“いたち川”川沿いを探索する 横浜市 野村 一信
 
          話  題  一  覧
2011. 6.19 “いたち川”川沿いを探索する(その1)   投稿;野村 一信
2011. 8. 7 “いたち川”川沿いを探索する(その2)   投稿;野村 一信
2011. 9.18 “いたち川”川沿いを探索する(その3)   投稿;野村 一信
2011.11.20 “いたち川”川沿いを探索する(その4)   投稿;野村 一信
2012. 2.12 “いたち川”川沿いを探索する(その5/最終回) 投稿;野村 一信

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          話  題  『 よもやま話 』
2011. 6.19 野村 “いたち川”川沿いを探索する(その1)
 
 “いたち川”川沿いを探索する(その1) 横浜市 野村 一信
 
 小田茂さんの、横浜市中区の発祥の「碑」からいろいろな「碑」を紹介していただ
き、それを読みながら私も自分の住んでいるところの、一部でも紹介してみようと思
い立ちました。
 私は横浜市栄区の上郷地域に住んで46年ほど経ちました。はじめに栄区について少
し触れます。 
 栄区は横浜市の南部にあたり、鎌倉市に隣接しておりJR大船駅のプラットホーム
は横浜市栄区と鎌倉市の両方にまたがっております。この地域はもともとは戸塚区で
ありましたが、人口の大幅な増加により、昭和61年(1986年)に泉区と共に分区され
栄区が誕生しました。
 栄区の地域の人口は昭和30年(1955年)13,685人、私が移転してきた昭和40年(1965
年)30,304人であり、この頃から急激に増加し昭和55年(1980年)には104,192人とな
りましたが、その後はやや落ち着いて30年後の昨年は126,575人という状況です。した
がって私たち家族は、栄区では古株の区民となってしま
いました。
 横浜市内全体と比較しますと、宅地割合が少なく、山
林割合の多い地域です。表現を変えれば、それだけ「自
然に恵まれた」地域ともいえます。
 区内を流れる“いたち川”という奇妙な名前の小さな
川が流れています。この川沿いを探索してみましょう。
 
 “いたち川”川沿いを探索する。
 まずこの川の名前が変わっていますね。いたち川は県道原宿六浦線の朝比奈トンネ
ル付近に源を発して東海道線大船駅近くを流れる柏尾川に合流する約8キロ弱の小さ
な川です。“いたち川”は昭和30年代(1960年代)までは緩やかに蛇行し湿地を残し
た川でしたが、市街地の開発などにより頻繁に水害が発生いたしました。その後の河
川整備により現在は「ふるさとの川整備モデル河川」に指定されております。また、
川のなかには“いたち”の置物がみられますが、“いたち川”という名前の由来は、
「出で立ち川(イデタチ)」からのもので、鎌倉街道を下っていくさいこの場所で食
事をして、「いざ、いでたち」と旅の安全を祈ったところから来たものと言われてお
ります。
 小さな川ですが源流が3箇所ほどに分かれます。まず、朝比奈峠の横にある横浜霊
園付近が1箇所。次が、その少し下がって東側の上郷森の家付近に発する流れ。もう
1箇所は、上郷森の家からまた下って山の中に入ると「せがみの池」と言うところが
あり、そこを源にして“古いたち川”となって県立柏陽高校グラウンド付近で本流と
合流する流れです。では、本流の水源地近くを探索してみましょう。
 相武トンネル入り口近くが横浜自然観察の森でこのエリア中に「自然観察センター」
や「上郷森の家」があります。自然観察センターには野鳥の観察ができるように望遠
鏡が設備されています。これがなかなかよいタイミングで観察するのは難しいです。
自然観察センターの小屋にはいろいろな資料が置いてあるのでそれらを眺めながら鳥
の来るよいタイミングを計ることが必要です。
横浜自然観察の森
横浜自然観察の森
上郷森の家
上郷森の家
自然観察センター
自然観察センター
 ここから少し下っていくとミズキの池があり、ここには野鳥観察の板塀で囲われた
ところがあり、じっとタイミングを計って大きなカメラを構える人たちが居ます。こ
の池から流れ出た水が“いたち川”源流の一つです。少し山道を下ると人家のある長
倉町になり、ここから“いたち川小川のアメニティ”が始まります。
ミズキの池観察場所
ミズキの池観察場所
長倉町小川アメニティ
長倉町小川アメニティ
神奈川橋100選の昇龍橋
神奈川橋100選の昇龍橋
 
