連 載『 エッセイ集−3 』 横浜市 清水 有道
 
          話  題  一  覧
2010. 1.27 『往生』に往生してちょっと一言       投稿:清水有道
2010. 4.18 「ユニオンジャックの矢」に見る旧大英帝国のしたたかさ 投稿:清水有道
2010. 6. 6 蓼科高原をベースに春咲き山野草を楽しむ   投稿:清水有道
2010. 7.25 快晴に恵まれ知床半島探勝          投稿:清水有道
2010. 8.15 支笏湖畔紋別岳ハイキング          投稿;清水有道
2010. 9.19 『クロアゲハ』の塩水吸水の決定的瞬間を撮る 投稿;清水有道
2010.10.16 2年かかりの『ルリタテハ』飼育記      投稿:清水有道
2010.12.25 『巣ごもり消費』              投稿:清水有道
2011. 1.16 四季を眺める美意識から絵が生まれる     投稿:清水有道
2011. 5.29 加齢男性の小便作法             投稿;清水 有道

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          話  題  『 よもやま話 』
2010. 1.27 清水 『往生』に往生してちょっと一言
 
  『往生』に往生してちょっと一言 横浜市 清水有道
 
 仏教界では「往生」を「生まれる」と解釈しているため、英訳する際には“Birth”
としています。親鸞が言うように「往生とは浄土に生きること」を意味していますの
で、正しい、間違いのない土地に生まれることと考え、“Birth is to be borne in
Pure Land”と教えています。概念的には筆者も浄土は現世のような乱れた社会で
はなくて、もっと心から安らげるところなのだろうとは理解していますが、英訳のよ
うに“Pure Land” なのかは甚だ疑問です。筆者の名前の「清水」を直訳する際、
“Pure Water” と良く言われますが、”Pure” くらい訳の分らない言葉の定義は
ないのではないでしょうか。規定する前に、社会の体制や人間社会組織のしっかりし
た枠組みや仕組みを明確にした上でなければ、筆者にはとても受け入れられることで
はなさそうに思われます。
 筆者は言語学者でもありませんし、細かく詮索する権能も持ち合わせてはいません
が、浄土はむしろ“Paradise” の方が相応しいのではないでしょうか。”Pure”に
は余り深い意味がないだけでなく、ややもすると「単なる」とか「ただの」、「純粋
の」、あるいは特に「混ぜる物のない」の意味あいのほうが強いので、この単語に
“Land” がくっついてもあまり適切な意味を成さないと思ってしまうからです。
 
  優秀な若手技術者を連れて、鎌倉の禅寺を巡る
 旧年最後の月に、フランス人3人、タイ人1人の米国自動車部品製造会社で働く優
秀な若手技術者を連れて、日本の某自動車メーカーが近々市場投入することに決めた
3車種の技術打合せ会を持ちましたが、ある日半日ほど時間の余裕ができて鎌倉の禅
寺を巡りました。次から次と繰り出される質問に満足な 長谷寺を楽しむタイのTさんとフランスのFさん
長谷寺を楽しむタイのTさんとフランスのFさん
答えが出せず、閉口しました。筆者の長い人生の中に観
光案内の経験も豊富に有していると多少の自負がありま
したが、仏教建築や仏像の細部については未だ完璧な説
明はできません。枯山水の特質も単純な説明では彼らは
満足しませんし、「秘仏の真意は何処にあるのか?」と
か「『山門』と『三門』の使い分けをどのくらい厳格に 
行ってきたのか?それが日本人の実生活とどのくらい深
い関わりがあるのか?」といった問いには簡潔には答えが出せませんでした。
 「108の煩悩は絶対的なものなのか? 本当に他にはないのか? 何を証拠に108が
編み出されたのか?」「除夜にしかこれらの煩悩の数だけ鐘を打つことはしないのか
?」等々一つ説明すれば矢継ぎ早に派生する質問が増え、また密度が濃くなり、長時
間の問答になってしまいます。でも苦しいことに、これらの質問は、人間を70年以上
もやっていて、少なくとも浄土真宗を宗派とすると書類に書いてきている筆者には、
今までに一度や二度は自らこれらの問いを発していなければならないことに当たるで
しょうし、改めて考えあぐねてしまうようでは困ったものだ、未だ成長していないな
と自省をした次第でした。もう少ししっかりした勉強をしておかないと「あの世」と
いうか「来世」にも安らかに旅立つことなどできないではないかと、大変情なく思い
ました。キリスト教徒であれば、何派に属していようと、新訳か旧約かの違いはあっ
ても聖書は殆んど諳んじているでしょうし、賛美歌もどれでも歌うことができるでし
ょう。しかし浄土真宗の筆者には経典を見ながら二つか三つのお経が上げられるだけ
で、歌に至っては一つも口にはできません。全く怠慢な信徒と言わねばなりません。
時間があればもう少しシステマティックに勉強したいと思った次第です。
 
 「身辺整理」「あの世行き」の準備は?
 それにつけても、女房がこのところ筆者に対し、五月蝿く物を増やすことを咎めて
きます。展覧会を見に行けば、解説書や絵葉書を買い求めることにもうるさく干渉し
てきます。旅行に行っても写真を撮ることに賛成しません。「あの世」に行くのに必
要なことは、極力整理することだけで、増やすことは許されないと言うのです。
 筆者は読書が大好きで、年間250冊くらい読んでいますが、本が溜まることにも女
房は神経をとんがらせています。今更読んでもあの世に行くためにテストがあるわけ
ではなし、知識はいらないと言うのです。これらの言葉を聞くたびに無性に腹立たし
くなって、何故にそんなに毎日毎日身軽になることばかり心掛けなければならないの
か、全く理解に苦しんでいます。ある年になれば、いろいろ気配りをして「あの世」
行きの準備に入らねばならないのでしょうか。
 筆者はつい先ごろパスポートも更新してあと10年は使えるようにしましたし、運転
免許証も更新して2015年まで有効です。まだまだしっかり生活するためのチケットは
揃っていますので、さてこれからゆっくり本腰を据えて楽しい余生を過ごしたいと新
たな気持ちになっているところですが、この考え方が女房の「あの世」行きの準備を
・・・・という姿勢と相入れないのです。皆様もご承知のように、筆者は水彩画を描いて
いますが、年間20〜30の作品を作れば、3分の1くらいは残ります。これがまた女房
の気に障ることなのです。ことほど左様に、筆者のすること為すことで毎日口論が絶
えません。恥ずかしいことですが、筆者のやりかたは間違っているのでしょうか。
女房の言うように身辺整理をきちんとして、来世を待つことが正しい生き方なのでし
ょうか。
 人生の晩年を迎えて、甚だ難しい問題に遭遇してしまい、疲れる毎日です。OBの
諸兄姉、同輩の皆様には同じような問題を抱えていらっしゃる方は居られませんでし
ょうか。新年早々懈怠なことを書き連ねてしまいましたが、ご勘弁下さい。 
                            (2010年1月2日記)
 
2010. 4.18 清水 『ユニオンジャックの矢』に見る旧大英帝国のしたたかさを思う
 
『ユニオンジャックの矢』に見る旧大英帝国のしたたかさを思う
 横浜市 清水有道
超音速航空機『コンコルド』
 1976(昭和51)年1月21日にかつての英仏両国協働開発超音速機『コンコルド』が
英国航空のフラッグの下にロンドン・ヒースロー空港からバーレーン・マナーマ空港
港に初の商業飛行をしたとき(注:後に航路は本稿の題にある航路と同じオーストラ
リアのシドニーまで延長された。同日エール・フランス機はパリ・シャルル・ドゴー
ル空港からブラジル・リオデジャネイロに初飛行を行った)、筆者は偶然我が国の
JETROとJSMEA(当時の社団法人日本舶用機械輸出振興会)の中東アラビア
湾岸諸国への共同ミッションの一員としてバーレーンに滞在していた。バーレーンは
旧ペルシャ湾、現アラビア湾の中にある旧英領の独立国であり、首都はマナーマである。
 思い返せば翌日1月22日に鼓膜を劈くような轟音と共に飛び立ち、鳥のように翼を
斜めに胴体にくっ付けた形に変えて飛び去った光景を目の当たりにした。バーレーン
からの折り返し便を見送ったのだった。そのときの印象を末永く保ちたいと思い、フィ
ラテリスト(切手蒐集家を指す英語)のために発行されているバーレーン国発行のコ
ンコルド機就航記念切手の初日カバー(First Day Of Issue Cover)を買い求めた。
皆様既にご承知のように英国航空もエール・フランスもコンコルドのフライト・サー
ビスは終えている。
バーレーン国発行のコンコルド機就航記念切手の初日カバー
バーレーン国発行のコンコルド機就航記念切手の初日カバー
その「切手4枚」を拡大
その「切手4枚」を拡大
切手4枚の内の「右上を拡大」
切手4枚の内の「右上を拡大」
 
『ユニオンジャックの矢』
 つい脱線が過ぎた。話を元に戻そう。このエッセイの主題は『ユニオンジャックの
ユニオンジャックの矢
ユニオンジャックの矢
矢』であった。誰が生み出したか、物書きか、ジャーナ
リストか、いずれマスコミのたぐいだろうが、主にドバ
イやシンガポールを話題にするときにしばしば使われる
言葉である。本来の意味は最近経済発展の目覚しいドバ
イ、インドのバンガロール、シンガポール、そしてオー
ストラリアのシドニーまでを起点のロンドンから繋いだ
ときに旧大英帝国支配下のイギリス連邦主要都市が見事
に直線を描くことを指して呼んだ言葉である。
 冒頭のコンコルドの航路はドバイの代りにマナーマであるが、当時はバーレーンの
方が遥かに工業面では先端を走っていた。中東一のアルミ精錬工場があり、その工程
で生まれる熱を利用して海水からの淡水化が日本メーカーの技術指導の下に行われて
いたし、中東一のハブ・修理ドッグを目指して、ポルトガル・リスナベ造船所の技術
指導の下に、50万トンドックが作られている最中であった。建設工事には韓国の現代
建設が当たっていた。多くの韓国人労働者が周囲の砂浜や道端で寝起きをしていた。
雨が降らない同地では十分可能なことであったろうが、こういう労働条件と国際入札
の競争をしても日本にはしょせん無理な相談だったと当時思ったことだった。しかし
これを成し遂げたことが今日の韓国の強さの礎になったのだ、と今でも思い出される
光景である。
ユニオンジャックの図
ユニオンジャックの図
 『ユニオンジャックの矢』が繋ぐ諸都市はアジアとヨ
ーロッパを結んで、現在最も脚光を浴びている世界の成
長センターである。それぞれの都市は航空路、金融、原
材料の供給源であり、労働力をも運ぶネットワークの基
点をなしており、これらの基点を通してヒト、モノ、カ
ネ、情報がロンドンに集められる仕組みが出来上がって
いる。今になって我が国が今までの無策に気づき、遅れ
ばせながらハブ空港化やハブ港湾計画とかを叫んでみた
り、アジアを中心として次ぎの世代を担う留学生を招聘したり、労働力の受け入れま
でも自由化しようとする声まで聞かれるようになったが、果たしてどういう筋立てが
生まれ、血の通った、地に足が定着したネットワークを敷くことができるのであろう
か。
 今も大英帝国は隠然とした勢力を持って生きている。世界の隅々を知り尽くした民
の『輪』と『和』の巧みさと怖ろしさを改めて感じるのである。
                    (2010年3月15日 記)
 
