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はじめに |
この夏、ちょっと体調を崩し「2週間ほど入院して養生せよ」との診断に従った。 |
病院などに入っていると、世の中の動きなどは、トンと無関心になり、ボケがドンド |
ン進むようなので、若き日、噺家になろうかと勉強した「古典落語」や今まで読んだ |
小説等どの位記憶に残っているのか、看護師さんの勧め上手にのせられて筆を執って |
みた。 |
(その1)落語や時代劇に登場する「昔の時刻(とき)」と「落語・時そば」 |
時刻(とき)は、台詞(せりふ)を言う場面から、大体の時刻(じこく) |
は分かっても、今一詳しく知らなかった方(特に若い方)には、時代劇や |
ドラマを観る時、より楽しめると思います。 |
(その2)「廓噺(くるわばなし)壱」 |
(その3)「廓噺(くるわばなし)弐」 |
現在NHKのドラマに起請文(きしょうもん)が出ていることから思いつ |
いたのですが、手元にあるノートに記したものだけが頼りでしたので説明 |
が雑になったこと、お許しください。 |
(その4)あとがき「職場の話」 |
あれから五十余年経っていますので時効にしていただいてお許しください。 |
私の所属する職場は「粘度計とコンペンセーターの組み立て」を担当して |
いた「計圧器組立課」、そこへ油圧が入って来て次第に職場が大きくなり |
男くさい職場になってゆくのですが、コンペンセーターには四人の女性が |
いましたので、前述のことは“男のあそび”として黙認していたのでしょ |
うか。私には酒の飲み過ぎか?当時の諸行のことはトンとわかりません。 |
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その1−1 昔の時刻について |
落語や時代劇の場面に出でくる時刻について考えてみると「時刻(とき)」とは江 |
戸時代は日の出から日没までの昼間、間を各々六等分して一時刻として、 |
明(あけ)六ツ(正卯の刻)・・・午前六時 |
明五ツ(辰の刻)・・・・・・・・午前八時 |
四ツ(巳の刻)・・・・・・・・・午前十時 |
時刻(とき)のダイヤル |
九ツ(午の刻)・・・・・・・・・正午十二時 |
八ツ(未の刻)・・・・・・・・・午後二時 |
七ツ(申の刻)・・・・・・・・・午後四時 |
暮(くれ)六ツ(正酉の刻)・・・午後六時 |
宵(よい)五ツ(戌の刻)・・・・午後八時 |
夜(よる)四ツ(亥の刻)・・・・午後十時 |
夜(よる)九ツ(子の刻)・・・・午前十二時 |
夜(よる)八ツ(丑の刻)・・・・午前二時 |
暁(あかつき)七ツ(寅の刻)・・午前四時 |
と呼んでいた。 |
日の出・日没を基準にして、六等分すれば極端に言うと、その一(いっ)時刻(と |
き)は、春分と秋分の日以外は、毎日多少異なることになる。即ち夏の昼間は長く、 |
夜は短い。冬の夜は長く、昼は短いので同じ一時刻でも昼と夜では大変な異なりとな |
る。仮に六月、一番昼の長い夏至前後の日を例にとり、日の出を今の午前4時とすれ |
ばこれが「明(あけ)六ツ」で日没を今の午後7時とすればそれが「暮(くれ)六ツ」 |
である。そこで午前4時から午後7時までの15時間を六等分すると昼間の一時刻は1 |
50分、夜は今の午後7時から今の午前4時まで9時間であるから一時刻は90分になる。 |
従って一番日の短い冬至前後はそれが反対となる。もっともこれは極端な場合で一年 |
のうちに幾日もあるわけではなく、普通は一時刻が2時間前後と考えてよいが、前述 |
の明(あけ)六ツが午前6時とあっても正確に現代の6時というわけではない。 |
この原稿を書いていた翌朝、看護婦さんが「須貝さん、明ケ六ツですよ」と優しく |
起こしてくれたのはうれしかったねぇ。なお一時刻では間隔が長いので、その真ん中 |
をたとえば「六ツ半」のように云った。また十二支で時間を云う場合は「正午(うま) |
ノ刻」「寅(とら)ノ上刻(じょうこく)」「申(さる)ノ中刻」「酉(とり)ノ下 |
