『トップページ履歴』2011年1月〜2011年12月
 
          トップページ 履 歴 一 覧
2011.12. 1 デジカメ四方山話           本部幹事:三浦 弘幸
2011.11. 1 土地を手放しちゃった話        本部幹事:相川 城年
2011.10. 1 佐野支部 現状            佐野支部長:辻 隆太
2011. 9. 1 野菜づくり             矢板支部長:服部 勉
2011. 8. 1 新米幹事で〜す! よろしく!    那須支部長:池田 知之
2011. 7. 1 わたしの読書              副会長:佐藤 雅寿
2011. 6. 1 サンデー毎日に誇りを         本部幹事:小林 忍
2011. 5. 1 東日本大震災に思う          本部幹事:野村 一信
2011. 4. 1 東日本大震災で被災された皆様に・・・ 本部幹事:大谷 仁三
2011. 3. 1 14年間のボランティア活動を終えて   本部会計:青木 聳
2011. 2. 1 OB会創立35周年を迎えての雑感   事務局長:小田 茂
2011. 1. 1 新年のご挨拶               会長:八木 宏
 
      『 ト ッ プ ペ ー ジ  履 歴 』
2011.12. 1 デジカメ四方山話           本部幹事:三浦 弘幸
 
  デジカメ四方山話 本部幹事 三浦 弘幸
 
 私の父はカメラが好きで、いろいろなカメラを買って 三浦本部幹事
三浦本部幹事
は写真を楽しんでいた。勿論フィルムカメラの時代であ
る。部屋を真っ暗にして、写真の焼き増しや引き伸ばし
の手伝いをしたのを覚えている。私は中学生の頃にカメ
ラを買ってもらった。今考えればおもちゃのようなカメ
ラであるが、小西六の「コニレット」という小型のカメ
ラである。
 露出とシャッタースピードを自分の勘で決め、メカ式
小西六の「コニレットー500」
小西六の「コニレットー500」
のシャッターを指でセットし、シャッターを押す。まだ
フィルムは自動巻きではなかったので、カメラの上部に
あるフィルム巻取用のダイヤルを回す。ちょうどフィル
ム一枚分が巻けたころにメカが作動し、巻取が終了する。
これを忘れてもシャッターをセットすると前の写真の上
に二度写しをしてしまう。私はそんなころから見よう見
まねでカメラをいじっていたので、写真には何となく興
味があるが、趣味というところまでは凝っていない。
 フィルムカメラもその後どんどん改良され、電池が内蔵され、シャッターを押すと
自動的にフィルム一枚分が巻き取られ、フィルム一巻が無くなると、フィルムを自動
的に巻き戻してくれるカメラが出てきた。また「写るんですよ」の宣伝文句で、イン
スタントカメラがブームとなったのも、そんなに昔ではない。しかし、メモリー素子
の小型化が進み、イメージセンサーの小型化が進み、デジカメは今やフィルムカメラ
とインスタントカメラとすべての能力を持ってしまった。デジカメのブームはものす
ごい勢いで到来し、フィルム式カメラを過去の遺産としてしまい、携帯にカメラ機能
が付いたことにより、インスタントカメラの市場は無く コンパクトデジカメ
コンパクトデジカメ
なってしまった。
 デジカメで撮った写真をパソコンで、確認し、不必要
なものは消去すればいいのであるから、写す方からすれ
ば、ノーコストで写真を楽しめる時代になってきた。携
帯電話のカメラは別にして、デジカメは大別すると「コ
ンパクトデジカメ」と「一眼レフ」に大別できる。私も
含めて、ほとんどの人は綺麗なもの、珍しいものにレン
ズを向けてシャッターを押す、いわゆる記念写真型の人が多いと思う。その場合カメ
ラはコンパクトデジカメで十分その役目を果たせるのではないだろうか。
一眼レフカメラ
一眼レフカメラ
 かつては写真のプロを「写真家」と言ったようにフィ
ルムカメラの時代はカメラの機能が未だ高くはなかった
が故に、写真は一部専門家によって、芸術的な写真の分
野は占められていたように思う。しかし、前述したよう
にカメラの能力が大幅にアップし、アナログからデジタ
ルの世界になり、機能も格段に増強された。
 芸術的な写真を撮る素人写真家が増えてきて、記念写
真から芸術的(言い換えれば個性的)写真を楽しむ愛好家
が増えてきている。 神田明神祭り
神田明神祭り
 芸術的写真とは何か?私もなかなか正しく表現はでき
ないが、それは同じ被写体をとるのでも、そこに自分な
りの表現をすることではないかと思う。例えば、水面に
反射するスカイツリーの写真が素晴らしいといって、そ
こでみんなが同じ写真を撮ってもそれは個性が無いただ
の珍しい写真なのである。
 同じ町内に著名な素人写真家がいる。この人は定年退
職をしてから写真に興味を持ち富士フィルムが主宰する権威のある会に入り、今やそ
の会を代表する素人写真家になっている。その人の言葉をいくつか紹介しよう。
木道の写真
木道の写真
 @写真を撮る時は何が主役か決める事
 A誰が何時写しても同じ被写体は記念写真でしかない。
 B写真には光と影が大切である。
 C濡れた木道で出来る光の反射が深みを作る。
 D青空を写す時は、ぽっかり雲が必要。
 たまたま行って写した写真は偶然の産物である。良い
写真を撮るには良い写真の条件が整うまで待たなければ
写せない。「木道は濡れていなければならない」と言う
と、「でも濡れていなかったのです」や「空にはぽっかり雲が必要」と言うと、「ぽ
っかり雲が無かったのです」と言うのは何の言い訳にもならない、「そういう写真を
撮ってはいけないということです」と、その素人写真家はことあるごとに言っている。
 矢板の太田さんが「平成23年度栃木県芸術祭美術写真 巻雲(鉤状雲)
巻雲(鉤状雲)
部門」で奨励賞を受賞されたことが、ホームページで紹
介されているが、その中で太田さんは「撮影の狙いは、
しめ縄の巨大さと迫力を表現し、人物との対比構造を描
きたいと考え、三日間通い、参詣の人物が現れたのが最
終日でした」といみじくも述べている。正にこれが個性
的な写真を撮る真髄ではないだろうか。太田さんは同じ
説明の中で、「標準レンズでは入らず、魚眼レンズの弱
シャッタースピードの遅い写真
シャッタースピードの遅い写真
で撮りました」と書いている。これができるのが「一眼
レフ」カメラなのである。結論的に云うと、個性的な芸
術的な写真を撮るためには、「一眼レフ」カメラが必要
であり、用途に応じたレンズを揃えたいものである。
 太田さんの説明で、もう一つ印象に残ったのは「床に
仰向けに寝そべって撮りました」のくだりである。この
太田さんの格好を客観的に想像すると、出雲大社(茨城県
笠間市)の神殿のすぐ前の巨大しめ縄の下に太田さんがカ
メラを構えて、仰向けに寝そべっているのである。みんな奇妙に考えて、参詣に来な
かったのかもしれない。冗談はともかくとして、芸術的、個性的写真は偶然の産物で
はないということの証明であろう。
 シャッタースピードと絞りの関係も面白い。一般的に シャッタースピードの速い写真
シャッタースピードの速い写真
絞りを開放すると焦点深度が浅くなり、遠近感のある(ピ
ントが一部の距離に合い、その他の距離の画像はぼける)
写真が撮れる。絞りを絞ると焦点深度が深くなり、全て
の距離にピントが合ってくる。この時、もう一つ考えな
ければならないことは絞りを開放すればシャッタースピ
ードを上げなければならない。また、絞りを絞ればシャ
ッタースピードは遅くしなければならないということで
ある。この組み合わせの妙で、同じ被写体でも写り方が違ってくるのである。今では
オートモードにしても良い写真が撮れるが、シャッタースピードと絞りを変えながら、
撮る写真こそ醍醐味ではないだろうか。
 何事も言うは易く、行うは難しであるが、何となくいい写真かなと思う写真を以下
に紹介します。皆様のご感想はいかがでしょうか。
作品1
作品1
作品2
作品2
作品3
作品3
 
