古典落語をより楽しむために(全11回完結) | 佐野市 須貝 義弘 |
話 題 一 覧 |
2010. 1.17 | 古典落語をより楽しむために-1(江戸時代) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 2.14 | 古典落語をより楽しむために-2(正月風景-1)投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 2.28 | 古典落語をより楽しむために-3(正月風景-2)投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 3.14 | 古典落語をより楽しむために-4(藩の予算) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 3.28 | 古典落語をより楽しむために-5(米山古墳) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 4.11 | 古典落語をより楽しむために−6(古から今へ) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 5. 9 | 古典落語をより楽しむために−7(町奉行) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 5.23 | 古典落語をより楽しむために−8(江戸の春) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 7. 4 | 古典落語をより楽しむために−9(水無月の行事)投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010. 8. 1 | 古典落語をより楽しむために−10 (文月の行事) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
2010.11. 5 | 古典落語をより楽しむために−11 (江戸の行事) 投稿;須貝義弘 | ![]() |
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話 題 『 よもやま話 』 |
2010. 1.17 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−1(江戸時代を学ぶ) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−1 | 佐野市 須貝義弘 |
(江戸時代を学ぶ) | |||
江戸時代を学ぶ | |||
佐野の観光ボランティアを引受け、地元の歴史を勉強するうちに、新しい発見があ | |||
ったり、面白いものが見つかったりしたが、地元の人達は意外と知らないことが多い | |||
ように思われた。 | |||
例えば、合併して大きくなった市内には芭蕉の句碑が |
![]() ボランティアで案内役の筆者 |
||
九ヶ所もあるのに、知らない人が多いようだ。 | |||
佐野女子高の敷地内にもあるのだが、この学校の出身 | |||
者でも「知らない」と答えた人もいた。句碑があるのは | |||
知っていたが「なんだか覚えていない」と云う人もいた。 | |||
現代の生徒たち、先生を含めて、関心無いようである。 | |||
一般の人達でも、「知らない」と答える人が多かった。 | |||
句碑があるのは神社かお寺に多いのだが、なぜそこに句 | |||
碑があるのか?に至ると全滅に近かった。住職でも「先々代がなにか言っていたよう | |||
だが、良く覚えていない」と云った調子で、現代の人達に伝わっていないと痛感した。 | |||
今の世の中では、私達が知っている事や、体験したこ |
![]() 被爆体験を話す筆者 |
||
とを、次の世代に伝えていかないと折角勉強したことや | |||
貴重な体験が生かされない、と考えるに至った。 | |||
体験のほうは進める方がおり、昨年(2009)の秋に私 | |||
も戦争の被爆体験を話す機会を得た。戦争体験談は、今 | |||
日では亡くなられた方が多く、生きている方も高齢なの | |||
で、話す方が少ないと聞かされた。 | |||
そこで一念発起したのが、昔の「四季の移り変わり」 | |||
に於ける行事や、呼び方等について書き残すことである。私は幼年期を浜松で中学生 | |||
から、39歳頃までは神奈川県で過ごし(この間4年ばかり仕事で名古屋生活)その後 | |||
は単身赴任も含め、現在の佐野で生活している。80歳になるころには人生の半分を佐 | |||
野で過ごすことになる。私の四季感は、日常で体験するほかは、若いころ勉強した噺 | |||
(落語)から得たものが多い。今の落語家は古典をやる人が少ないので、落語の稽古 | |||
はどうやるのか知らないが、昔は一つの噺を稽古する時、噺の中に出てくる人物、場 | |||
所、季節などは師匠により異なるが、全部想定されていたものである。 | |||
例えば、人情噺に「文七元結(もっとい)」という話があるが、文七が22歳ぐらい、 | |||
長兵衛が40歳くらい、女房が34〜5歳、佐野槌の女将が44〜5歳の分別盛り、店の旦 | |||
那は60がらみ、一番番頭が45〜6歳、二番番頭の久助が43〜4歳と決めて稽古させら | |||
れる。落とした金も元録前(1688〜1703)だから五十両とか三十両とか師匠により異 | |||
なりはあるが、想定するのは皆一緒。 | |||
「道具屋」という噺では、与太郎が失敗する市は「年の市」と云われる市で、深川 | |||
八幡の14、15両日を皮きりに、17、18日が大きい浅草の市(観音市)をイメージに置 | |||
いて演(や)る。尚、落語に登場する与太郎の年齢は大抵20歳前後、知能指数は?さ | |||
まざまであるが、この与太郎は商売柄あまり若くてもいけないし「カラ馬鹿」でも困 | |||
るので高座にかける際、わざわざ42〜3歳と前置きした師匠もいたほどである。 | |||
五代目柳家小さんは35〜6歳と設定、時代は大正から |
![]() 人間国宝「5代目柳家小さん」 |
||
昭和の初期としている。 | |||
少し話が横道にそれるが、「道具屋」は私が若いころ | |||
は小さんの持ち種(ねた)になっていたが、古い頃から | |||
高座に掛けられていた噺である。この噺は当時の小咄 | |||
(こばなし)を寄せ集めたものと云われていたが、筋も | |||
軽くて面白く、演出も難しくないところから、俗に前座 | |||
用の稽古噺と云われ、噺家を目指す者は、一度は習うの | |||
である。尚、稽古用という理由は、通人(つうじん・通行人)、商人、職人、侍(或 | |||
いは書生)、隠居、伯父、同業者などと沢山の人物が登場するが、会話(やりとり) | |||
は与太郎と一対一なので、仕草、会話、間の呼吸を飲込むのに都合がよかったのだろ | |||
う。この噺はクスグリの連続で面白く、時代の設定も幅広く、その上、切れ場(噺を | |||
止めて良い箇所)が多いので、伸縮自在、重宝な噺であった。従って寄席の高座では、 | |||
後(あと)に上がる噺家が楽屋入りするまでの時間を稼げるため俗に「繋ぎ噺」とも | |||
云われた。 | |||
話を元にもどして、いずれにしろ、のどかな情景を想いながら昔の四季をもう一度 | |||
想い起こしたいのが、私の願いである。 |
「江戸時代を学ぶ」終わり。次回「江戸時代の四季」を掲載予定 |
2010. 2.14 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−2(正月風景) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−2 | 佐野市 須貝義弘 |
正月風景 | |||
呼び名には、一月。正月。睦月。初春月。孟春。太郎月。年始の月。等がある。 | |||
「暦・行事」としては、元旦。年賀。初詣などは一日に。初荷、初夢、書き初めは | |||
二日に。小寒、寒の入りは六日。七草は七日。鏡開き、蔵開きは十一日。成人の日、 | |||
小豆粥は十五日。藪入りは十六日。大寒は二十日である。 |
![]() 若水を汲む |
||
「季語」としては、初春。新春。厳冬。春寒。若菜。 | |||
寒梅。寒すずめ。などがある。 | |||
「落語的になると」元日の行事として、若水。恵方詣 | |||
(えほうまいり)。屠蘇。雑煮。などがある。 | |||
新年の行事は早朝(家によっては八ツ=午前2時ころ) | |||
より、輪飾りを付けた新調の手桶を歳男(としおとこ) | |||
(本来は主人または長男)が持って恵方に向かって井戸 | |||
水を汲むことから始まる。(注)若水は、昔は立春の日に宮中の主水司(もいとりの | |||
つかさ)から天皇に奉った水。後世は元旦に初めて汲む水をいうようになった。 | |||
(注)恵方詣は、その年の干支に基いて定めた吉祥の方位、歳徳神(としとくしん) | |||
その年の恵方に当たった神社に参詣し、年中の福徳を祈ること。(広辞苑より) |
◎元旦は原則として年始廻りはしない。 | |||
「かつぎや」が、宝船売り |
![]() 宝船の絵 |
![]() 宝船売り |
|
に来た。また宝船を三年続 | |||
けると運が開けると云って | |||
職人、商店の若旦那も売り | |||
に歩るくと運が開けると云 | |||
って職人、商店の若旦那も | |||
売りに歩いた。家によって | |||
は金を出すのを忌み嫌い、 | |||
終日箒を持たない。 |
◎二日は事始め。 | |||
商売、仕事始め、初荷、年始廻り、初買(蛤と海鼠(なまこ))、初湯、初結(髪を | |||
結う)。消防の出初式、各種芸事始め、ひめ始め(姫始、姫飯を初めて食べる日、ま | |||
た姫糊始めの意で女が洗濯、張りものなどを始めてする日とも、新年に夫婦が初めて | |||
交合することとも解する。(すべての事始めである) |
*年始廻りの様子。大店の主人は麻裃、或いは紋付き |
![]() 年始廻り(門礼者) |
||
黒羽二重羽織。小袖(着物)、白足袋、雪駄履、脇差を | |||
腰に差し、鳶頭に年始用の扇子を入れた挟箱(はさばこ) | |||
(着替え用の衣服などを中に入れて、棒を通して従者に | |||
担(かつ)がせ)年始廻りに歩いた。また、中小店の主人 | |||
