| 連 載『 「いろいろな“碑”」を訪ねて 』 | 横浜市 小田 茂 | |
| 話 題 一 覧 |
| 2009.12. 3 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その1) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2009.12.16 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その2) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 1.13 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その3) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 2.10 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その4) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 3. 7 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その5) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 4. 4 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その6) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 4.25 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その7) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 5.29 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その8) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 7.18 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その9) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010. 9.12 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その10) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010.10.27 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その11) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2010.12.12 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その12) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2011. 1.23 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その13) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2011. 3. 7 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その14) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2011. 4.24 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その15) 投稿;小田 茂 | ![]() |
| 2011. 5.15 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その16最終回)投稿;小田 茂 | ![]() |
をクリックすると記事詳細が表示され、
をクリックすると予定・報告の一覧表に戻ります。
青色の枠で囲まれた
は、クリックすると図や写真が大きく表示されます。
| 話 題 『 よもやま話 』 |
| 2009.12. 3 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その1) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その1) | 横浜市 小田 茂 | |
| ≪はじめに≫ | |||
| 横浜開港150周年記念行事にちなんで、私の地元、横浜市中区内に散在する『我が国 | |||
| 発祥の地』を11回(24ヶ所)にわたってご紹介してきました。 | |||
| 前回で一応完了としまして、今回から、今まで取材した段階で出会った『その他の | |||
| 碑』をはじめ、地元にとっては名所的なもの、また、<番外編>として商店の『看板』、 | |||
| 『マスコット』等々の珍百景的な写真を含めて地域ごとにまとめて、ご紹介いたしま | |||
| す。 | |||
| 1.本牧(ほんもく)地域(その1) | |||
| 本牧は戦後、米軍居住地としてかなり広い部分を接収されておりました。 | |||
| 場所的には、JR根岸線石川駅南口を出て、東に向い「元町商店街』の手前から右 | |||
| 折して「山手トンネル」(地元では“麦田のトンネル”と呼んでいる)を出れば麦田町 | |||
| であり、麦田から「本牧通り」沿い一帯は住宅街が続き、三渓園近くの「間門(まかど) | |||
| (根岸駅の方が近い)」まで本牧方面と呼んでいます。私の地元でもあります。 | |||
| (1)横浜市電:“麦田車庫跡地”の碑 | |||
| 山手トンネル(麦田のトンネル)を出て、直ぐ右側に |
“麦田車庫跡地”の碑 |
||
| 市電の“麦田車庫跡地”の碑が建っています。ここは | |||
| 現在、跡地は老人福祉センター「麦田清風荘」、「地域 | |||
| ケアプラザ」があり、「麦田清風荘」には、私も“水彩 | |||
| 画”“パソコン”の有志の会で月に4〜5回お世話にな | |||
| っています。また、“カラオケ”の人気は凄いですョ。 | |||
| 横浜に路面電車が走り出したのは、明治37年(1904年)神奈川電気 | |||
| 横浜電気鉄道(株)によって「神奈川と大江橋(桜木町)」 | |||
| 間であり、大正10年(1921年)に横浜市営電車となりました。その後、街の発展と共 | |||
| に市内各方面に延びていきました。 | |||
| “麦田車庫跡地”の碑に刻み込まれている「麦田車庫年表」 | |||
| 明治44年12月26日 横浜電気鉄道株式会社の桜道下引込線として発足 | |||
| 大正2年4月1日 横浜市営電車となる | |||
| 昭和3年3月3日 引込線から市電40両収容の車庫となる | |||
| 昭和3年10月15日 桜道から麦田と改称 | |||
| 昭和45年7月1日 59年間市民に親しまれた麦田車庫廃止 | |||
開港100周年「花電車」昭和34年1 |
開港100周年「花電車」昭和34年2 |
昭和40年代に、市電の路 | |
| 線は次々に廃止され、最後 | |||
| は昭和47年(1972年)3月 | |||
| 31日を以って全廃となりま | |||
| した。 | |||
| 市民にお別れの告げる | |||
| 「花電車」が最後の一週間 | |||
| 運転されました。 | |||
| 「花電車』写真は、地元の先輩知人にご協力いただいたものです。 | |||
| (2) “下村観山顕彰の碑”(本牧山頂公園) | |||
| 我が家の直ぐ裏の丘が、「本牧山頂公園」の一部です。戦後、本牧一帯は米軍に接 | |||
| 収され、駐留軍の住宅地でした。この丘は、将校や士官のための高級住宅地でした。 | |||
| 接収されていた本牧地区の返還が、昭和57年(1982年)に行われ、丘の部分が「本 | |||
| 牧山頂公園」として全域開園したのは平成14年で新しい公園です。 | |||
| この山頂公園に近代日本画の巨匠、下村観山の顕彰碑が建てられております。 | |||
| 顕彰碑の説明文には |
下村観山顕彰碑 |
||
| 『日本画の巨匠 下村観山は岡倉天心、横山大観ととも | |||
| に日本美術院創立者であり、大正2年(1913年)原 三渓 | |||
| の招きで、ここ和田山にアトリエを構えた。 | |||
| 当時は、白帆の舟が行き交う本牧の海を臨む景勝の丘 | |||
| で、国の重要文化財に指定された代表作「弱法師(よろ | |||
| ぼし)」などを描いている。昭和5年(1930年)57才で | |||
| 死去』 | |||
顕彰碑の説明版 |
別の説明版には、「原 三渓と下村観山」として、 | ||
| 『明治後期、生糸貿易で財をなした原 三渓(本名・原 | |||
| 富太郎)は、本牧三渓園を造り、日本民族の美術遺産の | |||
| 収集、保存に努め、近代日本画運動を支援するとともに | |||
| 本牧のまちづくりを進めました。 | |||
| 山手トンネルの開通により、明治44年(1911年)路面 | |||
| 電車が本牧に乗り入れ、その後、住宅地として開けてゆ | |||
| きました。和田山の周辺は高級別荘地として売り出され、 | |||
| 芸術家や文化人が住むようになりました。 | |||
| 近代日本画の巨匠、下村観山は岡倉天心、横山大観とともに日本美術院創立者であ | |||
| り、大正2年(1913年)原 三渓の招きで、本牧の海を望む景勝の丘和田山に住居と画 | |||
| 室を構え、数々の傑作を生みだしました。 | |||
| 観山の住宅が有ったことから、ひざくらの丘の芝生広場は「観山広場」と名付られ | |||
| ました。 | |||
| 余談ですが、私の中学時代の同期生に、下村観山先生の“お孫さん”がいましたが | |||
| 下村君が絵が格別上手であったという記憶はありませんでした。 | |||
| また、この山頂公園には「見晴らし山」と呼ばれる標高45mの展望台があり、360° | |||
| 本当に見晴らしの良いところであります。東は房総半島鋸山、西は天気が良ければ丹 | |||
| 沢、富士山が見え、南に三浦半島、北方面にいずれも近間ですがランドマーク、ベイ | |||
| ブリッチというように大変壮観なところです。 | |||
“富士山”見えました(9月) |
“富士山”見えました(11/20) |
カラスも早起きです |
|
| ただ、ここ山頂公園は迷惑カラスの安全な宿泊所となっており、写真のようにあま | |||
| り人を怖がらず微笑ましいのですが、日頃の残飯漁りには住民は苦慮しています。 | |||
| (3) “原 三渓”の碑(国指定名勝:三渓園) | |||
| “原 三渓”の碑は三渓園内のお茶屋さんの前にあり |
三渓園風景 |
||
| ます。三渓園は前項の「本牧山頂公園」から東南へ向け | |||
| て徒歩で15分位のところにあります。 | |||
| 三渓園は、パンフレットによりますと、『生糸貿易で | |||
| 財をなした横浜の実業家:原三渓(本名:富太郎)の元 | |||
| 邸宅で、ここに京都や鎌倉などから歴史的に価値のある | |||
| 建築物を移築し、明治39年(1906年)“三渓園”として | |||
| 一般に公開いたしました。175,000u(約53,000坪)の園 | |||
“原三渓”の碑 |
碑の説明版 |
内には、10棟の重要文化財 | |
| を含む17棟の古建築物が四 | |||
| 季折々の自然の景観の中に | |||
| たくみに配置されています。 | |||
| 第2次世界大戦では大き | |||
| な被害を受けましたが、昭 | |||
| 和28年(1953年)原家から | |||
| 財団法人三渓園保勝会の手 | |||
| に移されたのを機に復旧工事が行われ、5年後の昭和33年のほぼ昔の姿をとり戻し一 | |||
| 般に公開されました』と記されています。 | |||
| 私が訪れた11月20日は久し振りの好天で、丁度、「菊花展」の最中で、大菊、小菊盆 | |||
| 裁が沢山出品されていました。下記にその一部をご紹介します。 | |||
大菊 |
大菊 |
大菊 |
|
小菊盆栽 |