2010. 6. 6 清水 蓼科高原をベースに春咲き山野草を楽しむ
 
蓼科高原をベースに春咲き山野草を楽しむ 横浜市 清水 有道
 
 例年よりも少し長いゴールデンウイーク連休の初めの3日間、高校時代の級友に誘
われて、彼が白樺高原「緑の村」別荘地に持っている山荘をベースにして付近の春の
山野草を愛でる旅をした。
白樺高原「緑の林」別荘地にある友人の山荘(標高1,400)からの八ヶ岳連峰
白樺高原「緑の林」別荘地にある友人の山荘(標高1,400)からの八ヶ岳連峰
 1.初日の目玉はカタクリ、フクジュソウとニリンソウ
 JRの特急「スーパーあずさ号」に乗れば新宿から2時間で茅野に着く。着く1時間
前までは寒冷前線の通過に伴う大雨が降っていたので、山道もまだ十分に水はけが良
くないところを歩き始めた。友人が手際よく、効率的に方々に行けるようしっかり計
画を立ててくれたので、忙しいくらい盛りだくさんのスケジュールで回ることができ
た。
 最初は茅野駅からさほど離れていない宮川地区西山に カタクリの花(八ヶ岳自然文化園)
カタクリの花(八ヶ岳自然文化園)
カタクリの群生地を訪ねた。山地の中にあっても高度が
多少低い土地であるためか、カタクリは既に花の盛りを
過ぎて、少々色褪せかけていた。雨後のため花も十分に
開いておらず、眺めるにも、写真にするにも今ひとつ迫
力がなかった。
 次に諏訪市内湖南地区の板沢部落、「フクジュソウの
里」に向かった。山村の田畑の土手に自生のフクジュソ
 
ウが咲き乱れていた。谷を上から下に段々の棚田があっ フクジュソウの群落(板沢部落フクジュソウの里)
フクジュソウの群落(板沢部落フクジュソウの里)
たのだろうが、上部は殆んど畑となってしまったらしく、
今では半分くらいしか実際に使われていないようであっ
た。中には畑の中までフクジュソウがはびこっているよ
うである。養蜂家が日本各地に散って蜜集めをする前に、 
ミツバチ自身の成長、子孫育成用の蜜集めをこのフクジュ
ソウで行っている由であった。驚いたのはどの棚田や棚
畑の周囲の畦もフクジュソウの黄色一色に敷き詰められ
ていた。筆者は全国各地でフクジュソウにお目に掛かっているが、このように規模の
大きい自生地を見るのは始めてである。しかし、秩父の宝登山に見られるような赤い
花のものは一株もなかった。
 次に移る前に、茅野市北山の杜鵑峡(トケンキョウ)に寄り、名物のサクラ蕎麦を
出してくれる「東家」で昼食にした。蕎麦全体に桜の葉の香りが凍み込んだ美味しい
出来であった。この場所は昆虫屋特に蝶屋には有名なところらしく、「キベリタテハ」
を見付けて追ったが網に入れることは出来なかった。その代わりというわけではない
が、偶然渓谷や山地に多いシジミチョウの「コツバメ」を一頭捕獲できた。
 昼食後は三番目の場所と ニリンソウの花(三井の森・龍神池畔)
ニリンソウの花(三井の森・龍神池畔)
キクザキイチゲ(三井の森・龍神池畔)
キクザキイチゲ(三井の森・龍神池畔)
して、ニリンソウ、キクザ
キイチゲ、フタリシズカの
群落を見に茅野市豊平、広
見に跨る三井不動産の開発
した別荘地「三井の森」の
中にある竜神池畔に向かっ
た。この別荘地は広く、松
田聖子もここに別荘を持っていることで知られている由である。池の畔はザゼンソウ
の群落でも知られているが、シーズンはとっくに終わっているので、暗褐色の仏炎苞
(ブツエンホウ)や花の跡形もなく、特徴のある葉のみが並んでいた。
 ニリンソウとキクザキイチゲが今を盛りにいっぱいの花の海であった。フタリシズ
カはこれからであろうか、蕾を付けた茎すら伸びてはいなかった。
 以上の3箇所の訪問で初日は終わった。茅野市には市営の温泉が6箇所あるが、友
人の山荘に向かう前に、その内の一つ「尖石縄文(トガリイシジョウモン)の湯」に
寄り、温泉気分を味わった。
 2.2日目はカタクリとミズバショウ
 2日目は生憎寒冷前線の通過と重なり、朝から雷を伴うかなり強い雨が 降り続き、
昼前まで山荘で待機せざるを得なかった。一向に止む気配はないものの天気予報によ
れば、雨は午前中で上がり、急激に天候は好転し、初夏を思わせる陽気に変わると叫
んでいるので、まだ降り止まぬ中を11時過ぎには山荘を出て茅野市内の「尖石考古館」
を訪ねた。茅野の周囲に幾つもある縄文土器遺跡からの出土品を鑑賞したが、国宝や
重要文化財もあって、大変見応えのあるものだった。
 考古館から外に出れば、天気予報どおり、霧も雨も晴 多留媛(タルヒメ)神社の滝
多留媛(タルヒメ)神社の滝
れ上がり、八ヶ岳の山並みも鮮やかに見える快晴に変わっ
ていた。早速喜び勇んで、市内の多留媛(タルヒメ)神
社の立派な滝を見に出かけた。かなり由緒有り気な神社
にも拘らず、神社の真上に道路を繋ぐ橋が被さるように
架けられていて、神社の鳥居もその陰に隠れて、これで
は神様のご利益を得ようとしていも、神様は許してはく
れまいと思った。観光案内書でも神社へのお参り目的で
 
はなく、市内にしては珍しい水量のある美しい滝を見る 「まるやち湖」に映える八ヶ岳の山並み
「まるやち湖」に映える八ヶ岳の山並み
ために一項を割いているとしか思えない記述がされてい
た。滝に続く渓流を跨ぐ歩道の小さな橋の袂にはリュウ
キンカが幾株か固まって育っているのが見えた。花は未
だのようであった。
 次に八ヶ岳自然文化園を訪ねた。長野県諏訪郡原村の
財団法人原村振興公社が経営している。この公園にも、
「まるやち湖」という池があり、施設の外にはなるが、
 
風がなければ湖面に八ヶ岳の山並みが映えて美しい眺望 ミズバショウの花が盛り(八ヶ岳自然文化園)
ミズバショウの花が盛り(八ヶ岳自然文化園)
ポイントとなっている。
 周囲を現地では八ヶ岳中央高原と称している。大きな
山野草園があり、木道を歩いて一周できるよう設計され
ている。訪ねたときはちょうどカタクリが満開で群生し
ている様と池のミズバショウの花が最盛期であった。
 5月も中旬になればクマガイソウ、オダマキ、ウラジ
ロキンバイ、サクラソウ、クリンソウ、6月に入ればア
 
ヤメ、キスゲ、アカミメクサ、ヒメウツギ、エゾシモツ 某別荘地
某別荘地
ケ、ハコネウツギ等の花が見られるという。サクラソウ
とベニバナイチヤクソウが一面に芽吹いているのが眺め
られた。
 これで自然の花を見る旅もメイン・イヴェントを終え、
遅い昼食を自然文化園内のレストランで取り、前日同様
茅野市営の別の温泉「塩壷の湯」で温泉入浴して山荘に
戻った。途中民間の山野草園に寄り、どういう山野草や
花の樹木が売られているのかを眺めてみた。アズマシャクナゲの大きな株が3千円で
売られていたのにかなり触手が動いたが買わずに済ませた。友人と共に付近の渓流で
自生しているクレソンとセリを摘み、その日の夕餉の食材とした。山の辺の散策には
こういう楽しみもあり、嬉しい。遠い戦時中の疎開先での日常生活をふと思い出した
ことだった。
                         2010年5月12日(水)記
 