は紋付の羽織、袴、白足袋姿で、小僧を供に連れて年始 | |||
廻りに歩いた。扇子は一対を箱に入れたもので、暮の内 | |||
に扇子売りから買っておく。 |
*湯屋は大晦日は終夜営業のため元旦の午後は休み、二日は早朝から営業を始める。 | |||
江戸時代は自家から火を出すと罰せられたので、地主階級以下は、大抵銭湯を利用し | |||
た。従って初風呂は相当に混んだ。昔は当日(二日)は番台に三宝が置かれあり、客 | |||
はお年玉として十二文を紙にひねって、その上に載せ、同時に番頭、女中にも身分相 | |||
応のお年玉をやる。(此の頃かな、そば一杯と湯銭が同じだったのは)三宝は七草ま | |||
で置いてある。また二日は、早仕舞といって日暮には店を閉めた。 |
*初荷は今日(こんにち) |
![]() 初荷風景(大商店) |
![]() 初荷風景(商店) |
|
でも所々で行われているが、 | |||
昔は店の格式や商売により | |||
盛大であった。当時は荷馬 | |||
車がなかったので、牛車や | |||
馬の背、大八車に商品を山 | |||
のように積み重ね、特に日 | |||
本橋界隈(かいわい)の大商 | |||
店(おおだな)では、初荷の旗と屋号の記された弓張り提灯を立て、店員、鳶頭(とびが | |||
しら)、出入りの者は新しい紺の印半纏(しるしばんてん)で付き添い、お得意へ初荷を | |||
届けたのである。 | |||
なお魚河岸、新場の魚問屋や、多町、大根河岸の野菜問屋の主人や店員は、新しい | |||
着物で荷開きをする。 |
◎三日は俗に正月三が日終わりである。 | |||
商家では多少店を早くしまい、職人はこの日まで仕事を休む者が多かった。 | |||
(私が名古屋で仕事をしていた頃、かなり大きな鋳物工場があったが、そこの職人さ | |||
んは1月は月末まで休むと云われていた) |
◎七日は俗に七日(なのか)正月という。 | |||
七日正月といい、鏡餅(おそなえ) や輪飾りを撤し、売りに来た菜で七草粥を作る。 |
◎十日は商家では戎を祝い、金毘羅様の縁日。 |
金毘羅様の縁日なので、虎ノ門外や両国薬研掘(やげんぼり)、その他の金毘羅様へ参 | |||
詣する。 |
◎十一日は鏡開きで餅を割り翌朝雑煮(ぞうすい)を作る。 | |||
俗にこれを十一日正月という。 |
◎十四日は十四日正月で、太神楽、獅子舞等が来る。 | |||
室内の正月飾りを全部撤去して、削掛(けずりかけ)(柳の枝を総(ふさ)状に削る)を | |||
軒端や門口に飾る。正月の行事はこの日で全部終わる。 |
◎十五日は女正月で小豆粥を作る。 | |||
小豆粥を作り、産土詣(うぶすなまいり)り、砂見様(すなみさま)詣りをする。猿若三 | |||
芝居の狂言の初日でもある。 |
◎十六日は藪入り。閻魔(えんま)詣り。 | |||
俗に地獄の蓋が開くという。落語「藪入り」にある如く、小僧や女中の最も嬉しい日 | |||
である。 |
◎二十日は二十日正月または骨正月、返り正月とも云う。 | |||
商家は恵比寿講を催し、親戚、知己、出入りの者を招待し素人芝居をしたり酒宴を開 | |||
いた。 |
◎二十一日は初大師。 | |||
男女とも厄年の者は川崎大師を始め(佐野厄除け大師、 |
![]() 佐野厄除け大師 |
||
正しくは春日岡山・転法輪院・惣宗官寺という。お忘れ | |||
なく)各地の大師へ厄除けのため参詣する。 | |||
男の厄年は25歳、42歳、女の厄年は19歳、33歳。特に42 | |||
歳は(死に)、33は散々の語呂を気にして大厄と云った。 | |||
もちろん厄年など迷信であるが、今日でも厄除けが盛ん | |||
なのは男女ともその年ごろは心身の変化が起きる確率が | |||
高いからだろう。 |
◎二十四日は亀戸天神。 |
![]() 亀戸天神 |
![]() 鷽替え(ウソカエ) |
|
文政三年以来、二十五日に | |||
かけて「鷽替え(うそかえ) | |||
の神事」が行われ、木彫り | |||
の鷽を男女が袂から袂へと | |||
取り替えるので、面白がっ | |||
て大変な人気であった。 | |||
(鷽は“幸運を招く鳥”と | |||
され開運・出世・幸運を得ることができる。亀戸天神社の“うそ鳥”は、檜で神職の | |||
手で一体一体心を込めて作られ、この日にしか手に入らない貴重な開運のお守りとし | |||
てとても人気がある) |
◎二十五日は最初の天神様の縁日。 | |||
落語の初天人にあるように、当日は亀戸天神を初め各所の天神は手習子を連れた連中 | |||
で賑わった。 |
◎二十八日は不動尊の縁日。 | |||
目黒不動を初め大変な賑わいだった。(注)成田不動へ参詣するには当時江戸からは | |||
最低三泊四日はかかったので、前日に出かけた。よく江戸時代のものとして深川の不 | |||
動を云々する人もあるが、(深川不動尊は、明治十年代の中期に成田から分祠したの | |||
である)暇のあった連中は、七福神詣りといって神田明神の恵比寿・大黒、不忍の池 | |||
の弁天、谷中天王寺の毘沙門天、同所裏の安禅寺の寿老人、日暮里の布袋、田端西行 | |||
庵の福禄寿を巡拝したり、根岸の里の鶯を聞きに行ったり遠く杉田の梅林まで出掛け | |||
る人もあった。 |
「正月風景」終わり。次回「東京計器の正月」を掲載予定 |
2010. 2.28 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−3(東京計器の正月風景) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−3 |
(東京計器の正月風景) | 佐野市 須貝義弘 |
東京計器の職場風景 | |||
昔、東京計器の正月はどんなだったか。 | |||
会社の正月の行事を述べる前に、私が入社した1954年(昭和29年)頃、の職場風景は | |||
どんなだったか、先輩方はご存じだが、OB会も私より若い人が多くなったので、そ | |||
の人たちのために書いてみる。 | |||
◇土曜は半日であった。私の妻は結婚してから一年くらいは此の事を知らなかった。 | |||
◇社内に理髪店があり、日時指定の利用券を購入すると、仕事中でも行くことがで | |||
きた。 | |||
◇昼の食事時には、味噌汁が配られた。(好評であった) | |||
◇小僧さんと呼ばれる人がいた。無論正式の呼び名ではないが、現場作業グループ | |||
(当時は組と云っていた)で一番若い人(中学出身 |
![]() 職場の小僧さん |
||
者が多かった)で、この人達の仕事は雑用が多く、 | |||
職人さんの使い走り(購買へたばこを買いに行く等) | |||
や前述の味噌汁を賄いまで取りに行くのもこの人達 | |||
の仕事。「現場での仕事は、技術を盗め」と云われ | |||
た時代で、雑用を片付けながら、少しづつ先輩の仕 | |||
事を見習いながら技術を身に付けていくのは大変だ | |||
ったろうと思いました。さらに私が感服したのは、 | |||
この人達の中に定時制高校、大学と進学する人が大勢おられたこと。こうしてそ | |||
れぞれの部門で一人前の職人になっていった。ただ敬服するばかりである。 | |||
◇小僧さんに感謝。職人さんは小僧さんをこき使うだけではなかった。ボーナス時 | |||
(一時金と云わないと叱られるかな)には、組長(現在では班長)さんが皆から | |||
お金を集め、自分のポケットマネーを足して、小僧さんに渡したものである。 | |||
現金の時もあったようだが、入社したての人(中学卒業したばかりの子)などに | |||
は組長さんが配慮して(彼の希望を聞いたのだろうか)学用品だったり、身につ | |||
ける物だったりした。 | |||
職人さんの中には「俺はいけなかったけどお前は |
![]() 昼休み(磁鋼プール)で遊ぶ小僧さん |
||
頭がいいから高校で大学で頑張れよ」とお年玉を渡 | |||
す人もいました。私は事務方だったので、小僧さん | |||
を使う立場にはありませんでしたが、組長さんに | |||
「気持ちだけですが」と少しのお金を渡すことにし | |||
ていました。こういう時、組長さんは妙な遠慮はし | |||
ないで「気持ちは伝えるよ」と受け取ってくれたも | |||
のです。 | |||
そうして「お前も大変だろう。大学へ行きたいだろうが、こう忙しくてはそれ | |||
もできないな。俺がもう一つ別の{大人への道を教える大学}へ連れてってやろ | |||
う」と云っ連れてってくれました。その大学は川崎の堀之内にありましたが、昭 | |||
和三十二・三年惜しくも閉校になりました。 | |||
その後仕事はどんどん忙しくなり「悩んだり」「失敗」もしましたが、皆さんが温 | |||
かく指導してくれました。中でも忘れられないのは油圧が大きくなり、エレメントだ | |||
けでなく、ユニットとしても生産販売することが決まった時です。 | |||
配管ができる人が必要になったのですが、社内にはで |
![]() 配管の技能士 |
||
きる人がいません。募集しましたが配管の経験者は一人 | |||
だけでした。二・三人は仕上げ師だったのですが、募集 | |||
条件の中に「配管の仕事」とことわっていましたので、 | |||
採用の時、確認させていただきました。この人達の採用 | |||
テストは上司の考えで、職人にぺ―パーテストは不要。 | |||
1p角のサイコロを仕上げ、かどからかどへ出来るだけ | |||
細い孔を空ける。がテーマでした。 | |||
それでも人員は足りません。困っている私を見て「配管屋さんにでもなるか」と同 | |||
年輩の人達が異動を承知してくれたのです。涙が出るほどうれしかったものです。昔 | |||
の現場は問題を抱えながらも皆が協力して油圧の事業を大きくして来たのです。少し | |||
前置きが長くなりましたが、昔の職場の皆さんに知っていただきたかったのです。 | |||
東京計器の正月風景 | |||
当時の職場の正月の様子について。私が入社した1954年(昭和29年)頃は、初出社 | |||
の日は半日で10時まで新年の挨拶と決められていたような気がするが、仕事はせず、 | |||
やかんで酒が熱燗にされ、ストーブのまわりは、するめを焼く匂いと酒の香りでいっ | |||
ぱい。着物姿の女子社員の初仕事に、湯呑みに酒をついでもらったものである。湯呑 | |||
みはアルコ―ルで茶渋がきれいに取れた? | |||
![]() 新年式(弥生会館・S34年) |
