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| “読みやすく、親しみのある会報”を目指して |
編集責任者三橋さん |
今年もあと1ヶ月で新しい年を迎えます。年を重ねる |
| と、“光陰矢のごとし”を実感する最近です。 |
| 今年のOB会活動を振り返りますと、幹事の若返りが |
| 一部実現し、OB会の運営を始め、HPや会報などに、 |
| これらの若い世代幹事の視点でいろいろな変革が期待さ |
| れ、これを待ち望んできた幹事の一人として嬉しいかぎ |
| りです。 |
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| T.会報「けいき」の変遷 |
| 私が、OB会会報に関係することになったのは、会社100年史の編纂に参加させてい |
| ただいたこともあり、退職後、OB会へ入会し、会報のお手伝いをすることになりま |
| した。 |
| 先輩の皆様はご存知のことですが、会報第1号は、昭和51年12月5日、第1回東京 |
| 計器OB会総会・懇親会が開催されました、その翌年の4月1日に発行されています。 |
| ペラペラの質素な会報ですが、好評だったと思われ、 |
創刊号 |
| 同年8月20日に第2号、同11月30日に第3号と矢継ぎ早 |
| に発行されました。 |
| この後、発行時期はばらつきがありますが年2回のペ |
| ースで発行されるようになり、徐々に、現在のように定 |
| 期的になり、ページ数も増えてきました。 |
| 当時、書類や雑誌などの刊行物は、既にB判からA判 |
| が主流となっていた時代ですが、当OB会会報は、B5 |
| 判の縦書き3段という仕様で、平成15年1月発行の会報53号まで続きました。 |
| 当時、初めての編集会議に参加させていただいたのですが、今日のようにパソコン、 |
| インターネットが普及されていない時代でしたし、幹事の方々もワープロやパソコン |
| をお持ちではありませんでした。当然、会員の皆様からの原稿も手書きでしたので、 |
| 原稿を印刷会社に持参して入力していただいていました。 |
| 更に印象的でしたのは、原稿の字数を計算できるように、縦書き三段の会報フォー |
| マット用紙に字数を示す○○○・・で埋めた用紙を準備し、原稿の字数と合わせて、 |
| 切ったり、貼り付けたり、ホッチキスで留めて、割付けを印刷会社へ指示していたこ |
| とです。今から考えると凄いワザだと思いました。 |
| 初稿(ゲラ刷り)が完成し、校正・校閲作業を行い、再校、三校と同じ作業を繰り |
| 返して、誤字・脱字などのミスがないか読み合わせをしました。当時、会報を担当さ |
| れた諸先輩方は、大変なロードを掛けて制作に取り組んでおられたと思います。 |
| しばらくして、現・瀧川監査が会報の責任者になられたとき、A4判の横書き二段 |
| の提案を薦め、現在のような仕様に変更されました。平成15年8月発行の54号でした。 |
A4判になった会報54号 |
ちょうど春の旅行が、「7年に一度のご開帳・善光寺 |
| 参り」で、信州・松代ロイヤルホテル泊、翌日は、岡谷 |
| 経由、甲府のワイナリー見学の特集記事を掲載した会報 |
| でした。 |
| それからは、ご承知のとおり、会報55号(平成16年正 |
| 月号)から、正月号に限り表紙の写真をカラーに変更し、 |
| 夏号も従来の定番である春のバス旅行時の集合写真を止 |
| めて、旅行先の風物写真で表紙を飾るようになりました。 |
| U.“読みやすく、親しみのある会報”を目指して |
| 当OB会には、会員消息、本部・支部の行事紹介、会員の作品展示、会員がお住ま |
| いの地方だより、旅行記、よもやま話の掲載をはじめ、会社の状況報告など、タイム |
| リーに、速報性を生かした“OB会ホームページ”と、費用面からくる紙面の制限や |
| 速報性という面では劣りますが、会員全員に会員消息、本部・支部の行事紹介、そし |
| て会社の状況報告などの重要なお知らせをする“会報”が存在していますが、これら |
| は車の両輪のように、今後ともOB会の重要な広報手段かと思います。 |
| 最近の傾向は、内容が濃く、格調の高い寄稿文が増え、さらに、いろいろなジャン |