2010. 7.25 清水 快晴に恵まれ知床半島探勝
 
快晴に恵まれ知床半島探勝 横浜市 清水 有道
 
1.はじめに
 数年前に思い立った辺境の世界文化・歴史遺産や世界自然遺産を巡る旅も、ペルー
のマチュピチュ空中都市、カンボジアのアンコール・ワットに代表されるクメール文
化の歴史遺産、トルコのカッパドキア、パムッカレに代表されるギリシヤ・ローマ時
代の遺跡をしっかり訪ね歩き、日本の屋久島、白神山地等の自然遺産も既に巡った。
そこで、今年こそは知床をもう少し詳しく探勝しようと計画し、5月の連休明けの13
日(木)から17日(月)にかけて北海道に赴き、知床には2泊3日をかけて回った。
 学生時代にまだ宇登呂(ウトロ)から羅臼に抜ける知床国道(R334)もないときに、
ザイルを結び合っていた岳友と二人でテントを背負い真夏に一ヵ月半をかけて北海道
の山々を踏破したことがある。そのときに羅臼の町から知床の最高峰・羅臼岳を往復
しているので、知床の背骨である山並み、オホーツク海と太平洋の気流が知床半島の
真上、即ち羅臼の山頂でぶつかる様も目にしている。空気というか、雲の密度に相当
の違いがあり、オホーツクのものは粒子の大きい集まりなのだろうか、白濁していて
透明度がなく、その中に入れば衣類もびっしょり濡れてしまうのに対し、太平洋側は
天空まで抜けるように透明で、陽光が透けて通っている様が良く分った。羅臼の頂上
からの眼下に見える国後島(クナシリトウ)はとても今は異国に属しているなどと思
いもよらぬ光景であった。利尻富士山頂からの樺太(カラフト)を見たときの航空写
真を見るような、間近に見える景観は全く違う世界を眺めているような気がしたのを
今でも鮮やかに思い出す。
 知床を巡るには早い時期を選んだとしても5月はまだ寒すぎるし、動けなければ他
に室内で見るものは何もない。観光船も半島先端の岬まで行くものは6月に入らない
と運航されない。波が高く、気象が不安定で、危険なため許されていないのである。
上述の知床国道の知床峠(738m)を越える道路も表面が凍結して通行禁止になること
が多く、旅行日程を確保することは全て自然任せのためなかなか思うようにはなら
ない。ロスタイムを十分に見る必要があり、時間的にも経費的にも厄介な旅を強いら
れるところである。
 2.先行き心配な北海道の初日     
 さて、このような状況の中を5月13日午後3時近くに降り立った女満別空港の気候
は霧雨で、摂氏1度と寒く、薄暗い鬱陶しい空気に包まれていた。レンタカーとはい
え、宇登呂まではとても入れないと思い、出発前からサロマ湖畔にあるリゾートを予
定していたのでゆっくりできた。連休が終わったばかりで、ウイークデーということ
もあり、ホテル内には殆んど人影がなく、客も我々(女房と二人)を入れて3組くら
いと見えた。ただ近郊の部落から温泉浴に来る人が10人くらい混ざっていた。
 3.2日目はひたすら翌日の天候回復を願う  
 翌14日も同じような天気で、遠方は霞み、景色を眺め 超モダンJR釧路本線「知床斜里駅」
超モダンJR釧路本線「知床斜里駅」
る風情にもならないので、途中“道の駅”で2回休憩を
取った以外は何処を訪ねることもなく、斜里の町に入っ
た。先ず驚いたのは筆者の知っている昔の町とはすっか
り様変わりしていたことだ。JR釧網本線の駅舎は超モダ
ーンな平屋のタイル張りで、一見駅舎とは思えない。
駅舎正面にはこれまたモダーンな欧州の美術家の針金を
使って作られた知床を代表する天然記念物のオジロワシ
 
の大きなモニュメントが据えられていた。駅名も斜里か 「知床斜里駅前」のオジロワシのモニュメント
「知床斜里駅前」のオジロワシのモニュメント
ら「知床斜里」と変えられていた。文字通り知床半島の
玄関口を意識しての変革なのであろう。
 斜里町では先ずは知床全体の予備知識を得るため、駅
前を海岸の方へ少し走り、「知床博物館」を見学した。
知床の歴史、アイヌ文化の影響、自然の樹木、動植物、
鳥、昆虫に至るまで幅広い展示がされていたが、これと
言って目を見張るものはなかった。
 現地の学校で理科を教えている先生方が主導して調査された知床の蝶や蛾の生態や
分布についての報告がカラー図版の小冊子2冊として販売されていたので、筆者の趣
味の参考資料に入手した。
 網走から斜里までのオホーツク海に沿った通称「流氷街道」(R244)には道の駅が
充実していて、資料の入手、食事、土産品の調達にも非常に便利である。中でも網走
の「流氷街道網走」と斜里の「ユートピア知床」が共に首位を競うものと思えた。ユ
ートピア知床のレストランで昼食を取った。土地物のナメタガレイや羅臼ホッケの焼
き魚膳が美味だった。途中のオシンコシンの滝にも下車見学することなく通過し、宇
登呂温泉に直行し、連泊する丘の上のホテルにひとまずチェックインした。翌日の天
候を確認すれば、一転して一年に一、二度あるかないかというような雲一つない快晴
になり、気温も一気に上昇し、初夏を思わせる陽気になるという予報に、早速翌日の
観光船と知床五湖探訪の手配を終えた。日没までまだ時間があったので運動不足を補
うために下検分を兼ねホテルから宇登呂港の観光船の乗り場まで歩いて往復した。
閑話休題
 知床には知床八景がある。どういう経緯で決められたものか筆者の知識の及ぶとこ
ろではない。今までにこのあたりの事情を説明した文章にはお目に掛かったことはな
い。その八景とは、
(1)オシンコシンの滝
   宇登呂港に着く直前、国道の脇にあり、名瀑が容易に眺められる。
(2)宇登呂港のオロンコ岩
   標高60mの独立した巨岩。頂上からの知床の山並 オロンコ岩全景
オロンコ岩全景
   みの眺望は一見に値する。
    北海道は何処でもエゾシカが繁殖しすぎて貴重
   な植物が食べ尽くされて減り、人家の庭の草花や
   樹木が一夜にして姿を消したり、畑が荒らされた
   りするため金網や防護壁、電流を通した柵で囲う
   など対応に追われているのが現実である。この岩
   には鹿が登れないために貴重な植物が残されてい
   て、隠れた宝庫となっている。
(3)宇登呂温泉の夕陽台 ホテルの窓からのオホーツク海に沈む夕陽
ホテルの窓からのオホーツク海に沈む夕陽
   知床一の夕陽が見られるところとして有名だそう
   である。ただ、その機会は年に数えるほどしかな
   いそうだ。筆者が泊まったホテルがその丘にあり、
   港を見下ろす最上階からの夕陽は最高と宛がわれ
   た部屋がそれに当たると説明された。それもその
   はず、曰くのある特別室で、登山がお好きな現在
   の皇太子殿下が数年前に羅臼岳に登られた際に使
   われた部屋だそうで、そのために内部が整えられたという。床の間付きの和室
   もあり、床の間には本物ではなかろうが村上華岳の風景画軸が架けられていた。
(4)プュニ岬
   絶景と夕陽の名所。
(5)乙女の涙(フレぺの滝)
   100mの断崖の割れ目から流れ落ちる水の様が涙を思わせることから命名され
   た。
(6)知床五湖
   注ぎ込む川はなく、全て地下で繋がり、地下水脈によって維持されている。知
   床の山並みの雪解け時には湖面が上昇し、水がオーバーフローするそうである。
   風がないときには静寂な湖面に知床連山が映って美しい。
(7)カムイワッカの湯の滝 知床峠からの羅臼岳
知床峠からの羅臼岳
   活火山の硫黄山の中腹から湧き出る温泉が川に注
   ぎ込んで、川全体が自然の露天風呂になるため、
   多くの登山家や好事家の訪問が絶えないと言う。
(8)知床峠
   知床半島横断の国道の頂上になり、斜里郡斜里町
   と目梨(メナシ)郡羅臼町の境界となっている。
   羅臼岳の眺望が素晴らしい。
 