弥生会館ができてからは、全員が一堂に集められ、社 | ||
長の話や組合委員長の挨拶などがあり、職場にもどり仕 | |||
事となっていたが、前述の習慣はなかなか直らなかった | |||
ように思う。 | |||
私は若い頃は大晦日から山に登っていました。前述の | |||
油圧ユニットを製造するようになってからは、定期のオ | |||
ーバーホールや改造工事の依頼が、年末年始、また夏休 | |||
みに集中し、正月や盆休みには、家に居たことはなかっ | |||
た。私達はお客さんの工場が休んでいる時に改造や修理など働かねばならなかった。 | |||
私の持ち前のキャラで、はやり歌の曲に、勝手な歌詞を作り、宴会で歌っていました。 | |||
ちょっと思出してみると(名古屋営業時代) | |||
1)東京計器のポンプでも 2)部品加工が立派でも | |||
油研工業のポンプでも 効率よくて立派でも | |||
ポンプに変わりはないけれど 納期遅れにゃ勝てやせぬ | |||
ちょっと回せばすぐわかる 泣いて別れたご注文 |
3)僕がしばらく来ないとて | |||
短気起してお客さん | |||
バルブばらして壊すなよ | |||
貴方独りじゃ直りゃせぬ |
東京計器の成人式 | |||
一月十五日は成人の日でした。二十歳になった人に対し、お祝いの式典があったり、 | |||
紅白のまんじゅうとアルバムが配られました。私は仕事が忙しく、式には出られませ | |||
んでしたので、内容は分かりませんが、大田区からも同じようはお祝いがあったよう | |||
に記憶しています。 |
付録(シヤナギ・バー) | |||
シヤナギとは組長の名前で、(四柳組は羅盆を製造) |
![]() 一盃機嫌の職人さん |
||
羅盆は羅針盤の心臓部で(純度99.9%)アルコールが使 | |||
用されており、このアルコールを「出庫表」で出して来 | |||
て水で薄めて呑んだ、先輩からの命令で。このお使いは | |||
私の役目で、少し試飲したこともあるが、口当たりは良 | |||
いが、意識ははっきりしているのに足がもつれて歩けな | |||
くなった、ことも思い出します。 | |||
東京計器の正月風景 終わり |
2010. 3.14 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−4(江戸時代の藩の予算) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−4 |
(江戸時代の藩の予算) | 佐野市 須貝義弘 |
江戸時代の藩の予算 | |||
今、日本は、平成二十二年度の国家予算(一般会計と特別会計)をどうするのか、 | |||
注目されている。私の乏しい知識では・・・。 | |||
一般会計は、通常の一般業務に必要とされる歳入・歳 |
![]() 代官所・陣屋(現代の税務署) |
||
出を予算化したもの。 | |||
特別会計は、個別の予算によって独立した管理が行わ | |||
れる会計。要は歳入の多い少ないに左右されず、アンタ | |||
ッチャブルな予算と支出のこと。 | |||
最近読んだ本の中に、この特別会計に似たものが江戸 | |||
時代の後期にもあったという話。それが「懸硯方(かけ | |||
すずりがた)」である。 | |||
江戸後期の佐賀藩では、藩政府が管理する蔵方(くらかた)(これが一般会計にあ | |||
たる)、藩主の側近が管理する懸硯方(これが特別会計にあたる)に分けられていた。 | |||
蔵方については、説明の要はないが、懸硯方については |
![]() 懸硯(かけすずり) |
||
時代劇小説ファンの私も聞いたことがなかったので、ちょ | |||
いと調べてみました。「懸硯とは、手提げ型の金庫のこ | |||
と」で、藩主がいつも身近に置いて自由に出し入れする | |||
ことが出来る。不心得の殿様だと懸硯方の金を殿様の趣 | |||
味・道楽につぎ込むはめになりそうだが、そもそもこの | |||
金は軍事費や政治工作などに使われる機密費といった表 | |||
に出せない性格のものだったようである。(時代は変わ | |||
っても問題は同じ) | |||
例えば、ある殿様は、藩財政が切迫してとうとう、懸硯方の収入は、藩財政(蔵方) | |||
の管理となり、殿様でさえその金を使うには借用書を書かなければならないほどだっ | |||
たと云う。またある藩主は財政改革に乗り出し、懸硯方管理の軍事費・機密費の確保 | |||
に成功している殿様もいると云う。時代が移った今日でも良い殿様(政党)が出てこ | |||
ないかぎり、借金(国債発行)に頼らなければならないでしょうかね。一般家庭にも | |||
云えること。私など「懸硯方」など思いもよりませんでした。 |
参考文献:{名将の決断}朝日新聞発行、外 おわり |
2010. 3.28 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために(犬伏の別れ・米山古墳) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−5 |
(犬伏の別れ・米山古墳) | 佐野市 須貝義弘 |
犬伏の別れ・米山古墳 | |||
「私の住んでいる佐野市犬伏下町」は、犬伏という町名ははっきりしたことは分か | |||
らないが一説によると、このあたりを山伏が通りかかると一匹の犬が怪我をしていた。 | |||
これを山伏が助けたので、それを地名にしたと云う。 | |||
昨年から佐野市の観光ボランティアになったので、この地の歴史も勉強しているが | |||
興味あることが分かって来た。それは真田昌幸(まさゆき)、信之(のぶゆき)、 | |||
幸村(ゆきむら)の親子がこの犬伏で密議を開いていたと |
![]() 佐野市犬伏町付近と米山古墳 |
||
いうもの。しかも場所は私の住まいから百メートルと離 | |||
れていない小学校の前に旧家がありそのあたりらしい。 | |||
(旧家が本陣であったことは勉強でわかっていた)碑も | |||
あるというので現在調査中)。 | |||
話しは1600年(慶長五年)にさかのぼる。この年は誰 | |||
もが知っている関ヶ原の戦いに全国の武将が、家康率い | |||
る東軍につくか、石田三成ひきいる西軍につくかで、二 |
分した戦国の一大決戦である。真田親子はこの犬伏で密 |
![]() 「犬伏の別れ」の場・米山古墳の薬師堂 |
||
議を開いた。無論どちらにつくか!である。 | |||
昌幸は秀吉に「表裏比興(ひょうりひきょう)」の者 | |||
(表の顔と裏の顔が一致しない者)と言われたそうだが、 | |||
この時代の武将は例外なく知略を駆使して戦国の世を生 | |||
き抜いてきたと云える。昌幸もNHKの昨年の大河ドラマ | |||
「天地人」でわかるように、幸村を上杉家に人質として | |||
差し出している。昌幸にすれば上杉家、豊臣家などと提 | |||
携することで真田家の存続を図ってきたのである。他の武将たちも同じで昌幸が例外 | |||
でない。 | |||
《犬伏の別れ》 | |||
話を密議にもどすと、父昌幸は信之、幸村弟にどちらかにつくか問うた。兄信之は | |||
東軍を、弟幸村は西軍を主張し、意見が分かれた。兄弟は意見が分かれたが、兄信之 | |||
は岳父(妻の父)が東軍の本田忠勝、弟の幸村の岳父が西軍の大谷吉継(おおたによ | |||
しつぐ)であったのも大きな理由だったであろう。昌幸は決断し、昌幸と幸村は西軍 | |||
へ、兄信之は東軍へと。 | |||
![]() 真田昌幸(父) |
![]() 真田信之(長男) |
![]() 真田幸村(次男) |
|
昌幸はこの時「いずれが勝っても家が存続するので二手に分かれよう」と云ったと | |||
ある。これを「犬伏の別れ」と云う。 | |||
決戦は東軍の勝利。東軍を苦しめた真田親子に厳罰が下されようとしたが、信之の | |||
嘆願が実って死罪は免れ、二人は高野山での蟄居(ちっきょ)謹慎を命じられた。 |
参考文献:{名将の決断}朝日新聞発行、外 おわり |
2010. 4.11 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−6(古から今へ) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−6 |
古から今へ | 佐野市 須貝 義弘 |
江戸時代(落語的に加えて)からあるものとしては、はつうま初午があります。 | |||
![]() 王子稲荷 |
2月の最初の午の日を初午と云い、この日は江戸の人々 | ||
は、王子稲荷を初め、豊川稲荷、笠森稲荷、羽田の穴守 | |||
稲荷などに行楽を兼ねて出かけたようです。 | |||
(ある書には稲荷神社の祭は京都伏見区の稲荷神社が最 | |||
も有名とある。) | |||
羽田の穴守稲荷は先輩方ならばご存知だと思います。 | |||
![]() 豊川稲荷 |
![]() 穴守稲荷 |
![]() 伏見稲荷 |
|
2月の節分は冬から春に変わる節の意であり、当日はひいらぎ柊の枝に鰯の頭を刺 | |||
したものを門口(かどぐち)へ掛け、歳男が鬼打ち豆を撒いたとある。私が関係して | |||
![]() 豆まき |
いる狂言にも「節分」と云う狂言があります。 | ||
注(節分は2月だけではなく、立春、立夏、立秋、立冬 | |||
の前日をすべて節分ということもすでにご存知) | |||
彼岸は、江戸時代は旧暦のため、2月の春分と、8月 | |||
の秋分の日を中日とした7日間であった。 | |||
春分の日は、二十四節気の一つで太陽の中心が春分点に | |||
来た時の称。春分を含む日を春分の日と云い、太陽暦の | |||
3月21日頃にあたる。太陽は赤道を直射して、全地球 |
![]() 天球儀 |
上の昼夜の長さがほぼ等しくなる。(時の説を参照) | ||
ここで春分点とは黄道と赤道との交点の中、太陽が南 | |||
より北に向かって赤道を通過する点のことで、この日を | |||
国民の祝日とした。 | |||
私と同じ年代(75歳)以上の方には「春季皇霊祭」 | |||
と云ったほうが早いかも。若い人たちのために、「春季 | |||
皇霊祭」とは旧制で大祭日の一つで、宮中皇霊殿で天皇 | |||
が歴代の天皇・皇后・親王を祭ったことである。 | |||
十軒店の雛市もありました。この市は、江戸時代から昭和の初期にかけて、日本橋 | |||
の本石町2、3丁目(現在の中央区室町3丁目あたり)の表通りの両側に、久月、光 | |||