刻」というように一時刻を三等分して呼んだとされる。 |
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その1−2 落語「時そば」について |
明治の中期、三代目小さんが大阪落語の「時うどん」を持ち帰り、舞台を江戸に移 |
したものといわれる。もっともその源流と見られる小咄は江戸にもあったと云われる。 |
たとえば天明二年(1782年)の「甘酒」で「それ一文、二文、三文、なんどきだい」 |
「四ツでございます」という内容のものである。このほかにも似た内容の小咄がある |
ようで、いろいろな人が、工夫をして高座へかけていたようである。 |
なかでも、三代目桂 三木助の工夫を紹介しよう。私 |
寄席のイラスト |
もこの話を聞いた時には、落語は面白いと思ったもので |
ある。 |
三木助は、三代目小さんの噺を数多く継承していた。 |
七代目三笑亭可楽からこの噺を伝授されて若い頃から高 |
座へかけていた。その間、随所に工夫・創案をこらして |
磨き上げたとされる。現在の若い無能落語屋には耳が痛 |
い話である。 |
例へば次の優れたクスグリは師匠の案出であるが、不思議なことに、江戸落語では |
不文律として高座で、 扇子(かぜ)、 手拭(まんだら)以外は使わないしきたりにもか |
ゝわらず、師匠は湯呑みを丼に見立てて使って「これぁ・・えぇー?・・ひびだらけ |
だねぇ。よくこう万遍なく欠けたねぇ・・これぁ・・丼にも使えるし、鋸にも使えら |
ぁ・・・」である。 |
皆さんもこの噺はよくご存知でしょうが前述の江戸時 |
「時そば」で有名な落語家 |
代の時刻(とき)の内容を知っていれば、与太郎が四文損 |
をした件(くだり)がはっきりわかると思います。 |
落語には見る楽しみもあると思います。私も子供の頃、 |
この「時そば」を演じて友人から「ここは上手いが、こ |
こはどうも」などといろいろ云われた。当時、多くの噺 |
家の「時そば」を聞いたが、晩年「古典落語」の本を見 |
たり、大学の落語関係の講座を受けてみたが演出上の注 |
意点は大体次のようなものになりそうである。 |
職人の蕎麦屋に対する会話(やりとり)を淀(よど)み無く行う。ここをモタつかせる |
と、この噺は壊れてしまう。お世辞をあれやこれや、トントントンと調子よくしゃべ |
り、いざ金を払うという件(くだり)は、いわばこの噺の要(かなめ)である。 |
「銭(ぜに)ぁ-こまけぇんだ。勘定して払(や)ろう、 |
「あったかい蕎麦を頼むよ」 |
手ぇ出してくんねぇ」息をつかず、声も低めの調子で |
「それっひとつ、ふたつ、みぃつ…」七つまで数える。 |
八つのところで多少声を張り「八ツ」を云い終えると大 |
声で「何(なん)時刻(どき)だい」とやる。まだまだ細か |
く云うと沢山あるのだろうが、要約すれば前半の職人の |
お世辞がよどみなく、流れ出るように調子が良ければよ |
いほど、後半において与太郎の間抜けさが浮き彫りにさ |
れて、おかしみを増す効果があるだろう。 |
職人が一文ごまかしたのも、別に一文ばかり儲けようと思ってしたのではなく、興 |
味半分、博奕(ばくち)打ちの禁(まじ)厭(ない)半分にしたまでで、常習の職業的詐欺 |
師(さぎし)のようにしてはならないとある。 |
落語の世界では、この種の洒落が通じるからおかしいのであって、決して悪者に仕 |
立ててはいけないサゲは「間抜け落ち」である。 |
次回は落語の中でも多くある廓噺のことを取り上げたいが、現在は存在しないので、 |
いろいろな文献から吉原のこと、遊女の階級などについて調べ、私なりにまとめてみ |
ました。 |
後半は落語「三枚(さんまい)起請(きしょう)」から起請文についても勉強したこと |
を述べてみたい。 |
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その2では、落語の中でも多くある廓噺のことを取り上げたいが、現在は存在しな |