 話を本題に戻そう。宇登呂港には知床八景の一つ、オロンコ岩という独立した大き
な岩がある。標高60mあり、頂上からは知床の山並みが見渡せるというので急な階段
に息を弾ませ挑んだ。ちょうどカモメの繁殖期に当たるのであろうか、岩棚にたくさ
んの雌鳥が卵を抱いていた。近付くと威嚇のために一斉にカチカチと嘴を叩いて合奏
になる。登山道にはこのカモメを狙って食べたのであろうか、たくさんの羽毛と足首
や嘴がところどころに散らかっていた。調査目的のためであろう人間が足に嵌めた識
別環が足首と一緒に、あるいは単独に道に散らばっているのは、見て哀れを誘う。
多分トンビか、天然記念物のオジロワシ、タカ、ひょっとするとカラスの仕業かもし
れない。余りいい気持ちではなかった。
 余談になるが、地元通人の話では頂上までの階段が203段あるところから、俗称
「203高地」と呼んでいるそうである。因みに名前はアイヌ以前に当地に住んでい
た北方狩猟民族「オロッコ族」に由来している。それ以前は「サマッケワタラ」
(“横になっている岩”の意)と呼ばれていたそうである。
 4.3日目、超快晴の中を知床観光の醍醐味を味わう
 前日に手配したとおり、午前中に全行程1時間半の硫黄山(1,563m)の真下に当た
るところで折り返す硫黄山航路に「オーロラ観光船」による海からの知床半島の絶壁
と中央に背骨となって聳える知床連山を観賞し、午後はガイド付きの知床五湖めぐり
の2時間のハイキングを楽しんだ。
硫黄山沖で(知床岳が上半分雪を冠って見える)
硫黄山沖で(知床岳が上半分雪を冠って見える)
知床第二湖に映える知床連峰
知床第二湖に映える知床連峰
湖畔に現れたエゾシカ
湖畔に現れたエゾシカ
(1) 海からの観光船による知床半島の断崖と山並みの観賞
 午前の観光船は当日が土曜日であったことと、暫く続いた雨模様のあとの、しかも
年に1,2度あるかなしかという360度見回しても空には一点の雲もない文字通りの
超快晴であったためか、この時期にしては乗客が多いと言っていたが、全長45m、総
トン数491トン、最高速度14.3ノット、定員400名という小さな船にも拘らず、20%
くらいの人しか乗っていなかった。10時半に宇登呂港を出た当日の第2便であったが、
考えてみれば例え北海道内であっても、札幌や旭川といった大きな町から訪ねて来る
となれば、とてもその時間に間に合わせることは難しく驚くべきことでもなかったの
だと思った次第でした。小さな船と書いたが、運航している道東観光開発(株)の宣
伝では大型観光船の謳い文句である。
 片道45分で、宇登呂港から突端の知床岬までのほぼ中間点に当たる硫黄山直下まで
行く間に、上述した知床八景の内、地上にある知床峠と知床五湖と出発地点よりも西
になるオシンコシンの滝を除けば、出航地点のオロンコ岩の他、残りの五つを全て船
上から眺めることが出来た。
 観光船から最初に見えるプュニ岬は地上の岬が夕陽を見るスポット、真冬には迫り
来る流氷を眺めるスポットとして有名で、八景の一つに選ばれているが、船上からは
さして特徴のあるスポットとは見えなかった。船中の案内も余りないと見えて、森繁
久弥の創った「知床旅情」を加藤登紀子が歌っているものを流していた。
 次に現れた名所は「乙女の滝」と呼ばれるフレペの滝。断崖上のウトロ灯台が見え
るその真下辺りがこの滝だった。羅臼岳の噴火によって噴出した溶岩流が固まって出
来た台地が海面から100mくらい垂直に連なり、知床五湖からの地下水が噴出してこ
の高い断崖を幾筋もの絹糸の流れのように落ちているのが見られたが、さほどの凄み
は感じなかった。続いて「象の鼻」という形の岩が現れ、「クンネポール」という不
思議な洞穴の光景が続く。奥行きの深そうな洞穴が並んでいて不気味、しかも断崖は
垂直か、逆にオーバーハングしていて、この辺りは流石に熊も出没できないそうであ
る。
 暫くして断崖が切れて小さな流れが見えると岩尾別川である。ここは鮭も昇ってく
るらしくヒグマがでるところだそうである。上流には鮭の孵化場もあり、狭い海岸に
は番屋も見られた。やがて再び断崖の切れ目が現れると「カムイワッカの滝」である。
この滝はカムイワッカ川の海に落下するところで、この川の上流は「カムイワッカ湯
の滝」がある。滝壺が自然の露天風呂となっている由。その直ぐ先に硫黄川の流れが
ある。これら二つの川には昔の硫黄採取の柵があって、良質の硫黄が取れたとか。硫
黄山の真下に当り、ここがこのシーズンでは観光船のUターン場所である。遠く半島
奥の山並みには知床半島最東端の知床岳(1,254m)が上半分雪を頂いた姿を見せてい
た。
(2) ホテルからの送り迎えつき知床五湖ガイドツアーを頼む
 午後2時ぴったりに小柄な若い男性が我々夫婦をピックアップにホテルに現れた。
差し出された名刺には“知床アイヌエコツアー 吉村 衛(ヨシムラ マモル)”と
書かれていた。まだ3年くらいの経験だと言う。それ以前は横浜、厚木、相模原等で
勤めていたらしく、会話や動作から前の日に京浜地区から訪ねてきた人のように少し
も違和感のない人に思えた。服装は米国の国立公園の監視員であるレンジャー様のい
でたちで最悪のケースを想定してのクマ避けスプレー、警笛等の装備をしっかり持っ
ているようであった。写真が好きのようで、知床の自然風景や動植物の写真を大きく
引き伸ばして、ルーズリーフ式のアルバムにして、自分の車に常時備えているらしく、
客にその都度見せているのであろう、我々にも見せるのであった。知床五湖の入口ま
では専らこれらの写真がメインの話題であった。
 前日はヒグマが出て、五湖めぐりは禁止になっていたので、当日の状況が心配され
た。午前中は一湖、二湖のコースのみ許可されていたので、我々もそのつもりで入っ
たところ、ちょうどその時から運良く五湖めぐり全てのコースがOKとなったので、
ガイドに変更を依頼し、ゆっくり全てを回ることが出来た。
パックツアーでくる団体は一湖と二湖をめぐるだけである。入口前の駐車場はほぼ満
車であったが、コースに入ると人影はまばらで、ガイドつきの4名のパーティが一つ
見られただけで、我々2人とガイドだけの静かな山歩きだった。
シーズンになれば入口で駐車場の空きを待つだけで2時間以上を費やしてしまうそう
である。クマが出没しても常時訪れた人が見分できるように、環境省が駐車場からつ
ながるバリアフリーでクマ避けの電気柵に覆われた木道が従来の道とは別に設けられ
ていて、現在一湖の終わりのところまで利用できるようになっている。近々二湖まで
延長されるとのことであった。
 入口から山道を暫く行くと、一湖の湖岸に出た。木道が付いていた。両脇には一面
今を盛りとミズバショウが咲いていた。思ったより花も葉も小さいと思った。その通
りで、これから気温が上がるにつれて、葉がどんどん大きくなり、化け物のようにな
るものらしい。ヒグマもエゾシカもこの水芭蕉の茎が大好物のようで、苞と花を残し
て根元から皆食べてしまうらしく、あたり一面に千切れた苞と花が散らばっていた。
根は有毒なことを彼らも分っていて絶対に食べないそうである。
 文字通りの快晴で、風も無風に近く湖に映るまだ上部に雪を冠った羅臼岳をはじめ
とする知床の雄大な山並みは確かに絶景に値するものだった。天気は晴れでも山がガ
スに隠れていたり、風が強く水面が荒波だって山の反射が見られないことが殆んどで、
当日のような好条件は一年に数日を数えるほどであると聞き、運の良さをしみじみ神 
に感謝したことだった。 筆者が入社して数年して語学の勉強のためにスペインに向 
かう途中スイスに寄り、ツェルマットから登山電車の終点ゴルナーグラートまで行き、
復路をツェルマットの町まで全てを歩いて下ったときに、途中のグリンジィゼーだっ
たか、グリュンゼーまたはライゼーのいずれであったかは忘れてしまったが、湖面に
映る逆さマッターホーンの姿のあまりに優美なのにしばし呆然と見とれていたことが
あったのをふと思い出した。
 木道が切れた一湖の終わりのあたりから山が見られる 知床第二湖に映った主峰「羅臼岳」
知床第二湖に映った主峰「羅臼岳」
が、羅臼岳と左隣の三ッ峰だけで、山並み全ては一湖か
らは望めない。
 次ぎの二湖は山を見るには最も良いところで、湖自体
も最も大きく、羅臼岳から硫黄山までの連山の湖映も最
も美しい。主峰羅臼岳を撮る絶好のポイントが幾つかあ
るという。知床五湖は羅臼岳の噴火による溶岩流によっ
てできたもので、これら五湖に注ぐ川はない。山並みの
雪や雨が伏流水となって地下でつながっている。五湖の水面は全て標高239mという。
春から夏にかけて雪解け水が増えたときはオーバーフローして湖がいくらか大きくな
り、小さな流れも出来るらしい。一湖と二湖には木々が覆い茂る浮島がある。
 二湖を過ぎた辺りから木々にヒグマが爪を研いだりよじ登ったりした爪痕がたくさ
ん見られ、また樹皮が20〜30cm幅でぐるりと剥がされた木が枯れ木となっているの
が目立つ。冬になって深い雪の中、食べるものがなくなり、数ばかり増えたエゾシカ
のなせる業である。
 次ぎの三湖は五湖中最も眺めが良い。知床の山々は八ヶ岳のように繋がって一直線
上に並んでいるが、八ヶ岳が峻厳たる男性的な岩肌を見せているのに対して、知床の
山肌は膨らんで、緩やかにやや女性的な感じを与える。これはそれらの山々が比較的
新しい地質時代に出来た山々で、まだあまり侵食が進んでいないためである、とその
違いを説明した親切な案内板が建てられていた。世界遺産ともなると道の整備やトイ
レの増設等々大変なことだと思う。ただ残念なのは、指導標識や案内がバイリンガル
になっていないことである。
 四湖は鬱蒼とした林に覆われている。この四湖と次ぎの五湖は小さい。五湖では視
野は開けないが、樹木越しに羅臼岳から硫黄山までがきれいに眺められた。幸いにヒ
グマに出くわすこともなく、道も高低差が余りなく、足の具合の悪い女房も普段どお
り歩けたので、ゆっくり落ち着いた散策が出来たのは嬉しかった。四湖畔ではエゾシ
カがゆっくり草を食んでいる姿も見られた。北海道には正式にはエゾXXXXゲラと
言うような、俗に言うキツツキが多く棲んでいて、この知床五湖の周囲の樹木にも彼
らが開けたたくさんの穴が見受けられる。本土のリスよりも一回り大きいエゾリスも
見ることが出来た。
 ガイドもホテルの従業員も当日の夕方には名物の夕陽が間違いなく部屋の窓から眺
められると太鼓判を押してくれたので、夕方になるのが待ち遠しく、何回も何回も窓
から覗いて、まあまあ満足のいく写真が撮れた。勿論今までにもっともっと素晴らし
い夕陽を数え切れぬほど見てきているし、カメラに収めてもいるが、この夕陽もオホ
ーツク海に沈むものとして筆者のメモリーの一項目に覚え込んだ。
 5.恵まれた知床観光の思い出に酔いつつ知床峠を通って帰路に着く 
 次の日も知床峠の通行が出来ることを確認して、予定通り、知床横断道路を羅臼方
面に車を進めた。                                            了
                                              (2010年6月23日記)
 