月、などという人形店が約10軒ほど散在していたのでそ |
![]() 十軒店 |
||
の辺を俗に十軒店と呼んでいたようです。 | |||
現在は開かれていない市を取り上げたのは、また落語 | |||
の噺になりますが、この市を舞台に「人形買い」という | |||
噺があるのですが、この噺のサゲ近くに「初節句の祝い | |||
に、御仏前てえのがあるかい、そう云う時は御霊前と云 | |||
うんだ」と云うのがあるのです。現在ではこの噺を取り | |||
上げる噺家がいないということです。 |
この「仏・祝儀の袋」に関して、私は佐野で面白い体 |
![]() お見舞袋 |
||
験をしたので、体験談を先ず一つ。東京にいる頃は、会 | |||
社の仲間のご家族に「お弔いがでた場合、夜お通夜、翌 | |||
日告別式となるのが普通で、私たちは昼間の告別式を避 | |||
け、お通夜に「黒いネクタイ」か、喪章をつけて「御霊 | |||
前」を持って行くのが通常でした。服は平服でよい。喪 | |||
服は「用意周到」と、とられてかえって失礼、とされて | |||
いました。 |
私は昭和四十九年(1974年)に佐野に赴任したのですが、 |
![]() 結びきり |
||
当時は自宅で葬儀を行う方がほとんどで、一部の地域で | |||
は土葬のところもあったと記憶しています。ある方のお | |||
通夜に伺ったとき、焼香を終え、「御霊前」を置こうと | |||
下を見ますと、驚くなかれ、のし袋「お見舞い」と書い | |||
てあるではありませんか! | |||
翌日この謎を、真木さん(当時東京ビッカース社長) | |||
が解いてくれました。「須貝君の年代だと承知している | |||
と思うが、通信機関が今日のように便利でなかった時代、急の知らせは電報だった。 | |||
打つ時は「チチシス」ではなく、先ず「チチキトク」を打ち、時間を経て「チチシス | |||
」と打った(私もこれは承知)。この辺(佐野)では、地域にも夜にお通夜に行く場 | |||
合は「危篤」の知らせでかけつけるので、お悔やみは言わず「少しでも話しが出来る | |||
かと思って来ましたが、残念です。お見舞いしか用意していません」となるんだよ、 | |||
とのこと。 | |||
この袋違いの噺は、前述 |
![]() 高座 |
![]() 円生 |
|
の落語「人形買い」の後半 | |||
にでて来る「袋違い」とは | |||
少し異なるが、佐野の古い | |||
習慣を紹介したかったので | |||
持ち出しました。 | |||
「人形買い」には特別な | |||
思いがあるからです。この | |||
![]() 落語百選 |
「人形買い」のように季節に関する風物を扱った噺を、 | ||
噺家は俗に「きわもの際物」と云います。一年中高座に | |||
かけるわけにはいかないので、この噺は4月下旬からせ | |||
いぜい6月までの出し物とされています。しかも登場人 | |||
物が多く、講釈師、占者、神道者、などが登場する後半 | |||
は難しいとされています。 | |||
私の持っている「古典落語」にも桂三木助の噺としてあ | |||
りますが、落語に夢中だった中学生の頃、ラジオで一度 |
![]() 浅草演芸ホール |
![]() つるし |
聴いただけ、その時は確か | |
円生だったと思います。 | |||
近頃は昔の噺がCD化されて | |||
いますが、「人形買い」を | |||
私はみたことがありません。 | |||
「落語百選」とか「二百選」 | |||
とか近頃は落語関係の本も | |||
あるようですが「人形買い」 | |||
は見当たりません。どなたか、見つけたら教えてください。・・・・・・・・おわり |
2010. 5. 9 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−7(町奉行について) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−7 |
町奉行について | 佐野市 須貝義弘 |
ものを書くことがもっとも苦手な私がこのところ「もの書き」に追われている。昨 | |||
年入院中に書いた「江戸時代の時刻」に始まり「古典落語をより楽しむために」、佐 | |||
野の観光ボランティアを引き受けているので、佐野の歴史「芭蕉の句碑」、私の住ん | |||
でいる町「犬伏の別れ」、「厄除け大師」、「田中正造」、「秋山川原の出流事件志 | |||
士処刑地」を紹介してきました。 | |||
いろいろ本を読む中で、何よりも私が勉強になっていますが、夢中になってしまい | |||
脱線することもありますがお許しを。今3月の原稿を書き終えたところですので「脱 | |||
線」のついでに「町奉行」について、勉強したことを私流に表現を変えて書いてみま | |||
した。 | |||
「町奉行」 | |||
先ずは呼び方だが、ドラマや映画の中で「江戸町奉行」とか「南町奉行」とあるが、 | |||
これは誤りである。本来は単に「町奉行」であり、「江戸町奉行」の略ではない。 | |||
がしかし、地方の町奉行の場合は幕府の公文書にも「大 |
![]() 町奉行 |
||
阪町奉行」などと地名をつけていた。大阪、京都などの | |||
町奉行と並べて記すときは「江戸町奉行」と書くことも | |||
あったが、この場合は「江戸ノ町奉行」とするのが正し | |||
いとされている。(よくある話で、私の関係する能楽界 | |||
でも、多くの人が「狂言師」と云うが、これも誤りで、 | |||
正しくは「狂言方」と云うのが正しい。能楽は能の「シ | |||
テ方」「ワキ方」と呼び「囃子方」「狂言方」で成り立 | |||
っている。誰も「シテ師」「ワキ師」などとは言わない) | |||
奉行とは、職制上の最高責任者である。奉行と云っても段階があり、大名の持ち場 | |||
である「寺社奉行」、千石以上旗本が任命される「町奉行」、「勘定奉行」があり、 | |||
下級旗本が任命される「牢屋奉行」、「寄場奉行」などもあった。町奉行の役目は一 | |||
言では云えないが、幕府内にあっては、寺社奉行、勘定奉行と共に、(俗に三奉行) | |||
すべての政事と法律の制定に老中の補佐役として参与し、評定所一座役人と呼ばれ、 | |||
老中・若年寄に次いでの重職であった。(テレビで云えば、将軍吉宗と大岡越前守の | |||
関係)江戸の町人に対しては、現在で云えば都知事、警視総監、消防庁長官、裁判所 | |||
長官、税務署長を兼ねた最高統治者であり、責任者でもある。町奉行の起源は諸説あ | |||
り、詳しいことは不明だが、慶長末期(1610年頃)には、2人が任命され、その後、 | |||
増減があったようであるが享保4年(1719年)には南北2人の町奉行になり、以降は | |||
![]() 遠山の金さん |
変わらなかったとある。町奉行に登用されるのは三千石 | ||
以下の栄俊の旗本に限られていた。天保年間(1830〜 | |||
1843年)刺青の名奉行遠山左衛門尉影元のように一足飛 | |||
びに(しかも遠山の場合、旗本の末っ子でありながら) | |||
任命されることもあったが、これは例外で、出世街道を | |||
過ちなく勤めた者がその職についたのである。たいてい | |||
の町奉行は町人から親しまれ、大過なくその職責を果た | |||
し得たのも以下に述べる前歴により各方面のことに通じ | |||
ていたことと、その配下に練達の同心がいたればこそである。 | |||
「町奉行への道」 | |||
若い英俊の旗本が初めて勤めるのは、先ずお使い番、火事場見回り役で、勤役中に | |||
江戸の地理や様子、出火の事情などを覚え、その後御目付けとなって城中のこと一切、 | |||
規則、法律、制度、その他を学ぶ。次いで、特に成績の良い者が遠国奉行(奈良、駿 | |||
府、静岡、甲府、山田、浦賀、佐賀)に抜擢され、配下の与力や同心の使い方、民政、 | |||
公事(訴訟)その他万端の経験を積み重ねてから、長崎奉行に転じて外交・対外関係 | |||
の知識を広める。その功績の大きい者が京都町町奉行に進み、難しい朝廷関係の諸事 | |||
万端を覚え、さらに大阪町奉行に栄進し、商業関係一切を覚える。無論すべて町奉行 | |||
がこの過程を必ず通るというわけではなく、大岡越前の守のように、山田(伊勢)奉 | |||
行から一躍して町奉行になるものもいたのである。 | |||
南北2人の町奉行は、式日、立会、内寄合日(6日、18日、27日の南北両奉行所の | |||
事務連絡日)以外は、四ツ(午前十時)に登城して、老中に所管事項を上達したり、 | |||
老中からの御用を伺ったりして、用の済み次第奉行所へと戻り、(但し、出火など緊 | |||
急の時は中途で戻った)訴訟、罪人の取調べ、判決などを行った。 | |||
町奉行所 | |||
江戸の後期には数寄屋御門内に南町奉行所(地図によ |
![]() 奉行所 |
||
ると南町奉行所は、現在の朝日マリオンのある場所)が、 | |||
呉服橋御門内(地図によると吉良義央{通称上野介}の | |||
屋敷あたり)に北町奉行所があった。庶民はこれを南の | |||
御番所、北の御番所と呼んでいた。(南、北とは方角に | |||
よる俗称で正式のものではない)建物は南の方が大きか | |||
ったが、大門、お白州をはじめ、主要な部分の構造は大 | |||
体同じと云われる。 | |||
表門(大門) | |||
表門の左右には、小門が設けられ、向かって右の小門は夜中の急訴を受けるため終 | |||
夜開かれていた。また左の小門は囚人の出入りする門であり、正門は非番の月には閉 | |||
めてあったとされている。門から玄関の式台までの十数間は青い敷石が数列敷き詰め | |||
てあり、その両側の広場には、那智の黒い砂利が一面に敷いてあった(映画やテレビ | |||
の1シーンを想像して下さい)。玄関の右側は、訴えを受理する当番所で、「大工調 | |||
べ」の与太郎が駆込み訴えをしたのはここである。表門から十間ほど入った左側にお | |||
白州への入り口があり、そこを入って鉤の手に曲がると一番奥がお白州である(映画 | |||
やテレビなどの観賞時に確認して下さい)。 | |||
町奉行所の職制 | |||
江戸後期の南北奉行所には、奉行の下におのおの、与力25人(23人という説もあり) | |||
と同心150人が所属し(時代により少し異なることもあった)その他に、奉行の直臣 | |||
