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野村光雄さんは、平成19年1月12日、めでたく満百歳のお誕生日を迎えられ、廣瀬 |
富三郎名誉会員(現在101歳)に次ぐ、OB会会員として、お二人目の“百歳の長寿” |
を迎えられたのですが、その後、体調を崩されて、誠に残念なことでしたが平成19年 |
3月13日にご他界されました。 |
今回、野村さんが、会報「けいき」第3号に「幻の小石川工場を尋ねて」、「TK |
Sの秘められた裏話のあれこれ」を初めて寄稿されてから、最近の第56号まで、俳句 |
を除いて、67回にも及ぶ寄稿をされておられます。その内容は、会社のこと、地元蒲 |
田に関すること、エッセイ調に纏めた社会面の裏話など多岐にわたっておりました。 |
「OB会HP・会報」関係者の会合で、「総会・懇親会、バス旅行の参加最多記録 |
保持者」の廣瀬名誉会員に対して、「会報寄稿最多記録保持者」の野村光雄さんの寄 |
稿文を、お礼を含めてHPに掲載させていただいたらどうかという話があり、今回か |
ら連載物として掲載することになりました。 |
お陰様で、会員皆様のご努力により年々新しい会員が増えて参りました。大変喜ば |
しいことだと思っております。これらの方々にも、昔読んだことのある方々にも、当 |
時の世相を反映している野村さんの原稿を、ぜひ、ご一読、再読戴ければ幸甚に存じ |
ます。 |
掲載に当たり、改めて、野村さんのご冥福をお祈り申し上げます。 |
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1.幻の小石川工場を尋ねて (昭和52年会報第3号掲載) |
蒲田に移転して数えてみると、早々47年経って、ふと初秋のある日、TKSの小石 |
川工場跡を尋ねてみた。 |
指ヶ谷町のバス停から入口附近は道幅が昔の倍位拡くなって(角の交番はそのまま |
ある)いつも湿って暗かった坂道はすっかり明るくなり、装いも新たな福音教会や新 |
しい近代ビルが数棟建っている。これは当時あった“坂上醤油工場”をとり払ったこ |
とや東北自動車道に通じるバイパスが出来た所為でしょう? |
坂を上りきった左側に、よく洋食を出前してくれた |
小石川本社正門 |
“芙蓉軒”らしいしもたやあり“聾唖学校”と覚しき場 |
所には最高裁の書記官研究所という立派な役所が厳と構 |
えていた。右折して焼け残った住宅街を約200米ほど進 |
む。手前の木工場や赤レンガ造りの本社と工場のあった |
辺りを静かに凝視すれば、一面瀟洒な高級住宅が端然と |
建ち並んでいて、此処が本邦計器濫觴の“和田工場”の |
跡かと偲ぶよすがなくも〜しばし感無量〜いまはただ遠 |
い夢のような感懐がよぎるばかりであった。 |
町名は原町120から白山4丁目18に変更する。 |
依然として狭い正門前のこの道路には氷川さまの祭礼に子供衆が山車を牽いてきた |
のを憶えている。直ぐ手前の角は漢学の簡野道明先生。向かいは小林寿太郎元外相、 |
その隣は元東京市長の阪谷男、少し離れて土方伯邸のあったらしいここ植物園裏の台 |
地一帯は、日銀と第一勧銀の巨大な団地を囲むように、カラフルな住宅やアパートで |
一杯。とてもむかしのあのお屋敷街の風情はすっかり喪なわれていた。帰りはこんど |
裏門附近から思惑もあって京華商業校通りの商店街に出る。かって先輩の伴をして繁 |
く足を運び、暖かく迎えてくれた“東ずし”を探すが、どうも見付からぬ。隣の喫茶 |
店もない。止むなくその場所にあるスーパー門の魚やに聞くと、思いかけず自分の若 |
いとき、そのすしやの出前持ちで、威勢のいいあの親父さん、勝気の女将、そして一 |
人息子の一家全員は既に亡くなったと寂しく語ってくれた。 |
〜人生は無情〜星霜は移り人は去っていった。 |
あっちの方角には寄席の“紅梅亭”この前の路地左側には“八百屋お七”お墓が |
あったなと独り考え乍ら坂を途中から曲がって、“白山神社”に詣でる。境内二本の |
大銀杏には天然記念樹のNO.札があり、たしか白山さまのお輿は随分重いのが有名 |
だった。三叉路の“東洋大”はコンクリート4階建のキャンパスとなり、校庭は更に |
狭くなったよう。前通りの旧安田銀行は新築されて、“高木薬局”はいまも盛業中で、 |
ここのアイスクリームは別格美味しかった。肴町角のビヤホールと向かいの駒込館の |
姿は見えない。映画館は住友銀行に変貌した。 (昭和52年会報第3号掲載) |
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2.TKSの秘められた裏話のあれこれ (昭和52年会報第3号掲載) |
明治40年、先ず日露戦役のあと間もなき頃に、突如として英国ロンドンにある“ケ |
ルビン会社”は重役の“プライス氏”を日本に派遣して、神戸で専ら計器を作り、こ |
れを東洋方面に売込まんと企画したが、偶くTKSの技術をみて、合弁会社にするこ |
とを得策と考え、“松方幸次郎氏”(川崎造船所の創立者)の仲介に依ってこれが設 |
立に努力していたが、高齢な“ケルビン卿”の逝去に遭って、遂に不成功に終ったと |
いう。 |
その合弁の条件というのは、TKSは現物出資50万、ケルビン社は現金出資50万、 |
“和田氏”を社長に“プライス氏”を副社長にすることまできめていたそうで、世界 |
的に高名な大理学者のケルビン卿が“オックスフォード大学”の於ける講演で合弁が |
将にならんとする旨を発表したので、TKSの存在を欧州に知らしめて大いなる誇り |
にしたと云うことである。(昭和10年・和田老社長の講演要旨より) |
若き日の和田嘉衛社長 |
次は昭和6年頃か、うちの組長さんたちはよく稼ぐ、 |
社長のそれを超えることもあり、軍の監督官や税務署で |
問題になる程の高給取りだった。そう云えば“松竹撮影 |
所”(大正9年開所)正面近くで、脇役で鳴らした吉川 |
満子が経営する小料理屋があり、子役の高尾光子も遊び |
に来てはよく手伝っていたが、その折ちょっと小耳に挟 |
んだ話〜 |
当時、名監督と謳われた“小津安二郎氏”は自分の給料 |
は昭和の初めまで70円でボーナス200円貰ったとか・・・・。 |
有名な経済評論家の“三鬼陽之助氏”は昭和6年中央大学を出てダイヤモンドに入 |
社し、初任給はたしか45円だったという。今あれこれ較べて考えるとTKSの処遇は |
世間一般より遥かに良い方でなかったかと思う。 |
さて、昭和20年(4月15日)夜の空襲で“蒲田工場”は一瞬のうちに米軍の接収を |
免れる程の壊滅的打撃を受けた。 |
当時、従業員は11,500名とか、内徴用工4,000名を除いた残りを2,000名とすべく20 |
年末には1,200名までになった由。 |
なにせ膨大な借入金の返済は、確たる収入源なきまま茅ヶ崎工場、萩中グランド等 |
次々と資産の処分や売り喰いで、最悪時は月給を21回の分割払、やがて23年再建整備 |
法によって建て直しの目途が付くときは400名に縮少していた。残った人達は欠配でも |
構わぬから、材料を買ってくれと悲壮な覚悟でじっと試練に耐え。同じ苦難な生活を |
伴にして、必死に頑張ってきたことが、今日の繁栄に結び付く絆となったのでありま |
しょう。 |
“企業の発展は人物あってこそ、故旧忘れ得べき”! |
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3.蒲田撮影所の面影、今はなく! (昭和58年会報第15号掲載) |
蒲田地区に工場進出の盛んな頃、大正9年2月、「松竹キネマ撮影所」が中村化学 |
研究所」跡地に誕生した。 |
俗に言う「蒲田撮影所」である。大正時代府下の一農村に過ぎなかった蒲田の名が |
全国津々浦々に上映される映画のタイトル「蒲田撮影所製作」の文字で、一躍天下に |
知られるようになった。 |
日本の“ハリウッド”といわれた蒲田撮影所は、政界の黒幕と云われた杉山茂丸の |
紹介で、荏原郡蒲田村の中村化学研究所の跡地、約29万平方米の土地を手に入れるこ |
とができたのである。 |
この敷地は第一次世界大戦当時、化学薬品の製造所だったので、古びたレンガ造り |
の建物や石炭ガラが一面に捨ててあった原っぱだった。 |
建物はそのまま事務所に使い、石炭ガラを踏み固めた所にテントを張ってステージ |
を作り、ここでセット撮影したのである。 |
俳優の募集では240人が集まり、その中から男子30人、女子6人を厳選採用した。 |
ところが、ズブの素人で、すぐ使えないため「キネマ俳優学校」を作り、小山内薫 |
が校長に就任した。生徒には奈良真養、岡田宗太郎、沢村春子、東栄子、伊藤大輔、 |
東郷是也(鈴木伝明)等がいた。 |
この学校は築地の本社の一室に設けたが、すぐに撮影所内に移転してきた。 |
