連 載『 「いろいろな“碑”」を訪ねて 』 | 横浜市 小田 茂 |
話 題 一 覧 |
2009.12. 3 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その1) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2009.12.16 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その2) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010. 1.13 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その3) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010. 2.10 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その4) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010. 3. 7 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その5) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010. 4. 4 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その6) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010. 4.25 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その7) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010. 5.29 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その8) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010. 7.18 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その9) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010. 9.12 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その10) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010.10.27 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その11) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2010.12.12 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その12) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2011. 1.23 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その13) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2011. 3. 7 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2011. 4.24 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その15) 投稿;小田 茂 | ![]() |
2011. 5.15 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その16最終回)投稿;小田 茂 | ![]() |
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話 題 『 よもやま話 』 |
2010. 9.12 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その10) | ![]() |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その10) | 横浜市 小田 茂 |
4.JR関内駅周辺・日本大通り方面(その1) | |||
≪はじめに≫ | |||
今回はJR根岸線「関内駅」南口を出発点として、「日本大通り」を中心に港の方 | |||
向へ向かって2回に分けてご紹介いたします。 | |||
(43)横浜公園 | |||
横浜公園につきましては、「発祥の地を訪ねて」その3の<番外編>で少し触れま | |||
したが、「日本庭園」の改修工事も終り、公開されましたので重複しない程度にご紹 | |||
介いたします。関内駅南口から徒歩3分の所にあり、横浜市役所に隣接しております。 | |||
![]() 噴水と日本庭園 |
![]() 日本庭園@ |
![]() 日本庭園A |
|
明治9年(1876年)に開園され、横浜:山手公園に次ぐ、我が国二番目の西洋式公 | |||
園であり、外国人と日本人が共有の西洋式公園としては日本最初のものであります。 | |||
![]() 「横浜公園」の碑 |
碑は昭和4年(1929年)に建てられたものですが、下 | ||
記の内容から始まり、かなりの字数が刻まれています。 | |||
横濱公園 | |||
横濱公園は明治九年を以って創設せる我国最古の公園 | |||
なり初は神奈川縣の所管なりしか同四十二年に至り改造 | |||
に着手し漸く整美を得たり斯くを大正十二年九月大震災 | |||
の際本市の大半猛火に・・・・ | |||
とあり、大震災時に多くの人が公園に避難し助かった旨 | |||
も記されておりました。 | |||
もともとこの地は、幕末 |
![]() 「岩亀楼の灯籠」 |
![]() 説明板 |
|
の開港直後は港崎(みよざ | |||
き)遊郭があった場所で、 | |||
慶応2年(1866年)に起き | |||
た大火災のために遊郭は焼 | |||
失してしまい、復興に際し、 | |||
遊郭を関外に持っていき、 | |||
この地を公園としたそうで | |||
す。港崎(みよざき)遊郭の名残として、日本庭園部分にはかつての港崎遊郭にあっ | |||
た「岩亀楼の灯籠」が置かれています。ただ、亀の形をした置石は、永年の風雨にさ | |||
らされたためかなり風化していました。 | |||
春には20万本近い地元中区の区花「チューリップ」が公園全体に咲き誇り「チュー | |||
リップ祭り」が、賑やかに開催されます。 | |||
![]() 「チューリップ」1 |
![]() 「チューリップ」2 |
![]() 「チューリップ」3 |
|
開園時の公園内には、外人居留地運動場(野球場を兼ねたクリケット場など)も建 | |||
![]() 「横浜スタジアム」 |
設されました。それが現在の「横浜スタジアム」です。 | ||
昭和9年(1934年)には、ルー・ゲーリック等を筆頭 | |||
とする米大リーグのオールスターが来日し、ここで全日 | |||
本チームと対戦しました。戦後の米駐留軍に接収された | |||
時代は「ゲーリック球場」と改称し、その後「横浜公園 | |||
平和球場」(通称:平和球場)となり、昭和53年(1978 | |||
年)に老朽化した平和球場が取壊され、横浜ベイスター | |||
ズの本拠地「横浜スタジアム」が建設されました。 | |||
(44) 横浜ベイスターズ:優勝モニュメント「煌」 | |||
横浜市役所脇の尾上町通りを隔てて、「ベイスターズ通 |
![]() ベイスターズ通り |
||
り」があり、東京電力のビル前に「横浜ベイスターズ: | |||
優勝モニュメント“煌”」があります。 | |||
平成10年(1998年)に日本シリーズで西武に4勝2敗 | |||
で勝ち38年ぶり2回目のリーグ優勝・日本一となった時 | |||
の「胴上げシーン」のレリーフと権藤監督以下栄光の選 | |||
手の「手形」が並んでいます。 | |||
![]() 「胴上げシーン」 |
![]() 説明板 |
![]() 全員の手形 |
![]() 権藤博監督 |
![]() 佐々木主浩選手 |
![]() 石井琢朗選手 |
![]() 三浦大輔選手 |
![]() 鈴木尚典選手 |
![]() 駒田徳広選手 |
|
初めての日本一は昭和35年(1960年)に前年西鉄の監督であった三原氏を招聘し、 | |||
それまで6年連続最下位の大洋ホエールズをリーグ優勝させ、日本シリーズで毎日大 | |||
映オリオンズに総て1点差の4連勝で日本一に輝きました。正に三原魔術師様様でし | |||
た。 | |||
思えば、私が入社して4年目、20代のはじめで、川崎球場へはよく足を運んだ半世 | |||
紀前の話です。 | |||
地元の横浜ベイスターズは、2年連続最下位で今年も期待を裏切らず?にガッチリ | |||
最下位を守っております!。後は“夢よもう一度”で連続最下位で翌年優勝の三原マ | |||
ジックの再現を祈るのみです。 | |||
![]() 「神奈川県電気発祥」の碑 |
|||
★ 「神奈川県電気発祥」の碑 | |||
同じ東京電力ビルの右角には、「神奈川県電気発祥」 | |||
の碑が建てられています。 | |||
(45)“ホテル”発祥の地 | |||
横浜公園から大桟橋通りを5分程度歩いたところにある横浜情報文化センターの裏 | |||
側の交差点反対側角に“洋菓子:かをり”があります。この“洋菓子:かをり”の場 | |||
所が“ホテル”発祥の地であります。 | |||
![]() ホテル発祥の地説明板 |
![]() 「かをり」の店頭 |
![]() 「かをり」の全景 |
|
平成16年3月16日に建てられた碑の碑文によりますと、 | |||
『開国150年記念「ホテル発祥の地」』 | |||
ホテル発祥の地とは、『1860年(万延元年)、開港直後の2月、横浜のホテルの元 | |||
祖がこの地(居留地70番)で生誕した。 | |||