である公用人3人(内与力という。平岩弓枝作の「隼新八郎」はこの内与力である。) | |||
と目安方(与力)2人、玄関番(士分)3人、門番(足軽)2人がいた。 | |||
与力と同心 | |||
最近のテレビや映画に出てくる与力、同心と云えば、十手・捕り縄を持った役人が | |||
多いが、間違いとは云えないが、与力は課長級の身分で、同心は平役人であるので、 | |||
いたるところの職場に居たのである。その人たちを呼ぶ場合、勘定与力、寺社与力、 | |||
鉄砲同心などと呼んだ。与力は戦場へ出る場合、騎馬であるところから一騎、二騎と | |||
数え、同心はかち徒なのでひとり、二人と数えた。 | |||
町与力 | |||
南、北両町奉行所の与力は、町与力と称え、身分は一代限りの抱え入れであるが、 | |||
実際はよっぽどの無能者や、不始末を犯した者以外は世襲であった。その禄高は、大 | |||
縄地と云って全町与力50人で1万石の領地を持っていたから、平均二百石(年年の出 | |||
来高で異なる)の検見取りであった。(検見とは、役人が田をまわって米の出来によ | |||
り、年貢米を定めた)勤務は内役と外役とに分かれ、内役は毎日所属の奉行所へ四ツ | |||
(午前10時頃)出勤した。 | |||
内役の仕事 | |||
年番方とは、町奉行所の補佐役で3人。多くは年長者で所内の監督、同心の任免、 | |||
![]() 詮議 |
営繕、会計、その他総括的仕事をする大切な役。吟味方 | ||
とは、詮議とも云い、与力10人(配下に同心25人)から | |||
成る。公事(刑事、民事、の裁判)の犯罪人を取り調べ | |||
判決を行う。 | |||
市中取締諸色掛とは、与力8人と同心16人から成り、 | |||
天保改革の際に設けられ、商工業全般にわたり諸色(物 | |||
価)、出版、風俗などを取り締まる。但し、青物・魚類 | |||
は南町、米穀は北町というように、分担して取り締まる | |||
ものもあった。 | |||
*猿屋町会所見廻りとは、蔵前の札差の会所を見廻る役であった。 | |||
*御仕置例繰方とは、例繰方とも云い、与力4人同心8人から成り、判決文が渡され | |||
ると法規、先例、類例を調べて報告したり、犯罪人の罪状を記録、編纂したりする | |||
役。 | |||
*御赦掛・撰よう要編纂掛とは、与力4人同心8人で構成され、大赦、恩赦関係の仕 | |||
事を行い、撰要とは、法規の編纂、記録の分類などをする役であった。 | |||
*非常掛とは、与力8人同心16人から成り、幕末近くの嘉永五年(1852年)に市中取 | |||
締諸色掛を改組してでき、治安、町廻り、火事場見廻り等をする役。 | |||
*番方与力とは、編成人数は不定であるが検使見分け、臨時加役(他の役の応援)、 | |||
毎日の当直勤務、評定所への出役、山王の祭りの警固をはじめ沢山の役があった。 | |||
これは新米の与力が番入り(就職)して勤め、順次他の役に替わる。なお、幕末近 | |||
くには、外国掛が設けられ、与力8人同心16人で外人居留地の仕事や外人が外出す | |||
る時の警固の役などを勤めた。 | |||
外役の仕事 | |||
*町会所掛とは、江戸市内の町会所(諸組合の事務所)や籾蔵(救済米貯蔵所)の見 | |||
廻り、貧窮者の救助などを司る役である。 | |||
*高積見廻は、防火のために、市内の道路、河岸などの高積、往来の邪魔になる積荷 | |||
などを注意・監督する役。 | |||
*養生所見廻は、貧民の施療所を管理する役。 | |||
*牢屋敷見廻は、小伝馬町の牢屋敷の見廻りを担当する。牢屋敷奉行石出帯刀の勤務 | |||
ぶりを監督し、処刑に立ち会う。また、浅草、品川、両溜(病人収容所)の監視も | |||
行った。 | |||
*昼夜見廻・風烈廻とは、市内の警戒、火事に備えての烈風のときの見廻りをする役。 | |||
*火消人足改めとは、鳶の者を監督する。また出火の場合火消しの指揮をした。 | |||
*本所見廻は、本所と深川を見廻り、道普請、橋普請、川浚いの監督、上水、下水の | |||
管理などを担当する役。外回りの役はこの外にもあり、時代によって違いがあった。 | |||
役付きの与力は消火人足改め3人、町会所掛2人の外は各役とも与力1人で、その | |||
下で1〜4人の同心が働いていた。 | |||
町与力(町方与力)と町同心 | |||
町方同心は俗に八丁堀と称された場所(江戸時代は武 |
![]() 与力 |
||
家地には、町名はなかった)に組屋敷(集団的住宅)を | |||
拝領して住んでいたので、通常「八丁堀の旦那衆」と呼 | |||
ばれた。髪は「八丁堀銀杏」という独特の結い方をし、 | |||
み身なり姿、歩き方にもひと目でそれとわかる特徴があ | |||
った。このことは与力が継裃、紋付肩衣姿で番署へ通勤 | |||
するので、当時「雪駄チャラチャラ江戸の町、巷を貫抜 | |||
差の刀の柄へ袂の先をちょいと載せ、突き袖の力み姿…」 | |||
と諷誦されたことからも知ることができる。 | |||
町与力の生活 | |||
屋敷(敷地)は250坪前後。冠木門(笠木を二柱の上方に渡した屋根の無い門)か | |||
長屋門(左右に長屋を建て構えた門)を設け、式台付きの玄関があり、役柄によって | |||
は相当の別収入があるため、200石取り(玄米70石前後。当時一石一両として換算す | |||
れば70両)の侍にしては家屋も不似合いに広く、女中なども大勢使っている連中もあ | |||
った。しかし大部分の与力は屋敷の一部に家を建てて、医者などに賃貸ししていた。 | |||
収入については、家賃の上がり高は知れたものだったが、外役の仕事をしていた連中 | |||
は、禄高と同額あるいはそれ以上の公然とした付届けを諸大名や大商人から盆、暮、 | |||
その他臨時に沢山もらえた。とりわけ、年番方、吟味方、市中取締諸色掛、廻り方な | |||
どは「御用願い」と云って御三家、諸大名をはじめ、寛永寺、増上寺、浅草寺、諸商 | |||
人から盆暮、年始、暑さ、寒さの挨拶、参勤交代の折など贈り物があり、莫大な金額 | |||
になった。なかには、御三家や諸大名から扶持米をもらっている者さえあった。幕末 | |||
近くには綱紀が乱れ、民事裁判の場合に、原告、被告双方に賄賂を強要し、その多い | |||
方を勝訴にした吟味方もいたそうである。 | |||
町同心の生活 | |||
![]() 同心 |
八丁堀の組屋敷に150坪の土地を拝領していたが、屋敷 | ||
の道路に面した所へ長屋建ての貸家を造り、幕末近くに | |||
は驚いたことに長屋を博奕打、売春婦、ポン引きなどい | |||
かがわしい連中に高い家賃を取って貸したりする同心さ | |||
えいたとか。 | |||
同心の役料は、数々のテレビに登場しているので皆さん | |||
も御承知の通り、年額30俵2人扶持(一人扶持=玄米一 | |||
日五合)で、別途に役料が年額3〜10両ぐらいあったが、 | |||
役によっては足りる筈の無い者もあった。特に隠密廻、定廻、臨時廻などは岡ッ引き | |||
を使っていた関係で相当に金がかかった。しかし、そこはよくしたもので、役得も与 | |||
力と同様大きく、その上諸大名からの扶持米、盆暮の付け届け、大店からの依頼事の | |||
謝礼を始め、相当額の収入があった。 | |||
取り調べと判決 | |||
お白州での取り調べは、民事・刑事共に奉行が直々に |
![]() お白州 |
||
行うのが原則であったが、さほどの重要でないものは詮 | |||
議掛の与力が行うのが実情であったと云う。また奉行は | |||
厳寒の折にも座蒲団、火鉢を使うことはなく、夏でも扇 | |||
子を使わず、常に威儀を正して座っていた。そして巻羽 | |||
織(羽織の裾を巻き上げて座る)をした同心(二人)の | |||
傍に控える目安が訴状を読み上げるのを聞いたのである。 | |||
刑事事件の場合、被告を伝馬町の牢屋に入れるには、 | |||
奉行の許可を必要とした。また強情な容疑者に対しては、奉行所では詮議のみで、拷 | |||
問などは絶対にしなかったとある。 | |||
詮議が決着しない容疑者は、伝馬町の牢に連れ戻されて責問いに掛けられた。責問 | |||
は三角の木棒を並べた上に座らされて、玄蕃石(考案者の名をとって名付けられ、長 | |||
さ三尺、幅一尺、厚さ三寸の石)を三枚〜五枚ないし十枚を抱かされる石抱きや、海 | |||
老責めと云って手足を縛って体を腰から二重に折るように締め付けるものなどがあっ | |||
た。それでも自白しない者は、さらに拷問蔵で後ろ手に縛った両腕をつるしあげる拷 | |||
問にかけられた。 | |||
詮議の済んだ件は、奉行が判決を言い渡すのであるが、遠島以上の重刑の場合には | |||
奉行の手限(独断)ではなく、老中に伺い出てから判決を言い渡したとされる。 | |||
刑罰 | |||
江戸時代の刑罰は罪の軽重により次のような段階で行われた。 | |||
「叱」‥小言を云われるだけである。 | |||
「急度叱」‥強く叱られる。 | |||
「過料」‥一貫文〜五貫文の罰金に処す。重過料もある。 | |||
「手鎖」‥三十〜百日間手鎖をかけられる。外から見えぬように懐中にて両手を組み、 | |||
鉄製の鎖をおろして担当の同心が封印をする。さらに自己の印を押し、掛 | |||
の与力の検視を受けて後、自宅へ帰り謹慎する。この場合、自宅で商売を | |||
することは差し支えないが、隔日〜六日目ごとに町奉行所へ行き封印改め | |||
を受ける。 | |||
「敲」‥伝馬町牢屋の門前で箒尻にて背中を五十回敲かれる。但し、追放刑と併合し | |||
て課せられることもあった。(箒尻とは、長さ60センチの竹片二本を麻で巻 | |||
き、その上にこよりを巻いて作ったもの) | |||
「重敲」‥箒尻で百回敲かれる。追放刑と合わせて行われることもあった。尚、侍、 | |||
僧侶、女には敲刑を課さなかった。 | |||
「入墨敲」‥入墨と敲きを課せられる。 | |||
「晒」‥日本橋南詰東側の晒場で、三日間柱へ縛られて座らされる。 | |||
「追放」‥一番軽いのが所払いと云って住んでいた町から追い出される。但し隣町に | |||
住むのは許された。 | |||
「江戸払」‥朱引線(町奉行の監督範囲)内に住むことができない。即ち高輪の大木 | |||
戸、目黒、内藤新宿の大木戸(新宿御苑の前)板橋、千住、本所、深川 | |||