白山神社参道
白山神社参道
 街道に沿って流れる“いたち川”の最初に小さなアー
チ型石橋が架かっています。昇龍橋といい元は、この山
の上にある白山神社への参道でした。神奈川橋百選にも
選ばれていますが、今は近在の畑で作業する人の通り道
ぐらいしか利用者は居ません。鎌倉時代にはこの所に白
山神社があったようです。白山神社は鉄の刀や農具を作
る鍛冶職人の守り神でした。また、鎌倉時代、本郷が鎌
倉の北東にあたるため、北東から災いを持ってくる鬼か
ら守る神、つまり「守艮の神」として大切にされていました。このような歴史がある
ために、この近くから「たたら」の遺跡も発掘されています。
                (栄高校付近の猿田遺跡や深田製鉄遺跡など)
 街道から“いたち川”が見えなくなって少し県道を下 御嶽山神社(石碑)
御嶽山神社(石碑)
っていくと、左側の住宅脇に変な石碑が見えます。これ
は御嶽山神社(石碑)です。明治時代のものですが、昔
は御嶽山(木曾)に登るのは大変でしたので、ここで祈
って病気回復を祈願したとのことです。ここを過ぎると
光明寺です。
 
 
光明寺境内の親鸞聖人像
光明寺境内の親鸞聖人像
 光明寺は7世紀に聖徳太子の弟子の秦河勝が建てたと
いわれ、浄土真宗の開祖親鸞ゆかりのお寺といわれてい
ます。
 山門をくぐると右側に、聖徳太子を尊敬した親鸞聖人
の像が建っています。親鸞は聖徳太子を尊敬して、この
地で7体の聖徳太子像を刻みながら、お寺や民衆に教え
を説いていきました。親鸞の教えにとっても感銘を受け
た当時の住職は改宗をし、このお寺は浄土真宗になりま
 
光明寺鐘撞き堂
光明寺鐘撞き堂
した。
 また、そのとき改宗したお寺に与えられたといわれる
聖徳太子像の一体が光明寺に残っています。
 この寺の鐘は大晦日には毎年近在の方が撞きに来るの
で大変な行列になり撞き終って飲むお神酒がまた美味い
んです。その鐘の前に重さ約130kgのたまご型「力石」
が置いてあります。上郷には「力石」が3つありますが、
その中でもっとも重く、材質・形も良いといわれ、お祭
りなどのたびに親しまれてきました。 近在一の美形力石
近在一の美形力石
 本郷の「民話と伝説」という本に「力石」についての
お話が出ています。『江戸の初め、本郷に左近、鎌倉の
関谷に右近という2人の力持ちがいました。お祭りのた
びに、大きな力石を持って争い、観客をわかせていまし
た。「がんばれ左近」「負けるな右近」しかし試合を離
れた普段の左近と右近は励ましあい助け合う親友でした。
やがて2人の噂が将軍の耳に入り「力持ちで仲が良いと
は、ちょうど良い」と江戸城の大門を力を合わせて守るよう仰せ付けました。その後
2人は役目を立派に果たし、年老いてからも、仲良く幸せに暮らしたといわれていま
す。』
 
 第1回“いたち川”川沿いを探索するは、この辺で終わり続きは第2回へ
                資料:栄区郷土史。栄区歴史散策マップ。
 
2011. 8. 7 野村 “いたち川”川沿いを探索する(その2)
 
 “いたち川”川沿いを探索する(その2) 横浜市 野村 一信
 
 前回の光明寺から街道を少し下ると右側に「思金神社」(おもいかね)があります。
小さな山の中腹に急な階段を上ると朽ちかけた社殿があります。この神社の神様は
「八意思金大神」(やごころおもいかねおおかみ)といわれ、この神様は、天照大神
が天の岩戸にかくれたときに、作戦をたてて天照大神を岩戸から誘いだした、とても
考え深い神様です。その神様を祭ったこの神社は、学問や商工、建築などの願いを叶
えてくれる「知恵の神様」として地域では信仰されています。昭和51年(1976年)白
山神社拝殿の跡地に建てられました。
思金神社の急な参道
思金神社の急な参道
思金神社
思金神社
 この神社の付近は大昔
(縄文時代)は、海底であ
ったところのようで山の傾
斜地では貝の化石がよく見
つかります。そうすると昔
はこのあたりでも釣りがで
きたのかな。腰みのをつけ
て軽石のウキで縄文人が釣
りをしている光景を思い浮かべてみるのも悪くないですね。
 現在は「横浜の光果つる地の先」といわれる地区ですが、ここを山に沿って東に歩
くと「瀬上の池」に到達します。この池は元農耕用の池でしたが今は釣りを楽しむ方
が大半です。でも、せき止めてある部分は深さもあり子供たちには危険地帯です。土
手は滑りやすいし、人は少ないですから池には立ち入らないように注意の看板が掲げ
てあります。春から秋まではピクニックや池から流れ出る小川でザリガニを取ったり
広場で野球をしたりで付近はかなり賑わいます。
里山風景1
里山風景1
手掘りの導水トンネル
手掘りの導水トンネル
自然の岩の割れ目が水路になっている
自然の岩の割れ目が水路になっている
 