小菊盆栽 |
三渓園の池は水鳥の天国 |
|
| ★横浜市民の方は、「長寿のしおり」(65歳以上)を提示すれば「無料」です。 | |||
| (4) “全国吟詠大会発祥の地”の碑(八聖殿) | |||
| “八聖殿”(正式名称:横浜市 八聖殿 郷土資料館 |
“全国吟詠大会発祥の地”の碑 |
||
| (無料))の建物入口に“全国吟詠大会発祥の地”の碑 | |||
| が建てられています。 | |||
| いろいろな「碑」があるものだ!と思いつつ、そう言 | |||
| えば、詩吟をやる親友のU君と飲んでいる時、「来週は | |||
| 八聖殿で発表会だよ!」と何回か聞いたことがあり、そ | |||
| の時は“清閑な小高い丘の上なので、月を見ながら詩吟 | |||
| とはおつなものだね!と思っていましたが、詩吟と深い | |||
| 繋がりが有ったのですね! | |||
八聖殿 |
説明版 |
八聖殿が郷土資料館にな | |
| ったのは昭和48年(1973年) | |||
| で、横浜の昔の懐かしい漁 | |||
| 具・農具が展示されていま | |||
| す。 | |||
| それよりも八聖殿が有名 | |||
| なのは、八角形の建物は、 | |||
| 法隆寺夢殿(奈良)を模し | |||
| 昭和8年(1933年)逓信・内務大臣を歴任した安達謙蔵 |
八聖像 |
||
| がが建立し完成させたものです。昭和12年(1937年)、 | |||
| 横浜市に寄贈されました。 | |||
| 完成時に、有名な彫刻家8人による「八聖人」彫像が | |||
| 飾られまました。 | |||
| 写真左から、「キリスト」、「ソクラテス」、「孔子」 | |||
| 「釈迦」、「聖徳太子」、「弘法大師」、「親鸞」、 | |||
| 「日蓮」の8聖人です。 | |||
| ★ 番外編 | |||
| ☆“横浜国際女子マラソン”地元本牧通りを3回走る!(11月15日) | |||
| 第1回横浜国際女子マラソンが11月15日好天のもと開催されました。山下公園が発 | |||
| 着で横浜駅の先まで行って、主に地元中区を走る周回コースを3周します。自宅に近 | |||
| い本牧通りを走りますが、そこまで徒歩2分です。テレビ中継でトップグループが麦 | |||
| 田のトンネルを出たのを確認して応援に自宅を出ました。 | |||
| 不況のせいか、良くみられる後援の新聞社などから配られる小旗は有りませんでし | |||
| た。バス停本牧2丁目は、10キロ強走ったところです。(参加ランナー400名強) | |||
| 大南姉妹がどんな走りをするか期待しながら待っていると、トップグループの集団 | |||
| 8〜9名がアッというまに通り過ぎ、姉の博美選手、北京五輪金メダルのディタ(ル | |||
| マニア)が先頭で、20m位遅れ北京五輪銀メダルのケニアのヌデレバ、そこから200 | |||
| m位の 遅れで妹敬美選手と外国招待選手の二人が通り過ぎましたが、一般参加(ゼ | |||
| ッケンNo.3桁)は一人もいませんでした。かなり待ってから10名程度の集団がやっ | |||
| と来ました。そこからは50〜100m間隔で次々と一つの塊が走り抜けていきました。 | |||
| 最後と思われる選手を応援して、家に帰りテレビを付けると、トップグループは、 | |||
| 早や、2周目で横浜駅を通り過ぎていました。 | |||
| トップ選手と一般参加選手(実業団、大学生、市民ランナー等)との実力の差を、 | |||
| 痛感した次第です。2周目、3周目はテレビ観戦の応援となりました。 | |||
先頭集団見える |
北京五輪金メダルのディタ |
北京五輪銀メダルのヌデレバ |
|
| ☆ デジカメが見た<街の珍百景?!> | |||
とんかつ屋さん |
かに料理屋さん |
早くもサンタクロース出現 |
|
早くもサンタクロース出現 |
ホテル屋上に「自由の女神」 |
向い7階マンションから撮影 |
| 2009.12.16 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その2) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その2) | 横浜市 小田 茂 | |
| 1.本牧(ほんもく)地域(その2) | |||
| <本牧市民公園:〔面積:103,336u(約31,300坪)〕> | |||
| 本牧市民公園は、三渓園の裏側に隣接する総合公園です。昭和43年(1968年)に終 | |||
| 了した本牧埠頭関連造成用地の海面埋立てにより、それまであった海を失った人々や | |||
| 港で働く人々のために庭球場、運動広場、池などの施設を整備し、昭和44年に公開さ | |||
| れました。 | |||
| 正面入口前の通りの上は「高速」が走り、向い側の埋立地は工業地帯で新日本石油 | |||
| の基地になっています。 | |||
昔は海だった |
昔は海だった |
海水浴場であった三渓園 | |
| の裏側の海には小学校の頃、 | |||
| よく潮干狩等に行ったもの | |||
| です。 | |||
| 左の写真は、大昔の海で | |||
| あった様子を三渓園内で展 | |||
| 示されていたものです。 | |||
| (5)入口に“錨” | |||
| 公園の入口に海を埋め立 |
「錨」 |
説明版 |
|
| てたのを象徴するように | |||
| “錨”が置かれています。 | |||
| タンカー船「プレジデン | |||
| トウエンセスロウ」号、 | |||
| 33,620トン。 | |||
| 現物はもっと大きいそう | |||
| です。 | |||
| (6)本牧市民プール | |||
本牧プール入口 |
説明版 |
写真右の「説明版」には、 | |
| 『海水浴や潮干狩りなど | |||
| 市民に長い間、親しまれて | |||
| きた名勝の地三渓園、八聖 | |||
| 殿前の海面一帯にわたって | |||
| 本牧ふ頭および工業地帯を | |||
| 建設するため、約五百十万 | |||
| 平方メートルの埋め立てが、 | |||
| 昭和38年4月から港湾局の手によって行われました。そのひとつとして、海を失った | |||
| 市民のためここに大プールを建設したものであります。 昭和44年5月』と書かれて | |||
| います。 | |||
| (7) 本牧漁業協同組合“記念碑” (本牧市民公園内) | |||
| 本牧漁業協同組合“記念碑”の碑文を紹介しますと | |||
| 『 由来 | |||
| 本牧は、往昔小田原北条氏の所領であり、後に徳川幕府直轄の地となり、武蔵 | |||
| 国久良岐郡本牧村大字本牧郷と呼んだ。 | |||
| 風光明媚な漁村で、緑濃い背後の丘陵地は、貢馬を育てた牧場であったと伝え | |||
| られる。 | |||
| 浮世絵師廣重も、この地を描いた。 | |||
| 波静かな海に、豊かな資源に恵まれた漁場を持った |
本牧漁業協同組合“記念碑” |
||
| 私達本牧漁業協同組合員は、祖先より受継いだ土地 | |||
| と海に誇りをもって守り育ててきた。 | |||
| 昭和38年4月1日横浜市が施行される本牧ふ頭関連 | |||
| 造成事業のため本組合は、市発展の大乗的見地に立 | |||
| って愛する海の埋め立てに同意した。 | |||
| かっては、この海で泳ぎ魚貝を採り、海苔の香に親 | |||
| しみ十二天神社の勇壮なるお馬流しの神事を行った | |||
| ことも今は、思い出となる嗚呼。 | |||
| 由緒と伝統あるこの海も新しい土の下に永遠に眠る。往時を偲び父祖の労苦に | |||
| 感謝の意を捧げ子孫の繁栄を永劫に祈念して、この碑を建てる』とあります。 | |||
| 当時、魚業に携わっていた人の思いがよく表されている碑文ですね。 | |||
| (8)「上海横浜友好園」 | |||
「上海横浜友好園」 |
「湖心亭」後「三渓園」 |
「上海横浜友好園」は、 | |
| 横浜市と上海市が友好都市 | |||
| となって15年を記念して、 | |||
| 平成元年(1989年)に上海市 | |||
| から寄贈されたものです。 | |||
| 横浜市が上海市に寄贈し | |||
| た「横浜上海友好館」のお | |||
| 返しとして資材のほとんど | |||
| は中国から運ばれ、中国人によって建てられた中国江南様式による庭園です。 | |||
| ここから写真右側の池に浮かぶ「湖心亭」の脇を行くと三渓園の南口(裏側)に繋 | |||
| がっています。 | |||
| (9) その他 | |||
| 園内には「トンボの池」・「蒸気機関車」・「陶芸の焼き物施設」等々いろいろな | |||
| ものがあります。 | |||
トンボ池標識 |
蒸気機関車 |
標識 |
|
| (10) 本牧大里町の“耕地整理”の碑 | |||
| 市民公園から近い「本牧大里町」(八聖殿の丘の下) |
本牧大里町の“耕地整理”の碑 |
||
| にあまり知られていませんが“耕地整理”の碑がありま | |||
| した。昭和8年11月に建てられたものですが、近くに丘 | |||
| が沢山ありますが、これらを切り拓いた記念碑と思われ | |||
| ます。(説明文はありませんでした) | |||
| ≪ 番 外 編 ≫ 横浜:山手西洋館“世界のクリスマス2009”公開 | |||
| クリスマスへ向けて地元の「山手西洋館」では、「世界のクリスマス2009」を各館 | |||
| 毎に「テーマ国」を決めて開催していますので、ご紹介いたします。 | |||
| したがって、今回は地元の「珍風景」はお休みです。 | |||
| @ 外交官の家 (テーマ国:ノルウエー) | |||
| JR石川町駅南口から直ぐ後ろの丘に向って徒歩7分位で、昔イタリア領事館が置 | |||
| かれていたいたことから「イタリア山」と呼ばれている庭園内に「外交官の家」があ | |||
| ります。明治43年(1910年)に建てられたもので、ニューヨーク総領事を務めた明治 | |||
| 政府の外交官が住んでいた日本人の邸宅です。東京都渋谷区にあったものを、保存の | |||
| ためこの地に移転しました。 | |||
外交官の家 |
「外交官の家」クリスマスのダイニング |
「外交官の家」クリスマス・ツリー |
|
| A ブラフ18番館 (テーマ国:イタリア) | |||
| 「ブラフ18番館」は「外交官の家」と同じイタリア山庭園内で隣にあります。 | |||
| 関東大震災を免れた建物の部材を利用して大正末期に山手町45番地に建てられ、カ | |||
| トリック山手教会の司祭館として平成3年(1991年)まで使用されていたものをイタ | |||
| リア山庭園内へ移築されたものです。 | |||
ブラフ18番館 |
「ブラフ18番館」クリスマスのダイニング |
「ブラフ18番館」クリスマス・ツリー |
|
| B ベーリック・ホール (テーマ国:イギリス) | |||
| イタリア山庭園から山手本通りを「港の見える丘公園」へ向って、12〜3分歩いた | |||
| 「元町公園」内にあります。英国の貿易商B・R・ベーリックの私邸で、昭和5年 | |||
| (1930年)に建てられたものです。その後、セントジョセフ・インターナショナル・ | |||
| スクールの寄宿舎として使われてきました。 | |||
| ちなみに、近くにありましたセントジョセフ・インターナショナル・スクールは、 | |||
| 平成12年(2000年)閉校し100年の歴史に幕をおろしました。閉校に伴い父兄との間で | |||
| 裁判ざたとなりました。「ベーリックホール」も存続が危ぶまれたが、幸いにも市が | |||
| 土地を取得し、それに伴って建物は市に寄贈されることになりました。校舎の跡地は | |||
| マンション建設で「山手の美観を損なう!」と地元の大きな反対運動がありましたが、 | |||
| 今は、大変大きな立派なマンションが建っています。時代の流れを感じます。 | |||
ベーリック・ホール |
「ベーリック・ホール」クリスマス・ツリー |
「ベーリック・ホール」ダイニングのクリスマス・ツリー |
|
| C エリスマン邸 (テーマ国:フランス) | |||
| 「ベーリックホール」の隣にあります。スイス人貿易商エリスマンの私邸として | |||
| 大正15年(1926年)に建てられたものだそうです。明治21年(1888年)に来日、戦前 | |||
| 最大と言われた生糸貿易商シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍しました。 | |||
