連 載『 “発祥の地”を訪ねて! 』 | 横浜市 小田 茂 |
話 題 一 覧 |
2009. 3.14 | “発祥の地”を訪ねて!(その1) 投稿;小田 茂 |
2009. 4. 9 | “発祥の地”を訪ねて!(その2) 投稿;小田 茂 |
2009. 4.15 | “発祥の地”を訪ねて!(その3) 投稿;小田 茂 |
2009. 5. 2 | “発祥の地”を訪ねて!(その4) 投稿;小田 茂 |
2009. 5.17 | “発祥の地”を訪ねて!(その5) 投稿;小田 茂 |
2009. 6. 5 | “発祥の地”を訪ねて!(その6) 投稿;小田 茂 |
2009. 7. 5 | “発祥の地”を訪ねて!(その7) 投稿;小田 茂 |
2009. 7.29 | “発祥の地”を訪ねて!(その8) 投稿;小田 茂 |
2009. 9. 6 | “発祥の地”を訪ねて!(その9) 投稿;小田 茂 |
2009.10. 4 | “発祥の地”を訪ねて!(その10) 投稿;小田 茂 |
2009.11. 4 | “発祥の地”を訪ねて!(その11/最終回) 投稿;小田 茂 |
をクリックすると記事詳細が表示され、 をクリックすると予定・報告の一覧表に戻ります。
青色の枠で囲まれた は、クリックすると図や写真が大きく表示されます。
話 題 『 よもやま話 』 |
2009. 3.14 | 小田 | 発祥の地(その1) |
“発祥の地”を訪ねて!(その1) | 横浜市 小田 茂 |
≪はじめに≫ | |||
2月のトップ・ページで、野村一信本部幹事から「今年は横浜がアツい!」の記事 | |||
の内容のように「横浜開港150周年」を迎え、数々のイベントが予定されております。 | |||
私も“浜っ子”の一人として、何か記念にと思い行動に移したわけです。 | |||
私は横浜市中区に住んでいます。中区というのは横浜 |
浜っ子の小田です |
||
の中心を意味し「中」とつけたと思われるが、区内には | |||
JRの桜木町・関内・石川町駅があり、@県庁、市庁舎 | |||
など官庁をはじめとするビル街、Aランドマークタワー、 | |||
横浜港大さん橋、山下公園、山手外人墓地、三渓園、横 | |||
浜中華街、伊勢佐木町・元町の商店街等々観光的にも有 | |||
名なものが沢山あり、Bそして私の住んでる本牧(ホン | |||
モク)方面の住宅街と多彩な顔をもっております。夜の | |||
人口(住民)より昼間の人口が数段多いところであります。 | |||
この中区には、『発祥の地』というのが沢山存在いたします。開港150年を記念して、 | |||
何回かに分けて、我が家の周辺(中区)にある「発祥の地」をご紹介いたします。 | |||
ただ、掲載写真については、全くのド素人なのでデジカメの性能だけが頼りですので | |||
ご容赦ください。 | |||
この「発祥の地」をご覧いただき、皆さんの住んでいるところで、“発祥の地”と | |||
か“日本一”と称するものなどがありましたら、ドンドンご投稿いただけることを強 | |||
く願っているところであります。どうかよろしく! | |||
1.「君が代」発祥の地 | |||
「君が代」の発祥の地は“妙香寺”(中区妙香寺台8)にあり、自宅(本牧)から徒 | |||
歩で15分のところです。参道の入口には『國歌君が代由緒地』の碑が出迎え、階段を | |||
登りつめたところの「山門」には“本牧山”と書かれています。 | |||
『國歌君が代由緒地』碑 |
「山門」 |
「妙香寺」 |
|
明治2年(1869年)の秋、英国公使の擁護のため横浜に駐屯していた英国陸軍常備 | |||
歩兵隊10連隊第1隊所属軍楽長ジョン・ウイリアム・フエントンが妙香寺に宿泊して | |||
おり、日本語は知らない彼が作曲したメロディを基にしたものである。 | |||
『國歌君が代』発祥の地碑 |
歌詞は、平安時代に詠まれた和歌「和漢朗詠集」を基 | ||
にしたそうです。 | |||
明治3年(1870年)9月わが国最初の陸軍観兵式に際 | |||
して明治天皇の前で初めて演奏されました。 | |||
その後、明治13年(1880年)になって宮内省楽師・奥 | |||
好義が作曲、海軍軍楽雇いのドイツ人エッケルトが洋楽 | |||
に編曲して公表されたのが現在の「君が代」であります。 | |||
2.「日本吹奏楽」発祥の地 | |||
同じ妙香寺境内の中に、日本吹奏楽発祥の地碑があります。碑文(裏面)によると | |||
『明治2年(1869年)10月,薩摩藩の青年藩士30余名が当妙香寺に合宿し英国陸軍第 | |||
10連隊第1大隊属軍隊の指導者ジョン・ウイリアム・フ |
「日本吹奏楽」発祥の地碑 |
||
エントン(John William Fenton) から吹奏楽を学びまし | |||
た。これが日本人による吹奏楽団創立の序であり、吹奏 | |||
活動の緒となりました。 | |||
発祥から120年にあたる平成元年(1989年)日本吹奏 | |||
楽が悠久に発展することを祈念し、ここに吹奏楽界同志 | |||
に誘い、これを建立。 | |||
謹しで日蓮宗本牧山妙香寺に献呈するものである。 | |||
日本吹奏楽発祥の地記念碑建立発起人会 代表 春日 學 』 | |||
3.麒麟麦酒開源記念碑(日本最初のビール工場) | |||
“妙香寺”から歩いて5〜6分の北方小学校の側に「麒麟園」(現在のキリン園公 | |||
園)に「麒麟麦酒開源記念碑」が建てられております。 | |||
「麒麟園」 |
「麒麟麦酒開源記念碑」 |
麒麟山手工場記念碑 |
|
石碑は大変大きく、土台は2m位の高さでキリン山手工場跡から掘り出されたレンガ | |||
が使われ、その上に高さ6m、幅3m,厚さ0.6m位の一枚岩に見える石に碑文が刻みこ | |||
まれています。 | |||
こんなに大きいと「拓本」で数々の賞を得ている名人の大隅豊治さんでも大変だろ | |||
うなと思いながら、碑文を見ると約1,000文字がビッシリ・・・ | |||
碑文の出だしの部分的だけを紹介しますと『安政五年徳川幕府が獨断専行して國を | |||
開くや歐米人續々として横濱に来りしが彼等は居留地と稱せらるゝ一區域の中に居住 | |||
す天沼は此居留地に属し・・・・ 明治5年米人ダブリウ・コープランド此處に工場 | |||
を建設し・・・・』 昭和12年1月に建てられたものであります。 | |||
ここ北方小学校付近はビール醸造業発祥の地で、清泉が湧出していたそうです。こ | |||
の碑があるキリン園公園から北方小学校へ向かう道は、“ビヤザケ通り”と呼ばれて | |||
います。 | |||
北方小学校の正門脇敷地 |
ビール醸造に使われた井戸 |
井戸の説明文 |
|
内には、明治21年(1888年) | |||
から此処でビールが作られ、 | |||
明治28年〜34年(1895年〜 | |||
1901年)までビール醸造に | |||
使われた井戸が残っており、 | |||
ビヤザケ通りから柵越えに | |||
見ることができます。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ 函館高速船『ナッチャンWorld』横浜港に入港! | |||
横浜港、函館港と共に開港150周年を迎え交流を深めるため東日本フェリー(函館 | |||
市)高速船『ナッチャンWorld』が2月28日横浜港大さん橋国際客船ターミナルに入 | |||
港、3月2日まで接岸。 | |||
函館=青森航路の新型高速船で、双胴船の船体には小 |
『ナッチャンWorld』 |
||
学生によるタコや魚等のイラストが色鮮やかに描かれて | |||
いました。 | |||
1日と2日に各2時間づつ、船内の一般公開がされま | |||
した。久し振りの好天に恵まれましたので私も参加しま | |||
したが、日曜日で大変な人出、90分並んで待って、いよ | |||
いよ乗船、1階・2階は車の収納場所、エスカレーター | |||
で3階の椅子席の客室、4階は窓際豪華なテーブル・椅 | |||
子が並べられ、あとは売店があるくらいで甲板にも出られず、会社の製品が使われて | |||
いるかなーと期待していたが、それも見られず20分間の乗船で終わりでした。チョッ | |||
ト残念な気持ち!それでもまだまだ、乗船できないで並んでいる大勢の人達の前を通 | |||
り過ぎる時は、何かチョット満足な気持ちでした。 | |||
「船尾」 |
「1階駐車場」 |
「船首」 |
|
★ 世界最大級の豪華客船『クイーン・メリー2』横浜港初入港 | |||
世界最大級の豪華客船『クイーン・メリー2』(151,400トンが3月6日午前6時半 | |||
ごろ横浜港に初入港。午後5時には出港し香港に向いました。 | |||
『クイーン・メリー2』は総トン数151,400トン、全 |
『クイーン・メリー2』 |
||
長345m、(東京タワー333m、横浜ラウンドマーク296mの | |||
高さです)、全幅39.9m、乗客定員2,592名、乗組員数 | |||
1,253名と正に豪華ホテルですね。 | |||
また、横浜港大さん橋国際客船ターミナルへの寄港は、 | |||
あまりにも船体が大きく、世界最大級の斜張橋を誇る横 | |||
浜ベイブリッジの橋下約55mでもくぐれず、横浜港大さん | |||
橋国際客船ターミナルに接岸できず、鶴見区の貨物船用 | |||
の大黒ふ頭にやむなく接岸となりました。平成元年(1989年)に開通した横浜ベイブ | |||
リッジ関係者も、15年後の平成17年(2004年)に就航した『クイーン・メリー2』の | |||
ような馬鹿でかい船が現れるとは想像もしていなかったのであろう。当日はあいにく | |||
の大雨と接岸場所が遠いので見学を断念しましたが、来年2月19日に横浜港に寄港が | |||
決まっているそうですが、横浜港大さん橋国際客船ターミナルに接岸は矢張りダメで | |||
すね! (注)『クイーン・メリー2』の写真は朝日新聞社撮影 |
2009. 4. 9 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その2) |
“発祥の地”を訪ねて!(その2) 横浜市 小田 茂 | |||
4.「近代競馬場」発祥の地 | |||
「近代競馬場」発祥の地(横浜市中区根岸台)は、本牧の我が家裏の「本牧山頂公園」 | |||
(米軍接収後返還されて公園となる)から、近道で徒歩45分位のバス停「滝の上」に | |||
出て、その真正面にあります。 | |||
現在は、「根岸森林公園」、「中央競馬・馬の博物館」、「観戦スタンド」の一部 | |||
がある「モーガン広場」、「米海軍基地」となっています。 | |||
「根岸森林公園」の入口 |
「根岸競馬場」説明 |
左写真拡大(明治30年代競馬場) |
|
に「根岸競馬場」が誕生し | |||
た時の説明文があります。 | |||
《説明文の概要》 | |||
『慶応2年(1866年)に | |||
この地に幕府の手によって | |||
日本最初の近代競馬場が外 | |||