瀬上の池広場
瀬上の池広場
瀬上の池春の風景
瀬上の池春の風景
里山風景2
里山風景2
 池から流れ出る水の水路はところどころに岩盤を潜り抜ける割れ目がありそこを通
って流れる水路は子どもたちの遊び場です。狭く浅いのでザリガニや小さな魚が取れ
ます。我が家の子供も学校が終わったあとここで遊んでいたようで、時々泥だらけに
なって帰ってきていたようです。どこで遊んでいたかは親には内緒のようでしたが、
自宅の近くでそんな泥だらけになる遊び場はないのでばればれでしたが、子供たちに
とっては親に内緒の“秘密基地”でとても楽しかったようです。
深田製鐵所遺跡付近の現在
深田製鐵所遺跡付近の現在
深田やぐらは個人の敷地内にあります
深田やぐらは個人の敷地内にあります
 瀬上の池の近くには、県
立横浜栄高校(旧上郷高校)
があります。この付近は、
大昔に人が住んでいた跡が
見つかり、猿田遺跡といわ
れています。近くには鉄を
精錬した深田製鉄遺跡も見
つかり、ここで“たたら”
を使って(砂鉄を熱して)鉄を造っていたんですね。きっと材料の砂鉄も近くから取
れたんでしょうか。「深田やぐら」も近くにあり、大昔の人々がこの付近で生活をし
た様子を思い浮かべてみるのも楽しみです。
 街道に戻ってみると、近くに證菩提寺という寺があります。境内の広さは約1km
四方あったといわれています。現在の我が家はこの境内に含まれていたと思われます
が、もともとは山また山の大変な地域でした。住み始めてからは長い間正月の参拝を
鎌倉八幡に行っていました。前号で書いた光明寺で除夜の鐘を撞き、新年には自宅か
ら歩いて約1時間超で南の山を越えると鎌倉八幡様でしたので混み合う街道を使わず
歩いて新年を祝ったものでした。今はお正月には自動車では鎌倉に入ることができま
せん。
 この證菩提寺のいわれを資料から抜粋すると『源頼朝は石橋山の合戦で頼朝を守っ
て死んだ若武者・佐那田与一のため建久8年(1197)に證菩提寺をたてました。この
場所は鎌倉の鬼門に当たるためといわれています。鬼門とは、東北の方角で昔から悪
い鬼が出入りする方角と考えられていました。そこで災いなどを起こす鬼の出入りを
防ぐため、お寺などを建てて大切な場所を守っていたところです。』
                             (栄区郷土史より)
證菩提寺山門
證菩提寺山門
證菩提寺本堂
證菩提寺本堂
證菩提寺
證菩提寺
 
證菩提寺付近の扇橋風景
證菩提寺付近の扇橋風景
桂台からの水辺風景
桂台からの水辺風景
證菩提寺付近のいたち川
證菩提寺付近のいたち川
 この地区の宅地造成で造られた證菩提寺の南側山は桂台団地として地域の中核住宅
地となり鎌倉八幡様を守っているわけではないんですが大変多くの方々が住んでいま
す。この宅地に桂山公園がありますがここには「はたおり地蔵」が祭られています。
昔に機を織っていたんでしょうか。珍しいお地蔵様です。
 いたち川の夏場は、この證菩提寺付近になるとご覧のように草が生い茂って凄い景
色になります。結構へび族が川辺を散歩していて危ないんです。あまり湿地の近くに
は行かないようにしています。へび族は苦手ですし危険なマムシも多いのです。私は
もっぱら川の土手沿いの遊歩道を歩いています。
 遊歩道を少し歩くと本郷小学校の校庭に出ます。この小学校は地域では大変古くか
らの学校です。(小学校石碑には鎌倉郡本郷村立尋常* 本郷小学校石碑
本郷小学校石碑
*と読めます)私がこちらの地域に移ってきたときには、
木造校舎でしたが校庭の広さに感激したものです。都会
の小学校は運動場が小さく子供の数が増え続ける時代で
したから、こちらの校庭が素晴らしく広い校庭を持って
いたので鉄棒・上り棒・砂場・など昔からの校庭風景を
見て吃驚したのと、ずいぶんと田舎に着たもんだ!など
と思ったのを覚えています。今も校庭は広いし当然プー
ルもありますが、校庭ではマーチング・バンドの練習などしていて迫力があります。
 本郷小学校のところから、街道を北側に渡って小高い山に登ると本郷ふじやま公園
があります。ここには地域の歴史が学べる施設が作られています。もともと「ふじや
ま」は地元では富士山と呼び親しまれていた山です。頂上には富士講の石碑もたてら
れています。昔は簡単には旅をすることができなかったのでここを富士山に見立てて
成人のお祝いなどをして祈ったようです。この公園には鍛冶ヶ谷の名主を勤めた小岩
井家の古住宅が移築され保存し公開されています。大きな長屋門と母屋は式台つきの
ものです。大変格式のある建屋で、現在は学芸員が詰めていて親切に説明をしていた
だけます。式台から上がって下座敷には槍床があり、中座敷に入りそこから上座敷で
す。ここには違い棚と床の間があり、その床の間にはどういうわけか杯が浮き彫りさ
れています。(浮き彫りかはめ込んだのか定かではありませんが)客間壁が全てピン
ク色(説明によるとベンガラで着色している)昔(江戸時代末期)の人は建物にもい
ろいろな細工をして楽しんだんですね。この夏の暑さでも母屋に入ると風が吹き抜け
て涼しいです。
小岩井家長屋門
小岩井家長屋門
母屋全景
母屋全景
母屋を山の上から見た
母屋を山の上から見た
 
