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| 話の内容は市民大学(自称、雑学塾)での講義、歴史講演会、地元の人の話等々か |
| ら聞きかじった、にわか仕込みの知識によるところが多いので、歴史通の方からはお |
| 叱りを受ける部分もあるかと思いますが、その際はお許しを頂きたい。肩の力を抜い |
| て気楽に読んで頂ければ幸いです。 |
| 「那珂川の寒突き漁で捕まえた鯉が手に入ったから取りにおいでよ」、いつものよ |
| うに受話器の向こうから元気な声がした。声の主は大田原市の湯津上地区(旧湯津上 |
| 村)に住むHさん(以後H氏と呼ぶ)で、雑学塾の仲間である。郷土の風俗、歴史に |
| ついて豊富な知識があり、それを時折聴くのがとても楽しみである。彼の誇りは「古 |
| 代ロマン湯津上(ゆづかみ)の里」のほぼ中心地とも云えるところに住んでいることだ。 |
| 事ある毎にそれを熱く語るのである。侍塚古墳松守会代表を長い間務めていて、強風 |
| や大雨などの際は、やり掛けの仕事を放り出してでも真っ先に侍塚に駆け付けると云 |
| う、本気で郷土を愛する素晴らしい人物である。H氏の住まいの北方向300m程の所に |
| 「笠石神社」また南東方向に同じく歩いて5分足らずの所には「下侍(しもさむらい) |
| 塚古墳」、更にそこから南方向へ5〜6分位の所に「上侍(かみさむらい)塚古墳」が |
| ある。正に彼の云うその里の一等地ともいえる場所であ |
旧湯津上村H氏宅 |
| る。広い屋敷林に囲まれ、古い茅葺の家もまだ残してあ |
| り現在もその一部分を使っている。その庭先に立ち、下 |
| 侍塚の美しい松の緑に目をやり、そして静かに目を閉じ |
| ると何故か遠い昔にすうーつと吸い込まれて行くような |
| 気持ちになる。少しきざな云い方になるが、私はここを |
| 訪れた時、よくそうして遠い昔に思いを馳せてみること |
| がある。それがとても好きである。 |
| <参考> |
| 1)古代ロマン湯津上の里:この地域は八溝山系西側裾部の那珂川右岸にあり、自然 |
| の恵み(温暖な気候、水運・交通の便など)を受け、古き時代に農耕、文化が栄 |
| えた。その誇りをこのキャッチフレーズに込め、農業(特に米、梨、にら、アス |
| パラ)を始め観光等も含めた町おこしを図っていると聞いている。 |
| 2)「上侍塚古墳」「下侍塚古墳」⇒両方とも前方後方墳で国指定の史跡。 |
| 黄門様の巡視 |
| 1676(延宝4)年、草むらの中に倒れ埋もれていた石碑が、磐城(昔の陸奥の国) |
| の旅の僧、円順の目にとまった。この話が川向こうの水戸藩領武茂(むも)の郷、小口 |
| 村(旧馬頭町)の名主、大金(おおがね)重貞(しげさだ)の耳に入り、重貞は調査のた |
| めこの碑に通い詰めたことが記録に残っている。調査結果を自ら編纂中の「那須記」 |
| に盛り込み、調査を始めてからほぼ7年後に藩領巡視で訪れた徳川光圀(水戸藩第二 |
| 代藩主で、大日本史の編纂で有名)に「那須記」を献上し、その中から石碑のことも |
| 光圀の知るところとなった。 |
那須國造碑 |
この様に三者の偶然の出会いが重要な歴史をひも解く |
| きっかけとなったのである。その後光圀の指示で、佐々 |
| 介三郎宗淳(ささすけさぶろうそうじゅん)(家臣の儒学 |
| 者)が中心となり、大金重貞や地元の人達の協力を得て、 |
| 倒れていた石碑を起こす事業がおこなわれた。その後16 |
| 91年頃、光圀はこれ以上風化することを心配し、祠を作 |
| りその中に碑を収めたと云われている。 |
