| | | |
1.信長も絶賛した富士山(プロローグに代えて) |
標高3,776m山梨県と静岡県の境に位置する日本の最高峰であり、2番目に高い南 |
アルプスの北岳(3,192m)よりも584mも高いので、高さにおいては断トツなのが富士 |
山である。今年も夏山シーズンを迎え、富士登山は大人気である。特にここ2〜3年 |
は登山者も増加傾向にあり、環境省の調査によれば、一昨年は30万5千人、昨年は29 |
万2千人が登ったという。現在利用されている登山口は、吉田(河口湖)口、富士宮 |
口、御殿場口、須走口が主なもの(かつては村山口、精進口、船津口も利用された) |
で、このうちスバルラインの利用できる吉田口から登る人が56〜58%を占める。登山 |
者数のデータは、八合目で赤外線センサーによって測定されたもので、登山口におけ |
るデータと比較すると、山頂又は八合目以上に登るのは全登山者のうちの約7割と思 |
われる。 |
さて、古から日本人は富士を詠み、語り、描いてきた。 |
富士の全景(1月、乙女峠より) |
山部赤人が『万葉集』に詠み、雪舟が水墨画に描き、北 |
斎や広重が浮世絵に描き、太宰治が執筆し、岡田紅陽が |
写真に撮った。日本人は古来富士に対して憧れ、信仰し、 |
畏怖の念を持った。日本人の心には気高く美しい富士山 |
が常に高く聳えており、象徴的な存在なのだ。 |
「富士に登らずんば山を説くなかれ」「富士に登って山 |
岳の高さを語れ」と言ったのは、明治の紀行文家、大町 |
桂月である。 |
いま、「歴女」という新語に象徴されるように、戦国武将や坂本竜馬などちょっと |
した歴史ブームになっているが、あの織田信長が最強の敵武田氏を滅ぼして、戦後の |
見分で甲州へ入ったとき初めて富士山に見参し、「高山に雪積って白雲の如くなり。 |
誠に稀有(けう)の名山なり」と絶賛したという(『信長公記』)。戦勝気分で得意 |
絶頂の信長が、富士を眺めながら裾野を馬で疾駆する姿が目に浮ぶようだ。天下統一 |
を目前にした風雲児信長は、このあと本能寺で波乱の生涯を閉じることになるが、正 |
に富士山の見物が冥土の土産だった。 |
時代は遡るが、源頼朝が平氏を滅亡させ、奥州藤原氏を滅ぼしたあと、1192年征夷 |
大将軍に任ぜられて鎌倉幕府を開いた。その翌年、富士の裾野で大規模な巻狩りを行 |
う。これは軍事訓練を兼ねたもので、武家による政権交代を内外に示す一大デモンス |
トレーションだった。覇者となった頼朝の目に、雄大な富士はどのように映ったであ |
ろうか。因みに有名な曽我兄弟の仇討ち事件はこのとき起ったものである。 |
2.富士山は三つの火山の合作である! |
現在、われわれが見る美しい裾野を引いて均整のとれた富士山の姿は、今から1万 |
年ぐらい前にでき上がった「新富士火山」であり、実はもっと古く富士山の母体にな |
る火山が二つもあったのである。 |
日本の本州はかつて南北に分断されていた時期があった。その間にある溝が糸魚川 |
ー静岡構造線という狭い地溝帯、いわゆる「フォッサマグナ」で、その後の造山活動 |
で御坂山地などが生まれ、さらに太平洋からフィリッピン海プレートに乗った丹沢山 |
地が、さらにその後伊豆半島がぶつかったりして、今のような陸地が形成されていっ |
た。70〜80万年前にその近くに愛鷹火山や箱根火山と共に「小御岳火山」が噴火し、 |
それぞれの火山が競うように噴煙を上げていた。小御岳火山の頂上は、現在のスバル |
最高点の剣ヶ峰(7月) |
ライン終点の五合目付近にある小御岳神社の辺りである。 |
第二の富士山は、今から2〜3万年前に出現し、「古 |
富士火山」と呼ばれる。この火山は標高2,800mくらいで、 |
約1万年間激しい噴火活動を続けたという。 |
第三の富士山、つまり「新富士火山」は7〜8千年前 |
に噴火を始め、約5千年前に今のような円錐形になった |
とされている。新富士火山は巨大で、先輩の小御岳火山 |
や古富士火山を覆い尽くしてしまったが、宝永の大爆発 |
(1707年)のとき、二番目の古富士火山の山頂が宝永噴火口の近くに僅かに姿を現し |
た。それが現在赤岩と呼ばれる所である。このように富士山は三つの火山で成り立っ |
ているのである。 |
なお、「関東ローム層」と呼ばれる赤土の地層は、関東周辺の諸火山からの火山灰 |
の堆積であるが、特に古富士火山の噴火によるものが多いようで、西風に乗って関東 |
平野に降りそそいだものとされる。筆者の住む相模原は、ひと昔前には風の強いとき |
など物凄い土・砂塵が舞い上がり、「さがみっぱらの空は赤茶色に見える」と言われ |
たそうである。 |
3.富士山は再び噴火する!? |
富士山は過去に何度も噴火、爆発している。最も古い記録では781年であるが、それ |
以前も何十年に一回は爆発していたのであろう。大爆発の記録は800年に起ったもので |
「延歴の噴火」と呼ばれ、噴出する火山弾や火山灰が降りそそいだ。その2年後にま |
た噴火があり、当時御殿場から足柄峠を通っていた東海道は通れなくなり、箱根道に |
移したという。864年の大爆発は「貞観(じょうがん)の噴火」と呼ばれ、このときは |
頂上からでなく、北西の長尾山という側火山から溶岩流が流れ出し、現在の青木ヶ原 |
を埋め尽くし、やがて大樹海が形成される。かつて本栖湖と並んで存在した「せの湖 |
(うみ)」という大きな湖は、本栖湖、精進湖、西湖の三つに分けられた。それから |
10世紀には5回くらい、11世紀に4回くらいの小噴火があった。『太平記』の中にも |
「雪の中より立つ煙」とあるが、武士が活躍する時代には富士は噴煙を上げていて、 |
時々小規模な噴火をしていたのである。 |
時代は流れて1707年(宝永4年)、いわゆる宝永の大 |
宝永山(7月、第二火口付近より) |
爆発が起って、江戸市民を恐怖のどん底に陥れた。この |
大爆発も頂上からでなく、南東斜面の宝永山の噴火口か |
らであり、山麓を3〜5mの火山灰層で埋め尽くした。 |
江戸では灰が降りそそぎ、地鳴り、地震、雷鳴がひっき |
りなしに起り、空は暗くなって昼間でも行燈(あんどん) |
を灯したという。現代の都会に当てはめたら、どんなパ |
ニックが起きるだろうか。江戸でもこんな状態であるか |
ら近隣の地方ではひどい惨状で、ひっきりなしに地震と地鳴りが起り、由比、蒲原辺 |
りの家屋は残らず倒壊し、東側の村々には火山灰や火山礫が降りそそいで家屋は燃え、 |
地割れ、がけ崩れが起り、村ごと残らず死亡した所や火山灰で埋没した村もあったと |
いう。 |
宝永の大爆発から現在まで約300年間、火山活動を休止している富士山はこのまま火 |
山活動を終了させてしまうのだろうか。他の火山を調べてみると、何百年も経って大 |
爆発を起した例は幾つもあるのだ。例えば、鳥海山は720年、磐梯山は1000年以上、那 |
須岳は400年、焼岳は300年、桜島は750年とそれぞれ活動休止期間をおいて大爆発した |
記録をもっている。だから300年から1000年活動しなかったとしても、火山活動が完全 |
に終ったとは言えない。「富士山は再び爆発する!」と考えておいた方が無難だろう。 |
| | | |
2.外国にあるそっくりの山 |
世界に目を向けると、富士山によく似た山があちこちに見られる。アメリカのワシ |