ふじやま公園の富士講石碑
ふじやま公園の富士講石碑
竹林の道
竹林の道
下から見た富士山(ふじさん)
下から見た富士山(ふじさん)
 
 第2回“いたち川”川沿いを探索するは、この辺で終わり続きは第3回へ
                資料:栄区郷土史。栄区歴史散策マップ。
 
2011. 9.18 野村 “いたち川”川沿いを探索する(その3)
 
 “いたち川”川沿いを探索する(その3) 横浜市 野村 一信
 
 本郷小学校を少し下ると公田(くでん)交差点の出ます。上大岡方面からの鎌倉街
道が原宿六浦線と合流したところです。この辺に来ると川幅も広がり川らしくなって
います。今は鯉が川を占有して上流から下流に掛けてどの水面でも見ることができま
す。ここに「いたち川」に架かる天神橋があります。桂町という地名ですが天神橋バ
ス停がありこの辺り一番の町です。 天神橋バス停の彫刻像(誕生)
天神橋バス停の彫刻像(誕生)
 地名にはいろいろと歴史がありますから調べるとどん
どんとはまるものですが、この天神橋のところには南側
から洗井沢川という小さな川が合流しています。チョッ
と最近は中高年でリュックを担いだグループでよく歩い
ていますので、私も少し横道にそれて見ましょう。
 「洗井沢川せせらぎ緑道」は奥がかなり深く道は狭く
車が多いので歩く人は十分に安全を確保して歩かなけれ
ばいけません。途中に昔は天然の岩盤を防護ネット代わりにしたゴルフ練習場があり、
ショート・コースなども併設されていて、ゴルフ・ブームの時は土・日はその付近は
チョッとサロン風で大変賑わったこともあったんですが、今は緑の森と霊園と介護施
設に取って変わり、すっかり付近の様子が変わってしまいました。
洗井沢川付近の庚申塚
洗井沢川付近の庚申塚
市民菜園付近の極楽広場
市民菜園付近の極楽広場
市民菜園の眺め
市民菜園の眺め
 霊園を過ぎると市民菜園に到着します。極楽広場でベンチに腰掛けて一休みしてい
るとトンボが様子を見に来ました。“ゆっくりと休んでから行きなさい!この奥は急
な坂道で滑りやすいよ!”なんて言ってくれているのか。トンボが目をくるくる回し
ています。トンボの忠告を聞きながら、洗沢川源流湿地帯を進むとすぐに急な山道を
登ります。滑りやすいしあぶないな〜と思いながら杭につかまるとへびがいた!ワッ!
吃驚しましたが、相手は悠々と杭の横を滑るように進みとぐろを巻く気配なしで消え
て行きました。1mぐらいでしたがまだ若そうな体形でした。(スリムな体形)
 ここを登ると皆城山展望台があります。その展望台からは、山また山を開発して住
宅地になったこの地域が一望できます。勿論富士山が見えますが丹沢の山並みを眺め、
北の方には野庭の高層住宅街それよりも少し右には横浜市の中心街にあるランドマー
クタワーなど歴史を考えながらの眺望で一休みできます。
皆城山展望台
皆城山展望台
眺望説明板
眺望説明板
皆城山展望台から北側の眺望
皆城山展望台から北側の眺望
 また、もう少し奥に行きますと鎌倉パブリックの谷越えのショートホールの上に出
ます。ゴルフをされる方はこのショートホールで、いい思い出と悪い思い出をお持ち
だと思います。ホール・イン・ワンがでそうになったり、バックスピン?がかかりす
ぎて谷底にボールが落ちてしまったりと心当たりの方もおられましょう。
 さて天神橋まで戻りましょう。天神橋のところには皇女御前社があります。今は住
宅地の隅を借りるように鳥居だけがちょこんとしていますが、なかなかの歴史です。
ここで『栄区郷土史』を借用して皇女御前社の歴史を書いてみましょう。
 『文禄元年(1592)2月の寒い日、旅の僧信永が、公田村に着いたときのことです。
「旅のお坊さま、こちらに来てください。」姿は見えないけれど、女の人の声がしま