大正9年2月、社名を「松竹キネマ合名社」に変えて、“映画フィルムの製作とフ |
ィルムを配給する”と新聞に発表した。 |
大正13年城戸四郎が所長に就任したとき、脚本部を強化、小田喬、武田晃、北村小 |
松ほか数名を置き、部長に落合泡雄を据えた。 |
その後、道頓堀の劇場から中村鷹治郎門下の青年歌舞伎、女形、林長九を抜擢、林 |
長二郎と改名して売り出した。この人が長谷川一夫の若い頃の芸名である。そのほか |
に、井上正夫、川田芳子、栗島すみ子、柳さく子、田中絹代、斉藤達雄等の俳優も活 |
躍した。 |
栗島すみ子は当時を回想して「折角、気の乗ってきたラブシーンのとき、高砂香料 |
から鼻をツーンと突くような臭いが流れてきて、気分がおじゃんになったこともあり |
ました」と語っている。 |
昭和4年、蓄音器のレコードが電気吹込みできるよう流行歌は殆んどレコードにな |
った。 |
そこでレコード会社とタイアップして、映画の主題歌を作った第1号は、島津監督 |
の「君恋し」である。 |
そして一世を風靡したのは、映画「親父とその子」に挿入した堀内敬三編曲、作詞 |
の主題歌、「蒲田行進曲」である。 |
蒲田松竹撮影所 |
♪♪“虹の都 光の都 キネマの天地 |
花の姿 春の匂い 溢るるところ |
カメラの目に映る かりそめの恋にさく |
青春燃える 生命は躍る キネマの天地”♪♪ |
その後、俳優学校には、昭和4年、川崎弘子、高田稔、 |
岡田時彦、及川道子等を採用した。 |
城戸所長はスターの“曲線美”を強く打ち出した。こ |
れは洋装時代を迎えるためにいち早く着眼したという。 |
昭和6年撮影所内にトーキー研究所を設けて、第1作「マダムと女房」(脚本:北 |
村小松、監督:五所平之助)を作り、本格的なトーキー時代を迎えた。 |
必要な装置で敷地が狭くなり、昭和11年大船競馬場の跡に、約9万平方米の新しい |
撮影所に移った。蒲田のシネマ黄金時代は16年間、蒲田の発展には著しいものがあっ |
た。 |
TKS時代、倉庫におられた伊藤(福)さんの案内で、営業の連中2〜3人で見学 |
に行き、及川道子、花岡菊子の2人が温室をバックにしたプロマイドを買った記憶が |
ある。(蒲田駅史より) |
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4.蒲田花街の回顧 (昭和59年会報16号掲載) |
蒲田撮影所がオープンした翌大正10年、宮城という人が新宿の八幡神社附近の私有 |
地に、芸妓屋を開業したいと警視庁に許可願い出すと、女塚の古山・須山、北蒲田の |
吉岡、新宿の遠藤等4名が相次いで競願した。 |
然しすぐ許可は出さず、数年を経て大正12年の暮れに、菊地、野村の両人が調停人 |
となり、石井町長が立会人になって、競願者と接衝を重ねた結果、「最も適当と認め |
る所へ、一箇所許可して貰いたい」と新願書を同庁保安部長に提出した。 |
それから2年経って昭和2年4月19日、新宿町内に許可がやっとおりた。 |
芸妓屋は森田屋、続いて松の家、待合は竹の家がそれぞれ草分けで、蒲田検番の下 |
で統一されていた。 |
昭和7年12月、蒲田新地株式会社が創立して、専務に岸本一兵、取締役に森安之助、 |
大竹広吉、監査役に荒井重松、須山太郎が就任している。 |
昭和8年頃には、芸妓屋24軒、待合21軒で、芸妓は70人、半玉は9人いたという。 |
花街が栄えるにつれて、カフェー、バーも続々生ぶ声をあげ、その頃、蒲田町内に |
は115店を数える盛況さで、“夜の蒲田”は一段と華やかであった。 |
お姉さんのイラスト |
TKS時代、うちの組長さんはよく稼いだ。なかでも |
千葉(甚)さんは番頭等を連れ、二業地では宵越しの銭 |
は残さずのあの江戸っ子の派手な遊びようは評判だった。 |
当時、工機ではミーリングだけ単独請負(他はみな連 |
合)でわが酒友は多く稼ぎ負けずに発展した。 |
その中でも樋口の金ちゃんは、ことなく可愛いがって |
いた半玉の小太郎と〆奴をいつもはべらせる姿、そこに |
は明るい若者のムードが満ちていた。 |
かの高名な労働歌「聞け万国の労働者・・・・・・」の作詞者・大場(勇)さんは、 |
名妓照千代と恋仲になり、目出度く結婚にゴールインしている。 |
また工機チームの名キャッチャー小柄だが気さくで誰からも好かれた松本(重)君 |
は“メーゾンタツオ”の細君(グラマーでなかなかの美人)の妹を嫁に貰ったが、好 |
漢惜しむらく南方戦線へ散ってしまった。 |
ある時、土地の有力者醍醐氏から頼まれ、隣接の“久本(経営者:橋本)の建物 |
(2階建6部屋)を保証金1,000円、家賃200円で賃借し、来客や慰問団の食堂に使用 |
したこともあった。 |
当時、従業員は学徒動員240人を含み、最多数1万人に達していた。 |
終わりに映画館と寄席等に触れておこう。西口には女塚常設館(大正11年)、中央 |
通り角に電気館(大正13年)、夫婦橋に蒲田キネマ(大正13年)、それと富士館(昭 |
和5年)に4館を数え、また寄席も高砂亭(大正15年)、梅宮館(昭和2年)、蒲田 |
館(昭和5年)の3席があって、今日の盛り場を形成し、“娯楽の街”でもあった。 |
あの評判な夜店の情緒は忘れ難い。“蒲田銀座”といわれた東口大通りには毎週土 |
曜夜に出て、撮影所の俳優たちもひやかしに来ていた。 |
このスターたちの姿を見ようと、遠くから円タクで乗りつける人たちもいて、夜店 |
はいつも人波でごったがえしていた。 |
ともあれ、“流行は蒲田から”とそれほど全国で“モダン王国”になった。 |
駅前の“富士銀行”は元森永製菓の売店で、奥は喫茶となっており、ここのカレー |
は安くて美味しいので評判だった。 |
東口、四つ角の電気店の前のソバヤ“神家”は、中華の肉ダンゴとチャーハンが特 |
に美味しく、店はいつも一杯、大繁盛していた。いまはその面影もない。 |
(蒲田駅史より) |
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10.蒲田地名の由来 (昭和60年会報18号掲載) |
蒲田の地名は平安時代の承平5年(935年)に書き著わされた吾が国最初の分類体 |
百科事典の「和名類衆抄」という古文書の中に、万葉仮名で「加万太」と載っている。 |
この古文書より更に27年遡った清和、陽成、光孝の三天皇三代30年間の事項を記し |
た古文書「日本三大実録」(延喜8年、908年)のは、清和天皇のてい貞観6年(864 |
年)の項に「武蔵国従五位稗田神を以て宮社に列す」と現在の稗田神社の事に触れて |
いる。 |
更に遡って「カマタ」の地名を探し求めても現在残っている古文書からは求める足 |
がかりがない。 |
然し稗田神社の周辺から土偶や土器などが発掘されている処から、古代人がこの周 |
辺に住んでいた事は推測できる。 |
昔この周辺は入江が迫っていたかも知れない。そして多摩川の氾濫で水流はその都 |
度変わり呑川も流れを変えていた事であろう。この稗田神社周辺で、定住民は食物の |
採集や狩猟をしていたと考えられる。 |
地名の「カマタ」は一説によると、アイヌ語で「飛び越した処」というそうだ。 |
「沼の中の島」又は「泥深い田」とも考えられると研究家たちは推測している。 |
こういう点からこの時代には「カマタ」は文字になっていないが、既に定住民の間 |
では話し言葉の中に存在していたのではなかろうか。 |
少なくとも景行天皇の25年(95年)、天皇は“武内宿称”に東方諸国の巡察を命じ |
た。この時「ムサシ」の国が初めて現れている。カマタはムサシの国の中の一地方で |
あったから、この時代には既に知られていたかも知れない。 |
これ等の諸条件を考えてみると「カマタ」という地名は遠く1800年も昔に遡ること |
ができる。 |
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11.被災直後蒲田町の模様 (昭和60年会報18号掲載) |
昭和20年4月15日午前零時3分から1時10分まで約1時間に亘って、蒲田町は京浜 |
工業地帯の中心部を目標に飛来した大編成の米軍機による波状絨氈爆撃に見舞われて |
壊滅し区内全戸の約80%は全焼したのである。 |
町は蒲田駅から羽田空港が一望できる焼け野原だったと語り伝えられている。この |
焼け跡にいち早く出来たのは商店ではなく自転車の預り所だった。 |
蒲田駅の東口側復興は昭和25年6月25日に勃発した朝 |
蒲田駅開業77周年記念切手 |
鮮戦争をまたねばならない。 |
米軍が占領した際、羽田空港を整備するため京浜急行 |
の羽田線を国鉄蒲田駅まで延長して、現在の富士銀行か |
ら中辻通りにかけての砂利置場に砂利を運んでいた。置 |
場周辺にはバリケードを張って入出禁止であった。 |