国人遊歩道に沿う根岸の丘 | |||
に設置されて(14,920坪)、 | |||
「根岸競馬場」が誕生いたしました。翌3年に第1回競馬会が開催されました。 | |||
新スタンド(馬見所)が昭和5年(1930年)に完成しました。昭和17年(1942年) | |||
秋のレースを最後に、昭和18年(1943年)日本海軍に、昭和22年(1947年)米軍に接 | |||
収され、昭和44年(1969年)「観戦スタンド」と現「米海軍基地」を除く部分が返還 | |||
され「根岸森林公園」となり、「観戦スタンド」は、昭和57年(1982年)に返還され、 | |||
横浜市の管理となりました。』 | |||
「根岸森林公園」運動場 |
目を楽しませています |
現在は、市民の憩の場と | |
して、梅、桜、ハナミヅキ、 | |||
アジサイ等々「森林公園」に | |||
相応しい木々で覆われた自 | |||
然環境の中に、家族連れを | |||
はじめ、ジョギングをして | |||
いる老若の元気な姿が多く | |||
見られます。 | |||
森林公園よりチョット小高いところに、現在も「米海 |
米海軍基地 |
||
軍の基地」があり、そんなに広くはない基地内には「日 | |||
米の国旗」が掲揚されていました。もともと、日本海軍 | |||
に接収されたのも競馬場から横須賀軍港が一望でき、海 | |||
軍の通信所として適所であったと言われています。現在 | |||
の米海軍基地も米海軍横須賀の分室のようです。 | |||
私の自宅附近の本牧一帯は。昭和60年代まで米軍の家 | |||
族用住宅で占められていました。返還後は現在の「本牧 | |||
マイカル」を始めとした道路沿いの商業地区と当時“億 | |||
ション”と言われたマンションのオンパレードであり、隔世の思いであります。 | |||
「根岸森林公園」に隣接の「米海軍基地」の直ぐ後に「観戦スタンド」すなわち | |||
「一等馬見所」の一部が現在でも残っております。 | |||
「一等馬見所」スタンド |
昭和5年完成:蒲田本社・工場 |
昭和5年に完成した威厳 | |
のある「一等馬見所」を見 | |||
ながら、昭和5年といえば、 | |||
東京計器が小石川から蒲田 | |||
に本社・工場を完成され「デ | |||
パートのような近代工場」と | |||
も言われ当時としては超モ | |||
ダンな建物と“同期生”な | |||
のだと、東京計器生活の中の大半を過ごした昔の建物、時計台、大理石のトイレ等を | |||
思い出し、「一等馬見所」の残骸?を眺めながら非常に感慨深い一時を味わいました。 | |||
「根岸競馬場」は、昭和12年(1937年)に「日本競馬会・横浜競馬場」と呼ばれるよう | |||
になりました。 | |||
競馬場「観戦スタンド」は、一等馬見所、二等馬見所、下見所等の施設があり、全 | |||
ての施設は、アメリカ人建築家J・Hモーガン(1877-1937年)による設計でした。現在 | |||
は「一等馬見所」の一部だけが残っている場所を、J・Hモーガンの功績を讃え「モー | |||
ガン広場」とし、幾つかの案内文が建てられています。 | |||
モーガン案内 |
モーガン案内 |
モーガン案内 |
「根岸森林公園」の一角 |
馬の像 |
乗馬練習所 |
|
に、「根岸競馬記念公苑」 | |||
があり、その中に「中央競 | |||
馬・馬の博物館」が建てら | |||
れ、また「ポニーセンター」 | |||
では乗馬の訓練が行われて | |||
います。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ 三 溪 園 (横浜市中区本牧三之谷) | |||
三溪園は、自宅から徒歩で20数分のところにあります。 |
三溪園 |
||
三溪園は、生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪 | |||
によって、外苑は明治39年(1906年)開園、原家の私邸 | |||
であった内苑は昭和33年(1958年)公開されました。 | |||
53,000坪(175,000u)の園内には10棟の重要文化財を | |||
含む17棟の古建築物があります。 | |||
「三重塔」は、京都燈明寺にあったものを、大正3年 | |||
3月に移築したものです。康正3年(1485年)の建立で、 | |||
関東地方では最古の塔であると同時に、移築されたもの | |||
とはいえ、横浜市最古の建築物です。 | |||
桜も有名ですが、今年は3月29日現在で、まだ1分咲きです。朝から観光バスは多 | |||
数来ていましたが、本来ならば今年は29日は最高のお花見だった筈です。「桜」の方も | |||
天候不順で、準備は出来ているのですが、何時開花して良いのか戸惑っているようです。 | |||
“桜道”の満開桜 |
昨年の三溪園入口 |
この様子ですと、4月の | |
第1週の土・日曜日が良い | |||
のではないでしょうか。 | |||
ちなみに、65歳以上の入 | |||
園料は、横浜市民で「長寿 | |||
のしおり」を持参すれば | |||
“無料”、市外在住者はシ | |||
ニア料金で300円です。 | |||
追記: 上記写真左は、三溪園へ行く途中の“桜道”のバス停の脇の一本だけが、 | |||
種類が違うと思いますが満開!、右は三溪園入口の昨年のものです。 | |||
“桜道”を通り抜けて信号を渡って、三溪園の通りに入って、すぐ左側に地元の人 | |||
にしか知られていない“亀の子石”というのがありますので、紹介します。由来は、 | |||
『大昔のこと、漁師の網 |
“亀の子石” |
由来説明版 |
|
にかかった大亀がそのまま | |||
石に化したのだと伝えられ | |||
ている。いつの頃からか、 | |||
この“亀の子石”は「のど | |||
を守る神」、特に百日咳の | |||
効験ありとして信仰され、 | |||
百日咳などを患うと、この | |||
神様から、“たわし”を借りてのどをこすり、また小児が食した茶碗を、このたわし | |||
で洗うと不思議に咳が治ると言われている。三七(サンシチ)の結願で治ると“亀の | |||
子たわし”を倍にして返礼する習わしである。』 | |||
そういえば、新しい“亀の子たわし”が幾つか乗ってますね! |
2009. 4.15 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その3) |
“発祥の地”を訪ねて!(その3) | 横浜市 小田 茂 |
5.「西洋理髪」発祥の地 | |||
私の自宅から徒歩で30分位の所に、横浜の名勝地の一つの「山下公園があります。 | |||
この公園の一角に「西洋理髪発祥の地」の記念碑が建てられています。 | |||
記念碑は、山下公園の「赤い靴はいてた女の子」像の後方、30〜40メートル位の所に | |||
建てられています。 | |||
この記念碑は平成元年に、神奈川県理容環境衛生協同組合と全国理容環境衛生協同 | |||
業組合連合会が寄贈したものでありますが、地元の人にもあまり知られていない。と | |||
いうのは、公園を訪れる人の流れが、海岸縁の「横浜港大桟橋に停泊の大型船」「氷 | |||
川丸」、「赤い靴はいている女の子」の方に眼が移り、公園の真ん中ほどの道の目立 | |||
たない場所に建っているため、チョット淋しい存在であります。 | |||
西洋理髪発祥の地記念碑 |
顔には「ZANGIRI」と書いてあり、この彫刻名 | ||
は「ザンギリ」であります。刻印をみれば、 | |||
『“〜ザンギリ頭をたたいてみれば | |||
文明開化の音がする〜” | |||
安政の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか政 | |||
府の「断髪令」に先がけ、明治2年(1869年)横浜に我 | |||
が国初の「西洋理髪店」が開業され、欧米風「ザンギリ | |||
頭」は文明開化の一翼を担うこととなった。』 | |||
「断髪令」とは、正式には「散髪脱刀令(さんぱつだ |
記念碑の説明文 |
||
っとうれい)」のことで、明治4年(1871年)に明治政府によって出された大政官布告で、「散髪脱刀令」は | |||
府によって出された大政官布告で、「散髪脱刀令」は髷 | |||
(まげ)を禁止して散髪を強制する布告ではなく、髪型 | |||
を自由にして構わないという布告であります。 | |||
“ザンギリ(散切り)”を辞書で引くと、『さかやき | |||
をそらずに髪を切り乱すこと』とあり、“さかやき(月 | |||
代)”を辞書で引くと、『江戸時代、男子がひたいから | |||
頭の中央にかけて頭髪をそったこと(部分)』と書かれています。 | |||
実際に西洋理髪業が本格的に始まるのは「断髪令」以降とのこと。 | |||
6.「外国郵便」創業の局 | |||
「外国郵便創業の局」の銘板 |
現在の日本の郵便制度は、明治4年(1871年)3月1日 | ||
に東京−大阪間に導入されました。 | |||
郵便制度発足当時は、日本の郵便は外国には直接郵送 | |||
できませんでした。この時期、日本にはフランス、イギ | |||
リスなどの郵便局があって、これら外国郵便局を利用し | |||
ていました。 | |||
日本の郵便を外国に直接出せるように、外国郵便局の | |||
業務を明治8年(1875年)1月5日に横浜郵便局(現在 | |||
の横浜港郵便局)に移管してからです。ただし、このと |
外国郵便開始80周年記念像 |
||
きはアメリカ宛だけでした。世界各国に出せるようにな | |||
ったのは、明治10年(1877年)6月20日からです。 | |||
外国郵便局がすべて撤退したのは、明治13年(1880年) | |||
3月です。 | |||
横浜港郵便局は、日本大通りに面し、道路越えに神奈 | |||
川県庁が建ってます。 | |||
「外国郵便創業の局」の銘板は、入口の階段、エスカ | |||
レータの右横の壁面に、銘板には「明治8年1月5日創業」と刻印されています。 | |||
また、入口左脇には、外国郵便開始80周年を記念して設置されたブロンズのエンゼ | |||
ル像があり、「郵便は世界を結ぶ」と記されています。 | |||
ちなみに、日本で最初のポストは明治4年(1871年)に設置され、「書状集箱」と | |||
呼ばれました。現在のポストの正式名称は「郵便差出箱」ということだそうです。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ 横浜公園 (サクラの次は私の出番と、咲き誇るチューリップ!) | |||
横浜公園は、私の自宅から徒歩で35分の所で、JR根岸線「関内駅」下車徒歩3分 | |||
の所で横浜市庁舎の側面に位置します。 | |||
明治9年(1876年)、外国人と日本人が共に利用できる日本最初の洋式公園として | |||
