『トップページ履歴』2012年1月〜2012年12月
 
          トップページ 履 歴 一 覧
2012.12. 1 OB会に若い人を            副会長:佐藤 雅寿
2012.11. 1 お酒を美味しく飲むための私の健康法  本部幹事:小林 忍
2012.10. 1 満7年を迎えたOB会ホームページ   本部幹事:小池 芳光
2012. 9. 1 佐野支部の現状           佐野支部長:辻 隆太
2012. 8. 1 最後の手習い「木目込み」      矢板支部長:服部 勉
2012. 7. 1 被災地を旅して           那須支部長:池田 知之
2012. 6. 1 ボランティア活動と「ポイント制度」への期待  本部幹事:三橋 春夫
2012. 5. 1 お城の不思議             本部幹事:清水 国明
2012. 4. 1 子孫に美田を残そう          本部幹事:津田 昭治
2012. 3. 1 超短期留学サポート顛末記       本部幹事:関根 眞
2012. 2. 1 新旧が融合した秋葉原         本部幹事:木戸 雅史
2012. 1. 1 新年のご挨拶               会長:八木 宏
 
      『 ト ッ プ ペ ー ジ  履 歴 』
2012.12. 1 OB会に若い人を            副会長 佐藤 雅寿
 
OB会に若い人を 副会長  佐藤 雅寿
 東京計器のOB会に若い人が入って欲しい。別にうん 佐藤副会長
佐藤副会長
と若い人ではないが60歳代を希望します。
 現在、当OB会の会員数は553人、その平均年齢は75.5
歳、70歳以上の人は416人(75.25%)となっています。
 80歳以上の方が25%(昭和24年6月末現在)長寿の
OB会であることは誠に喜ばしいことです。7年前のデー
タでは平均年齢が70歳、70歳以上の割合は45.4%、80歳
以上の人は14.3%であり、年々高齢化しているのは間違
いのないことでしょう。東京計器でも会社定年が55歳であった時代もあり、現在でも
一応の定年は60歳となっています。
旧東京計器の社屋
旧東京計器の社屋
 年金受給年齢が段々遅くなるにつれ、企業も60歳を過
ぎた人の雇用継続を図らねばならなくなり、したがって
60歳を過ぎても雇用形態や待遇が変わったとしても働い
ている人が多いことは確かです。
もちろん、60歳を転機に、またそれ以前に早期退職して
新しい生き方を目指す人もいますが、60歳以降働く人た
ちは、意識のなかでも現役バリバリと思っており、とて
も社会人OBにはまだまだ、東京計器のOB会入会を誘っ
ても「仕事を辞めたら考えたら考えたい」という答えが多かったようです。
 一生働きづめという人もいるでしょうが、歳をとってからも働くのは単に生活のた
めだけでなく、健康維持や安定した家庭生活のためにも極めて良いことだと思ってい
ます。東京計器も以前は55歳、60歳定年で継続雇用のない時代では、大きな生活の心
配もなかったかもしれませんが、会社生活の終わりからスムースにOB会に入会され
た人も多かったものと推察されます。
 ところが前述したような状況ですので、なかなか60歳代でOB会に入会する人は少
なく、幹事がつてを頼りに入会を勧めているところです。幹事も高齢化しており、早
く手を打たなければOB会活動が停滞してしまいますので、急ぎ幹事の若返りを先行
しておりますが、会員全体の若返りも喫緊の問題と捉えております。これは、いち東
京計器OB会としての話でありますが。
 さて、日本人男性の平均寿命は80歳近くとなっており、 現在の東京計器の社屋
現在の東京計器の社屋
東京計器でも一昔前の人は仕事生活からリタイアした場
合、平均余命は20年ありました。それだけに、家と勤務
先の往復だけだった人が地域デビューしたり、旅行や趣
味を本格的にやるにも十分な時間がありました。 当然
OB会に入っていろいろと活動もしていただけたことと
思います。そう考えますと65歳、70歳さらにはその先ま
で働いて、やれやれ自由な時間が取れた、何かやろうか
と思っても余り時間がありません。
 60歳過ぎて働くのが当たり前になってきている現実を受け入れながら、同時並行的
に自分の時間を作って、地域との関わりを持ち始めるとか、旅行や趣味の活動時間を
増やすなど、少しでも早いうちに現役生活からの軟着陸を図ったらどうでしょうか。
 東京計器のOB会は何の義務も制約もありませんので、仕事を持ちながら自分の許
す時間の中で自由に参加出来ますので、早く入会されることをお勧めしたいです。
 我々幹事も若い会員の入会活動を行いますが、ぜひ会員のみなさまにもご協力をお
願いいたしたいと思います。もちろん入会には年齢制限はありませんので、どなたで
も歓迎であることは言うまでもありません。
 
2012.11. 1 お酒を美味しく飲むための私の健康法  本部幹事 小林 忍
 
お酒を美味しく飲むための私の健康法 本部幹事 小林 忍
 
 皆さん、いつも晩酌の量が多いと奥さんに嫌味を言わ 小林_本部幹事
小林_本部幹事
れていませんか? 外で飲んで帰ると、ろれつが回らな
いほど飲んでと、また怒られていませんか?
健康なら少々のお酒も奥さんは大目に見てくれるだろう
し、また、少しでも長く美味しいお酒を飲むために、そ
して確実に進む老化を少しでも遅くしてみませんか?
 私の「ささやかな健康法」を紹介します。
 
@ 体重62kg〜64kg台の維持
 50歳代のころは、身長165cm体重70kg台と太っていました。健康診断のたびに、医
者から血圧が高いので塩分を控え、そして体重を減らすようにと、いつも指摘されて
いました。
 その頃、社長室に在籍しており、森田啓二郎元社長が開発した「ダイエットプログ
ラム」に出会い、一念発起してダイエットに挑戦しました。ダイエットプログラムは、
毎日朝起きたら何もしないで、まず体重を測定し記録します。そして朝昼晩食べたも
のを記録し、一日の摂取カロリーを算出します。このようにレコーディングダイエッ
トを続けていくうちに、体重変化に一喜一憂し、自然と体重が減っていく喜びを感じ
ました。とくに、間食はしない、夕食は腹一杯食べない、そして寝る一時間半前には
終了しているようにします。ダイエットプログラムの効果があり、現在でも体重62kg〜
64kg台をキープし、10年前のズボンが未だに履けます。
A 毎朝、コップ二杯(約300cc)の水を飲む
 寝ていると体内の水分が蒸発し、血液がドロドロになり、脳卒中や脳梗塞になり易
いと聞き、毎朝水を飲んでいます。また便秘の予防にもなるそうです。
コップは歯磨きのコップを使っているため、女房にガラスのコップで飲んだ方が美
味しいのではと言われますが、東京都の水道水はどちらで飲んでも同じ味です。
B うがいの励行
 朝起きてコップ二杯の水を飲んだ後、薬でうがいをし ウガイの励行
ウガイの励行
ます。そして朝食後歯を磨き再び薬でうがい。
昼食後は少々不精をして、歯磨きの代わりに薬でうが
いを、そして就寝前に薬でうがいと一日4回以上うがい
をします。うがいのお陰で風邪をひいて寝込んだことが
ありません。また、歯医者さんは薬でうがいをすると、
口の中を殺菌するので歯周病の予防になると言っていま
した。
C 毎朝6時25分NHK2チャンネルの「あさのテレビ体操」
 毎日、テレビに登場する若いお姉さんと一緒にテレビ テレビ体操の美女に合わせて
テレビ体操の美女に合わせて
体操、その後若干の腹筋と腕立て伏せを行います。
普段使っていない筋肉、衰えていく筋肉を刺激します。
そして朝の硬い体をほぐしてくれます。
今日も元気で頑張るぞと心も体もリフレッシュし一日
が始まります。
 
 
D 一日1万歩以上歩く
歩け!歩け
歩け!歩け
 老化は足からくると言われています。
会社までの通勤で最寄駅はJR横浜線成瀬駅ですが、一
駅先の長津田駅まで、そしてJR蒲田駅から東京計器ま
で歩きます。昼休みは多摩川の河川敷まで歩くこともあ
ります。休日は女房と散歩・買い物と一日1万歩以上歩
くように、1万歩未満の日があれば翌日その分をカバー
するよう努めています。
今年の夏も暑かった。「昼間歩いて熱中症にでもなった
らどうするの」、「健康のため歩いているのに本末転倒でしょ」と、女房に怒られな
がらも少々意地になって歩きました。ちなみに8月は一日平均11,213歩、9月は一日
平均11,809歩でした。
今後チャレンジしたい項目
休肝日をつくる。理想的には1週間に2日間と言われて いつの事やら、休肝日
いつの事やら、休肝日
います。
この1年間お酒を飲まなかった日は、健康診断の前日だ
けでした。小心者の小生は診断結果を少しでも良く見せ
ようと禁酒しました。検診で良い数字が出れば、大手を
振って、また1年間美味しくお酒が飲めます。
 1年間で1日休肝日、365日毎日飲んでいたことになり
ます。私も60歳後半に入りました。もう休肝日を真剣に
考えなければいけない年齢ですが、なかなか実行できません。
 