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| ところで、光圀が藩領巡視などの際に定宿としていたと云われている大金邸は如何 |
| なる場所にあり、そして重貞とはどのような人物であったのか少し触れてみることに |
| する。当時、小口村と呼ばれていた所は湯津上の里のH氏宅からさほど遠くないと聞 |
| いていたので、秋も終りに近いある日、H氏に案内を依頼した。那珂川の流れに沿っ |
| て連なる左岸丘陵の急坂を登り、小砂燒(こいさごやき)(栃木県で益子と並んで有名 |
| な焼き物)の窯元が幾つもある郷に出て、そこを南北に走る道路を横切ると、かなり |
| 深い谷にぶつかった。谷を越え急な坂を登り詰めた左手の大変静かな場所に大きな屋 |
| 敷があった。今からおよそ300年以上も時が流れているので、当時の様子を伺うことは |
| やはり無理であった。その屋敷は当時、那珂川の矢倉の渡しと呼ばれていたと思われ |
| る舟着き場からだと、およそ40〜50分位の所である。例えば水戸から舟でさかのぼる |
| 場合、川から丁度手頃な距離で、そこは那須地域の歴史面での貴重な情報源である頼 |
| もしい人に会える宿でもあったように思われる。光圀は馬頭方面(湯津上を含む)へ |
| は10回ほど足を運んだと云う記録が残っている。大金家は常陸の名族、佐竹家に長年 |
| 仕えた土着の豪族で、代々小口村の名主を務めた家柄である。重貞も32歳の若さで家 |
| 督を継ぎ名主となった。また文筆家、歴史家としても近在に知れ渡っていたそうであ |
| る。現在は重晴という方が後を継いでいるらしい。 |
| 草むらの中から見つけ出され、徳川光圀等の思慮、熱意に基づき大切に祀られた石 |
| 碑の、その文章については江戸時代の頃から現在に至るまで多方面に及ぶ研究の対象 |
| となり、多くの歴史学者、歴史研究家等によって研究されてきて、ほぼその概要が明 |
| らかになってきてはいるが、しかし未だ解明されていない部分も少しあり、全体とし |
| ては解き明かされていない様である。 |
| 那須直韋提(なすのあたいいで)が永昌元(689)年、評 |
上侍塚古墳 |
| 監(こおりのかみ)を賜り、庚子(かのいね)(700)年に死 |
| 去したことが刻まれていて、この部分の解釈は間違いな |
| いと思われるので、碑主は那須直韋提である。しかし当 |
| 時の徳川光圀、佐々介三郎宗淳、大金重貞等の碑文解釈 |
| のベースを示す「那須記」や「佐々宗淳訓点」等では、 |
| 今日的に那須直韋提としている部分が、那須專(宣)事 |
| 提とされ、直が「專(宣)」「韋」が「事」と記されてい |
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| る。従って碑文中には碑主の記載が認められず、その解 |
下侍塚古墳 |
| 明のため光圀の歴史研究心に火がつき、碑主の墓誌を求 |
| めて近くにある「上(かみ)および下両侍(しもりょうさむ |
| らい)塚古墳」発掘に及んだものと見られている。 |
| {1691(元禄5)年〜} |
| (注)「宣事」は長官である那須國造を補佐する官職名 |
| と考えられていたのではないかと見られている。 |
| 正しくは、直(あたい)は苗字、葦提(いで)は名前 |
| である。 |
| 碑文の大意 |
| 碑文は「書き下し」を行った上で解読するのが常道であるが、当雑話は碑文を詳し |
| く掘り下げることが目的ではないので、書き下しは省略し、いきなり大意的に触れて |
| みることとする。 |