開園されました。園内には我国最古の公園の碑があるのですが、現在「日本庭園」工 | |||
事中で写真は撮れませんでした。 | |||
横浜公園の設計者は、明治元年(1868年)政府の招聘 |
R・H・ブラントン像 |
||
により来日した、英国人土木技師R・H・ブラントンで | |||
日本各地の灯台を建設。8年間にわたる活動の拠点とし | |||
ていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うな | |||
ど、横浜の近代的な街造りに大きな足跡を残しました。 | |||
6万3000u余りの敷地内には、横浜スタジアム、噴水、 | |||
日本庭園、遊具がありますが、何といっても今の時期で | |||
すと、私の地元中区の“区花:チューリップ”です。 | |||
小学生が植えたチューリップ |
小学生が植えたチューリップ |
毎年、地元の小学校の生 | |
徒さんをはじめ市民の皆さ | |||
んの手によって植えられた、 | |||
16万本のチューリップが咲 | |||
く横浜公園では桜に変わり | |||
“チューリップまつり”が | |||
4月24日(金)〜26日(日) | |||
から始まります。 | |||
ただ、心配するのは私が写真を撮ったのは、12日の日曜日で、それこそ「満開」に | |||
近いような状況で、鑑賞にお出掛けなら、18(土)、19日(日)頃と思いますが! | |||
花名:ヨコハマ |
花名:ヨウキヒ(楊貴妃) |
花名:レフェバースメモリー |
咲き誇るチューリップ |
咲き誇るチューリップ |
咲き誇るチューリップ |
2009. 5. 2 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その4) |
“発祥の地”を訪ねて!(その4) | 横浜市 小田 茂 |
6.「洋式公園」発祥の地 | |||
日本最初の「洋式公園」は“山手公園(中区山手町230 |
@「洋式公園」発祥の碑 |
||
番地)”で、我が家から徒歩で20分位の所にあります。 | |||
明治3年(1870年)に開園いたしましたが、説明文に | |||
よりますと「慶応3年(1866年)に外国公使団との間で | |||
結ばれた『横浜居留地改造及競馬場、墓地等約書』に基 | |||
ずき幕府によって認められ、競馬場の方は“根岸競馬場” | |||
と実現しましたが、公園計画は具体化しないままでした。 | |||
明治2年(1869年)に居留民代表から改めて要求が出 | |||
A説明版 |
B説明版の当時の公園風景 |
されたことに際し、山手妙 | |
香寺付近の土地6,000坪を日 | |||
本政府は貸与した。』との | |||
ことです。 | |||
また、公園の造成は居留 | |||
の人々が行ったそうです。 | |||
山手公園の周りの道が桜 | |||
道と言われる位、今年も見 | |||
事な桜の花を咲かせ、大勢の方々を楽しませて呉れました。 | |||
7.「日本庭球」発祥の地 | |||
「日本庭球」発祥の地は |
C「日本庭球」発祥の碑 |
D緑に囲まれテニスを楽しむ若人 |
|
「山手公園」の中にありま | |||
す。 | |||
明治11年(1878年)近く | |||
の居留地に住む婦人たちが、 | |||
テニスクラブを結成し(現 | |||
在の横浜インターナショナ | |||
ルテニスクラブ)5面のテ | |||
ニスコートを建設したとのこと。 | |||
現在は、丘の中腹のためテニスコートは3箇所に分れ5面、3面、2面(数自信なし) | |||
と各々緑豊な樹木に囲まれたコートであります。 | |||
夏は一汗かいたあとの木陰の風は爽やかだろうな!と思いながら、若人の試合を一 | |||
時観戦! | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★『開国博Y150』4月28日開幕。前日の招待『内覧会』に参加して! |
横浜開港150周年記念イベント『開国博Y150』が、4月28日から9月27日まで開催さ | |||
れます。28日開幕を控えた前日の27日にベイサイドエリアの“有料会場”の「内覧会」 | |||
が実施されました。この「招待券」を幸運にも知人から貰うという機会に恵まれ、早 | |||
速、ベイサイドエリアである赤レンガ倉庫周辺へ出掛けました。 | |||
E会場周辺(旗とランドマーク) |
F記念キャラクター |
G下記掲載の会場 |
|
「ベイサイドエリア」には、7つの会場があり、その内3会場が“有料会場”です。 | |||
今回は、下記の会場のみをご紹介して、後は“見てのお楽しみ!”といたします。 | |||
なお、「象の鼻会場」会場は、6月2日オープンを目指して現在工事中です。 | |||
☆ NISSAN Y150ドリームフロント&スーパーハイビジョンシアター | |||
(1)「スーパーハイビジョンシアター」 | |||
スクリーンが540インチ、畳50畳分の大きさです。 | |||
場内に入るとスクリーンの大きさにビックリ。あまり |
H530インチ(ねぶた祭り) |
||
前だと首が疲れると思い最後尾を確保し、全部背もたれ | |||
付きの立ち席です。したがって写真も前の人の頭が主役 | |||
になって“ねぶた祭り”の迫力伝えられません。残念! | |||
NHKが開発したというが、超高精細映像と立体音響 | |||
は、正に“ド迫力!”です。 | |||
テーマは「こどもたちと感じる未来と想像力」という | |||
ことで、10分間の上映ですが、人と自然が共生する大切 | |||
な日本の物語を伝えています。特に「蒸気機関車」・「ねぶた祭り」の迫力は感動も | |||
のでした。 | |||
I電気自動車(運転席ビボ君) |
(2) 電気自動車 | ||
日産の電気自動車ビボ君の案内で、日産が描く | |||
「思いやりの未来」が数あるテレビ画面に映り | |||
出されます。 | |||
地球に優しい電気自動車を目の前に見て、近い | |||
将来、こんな可愛い乗り物が街中を走る姿が | |||
瞼に映りだしました。 | |||
J地球型バルーン |
|||
(3) コトバパーク | |||
地球環境の大切さを、電気自動車ビボ君に | |||
再教育?された後、いろいろな色の葉型の | |||
紙に各人が「思いやり活動」を書き込み、 | |||
このコトバの“葉”を地球型バルーンの中 | |||
に入れ “葉”は舞い上がっていきます。 | |||
★ よこはま“スプリング フェア”『花壇展』5/6まで 山下公園 | |||
帰り道、周遊会場の一つ |
K横浜市長賞 |
L横浜開港150周年協会会長賞 |
|
である「山下公園会場」で | |||
“スプリング フェア” | |||
『花壇展』が開かれており | |||
ました。見事な美しさなの | |||
でご紹介いたします。 | |||
写真の最後の3枚は、私 | |||
が「港ヨコハマ」に相応し | |||
との思い(氷川丸が映っているなど)で入選外の作品から選んだものです。 | |||
M横浜市会議長賞 |
N横浜市環境創造局長賞 |
O花壇展審査委員長特別賞 |
P私の推薦(1) |
Q私の推薦(2) |
R私の推薦(3) |
|
なお、本番の方は、この会場では、ペリー来航時の外輪型帆船が来て、黒船体験ツ | |||
アーが5/3〜5/10 に予定され、夜間ライトアップは5/2からです。 |
2009. 5.17 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その5) |
“発祥の地”を訪ねて!(その5) | 横浜市 小田 茂 |
今回は、ご紹介する「発祥に地」でイベントが開催されていましたので、「番外編」 | |||
と統合した形となりました。 | |||
8.「アイスクリーム」発祥の地 | |||
自宅からJR桜木町駅方面へ徒歩で40分位のところの馬車道(反対側:伊勢佐木町) | |||
に、「アイスクリーム発祥の地」記念碑があります。 | |||
アイスクリームは現在の常磐町4丁目で、町田房蔵が |
@「太陽の母子像」 |
||
明治2年(1869年)5月9日、日本最初の「アイスクリー | |||
ム」を「あいすくりん」と呼んで、氷と塩とを用いて製 | |||
造販売いたしました。 | |||
記念碑は他のいろいろな記念碑と異なり、右の写真の | |||
ような「太陽の母子像」があり、アイスクリームとの関 | |||
連がなんとも理解しがたいような気がします。 | |||
記念碑の説明文には、次のように書かれていました。 | |||
A「太陽の母子像」 |
B説明文 |
『横浜沿革史に、明治二 | |
年六月馬車道常磐町五丁目 | |||
ニ於イテ町田房蔵ナルモノ | |||
氷水店ヲ開業ス、と誌るさ | |||
れています。 | |||
日本のアイスクリームの | |||
誕生です。』 | |||
★「アイスクリーム」無料配布のイベント | |||
毎年、5月9日の「アイスクリームの日」には、ゆかりの馬車道で「アイスクリー | |||
ム」が無料配布されます。昔ながらの素朴な味ということなので、興味津々、女房と | |||
大勢の列に並びました。待つこと1時間近く、配布開始、鹿鳴館時代のドレス姿の | |||
美女から直接手渡され、溶けないうちにと早速口元へ。バニラ、あずきなど5週類と | |||
のことでしたが、貰ったのはカスタードでした。期待していた味の方は「完全な現代 | |||
版」でした。それでも4日続いた雨上がりの好天気であったので、格別な美味しさで | |||
した。 翌日の新聞報道によりますと、配布個数5,000個、先頭の人は約2時間前か | |||
ら並んでいたとのことです。 | |||
C 鹿鳴館時代のドレス姿 |
D 記念キャラクターと共に |
E 配布された「横濱馬車道アイス」 |
|
9.「近代街路」発祥の地 | |||
「近代街路」発祥の地は、我が家から徒歩で35分位の所で、"その3"で紹介しました | |||
「横浜公園(横浜スタジャム)」の脇から神奈川県庁方面に向う『日本大通り』でありま | |||
す。右下の写真には、運良く観光用バス「あかいくつ号」が右折するところでした。 | |||
F発祥の地:説明文 |
G現在の「日本大通り」 |
||
「記念碑』というものは | |||
ありませんが、「看板」が | |||
建っており、その説明文は | |||
『旧外国人居留地と日本人 | |||
街を区分する街路で、慶応 | |||
2年(1866年)の大火災後 | |||
に防火帯を兼ねて計画・整 | |||
備された日本における近代街路の発祥地である。 | |||
当初は12m の中央道の左右3m の歩道と9m の植樹帯が設けられていた。 | |||
設計者プラントンは、横浜公園や旧居留地下水道など横浜の都市基盤整備に主導的 | |||
な役割をはたしたイギリス人技術者である。沿道には、神奈川県庁本庁舎、旧英国総 | |||
領事館、旧横浜商工奨励館、旧横浜地方裁判所、三井物産横浜ビルといった歴史的建 | |||