2010. 8.15 清水 支笏湖畔紋別岳ハイキング
 
支笏湖畔紋別岳ハイキング 横浜市 清水 有道
 
<この春二度目の北海道>
 一ヶ月も間を空けずにまた北海道に来てしまった。表 ハイキング・ルート
ハイキング・ルート
向きは近々召し上げられてしまうJALのマイルが勿体
無くて、梅雨のない北海道に舞い戻ったと説明している
が、本音はゆっくり連泊をして温泉気分を味わいたいと
いうことで、ちょっとばかり贅沢をしたくなったためだ
った。2006年5月に訪ねて、絵まで描き残している支笏
湖特有の静寂さと湖水の濃い青の色が妙に心に引っかか
って、もう一度訪ねてみたい気分に駆られたのが偽らざ
るところであった。
<支笏湖再発見>
 前回訪ねたときから5年しか経っていないのに、湖畔の雰囲気は一変していた。一
帯が広く公園として整備され、階段や散歩道も一新されていた。指導標もバイリンガ
ルではなかったが完備され、樹木の名前も札にして下げられていた。多くの中国語や
韓国語を話す人々の団体が後から後から観光バスでやってきては競ってデジカメで写
真を楽しんでいる。湖の名物のヒメマス(海洋性のベニザケの湖沼残留型、学術的に
は陸封種と言う)をあしらった新ご当地グルメとして『支笏湖アキヒメ温玉ライス』
なるメニューが湖畔周囲9軒のレストランのシェフによって各店で味付けは異なるが、
汁物、デザート付きで税込み945円という統一価格で提供されていた。これは支笏湖
で獲れた産卵後のヒメマス(アキヒメ)をフレークにして、御飯と混ぜたものである。
御飯を名山・樽前山に似せて盛り上げ、内輪のドームまであしらい、あんやソースを
支笏湖、野菜を森に見立てて、御飯の中には溶岩や温泉をイメージした温泉玉子が入
っているのがメニューの名前の由来だそうだ。湖畔のレストラン『メメール』(フラ
ンス語で"おばーさん"の意)と泊まった『支笏湖第一寶亭留翠山亭』のレストランの
2箇所で食べてみたが、盛り付けや汁物とデザートはかなり異なっていた。とまれ他
では余り例を聞かない、面白い試みだと思った。支笏湖ビジターセンター(支笏湖観
光案内所を兼ねる)も新しく立派に造り替えられていた。この大きな変化は、北海道
の各地にリゾートタイプの宿泊施設を展開している鶴雅(ツルガ)グループが、この
湖畔に進出して『しこつ湖鶴雅リゾートスパ水の謌』を始めたときから始まったらし
い。この湖畔の開発は大正時代に入って、王子製紙(株)が同地の材木をパルプ原料
として切り出し、苫小牧に運ぶために簡便鉄道を通したのが、そもそも開拓の始まり
で、そのときに別の場所にあった英国人の設計・製造になる鉄橋を王子製紙が買い取
り、湖から流れ出る千歳川の出口に架けたのが現在も同じ場所に赤くペンキ塗りされ
て、当時を偲ぶ産業遺産として保存されつつ、観光客の散歩ルートとして利用されて
いる。この鉄橋は『山線鉄橋』と呼ばれ、道内最古の現役鉄橋として、日本の橋梁史
上希少かつ重要なものと言われる。現在でも当時の王子製紙経営者の縁者所有になる
建物が湖畔に幾つも見られ、同社の保養所の施設も湖畔の景色の良いところに残り、
使われている。湖畔ぎりぎりにオープンテラスを有する『レイクサイドヴィラ翠明閣』
も対岸に古くから温泉宿を営む「丸駒温泉」が支笏湖温泉街の中に拠点を作りたいと
して、近年王子製紙縁者の持ち物を買い取って始めたものと言われる。
 筆者は定山渓や小樽を本拠にしてホテル業を拡げてい 紋別岳山頂を望む
紋別岳山頂を望む
る第一ホテルグループが湖畔の古い旅館を買い取ってリ
ニューアル・オープンした上記の翠山亭に泊まった。部
屋数も少なく、特別のコース・メニューで宿代が幾通り
にも分かれて、なかなか斬新な雰囲気のホテルであった。
とは言っても、丸二日湯にばかり浸ってもいられないの
で、二日目には山頂に何本ものアンテナや鉄塔が立って
いる紋別岳(モンベツダケ866m)に足の悪い女房はホテ
ルに残して単身登った。頂上まで歩行距離5km弱、登り2時間、下り1.5時間のハイ
キングだった。少し長い前置きになったが、それでは本題に入ることにしよう。
<晴天に恵まれて紋別岳を楽しむ>
 支笏湖の周辺には深田久弥氏も100名山の中に入れておられる樽前山(1,041m)と
恵庭岳(1,320m)の二山のほか、樽前山に続く風不死岳(フッブシダケ、「フッブ
シ」とはアイヌ語で「とど松のあるところ」の意味だそうである。1,102m)と紋別
支笏湖を挟んで左:樽前山。右:風不死岳を見る。
支笏湖を挟んで左:樽前山。右:風不死岳を見る。
岳がある。通常宿泊が3日以上になれば、レンタカーを
するのに、今回は2泊のために手配しなかったのが裏目
に出てしまい、100名山の方の2山には足の便がなく、タ
クシーは千歳市からいちいち呼ばねばならず、料金が勿
体無いので、ホテルから歩いて往復できる紋別岳で我慢
した次第。
 支笏湖温泉の宿泊ホテルを午前8時過ぎに発ち、札幌
方面に向かうR453に出て、北西方向に徒歩15分くらいで
登山口に出る。登山口には大きな看板様の指導標識が立っていた。登る道の両側には
個人の家や王子製紙千歳発電所関連の施設があり、10分ほどで両側に開く鉄の扉があ
って、一般の車の出入りは出来ないように規制されていた。その扉の手前右側に登山
届けを書くノートの入った扉と屋根の付いたボックスが立っている。当日筆者より前
に入った登山者はこの記録ノートから見る限り2人しかいなかった。
 麓から肉眼でもはっきり見える山頂には鉄塔が何本も 支笏湖畔親水公園からみる紋別岳
支笏湖畔親水公園からみる紋別岳
建っているので、その施設の管理・運営のためにしょっ
ちゅう作業者の往来があるのであろう、道路には山頂ま
でずっと簡易舗装がされている。車のすれ違いは出来な
いが、かなり道幅は広く、頭上も抜けているので、日光
を遮る物はなく、炙られ通しの道であった。道の斜面側
には上りと下りの里程をkm表示した道標が立っている
ので、どのくらいの距離を進んできたのか、残りどのく
らいかが分って、筆者には逆に味わいの少ない山登りに思えた。3合目くらいまでは
各種カエデ、ブナやナラ等の樹木が続いていたが、それから上は殆んどダケカンバと
白樺に変わり、9合目くらいからそれらも疎らになり、森林限界を超えた感じが味わ
える。
フギレオオバキスミレと思われるスミレ
フギレオオバキスミレと思われるスミレ
 7合目を過ぎた辺りから道の山側の斜面際にはまだ多
くの残雪が見られた。登山口辺りのふきのとうは花も終
わって、タンポポのような羽毛のある種子の綿帽子のよ
うになっていたが、残雪の見られる辺りではやっと茎が
伸び出したばかりで、摘み取れば立派な惣菜になりそう
なものが並んでいた。道の両側にはこれと言った珍しい
植物は見られず、僅かにスミレが何種か色とりどりに咲
いていた。その中に黄色のスミレがあり、オオバキスミ
レかと思ったが、葉の周りの切れ込みから変種のフギレ ぽつんとひとつ咲いているシラネアオイの花。
ぽつんとひとつ咲いているシラネアオイの花。
オオバキスミレであろう。7合目辺りにはぽつんぽつん
とシラネアオイが咲いていたが、花は本土で見るものよ
りもも小さく、色も幾分白っぽく見えた。面白いことに
1本だけぽつんと咲いていて、周囲を見ても群落にはな
っていなかった。
 3合目辺りからは終始支笏湖が左側に見えていたが、
徐々に高度を増すにつれ、湖の色合いがどんどん深く、
濃い青色に変化して行き、深度があることが見て取れた。
登山道からの恵庭岳
登山道からの恵庭岳
 湖を跨いで対岸には、樽前山から風不死岳に続く山並
みが見え隠れし、少しずつ樽前山の頂上の内側にあるド
ームがはっきり見え、そのドームの中央から蒸気の筋が
細く天井に向かって噴出しているのが眺められる。もう
少し北西方向に目をやれば、形の良い恵庭岳がまだ相当
の雪を抱いた姿で見られる。恵庭岳は現在もアクティー
ヴな活火山であり、7合目から頂上までの登山は禁止さ
れている。目の前にはっきりと噴煙が眺められた。
 紋別岳は866mと標高こそあまり高くはないが、独立峰 紋別岳山頂
紋別岳山頂
のため眺望は360度開け、日本海とオホーツク海の両方が
眺められ、東方には千歳、苫小牧の市街、北方には札幌
の街が眺められると言われたが、生憎周りはガスの中で、
全く遠望は利かなかった。千歳の駐屯地が近いせいか、
時々実弾演習のドーンという炸裂音が地底から響いてく
る。近くの山肌はようやく出揃った新緑の彩錦が見事な
景観を見せている。紅葉も良いが、新緑の山肌の輝きに
も似た色模様は例えようもなく美しい。
 筆者の直ぐ後から一人の男性が登ってきていたが、筆者が頂上に着くまで抜かれる
ことはなかった。頂上直下で自転車で登ってきた若者に抜かれた。山頂に着いて休ん
でいるときに熟年女性のパーティ3名、壮年男子1名に出会った。山頂では昼食には
まだ聊か早い時間であったのと、左程ゆっくり出来る場所もなかったので、15分程度
で下山した。下山中に登ってくる人たち10名くらいに出会った。すれ違う人は皆クマ
避けのベルを鳴らしていた。勿論筆者もスイス製のものを負けじと鳴らした。下山し
て登山届けに下山時間を書き入れる際に筆者の後に何人の人々が記入しているかを調
べると16名であった。日曜日でこの数字であるから、ウイークデーは殆んど人影がな
いことだろう。入山者の殆んどが近隣の人たちで一人千葉県船橋市からの男性の名が
あった。登山道では終始ウグイスが友となってくれた。空には時折トンビが舞ってい
たが、期待していたほかの猛禽類の姿はなかった。
 筆者は非常に好天に恵まれて登山が出来たと喜んだが、ホテルに戻って聞けば、千
歳、苫小牧の方面は雨模様だった由。支笏湖の上空は気象上非常に珍しい現象が起き
るとのことで、通常この時期では風が恵庭岳から樽前山に向かって吹き、支笏湖上空
は常時霞や霧、ガスから開放されるのだそうだ。周囲が雨でも支笏湖の上空のごく限
られた地域のみ晴れているということが多くあるようである。
キベリタテハ
キベリタテハ
 下山の終わりで入山届けの辺りで素早く上空を飛び交
うタテハチョウを見掛けたので少し時間を掛けて様子を
見ていると、なんとキベリタテハであった。新しく生ま
れたものではなく、越冬種が最後のペアリングの最中だ
ったのだ。幸運にも2頭網にすることが出来た。その内
1頭は羽のどの部分も破損がなく、完全な個体であった。
上翅、下翅の周囲の黄縁(キベリ)は本土のものに比べ
ると随分と白色に近い感じのものだった。序に飛んでい
たエゾスジグロシロチョウも2頭採集した。本土のスジグロシロチョウよりも一回り
小型で、白色が濃く、翅の形も心持丸みを帯びているように思えた。
 この同じ場所で、一見タカネグンバイに似たアブラナ 登山道入り口に咲いていた花。
登山道入り口に咲いていた花。
科特有の花の植物を見付けた。ワサビやオランダガラシ
(現在ではクレソンの方が分りやすいであろう)にも似
ているが、葉の形はキンポウゲ科の種かとも思え、自分
でははっきり同定できなかったため、神奈川県立フラワ
ーセンター 大船植物園の園芸相談の先生に尋ねたとこ
ろ、アブラナ科タネツケバナ属のヒロハコンロンソウと
分った。この植物は本州中部以北の山地渓流沿いなどの
湿った場所に生育する越年草である。
 
 最後に当日のコースタイムを参考までに記しておこう。
<紋別岳ハイキング コースタイム>
翠山亭(8:05)…(R453)…(8:10)登山口…登山届け場(8:20)…
(10:00)山頂(10:15)…(11:30)入山届け場(キベリタテハ採集)
(11:50)…(12:00)第一寶亭留翠山亭
                                   「了」
                          (2010年7月6日記入)
 