| ルの寄稿文も増えてきたことです。各分野での多才の持ち主集団ゆえ、皆様のご協力 |
| の賜物と感謝いたしております。 |
| また、本部幹事が所有するパソコンとインターネット |
会報55号始めてカラー表紙になる |
| をフルに活用し、入力の効率化はもちろん、寄稿者から |
| のパソコン原稿も増えていることもあり、日程の大幅短 |
| 縮が可能となっています。さらに、校正・校閲作業は、 |
| 常時、インターネットを利用して作業しますが、“読み |
| やすい会報”を制作するため、文章の書き表し方、句読 |
| 点、改行、レイアウトなどに精通している幹事がおられ |
| るので、メンバーが集る編集会議の回数も最小限にとど |
| めています。 |
| このように、優秀なスタッフと整備されてきた環境下では“会報”の中身が問われ |
| ることになります。しかし、会報を担当して以来、皆様のご協力をいただきながら試 |
| 行錯誤で、“読みやすく、親しみのある会報”制作を目指して参りましたが、私自身 |
| の採点では、残念ながら、いまだに、100点満点には届きません。 |
| 会報は、限られた期限と予算内で制作する必要があります。集った原稿から判断し、 |
| ときには、紙面、掲載写真枚数も制限されることになります。編集方針に沿った目次 |
| を設定し、寄稿者数を予想し、ページ数や費用を予想する訳ですが、これからも理想 |
| 的な会報をめざすために、若い世代の幹事のお知恵を大いに拝借したいと思います。 |
| 加えて、多くの会員の皆様から素晴らしいご寄稿を今後ともいただけることを願って |
| やみません。 |
| V.追伸 |
| 堅苦しい話は、これまでとさせていただき、新しい年は笑いのある生活を送りたい |
| と思っています。ご存知「高齢者川柳」から、自分、家内の行動・言動を反省し、思 |
| わず頷いてしまった3句をご紹介し、トップ・ページの寄稿といたします。 |
| ● 共白髪まっぴらご免と妻茶髪 |
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| ● 聞くたびに話が違う「若い頃」 |
| ● 歳とれどなぜ口だけは歳とらぬ |
| 時節柄、季節性のほか、新型インフルエンザ共に流行 |
| っております。ご自愛下さいますよう。会員及びご家族 |
| のご健勝と、OB会のますますの発展、並びに東京計器 |
| (株)のますますのご繁栄を祈念申し上げます。そして、 |
| 静かな、よい年を迎えられることを・・・。 |
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| (1)1泊の旅、楽しからずや |
| いよいよプロ野球“日本シリーズ”が始まりました。 |
辻_佐野支部長 |
| レギュラ−・シリーズでは、セ・リーグは巨人が3連覇、 |
| パ・リーグは日ハムが2年ぶりに優勝しましたが、日本 |
| シリーズは、クライマックス・シリーズを勝ち上がった |
| 「巨人」と「日ハム」のレギュラー・シリーズ優勝組が |
| “日本一”を競うことになりました。興味津々です! |
| また、政権交代等いろいろ変化があった今年も残り少 |
| なくなりました。 |
| 佐野支部は、今年で9周年を迎えました。 佐野支部でも若返りの準備をと思って |
| おりましたところ、“天の恵み”“時の理”“人の和”か今年は3人の新入会員があ |
| りました。幹事・会員一同もおおよろこびです。 |
| しかし、新入会員の皆さんも含め、佐野のメンバーにはまだ現役としてお仕事を持 |
| たれている方が多いので、これまでの春・秋の行事を、今回からは秋の行事と春の総 |
| 会と隔年でやるようにしました。 |
久しぶりの懇親会 |
今年は秋の行事として、バス旅行を計画・実行しまし |
| た。日光への1泊の旅でした。 |
| 15人以上集まると佐野市民保養所(日光レークサイド |
| 佐野)へ団体貸し切りバスが無料で利用できるとのこと、 |
| バス代をすべて飲み代にして計画したところ、16人の参 |
| 加を得ました。新入会員の皆さんや、久しぶりの会員、 |
| また東京や神奈川からも先輩の皆さんの参加があって車 |
| 中も、懇親会・2次会・3次会もにぎやかに、楽しい旅 |