| エリスマン邸を設計したのは「日本現代建築の父」とも呼ばれるアントニン・レー | |||
| モンドだそうです。 | |||
エリスマン邸 |
「エリスマン邸」クリスマス・ツリー |
「エリスマン邸」ダイニング |
|
| D 山手234番館 (テーマ国:コスタリカ) | |||
| 「エリスマン」前の山手本通りを隔てたところに「山手234番」があります。 | |||
| 関東大震災後の昭和2年(1927年)頃に建設された二階建の外国人向けアパートで | |||
| 4住戸からなる共同住宅でした。横浜市内に現存する数少ない遺構の一つです。 | |||
| 会場の案内板に「(CNN)英国のシンクタンク、新経済財団(NEF)が、世界 | |||
| 143ヶ国・地域の「幸福度」の調査結果“世界一幸せな国”に、中米コスタリカ共和国 | |||
| が選ばれた。ちなみに先進国では、英国74位、日本75位、米国114位だそうです。 | |||
| というわけではありませんがクリスマスの展示を見た中では、一番“暖か味”有! | |||
| 二階のギャラリーは一般にも貸し出しが行われ、私の趣味の水彩画「麦の会」の発表 | |||
| 会でも2回ほどこの会場で行いました。 | |||
山手234番館 |
「山手234番館」クリスマス・ツリー |
「山手234番館」温かみのあるダイニング |
|
| E イギリス館 (テーマ国:イギリス) | |||
| 「山手234番」から4〜5分の「港の見える丘公園」内の「ローズガーデン」のとこ | |||
| ろにあります。昭和12年(1937年)に上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事 | |||
| 公邸として、現在の地に建てられました。東アジアにある領事公邸の中でも、上位に | |||
| 格付けられていたそうです。 | |||
| イギリスの国花「ばら」にちなんで周囲には色とりどりの「ばら」だらけです。 | |||
イギリス館 |
「イギリス館」シャンデリア |
「イギリス館」薔薇のモチーフで飾られている |
|
| F 山手111番館 (テーマ国:ポルトガル) | |||
| 「イギリス館」の直ぐ並びに噴水広場を挟んで「山手111番館」があります。 | |||
| 大正15年(1926年)に両替商を営んでいたアメリカ人ラフィン氏の住宅として建てら | |||
| れた、スペイン風の洋館です。「べーリック・ホー」「根岸競馬場観覧席」を設計し | |||
| たJ.H.モーガンです。 | |||
山手111番館 |
「山手111番館」暖炉とダイニング |
「山手111番館」見事な薔薇の花瓶 |
|
| G 山手68番館 (テーマ国:アメリカ) | |||
| 「イタリア山」から6〜7分の山手本通りからチョッとはずれた「山手公園」内に | |||
| あります。前に紹介しました「テニス発祥の地」でもあります。 | |||
| 昭和9年(1934年)に某社の社員が住宅として建設したものです。 | |||
| 昭和61年(1986年)に現在地へ移築されました。現在は「テニスのクラブハウス」と | |||
| して使われています。 | |||
山手68番館 |
「山手68番館」可愛いサンタさん |
「山手68番館」おとぎの国風の飾りつけ |
|
| ※1日〜25日は 9:30〜17:00 開催です。ただし 19日〜23日は 9:30〜19:00 | |||
| 2010. 1.13 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その3) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その3) | 横浜市 小田 茂 | |
| 1.本牧(ほんもく)地域(その3) | |||
| (11)本 牧 神 社 | |||
| 本牧神社(本牧裕司宮司・ |
本牧神社碑 |
本牧神社全景 |
|
| 中区本牧和田19番:市営バ | |||
| ス三の谷下車)は、もとも | |||
| とは本牧岬の先端(本牧十 | |||
| 二天1番地)に張り出した | |||
| 出島の中にあり(現在の中 | |||
| 区下水処理場側で海は埋め | |||
| 立てられています)、創建 | |||
| は平安時代といわれ、建久2年(1191年)源頼朝が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門鎮 | |||
| 護のために既に存せる神殿に朱塗厨子 (六尺×四尺) を奉納したそうです。 | |||
| 弘長3年(1263年)正月元旦朝、海中より燦爛として皎明を発する大日霊女命(おお | |||
| ひるめのみこと)(天照皇大神)の像を郷人が拾い上げ、祠宇をたてて村の総鎮守と | |||
| したと伝えられています。 | |||
| 仏説十二天 (日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大自在天、 | |||
| 閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日霊女命を深く秘したり・・・」 | |||
| と記されており十二天社の呼称のいわれを伝えています。 | |||
| 明治政府の「神仏分離令」により、「仏」部分を同じ本牧の多聞院に預け、社号も | |||
| “本牧神社”と改め、船乗りや地元民の守護神として長年信仰を受けてきました。 | |||
仮遷座跡地の現況 |
しかし、第2次大戦後の昭和21年、米軍に本牧の土地 | ||
| 23万坪が強制接収され、十二天社も該当し、本牧町2丁 | |||
| 目に借地し仮遷座となりました。 | |||
| 接収は昭和56年(1981年)に解除されましたがその地 | |||
| は海が埋め立てられ、浜はなくなり、昔の本牧十二天で | |||
| はなくなってしまいました。再建された本牧神社は、平 | |||
| 成5年に本牧山頂公園を背にした本牧和田に境内地約千 | |||
| 五百坪を得て御遷座しました。 | |||
| 仮遷座の場所は、我が家から70m 位の近い所で47年間ありました。現在はサクラの | |||
| 古木も切られ、写真のようにマンションと「跡地」を示す看板が建っております。 | |||
| 話はそれますが、このサクラの木には今思えば笑い話ですが、“事件”がありまし | |||
| た。長男が幼稚園年長組の時、近所の奥さんが「敏男ちゃんが神社のサクラの木の上 | |||
| で泣いている!」との知らせを受けて、祖母と母親が青くなって駆けつけると、かな | |||
| り高い所で身動き出来ず泣いている長男がいたとのこと。神社の梯子を借りて近所の | |||
| 男性の方がおろしてくれたそうだが、原因はお袋が編んだ網目の荒いセーターを着て | |||
| いて、それに枝が刺さって身動きできなくなったようであります。大騒ぎにお袋と妻 | |||
| は、怪我も無く安心したのか、ただただ恥ずかしかったと私にぼやいていました。 | |||
| 私は丈夫なサクラの枝に感謝していました。40年も前の話です。 | |||
| 本題に戻しますと、現在の本牧神社の境内には、「お稲荷さん」も祭ってあり、ま | |||
| た、縁の神:熊野速玉大社の「縁切り、縁結び」の榎が植えられています。 | |||
お稲荷さん |
「縁切り、縁結び」の榎 |
左の「説明版」 |
|
| (12)お 馬 流 し | |||
| 本牧神社の神事の一つに「お馬流し」があります。 |
お馬流しの様子(八聖殿所有写真) |
||
| 永禄9年(1566)から443年も受け継がれている「お馬 | |||
| 流し」は、神事として県無形民俗文化財にも指定されて | |||
| います。「お馬流しは、馬にあらゆる災厄を乗せて海に | |||
| 流し」無病息災や大漁・豊作を願う御霊信仰による行事 | |||
| であります。 | |||
| お馬はカヤで作った首から上が馬、身体が亀の神器。 | |||
| このお馬6体(昔の6ヶ村で1体づつ造った)を本牧神 | |||
| 社に供えたあと、氏子たちによって港へ運ばれ、浜があり、漁が盛んだった頃は、本 | |||
| 牧6ヶ村からそれぞれ手漕ぎの和船が出た。腕自慢の漁師たちが、村の威信をかけて | |||
| 速さを競うわけです。お馬さんが浜に来ないよう潮の流れなどを図りながら海へお馬 | |||
| を流すのです。 | |||
| 関東大震災があった年は、こうして流した「お馬」がすべて浜に戻ってきてしまっ | |||
| たそうです。 | |||
「お馬通り」道路標識 |
「お馬流し」歌碑 |
本牧通りから本牧神社へ | |
| 行く道を「お馬通り」とい | |||
| い、本牧神社の敷地内には | |||
| 「お馬流し」に関連する歌 | |||
| の「碑」もありました。 | |||
| 今は「舟置場」が本牧神 |
本牧神社境内の「舟置場」 |
昔の「舟小屋」跡地の記念碑 |
|
| 社に一部ありますが、埋め | |||
| たて前の昔の「舟小屋」の | |||
| 跡地は本牧元町バス停側で | |||
| 民家の玄関先にひっそりと | |||
| 記念碑が建っており、正月 | |||
| なので門松が飾ってありま | |||
| した。 | |||
| (13)吾 妻 神 社 | |||
| 吾妻神社は、本牧神社から歩いて15分弱のところです。 |
吾妻神社全景 |
||
| バス停で「吾妻神社前」で本牧原にあります。日本武尊 | |||
| (やまとたけるのみこと)本牧原の鎮守様戦災で消失し | |||
| たご神体は「文和3年(1354年)正月17日詞基新護平重 | |||
| 広」と銘記してあったといわれています。木更津にあっ | |||
| て「おあずまさま」とあがめられていましたが、対岸の | |||
| 本牧に流れ着き漁師の網にかかりここに祀られました。 | |||
| 子供好きで知られる「お吾妻さま」は、安産、虫封じ、 | |||
| 子供の健康の神様と崇められ、古くは漁師町であったことから、海上、漁師の守護神 | |||
| でもありました。 | |||
守り神(左) |
守り神(右) |
社殿の前に左右の守り神 | |
| でしょうか、なかなかの凝 | |||
| ったものですね! | |||
| また、下の写真のように | |||
| 漁師の守護神を表わすよう | |||
| に、お水取りにもよく現れ | |||
| ています。 | |||
| 境内には、大きな石碑が |
碑 |
漁師の守護神がうかがえる |
|
| 建っておりました。 | |||
| 石碑の裏には、文字が書 | |||
| かれていましたが、私には | |||
| よく判読できませんでした。 | |||
| ただ、文面の最後の“大和 | |||
| 魂”という文字と建立が | |||
| “明治41年7月”というの | |||
| は読み取れました。 | |||
| 推測するには、日露戦争で戦死された方の慰霊碑かなと思いましたが、神社の方も | |||
| 居られず確認がとれませんでした。日露戦争は明治38年(1905年)9月に終っており | |||
| チョッと時間が空きすぎるという疑問は多少ありましたが・・・。 | |||
| 「慰霊碑」で紹介するのが、何か引っかかるので後日、宮司さんにお伺いしたとこ | |||
| ろ、宮司さん曰く『私も詳しいことは分らないのですが、なんでも“ヤクザ”の喧嘩 | |||
| で亡くなった方の碑で、神社には直接関係のないものですよ!』とのこと。 | |||
| 「聞くは一時の恥」を痛感し、確認せずに「慰霊碑」で紹介していたら、本当に大 | |||
| 恥をかくところでした。あぶない!あぶない!それにしても立派な碑だな〜? | |||
| (14)横浜港シンボルタワー(本牧埠頭D突堤) | |||
| 住宅街である本牧地域のもう一つの顔は、本牧の海が |
「遥かなる横浜(貝)」 |
||
| 昭和38年(1963年)に埋め立てを開始され、「本牧埠頭」 | |||
| を昭和45年(1970年)完成し、その後もコンテナ船の大 | |||
| 型化に対処する事業を行い、平成17年(2005年)今の姿 | |||
| になっております。 | |||
| 本牧埠頭D突堤の最先端に、白亜の外見が美しい灯台 | |||
| があります。これが「横浜港シンボルタワー」です。 | |||
| 昭和61年(1986年)に完成し、船舶通航信号所および | |||
| 展望施設の複合塔です。船の往来は1日1,000隻以上と言われております。 | |||
| 高さは48m強で、「遥かなる横浜(貝)」というステンレス製の鋳造彫刻が置かれ | |||
| ています。 | |||