いので、いろいろな文献から吉原のこと、遊女の階級などについて調べ、私なりにま |
とめてみました。 |
まずは吉原について |
なかなかこれはという文献はないのですが、ある文献によると享保十年(1725年) |
当時の町奉行所の「撰要類集」によると、慶長のころ(1596〜1614年)には当時、傾 |
城屋(けいせいや)といわれた遊女屋が神田鎌倉河岸と麹(こうじ)町八丁目に十数件ず |
つ、その他の場所に二、三軒ずつあったといわれる。 |
鎌倉河岸のは、今の静岡県安倍川町から、麹町のは、京都の六条から傾城屋が移っ |
て来たのであり、他の場所のも、奈良の木辻町、伏見の夷(えびす)町の同業であった |
とされる |
少し飛ばそう。とにかく、関が原、大阪夏・冬、の戦いの後、政権が家康に完全に |
移り、慶長十一年(1606年)頃から、江戸城の大増築及び諸大名の藩邸の普請が一斉 |
に行われた。そのため膨大な人数の職人や商人が全国から集まってきたので、どこの |
傾城屋も大繁昌。新しく店をはじめる者も出てきたとある。 |
当時、柳町で傾城屋を営んでいた庄司基内(後に甚右衛門と改名)が代表となり、 |
慶長十七年、三箇条の理由をつけて、全国二十カ所以上も公許の遊廓があるのに、江戸 |
にはそれがなく、あちこちに散在しているのは、風紀上よくないからと、廓の設置を |
願い出ている。(三箇条の条件・参考資料@参照方) |
幕府はこれを受理して元和三年(1616年)に五個条の条件をつけて許可(五箇条の |
条件・参考資料A参照方)、堺町東の沼沢地を与えられてできたのが即ち吉原「後に |
元吉原(もとよしはら)と呼ぶ」であり古い書物では、元吉原は今の和泉町、高砂町、 |
住吉町、難波町の四箇所とある。 |
元吉原は、周囲を幅三間(約5.4m)の堀で囲み、北 |
遊郭の大門 |
に大門口を設けたいわゆる一方口である。創設当時は、 |
門を入った右側は江戸一丁目、それに続いて京町一丁目、 |
左側が江戸町二丁目、湿地を隔てて京町二丁目となって |
いたとされる。 |
江戸町一丁目には、前述の甚右衛門と、柳町で商売を |
していた江戸の遊女屋が見世を開き、同二丁目は府中 |
(静岡)弥勒(みろく)町出身の遊女屋、京町一丁目は麹 |
町で営業していた京都六条出身の遊女屋などなど、吉原開設を聞き二年遅れて京都、 |
伏見から移転してきた連中などで賑わい、当時「新町」とも呼ばれた。 |
超高級・某遊郭 |
そして約十年後の寛永三年(1626年)に京橋 角(すみ) |
町の遊女屋十軒ほどが、江戸町一丁目と京町一丁目の間 |
の湿地を整地して出来たのが角町である。 |
吉原の名の起こりは「 葭蘆(よしあし)が生えていた」 |
に由来し、初め「 葭原(よしはら)」と云いったが縁起を |
担いで寛永三年、「吉原」と改めたとも。また、甚右衛 |
門が東海道吉原の出身だからともいわれる。なお、浅草 |
田圃へ移転後は、その跡地を元吉原と呼んだ。 |
吉原が開設した当時の江戸は、まだ建設の途上にあったので、全国から単身で乗込 |
んで来た職人や一旗上げようとして集まった商人、それにも増して、圧倒的に多かっ |
たのは旗本、御家人、諸大名の家臣とそれに仕える中間(ちゅうげん)、小者(こもの) |
たちであったとされる。もちろん当時は大多数の人が家族を国へ残して来ていたので、 |
江戸の町は男子で満ち溢れていたようである。 |
そのような時代であったから、吉原開設後数年間の繁昌ぶりは大変なものだったと |
云われる。 しかし、やがて各所に私娼(しょう)窟(くつ)が増え、当時のことを記し |
たものなどによれば、廓は日に日に衰微していったと伝えられる。そのため、遊女屋 |
のなかには、風呂屋へ遊女を預けて稼がせる者さえ現われたのである。 |
廓が衰えた大きな理由の一つは寛永十七年(1640年)夜間の営業を禁止されたこと |
で、それがまた、湯女の繁昌した原因にもなっていたようである。 |
古い記録によると寛永十六年、奉行所から楼主十一人が呼び出され「風呂屋で遊女 |
を稼がせるとは不届至極のこと」である!と同年十一月大門口で楼主十一人が 磔(は |