この「ヨコハマ・ホテル」は オランダ人が造ったもので、内部に食堂、ビリヤード | |||
室、酒場を設け、数年後には、フランス人のシェフのレストランや洋酒、洋菓子の売 | |||
店、ボーリング場も付設した。 | |||
宿泊者のハイネは、ここで美味な料理をとれると賞賛し、他にシーボールト・ワー | |||
グマン、クラーク等の著名文化人も多数、宿泊し滞在した。これらの人たちを通じて | |||
最新の外国文化の受入れ窓口として我が国の近代文化に果たした役割はまことに大き | |||
い。』と記されています。 | |||
なお、横浜ホテルは慶応2年(1866年)年末の港崎(みよざき)町一帯の大火災で | |||
焼失しましたが再建されませんでした。 | |||
(46)「岡倉天心生誕の地」碑 | |||
「岡倉天心生誕の地」碑は、横浜公園から5〜6分の本町通りの神奈川県庁に隣接 | |||
した横浜開港記念会館の建物の前に建てられています。この碑の右隣に「横浜町会所 | |||
跡」、左隣には「横浜商工会議所発祥地」の三つの碑が並んでおります。 | |||
岡倉天心は、この地で生 |
![]() 「岡倉天心生誕の地」碑 |
![]() 岡倉天心「ざんぎり頭」 |
|
糸を扱う石川屋の支配人を | |||
していた父の次男として、 | |||
文久2年(1862年)誕生し | |||
ました。 | |||
天心は明治期に活躍した | |||
美術家、美術史家、美術評 | |||
論家、美術教育者でありま | |||
して、東京美術学校(現:東京藝術大学)の設立に大きく貢献しました。日本美術院 | |||
の創設者としても知られております。 | |||
レリーフをアップしますと髪型が当時流行の「ざんぎり頭」なのが良く分ります。 | |||
![]() 「横浜町会所跡」碑 |
![]() 説明板 |
![]() 「横浜商工会議所発祥地」碑 |
|
≪番外編≫ “ 横 浜 三 塔 ” | |||
横浜三塔とは、「横浜市開港記念会館」(ジャックの塔)、神奈川県庁本庁舎(キ | |||
ングの塔)、横浜税関庁舎(クイーンの塔)の塔のことです。 | |||
偶然なのかしりませんが、横浜公園(JR関内駅方面)から歩いていくと建物の竣 | |||
工の早い順に港へ向かって建っております。また、塔の高さは低い順に並ぶ形になっ | |||
ています。 | |||
名前の由来は、建設された当時は、周りに大きな建物もなく、横浜港に入る船の目 | |||
標ともなり横浜港のシンボル的存在でありました。外国人船員達が、トランプのカー | |||
ドになぞらえて呼ぶようになったと言われております。 | |||
★ 「横浜市開港記念会館」(ジャックの塔)塔の高さ36m | |||
![]() 「横浜市開港記念会館」(ジャックの塔) |
![]() 説明板 |
「ジャックの塔」と呼ば | |
れ、赤いレンガと白い大理 | |||
石の時計台があるルネッサ | |||
ンス式の美しい建物です。 | |||
この建物は明治42年(19 | |||
09年)の横浜の開港50周年 | |||
を記念して、市民からの寄 | |||
付金を基に大正3年(1914 | |||
年)に着工し、大正6年(1917年)7月に竣工しました。 | |||
しかし、大正12年(1923年)の関東大震災では、外壁を残して屋根・内部を焼失し | |||
てしまいました。 | |||
ドームが完全に復元したのは、開港130周年、市制施行100周年に当たる平成元年 | |||
(1989年)でした。 | |||
★ 「 神奈川県庁本庁舎」(キングの塔)塔の高さ49m | |||
「キングの塔」と呼ばれ、昭和3年(1928年)に竣工 |
![]() 「 神奈川県庁本庁舎」(キングの塔) |
||
いたしました。関東大震災で焼失した庁舎の再建にあた | |||
り、公募で当選した設計をもとに、帝冠様式(西洋の鉄 | |||
筋コンクリート造りの現代建築に和風の屋根瓦をのせ和 | |||
洋折衷の建築様式)の重厚な建物、その風格は正に王様 | |||
です。 屋上部分は五重の塔をイメージし、バルコニー | |||
には西洋の城館によく用いられた「矢はざま」が設けら | |||
れております。 | |||
★ 「横浜税関庁舎」(クイーンの塔)塔の高さ51m | |||
「クイーンの塔」と呼ばれ、昭和9年(1934年)に竣 |
![]() 「横浜税関庁舎」(クイーンの塔) |
||
工いたしました。関東大震災で税関庁舎も倒壊しました。 | |||
震災後の財政困窮のためなかなか再建へ向かいません | |||
でしたが、時の大蔵大臣:高橋是清が「失業者救済のた | |||
め土木事業を起こすべき・・・」の後押しもあり、昭和 | |||
7年(1932年)22代税関長に就任した金子隆三は、三代 | |||
目にあたる庁舎の建設に着手しました。 | |||
逸話として、この当時、横浜の高層建築物といえば、 | |||
“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”でした。 | |||
新税関庁舎の塔の高さは当初の設計図では47mでした。これを見て、金子税関長は | |||
「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき・・・」と言及 | |||
し、当初計画より4m高く設計変更させ51mの税関庁舎が完成したとのことです。 | |||
![]() 高橋是清直筆の表札 |
![]() 横浜税関100周年記念碑 |
正面玄関の表札は、庁舎 | |
新築当時の大蔵大臣高橋是 | |||
清の直筆と伝えられていま | |||
す。また、1階には「横浜 | |||
税関資料展示室」があり、 | |||
ワシントン条約該当品、 | |||
偽ブランド品等が展示され | |||
ております。 | |||
★ 「横浜三塔物語」 | |||
この横浜三塔を地上から同時に見られる場所が、神奈川県庁の正面、赤レンガ倉庫、 | |||
大さん橋国際客船ターミナルの3ヶ所です。 |
![]() 歩道の「横浜三塔」 |
||
右の写真は、県庁正面の分庁舎前の歩道に埋め込まれ | |||
た三塔の方向を示したものですが、今の時期は神奈川県 | |||
の木である「いちょう」の葉が生い茂って 「ジャックの | |||
塔」は良く見えませんでした。 | |||
この3ヶ所で横浜三塔を眺めると、「願いが叶う」と | |||
の伝説があります。その由来としましては、 | |||
@「外国の船乗りが、横浜三塔に航海の安全を願掛けをした」。 | |||
A「三塔が震災などの試練を乗り越えてきたことから、カップルが困難を乗り越えて | |||
結ばれる」。との二通りが伝えられています。 | |||
ちなみに、毎年3月10日は語呂合わせで「三塔の日」として、いろいろなイベント | |||
が開催されております。 |
2010.10.27 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その11) | ![]() |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その11) | 横浜市 小田 茂 |
4.JR関内駅周辺・日本大通り方面(その2) | |||
≪はじめに≫ | |||
JR根岸線「関内駅」南口を出発点として、「日本大通り」を中心に港の方向へ向 | |||
かって日本大通り方面2回目のご紹介となります。 | |||
(47)「玉楠の木」(タマクス) | |||
関内駅から横浜公園を通って、10数分歩くと神奈川県庁本庁舎があり、その正面脇 | |||
に「横浜開港資料館」があります。地下鉄みなとみらい線「日本大通り」駅から徒歩 | |||
2分です。ここの中庭に“横浜の歴史に生き証人”といわれている「玉楠の木」が植 | |||
![]() 玉楠の木 |
![]() 説明パネル |
えられております。 | |
説明文を紹介しますと | |||
『中庭の玉楠の木は、江 | |||
戸時代からこの地にあり、 | |||
日米和親条約は、安政元年 | |||
(1854年)この木の近くに | |||
設けられた応接所で結ばれ | |||
ました。 | |||
大正12年(1923年)の関東大震災により、木の幹は焼 |
![]() 「ペリー総督横浜上陸」の図 |
||
失しましたが、生き残った根から芽が出て、いまや中庭 | |||
いっぱになる枝を広げる大木となりました。 | |||
横浜の歴史の生き証人ともいえる玉楠の木は、昭和63 | |||
年(1988年)横浜市地域史跡に指定されました。 | |||
碑上面の「ペリー総督横浜上陸」の図は、アメリカ日 | |||
本遠征艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画(当館 | |||
所蔵)を陶版の上に複製したものです。右手の大木が玉 | |||
楠の木の元の姿といわれています。』と書かれております。 | |||
また、この玉楠の木は、かっての横浜村の漁師たちが寄港の目印にしていたともい | |||
われています。 | |||
![]() 「たねまる」君 |
横浜にとっては開港のシンボルであり、昨年の開港 | ||
150周年マスコットキャラクター「たねまる」君も“玉楠 | |||
の木の精”との設定だそうです。上半身は芽を出した種 | |||
子、下半身は船をモチーフにしており、横浜のタネが世 | |||
界に向け出航するイメージを表わしています。 | |||
また、この近くに製菓「ありあけ」の店舗があります。 | |||
「ありあけ」の前身は、横浜の生まれの老舗「有明製菓」 | |||
平成11年(1999年)倒産、平成13年(2001年)に元従業 | |||
員が中心となり銘菓「ハーバー」を復活させた。 その時、横浜市民に生きる勇気を | |||
与えてくれた玉楠の木にあやかり、頑張りを続けたいとの思いで「モニュメント」を | |||
作ったそうです。 | |||
![]() 玉楠のモニュメント |
![]() 説明パネル |
![]() 横浜ハーバー |
|
(48)「日米和親条約締結の地」 | |||
「横浜開港資料館」に隣接した「開港広場」には「日米和親条約締結の地」の碑が | |||
建てられおります。 | |||
嘉永7年(安政元年1854年)2月10日、ペリー提督は横浜に上陸しました。浦賀来 | |||
航の翌年のことです。 | |||
ペリーは横浜応接所で日米和親条約締結のための会談を4回にわたって行い、漂流 | |||