を結んだ線の内側で暮らすことが禁じられた。 | |||
「江戸十里四方追放」‥日本橋を起点に五里(20キロ)以内に住うことができない。 | |||
「軽追放」‥江戸10里四方、京都、大阪、東海筋、日光道中の御構(立ち入り禁止区 | |||
域)以外へ追放。 | |||
「中追放」‥武蔵、山城、摂津、和泉、大和、備前、下野、甲斐、駿河、東海筋、木 | |||
曽路筋、日光道中の御構以外へ追放。 | |||
「重追放」‥中追放区域に加え、上野、相模、安房、上総、下総、常陸の御構以外へ | |||
追放。 | |||
「闕所」‥追放、死罪などの付加刑として家屋敷、家財、田畑などの財産の取り上げ。 | |||
「非人手下」‥非人頭に下付けしその部下に落とす。 | |||
「遠島」‥江戸の場合は伊豆七島の一つに追放。 |
![]() 市中引き回し |
||
「下死人」‥伝馬町の牢屋で首を斬られ、死体は取捨て | |||
にされ、遺族に引き渡さないのが原則。 | |||
「死罪」‥首を斬られ、死体を様斬にされる。様斬とは | |||
新刀の斬れ味をためすこと。 | |||
「火罪」‥品川鈴ケ森又は千住小塚原の刑場で火炙りに | |||
処す。放火犯に限る。 | |||
「獄門」‥一日中江戸中引回し、日本橋の晒場で二日間 | |||
晒し、その後、磔になる。これは主(雇い主)殺しの場合の刑である。 | |||
「磔」・・江戸中引回しの上、鈴ケ森か小塚原で磔柱に縛り付けて槍で刺し殺し、三日 | |||
間そのまま晒す。 | |||
「江戸時代の牢屋について」 | |||
牢屋は小伝馬町にあって、俗に囚獄と云われた牢屋奉行が統轄し、家康時代からの | |||
世襲の石出(いしで)帯刀が勤めた。奉行は牢内一切のことを宰どり、拘禁、護送、 | |||
給養、牢屋敷の修理が主な仕事だった。奉行の外に同心50人がおり、それぞれ鍵を保 | |||
管する「鎰役」4人、敲刑を執行する「数役」1人、「打役」1人、その他「小頭」、 | |||
「世話役」、に分かれた。また牢屋下男38人(幕末には46人〜50人)は、年一両二分 | |||
の給金をもらって囚人の食事、身の回りの面倒をみた。そのほかに本道(内科)の医 | |||
師二人と外科の医師が一人いたし大勢の非人が刑罰を受 |
![]() 牢屋 |
||
けた者の処分を担当して、その女房達は女囚の世話をし | |||
ていた。牢屋敷は、周囲に溝をめぐらし、泥と瓦の練塀 | |||
で囲まれていた。内部は有宿舎(戸籍登録者)を収容す | |||
る大牢が東西に各々一室、無宿者を入れる二間牢が同じ | |||
く二室、女牢一室、百姓牢一室、別棟に御目見以外の侍 | |||
を収容する揚りや一室、旗本を収容する畳敷きの揚り座 | |||
敷四室、その他責問蔵や処刑を行う土壇場などを含めて | |||
全敷地の広さは2600余坪であったされる。この牢屋敷を与力が毎日或いは、隔日に見 | |||
廻っていたのである。 | |||
幕府は町政の運営と同様に牢内を自治的に運営させるために、牢名主を任命して、 | |||
牢内の秩序、規律を守らせた。牢名主は、牢内の掃除、点呼、給食、病人の看護、自 | |||
殺の見張り、脱獄などを防ぐため、添役、角役、二番役〜五番役、本役、本役助、詰 | |||
番、詰番助、五器口番の11名を指命し、おのおのに仕事を分担さて牢内の規律を守ら | |||
せた。牢内は11人の役付き囚人によって外見上は見事に運営されたが、反面には実に | |||
悲惨なことが平然と行われていた。 | |||
寛政の改革の際、松平定信が獄内の不正、虐待その他について、風聞書で牢屋奉行 | |||
の石出帯刀を問いただしたところ、いずれも否定したが、役人と結託、又は黙許のも | |||
とに、ひどいことが行われていた。例えば、牢名主が見張り役の牢屋下男と結託して、 | |||
囚人の衣服、金銭、差し入れ物を取り上げ、ツル(金銭)の無い囚人を虐待した。ま | |||
た牢内では公然と役付き囚人たちが、厳禁されている喫煙、飲酒、博奕などを日常行 | |||
っていたとされる。まさに「地獄の沙汰も、かね次第」だったと云うことか。 | |||
おわり |
2010. 5.23 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−8(江戸の春) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−8(江戸の春) | 佐野市 須貝 義弘 |
四月と云えば江戸時代は、ころもがえ(更衣)、かんぶつえ(灌仏会)、初鰹、藤 | |||
牡丹、物売り、植木屋、かきつばた(杜若)、ほととぎす(杜鵑)が浮かびます。 | |||
「更衣」 | |||
江戸時代は、多少極端と思われるくらい、季節と衣類の関係を重視した。四月に入 | |||
ると朔日から綿入れを脱ぎ、五月四日まではあわせ袷で暮らし、足袋も九月八日まで | |||
履かないとある。 | |||
会社でも、私が入社した昭和29年(1954)頃は、決まった作業服は無く、「手前 | |||
持ち」であった。男性の中には旧陸軍の軍服を作業服にしていた方もおられた。その | |||
後会社から支給されるようになったが、衣更えの決められた日は無く、気候に合わせ | |||
て半袖に着替えたと記憶している。 | |||
「灌仏会」 | |||
四月八日(釈迦如来の降誕の日)に花の御堂をつくり、中に銅の釈迦仏を置いて、 | |||
参詣人に頭から甘茶をかけさせた。甘茶は俗に云う甘茶の木の葉を煮出した液で、甘 | |||
いところから甘露になぞらえて使ったとある。種々の花で飾った小堂を作り、水盤に | |||
釈迦の銅像を安置し、甘茶{正しくは五種の香水}をた |
![]() 灌仏会 |
||
たえ、参詣者に小柄杓で釈迦の像に注がせる。参詣者は | |||
甘茶を持ちかえって飲む。古くからおこなわれてきたが、 | |||
記録上は平安初期の承和七年(841)に始まるとある。 | |||
上野寛永寺、芝増上寺、回向院等の灌仏会は有名であっ | |||
た。もちろん他の寺でも行われていたが、真宗の寺では | |||
行われていなかった。潅仏会は平常あまり外出しない婦 | |||
女子の参詣人が圧倒的に多かったと云われる。 | |||
「初鰹」 | |||
江戸時代「鎌倉は生きてい出けん初鰹」と云う芭蕉の句が示すように、鎌倉周辺の | |||
沖で釣れた初鰹は、押送舟(帆を用いず艪だけで舟を押し送り=進めること)で、寸 | |||
時を争って河岸へ持ってきたので、最初は目の玉の飛び出るような高価であったそう | |||
な。かつおの最盛期には、馬の背にも載せて運んで来たとある。当時、長屋の住人た | |||
ちの中には「袷化して ひとえ単衣になるや 初鰹」の川柳どおり、おっちょこちょ | |||
い天気の連中は高価をいとわず、それを食うのを自慢したとある。(私もディズニー | |||
ランドや、東京ドームが出来たときなど、真っ先に駆けつけるし、この辺(佐野や栃 | |||
木)が本場の苺を一番早く食べるようにしているので、江戸っ子をおっちょこちょい | |||
とは云えない) | |||
「藤や牡丹」 | |||
![]() 牡丹 |
牡丹は、江戸時代にはあまり栽培されてなかったので、 | ||
珍重され、百花園、谷中の天王寺の善明院、染井、特に | |||
深川永代寺の牡丹は江戸一の岡場所地の地続きなので( | |||
すぐ、こういう噺になりますが、地図を見ても近い)遊 | |||
蕩児の口実に使われたようである。 | |||
藤は、「佃祭り」の噺にも出てくるように、佃島の住 | |||
吉神社境内と、広重百景にも描かれている亀戸天神境内、 | |||
また下谷坂本の円光寺と小石川茗荷谷の伝明寺は共に藤 | |||
寺と云われたほどの名所である。近年では、足利のフラワーパークが有名で東京計器 | |||
OB会に観光コースとして選ばれたり、NHKのテレビでも紹介されるなど見事なも | |||
のである。 | |||
脱線の話でどうもすみません | |||
また、落語の話になり、「どうもすいません」ですが、古典落語の中には、その原 | |||
話が中国やインド等に求められるものがあり、「佃祭り」と云う噺もその一つで、中 | |||
国清代初期(1680)前後に、元時代(1271〜1364)の出来事を収録した「輟耕」(陶 | |||
宗儀著)の中の「飛雲の渡」を参考にして作られた噺と云われる。この噺は人情噺「 | |||
ちぎり伊勢屋」「白井左近」にも取り入れられているとあるが、私はこの噺は聞いた | |||
ことがないので、詳しいことは不明だが、元の話の概要は次のようである。 | |||
風波で渡し舟が転覆するので有名な「飛雲の渡」で、 |
![]() 藤 |
||
ある男がここを通りかかり、身投げしようとする女を助 | |||
けた。訳を聴けば女は奉公先の主人の使いで、銀製の耳 | |||
飾りを届ける途中、紛失したという。男は金をやって別 | |||
れたが、一年後、大勢の仲間とこの渡しへ来て、いざ船 | |||
に乗ろうとしたとき、偶然にも、近くの床屋に嫁したと | |||
いうあのときの女に会った。女は礼をしたいと無理に引 | |||
き止め、彼だけが残ったところ、仲間たちの乗った船は | |||
転覆して、全員溺死したという話。 | |||
一方、文化四年(1807)8月19日には永代橋で深川よりの橋脚がめり込んで、数 | |||
百人の溺死者がでるという事件が起きた。原因は深川八幡の祭礼が数年ぶりに復活さ | |||
![]() 深川八幡祭 |
れ、さらに神輿の渡しが雨で同日に延期さていたので、 | ||
いつにない人出があったからであったと云われている。 | |||
この出来事から「おつこち」と云う語が流行し、ここか | |||
ら素材を得て「佃祭り」の噺が出来たとされる。「江戸 | |||
時代の四季」から脱線したが、脱線ついでに「佃祭り」 | |||
に関して話を続けると、佃島については異説もあるが、 | |||
天正十八年(1590)家康の入府にともない摂津の国の佃 | |||
村(地図がないので未確認だが、現在の大阪市西成区あ | |||
たり)の庄屋(名主)森孫右衛門が一族六名を引き連れて江戸のこの地に移り住んだ | |||
のが初めである。その後、同村の漁民を呼び寄せ正保元年(1644)故郷の名にちなん | |||
で佃島と名づけたとされる。百間四方の土地と共に隅田川とその川口一帯の漁業権を | |||
与えられた島民は、その代償として捕った魚の一部を将 |