りつけ)になっている記録があるそうである。 |
元吉原時代の遊びは |
当時下級遊女と遊ぶ場合は別として、高級な太夫、格 |
遊郭で楽しむ男 |
子を買う場合は、後期の新吉原のように遊女屋へ出向く |
のではなく、まず揚屋へ行き、遊女を名ざして依頼する。 |
揚屋は「揚屋差紙(さしがみ)」を月行事と連書で遊女 |
屋へ差し出してから遊女が揚屋へやってくるという按配 |
だったそうである。 なお、最盛期のころは、一流の太 |
夫を指名して会うには数ヶ月待たされたそうである。 |
その様式がいくつか残っているが「柳花通誌」という誌 |
によれば(古文は勉強していないので苦手です。少し内容が異なるかも) |
「貴殿御かゝへ、長門どの(太夫)御ひまに候はば、御かゝり申し度候。御客の儀は、 |
慥成(たしかなる)御法度の御客にては無御座候」とある。揚屋と月行事がそれぞれ |
捺印したとあり、これを 差紙(さしがみ)と云ったとある。まことに煩雑で、間もな |
く無くなることになる。例文の差紙は新吉原へ移転間もなくのものとされるが、元吉 |
原時代には、月行事がなかったので、何か代わりのがあったと思われるが、さだかで |
ない。 |
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参考資料@ 三箇条の条件 |
1.遊女買いする者は身分をわきまえず、商売を忘れて傾城屋に居続ける。店は金さ |
え払えばいつまでも歓待するので、その結果は奉公先をしくじり、借金したり、 |
時には横領をする者さえある。遊廓を許可してくれれば自粛して自分が注意・監 |
督の上客を1日1夜以上長く逗留させないようにする。 |
2.人勾引(ひとかどわかし)は禁制にもかゝわらず、女子を勾引して遊女奉公させ |
る者がいる。また困窮な家の娘を養女にして、十四、十五才になると妾奉公、遊 |
女奉公に出し給金の大部分を取り上げて生活している者もいる。遊廓が許可され |
れば、そのようなことをする者はもちろんのこと、召し抱えた者は早速訴え出る |
ようにする。 |
3.近年は、世の中が静かに治まっているが油断を見すまして謀叛をたくらむ浪人も |
いる。また家出人でも金さえ出せば、遊女は事情を知っていても、いつまでも匿 |
ってくれる。従って悪事をしたり、家出をしたりした者には現在の傾城屋は、こ |
の上もない隠れ場所である。遊郭を許可してくれれば、不審の者の詮議に念を入 |
れ、怪しいものは直ちに訴え出ることができる。 |
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遊女の最高位・大夫(たゆう) |
初期の頃に、読み書き、遊芸の出来る太夫の資格を備 |
えた遊女が多かった理由はここにある。 |
もちろん農民、町民の娘が太夫になったのも、禿(か |
むろ)(遊女が使う少女。その髪型)から出世したもの |
もいたが、数は少なかったとされる。また初めから太夫 |
として見世へ出た遊女は上方出身の者が圧倒的に多かっ |
たとも云われている。 |
記録によれば、当時太夫の揚げ代は金1両(銀六十匁) |
であったが、祝儀その他諸経費を含めると最低十五両位かかったといわれる。 |
*格子女郎は |
太夫の次に位し、京都、大阪あたりに寛永初期(1624〜1643年)に登場した遊女で |
ある。ある記録には、「大格子の内に部屋を構居る(座っている)。局女郎に紛れぬ |
ように格子と名を付けたり…」とある。 |
*局女郎は |
元吉原の末期、正保・慶安(1644〜1651年)のころに出来た遊女で、格子女郎の次 |
の位。新吉原時代の初期までは中級の遊女の名であったが、元禄(1688〜1702年)の |
末、埋茶(梅茶)女郎と位置が変わり、江戸後期には低級遊女の名となる。 |
今日では会社の事務所などで中年の女性を「局様」というようだが、この意味は知 |
らない方が多いと思われる。そこで調べてみると(吉原大全集によれば)「・・局と |