| になりました。一泊という気楽でのんびりした懇親会もたまにはいいものですね。 |
| こんなに和やかなら家族も含めて参加募集したらいいのにとのアイディアもでまし |
| た。また、もっとゆっくり見たかっ所も有る、見学箇所の予備情報が欲しかったとの |
| 意見もあり、次回計画への参考になりました。 |
| ≪ビックリ!仰天!今市のそば屋さんで“オートパイロット”に出逢う!≫ |
| 初日の昼食を今市の“そば屋”さんでとることとし、店へ向ったが、“骨董品屋” |
| かと思われるそば屋さんに驚かされました。 |
| さらに驚かされたのは、店の“一番看板”の様に、わが社の“PLC型オートパイ |
| ロットの操舵スタンド”が置かれているではないか!“海無し県”の山中に何である |
| の?と興奮と疑問のなか茅ヶ崎市から参加の三橋さんと一緒に女将に、わが社の製品 |
| である旨伝え、事情を伺った。 |
| 女将さん曰く「先代がこのようなものを集めるのが好きで、どこからか変ったもの |
| を買ってきては店に並べていたそうです。なかでも先代がお気に入りで特に大切にし |
| したものが、この船の製品で店の入り口の一番いい場所に置いたのです」とのこと。 |
| 三橋さんと二人で製造年を調べますと“1970年”と刻印されていました。1970年と |
| いえば昭和45年、私が入社して4年目の年に製造されたのだと感慨深い思いです。 |
| また、佐野工場(当時の東京ビッカース社)の第2期増設(組立工場)が完了した |
| 年でもあった。 |
| この様な奇遇な出逢いも、旅の面白さですね!気持ちも高揚していたので、ソバの |
| 美味しさは格別でした。 |
オートパイロット囲んで三橋さんと女将 |
そば屋さんの店の中 |
骨董品屋と思われるそば屋さん |
| (2)ゴルフも また |
| ゴルフは、佐野支部の行事としてスタートしましたが、参加メンバーが限られてく |
| るので、活動費の使い方に不公平感が残らないようにとのメンバーの思いから、同好 |
| 会として経費の面では独立した行事として実行されています。 |
| 4ケ月に1度の大会を開き、腕を競っていますが、さらに大会に向けて小さなメン |
| バーで1ケ月に何回か腕を磨いて大会に備えてた活動も進行中です。 |
| 同好の士の集まりは、ゲーム運びにも佐野独自の工夫を凝らして、みんなに優勝の |
| 機会を設けて楽しんでいます。 |
| 腕を上げてきたメンバー間では、鎌倉会への挑戦も話し合われています。 |
| (3)ホームページへの関心も |
| OB会ホームページが開けるようになったという会員も増えてきました。 |
| 俺も写真を出してみよか、とか、趣味の園芸(野菜作り)の現状を報告して同好の |
| 士と情報交換してみようか。また、ボランティア活動で |
これ大根?カブ? |
| の勉強内容や得た知識を公開してみようかなど、佐野に |
| もホームぺージへの関心が高まってきました。 |
| 皆さんには、ノルマにならないように楽しんでマイペ |
| ースで投稿していただくことを大切にしています。 |
| Excel1年生でもOK、手書きでもOK、編集は |
| ホームページ編集局にお任せスタイルでスタートします。 |
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| (4)ちょっと休憩・・出会い |
| “仏国寺のパンダ烏” |
| 9月の中頃、韓国の友人から遊びに来いとのお誘いがあった。日光へのバス旅行の |
| 準備が幹事さんのご協力で整ったので、ちょっと遊びに行ってきました。 |
| 慶州にある彼の実家に泊めてもらって、翌日は観光地の仏国寺へ連れて行ってくれ |
| た。世界遺産・新羅様式とのことで建物も彫刻も装飾も立派であった。建立年代は日 |
| 本で云えば奈良時代だそうだ。その後、幾多の損傷に会い20世紀にはいって本格的に |
| 修復されたそうだ。回廊などはどこか懐かしかった。境内の木立でパンダ烏(辻の独 |
| 断名)が挨拶に来てくれた。“アンニョンハセヨ”といってみたらポーズをとってくれました。 |
韓国の故郷 |
仏国寺回廊 |
アンニョンハセヨ_パンダからす? |
| 同行の友に聞いたら、「かささぎ」という名だとか。中国の伝説によれば、七夕の |