民の救助・引き渡し、アメリカに物資(薪水・食料・石炭)を補給するための伊豆下 | |||
田・函館2港の開港、下田に総領事を置くことなどを取り決め、3月3日に日米和親 | |||
条約締結に至りました。 | |||
条約の正式名は「日本國米利堅合衆國和親條約」であり、幕末から明治にかけては | |||
アメリカ合衆国を「メリケン」「米利堅」と呼んでいました。そういえば、子供の頃 | |||
は港を「メリケン波止場」と呼んでいたのを思い出しました。 | |||
![]() 案内板 |
![]() 「日米和親条約締結の地」の碑 |
![]() 説明パネル |
|
記念碑の説明文は | |||
『〜日米和親条約締結の地〜 安政元年(1854年)2月から3月にかけて、日米 | |||
代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。これは、神奈川条約ともいわれ、 | |||
日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。歴史的舞台となった応接所の | |||
あとは、現在の神奈川県庁の付近である。』と書かれています。 | |||
(49)横浜天主堂跡(開国後最初のカトリック教会) | |||
みなとみらい線「元町・中華街」駅の中華街出口で、本町通りに建ってます。 | |||
![]() 天主堂記念碑 |
![]() 天主堂パネル |
![]() 説明パネル |
|
説明パネルの内容を紹介しますと、 | |||
『横浜市地域史跡 横浜天主堂跡 (登録 平成13年11月1日) | |||
文久元年12月(1862年1月)、横浜居留地(現山下町80番地)において開国後最初 | |||
のカトリック教会の聖堂の献堂式が行われました。 | |||
正式名称を「EGLISE DU SACRE-COEUR」(聖心聖堂)といいま | |||
すが、建物に「天主堂」と記した文字がありましたので天主堂とも呼ばれました。 | |||
パリ外国宣教会から日本管区長代理として指名され、フランス代理公使の通訳とし | |||
て来日したジラ−ル(Girard)神父が、万延元年(1860年)6月頃、横浜居 | |||
留地80番地に聖堂建設用地の借地権を取得しました。 | |||
まず司祭館の建設を進め12月に完成しました。11月に来浜したムニク(Mouni | |||
cou)神父がここに住んで聖堂建設に従事し、翌年1月にはジラ−ル神父も来浜 | |||
し、聖堂は文久元年(1861年)末に完成しました。 | |||
その後、明治39年(1906年)、聖堂は、山手44番(現山手町44番地)に移転しまし | |||
た。震災後再建されたのが、現在のカトリック山手教会です。 | |||
昭和37年(1962年)、天主堂創建100年記念して碑が建てられました。 | |||
平成15年8月 横浜市教育委員会』 | |||
(50)「日本洋裁業発祥顕彰碑」 | |||
前項と同じ本町通りに近 |
![]() 日本洋裁業発祥顕彰碑 |
![]() 説明パネル |
|
い旧ホテルサンポート脇に | |||
建てられております。 | |||
碑文を紹介しますと、 | |||
『「日本洋裁業発祥 | |||
顕彰碑建立」碑文 | |||
1863年(文久3年)ミセ | |||
ス・ビアソンが横浜居留 | |||
地97番にドレス・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりである その頃か | |||
ら在留西洋婦人は自家裁縫のため日本人足袋職人・和服仕立職人を人仕事として雇 | |||
いこれにより婦人洋服仕立職人が育った以来130有余年、先人達の偉業を称え、その | |||
精霊をモニュメントに表徴して永く後世に伝えるべく、洋裁業発祥の地たる横浜に、 | |||
日本洋裁業発祥顕彰碑を建立する。 1995年 平成7年11月24日 』 | |||
(51)タンカー「麻里布丸」錨 | |||
![]() タンカー「麻里布丸」錨 |
![]() 説明パネル |
同じ本町通りの店先に置 | |
かれています。 | |||
タンカー「麻里布丸」の | |||
錨ですが、舶用関係の方で | |||
ご存知の方がおられるかも | |||
知れませんね! | |||
説明文によりますと、 | |||
『このイカリは、かって | |||
東京タンカー所属の麻里布丸(載荷重量50,423トン)で使用され、三菱重工横浜造船 | |||
所より寄贈を受けたイカリで、総重量が10.5トン、錨柄の長さが3.4mあります。 | |||
麻里布丸は中東等の産油国から原油を運び続け、外航200航海を達成した後、昭和 | |||
54年に解体されて本牧ふ頭の護岸建設に利用された横浜港にゆかりの深い船です。 | |||
また、このイカリの周囲柵は、戦前太平洋航路が華やかだった頃、船客送迎の中心 | |||
であった新港ふ頭4号上屋が、昭和54年に解体された時に、船客待合所二階ホールの | |||
手摺の一部を移設したものです。』 |
2010.12.12 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その12) | ![]() |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その12) | 横浜市 小田 茂 |
4.JR関内駅周辺・日本大通り方面(その3) | |||
≪はじめに≫ | |||
JR根岸線「関内駅」南口を出発点として、「日本大通り」を中心に港の方向へ向 | |||
かって日本大通り方面3回目のご紹介となりますが、今回は時節柄、「番外編」に力 | |||
点を置きました。 |
(52)「神奈川運上所跡」の石碑 | |||
11月下旬の日本大通りは、銀杏の紅葉で黄金色一色で |
![]() 神奈川県庁 |
||
す。地元の人は勿論、観光客の目を大いに楽しませてく | |||
れております。 | |||
「神奈川運上所跡」の石碑は、銀杏の木で囲まれた神 | |||
奈川県庁本庁舎敷地内の南角に建てられております。 | |||
「運上」というのは江戸時代の税金のことで、開国通 | |||
商の開始とともに、安政6年(1859年)に、この場所に | |||
運上所(横浜税関の前身)が設けられました。 | |||
![]() 「神奈川運上所跡」碑 |
![]() 説明板 |
開港に当って幕府は、神 | |
奈川奉行所を設け、神奈川 | |||
奉行所の一つの機関として | |||
運上所が置かれました。 | |||
単に関税に関する事務を | |||
扱うだけでなく、外国に関 | |||
する事務所であって幕府の | |||
外務を扱い、その他港の行 | |||
政・刑事、洋銀両替などを含めた幅広い仕事をしていました。 運上所は明治4年 | |||
(1871年)の廃藩置県で大蔵省の管轄となり、翌年に横浜税関となりました。 | |||
(53)「香淳皇后御歌」(ララ物資に感謝の気持ちを詠まれた) | |||
神奈川県庁から15分弱のところに新港埠頭(赤レンガ倉庫のそば)があり、そこに | |||
昭和24年に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に訪れたとき詠まれた「御歌」の | |||
碑が建てられております。説明文は以下の通りですが、「御歌」の碑については拡大 | |||
してご覧ください。 | |||
第2次世界大戦後の多くの日本人を救った「ララ」物資 | |||
第2次世界大戦後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していました。この中で、 | |||
全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志アメリ |
![]() 新港埠頭記念碑 |
||
カ協議会は、特に日本はじめアジア諸国の救済事業を行 | |||
うために『アジア救済公認団体』を設置し、ミルク類、 | |||
穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、衣料品、 | |||
靴、石鹸、裁縫材料などの消費物資のほか、乳牛、山羊 | |||
などを送り、多くの日本人を救いました。 | |||
この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組 | |||
織の方々の多大なご尽力があったと伝えられます。 | |||
この救済物資は、『アジア救援公認団体』の英語名 “Licensed Agencies for | |||
Relief in Asia”の頭文字から「ララ」物資と呼ばれ、昭和21年11月30日に「ララ」 | |||
物資を積んだ第1船ハワード スタンズペリー号が、ここ横浜新港埠頭に接岸し、以後 | |||
昭和27年6月までの6年間送られ続けました。 | |||
![]() 香淳皇后御歌 |
記念碑の香淳皇后御歌は、昭和24年10月19日に昭和天 | ||
皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸啓になられた | |||
時に、詠まれたものです。 | |||
「ララ」物資を送って頂いた方々への深い感謝と、当時 | |||
ご尽力された方々のご功績を後世に永く残すため、多く | |||
の方々からの募金により、この記念碑を建立しました。 | |||
平成13年4月5日 「ララ」の功績を後世に残す会 | |||
≪番外編≫ | |||
(1)海上保安資料館横浜館(工作船展示館) | |||
11月23日の北朝鮮による韓国・延坪島への突然の理不尽な砲撃に驚き、平和ボケ解 | |||
消を含め、9年前の事件を思い出し、再度、海上保安資料館横浜館へ訪れ、北朝鮮とい | |||
う国の認識を再確認してきました。 | |||
この事件は、私達にとっても対岸の火でなく、北朝鮮の後継者問題、軍の暴発そし | |||
て中国がどう出るのか、拉致問題はどうなるのか等々、大いに懸念されるところです。 | |||
海上保安資料館横浜館は、「香淳皇后御歌」の碑の直 |
![]() 工作船展示館 |
||
ぐ近くの横浜海上防災基地の中にあります。 | |||
平成13年(2001年)12月22日九州南西海域で発生し、 | |||
海上保安庁巡視船に対し、不審船から自動小銃、ロケッ | |||