した。声のする方に行くと、のぼりつめた丘の上に崩れかけた塚が3つ、ひっそりと
並んでいました。信永がそこで長いお経を終えたとき、また声がしました。「ありが
とうございます。真ん中が主の照玉姫様です。お寂しいと思い、おたのみしました。」
女の人の話によると・・・
 照玉姫さまというのは平安時代の桓武天皇の皇子、藤原親王の妃。この頃の朝廷は
争いが絶えず、皇子は争いを避けて若く美しい照玉姫や数人の家来と旅に出たそうで
す。ところが姫が病気になって、公田の里に留まることになりました。治った照玉姫
は優しくて偉ぶらず、都のお話をしてくれたり、珍しいものをわけてくれたりしたの
で、里のみんなにとても慕われました。
 でも天長元年(824)照玉姫は病気が再発して亡くなってしまいました。嘆き悲し
んだ里の人は塚を築いて供養しました。やがて侍女だった相模の局と大和の局も亡く
なり、それからも二人の塚は照玉姫をはさんで守っていました。信永を呼んだ声の主
は相模の局か大和の局のどちらかだったのでしょう。この話しに心を打たれた信永は
塚のそばに小さな社を建てました。それが皇女御前社の前身です。』
 (栄区郷土史より) 大変な歴史があったんですね。
皇女御前社
皇女御前社
皇女御前社庚申塚
皇女御前社庚申塚
アラハバキ神の橋
アラハバキ神の橋
 すぐ近くに面白い名前の神様を祭ってあるようですので、チョッと寄ってみましょ
う。その神様は、“アラハバキ神”というそうで関東でこの神様を祭るのは珍しいそ
うです。東北方面ではよく祭られているようです。「足、腰を守る神さま」だそうで
す。きっと先に書いた鉄を作る時に鍛治職人が祭ったんではないかといわれています。
本体の神さまは、横の道が藪で蚊の大群に守られていて写真は断念しました。
永林寺本堂
永林寺本堂
扁額(桂谷山)
扁額(桂谷山)
 近くに永林寺があり曹洞
宗のお寺です。本堂に桂谷
山という山号の額が掛けら
れています。昔はこの辺り
は桂(カエデの古名)の木
が沢山あったそうです。
 
 
 ずいぶんと歩いたので疲れましたね。天神橋のお団子やさんで一休みするのも良い
ですよ。少し甘みを抑えてできている「くし団子・大福」などで英気を養い本郷台駅
方面に向かいましょう。
 栄区役所の裏側を「いたち川」が流れていますが、そこに大いたち川・子いたち川
の橋があります。子いたち川は、先に書きました瀬上の池という農耕用貯水池を源流
にして流れてきた川が、ここで本流の「いたち川」に合流しています。すぐ前は県立
柏陽高校のグラウンドです。野球と軟式テニスの練習でいつも若い人の歓声が聞こえ
ます。
大いたち川モニュメント
大いたち川モニュメント
子いたち川モニュメント
子いたち川モニュメント
いたち川の中にある「いたち」の置物
いたち川の中にある「いたち」の置物
 ここで再び「いたち川」の名前について書いてみましょう。「いたち川」に架かる
城山橋の袂に「いたち川」の由来が書いた看板があります。それによると、
 『いかにわが たちにしひより ちりのきて かぜだにねやを はらわざるらん』
徒然草の作者・兼好法師がいたち川のほとり宿駅から旅立つときに詠んだと伝えられ
ています。各節のはじめの文字を拾うと「いたちかは」になります。また、更級日記
の作者である菅原孝標の女、親鸞、一遍なども、この川岸を通ったことが記述されて
おります。(写真の説明文) なかなか歴史のある「いたち川」です。
 この付近は、戦中、海軍 城山橋のいたち川説明
城山橋のいたち川説明
城山橋からのいたち川
城山橋からのいたち川
の燃料廠が置かれていて、
戦後はP]が置かれました。
この地域が、このような歴
史を刻んでいたとは知りま
せんでした。
 