東京の復興が進んでいる中で、蒲田の東口だけが置き |
去りにされている感じで、町役員や商店街の役員たちは |
思い余って、駐留軍の最高幹部を訪れ鉄道と砂利置場の撤去を申しいれた事もある。 |
処が朝鮮戦争が始まると瞬く間に線路が外され砂利置場も姿を消した。土地は荒れ |
放題であったが、町内の人達がスコップやモッコを担いで整地した。 |
やがてこの土地が占領軍から返還され、之を契機に東口には商店がぞくぞく建てら |
れ戦前と同じような商店街が形成されたのである。 |
その突破口を作ったのが、ミス興業で土地を買収して映画館を作り、之が蒲田復興 |
の第一歩であった。 |
東京都は昭和27年6月7日駅前東口広場の整備促進に乗り出し事業を決定し、都建 |
設局第41地区事務所が蒲田に設置されたのである。 (蒲田駅史より) |
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12. 京浜国道に乗合馬車 (昭和60年会報第19号掲載) |
京浜電鉄がなかった時代の東海道には、慶応3年(18 |
吉田橋通り(絵葉書:横浜開港資料館所蔵) |
67)から外国人経営の乗合馬車が、横浜・吉田橋のたも |
と馬車道から日本橋まで走り始めた。それが明治になっ |
てから日本人経営に替わり、2頭引き6人乗りの馬車が |
片道4時間で走ったという。 |
この他に六郷や大森から品川までの馬車もあったが、 |
京浜電鉄の発展に伴い乗合馬車はいつしか姿を消してい |
った。 |
その頃の京浜電車は、ポールをあげた一車輌で単線運転。大森から六郷土手までは |
旧東海道の真ん中を走っていた。 |
停留所は現在のバスのようなもので、停留所の処だけが複線になり、上りと下りが |
擦れ違うようになっていた。ホームもなければ駅員もいない。切符は乗ってから車掌 |
が切り、いつも数人から十数人の客で梅や桃・梨に花が咲いている長閑な田園風景の |
中をガタガタ音を立てながらのんびり走っていた。 |
いずれにせよ、蒲田周辺はその頃、東京の近郊で長閑な農業地帯だった。活発な地 |
域開発は大正時代を待たなければならぬ。 |
13.京浜電鉄の発展 (昭和60年会報第19号掲載) |
京浜電鉄は蒲田町内に蒲田、梅屋敷、出村の3停留所を設け、蒲田停留所から羽田 |
に至る支線で、春秋2回の競馬、夏の海水浴などに輸送力を発揮していた。 |
梅屋敷停留所は森ヶ崎鉱泉と省線蒲田駅を連絡する『梅森自動車』で結ばれ、森ヶ |
崎海水浴場へ出掛ける客を一手に引き受け、羽田支線に劣らぬ盛況振りであった。 |
また、京浜電鉄の経営する乗合自動車は、品川八ツ山と六郷間の国道を走り、蒲田 |
地区内に3ヶ所の停留所を設け、省線蒲田と羽田間を直通していた。 |
14. モノレールと地下鉄の話 (昭和60年会報第19号掲載) |
この交通機関の発展に伴って、昭和7年には東京府は省線蒲田駅から羽田国際飛行 |
場に通じる空中電車(モノレール)。国道から省線蒲田駅を経て、池上に通じる自動 |
車専用道路。京浜電鉄蒲田停留場から省線蒲田駅の北側を越えて大崎と結ぶ京浜延長 |
東京モノレール |
空から見た桜木町駅(2005年4月撮影) |
線。五反田駅から省線蒲田 |
に結ぶ地下鉄構想など、当 |
時としては夢物語のように |
思われたが、ともあれ、モ |
ノレール計画や地下鉄を蒲 |
田駅を結び付ける考えがあ |
ったことは驚くべき未来展 |
望であった。 |
15. 汽車から電車運転へ (昭和60年会報第19号掲載) |
当時の鉄道院(大正9年・鉄道省)は、大正3年12月2日東京と桜木町間に電車運 |
転を、これが今の京浜東北線の始まりであるが、各所の跨線橋が低いため電車の櫓式 |
ポールがひっかかって、24日目には電車の運転を一時中止した。 |
蒲田の人達の一部では『乗客が少ないから止めたのだ』と思っていたが、年が変わ |
り翌4年5月10日から再び電車の運転を開始したのである。 |
蒲田村の人口は緩いカーブではあるが、明治時代の2千人台が大正元年には3千人 |
台になり、4年には3千8百人と増加し、翌5年には4千人台を突破して4,147人に |
なる。 |
16. 西口駅舎の陳情 (昭和60年会報第19号掲載) |
院線電車が運転された頃から、蒲田駅の東口や西口の御園村周辺にボツボツではあ |
ったが、サラリーマンの郊外住宅が建つようになり、駅西側の御園、女塚両村から東 |
京、横浜方面に通勤する人達が、不便を感じるようになった。というのは、女塚踏切 |
(現・池上踏切)を横断するのに待つ時間が長くなったからである。 |
電車や汽車の通過のため一昼夜に2百回に及ぶ遮断機 |
第1種甲踏切の警報機 |
の開閉があったから不便そのものであった。 |
そこで両村の住民たちは『駅の西側に昇降口を設置し |
て欲しい』という住民連署の陳情書を鉄道省に提出して |
請願した。 |
請願は前後3回に及んだ結果、鉄道省では『西口に設 |
けるための敷地を寄附して呉れれば新駅を作る事を考慮 |
してもよい』と言われ、大正10年4月、蒲田村から須山 |
金太郎、月村百太郎ほか8名、矢口村から吉田相吉、森長太郎の地元名士たちが集ま |
り『駅西側昇降口期成会』を結成した。 |
12人の発起人は手分けして寄附金集めに奔走した結果、約6ヶ月で5,417円が集り、 |
そのうち3,000円で敷地150坪を購入して鉄道省に寄附、残金は西口通りの修繕費と開 |
通式に当てる事にした。 |
翌11年6月、西口駅舎は落成し、7月2日華やかに開通式が行われた。この駅舎は |
モダンな建築で評判になった。 |
17. 女塚踏切を地下道に (昭和60年会報第19号掲載) |
蒲田駅の西口駅舎が設けられたが、女塚踏切を利用する不便は募るばかり、10分か |
ら20分待つのは珍しくなかったという。 |
それに加えて自動車、自転車が増加して、通学児童たちの踏切通過は危険そのもの。 |
そこで大正14年7月、蒲田町議会は『女塚踏切地下道完成方陳情案』を決議して、 |
遠藤信之、菊地政雄ら5人の議員は小島富次郎町長を先頭にして当局へ10数回に亘り |
陳情した結果、漸く昭和5年1月、工費28,400円で起工する運びとなり、7月に目出 |
度く地下道が完成したのである。 (蒲田駅史より) |
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18.「社員会」惜別の宴の想い出 (昭和61年会報第20号掲載) |
“別れといえば昔より この人の世の常なるを |
流るる水を眺むれば 夢はずかしき涙かな (藤村の詩より) |
従来、吾社には各課毎に(課長10名)個々の親睦機関はあったが、社員相互に円滑 |
を欠く感もあり、昭和10年9月、全社員の慶弔禍福を共にする「社員会」が誕生した。 |
因みに前身は昭和6年に和田元之助、中山倉之助両氏を中心に有志僅か20人相寄り、 |
“火曜会”と名付け呱々の声を挙げたもの。 |
間もなく職員会に、そして社員会と改称した当時には会員数も260名に及び毎年懇 |
親会を開催して重役を招待し、談笑裡に意志の疎通を計り、和心協力以て事業に寄与 |
して来たのである。 |
今その会場など想い浮かべれば〜 ★大森・松浅本店・・・開宴前に随意入浴、 |
★横浜・磯子園・・・海水浴してから宴会 ★大森・小町園・・・小唄の名妓 |
“小花”登場。 |
さて昭和12年、東京航空計器の分立に伴い会員中より転籍者を見、永年同じ釜の飯を |
食べた親愛なる同志と分袂する、お別れパーテーは盛大にと色々な企画が考えられた。 |
出発当日は正門前広場で、先ず一行の記念撮影をし待機のタクシー60台に分乗して、 |
一路奥多摩までドライブを楽しむ。 |
名勝、鳩の巣にて再び撮影をすませ会場の“河鹿園”清流多摩川に面す200畳敷の |
大広間で若鮎の塩焼きなど肴に別離の宴となり、そぞろ惜別の盃を交し合う・・・。 |
彩りを添える同行の美妓連(10名)は懇に幹部席のサービスに之勤めていた。 |
愈、別れの日が近付く。記念として重役及び全社員は職場別に更めて写真を撮り以 |
て当時を永久に偲ぶよすがとした。 |
歳々年々人同じからず。星霜は移り人は去って逝く。当時健在なりし260名の諸先 |
輩は今僅かに30名足らずとなってしまった。感無量・・・・・。 |
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19.「与太郎会」の変遷 (昭和61年会報第20号掲載) |
蒲田に移転して間もなき頃、営業関係の独身者のみ数 |
昭和6年蒲田本社工場全景_100年史より |
人相寄り、旅行を主とした親睦機関を作り、「与太郎会」 |
が誕生した。 |
会長には先輩格の「道上庄之助氏」を推戴して、先ず |
皮切りにお盆のボーナス当日の午後から一泊旅行に出掛 |