2011.11. 1 土地を手放しちゃった話        本部幹事:相川 城年
 
  土地を手放しちゃった話 本部幹事 相川 城年
 
      〜“痔主”からの解放〜        
 本年2月に痔の手術をすることとなったが、この手の 相川_本部幹事
相川_本部幹事
話はチョット恥ずかしいので、「土地を手放しちゃった
よ!」と話している。
 ある時、何をしても肛門の中に引っ込まないため、会
社の昼休みに自転車で京急蒲田のサウナの風呂に飛び込
んだ思いがあるが、この時が痔主になった時で、確か30
歳前後であったような気がする。
 それ以来、立派な痔主になった訳であるが、立食パー
ティーやゴルフでは肛門からはみ出してきて、その都度押し込んでいた(お尻に手
をやって引っ込めていた)。
 ゴルフでは夏はまだしも、冬場はなかなか引っ込まないので、簡単に引っ込ますた
め滑りを良くするのが「いいかな」と軟膏を塗ったりしたが、確かに引っ込みやすい
が同時に滑りが良く出やすくもなっていた(馬鹿みたいな話)。
 結局のところ、約30数年痔主を続け、色々な苦労をしたが、「もういいや」と諦め
ていた。
 退職してから、一日7時間立ちっぱなしのバイトを始めたが、ますます症状が頻繁
に出だし、一日3〜4回もトイレに行き、トイレの温水で温めて引っ込ますことが続
いていた。
 そんな時に通院していた医師に痔の治療をしてくれる「良い医者」をダメ元で聞い
てみた。自分としては横浜の有名な痔の専門病院は知っていたが、ここは行けば必ず
切られる(手術)と聞いていたので、そうではない形で治療できないかと思っていた。
しかし、その医者は、何と紹介状をその病院にファックスすると言う。紹介状をファ
ックスされたからには行かざるを得ないと思い、なにはともあれ診察に行くことにし
た。診察が始まるや否や、内痔核(いぼ痔)の第3期症状(これ以上だと脱肛になる)
で、即、手術が必要とのことで、その日の内に手術日を設定され、入院手続きまでさ
れてしまった。
 手術日の前日に入院したが、「ご入院中の治療の経過と看護」と言うパンフレット
を渡され、その説明を受けたが、そのパンフレットの内容のきめ細かさと入院から退
院までのスケジュールが記載されていたのには驚かされた。
 夕食後に翌日の手術のため、説明があったが、自分の手術時間は午前8時からとの
こと(手術が朝8時からとはなんと早いのかとビックリ)。ちなみに、この病院の平
成20年度の痔の手術実績(入院手術のみ)は何と6,093件とのこと。
(1日平均では17件、これではやはり痔の手術の量産工場とビックリ)
 手術の当日は朝6時起きで、浣腸や点滴を行い手術室 手術
手術
へ、ここで半身麻酔を行い、手術となった。手術は30分
程度で終わり、医師から3か所切除と3か所を縛ったと
聞かされた。縛るとは?と思っていると余分なところを
糸で縛り、壊死させるとのことであった。
 無事手術が終わったものの、麻酔が切れると若干は動
けるが、翌朝までは少しの水と夕方に出た、ゼリー程度
でじっと寝ているのみであった。
 手術後は日々排便との戦いで、入院時に購入した坐浴用フロートイレが離せない存
在で、この坐浴排便はお湯の中にお尻を入れるため、肛門が緩むため、ものすごく気
持ち良く排便が出来、入院中はこのフロートイレが何より一番お世話になったと思っ
ている。
坐浴
坐浴
 この病院は管内全てが禁煙で、その都度下足を用意し、
防寒着をはおり、外で喫煙をしていた。
 喫煙所が入院患者の情報交換場所であり、様々な痔主
だった方々からいろいろな話を伺ったが、自分が如何に
軽い症状であったかを感じた。
 入院中は痛み止めの薬の服用回数、排便の回数・量・
硬さ、水の飲用の量など、自分でつけていたが、排便の
重要性を思い知らされた思いであった。
 寒さと立ちっぱなしでもお尻の具合は何ともなく、手  退院
退院
術前であれば耐えられなかったと思うが、手術のお陰で
何ともなく、痔主からの解放感をしみじみ味わった次第
である。 
 30数年間もの間、痔主でいたが、今では酒を飲んでも
ゴルフをしてもお尻はスッキリで、何でもっと早く手術
をすればと、後悔もしたが、なにはともあれ痔主ではな
くなったことの解放感と喜びを感じている昨今である。
 