 以上のように@〜Dの健康法を行っても、血圧は薬を飲んで80/130台です。
医者は薬をやめても良いとは言いません。健康法のおかげかどうかは疑問ですが、
いまのところ血圧が高いぐらいで他に病気はありません。
 これからも、毎日健康で、美味しくお酒を飲んでいたいと思います。
 
2012.10. 1 満7年を迎えたOB会ホームページ   本部幹事 小池 芳光
 
満7年を迎えたOB会ホームページ 本部幹事 小池 芳光
 
みんなが参加でき、みんなの輪が広がるホームページつくりを!
 OB会のホームページ(以下、HP)は、この10月で 小池_本部幹事
小池_本部幹事
開設されてから満7年を迎えました。 「HPの特徴を
活かしてOB会員同士の繋がりをより一層強めよう!」
との目的を実現するため、「みんなが参加でき、みんな
の輪が広がるホームページつくり」を目指して、たゆみ
ない活動を続けてまいりました。これまでに多くの方の
ご協力を得て、大勢の方にご覧いただいています。
 その状況を見ますと9月現在、開設以来HPの延べ訪
問者数(注1)の推移は、下のグラフに示すとおりになっています。 
 月間で見ますと900名位を推移し、最高記録は1,065名となり、8月に更新しました。
HP訪問者数(平成24年9月18日現在)
HP訪問者数(平成24年9月18日現在)
 累計では、今年2月29日に「50,000人」を達成しまし
たが、ピッタリの訪問者の申告はありませんでした。
 次の連番「55,555人」は、8月31日12時11分に到達し、
幸運な訪問者の申告がありました。詳細は、「事務局の
お知らせ」参照。恒例の記念品(フレーム切手)を定期
総会・懇親会にて披露し、贈呈いたします。
(注1:一日単位で訪問者を積算し、それを累計する。
    同アドレスで一日に何回開いても、初回のみ
                 1人1回だけが積算されます。) 
 このほかに、もうひとつのデータとして、これまでHP上に掲載されてきた記事・ 
報告、写真や作品展などの投稿点数と投・寄稿者数をコーナー別に見ますと以下の表
のようになっており(9月1日現在)、実質 200名ほどの方(注2)が登場しています。
 投稿・報告記事、お知らせや作品展示などの更新は頻繁に行っており、最近1年間
で見ますと月平均 20件強の更新となっています。
 (注2:コーナー単位に積算し、繰り返し投稿された方は、数えない。
     これは単純平均で会員の3割強の方に参加いただいていることになります)
投稿記事、写真、作品および投稿者数(平成24年9月初現在)
投稿記事、写真、作品および投稿者数(平成24年9月初現在)
 
      アンケートの結果は・・・
 HPのアンケートは今年3月に全会員の皆様にお願いし、369名の方から回答を頂
き(回答率66%)、そのうち174名、47%、(全会員比では31%)の方が「HPを見ている」、
128名、35%の方が「見ていない」(注3)<うちパソコンなし76名(21%)>という結果で
した。(注3:メールアドレスをお持ちの方は、243名(全会員の44%)です。
「見ていない」方は、メールアドレスをお持ちでない方が多いと思われます。)
アンケート結果−1
アンケート結果−1
 回答を寄せられた方の詳細では、「見る度合い」が、2回未満112名(64%)、3回以上
62名(36%)。「内容の興味度」では、@たくさんあった40名(23%)A少しあった95名
(55%)B余りなかった36名(21%)。「参加意欲」では、@参加したい24名(14%)
A頼まれればする 39名(22%)B参加したくない101名(58%)となっています。
また、貴重なご意見もたくさん寄せていただきました。今後の企画・運用に生かして
まいりたいと思います。ご協力ありがとうございました。
 
アンケート結果−2
アンケート結果−2
 
      満7年を機に、もっともっと多くの方のご参加を!
 満7年の節目を迎えるにあたり、原点に立ち返って、もっともっと多くの方に参加し
ていただけるよう、魅力あるHPつくりに取り組んでまいります。
 皆様からの自由投稿に加えて、遠地にお住まいの方や栃木三支部の方々にご協力を
お願いして、郷土色豊かな各地の伝統行事や四季おりおりの珍しい記事を随時掲載し
てきました。これからも沢山届けられるのを楽しみにしています。 これに加えて、
先のアンケートでも提案された「テーマを決めての原稿募集」も行い、一人でも多く
の方に参加していただけるよう心掛けています。皆様には、色々な出会いや繋がりの
中で活動されている「グループの集い」の模様・紹介など、沢山情報をお持ちでしょう。
しかし、これらの材料はあるが、まとめるのが大変・・・・と躊躇されておられる方。
便箋などに手書きされたものや印画紙の写真のままでも結構ですので、何なりとお気
軽に最寄の幹事にご連絡いただければ幸いです。 
 このほかにもHPを開いて画面上で直接、ブログのように思いつくまま気楽に書き
込める「お便りコーナー」があります。簡単ですから是非一度試して見てください。
 
      継続は力なり!
9月掲載の季節の風物詩
9月掲載の季節の風物詩
 ところで「トップページ」を飾る「季節の風物詩」へ
の写真投稿は、参加する面から見た私とHPとの唯一の
接点となっていますが、しろうと写真ながらも開設以来、
毎月投稿し続けてもう6年半になりました。些細なこと
ですが「継続は力なり」ですね。皆様も地元の、身近な
風物詩をデジカメ等で撮ってお届けください。 
 私事で恐縮ですがもう一つの「継続」は、定年後に再開
した「開発・設計」の仕事で、これは18年になります。
定年以後の就業機会創出と就労条件向上の面からも取り組んできましたので、後に続
く世代のためにもと思い、今後も健康の許す限り「生涯現役」として続けていくつも
りでおります。
 日々、拘束されずに「いつでもどこでも仕事ができる」時間をより多く持てるよう
になってきた「今」を大切にしていきたいと思います。生みの苦しみを乗り越え開発
品を完成させたときの達成感はまた格別で、その醍醐味を堪能しています。
 これらの仕事とHPのタイムリーな更新業務を、如何に共存させていくかは日々の
最大の課題ですが、OB会幹事諸兄との楽しい連携のもと協力しあいながら実行して
おります。これからもボランティア精神に富む若い世代の方々に参加していただける
ことを希望してやみません。
 野鳥のさえずりを目覚ましに起きてから、終日パソコンとにらめっこの日々が多く、
運動不足は否めません。仕事に疲れアイデアに行き詰まってくると、カメラ片手にぶ
らりと散歩に出ます。自然とのふれあいの中での気分転換です。これが日常生活の中
で、こころとからだの健康と仕事の効率化に程よく機能しており、四季折々の「季節
の風物詩」の写真の候補も沢山生まれてきます。
 これらからも「みんなが参加でき、みんなの輪が広がるホームページつくり」を
目指して、心身共に元気で、さらなる努力をしてまいりたいと思っております。
 よろしくご協力のほどお願いいたします。
 