H早朝の「日本大通り」 |
物が集積し、横浜でも有数の歴史的景観を形成している。 | ||
所在地:中区日本大通り | |||
構造・規模:幅員36m | |||
建設年代:明治4年(1871年)〜明治12年(1879年) | |||
設計:R.H.プラントン 施行:不明』 | |||
左の写真は、県庁を背にして写したもので、中央には | |||
「横浜スタジャム」の外野席照明スタンドが映し出され | |||
ております。(朝、早いので人、車影ありません) | |||
★ 日本大通りで「フラワーアートフェスティバル」開催 | |||
5月2日から4日まで、日本大通りの車道で「フラワ |
I待機中の「観覧台」 |
||
ーアートフェスティバル」が開催されました。 | |||
私は3日の朝5時半に家を出て、6時をチョッと回った | |||
頃現地に到着しましたが、既に24〜5名の写真愛好家の | |||
皆さんがパチパチ。「花絵」は、いや〜綺麗ですね! | |||
新聞報道によりますと、開港150周年記念イベントで、 | |||
前日の午後から市民ボランティア約1,800人の皆さんが、 | |||
バラ約18万本、チューリップ約6万本の「花びら」を道 | |||
路に敷きつめて、「花絵」作りに取り掛かり幅9m、長さ220mの「花絵」が夕方に完 | |||
成したとのこと。ボランティアの皆さん本当にご苦労様でした。感謝いたします! | |||
右の「ペリー提督」「全 |
Jぺりー提督(小池さん撮影) |
K「全景」(小池さん撮影) |
|
景」の二枚の写真は、小池 | |||
芳光さんが、昼間「観覧台」 | |||
(高さ10m、500円)から | |||
撮った写真を、本HP「お | |||
便り」コーナーに投稿いた | |||
だいたものを、“矢張り高 | |||
い所から撮らないと、本当 | |||
良さは分らない!”ということと、まだ小池さんの「お便り」をご覧になっていない | |||
方用に拝借いたしました。(小池さんの「お便り」もご覧ください。なお、私は500円 | |||
をケチった訳で無く、朝早いため観覧台が閉鎖されていましたので、念のため!) | |||
Lお花畑その1 |
Mお花畑その2 |
Nお花畑その3 |
2009. 6. 5 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その6) |
“発祥の地”を訪ねて!(その6) | 横浜市 小田 茂 |
10.「消防救急」発祥の地 | |||
神奈川県庁(日本大通り) |
消防救急発祥の記念碑 |
当時の救急車 |
|
の近くの「横浜都市発展記 | |||
念館」の駐車場に隣接した | |||
場所に、『消防救急発祥の | |||
地』の碑が建てられていま | |||
す。(みなとみらい線「日本 | |||
大通り」駅のすぐそば) | |||
碑文は『昭和8年(1933年) | |||
2月 日本で初めて この地(当時の山下町消防署)に救急車が配置運用開始されまし | |||
た』と記載されています。また、当時の“救急車”がプレートに描かれています。 | |||
旧居留地消防隊地下貯水槽 |
もともとこの場所は、明治初年から旧外国人居留地の | ||
消防隊が置かれ、防火貯水槽が建造されたものが、ほぼ | |||
当時の状態で残され「旧居留地消防隊地下貯水槽」とし | |||
て残されております。ガラス張りの地下のことですから | |||
素人写真では上手く撮れませんでした。同じことで上記 | |||
の「碑」の写真も私が反射して写ってしまいました。 | |||
消防署は、平成6年(1994年)まで「中消防署日本大 | |||
通消防出張所」として使っていましたが、建物が老朽化 | |||
したため、現在はここから約100m 離れた所に「中消防署山下町消防出張所」として新 | |||
築移転いたしました。 | |||
今、この消防署では“横浜開港150周年”に合わせて、シャッターに外国人居留地時 | |||
代の写真が2枚印刷されています。夜間はライトアップしております。 | |||
現在の中消防署山下町消防出張所 |
当時の消防隊員 |
当時の消防車 |
|
1枚は、明治14年(1881年)に撮影したイギリス人やオランダ人らでつくる消防隊 | |||
「横浜ファイヤブリゲード」の写真で、もう1枚は大正当時、最新鋭だったガソリン | |||
エンジンを搭載した消防車とのことです。 | |||
余談ですが、シャッターが降りているうちにと朝早く出掛けたのですが、こんどは | |||
消防車・救急車が撮れず、昼間にまた出掛けるはめとなりました。 | |||
11.「クリーニング」発祥の地 | |||
自宅から徒歩で30分弱の所に「クリーニング」発祥の |
「クリーニング発祥の地」石碑 |
||
石碑があります。有名な「元町商店街」の東側はずれで | |||
みなとみらい線「元町・中華街」駅の元町方面へ出ると、 | |||
直ぐに「港の見える丘公園」に向かう谷戸坂の登り口左 | |||
側に「フランス山公園」(「港の見える丘公園」の一部) | |||
があり、その脇に「石碑」が建っております。 | |||
「石碑」の建っている所は、居留地の外国人相手に繁 | |||
盛したクリーニング業を営む脇沢金次郎の店の跡地と言 | |||
われています。 | |||
石碑の表面には、碑文として『安政6年神奈川宿の人青木屋忠七氏、西洋洗濯業を | |||
横浜本町1丁目現在の5丁目にて始め、ついで岡澤直次郎氏横浜元町に清水屋を開業 | |||
慶応3年、脇澤金次郎氏これを継承し近代企業化の基礎を成した。この間フランス人 | |||
ドンバル氏、斯業の技術指導および普及発展に貢献された。これら業祖偉業を顕彰し | |||
こゝにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する』と記載されています。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ 5月23日:「横浜マリンタワー」リニューアルオープン! | |||
開港150周年で沸くなか、ハマの名所「横浜マリンタワ |
一新された「横浜マリンタワー」 |
||
ー」が、リニューアルオープンいたしました。 | |||
外装は、今までの赤と白のグラデーションから銀色と | |||
ブラウンオリーブに化粧直しいたしました。 | |||
「横浜マリンタワー」は、昭和36年(1961年)に、横 | |||
浜開港100周年記念行事の一環として開業しました。 | |||
高さ106mで灯台機能を持ち、ギネスブックにも、最も | |||
高い灯台として記録されましたが、この灯台機能は昨年 | |||
9月に廃止されました。丁度、半世紀後にリニューアルオープンしたわけで、先にリ | |||
ニューアルオープンした「永川丸」と共に横浜観光名所として、大いに活躍すること | |||
をハマっ子として心から願っております。 | |||
★ 5月27日:「メキシコ海軍帆船」に乗船見学! | |||
メキシコ海軍帆船 |
横浜開港150周年記念イベント「開国博Y150」の一環 | ||
で、メキシコ海軍の練習帆船「クアウテモック」(1,800 | |||
総d)が27日横浜港に初入港する。新港ふ頭に接岸され、 | |||
28日から6月5日までの9日間、船内が無料公開される。 | |||
同船は全長91mで1981年建造。272人が乗り組んでいる | |||
船名の「クアウテモック」は、アステカ帝国最後の皇帝 | |||
の名前。 | |||
新型インフルエンザの最初の患者がメキシコで確認さ |
メキシコ国旗 |
||
れる前の今年2月に今回の航行を始めた。5月下旬に大 | |||
阪港に入り一般公開し、横浜港には6月1日入港の予定 | |||
を新型インフルエンザの感染が大阪市で広まったため、 | |||
大阪市の要請「・・・乗組員に感染する可能性がある」 | |||
ということで大阪での一般公開を見合わせた。したがっ | |||
て、その分、横浜での一般公開の日数が4日間増えた。 | |||
(読売新聞27日朝刊から抜粋) | |||
27日入港する新港ふ頭(赤レンガ倉庫に隣接)へ出掛けました。「クアウテモック」 | |||
が見えます。ただ残念なことに「帆」はたたまれていました。 | |||
しかし、ラッキーなことに乗船見学することができました。両国間の親善を表に出 | |||
した大いに感激するほどの乗組員の応対でありました。 | |||
「クアウテモック」甲板から |
可愛い水兵さん! |
上級水兵さんと一緒に! |
|
大変清々しい思いで“乗組員皆さんのこれからの航行の安全”を願いながら下船い | |||
たしました。 |
2009. 7. 5 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その7) |
“発祥の地”を訪ねて!(その7) | 横浜市 小田 茂 |
12.“ 鉄 道 ”発祥の地 | |||
JR桜木町駅は、自宅からバスで25分弱の所です。 |
現在のJR桜木町駅 |
||
中区と西区の境で、桜木町駅は中区で、直ぐ側のラン | |||
ドマークは西区です。 | |||
桜木町駅近くの関内駅よりの高架下のひっそりとした | |||
場所に「鉄道発祥の地」記念碑が建っております。この | |||
場所は開業当時の駅前広場にあたります。 | |||
我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、 | |||
横浜(現在の桜木町)⇔品川間で仮営業され、所要時間 | |||
35分、1日2往復でした。 | |||
その後、品川から新橋(後の汐留貨物駅、現・廃止)まで延長され、9月12日に開 | |||
通式、翌13日から本営業9往復片道所要が開始され途中駅は神奈川、鶴見、川崎、品 | |||
川の4駅で、路線29q、時間53分。当時、馬車だと4時間かかったといわれています。 | |||
開業時は横浜駅でしたが、大正4年(1915年)に東海道本線の延伸にともない、 | |||
「横浜駅」の名称を現在の「横浜駅」に譲り、「桜木町駅」と改称いたしました。 | |||
平成16年(2004年)1月までは、地下鉄「みなとみらい線」の開通にともない廃止 | |||
されました東京急行「東横線」の終着駅でもありました。 | |||
なお、現在は、明治5年9月12日が新暦1872年10月14日でしたいで、10月14日を | |||
『鉄道の日』と平成6年(1994年)に定めました。 | |||
“記念碑”は高さ4m強? |
記念碑:正面 |
創業当時の「横浜駅」 |
|
位で、3つの凹面のもので | |||
あります。 | |||
正面には、当時の横浜駅 | |||
の駅舎が描かれています。 | |||
現在の駅と風貌を比較し | |||
ますと戦後の桜木町駅を思 | |||
い出すような大変立派なも | |||
ので見事な風格を備えていますね。 | |||
記念碑:左側面 |
