことでも、3年続ければ道はかならず開けてくる。」(P177) |
| *もっと叶えたいベスト3を人生から外してみよう |
| 「人気ベスト3(成功したい。お金持ちになりたい。異性にモテたい。)を、とり |
| あえず人生から外してしまうのだ。すると、それらが人生の相当な重しになって |
| いたことに気づくはずだ。」(P199) |
| *自分を低い評価にとどめると、学べるものが多くなる |
| 「プライドはたいがい必然的に、生きることへの負担を強いてくるものである。そ |
| うではなくて、自分への評価を反対に低く設定しておくと気が楽になり、人の目 |
| を気にせず思い切っていろいろなことができる。」(P202) |
| *短所を克服するとかけ算で伸びる |
| 「『長所を伸ばせ』という人がいるが、私はむしろ、短所に目を向けたほうがいい |
| と考えている。」(P205) |
| 第6章 「人生丸儲け」の勉強法 |
| *「定年退職後に勉強しよう」では遅い |
| 「0点主義とは、点数という束縛から離れて、さまざまな知的関心を楽しく広げて |
| いくことだといえる。そのような『幸福色』をした知識や体験は、かならずいつ |
| か、他人をも幸福にするだろう。なぜなら、本人がそれによって幸せに生きてこ |
| られたからだ。」(P249) |
| と結んでいる。なんと心に響くエンディング・メロディではないか。 |
| | | |
| 中高年登山愛好家へのガイドとして有名な岩崎 元郎氏は著書『ぼくの新日本百名 |
| 山』の中で、恵山を紹介して、「ハイキング・レベルで楽しめる山なのに、本格的な |
| 登山の雰囲気を醸(かも)し出している。もっと多くの人に気軽に登ってもらえたら |
| と思う山である。」と記しておられるのを記憶していて、筆者もなんとか機会を捉え |
| て一度は登っておきたい山として毎年密かに山行計画の中に据えてきていた。 |
| たまたまここ数年孫娘が好いている函館市湯の川温泉の某ホテルで夏の日数日を過 |
| ごすのが習わしになってきて、今年も8月17日(金)から21日(火)まで5日間滞在 |
| したのを機に、やっと長年の夢を叶えるチャンスとばかり、娘の家族全員と20日(月) |
| に恵山(エサン、618m)に登った。 |
権現堂登山コース入り口にて |
| 登り口にある通称賽の河原駐車場から眺める山肌は一 |
| 面の爆裂口に覆われ、箱根の大涌谷か、那須の殺生河原 |
| を思わせたが、全体の感じは青森の恐山にも似た不気味 |
| さが漲(みなぎ)っていた。登り始めたころは、山頂に |
| 雲が懸っていて山容が望めなかった。ガスが晴れてどこ |
| までも青い空が抜けてきた時には、現れた容姿は上高地 |
| の焼岳を思わせる堂々とした威厳のあるものだった。 |
| 海抜618mそこそこの低い山ではあるが、どうしてどうして十分な貫禄を示していた。 |
| 登り始めは孫がどんどん一人で登っていたが、夏も終わりに近づき、登山道には一 |
| 輪の花もなく、出会う人もない変化のなさに加えて、盛んに吹き上げてくる硫化ガス |
| の臭い匂いに興味が殺(そ)がれたと見え、途中からしきりに下山を言い出した。そ |
| れを宥(なだ)め賺(すか)して無事山頂を極めたのであった。 |
登山道風景(1) |
登山道風景(2) |
恵山山頂にて |
| 登山道はきれいに整備されていて、しっかり木と石で階段が敷かれていた。山頂に |
| は祠(ほこら)が祀(まつ)られていた。三角点は探しても見当たらなかった。観測 |
| 上の拠点は近くの他山の頂にあるのであろう。山頂付近はやや平らな地面が広がり、 |
| たぶん6月ごろの花のシーズンには一面お花畑になるのであろうと思ってみた。頂上 |
| で俊敏に飛ぶが、頻繁に地上に止まる蝶を見かけ、念のためにと持って行った捕虫網 |
| を取り出して捕獲してみた。最初は余りにも個体が大きく、瞬間国蝶のオオムラサキ |
| かと見間違えて、一瞬喜んだが、ゆっくり手に取ってみれば、コムラサキの♀(雌) |
山頂で採集したコムラサキ雌雄各1頭を標本に作った |
であった。コムラサキも雌の方が雄よりも大きいのは当 |
| 然なのだが、本州のものより断然大きく、体長も翅の開 |
| 長も実際オオムラサキに匹敵するものであった。その後 |
| 直ぐに娘が今度は雄を一頭仕留めた。羽化してから大分 |
| 日にちが経過していると見えて、翅は相当痛み、鱗粉も |