2012. 9. 1 佐野支部の現状           佐野支部長:辻 隆太
 
佐野支部の現状  佐野支部長 辻 隆太
 
1.新しい仲間を迎えて
 新しい仲間として36期の初めの2011年7月に堀 信行さ 辻_佐野支部長
辻_佐野支部長
ん、今年の3月に原 清さんのお二人が入会されました。
 2012年8月現在の佐野支部会員は40人で、内11名が佐
野出身の会員となり、佐野支部は着々と成長を遂げてい
ます。
 佐野支部会員でシニア社員の方によるお誘いや、ホー
ムページの閲覧などもあって、これからもますます元気
印の入会が期待されます。
2.行 事 計 画
 今期の行事は、11月上旬に日帰りの総会と懇親会を計画しています。
 場所は出流原にある一乃館、久しぶりのサンルート佐野、一昨年好評だった日本料
理の吾妻、等を検討しています。
 その他、来年のアジサイの頃、栃木市のサンランド栃木で、家族も含めたバーベキ
ュー(買い物・後始末不要、持ち込み自由)なども計画しています。
3.春のバス旅行(伊香保温泉1泊の旅)結果報告
 5月のOB会・春のバス旅行には、佐野支部からも5名が1台のマイカーに相乗り
で参加しました。
 楽しみの旅行が近づいて来た4月の終わりに、関越自動車道路で高速ツアーバスの
事故のニュースがありました。原因は、「運転手の疲労」とのこと。「俺たちも充分
気をつけよう」と話合い、旅程と運転手交代などを明記した運行予定表を作って参加
し、休憩や交替などほぼ予定通りに実行し、楽しく、無事に、往復できました。
 特に帰路はホテルでバス おいしかった信州そば
おいしかった信州そば
お土産の峠の釜飯
お土産の峠の釜飯
組を見送ったあとは、佐野
支部オプションコースの榛
名湖観光から、軽井沢での
“信州そば”を堪能し、
お土産は横川での“峠の釜
めし”を買って、楽しい旅
でした。
 本部のバス旅行への自家用車での自己責任での参加は、個人参加になりそうで、途
中の楽しみを少しでも増やすには、東京からのバスがどこか途中の鉄道の駅に寄って
くれると、そこまで電車で行って(懐かしく電車内の懇親会も)バスに合流も、あり
かと思います。
 バスの定員の問題など検討課題はありますが、栃木から参加したいが、マイカーで
はどうもという方もいますので、何か工夫したいと思います。次回の行き先は、東北
の被災地応援旅行も1案かとの意見もありました。
4.ちょっと休憩 (私の近況・・・・ローレライ)
 ドイツに住んでる姪の案内で、ライン川下りを楽しんできました。
 フランクフルトから、ライン川下り乗船場に行く途中、 ソーラーパネルの草原風景(車窓より)
ソーラーパネルの草原風景(車窓より)
バスの窓から広々とした畑に見とれていたら、突然太陽
発電のソーラーパネルに覆われた草原が!
 日当たりのよい畑としては大量のビール麦やブドウな
どが沢山できるだろう場所なのに?。
 姪の義父の話によれば、「持ち主が高齢化し、後継者
がなく、耕作を続けることができなくなった農家では、
ソーラーパネル発電の会社に土地を貸して、収入の工夫
こちらは風力発電(車窓より)
こちらは風力発電(車窓より)
をしている」とのこと。
 さらに風力発電の風車の会社にも貸している農家もあ
るそうだ。
 ドイツでは、日本の原発事故よりず〜っと前から、国
を挙げて太陽光発電や風力発電などの「低公害発電」へ
の検討に力を入れている。単に原子力発電は危険だから
というだけで脱原発を議論しない。将来の産業や環境の
発展を考えてエネルギー問題を議論しているのだ。 
 そして国内で、低公害発電技術の、開発と実績を積んで、世界へと展開して行く、
という大きな目標をみんなが共有しているのだ。とのこと。なるほどなるほど納得!。
 ただ、我が国でも問題化している高齢化し後継者がない農地の国・自治体・JAな
どでの活用、原発事故を契機に将来の電力問題など、火急に結論を出す必要性を今回
のドイツ旅行で痛感した次第である。
  最高の天気に恵まれたライン川
最高の天気に恵まれたライン川
姪とその義母と私のご機嫌の船旅
姪とその義母と私のご機嫌の船旅
 「天気も良く、川下りに
は最高よ」 と義母。
 
 「先ずはキャビンで、ワ
インを味わい、ビールもや
ろう」 と義父。
 
 
かっては航行の難所ローレライ付近
かっては航行の難所ローレライ付近
多くの船頭を惑わせた伝説の美少女
多くの船頭を惑わせた伝説の美少女
 「やがて、ローレライは
この辺りよ」 と姪。
 デッキに出たら、つめて
ェー風にほろ酔いの、心持
よくウキウキと・・・
 
 「おじさん、あれがロー
レライの岩よ」 と姪。
 「昔はこの辺りは川幅が狭く、浅瀬も多かったので流れが険しく、船頭さん達が流
れや方向を見間違えると、渦に巻き込まれ沈んでしまったそうよ。
 美しい乙女の歌声に聞き惚れていて、自分の行く方向を間違えたという伝説もある。
あんたも気を付けてくださいよ。全く男はしょうがないね。だからドイツでは首相を
女性にしたのよ!」 と義母。
  ♪ なじかわ 知らねど こころわびて、昔の伝えは そぞろ身にしむ♪
 
2012. 8. 1 最後の手習い「木目込み」      矢板支部長:服部 勉
 
最後の手習い「木目込み」  矢板支部長 服部 勉
 
 私が会社を退職してから今年で17年が経過しましたが、 服部矢板支部長
服部矢板支部長
改めてこの間に自分がしてきた「習い事」を振り返って
みまして、感慨深いものを感じました。その内容は、子
供のころから慣れ親しんできたこと、兄弟がしていたこ
と、成人して覚えたことなどですが、それまで仕事以外
のことで人に教えを請うということをしなかったので、
身につかなかったという反省があって、「習い事」とし
て取り組んだのだと思います。
 最初に始めたのは「書」でした。これは私が小学校に入学した時の担任の先生が習
字の先生でして、当時ちょっと習ったことがあって、これが動機となったと思います。
たまたま市の広報で「老人福祉センター」の教養講座でいろいろなことを勉強できる
ことが判ったのがきっかけになったと思います。その後「書」を続けながら、NHK
の絵画教室で水彩画、木工(家具造り)の個人教室、カメラ同好会、さらにギターの
個人教室、などと手を広げていきました。これらを辞めざるを得なかったのは私の病
気が主な原因ですが、現在も続けているのは「水彩画」だけとなりました。
 そして最後に手を染めたのが「木目込み」でした。「書」を始めてから5年、先生
が突然病に倒れ講座が閉鎖となりました。その時「書」の作品展が市役所の会場で行
われており、同時に同じ場所で「木目込み」講座の展示会が実施されておりました。
これがきっかけとなって、「木目込み」講座の先生と話しをする機会がありました。
当時、私にとって「木目込み」とは全く未知のものでして、物を見て外観は判っても
何故「木目込み」というのかが判りませんでした。
 「未知」というのは気を引くもので、「書」講座閉鎖が平成13年3月でしたので、
4月からの「木目込み」の新講座に参加しょうと考えたのでした。こうして当時継続
していた「水彩画』と「ギター」に加えて、新しい手習いがスタートしたのですが、
今までいろいろ習った種類の最後のものとなると思いました。
 「木目込み」の講座に出て驚いたのは、生徒は7人で私以外は全員女性ということ
でした。さらにその後判ったことですが、講座は1年で終了しますが、続けたい人は
卒業生が作るグループ入って作品造りを継続するのが、どの講座でも行われておりま
した。さらに女性が多い理由としては、通常「木目込み」には「人形」が付いて「木
目込み人形」と言うのが常識だと知りました。
 私が講座で最初に手にした教材は「まり」(右写真@) @
@
でした。そして、これを通じて「木目込み」とは何かが
判りました。「まり」の素材は木の粉が主体の物で、こ
れを型に入れて「まり」の「かたち」(中は空洞)を造
るのです。この表面の細い線の溝が、図柄に沿って斬り
込まれております。
 作業の手始めは、まず表面に傷や凹凸があれば、用意
されている補正剤を付け、乾燥後ヤスリで丁寧に繰り返
し磨き上げること。この時、溝の線の維持が重要となります。
 次に用意されている数種類の布を、溝に合わせて自分の型紙を造り、これに合わせ
て切り、溝に糊を塗り込みながら、ナイフ状の道具を使って布の端を折り込んで行く
のです。1つの溝に2種類の布が折り込まれますので、皺や模様崩れに気を付ける必
要があります。この様に“布を木質の土台(人形)に折り込んで決める”ことが「木
目込み人形」の由縁ではないかと勝手に想像しております。
 「まり」に引き続き、月2回の講座を本格的に始めまして、下の写真A、B、Cの
順で手掛けてきました。
A
A
B
B
C
C
 そして、この間で使用する道具を購入したり自分で作ったりして物造りを楽しんで
いました。楽しみ方もいろいろありますが、女性の場合は着物の柄や生地に凝って、
自分が持っている着物を切って使う人もおります。
 私の場合は、上の真Cの様に、孫5人を想定しながら作ったりしましたが、年末に
D
D
なると年ごとに変わる“干支”の動物に凝りました。
 その年に当たった子や孫、兄弟、知人まで、様々な形
や大きさの物を選んで造って贈るのが、楽しみの大きな
部分を占めるようになりました。(左写真D)
 この様にしながら、和風の着物を着た、大人の人形造
りにチャレンジする段階に入りまして、それらしい物を
選んで時間を掛けながら頂点を目指しました。
(下の写真E、F、Gと後から出てくるK)
 