けた。 |
間もなく春秋2回と回数を増やし乍ら与太の青春を謳 |
歌し、正に週末旅行の走りとも、斯くて15年末まで続い |
たのである。 |
このあと暫らく中断する。同志を戦病死などで多数失ってしまったが、名称を「世 |
太老」と改めて復活し現在に至る。(以下敬称略) |
記 |
初代会長 道上庄之助(47.3.10没) 第二代会長 今村 政夫(51.11.3没) |
第三代会長 松永七五三太 当時の会員を入会順に列記すると・・・ |
△道上庄之助 △鎌田太二馬 △田中 茂久 △今村 政夫 △甲賀幸次郎 |
船橋 節 松永七五三太 △笠井 武俊 △磯貝幸次郎 △福島信太郎 |
山田 龍雄 中村 賛蔵 野村 光雄 大海 貫一 △安田 誠 |
古賀 博 竹蔦喜久夫 計17名 |
物故者(戦死者を含む)△印は半数強の9名に達し、そぞろ歳月の流れ、人の世の |
儚さを痛感させられる。 |
尚ご参考に旅先きや宿舎は次のよう、旅費はいつも金10円止まりであった。 |
記 |
☆芦の湯(松阪屋) ☆三原山下田(河内館) ☆会津東山(ニ八屋) |
☆箱根湯本(玉泉荘) ☆古奈韮山(井川館) ☆飯塚穴川(角 屋) |
☆十和田浅虫(東奥館)☆下賀茂(伊古奈) ☆修善寺(仲田屋) |
☆四万沢渡(積善館) |
同志のM氏が修善寺の名妓S子と恋仲となり仲田屋へは都合3回訪れるロマンもあ |
った。昭和48年新年会、南房総「万年屋」に於いて、昭和12年、吾社に於ける応召第 |
1号「笠井武俊少尉」出征壮行会(自宅) |
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20.歴史を彩った宰相たち (昭和61年会報第21号掲載) |
昭和30年、保守合同による自民党結成以来、総裁は政権党のトップとして常に首相 |
の座を占め、これまでに11人の宰相が誕生している。 |
内閣総理大臣は国政に関する国民の関心の焦点だけに、国民の期待は大きい。 |
初代総理:伊藤博文公 |
明治18年12月22日に就任した初代伊藤博文公より第73 |
代、第3次中曽根内閣まで45人の宰相たちが日本の歴史 |
を彩った。 |
理想の首相像を求めるある新聞社のアンケート調査に |
よると、望ましいと考える条件として、国民は、特に |
「実行力」「指導力」「決断力」の三つを挙げ、更に |
“強力”と“しなやかさ”という二つの能力を併せ持つ |
ことが不可欠の要件となっている。 |
内閣制度がスタートして波乱100年の節目を迎えこの制度をめぐり、内閣機能の強 |
化という古くて新しいテーマが亦々浮上してきた。 |
懸案の政策を強力に推進するため「大統領的首相」を目指して内閣機能の強化に意 |
欲を見せる中曽根総理だが、課題は随分と多い。 |
次に歴代首相のあれこれを拾い出してみる。 |
《就任時の年令》 |
就任当時平均年令は62.3才。最年少は伊藤博文の44才。ずば抜けて若い。最高は終 |
戦時の鈴木貫太郎の77才。戦後だけで見ると、最も若いのは54才の田中角栄で、逆に |
70才以上の高令者は、幣原喜重郎(73)、鳩山一郎(71)、石橋湛山(72)、福田赳夫 |
(71)となっている。 |
《通算在職日数》 |
通算内閣数で数えると、つい先日の中曽根内閣が第73代で、一内閣の平均寿命は |
500日、1年4ヶ月余りである。最も短命だった首相は、終戦処理に当たった東久邇 |
稔彦氏の54日間。通算在職日数で最長寿は桂太郎の2886日間、佐藤栄作2798日間、伊 |
藤博文2720日間がこれに次ぐ。これまで通算日数が千日を越えたのは中曽根首相を含 |
め13人いるが、その中で中曽根氏は現在10番目である。 |
《出身地の県別》 |
100年間で45人の総理が誕生しているが、最も多いのが山口県で7人、伊藤博文、 |
山県有明、桂太郎、寺内正穀、田中義一,岸信介、佐藤栄作。2位が東京で、高橋是 |
清、近衛文麿、東条英機、鳩山一郎、石橋湛山の5人。3位は岩手で原敬、斉藤稔、 |
米内光政、鈴木善幸の4人。次いで鹿児島、京都が各3人。高知、広島、岡山、石川、 |
群馬の各県が2人づつ。全体的には関西、九州、四国地方出身者が約3分の2を占め、 |
北海道からは1人もでていない。 |
《 血 液 型 》 |
戦後16人の首相の中で、血液型が判明した13人のうち、O型が9人と圧倒的に多い。 |
日本人の血液型はA型4割、O型3割、B型2割、AB型1割といわれる、目的志向 |
性、政治性に富んだO型は政治家に多いようだ。 |
《閣議も時代につれ》 |
首相官邸で閣議を開くようになったのは、第2次大隈内閣(大正3年成立)から。 |
当時、内閣の部局の多くが皇居内の宮内省にあったが、足が不自由で、階段と長い |
廊下が苦痛となり、ある時、官邸での閣議が定着したものという。 |
《官邸にお鯉の間》 |
現在の首相官邸(昭和4年完成)が建つまでは、永田町にあった太政官々邸を使った。 |
桂太郎首相時代、その庭に有名な「お鯉の間」という離れ家があった。桂のために、 |
同じ長州の先輩である山県有明がやっと口説き落とした芸者のお鯉の家で、桂は官費 |
で妾宅を構えたのである。 隔世の感がする。 |
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21.「小石川時代」に於ける秘聞 (昭和62年会報第22号掲載) |
かって、ある先輩から・・・・明治29年、和田社長は |
和田式圧力計 |
車中で、山本海軍機関大尉との話から計測器の国内自給 |
が急務であることを知り、職人4人と圧力計の研究と製 |
作を始めた。 |
日夜懸命に努力されたが、時に材料代や工賃等の支払 |
いに追われ、本郷にいる親友、間(はざま)氏に資金の |
応援を求められたそうで、人知れず随分ご苦労された。 |
日露戦役のあと間もなき頃、突如として英国ロンドン |
にあるケルビン会社から合弁会社の申し出があった。川崎造船所の創立者、松方幸次 |
郎氏の仲介のよって進められる中、高齢なケルビン卿の逝去で不成功に終った。 |
その合弁会社はTKSは現物出資50万円、ケ社は現金出資50万円で、和田氏を社長 |
に、神戸駐在のブライス氏を副社長にすることまでを決めていたそうである。 |
大正6年、合名会社を株式会社(資本金300万円)にし、同時に光学部門を分離独 |
立させ、三菱と共同出資で日本光学工業(資本金200万円)を設立した。 |
三田豊岡町の本社工場では、和田社長統率の下、計器一色であったが、退任後は漸 |
次カラーも変わり、その後は引き続いて良きスタッフを得、増資を重ねて大発展の一 |
途を辿った。 |
| | | |
大正8年、全国不況のさ中、社長は病気に、留守を預かった専務が放漫経営で多額 |
の負債を作り、更に穴埋めせんと株式に手を出して失敗し、進退茲に極まり、競争相 |
手たる愛知時計(名古屋)へ身売り話を申し入れた。 |
然し、調印寸前、社長は売却を思い止り、その苦難時代を相馬電気部長と堀機械部 |
長を中心に従業員の努力で立ち直りに成功。 |
翌大正9年は幸いにも海軍待望の『八八艦隊』案が第43議会で成立し、各工廠は勿 |
論、民間の主力造船所である三菱長崎や神戸川崎の各船台が活気に溢れ出した。 |
但し、遺憾乍らこの好況は続かず、大正12年2月、日英米仏伊の五大海軍国の建艦 |
競争を抑制しようとするワシントン軍縮条約が調印されて『八八艦隊』案による大艦 |
巨砲主義に歯止めがなされてしまった。 |
|
ご承知の如くこの条約は主力艦と空母の保有量を夫々 |
対米英の6割に制限するもので、所謂『八八艦隊』案と |
は・・・・既に完成している長門・陸奥並びに建造中の |
加賀・土佐。更に紀伊・尾張・駿河・近江の計八隻の戦 |
艦と、起工を終った巡洋戦艦『天城』型四隻と設計の終 |
ったもの四隻計八隻から成る『八八艦隊』を主力とした |
ものを、大正17年3月までに完成させようとするもので |
ある。 |
かくて、我が海軍は、日本の工業力や資源力からみて、無制限の建艦競争に対する |
枠が各国に嵌められることを是とする条約派と艦隊派たちとの感情的ともいえる相剋 |
は、長く尾を引いていった。 |
| | | |
22.「蒲田」に由来 (昭和63年会報第24号掲載) |
高砂香料、上林重役のお話・・・・・昭和4年2月発行、中里右光郎著「蒲田史料」 |
によると、従来、蒲田には徳川以前の歴史及び史料というものが一つも無く、今回、 |
考古学者として有名な中里機庵先生が、或る尊き御文庫の中から日本に一つしかない |
写本の『武蔵草紙』なるものを発見された。 |
蒲田は上代から非常な歴史に富むところで、数度に及ぶ古戦場であることが判った。 |
本書によると、、武蔵国荏原の蒲田(上代は牟邪去江波原、加満田又は加波田)と |