いふは大内官女の居所の名なり。しからば女郎の居所すべて{つぼね}と称すべきは |
づなれど、河岸(ごく低級の遊女屋)につとむる女郎の居所をいふ・・」とある。 |
局の構造は「異本洞房語園」という本によれば、表に、長押(なげし)を付け、局 |
の幅九尺(2.7メートル)奥行き二間(3.6メートル)、或は二間半、亦は幅六尺に奥 |
行き二間にも造る。入り口は三尺、表通りは横六尺の鶉(うずら)格子也(鶉格子に |
ついては調べてみたものの未だ不明)中閾(なかしきい)(中敷居=押入れなどを上 |
下に分けて各々に襖を立てる)と庭との堺に二尺ばかりの籬(まがき)(竹・柴など |
をあつく編んで作った垣)を付ける。入口褐(かち)染めの暖簾(のれん)をかける。 |
張見世(はりみせ) |
引きつけ(ひきつけ) |
流練(いつずけ) |
*元吉原の移転 |
江戸は開府以来、次第に整備され、同時に諸大名の叛乱を起こす心配も薄れた。一 |
方大名の家族を人質として江戸に留め置くための屋敷が必要となり、町人の居住地も |
不足した。 |
さらに遊郭が日本橋の近くにあることは風教上にもよくないなど、いろいろな理由 |
から明暦二年(1657年)浅草へ移転するように命じたようである。 |
ちょと本題からそれるかもしれないが新造(しんぞう)についてもご紹介すること |
にしましょう。 |
平岩弓子の小説「はやぶさ新八御用帳(上)に「吉原大門の殺人」というのがある |
その中に出てくる。いくつかの用語について。 |
*「隠密廻り」 |
町奉行所の御係の中に隠密廻りというのがあって、その役目のひとつに新吉原の大 |
門の傍にある番所に勤務する。 |
*浅黄裏(あさぎうら)(浅葱裏とも) |
新吉原で浅黄裏と呼ばれるのは国侍のことであった。江戸へ出府する大名の供をし |
てやってくる武士も江戸の土産話に色里へ遊びに来る。そうした連中が羽織の裏に浅 |
黄色の木綿地をよく用いたところから、彼らの野暮を嘲(あざけ)ての代名詞となった。 |
*惣籬(そうまがい) |
遊女屋の中では、最高級の格式を持つ妓楼(ぎろう)で入口を入ったところに細い |
格子が組まれているところから惣籬といった。妓楼の格が下がって、中見世になると、 |
籬が四分の一ほどあいているので半籬(はんまがい)と称し、更に格が落ちる小見世 |
(こみせ)では、下半分しか籬が組まれて居らず、それを 惣半籬(そうはんまがき) |
と呼んだ。 |
*新造(しんぞう) |
新造というのは、花魁についてくる若い遊女のことで、振袖新造、袖留新造、番頭 |
新造の三種類に分けられた。この節の遊女は昔のような松の位の太夫というのは無く |
なって一番上級なのが俗に昼三と呼ばれる花魁で、これは揚げ代が三分(さんぶ) |
であったためにその名がついたそうだ。 |
*振袖新造(ふりそでしんぞう) |
禿(かむろ)が大きくなったもので、振袖を着、姉貴分の女郎のお供をして座敷に |
出たが、原則として客は採らないとある。 |
*袖留新造(とめそでしんぞう) |
振袖新造によい客がついて、自分の部屋を部屋を持った者や、或いは禿(かむろ) |
上がりではなく、比較的年上で売られて来た者だという。 |
*番頭新造(ばんとうしんぞう) |
年季の明けた女郎で、これといった行き所もなく、その後も廓づとめを続ける妓で、 |
主として昼三の遊女の世話をして働く者とある。 |
<参考資料> |
*「古典落語全五巻」 飯島友治編 (筑摩書房昭和43年) |
*「はやぶさ新八御用帳」 平岩弓子著 ―大奥の恋人― |
*「落語ハンドブック」 三遊亭円楽監修 1996年6月20日発行三省堂 |
*「日本の古典」 好色五人女 世界文化社 |
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三枚起請(さんまいきしょう)について |
この噺は、廓噺としては私は大好きな一つだが現在では難しいのか、落語家がこの |
噺を高座にかけるのは、めったにないようである。 |
看板「三枚起請」 |
この噺は、遊女が三人の客に渡した起請文に由来する |