| 永昌元年(中国の年号で、当時朝鮮半島にあった新羅の国では中国の年号を使用。 |
碑文 |
元年は西暦689年。日本では飛鳥時代)の巳丑(つちのと |
| うし)4月に飛鳥浄御原(きよみがはら)の大官(おおみや) |
| (持統天皇)から、那須國造の追大壹(ついだいいち)(那 |
| 須国の長官・正六位)であった那須直韋提は評監(こおり |
| のかみ)(郡の役人)に任命された。そして、庚子(かの |
| えね)の年の正月二日壬子(みずのえ)の日(西暦700年1月 |
| 2日)の辰の節(午前8時頃)に長逝しました。そこで、 |
| 遺嗣子(息子)の意斯麻呂(おしまろ)を首とする私ども |
| は、碑銘を建て遺徳を称え故人を偲び祀りました。 |
| 回顧してみると、亡くなられた郡役人直韋提は広氏(こうし)(那須氏の祖のことで、 |
| 解釈が種々あり定まっていない)の尊い後胤(子孫)で那須国の柱、朝廷の重鎮とも |
| 云うべき方でした。その一生は、浄御原の大宮より追大壹にあげられ、更に評監職を |
| 戴き、二度にわたった光栄にあずかり、名誉ある命を高めました。ここより最後まで |
| の部分は、意斯麻呂らが父君の遺徳を肝に銘記し、自分達も立派に遺志を継承して行 |
| くことをのべている様である。 |
| なお碑の建立時期については、銘文には記載されていないが、韋提の死後からそう |
| 遠くない時期と考えられている。 |
| 碑文をみると |
| @冒頭より永昌と云う唐年号を使用。 |
| A来歴をしるした部分の文章の出典は漢書である。 |
| B書体は中国の六朝時代(呉,東晋,宋、斉,梁、陳の各朝廷)の書風で非常に優 |
| れている。 |
| C石碑造営の行為は日本固有の文化でない。 |
| D笠石形石碑は新羅形である。 |
| 等々と学者達は分析し、つまり、この碑は渡来文化(百済、新羅)の影響を強く |
| 受けていると見られている。 |
| <参考> |
| 國造(くにのみやつこ):6〜7世紀の時代、倭(やまと)政権が全国各地を治め |
| るために置いた地方官、在地の有力豪族等が任命された様である。管下の裁判・刑 |
| 罰・祭祀・軍事などに関する権能を一手に掌握していた地域の最高首長であったら |
| しい。全国では大勢いた。 |
| <お断り> |
| 那須國造碑:は「碑文」の写真通り、「なすのくにのみやつこのひ」と読みます。 |
| また「碑文」の写真は、「国造」と表記していますが、本文は「國造」と表記さ |
| せて戴きました。 東京計器OB会HP担当 |
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| 那須國造(なすのくにのみやつこ)碑から南へ7km程の那珂川と箒川とが合流する |
| 西側地域は、温暖な気候に加え豊富な水と水運の便にも恵まれ、また隣接する陸奥へ |
| の入り口としての交通の要所で、7世紀後半頃那須国の中心地として大変栄えた所で |
| ある(旧小川町、現在の那珂川町)。 郡役所跡と考えられる那須官衙(かんが)遺跡 |
| がありまた東山道(7道のひとつで近江⇒美濃⇒飛騨⇒信濃⇒上野⇒下野(栃木県) |
| ⇒岩代⇒磐城⇒陸前・多賀城に至る各国を縦貫する政治道路の跡やその道路上の駅家 |
| 「那須國造碑の近くの磐上(いわかみ)駅家」の跡なども発掘調査で明らかになりつつ |
| ある。この地域及び周辺には多くの遺跡・古墳が集中していて、その出土品の中に中 |
| 国製の鏡を始め、中国や朝鮮半島由来の物も含まれている。また那須国の政治、文化 |
| その他の面での繁栄に、百済や新羅を中心とした渡来人が大きく貢献していたことが |