トランチャーによる攻撃を受けました。その後、不審船 | |||
は、海面へ証拠品(薬物?)投棄し、自爆用爆発で沈没 | |||
しました。 | |||
その後、水深90mの海底から工作船を引揚た結果、北朝 | |||
鮮の工作船であったことが判明し、この工作船ならびに証拠物が展示されています。 | |||
![]() 船首 |
![]() 船前方 |
![]() 不審船説明 |
|
工作船(母船)は、全長29.68m、総トン数44t、速力約33ノット(61q/h)で船名 | |||
「長漁3705」ですが、中国、韓国、日本の漁船名に偽装できるようになっています。 | |||
観音扉を開ければ、船腹に「小型舟艇」全長11.21m、総トン数2.9t、総力約50ノット | |||
(約90q/h)が収納できます。 | |||
![]() 観音扉から船腹 |
![]() 小型舟艇 |
![]() 小型舟艇説明 |
![]() 対空機関銃 |
![]() 機関銃説明 |
![]() 水中スクーター |
|
(2)横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2010”開催 | |||
今日から(12月1日)恒例の山手の西洋館で、それぞれのテーマ国に合わせたクリス | |||
マスの装飾が飾り付けられオープンしました。12月25日まで開催です。(入場無料) | |||
クリスマスが終れば、直ぐにお正月です。皆さん良いお年をお迎えください! | |||
★ブラフ18番館(ベルギー) |
![]() ブラフ18番館 |
![]() 銀杏の木 |
|
大正末期に建てられた外 | |||
国人の住宅で、平成5年に | |||
イタリア山庭園内に移築復 | |||
元され、大正末期〜昭和初 | |||
期の外国人住宅の暮らしを | |||
再現しています。庭の銀杏 | |||
の木が素晴らしいです。 |
![]() 2422 |
![]() 2424 |
![]() 2425 |
![]() 外交官の家 |
![]() クロガネモチ |
★外交官の家(ドイツ) | |
明治4年に明治政府の外 | |||
交官の邸宅として、アメリ | |||
カ人建築家が設計し渋谷区 | |||
に建てたものを平成9年移 | |||
築。庭のクロガネモチがお | |||
見事。センリョウの親玉か | |||
と思いました。 |
![]() 2428 |
![]() 2429 |
![]() 2431 |
★ベーリック・ホール(フィンランド) |
![]() ベーリック・ホール |
||
イギリス人貿易商ベリックの邸宅として、旧横浜根岸 | |||
競馬場1等馬見所、横浜山手聖公会等を手掛けたモーガ | |||
ンの設計で、昭和5年建てられました。したがって東京 | |||
計器鰍フ蒲田の旧本社・工場と同級生でもあります。 | |||
戦前の西洋館としては、最大規模を誇り、建築学的に | |||
も価値ある建物といわれています。 | |||
![]() 2436 |
![]() 2434 |
![]() 2435 |
★エリスマン邸(スイス) |
![]() エリスマン邸 |
![]() 2438 |
|
絹糸貿易商の支配人エリ | |||
スマンの私邸として、大正 | |||
15年に日本の建築界に大き | |||
な影響を与え「現代建築の | |||
父」と呼ばれたレーモンド | |||
設計により建てられ、平成 | |||
2年現在地に移築復元。 |
![]() 2437 |
![]() 2439 |
![]() 2441 |
![]() 山手234番館 |
★山手234番館(ポーランド) | ||
日本人建築家・朝香吉蔵の設計により昭和2年に外国 | |||
人向けの集合住宅(アパートメントハウス)として、4 | |||
つの同一形式の木造2階建て住戸が建てられました。 | |||
時節柄、紅葉の木が今が盛と色鮮やかに紅葉し、来訪 | |||
者の目を楽しませています。 | |||
ちなみに隣の「えの木てい」の建物も、朝香吉蔵が同 | |||
時期に設計したものと言われています。 |
![]() 2461 |
![]() 2460 |
![]() 2459 |
★イギリス館(イギリス) |
![]() イギリス館 |
![]() 2451 |
|
昭和12年に英国総領事公 | |||
邸として建築されたもので | |||
す。重厚な美しさは当時の | |||
大英帝国の風格をよく現わ | |||
しています。 | |||
昭和44年に横浜市が買い | |||
取りました。 |
![]() 2446 |
![]() 2448 |
![]() 2449 |
![]() 山手111番館 |
![]() 2454 |
★山手111番館(ハンガリー) | |
アメリカ人ラフィンの住 | |||
宅として、大正15年モーガ | |||
ンの設計による建物です。 | |||
赤瓦と白い壁が美しい西 | |||
洋館です。平成8年に横浜 | |||
市が敷地を購入し、建物は | |||
寄贈されました。 |
![]() 2453 |
![]() 2456 |
![]() 2457 |
★山手68番館(日本) |
![]() 山手68番館 |
![]() 2465 |
|
昭和9年に平屋建てでバ | |||
ンガロースタイルの外国人 | |||
向け賃貸住宅として建てら | |||
れた。日本最初の洋式公園 | |||
である山手公園内にあり、 | |||
また、ここはテニス発祥の | |||
地でもあります。 |
![]() 2466 |
![]() 2464 |
![]() 2463 |
★ おまけ! |
![]() 2311 |
![]() 2313 |
|
JR桜木町駅周辺から、 | |||
横浜港大さん橋で見かけた | |||
クリスマス風景を紹介いた | |||
します。 | |||
2011年が、皆様にとって | |||
健康で、明るく過ごされる | |||
良い年でありますように! |
![]() 2315 |
![]() 2362 |
![]() “2011年もよろしく!” |
2011. 1.23 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その13) | ![]() |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その13) | 横浜市 小田 茂 |
≪はじめに≫ | |||
あけましておめでとうございます。皆様お元気で新年をお迎えのこととお慶び申し | |||
上げます。 | |||
本投稿も、一昨年の横浜開港150周年記念行事にちなんで、私の地元、横浜市中区 | |||
内に散在する『我が国発祥の地』を11回に亘ってご紹介し、さらに「いろいろな“碑” | |||
を訪ねて」という形でご紹介させていただきました。今年の3月で丸2年となります | |||
が、あと2回で最終投稿の予定でありますが、今年もよろしく、ご高覧のほどお願い | |||
いたします。 |
(54)明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水管 | |||
横浜開港資料館(神奈川県庁本庁舎真向かい)に隣接した「開港広場」に、明治14 | |||
年(1881年)から明治20年 |
![]() 1.マンホールと下水管案内板 |
![]() 2.マンホールの中 |
|
(1887年)にかけて、旧関 | |||
内外国人居留地(現在の山 | |||
下町と日本大通りの一部) | |||
一帯で下水道改造工事が実 | |||
施され、卵形レンガ管と陶 | |||
管の下水道が整備されまし | |||
た。 | |||
これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道と言われ、このマンホールは明治 | |||
15年(1882年)頃築造されたもので、昭和57年(1982年)4月にこの公園の整備中に | |||
発見され、当時のままの状態で保存されています。平成10年(1998年)9月に下水道設 | |||
備ではわが国初めての国登録有形文化財に登録されました。 | |||
![]() 3.開港の泉とマンホールと下水管 |
上記右の写真は、ガラス越しで地下を撮ったのですが、 | ||
何が何やら分らない写真ですが、“幻想的”“芸術的” | |||
?写真だと一人で悦にいっているところです。 | |||
★ 開港の泉(円形池と噴水) | |||
この広場の中心に海を表現した池と噴水が設置されて | |||
います。このような池と噴水はヨーロッパの都市広場に | |||
も見られる浅床式の池と樹氷形の噴水です。 | |||
水面は、潮の干満を表わし、池の底には、ペリー来航 | |||
当時のアメリカの軍艦に多く使用されていた羅針盤を型どった鋳鉄板が敷かれている | |||
とのことですが、落ち葉でよく判りませんでした。 |
(55)“英一番館” 跡地 | |||
![]() 4.“英一番館” 跡地碑 |
![]() 5.碑文 |
開港広場と道路を隔てた | |
真正面に“英一番館”跡地 | |||
の碑があります。 | |||
明治4年(1871年)英国 | |||
ジャーディン・マセソン商 | |||
会が、この地で貿易業を始 | |||
めました。(現シルク博物 | |||
館) |
外国人居留地一番館であったことから、当時の人々が |
![]() 6.冬の全景 |
||
“英一番館”と呼ばれていたそうです。 | |||
この“英一番館跡地の碑”の直ぐ後に、乙女の裸像が | |||
建てられています。これは、“シルク博物館”とあり、 | |||
“英一番館”とは直接関係はありません。 | |||
ただ、“絹と女”の全体像が見れるのは、この季節だ | |||
けで、像の周りは「桑の森」といわれ、桑の木の葉で夏 | |||
場は全体がよく見えません。ラッキーですね! |
(56)100年前の「横浜港」 | |||
開港広場前の交差点を渡り、「横浜港大さん橋」の方へ向うと、直ぐに「開港の道 | |||
山下臨港線プロムナード」(赤レンガ倉庫から山下公園までの歩道橋)の橋の下の壁 | |||
に、100年前の横浜港の絵が書かれています。 | |||
![]() 7.100年前の「横浜港」 |
絵は、明治43年(1910年)頃の横浜港で、中央に明治 |
![]() 8「えきさい会・横浜大桟橋診療所」 |
||
27年(1894年)創建の大桟橋。大正12年(1923年)の関 | |||
東大震災で壊れたが、昭和初期の復旧工事などを経て、 | |||