![]() 佃島 |
||
軍家の毎日の食膳に献上した。そして余ったもの(と云 | |||
ってもそれが大部分であるが)を、日本橋北詰の袂で商 | |||
っていた。これが大正十二年関東大震災まで魚河岸とい | |||
われた市場の起源である。 | |||
佃島の漁師は、漁に出るときの弁当の惣菜に魚を塩辛 | |||
く煮付けて持参したが、これが江戸っ子の舌にあったた | |||
め、佃煮と呼ばれて世間一般に普及したのである。江戸 | |||
時代から明治にかけて、佃の島民は残らず西本願寺の檀家であったが、日常生活では | |||
信仰の対象は航海と漁猟の神様といわれる住吉神社であった。これは大阪の住吉神社 | |||
を分祠したものであって、その祭礼が「佃祭り」なのである。大阪住吉神社の祭礼も | |||
盛大であるが、佃島では土地と家屋との殆どが自分の所有で、借家がなく、従って比 | |||
較的裕福な島民が多かったから、佃祭りは江戸の名物となるほどの盛況であった。祭 | |||
礼の時に囃す「佃囃し」は「神田囃し」、「葛西囃し」と並んで「江戸の三大囃し」 | |||
と云われ、立派な神輿が繰り出した。 | |||
もともと、佃島は周囲の景観も良く、また住吉神社の境内は「藤」の名所であった | |||
から落語に関係の深い江戸時代後期には、春から夏にかけ、江戸から大勢の人々が遊 | |||
![]() 渡し船 |
びに行ったとある。明治になっても文士と称する連中は、 | ||
避暑といっては佃島へ赴き、東京の庶民たちは海水浴を | |||
楽しんだとある。 | |||
佃の渡し舟は、島民が仕事の片手間に始めたものであ | |||
るが、繁昌すると、自然に渡し舟の株制度が出来た。初 | |||
めは一文であった舟賃が江戸の後期には、四文、明治に | |||
なってからは五厘となり、俗に「五厘の渡し」と云われ | |||
た。その後、近年佃大橋が出来るまでは都営で無料の蒸 | |||
気の渡し舟があった。 | |||
「物売り」 | |||
4月になると待ちかねた苗売りが、眠気を催すような |
![]() 物売り |
||
声で、のんびりと「朝顔のない苗や夕顔のオオ苗、玉蜀黍 | |||
の苗ゃア、へちまの苗、茄子の苗や唐辛子の苗、白粉の苗 | |||
ゃア胡瓜の苗、瓢箪の苗や冬瓜の苗」と流して売り歩い | |||
た。苗売りは蜜柑箱のような大・中・小の箱を天秤で担 | |||
ぎ、山の手へも売りに行った。なお下町はもちろん現在 | |||
とは比較にならぬものの、当時も空き地が少なかったた | |||
め、植木鉢、また箱で苗を栽培して台の上や屋根の庇に | |||
置いておく家が多かった。 | |||
「植木屋」 | |||
「うえエ きー…花ア、うえ木やア…うえエ きア、うえエき」と呼んで草木を売りに歩いた。 | |||
4月の売り物は金盞花、延命菊、三色菫などの鉢物、下旬になると、花菖蒲、躑躅、 | |||
杜若などの草花と植木を持ち歩いた。各所の縁日でも植木屋は集団的に並んでおり、 | |||
ひどい掛け値をふっかけたが、値切れば何分の一という値まで負けたのである。もっ | |||
とも中には値切ったまではいいが、家へ帰って改めて見たら根が無く、「これが本当 | |||
のねぎりだ」なんと負け惜しみを云う長屋の住人もいたのである。 |
「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」と山口素堂の句にもあるとおり、当時は江戸市中 | |||
にも杜鵑の名所が沢山あり、風流人や、隠居は駿河台、谷中、芝増上寺、根岸の里、 | |||
雑司が谷、隅田川、本郷、根津などに聞きに行ったそうである。なお、「君はまだ | |||
駒形あたり ほととぎす」の高尾の句が示すように、駒形付近には、隅田川対岸に多 | |||
田の薬師の森や、大名の下屋敷の森があり、杜鵑の往き来が盛んであったと伝えられ | |||
る。 おわり |
2010. 7. 4 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−9(水無月の行事) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−9 |
水無月の行事 | 佐野市 須貝 義弘 |
富士詣り | |||
「富士詣り」と云う噺があるが、江戸時代には、六月朔日の富士山の山開きを中心に、 | |||
五月二十八日頃から、六月中旬にかけて、五〜六人から二十人前後の人達が白装束、 | |||
草鞋、菅笠姿、大きな数珠の襷がけで、金剛杖をついて富士を目指した。 | |||
一方、いろいろな都合で登山できない人達は、「心眼」 |
![]() 富士詣り |
||
と云う噺にもでてくるように、各所神社境内の富士山に | |||
見立てて作られた小丘に、前述の姿をして登山?した。 | |||
江戸後期の富士信仰は、現在では想像もできないほど | |||
盛んであったようで、石を積み上げて作った箱庭式の富 | |||
士さんでも、けっこう信仰の対象になったようである。 | |||
手習い始め | |||
上流社会と云うか、比較的余裕のある家庭の子供たちは、男女とも六才になると、 | |||
六月六日から手習い師匠の家(女子は女師の家)へ通い始めた。この事は、現在も残っ | |||
ており、例えば私の関係する能楽界の先生方も、六才の六月六日に稽古を始める人が | |||
多いと聞く。昔のこれらは、俗に云う寺子屋であって、読み、書き、算盤、師匠によ | |||
っては行儀作法、徳義の教育まで行った。寺子屋は、江戸市中殆ど、どこの町にもあ | |||
って、小規模の所でも五十人、大きなものでは二百人以上の弟子(俗に手習い子)を | |||
![]() 寺子屋 |
![]() 寺子屋の教科書 |
預かっていた。入門の際は、 | |
親が連れ添って師匠宅へ伺 | |||
い、城扇一対か、銭百文か | |||
ら一朱(一両の十六分の一) | |||
を包んで届け、盆、暮、五 | |||
節句にも、身分相応の金を | |||
包んだ。尚、手習い師匠の | |||
教えた書道には、「御家流」、 | |||
「溝口流」、「大橋流」、「花形流」などがあり、なかでも、御家流、溝口流が盛ん | |||
であったようである。 | |||
山王祭り | |||
よく知られている神田明神、浅草三社祭、と並んで、 |
![]() 山王祭り |
||
江戸時代の三大祭りの一つで、特に山王祭は、神田祭と | |||
共に天下祭といって六月一五日が祭礼である。子、寅、 | |||
辰、午、申、戌年の隔年に行われ、その年を本祭りと云 | |||
った。天下祭とは、将軍家から費用として金一封が出て、 | |||
将軍も上覧するところから名づけられたと云われる。 | |||
大山詣り | |||
落語「大山詣り」にあるように、六月二十八日に、 |
![]() 大山女坂 |
||
大山 石尊大権現へ登山するのを初山と云い、大山公の | |||
連中が登山した。 | |||
2010. 8. 1 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−10 (文月の行事) | ![]() |
古典落語をより楽しむために−10 |
文月の行事 | 佐野市 須貝 義弘 |
すすはら(煤払)い、虫干し、風入れ |
![]() 虫干し |
||
二日から十三日頃までの、晴れた日を選び、家中の煤 | |||
払いをしたり、衣類、書類、その他の虫干しをする。 | |||
特に衣類を干すことは、女にとって多忙ながら、楽しみ | |||
の一つであり、着物の多いのを、ひそかに自慢したとある。 | |||
「風入れ」は、鎌倉幕府の役人が、蔵の中の物を出して | |||
干すことを云った。 | |||
たなばた(七夕)、七日 |
![]() 七夕 |
||
上は諸侯から、町人や吉原の遊女までが祝ったそうな。 | |||
六日の早朝より手習い師の指導で、字が上達するように、 | |||
和歌、詩、その他、年に応じた物を書いた色紙、短冊、 | |||
色紙の吹き流し、ほうずき、紙で作った模型の筆、硯、 | |||
算盤などを竹に結び付けて七夕を祭る。本来、七夕は水 | |||
を祭る行事の一つなので夕方になると、竹を川に流した | |||
のである(現在では無理)。また、大名、旗本の屋敷を | |||
![]() 井戸 |
はじめ、長屋に至るまで、七夕の日に井戸替えをした。 | ||
「めか妾うま馬」と云う噺に、井戸替えが出てくるが、 | |||
最近では「井戸替え」のシーンをとばす落語屋が多いよ | |||
うだ。(注)過日(平成二十二年四月下席、末広亭で | |||
「人形買い」をみたが、人形を買うところで、落として | |||
しまい、後半の小僧に人形をしょ背負やせてからの…略 | |||
していた) | |||
いどくみ(井戸汲)む(いどかえ井戸替) |
![]() 井戸神様 |
||
二斗桶(36リットル)に長い太縄を縛りつけ長屋総出 | |||
で、縄を引いて水を汲み上げる。底近くなると井戸職が | |||
中へ入って、沈殿物や、落し物をあげ周囲を洗って終わ | |||
りとする。作業が終わると、おり滓や落ち込む虫類を食 | |||
べさせるために、鮒を1〜2匹入れて、最後に井戸神様 | |||
へ、塩と酒を供えてからささやかな宴を張る。 | |||
![]() 千日詣り |
四万六千日 | ||
俗に千日詣りという。「船徳」と云う噺に出てくるが、 | |||
七月十日(九日の夜から)を俗に四万六千日といい、土 | |||
地(浅草観音付近)の者は略して単に六千日様ともいっ | |||
た。この日におまい詣りすれば四万六千日参詣したと同 | |||
じご利益を戴けると信じて、信者や遊山客が浅草寺に殺 | |||
到したので、当日は船宿、駕籠屋はもちろん、両国から | |||
浅草へかけての商店、飲食店は大繁昌であった。特に浅 |
![]() 浅草寺 |
草境内には、ほう青ず鬼き燈の店、唐もろこし屋台が立 | ||
ち並び寺では雷除けのお守りを頒布した。この行事は現 | |||
在でも行われており、ほう青ず鬼き燈市と呼ばれて親し | |||
まれている。 | |||
秋の七草 |
![]() 七草 |
||
暇のある連中は、十五日前後か向島の百花園、その他 | |||
へ秋の七草の鑑賞に出かけた。七草は、はぎ萩、おばな | |||
薄、くず葛、なでしこ撫、おみなえし女郎花、ふじ藤ば | |||
かま袴、あさがお朝顔であることはご周知のとおりであ | |||
る。 | |||