ントン州にあるマウント・レーニア(4,392m)は、コーヒーの商品名でよく耳にする |
山名であるが、「タコマ富士」と呼ばれている。これはタコマ市の日系人たちが祖国 |
の富士山を想ってそのように呼んだもので、確かにシアトル市から眺めた姿などは雪 |
を戴いた富士山を彷彿させる山容である。2001年7月、筆者はこの山に登ったが、同 |
じカスケード山系の周辺の山々が3千m級の高さなので断トツに高く、氷雪の本格的 |
な登山を目指すアメリカの若者たちが登りに来ていた。頂上部は富士山の噴火口のよ |
うな荒々しさはなく、スケールの大きい平坦なクレーターが広がっていた。アフリカ |
の最高峰でタンザニアとケニアの国境にあるキリマンジャロ(5,895m)もコーヒーの |
名で知られた名山だが、2000年1月に登ったことがある。最後の登山道の様子などは |
富士山に似ていたが、頂上部は全く巨大な地形になっており、氷河なども存在した。 |
遠くから眺めた山容は、どちらかといえば木曾御嶽に似ていた。 |
世界には他にも富士山に似ている山があり、「ニュー |
コトパクシ(南米エクアドル) |
ジーランド富士」と呼ばれるマウント・エグモント |
(2,518m)、「イラン富士」と呼ばれるダマバンド |
(5,670m)はじめ、ノアの箱舟で知られるトルコのアラ |
ラット(5,165m)、カムチャッカ半島のクリチェフスカ |
ヤ(4,750m)、南米にあるコトパクシ(5,897m)、リカ |
ンカブール(5,921m)、オルソノ(2,660m)など、い |
ずれも富士山そっくりである。 |
| | | |
3.なぜ「フジサン」と呼ばれるか? |
世界に冠たる美しいコニーデ型の山、日本一の山を誰もが富士山=フジサンと呼ぶ。 |
一体なぜ「フジサン」なのか。この問題を詮索するとこれまた厄介で、この山名の由 |
来を論述するだけで一大論文ができてしまうほどである。 |
主な語源説のうち一つはアイヌ語説で、火の山をアイヌ語では「フンチヌプリ」と |
いい、このフンチ(フチともいう)がフジになったという説、また噴火を「プシ」と |
いうのでそこからフジになったという説もある。もう一つはマレー語説で、「素晴ら |
しい」を「プシ」又は「白い(雪)」を「フシ」ということからフジになったという |
説である。アイヌ語説はひと頃勢いがあったが、古代のアイヌ人が関東以西にいたと |
いう根拠も薄いし、アイヌ語研究で有名な金田一京助博士もアイヌ語説には否定的だ |
った。 |
最近では素直に、日本人が呼んだ地名「富士」から名付けられたという説が唱えら |
れている。裾野を長く引く様を藤の花にたとえたのでは、ということから「フジ」の |
地名となり、それが「フジの大山」の語源となったのではないかというのである。案 |
外「二つとない」から「不二」になったとも考えられなくはない。 |
ややこしい山名由来論はこのくらいにして、文字の上で「富士山」が登場するのは |
平安初期の漢文学者、都良香(みやこのよしか)が書いた『富士山記』が最初とされ |
る。もっと古く713(和銅6)年に出された『常陸風土記』にも書かれているが、そこ |
では「福慈岳」となっている。序にフジを表わす文字は、他に不尽、不二、布自、布 |
士、不時、富岻、藤、不死などと表わし、別称の富嶽、芙蓉ノ峰などを含めると相当 |
数あり、日本山岳会創立に貢献した一人、高頭 式(たかとう しょく)のまとめた |
『日本山嶽志』では36通り、また遠藤秀男という人によれば45通りもあるというから |
驚きである。一般に「富士山」として書かれるようになったのは、鎌倉時代以降の武 |
士の時代と思われる。 |
| | | |
4.富士山に最初に登ったのは誰? |
富士山の祭神とされるコノハナ(ノ)サクヤビメ(木花開耶媛命、木花佐久夜比売 |
など表記はいろいろ)が「永遠の命を天にもとめるために登山した」といわれている |
が、これはあくまで神話の世界の話である(注.祭神については別章で触れる)。ま |
た、ヤマトタケル(日本武尊、倭健命)が東征のみぎり、富士山頂を征服したとされ |
るが、これも伝説的である。330年ごろ、秦の始皇帝の命により、徐福が不老長生・回 |
春の妙薬探しに東方の国日本にやって来て、富士山に登ったというが、これも伝説の |
域を脱しない。ましてや聖徳太子が甲斐産の黒馬にまたがって、天空より山頂に至っ |
たという話になるといよいよ空想の世界である。 |
役小角(えんのおづぬ、役の行者)は大和葛城山で修行し、吉野大峯山を開いたと |
して修験道の開祖とされる実在の人物なのだが、謎が多く、讒言(ざんげん)によっ |
て流された伊豆大島から夜な夜な空を飛んで富士山頂へ行ったというので、現実的に |
は考えられない。その他、天智天皇、桓武天皇、空海(弘法大師)らが登山したとい |
う伝えもある。 |
前述の都良香が著した『富士山記』の中に、富士山頂の様子を克明に書いた文があ |
り、その中に「山頂は蒸し器のようにくぼんで、神々しい池があり、池の中にはうず |
富士山火口 |
くまった虎のような岩があり、そこは常に蒸気が上って |
いる」という意味の記述がある。実際に火口には「虎岩」 |
と呼ばれる大岩があり、今は池こそないが春から初夏に |
かけては浅間神社奥宮近くに溜り水が現れたり、つい戦 |
前までは蒸気を上げていた所もあった。良香自身は富士 |
に登ったことがなく、想像だけでこれだけリアルに描写 |
できるものではないので、誰か実際に登った人がいて聞 |
き書きしたとしか考えられない。9世紀初め頃富士山は |
噴火を繰返し、登山は危険だったと思われるが、826年の噴火以降、864年の爆発まで |
の間安定期があり、その間に登った人がいて良香に山頂の様子を語ったのだろう。人 |
名は不明だが、その人が信頼できる記録上の初登山者ということになろうか。 |
はっきりしているのは平安末期(1149年)、富士上人と呼ばれた僧末代(まつだい) |
が登頂し、山頂(奥宮の位置)に大日堂を建立したということであり、その際埋めた |
といわれる経文が昭和5年に発掘されて史実が証明された。欧州アルプスの最高峰モ |
ンブランの初登頂より6世紀以上も早く、欧米人と山岳観が異なるとはいえ、日本人 |
が山に関わった歴史の長さを感じる。 |
女性登山者第一号は、武州鳩ヶ谷の富士講(注.富士講については別章で触れる) |
の一人「たつ」であり、1832(天保3)年のこと、女人禁制の山だったため、旧暦の |
登山期7、8月を外して9月に登った。男装の行者姿で登ったのではないか、といわ |
れている。 |
| | | |
1.富士山の祭神は美しき女神 |
近世まで山は悪魔の棲家とされてきたヨーロッパとは違って、日本では山は太古の |
昔から水を育み、豊穣をもたらす神の座す所として崇められてきた。山は神が降臨す |
る神聖な磐座(いわくら)であり、祖霊が集う霊地でもあった。 |
わが国では、もともと神仏混淆(こんこう)といって、 |
美しき女神の座す霊峰富士(思親山より) |
本地(本来の姿)を仏とし、その垂迹(すいじゃく)す |
なわち仮の姿を神とする、仏教と神道が一体の宗教だっ |
た。富士山は大日如来を本地とし、その垂迹神は浅間大 |