| また、展望台のすぐ隣の埠頭の様子も壮観です。 | |||
横浜港シンボルタワー全景 |
埠頭(後方ベイブリッジ) |
行交う船舶(後方房総半島) |
|
| ≪ 番 外 編 ≫ | |||
| ★ 本牧海づり施設 | |||
釣り施設 |
大漁旗 |
「本牧海づり施設」は横 | |
| 浜港シンボルタワーの少し | |||
| 手前にあります。 | |||
| 昭和53年(1978年)に開 | |||
| 設され、全長300mのL形の | |||
| 桟橋に休日には家族づれの | |||
| 太公望で大賑わいです。 | |||
| アイナメ、クロダイ、ス | |||
| ズキ、タコ等が釣れるようですが、館内には、お子さんが魚を抱えた写真が沢山貼ら | |||
| れていました。こんな魚が釣れるんだ〜、とビックリするような大きな魚を抱え満足 | |||
| うな顔をしている写真が数多く見られました。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (本牧通り中心) | |||
本牧ならではの道路標識@ |
本牧ならではの道路標識A |
本牧ならではの道路標識B |
|
南国風マンション |
崖の上のマンション |
完全防備?の家 |
スクールバス活用の八百屋さん |
おじいちゃんの台所 |
パチンコ玉抱えたワシ |
サテイの中屋上 |
変わった自転車(不動産) |
洋食屋さん |
| 2010. 2.10 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その4) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その4) | 横浜市 小田 茂 | |
| 2.JR石川町駅(南口):駅周辺・元町通り他 | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| JR根岸線石川町駅は、北口(桜木町より)を出れば |
石川町駅の「ステンドグラス」 |
||
| 横浜中華街方面、南口は山手、元町方面です。 | |||
| 私が会社通勤に利用しました馴染みの駅でもあります。 | |||
| 南口の改札を出ますと構内に、山手=異国情緒な色鮮 | |||
| やかな「ステンドグラス」がお出迎えです。 | |||
| すぐ後の丘を登れば、山手です。今回は、南口の西側 | |||
| 周辺と東側にあたります“元町通り”方面をご紹介いた | |||
| します。 | |||
| (15)「濡れ地蔵」 | |||
| 駅前を流れる中村川沿い |
「濡れ地蔵」 |
「濡れ地蔵」石碑 |
|
| に 西へ5分程度歩いた所 | |||
| にあります「亀之橋」の袂に、 | |||
| “濡れ 地蔵”があります。 | |||
| ここから南側の丘へ登る | |||
| 坂道には「地蔵坂」という | |||
| のがありますが、坂道には | |||
| 地蔵尊がありましたが関東 | |||
| 大震災で倒壊してしまいました。現在の「濡れ地蔵」は後に修復、再興され、平成13 | |||
| 年(2001年)に現在地に移されたそうです。交通安全や子育て地蔵としての御利益が | |||
| あり、地元の人々の信仰を集めたそうです。 | |||
| (16)「打越の霊泉」 | |||
打越の霊泉 |
打越の霊泉の碑 |
「濡れ地蔵」から10分位 | |
| 打越坂道を上り、下りバス | |||
| 停の「打越町館前」の直ぐ | |||
| 側に“打越の霊泉”(打越 | |||
| の湧水)があります。 | |||
| 「碑文」には『この霊泉は | |||
| 安政年間、横濱開港時出入 | |||
| 船舶に給水したもので、そ | |||
| の後、大正12年9月1日の関東大震災及び昭和20年5月29日の大空襲の際、この霊泉 | |||
| に数万市民の生命が救済された貴重なものである』と書かれています。 | |||
| 湧水は今でもかなり水量があり、今は自宅の水道より温度はかなり高目です。 | |||
| チョッと残念というかガッカリしたのは、湧水の汲み取り口が、水を汲みやすいよう | |||
| にペットボトルが取り付けられていたことと、自家用車から降りてきた若い男女がバ | |||
| ケツを持参して、湧水を汲みだしました。今でも自家用車でこの霊水を採りに来る人 | |||
| がいるのだ!と感心していたら、なんと“洗車”を始めたのにはビックリし、改めて | |||
| 注意書を見ましたら「水質が不安定ですので、飲用は避けてください」と書かれてお | |||
| りました。 | |||
| (17)「 打 越 橋 」 | |||
| 「打越の霊泉」から坂上を眺めますと、直線で100m先に神奈川県の“橋百選”の | |||
| 一つであり、横浜市の「歴史的建造物」に認定されています「打越橋」が見えます。 | |||
| 「打越橋」は、市電長者町線の開通した昭和3年(1928年)に架けられたもので、 | |||
| 切り通しの「打越坂」が造られた際に分断されてしまった丘上の道路を繋ぐ目的の架 | |||
| 橋で、道路を一跨ぎにするアーチ状の構造物で大変美しい姿を現しています。 | |||
打越橋下から |
橋の上の道路 |
上からの光景 |
|
| 私はこの「打越橋」の下を通る打越坂は、昔は市電、今は市バス・徒歩で何度も通 | |||
| ったことはありますが、橋を渡ったのは今回が初めてでした。橋の下から、また上か | |||
| ら日本一高いビル:ランドマークタワーがよく見える素晴らしい新たらな光景に出会 | |||
| い大満足でした。 | |||
| (18) 大丸谷震災地蔵尊 | |||
| 大丸谷震災地蔵尊は駅の |
大丸谷震災地蔵尊 |
碑文 |
|
| 裏手で、歩いて2〜3分の | |||
| 山手へ通じる道を少しの階 | |||
| 段を登った所にあります。 | |||
| この碑は、関東大震災時 | |||
| に、この地が火の海となり | |||
| 高台に避難しようと300名に | |||
| 近い人が狭い所に殺到しま | |||
| したが、下から迫る火勢の猛威に抗しきれず27名の方が亡くなられました。 | |||
| 震災50周年の昭和48年に、犠牲者のご冥福を捧げるとして地元・石川町の町内会が | |||
| 建てられたものです。 | |||
| ≪番外編≫★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景?(石川町駅南口周辺) | |||
賑やかな半額セール |
お店の中は? |
骨董屋さんのアイドル |
|
| (19) 元町のシンボル“フェニックスアーチ”≪ 元 町 通 り ≫ | |||
| 「元町」は、石川町駅南口から石川町の商店街を通リ抜け、本牧通りを渡った所に | |||
| あります。 入口から約800mにわたり、両側に魅力あるお店が並び、最後が地下鉄み | |||
| なとみらい線「元町中華街」駅の元町口となります。 | |||
| 横濱港開港以来、山手の居留地に住む外国人相手の商店街として発展してました。 | |||
| 現在は、日本有数のファッションタウンとして、特に2月と9月末の“チャーミン | |||
| グセール”は女性には大人気です。 | |||
“フェニックスアーチ” |
元町のシンボル“フェニックスアーチ”は、昭和60年 | ||
| (1985年)に元町のシンボルとして「伝統を受け継ぎな | |||
| がら、常に新しく生きるフェニックス」ととらえ、 | |||
| 「翔べ光の中へ」の意味が込められているそうです。 | |||
| 下記の3枚の写真は、横浜開港150周年記念の名残か、 | |||
| 元町通りで今も張り出されていたものを撮りました、昔 | |||
| の元町の風景です。 | |||
開港当時 |
外国人居留地と商店街 |
ハマトラブーム |
|
| (20) 元町厳島神社 | |||
| 「元町厳島神社」は、元 |
元町厳島神社 |
碑の説明 |
|
| 町通りの一筋脇道をそれた | |||
| 「仲通り」にありますが、 | |||
| あまり知られていません。 | |||
| (私がよくが知らないのか | |||
| もしれませんが)、でも歴 | |||
| 史は古く、今から約700年以 | |||
| 前横濱洲干島(横濱村の更 | |||
| に先端の地)に有ったのが、元町厳島神社と呼ばれるようななったのは、明治2年 | |||
| (1869年)のことです。現在の場所には昭和の初期に移り、何回かの焼失で現在の建 | |||
| 物は昭和38年(1963年)に建てられたものです。 | |||
| 商売繁盛・合格祈願・縁結びの神様で、元町発展興隆の守護神であります。 | |||
| (21) シドモア桜(ワシントンの桜の里帰り) | |||
シドモア桜 |
説明文 |
元町通りの一番東側にな | |
| ります谷戸橋の脇に「シドモ | |||
| ア桜」が植えられています。 | |||
| 碑文によりますと | |||
| 『ポトマック河畔 | |||
| からの里帰り、 | |||
| 1912年、東京からワシント | |||
| ンへ友好・親善のため桜の | |||
| 苗木(ソメイヨシノ)3千本が贈られました。その後は、ポトマック河畔一帯に植え | |||
| られ、世界的な桜の名所になりました。 | |||
| 桜の植樹にあたり、大きく貢献したのが紀行作家であり『日本・人力車旅情』(英 | |||
| 文省略)の著者であるアメリカ人女性エリザ・R・シドモアさんです。 | |||
| シドモアさんは今、横浜の外人墓地に眠っています。 | |||
| そのポトマック河畔の桜が、1991年に里帰りし、シドモア桜の会によって、シドモ | |||
| アさんの墓碑の傍に植えられました。そしてシドモアさんと桜のエピソードを伝える | |||
| ため、その桜から接ぎ木により苗木が作られまして、ここに植えられた桜は、その苗 | |||
| 木から育った桜です』と書かれています。話の起源は約100年前の出来事です。 | |||
| ≪番外編≫ 元町通り・仲通り | |||
| ★ウチキパン | |||
| 仲通りの一番東側にあり |
ウチキパン全景 |
売場 |
|
| ます「ウチキパン」は、慶 | |||
| 応元年(1865年)イギリス | |||
| 人ロバート・クラークが開 | |||
| いたパン屋「横濱ベーカリ | |||
| ー」の職人をしていた打木 | |||
| 彦太郎が明治21年(1888年) | |||
| に独立して開業したのがウ | |||
| チキパンの前身「横濱ベーカリー宇千喜商店」であり、現在の「ウチキパン」であり | |||
| ます。白い建物の3階・4階が工場です。元町の歴史を誇る老舗の一つです。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (元町通り・仲通り) | |||
家具屋さんの大椅子 |
現役ポスト |
走る広告塔 |
|
箸屋さんの招き猫 |
ペットバー案内 |
ペットバー |
革製品屋さん |
洋品屋さん |
いらっしゃい! |
時計 |
モダンな公衆トイレ |
KOBAN |
| 2010. 3. 7 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その5) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その5) | 横浜市 小田 茂 | |
| 3.山 手(その1) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 今回から、『横浜:山手』を何回かに分けてご紹介いたします。山手といえば瀟洒 | |||
| な洋館が建ち並び、開港当時の旧居留地の丘であります。≪その2≫の番外編でご紹 | |||
| 介いたしました「洋館」につきましては、写真のみといたします。 | |||
| (22)「山手イタリア山庭園」 | |||
| JR石川町駅南口を出て、 |
イタリア山庭園入口 |
洒落た水口 |
|
| 直ぐ近くの大丸谷坂を6〜 | |||
| 7分位歩くと「山手イタリ | |||
| ア山庭園」の入口に到達し | |||
| ます。 | |||
| 明治13年(1880年)から | |||
| 明治19年(1886年)にかけ | |||
| て、この見晴らしの良い高 | |||
庭園1 |
庭園2 |
台の場所にイタリア領事館 | |
| があったことから「イタリ | |||
| ア山」と呼ばれるようにな | |||
| りました。 | |||
| 特に一際目立つのが洋風 | |||