書けりしが、国史および地法に見えたのは、上代からであるから、武蔵野の中にても、 |
早く土地、人家の開けしものと推知せねばならぬ。されど古書の記するところ、漠然 |
として明確ならず。且つ一々これを考証するのは至難である。 |
景行天皇の時、武内宿彌が東国を観察して、武蔵野を巡った。 |
宿彌の歌に、カバオル、タハラノサトラ、ツキイデモ、とある。これは蒲織りは田 |
原の里に、月出でも、と言うのであって、宿彌が多摩川の下流に出て、然る後に歌を |
咏じたのであるから、この歌は当然、蒲田であろう。 |
元素、蒲はカマとも読み、あやめ菖蒲とも通ずる。然 |
|
るに支那の古書に、蒲(かば)とは一種の草木にして水 |
沢に生ず葉の長大なれば探りて蓙(むしろ)に織ると、 |
ある。 |
孔子家波という書に「妾織蒲」と書いてあるから、蒲 |
を草花とするよりか、蒲の葉を織ったものと見える。 |
日本でも古くから、あやゐがさ(綾藺笠)があって、 |
蒲と同系の藺草で製織したもの。 |
とにかく宿彌の歌から考案すると、蒲草が蔓延して、しかしこの辺の男女が蒲を織 |
っていたのである。しからば、古代すでに織物が開け、その生活も野蛮から、一歩文 |
化へと踏み出しつつあったものと観なければならぬ。 |
明記を徹するに、荏原とは花草の原である。荏原は一名、荏土とも唱した。江戸氏 |
の祖はこ荏土からでた。 |
これを要するに、荏原一帯は、荏蒲の原が蔓々と生じ、しかして住民は荏草から油 |
を採った記録もある位で、天然生物に対する応用智識と、有外発達したと触せられる |
のである。とある。 |
これが「蒲田」という地名の由来である。 |
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23.地平かに天成る (平成元年会報第26号掲載) |
激動の昭和が幕を閉じ『平成』と改められた。政府の発表によると、新元号の『平 |
成』は、史記の『内平かに天成る』から、“平”と“成”の二文字を組み合わせて作 |
ったものという。 |
新元号の候補には、このほか『修文』や『正化』も挙げられたようだが、竹下政権の |
強い意向が働いて、『平成』と決まったもののようである。 |
次に昭和の由来であるが、時の若槻首相は『書経の堯天』に『百姓昭明・協和満邦』 |
の昭明の昭と協和の和を採り、和とは人間の徳の中で最も肝要で、和の徳を昭にして |
世界人類の平和を図るという意味であると説明している。 |
この元号が決まる時、原案が枢密院会議に掛けられ、例によって何事にも一言文句 |
をつけないと気のすまない顧問官の一人からやはり異議が出た。 |
昭和は書経堯天の『百姓昭明・協和満邦』から採ったというが、堯は禅譲の天使で、 |
位を子孫に譲らず、舜に譲り、舜は夏に譲って、いわば共和政治だから良くないという。 |
カレンダー |
後でその事を聞いた“西園寺公”は、日本の元号には |
今まで書経から出ているが沢山あるから、今更になって |
と笑ったとか。 |
そして老公は、年号は字画の多くないものが良いし、 |
慶応何年と書くには一般の人には難し過ぎる。特に平和 |
とか調和の『和』の字が好きで、昭和に決まったのを大 |
変喜ばれたのである。 |
江戸時代にも改元は庶民に関心があったようで、その |
あとの慶応から明治になるときも『延寿』になったというデマが飛び、昭和改元のと |
き、ある新聞の『光文』誤報事件はよく知られている。 |
< 余 禄 > |
さて、平成元年から各年号の元年までの年数を早見表で調べてみると、古い順では、 |
1位:大化1345年、2位:白雉1340年、3位:白鳳1318年、4位:朱鳥1304年、5位: |
慶雲1286年となっている。 |
なお、歴代元号数は合計で249となるが、そのうち最も多いのは、@“天”の字がつ |
くものが、天平以下28回。A“永”は永観以下15回。B“元”は元慶以下14回である。 |
一方、一回限りの年号は、昌泰、平治、乾元、寿永、霊亀、興国、徳治、至徳、朱 |
鳥、齊衡、観応、和銅と計12もある。 |
< 余 談 > |
今では考えられない事ですが、江戸時代には、日常生 |
芒種 |
活に欠かせない暦が、幕府の統制下にあって,民間では |
作ることも配ることも禁止されていた。 |
ところで、この太陰暦も明治維新の大改革によって廃 |
止され、明治6年から現在の太陽暦となる。この改暦の |
ショックは大きく、とりわけ旧暦のもとで作物栽培を続 |
けてきた農家にとっては打撃であった。 |
|
24.トルコ風呂で平謝り (平成元年会報第26号掲載) |
夜の街から消えた筈の『トルコ風呂』の名前が、関東その他に出回っているNTT |
の電話帳にそのまま残っていることが判り、駐日トルコ大使がNTTに厳重善処を申 |
し入れたという。 |
NTTは全くのミスで申し訳ない、次の版から必ず取り消す事を堅く約束して平謝 |
りしたということである。 |
さて、この5月、久し振りの大型連休とあって、ある独身者が海外ツアーでトルコ |
に行き混浴のトルコ風呂に入った。 |
300円で混浴に入れるのは安いと飛び込んだのはいいが、お客は野郎ばかりで期待 |
はずれ。三助に体を洗って貰い身はすっきりしたものの、『心は晴れなかった』とし |
きりにぼやいていた。 |
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25.酒にまつわる短章 (平成4年会報第33号掲載) |
(1)利き酒コンクール |
第12回全国利き酒選手権大会が新宿のホテルのセンチュリーで行われた。2万人を |
越える各地の予選を勝ち抜いてきた、利き酒自慢の88人が登場。 |
回を重ねる毎にレベルが上がって、今回は3度のプレーオフが行われる大激戦の末、 |
個人の部では、長野県代表の金子淳子さん(23才)が見事優勝した。 |
酒 |
『初めてお酒を飲んだ歳は秘密です』と語る若くてチ |
ャーミングな令嬢の優勝に会場は大いに盛り上がった。 |
参加者の3分の1は女性という今大会、女性パワーは |
清酒業界にも押し寄せてきたようである。なお団体の部 |
の優勝は岩手県。 |
|
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(2)等 級 廃 止 |
この4月から酒の等級廃止が実施され半年が経った。蔵元や小売店の話によると、 |
目下の処、さしたる混乱はないが、流れは完璧に二極分裂している気配であるという。 |
一つは、純米酒や本醸造酒を求めるクラス、今一つ、ぐっと安い酒を求めるクラス。 |
従って、交際費、交通費をへらされた会社のトップクラスが頻繁に使っていた中堅 |
クラスの料飲店はガラガラになっている。でも大衆酒場の方は繁昌しているという。 |
(3)百 撰 会 |
さきごろ日本酒百撰を選ぼう、酒に自信のあるむきが集った。会合は4日間にわた |
り、利き酒をして銘酒30傑を選出したが、1位から3位までを新潟勢が独占した。 |
順位を決める方法は、二百人の会員が夫々10〜30種の利き酒をし、その中から1人 |
3種類を投票するというもの。 |
この会は2回目だが、1回目に1位を獲得した酒が、今回も1位に選ばれた。 |
(4)荒い侍従 |
『お心得違いでございます。お慎み下さい』などとずけずけ厳しく言上するので、 |
山岡鉄舟は“荒い侍従”と仇名された。 |
明治天皇は鉄舟には、とくに近しい感じを持っておられたらしい。猟の帰りに、新 |
宿御苑で野宴があった。何かの弾みで、2人の間で論争が持ち上がった。鉄舟は完膚 |
なきまでに説破した。悔しかった天皇は,全力をこめて鉄舟の耳を綱引きした。 |
帰宅したあとも鉄舟は『まだ痛くっていけねえ。バカをなさる。千切れるかと思っ |
たわい』さすりながらぼやいた。 |
やはり御苑の、別のガーデン・パーティーに関する記録がある。その日、天皇はや |
けにご機嫌がよかった。宵の口から始めて夜も更けるのに、さっぱりお輿をあげよう |
としない。 |
『予定の時刻も、遥かに過ぎましたので』何回も催促しても、コップを置かない。 |
『まだ、早い』『まだ,よい』しきりに談論風発している。11時を回って、やっと |
馬にまたがった。酔っ払い運転である。11時といえば今と違って、とてつもない深夜 |
だった。 |
普段の酒は、天皇執務室の隣の御学問所で飲んだ。侍従の詰所でもある。ちょいち |
ょいつぶれて、そこで雑魚寝もされている。 |
(5)鍋物のシーズン |
秋が来て、鍋物のシーズンをむかえようとしている。 |
豆腐 |
鍋物といえば湯豆腐を先ず思い出すが、主役は豆腐その |
豆腐で驚いた事がある。 |
デパートの食品売場で、『特製豆腐』というポスター |
が目についた。覗いて見てびっくり、なんと1丁千円な |
のだ。少々大きめだが千円の豆腐を誰が買うのだろうか。 |