| 記録や物として残っている。これらの点から考えても、那須國造碑は那須国発展に貢 |
| 献した渡来人の意思表示ではないかとする学者がいても不思議ではないと思う。なお |
| 何故優れた文化を有する渡来人が沢山住んでいたのかなどについては、別の機会に投 |
| 稿させて頂こうかとも考えている。 |
| 那須國造碑(西暦689年頃、栃木県)、多胡(たこ)碑 |
那須國造碑 |
| (西暦711群馬県)、多賀城碑(西暦762宮城県)は日本 |
| の三古碑と云われていて、那須國造碑はこの中で最も古 |
| い碑である。単に極めて古いから注目されてきただけで |
| なく、前述した様に碑文そのものが思想・文学(古い中 |
| 国思想、文字研究、書法観賞)、政治(古代日本の地方 |
| 行政組織の変遷ほか)、文化(中国・朝鮮半島からの渡 |
| 来文化)などを研究する上で非常に価値ある情報が刻み |
| 込まれていると云われている。 |
| 明治44年国宝になった由縁がそこにあるらしいが、私に |
碑文 |
| は難かしくて良く分らない。 |
| また大金重貞や徳川光圀などが碑の文字の一部を読み |
| 違えたと云うことはあったにしても、この碑の存在がも |
| とで、碑主解明のための「上および下侍塚古墳」発掘に |
| 繋がり、結果として日本における学術的目的をもった古 |
| 墳発掘に200年近くも先駆けた学術調査となり、そのこ |
| とは高く評価されているようである。 |
| そして発掘→絵図作成(侍塚の場合、藩のお抱え絵師が出土品のスケッチをした) |
| →埋め戻し(埋蔵品収納木箱は松脂で密封)→墳丘修理→植林(墳丘の崩壊防止)→ |
| 公有などといった、今流にいえば文化財保護の重要性を意識した工程を採用し、以後 |
| の他藩等における古墳の学術調査の在り方に大きな影響を及ぼしたとも云われている。 |
| 光圀から出された作業指示内容を佐々介三郎宗淳が全て文書にして現場へ伝えたこと |
| が、「宗淳書簡」として残っている。調査に対する光圀・宗淳のしっかりした取り組 |
| み姿勢をうかがうことができる貴重な資料である。 |
| 古墳からの出土品は鏡、甲破片、鎧破片、太刀、高つき(杯)等々で、那須國造碑 |
| 主が誰であるか見定めることのできる物は見つからなかった。それもその筈で、これ |
| までの考古学的研究結果の積み重ねによると「上および下侍塚」は今から1600年位前 |
| の古墳時代前期のもの、國造碑は1300年程前の飛鳥時代のもので、300年程の年代差が |
| あり、両方の間に直接的な関係は無いことが、今になって分かるのである。 |
| 笠石神社 |
笠石神社 |
那須國造(碑)は、それを御神体とする笠石神社と名 |
| 付けて祀られ、幾多の歳月を経て今日に至っている。特 |
| に幼児の虫切り(癇の虫)にご利益があるといわれ、遠 |
| 方から参詣するする人も多いと聞いている。3月15日が |
| 恒例の大祭で、この時だけは祠の戸が開けられ石碑を直 |
| に見ることができる。 |
| ただし拓本、写真撮影は許されていない。下侍塚古墳の |
| 近くには「那須風土記の丘資料館・湯津上館」、那須官衙 |
| 跡近くには「那須風土記の丘資料館・小川館」がそれぞれあり、当地域にある遺跡群 |
| からの出土品、東山道調査関連資料、那須産金関連資料、渡来文化流入関連資料、那 |
| 須國造の碑関連資料などが展示してある。またその道のベテラン歴史学者が学芸員と |
| して町から派遣され研究に取り組んでいる。 |
| 機会を見て、当雑話でご案内いたしました旧湯津上村・旧小川町地域に足を運ばれ、 |
| 遙か昔に思いを馳せて見ては如何でしょうか。 |