菩薩、浅間大明神とされ、寺社は神仏一体化していた。 |
明治以降は、後で述べる神仏分離令によって山梨県富士 |
吉田市の浅間神社、静岡県富士宮市の浅間大社、裾野市 |
の須山浅間神社などに統合され、いずれも浅間大神が富 |
士の祭神とされた。浅間は今では「センゲン」と発音するが、もともと「アサマ」で、 |
これも語源はマレー語など南方系言語の煙・灰・湯気などを「アサ・アサプ」といっ |
たことから、各地の火山や温泉周りにアサマ・アソ・アタミなどの地名が散在する理 |
由となっている、と解く説もある。脱線したので元に戻そう。大日如来の垂迹は普通 |
アマテラスオオミカミ(天照大神、天照大御神)とされるが、富士山の場合、浅間の |
神がコノハナ(ノ)サクヤヒメ(木花開耶姫命、木華咲耶姫命など表記は神社によっ |
てまちまち)と一体化して主神となった。秀麗な富士に相応しい美しき女神という観 |
念は、奈良時代からあったといわれるが、具体的にコノハナサクヤの名前が謂われる |
ようになったのは慶長年間のことらしい。コノハナサクヤは、山の神であるオオヤマ |
ツミ(ズミ)(大山津見神、大山祇神)を父神とし、高天原から神々を率いて高千穂 |
のクシフルタケに降臨した天孫ニニギ(邇邇芸命)に見初められて皇姫となった。 |
オオヤマツミはアマテラスの兄神であり、ニニギはアマテラスの孫神である。(天孫 |
降臨神話は九州に渡来したヤマト王権のルーツにつながる言い伝えではないだろうか) |
因みにコノハナサクヤの姉神はイワナガヒメ(磐長姫、岩長姫)で、吉田口五合目に |
ある小御嶽神社に祀られている。こちらは妹のコノハナサクヤとは対照的に容姿が劣 |
った女神とされている。こんな伝説もある。富士の神のコノハナと、八ヶ岳の神のイ |
ワナガが争って、コノハナが八ヶ岳を蹴飛ばしたため、山が裂けて今のような連峰の |
姿になったという。美しくも荒っぽい女神様の話である。 |
2.仏の受難−神仏分離令 |
1868(明治元)年、明治政府による神仏分離令が発せられ、それによって起った廃 |
仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動で全国の多くの仏像や文化的遺産が廃棄、破壊され |
た。日本の文化史上例を見ない天下の悪法だったといわれている。1874(明治7年) |
須山口登山道の起点となる須山浅間神社 |
年、仏教的地名が改称され、山名なども影響を受けた。 |
富士山の頂上には、かつて地蔵、観音、阿弥陀、弥勒、 |
薬師、文殊、普賢、大日など仏名があった。直径約800m |
の噴火口(内院という)を取りまく火口縁を一周するこ |
とを「御鉢巡り」というが、ピークが八峰あって、八葉 |
と呼ばれた。これは仏には欠かせない蓮華に見立てたも |
のである。富士山の絵を描くときに、誰もが山頂の部分 |
を三つか四つのギザギザで表すのは、この八峰の手前側 |
の幾つかが常に見えるからである。因みに、その八峰を最高峰の剣ヶ峰から時計回り |
に紹介すると(かっこ内は改称前の山名)、剣ヶ峰、白山岳(釈迦ヶ岳)、久須志岳 |
(薬師ヶ岳)、大日岳(朝日岳)、伊豆ヶ岳(阿弥陀岳)、成就ヶ岳(勢至ヶ岳)、 |
駒ヶ岳(浅間ヶ岳)、三島ヶ岳となり、仏名ではかろうじて大日岳のみが現用されて |
いる。 |
明治以降は、仏や寺が廃されて、富士浅間神社として神が祀られるようになった。 |
3.昔の富士登山は宗教者に限られていた |
前にも述べたように、役行者小角(えんのぎょうじゃ・おずぬ)は、680年ごろ富士 |
山へ登って修業したと伝えられる。大和葛城山で修行し、吉野大峯山を開き、後に神 |
変(じんべん)大菩薩として、山岳修験道の開祖と崇められている。讒言(ざんげん) |
されて伊豆大島へ流されたとき、夜間に空を飛んで富士へ登り、修業したという伝承 |
のあることも前に書いた。伝承を裏付けるかのように、富士周辺、伊豆、箱根などに |
は像があったり、関東一円の山に伝説が残されている。身近なところでは、丹沢表尾 |
根の行者岳に役行者の石像があり、八王子の高尾山にも神変大菩薩の堂として中に像 |
が祀られている。実在の人物だが、その能力や行動の伝承があまりにも超人的なので、 |
どこまで信じてよいのか分からないというのが正直なところである。昨年6月、大峯 |
奥駈道を歩いたとき、山上ヶ岳(ここは今でも女人禁制の山)の山頂にある大峯寺本 |
堂で、宿坊の管理人の特別な計らいで役行者像を拝顔させてもらった。大峯に10年間 |
籠って修業したと伝えられるその表情は非常に厳しかった。 |
平安後期になると、これも前に触れたが、末代上人が |
《お鉢めぐり》正面の山は白山岳 |
村山口から数百度にわたって富士登山を行い、富士上人 |
と呼ばれた。上人は十国峠に近い日金山(ひがねさん) |
東光寺に葬られているが、この東光寺への参道は、今で |
もハイキング道として熱海と湯河原からのコースがある。 |
富士山頂に大日堂を建てたことも既に書いたが、末代が |
自然崇拝の信仰から、仏教色の強い山岳宗教へ変えたと |
いわれ、13世紀には親鸞や日蓮も登ったと伝えられてい |
る。 |
富士信仰が庶民のものになるのは江戸時代だが、末代の時代から江戸時代中ごろま |
で、富士山に登るのは、修験の行者、山伏、僧侶、神官など宗教関係の人に限られて |
いた。戦国時代には、稀に北条早雲や武田信虎などの武将が戦勝祈願のため登拝した |
と伝えられる。 |
1600年ごろ、長谷川角行(かくぎょう)という行者が現われ、富士山に128回も登っ |
て修行し、次第にその名声が江戸市民に広がっていく。角行は「富士は根本神」「山 |
頂には浄土がある」と説いて、その教えは後々伝えられ、信者は増大の一途をたどっ |
た。 |
江戸後期になると、もう一人の行者が登場する。食行身禄(じきぎょうみろく)で |
ある。貧乏生活をおくり、「乞食身禄」と呼ばれた。時あたかも八代将軍吉宗の時代 |
で、享保改革が断行され、米価が高騰したり、打ちこわしが頻発したりして社会情勢 |
は不安定だった。身禄は幕府の政策に反抗して富士山の七合五勺で断食入定し、生き |
仏となった。平等思想を説いた身禄の教えは富士信仰を一層隆盛化させ、江戸の民衆 |
の間に浸透していった。 |
4.レクリエーション化していった庶民の富士信仰 |
「富士講」と呼ばれる団体がある。これは大山講とか御嶽講と同様で、富士山に参 |
詣する目的で結成された団体、互助会的な仕組みで、江戸八百八講、講中八万人とい |
われるほど沢山できた。富士登拝を総括する御師(おし)が神職と宿坊を兼ね、その |
下に講のまとめ役の大先達、講の行動を指揮する先達がいた。富士講は江戸市中の商 |
工業者が多く、やがてレクリエーション的な要素も加わって派手になったので、幕府 |
が禁止令を出したこともある。この拡大化した富士講に一大変化をもたらしたのは、 |
前述の明治新政府による神仏分離令や修験道廃止令であり、続いて起った廃仏毀釈 |
(はいぶつきしゃく)運動だった。あれほど栄えた富士講は、明治以降急速に衰退し |
ていった。 |
羽田神社にある富士塚《羽田富士》 |
ところで、江戸市中や周辺地域に富士山が幾つも存在 |
すると言ったら、「そんな馬鹿な!」と言われるかも知 |