現在にいたっています。 | |||
★横浜出張所(後の関東サービスステーション) | |||
ガードをくぐると直ぐに左側には、「えきさい会・横 | |||
浜大桟橋診療所」の4階建てのビルがあり、昭和31年に | |||
このビルの3階に「横浜出張所」として入居しました。 | |||
30年後の昭和61年に関東サービスステーションは蒲田へ移転しました。 | |||
私が会社に入社したのが、昭和31年であり、また地元ということもあり懐かしく想 | |||
い出い深い建物の一つであります。 |
(57)101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭 | |||
![]() 9 螺旋杭 |
「えきさい会・横浜大桟橋診療所」の斜め前に位置す | ||
るところに「101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭」が横 | |||
たわっています。 | |||
説明板には、 | |||
『明治27年〜平成7年 | |||
螺旋杭は桟橋を支えるため下端にラセン状の円盤が付 | |||
いた杭で、その形状を利用し人力で海底にねじ込まれた | |||
ものです。この杭は関東大震災の復旧工事(大正13年〜 | |||
14年)で施工されたもので、長さ21m、円盤直径1.8m、重量約6t 』 | |||
と記されております。 |
(58)“大砲三門”(旧居留地90番地の大砲) | |||
いろいろな碑を訪ねているうちに、似たような型の“三つの大砲”に出くわしまし | |||
た。もともとこの三門の大 |
![]() 10.発掘された場所の大砲 |
![]() 11.説明板 |
|
砲は同じ場所から発掘され | |||
たものです。 | |||
場所は旧居留地90番地で | |||
現在の本町通りの中消防署 | |||
山下町消防出張所の直ぐ裏 | |||
のマンション脇に一つが置 | |||
かれています。 | |||
調べてみますと、この大砲は嘉永7年(1854年)にペリー艦隊が再来日し、横浜で日米 | |||
会談が行われた際に幕府は松代・小倉の二藩に警備を命じました。 | |||
松代藩佐久間象山は軍議役として大砲4門を率いて横浜へ布陣したものの、幕府は | |||
開国を決定し過度な軍備の撤去を命じ、佐久間象山はこの地に大砲を埋めたと伝えら | |||
れています。 | |||
![]() 12.「横浜開港資料館」(開港広場)の大砲 |
![]() 13.説明板 |
その後、この場所には生 | |
糸と時計の輸入に従事して | |||
いたスイスの商社、シーベ | |||
ル・ブレンワルト商会が慶 | |||
応元年(1865年)に創立し、 | |||
明治維新の際の戊辰戦争中 | |||
は武器の輸入も行っていま | |||
した。 | |||
使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持って | |||
いたものが、大正12年(1923年)の関東大震災の時に地中に埋まってしまったといわれ | |||
ています。 | |||
昭和34年(1959年)に、こ |
![]() 14.「神奈川県立歴史博物館」の大砲 |
![]() 15.説明板 |
|
の地にあった倉庫会社の建 | |||
物の基礎工事中に、3門の | |||
大砲が見つかり、この地に | |||
展示されていましたが、そ | |||
の後、現在建っているマン | |||
ションの施工会社である山 | |||
協商事に譲られ、平成15年 | |||
(2003年)に横浜市に寄贈されました。 | |||
一門をこの発掘された、この場所に残し、残り二門を、「横浜開港資料館」と「神 | |||
奈川県立歴史博物館」にあげたと記されています。 |
≪番外編≫ ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? | |||
![]() @宮内庁御用達? |
![]() A空いた口が塞がりません |
||
@私の町内に“宮内庁御用 | |||
達”?の自動車修理工場 | |||
が昔からあります。 | |||
A空いた口が塞がりません | |||
(JR石川町駅前) | |||
![]() Bネコの手も借りたい! |
![]() C出来過ぎ! |
||
Bネコの手も借りたい! | |||
(横浜中華街) | |||
C眼の悪い人は、「これ食 | |||
べよう!」と注文する人 | |||
がいるかも!よく出来て | |||
います。(元町商店街) |
D“せんとくん” |
![]() Dせんとくん |
![]() Eおばけ? |
|
2010年に奈良県で開催さ | |||
れた平城遷都1300年記念 | |||
事業の公式マスコット | |||
2009年12月JR横浜駅に | |||
PRで現れる。 | |||
E おばけ? (馬車道) |
![]() F歩きづらい歩道 |
![]() Gカモメ大接近! |
F 歩きづらい歩道 | |
眼の錯覚で、凹凸が有る | |||
よう!(シルク博物館前) | |||
G カモメ大接近! | |||
カモメにソフトクリー | |||
ムあげたら・・・・。 | |||
(山下公園) |
H 何これ??? |
![]() H何これ??? |
![]() Iビール等もビックリ! |
|
手の平で、穴から覗くと | |||
165種類の手のひらが見え | |||
る???。(本町通り: | |||
神奈川芸術劇場前) | |||
I ビール党もビックリ! | |||
飲みでありますね〜 | |||
(横浜大さん橋入口) |
2011.03.07 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14) | ![]() |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14) | 横浜市 小田 茂 |
≪はじめに≫ | |||
今回は横浜の観光名所の一つである「山下公園」内にあります、「碑」等をご紹介 | |||
いたします。(注:「西洋理髪発祥の地」記念碑は、“発祥の地”を訪ねて(その3) | |||
で掲載済ですので省略) | |||
山下公園は、関東大震災〔大正12年(1923年)〕の復興事業として、海を大震災の | |||
瓦礫で埋め立てて造成し、我が国最初の「臨海公園」ともいわれ昭和5年(1930年) | |||
3月15日に開園しました。 | |||
現在、公園から眺めると次のような景色が見られます。 | |||
@左に横浜ランドマーク |
![]() みなとみらい方面 |
![]() 港 |
|
タワーをはじめ“みなとみ | |||
らい”方面を展望 | |||
A横浜港大さん橋 | |||
飛鳥Uのような3万dク | |||
ラスなら4隻、クインエリ | |||
ザベスU7万dクラスなら | |||
2隻同時に接岸可能。 |
![]() 横浜ベイブリッジ |
![]() 氷川丸とかもめ |
![]() 横浜マリンタワー |
(59)インド水塔 | |||
インド水塔(水飲み場で現在は使用不可)は、山下公園の大桟橋側入り口から直ぐ | |||
の所にあります。 |
![]() インド水塔 |
![]() 天井部分 |
|
大正12年(1923年)の関 | |||
東大震災時に横浜在住のイ | |||
ンド人116名が被災し、死者 | |||
も28名にのぼったそうです。 | |||
横浜市民は町の復興と共 | |||
に、被災したインド人にも | |||
手厚い救済の手を差延べま | |||
した。横浜市民への感謝の気持ちと、亡くなられた同胞の慰霊としての意味も含んで、 | |||
昭和14年(1939年)に在日インド人協会から寄贈されたものです。 | |||
内部の天井を見上げますと、その装飾が大変素晴らしく、色とりどりのタイルを使 | |||
用したモザイク模様は現在も写真のように大変素晴らしいものです。観光客の皆さん | |||
が天井の素晴らしさを知らず外見だけを"パチリ”で見逃してしまうのが残念です! |
(60)“赤い靴はいていた女の子”像 | |||
![]() “赤い靴はいていた女の子”像 |
![]() 背後から |
氷川丸の方へ向かって歩 | |
くと直ぐに、“赤い靴はい | |||
ていた女の子”像がありま | |||
す。 | |||
“赤い靴”のモデルきみ | |||
は、未婚の母かよがきみを | |||
置いて北海道に渡り(後に | |||
結婚する)、きみはアメリ | |||
カ人宣教師夫妻に預けられたが、夫妻が本国に帰ることになったが、その時きみは結 | |||
核に冒されており、東京の教会孤児院に預けられました。その後母親に会うこともな | |||
く明治44年(1911年)わずか9歳で結核で亡くなりました。一方母親の方は、きみが | |||
アメリカに渡ったと思ったまま一生を過ごしました。 | |||
作詞した野口雨情が札幌市で新聞社に勤めている時、母親かよをはじめ関係者から | |||
「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」との話を聞かされ、この話が題材 | |||
となり『赤い靴』大正11年(1922年)、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表されたと | |||
いうのが定説です。 | |||
♪♪ 赤い靴(くつ) はいていた 女の子 | |||
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった | |||
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って・・・♪♪ | |||
“赤い靴はいていた女の子”像のアメリカ大陸の方をを眺めている後姿には、特に | |||
何処か哀愁が漂っている気がします。 |
(61)“水の守護神”石造 | |||
水の守護神石造は、山下 |
![]() 水の守護神石造 |
![]() 提携二十五周年記念碑 |
|
公園の中央、噴水の中心に | |||
建っている像です。 | |||
横浜市とサンディエゴ市 | |||
は昭和32年(1957年)10月29 | |||
日に姉妹都市として提携し | |||
ました。 | |||
昭和35年(1960年)7月に | |||
この「水の守護神」が横浜市にサンディエゴ市から送られてきました。サンディエゴ市 | |||