| 庭園で、中央にあります水 | |||
| 路を中心に、幾何学模様の | |||
| デザインの花壇は、四季折 | |||
| 々の花で訪問者の心を和ましてくれます。 | |||
| また、この敷地内に「ブラフ18番館」と「外交官の家」が建てられております。 | |||
ブラフ18番館 |
外交官の家 |
少しは似てますか? |
|
| (23) 「カトリック山手教会」 | |||
「カトリック山手教会」 |
「カトリック山手教会」右側面 |
イタリア山庭園から4分 | |
| 程度で「山手本通り」に出 | |||
| ます。この通りは両脇に西 | |||
| 洋館、教会、女学校等がな | |||
| らび、「外人墓地」をはじ | |||
| め数々の見所があり、最終 | |||
| 突き当りが「港の見える丘 | |||
| 公園」となります。 | |||
| 「山手本通り」を6分ほど歩くと、右側に「カトリック山手教会」があります。 | |||
| 文久2年(1862年)に現在の山下町にフランス人宣教師が建てた横浜天主堂を、明 | |||
| 治39年(1906年)に現在の場所に移築されました。大正12年(1923年)の関東大震災 | |||
| で倒壊した後、現在の建物は昭和8年(1933年)に再建されたものです。 | |||
| 庭には、真っ白な「聖母 |
「聖母マリア」の像 |
説明板 |
|
| マリア」の像が建っていま | |||
| す。説明文には『この美し | |||
| い聖母像は、1868年にフラ | |||
| ンスから贈られ開国後、初 | |||
| のキリスト教教会として | |||
| 1862年(文久2年)居留地 | |||
| に建てられた。 | |||
| イエズスの聖心教会の入口の上より人々を見守る形で設置されました。1906年(明 | |||
| 治39年)に教会が山手四十四番地に移転の際、現在の場所に移されました。』と書か | |||
| れていました。 | |||
| (24) 「日本最初のヒマラヤスギ」 | |||
ヒマラヤスギ1 |
カトリック山手教会の脇道を、山手本通りから外れて | ||
| 4〜5分先に「山手公園(洋式公園発祥の地・テニス発 | |||
| 祥の地)」があります。 | |||
| イギリス人によりインドのカルカッタからヒマラヤス | |||
| ギの種子が輸入され、山手居留地一帯に植えられたのが | |||
| 日本で始めてのヒマラヤスギです。(インドはイギリス | |||
| の植民地だった頃から、ヒマラヤスギをイギリスから取 | |||
| り寄せていたとのこと)この山手公園からヒマラヤスギ | |||
| は公園樹として全国に広がっていきました。 | |||
| 昭和40年(1965年)頃か |
ヒマラヤスギ2 |
旧「山手68番館」 |
|
| ら、大きくて邪魔だと伐採 | |||
| が進み、また、台風などで | |||
| 倒れ現在は直径1メートル | |||
| 以上の大木は数少なくなり、 | |||
| テニスコート周辺、近くの | |||
| フェリス女学院の校庭にと | |||
| 大変貴重な木です。横浜市 | |||
| の名木古木に指定されています。 | |||
| 園内のテニスクラブハウス(旧山手68番館)には、当時のテニス用品等が多数展示 | |||
| されています。 | |||
各種テニスラケット |
テニス風景のステンドグラス |
当時のご婦人にテニススタイル |
|
| (25) “宣教師の一世紀活動”の記念碑 | |||
| 山手本通りに戻って5分 |
“宣教師の一世紀活動”の記念碑 |
4人の宣教師 |
|
| ほど歩を進めますと「代官 | |||
| 坂上」バス停の前に「末日 | |||
| 聖徒イエス・キリスト教会」 | |||
| があり、碑の説明文により | |||
| ますと『1919.9.1、聖徒 | |||
| イエスキリスト教会の4人 | |||
| の宣教師がこの地で布教を | |||
| はじめ・・・・日本各地の忠実な教会員による一世紀にわたった献身を記念する。 | |||
| 2001.9.1』と記されていました。 | |||
| ≪番外編≫ 横浜中華街:今年の“春節”は2月14日(日) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 横浜中華街では、2月14日は中国の正月、旧暦の正月元旦「春節(シュンセツ)」 | |||
| で2月一杯いろいろなお祝いの行事で大賑わいです。新暦の正月より「春節」の方が | |||
| 新年ムードは一段と高いと言われております。ちなみに「春節」は、旧暦を基準にし | |||
| ているため、新暦に直すと毎年日日が異なります。 | |||
| 横浜中華街の歴史は、横浜開港(150年前)と共に歩ん |
春節で賑わう中華街 |
||
| できました。飲食・食材・雑貨等、500軒以上の店が軒を | |||
| 連ね、年間2,000万人を超える人々が訪れる世界最大級の | |||
| 中華街であります。 | |||
| 交通の便は、地下鉄みなとみらい線「元町・横浜中華 | |||
| 街駅」(中華街出口)下車直ぐで中華街東側で、JR根 | |||
| 岸線「石川町駅」北口(中華街口)から徒歩5分のとこ | |||
| ろで中華街西側入口となります。 | |||
| 横浜山手中華学校卒業生による、中国伝統文化の継承を目的として活動しています。 | |||
華麗な踊り |
獅子舞@ |
獅子舞A |
|
| ☆ 横浜中華街の“牌楼(門)” | |||
「善鄰門」 |
横浜中華街の“牌楼(門)”は10基あります。横浜中 | ||
| 華街正門ともいわれる「善鄰門」は大通り入口に建って | |||
| おりまして、平和を願い看板に、隣国や隣家と仲良くす | |||
| るという「親仁善隣」という言葉を掲げてあります。牌 | |||
| 楼にはそれぞれ意味があり、中国の風水思想の影響を受 | |||
| けているそうです。 | |||
| 中華街を囲むように「東・南・西・北」(東西南北で | |||
| はありません)に配置された牌楼は、特に深い意味を持 | |||
| っております。守護神は東:青竜神、南:朱雀神、西:白虎神、北:玄武神でそれぞ | |||
| が順番に邪を見張ることにより、中華街の繁栄と安全をはかるということです。 | |||
| ★東方:≪朝陽門(チョウヨウモン)≫ |
「朝陽門」 |
||
| 地下鉄みなとみらい線「元町・横浜中華街駅」(中華 | |||
| 街出口)を出たところにあります。道路の反対側は山下 | |||
| 公園、マリンタワーが直ぐです。 | |||
| 意味合いは「日の出を迎え朝日が街全体を覆い繁栄を | |||
| もたらす。」です。 | |||
| ★南方:≪朱雀門(スザクモン)≫ | |||
「朱雀門」 |
南門シンクロードの南端で、すぐ側の前田橋(堀川) | ||
| を渡れば「元町商店街」です。 | |||
| 意味合いは「厄災をはらい、大いなる福を招く。」 | |||
| ★西方:≪延平門(エンペイモン)≫ | |||
| JR根岸線「石川町駅」北口(中華街口)から徒歩3 | |||
| 分のところにあります。右側が「港中学校」、左側が | |||
| 「みなと総合高等学校」で、以前は「港商業高等学校」 | |||
| で、東京計器OGに卒業生は何人もいます。また、その |
「延平門」 |
||
| 昔(昭和20年代後半)「大鳥中学校」であり、校舎は替 | |||
| わっておりますが私の母校であります。当時、地元本牧 | |||
| は米軍に接収され中学校がなく、ここ「吉浜橋」まで市 | |||
| 電で通学していました。当時は「中華街」でなく「南京 | |||
| 町」と呼んでいました。 | |||
| 話を戻しますが、意味合いは「平和と平安のやすらぎ | |||
| が末永く続くことを願う」ということです。 | |||
「玄武門」 |
★北方:≪玄武門(ゲンブモン)≫ | ||
| 大桟橋通りに面し、斜め前が「横浜スタジアム」です。 | |||
| 近くに「中区役所」があります。 | |||
| 意味合いは「子孫の繁栄をもたらす」です。 | |||
| ★≪西陽門(セイヨウモン)≫ | |||
| 石川町駅北口を出て、ガードを通ると直に、「西陽門」 | |||
| があります。延平門より更に西端に位置しており、西の | |||
| 太陽に一番近いので「西陽 |
「西陽門」 |
「市場通り門」 |
|
| 門」と名付られたそうです。 | |||
| ★≪市場通り門≫(2基) | |||
| 「中華街大通り」と「関帝 | |||
| 廟通り」を結ぶ横道の「市 | |||
| 場通り」の両端に建ってい | |||
| ます。 | |||
「天長門」 |
「地久門」 |
★商売の神様「横浜中華 | |
| 街関帝廟」がある通りを象 | |||
| 徴する門です。 | |||
| 「関帝廟通り」の | |||
| 東側に≪天長門≫ | |||
| 西側に≪地久門≫ | |||
| があります。 | |||
| ★ 「横浜中華街 関帝廟(カンテイビョウ)」 | |||
| 「三国志」の武将・関羽を祀っております。正義の味方としての武人の他に理財家、 | |||
| そして簿記の方法も発明したということで「商売の神様」として厚く信仰されていま | |||
| す。横浜中華街の関帝廟は日本最初の関帝廟で、明治6年(1873年)に建てられ、そ | |||
| の後、大正12年(1923年)関東大震災、昭和20年(1945年)大空襲、昭和61年(1986年) | |||
| 火災で焼失し、現在の廟は平成2年(1990年)に再建された4代目であります。 | |||
| 中国の伝統建築工芸をこらした豪華絢爛な廟は、横浜中華街の中でもひときわ異彩 | |||
| を放っており横浜中華街のシンボル的存在です。 | |||
関帝廟全景 |
「三国志」の武将・関羽 |
獅子・狛犬? |
|
| ★ 「横濱 媽祖廟(マソビョウ)」 | |||
| 「横濱 媽祖廟」は「横浜中華街関帝廟」とともに華僑の人々の信仰を集めていると | |||
| ころです。 | |||
| W媽祖”とは、中国沿岸地方で広く信仰されている海の女神のことで、航海通商の | |||
| 安全を守り、自然災害・疫病を防いでくれる神様とされる神「媽祖」が祀られており | |||
| ます。 | |||
媽祖廟全景 |
獅子・狛犬? |
「金亭」金紙券をここで燃やす |
|
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (横浜中華街その@) | |||
ジャンボ・ブタまん |
馬さんの店@ |
馬さんの別店A |
|
私、売り物です |
縁起の良い案内板 |
路上の記念碑 |
フカヒレ@ |
フカヒレA |
コックさん |
フカヒレまん |
赤い石? |
交番 |
| 2010. 4. 4 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その6) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その6) | 横浜市 小田 茂 | |
| 3.山 手(その2) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 今回は『横浜:山手』の2回目となります。なお、≪その2≫の番外編で、ご紹介 | |||
| いたしました「西洋館」につきましては、写真のみといたします。 | |||
| また、「番外編」は、前回に引続き「横浜中華街」の『お店のマスコット・看板』 | |||
| 等々の珍百景? をご紹介いたしますが「横浜中華街」には面白いものが沢山あり、 | |||
| まだまだ続きそうです。 | |||
| (26) ペリーも訪れた「横濱村名主:石川徳右衛門の屋敷跡」 | |||
屋敷跡 |
説明板 |
山手本通りの「代官坂上」 | |
| の交差点を左折し、「代官 | |||
| 坂」を元町商店街方向へ下 | |||
| っていったところにありま | |||
| す。この坂は、山手の丘を | |||
| 越えて本牧方面へ行く道で | |||
| したが、横濱村名主石川徳 | |||
| 右衛門の屋敷があったこと | |||
| から「代官坂」と呼ばれるようになりました。 | |||
| 幕末開港前後の当主石川徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場の設営、食 | |||
| 糧、その他の設備一切を掌りました。また、ペリーが嘉永7年(1854年)3月9日に | |||
| この屋敷に訪れたとのこと。黒塀が少し昔を偲ばせているのかと思われます。表札を | |||