2011.10. 1 佐野支部 現状            佐野支部長:辻 隆太
 
  “ 佐 野 支 部 ”現 状 佐野支部長 辻 隆太
 
 佐野支部では、会員の親睦を大切に年に一度の集まり 辻_佐野支部長
辻_佐野支部長
を開いています。
 昨年は佐野駅近くの日本料理の「吾妻」で、19名が参
加のもと「佐野支部創立10周年の懇親会」をもちました。
 今年は若返り幹事さんによる、スポーツの秋に、軽い
運動を含めた懇親会をテーマに秋の行事を計画していま
す。具体的には、10月の終わりか11月の土曜・日曜日に
日光方面へ、前回とは別ルートでの一泊バス旅行を計画
しています。お天気が良ければ小田代散歩を、雨なら館内見学を検討しています。
第2案は、ボウリングを楽しんだ後に市内で懇親会の日帰りプランも検討しています。
 久しぶりに多くの会員の皆様に、元気でお会いできることを楽しみにしております。
 新しく仲間として、1月に油圧技術部の木原和幸さん、TPSから山根豊治さん、
3月に佐野製造部から小林廣道さん、7月に同じく佐野製造部の堀信行さんの4名を
迎え入れました。その結果、9月現在の佐野支部会員は37名となりました。
 佐野出身の会員が2割を超え、今後継続して増えることが期待されて、佐野支部は
ますます元気になってきました。
 同好会は目下、ゴルフ同好会が独走の形で、年に4回の大会を開き、2〜4組で活
動しております。各大会に備えて小グループで密かに特訓に励んでいる仲間もいると
か、ゴルフ大好き!人間の集まりです。
 3月11日、第18回の大会はゲームが終わって表彰式が始まった途端にあの大地震!
埼玉県から参加されたメンバーには、帰路電車が止まって大変な御苦労がありました。
想定外の地震で慌ててしまい、遠方から参加された方の事情までは行き届かなかった
ことは反省点でありました。なんとか全員無事に帰宅とのこと。ひと安心しました。
 足利CCでしばらく続いたので、今年の6月と9月は気分を変えて、サンモリッツ
CCで新ぺリア方式で、また、シニアー社員へのお誘い等、世話人の工夫が大会の楽
しさを大幅にUPさせてくれています。
 
  ちょっと一息 “奥日光自然歩道散策”
 今年は、春から自然の猛威との戦いでした。こんな時に、ひと時でもノーサイド、
自然と仲直りしてみたいと、ノンキなとーさんは、静かな野山へ、何も考えないで散
歩に出掛けました。
@赤沼から湯本へ
@赤沼から湯本へ
Aりんどう?
Aりんどう?
Bホザキシモツケ咲き残り
Bホザキシモツケ咲き残り
 @赤沼入口から少し行くと、クサモミジが始まっていて、この辺りはどこからか
  小鳥の声しか聞こえません。   A木道のわきには小さなリンドウ?
 B川沿いにホザキシモツケの花が咲き残っていて。
C木道に秋の気配
C木道に秋の気配
D秋の空
D秋の空
Eルートチェック
Eルートチェック
 Cマイペースで行く木道には、近づく秋の気配です。 D見上げれば天高く秋の空。
 E泉門池で給水の一休み、案内板でルートをチェック。
Fあざみの思い
Fあざみの思い
G湯滝
G湯滝
H満水の湯の湖
H満水の湯の湖
 F「アザミの唄」を唄いながら木漏れ日の木道をひたすら行くと、川の音が聞こえ
  てきました。 G滝の音だ!お―っ湯滝だ!しぶきがすごい。売店で一休み水量
  がすごく多いとのこと。  H滝の右側の歩道を九十九折れに上りきると、静か
  な湯の湖に出ました。湯の湖の由来を読んで。
I男体山と湯滝へ
I男体山と湯滝へ
J龍頭の滝へ
J龍頭の滝へ
K中禅寺湖へ
K中禅寺湖へ
 I湖の西側の散策路を、湯滝と反対側の北の端まで行き、木陰のベンチで、男体山
  をも見ながら、身も心も、大休止。この水は、さっき見た向こう側の湯滝から流
  れ落ち、湯川となり。 J龍頭の滝を下る K菖蒲が浜から中禅寺湖へ、そして
  華厳の滝へ行くという。流れに思いをのせて、自然の穏やかなることを祈った。
L根性その1
L根性その1
M根性その2
M根性その2
 L深まる秋を感じながら、
  途中で見た「自然の根
  性」
 M「環境を乗り越える逞
  しい生命力」を思い出
  し、しばし 茫然。
  深呼吸をして、さ!ま
  た元気を出して歩き出
しましょう。
  ♪♪ あんなこといいな 出来たらいいな
          みんな・みんな・みんな かなえてくれる ・・・♪♪ 
 
2011. 9. 1 野菜づくり             矢板支部長:服部 勉
 
  “ 野 菜 づ く り ” 矢板支部長 服部 勉
 
 昨年5月、たまたまNHKのテレビで、「野菜づくり」 服部_矢板支部長
服部_矢板支部長
という番組を見ました。小さな土地に苗を植え、立派な
野菜を収穫する手順が良く分かりました。
 私にとって「野菜づくり」は考えたことのない対象で
したので、その成果を見て今までいろいろ手掛けた「物
づくり」と違った新鮮なものに感じられました。そこで
我が家の狭い庭の中で東側の窓沿いに、畳2枚を縦に繋
いだようなスペースがありましたので、そこでチャレン
ジすることにしました。
チャレンジのナス・トマト・キュウリ
チャレンジのナス・トマト・キュウリ
 勉強を始めて分かったことは、
 1.野菜には「春野菜」と「秋冬野菜」がそれぞれ多
   種類あること。
 2.野菜づくりには「石灰」と「堆肥」と「肥料」が
   欠かせないこと。
 3.「連作」はダメであること。
 4.「物づくり」と違って自然との調和が必要である
   こと。
 しかし、勉強が不十分なままスタートしたこともあって、初回の野菜は出来が悪か
ったと思っております。 
 初回は、周囲の意見も入れて「インゲン豆」「ほうれ 連作に近かったが見事に実ったトマト
連作に近かったが見事に実ったトマト
ん草」「トマト」の3種類としましたが、「トマト」は
マア〜マア〜でしたが、他の2種は苗の選択ミスと、
「葉物」の難しさもあって不出来でした。
 そこで今年は、@石灰・堆肥・肥料をシッカリ混ぜ合わ
せる。A植え付けまで一週間土を放置する。B枠作りを
シッカリやる。C更に「連作」のことを考慮して「ナス」
「キュウリ」「トマト」の3種としました。
 「連作はダメ」ということは私は知らなかったのですが、同じ物、または同じ種類
(グループ)のものを連続して植えると、土地の一部の養分が片寄って不足し不作に
なりますので、1〜2年・間を置く必要があるということだそうです。
 今回「トマト」は「連作」に該当たるのですが、土地の繋ぎ目が排水の溝で切れて
いましたので、昨年の実績も考えて場所を替えて敢えてチャレンジしました。
 あとは、苗選び・支柱たて・植え付け・定期的な堆肥やり・わき芽欠き・そして毎
日のみずやり、と続いて収穫につながります。水やりをサボルと、葉がダラリと下が
る「ナス」の姿を見ると、生物としての実感が湧いてきます。
 5月初旬に植え付け、7月初め頃から収穫となり、8月に入ると摘芯と称して主枝
ナスは見事な美形ができました
ナスは見事な美形ができました
キュウリは思いのほか柔らかく美味でした
キュウリは思いのほか柔らかく美味でした
これから熟す大きなトマト
これから熟す大きなトマト
を切って成育を止め、枝に残っている果実に養分を充てるようにします。このように
して得られた果実は思いもかけないような大きさと、美しさと、数が有りまして驚く
ばかりです。
収穫のキュウリを記念に撮って見ました
収穫のキュウリを記念に撮って見ました
 気をつけていないと、葉の影になって見えなくなって
いる「キュウリ」などは、30センチ以上にまで大きくな
ります。しかし、なんといっても素晴らしいのは、枝か
ら切り採ったばかりの野菜を、夕食の食卓で口にしたと
きの新鮮な味だと思います。ご近所に配っても大変喜ば
れています。
 今はそろそろ来年のことを考える時期になっています
が、今年の野菜で得た「枠立て」のことは、残しておき 
たいノウハウです。 
 「枠」は四角と三角そして二本交差の3種類あります まずまずの成果を上げて写真に納まる
まずまずの成果を上げて写真に納まる
が、「トマト」は四角の方が良いようです。対面する2
本に主枝と分枝を1本、それぞれ固定するのです。「キ
ュウリ」は三角です。180センチの棒の頂点で交差させ、
これを立てた三角の塔に、巻き付けるように枝を誘導し
ます。「ナス」は90センチ位の所で交差させ、それぞれ
に主枝と分枝を固定するという方法です。「トマト」と
「キュウリ」は、放置すると固定できなくなるほど伸び
ますので、最後は摘芯して伸びを止めます。
 以上、この1年の「野菜づくり」の成果を纏めましたが、次は来年の野菜探しです。
「何をつくるのか」が最初のテーマとなります。
 全くの素人である私が、このように新鮮で、美味で、見るからに美しい野菜を造り
だす経験を得ますと、自然の力と同時に苗や土造りを考えた先人の素晴らしさをひし
ひしと感じます。
 最近では、体の案配もあって在宅の時間が増え、野菜との対話は重要なものとなっ
来年はもっと見事な成果を上げますよ
来年はもっと見事な成果を上げますよ
てきました。体だけでなく頭も使う良い作業です。
 皆様方で、まだ「野菜づくり」を手掛けておられない
方は、私のように畳2枚分の場所で十分ですので、来年
はチャレンジしてみたら如何でしょうか!
 新しい楽しみが一つ増えることは請け合いです。 
 そして、収穫の自慢話、失敗談等々を本ホームページ
に投稿いただければ楽しいですね!
 