| 夜翼をつらねて橋となり、天の川にかかって織女を牽牛のもとへ渡すのだそうだ。 |
| 「へーえ!」この鳥、今も橋となって日本から韓国へ俺たちを渡して親友に会わせて |
| くれたのかね。 |
| そう云えば、百人一首に「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば |
| 夜ぞ更けにける」というのがあったっけ。 韓国で遭遇するとは、旅はいいですね。 |
| このパンダ烏?がみなさんにお目見えするのは霜月のころでしょうか。日光へのバ |
| ス旅行でも、ソバ屋でわが社のオートパイロットに遭遇したり、旅の楽しさはいろい |
| ろありますね。 |
| 佐野支部も、これからまた、新しい10年間に向かって楽しい旅路を夢見ています。 |
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| みんなが参加でき、みんなの輪が広がるホームページつくりを! |
| 「HPの特徴を活かしてOB会員同士の繋がりをより |
小池_本部幹事 |
| 一層強めよう!」・・との目的を実現すべく、「みんな |
| が参加でき、みんなの輪が広がるホームページつくり」 |
| を目指しているOB会のホームページ(以下HPと略記) |
| は、この10月で開設されてから5周年目に入ることにな |
| りました。多くの方々の参加ご協力を得て、多勢の方に |
| ご覧いただいています。 |
| その状況を見ますと9月末現在のHPの延べ訪問者数 |
HP訪問者数(平成21年9月末現在) |
(注1)は、左のグラフに示されているとおりです。 |
| 昨年の11月に2万人(開設以来)を越えて、今年の年末 |
| には3万人に迫ろうとしています。さらに、今年8月に |
| は 881名の月間新記録を更新しました。 |
| (注1:一日単位で訪問者を積算し、それを累計する。 |
| 同じ人が1日に何回開いても1人と数える。) |
| 昨年実施した「HPアンケート」の調査結果(全会員 |
| の約半数の回答率)によると、HPをご覧になっておら |
| れる方が7割あり、ほとんどの方が内容に興味を示され、さらに6割以上の方が話題 |
| の投稿や作品展などに参加しても良いとの回答を寄せていただきました。 |
| このほかに、もうひとつのデータとしてHP上に掲載されてきた記事、写真や作品 |
| などの投稿点数、投稿・報告者数は、コーナー別に見ると以下の表(9月末現在)の |
| ようになっており、実質 120名ほどの方に参加いただいていることになります。 |
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| 取材・情報提供に、さらなるご協力を! |
| 記事や作品の投稿・取材では、大勢の皆様のご協力によりまして成果が出てきまし |
| た。さらに、より多くの会員の皆様に参加していただけるよう地についた活動を展開 |
| していきたいと思っています。「趣味の作品」、散歩の途中で撮った「季節の風物詩」 |
| 写真、「旅の紀行文」、「・・・体験記」、「・・・の集まりの模様」など沢山情報を |
| お持ちのことと思います。これらの材料はあるが、まとめるのが大変なことだと思わ |
| れます。紙に手書きされたもの、印画紙の写真でも結構です。何なりと気軽に身近な |
| 幹事にご相談いただければと思っています。このほかにも「話題」などをご覧になっ |
| てのご感想、連想されたことなどについても、「話題」や「お便り」のコーナーに投 |
| 稿していただければ幸いです。 |
「収穫」9月投稿の1枚 |
「トップページ」を飾る「季節の風物詩」への写真投稿 |
| は、参加する面から見た私とHPとの唯一の接点であり、 |
| スタート以来毎月投稿し続けてもう3年半になります。 |
| 些細なことですが「継続は金なり」です。身体を動かす |
| のはウォーキング程度ですが、これと組み合わせ日常生 |
| 活の一部に組み込まれて機能しています。現在は、OB |
| 会の幹事として「HP専門部会」を担当すると共に、 |
| 「HPWG」(運用グループ)にて皆様からいただいた記事 |
| や写真を加工・編集し、HP上に表示できるようにする「縁の下の力持ち」の仕事を |