2010. 9.19 清水 『クロアゲハ』の塩水吸水の決定的瞬間を撮る
 
『クロアゲハ』の塩水吸水の決定的瞬間を撮る 横浜市 清水 有道
 
『クロアゲハ』の塩水吸水の決定的瞬間を撮る
 動物がよくミネラルを摂取するため、土壌や岩石をかじったり、嘗めたりする習性
を持って、かなりの距離を厭わず集団で移動して、その行為を定期的に繰り返してい
ることは、動物学者の報告にも、テレビの報道でも紹介されているところである。
 筆者も蝶を中心に昆虫の行動を観察し、記録に留めることを高校生のときから続け
ている。この夏小学校一年生の孫娘の相手に彼女の両親と共に西伊豆の阿久須を訪ね
た折、偶然に海岸の粗い砂浜で表題の『クロアゲハ』の海水を吸水する様を写真に収
めることが出来た。ときは2010年8月8日(日)の午後4時ごろのことだった。しき
りに一頭のクロアゲハが海浜を左から右へ、右から左へとゆっくり飛翔し、時々砂地
に降りて吸水をするが、落ち着かずに直ぐに移動してしまう。暫く彼女のあとを追い
つつ行動を観察していると、最終的には決まった場所に長く留まり、吸水し、人が近
付くと舞い上がって様子を見て、安全を確かめるとまた戻って来て、吸水活動を続け
るといった具合だった。
口吻をまげて探っている
口吻をまげて探っている
すっかり安心しきって塩水を吸引している
すっかり安心しきって塩水を吸引している
 運良く、その何回目かの
戻りのときを捉えて、ここ
に載せている写真を撮るこ
とが出来た。カメラはデジ
カメが世に現れた初期に市
場に出た“OLYMPUS CAMEDIA
C-700 ULTRA ZOOM
(10倍ズーム)”
という名機であるが、残念ながらその後どんどん優れた製品がたくさん世に出て、こ
の機種は廃盤となり、専用のカード(ID 64 MB)も入手できないことになってしまっ
た。それもその筈、本機のCCD画素数はたったの211万であるから、現在の1千万を
超える画素数が標準のカメラから見れば粒子が粗く、よい写真が得られる訳もなく、
カメラ屋の親父が言うように捨てるより他ないのかも知れない。しかし、10倍ズーム
の機械にはあまりお目に掛かっていないので、昆虫の生態写真や高山植物、山野草の
花を撮るにはまだ捨て難い未練が残っている。表題に決定的瞬間としたのには理由が
ある。通常蝶の吸水は淡水系の河川敷や山間の渓谷の河原でよく見られるが、海岸の
砂浜での吸水はあまり聞いたことも見たこともなかったからである。ここに2枚の写
真をお見せしていますが、左側の口吻を曲げて探っている場面では、まだしっかり吸
水の態勢に入っていないので、写真でも翅、特に前翅が少しぼけています。これは、
周囲を警戒して何時でも飛び立てる状態にあるからですが、このときには、翅は幾分
立てて、せわしく震わせています。これがどうでしょうか、右側の写真になると、す
っかり安心して吸水の態勢に入っていますので、翅も心持ちリラックスして開き加減
ですし、震えが一切ないのがお分かりいただけるでしょう。
 勿論蝶の中でもタテハチョウ科の国蝶『オオムラサキ』を初めとする多くの種が椚、
楢等の樹液を吸いに集まったり、動物の糞や死骸に集まって腐食養分を吸うので、同
好の士には逆にこれらの習性を利用して蜂蜜に味醂や黒砂糖を加えた溶液を樹木に塗
布したり、缶詰の缶を地表に埋めて肉の腐食したものを中に入れ、引き寄せられて集
まる蝶を捕ることに使ったりしている。少し尾篭な話になるが、蝶の採集地のメッカ
として有名な台湾南投県埔里付近の渓谷では人が小便をする場所が決めてあり、その
小便の滲みた土にミネラルを求めて多種多様の蝶が集まってくる。台湾には蝶の採集
のガイドを専門にする案内人が何人もいるが、彼らも伝統的なそれらのあらゆる方法
を駆使し、踏襲して蝶を呼び集め、好事家の欲を満たさせて生計を立てている。
 話を本題に戻そう。筆者が出会ったクロアゲハも吸水と言うよりは海水の滲みた砂
の水分に含まれるエキス、マグネシウムやナトリウム等のミネラルを吸収しているの
であろうと推察できる。気温が上がると蝶は吸水をして体の中に水を循環させ肛門か
らどんどん水を排出して体温を下げている。この場合は淡水に限られるようである。
筆者が台湾で聞いた専門家の話では、吸水に集まるのは決まって雄(♂)で、雌(♀)
は絶対に混ざっていないとのことである。理由はまだ分っていない。まだまだ身近な
ことで少し気を付けて観察すれば、分らないこと、不思議なことは幾つもある。とこ
ろで今回見たクロアゲハは果たして雄だったのだろうか雌だったのだろうか。
                                   了
        旅先のクロアチア国ドゥブロヴニク市のホテルにて
                            2010年8月15日記
 
2010.10.16 清水 2年かかりの『ルリタテハ』飼育記      
 
2年かかりの『ルリタテハ』飼育記 横浜市 清水 有道
 
 『ルリタテハ』はタテハチョウ科の蝶で、英国では『ブルー・アドミラル(Blue 
Admiral)』と呼ばれている。学名は“Kaniska canace”、漢字では『瑠璃立羽』と
書かれる。
 日本でも全国の山間部に幅広く見られる『アカタテハ』が欧州でも広く分布してお
り、子供たちの間では『アドミラル』と呼ばれて、昆虫採集の恰好の獲物として垂涎
の的となっている。赤色のアドミラルが余りにも普遍的な種であるために、瑠璃色の
ルリタテハにはアドミラルにブルーが冠せられて、ブルー・アドミラルという固有名
詞で呼ばれるようになったのであろう。
 一昨年(2008年)に横浜市港北区日吉地区の我が家の庭にも温暖化現象のためかナ
ガサキアゲハ等の南方系の蝶が訪れることを書き、その際に野草の『ホトトギス』に
ルリタテハの幼虫毛虫がたくさん見付かり、花を見る前に無残に食い尽くされてしま
ったことも書き添えたように記憶している。昨年(2009年)も同じホトトギスの群落
に6匹の毛虫を見付け、4匹を飼育して綺麗な標本4頭を手にすることが出来た。
ホトトギスの葉の裏にぶるさがっているルリタテハの蛹
ホトトギスの葉の裏にぶるさがっているルリタテハの蛹
最初の1頭{蝶や蛾を数える単位は匹ではなく、頭(ト
ウ)が正式}は9月17日に、更に18日にもう1頭が蛹化
(ヨウカ)した。葉脈だけ残ったホトトギスの花の下に
逆さ釣りにぶら下がった蛹(サナギ)の様は異様である
(筆者の拙いデッサン図を参照下さい)。2日遅れて20
日に残る2頭が蛹化し、それぞれ4日後に羽化した。直
ぐに標本にするため展翅板(テンシバン)に固定した。
お蔭で4頭とも完全な標本として収納することが出来た。
勿論、成虫の蝶も今までに幾度も自分の網にしているけれども、敏捷に飛ぶ蝶だけに
採集した蝶の鱗翅(リンシ)の完璧な美麗標本は意外に少ないので標本箱に彩を添え
たことは言うまでもない。
 今年は庭のホトトギスの株が増えたのと関係があるのかは定かではないが、30匹は
下らないと思われるくらい、たくさんの毛虫が見られた。しかし、しっかり蛹になれ
たものは、僅かに6頭であった。
 蛹化が始まったところを蟻の集団に襲われたり、毛虫 羽化したルリタテハとその蛹の殻標本
羽化したルリタテハとその蛹の殻標本
のときや蛹化する際、静止して変態し、ホトトギスの茎
に逆さにぶら下がるときに、イモリやトカゲに食われて
しまうものが多く、やっと9月1日、6日にそれぞれ1
頭、9月7日に3頭、12日に1頭の計6頭が蛹になれた。
しかし、この6頭の内、羽化できたものはたったの2頭
で、9月1日と12日に蛹化したものだけだった。通常蛹
化してから1週間か遅くとも10日以内には羽化するのだ
が、9月6日に蛹化した1頭、9月7日に蛹化した3頭については、待てど暮らせど
羽化する様子が見られない。そこでよく蛹を調べてみると、毛虫のときに寄生蜂に卵
を産み付けられていたのであろうか、蛹になってからこの寄生蜂が幼虫になり、蛹
(サナギ)の中身を食い尽くしてしまい、蛹に大きな穴を開けて飛び出して行った後
昨年(2009年)に羽化したものを標本にした。
昨年(2009年)に羽化したものを標本にした。
だったのである。蛹はすっかり軽い、もぬけの殻になっ
ているではないか。完全に騙された思いで、虚しい世話
を悔いたことだった。毛虫のときにも、蛹に変態すると
きにも、いろいろ天敵があり、すんなり羽化できる蝶や
蛾は卵の数や毛虫の数に比べたらほんの少ししかない。
結局のところ、昨年以上の毛虫の数にも拘らず、無事羽
化できて、筆者が標本に作ることが出来た個体はたった
の2頭だった。労多くして実り少ない試みであった。 
 余談になるが、我が家では環境汚染を心配して農薬や殺虫剤を控えているためか、
庭には鱗翅目(リンシモク)(蝶や蛾)の幼虫の発生がよく見られる。数の多いもの
を挙げれば、山茶花にはチャドクガ、竹にタケドクガ、もみじにヤママユガ科のオオ
ミズアオ、グレープフルーツの木には何種類ものアゲハチョウ、クチナシにはスズメ
ガ科のオオスカシバの幼虫が毎年見られる。ドクガには今年も腕の皮膚をいやっとい
うほど刺されて、皮膚科の世話になった。学生の頃には、毎日のように触れていたせ
いか、ドクガの仲間にはどの蛾に対しても免疫になっていたが、触れる機会の減って
いるこの頃はもう神通力は無くなってしまったらしい。スミレで飼育したツマグロヒ
ョウモンの幼虫は、今年は全部鳥に啄(ツイ)ばまれてしまった。来年はもう少し変
わった種類がお目見えしてくれるだろうか。 完
                            2010年9月30日 記
 