 
 今は、この先に栄区のただ一つの駅本郷台駅があります。次回はこの本郷台駅付近
からをレポートして見ましょう。
          (資料は全て栄区郷土史・いたち川散策マップなどから)
 
2011.11.20 野村 “いたち川”川沿いを探索する(その4)
 
 “いたち川”川沿いを探索する(その4) 横浜市 野村 一信
 
   本郷台駅付近の歴史
 “いたち川”に架かる城山橋を北向きに渡ると、すぐにJR根岸線本郷台駅に到達
します。昭和48年(1973年)に開業された駅ですが、元は戦後の名残でPXが保有し
ていたところです。この付近は昭和13年(1938年)に第一海軍燃料廠が造られて太平
洋戦争末期には、2,000人の人達が働いていました。
 ここで地元出身(小菅ヶ谷)の東京計器OB会会員でもある田中健次さんに「いろ
いろな思い」を書いていただきましたので紹介いたします。
 『この敷地の大半は小菅ヶ谷地区であり、平坦で肥沃な農耕地でありました。接収
された後は、広大な敷地の周囲を高い塀で遮られてしまい、東西交流もまならず、大
変不便な状況が続きました。しかし、満州事変から第二次世界大戦、太平洋戦争へと
続く過程では、国からの農地解放要求に対抗手段もなく、多くの地権者が提供を余儀
なくされました。
 終戦後も米軍のPX施設として長らく利用され、ついに旧地主への返還の機会もな
いまま現在に至っているのが残念でなりません。農地を失った地権者は、戦中・戦後
を通じて、苦労の絶えない生活を強いられてきました。
 現在は、ご覧のように平和な郊外の生活空間となって 本郷台駅前
本郷台駅前
います。本郷地区には唯一の本郷尋常高等小学校が現在
の柏陽団地内にありました。更に戦後(昭和22年)新学
制が発足し、唯一の本郷中学校が開校しました。いずれ
も、本郷地区全域から生徒は通学しました。交通手段も
なく、雨の日も風の日も徒歩で通学しました。現在では
想像し難いのですが、本郷地区全ての人が顔見知りでし
た。
 
 旧本郷尋常高等小学校内には二宮金次郎の銅像と本郷 本郷尋常高等小学校跡地に残る    二宮金次郎
本郷尋常高等小学校跡地に残る    二宮金次郎
地区戦死者の忠魂碑及び慰霊碑が設置されていました。
日清戦争では、戦死者はありませんでしたが、日露戦争
では6名の戦死者が出ました。明治39年(1906年)2月
に村会の決議により、当時鎌倉に在住の東郷平八郎大将
の揮豪による忠魂碑を設置しました。
 昭和30年には太平洋戦争の戦死者の慰霊碑を旧本郷村
の有志が本郷慰霊碑建設委員会を結成し、基金を集め、
 
当時の鎌倉建長寺管長の揮毫を得て同じ場所に建設しま 東郷平八郎大将揮毫による忠魂碑   ・慰霊碑
東郷平八郎大将揮毫による忠魂碑   ・慰霊碑
した。
 戦後の宅地開発にこれらの設置場所が追われて、現在
本郷台公園東側の一角に両碑を移設安置しました。
 ◆忠魂碑のトップには我が家出身の田中梅吉の名が
 (明治38年5月8日清国盛京省遼陽にて戦死)
 ◆慰霊碑には同じく田中茂の名が彫られている。
(昭和19年12月6日ニューギニアムミ方面に於いて戦死)
 本郷台駅の北側には、本郷の総鎮守といわれる春日神社があります。この神社は、
平安時代にこの辺りの山ノ内荘という荘園を支配していた山ノ内須藤氏がたてたので
はないかといわれています。源頼朝が石橋山に兵を挙げたとき、須藤氏は敵にまわっ
たために、この荘園を取りあげられました。そのため春日神社も次第に荒れ果ててい
きましたが、後に再建されました。
 春日神社の本殿は『中宮』といわれ、江戸時代末ごろの作品といわれる彫刻で四面
を飾ってあります。
春日神社本殿
春日神社本殿
春日神社境内
春日神社境内
春日神社の見事な神輿
春日神社の見事な神輿
 秋の例大祭や初詣は、地元や近隣の皆様で大変賑わいます。私共地元の氏子で維持
管理に当たっています。』
(以上。田中健次さん執筆による。)
 田中健次さん宅のすぐそばに大誓寺があります。この 聖徳太子の若いときを祭る大誓寺
聖徳太子の若いときを祭る大誓寺
寺の聖徳太子像は、16歳の若い頃の像です。作者は弘円。
大誓寺境内には、ザクロ、サルスベリ、イロハモミジと
いう横浜市の「名木古木」に指定された木が3本ありま
す。樹齢はそれぞれザクロ約420年、サルスベリ約420年
イロハモミジ約120年といわれています。
また境内には六体のお地蔵さんが祭ってあり六地蔵と呼
ばれ親しまれています。六地蔵は六つの場所で人々の苦
しみを助けてくださるといわれています。
横浜市名木のサルスベリ
横浜市名木のサルスベリ
横浜市名木のザクロ
横浜市名木のザクロ
苦しみを助ける六地蔵
苦しみを助ける六地蔵
 本郷小菅ヶ谷にも大変な歴史がありました。ここで本郷台駅に戻りましょう。
 今は駅東側の広い道を500メートルほど北に行くと長屋門があります。この長屋門は、
昔、小菅ヶ谷の名主をしていた田中家の門です。今から約150年ほど前に建てられたも
田中家長屋門
田中家長屋門
のだといわれています。
 長屋門はつくるのに許可が必要で、誰でもたてること
はできませんでした。そのため、武家屋敷や身分が認め
られた家にしかありませんでした。長屋門の両脇には、
よくみると部屋があり、人が住めるようになっています。
このような長屋門には馬や使用人が住んでいました。
 この長屋門は今でもごらんのように使われています。
 