れない。実は富士講に参加できない人や、女人の信仰心 |
を満たすため、富士山を模したミニチュア富士を人工的 |
に築いたのである。富士塚と呼ばれ、都内に100基近く築 |
かれた。現存するのは70基ほどである。驚くことに、関 |
東地区では1000基近くも築かれたという。いかに富士信 |
仰が普及したかを物語っている。因みに、大田区で残っ |
ているのは、羽田神社(大鳥居駅から徒歩15分、大師橋の袂)にある「羽田富士」で、 |
この塚は明治初年に築かれた。本殿の左奥、木立に囲まれた中にあるのだが、登山道 |
も設けられ、途中に「合目」を示す石柱も立っており、頂上には浅間神社の祠が祀ら |
れている。講名は「木花講」となっている。 |
| | | |
1.富士山を讃え、高さを測った外国人たち |
西洋人で早期に富士山を讃えた人は、元禄3年に渡来したドイツ人医師ケンペルで、 |
富士の印象を「その姿は円錐形で左右の形が等しく、堂々としていて、草や木は全く |
生えていないが、世界中で一番美しい山というのは当然である」と書いている。これ |
は『江戸参府紀行』に書かれているが、他に『日本誌』がその死後、蘭・独・仏語で |
出版されて日本ブームを招いたという。日本の歴史、宗教、植物、地理を研究した人 |
で、その顕彰碑は箱根旧街道を元箱根から少し登った所 |
外国人も讃美し、登った富士山 (雨ヶ岳より) |
にある。 |
幕末になると、気圧計で富士山の高度を測ろうとした |
同じくドイツ人医師シーボルトが現れる。シーボルトは |
もともとオランダ政府から日本研究の依頼を受け、商館 |
付医官として文政6年来日、長崎で塾を開いて日本の青 |
年たちに自然科学を教えた。来日5年目に有名なシーボ |
ルト事件(日本地図持ち出し)で国外追放されたが、弟 |
子の二宮敬作が自ら登頂して測定した富士山の標高は3796m(実際の標高は3776m) |
であり、その正確さには驚かされる。 |
2.最初に富士山に登った外国人 |
シーボルトは富士山には登らなかったが、西洋人で最初に登ったのは、イギリス人 |
総領事(初代公使)ラザフォード・オールコック一行だった。当時ヨーロッパでは、 |
アルプス黄金時代と呼んで、アルプスの山々が次々に初登頂された時代で、特に産業 |
革命で豊かになったイギリス人が最も活躍していた。オールコックは、徳川幕府の閉 |
鎖的規制に対して執拗に許可申請を続け、遂に1860(万延元)年に日本人随行者を雇 |
って総勢約100人で登ることができた。幕府が渋った原因は、当時盛んだった富士講 |
(前述)が、幕府にとっては反体制的な傾向を見せていたことで、トラブルが起きる |
のではないかという懸念が原因だったという。ところが実際に行くとなったら講の人 |
たちはただで登れるというので、進んで随行したらしい。 |
富士宮口五合目にあるオールコック の顕彰碑 |
オールコックは登頂を祝して火口にピストルや小銃弾を |
21発撃ち込んだというから、日本人にとって神聖な霊山 |
を穢されたことになるが、当時生麦事件や英国公使襲撃 |
事件などで日本人の印象が悪かったとき、彼はある出来 |
事をきっかけに、「日本人を敵視すべきではない。誠に |
親切な国民である」と本国へ報告したという。富士登山 |
後、彼は熱海に約2週間滞在した。その出来事とは、彼 |
熱海大湯にあるオールコックの碑と 愛犬トピーの墓石 |
が本国から連れてきた愛犬トピーが熱海の噴湯に触れて |
大火傷を負い死んでしまったときに、里人は人の死を悼 |
むかのように葬儀を行い、丁重に弔ったのである。後に |
江戸に戻ったオールコックは、「かわいそうなトピー」 |
と刻まれた石を熱海に送り、墓石とした。熱海市にある |
ニューフジヤホテルの横、大湯の間歇泉のところにはオ |
ールコックの碑と、愛犬トピーの墓が並んでおり、親水 |
公園にもオールコックのレリーフがある(トピーの逸話 |
は碑文によった)。また、富士山の富士宮口五合目にもオールコックの登山を顕彰し |
たレリーフがある。オールコックは、日本滞在記として、『大君(たいくん)の都』 |
を著し、その中に富士の美を讃えて世界に紹介した。 |
なお、外国人女性で最初に富士山に登ったのは1867年、2代目イギリス公使パーク |
スの夫人だった。富士登山が女人解禁になったのはその5年後である。 |
明治になると、西洋人が盛んに富士登山をしている。大森塚発見のモース、日本ア |
ルプスの名付け親ガウランド、フォッサ・マグナと象で有名なナウマン、日本アルプ |
スを世界に紹介したウェストン、小泉八雲ことハーンなどである。 |
3.初めて冬富士に挑んだ人 |
日本の高山・名峰の多くは、宗教登山によって開かれたが、幕末から明治前半にか |
けては、お雇い外国人を中心として外交官や科学者たちが富士山をはじめ、日本アル |
プスの高峰に盛んに登った。次いで山々に登ったのは、当時未整備だった地図作成の |
ため、三角測量を実施した農内務省や参謀本部陸地測量部のお役人たちだった。いわ |
ゆる日本人による近代登山の幕開けは、明治35年の、小島烏水と岡野金次郎という冒 |
険精神の旺盛な二人の青年が槍ヶ岳へ登った事件からとされている。当時は地図もな |
い状態の探検的登山であり、すでに高山深谷を渡り歩いて、クマ、カモシカ、イワナ |
などを獲って生活していた猟師などを案内人として実施された。その頃の登山は夏季 |
に限られ、積雪期の高山などとても対象にはなり得なかった。 |
ところが、そんな時代に冬の富士山に挑み、しかもその山頂に3ヶ月も滞在して気 |
象観測を続けた人がいた。その人の名は、野中至(いたる、本名到)。気象変化の因 |
果関係を解く鍵が高層気象にあると信じ、その観測を志した。野中は観測に先立って、 |
冬の山頂の状態を確かめようとして、明治28(1895)年、単身御殿場口(当時は中畑 |
口)から山頂をめざした。夏の富士登山なら、天候が良くて、そこそこ健康体であれ |
ば初心者でも登れるが、冬富士ともなるとその壮麗さとは裏腹に、厳しさ、難しさは |
夏山の比ではなく、現在でもエキスパートだけに許される世界となる。野中の行手に |
は困難が待ち受けていた。積雪は堅氷となり、五合目ですでに−9.8℃、現在のピッケ |
ルに代わる鳶口(とびくち)は折れ、現在のアイゼン代わりに靴底に打った釘も曲が |
って役立たず、結局は退却した。これに懲りることもなく、万難を排してリベンジし |
ようと心に誓った野中は、2月再度冬富士に挑む。今度は装備に工夫をして、靴底の |
釘も強化し、大型の鳶口と工事用のツルハシを持参した。そして遂に、「零時五十五 |
分、俄然頂上に出でたり、零下十八度二を示せり」。ここに厳冬期富士山の初登頂は |
成し遂げられた。 |
4.壮絶な山頂滞在 |
冬季の山頂の状況を知った野中は、同年8月から中央気象台の協力を得て観測所設 |
立の準備を始め、剣ヶ峰に粗末な観測小屋を建て、10月1日から観測を始めた。たっ |
た一人になったときのことを「いよいよ俊寛も宜しくと云う境遇となり、全く孤独の |
身となれり」と書いている。夫の身を案じる妻の千代子は、子供を郷里の父母に託し |
て、決死の思いで山頂の小屋へたどり着く。炊事等の雑 |
野中至・千代子夫妻(山と渓谷社 『目で見る日本登山史』による) |