左側面には、開業時の“時刻表・運賃表など定めが刻 | ||
み込まれています。 | |||
これは、当時(明治5年)の様子を伺うのに大変参考 | |||
になり、大変興味深いものでしたので全文写してきした | |||
(注:振り仮名は省略、読みやすいようにレイアウトも | |||
変えてあります。) | |||
下記に全文ご紹介いたします。 | |||
定 | |||
鐵道列車出發時刻 | |||
上り 下り | |||
横濱發車 品川到着 品川發車 横濱到着 | |||
午前八字 午前八字三十五分 午前九字 午前九字三十五分 | |||
午後四字 午後四字三十五分 午後五字 午後五字三十五分 | |||
賃金表 車の等級(片道) | |||
上等:壹圓五十錢 中等:壹圓 下等:五十錢 | |||
★<上記の時刻表・賃金表の下に書かれていた全文> | |||
『來る五月七日より此表示の時刻に日々横濱並に品川ステイションより列車出發す | |||
乘車せむと欲する者は遅くとも此表示の時刻より十五分前にステイションに來り切手 | |||
買入其他の手都合を為すべし 但發車並に着車共必ず此表示の時刻を違はざるやうには | |||
請合かねたけれども可成 尤 遅滞なきやう取行ふべし | |||
手形は其日限り乘車一度たるべし 小兒四歳までは無賃 其餘十二歳まで半額の事 | |||
旅客は總て鐵道規則に随ひ旅行すべし 手形検査の節は手形を出し改を受 又手形取 | |||
集の節は之を渡すべし 旅客自ら携ぶ小包みドウランの類は無賃なれとも若し損失あ | |||
らば自ら負ふべし 其餘の手廻り荷物は目方三十斤迄ニ十五錢を拂ひ荷物掛へ引渡取 | |||
證書を求め置くべし 尤 一人に付目方六十斤迄を限とす 手廻荷物は總て姓名か又は | |||
目印を記すべし 旅客中乘車を得ると得さるは車内場所の有無によるべし | |||
犬一疋に付片道賃錢二十五錢を拂ふべし 併し旅客車に載すると許るさす犬類箱或は | |||
車長の車にて運送すべし 尤 犬首輪首綱口網も備へて相渡すべし | |||
發車時限を惰らさるため時限の五分前にステイションの戸を局さすべし 吸煙車の | |||
外は煙草を許るさす | |||
旅客車上中下三等の内乘らむと欲する所の賃金を過金取引ねきやうに用意致し來る | |||
べし 明治五年 鐵 道 寮 』 | |||
上記内容を読んで、2〜3疑問に思ったことを調べてみました。 | |||
☆ 時刻表に書いてある「時刻」の“字”とは? | |||
日本は、明治5年に鉄道が開業した年の12月3日に |
珍しい時刻の“字”の表現 |
||
太陰暦から太陽暦に改暦され、明治6年1月1日とし | |||
ました。 これを機に、江戸の時刻制「不定時法」 | |||
すなわち、常に日の出のおよそ30分前を明け六つ、 | |||
日没のおよそ30分後を暮れ六つとし夜明けから日暮 | |||
れまでの時間を6等分する時間法で、季節により昼 | |||
夜の長さが変わるので時間の長さが変わってしまい | |||
ます。この「不定時法」から西洋で使われていた | |||
「定時法」に切換えました。「定時法」とは、1日を24時間に等分割し、時間 | |||
の長さは季節に依らず一定な現代の時間法です。 | |||
当時は、まだ時計が普及しておらず、鐘などで時刻を知らせており、この「不定 | |||
時法」の「時(とき)」と間違いやすいので、書くときは“字”を使いまいた。 | |||
翌年「時」の文字に統一されました。したがって“字”と書いた時刻表は大変珍 | |||
しいものです。 | |||
☆ 137年前に「横濱ー品川」間、35分!速くない? | |||
「えっ!そんなに速かったの?」と思った以上に速いのに驚きです。 | |||
決め手は見つかりませんでしたが、一つの大きな要因としては、「途中の駅ゼロ」 | |||
ということです。それにしても大変なスピードと感心してます。 | |||
ちなみに、現在は、京浜東北線で28分、東海道本線(湘南)で18分、京急快特で | |||
17分と、これまた昭和30年頃と比較しますと随分速くなりましたね! | |||
また、「横濱ー新橋」(途中駅4駅)間で53分ですが、馬車を利用すると4時間 | |||
はかかったそうです。 | |||
☆ 運賃はどの位高額なの? | |||
運賃はかなり高額で、一般庶民には高値の花で目的地まで歩くという今までと同 | |||
じであったようです。その当時、ソバが一杯5厘といわれ、一番安い下等の運賃 | |||
で50錢であったので、ソバ100杯分であります。現在、モリソバ500円で100杯分と | |||
すれば50,000円です。ビックリ!私も歩きます! | |||
ちなみに、JR280円、京急290円 思わず安い!と独り言。 | |||
記念碑の右側面には、日本語・英語で建碑の由来が刻まれています。 | |||
建碑の由来 |
説明文は「我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦 | ||
5月7日、この場所にあった横浜ステイションと品川ス | |||
テイションの間で開通し、その営業を開始しました。わ | |||
たくしどもは、当時の人の気概と努力をたたえ、このこ | |||
とを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、 | |||
さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであり | |||
ます。」と書かれています。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ “空洞”のあるホテル・・・「ナビオス横浜」 | |||
JR桜木町駅の東側に出ますと、目の前には「ランドマークタワー」を左側に見な | |||
がら「赤レンガ倉庫」方面 |
「ナビオス横浜」 |
ナビオス横浜空洞部分から撮影 |
|
に向って「汽車道」を歩き、 | |||
5〜6分で「運河パーク」 | |||
と呼ばれている広場に出ま | |||
す。眼の前に「ナビオス横 | |||
浜」が建っています。 | |||
一見、凱旋門?を想い起 | |||
こす空洞部分のある面白い | |||
建物です。この建物の反対側空洞部分から撮った写真ですが、「ランドマークタワー」 | |||
と「大観覧車」が上手く納まってくれて、チョット面白いと思いませんか! | |||
★ “錨”のモニュメント | |||
“錨”のモニュメント |
「ナビオス横浜」の建物の反対側空洞部分の直ぐ脇に | ||
“錨”のモニュメントがあります。説明文によりますと、 | |||
『この錨は、(株)アイ・エイチ・アイ・アムテック | |||
横浜工場によるもので、石川島播磨重工業(株)横浜工場 | |||
で1971年に建造され中近東から日本へ原油を運搬した | |||
大型原油輸送船「高岡丸」(全長316m、幅50m、深さ | |||
25.5m、積貨重量213、850K/T)に備え付けられていたも | |||
のと同型のものです。錨の重量18.27K/Tで、長さは4.8 | |||
m、幅2.9mあります』と書かれております。(説明文は原文のまま) | |||
20万トン級のタンカーの“錨”は、私の身長の2.8倍の高さに感嘆しながら、しばし | |||
見上げておりました。 | |||
なお、現役時代舶用で、この“高岡丸”に関連して設計、装備、サービスなどで直 | |||
接、携わった方がおられると思うのですが、ご一報頂ければ幸いです。 |
2009. 7.29 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その8) |
“発祥の地”を訪ねて!(その8) | 横浜市 小田 茂 |
<はじめに> | |||
今回は、自宅から歩いて25分程度の「元町公園」にあ |
元町公園記念碑 |
||
ります「発祥の地」を訪ねました。 | |||
「元町公園」は、若い女性に人気の元町商店街の東端 | |||
から外人墓地を目指す途中に位置しますが、我が家のあ | |||
る本牧からは逆に反対側から山手に登り、外人墓地の脇 | |||
を下ったところにあります。 | |||
「元町公園」は関東大震災後、復興のため、横浜市が | |||
この地を市有地として、湧水を利用した水泳場(プール) | |||
を中心として、昭和5年(1930年)に開園した古い公園です。 | |||
プールの管理棟は、「西洋瓦工場発祥の地」の跡地を表徴したように、レンガ造り | |||
で古き良き時代を想像させるような建物です。 | |||
この元町公園の中に幾つかの「記念碑」がありますので、以下にご紹介いたします。 | |||
元町公園水泳場事務所 |
緑に覆われたプール |
「ウォーターガーデン」 |
|
13.“ 西洋瓦工場”発祥の地 | |||
元町公園になる前のこの地は、明治初期にフランス人アルフレッド・ジェラールが、 | |||
日本で最初の「西洋瓦・レンガの工場」を造りました。ジェラールは文久3年(1863 | |||
年)に来日し、当初は食料品の船舶供給業から、その後 |
西洋瓦工場説明 |
||
かなり手広く事業を広げていったようです。 | |||
当時、建築建材の西洋瓦やレンガは舶来品に頼ってお | |||
りましたが品不足で、これに目をつけ、これが居留外国 | |||
人の洋館や市内の商館建築に用いられ、ジェラール瓦あ | |||
るいはフランス瓦とも呼ばれて、この事業は当りに当り、 | |||
大変な財を成したようです。明治6年(1873年)の製作 | |||
年号のある瓦が確認されている最古のものだそうです。 | |||
ジェラール瓦の説明書 |
ジェラールは明治11年(1878年)に帰国したようです。 | ||
その後、経営者が変わり、明治40年(1907年)に設備を | |||
更新したようですが、何時しか廃業となってしまったよ | |||
うです。 | |||
ちなみに元町の「仏蘭西料亭:霧笛楼」では、フラン | |||
ス人・ジェラールの「レンガ」が有名なことから、チョコ | |||
レートをレンガに見立てたフランス菓子「フォンダンシ | |||
ョコラ」を売り出しています。 | |||
14.“給水事業 ”発祥の地 | |||
アルフレッド・ジェラールは、「西洋瓦工場」設立より |
貯水施設 |
||
早い、明治元年(1863年)に船舶給水業に乗り出してい | |||
ます。 | |||
明治3年(1866年)までに、現在の元町公園の地で、 | |||
「給水事業」を興しました。元町公園の「ウォーターガ | |||
ーデン」部分からさらに北側の住宅街(元町商店街側) | |||
の中にその一部が残されておりまして、今もなお豊富な | |||
説明看板 |
登録有形文化財 |
水が湧き出ています。 | |
貯水施設には沢山の鯉が | |||
元気よく泳いでいました。 | |||
説明看板によりますと、 | |||
『横浜の市街地の井戸水は | |||
塩分を含んでいて、飲用に | |||
は適していませんでした。 | |||