| 見ましたら「石川」さんでした。広い庭の奥には立派な洋館が建っておりました。 | |||
| 何代目か分りませんが子孫の方が住んでいるようです。また、「石川町」という町 | |||
| 名にも多分関連があるのだと勝手に思っているところです。 | |||
| この屋敷跡の道路越し前に、「日本バプテスト発祥の地」の碑が建っていましたが、 | |||
| 後から出てきます記事と関連がありますので後述の(29)にまわします。この場所か | |||
| ら坂を下って140〜50mで元町商店街本通に出ます。 | |||
| 「山手本通り」へ戻るには、今度は急な登り坂なので大変でした。 | |||
| 「代官坂上」の交差点にもどり、ここから4〜5分先からは、山手らしい雰囲気が | |||
| 更に増してきます。 | |||
| 「元町公園」へ丘を下る入口周辺に「ベーリック・ホール」、「エリスマン邸」、 | |||
| 「山手234番館」等が建ち並んでおります。 | |||
「ベーリック・ホール」 |
「エリスマン邸」 |
「山手234番館」 |
|
| また、レトロな「公衆電 |
「公衆電話」外観 |
「公衆電話」内観 |
|
| 話」が、この山手の雰囲気 | |||
| を一層かもし出しておりま | |||
| す。今は皆さん、携帯電話 | |||
| を持っているので、これを | |||
| 利用する方は本当に“オツ” | |||
| な人が、多いのではないで | |||
| しょうか! | |||
| (27) 山手80番館遺跡 | |||
| 「エリスマン邸」の直ぐ脇の「額坂(ひたいざか)」の下り入口の所に、「山手80 | |||
| 番館遺跡」があります。関東大震災前の異人館遺跡です。日本語の説明文は、下記右 | |||
| 写真を拡大して(クリック)お読み下さい。 | |||
「山手80番館遺跡」 |
説明板 |
説明板(日本語部分) |
|
| (28) 土木遺産「ブラフ溝」 | |||
「ブラフ溝」 |
「山手80番館遺跡」から額坂を下ったところに、土木 | ||
| 遺産「ブラフ溝」が置かれています。説明板によります | |||
| と、「ブラフ」とは居留外国人に“切りたった崖”と呼 | |||
| ばれ、ここの山手の丘陵地が数々の谷戸を持ち、その雨 | |||
| 水が谷戸に流れないよう、明治7年(1874年)から翌年 | |||
| にかけて造られた、洋風側溝としては現存最古のもので | |||
| あります。右側がけ下は「元町公園プール」です。 | |||
| ここの斜め前を10数m入ったところに「ヨコハマ猫の | |||
| 美術館」があります。普通の民家の二階屋ですが、ひっそりとしていました。 | |||
| 「ブラフ溝」のところに「猫に餌を与えない」との横浜市の看板が有ったのには、 | |||
| 「何で猫の美術館のこんな側に、このカンバン?!」と思わず一人笑いましました。 | |||
猫の美術館看板 |
入口の猫の置物 |
横浜市看板 |
|
| (29)「日本バプテスト」発祥の地 | |||
| 「額坂」をさらに1〜2分下った右側の民家に敷地の角地に「日本バプテスト」発祥 | |||
| の地の説明板があります。『関東学院源流 日本バプテスト神学校発祥の地 1884 | |||
| 年10月6日、ここ山手でA・A・ぺンネットが横浜バプテスト神学校を設立した。 | |||
| 関東学院キリスト教教育の源流はここに発する。』創立125周年記念碑であります。 | |||
| 真ん中の写真で、向って左側が「額坂」で、ここを下ると「代官坂」と合流します。 | |||
| 写真の右側の方に「代官坂」があり、合流点の近くに「日本バプテスト発祥の地碑」 | |||
| が建っております。碑には「明治6年2月7日ネーサン・ブラウン博士」がこの地に | |||
| 布教の本拠地を置いた旨のことが刻まれ、昭和11年9月23日に建立されたものです。 | |||
創立125周年記念碑 |
当時の神学校 |
「日本バプテスト」発祥の地碑 |
|
| (30) 横浜山手聖公会教会 | |||
| 文久3年(1863年)、横 |
横浜山手聖公会教会 |
キリスト像 |
|
| 濱に居留していた英米人に | |||
| よって居留地に、日本初の | |||
| プロテスタント教会として | |||
| 建設され、明治34年(1901) | |||
| 山手の現在地に移されまし | |||
| た。 | |||
| 「山手本通り」の「山手 | |||
| 234番館」の並びにあります。 | |||
| 関東大震災で倒壊し、昭和6年(1931年)に大谷石の外壁で現在の教会が再建され | |||
| ました。しかし、昭和20年(1945年)の空襲で、屋根が飛ばされ、内部が焼失しまし | |||
| たが、2年後米軍と米聖公会の援助を受け修復されました。 | |||
| しかし、平成17年1月4日信者の放火で内部が全焼してしまいました。幸いに大谷 | |||
| 石の外壁は残り、写真のように重厚感あふれる外観を残しております。 | |||
ブリキのおもちゃ博物館1 |
ブリキのおもちゃ博物館2 |
教会裏手100m位の所に、 | |
| テレビ「何でも鑑定団」で | |||
| お馴染みの北原照久氏が館 | |||
| 長の「ブリキのおもちゃ博 | |||
| 物館」があります。 | |||
| 所有16,000点といわれる | |||
| おもちゃの内、3,000点が | |||
| 展示されているとのこと。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (横浜中華街そのA) | |||
お祝い飾り@ |
お祝い飾りA |
お祝い飾りB |
|
お祝い飾りC |
お祝い飾りD |
巨大ソフトクリーム |
ソフトクリーム |
パンダ?キティーちゃん? |
チョットこわいな〜 |
「天后宮」の灯篭 |
おもちゃの「ぱんだや」さん |
チャンピオン実演中 |
「おもしろ水族館」入口 |
中華街雰囲気満開 |
中華街トイレ |
| 2010. 4.25 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その7) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その7) | 横浜市 小田 茂 | |
| 3.山 手(その3) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 今回は『横浜:山手』の3回目となります。 | |||
| また、「番外編」も、前回に引続き3回目で「横浜中華街」の『お店のマスコット・ | |||
| 看板』等々の珍百景? をご紹介いたします。 | |||
| (31) 山手十番館(ビアガーデン発祥の地) | |||
| 「山手十番館」は、明治100年を記念して昭和42年 |
山手十番館1 |
||
| (1967年)に建てられた、明治からの古い伝統的なフラ | |||
| ンス料理の店であります。店の真前が“外国人墓地”で、 | |||
| この周辺の景観は大変エキゾチックであります。 | |||
| また、案内板では「ビアガーデン発祥の地」(下記写 | |||
| 真拡大してください)とも書かれており、夏はビア・ガ | |||
| ーデンで多くの人が楽しまれております。 | |||
「ビアガーデン発祥の地」 |
山手十番館2 |
山手十番館3 |
|
| (32) 山手資料館 | |||
| 「山手資料館」は、日本人の大工さんにより5年がか |
山手資料館 |
||
| りで、明治42年(1909年)に本牧に建てられた屋敷の洋 | |||
| 館部分であります。関東大震災でも奇跡的に大きな災害 | |||
| をまぬがれ、昭和4年(1929年)諏訪町移転後も戦災の | |||
| 被害も免れました。戦後は洋館であることから米軍に接 | |||
| 収されましたが、返還後、昭和50年代に入り、マンショ | |||
| ンに建て替えられることとなり、洋館も取り壊しするこ | |||
| ととなりました。 | |||
| この計画を知った「山手十番館」のオーナーが洋館部分を買い取り、昭和52年(1977 | |||
| 年)に「山手十番館」の地続きに移し「山手資料館」として、オーナーが収集した昔の | |||
| 品々が展示されております。 | |||
| 横浜に残る明治時代の唯一の木造洋館として、平成11年(1999年)に横浜市歴史的 | |||
| 建造物に指定されました。 | |||
看板 |
獅子頭の水道共用栓 |
説明文 |
|
| (33)“居留地境界石” | |||
| “居留地境界石”は、私にとって初めてのご対面であ |
居留地境界石 |
||
| ります。「山手十番館」の建物の中心位のところに、背の | |||
| 低い石垣の間に有りました。 | |||
| 碑には『居留地境界石 | |||
| 慶応3年(1867年)山手居留地開設時の石標』 | |||
| と彫られていました。 | |||
| 過去に、ここには何回も来た道ですが、今まで全然気 | |||
| がつかず、その意味合いでは正に“大発見”です。 | |||
| (34)「景勝の地・道」の碑 | |||
「かながわの景勝50選」の碑 |
「日本の道100選」の碑 |
「かながわの景勝50選」 | |
| の碑は、「山手十番館」と | |||
| 「山手資料館」の境目のとこ | |||
| ろに建っており、“外人墓 | |||
| 地周辺”と刻み込まれてお | |||
| ります。 | |||
| また、山手本通りを挟ん | |||
| で、反対の外人墓地側には、 | |||
| 「日本の道100選」の碑があります。これは“山下公園通り・山手本通り”を対象と | |||
| して、昭和62年8月10日に建設省:「道の日」実行委員会によって、選ばれたもので | |||
| あります。確かに下記写真のように、「山手本通り」の中でも、この場所が横綱と思 | |||
| われます。季節によって様々な顔を見せる風景・道です。 | |||
山手本通り1 |
山手本通り2 |
山手本通り3 |
|
| (35) 岩崎博物館(岩崎ミュージアム)≪日本初の西洋劇場:ゲーテ座跡地≫ | |||
| 「岩崎博物館」は、山手本通りを挟んで、正面が「横浜 |
岩崎博物館 |
||
| 外国人墓地」の正門であり、右先が「みなとの見える丘 | |||
| 公園」です。 | |||
| 「岩崎博物館」は、明治18年(1885)年に建てられた日 | |||
| 本初の西洋劇場:ゲーテ座が、関東大震災で崩壊し、そ | |||
| の跡地に、学校法人岩崎学園・横浜洋裁学院(現:横浜f | |||
| カレッジ)の創立50周年記念事業として、当時のゲーテ座 | |||
| の資料や世界の服飾装飾品などを展示する博物館として、 | |||
記念碑 |
山手ゲーテ座 |
昭和55年(1980年)に建てら | |
| れたものです。 | |||
| 岩崎博物館の1階部分に | |||
| 「山手ゲーテ座」の名のホ | |||
| ールを併設しております。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (横浜中華街そのB) | |||
料理皿の陳列 |
春節トラ |
「白いたいやきや」のマスコット? |
|
道標⇒こちらへ |
大皿 |
回転飲茶行列 |
酒屋の案内 |
中華街の朝鮮料理屋さん |
チャイハネ |
| 2010. 5.29 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その8) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その8) | 横浜市 小田 茂 | |
| 3.山 手(その4) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 『横浜:山手』の4回目となりますが、今回は「横浜外国人墓地」特集です。 | |||
| なお、「番外編」は、東京計器が小石川から蒲田に移転して80歳を迎え、その関連 | |||
| 情報と、地元横浜の80歳記念建造物をご紹介します。 | |||
| (36) 横浜外国人墓地 | |||
| 「横浜外国人墓地」が正式名ですが、地元では「外人 |
横浜外国人墓地正門 |
||
| 墓地」で通っています。しかし、「外人」という言葉が | |||
| 「差別用語」という説も有り、「外国人」と呼ぶように | |||
| なりましたが、右写真を拡大すれば分りますが、正門に | |||
| も「外人墓地」として残っている部分も有ります。 | |||