 長屋門の田中家を過ぎてもう少し北に向かって歩くと、長光寺があります。ここに
OB会員の田中家墓所があるのでご存じの方も多いかと思います。
長光寺(花立薬師如来がある)
長光寺(花立薬師如来がある)
 江戸の始めごろ、将軍徳川家康は、本郷の辺りでよく
鷹狩りをしていました。あるとき、大切にしていた鷹が
一羽逃げてしまいました。家康も家来の者も慌てて後を
追いましたが、鷹は小菅ヶ谷の森の松のこずえにとまっ
て、なかなか降りてくれません。困った家康がふと辺り
を見まわすと、松のかたわらに薬師如来がまつられてい
る小さなお堂がありました。
「どうぞ、鷹が降りてきますように」と家康が熱心にお
祈をすると、すっと鷹が舞いおり、家康の腕にとまりました。喜んだ家康はお礼にと
足元の野の花を手折って、薬師如来に供えました。それからそのお堂の辺りは「花立」
と呼ばれるようになったといわれています。
 本郷台駅付近は、地元の方でないと分からない貴重な情報を田中健次さんからいた
だきました。ありがとうございました。
 次回は、“いたち川川沿いを散策するその5”を予定しています。
          (資料は全て栄区郷土史・いたち川散策マップなどから)
 
2012. 2.12 野村 “いたち川”川沿いを探索する(その5/最終回)
 
“いたち川”川沿いを探索する(その5/最終回) 横浜市 野村 一信
 
   本郷台駅付近から柏尾川合流点向かってに歩く
 本郷台駅改札口を背に右側の道路を南に進むと「いたち川」に出ます。前回渡った
城山橋の一つ下流側の橋に出ます。この橋の正面に制服 ニッコリと挨拶をしてくれる警察学校生
ニッコリと挨拶をしてくれる警察学校生
を着た若い人が通行人に敬礼してくれます。思わずこち
らも挨拶を返すとニッコリとして良い雰囲気になります。
ここは神奈川県警察学校です。(前回の本郷台駅付近の
歴史に出てくる海軍燃料廠後地で戦後PXとして使われ
ていた広大な跡地の一部)冬のこの時期は橋の袂には冬
桜がちらほらと可憐に咲いています。
 気分よく川沿いのプロムナードを下流に向かって歩き
ますと程なく左側に若いお母さんの裸体を模した彫刻が目に入ります。5人もの女性
がそれぞれのポーズで踊るような姿を見せています。その先にある花之木公園には大
型バイクに乗った青年の姿が彫刻されています。
裸婦像
裸婦像
風
タイトル?
タイトル?
 この付近の川面はいたち川としては広くなりいろいろな鳥と鯉などが観察できます。
鳥は、カワセミ・コイサギ・アオサギ・カルガモ・コサギ・かもめ・メジロなど。鯉
は大きくて色とりどりなのが悠然と泳いでいて、先日は川面の真ん中にある石の上に
亀が日向ぼっこをしていました。この亀は誰かが放したんでしょうね。
アオサギ
アオサギ
サギ
サギ
亀
 新橋(にいばし)という橋を左に曲がっていくと笠間十字路に出ます。笠間十字路
はこの付近の交通渋滞の名所ですが、昔はこの付近で農耕用の馬を洗っていたようで
笠間十字路近くの今泉不動尊道標
笠間十字路近くの今泉不動尊道標
す。 ここを旧鎌倉街道の方面に歩いてみましょう。
すぐに今泉不動尊の道標が民家脇においてあります。昔
はこの道標で旅をしていたと思うと朽ちかけたこの道標
を愛おしく思いますね。
 この道標のすぐ先には法安寺があります。ここは室町
時代南北朝の騒乱さなかに建てられたといわれています。
もと鎌倉光明寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来。文安2年
(1445年)持阿智光了専によって創建されたと言われま
す。一時衰退し、永正5年(1508年)再建されたと伝えられます。本堂はもと鎌倉建
長寺の客殿を明治11年(1878年)移築したものといわれています。ここの本堂には、
弘法大師が一晩のうちに、川原の石を爪で彫ったという伝説が残されている観音像が
あります。
 観音像は高さ10cmほどですが胸の前に11個の丸印があります。このために11面観音
像といわれています。今はそれを模したものが境内に祭ってありますので写真を撮っ
てみましたが見えますか?
創建以来法安寺入り口石塔
創建以来法安寺入り口石塔
法安寺山門
法安寺山門
法安寺石仏
法安寺石仏
 