| 引き続き行っています。今年度からは若い新幹事に参画していただけることになりま |
| したので、フレッシュな企画の登場に期待を膨らませています。 |
| 「他と一味も二味も違う東京計器OB会のHPつくり」を目指して、さらなる努力 |
| をして参りたいと思います。 |
| 「みんなで作るHPです」皆さんと共に一歩一歩進めて参りましょう。 |
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| ≪はじめに≫ |
| 今年の矢板支部総会は、私が支部長に就任してから |
服部_矢板支部長 |
| 早いもので丁度10年目の節目の年となります。 |
| 先日、総会の日取りも近付き、以前の資料などを見て |
| いる時に、那須支部長に就任されたばかりの木村 稔さん |
| の訃報が入りまして大変驚いただけでなく、改めて10年 |
| 前に私が支部長になった経緯や木村さんも考えていられ |
| たと思われる支部運営のイベントなどが思い返されて来 |
| ました。 |
| 丁度、記事原稿の依頼を受けていましたので、今回は、現在の矢板支部に至った経 |
| 緯とその間の動きについて、文章の途中に矢板支部会員のHP作品展に掲載された作 |
| 品の一部をカットとして掲載し、ご紹介したいと思います。 |
| ≪矢板支部の創成期≫ |
| 私が矢板の支部長に就任しましたのは、矢板支部の4回目の総会(平成12年11月) |
| からでした。 |
| 矢板のOB会の創始者は、ご存知の木藤義信さんで、彼が平成9年に独自で矢板O |
| B会を創設し開きました。集った人数は52名で、内18名が現役の方々で、現役の方々 |
| へのPRも兼ねていた様です。 |
| この事が,当時のOB会(東京)から見て、地方のOB会の存在が認識され「支部 |
| 制」の発足となったと聞いております。従って翌年行われた矢板の2回目総会(平成 |
| 12年)はOB会矢板支部発足の会となり、当時の川岸OB会会長の他多数のOB会幹 |
| 部の方々の出席があり、加えて木藤さんの取り計らいで「クレスト フオー」という |
| 楽団の演奏も加わって、出席者も69名(内18名現役)と増加し、大変賑やかな会とな |
| りました。 |
| 3回目も、前回同様、楽団つきの総会となりましたが、考えて見るとお酒の飲めな |
| い木藤さんらしい運営だったと思います。 |
| しかし、年が明けて状況が急変します。それは木藤さんが平成11年2月の、胃の摘 |
| 出手術を受ける状態となった事です。折りしも私は鼻下の嚢胞(ノウホウ)という病 |
| 気で手術を受け入院中でしたが、お陰さまで退院後の経過は順調でした。 |
| 一方、木藤さんは、手術後の治療のための入院が続き、2月末に私が見舞に参上し |
| た時に、矢板支部長の交代就任を懇請される始末となりました。 |
| この様な急な状況の変化から、支部長の就任をお断りする事が出来ず、この年に行 |
| われました、第4回総会から支部長をお引受けすることになりました。 |
| また当時幹事役をされていた柳 元治さんが急逝されるという不幸が重なり、本田、 |
| 宮島、吉間、小林、浅沼の各氏が選任されました。 |
| ≪矢板支部の新たなスタート≫ |
| この様にして新しく構成されたメンバーで矢板支部の再スタートをしたわけですが、 |
| 改めて幹事さん達と話し合うと、OB会という組織の大きい事が判ると共に、その支 |
| 部として何をやるべきか・・・・・・、からはじまりました。 |
| 要は、支部総会が年一回の顔合わせの集まりに終るのでなく、普段の色々な活動を |
| 通じて多くのサークルが出来て、総会は各種サークルの顔合わせとして集るという様 |
| な夢を画いたのです。 |
| そこで幹事さん達の発想で「趣味同好のメンバーづくり」という名目で、第4回総 |
| 会の出席者とその他のメンバーにアンケートをとる事にし実施いたしました。 |
| アンケートの結果は下記の通りです。 |
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| これを基にして、各項目について検討し、下記のように可能なところから手をつけ |
| てきました。 |