| 外国人墓地は、山手本通りの東側の一番外れに位置し、 | |||
| 地下鉄みなとみらい線「元町・中華街駅」から10分弱の | |||
| 「港の見える丘公園」の直ぐ側にあります。 | |||
| そもそもの始まりは、嘉永6年(1853年)にペリー提督が「黒船」4隻を従え、三 | |||
| 浦半島の久里浜に上陸して幕府に米国大統領の親書を渡し開国を迫りました。 | |||
墓地と桜とラウンドマークタワー |
ミシシッピー号 |
その翌年の安政元年(185 | |
| 4年)に、ぺリーは開国交渉 | |||
| のため7隻の艦隊を引き連 | |||
| れ再び来日しました。 | |||
| 横浜停泊中に、ミシシッ | |||
| ピー号の乗組員ロバート・ | |||
| ウィリアムズという24歳の | |||
| 二等水兵がマストから落ち | |||
| て死亡しました。この水兵の埋葬地としてぺリーは米国専用の墓地を要求し、その中 | |||
| に「海の見える地」という条件もあり、ウィリアムズはここに埋葬され外国人墓地埋 | |||
| 葬者の第1号ともいわれています。 | |||
| 外国人墓地の埋葬者数は40ヵ国4,800人といわれておりますが、墓地の管理は市や国 | |||
| でなく、財団法人の手によって維持管理されています。 | |||
| 基本的に内部は非公開ですが、その維持費の大半はボランティアの方の手にとって、 | |||
| 3月から12月のまでの土・日・祭日に行われる公開日の募金(1口200円)で賄われ | |||
| ているそうです。私も今回数十年振りに墓地敷地内に入りました。 | |||
資料館内ステンドグラス |
巨木 |
また埋葬されている人々 | |
| の業績を紹介する資料館が | |||
| 併設しています。 | |||
| 墓地内には歴史をうかが | |||
| えるように、巨木も見られ | |||
| ます。公開された場所は | |||
| 「墓地」の極一部分です。 | |||
| なお、今回の取材?にあたって、パソコン勉強会の先輩仲間のTさんの義母様が、 | |||
| 昭和50年にこの地に埋葬されておられる関係から、貴重な資料を参考にと貸してくだ | |||
| さいました。ありがたく感謝し、紹介文面に活用させていただきました。 | |||
| @ スウィフト(wohn Trumbull Swift)アメリカ人 |
スウィフト |
||
| 文久1年(1861年)〜昭和3年(1928年) | |||
| 北アメリカYMCA同盟から日本のYMCAに派遣さ | |||
| れた最初の名誉主事。 | |||
| 私財を献じて東京YMCA会館を建設。日本YMCA | |||
| の大恩人である。夫婦の墓は外国人墓地には珍しい連理 | |||
| 比翼の塚である。 | |||
グリフィン |
A グリフィン(Clarence Griffin)イギリス人 | ||
| 明治6年(1873年)〜昭和26年(1951年) | |||
| 日本初のボーイスカウトを創設。二歳の時来日、父は | |||
| 中華街の一画で一般貿易業。山手居留地に住む。明治44 | |||
| 年(1911年)に横浜に住むイギリス人など4ヵ国の少年 | |||
| 18名を集め、ボーイスカウト隊を結成、山手ゲーテ座で | |||
| 発会式を挙げたといわれています。 | |||
| B ブラック(Heney wames Black)イギリス人 |
ブラック |
||
| 安政4年(1857年)〜大正12年(1923年) | |||
| 日本に帰化し最初の外国人落語家。青い目の落語家と | |||
| して人気を集め、明治36年(1903年)頃、落語を初めて | |||
| レコード化したともいわれています。 | |||
| また、明治26年(1893年)浅草の菓子商石井家養子と | |||
| なって娘と結婚後帰化したが、1年後に離婚しました。 | |||
| 芸名は「快楽亭石井ブラック」だそうです。 | |||
| C モレル(Edmund Morel)イギリス人 天保12年(1841年)〜明治4年(1871年) | |||
| 鉄道技術者で、我が国初めての鉄道建設に当り、鉄道建築師長として最初に来日し | |||
| た。創業時の鉄道建設計画をたて、初代建築師長として、新橋・横浜間の鉄道建設に | |||
モレル |
看板 |
鋭意努力したが、工事完成 | |
| 見ず29歳の若さで、過労に | |||
| よる肺結核が悪化し急逝。 | |||
| 日本が何時までも外国人 | |||
| に頼ることなく技術学校を | |||
| 創設して技術者の養成を進 | |||
| 言し、自らも教育指導に当 | |||
| たりました。 | |||
| D マイヨ(H.X.Maillot) フランス人 |
マイヨ |
||
| 天保2年(1831年)〜明治7年(1874年) | |||
| 東京帝国大学物理教授 明治5年(1872年)明治天皇 | |||
| が南校(東大の前身) 臨幸の際には、フランス語の | |||
| “御前講義”をされています。 | |||
| 墓碑には「法蘭西国人理学士邁誉君之墓」と漢字で刻 | |||
| みこまれています。 | |||
グラウェルト |
E グラウェルト(Herman Ludwig Grauert | ||
| 天保8年(1837)〜明治34年(1901)ドイツ人 | |||
| 横浜慰留地の貿易商。安政4年(1857年)兄と共に来 | |||
| 日、開港と同時に兄と「樟脳、砂糖、天然塩、ガラス、 | |||
| 生糸」等を扱い有力な商館となる。文久元年(1861年) | |||
| 横浜天主堂(山手カトリック教会の前身)の創建に尽力 | |||
| し日本開港後、最初のカトリック教会です。多分、資金 | |||
| 的援助でしょう。同じく横浜ゼネラル・ホスピタル(現 | |||
| 在の山手病院の前身)の創設にも大きく貢献しました。 | |||
| F カイパー(wennie M.Kuyper) アメリカ人 |
カイパー |
||
| 明治5年(1872年)〜大正12年(1923年) | |||
| 明治38年(1905年)宣教師として来日、フェリス英和 | |||
| 女子学校教師に就任、大正11年(1922年)フェリス女学 | |||
| 院第3代校長でしたが、大正12年(1923年)9月1日の | |||
| 関東大震災は、夏休み明けを間近にし、校務整理のため | |||
| 校舎内で執務していた彼女の命を奪ってしまいました。 | |||
| 現在のフェリス女学院中学・高校の礼拝堂は「カイパ | |||
| ー記念講堂」と名付かれて、その位置は正にカイパー殉職の場所とのことです。 | |||
| G トーマス(Thomas Thomas) 天保13年(1842)〜大正12年(1923年) | |||
| イギリス人 横浜居留地の手形仲買人。 | |||
| 万延2年(1861年)に来日、日本初の西洋式競馬場「根岸競馬場」の理事を明治33 | |||
| 年(1900年)〜大正11年(1922年)まで務めたが、翌年関東大震災に遭って死去。 | |||
| H ウォルター (wames Walter)弘化4年(1847年)〜明治42年(1909年) | |||
| イギリス人 横浜居留地の事業家。 キリスト教会設立の資金援助、震災や飢餓な | |||
| どの邦人救済、また日露戦争の傷病兵援助などに多大な尽力をされました。 | |||
| I ラウダー(wohn Frederic Lowder) | |||
| 天保14年(1843年)〜明治35年(1902年)イギリス人 | |||
| 文久元年(1861年)に来日、横浜駐在の領事、横浜税関法律顧問として明治19年 | |||
| (1886年)イギリス汽船ノーマント号沈没事件で、日本政府の代言人として日本人犠 | |||
| 牲者への補償追及に活躍されたのは裁判史上でも有名だそうです。 | |||
トーマス |
ウォルダー |
ラウダー |
|
エルドリッジ |
J エルドリッジ(Stuart Eldridge) アメリカ人 | ||
| 天保14年(1843年) 〜明治34年(1901年) | |||
| 明治4年(1871年)来日した医師で、明治8年(1875 | |||
| 年)居留地で開業。日本政府中央衛生委員。火葬の提唱 | |||
| 者で自らも遺言によって火葬に付された。夫人が眠る山 | |||
| 手外人墓地に娘の手によって埋葬された。 | |||
| 表通りの鉄柵のすぐ側で十字架の下に夫婦揃って永遠 | |||
| の眠りについています。 | |||
| K ゼーバッハ(日本の監獄制度を近代化改良に貢献) | |||
| L マリア像(セントジョゼフ カレッジ閉校後、旧校庭より記念碑として移築) | |||
| M 戦没者慰霊碑(横浜から第一次世界大戦へ出征し死亡した外国人達の慰霊碑で、 | |||
| 両面に沢山の戦没者の氏名が刻み込まれております) | |||
ゼーバッハ |
マリア像 |
戦没者慰霊碑 |
|
| ≪チョッと変わった碑のご紹介≫(詳細不明) | |||
墓碑21 |
墓碑22 |
墓碑23 |
|
墓碑24 |
墓碑25 |
墓碑26 |
墓碑27 |
墓碑28 |
墓碑29 |
| ≪番外編≫ 小石川から蒲田へ移転してから、80歳をを迎える! | |||
| 昭和5年生まれの同期生 “氷川丸”“日本丸”横浜で80歳誕生祝行事開催! | |||
| 大型連休は好天に恵まれましたが、皆様如何お過ごしでしたか。私は365日超大型連 | |||
| 休の身ですので、毎年この時期は、テレビで交通渋滞の画面を見ながら「うちが一番 | |||
| いいね!」と慰めあいながら?、家でおとなしくしているのが定番となりました。 | |||
| 地元横浜では、昭和5年生まれの、客船「氷川丸」、帆船「日本丸」の80歳誕生記 | |||
| 念の行事が新聞報道されました。 | |||
| 昭和5年といえば東京計器が小石川から蒲田へ移った年です。蒲田の私達が永年お | |||
| 世話になった時計台のある旧建物は、「氷川丸」、「日本丸」と同期生なんですね。 | |||
| 航海計器製造の会社に在職した者にとって何か感慨深いものを感じます。 | |||
| 会社は今年5月に114歳を迎えましたが、小石川で誕生して34才までいて、蒲田で80 | |||
| 年間と会社にとっては誕生後の70%が蒲田での活動だった訳ですね。 | |||
| 会員では昭和5年生まれの同期生の方は、22名おられます。皆さんお元気です。 | |||
| また、今では小石川時代、昭和5年の蒲田本社・工場時代を知っておられるのは、 | |||
| OB会最長老の名誉会員:廣瀬富三郎さんだけとなりました。廣瀬さんは、今年2月 | |||
| に104歳になられました。この度の「返信はがき」には、『100才の時には寫眞等を撮 | |||
| っていただきまして有難うございました。総会には出席したいと思っていますが、健 | |||
| 康に自信ありませんので欠席させて頂きます。皆様によろしく』と記されておりまし | |||
| た。100歳のお祝い時に野村幹事と川崎のご自宅にお伺いした時は、奥様共々お元気で | |||
| したが、その後奥様が亡くなられ、現在は有料老人ホームに移られ、歩行に難がおあ | |||
| りのようですが、お元気にお過ごしです。どうかお達者でお過ごしを祈願いたします。 | |||
| ★ 東京計器 | |||
| 明治29年(1896年)5月1日、東京市小石川区原町 |
東京計器(大谷幹事提供) |
||
| (現在の文京区白山)で誕生、創立以来34年間所存して | |||
| いた小石川本社から蒲田へ、昭和5年(1930年)5月移転 | |||
| を開始し、6月22日木工所、鋼工場、鍛工場を除いて | |||
| 大部分の移転を完了した。 | |||
| 蒲田工場の建物は余り立派すぎて工場というよりは | |||
| デパートのような感じであった。便所も大理石が使用 | |||
| された。当時近代的な模範工場といわれて、業界で有名 | |||
| になり、参観者も非常に多く、特に工員食堂、更衣室、洗面所は非常に立派であった。 | |||
| この歴史ある建物は、昭和63年(1988年)4月に竣工した本社ビル(Eセンター)の | |||
| 建設に伴い、56歳の生涯を終えた。 (参考:100年史) | |||
| ★ 氷川丸 | |||
氷川丸 |
氷川丸は、昭和5年(1930年)4月25日 三菱横浜造船 | ||
| 所(横浜船渠株式会社)にて竣工し、5月シアトル航路 | |||
| の処女航海をいたしました。 | |||
| 総トン数11,622t、全長163.3m、前幅20.1m、船客定員 | |||