庁舎前にも同じ像があるそうです。 | |||
![]() 「ミッションベル」 |
なお、この噴水は、横浜サンディエゴ姉妹都市提携50 | ||
周年を記念して「サンディエゴ友好の泉」と命名されまし | |||
た。 | |||
噴水脇に「横浜サンディエゴ姉妹都市提携二十五周年 | |||
記念」としてサンディエゴ横浜姉妹都市協会から横浜市 | |||
へ寄贈された「ミッション ベル」が建っています。 | |||
(62)“美しいサンディェゴ”記念歌碑 | |||
記念歌碑は、「横浜サンディェゴ姉妹都市提携」25周 |
![]() “美しいサンディェゴ”記念歌碑 |
||
年記念行事の一環として建てられました。 | |||
題名「美しいサンディェゴ」は、作詞:佐伯孝夫、作 | |||
曲:吉田正、歌:地元出身の渡辺はま子さんとそうそう | |||
たるメンバーですね。 | |||
♪♪ ああサンディェゴ サンディェゴ美しい港 | |||
水青く、花赤く・・・・ ♪♪ | |||
(63)“かもめの水兵さん”歌碑 | |||
![]() “かもめの水兵さん”歌碑 |
係留されている「氷川丸」の付近に建てられています。 | ||
碑文の説明によりますと「この童謡は、作詞者の竹内 | |||
俊子さん(作曲:河村光陽)が、昭和8年(1933)秋に | |||
メリケン波止場から布教でハワイへ行く叔父さんを見送 | |||
りに来た時の、夕陽の映えた横浜港の美しさを描いたも | |||
のだそうで、横浜港は“かもめの水兵さん”発祥の地と | |||
いうことで、昭和54年(1979年)に建てられました。 | |||
♪♪かもめのすいへいさん ならんだすいへいさん | |||
白いぼうし 白いシャツ 白いふく・・・♪♪ |
(64)“日米友好ガールスカウト”の像 | |||
“かもめの水兵さん”歌碑の直ぐそばの「バラ園」の |
![]() “日米友好ガールスカウト”の像 |
||
中に建てられています。 | |||
この銅像は、日米友好の印として、アメリカ ガールス | |||
カウト50周年とガール スカウト日本連盟の世界連盟へ正 | |||
式加盟を記念して、昭和37年(1962年)3月に建てられ | |||
たものです。 | |||
(65)リカルテ将軍記念碑 | |||
![]() リカルテ将軍記念碑 |
記念碑はバラ園の隣の「おまつり広場」に建てられて | ||
います。説明を要約しますと、 | |||
『フイリピン生まれのアルテミオ・リカルテは、明治 | |||
29年(1896年)祖国独立のため挙兵、大正3年(1915年) | |||
「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、 | |||
横浜・山下町に居住。 | |||
昭和18年(1943年)生涯の夢であった祖国の独立を目 | |||
にしたが、80歳の高齢と病気のため昭和20年(1945年) | |||
7月北部ルソン山中に於いて波乱の一生を終える。 | |||
リカルテは真の愛国者であり、フイリピンの国家英雄であった。ここに記念碑を建 | |||
て、比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とする。 | |||
(財)フイリピン協会 会長 岸 信介』 とあります。 |
≪番外編≫ ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? | |||
<はじめに> |
![]() モンチッチのひな人形 |
![]() 駅長さんとバスガイドさん |
|
月日の経つのは早いもの | |||
で、正月気分が抜けたと思 | |||
ったら節分、そして「ひな | |||
祭り」が終わりました。 | |||
右側は一昨年、江ノ島電 | |||
鉄鰍ェキャラクター人形 | |||
「モンチッチ」の誕生35周年 | |||
を記念して発売されたもので、販売初日に藤沢駅まで足を運んで購入したものです。 | |||
![]() “美空ひばり”の像 |
![]() 贔屓のお寿司屋さん |
(1)“美空ひばり”の像 | |
JR桜木町駅近くの野毛 | |||
に在る寿司屋さんが建てた | |||
もので、昭和20年代にひば | |||
りさんが横浜国際劇場(現 | |||
馬券売場)に出演時、よく | |||
訪れたお寿司屋さんだそう | |||
です。 | |||
(2)人形の家 山下公園前で横浜マリンタワーのならびにあります。 | |||
“青い目の人形”・・・昭和3年(1928年)の春・ひな祭りにあわせて、日本の親 | |||
善と平和を願う米国市民の思いをこめた13,000体の青い目の人形が、はるばる太平洋 | |||
の波とうをこえて横浜の港に着きました。 | |||
「かわいい親善大使」たちは、日本の津々浦々の小学校や幼稚園に送られ、友好促 | |||
進に尽くした。この人形彫刻のモデル「ポーリン」ちゃんは、その中の一体で、今も | |||
横浜市西区西前小学校に大切に保存されているとのことです。 | |||
![]() “青い目の人形「ポーリン」ちゃん |
![]() 人形の家:入り口 |
![]() 人形の家;ロビー |
![]() 中国漢方(野毛) |
![]() メキシコ料理店(馬車道) |
![]() 北欧料理店(大さん橋入り口) |
![]() 室内に象(象の鼻テラス) |
![]() 神奈川県警本部前の像 |
![]() 新聞少年(日本新聞博物館;日本大通り |
2011.04.24 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その15) | ![]() |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その15) | 横浜市 小田 茂 |
≪はじめに≫ | |||
今回は、今まで訪れた横浜市中区の「“発祥の地”を訪ねて!」、「いろいろな | |||
“碑”」取材中に、見落としていたもの、また、知らずに初めて出会ったもの等を掲 | |||
載いたしました。したがって「碑」の所在場所もあっち飛び、こっち飛びとなってし | |||
まいましたがご容赦ください。 | |||
66.「関東大震災慰霊碑」 | |||
日本大通り、神奈川県庁近くの横浜地方裁判所の庭に「関東大震災慰霊碑」が建て | |||
られております。 |
![]() 「関東大震災慰霊碑」 |
||
大正12年(1923年)9月1日に発生した「関東大震災 | |||
慰霊碑」ですが、中庭に入れず外からの写真で、碑文は | |||
大変多い字数ですが、何と書かれているか遠くて判読で | |||
きませんでした。 | |||
この写真を撮っている時は、関東大震災(神奈川県相 | |||
模湾沖:マグニチュード7.9)の被害の大きさを改めて | |||
感じ、ニュージーランド地震で行方不明になっている若 | |||
い留学生のことなどのことを思いながら、何か最近地球全体がおかしいという思いで | |||
した。まさか、それから1週間後に東日本大震災(マグニチュード9.0)が発生するな | |||
ど夢にも思わず、次の碑を目指して歩いていました。 | |||
67.「港町魚市場跡」碑・「港町魚市場を偲ぶ」碑 | |||
![]() 「港町魚市場跡」碑 |
「港町魚市場跡」碑と「港町魚市場を偲ぶ」碑の二つ | ||
は、横浜市役所の裏側(JR関内駅南口斜め前)に並ん | |||
で建てられていますが、私は本“碑”シリーズに取り組 | |||
むまで、この碑の存在を「灯台下暗し」でまったく知り | |||
ませんでした。 | |||
左の「港町魚市場跡」碑の文字は、昭和38年(1963年) | |||
横浜市長に就任し、その後昭和52年(1977年)に社会党 | |||
委員長に転出した、飛鳥田一雄氏が書かれたものです。 | |||
右の「港町魚市場を偲ぶ」碑の碑文の概略を記します |
![]() 「港町魚市場を偲ぶ」碑 |
||
と『明治4年(1871年)高島嘉右エ門が市場開設の許可 | |||
を得て、翌明治5年(1872年)に相生町の官の用地を借 | |||
り受け、魚・鶏食肉・青物を扱う四品市場を開設した。 | |||
明治7年(1874年)高島嘉右エ門は、さらに船便に便 | |||
利な川脇の官有地(現在の横浜市役所所在地)港町に市 | |||
場を移転した。 | |||
明治42年(1909年)横浜港町魚問屋組合長太田徳次郎 | |||
は横浜食品市場鰍設立し、市場一切を買収し、建物も新築し大市場に発展。大正12 | |||
年(1923年)の関東大震災にて消失し再建営業後も市場隆盛であったが、昭和6年 | |||
(1931年)横浜市中央卸売市場開設に伴い、市場業者一同移転今日に至りこの地の関 | |||
係者昔日を偲び記念碑を建立す。 | |||
“浜っ子の 河岸を 偲ぶや港町” 昭和56年10月吉日 』 | |||
68.「我国西洋歯科医学発祥の地」碑・「西洋歯科医学勉学の地」碑 | |||
JR関内駅北口から馬車 |
![]() 「我国西洋歯科医学発祥の地」碑 |
![]() 「西洋歯科医学勉学の地」碑 |
|
道通りにでて、少し脇道に | |||
ある神奈川県歯科保健総合 | |||
センターの前に「我国西洋 | |||
歯科医学発祥の地」碑・ | |||
「西洋歯科医学勉学の地」 | |||
碑が並んで建っています。 | |||
ただ、この場所は「発祥 | |||
の地」・「勉学の地」ではありません。“発祥の地”を訪ねて!(その10)で紹介し | |||
ました「我国西洋歯科医学発祥の地」碑は、横浜中華街の側にあり、その碑とまった | |||
く石材・文字は同じものです。 | |||
また、「勉学の地」は、明治3年(1870年)居留地57番地(山下公園近く)にエリ | |||
オット博士が歯科診療所を開設し、後任のパーキンス博士共々、日本人門下生に西洋 | |||
歯科医学を伝承しました。その功績を称え神奈川県歯科医師会創立70周年記念として | |||
平成7年(1995年)に建てたものです。 | |||
なお、木戸孝充(長州藩士・桂小五郎)、西郷従道(西郷隆盛の弟)等がエリオット | |||
博士の治療を受けたといわれています。 | |||
69.「横浜駅長室跡」碑 | |||
![]() 「横浜駅長室跡」碑 |
![]() 見つかりにくい「碑」(黒色矢印) |
JR桜木町駅の側にある | |
「鉄道発祥の地」碑に近い | |||