法安寺11面観音像を模した石碑
法安寺11面観音像を模した石碑
本堂
本堂
境内石仏
境内石仏
 この先に行くと御蔵坂があります。ここは笠間村の年貢を納める蔵があったところ
からこの名前がついたようです。緩やかな坂道を登った(30〜40m)ところに蔵があ
ったようですが、今は舗装していて蔵もないし面影はほとんど残っていません。
 この先には青木神社があります。街道から見上げると100段もの階段が続いていて
チョット登るのを躊躇しますが、この付近の鎮守様です。
祭ってある神様は:
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
 天手力男命(あめのたじからおのみこと)
青木神社参道の階段
青木神社参道の階段
青木神社
青木神社
二十三夜供養塔
二十三夜供養塔
 
 社伝によると建武2年(1335年)近藤出羽次郎清秀が 二十三夜供養塔看板
二十三夜供養塔看板
領内笠間村の高所(現在の社地)に神社を建立し、近藤
一族と領内鎮護の社としたという。新編相模風土記には、
「青木明神社村の鎮守、村持」と記されているようです。
 明治6年12月政令により村社に列せられ神饌幣帛供進
神社に指定されている。明治41年村内の鹿島神社及び神
明社を合祀。昭和25年鹿島神社を分祀昭和28年宗教法人
青木神社として認証されました。」
と記されていました。場所はJR大船駅近くのS堂化粧品工場の裏辺りになります。
 ここでまた「いたち川川沿い散策路」に戻りましょう。笠間十字路をずっと南に歩
いたので、そのまま戻りますと新橋(にいばし)に出ます。この橋は鎌倉時代につく
られた「上の道」「中の道」「下の道」が作られたうち「中の道」となります。この
新橋(にいばし)は仁冶元年(1204年)北條泰時が中の道の新道を作り大船の離山か
ら笠間を通り飯島・長沼にいたる道ができたようです。この橋の一つ下流に水神橋が
架かっています。橋の袂には水神様を祭っていて小さな祠が置いてあります。近在の
水神様
水神様
方が今でも水神様にお花を手向けていてきれいに保存さ
れていますが、昔、「いたち川」は大暴れして、この付
近の農家作物が大変被害を被ったので水の神様を宥める
ために祭ったようです。 今はこの辺りは緩やかな川面
を見せて昔の暴れた荒々しさは感じません。(齢をとっ
たんでしょうね)ここまで来ると「いたち川」も合流す
る柏尾川に宥められておとなしく緩やかな流れで野鳥や、
川の鯉・他魚たちの楽園です。
 柏尾川に合流するところは今ではガソリンメータのタツノ社が「いたち川」の両側
を保有していて一般は立ち入ることができません。残念!
新橋(にいばし)付近のいたち川
新橋(にいばし)付近のいたち川
いたち川の鯉
いたち川の鯉
柏尾川合流付近の景色
柏尾川合流付近の景色
 
 (追伸)第3回に荒井沢川を散策した時に、(あらは あらはばき神
あらはばき神
ばき神)が薮蚊に守られて写真を取れませんでしたが、
季節が変わって冬になったので攻略できましたので掲示
いたします。
 
 
 残念ですが、「いたち川川沿いを探索する」はここで
終了となります。
 次回は、今泉不動尊と散在ヶ池(鎌倉湖)を予定しています。
 
          (資料は全て栄区郷土史・いたち川散策マップなどから)