E
E
F
F
G
G
 さらに私の場合、長年の趣味として続けている「木工」がどうしても頭をもたげま
す。人形ケースは大きさによって形も変わりまして、縦の部分を蓋の様に被せるもの、
上蓋の部分だけ取り外しができるようにするもの、本格的な開き扉にするもの等々い
ろいろですが、使用する木材の柱や板にはすべて漆を塗ります。それと床と背面に金
色の紙を貼ります。時間がかかるのは漆塗りで、1本の木の棒や板を仕上げるのに、
漆を14〜15回塗っては乾かしを繰り返す必要があるからです。このための道具も必要
となります。こうして作ったものが、先の写真Dと下のH、I、Jです。
H
H
I
I
J
J
 「木目込み人形」造りの難易度を決める尺度の主要部分に「大きさ」があると私は
思います。これはケースの話ではなく、人形が大きくなると形状が複雑になり、着物
もこれに比例して多様性が要求されますし、体の形状造 K
K
りだけでなく、木目込みの1本1本が長くかつ複雑になっ
てきますので、その分多くの時間と配慮が要求されるか
らです。
 ちなみに私が造った一番大きなものは、右の写真Kで
人形の背丈が約40センチのものです。
 人形は小さくてもケースに入れないと映えません、し
かも場所を取ります。この点が「木目込み人形」造りの
問題点の一つなのですが、考えてみると趣味の物造りには共通した問題です。この点
L
L
で私も苦慮しましたが、そのことが場所を取らない「干
支」に目がいった原因かもしれません。
 しかし、左の写真Lのように、今でも偉そうに場所を
取っているものもあります。
 このようにして続けていた木目込み教室通いは約5年
続きましたが、私が前立腺ガンの手術で入院することに
なりまして、グループ教室通いを辞めました。
 しかし、その後も毎年、年末に一度“干支”動物を受
け取りに教室に参上します。そして5年間一緒にいた仲間、今も変わらないメンバー
と昼食をともにして元気を貰って帰ります。
 最後になりますが、今までいろいろやってきましたが「習い事」もこの「木目込み」
が最後のものとなっております。それ以降はこれまでにやってきましたものを、組み
合わせながら楽しんでおります。
 
2012. 7. 1 被災地を旅して           那須支部長:池田 知之
 
“ 被災地を旅して ”  那須支部長 池田 知之
 
 一度東北の被災地へ行って現状を見てみたいと思って 池田_那須支部長
池田_那須支部長
いた。震災後1年が過ぎ、政府が35都道府県、10政令指
定都市に震災がれき処理受け入れを要請したが、受け入
れたのは東京都だけで、処分が進まない様子が連日テレ
ビや新聞で報道されていた。この実態を目で確かめたく
なり3月末に被災地を訪れた。
 東北自動車道で一関ICへ向かったが、東北方面への
物資の移動であろうか?渋滞はせず流れているものの2
陸に上がった舟
陸に上がった舟
車線に車の列が仙台ICまで続き、今までの東北道の車
の量との違いに驚いた。
 一関ICからは国道284号線で気仙沼へ、この道は10年
前に通ったときとほとんど変わっていないように感じた
が、駅前の観光案内所で市街地図をもらい港へ行ってみ
ると、岸壁には数隻の小型漁船しか停泊しておらず人影
もまばらで活気が感じられなかった。近くの海産物店内
にあるレストランで昼食を取った後、魚市場近くを回っ
て見たものは、打ち上げられた漁船や流された大型バス、鉄筋建物の鉄骨の残骸など
が残されているだけで、あたり一面見渡す限り民家や住宅は見当たらず、ただ呆然と
するだけだった。また、海岸近くの“置き場”にはがれきが山のように積まれており、
更にダンプが列をなし、砂煙を巻あげながらがれきを運 鉄骨だけ残った防災無線庁舎
鉄骨だけ残った防災無線庁舎
搬しているのを見て、山はどこまで高くなるかと心配に
なった。
 また、国道45号線沿いを走る気仙沼線は、線路がなく
なり橋脚だけを残した場所や陸地では線路が飴のように
曲がった場所が何ヶ所もあり、津波の威力に驚かされる
とともに復旧には莫大な費用と労力・時間がかかるだろ
うし、復旧できるのかと不安さえ覚えた。
 南三陸町では、“最後まで避難を無線で呼びかけた”女性の勤務先である防災対策
庁舎の鉄骨と小型漁船を屋根に乗せたままの姿で残された病院の建物と高く積まれた
“がれき”の置き場所だけが残され、見渡す限り何もない廃墟と化したような光景が
いまも頭に焼き付いている。人影も、私のようにこの地を訪れた人たちだけで、現地
の人は一人も見かけず、死んだ町のように感じ、暗い気持ちになり沈みこんだ。ただ
救いだったのは、テント村でお店を始めた人たちが、災害にも負けず、明るくお客さ
んに応対している顔を見た時、逆にこちらが勇気づけられたことだ。
瓦礫の山、山
瓦礫の山、山
 石巻に向かう途中の道路わきにある仮設住宅を通り過
ぎた時、一瞬昔見た映画「大脱走」の捕虜囚虜所の場面
が何故か一瞬頭を横切り、まだ周りには残雪があり、冬
の寒さは堪えただろうと切なくなった。がれきの山は石
巻が一番高いように感じ、仮設住宅を取り巻いているよ
うに見えた。処理を早くしないと、これから夏に向かい
ハエやカなどの虫や悪臭など衛生面での問題や火災が懸
念された。
 共通して言えることは、現地の住民をほとんど見かけず、車が通った後はほこりが
舞い上がり、緑がどこにも見られず殺伐とした風景であった。
 この“がれき”が防潮堤の基礎に使えるとか、また、横浜市の山下公園は関東大震
災時の“がれき”を埋め立てて造られた等の話を耳にしたことがあるが、あらたな資
源に早くできるよう政府も本腰を入れて取り組んで欲しいと痛切に感じた。
 5月中旬には、福島県会津に旅した。会津地方には、「会津ころり三観音」(中田観
音、立木観音、鳥追観音)と呼ばれる観音様があります。この三観音を3回巡拝すると
健康な一生をおくれ、家族に迷惑をかけずに コロリ とあの世に旅立てると言われて
おり、巡拝を2年前に始めたが、昨年は大震災で行かなかったので再開した。2年前
は、我々と同じような夫婦やおばさん達で賑わっていたが、今年は三観音を含め5ヶ
所名刹を巡って、出会ったのはたった一組の夫婦だけであった。なかには、休業した
お土産店もあり、閑散としていた。原発事故による風評被害がこんなにも大きいのか
と実感した。
 事故後、国・東電が右往左往し、正確な情報を流さず、すべての対応が後手後手に
回った結果、国の安全基準が信じられなくなり、”がれき”処理問題も農作物や観光
への風評被害も大きくしている。なんでも“想定外”で言い訳をする体質を変革しな
いと何事も前進しないだろう。“想定外”の事態が発生した時、“どう行動し、どう
対処するか”が今後問われているのかもしれない。
 何も出来ない自分自身の無力さを腹立たしく思いながら、被災地が一日も早く復旧・
復興し、住民の皆様方が元気を取り戻すことをお祈りします。
 