事を夫人に任せ、至は観測に専念した。しかし、想像を |
超える富士山頂の強風と酷寒は観測機器を破壊し、二人 |
の身体は寒気、高所障害、栄養偏重などで浮腫となって |
衰弱していった。夫婦を気遣う有志たちが苦心の末登っ |
てみると、二人の衰弱ぶりが余りにもひどいので驚いた。 |
改めて有志が救助隊を組織して急行し、説得して夫婦を |
下山させたのだった。滞頂82日間であった。 |
野中夫妻によって貴重な観測資料がもたらされ、これが後の測候所建設へとつなが |
った。野中の苦闘と夫婦愛は、後に橋本英吉の『富士山頂』や新田次郎の『芙蓉の人』 |
などの作品に描かれた。野中自身は『富士案内』を著し、富士の登山ガイド、観測、 |
冬の登頂記のほか、冬の登山心得のような文を書いている。 |
この時代、日本人は探検や冒険の気概に満ちていた。例えば、シベリヤ横断の福島 |
安正、千島の郡司成忠、チベットの河口慧海(えかい)、中央アジアの大谷光瑞、南 |
極の白瀬矗(のぶ)などである。富士山における野中至の挑戦も、これらに比肩する |
一大ロマンであった。 |
| | | |
1.富士のビューポイントをめぐる |
八面玲瓏(はちめんれいろう)とは、富士山を表現する言葉であろう。どこから見 |
ても美しい。どうせ眺めるなら、富士の息づかいが感じられるような周辺からがよい。 |
ビューポイントを探索してみよう。 |
先ず北側では富士五湖の、河口湖から西湖にかけて湖面を前景にした絵のような風 |
景を眺めることができる。また、御坂峠、黒岳、大石峠、王岳など御坂山地の山々か |
らはいずれも甲乙つけがたい富士を観賞できるが、私の好きなポイントは三ツ峠山か |
らの富士の姿である。ところで葛飾北斎の代表作『凱風快晴』がどこから見た富士な |
のかを考察した人がいる。山岳展望研究家の田代博氏で、パソコンソフトで傾斜のき |
つい描画をした結果、三ツ峠山からではないかと推論された。北斎は1810(文化7) |
年前後に、地元の人の案内で三ツ峠山や石割山に訪れて |
富士お中道で見た笠雲 |
いるらしい。 |
西側へ回ると、本栖湖から朝霧高原へかけての裾野や、 |
竜ヶ岳、雨ヶ岳から毛無山、長者ヶ岳、天子ヶ岳といっ |
た天子山地の静寂な山々からは、山頂に達した喜びを富 |
士の姿が倍加してくれる。 |
南側といえば、田子の浦、三保の松原など駿河湾に面 |
した場所、伊豆半島の大瀬崎、黄金崎なども鑑賞に適し |
ているが、十里木高原や愛鷹(あしたか)連峰の富士見峠から眺めると宝永山の爆裂 |
口を正面に見ることができる。 |
東側からは、山中湖、忍野八海、少し離れて箱根の芦ノ湖、乙女峠、金時山などか |
らの富士は人気があるが、筆者としては石割山からその北へ連なる尾根を歩きながら、 |
三日月形の山中湖を前景に眺める富士が好きである。三国山に近い鉄砲木ノ頭(明神 |
山)からの眺めも遮るものがないので、時間が経つのを忘れるほどの展望地であった。 |
冬晴れの日など、舞い上がる山頂付近の雪煙をはっきり目撃することができる。 |
ある時期、東海自然歩道のうち起点の高尾山から富士川まで、何度かに分けて歩き |
通したことがある。高尾山頂から始まる富士山の展望は、丹沢山地を越え、富士五湖、 |
溶岩台地の剣丸尾(けんまるび)、紅葉台、青木ヶ原樹海、朝霧高原、田貫湖(たぬ |
きこ)、白糸ノ滝など経由しながら、最後の思親山に至るまで常に富士を眺めながら |
の想い出深いトレッキングだった。この中で、田貫湖ではダイヤモンド富士のビュー |
ポイントになることで知られているが、私はまだそれを見る幸運に恵まれていない。 |
そのダイヤモンド富士とは、富士山頂から太陽が出る瞬間(日の出)と、太陽が沈 |
む瞬間(日の入り)の、ほんの1、2秒間に見られるシーンで、太陽がさながらダイ |
ヤモンドが光り輝くような光彩を放つことである。見る位置と富士山と太陽を結ぶ線 |
が一致する場所で、見る位置、時刻、気象条件が揃わないと見ることはできない。太 |
陽は季節によって出る方向が変わるから、日の出は富士に対して西北西〜西南西から、 |
日の入りは富士に対して東北東〜東南東から見ることになる。日の出では田貫湖のほ |
か、身延山地の七面山(しちめんざん)からのご来迎が有名である。この山は身延山 |
雲上の富士山(毛無山より) |
と共に、日蓮宗の聖山になっている。 |
〔先ごろ、三浦弘幸氏がダイヤモンド富士の見事な |
スナップを「季節の風物詩」に寄せられていた〕 |
いずれにしても富士は季節、気象、前景などによって |
様々な姿を見せてくれる。雲上に突き出た山頂、逆さ富 |
士、笠雲を冠った富士、赤富士、影富士、朝焼け・夕映 |
えの富士、ダイヤモンド富士など、それぞれが別の表情 |
で見る人の感動をさそう。 |
2.富士の見える最遠地はどこ? |
筆者の生まれたのは、現在の東京都港区南麻布(当時は麻布区)で、町名は富士見 |
町だった。疎開するまでの幼時をそこで育ったが、幼な心に2階の物干しから富士を |
見た記憶がある。戦後は港区白金台で暮らしたが、昭和46年に現在住む相模原市に移 |
った。当時はまだ建物も少なく、ベランダから子供たちと夕映えの大山を眺めながら、 |
山岳展望の得られる夢のような暮らしの始まりを実感し |
夕暮れの富士山(大山より) |
た。自宅付近からは西南側に屏風のように連なる神奈川 |
県の屋根、丹沢山地の最高峰である蛭ヶ岳から丹沢山に |
かけての最も高い部分が遮って富士山は見えない。 |
しかし、同じ市内でも少し北へ寄ると、蛭ヶ岳の右に低 |
くなった姫次(ひめつぐ)の尾根の上に富士が見え、 |
富士見という町名もある。 |
「富士見」の付く地名は各地に多い。因みに「富士見」 |
の地名は、県別で@東京36、A静岡32、B山梨19、C神奈川17、D埼玉・千葉16の順 |
で、意外にも北海道14で8位になっているが、これは前に書いた「郷土富士」である |
蝦夷富士とか利尻富士を眺めて地名にしたものである。余談だが、徳川家康が江戸城 |
を決めた理由は、富士が見えるところだったためで、「富士見」が「不死身」につな |
がるという武士らしい縁起をかついだという説もある。 |
ところで、遠方から富士を見出したときの喜びは、誰でも実感することである。北 |
アルプスの北部、例えば白馬岳辺りから望見したような記憶もあるが、私が最も遠く |
から望んだのは那須の朝日岳からだった。那須事業所に転勤して2年目の9月下旬、 |
丁度部分日食の日で、遥かなる富士を見つけて感動したことを覚えている。富士山と |
朝日岳の距離は約226kmであるが、その日は余程恵まれた条件の日だったのだろう。那 |
須の山には70回ほど登っているが、富士山が見えたのは後にも先にもこのときだけだ |
ったと思う。 |
観測記録上、富士山の見える北東の最遠地は、福島県の阿武隈山地にある麓山(は |
やま。羽山とも書く。標高897m)で、富士山との距離は297kmである。最近では、同 |
じ阿武隈山地の日山(ひやま。天王山ともいう。標高1057m)が最遠とされ、富士山と |
の距離は299kmである。2峰とも郡山から西北約30kmの位置にある。平成4年の2月に |
日山、同年4月に麓山に登ったことがある。両日ともに快晴に恵まれたので遠くの山 |