| 331名、乗務員126名の日本の代表的豪華客船として活躍 | |||
| しました。 | |||
| 昭和7年(1932年)チャーリー・チャップリン、昭和 | |||
| 12年(1937年)には、イギリス国王ジョージ6世の戴冠 | |||
| 式からの帰国時に秩父宮夫妻が乗船する等、日本の代表的豪華客船として活躍しまし | |||
| た。 戦時中は病院船として、終戦後は復員・引揚者の輸送に使われました。その後、 | |||
| 昭和和28年(1953年)にシアトル航路に復帰し、昭和35年(1960年)に引退しました。 | |||
| 昭和36年(1961年)に生まれ故郷の横浜港(山下公園前)に係留されております。 | |||
| 船名は埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)の氷川神社に由来し、今でもブリッ | |||
| ジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され祀ってあるそうです。 | |||
| ★ 日本丸 | |||
| 日本丸は、昭和5年(1930年)1月27日、大型練習帆 |
日本丸(瀧川監査提供) |
||
| 船として神戸の川崎造船所で誕生いたしました。 | |||
| 総トン数2,279.7t、全長97.1m、全幅12.9m、総帆数 | |||
| 29枚、定員138名で、その帆走の美しく、かつ気高い姿か | |||
| ら「海の貴婦人」、「太平洋の白鳥」と呼ばれた日本丸も | |||
| 戦争のため、昭和18年(1943年)には、帆走を解かれ | |||
| ねずみ色に塗り変え瀬戸内海で石炭輸送に、また戦後は、 | |||
| 海外邦人の復員船として引揚者を輸送、遺骨収集の任務 | |||
| に従事しました。 | |||
| 昭和27年(1952年)に帆も復旧され、船体も純白に戻り活躍しましたが、昭和59年 | |||
| (1984年)9月に日本丸U世の誕生を機に引退しました。 | |||
| 遠洋処女航海も横浜港から始まり、太平洋戦争までは遠洋航海時の出港は殆んど横 | |||
| 浜港でした。したがいまして、引退後は故郷であります横浜のwR桜木町駅近くの日 | |||
| 本丸メモリアル・パーク内(横浜船渠株式会社第一号ドック:石造りドック)の中に | |||
| 水をはった状態で、昭和60年(1985年)から一般公開されています。 | |||
| 2010. 7.18 | 小田 | 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その9) | ![]() |
| 「いろいろな“碑”」を訪ねて(その9) | 横浜市 小田 茂 | |
| 3.山 手(その5) | |||
| ≪はじめに≫ | |||
| 『横浜:山手』に付きまして、5回目となりますが、今回が『横浜:山手』の最終 | |||
| となります。 | |||
| なお、『番外編』の「横浜中華街」の『お店のマスコット・看板』等々の珍百景?の | |||
| ご紹介も今回の4回目で終り、次回から新しい地域となります。 | |||
| (37)“港が見える丘公園”の碑 | |||
| “港が見える丘公園”の碑は、山手本通りの東側の一 |
港の見える丘公園 |
||
| 番外れに位置し、地下鉄みなとみらい線「元町・中華街 | |||
| 駅」から谷戸坂を10分弱上りきった所の「港の見える丘 | |||
| 公園」の中に建てられております。 | |||
| 公園の名前は、昭和22年(1947年)のヒット曲「港が | |||
| 見える丘」(作詞・作曲 東 辰三、唄 平野愛子 ) | |||
| ♪ あなたと二人で来た丘は ♪港が見える丘 ・・・ | |||
| この歌が広く市民に歌われていたこともあって、横浜 | |||
| 市が命名したそうです。 | |||
「港が見える丘」歌碑 |
説明板 |
ただ、命名にあたって、 | |
| 何故、“港が見える丘”か | |||
| ら“港の見える丘”公園に | |||
| なったのかという疑問が残 | |||
| るが、幾つかの候補の中か | |||
| ら当時の市長が選んだそう | |||
| です。 | |||
| ★「港の見える丘公園」 | |||
| 「港の見える丘公園」は昭和37年(1962年)に開園しました。横浜のエキゾチックな | |||
| イメージを代表する観光スポットの一つで、日本の都市公園100選に入っています。 | |||
| 公園一帯は横浜開港当時、外国人居留地で、丘の上にイギリス軍、下にフランス軍 | |||
| が駐屯していました。 | |||
| 「展望台」から横浜港を180°眺めますと、晴れた日は房総半島も見えます。 | |||
マリンタワー(左) |
ベイブリッジ(中央) |
晴れていれば房総半島も(右) |
|
| 園内にイギリス館、山手111番館、大仏次郎記念館、神奈川近代文学館なども開館。 | |||
| 霧笛橋は大仏次郎記念館と神奈川近代文学館とを結び、メルヘンの雰囲気を持つ歩 | |||
| 道橋です。橋長は51mで、昭和61年に完成し、かながわの橋100選の一つです。 | |||
| また、大仏次郎記念館を観ると、大仏次郎がネコ好きだったことが伺えます。 | |||
| イギリス館の脇には、横浜市の花に「バラ」が選ばれたのを記念し、80種・1,800株 | |||
| が咲き競うバラ園も設けられ5月、10月とバラの開花時期には見事な花を咲かせ、訪 | |||
| れる人々の目を楽しませています。 | |||
イギリス館 |
111番館 |
大仏次郎記念館 |
|
神奈川近代文学館 |
霧笛橋 |
バラ園 |
|
| (38)フランス山の“領事館跡地(風車)” | |||
| 「港の見える丘公園」の北側部分は「フランス山」と呼ばれ、「港の見える丘公園」 | |||
| の中の一区画でありますが、独立した公園のように思わせています。 | |||
| 「フランス山」は幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯したところで、そこか | |||
| ら「フランス山」の名がつきました。 | |||
| 文久2年(1862年)に起きた生麦事件をはじめとする、攘夷派の浪人などによる外 | |||
| 国人殺傷事件が頻繁に起こり、これを受けてイギリスとフランスは自国民の保護を名 | |||
| 目に、横浜居留地への自国軍の駐屯を幕府に要求、幕府もこれを認めました。 | |||
| 文久3年(1863年)にはフランス海兵隊が横浜に到着し駐屯したのが、現在の「フ | |||
| ランス山」でした。ちなみにイギリス軍はフランス軍到着の翌年、文久4年(1964年) | |||
| 現在のイギリス館のあたりから岩崎博物館にかけての地域に駐留したそうです。 | |||
| フランス軍が撤退した後、その跡地にフランス領事館と領事官邸が完成したのは、 | |||
| 明治29年(1896年)のことでした。井戸水を汲み揚げるための風車が設置され、明治 | |||
| 42年(1909年)頃まで活躍していました。 | |||
| かってを偲びモニュメントとして多翼型の風車を設置し、色はフランス国旗の色 | |||
| にちなんで、青・白・赤に塗り分けられており、現在、その跡地に当時を思わせる | |||
| “風車”が浜風を心地良く受けて廻っておりました。 | |||
現在の風車 |
昔の風車 |
当時の領事官邸 |
|
| (39)愛の母子像(フランス山) | |||
| 昭和52年(1977年)9月27日、アメリカ海軍の偵察機(ファントム)が、厚木基地 | |||
| を離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こし、横浜市緑区荏田町(現・青葉 | |||
| 区荏田北)の住宅地に墜落し、周辺の家屋を炎上させた。墜落地周辺では、火災によ | |||
| り一般市民9名が死傷、うち男児2名の兄弟が翌日死亡した。また、兄弟の母親であ | |||
| る女性は全身にやけどを負い、長期間にわたる治療のかいなく事故から4年4ヶ月後 | |||
| に亡くなられた。最終的には死亡者が3名に上る惨事でした。(乗組員2名はパラシ | |||
| ュートで墜落前に脱出して基地に無事帰還) | |||
| 遺族の要望により、横浜 |
愛の母子像 |
説明板 |
|
| 市へ寄贈する形で「港の見え | |||
| る丘公園」フランス山地区 | |||
| に、犠牲者をモデルとした | |||
| 「愛の母子像」というブロ | |||
| ンズ像が、昭和60年(1965 | |||
| 年)設置されました。 | |||
| なお、「碑文」につきまし | |||
| ては、その文面に横浜市と | |||
| しては問題ありとして、「碑文」の設置は認めませんでした。事件の概要を簡素化し | |||
| た内容で、「碑文」が建てられたのは像設置後、21年経過した平成17年(2005年)の | |||
| ことでした。 | |||
| (40)レンガ造り井戸遺構(フランス山) | |||
レンガ造り井戸遺構 |
説明板 |
レンガ造り井戸は、明治 | |
| 29年(1896年)のフランス | |||
| 領事公邸竣工時に、上下水 | |||
| 道が山手に敷設されていな | |||
| かったため設置されたもの | |||
| です。 | |||
| 水はすでに涸れています | |||
| が、井戸の深さは約30mで | |||
| 使われているレンガは円形に積むため扇形をしています。 | |||
| (41)初期の鉄骨様式アーチ(フランス山) | |||
| 地下鉄みなとみらい線「元町中華街駅」の直ぐ側に「フランス山」の元町からの入 | |||
| 口があり、入ったところに「初期の鉄骨様式アーチ」が建てられております。 | |||
鉄骨様式アーチ |
鉄骨様式アーチ土台 |
説明板 |
|
| 説明板の概略を述べますと、この「鉄骨様式アーチ」は、パリの中央市場で19世紀 | |||
| の後半に建てられ、実際に使われたものです。市場は、主要部分を占める地上階と倉 | |||
| 庫である地下部分からなりたっていました。 | |||
| 地上階の鉄骨上屋はパリ郊外に復元されており、当公園に設置された構造体は、地 | |||
| 下階部分のものとして、上部構造を支える、柱・アーチ・梁など総て鋳鉄製で構成さ | |||
| れている珍しいものとのこと。 | |||
| 建造時期は、エッフェル塔(1889年)より前のものであり、初期の鉄骨様式を知る | |||
| うえで大変貴重なものだそうです。 | |||
| (42)横浜ボウリング発祥の碑(フランス山) | |||
| フランス山の麓に「横浜ボウリング発祥の碑」がヒッ |
横浜ボウリング発祥に碑 |
||
| ソリと建っています。説明文によりますと、 | |||
| 『1864年(元治元年)横浜外国人慰留地区に、長崎に | |||
| 次ぎボウリングサロンを開場した記録がある。協会発足 | |||
| 30周年を記念し、ここに横浜ボウリング発祥の碑を建立 | |||
| する。 平成7年10月20日・・・・』と記せられ | |||
| ています。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? ( 山 手 編 ) | |||
ネコも山手お散歩 |
住宅です! |
憩の場所“えの木てい” |
|
大仏次郎館ネコ@ |
大仏次郎館ネコA |
園内の日時計 |
イギリス館の窓 |
郵便受け |
アメリカ山公園 |
|
| 上記の一番最後の写真は、昨年8月にオープンしたばかりの、「アメリカ山公園」 | |||
| の屋上での写真です。この公園の面白さは、地下鉄みなとみらい線「元町・中華街駅 | |||
| 舎」の上層部と横浜外国人墓地の北側斜面を一体化した全国初の立体都市公園です。 | |||
| 駅舎の3〜4階と屋上部分が横浜市の所有で、駅舎の1階からエレベーターまたは | |||
| エスカレーターで屋上に出ますと庭園が広がり、デパートの屋上を思い出します。 | |||
| しかも、そのまま進み屋上の庭園を出ますと、外国人墓地北側へつながり高低差の大 | |||
| きい谷戸坂を上る大変さが大幅に緩和されました。 | |||
| ★『お店のマスコット・看板』等々の珍百景? (横浜中華街そのC最終) | |||
中華街案内板・その裏では⇒ |
重たいよう〜! |
店名看板 |
|
横浜関帝廟重建紀念碑文 |
横浜関帝廟重建紀念@ |
横浜関帝廟重建紀念A |
肉まんの碑 |
肉まんカラクリ人形 |
巨大餃子の宣伝 |