| 1.総会日前日のゴルフ大会(第5回総会から実施) |
| 矢板は総会に東京周辺から出席して下さる方も多いの |
矢板ゴルフ風景写真 |
| です。(10名前後)これは矢板が、現役時代いわゆる |
| 「金帰月帰」が可能であった名残かも知れませんが、更 |
| にその方々の多くがゴルフ愛好者だったのです。 |
| そこでゴルフのあと総会の会場となるホテルで一泊 |
| (格安)して総会に出るという企画にした訳です。 |
| 今年で9年目となります、浅沼幹事が担当です。 |
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| 2.囲碁クラブ発足(平成14年7月から実施) |
囲碁風景写真 |
毎奇数月の第3土曜日に、矢板工場の寮の一室を借り |
| て対局をし、毎回優勝者に図書券が出ます。さらに11月 |
| は大会と銘打って那須リゾートで一泊して囲碁を競うの |
| ですが、東京方面からも強豪が毎年参加され、毎回総勢 |
| 14〜15名の盛会となっています。 |
| 宮島幹事を中心に井上善博、大越博史のお二人が補佐 |
| 役をやってくれています。 |
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| 3.写真同好会(第7回総会から展示) |
| 写真の愛好者に連絡した結果、自然に集まり「亀楽会」 |
写真(太田孝さん) |
| (キラクカイ)というグループが出来ました。 |
| 発足と同時に、各所での撮影会や独自の展示会などを |
| 始めましたので、第7回総会から会場の一部で展示会を |
| 始めました。現在では会は休会で、その後始まった作品 |
| 展示会に個別の活動として各人が参加しています。 |
| |
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| 4.『那須リゾート宿泊懇親会』と同日のゴルフ会発足(平成16年から実施) |
| 旅行も考えたのですが、個人の好みもあって、人数の把握が難しいので、毎年一回 |
| 一泊してゆっくり話し合う(飲む)ことが出来る会を発足しました。 |
| ゴルフの機会を増すと同時に旅行同様に一泊するという趣旨です。女性会員の参加 |
| も一つの狙いとしました。 |
| ゴルフは浅沼幹事、宿泊は出席幹事全員が担当いたします。 |
| 5.絵画・木彫り・陶芸等々の作品展(第10回総会から実施) |
| 一般的に云う“物づくり”は、個人が趣味として、一人でコツコツとやることが多 |
| い様です。写真もその中に入るのかも知れません。その反対にあるのが、ゴルフとか |
| 囲碁の様に誰かと一緒にやる活動でしょう。 |
| この“物づくり”の作品展は、思いがけない人が出品し、その素晴らしさに驚かさ |
| れるのと、はじめは恥ずかしいと思うが次第に見てもらう楽しさが出て来るという一 |
| 面がある様です。 |
日光彫り(有馬清さん) |
竹工芸(金子勝明さん) |
切り絵(斎藤忠悟さん) |
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| <はじめに> |
| 今年も早くも前半が終わりました。この7月からはO |
小田事務局長 |
| B会としては、新年度の第34期に入ったわけです。 |
| 前期は、10月に会社の社名変更にともない、OB会も |
| 「東京計器OB会」と改称して、新たな第一歩を踏みだ |
| しました。 |
| この一年間栃木三支部と共同しながらOB会活動を進 |
| めてまいりましたが、会員皆様のご理解ご協力により無 |
| 事終えることができましたことを深く感謝申し上げます。 |
| 今期第34期の事業計画等の公式的なことは、来月早々、現在準備作業中の会報66号 |
| と同封の総会案内資料に委ねることといたします。 |
| <長寿世界一の男性:逝く> |
| 6月19日に長寿世界一の男性:113歳の宮崎県にお住いの田鍋さんが逝去されたとの |
| 新聞報道がありました。(読売新聞夕刊) |
| 田鍋さんは、1895年(明治28年)9月18日生まれとのことで、我が東京計器誕生よ |
| り7ヶ月兄貴なのです!また、名誉会員の廣瀬富三郎大先輩より、10歳年上かと思い |