 
2011. 8. 1 新米幹事で〜す! よろしく!    那須支部長:池田 知之
 
  新米 幹事で〜す! よろしく! 那須支部長 池田 知之
 
 会員の皆様、残暑お見舞い申し上げます。 池田_那須支部長
池田_那須支部長
 那須支部では、去る6月19〜20日に「泊まり込み総会
および懇親会」が開催されました。
 今回は、東京計器那須リゾートが閉館されたため塩原
温泉の“ホテルニュー八汐”に場所を変更し、本部から
も2名の方に来ていただき、総勢24名の参加者がありま
した。八木会長、野村幹事には遠いところご参加いただ
き誠にありがとうございました。
 当日は、雨にもかかわらず総会は17時30分開会なのに早くも16時ごろにはほとんど
の人が集まり、久しぶりに顔を合わせた面々が多く、各部屋での宴が始まり、一年ぶ
りの再会に話が弾み大いに盛り上がっていました。総会の会場に集まった時には、皆
さん気持ちよさそうな笑顔になっておりました。
 総会では、高橋支部長、八木会長の挨拶に始まり、濱村事務局、内野会計から「34
期・35期の活動報告および会計報告」(那須支部総会は2年に1回)、「36期活動計画
および予算」が提案され全会一致で承認されました。そのあと、那須支部の課題とし
て、@ 那須支部の幹事は、“2年任期で総入れ替え”で順番制でやってきたため、既
に会員の6割以上の人が経験しており、会員が増えない傾向の中では先行き限界があ
る。A 東京計器那須リゾートの閉館で総会・懇親会の会場の確保が難しい等の課題
が提起されました。また、幹事改選では新幹事5名が満場一致で選任し総会を終了し
ました。
 宴会場に場所を移し、青山さんの乾杯の音頭で懇親会が始まり、皆さん昔にかえり、
近況報告や思い出話などで大いに盛り上がり、あっという間に与えられた時間が過ぎ
てしまいました。
 とても楽しい時を過ごすことができ、前幹事の皆さんありがとうございました。
新幹事一同
新幹事一同
 後日、引き継ぎや新幹事会を経て、担当が決まりまし
たのでお知らせします。
 支部長   池田 知之  (前列向かって右側)
 事務局長  永山 公文  (前列向かって左側)
 会 計   石山 益次郎 (後列向かって右側)
 企 画   山澤 忠   (後列向かって左側)
 企 画   西川 辰夫  (後列 中央)
    これから“よろしくおねがいします”。
 今、那須地区では大震災・原発事故の影響が見られます。まず、観光客の激減を実
感してきました。毎年、陶器で有名な益子町に行っていますが、お客が多くてゆっく
り見られないのが例年ですが、先月行って驚きました。“登り窯”が壊れたこともあ
るのか、お客がちらほらで、お店に入るのが恥ずかしくなるほどで寂しい限りでした。
 また、住民の要請で重い腰をあげた市の放射線量の測定結果は、場所によっては非
常に高い数値が出、子供を抱える親たちに不安を与えております。ウオーキングする
公園には、土日でも子供の数が減り、活気がありません。新たに"牛“の問題等々。
 暗い話ばかりになりましたが、私たち幹事は「明るく 楽しく」をモットーに那須
支部OB会を運営していきたいと思っておりますので、会員皆様方のご支援とご協力
をお願いいたします。
 
2011. 7. 1 わたしの読書              副会長:佐藤 雅寿
 
    “ わたしの読書 ” 副会長 佐藤 雅寿
 
 山登りやハイキング・街歩きウォーキングなどのほか 佐藤_副会長
佐藤_副会長
テニスなど体を動かすことが多い私ではあるが、静的な
楽しみとしての読書は今の生活には欠かせない。
 硬軟、ハードカバ−、新書、文庫本などいろいろであ
るが月に6〜7冊のペースで読んでいる。
 会社員時代は経済・マネージメント関係の本やHow to
ものも人並みに読んだが、そのころは並行して外国人作
家のアーサー・ヘイリー、フレデリック・フォーサイス、
トム・クランシー、ジェフリー・アーチャーなどを読みまくっていた。企業の内幕も
のや、政治の駆け引きなどがフィクションとは思えないほどの迫力があり楽しめた。
推理小説やサスペンスものは松本清張で終わってしまった。
 40歳をすぎてからはもっぱら日本人作家の歴史ものや江戸時代以降の市井ものなど
に移っていった。
 司馬遼太郎、藤沢周平、山本周五郎、池波正太郎などは文庫本であるが、それぞれ
8割以上は読んだことになるだろう。海音寺潮五郎や大佛次郎、綱淵謙譲などもかな
りの数になる。
 日本の歴史教育は、幕末から明治にかけては未だ評価が定まっていないということ
から、われわれは学校では教わることがなかった。大佛次郎の「天皇の世紀」を読ん
で幕末から明治維新にいたる経過がかなりクリアになり、それの傍証ということで同
時代ものを探して読んだ。