他方、丘陵地帯の麓には良 | |||
質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、そうした |
現在も出ている『湧水』 |
||
湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も見られまし | |||
た。この点に着目したジェラールは、山手の麓に水源を | |||
確保し、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供 | |||
給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラールの給 | |||
水業のための施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになり | |||
ました』 | |||
15.“塗装業 ”発祥の地 | |||
元町公園内の「ウォーターガーデン」脇に4〜5m は |
「我国塗装発祥之地記念碑」 |
||
あると思われる「我国塗装発祥之地記念碑」が建てられ | |||
ています。 | |||
横浜開港資料館資料によりますと、『塗装業は慶応元 | |||
年(1865年)3月4日付「ジャパン・ヘラルド」に「サ | |||
イン・ペインター」の広告が掲載されている。これが塗 | |||
装業の広告第一号』 | |||
また『広東省順徳県出身で、塗装の技術を上海で学ん | |||
だ招相記は谷戸坂の山手184番地に塗装店「相記」を開き、多くの職人を抱えて、洋 | |||
館や西洋家具のほか、船体なども手広く扱っていた。塗装業・西洋建築の分野で、華 | |||
僑の人々が横浜の街づくりに大きく貢献した。』とあります。 | |||
ただ、「碑」の裏面の文字は風化して読めず、何故、元町公園の中に建てられてい | |||
るのか理由が分りません。「山手184番地」というのがありますので、まあ〜比較的 | |||
近いということでゴカンベンを! | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ “大正活映撮影所”発祥に地 | |||
大正活映撮影所記念碑 |
「我国塗装発祥之地記念碑」の直ぐ近くの元町公園の | ||
片隅に、大正9年(1920年)日本の映画界に一石を投じ | |||
たといわれる「大正活映」が西洋瓦工場跡地を買収し建 | |||
てられ、脚本家として招聘された谷崎潤一郎も洋館を好 | |||
み、山手に移り住んだということです。この「大正活映 | |||
撮影所」は短い期間であったようです。 | |||
この記念碑の文字は判読できず。ただ淋しく置かれて | |||
いるという感じです。 | |||
★ “生麦事件”犠牲者の墓 | |||
「水屋敷」から下って「元町商店街」の本通に出るチョット手前の所、外人墓地の | |||
一番下の外れなのか?ここで「生麦事件犠牲者」のお墓を発見!ビックリ! | |||
外人墓地の裏口に当るの |
「生麦事件」犠牲者の墓 |
埋葬位置の看板 |
|
か?鉄の門で閉められ「関 | |||
係者以外立ち入り禁止」と | |||
なっておりました。 | |||
脇の塀越しにお墓が見え | |||
ましたが少し距離があり、 | |||
写真が上手く撮れるかチョ | |||
ット心配です。 | |||
敷地内に入れない観光客への心温まる配慮なのか!お墓の案内板が塀にぶら下がっ | |||
ているではありませんか! | |||
案内板には埋葬された位置を示しているのでしょう、3人の名前が書かれています。 | |||
中央に殺害されたRICHARDSON、深手を負った2人は後に亡くなったと思わ | |||
れますが、左上にMARSHALL、右上にCLARKEの名前が記されていました。 | |||
皆様ご存知の「生麦事件」とは、私にとって何となく分っているようで本当はよく | |||
分っていないことが判明しました。調べた結果の一部だけを紹介いたしますと、 | |||
『江戸時代の末期の文久2年(1862年)現在の横浜市鶴見区生麦付近において、薩 | |||
摩藩主島津忠義の父、島津久光が幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて | |||
江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し京都へ帰る時に起こったものであります』 | |||
この行列に東海道で乗馬を楽しんでの帰り道、イギリス人4人が紛れ込んで来まし | |||
た。言葉の障害も有ったのでしょうが、この4人の行為を無礼とみた藩士達によって | |||
殺害された事件であります。 | |||
4人とは、男性3人(クラーク、マーシャル、リチャードソン)、女性1人(ボロ | |||
デール夫人)で、リチャードソンが殺され、マーシャルとクラークも深手を負い血を | |||
流しながらも馬をとばし、神奈川のアメリカ領事館(本覚寺)へ駆け込んで助けを求 | |||
め、ヘボン博士の手当を受けることになった。無傷のボロデール夫人が、まっさきに | |||
横浜の居留地へ駆け戻り、救援を訴えたそうです。 | |||
私は、小学校4年から横浜に60年以上住んでおりますが、このお墓のことは全然知 | |||
りませんでした。外人墓地といえば山手の頂上から見るだけでしたので、こんな下の | |||
外れに歴史的な事件に関係する人のお墓が有ったとは! | |||
私にとっては、“大発見”で素晴らしい体験をしたと、晩酌は最高でした! | |||
皆様方の、“小発見W・“大発見”・“珍発見”等の情報を気軽に投稿くださるよ | |||
う願っております。 |
2009. 9. 6 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その9) |
“発祥の地”を訪ねて!(その9) | 横浜市 小田 茂 |
16.“近代街路樹”発祥の地 | |||
JR根岸線「関内駅」北口を出て近くに由緒ある吉田 |
“近代街路樹”発祥の碑 |
||
橋を挟んで、左が「伊勢佐木町、右側が「馬車道」であ | |||
り、ここに“近代街路樹”発祥の碑が建っています。 | |||
碑文によると「〜馬車道の街路樹〜 街路樹は、近代 | |||
に入ってから人口の過密な都市の景観的魅力を向上させ | |||
る為に発達したものであり、参道並木、街道並木などい | |||
わゆる地方並木とは区別されている。 | |||
日本における街路樹は、明治以後、欧米都市の影響を | |||
発祥の地付近の街路樹 |
受け、樹種の選択、植栽手入法の改良などによって著し | ||
く進歩普及した。1867年(慶応3年)開港場横浜の馬車 | |||
道では、各々の商店が競って柳と松を連植した。 | |||
これが日本での近代的な街路樹の先駆となった。1872 | |||
年(明治5年)になって馬車道に日本最初のガス灯が点 | |||
火されるとこのこの街路樹はさらに美しく映え夜の涼を | |||
楽しむ人々で賑わった」とあります。 | |||
現在、碑の建っている周辺は、流石“近代街路樹”発 | |||
祥の地であるという面影は、残念ながら見当たりませんでした。 | |||
17.“ガス灯”発祥の地 | |||
“近代街路樹発祥の碑”前の馬車道交差点を渡り、馬車道通りを港方面に向って | |||
右側に「関内ホール」があり、建物の壁面レリーフには |
壁面レリーフ |
||
明治末期の馬車道の様子が描かれており、その前に“日 | |||
本で最初のガス灯”の説明版が設置されています。説明 | |||
文によりますと「ガス灯は、明治5年(1872年)に、高 | |||
島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通 | |||
り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス | |||
灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、 | |||
灯具は日本人職人により製造されたと言われます。・・」 | |||
と記されています。 | |||
ガス灯 |
ガス灯 |
点火されたガス灯 |
|
また、日本で初めてのガス灯10数基が大江橋から馬車道本町通りまでの間で点火さ | |||
れたようですが、“碑”なるものは見つけることができませんでした。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ 吉 田 橋 <鉄(かね)のトラス橋> | |||
JR根岸線「関内駅」北 |
史跡吉田橋関門の碑 |
現在の吉田橋(左後方関内駅) |
|
口を出て近くに由緒ある吉 | |||
田橋は、日本で2番目の鉄 | |||
(かね)の橋です。 | |||
<説明文> | |||
『安政六年(1859)六月 | |||
二日、横浜が開港となって | |||
交易場、貿易港として栄え | |||
るにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜 | |||
路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋 | |||
を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。 | |||
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋の | |||
たもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。 | |||
説明版(二本) |
説明版(鉄の橋) |
説明版(ブラントンと横浜) |
|
関門は、当初港町側に設けられましたが、文久元年(1862)2月に吉田町側に移設 | |||
されました。 | |||
関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側 | |||
を指し、その関門は明治4年(1871年)に廃止されました。 | |||
★ 伊勢佐木町 (関外) | |||
伊勢佐木町という名称は、明治7年(1874年)に制定 |
現在の伊勢佐木町 |
||
されました。町名の由来につきましては二つの説があリ | |||
まして、一つは最後に神奈川奉行の勤めを果たした依田 | |||
伊勢守と佐々木信濃守の2人の名前から取ったという説 | |||
であり、もう一つは、市街化開発に貢献した伊勢屋文蔵と | |||
佐々木治平の2人の名前から取ったという説であります。 | |||
いずれにしましても、伊勢佐木町は戦後、横浜で一番 | |||
栄えていた繁華街でありました。 | |||
松屋、野沢屋等のデパート、オデオン座、松竹、日活、大映等の映画館が軒並み並 | |||