々が見えたが、富士は見えなかったと思う。南西の最遠地は、和歌山県の妙法山北西 |
にある色川富士見峠(小麦峠ともいう。標高900m)で、富士山との距離は322.9kmとい |
う。富士山と東京の距離が約100kmであるから、北も南もその3倍前後の距離から見え |
ることになる。将来、空気が完全に清澄な条件が整ったときに、もっと遠くから観測 |
されるかもしれない。 |
かつて富士見十三州(次項参照)といわれたが、現在富士山の見える都府県は19、 |
昔の州と現在の都府県は一致しないが、富士の見える範囲は広がっている。 |
3.富士山の名数について |
越中小原節に、 |
「越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山三国一だよ」 |
と謡われたように、昔からこの日本三名山は全国的に知られていた。その筆頭にある |
富士山については名数もいろいろ多かった。 |
・一富士、二鷹、三茄子(なすび) |
・富士の二名水:金明水、銀明水 |
・富士見三景:御坂峠、花水坂、西行坂 |
・富士の三関:足柄関、清見関、横走関 |
・富士五湖:山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖 |
・富士八海:上記の富士五湖に四尾連湖(しびれこ)、明日見湖(あすみこ)、泉瑞 |
又は浮島沼を加える |
・富士八葉:本稿(3)参照 |
・富士見十三州:遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、 |
信濃、上野、下野 |
このうち、富士八海は八湖のことで、修験道の行者が数えたものと思われる。前に |
大町桂月の「富士に登らずんば富士を説く勿れ」を引用したが、これは「日光を見ず |
んば結構を説く勿れ」という俗諺から転じさせたもので、桂月は更に「富士八海廻り |
を為したる者にして、始めて富士山を説くを得べし」と |
富士八海のひとつ四尾連湖 |
も書いている。桂月は実際に八海全部を訪ねた結果、富 |
士山に近く、湖水らしいのは富士五湖であり、四尾連湖 |
については小さいながらも近くにある蛾ヶ岳(ひるがた |
け)の眺望絶景で、まんざら見捨てたものではないと評 |
したが、明日見湖は平地の沼であり、泉瑞はあまりにも |
小さな池のようだと失望している。2年前の秋に山岳部 |
OB会でこの四尾連湖を訪れたことがある。龍神伝説を秘 |
めた湖水は神秘的で、周囲の紅葉と山を映す湖面は美しい景観を見せてくれたものの、 |
富士山は峠に登ると辛うじて頭だけが見えた。なお、桂月は八海巡りの旅で、富士五 |
山の一つ大石寺を訪れたとき、 |
酔堂の喉(のど)に一杯また一杯 |
またまた一杯御華水(おみず)哉 |
と詠んだ。8月だったので、余程のどが渇いた旅だったようである。富士五山とは日 |
蓮宗の寺を数えたもので、上條の大石寺、妙蓮寺、北山の本門寺、西山の本門寺、小 |
泉の久遠寺のことである。 |
| | | |
1.大地震は山の高さを変える |
3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」は、有史以来といわれる規模の巨大 |
地震であり、続いて襲来した大津波による被害と福島第一原発の事故は日本はもとよ |
り世界中を震撼させた。三陸地方の津波はこれまでに何度か記録にあるが、今回のよ |
うな大規模なものは1000年に一度といわれ、古くは堆積した土砂から分析されて約2 |
千年前の弥生時代に大津波があったと推定されているようだし、その後史実の上では |
869(貞観11)年の「貞観(じょうがん)津波」(マグニチュード8.4以上、以下Mと |
表す)が発生した。古文書の『日本三代実録』によれば、その年仙台市北東の海岸で |
巨大な津波が発生し、1,000人以上(当時の東北地方の人口から見れば甚大な被害) |
が死亡したことが記録されている。地震は長さ100kmの断層が7m以上もスリップし、 |
浸水は3km以上に及んだという。今回はそれを凌駕する大きさだった。ところで貞観 |
年間といえば、その5年前の864年には富士山が側火山から大噴火(「貞観の噴火」) |
し、流れ出した溶岩流が青木ヶ原の樹海を形成したことは前にも書いた。偶然ではある |
が、つい最近起った霧島連山の新燃岳噴火を連想したり |
富士山の二等三角点(剣ヶ峰) |
した。 さて、地震に伴う地殻変動があると、折角測量 |
した成果(経度・緯度・標高)が変わってしまうので、 |
1891(明治24)年の濃尾大地震(M8.0)や1923(大正 |
12)年の関東大震災(M7.9)のあとは三角測量をやり |
直した。(これを「復旧測量」という)。関東大震災の |
ときは、震源に近い三浦半島では水平方向に2m以上移動 |
し、上下方向には1m以上の隆起があったという。関東大 |
震災の翌年1月に発生した余震(M7.4)は丹沢山地が震源で、ブナに覆われた山肌が |
一遍にガレと化し、塔ノ岳の山頂が1m沈下したという。今回の大震災はM9.0で観測 |
史上最大といわれるが、地殻変動は相当大きかった筈で、海岸線なども変化し、プレ |
ートに平行した阿武隈山地や奥羽山脈などの山の標高も変わったかもしれない。関東 |
山地などを含めてGPSなどによって復旧測量することになるだろう。関東大震災後 |
の復旧測量では、富士山周辺には及んでいないことが分かったが、今回の大地震の影 |
響はどうだろうか。 |
2.富士山を"身体検査"する |
改めて富士山の身体検査を試みよう。まず身長(標高)であるが、最初の測量は19 |
87(明治20)年に行われたが、1926(大正15)年に剣ヶ峰が2等三角点として再測量 |
三角点の解説盤(剣ヶ峰) |
された。しかし、設置された三角点は30年以上経って周 |
囲の岩石が崩れたりして倒壊しそうだったので、1962 |
(昭和37)年埋め直された。いくらか低くなって3775.63m |
となったが、四捨五入して3776m(昔の小学生は「皆な |
ろう偉い人に」=ミナナロウと覚えたそうである)に落 |
ち着いている。本当の最高点は三角点の北約12mにある |
岩で、約60cm高いので最高点は3776.2mとなる。いずれ |
にしても「3776」は不変である。蛇足であるが、私のマ |
イカーのナンバーは「3776」である。 |
富士山の体積を計算した人がいる。それによれば、体積は1,377立方kmで、重量は |
1,000億トン(密度を平均1立方pあたり2.1gとすると2.9兆トンとも)という。 |
ウェストの代わりに、裾野の最大直径は49km、楕円形なので南北に38kmである。 |
序に頂上から裾野へ向かって描く美しいラインの平均斜度は30度で、最大斜度は33 |
度という。 |
なお、履歴書として、これまで噴火した回数は記録の上で17回となっている。 |
3.富士に息づく動物たち |
富士山に生息する生物にはどんなものがいるだろうか。 |
丹沢で見たニホンジカ(大倉尾根) |
鳥類は別として、これまで本州の山で出会った動物たち |
を、見かけた数の多い順にあげると、ニホンジカ、ニホ |
ンカモシカ、ニホンザル、ニホンリスをはじめ、ノウサ |