 前記した歴史作家を含めた作品が映画化され、テレビ
ドラマ化されるのは時代の流れかもしれないが、歴史の
再検証ということかもしれない。
 わたしの好きな作家は城山三郎、吉村昭、浅田次郎、
山本一力などである。みんな異色の経歴の持ち主であり、
はなから小説家を目指した人ではない。城山氏は企業小
説を主体に、吉村氏は最近「三陸大津波」で再脚光を浴
びたが、徹底した調査を主体に歴史に埋もれた事実に光
をあてた。浅田氏は千変変化の書き手で中国を題材にとったかと思うと「天切松闇語
り」のような小説も書くし、名エッセイストでもある。山本氏は49歳の遅咲きである
が、平成の周五郎という趣があり、市井の哀歓を淡々とした筆致で描き、ほろっとさ
せる。 
 女性作家では塩野七生さんだ。「ローマ人の物語」を初め、ややイタリアおたく的
であるが、わたしは彼女のルネサンス時代の一連の小説を読むことによって、中世ヨ
ーロッパの歴史を勉強することができた。イタリアから眺める日本への叱咤、激励や
世界観なども頷くことが多い。
 北原亜以子さんも女周五郎、一力的であり、女性がこんな市井ものを書くとは当初
驚きであった。新しいものが出ると買い求めている。宮部みゆきは若い(50歳となっ
たが)のに多くの抽出しを持っているのに驚かされる。私は彼女の推理小説は読まな
いが、上手い書き手だけに時代小説だけは探して読んでいる。
 今、興味ある女性作家は松井今朝子さんと小川洋子さ
んである。松井さんは松竹の歌舞伎の企画・制作に係っ
てきただけに歌舞伎に関する本があるが、私も興味があ
るだけに古い時代の話はなかなか面白い。また彼女の明
治文明開化ものは、銀座のガス灯の明かりの中で幻想的
に映る。
 小川さんは若くしてデビューしいろいろな賞を受けて
おり、「妊娠カレンダー」が有名だが、「博士の愛した
数式」を読んでその発想の素晴らしさと数学(数式)の理解力に感心した。これは数
学者、藤原雅彦氏の協力もあったのだろうが、数学の面白さを教えてくれた。藤原氏
との共作である「美しい数学入門」も負けず劣らず美しい。また、エッセイを読むの
が大好きだ。
 文芸春秋で出している年版ベストエッセイ集は1983年版から読み続けている。あれ
これ述べたがわたしの読書は乱読の限りであり、いつも手元には待機本が5〜6冊は
ないと不安である。
 
2011. 6. 1 サンデー毎日に誇りを         本部幹事:小林 忍
 
   サンデー毎日に誇りを 本部幹事 小林 忍
 
 現役をリタイアし、毎日が日曜日になる日が近づいて 小林_本部幹事
小林_本部幹事
います。  
 “亭主元気で留守が良い”とは、本当にうまいことを
言ったものだと感心しています。サンデー毎日になると、
給料はありません。そして亭主は毎日家の中でだらだら・
うろうろしています。
 世間の女房族からは、毎日三度の食事はするが後は何
もしない亭主族に対して、鬱陶しく思い、払っても、払
っても、なかなか落ちない「濡れ落ち葉」、女房が出かけるとわしも行くとついてく
る「わしも族」と揶揄されています。
 ある先輩曰く、『たまに出かけて夕食時間よりちょっと早く帰ってくれば、“食事
の支度をせかされているようなので、もう少し遅く帰って来て!”、また、遅ければ
“食事の仕度はできているので早く帰ってきてよ!”と言われる。サンデー毎日族は、
女房の食事の仕度に合わせて帰らなければならないのか、この家で俺はなんなんだ』
と自問自答するそうです。
 サンデー毎日で、時間をうまく使っていない亭主族は、現役時代の敵討ちをされて
いるのか、女房に大切にされていないようにも思えます。

 私も現役時代は、仕事を一生懸命やったと思っていま
すし、忙しい毎日でした。仕事中心の毎日、それで良い
と思っていました。また仕事にかこつけて、子育てをは
じめ、家庭のことはすべて女房まかせ、いや押し付けて
いました。帰宅は仕事だ、飲み会だといつも遅く、夕食
は女房と息子・娘の三人だけで亭主の姿はありません。
現役時代の亭主族は大なり小なりみんなこんな生活では
なかったかと思われます。私も家庭のことはすべて女房
に押し付けていた自分に自戒の念は少しはありますが、今までやってきた仕事に、ま
た、亭主としての責任には、大いに自信と誇りを持ちたいと思っております。
 最近、女房から、サンデー毎日の準備のために、何か趣味を持つように勧められて
いますが、まだ働いているし、それに、この歳で今更という気持ちもあり、新たな趣
味探しはまだスタートしていません。
 私が50年近く東京計器に勤め、リタイアする日には、
女房も“長い間ご苦労様”と言ってくれるとは思います
が、毎日「濡れ落ち葉」、「わしも族」では女房も嫌に
なるでしょう。
 サンデー毎日は、私が50年近く会社に勤めたご褒美な
ので、だからサンデー毎日に誇りを持ちたいのです。し
かし、サンデー毎日で時間を持て余し、家の中でごろご
ろし、女房に邪魔にされる存在にはなりたくないと思い
ますが、ご褒美だから女房も頭を切替え、毎日、家にいる亭主に対して少々は我慢を
してほしい。というのが私の本音かも知れません。
 私には、強くて、そして優しい女房がいます。サンデー毎日のスタートの日は、
“女房との新たな付き合い方のスタート”という記念すべき日となるかもしれません。
 