んでおり、娯楽として旅行などあまり考えられない時代であり、ハマっ子にとっては | |||
“伊勢ブラ”“ザキ”が日常生活に完全に根を下ろしていた様な気がします。私も昭 | |||
和29、30年頃の高校時代は、友人とよく封切館でない2本立て55円の映画館に“ター | |||
ザン”、“西部劇”が一番のお目当てでよく通ったものです。50数年前の話ですが! | |||
※「伊勢佐木町」を全国区にした青江三奈さんの“伊勢佐木町ブルース”! | |||
昭和43年(1968年)青江三奈が唄った“伊勢佐木町ブルース”(作詞:川内康範、 | |||
作曲:鈴木庸一)が、魅惑的な歌唱によって100万枚を売り上げる大ヒットとなり、 | |||
レコード大賞歌唱賞を受賞しました。イントロ部分の「ためいき」がひどく印象的だ | |||
ったのを皆さんも良く覚えておられると思います。 | |||
青江三奈さんの歌碑 |
平成13年(2001年)7月、伊勢佐木町四丁目(吉田橋 | ||
から見て奥の方)に歌碑が建てられ、青江三奈の一周忌 | |||
に合わせて除幕式が行われたそうです。 | |||
歌碑は、グランドピアノを象った歌碑は高さ、幅とも | |||
に2mほどの御影石で造られており歌碑の前面には青江 | |||
三奈の肖像のレリーフと、その下には作曲家鈴木庸一直 | |||
筆という「伊勢佐木町ブルース」の楽譜を刻んだパネル | |||
が埋め込まれています。 | |||
歌碑建立の費用は全国のファンからの寄付金にるものだといわれております。 | |||
★ 馬 車 道 (関内) | |||
吉田橋を挟んで伊勢佐木町の反対側が「馬車道」通りであります。この「馬車道」 | |||
という名の由来は、横浜開港以来、当時は万国橋付近に船が停泊し荷物や人々を馬車 | |||
などが吉田橋付近まで運んでいたため、その道を「馬車道通り」と呼ぶようになった | |||
そうです。 | |||
この「馬車道」通りには、今回紹介の“近代街路樹”“ガス灯”また前に紹介いた | |||
しました“アイスクリーム”の発祥の地碑があります。 | |||
※「馬車道十番館」と「牛馬飲水槽」 | |||
馬車道の信号を渡って左 |
「馬車道十番館」 |
「牛馬飲水槽」 |
|
側の一番目の路地に入った | |||
所に、老舗のレストラン | |||
「馬車道十番館」の建物が | |||
あります。 | |||
この入口の所に、当時の | |||
「牛馬飲水槽」が置かれて | |||
おります。これと同じ「牛 | |||
馬飲水槽」が馬車道通りでも見られます。「馬車道十番館」の説明版のよりますと | |||
『〜牛馬飲水槽〜 この牛馬飲水槽は大正6年、当時横浜の陸上交通の主力であ | |||
った牛馬のために、神奈川県動物愛護協会が現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたも | |||
のです。このほか中区の生糸検査所、西区高島町駅前久保山のガ−ド下としました。 | |||
また、荷馬車協会には三千頭の牛馬がいて、夏ともなればしゃれた麦わら帽子をつけ | |||
気どった足どりで荷物の運送をしました』と書かれています。 | |||
※ 国指定史跡 旧横浜正金銀行本店(現:神奈川県立歴史博物館) | |||
「馬車道十番館」から馬車道通りに戻って、300m位?の所に、旧横浜正金銀行本店 | |||
(現:神奈川県立歴史博物館)の歴史漂う、威厳ある見事な建物に出会います。 | |||
旧横浜正金銀行本店 |
国指定史跡の碑 |
現在神奈川県立歴史博物館として |
|
説明版のよりますと『横浜正金銀行は安政6年の開港以来、外国商人が主導してい | |||
た貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。 | |||
その後、政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長 | |||
し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。 | |||
この建物は、明治37年に横浜正金銀行として建設され、ドイツの近代洋風建築の影 | |||
響を受け、明治時代の貴重な建築物であることから、昭和44年3月12日には国の重要 | |||
文化財の指定を受けております・・・さらにこのたび・・・・。国の史跡に指定され | |||
ました。 平成8年3月30日 神奈川県教育委員会』と記されています。 | |||
※“日本写真の開祖”記念碑 | |||
旧横浜正金銀行本店の斜め前の通り越しに、“日本写 |
“日本写真の開祖”記念碑 |
||
真の開祖”記念碑があります。 | |||
この記念碑には「写真師・下岡蓮杖 顕彰碑」と刻み | |||
込まれています。また、碑の上部には写真機を模ったも | |||
もが置かれています。 | |||
わが国の商業写真の開祖と言われている下岡蓮杖は、 | |||
西(長崎)の上野彦馬、東の下岡蓮杖と称されわが国の | |||
写真術の草分け的な存在です。 | |||
蓮杖は下田の生まれで、文久元年(1861年)にに横浜市中区野毛町に小さな写真館 | |||
を開業し、その後、横浜弁天通りへ移転し、次いで一時期下田へ移ったそうですが、 | |||
再び横浜弁天通りに戻り、慶応3年(1867年)頃には横浜馬車道の太田町に「全楽堂」 | |||
の名称で新築店舗を構えたようです。 | |||
上野彦馬は、文久2年(1862年)に長崎で写真館を開業したそうで、その点では、 | |||
下岡蓮杖の方が1年早い開業でありますが、これが正確に判明できず、西の上野彦馬、 | |||
東の下岡蓮杖という表現の仕方になったようです。 | |||
また、蓮杖というのは号で、蓮根の杖を年中使っていたところから付けられたそうです。 |
2009.10. 4 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その10) |
“発祥の地”を訪ねて!(その10) | 横浜市 小田 茂 |
18. “我国西洋医科歯学発祥の地”碑 | |||
JR根岸線「石川町駅」北口を出て、横浜中華街方面 |
“我国西洋医科歯学発祥の地”碑 |
||
に向って、5〜6分の横浜市中土木事務所の近くの「駐 | |||
労会館」前に「碑」が建っています。 | |||
「碑」の裏面に書かれている「説明文」によりますと、 | |||
『ここは、万延元年(1860年)歯科医師として最初に | |||
来日した米国人ウィリアム・クラーク・イーストレーキ | |||
博士が、来浜3度目の明治14年に歯科診療所を開設した | |||
ゆかりの地である。 博士は、明治元年2度目の来浜に | |||
際し歯科診療所(所在地不詳)を開設し、献身的な診療活動のかたわら日本人歯科医 | |||
師の育成に努力を傾注し、日本近代歯科医学の世界的発展の端緒を開く役割を担われ | |||
た。・・・・・・』と記されています。 | |||
しかし、西洋歯科医学は横浜が最初ではなく、長崎において文政6年(1823年)に | |||
シーボルトによって日本で初めて発祥されたとされています。 | |||
19. “日本國新聞発祥之碑” | |||
前記、“我国西洋医科歯学発祥の地”碑から3〜4分歩いて、中華街「関帝廟」脇 | |||
の歩道上に「碑」があります。 | |||
浜田彦蔵(幼少時代は彦太郎)が、文久4年(1864年)に岸田吟香に協力してもら | |||
“日本國新聞発祥之碑” |
い横浜で初めて手書きの新聞紙を創刊し定期的に刊行す | ||
るようになりました。その時は改題され「海外新聞」と | |||
なり外国新聞の翻訳を用いた新聞でした。 | |||
海外事情が日本語に翻訳されており海外事情を明らか | |||
にすることが目的とされ郵便船が持ってきたが、新聞発 | |||
行が赤字であったため数ヶ月後に幕を閉じたようです。 | |||
この「海外新聞」こそが横浜から広まっていった日本 | |||
最初の邦字新聞です。 | |||
浜田彦蔵の人生も波乱万丈で、天保8年(1837年)に兵庫県で生まれ、13歳の時、 | |||
嘉永3年(1850年)に大阪・摂津の栄力丸で江戸からの帰帆途中に台風に遭遇して、 | |||
アメリカの船に助けられました。その後、アメリカの地で勉学をし、安政5年(1858 | |||
年)に帰化第一号としてア |
「海外新聞」 |
「ジョセフ彦」 |
|
メリカの市民権を得ていま | |||
す。またキリスト教の洗礼 | |||
を受けてクリスチャンネー | |||
ムの「ジョセフ」を用いて | |||
この頃から「ジョセフ彦」 | |||
と名乗るようになりました。 | |||
安政6年(1859年)に帰 | |||
国した「ジョセフ彦」はアメリカ領事館の通訳に選ばれ、日米修好条約の締結などの | |||
派遣などで活躍されました。 | |||
20. “電信創業の地”の碑 | |||
“電信創業の地”の碑 |
説明版 |
日本大通りに面した、横 | |
浜地方検察庁(神奈川県庁 | |||
側)の正面入口側に「碑」 | |||
があります。 | |||
明治2年(1869年)横浜 | |||
裁判所と東京築地運上所に | |||
設けられた「傳信機役所」 | |||
を結ぶ約32qの電信線架設 | |||
工事が開始され、同12月25日に業務を開始しました。これが、我が国における公衆電 | |||
気通信の最初であります。 | |||
21. “日本近代水道発祥の地” | |||
JR桜木町駅から野毛山公園、動物園に向って野毛の大通りを徒歩5分位の所にあ | |||
る「野毛地区センター」の入口の小公園の中に、“日本近代水道最古の水道管”が置 | |||
かれています。当時の紹介地図部分が鏡状になっており、完全に私の姿が映ってしま | |||
いました。説明文によりますと、 | |||
『明治20年(1887年)日本最初の近代水道が、イギリス人パーマの指導により、こ | |||
こ横浜の地に誕生しました。 |
近代水道最古の水道管 |
||
相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、 | |||
44km離れた野毛山貯水場に運ばれた水は浄化され、市内 | |||
に給水されました。この野毛坂の地下には、当時のイギ | |||
リス製水道管が埋設されていて、今も働き続けています。 | |||
当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パー | |||
マーを始め、多くの先人たちの偉業を讃え建立したもの | |||
です。・・・・・』と記されています。 | |||
この、ヘンリー・スペンサー・パーマの記念碑が、西区の野毛山公園の中に建てら | |||
れています。我が中区の“発祥の地”の紹介ですが、区境に当たり西区に越境して紹 | |||
介する形となりました。 | |||
野毛山公園内の動物園の真正面のところに「野毛山貯水池」があり、その前に“パ | |||