| ながら興味深く記事を読みました。 |
| “2006年9月6月に男性の国内最高齢者となり、’07年1月には長寿世界一の男性 |
| としてギネスブックに認定された。・・・・子どもは8人で、孫は25人、ひ孫は53人、 |
| 玄孫(やしゃご)は7人”と掲載されていました。 |
| 余談ですが、記事の中で、お住いだった住所は都城市今町7113とあり、7113の番地 |
| に興味をひかれました。07年にギネスブックに認定された“7”で、“113”は亡くな |
| られた年令と同じ、何か不思議な因縁があるものだと一人で感心していました。 |
| <OB会では・・・> |
| 上記の訃報の記事を読んで、飛躍しますが、我がOB会の「訃報」に関することに繋 |
| がる形となりました。 |
| 今年に入ってから、皆様もご承知のとおり、ホームぺ−ジ事務局便りでの「訃報の |
| お知らせ」が、1月に4名の方をはじめ遺憾ながらその後も続きました。 |
| 高齢化社会といわれるなか、そしてOB会でいえば、60代の若手の早い旅たちが大 |
| 変気になるところであります。 |
| 現役時代にお世話になりました先輩方々の突然の訃報にも驚かされますが、「お元 |
| 気でおられると思っていたのに」「もう少し頑張っていただきたかった」「随分ご長命 |
| だったのだな〜」等々感謝と哀悼の意を込めての思いはありますが、だれしもいずれ |
| 訪れる問題であると、ある程度皆が共有している側面もあり、多少納得性的な側面も |
| あるような気がします。 |
| これが、60代の後輩の訃報に接すると、「なぜ!」「これから新しい人生を楽しん |
| でもらうのに」「早すぎるよ!」「ご家族のことを思うと」と大変複雑な気持ちが倍 |
| 増し、本当にやるせない気持ちとなります。 |
| 私は、当OB会のメンバーの方々は、会社を卒業後、新天地で一定年令まで経験を |
| 活かして勤務し、また、地域社会に溶け込んでのボランティア活動、各種趣味のサー |
| クルでの活動等々と幅広く元気に活動されている集団という認識しております。 |
| 世界有数の長寿国のなか、我が国の平均寿命は、男子79.19歳、女性85.99歳(23年 |
| 連続世界一)であり、当OB会も前期末(6月末)で、会員の平均年齢74歳ちょうど |
| となりました。(男性74歳1ヶ月、女性72歳4ヶ月) |
| 若手の他界が気にかかるということで、平成18/4〜21/3までの3年間について調査 |
| しましたところ、33名の方が亡くなられ、内訳は下表のとおりです。 |
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| 男性の平均寿命を越えて亡くなられた方は19名で全体の60%近い割合で、平均年齢 |
| は88歳2ヶ月と大変長命です。(33名の平均年齢81歳6ヶ月) |
| ただ、気になる60代の若手が9名と多いことです。60代は会員で男子会員の25.8% |
| を占めておりますが、亡くなられた方の27.2%と、一番若い年代なのに驚かされる数 |
| 字であります。年代の人数と死亡数の割合でみますと、実に70代の4倍近い死亡率の |
| 高さです。 |
| たまたま偶然なのか否か原因はよく分りませんが、素人的に推定すれば、一番大き |
| いのは環境の変化ではないかと思います。永年勤めた会社を卒業しての生活環境の大 |
| きな変化に関連するのではとの思いであります。70代の方は、人数の割合でみれば大 |
| 幅に低いのは、新しい生活環境に対応する免疫ができてきた結果かも知れません。 |
| いずれにしましても、“健康が第一”ですが、そのために“どのような自己管理” |
| を継続的に実行していくかがポイントとなることでしょう。 |
| 特に、60代の皆さんが、 “健康管理”=“自己管理”を今まで以上に強く認識さ |
| れ、これから先の永い人生を楽しく、有意義に過ごすためにも、新しい人間関係の醸 |
| 成、趣味を活かす仲間作り、地域社会での奉仕活動等々へ積極的に参加され、素晴ら |
| しい“おじいちゃん”“おばあちゃん”へ向けて歩んで行ってもらいたいと願ってい |
| るところであります。 |
| <“訃報”についてのお願い> |
| “訃報”につきましては、ホームページで「速報」という形で、皆様に葬儀日程を含 |