2011. 5. 1 東日本大震災に思う          本部幹事:野村 一信
 
   東日本大震災に思う 本部幹事 野村 一信
 
●被災地域の復活を願う
 日本の四季のなかでも大変穏やかでリラックスできる 野村_本部幹事
野村_本部幹事
美しい五月晴れの季節が巡ってきました。このような中
で“3.11東日本大震災”のNEWSを見ていて人間の生
きる素晴らしさと儚さを大いに感じています。
 戦後(昭和20年)、東京は一面の焼け野原になってい
ました。瓦礫の中に進駐軍と復員兵が入り混じり生きて
きた時期がありました。「ギブ・ミー・チョコレート」
と言ってもらったチョコレート、赤いルージュにハイヒ
ールで闊歩する女性、皆が日々を必死で生きてきた時代でした。
 そこから全国民が立ち上がり、今の日本へ再生してきました。平和ボケの側面は否
定できませんが、平和を謳歌してきたところにこの大震災です。テレビ報道で一面の
瓦礫と化した景色を見ながら、昨年11月に参加しましたOB旅行仲間との「三陸海岸
大縦走3日間」の旅行が思いだされます。
 八戸から種差海岸・久慈・田野畑(泊)・浄土ヶ浜・釜石(泊)碁石海岸・気仙沼・
仙台まで、正に今思えば「被災地大縦走3日間」の旅でした。
震災前のホテル羅賀荘日の出
震災前のホテル羅賀荘日の出
 美しい海岸の景色、夕日・朝日の見事だった海際のホ
テルは・・・、あの魚市場は・・・、土産屋の愛嬌ある
娘さんは・・・、と心を痛めているところです。
 これらを含めて、昔のことも思い出し、復興のための
希望と展望が開けるよう、ただ『頑張って!』で可能な
のか考えてみました。
 戦後、あの廃墟から立ち上がった私たちの親の時代の
苦難を克服する力が、今私たちが試される時が来たので
はないでしょうか!
 地震と津波対策は東北沿岸ではかなりなされてきたように思いますが、この度はそ
の甲斐も無く、大自然の脅威の前にいとも簡単に破壊されてしまいました。
 東京直下型・東海沖地震は大きく話題になっています 震災前の釜石港消波ブロック
震災前の釜石港消波ブロック
が、学者の地震・津波予測もこんな大きな変動が来ると
は考えていなかったようです。しかし、津波に関しては、
明治29年(1896年)6月15日、三陸地方を襲った「明治
三陸地震」(M8.2〜8.5)で発生した津波は遡上高で
38.2mを記録していますし、昭和8年(1933年)の「昭
和三陸地震」(M8.1)でも同様に28.7mなどのデータ
があるのにかかわらず、これらが街づくりや原子力発電
所など建設に生かされていないのは極めて残念なことです。今回の大震災情報により
ますと、岩手県宮古の津波は過去最大規模の38.9mまで遡上したとの記録を見ました
が、これからの全ての復興計画には是非これらのデータを活用し、国家的プロジェク
トにより安心・安全な街造りと原発の見直しを目指してもらいたいものです。
●原発事故の早期収束を願う
 人災とも言われている原発の事故は、世界の電力供給体制にも影響を及ぼす事態と
なり、状況報告と対応の遅れ、風評被害が加わり、過去の最大級事故とされるチェル
ノブイリを越えると言われるようになっています。今後、この原発事故地域に人間が
何十年も住めなくなってしまうのでしょうか?
 批評はいつでもできます。今は与・野党とも、この国家的大震災では連携し、外国
の援助の下、東京電力(含む協力企業)を中心に、業界・学会、さらに、現場で直接
作業をされる消防・警察などの専門チームと自衛隊特種部隊を総動員して、一刻も早
く原発事故が収束に向かうことを祈るばかりです。
●がんばれ、日本!! 国をあげての長期的な支援を!
 今回の東日本大震災に当たり、外交問題でギクシャクしている国からも温かい支援
をいただいています。世界第2位のGDPの力で発展途上国への援助を続けてきたこ
ともあり、極めて多くの国からの義捐金をはじめ、支援物資、救援隊などの援助をい
ただいています。また財界、芸能、文化、スポーツの各分野をはじめ、多くの国民か
らの温かい支援が報じられています。
 今回の復興に要する費用は10兆円規模とも、それ以上とも報道されています。原発
に関する一部の支援を除き、今回の国難の復興は我々日本人が中心でなければなりま
せん。観光、水産、農産、更に重要な製造業を担っている東北を中心とする地域の復
興は、我国の未来がかかっていると言っても過言ではないと思います。その意味で、
国民としての物心両面の支援は長期にわたる活動を続ける必要があります。
 行政は、被災者とともに地域の再生を全力で支える体
制を作り、一日も早く被災者に希望の光を与えて欲しい
ものです。
 私たちも日常生活を見直し、風評に惑わされず被災地
の農産物、水産物、酪農品などを積極的に支援いたしま
しょう。がんばれ、日本!!
 
 
 
2011. 4. 1 東日本大震災で被災された皆様に・・・ 本部幹事:大谷 仁三
 
 東日本大震災で被災された皆様に
   心からお見舞い申し上げます 本部幹事 大谷 仁三
 
 3月11日に発生した東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し
上げます。
 また、色々な制約がある中での暮らしを強いられている会員の皆様、ご家族、親戚
の方々も多いと存じます。一日も早く現在の状況が改善される事を願ってやみません。
 