2010.12.25 清水 『巣ごもり消費』
 
『巣ごもり消費』 横浜市 清水 有道
 
 OB会のメンバーでどのくらいの方々が日常生活の中から生まれては消え、消えて
は生まれる流行語に敏感に反応されておられるでしょうか。毎年「流行語大賞」が発
表されています。選ばれた流行語には新聞や雑誌などの印刷物の他に、テレビ、ラジ
オ、インターネットの画面を飾り、声に響いて人々の心の中に残った言葉で、なるほ
どと合点の行くのもが多いのは事実です。
 しかし、筆者には噂にも上らなかったにも拘らず、表 ファースト・フード店
ファースト・フード店
題の『巣ごもり消費』という言葉くらい言い得て妙なる
ものはなかったように思えてなりません。読者の皆さん
にはこの言葉の意味がお分かりになるでしょうか。ある
いは耳にされたことがおありでしょうか。
 近年とみに売り上げが伸び悩んでいるファースト・フ
ード店や新たに脚光を浴び、我も我もと雨後の筍のよう
に溢れんばかりに生まれ出てきた「B級グルメ」店がコ
B級グルメ店
B級グルメ店
ンスタントな売り上げに繋げるために考え出された変則
の「テイクアウト」に当る言葉であります。単純なテイ
クアウトではなく、車に乗ったまま降りることなくブレ
ークスルーするだけで注文した温かい食事を持ち帰ると
いう考え方から生まれたものです。米国などで盛んな銀
行の預金や引き出しが車に乗ったまま出来る便利な方式
を食べ物のテイクアウトに適用したものであります。我
が国でも最近は調剤薬局にもこの方式が応用されて来て
いるようであります。
 さて、本題の食べ物のブレークスルー方式では、温かい料理が冷めないように保温
容器に入れられて、値段も手ごろな殆んどが1000円以下とあって、過去に利用した人
たちの口コミと新たな宣伝によって、利用者は少しずつ増えているようです。
 問題は入手した食べ物を直ぐに車中で食べたり、途中どこか公園のベンチなどを利
用して食べるのではなく、家に持ち帰り、一人もしくは数人で寂しく食べるために、
表題のような言葉が冠され、使われているようです。その背景に引きこもりに通じる
発想が潜んでいると思われます。そのため一層今日の社会のあり方に密着した言葉だ
と感じ、生み出した人のアイデアルな踏み込みに喝采を送りたい気持ちになりました。
一人でも同調者を募りたく一文にしました。
                                   完
                            2010年12月20日 記
 
2011. 1.16 清水 四季を眺める美意識から絵が生まれる
 
四季を眺める美意識から絵が生まれる 横浜市 清水 有道
 
 清少納言の『枕草子』冒頭の良く知られた「春は曙。」に続く一節の後に「夏は
夜」、「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて(早朝)」とそれぞれの季節について一日の
内で最も印象深い自然の情景が展開されています。
 平安時代には既に季節の美しい風物を「景物(ケイブツ)」と呼び、春は花(桜)、
夏は郭公、秋には月、冬には雪を四箇の景物として今でも盛んに絵画、詩歌、書の世
界で使われています『雪』、『月』、『花』に鳥を代表して『郭公(ホトトギス)』
を加えていました。平安も後期になりますと、景物が一つ増えて五箇となり、『紅
葉』が加わりました。ご承知のように、短歌や俳諧の世界では、これらの景物を愛で
るために、季節を代表させる言葉としての『季語』が生まれています。勿論、花も季
節によりいろいろ変化がありますし、鳥だけではなく動物も季節を代表するものがい
ろいろありますので、例えば『花札』の絵柄のように動物と植物・花を組み合わせて
季節を更に細分化して、12ケ月に分けて月々の草花や動物が決められていったものと
思われます。月は景物の中でも年間を通して見られますが、もっともその本性を発揮
する時期とそれを鑑賞し、享受する側の人々の美意識とが合致する時として秋が選ば
れています。この決定には特定の歌人の判断があったのですが、日本人の美意識を変
革させる上で、特に後世に大きな影響を及ぼすことになりました。
 美術評論家の高階秀爾氏は自著『東と西の出会い 増補 日本美術を見る眼(岩波
現代文庫、文芸部門158番)』の中で、「日本人にとっては美とはむしろ時の流れとと
もに消え去り行くもので、失われ行くものに対する愛惜の思いが、美意識の重要な要
素のひとつとなっているのである。」と述べておられます(III 移ろいゆく美 繰り
返される記憶、233/234頁)。要は季節の盛りの景物を愛でるよりも、移り、失われゆ
く景物に哀れみと慈しみを感じたのではないでしょうか。
 筆者も絵筆を取る身の一人として、自分なりに感じた四季に纏わる美意識をもって
描いた風景を思い返してみると感慨深いものがあります。以下自分で描いた作品で未
だに心に残っているそれらの作品を生み出す源になった意識や感慨を綴ってみたいと
思います。
 先ずは枕草子と同様、おぼろに代表される春から順を エニシダの花開く不退寺
エニシダの花開く不退寺
追って進めて行きましょう。春の心象として真っ先に思
い出されるのは、昔の大和、今の奈良県法隆寺から法輪
寺を経て法起寺に至る菜の花の黄色が映える、のどかな
春の田園・斑鳩の道筋です。虚子が句にした法隆寺の鐘
の音は柿の生る秋でしたが、大和の穏やかな春のうらら
に霞むこれら三寺の名塔はどうしてか、筆者の脳裏から
決して離れない日本の代表的な景観と思われてなりませ
ん。
 次に、京都府の南端、奈良の柳生の里に近い、野仏の多い当生(トウノ)の里の、
分けても岩船寺(ガンセンジ)から浄瑠璃寺への山道も春のうららと遠い歴史の道を
たどる思いがして大層好きなところです。
 もう一つ挙げるなら、文字通りおぼろに煙る瀬戸内の太古からの潮と風待ちの港、
広島県福山市に入っている鞆の浦のわびしい静かな昼下がりや現在の本四三架橋の一
つ『しまなみ海道』に愛媛県にまで果てしなくおぼろに連なる大小の島々の重なりと
天空との交わりも印象に残る景色として幾つかの作品を生むことになりました。
 若葉が芽吹いた新緑の枝垂れた柳が白壁をバックに運河に映える倉敷市の風致地区
の景色も心安らぐものとして心に深く刻み込まれています。何枚もアングルを変えて
スケッチし、カメラに収めました。勿論同じくらいの時間をかけて大原美術館の名作
を鑑賞したことは言うまでもありません。
薬師岳山頂からの安達太良山
薬師岳山頂からの安達太良山
八幡平頂上からの八幡平
八幡平頂上からの八幡平
新緑の奥入瀬
新緑の奥入瀬
 春は何と言っても花、すなわち桜の景観ですが、日本の各地に名花・銘木がありま
すが、筆者の心に残るものとしては山全体を包む桜模様としての吉野、色濃く密度の
ある桜を量として鑑賞できる醍醐寺の桜、周囲の武家屋敷の風景と調和したしとやか
に枝を垂れる秋田の小京都・角館、昔の歌の世界を思わせる京都の大徳寺や哲学の道
が思い浮かびます。京都東山と言えば、銀閣寺の近くにある一世を風靡した日本画家
橋本関雪のアトリエ兼住居跡『白沙山荘』庭園の池に映える桜も筆者の好きなところ
で、何枚もの作品にしています。
 清少納言は『夏は夜』としていますが、筆者の絵には夜の作品は殆んどありません。
正直なところ、どうしても絵として纏め上げられないのです。従って夏では勢い、北
アルプスや南アルプスの尾根筋から早朝の雲海に取り囲まれた清浄な空気の中で眺め
る峻険な山肌が陽光に赤く染まってゆく光景や朝の陽光と共に湖面から昇り行く朝霧
にきらめく山肌を埋める木々の葉が数多くの緑の綾織を作る様は確かに比べるものの
ない強烈なものです。しかし、余りにもダイナミックすぎて、絵心には意外と響かな
かったように思います。
 今も筆者の心に忘れ得ぬ情景は平成9(1997)年7月29日の夕暮れ、標高が高いと
ころであるため既に紅葉の始まった田んぼと山野の奥に連なる福島県と新潟県の県境
をなす帝釈(タイシャク)山系の山並みを南会津・栃木県境に近い湯ノ花温泉の民宿
『かじや』から眺めてスケッチに描いた景色です。暮れなずむ多色・多様の緑と、寂
しい山麓の黒ずんでゆく陰影が織りなす、平凡ではあるが例えようのない自然の姿が
たまらなく筆者の絵心を誘ったのでした。部屋の奥から夕食の膳の整ったことを知ら
せる呼び声が掛かっても、温泉で山旅の汗を拭うことも後回しにして、一心に鉛筆と
絵筆を進めたのを思い出します。
 夏の八幡平の風景も筆者には忘れられない作品となりました。日の出、日の入りと
共に移り行く彩光が地塘の趣を変えてゆく様が何とも言えぬ風情を感じさせてくれま
した。
真夏の参道 亀岡文殊堂
真夏の参道 亀岡文殊堂
 夏の強烈な陽射しが深い寺社の杜の木立を通して斜め
に射し込む木洩れ陽も絵になる風景です。東北旅行の帰
路、山形県米沢市郊外を走っているときに立ち寄った大
聖寺と言うより日本三大文殊堂と呼ぶ方が分り良いでし
ょうか、そこで描いた作品も印象に残る作品の一つであ
ります。
 