ーマ”の胸像が建てられております。 | |||
野毛山貯水池(入口) |
野毛山貯水池 |
パーマ胸像 |
|
パーマは、神奈川県から顧問工師長として、水道工事のいっさいを任されました。 | |||
水源を現在の津久井郡三沢村三井を流れる相模川支流の道志川と決定したパーマーは、 | |||
野毛山貯水池に至る44qに及ぶ水道工事を明治18年(1885年)4月に開始し、明治20 | |||
年(1887年)9月に洋式水道が完成しました。現在は、山梨県道志村からの清涼な水 | |||
が野毛山貯水池から市街へと配水され、横浜市民の喉を潤しています。 | |||
また、パーマは横浜のほかに大阪、神戸、函館、東京などの水道計画に貢献しまし | |||
た。明治26年(1893年)に54歳で歿し東京青山墓地に埋葬されているとのこと。 | |||
≪ 番 外 編 ≫ | |||
★ 横浜下水道の始まり | |||
前記18.“我国西洋医科歯学発祥の地”碑の文中に出てきました「横浜市中土木事務 | |||
所」の入口に「珍品」が置かれていました。説明文によりますと | |||
『ここに展示の構造物は、昭和56年2月に中区山下町37番地先から発掘された卵形 | |||
下水管である。 |
卵形下水管 |
説明版 |
|
明治3年に関内居留地内 | |||
全域に陶管を埋設した。 | |||
これが、わが国最初の近 | |||
代的下水道であった。 | |||
その後、明治14年からこ | |||
れをレンガ造りの下水道管 | |||
に造り変えた。その断面が | |||
卵形をしているので卵形管と呼ばれる。 | |||
その時の卵形管の一部は、中華街南門通りで現在も使われている』とのことです。 |
2009.11. 4 | 小田 | “発祥の地”を訪ねて!(その11/最終回) |
“発祥の地”を訪ねて!(その11//最終回) | 横浜市 小田 茂 |
22. “日本ガス事業発祥の地”碑 | |||
JR桜木町駅から野毛山の方に向って、徒歩で10分足らずの本町小学校の校門入口 | |||
に“日本ガス事業発祥の地”碑が建てられています。 | |||
碑の説明文によると | |||
『明治3年、高島嘉右衛 |
“日本ガス事業発祥の地”碑 |
碑の説明文 |
|
門によって中区花咲町のこ | |||
の地に、ガス会社が設立さ | |||
れた。 | |||
高島はフランス人技師ア | |||
ンリ・プレグランを招いて、 | |||
明治5年9月29日、神奈川 | |||
県庁付近および大江橋から | |||
馬車道本町通りまでの間にガス街灯十数基を点灯した。 これがわが国ガス事業の発 | |||
祥である。』と記されています。 | |||
明治3年(1870年)県庁からガス灯の建設協力を頼まれ、「日本社中」を結成。 | |||
工場は伊勢山下石炭蔵前に建設することとなり、明治5年(1872年)9月に完成。この | |||
ガス工場は、明治8年(1875年)に町内会に譲渡され「横浜市瓦斯局」となり、現在 | |||
は「東京ガス」になっています。 | |||
「日本社中」があった場所は、現在の本町小学校ですが、ガス灯は文化財として1本の | |||
ガス灯が残されております。本町小学校は、神奈川県内でも有数の古い歴史をもって | |||
おり、明治38年(1905年)横浜市第一高等小学校として創立さてた名門校であります。 | |||
明治38年といえば、我がOB会名誉会員の廣瀬富三郎さん(103歳)の1年先輩です。 | |||
23. “機械製氷発祥の地” | |||
みなとみらい線終点の元町・中華街駅(山下公園)5番出口を出た直ぐ側に「山手 | |||
迎賓館」があります(元町商店街の一番外れ)。この「山手迎賓館」の右角にひっそり | |||
と「機械製氷発祥の地」のパネルがあります。パネルの説明文によると、 | |||
山手迎賓館 |
「機械製氷発祥の地」のパネル |
当時の工場全景 |
|
『開港から明治初期に至る時期、横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を | |||
扱う会社がいくつもつくられました。 | |||
ホテルのレストランやアイスクリ−ムサロンで氷が供されたという記録が残ってい | |||
ます。 | |||
明治12年(1879年)には、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ | |||
ー」がこの地に設立され、オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営されました。 | |||
設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの、翌年には再建し平成11年(1999年) | |||
まで、株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として再建当時 | |||
の姿のままで稼動していました』と記されています. | |||
24.“日本最初の和英辞典”の碑 | |||
前記23の“機械製氷発祥の地”前を流れる「中村川」(上は高速道路)の向い側の | |||
「横浜市地方合同庁舎」(横浜人形の家の裏手)の入口に、“日本最初の和英辞典” | |||
の碑が、ヘボン博士邸跡ということで建てられています。ヘボン博士とは、私達も知 | |||
っている「ヘボン式ローマ字」を広めた人物であります。碑文によりますと、 | |||
『開港とともに来日した |
“日本最初の和英辞典”の碑 |
説明文パネル |
|
宣教師の一人で神奈川成仏 | |||
寺に3年仮寓、文久2年 | |||
(1862)冬、横浜居留地39 | |||
番に移転、幕末明治初期の | |||
日本文化の開拓に力をつく | |||
した。 | |||
聖書のほんやく、和英辞 | |||
典のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に | |||
建てられた』と記されています。 | |||
ヘボンは、開国間もない安政6年(1859年)44歳の時、医療・伝道活動を目的とし | |||
て来日しました。来日当初は、神奈川宿にある「成仏寺」に住み、近くの「宗興寺」 | |||
で施療所として多くの日本人が治療を受けたそうであります。 | |||
本発祥の地の(その8)の「番外編」でもご紹介いたしましたが、文久2年(1862 | |||
年)の「生麦事件」で負傷したイギリス人2名の治療をしたのがヘボン博士です。 | |||
また、「生麦事件」の翌年には、キリスト教主義教育を日本に根付かせることを望 | |||
み、横浜にヘボン塾を開設しました。その後のヘボン塾は、他のプロテスタント・ミ | |||
ッション各派学校と連携し、明治20年(1887年)に明治学院として統合し、明治学院 | |||
初代総理に就任しました。高橋是清、島崎藤村など多くの人材を輩出したと言われて | |||
おります。 | |||
現在の「横浜指路教会」 |
明治7年(1874年)には、横浜第一長老公会を建て、 | ||
ここで新・旧聖書の和訳をしていたそうです。現在もJ | |||
R桜木町と関内駅の間で、馬車道のバス停から近い所に | |||
「横浜指路教会」として残っております。 | |||
ヘボン博士は、日本に33年間滞在し、多大な功績を残 | |||
され米国に帰国されましたが、19年後の明治44年(1911 | |||
年)96歳というご高齢で素晴らしい生涯を終えたそうで | |||
す。感謝!感謝!です。 | |||
≪番外編≫ | |||
我が家の“カメレオン・アサガオ”?の24時間! | |||
今年の“アサガオ”は種蒔きが遅かったせいで、10月20日頃まで咲いていました。 | |||
アサガオのイメージと異なり、一日中花を咲かせ、しかも色が変化していくのが、 | |||
面白く勝手に“カメレオン・ |
朝6時 |
正午 |
|
アサガオ”と命名して、10 | |||
月11日の三連休の中日に24 | |||
時間追ってみました。(本 | |||
人は365連休中ですが!) | |||
本人だけが、ビックリ、 | |||
感嘆してますが、当たり前 | |||
のことかも知れませんが! |
夕方16時 |
夜20時30分 |
翌朝6時 |
|
≪ おわりに≫ | |||
横浜開港150周年に関して、野村幹事の2月のホームページトップ記事に刺激され、 | |||
“浜っ子”の一人として150周年の自分なりの記念行事として、住居のある「横浜市 | |||
中区」に点在している“我が国:発祥の地を訪ねる”企画をいたしました。 | |||
3月に第1回目を寄稿してから今回で11回を数え、“発祥の地・碑”の紹介数が、 | |||
24個所と予想以上に多くビックリしました。まだまだ有るのかも知れませんが、今回 | |||
をもって第一弾を終了いたします。 | |||
拙い案内文、幼稚な素人写真でしたが、ご覧いただき感謝申し上げます。 | |||
振り返ってみますと、何の計画性もなく、出たとこ勝負で、本来なら始めに“幾つ | |||
位あるのか”“地域ごとに効率的に訪れる”等々で、系統だってご紹介すれば、場所 | |||
等を頭に浮かべて見ていただけたのではと反省しているところです。 | |||
この活動に取組んで一番私自身驚いたの「60年以上住んでいて、如何に“地元を知 | |||
らなかったこと”“変わってしまった様子”」の多かったことに自分ながらあきれ返 | |||
っております。 | |||
しかしながら、新しい発 |
「生麦事件」犠牲者の墓 |
埋葬位置を示す看板 |
|
見!というのは素晴らしい | |||
ことげすね! | |||
私のとって今回の最大の | |||
新発見は、その8の番外編 | |||
で触れました「生麦事件」 | |||
被害者のリチャ−ドソン | |||
(死亡)、クラーク(負傷)、 | |||
マーシャル(負傷)の3人のお墓が、山手外人墓地の裾野で元町商店街に近い所のあ | |||
ったとは!掲載した時は負傷した二人は、間もなく亡くなったのかと思っていました | |||
が、その後知ったことですが、かなりの年齢まで生存されていたようです。 | |||
ヘボン博士の治療がよかったのか、傷が浅かったのか定かでありませんが。 | |||
計画性がないので、同じような地域へ何度も足を運んだお陰で、「発祥に地」では | |||
有りませんが、珍しい「碑」に出会い、また、面白い「看板・マスコット」との対面 | |||
など新しい発見もありました。これらにつきまして、少し整理した形で「第二弾」と | |||
して、次回からご紹介いたますので、懲りずにご覧頂ければ幸いです。< 完 > |
小田さん、お疲れさまでした。楽しみにしていましたが、もう11回になるんですね。 | |||
横浜は、OB会会員も沢山お住まいです。次回は少し範囲を広げて、またレポートを | |||
お願いいたします。待っています! 《ホームページ・ワーキング・グループ》 |