2012. 6. 1 ボランティア活動と「ポイント制度」への期待  本部幹事:三橋 春夫
 
ボランティア活動と「ポイント制度」への期待 本部幹事 三橋 春夫
 
 今年の1月22日、讀賣新聞の「くらし・家庭」版に 三橋_本部幹事
三橋_本部幹事
「ボランティアも高齢化」と題する小さな記事が掲載
された。日ごろ、茅ヶ崎市で視覚障害者の外出援助を主
たる目的のボランティア・グループ「草笛」に、また、
JBGA(日本ブラインドゴルフ振興協会=日本視覚障
害者のためのゴルフ振興協会)に所属している関係で、
ボランティア組織の共通する課題として同感しつつ読ん
だ。
 記事の概要は、「メンバーが高齢化し、若い人が入会しない。ボランティア活動を
継続するために、どうしたらいいのか?」というものであった。
 私が神奈川県茅ヶ崎市で上記ボランティア組織に入会したのは、平成8年11月23日、
社命により社史「トキメック100年史」を完成させ、同12月30日付けで退職してから半
年後である。
 家内は、私が仕事から離れて何もせず家にいられることを心配し、新年早々の市の
「広報誌」に掲載された各種ボランティア組織の紹介記事を見て、「ボランティア大
学」の講習会へ応募していた。
 後日、通知が来て初めて分かったことであるが、私自身は何の違和感、拒否反応も
なく、むしろ感謝して、茅ヶ崎市社会福祉協議会と同ボランティア連絡会共催の講習
会を受けた。いろいろなボランティア団体の代表者らが、それぞれの団体の活動状況
とPRを熱心にされていたが、聞いていて視聴覚障害者へのボランティア活動に関心
を覚えて、手話、筆記通訳、録音、誘導などに絞っていた。
ご存知かと思いますが、・・・
 「手話」は、テレビをはじめ、公の講演会では手話通訳がつき、聴覚障害者とのコ
ミュニケーションを果たす重要な役割である。手話通訳がいない場合、手話通訳を補
助する役目の「筆記通訳」であろうか?演壇横の大型スクリーンに筆記者が発言の主
旨を要約筆述されるので、視覚障害者でも弱視の方々にも有効な手段である。
 「録音」は、視覚障害者にとって欠かせない重要な情報入手手段である。主に市の
広報誌、社会福祉協議会、各ボランティア・ブループのPRや要請事項などをテープ、
またはCDに録音し、登録されている障害者へ届けられる情報である。上記JGBA神奈
川のメンバーには、ゴルフ・ルールの変更や解説、ゴルフ雑誌の記事が録音され、楽
しみにされている視覚障害ゴルファーが大勢おられる。
 「点字」は、日本語の場合、通常は点字板で打たれた横2×縦3の6つの点で表示
される。これら点字本のほか、点字は歩道、駅のプラット・ホーム、エレベーターな
ど公共施設にはすべて併記されているし、日常品でも缶ビールなどのアルコール飲料
にも「点字」で表示されているので、視覚障害者にとって重要な情報手段である。
点字本
点字本
視覚障害者の方々にも視力カテゴリー(いわゆる全盲か
ら弱視のグレード)、視力障害となった経緯などいろい
ろな方がおられる。生まれつき、あるいは、若いときに
目が不自由となられた人は点字を覚え、点字図書館など
で「点訳本」を借りて情報を得ていたが、テープ・CD
による時代から今や読みたい本をインターネットから本
の音声データを入手する読書サービス「サピエ」のサー
ビスも始まり、専用の音声変換器などで楽しめる時代と
聞く。
 一方、交通事故他、遺伝・糖尿病などで途中失明された皆さんは年齢にもよるが、
点字のマスターは困難とよく聞き、一般的なテープ、CDを主情報源とされている。
「誘導」は、視覚障害者の日常生活での外出時、安全に 視覚障害者の外出支援のボランティア      
視覚障害者の外出支援のボランティア      
目的地まで、また、帰路、ご自宅まで送迎するボランテ
ィアである。歩きながらの会話に加えて、歩道の僅かな
段差やスロープ、電車の乗降時には、車両とホームの高
低や、隙間なども的確に数字で伝えて、誘導中は街中や
商店街、建設中のビル、空の雲、垣根越しの花など、
相手に参考となる情報をすべて伝え、場合によっては、
店の展示品に触れたり、花の臭いを嗅いでもらったりと、
様々な行動を共にする。
 その他、「介護」支援、そして世間には高齢者の見守り、食事サービス、防災パト
ロール、小学校児童の通学支援など、地域を支える活動を組織は小さいが地道に活動
されておられることに頭が下がる思いである。
 ところで、私が所属する組織は、会員はここ5年間50名レベル。障害者への思いや
りや、女性の障害者が多いこともあり7割が女性である。さすがに外出時の誘導を行
うボランティアであるので最高齢でも80歳の前半が2名おられるが、平均年齢は60歳
の中間であろうか。しかし、女性パワーは強く、活動的であり、平成23年度は1,044件
の実施件数で神奈川県下でもトップクラスの外出援助実績をあげている。
視覚障害者へ朗読するボランティア      
視覚障害者へ朗読するボランティア      
高齢者を車椅子で外出支援するボランティア
高齢者を車椅子で外出支援するボランティア
老人ホームを訪問するボランティア
老人ホームを訪問するボランティア
 障害者の皆さんからの外出援助申込みは、ご自分たちの日程・時間で申し込んでこ
られるので、これらにすべて対応するには、どうしても会員数の確保と市内に万遍な
く在住される会員が必要である。しかし、家族や自分の都合を優先させることが活動
の前提であるので、すべて対応することは現実の問題として不可能であるが、99%
以上可能にするよう努力しているところである。
 そこで、我々の組織は市内の小・中学校を対象として福祉体験学習指導講座に積極
的に協力している。車椅子、点字講習などと一緒に、誘導とアイマスク体験を行う。
障害者への理解、いたわりの教育であろうか、さらに高齢者社会の日本の将来を見据
えた熱心な先生(学校)からの要請である。
 一時、福祉体験授業に力を入れ過ぎ、学力の低下が問題視された時代と異なるが、
現在も毎月、市内の学校から2、3件の要請がある。参加した学童数は1,381名にのぼ
る。我々の願いは、少子高齢化社会、将来、これらの児童が成人して、一人でも多く
福祉関係の仕事に就いていただければと願いながら活動を続けている。
 さて、ボランティア活動が抱える課題への妙案がある 児童の通学を守るボランティア
児童の通学を守るボランティア
のか・・・というと、残念ながら妙案はないというのが
結論である。
 しかし、将来期待できるヒントが、去る4月22日の讀
賣新聞社会面に掲載された。内容は「介護ボランティア
新展開」<世代間の換金もできる介護支援ボランティア
制度を導入する自治体が増加しているとの記事である。
 当初は、高齢者の介護予防とともに、ポイントを介護
保険料の一部に充ててもらうのが狙いであったが、若い世代を対象にポイント制を利
用して、将来の自分自身のために利用したり、現金に換金できる仕組みを実施してい
る新宿区などの例が紹介されていたが、まだ高齢者への介護活動などに限定されてい
る。
 将来、健常者の助けを必要とする障害者全般に拡大することにより、多くのボラン
ティア団体が抱えている「若い人が入会しない」問題が解消できるのではと期待して
いるところである。
 そういう私も、人様を安 高齢者の介護ボランティア
高齢者の介護ボランティア
清掃活動ボランティア
清掃活動ボランティア
全に誘導する活動に携わっ
ているため、体力・判断力
に自信が無くなったら潔く
引退を考えているが、地元、
茅ヶ崎市では、OB会会員
の早苗宏志氏が「小さな手」
の代表であり、市のボラン
ティア団体をまとめる「茅ヶ崎ボランティア連絡会」の会長として、さらに「神奈川
県ボランティア連絡会」の役員に選出され頑張っている関係で、入社同期でもあるの
でもう少し、私自身も頑張るつもりでいる。
 最後に、いろいろなボランティア活動をされ、地域の方々に喜ばれておられる多く
のOB会会員の皆様に敬意を表するとともに、ますますのご活躍を期待したいと思い
ます。
 
2012. 5. 1 お城の不思議             本部幹事:清水 国明
 
 “お城の不思議”  本部幹事 清水 国明
 
 今の職場に勤務してから地方都市への出張が多くなり 清水国明_本部幹事
清水国明_本部幹事
中途半端な時間が空くようになりました。この時間を利
用して観光をと思って、自由に時間調整ができるので近
くのお城見学に行くようになりました。皆様も馴染みの
場所ですが私なりに不思議だな、おもしろいなと感じた
ことをお知らせします。
 
 
1.井戸の不思議
 お城といえばまず国宝の姫路城です。城内に「お菊井戸」があります。あの怪談の
源です。戯曲化された「番町皿屋敷」は江戸の旗本青山播磨守主膳が女中のお菊を手
打ちにするという話で、落語にもあることから江戸の昔話だと思っている方も多いと
思いますが、実説は「播州皿屋敷」で、姫路城第9代城主小寺則職の家臣青山鉄山の
姫路城
姫路城
お菊井戸
お菊井戸
主家乗っ取りを防いだ忠臣
「お菊さん」の物語です。
でも、この類の話は全国に
あるそうで事の真実はわか
りません。
 
 
 