ところに「横浜駅長室跡」 | |||
碑がありますが、この碑は | |||
桜木町駅から野毛商店街へ | |||
通じる幾つかある地下道の | |||
うち、一番人通りの少ない | |||
地下道入り口の壁脇に貼ら | |||
れていて、私が存在を知らなかったのも無理ないと自分を納得させています。 | |||
すなわち、文字もハッキリせず、いろいろな碑を見てきたが、本当に「申し訳ない」 | |||
といわんばかりの存在で、日陰の身の碑で本当に“可哀想な碑だな〜”との思いです。 | |||
70.「横浜市設貯木場発祥の地」記念碑 | |||
「横浜市設貯木場発祥の地」記念碑は山下公園から本 |
![]() 「横浜市設貯木場発祥の地」記念碑 |
||
牧方面に向かって、バス停「貯木場前」で下車して7〜 | |||
8分のところにあります。 | |||
大正12年(1923年)の関東大震災を契機に、復興用の | |||
米国産木材が大量に輸入されましたが、当時、貯木場が | |||
無く港内・河川に氾濫繋された木材で、港湾一般荷役機 | |||
能に大障害が発生しました。 | |||
横浜市は、昭和8年(1933年)この地に最新式の設備 | |||
を持つ「貯木場」を完成し翌年稼動しました。 | |||
戦後、復活しましたが昭和40年代の最盛期には、常に満杯状態で機能を果たさず、 | |||
昭和49年(1974年)市内金沢区に新設された「金沢木材専用港」へ移されました。 | |||
この碑は、昭和59年(1984年)に「横浜市設新山下貯木場開設50周年記念」として | |||
建てられたものです。今は昔の面影が全く無く、ヨット・ハーバーとなっております。 | |||
![]() 記念碑A |
![]() 記念碑B |
![]() 記念碑C |
|
71.「ふぐ」の碑 | |||
![]() 「ふぐ」の碑 |
![]() 説明板 |
横浜市民公園脇の小高い | |
丘の上に「ふぐ」の記念碑 | |||
があります。直ぐそばに八 | |||
聖殿がありますが、何故こ | |||
こに「ふぐ」の碑が建てら | |||
れたのか皆目分からず、ま | |||
た私も今日までまったく知 | |||
りませんでした。 | |||
神奈川県ふぐ条例公布および神奈川県ふぐ協会創立20周年記念の「ふぐ祭典」の昭 | |||
和45年(1970年)に建てられました。何ともユーモラスな碑ですね! | |||
碑文『ふぐ 古名ふく 福に通ず。その味わいは「肉白く、味淡脆、美にて飽かす」 | |||
なる・・・・ながらく人びとの食生活に仕えた舌根をたのしませ、厨人の包丁の研磨 | |||
とともに悠々愈々本来の風味を発揮して極なし』と書かれていました。 | |||
72.「横浜海岸教会」 | |||
「横浜海岸教会」は、横 |
![]() 「横浜海岸教会」 |
![]() 碑 |
|
浜大さん橋の入り口にあり | |||
ます「開港広場」に隣接し | |||
て建てられて日本キリスト | |||
教会のきれいな建物です。 | |||
明治4年(1871年)にア | |||
メリカ人宣教師2人により | |||
この地に石造の小会堂が建 | |||
てられました。 | |||
明治5年(1872年)日本人信者による最初のプロテスタント教会である日本基督公 | |||
会が設立され、明治8年(1875年)には大会堂が建設されて横浜海岸教会と改称されま | |||
したが、大正12年(1923年)の関東大震災で教会堂は壊滅してしまい、現教会堂は昭 | |||
和8年(1933年)に再建されたものです。 |
≪番外編≫★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? その他 | |||
JR関内駅南口から近くの「横浜公園」では、毎年「チューリップまつり」が開催さ | |||
れます。今年は4月16日〜18日のようですが、チョット早い4月6日に訪れると、早 | |||
くも70品種以上ある内の約1割の7種類位のチューリップが咲いていました。 | |||
![]() アーリーグローリー |
![]() アプリコットインレッション |
![]() モモタロウ(桃太郎) |
|
![]() ワールドファボリット |
![]() ワタボウシ(綿帽子) |
![]() 名前無しのコーナーで |
|
![]() 横浜公園内の[横浜緋桜] |
また、同公園内に「横浜緋桜(ヨコハマヒザクラ)」 | ||
というはじめて耳にする名の緋桜が満開でした。平成8 | |||
年(1996年)横浜公園開園120周年を記念して植樹され | |||
たものです。 | |||
この種の桜なら、自宅の裏山「本牧山頂公園」にもっ | |||
と沢山あったな〜と思い、翌朝出掛けてみました。 | |||
驚いたことに案内板には、「ひざくらの丘」と明示さ | |||
れ 前に掲載しました近代絵画の巨匠「下村観山」が居 | |||
を構えた場所で「観山広場」と名付けられた場所でした。 | |||
約30本の「横浜緋桜」が正に今“満開!”見事なものです! | |||
さらにビックリしたことには、「横浜緋桜」の原木が植えられていたことです。 | |||
![]() 原木(白い花は山桜) |
![]() 説明板 |
![]() 横浜緋桜の並木 |
|
この桜の生みの親は、市内港北区在住の白井勲氏で昭和47年(1972年)頃、早咲き | |||
の冬緋桜と山桜(兼六園熊谷)を交配させ丈夫で美しい桜を誕生させました。 | |||
昭和60年(1985年)に「横浜緋桜」と命名されました。 | |||
平成9年(1997年)最初の木(原木)が、白井氏から中区制70周年記念実行委員会 | |||
に寄贈され、本牧山頂公園の「観山広場」に植樹されたものです。 | |||
こんな近くに「横浜緋桜」の原木があったとは、“灯台もと暗し”の典型ですね! |
2011. 5.15 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その16最終回) | ![]() |
「いろいろな“碑”」を訪ねて(その16最終回) |
横浜市 小田 茂 |
≪はじめに≫ | |||
本シリーズは、今回をもって終了いたしますが、今回は『昭和5年(1930年)特集 | |||
号』という形で編集いたしました。“東京計器”の発祥の地:東京府小石川区から昭 | |||
和5年に蒲田へ進出してから、昨年で80年を経過しました。 | |||
今まで訪れた横浜市中区の「“発祥の地”を訪ねて!」、「いろいろな“碑”」編 | |||
集にあたって探訪しているなかで、幾つかの「昭和5年生まれ同期生」に出会い、何 | |||
となく親しみ、懐かしさを感じたものです。“東京計器”の建物は、再開発のため早 | |||
めに卒業しましたが、現在も活躍している「同期生」に愛着を込めて紹介いたします。 | |||
73.「東京計器」(蒲田:旧本社・工場) | |||
「東京計器」が、明治29年 |
![]() 蒲田:旧本社・工場その1 |
![]() 蒲田:旧本社・工場その2 |
|
(1896年)に誕生した東京 | |||
市小石川区の本社・工場が、 | |||
荏原郡蒲田町へ移転のため、 | |||
昭和5年に誕生した蒲田の | |||
旧本社・工場は当時、超モ | |||
ダンな近代的工場として脚 | |||
光を浴びたものです。 | |||
幸いにも戦災は受けたもの修復可能な状態で生き残りました。しかし、戦災を受け | |||
たことも関係しますが、蒲田の本社・工場再開発のため、新社屋が昭和63年(1988年) | |||
に完成し、旧社屋は58年間で卒業となりました。 | |||
![]() 事務棟2階人事部の部屋 |
私は、昭和31年(1956年)入社し、平成13年(2001年) | ||
に退職するまでの45年間、人事部一筋、すなわち会社の | |||
他の部署の経験が無く、しかも入社してから建物が取り | |||
壊されるまでの32年間は、旧社屋の国道に面した西日の | |||
よく入る2階の角部屋で過ごしたという珍しい記録?を | |||
持っています。〔ただし、昭和41年(1966年)に3階の | |||
増設工事で一時期場所換えしました。また、新社屋で13 | |||
年間過ごしました〕ということで、私にとって、旧社屋 | |||
は時計台・高い煙突・大理石のトイレ等々、大変懐かしく愛着のある建物でした。 | |||
74. 「山下公園」 | |||
「山下公園」は、横浜の観光の中心でありまして、近 |
![]() 山下公園全景 |
||
くには「横浜大さん橋」、「氷川丸」が係留され、「横 | |||
浜マリン・タワー」、「横浜中華街」、「元町商店街」、 | |||
「山手(外人墓地)」等々あり、正に横浜の観光の“顔” | |||
であります。 | |||
「山下公園」は、大正12年(1923年)の関東大震災の | |||
復興事業のひとつとして瓦礫や焼土を埋め立てて造成さ | |||
れ、日本で最初の臨海公園として昭和5年に開園しまし | |||
た。園内には、『赤い靴はいてた女の子』像をはじめ横浜にちなんだ数々の碑があり | |||
ます。 〔「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14)参照〕 | |||
訪れた4月14日は、翌日から始まる“花と緑のスプリングフェア”の「花壇展」の | |||
準備中で、21ある美しい花壇が早めに見られラッキーでした。 | |||
![]() 「花花壇」1 |
![]() 「花花壇」2 |
![]() 「花花壇」3 |
![]() 「花花壇」4 |
![]() 「花花壇」5 |
![]() 「花花壇」6 |
|
75.「氷川丸」 | |||
「氷川丸」は、昭和5年 |
![]() 氷川丸 |
![]() 銘板 |
|
に日本郵船が横浜船渠株式 | |||
会社(現:三菱重工業渇。 | |||
浜製作所)により竣工させ | |||
た総トン数11,622t、全長 | |||
163.3m、全幅20.1m、定員 | |||
457名(客員331名・乗組員 | |||
126名)の貨客船で、北太平 | |||
洋航路に長らく就航し、昭和35年(1960年)現役を引退し、現在は「山下公園」岸壁に | |||
博物館船として係留されております。 | |||
![]() 氷川神社神棚 |
![]() 一等船客食堂 |
名前の「氷川丸」は、埼 | |
玉県大宮市(現:さいたま | |||
市大宮区)の「氷川神社」 | |||
に由来するもので、今でも | |||