豆腐で贅沢するならグルメ女史直伝の湯豆腐をすすめ |
たい。水の代わりに酒を使うのだが、それこそ安い豆腐 |
が高級もの以上にまろやかで美味しくなる。 |
(6)小料理やの高級化 |
しばらく振りに、その小料理やを覗いたら、店の雰囲気がちょっと違っていた。急 |
に高級化したような、とりすました感じなのである。 |
あんなに気さくだった女将さんは相変らず割烹着姿ではあるが、簡単に声をかけに |
くい。亭主も一流の板前になったのか、悠然とかまえている。 |
違う店に来たのではないかと一瞬思った。しかし紛れもなくかって通った小料理や |
である。まずビールを飲み、酒を注文した。そこまでは昔と変わらなかった。 |
料理を注文しようとしたら、女将さんがにこやかに言う。『オマカセです』 |
何のことか判らなかった。おまかせとは何ごとか。女賢しゅうして・・・であるが、 |
もう顔を出さぬことに決めた。 |
| | | |
26.薫床しき (平成8年会報第40号掲載) |
(1)パー爺さん〜 |
ご存知のように「オールド・パー」の瓶の裏には白い |
オールド・パー肖像画 |
髭を生やしたパー爺さんの小さな肖像画が貼ってあって、 |
トマス・パー152才と書いてある。更に表には1483年に |
生まれ、1635年ウエストミンスタ寺院に葬られる、享年 |
152才と書いてあるのに気が付いた。 |
爺さんは酒の名前になるほどだから、何となく大酒飲 |
みかと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。 |
この老人は農夫で80才迄独身でいて、80になって初め |
オールド・パー |
て結婚したと云うから不思議である。何故それ迄独身で |
いたのか、何故80になって細君を貰う気に・・・・。 |
その細君と32年間一緒に暮らして、細君に先立たれた |
ので、それから8年経って2度目の妻を貰ったのが 120 |
才の時だから何とも偉いものだと思う。 |
152才の時、彼の領地を持つ殿様が長寿の話を聞いて、 |
ロンドンに招待し、老人だから殿様の方も気を遣って担 |
い駕籠にのせ、供に道化師を加えたりして退屈させない |
ようにしたそうである。 |
爺さんはロンドンに来て,王様のチャールズ一世にも会ったりしているが、果たし |
てこの上京を喜んだのかどうか判らない。 |
長い間田舎暮らしをして来た爺さんには、都会の生活は眼を丸くすることばかりで、 |
鳴かし草臥れたことだろうと思う。その噂を聞いて毎日沢山の人が爺さんを見に来た |
そうだから、落着く暇もなくロンドンに来て数ヶ月後、病気になって死んだ。この上 |
京は有難迷惑だった。 |
(2)コウモリ安〜 |
『ゴールデンバットは煙草のおしん』という話を聞いた。明治39年生まれの89才。 |
高齢者に拘らず、若い人や企業の重役達に大モテ。サービスセンターを例にとると、 |
3百にのぼる内外の銘柄中、売上高はベスト10の常連。 |
ゴールデンバット |
会社の重役さんが目を細めるあたり、おしんと似通う |
が、バーや料亭で『あらそれ、珍しい!』の黄色い声を |
期待してのことというから、動機はやや不純と言えなく |
もない。 |
一方、若い人は物珍しさから。横文字追放のあおりで |
『金鶏』と改名したり、GOLDEN BATの文字が片カナに |
なったりした期間はあるが、2羽のコウモリと緑色の色 |
調は不変。いわば、之れほど伝統を誇る銘柄はないにも拘らず『何だ、これ?』と若 |
者は“驚き買い”に走る。 |
昭和の初め『バット党』という流行語まで生んだこの煙草、もともと中国(当時の |
清国)への輸出用として誕生し乍ら、現地に類似品があったため国内用に回された経 |
緯を持ち金鶏時代には図案が不敬とされる等、おしんに劣らぬ運命を辿ってきた。 |
(3)珍奇!落とし紙〜 |
トイレットペーパ |
元慶応大の西田教授は、自らの足跡をしるした世界62 |
ヶ国から『トイレット ペーパー』400種を集めた。突然 |
トイレット ペーパーを集め始めることになったのは昭 |
和41年、学生を連れてヨーロッパを旅行したのがきっか |
け。 |
パリのホテルに泊まったら、そこのは茶色。日本でい |
うハトロン紙のようなもの。翌日ベルサイユ宮殿へ行っ |
て、賓客用のトイレへ入っても同様。ロンドンのホテル |
では僅かに上等だったが、矢張り薄茶色のゴツゴツもの。 |
それ以前アメリカを旅行した時は白かったので、世界中、白いと思い込んでいた。 |
だから、この体験は青天の霹靂。確かにファッションの都“花のパリ”だからと云っ |
て、わざわざトイレに流す紙まで漂白加工して白くする必要はない。紙資源の乏しい |
国の考え方やその合理精神の徹底が判った。 |
珍品は折り紙の代用にもなる正方形で硬いソ連製。ブータンのシラカバのような木 |
の皮。竹の繊維で作られたタイの紙。米国中南部の農家のトイレで、バケツに入れて |
置かれていたトウモロコシの穂などである。 |
27.『のんべえ流』罪滅ぼし (平成5年会報第35号掲載) |
居酒屋「長兵衛」は鎌倉の若宮大路・二の鳥居の路地 |
小町通り路地有った居酒屋「長兵衛」跡 |
を入った処にある。フナムシに喰い荒らされた舟板の看 |
板は、50年の歳月に店の名前がかすれている。 |
鎌倉では一、二を競う古い居酒屋で、かって久米正雄、 |
久保田万太郎、大仏次郎たち鎌倉の文人が此処で酒に花 |
を咲かせた。 |
この春、常連が「開店50周年行事」を持ちかけたら、 |
「これ以上騒がなくてもいいでしょ」と3代目のあるじ |
中川典子さんに断られた。 |
一旦諦めかけたが此の程とうとう口説き落とした。「多数の酔っ払いの御相手、本 |
当にご苦労様でした。呑兵衛一同、日頃の罪滅ぼしに・・・・」と案内状にある。 |
でも果たして罪滅ぼしなのかどうか。発起人の漫画家、横山隆一さんたち5人、そ |
れに下働きの若手漫画家や童話作家、考古学研究の女性たち運営委員10数名は、連夜 |
紅白幕を巡らせ、四斗樽・酒・酒 |
の打合せにも酒が入って纏まらず、遂に昼間、素面で開 |
く有様となった。 |
その結果、一枚ずつ違う手作りポスターを他所の飲み |
屋まで張り出した。「長兵衛」は夜10時で店仕舞する。 |
呑兵衛たちは他所へ流れる。梯子客を受け入れる店は、 |
庇を貸さない訳にいかない寸法だ。 |
お陰で200人から参加の申し出があった。若手の陶芸 |
家は当日の料理を盛り付ける皿を焼いたり、皆本番前か |
ら楽しんでいる。 |
宴の場所は鶴岡八幡宮境内の「源平茶屋」こちらも100年の歴史がある。此処に源 |
平の旗と同じ紅白の幕を張り巡らし、四斗樽とウイスキー、ビール、焼酎を持ち込む。 |
普段はおでんにラーメンを揃え、修学旅行の団体が弁当を広げる茶屋だから「こん |
な宴会、初めて」と姐さんたちもびっくり。「準備大変でしたね」と運営委員の中年 |
画家に水を向けたら「だてに酒飲んでるじゃないよ。鎌倉の酒飲みだょ」とのことだ |
った。 (鎌倉便りより) |
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28.お金のあれこれ (平成6年会報第37号掲載) |
(1)最初の硬貨 |
わが国で最初に鋳造された硬貨は、和銅元年(708)鋳 |
和銅開珎 |
造の『和銅開珎』と言われます。 |
これには銀銭と銅銭の2種類があり、当時の国内で生 |
産される金、銀、銅の量は微々たるものでしたが、708年 |
秩父地方から多量の銅が産出し、これが朝廷(元明天皇) |
に献上されたので、朝廷は慶雲から和銅と改め、同2年 |
催鋳司を設けて和銅開珎の鋳造を始めたのです。 |
このモデルになったのが唐の銅銭『開元通宝』。当時 |
開元通宝 |
の遣唐使らが渡唐した際に持ち帰ったもので、和銅開珎 |
の最良の見本だった。 |
さて、日本最初の金貨というと、これから50年後の淳 |
仁天皇の時代・天平宝字4年(760)に鋳造された『開 |
元通宝』が最初。 |
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(2)江戸時代の貨幣 |
幕府が定めた通貨は一般に三貨と呼ばれ、金、銀、銅の3種類でした。 |
処で、幕府が与えるお手当、御褒美などを見てみると、御目見得以上の武士、大名 |
には金貨で、御家人以下の下級武士には銀貨で、百姓町人には銭で与えていました。 |
これは、幕府開設当初から規定があった訳ではないけれど、長い間の慣例が次第に |
定例化していったもののようである。 |
また、将軍に献上する場合にも、献上する身分によって金馬代、銀場代という区別 |
はありました。 |
日常生活では、砂糖、茶、薬などは銭で売買されるのが普通で、更に遊女代にして |