2.石垣の不思議
 次に、遠くから眺めて素晴らしいのが「石垣」でしょう。その石積みの美しさは日
本独自のもので、なだらかな曲線を描いてお濠の水中へ没する風景は美術品のような
建築物です。巨大な石が多く使われているのは、大阪城です。秀吉が莫大な費用と人
力を費やして集めさせたもので、修理用として放置されている大石にも担当した大名
の家紋が刻まれています。おもしろいのは、信州上田城で正面に大人の背丈以上の大
石が使われているのですが、これには種明かしがしてあります。奥行きの薄い、つま
り板状の石で裏面には小さな石が積まれていました。さすが知将と言われた真田昌幸
の案と思いましたが、さにあらず昌幸が築城した上田城は土塁であって石垣は無かっ
たそうです。徳川政権に対抗したため、取り壊され、寛永年間に仙石忠政が築城した
ものが残っているのだそうです。
 豪雨に見舞われるため、石垣の排水に一工夫を凝らしてあるのが山内家の「高知城」
です。降った雨水が一箇所に集まるように石の溝で誘導し、石樋を石垣から突き出し
て、排水するというものです。降雨が石垣に浸透し、崩れるのを防いでいます。現在
の傾斜地の排水方法を先取りしたアイデアです。修理をしながら400年を超えて維持さ
れています。このお城の天守閣も古く、内部の木造建築様式は必見です。欄間や大き
な板製のふすま等質素ながら重厚な内装です。ボランティアの皆さんが清掃、修理を
手がけて維持されているようです。もちろんガイドもしてくれます。
高知城
高知城
お千代像
お千代像
一豊騎馬像
一豊騎馬像
3.騎馬像の不思議
城内には、天守を見守るように賢妻のお千代さんの石像があります。一方、一豊の
方は城外へ出されていますが「騎馬像」としては槍を抱えた日本最大クラスの立派な
ものです。そう言えば、伊達政宗公の騎馬像も青葉城跡の外にありますし、楠 正成公
も外苑で皇居を護っています。くだらないことに気がついたのですが、一豊公、伊達
公の騎馬像では馬は前脚を少し持ち上げ普通に歩きだしそうな雰囲気を出しています
が、楠正成公のそれは、後ろに重心がかかりいまにも飛 ピョートル大帝騎馬像
ピョートル大帝騎馬像
び出しそうな勢いがあります。左前脚の上げ方も少し高
くなっています。この違いには歴史的な背景があるので
はと勘ぐっていますがどうですか。ついでの話で、飛躍
しますがロシアのサンクトペテルベルグにあるピョート
ル大帝の騎馬像は実に勇ましく前脚を高く上げ、後ろの
右脚も上げて左後脚一本で立っています。「地震がない
からね。」とガイドさんが威張っていました。
4.お濠の不思議
 最後に、「お濠」の話をします。普通のお濠は青緑色をしていたり、蓮に覆われた
りして白鳥や鴨が遊んでいる風景ですが、四国の今治城や高松城のお濠は一風変わっ
た風景となっています。お濠の水が海水なのです。しかも潮の干満によって適度に入
れ替わり浄化されますので、透明度もあります。もちろん目をこらせば小さな海藻も
見みえます。高松城(玉藻公園)では魚もいます。鯉ではありません。立派な真鯛です。
餌のせいもありますが赤くはならないのだそうです。水深が浅くて日焼けをするため
とか。平和な時代のお濠にぴったりです。手をたたいても寄ってはきません。
 とりとめのない話になってしまいましたが、皆さんもガイドブックに載っていない
珍説、怪説をご存じないでしょうか。是非お便りコーナーでご紹介ください。
 
2012. 4. 1 子孫に美田を残そう          本部幹事:津田 昭治
 
“子孫に美田を残そう” 本部幹事 津田 昭治
 
 この日のためにとっておいたような青空、秋の日差し、 津田_会計
津田_会計
まだ緑が十分残っている谷戸にファンファーレが鳴り響
き、次代を背負う子供たちの開会宣言、乾杯の音頭。
 サア〜!、収穫祭の始まりです。ここは国道246号線、
名古木(ナガヌキ:秦野市)交差点から800メートル山側
に入ったところにある里山です。
 この里山には「丹沢ドン会」が管理をしている棚田が
大小24枚あって、竹藪もある雑木林、さらに野菜畑、そ
して今ここにいるのは、それらと三方を丹沢の麓の小高い山に囲まれたちょっとした
広場です。
 老若男女の人々のざわめきの間からは、ボリビア風焼肉、焼き鳥、干物、豚汁、こ
の棚田で採れた新米の炊く香りが競うように立ち昇る。さらには、参加者の皆が持ち
寄る手創りの自慢料理があって、これまた箸が迷う。お祭りにつきもののお酒も、皆
ファンファーレで収穫祭開始
ファンファーレで収穫祭開始
皆、輪になって収穫祭を祝う
皆、輪になって収穫祭を祝う
の持寄りで余ってしまうく
らい。宴たけなわになると、
肉を焼いていた会員やファ
ンファーレを吹いた会員が、
広場の小高い場所に立ち、
南米音楽「フォルクローレ」
を演奏する。と、そこに人
の輪、人の輪ができれば音
楽に合わせての踊りが始まる。1曲、2曲とその輪がだんだん大きくなり、ついには、
アルコールの入った人たちからアンコール(下手なダジャレ)の声も出て、祭りは盛
り上がる。時計の針がドンドン進み、実行委員の方々のいつ終わるのかといった顔つ
きで、ひやひやしている様子も窺えます。
 お祭りの締めは、当会のテーマソング「たんぼの中のなかまたち」を全員で合唱し
て、今年の収穫を感謝し、来年の豊作を祈願しました。
2.「丹沢ドン会」って何?
 ドンとは「Do for Nature(自然のためにできること)」からとり、「伝統風景の保
全」「風土が育んだ文化、伝統、芸術の保全」等の事業を、山麓に暮らす人たちとと
もに行うことを目的に設立されました。
 20年前に7人の人たちが、まず、丹沢の自然を守るシンポジウムを開催し、その後、
会員を増やす中、登山道の補修、小麦、そば作り、などと手を広げていきました。
 12年前には荒地となっていた棚田を開墾し、水路を整備し、里山作りをし、米作り
を開始しました。またさらに、里山の保全を行いつつ、各種野菜栽培、落花生栽培、
そばの栽培からそば打ちまでも年間の行事に取り入れ、手広く活動を広げると同時に、
今年からは隣接する休耕地の開墾まで手掛けることになっています。
 米作りを始めたころに、都市住民も農業体験ができるようにと、NPO法人「自然
塾丹沢ドン会」を立ち上げ、現在、100家族以上の会員が地元や神奈川県内の他、東京、
埼玉、千葉から参加しています。
 私も以前から環境問題に関心を持っていて、丹沢あたりで森を守る会にでも参加し
ようと思っていた一昨年、新聞でこの自然塾の募集記事を見てすぐ応募し、参加しま
した。1年間の自然塾参加後の昨年からドン会のメンバーとなり、諸先輩の活躍して
いる横で足手まといとなっています。
 3.「ドン会」の米作り
 この会は、苗代つくり、田植え、草取り、稲刈りから脱穀までを、トラクター、田
皆揃って田植え作業
皆揃って田植え作業
鎌を使って稲刈り、稲架掛け
鎌を使って稲刈り、稲架掛け
足踏み式脱穀機が活躍
足踏み式脱穀機が活躍
植え機、コンバイン等機械を使わず、ほとんどを手作業で行います。また、肥料も農
薬も全く使わない「不耕起栽培」で、最近話題となっている生物多様性を保ち、自然
の力を生かした農法で米作りを行っています。
 昔ながらの道具使っての手作業なので、農業体験のない私には足腰に負担がかかり、
農作業は決して楽な作業でないことが良くわかりました。反対に、昔ながらの脱穀機
や稲架掛け(はざがけ)を見て、子供のころ農家で見ていた当時を偲んで楽しい経験
もしています。
 里山に立つと、何か昔懐かしい思いがします。多分この感情は、子供のころ、似た
ような景色に触れていたからか、もっとそれ以前に、私の先祖達が生きるための食の
確保、その食を確保できる里山や自然環境に感謝してきた感情、感覚を、遺伝子の中
に組み込んだのか、いずれにしろ日本人に生まれた私に 里山で遊ぶ子ら
里山で遊ぶ子ら
とって、この里山の景色が自分の心の原点のように感じ
られます。
 その里山や田んぼには、同じようなDNAを持った人
たちが集まって、米作りに協働して励む訳ですから、一
人一人が明るく、私みたいに適当に参加する人にでも、
笑顔で迎えてくれます。 
 また、役割など決めないで皆が自主的に作業を始める。
だから、私みたいに出席が気まぐれでも、ほかの人たちは何も責めず、黙々と自分の
やりたい作業を進めている。一定の秩序の中に、自主性が認められているといった雰
囲気で、何とも居心地の良い会です。
 そればかりではない、会に参加すると、時にもよりますが、取れたての筍や野菜が
お土産について、奥様孝行もできる。こんな結構なことはない。
 4.“子孫の為に美田を残そう”
 昔ながらの自然農法での米作りは、労働集約的作業がほとんどで、一人一人の労働
にはきついものがありますし、併せて田植えや稲刈りには、最適時季に作業が終わら
ねばならないこともあるので、そこにはどうしても地域での共同作業が必要であった
と思われます。ここに、必然的に地域の人たちの相互扶助、すなわち「結」が生まれ
てきたようです。
 そして、自然災害を避けて五穀豊穣を神に祈り、豊作に感謝する“祭り”には、収
穫物が神前に供えられ、歌や踊りが神に奉納されるといった行事も地域全体で執り行
われていき、これら神事が日本古典文化の原点であるように思えます。
 また、この「結」の精神が、東日本大震災後に地域だけでなく、日本国中の人たち
の心に蘇って、「絆」という言葉にあらわされる助け合いになったものだと、私は思
っています。これらに見られるように、自然農法とそれを可能とする里山は日本人の
心の原点となり、日本文化の原点となっていると、私は確信しています。
 さて、「子孫の為に美田を買わず(残さず)」とは、西郷隆盛家の家訓と言われて
います。美田を残すと、子孫の自立心を失わせるといった弊害が生じるとの配慮から、
家訓にしたとのこと。
 戦後の日本は産業構造が変わり、産業も一次産業から二次産業、三次産業へと移り、
それとともに農業労働人口も移って、農村には過疎化、高齢化も進んだ結果、昔から
の農地も、「結」文化も、自然環境も失われつつあります。
 世界的に見ても、文化、農業、緑を守らない文明は何時かは滅びると言われていま
すし、このまま何も手を打たないでおくと、日本文化のみならず、日本の国が無くな
ってしまうのではないかと危惧します。
 日本人が東日本大震災の時に見せた、助け合いの精神で生まれた「絆」、あるいは
「結」を「横の絆」とすれば、これまで持っていた日本人の文化、遺伝子を次世代へ
引き継ぐことを「縦の絆」と考え、微力ながら里山保全に努め、子孫に美田を残した
いと考えています。
 