操舵室の神棚には「氷川神 | |||
社」が祭られています。 | |||
戦前は、昭和7年(1932 | |||
年)にチャーリー・チャッ | |||
プリンが乗船、昭和12年(1937年)には、イギリス国王ジョージ六世の戴冠式からの | |||
帰国時に、秩父宮ご夫妻が乗船されるなど華やかな時代でした。戦中は海軍病院船、 | |||
戦後は引揚病院船として活躍しました。 | |||
「操舵室」には、東京計器の「エンジン テレグラフ」、スペリーの「レーダー」、 | |||
そして東京計器のものだと思いますが「転輪羅針儀 ジャイロコンパス」と表示され、 | |||
色も薄緑のジャイロコンパスが置かれていましたが、銘板も無く、分からないのでチ | |||
ョット失礼して蓋を開けてみましたら、中身は有りませんでした。 | |||
![]() 「エンジン テレグラフ」 |
![]() 「レーダー」 |
![]() 「転輪羅針儀 ジャイロコンパス」 |
![]() 船長室 |
![]() ジャイロ コンパス リピーター |
「船長室」には、数少ない | |
機器のうち東京計器のジャ | |||
イロ コンパス リピーター | |||
が置かれており、“特に重 | |||
責を担っている我社の製品” | |||
ということで優越感を覚え | |||
ました。続き部屋は、船長 | |||
用のバス・トイレ付の立派 | |||
な寝室でした。 | |||
76.「元町プール」管理棟(元町公園内) | |||
「元町公園」は、地下鉄みなとみらい線「元町・中華街駅」から10分位のところに | |||
あり、外国人墓地と隣接しております。 | |||
もともと、この地は、良質な湧水が湧いていたため幕末から横浜に居留したフラン | |||
ス人アルフレッド・ジェラールが煉瓦工場とともに給水業を行っていました。大正12 | |||
年(1923年)の関東大震災で煉瓦工場、水屋敷などが崖崩れで倒壊してしまいました。 | |||
その跡地を、昭和5年の昭和天皇のご大典を祝って、横浜市青年団が発案し、湧き | |||
水を利用して、横浜初めての公式プールが建設され、周辺一帯は元町公園として開園 | |||
されました。 | |||
![]() 「元町公園水泳場事務所」表 |
![]() 「元町公園水泳場事務所」裏 |
![]() 「元町公園水泳場事務所」 |
|
昭和5年に建てられたプールの管理棟は、煉瓦は国産で建物の下には大きな貯水場 | |||
があり、ジェラールの作った西洋瓦と同じものを使い、デザインは工場をイメージし | |||
て建てられたそうです。管理棟の「元町公園水泳場事務所」という標識が昔を偲ばせ | |||
ております。 | |||
77.「ベーリック・ホール」 | |||
「ベーリック・ホール」は、現在は横浜市所有で「元町公園」の一部となっており | |||
ますが、もともとは、昭和5年にイギリス人貿易商B・R・ベーリックの邸宅として | |||
スパニッシュ風様式の建物です。設計はアメリカ人建築家J・H・モーガンによるも | |||
ので、モーガンは山手聖公 |
![]() 「ベーリック・ホール」正門 |
![]() 「ベーリック・ホール」 |
|
会、111番館や山手、根岸競 | |||
馬場など数多くの建築を残 | |||
しております。 | |||
戦後の昭和31年(1956年) | |||
に遺族より宗教法人カトリ | |||
ック・マリア会に寄付され、 | |||
平成12年(2000年)まで、同 | |||
法人が経営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使 | |||
用されておりました。学校の閉鎖とともに平成13年(2001年)に横浜市は、建物が所 | |||
在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物については宗教法人 | |||
カトリック・マリア会から寄付を受けたものであります。 | |||
ちなみに、近くの学校の跡地には、大規模なマンション建設が計画され、先住民の | |||
「山手の風致を乱す」と長らく反対運動が続いていましたが、今は大きい立派なマン | |||
ションが建ち、大勢の方が憧れの?山手住民として住んでいます。 | |||
78.「根岸競馬場」一等馬見所(スタンド) | |||
日本で始めて洋式競馬が開催されたのは、居留外国人により造成中の旧横浜新田(現 | |||
在の横浜中華街)において、文久2年(1862年)といわれています。 | |||
慶応2年(1866年)に、日本初の近代競馬場が外国人遊歩道に沿う根岸の丘(現在 | |||
の根岸森林公園)の上に設置されました。スタンドは関東大震災で被害を受けたもの | |||
の、アメリカ人建築家のJ・H・モーガンの設計でスタンドが、昭和5年に竣工しま | |||
![]() 一等馬見所(スタンド)遺構 |
![]() 「根岸競馬場」全景 |
した。 | |
一等馬見所は4,500人を収 | |||
容し、7階建てで高さは約 | |||
28m、二等馬見所は12,000 | |||
人を収容でき、鉄筋コンク | |||
リート造りとしては、我が | |||
国最初のスタンドでありま | |||
した。 | |||
昭和57年(1982年)米軍に接収され「観戦スタンド」部分が返還されましたが、老 | |||
朽化のため解体されましたが、何故か一等馬見所部分が廃墟した形で残されています。 | |||
遺構として残すなら、もう少しそれなりの対応が必要と思われますが・・・・。 | |||
馬場やその他の箇所は、早めの接収解除で昭和52年(1977年)に森林公園として開 | |||
園しております。 〔“発祥の地”を訪ねて!(その2)参照〕 | |||
79.「本町旭ビル」(現:綜通横浜ビル) | |||
「本町旭ビル」は、地下 |
![]() 現:綜通横浜ビル |
![]() 現:綜通横浜ビルの壁面 |
|
鉄みなとみらい線「日本大 | |||
通り」駅の近くで、横浜市 | |||
開港記念会館の真正面に建 | |||
てられています。昭和5年、 | |||
地上5階、地下1階の壁面 | |||
は、レンガ色のタイル貼り | |||
でいろいろ模様(彫刻?) | |||
を凝らした建物です。施工は大林組です。 | |||
平成7年(1995年)に地上10階、地下2階のビルに建て替えられました。歴史ある | |||
5階部分の外観を保存する形の新しいビルです。名前も「綜通横浜ビル」となりまし | |||
た。現在1階部分はレストランでチョットした昔の雰囲気をかもしだしています。 | |||
80.「日本丸」 | |||
「日本丸」(ニッポンマル)は、JR桜木町駅東側を |
![]() 「日本丸」 |
||
でて直ぐ近くに係留されており、真横に「横浜ランドマ | |||
ークタワー」が聳え立っています。ただ、この場所は中 | |||
区と西区の境目で、「日本丸」が係留しているところは、 | |||
「みなといみらい21」といって西区であります。 | |||
「日本丸」は、昭和5年(1930年)に神戸市の川崎造 | |||
船所で進水しました、総トン数2,278t、全長97m、全幅 | |||
13m、総帆数29、定員138名の航海練習船・大型練習帆船 | |||
で、その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれました。 | |||
日本丸は、約半世紀にわたり活躍し、昭和59年(1984年)に引退し海洋練習船とし | |||
ての役割は、後継の日本丸U世(現・日本丸)が担っております。 | |||
4月10日に「帆装」されるということで見学に行きました。はじめに練習生と思わ | |||
れる若人が三本あるマストに登り、横柱にたたんである帆の結びをほどく作業と思わ | |||
れます。メイン・マストは水面から46mとのことですが、女性も混ざっているのには | |||
驚かされました。帆は結び目を解いたら開くのかと思っていましたが、実際は総勢100 | |||
名位の練習生(女性は20名程度)が3グループにわかれ、太い綱を持って元気な掛け | |||
声をだして甲板で駆け回り、帆を持ち上げたり垂れ下げたりの約1時間の作業でした。 | |||
![]() 「帆装」@ |
![]() 「帆装」A |
![]() 「帆装」B |
|
見事に帆を張った「太平洋の白鳥」・「海の貴婦人」の再現に、作業を見守ってい | |||
ました多数の見学者一同から万雷の拍手!拍手! |
<おわりに> | |||
平成21年(2009年)3月から、「横浜開港150周年」を契機に私が住んでいる横浜 | |||
市中区に散在します「“発祥の地”を訪ねて!」を11回にわたって連載、引き続き、 | |||
「いろいろな”碑”を訪ねて」を連載し、今回の16回目で最終となりました。 | |||
私の拙い説明・写真でしたが2年3ヶ月わたり、都合27回の連載を、ご高覧いただ | |||
きまして心からお礼申し上げます。 | |||
この2年余りは、あっという間に過ぎましたが、私にとって大変有意義かつ貴重な | |||
体験でした。はじめは、「ボケ防止」的な思いも含めてスタートしましたが、60年以 | |||
上も住んでいた土地について如何に“無知”だったかを再認識させられました。新し | |||
い発見に感激し喜びを感じ、今では何か無いか!とデジカメ片手にキョロキョロしな | |||
がら歩くようになりました。これが「番外編」の珍風景に繋がったとも思われます。 | |||
ただ、反省点としては、事前に十分準備されたものでなく、行き当たりばったりで | |||
計画性もなく、かつド素人のデジカメによる写真撮影であり、紹介する内容が地理的 | |||
に「あっちへ飛んだり、こっちへ行ったり」と、見られる方にとっては分かりにくか | |||
ったと思われます。“まあ〜、これもド素人の良さ!”と写真技術を含めて、勝手に | |||
自分を納得させています。 | |||
また、いろいろな“碑”、“建物”が関東大震災と戦災の2回にわたる壊滅状態か | |||
ら、見事復興した状況を数たくさん目にしました。東日本大震災の被災地も、これら | |||
に負けない一日も早い復旧・復興を心から願うところであります。 | |||
最後に、この企画を実行するに当たって私の背中を「ポン!」と押してくれました、 | |||
横浜市栄区在住の野村一信さんが、引き継いでくださるとのことですので、どうか皆 | |||
さんご期待ください。 |