も銭店という小店、銀銭店と言えば中位の店、一番上等は銀店という事になっていた。 |
三貨制度(金)一両小判 |
三貨制度(銀)一分銀 |
三貨制度(銅)十分銭 |
(3)千両箱の重さ |
千両箱は、元来幕府の金箱として作られた檜製の箱で |
千両箱 |
すが、すべが千両入りだった訳ではなく五百両入り、2 |
千両入り、或いは五千両入り、1万両入りがあり、箱の |
大きさや重さはまちまちだったようだです。 |
然し、普通のものは幅25cm、長さ50cm、深さ13cm、の |
大きさで、重さ3〜4s位。入れ方は千両入りの場合、 |
小判あるいは一合判金を25両づつ包み、それを40個入れ |
た。 |
慶長小判から幕末の万延小判になると質が下がり徳川幕府の衰退は、千両箱まで軽 |
くしたようだ。 |
(4)円の歴史 |
明治政府にとって新しい貨幣制度の確立は,焦眉の急で、明治2年(1869) |
大隈参与は、造幣判事・久世治作の説を内閣に建議した。 |
その説は、貨幣の形状を世界各国にならって円形とすること、両、分、朱という四 |
進法を十進法にして価名も円、銭、厘にすること。 |
久世説を採用した明治新政府は翌3年銀本位制を採ろうとしたが、大蔵少輔・伊藤 |
博文が世界の大勢に順応して金本位制を採用することを主張したため、政府は貿易と |
の関係を考慮して金本位制を採用することに決定し、明治4年、円が正式通貨単位と |
なった。 |
(5)360円こうして決めた |
円切り上げ前の1ドル360円はどのようにして決められたのか。戦前は1ドル4円 |
26銭でしたが、終戦直後は新円切換えやインフレと続く事態で為替レートはメチャク |
チャ。 |
これではならじと為替相場の一本化へ大ナタを振るうべく、GHQから全権を委任 |
されたのがドッジ特使、彼の手のよって1ドル360円のレートが決められたが、その決 |
定理由の一つとして彼の側近の話によると・・・“円”というのはマルのこと。マル |
は90度を4つ合わせたものだ。つまり90°×4=360°だから、1ドルは360円にすれ |
ばいいと言うことになったと。 |
何分、GHQから一方的指令で決められたこと、その理由に付いては色々と言われ |
ていますが、頓智問答のような話です。 |
(豆辞典より) |
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29.宮大工の本領 (平成6年会報第37号掲載) |
『棟梁は木のクセを見抜いて、それを適材適所に使うことやね』、『木のクセをう |
まく組むためには人の心を組まなあきまへん』。 |
宮大工の棟梁・西岡さんが先に文化功労者に決まり、この道一筋の年輪が数々の名 |
言を生ませたのであろう。氏の口伝『木に学べ』は木を語りそして建物人間を語って |
いる。 |
明治41年、法隆寺棟梁の家に生まれ、昭和9年から20 |
宮大工 |
年間にわたる法隆寺の大修理が勉強ざかりで『大学どこ |
ろか大大学へ行かせてもろうたようなもんだ』。 |
“鉄を使うか使わないか”学者と大論争をやったのも |
『ヒノキの命のままが一番や』と大大学の勉強を知って |
いたからだった。 |
ヒノキがあって法隆寺千三百年の歴史である。 |
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30.アバンギャルトの浅草 (平成7年会報第38号掲載) |
(1)50銭でフルコース |
昭和12〜13年の浅草をひと口で言えば、50銭で一日遊べる町だねと懐かしそうに語 |
るのは、山の手に住むフトン屋のご隠居さん。 |
当時の住いは小石川、都電を乗り継いでの浅草行きは、まだ旧制中学生だった彼に |
とっては大冒険だったのである。何しろ昼日中、学生服姿で歩いたり、女のコと手を |
つないで歩こうものなら、お巡りさんに“補導”される時代だった。 |
映画と芝居をハシゴして、メシ食って、お汁粉食べて、ミルクホールでコーヒー飲 |
んでシメテ50銭という按配です。 |
田谷力三の浅草オペラ、あきれたボィーズらのショウや軽演劇など、大衆料金で最 |
先端のエンターティメントが堪能できた浅草の思い出は、半世紀の流れた今でも鮮烈 |
に焼きついているようだ。 |
(2)デンキブランと共にモボ健在 |
50坪ほどの店内には、よく磨き込まれた6人掛けのテーブルがほど良い間隔で遊べ |
られている。そうして居たのです。今では、これまた、ほど良く20年を召された往年 |
のモボ連が、各テーブルに7人づつ、まだ昼下りだというのに、何と琥珀色の飲み物 |
を召し上がっていらっしゃる。 |
明治45年当時の神谷バー |
デンキブラン |
現在の神谷バー |
ここは浅草1丁目1番地。日本で一番古いバーと云われる“神谷バー”(創業明治 |
13年)として、ここの売り物が日本最古のカクテル『デンキブラン』である。 |
明治43年の新聞広告には『デンキブランデー、原料白ブドウ、電気応用、貯蔵久し、 |
香料特別上々』とある。モボはデンキブランと黒ビールや生ビールを交互に飲み、モ |
ガは蜂ブドー酒を召し上がる。これが当時の一番ナウイデートのアイテムである。特 |
に婦人方にはキネマ帰りの大冒険だった。 |
(3)作家に因むあれこれ |
当時、“電気”という言葉をモダンというか新しいという意味で使っていたようだ。 |
そう言えば、綿菓子を電気アメと言った時代もあった。萩原朔太郎は『神谷バーにて』 |
という詩を書いた。小林秀雄は対談の中で『電気ブラン |
電気ブランとタバコ |
と言うやつを私は愛好しているね。あれは安くて、なか |
なかうまい酒でしたね』と。 |
神谷バーは二つの顔を持っている。一つは昼下りの常 |
連モボ氏の憩の場。あくまで紳士的だ。そうして残る一 |
つは、午後5時以降の“下町の酒場”凡の顔。大正ロマ |
ンの雰囲気」を味わいたい方は昼下りに。 |
永井荷風は浅草の洋食屋『アリゾナ』で倒れた。今は |
二代目、松本修は荷風先生へのあてつけという訳ではないが、和食懐石に変身してし |
まった。新しがり屋の浅草っ子の血が、しっかり受けついでいるようだ。 |
江戸川乱歩は人嫌いであったからこそ、じろじろと顔を眺めたりしない、漠然たる |
群衆を、彼は一層愛したのであったかも知れぬ。 |
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31.遠き子供の夢 (平成7年会報第38号掲載) |
私が子供の大正5年の頃のこと。学校前の文房具店や駄菓子やの軒先に新聞紙を小 |
さな三角の袋にしたのが糸で10個も20個も吊ってあって、これを2銭出して好きなも |
のをひきちぎる。好きなのといっても、同じ袋だから中に何が入っているのか判らな |
い。 |
もちろん活動写真のフィルムの一駒である事は判っているのだが、何が当たるのか |
の“あてもん”というお楽しみ。 |
大概は訳の判らぬ風景場面が多いのだが、時には思わざる大スターのそれもクロー |
ズアップのフィルムに当たることがある。 |
一駒2銭でそのスター、エディ・ポロやメリー・ピックフォードを当てた時の嬉し |
さ。けれども考えるとこれを当てるには20銭は投資したのであろう。 |
また、写し絵といって、葉書よりやや小さい硝子枠の中に写真の印画紙をはさみ、 |
太陽にあて、ややたって取り出してその“タネガミ”を水につけると印画紙にスター |
の顔がありありと浮かんでくる。これも連続活劇のスターのエディ・ポロやパール・ |
ホワイトが多かった。かくの如く私らのジャリ時代は、ラジオもテレビもなく、どっ |
ぷりと活動写真にひたっていたのいである。 |
さて、昔のものでこの時季食べたいものは何だろうと考えたら『ミルクセーキ』が |
思い浮かんだ。 |
『氷屋の柱ンところにコップ受けみたいな金具が取り付けてあって、それに玉子と |
牛乳を混ぜたのを入れたコップをはめ込んで、ハンドルを廻すヤツ』である。 |
今のシャーペットなんてよりもっと目が荒くって20銭位したかな。かき氷(スイ) |
が5銭で、種物(イチゴ・レモン・ブドウ)が8銭だったろうか。 |
アジサイ七変化 |
この間、銀座のパーラーでミルクセーキがあるってン |
で頼んだ。そうしたら、あれの凍る前みたいなのに、氷 |
を入れて来たんだ。 |
みんな、ひと夏のうちに、一遍か二遍しか飲ませて貰 |
えなかった。昔のミルクセーキを想い出し、ゴクッとツ |
バを呑み込み、あの頃を偲んだ。 |
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“漏れて咲く アジサイ初夏に 七変化” |
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32.巷間酒談義(上) (平成9年会報第43号掲載) |