のだが、古くから大阪に伝わっている噺で、それを初代 |
三遊亭円右が東京へ持ち帰り高座へかけたのが最初と言 |
われている。 |
大阪の噺を移す場合、たいてい題名や内容を変えるの |
であるが、円右は題名もそのまゝに筋も殆ど変えず、た |
だ舞台を吉原に変えた程度であったとされる。その後志 |
ん生が手を加え、師匠一流のクスグリ、例えば「親切が |
着物を着ているような人」とか「三匹の雄犬に起請文」 |
「三枚起請を語る」五代目・古今亭志ん生 |
をはじめ、ふんだんに使って面目を一新させたとされる。 |
私もラジオで何度か聞いた記憶があるが、遊女が客に |
送る起請文とは、こんな感じになっていた。 |
「ふとした御事よりも深く御なじみ申し、つねづね御 |
志の程も忘れやらず、かねがね御かたらひにも、末は女 |
夫(みょうと)となり候、こなたことも其の心に少しも |
変わり御座なく候、たとへ親兄弟のうち何と申し候とも、 |
この御約束決してたがへ申すまじく、また外に心を通わす誓ひをもどき候御事、御座 |
候、いかようとも思し召し次第に、被成度(なされたく)候。殊に日本(ひのもと) |
の神々の御罰うけ申し候。かしこ ○○□□様参る (参考資料B起請文の文) |
かくの如く、“起請文”は遊女のラブレターで、昔は海千山千の遊女が、これはと思 |
う甘い客をだまして金銭を絞り取る際に起請という常套手段として用いた。つまり年 |
期があけたら、夫婦になろうと神(熊野神社)にかけて誓い、誓紙を取り交わしたも |
ので、これを 起請または起請文といったものである。 |
起請は廓でのみ書かれたのではなく、古くからあらゆる階級の人々が厳粛な気持ち |
で取り交わしたもので、江戸時代にもこの風習は残っていたようだ。 |
例えば、家来が主人に対して中世を誓う際とか、戦国時代(今NHKのドラマ天地人 |
にもある)においては隣国同士が攻守同盟を結ぶ時違約しないと誓う際、起請文が交 |
わされた。とされる。 |
起請の約束は堅く守ったが明治以降は次第に形式化してしまい「起請一枚書くごと |
に烏が三羽死ぬ」ということだけが伝えられ、殆ど廓だけのものになったと伝えられ |
ている。 |
東京では明治以後「午王宝印(ごおうほういん)」(起請文を書く用紙)を売り歩く |
尼も来なくなったので遊女たちは普通の半紙などを用いるようになった。先ほど「起 |
請文1枚に烏が三羽死ぬ」と言ったのは、この噺のサゲに関係しているからである。 |
サゲは、大阪式では「三千世界のカラスを殺す」で、これは幕末の勤皇派の一人高 |
杉晋作の作った都々逸「三千世界のカラスを殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」による |
ものであるとされている。 |
サゲはこの外に「勤めの身じゃもの朝寝がしたい」「よう考えておくれやす、勤め |
の身じゃもの朝寝がしたい」など幾通りかある。いずれも「途端落ち」というもので |
ある。 |
ーあとがきー |
夜の歓楽街 |
私が東京計器に入社した昭和二十九年頃はまだ赤線、 |
青線ばやりで、伊東の保養所へ行った時など宴が終わる |
と、先輩方は街へ繰り出したものです。この時代、保養所 |
の丹前や茶羽織は土地の人たちは事前に知らされていて、 |
どこへ行っても「はい、東京計器のお客さん」と云われ |
ました。夜の街へ繰り出した先輩たちは、茶羽織などを |
“やり手ばぁ―さん”に持たせご帰還。勘定は幹事が払 |
つわものどもが夢の跡 |
うという時代でした。剛の者は朝帰りという人もいてび |
っくりしました。私はと云うと、当時の事、私自身は酒 |
を呑み過ぎまったく「記憶にございません」よい気持ち |
でした。 |
もう一つ驚いたことは、夜の宴より朝食のときの酒の |
ほうが多かったことです。さらに帰りの電車の中もみん |
な酒びたりだった。 |
晩年は、いろいろな職場におせわになりましたが、朝 |
からあんなに酒を出す幹事さんはいなかったように思います。伊東もいい街でしたね。 |