ギ、オコジョ、ツキノワグマ、キツネ、タヌキ、ハクビ |
シン、イノシシ、コウモリなどであり、他にアナグマ、 |
イタチ、テンなどもいる。例外として三浦の山でよく見 |
かけるタイワンリスのほか、アライグマなど野生化した |
外来種がいる。(北海道ではキタキツネ、エゾクロテン、エゾシマリスなどにお目に |
かかれたが、幸か不幸かヒグマは見ていない。)このうち、外来種は別として、本州 |
に棲む動物のうちサル以外は富士山に生息するようであるが、筆者自身は富士山では |
あまり動物にお目にかかっていない。他の山では特にシカが増えすぎて、あるときな |
ど日帰りで丹沢を縦走して出会ったシカの数はトータルで18頭だった。 |
シカによる植物系の被害も多く、近年では彼らの爪先に付いて運ばれるヤマビルも人 |
里まで繁殖している。富士山もご他聞に洩れず、昨年1月に団体の主催するスクール |
の講師として五合目まで雪上訓練に行って中ノ茶屋まで下山して来たとき、増えすぎ |
て鹿狩りを依頼されたというハンターたちに出会った。 |
富士山では比較的小動物が多く、ネズミ類、モグラ類、ヤマネ、イタチ、テン、ム |
ササビ、モモンガなどが場所によって生息するようだ。あるとき山頂の、吉田口頂上 |
と富士宮口頂上の間辺りの岩間で可愛いらしいヒメヒミズ(モグラ科)を捕まえたこ |
とがある。太陽に目がくらんだのか弱っていたが、そっと岩の間へ逃がしてあげた。 |
また、裾野の東海自然歩道を歩いているとき日が暮れたが、キツネに出会った。彼は |
目を光らせて用心深くこちらの様子を窺っていたが、「ケーン」と甲高い叫びを残し |
て走り去った。最も危険を感じたのは、けたたましく吼えながら近づいてきた野犬化 |
した複数のイヌたちだった。 |
高山性の動物や鳥類は少ないようである。1960(昭和35)年、ある実験が行われた。 |
白馬岳の雷鳥7羽が富士山へ放鳥されたのである。昭和39年には10〜14羽に増えてい |
ることを確認されているが、昭和45年1羽の目撃を最後に絶滅してしまったらしい。 |
おそらく富士山にハイマツなどが繁生しないこと、直接の原因は天敵のテンやキツネ |
によるものと考えられている。 |
4.逞しく生きる植物たち |
植物も限られた種類しか |
礫地に強いイタドリとホタルブクロ(双子山付近) |
富士固有種のフジアザミ(幕岩付近) |
生息しないようだ。これは |
富士の生成に原因し、特に |
高山帯は溶岩流に覆われた |
り、火山噴出物の砂礫で裸 |
地化しているためといわれ |
ている。裸地は強い日光を |
直接受けるので、日陰を必 |
要とする植物は育たない。裸地化した火山荒原にはイタドリやオンタデのような荒地 |
や礫地に強いものが多く、フジアザミなどの花が咲いているものの、花の種類は多く |
ない。富士を代表する花といえば、フジアザミのほかフジハタザオ、サンショウバラ |
、マメザクラなどがあげられるが、五合目以上を歩く普通の登山道ではあまりお目に |
かかれない。 |
強風に耐えるカラマツの偏形樹(御殿庭付近) |
樹木は2,300m前後の森林限界以下では、コメツガ、ト |
ウヒ、シラビソなど針葉樹主体の原生林があり、森林限 |
界では風雪に耐えて生き抜くカラマツが偏形した枝を必 |
死に伸ばしている姿が見られる。場所によってダケカン |
バ、イタヤカエデ、ヤマハンノキなどの広葉樹も針葉樹 |
に混じって見ることができる。 |
あるとき、富士山の森林限界近くで何かを一所懸命探 |
している人に出会った。「何か採れるのですか」と尋ね |
ると、「オニクだよ」と言って採取した奇妙なキノコのような植物を見せてくれた。 |
「これを煎じて飲むと精がつくよ」と言ってその一つをくれた。これが効いたかどう |
か分からなかったが、図鑑で調べるとオニクは別名キムラタケという寄生植物で、ミ |
ヤマハンノキの根に寄生するという。確かに強壮薬として知られるようで、木曾御嶽 |
山や富士山に多いらしい。中国で強壮薬とする肉じゅ容(ニクジュヨウ)に誤まって |
あてられ、頭の「肉」だけに省略して上に敬語の「御」を付け「御肉」となったとい |
う。昔、中国では東海にあるという幻の蓬莱の国に不老長寿の薬草があるという伝え |
があり、秦の始皇帝の命令で330年ごろにそれを日本に探しにやってきた徐福のことを |
思い出した。彼は 富士山にそのような薬草あり、という噂を聞いて登ったのではなか |
ったかと、ふと想像したりした。 |
| | | |
1.富士山に挑み続けるスーパーマンたち |
これまで筆者は富士山へ都合31回訪れているが、登頂したのは14回だけである。登 |
頂しなかった理由は、もちろん途中で体調不良などにより引返したこともあるが、雪 |
上訓練、実地講習会、現地研修会などを目的とした場合も多かったし、他にお中道、 |
側火山、古道歩きが目的だった場合もあり、必ずしも登頂が目的でない場合があった |
ためである。富士山は季節、気象条件、コースの選び方などによって別個の表情を見 |
せてくれるし、目的によって有意義な登山ができる。チベットの6000m未踏峰へ出か |
けたときは、高度に馴れるための目的で出発の前月に二度登って、山頂においてツェ |
ルト(簡易テント)で夜を明かしたこともあった。 |
ところで、「富士山に一度登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」と言う人もいるが、何度も |
登っている筆者など「大馬鹿」ということになるのだろうか。しかし、私など足元に |
も及ばないくらい世の中には桁違いに多い回数富士山へ登り続けている人がいる。 |
すでに数百回登った人が何人かいるし、中でも昨年10月に1000回登頂を達成した人が |
いる。實川欣伸さんという67歳の方で、その登り方が凄い。ある年には4〜11月の8 |
ヶ月間に248回、88日間連続して登頂し、75日間は連続1日2回登頂、その年の日に2 |
回登頂は通算109日という。時には、御殿場口→頂上→須走口→頂上→吉田口→頂上→ |
富士宮口→山頂→御殿場口(起点)というすべてのルートを一気に継続登山し、それ |
を30時間52分で達成したというスーパーマンぶりである。また、私の知っている増子 |
春雄さんという方は、東芝の研究所を勤め上げた登山家であったが、「毎月富士登山」 |
を何年も続けておられた。毎月ということは厳冬の12〜3月を含めてであり、最高レ |
ベルの技術、体力、経験、意志が揃わなければできないことで、半端なことではない。 |
富士への多回数登山の歴史は古い。12世紀の中ごろ、 |
末代上人の宝篋印塔(日金山東光寺) |
修験道の目的で富士に登り続けて山頂に大日堂を建立し |
た富士上人こと末代(まつだい)のことは前にも触れた |
が、上人は数百回富士に登ったと伝えられている。多回 |
数登山のルーツと言えるだろう。現代の登山者と昔の修 |
験僧とは目的も動機も異なるかもしれないが、挑戦し続 |
けるひたむきな精神、大自然から享受する清浄感、登山 |
行為の結果として得られる達成感などに共通するものが |
あるのだろう。 |
2.富士山の魅力は無限? |
よく「富士山は眺める山で、登る山ではないね」などと言う人がいる。田山花袋も |