もし人生に酒がなかったら・・・という仮説は、現実にそぐわないかも知れないが、 |
何時も、そのことに思いを巡らせてしまう。 |
(1)ネーミング |
明日は菊の節句。全国調査によれば、『菊』の字のつ |
第1位『鶴』の一つ |
くのは菊駒(青森)、晴菊(埼玉)、代代菊(新潟)などなど。 |
何と全国に170もあったが、これは第6位とまだ序の口。 |
断然多いお目出度いのトップは、『鶴』の一声で 259 |
銘柄。次いで土地のイメージがだせる『山』207。以下 |
『正宗』191。『泉』178が上位5傑である。 |
醸造元が古いため主力商品は、どうしても古典的な名 |
称になるが、新顔にはユニークなものもある。『カープ』 |
『タイガース』などプロ野球やヒット曲からとった『二人酒』。更にはNHKの大河 |
ドラマのタイトルなど。 |
(2) 二日酔い |
『二日酔いするようじゃ、酒を飲む資格はありませんよ』と酒の先生・坂口博士は |
こう言っていた。酒を楽しんでの長寿(97才)、左党には頼もしい話だが、勘違いし |
てはいけない。飲み始めたのが40過ぎ、若い時に胸をやられ禁じられていたからだ。 |
台湾旅行中にすすめられて味を覚え、やせていた体にも肉がつき、以後、痛飲して |
も平気で、普段よりも早く研究室へ。発酵菌で博士に。晩酌は80過ぎて『お茶代わり |
に』3合に。文化勲章を受章した先生には及ぶべくもないが、適量を心得たい。とは |
分かっちゃいるけど・・・・。今夜も気を付けて、ご同役。 |
(3) 河童の憲法 |
焼き鳥 |
柳の並木をよそに、なぜか『さくら通り』の名がつく |
福島県郡山駅前に焼き鳥屋『河童』がある。10数人が入 |
れば一杯で、常連客はこの店に『河童の四成』なる“憲 |
法”があるのを知っている。曰く『席外献酒』『大声歌 |
唱』『席祖と問答』『乱酒暴論』のご法度。これを犯せ |
ば追い出される。 |
この店のできた昭和29年当時、郡山では切った張った |
の事件が絶えず、『東北にシカゴ』などと呼ばれた。そ |
れが店内に持ち込まれることもしばしばで、たまりかねた店主の渡辺さんが大書して |
張り出した。 |
10年前に詩人の草野心平さんが、これに違反して一喝された。居合わせた客と『席 |
外問答』して、ついに声が高くなったのだが、それが縁で、この高名な詩人との仲は |
むしろ深まったのだから、この店主も不思議な人物だ。 |
(4) 公取委困る |
中華料理で愛好される『紹興酒』名称帰属をめぐって、 |
紹興酒 |
公取委に難問が持ち込まれた。日中友好協会では紹興市 |
附近で製造される醸造酒の名称と言い、台湾側は一般名 |
として通用しているし、日本酒が米国で作られたとして |
も日本酒と言うのと同じ筈。 |
名前の由来というなら『南京豆』や『南京錠』だって |
どこで作っても同じじゃないですか。と反論する。公取 |
委は困っている。 |
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33.『ゴシップ』物語(抜粋) (平成7年会報第39号掲載) |
(1) ベターハーフ |
英国圏では、夫が妻を『ベターハーフ』と呼ぶそうだ。 |
結婚 |
直訳すれば『より良き半分』。一時、日本国内でもこの |
言葉がブームになって、今でも結婚披露宴の席でよく聞 |
かれる。なぜ伴侶を『ベスト』と呼ばないのか。 |
ある人曰く『未完成の二人が一緒になって、初めて完 |
成されるから』また、人曰く『お互いが善い縁となり、 |
共に完成を目指す意味だから』中には『ベストと思える |
意中の人が他にいても、もう少し身近な人と結婚する方 |
がうまくいくという教訓』と解する人もいる。 |
(2) 中 国 料 理 |
白菜 |
『中国料理の中で一番うまいものは何だとおもいます |
か』こう聞かれた時は『そうですねえ、フカヒレのスー |
プなのかなあ』などと。 |
『それはねえ白菜なんですよ』『えッ白菜』『白菜と |
いうやつは肉やサカナと一緒に煮ますとね、たっぷりと |
その味を吸い込むんですねえ。それにもかかわらず白菜 |
本来の味を何時までも失わないんです。』 |
そのため古来、中国料理で最高の味とされているもの |
は白菜と相場が決まっているのだという。当方としては、へえ、そんなものかなあと、 |
ただ感心するばかりである。 |
(3) お 茶 漬 け |
京都では、訪問先で『お茶漬けでも』と言われても断るのが礼儀と聞く。が、それ |
で『京都人は口と腹が違うなどと批判するのは間違い』とある女子大の助教授が語っ |
ている。 |
お茶ずけ |
お茶漬けの誘いは親愛と謙遜の気持ちを表す。手間や |
迷惑を考えれば断るのが当然で、相手の心を思い、質素 |
に、驕らずに。『利休以来の茶の哲学が生きているので |
す』。 |
お茶屋で『あいにくどす』と一見客を断るのは、それ |
が付加価値を高める。遊べる客は特別扱いに満足し、他 |
の人には、行ってみたいと思わせる。いわば京の商いの |
本道をいく。 |
34.片 言 隻 語 (抜粋) (平成7年会報第39号掲載) |
筆は中国の殷の時代に既に使われていたという。古代の筆は小動物の毛をたばねて |
穂としたものを、割った竹や木ではさんで外から紐で巻いていた。 |
弘法大師 |
其の後さまざまな工夫がこらされるが、日本には9世 |
紀の初めに弘法大師、空海が唐から帰国して広めたとさ |
れる。空海は実際に筆を作らせており、作品を時の朝廷 |
に献じた。タヌキの毛を用いたもので、真・行・草・写 |
書用の四種類あったというから(弘法筆を選ばず)は俗 |
説なのだろう。 |
空海が嵯峨天皇と共に筆の二聖、橘逸勢を加えて三筆 |
と呼ばれていることはよく知られている。最澄に送った |
書状『風信帖』などに残る筆跡は、王義之や顔真卿の流れをくみ乍ら自由闊達、自在 |
の妙を示しているという。 |
(2) 人生にも挫折が |
最初にガンの宣告を受けた時、将棋の15世名人、大山 |
将棋のこま |
康晴さんは『あッ、しまった』とほぞをかんだ。次に |
『なぜ、気がつかなかったか』という腹だたしさを感じ |
た。 |
然しその次の瞬間『ガンなら仕方ないな』と割り切り、 |
後はベストを尽くすことだと自分に言い聞かせた。8年 |
前の体験をそう記している。最初の『しまった』から |
『仕方ないな』まで、ほんの20秒か30秒だったという。 |
それを将棋で悪手を差した時にたとえてもいる。将棋にも人生にも挫折はある。ガ |
ン手術後の昭和61年には名人戦の挑戦者になるなど、不死身の勝負師振りを見せつけ |
た。好んで色紙に記した字は『忍』その不屈の精神で幾多の苦境を乗り切ってきた。 |
5歳年長の兄弟子で実力制第4代名人・升田幸三さんとは167局指した。名人位を |
奪われ奪い返し、盤前で2千時間、が、『言葉を交わしたのは1時間もない』と勝負 |
の執念を燃やした。15世名人にして永世10段、永世棋聖そして永世王将とその称号は |
永遠に残る。 |
| | | |
35.谷間の人間と呼ばれて (平成14年会報第52号掲載) |
明治が華麗に開花を、昭和という新しい日本が生まれたのも、大正という辛抱強く |
心優しい裏方があればこそであった。 |
関東大震災(大正12年) |
ある友人は『大正生まれは高齢化社会の青年部だ』と |
言った。思わず拍手である。 |
次ぎに、物事を忘れることとボケは違うと、あるドク |
ターは書いておられる。 |
物忘れは子供にも若い人にもある。 |
二、三度忘れたからといって『ああ!自分はボケが始 |
まった』と思うのはやめましょう、とあった。 |
大正生まれの青年部よ、意地を示せよ、わが人生! |
36.余生を見つめて (平成14年会報第52号掲載) |
人は誰でも、歳を重ねるにつれて、自分の人生の砂時計の残りが気になる。さらさ |
らと落ちる砂の音に怯え、焦り、達観した振りをする。老境を迎えて尚生きるとは何か。 |
正者必滅、会者定離は浮世の定めとはいえ、昨年ほど自分の友人で他界された人達 |
が多い年も珍しい。 |
人の生死は天地の運行と同じ自然のならいであれば悲しむことではない。と言って |
しまえば、それまでだが、天候の不順が、あの世に旅立たれた人たちの死期を早めた |
のではの想いにかられる。 |
37.中12期 (平成14年会報第52号掲載) |
正者必滅、会者定離、時は流れ、風景は変わったけれど、あの日の感激は今も心に |
流れている。 |
悲しいことだが、歳を取ると葬式に出ることが多くなる。当然のことながら、故人 |
とは別れたくなかった。 |
葬式の列に並びながら想い起こせば、故人と過ごした素晴らしい時が想い起こされ |
て悲しい。 |
故人の生前の面影が浮かび、この世の儚かなさに胸がふさがれる。 |
莫煩悩、天命を俟つ! |