  昔々の話
 
 今年の1月、当ホームページに次のような記事が掲載されていました。
 《朝日新聞記者の池田と申します。東京計器OB会 大谷_本部幹事
大谷_本部幹事
ホームページをお借りして、情報提供のお願いです。
 東京計器の元社員の方で、戦中に開拓民として満州へ
渡った方を探しております。名前は ウエダさん、
ワシオさん、ヒキタさん という3人の方です》
 上記に関しては、会社の広報課からOB会に協力要請
があり、OB会としても協力を約したものであります。
 ホームページへの掲載の他に、OB会事務局も、戦前
から在籍されておられた大先輩の方々に、手紙(返信ハガキ同封)でご協力依頼をい
たしましたが、残念ながらあまりにも古い話なので手掛かりは皆無でした。
 そこで思い出されるのは「尋ね人の時間」です。
  尋ね人の時間
 尋ね人の時間(たずねびとのじかん)はNHKラジオ番組で、昭和21年(1946)か
ら昭和37年(1962)まで16年間放送されていました。第二次世界大戦(太平洋戦争)
による、人との離別やそれに基づく悲惨な状況をさらし、それらを思い起こさせ、
忘れさせない内容を伝えた番組でした。定時番組であったため、放送内容に関係する
ラジオを聴く人
ラジオを聴く人
人以外にも、多くの人がつけっぱなしのラジオから耳に
し、(70歳以上のOB会会員の方も)一度は聞いたこと
があるのではないかと思います。私も引き揚げ者の一人
として子どもながらも興味を持って聞いていたことを、
今でも覚えています。
 放送期間中に読み上げられた依頼の総数は約2万件で
その1/3にあたる約7千件が尋ね人を探し出せたと言わ
れています。
 前記の、朝日新聞池田記者が探しておられる、ウエダさん、ワシオさん、ヒキタさ
んという3人の方も、この番組で紹介されていたなら・・と思うと。それにしても年
月がたちすぎ、残念に思います。
 余談ですが、この番組のほかに「英会話(カムカム英語)」「話の泉」「街頭録音」
「二十の扉」「君の名は」「とんち教室」「鐘が鳴る丘」などなど、TVのないころ
のラジオ娯楽番組が懐かしく思い出されますし、「素人のど自慢」は今でも続いてい
る長寿番組です。
  戦前の同好会
 私が入社した昭和24年(1949)に先輩から聞いた話ですが、
『まだプロ野球が無い時代(現 読売巨人軍の誕生前)に「東京計器巨人軍」という
強い実業団チームがあった。 それは東京実業団野球の ユニホーム姿の選手
ユニホーム姿の選手
雄、東京計器のチームで、大正初期に結成され、会社が
社員以外からも選手を補強し「東京巨人軍」と名乗り、
その野球部は強く、連戦連勝を続けていたが、戦争が始
まり選手のほとんどが戦地へ。蒲田工場の裏にあった広
大な野球場には軍需工場が建ち、そして空襲で焼夷弾を
受け焼野原に。復員・復職した選手は殆んど無く、東京
巨人軍は終わった』。
 このように、野球部と同じく昭和4年(1929)には「謡曲部」、昭和7年(1932)
には「柔道・剣道・弓道・籠球」などが誕生し活発な部活動が行われていたようです
が、その後、軍需工場一色“欲しがりません、勝つまでは”同好会はすべて休部。
 ただし、吹奏楽部だけは、戦中でも社員の出征式に本社玄関前で勇壮な演奏をして、
省線・蒲田駅(現JR蒲田駅)まで行進していたそうです。
  戦後の同好会について    
 戦後、昭和24年ごろから同好会も徐々に復活。その後、最盛期には40部近い部が活
動していました。OB会会員の方も、部員として活躍し楽しまれた思い出もたくさん
あることと思います。
  自分史を書こう
 初めて海外旅行の飛行機の中で隣り合わせた方が、元朝日新聞の論説委員をしてい
た方でした。私は「定年記念に自分のご褒美として、夫婦旅行の帰りです」と自己紹
介。その方が言うには、一つの会社に45年勤めたことを、是非「自分史」にまとめる
ように強く勧められました。
 「私は、何一つ書き残すようなことはありません」と、やんわりと断ると、その方
は、東京計器をご存じで『製造業・精密工業・技術・熟練した経験・・・その職場や
現場には無尽蔵に、お宝話があるはずで、あまり構えずに何でも書き残しなさい、
特に、これまで世界一の工業国日本は、間もなく後進国になりますよ!』
 よし!自分史を書くぞ。その気になって始めたものの1行書いては没・また没、あ
れから17年やはり無理かな。しかし5年前にOB会ホームページが誕生したのを機会
に、掲載する場ができたので、挑戦してみようかな。と思っているこのごろです。
  会員の皆様 自分史を書いてみませんか。
自分史を書く
自分史を書く
 現役時代、退職後の今、「苦労したこと・楽しかった
こと・今だから話せること・自慢したいこと・・・・」
過去に何を思い、考えたのか、どんなことをしてきたの
かを記録として残し、他人に伝えることができます。
「懐かしい過去に戻ってみよう」といった軽い気持ちの
文章でも、自分にしか書けないことを自分史に書いてお
くことが肝心のようです。そうすることによって、世界
に唯一、あなただけの自分史が完成します。
 そして「OB会ホームページ」や「会報・けいき」に投稿してください。
 
2011. 3. 1 14年間のボランティア活動を終えて   本部会計:青木 聳
 
   14年間のボランティア活動を終えて 本部会計 青木 聳
 
     車での移送(送迎)ボランティア活動で得た貴重な経験談    
 私が「移送(送迎)ボランティア活動」を始めたのは、 青木_本部会計
青木_本部会計
平成9年、62歳のとき、何か世の中のお役に立ちたいと
の思いからですが、昨年、75歳となり14年間にわたる活
動を終えました。幸いにも、まだ身体も丈夫なので、も
うしばらくの継続希望を持っていましたが、「75歳超す
と交通事故の発生率が高くなり送迎中の利用者の安全に
係わる」ということが理由で終了を迎えました。
 5年前、このトップページに「私のボランティア活動」
というタイトルで活動の開始状況を書かせて頂きましたが、その後のことを含めて合
計14年間の永きにわたった活動の中で、いろいろな経験をいたしました。その活動中
に経験した中で特に印象に残ったことを書ける範囲内で皆様にお伝えしたいと思いま
すと同時に、移送が単に利用者の方々を目的地までの送り迎えで無く、その間に、い
移送車
移送車
ろいろな事情があることを理解して頂けると大変嬉しく
思います。
 ★「移送依頼」を承諾した時点で、私にとって初めて
の利用者の方でしたら、利用者宅の下見を行います。道
順もさることながら利用者自宅前の道路状況の確認です。
自宅前が平坦であれば問題有りませんが、車椅子利用の
方ですと乗降時の安全を考慮して車を下り方向に停車す
る必要が有ります。これは私が始めて間もないときです
が昇り方向に停車して苦い経験が有るからです。(車椅子の乗降は車の後部です)
 次に移送中に起こった印象的な出来事を幾つかご紹介いたします。
 ★ 一人暮らしの利用者の方の話です。ご近所との付き合いも少なく、ヘルパーさ
んが訪問されたときに会話を交わす程度で、私が車でお迎えに行くと目的地に着くま
で嬉しそうに一人でしゃべっている方が居られ大変印象的でした。(一人暮らしの寂
しさからですが、本当に一人暮らしの方が多いですね)
 ★ 別の一人暮らしの方の話ですが、時間が来ても出てこないので自宅に行き、中
へ入りましたら体調不良でベッドの上で動けない状態で、慌てて必要個所に連絡をし
て事なきを得たこともありました。
 ★ 特別支援学校(旧養護学校)の送迎は、校門の出入りが大変厳しく先生方が門
の内外におられ、生徒の登下校の安全に気を配られており、私たちもボランティア・
カードを胸に掛けることが必要でした。
 ★ あるとき、マンション利用者宅にお伺いしたら、何時まで待ってもお出でにな
らないので自宅に行きチャイムを鳴らしましたが出てこなく、しばらくしたら隣の方
が出てきて“先日亡くなられた”とのことで、大変びっくりすると同時に一人暮らし
の大変さを痛感いたしました。
 ★ このことは私が車を運転する上で大変貴重な体験でした。それは車椅子利用の
方を移送中、交差点でふだんどおりに曲りましたが、ふと後ろを見ると利用者さんの
上体が横に倒れていて慌てて起こしました。話をお聞きしましたら、その方は事故で
自力復帰が出来ない方で、それ以降「急」と名の付く運転(急発進・急ブレーキ・急
カーブ)はしないよう気を付け現在も実行しています。
 ★ その他にもいろいろ有りますが、活動を通じて感じたのはこの世の中困ってお
られる方が大変多く、それらの方々に少しでもお役に立てたことです。これからも機
会があればボランティア活動を行いたいと思っています。
平成17年賞状
平成17年賞状
平成22年賞状
平成22年賞状
 左の写真は「感謝状」で
1枚は平成17年に、もう1枚
は平成22年ボランティア終
了時に頂いたもので、少し
は世の中のお役に立てたと
いう達成感・満足感ととも
に、私にとっては大変記念
になる賞状です。
 