![]() 藪入り |
宿下がり | ||
十六日の藪入りは正月場合と同じであるが、正月の時 | |||
より昼間の時間が長いのでそれだけ余計に遊べた。「藪 | |||
入り」と云う噺がありますが、「宿入り」が転訛したも | |||
のと一説にあり、奉公先から一日又は数日暇をもらって | |||
実家に帰ることであるが、盆と正月の場合に限り、「藪 | |||
入り」といった。但し、公家奉公の連中は「宿下がり」 | |||
と云った。 終わり |
2010.11. 5 | 須貝 | 古典落語をより楽しむために−11(江戸の行事) | ![]() |
古典落語をより楽しむために-11(江戸の行事) | 佐野市 須貝 義弘 |
「江戸の七月」文月(ふみづき)の行事 | |||
煤払(すすはら)い、虫干し、風入れ、 | |||
二日から十三日頃までの、晴れた日を選び、家中の煤払いをしたり、衣類、書類、 | |||
その他の虫干しをする。 特に衣類を干すことは、女にとって多忙ながら、楽しみの | |||
一つであり、着物の多いのを、ひそかに自慢したとある。 | |||
「風入れは」、鎌倉幕府の役人が、蔵の中の物を出して干すことを云った。 | |||
七夕(たなばた)七日 | |||
上は諸侯から、町人や吉原の遊女までが祝ったそうな。六日の早朝より手習い師の | |||
指導で、字が上達するように、和歌、詩、その他、年に相応した物を書いた色紙、短 | |||
冊、色紙の吹き流し、ほうずき、紙で作った模型の筆、硯、算盤などを竹に結び付け | |||
て七夕を祭る。 | |||
本来、七夕は水を祭る行事の一つなので夕方になると、 |
![]() 七夕祭り |
||
竹を川に流したのである。(現在では無理)。また大名、 | |||
旗本の屋敷をはじめ、長屋に至るまで、七夕の日に井戸 | |||
替えをした。 | |||
「妾馬(めかうま)」と云う噺に、井戸替えが出てくる | |||
が、最近では「井戸替え」のシーンをとばす落語屋が多 | |||
いようだ。 | |||
(注)過日(平成二十二年四月下席、末広亭で「人形 | |||
買い」をみたが、人形を買うところで、落としてしまい、後半の、小僧に人形を背負 | |||
(しょ)やせてからの・・・略していた) | |||
井戸汲(いどくみ)(井戸替[いどかえ]) | |||
二斗桶(36リットル)に長い太縄を縛りつけ長屋総出で、縄を引いて水を汲み上げ | |||
る。底近くなると井戸職が中へ入って、沈殿物や、落し物をあげ周囲を洗って終わり | |||
とする。作業が終わると、滓(おり)や落ち込む虫類を食べさせるために、鮒を1〜2 | |||
匹入れて、最後に井戸神様へ、塩と酒を供えてからささやかな宴を張る。 | |||
四万六千日 | |||
俗に千日詣りという。「船徳」と云う噺に出てくるが、七月十日(九日の夜から) | |||
![]() 浅草寺山門(ほおずき市) |
を俗に四万六千日といい、土地(浅草観音付近)の者は | ||
略して単に六千日様ともいった。この日にお詣(まい)り | |||
すれば四万六千日参詣したと同じご利益を戴けると信じ | |||
て、信者や遊山客が浅草寺に殺到したので、当日は船宿、 | |||
駕籠屋はもちろん、両国から浅草へかけての商店、飲食 | |||
店は大繁昌であった。 特に浅草境内でには青(ほお)鬼 | |||
(ず)燈(き)の店、唐もろこし屋台が立ち並び寺では雷除 | |||
けのお守りを頒布した。この行事は現在でも行われてお | |||
り、青鬼燈(ほおずき)市と呼ばれて親しまれている。 | |||
盆、略秋の七草 | |||
暇のある連中は十五日前後が向島の百花園、その他へ秋の七草の鑑賞に出かけた。 | |||
七草は、萩(はぎ)、薄(おばな)、葛(くず)、撫(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、 | |||
藤(ふじ)袴(ばかま)、朝顔(あさがお)であることはご周知のとおりである | |||
宿下がり | |||
十六日の藪入りは正月場合と同じであるが、正月の時より昼間の時間が長いので、 | |||
それだけ余計に遊べた。「藪入り」と云う噺がありますが、「宿入り」が転訛したも | |||
のと一説にあり、奉公先から一日又は数日暇をもらって実家に帰ることであるが、 | |||
盆と正月の場合に限り、「藪入り」といった。但し、公家奉公の連中は「宿下がり」 | |||
と云った。 |
「江戸の八月」月見の行事 | |||
八月一日(八朔) | |||
江戸城中では、徳川家が天正十年八月一日に江戸に入国したところから、公式の祝 | |||
日と決め、諸大名、大旗本は、残らず登城してお祝いを言上した。一方、この前後が | |||
二百十日に当たるため、その年の米のでき具合が分かり、浅草御蔵(おくら)で、当年 | |||
の米の価格が決まり、同所とお城の控所に張り紙が出たとある。 | |||
十五夜 | |||
十五日(旧暦では、いつも十五日が満月。昔は家々で、 |
![]() お月見イラスト |
||
米を臼で挽いて、6〜7cm前後の団子を十五個と、小 | |||
さいのをたくさん作り、芋、栗、柿、枝豆等と共に三宝 | |||
に載せ、薄(すすき)・女郎花(おみなえし)・(その他を | |||
添えることあり)を供え、窓際、縁先へ飾って月見をし | |||
た。私が子供(浜松で育った)の頃は、その家の人に見 | |||
つからぬように団子を盗むと運が開くと云われ、あちこ | |||
ちで団子釣りをする子供、中供がいたものである。 | |||
生活に余裕のある人の中には、隅田川に舟を浮かべて、月見をする者も沢山いたと | |||
云われる。また、前日より富ヶ岡八幡宮をはじめ、どこの八幡宮も祭礼で、たいへん | |||
な賑わいであったそうである。 |
「江戸の九月」の行事 | |||
九月(長月) | |||
衣替え、重陽の節句、十三夜、神田明神祭礼、芝神明の祭り(飯倉神明)、根津権 | |||
現祭礼。 | |||
衣替え | |||
一日。本日より八日まで、袷(あわせ)小袖(こそで)(着物)を着る。 | |||
重陽の節句 | |||
五節句の最終。{正月七日(人目)三月三日(上巳)五月五日(端午)七月七日 | |||
(七夕)九月九日(重陽)}当日より綿入れ小袖に着替える。各種の手習いの師匠の | |||
処へ、挨拶に行く。 | |||
十三夜 | |||
後(のち)の月見とも云う。団子の数は十三個である。十五夜に団子を作って祀った | |||
家は、十三夜の時にも再び作る習慣(ならわし)であり、十三夜を欠くときは、片見月 | |||
といって嫌われた。もともと片見云々というのは、客を呼ぶ手段として、吉原から出 | |||
た風習で(吉原が出てくると、ついつい余計なことまで書いてしまうが)、十五夜に | |||
登楼した客は、十三夜にも登楼すべきものとされたとか。 | |||
神田明神祭礼 | |||
![]() 神田明神例大祭 |
十五日。山王祭(六月十五日)、浅草三社祭(三月十 | ||
七日十八日)と並んで江戸三大祭りの一つで、天下祭で | |||
ある。 | |||
六十ヶ町の氏子が金に糸目をつけず、互いに競って山 | |||
車、屋台など引き出す、神田ツ子の勇ましい祭礼である。 | |||
山王祭(六月十五日)と同様に、江戸中へ神輿や、山 | |||
車がひきこまれ、将軍も上覧した。 | |||
芝神明の祭 | |||
正しくは、飯倉神明と云うそうである。祭日は十六日であるが、十一日より二十一 | |||
日まで祭が続くため、俗にだらだら祭とも云った。 | |||
根津権現祭礼 | |||
二十一日。同社は俗に犬公方と呼ばれた五代将軍綱吉の産土(うぶす)神(な)であっ | |||
た関係で、江戸の中期には山王祭礼に準じらたこともある。 | |||
後期には、門前を中心に私娼窟が並ぶようになったが、四宿と同様岡場所ながら、 | |||
格は吉原に劣っても、遊女屋そっくりで、もちろん、遊客は根津の女郎屋と呼んだ。 | |||
客は遊興費の安かった関係もあったのか、職人、特に大工が多かったと云われる(ど | |||
うも、岡場所が絡むと、つい深入りしていまいます) | |||
こんな話もあります。 | |||
ここは、明治二十年代の初期、当時の帝国大学(後の東大)がすぐ近くのため、学 | |||
生が盛んに遊び、落第する者が続出したので、文部省から移転を命じられて、州崎へ | |||
引っ越したのである。 |
「江戸の十月」の行事 | |||
十月(神無月) | |||
炉開き、お十(じゅう)夜(や)、お会式(えしき)、恵比寿講(えびすこう)、紅葉 | |||
炉開き | |||
一日。茶人は茶席の炉開きの茶会を催し、町家は、炬燵を使い始める | |||
お十夜 | |||
六日〜十五日。十日十夜の間、浄土宗の寺院では、法要修業が行われ、特に増上寺 | |||
は将軍家の御祈願所、檀那寺であった関係で盛大に行われたという。 | |||
お会式 | |||
十三日。日蓮宗の寺院では、この日が宗祖日蓮上人の |
![]() お会式 |
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命日にあたるので、盛大な法会を催す。東京計器本社の | |||
近くで皆様ご存知の、池上本門寺でも、講中の団扇太鼓 | |||
と、お題目が響き渡る日。 | |||
恵比寿講 | |||
1度は行ったこともある方がおられると思いますが、商家、特に大店では二十日に、 | |||
商売繁昌を願って、恵比須(寿)様を祭り、誓(せい)文(もん)払といって安売大売り | |||
出しをする店もあった。所によって、正月十日、二十日、十一月二十日にも行う店も | |||
あった。 | |||
紅葉 | |||
名所は、江戸の各地にあったが、桜の名所と異なり、見物するのは、文士、僧侶、 | |||
隠居などが多かった。谷中天王寺、滝野川、根津権現、鮫州の海晏寺(かいあんじ)、 | |||
目黒滝泉寺、などが有名であった。吉原近くの正燈寺も名所とされていたが、ここは | |||
若い連中や、中年の亭主どもが吉原へ行く名目に使われたと見えて、それらを読んだ | |||
川柳などが沢山残されているそうな。噺の中にも使われていると思われる。 |
参考文献 | |||
「歴史読本」「しきたり」「礼法の基礎知識」新人物往来社一九九三年発行 | |||
「古典落語」飯島友治編 樺}摩書房昭和四十三年発行 | |||
新撰「古語辞典」中田祝夫編 小学館 昭和三十三年発行 |