| かなり剥(は)がれ落ちて、雄に特有の鮮やかな紫の輝 |
| きはほとんど見られないくらいだった。当日採集した雄 |
| 雌各1頭の写真をお目に掛けることにしよう。 |
| 帰路はまた同じ道を下ったが、頂上から暫くは眼下に |
山頂直下から見る |
| 恵山岬や白いかわいい恵山灯台が見え、真南から東にか |
| けては津軽海峡を隔てて、本州青森県の下北半島の尻屋 |
| 崎から大間崎にかけての陸地がすぐ近くに眺められた。 |
| 恵山は恵山道立自然公園の中にあり、その麓には恵山、 |
| 石田および水無海浜の三つの温泉があり、また付近一帯 |
| は恵山自然休養林として保護されている。なかなかいい |
| 環境にある山として冒頭に引用した岩崎氏の言葉通りの |
| 山であった。 |
娘家族 |
案内書によれば、通常健康体の人であれば、登り往路 |
| の所要時間は1時間から1時間30分、復路降りは1時間 |
| 前後と書かれていたが、我々は登りに1時間35分、下り |
| に1時間20分を要したが、素人メンバーの構成を考えれ |
| ば、我々のパーティもどうして十二分の速さと体力を発 |
| 揮したと言えるであろう。 |
| |
| |
| | | |
| このところ、政治、経済の態様は混沌として妙味に欠け、新聞も雑誌もテレビも総 |
| じて面白くない。どうしたらこのような時にいかに心を日々瑞々しく保ち、身の周囲 |
| の移り行くものを見詰めても、いちいち拘って見ることなく、やり過ごせる泰然とし |
| た振る舞いができるか、ひねもす思いを巡らせている。 |
| 以前どの本だったか今となっては確かではないが、マヤ文明の占いによると、今年 |
| 2012年12月22日がこの世の終わりだとか読んだ覚えがある。筆者はこの文の中でこの |
| 事実の真偽を審(つまび)らかにしようなどと思っているのではい。依然として日々 |
| に出会うこと全てに関心を持ち、周囲の人々にわが身の今日あることを感謝しながら、 |
| 少しは心に響くことに正直に感激して、もう暫くは若さを保って、筆者自身も納得の |
| 行く晩熟の時代を持ちたいと思うからである。あと2、3か月でこれも望めないとい |
| うことなど絶対あって欲しくないのである。 |
| 冒頭に書いたような浮世離れした気持ちを求める反面、青年期に抱いたような“見 |
| た!考えた!やってみた!”の冒険にも似たチャレンジ心に駆り立てられることも相 |
| 変わらずである。あるいはこれが本当の意味での“老いて若返る”ということなのか |
| もしれないと思うこともある。人間正直に生きようとすれば、余計なことは皆捨てて、 |
| 赤子や動物に戻って“Stay hungry, stay foolish!!”とか、”Disposing things |
| makes life rich”の精神に立ち返ることが大切なのであろうし、事実日本の諺にあ |
| る「京都の心は始末の心」と言われる通りなのかも知れない。 |
| 心理学者の多胡 輝先生が説かれる後期高齢者に最も |
多胡 輝 先生 |
| 必要なことは「今日用(きょうよう)」と「今日行く |
| (きょういく)」だそうである。誠に的を射た表現だと |
| 思う。「今日用」は「教養」をもじって、今日他人から |
| 頼まれてする用事があるか、自分からすると決めた用事 |
| があるかということであり、「今日行く」は「教育」を |
| もじって、今日呼ばれて行くところがあるか、自分から |
| 行くと決めたところがあるかということである。筆者の |
| 友人にも馬齢を重ねたと嘆きつつも、多胡先生のこれらの表現に似た駄洒落を頻発す |
| る人がいるが、皆をよく笑わせてなかなかの人気があり、集まりでは彼の駄洒落を楽 |
| しみに参加している人も多い。 |
| なんでもない俳句「一日の終りを告げる鐘が鳴る」の鐘をゆったりした気分で聴い |
| て、一日を終えられたら幸せだろう。翌朝目を覚まして、未だ自分が生きていること |
| を知り、隣の人も皆揃っているのを見出した時の安堵感がまた一入の気概をもたらし |
| てくれる。こんな境地がいまの筆者の偽(いつわ)らない心境かも知れない。 |
| 久し振りに忙しい日ごろの仕事を離れて、女房と温泉宿に泊まって、感慨を綴った |
| ら、こんな駄文ができてしまった。 |
| 「思い出の多き山家(やまが)の湯を浴びて寂しき秋の夕餉楽しむ」 |
| 誠にお粗末でした。 |