「富士は山そのものとしては決して面白い山ではない。暑い思いをしたり汚い石室 |
〔山小屋〕のフトンにくるまったりして、わざわざ登って行って見たところで、別に |
心を引くところもないような山である。裾野にはそれでもすぐれたシーンがあるが、 |
森林帯などは日本アルプスや日光あたりに比ぶべくもないほど浅い。七〜八合目以上 |
はただ岩石磊々(らいらい)たるばかりである。眺望もただ単調な雲の海を眺めるば |
かりである云々」とこき下ろす。 |
しかし賛辞も忘れない。「しかし、そう言われても、富士は決してその大を失わな |
春の富士山を登る |
い。またその名山たる資格を失わない。富士は背景又は |
前景として、実に無限の美しいシーンを至る所にひろげ |
ている。富士はその周囲にあらゆるものを持っている。 |
山、海、湖に、平野、都会、河川、すべて天然のもった |
あらゆるものを持っている」(『山水小記』)。 |
富士に対する評価はいろいろあるだろう。しかし、大 |
方の意見は「木を見て森を見ず」的なもので、富士登山 |
といえば安全な夏山シーズンに五合目まで車で運ばれて、 |
| | | |
夏の富士登山 |
そこから一般登山道を多くの人の群れの中に揉まれなが |
ら登る何の変哲もない単調な登山をイメージしたもので |
あろう。富士に登って本当の美とか自然の壮麗さを体感 |
できるのは、むしろ夏山シーズンの7〜8月中旬を除く |
季節ではないだろうかと思っている。ただその季節の大 |
部分が本格的な登山心得のある人にしか許されない世界 |
であることが、富士にとって不幸な一面かもしれない。 |
|
雪のある季節に登ると、朝のピンク色に染まる雄大な斜面、太陽に輝く氷雪のアイ |
スバーン、舞い上がる雪煙、ぴりっと肌を刺す寒気など、夏山では想像もつかない厳 |
しくも美しい世界が展開する。冬の富士山は強風、堅氷、酷寒の世界であり、その登 |
山には訓練と経験を積んだアルピニストだけが許される。彼らにとって富士山はより |
高く、より困難を克服する格好の目標となり、大きな達成感が得られる。桂月流に言 |
えば、「冬富士に登らずんば登山を語るなかれ」といえるかもしれない。しかし、恐 |
るべき強風は富士特有の突風となって登山者を襲う。登山者たちはこれに耐えるため |
にピッケルを使って、抵抗を最小限にするための姿勢(これを「耐風姿勢」と呼ぶ) |
を保って突風をやり過ごす。八合目以上はおそらく平均風速20m/s以上で、冬富 |
士に多く登っているベテラン登山家松永敏郎さんの体験によれば、山頂では平均風速 |
40m/s、最大瞬間風速はその倍くらいだったかもしれないという。突風に飛ばされ |
て滑落死した登山者も多い。最近では、2年前に筆者と同じ市内に在住する有名な元 |
F1レーサーの仲間がテントごと飛ばされて死亡した事故は記憶に新しい。 |
冬山にそなえて氷雪技術の訓練の場として富士山の利用度は高いし、ヒマラヤなど |
の高峰へ臨むための高度順化の場としても活用される。富士を修練の道場として日本 |
アルプスや上越国境の冬山へ、更にヒマラヤなどへステップアップしていったアルピ |
ニストは多い。筆者の好きな季節は、厳冬の季節を過ぎた4〜6月頃で、富士の気象 |
は厳冬期よりずっと穏やかになり、雪も豊富に残っているので楽しい雪山を満喫でき |
る。 |
富士の楽しみ方は雪山に限らず、また登頂するばかり |
冬の雪上訓練風景 |
とは限らない。例えばお中道、古道、側火山などを紅葉 |
の秋に歩くことも趣きがある。お中道はかつて各五合目 |
の森林限界を一周するコースであったが、大沢の崩壊で |
一周できなくなったものの、大沢崩れまではトレッキン |
グできる。奥庭辺りから大沢崩れまでを錦秋のころ歩く |
と、澄んだ空の下、山頂の新雪を仰ぎ、冠雪した南アル |
プス連峰を眺め、紅葉を愛でながら静かな楽しい一日を |
過ごすことができる。また、須山古道などを往年の富士講信者や行者を偲びながら歩 |
くのも趣きがあり、側火山の双子山と結べば最高級の散策が楽しめる。吉田口(河口 |
湖口)など夏のシーズンはスバルラインの利用によって車で一気に五合目まで行って |
しまうが、シーズンを外して裾野の中ノ茶屋辺りから五合目までを歩くのも渋い楽し |
み方である。今では冬山を目指す人だけが歩くようになってしまったが、富士講の信 |
者たちが辿った登山道を、多くの人たちがワラジを履いて通った息づかいを感じなが |
ら、古い旧跡を確かめつつゆっくりと歩くのも興味深いものであろう。 |
3.世界に冠たる名山・富士山 |
日清戦争の起った同じ明治27年に発行されて、たちまちベストセラーになった一冊 |
の本がある。志賀重昴(しげたか)著『日本風景論』である。地学、気象などの観点 |
から日本の風景を説き、同時に登山の気風を啓発した。この本で感化された青年たち |
は、やがて近代登山の歴史を創り上げていった。近頃は○○百名山とやたらに名山を |
決めてしまうが、志賀は何人かの外国人の賛辞を引用し、富士は全世界<名山>の標 |
準としている。 |
また、本稿にたびたび登場する大町桂月は、「世界第一の名山と云えば、日本人は |
何人も必ず富士山の事なりと気付くべし。日本を代表する名山と云えば、西洋人とて |
も東洋の事情に通ずる者は、必ずそれと合点するあるべし」とまで書いている。 |
山を愛し、山の文章を書き続けた作家・深田久弥の名著『日本百名山』は、いわゆ |
る百名山信奉者たちのバイブル的な本であるが、深田はその中で富士山の世界一の資 |
格条件をあげている。 |
● これほど多く語られ、歌われ、描かれた山は他にない。 |
● このような高山に少なくとも平安期に確実に登られたことは世界記録である。 |
● 老若男女あらゆる層の人が登る大衆性を持つ国民的な山である。 |
山頂における筆者 |
さらに、「世界各国にはそれぞれ名山がある。しかし |
富士山ほど一国を代表し、国民の精神的資産となった山 |
はほかにないだろう。<かたりつぎ言いつぎゆかむ>と |
詠まれた万葉の昔から、われわれ日本人はどれほど豊か |
な情操を富士によって養われてきたことであろう。もし |
この山がなかったら、日本の歴史はもっと別な道を辿っ |
ていたかもしれない」と書いている。 |
|
富士は世界文化遺産登録をめざすという。山小屋のし尿問題は改善され、登山者の |
意識向上や自然保護運動で山中のゴミは減っているようだ。しかし、昨夏は40万人が |
押し寄せ、オーバーユース(過剰利用)の状態である。トイレは微生物で分解する環 |
境配慮型だが、清掃などに年約1000万円かかるという。事業仕分けの対象となったよ |
うだが、国の負担と自治体や山小屋の負担はどうなるのか。人が増えれば高山病はじ |
め、病人や怪我人も増えるので、救護施設も配慮しなければならない。近年増加して |
いる外国人へのマナー啓蒙も徹底しているわけではない。裾野に広がる自衛隊演習場 |
は景観に支障ないのだろうか。課題はまだまだあるはずである。 |
静岡県は2月23日を「富士山の日」と定め、山梨県と共に世界文化遺産をめざして |
運動を進めている。両県が掲げた「富士山憲章」のうち次の一章を引用し、結びとし |
たい。 |
●「富士山の自然、景観、歴史・文化を後世に末永く継承しよう」 |
完 |