2011. 2. 1 OB会創立35周年を迎えての雑感   事務局長:小田 茂
 
   OB会創立35周年を迎えての雑感 事務局長 小田 茂
 
 OB会創立35周年記念総会・懇親会・趣味の作品展 小田_事務局長
小田_事務局長
を昨年10月、東京計器竃{社社屋をお借りして開催いた
しましたが、この機会に35年の歴史と現状を振り返って
みたいと思います。
 当OB会は、創立総会が昭和51年(1976年)12月25日
に大森平和島温泉会館で38名の出席者で開催されました。
 初代会長は鈴木重徳氏で、設立の趣旨は「会員の親睦
を図る」ことを最大の目的とし、事業として年1回の総
会開催及び年2回の会報発行(B5版で創刊号4頁、第2号8頁)を確認し船出いたし
ました。
 38名の方々は、小石川時代から、もしくは蒲田へ進出 第1回総会に出席の38名の皆様
第1回総会に出席の38名の皆様
時代の大先輩で、私が入社した昭和31年(1956年)時に
東京計器に在職されておられた方は、鈴木会長以下8名
で、残り30名の方々は、日本光学工業梶i現 ニコン)、
東京航空計器梶A東京兵機(現 不二サッシ)、長野計器
鞄凵Xへ東京計器から転籍された大先輩の皆様です。
 35年経過した現在ご健在な方は、名誉会員でOB会最
長老の広瀬富三郎さん(104歳で今月8日には105歳)、
黒須素一さん(今年1月1日に90歳)のお二人となってしまいました。
 現在の八木宏会長は5代目で、会員数は570名です。那須・矢板・佐野の三支部を
加え、総会・懇親会・会報年2回(A4版50頁前後)バス旅行、近況報告発行、必要に
応じて会社情報、ホームページによる情報提供等、栃木三支部においては独自の懇親
の場として活発に活動しているところであります。また、栃木三支部と協同で新入会
員促進活動も毎年行ってきました。
 話は変わりますが、元旦の新聞各紙では日本の人口減少(少子化)、高齢化、財政
難問題が取りあげられていました。
 厚生労働省が昨年発表した平成21年(2009年)の我が国の平均寿命は、男性79.59
歳(世界第5位)、女性86.44歳(25年連続世界一)とのこと、ちなみに私が入社し
た昭和31年(1956年)は男性63.59歳、女性67.60歳であり、この50数年間で男性16歳
女性19歳ほど大幅に伸びたことになります。
七福神の寿老人
七福神の寿老人
 私が入社した頃の、定年間近な(当時定年55歳)大先
輩は、こちらが小僧っ子だったせいもあるが、みなさん
“お爺さん”という印象が残っています。それに比べる
と今は「あっちが痛い!」の「こっちの調子が悪い!」
あるいは「もう後期高齢者だよ!」と言いながらも皆さ
ん大変元気ですね。もっとも子供たちの目線から見れば
完全な“お爺さん”なのでしょうけれど。
 
 少子化、財政難問題では、50年前は1人の高齢者(65歳以上)を10人超の生産年齢
人口(15〜64歳)で支えていたのが、現在は3人で1人、2055年には、ほぼ1人で1
人を支えなければならない状況になるといわれております。本当に大変なことですね!
 我がOB会に目を移すと、平均寿命とは少し異なりますが、OB会創立30周年の平
成17年6月(71.75歳)から平成22年6月(74.42歳)までの5年間で、平均が2.67歳
上昇しました。年齢構成も下記のようにかなり高齢化へ向けての変化が見られます。
  年齢別構成一覧表

 この5年間で逝去された方は51名にのぼり、享年は、90〜100歳台11名(21.6%)、
80歳台17名(33.4%)、70歳台14名(27.4%)、60歳台9名(17.6%)という内訳で、
比較が適切でないかもしれませんが、半数強(55.0%)の方が、現在の平均寿命を超
えておられました。
 事務局として、訃報に接しホームページ原稿を作成す 健康第一で
健康第一で
る度に、先輩の場合にはお世話になった感謝の気持ちと
ご苦労様でしたという感情です。同年代になると、ちよ
っと早いな〜、でも自分もだんだん近づいてきているな
〜という気持ちが走り、後輩の場合は無事会社を卒業し
これから第二の人生で趣味をはじめ大いに花を咲かそう
という時に誠に残念、大変むなしい気持ちに覆われます。
 話がだいぶそれましたが、健康は自分自身で守り、築
き上げていかねばならないということを念頭に置き、日頃先輩幹事の元気で頑張って
おられる姿を見て、自分もあと数年は幹事として頑張らなきゃ!そのためには≪健康
第一≫と自問自答している年始めです。
 
2011. 1. 1 新年のご挨拶               会長:八木 宏
 
   新年のご挨拶 OB会 会長 八木 宏  

 あけましておめでとうございます。
 会員の皆様には,ご家族ともども良いお年をお迎えになられたこととお喜び申し上
げます。
昨年はもう少し明るく力強い日本を回復できるかと思いましたが、残念な状況が続
いています。
 輸出産業も懸命な努力で業績回復を目指しましたが円高の進行で利益が消滅するな
ど、日本経済の先行きは依然として不透明です。
 事業仕訳も大きすぎた期待に反して速効薬とはならず、国家財政健全化の道はかな
りの険しさを感じます。
 日本をどう立て直すのか明確な施策を確立するとともに、為替や領土問題などでも
日本の立場を強力に主張してもらいたいものです。
 厳しい経済環境の中で、東京計器鰍ヘ「守り」の戦略ばかりでなく、長期的で持続
的な成長を実現し企業価値を高めるという「攻め」の戦略を推進しておられるとお聞
きました。
 全社の総力を集めて取り組んでおられることに敬意を表するとともに、必ずその成
果が上がるものと期待いたします。
 さて我がOB会は総会、支部総会、バス旅行、会報の発行、ホームページの運営な
どを順調に行うことができました。
作品展:工芸盆栽(大月光代さん)
作品展:工芸盆栽(大月光代さん)
 OB会創立35周年記念総会・懇親会は5年ぶりに東京
計器竃{社をお借りし、来賓を含めて162名が集まる楽し
い会となりました。
 アトリウムで行われた「趣味の作品展」には40名100点
以上の素晴らしい作品が出品され、みなさんの趣味の多
彩さとレベルの高さに驚きました。これからも元気で、
それぞれのペースで制作を続けられることを望みます。
 
 今年も例年どうりの行事の予定をしております。多数の参加で楽しい会にしたいも
のです。 今年もよろしく、お願いします!
今年もよろしく、お願いします!
 遠方や体調などの理由で行事に参加できない方を含め
て、会員の交流に少しでも役立つようホームページの充
実も図っていきます。
 幹事一同、楽しみながら取り組みますので、皆様のご
支援をよろしくお願いいたします。
 皆様のご健勝と東京計器鰍フますますの発展を祈念し、
年頭のご挨拶といたします。