2012. 3. 1 超短期留学サポート顛末記       本部幹事:関根 眞
 
超短期留学サポート顛末記 本部幹事 関根 眞
 
 我が家には、3月4日で24歳になる娘がいます。 関根_本部幹事
関根_本部幹事
 昨年、3月大学を無事卒業しましたが、本人は、留学
を希望し、いわゆる就活はしませんでした。
 文学部でフランス文学を専攻し、フランス語会話学校
も通って、フランス語検定2級までとり、甘えでもあり
ますが、1〜2年留学するか、大学院に進学するか、更
に磨きをかけることで、就活をしなかったと、言うわけ
です。 ところが、親の会社の引き継ぎ案も浮上し、い
ろいろ悩んだあげく、留学も大学院進学のどちらも頓挫してしまいました。
 さんざん悩んだ末、親の会社の引き継ぎを前提に、大学卒を必要条件とする国家資
格取得のため、本人も望んで2年間、医療看護系の専門学校に通うことが決まりまし
た。 それでも一昨年、ワイフと南仏ニースからパリまで、観光し、現地の人と会話 
を楽しんだことで、どうしてもフランス留学の夢は捨てきれず、何と極寒期の1月22
日から2月11日まで、3週間の超短期留学(フランスの会話学校)に行くことになり
ました。
ソルボンヌ大学
ソルボンヌ大学
 前置きが長くなりましたが、本編はこの「超短期留学」
の「親ばか」サポート顛末記です。
 長男もおりますが、父親たる者、どうしても娘には甘
くなり、とても自立してるとは思えない娘が留学なんぞ
できるかと、心配も含めて大学在学中から、思っていま
した。 ところが、いざ超短期留学を認めると、実に簡
単に手続きをしてしまうのです。
 留学に関しては業者が沢山ありますが、面倒見の良さ
そうな日仏文化協会を選び、フランスの会話学校の選択、関連する寄宿舎、往復のフ
ライト予約と、あれよあれよと、娘自身で簡単に済ませてしまいました。
 普段気にしていませんが、パリの緯度はと、地球儀を回したら、なんと北海道より
北の樺太の緯度では、ありませんか。
 一昨年の夏の観光旅行で、割と涼しかったと言いつつ、こんな冬のまっただ中、寒
いから途中棄権で、帰国したいと根を上げるのではないかと思っていました。
 娘には、これまたしっかりした同窓の友達がいて、な ビッグベン
ビッグベン
んとその友達もイギリスのバーミンガム留学中なのです。
 その友達の話を娘から聞きますと、スイスの高校を卒
業し、大学在学中には、東南アジアの振興開発国をいく
つもボランティア活動し、現在は引退されていますが、
緒方貞子さんの様に、将来国連で働きたいような感じで
す。 その友達に会うため、パリからロンドンに渡る、
と言うのです。   ロンドンと言ったら、さらに緯度 
が樺太の北部ではありませんか。 ここでまた驚きです。 フランス出発前、日本に
居ながら、これまた簡単にユーロスターの予約、往復切符の入手、旅行会社 Expedia
を利用してホテル Hilton London Euston の2泊予約と宿泊代の支払が、すべてイン
ターネットとカード決済で可能なんです。 ユーロスターの往復切符や、ホテルの宿
泊代支払い済みのチケットと言っても、自宅のモノクロプリンタで印字したものです。
 あまりにも簡単に予約が取れるので、またまたあっけに取られてしまいました。
 そう言えば、エールフランスの予約票も旅行社からカラープリンタで印刷した代物
でした。  これを持って成田で搭乗券に交換と言うわけです。
 さてパリに着きました。 ユーロスター
ユーロスター
パリ北駅
パリ北駅
 早速、お気に入りのブラ
ンドバックを購入しようと
したら、カードが使えない
と、スマホ電話がかかって
きました。
 フランス出発前にユーロ
スターの支払と、ホテルの
支払で、カードの支払限度額に近づき、日頃使い慣れないカードが使えないことが解
りました。 家族では支払限度額を増やせない旨伝え、フランス滞在中のカード名義
人である娘から日本のカード会社に電話させ、最初の関門を通過しました。
 携帯電話、これも現代の必須のサポートアイテムです。
 パリから離れた会話学校兼寄宿舎のある Glaci?re でも8時間の時差がありますが、
国内同士の通話と同じくらいに連絡は取れました。
オランジュリー美術館
オランジュリー美術館
 サポートが途切れたのは、ユーロスターに乗って、ド
ーバー海峡トンネルを渡り、St. Pancras International
に到着してからです。
 勿論、娘は携帯電話の接続業者を変更しなければなら
ないことは知っていましたが、割と電波が不安定で、接
ながらなかった様です。
 この時は、直接ホテルに国際電話、ホテルのフロント
も下手な英会話に親切に答えてくれて、難なく娘と親ば
かの安否確認し、ほっとしました。
 大好きなルーブル、オルセー、オランジュリー美術館 シャーロック・ホームズ博物館
シャーロック・ホームズ博物館
やシャーロック・ホームズ博物館など、あちこち充分楽
しんで無事帰国しましたが、本来のお土産の他、極寒対
策の洗濯物のお土産処理に2〜3日かかったのは閉口で
した。
 我々が、娘の歳位だった頃、安い費用で世界を股にか
ける若者はいましたが、現代では携帯電話や、インター
ネットで、いかに簡単に海外旅行出来るか、今の若い人
は、大変良い時代(悪い時代?)に育って、羨ましい限りです。
 筆者は、フランスましてやイギリスを訪れたことは有りませんが、インターネット、
BS放送、新聞、雑誌など、各種マスメディアで美術館やその土地の情報を多少知っ
ているので、娘の居場所や、移動経路を調べ、影でサポートすることで、あたかも自
分が旅行をしているかごとく、バーチャルな気分を味わえました。
 その意味で本編は旅行記では、ありません。 念のため。
凱旋門
凱旋門
エッフェル塔
エッフェル塔
ムーランルージュ
ムーランルージュ
 