  
 夏場の変わったところでは、厚岸市の名前の付いたアツケシソウ(俗に珊瑚草と呼
ばれる)の真っ赤に群生している北海道能取湖畔の広大な原っぱの光景も富良野に広
がる花の絨毯模様とともに強い色彩の印象を伴って脳裏に焼き付いています。
 夏の夕暮れでは日本海に沈む夕陽に幾つかの心に残るシーンが思い出されます。山
口県萩市の郊外、須佐の小さな港町で、ゆっくり腰を落ち着けて入日を眺めるために
木賃宿に泊まってまで準備をし、同僚を3人も帯同して旅を強行した若き日の思い出。
でも今でも誘った同行者はあの時以来未だそれを上回る夕陽は見ていないと会う機会
ごとに思い出話を繰り返しています。
 石川県能登半島突端の海に接した露天風呂からの夕陽、 万座温泉からの四阿山
万座温泉からの四阿山
山形県鶴岡市湯野浜温泉で沈み行く夕陽を正面に見なが
らゆっくり海の幸で地酒を傾ける夢心地、秋田県男鹿半
島入道崎で風に顔面を痛めながら眺めつくした夕陽、そ
れに北海道礼文島の海浜からの夕陽も忘れられません。
それらの中では、唯一湯野浜温泉からの夕陽のみ作品に
残すことができました。日の入りは眺めていると絵にす
るチャンスを逸するか、作品にしても万分の一も受けた
印象を作品に写せないからです。長い全体が一幕のショーで、一コマの絵にきった物
ではこのショーは表せません。描く本人は脳裏に前後の情景が描けていますが、それ
らは絵を瞬間で見る人々に思い起こさせようとしても絶対にできない相談だからです。
 夏場の北海道では胸のすく思いの二つの場面を今でも鮮やかに思い出せます。一つ
は知床半島の最高峰羅臼岳山頂からの国後島(クナシリトウ)の眺望、もう一つは利
尻島の海水レベルからまるまる1700メートル以上を殆んど直登を強いられて登った利
尻富士山頂から樺太を眺めたときの驚き、共に日本の最果ての地から異国を眺めたと
いうなかなか味わえない経験にもなっています。
 反対に韓国の釜山市の高台から遥かに日本の対馬を見たときにもそれらに似た感慨
を味わったことを憶えています。これらはいずれも作品には作れませんでした。思い
返してみれば、空中写真のようなアングルは絵の世界には馴染めないものと決め込ん
でいたように思えます。
 日本古来の短歌の世界でも、清少納言の挙げる情景でも、秋は夕暮れであり、感傷
的な鹿などの動物の鳴き声や虫の音が断然上位にありますが、筆者にはやはり織りな
す彩錦の紅葉の風景が先ず思い浮かびます。大きな谷や山々の斜面を埋め尽くす錦秋、
彩鏤(チリバ)める谷紅葉が一番であると思います。印象に残るところでは、黒部の
峡谷、立山、上高地、中央アルプスの千畳敷カール(圏谷)、北八ヶ岳、鳥海山、早
池峰山、八甲田山などの雄大な斜面を覆う紅葉、阿武隈川、大井川などの源流、白鳳
渓谷、西山渓谷、昇仙峡など描いた場所はとても数え切れません。 他では、東京に
近いところでは、那須、塩原、日光、箱根も陳腐ではありますが、何回も自分の絵筆
に写しました。那須の茶臼岳の裏側、三斗小屋から沼っ原に抜ける道に沿って点在す
る小沼に映る紅葉の絨毯は大好きなアングルです。
錦秋天人峡羽衣滝
錦秋天人峡羽衣滝
紅葉燃ゆ
紅葉燃ゆ
荒管沢から雨飾山主峰
荒管沢から雨飾山主峰
 北海道の紅葉にも素晴らしいものがあります。函館市内の街路樹として植え込まれ
ているナナカマドの葉と赤い実の列も鮮やかですし、阿寒湖に近い静寂の湖オンネトー
に映える赤、紫、黄の錦、大雪山旭岳の姿見の池に映える紅葉、天人峡羽衣の滝と周
囲の紅葉も絵にした場面として思いで深いものがあります。
 紅葉の赤で忘れられないのは、京都の永観堂の景観でした。また絵にはできません
でしたが、真っ青の空を埋め尽くす無数の赤とんぼが山頂の空を覆い隠している東北
の主峰・尾瀬の燧ケ岳の景色も筆者には忘れがたい季節のエピグラフです。
 最後に冬ですが、真冬に外で絵の制作をすることは殆んどありませんので、しょせ
ん作品の数も数えるほどはございません。むしろ早春の残雪の風景に限られてしまい
ます記憶に残るシーンとしては会津駒ケ岳、湖面をなでて吹き寄せる風を受けて感じ
る冬静寂の中の支笏湖と周囲の恵庭岳や樽前山などの佇まい、北アルプス蝶ヶ岳や爺
ヶ岳、後立山連峰の残雪の山並みなどを挙げておきたいと思います。
 以上筆者の身勝手で偏見に満ちたものを紹介してしまいましたが、旅をし、山登り
の序に山野草を愛で、心にひらめく景観に出会って水彩画に写す絵が出来るまでの心
境を記してみました。 また近い内に次の個展の機会が持てましたら、そのときの絵
の背後に上記のような筆者の美意識が働いていることを思い起こしていただければ幸
せです。大げさに美意識と呼べるかどうか妖しいものですが、一緒に考えていただけ
れば嬉しく思います。
                                   完
2010年12月30日 記
 
2011. 5.29 清水 加齢男性の小便作法
 
 加齢男性の小便作法 横浜市 清水 有道
 
 『フェルミーナ・ダーサがはじめて小便の音を聞いた男性は夫だった。新婚旅行で
フランスに向かう船のキャビンで、夜にその音を聞いたのだが、あのときは船酔いの
せいでひどく気分が悪かった。あのような立派な人物にふさわしくない、馬の小便を
思わせる力強い音を聞きながら、自分の身がもつだろうかと不安になった。年齢とと
もに小便の音は小さくなっていったが、それとともにしばしば昔のことを思い出すよ
うになった。というのも、夫がトイレを使うと、そのたびに便器の縁が濡れるように
なったのだが、それがどうしても許せなかった。ウルビーノ博士は、分かる人にはな
るほどと思える説明をして妻を説き伏せようとした。お前が言うように毎日便器が汚
れるのは、不注意だからではない。あれは生理的な理由によるものだ。これでも若い
頃は勢いよくまっすぐ飛んだものだから、学校でビンを置いて放射競技をしたときに
優勝したくらいだ。しかし、歳をとるにつれて、勢いがなくなり、斜めに飛んだり、
枝分かれするようになった。おしまいにはまっすぐに飛ばそうといきんでも、きまぐ
れな噴水のように四散してしまうんだよ。<<水洗便所というのは、男のことも何も
知らない人間が考え出したものだ>>と彼はよく言ったものだった。結局、卑屈とい
うよりも屈辱的な行為を毎日行うことで、家庭の平和を乱さないことにした。つまり、
トイレを使うたびにトイレット・ペーパーで便器を拭くようにしたのだ。彼女は気付
いていたが、バスルームにアンモニア臭が立ち込めるまでは何も言わなかった。臭い
がひどくなると、犯罪行為を見つけでもしたように、<<まるでウサギ小屋みたいに
臭うわね>>と言った。老いの坂にさしかかる頃になるとウルビーノ博士は身体が思
うように動かなくなったが、その頃になってようやく最終的な解決法を見つけ出した。
つまり、妻と同じように便器に座って用を足すことにしたのだが、おかげで便器は汚
れなくなったし、本人も安らかな気持ちになった。』
                   (G・ガルシア=マルケス著、木村榮一訳
『コレラの時代の愛』2006年10月30日新潮社発行単行本53〜54頁)。
 いきなりとんでもない文章を登場させてしまいました。この題名で今回文章を綴ろ
うと思い至る直接の引き金になったものとして引用したのですが、本文に入る前に、
この文章の作者と筆者の好みについて一言付記させてください。
 筆者はこの3月、忙しい毎日の仕事の合間を使って相 JR浜松町駅の小便小僧(5月)
JR浜松町駅の小便小僧(5月)
当の厚みのあるガルシア・マルケスの『コレラ時代の愛』
(El amor en los tiempos del colera)を読破しました。
筆者は以前に何回かこの紙面に書いたように記憶してい
ますが、現代の海外作家では、ノーベル文学賞受賞作家
の、コロンビア出身のガブリエル・ガルシア=マルケス、
英国ブッカー賞受賞作家のカズオ・イシグロとアニタ・
ブルックナーの3人が好きで、これら3人の殆んどの作
品を原文と訳文の両方で2〜3回繰り返し読んでいます。カズオ・イシグロは若干他
の二人とは趣を異にしています。何故なら、遠い昔の日本のことが潜在的な記憶の中
に、大きく育ってきて、時々現実の中に現れ出でて、現実の社会との共生が難しくな
るさまを、角度を変え、首題を変えて表現しているのですが、他の二人はもっと現実
生活のそれも普通の事柄、人間関係、井戸端会議にも似た世間話に左右される個人の
脆さ、たわいなさを見事に描いていると思えて共感する部分が多いためです。
 今回読みきった『コレラ時代の愛』は著者が1985年に発表したものであります。ご
承知のように、ガルシア・マルケスは1967年著者37歳のときに発表した『百年の孤独』
(Cien anos de solidad)で一躍有名になり、その後の南米文学の先駆者として世の
注目を浴び、不動の地位を築き上げた作家であります。育ったコロンビアという国の
特殊事情もあって苦学の末、ジャーナリストの道を歩んで、広く欧州での取材を通じ
目にしたいろいろな社会制度に批判を織り交ぜながら、この世にありえない仮想世界、
理想世界と現実世界の対比を描いて、どの作品も読んでいる読者自身の賛同がないま
ま納得させられ、少しも後味の悪い思いをしないという不思議な体験をさせられる作
者であると思っています。
ガルシア・マルケス
ガルシア・マルケス
 今回取り上げようとしているガルシア・マルケスの文
章は、筆者が日頃家庭内で女房、娘といさかいになった
り、自分自身でわが身の加齢による放尿時の変化や若年
時には絶対になかった粗相やその他平生気に掛けている
事柄を実に巧みに、しかもさらっと綴っている筆力に感
心して、是非皆様にも紹介したいと思ったからでありま
す。ポルノ小説ならともかく、尾篭なことを普通の文章
の中に事細かく書くことはなかなか出来そうで出来ない
ことだと思うからです。筆者の家のトイレに男性用として、別に朝顔様の設備をすれ
ば事情はもう少し変わるのでしょうが、筆者の経験でも、男女兼用の西洋便器ではま
さにガルシア・マルケスの書いている有様が間違いなく起こるので、引用した文章は
けだし実話の描写としてよくもここまで書いてくれたものだと合点が行き過ぎるから
であります。それにも増して感心に堪えないのはトイレの汚れや臭いが加齢とともに
夫婦間の会話に占める比重が高くなることを作家である著者は十分に心得ていて、文
中の老夫婦の会話にそれをうまく乗せていること、著者が自分の生活と身体の観察か
ら実証として捉えたカラダのあらゆる部分の衰え、男性の一物の萎えからもたらされ
る若いときにはなかった気が滅入るような不都合を分りやすく解説口調で語らせてい
ることです。当たり前といえば全くその通りなのですが、それを逆に真面目に取り上
げて、避けて通れない人間の終焉に至る事象を優しい目で見詰め直しているようでも
あり、微笑ましさすら感じられるからです。絵画にも写真よりも精密とさえ思うほど
の超写実という手法がありますが、文章にも丁寧であって、書き過ぎにならない境が
あるということでしょうか。筆者が「歳を増して少し関心の的がおかしいのではない
の!」と言われるでしょうか。
                          (2011年4月 記)