2012. 2. 1 新旧が融合した秋葉原         本部幹事:木戸 雅史
 
   新旧が融合した秋葉原 本部幹事 木戸 雅史
 
 秋葉原に勤務するようになって既に4年が経過した。 木戸_本部幹事
木戸_本部幹事
当初は1〜2年勤務してイヤになったら辞めればよいと
気軽な気持ちでスタートした。仕事内容が、出願された
特許の各種調査であり、東京計器時代に様々な開発に携
わったお陰で、毎回異なる技術内容に接して、経験した
内容とそれなりの共通性があり、変化もあり、また面白
くもあるので現在も続いている。しかし、今の特許は電
子出願で、特許公報を見るために1日中パソコンに向か
っているので、運動不足極まりない。老化は脚から来るのでこれはイカンと思い、半
年経過した2008年3月に一念発起して、横浜から東京へ向かう朝の東海道線で、ひと
駅手前の新橋駅で下車し、東京駅までの銀座通りを約2km歩くことにした。
朝の銀座並木通り
朝の銀座並木通り
 外堀通り、並木通り、中央通りなどをその日の気分で
選択し、一日一万歩を目指したが、社内での移動時はカ
ウントに含めないので、これでは三千歩足らない。その
不足分は昼休み時間に、勤務地である秋葉原付近を30分
以上歩くことにより、ようやく解消されることになった。
この歩きは4年余経った今でも続けており、間もなく結
願を迎える四国八十八箇所歩き遍路の礎えとなった。
 この散歩を3ヶ月程続けた2008年6月に、例の秋葉原
無差別殺傷事件が発生した。その直後の街の雰囲気はピリピリしており、オタクの街
とはとても言えない特異な様相を呈していた。事件現場の中央通りあたりは警察官が
多く、大きな献花台には線香の煙と花が絶えず、時折関係者と思われる弔問者が両手
を合わせていた。 中央通り
中央通り
 そんな中で、ヤジ馬報道カメラマンが出没し、「知る
権利」というお題目の元で傍若無人な撮影とインタビュ
ーを続け、マスコミの取材姿勢に改めて疑問を抱かせる
ことになった。私自身もマイクを向けられたが、冗談じ
ゃないマスコミはスカンと断った。それでも事件から1
ケ月程で街は日常を取り戻し、オタクの街が戻ってきた。
丁度この頃から、昼休みの散歩も飽きがきて、ただ単な
る運動不足解消ではなく、秋葉原近辺をいろいろと歩いてみよう、ということにした。
 余談であるが、2ヶ月程前のNHK番組の「ぶらタモリ」で秋葉原の紹介があっが、
中央通り沿いの歩道の下に、いまでは使われていない地下鉄銀座線の「万世橋駅」が
ひっそりと佇んでいた。道路の上は喧噪、同じ道路の下には昭和初期の静寂。誠に対
照的な取り合わせと思い、旧万世橋駅の真上にある地上の換気口の写真を撮ってみた
が、何の変哲もなく面白く 旧万世橋駅上の換気口
旧万世橋駅上の換気口
JRの電気街口改札
JRの電気街口改札
もない。
 50年程前の秋葉原は家電
の街であった。そのためJ
Rの改札口は中央通りにつ
ながる方面には「電気街口」
の名前が現存している。今
でも家電製品の量販店は数
多く軒を連ねているものの、広い店内の平日はガランとして客入りは今ひとつのよう
である。一般家電製品は最寄りの家電量販店に行けばいくらでも現物を見ることがで
き、モノによっては秋葉原よりも安く、秋葉原に出掛ける意味合いが薄れてしまった
からであろう。またインターネットショッピングが普及していることもあり、家電の
秋葉原は発信力が弱まってしまったようだ。
 30年程前はパソコンが闊歩していたように記憶している。パソコンの言葉がまだな
い、ワンボードコンピュータがその走りであったかもしれない。この当時に電気街を
電気街の部品店
電気街の部品店
歩いていると、「マイコンあるよ」と声をかけられる程、
パソコンの黎明期だった。私自身も東芝製のワンボード
コンピュータを購入し、7セグメントの表示器だけが頼
りで、マシン語によるプログラムを作成し1+1がなか
なか2にならず、試行錯誤したものであった。その当時、
安いメモリやLSIを探して電気街の部品店をウロツキ
ながら、珍しいモノを見つけることも楽しみのひとつで
あった。メモリはこの店が安い、通信LSIはむこう、
汎用ICはこっち、と自分なりに価格マップを作成し、同じ店の同じ品物は、前回訪
問時より安くなっていることを見るに付け、半導体技術の進歩の早さを知ることにな
った。
 あれから約30年が経過した現在の秋葉原。50年前の家 路上の電気小物類
路上の電気小物類
電の街、30年前のパソコンの街の規模は縮小されたもの
の今なお健在。そのひとつの秋月電子や千石電商はいま
でも電子マニアで賑わっている。これら電気部品店の入
り口をふさぐように、店前の路上に置かれたジャンク品
や、一見中国製と思われる電気小物類などを、老いも若
きも見入っている。この風景は今も昔も変わらず、なご
やかで、ホッとするものがある。
 これらに取って代わって台頭してきたモノは、「フィギュア」と称するオモチャの
人形である。このオモチャを10代、20代の若者達が、眼を皿のようにして探し、見つ
めている。マンガを読まない私にとっては、誠に奇妙で、理解し難い光景に写る。フ
ィギュア販売店はかつての電子部品店が鞍替えしているところが多い。並べていた品
フィギュア販売店
フィギュア販売店
秋葉原メイド
秋葉原メイド
物が電子部品であったので、
店員は電子回路に明るく、
客の要望・疑問に即座に答
えられる技術オタクであっ
たが、フィギュア販売店員
のカラーは全く変わってし
まった。その若者達をター
ゲットにした「メイドカフ
ェ」が林立し、メイドの格好をした中高生とおぼしきメイド嬢があちこちで呼びかけ
ている。時折、メイド嬢に連れられた若者が電気部品街を笑顔で話しながら歩く様は、
かつての電子マニアが歩いた光景とは隔世の感がある。 韓国・中国の広告
韓国・中国の広告
 東日本大震災後の約半年間は、行き交う人々の中から
中国語が消えたが、今では震災以前と同じく、街に中国
語が戻ってきた。中央通り沿いの大型店のいくつかは、
韓国・中国からの客を呼び寄せる広告・垂れ幕を掲げて
いる様相も、今の秋葉原を特徴付けている。道行く人々
だけでなく雑貨・電気小物類は中国製が多い。これが極
めて安いが、すぐ壊れるモノが多い。LEDライト、M
PプレーヤーやPC用ファンなどを買ってはみたものの、1年経った今ではいずれも
故障して廃却処分。日本製の優秀さを改めて思う。
 現役時代は常に変化を目指し、古きの中に安住しないように心していたが、今では
我が青春・青年時代の古きモノが懐かしくもあり、大切に残したいと思うようになっ
てきた。朝の散歩道の銀座通りに古き良きモノを見つけることは至難のワザであり、
ラジオストアの昭和広告
ラジオストアの昭和広告
地震直後の私の机廻り
地震直後の私の机廻り
殆ど全てが無機質なコンク
リートで固められている。
それに比べれば秋葉原には
まだまだ昔が残っている。
万世橋や総武線のガード下
のラジオストアは昔のまま
のたたずまいで、徒歩15分
ほどの神田明神は1300年の
歴史を有し、ニコライ堂は明治を残している(これらの各地は昨年12月に森田啓二郎
さんのHPで紹介されていた)。勤務しているビルに至っては昭和42年竣工の44年も
の永きを耐え抜いてきた代物である。そのために先の東 新装なったJR秋葉原駅
新装なったJR秋葉原駅
日本大震災の時は船酔いするほどによく揺れたものであ
るが・・・・・・?
 このような秋葉原は、古きモノと新しきモノが渾然一
体となって今の街を形作っている良き街である。古いモ
ノに必ずしも愛着があるわけではないが、かつての大量
生産大量消費を言い表す「水道哲学」が闊歩するような
時代に決別し、古きを大切に残しつつも新しいモノとの
融合を図りながら、古くなってきた自分自身に活力を与えていきたいものである。
 
2012. 1. 1 新年のご挨拶               会長:八木 宏
 
   新年のご挨拶 OB会 会長 八木 宏  

“あけましておめでとうございます”
会員の皆様ご家族で良いお年をお迎えになられたこととお喜び申し上げます。
 
 昨年は3月11日の東日本大震災があり、復興に向けての努力がなされてはいるもの
の政治的な混乱もあり依然として安心できる状況にはなっていません。
 世界的にもギリシア、イタリアの財政不安やタイの洪水による生産の停滞などから
景気低迷が続いています。国の借金総額が1,000兆円に達しようという状況にもかか
わらず円高が続くのも困ったことです。
 賛否両論のTPPでは、日本の将来を見据えたしっかりした交渉をしてほしいもの
です。
 東京計器鰍ヘ震災の影響を最小限にとどめることができたのは幸いでした。そして、
厳しい経済情勢の中で売上高は微増にとどまるものの、コストダウンの推進や経費の
削減で営業利益、経常利益、純利益が大幅に好転する業績予想修正を発表されました。
 全社一丸となって懸命に努力された結果に敬意を表します。今後は取り組んでおら
れる成長戦略が実を結ぶことを期待します。
 さて、我がOB会は昨春に一泊バス旅行を企画していましたが、東日本大震災の影
響で中止といたしました。そのほかの総会、支部総会、会報の発行、ホームページの
運営などは順調に行うことができました。また東日本大震災に際しては被災地への義
援金を拠出いたしました。
 今年度から二人の若手幹事が加わり、幹事一同新たな気持ちで会の運営に取り組み
ますので、皆様のご支援をお願いいたします。

 さて、今年は辰年。おそれながら私の当たり年でもあ
ります。辰の字は「振るう、ととのう」の意味で、草木
が整い伸長する状態を表しているそうです。昇竜を望む
とまでは申しません。
 昨年までのさまざまな困難な状態から脱却して、国内
的にも世界的にも安定した成長に向かってほしいもので
す。
 
 皆様のご健勝と東京計器鰍フますますの発展を祈念し、新年のご挨拶といたします。