| めて、さしさわりのない範囲でお知らせをしております。また、ご遺族様にOB会と |
| して会長名で「弔電」を打っております。 |
| したがいまして、“訃報”の情報を得た場合、速やかに最寄りの「OB会幹事」に |
| ご一報下さるようお願いいたします。 |
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| “誰にも忘れがたい故郷がある!” |
瀧川昇二監査 |
人は誰にでも故郷(ふるさと)がある。終生忘れがたい |
| 故郷への思いがあり、事あるごとに繰り返し追懐するも |
| のである。 |
| 都会でも、山里でも、生まれ育った地での営みが記憶 |
| 集積され、折に触れて甦るのである。還暦を過ぎ、仕事 |
| を離れてからなお更思い出され、幼なじみや学友から同 |
| 窓会の誘いを受けることが多いのではないだろうか。 |
| 自身も福山市(広島)の中心部から西北へ4キロの山 |
| 間の集落に生まれ、昭和10年代の小学校時代は、3世代8人家族の中で育った。 |
| 大戦時の統制は厳しく、物資不足のなかで、殆んど自給自足の貧しく苦しい時代で |
| あった。 それでも私には“兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川”があり、忘れ難き |
| 故郷(ふるさと)なのである。 |
| “自分を育てた故郷への感謝と誇りを!” |
| 親元を離れて半世紀を過ぎた今、その故郷の変ぼう振 |
故郷イメージ |
| りは著しく、往時の風物を辿る術はない。時折訪れる墓 |
| 参では、裏山の頂にある先祖の墓の前に座って夢を巡ら |
| せるだけである。 |
| それもまた現実として、自分を育み成長させてくれた |
| 故郷への感謝と誇りの気持ちは、終えんの地として住む |
| 横浜で、終生持ち続けたいと思う。 |
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| “横浜は第二の故郷!” |
| 私にとって横浜は、第二の故郷(ふるさと)である。40年もの間ここで生活し、子ど |
| もを育てた大切な地であり、懐かしく安住の地でもある。 |
横浜 |
いま横浜は、開港150周年記念のテーマイベントとして |
| 「開国博Y150」を開催中で、ベイサイドエリア、ヒルサ |
| イドエリア及び市街中心部を含むマザーポートエリアな |
| ど3つのエリアでの多彩なイベント開催で盛り上がって |
| いる。 |
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| “会員の皆さんも「ふるさと発信」を!” |
| いま、浜っ子のOB会小田事務局長から「“発祥の地”を訪ねて」と題して写真を |
| 交えた横浜の歴史を紹介されているが、私も市民として、ふるさと横浜のイベントを、 |
| 趣味の写真を通じて伝えて行きたいと願っている。 |
| 全国各地にお住まいの東京計器OB会の皆様も「ふるさと紹介」をそれぞれのお得 |
| 意手段で発信して、ホームページを飾って頂きたいと願うものです。 |
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佐藤副会長 |
画家、書家、写真家、陶芸家、木竹工芸家、歌人、俳 |
| 人、さらには文人などなど、当会のOBの方々の多芸・ |
| 多才・多趣味ぶりには感心するとともに大いに楽しませ |
| ていただいている。 |
| ホームページやOB会誌に紹介されるそれらの作品は、 |
| どれを見ても玄人はだしの素晴らしいものであり、人に |
| よっては個展を開いたり、また各種の展覧会に出品する |
| ような方もあり素人の手慰みなどというものではない。 |
| 昔の東京計器はスポーツの他にこうした同好会のサー |
画家イラスト |
| クルがいくつもあり、当時から趣味として、教養として |
| 楽しまれていた方も多いであろうが、定年後もしくはそ |
| の前後から始められたという人もいるようだ。 |
| 昔、東京計器の主任会(?)の主催で当時ロケット博 |
| 士として有名であった糸川秀夫氏が講演されたことがあ |
| った。いろいろな話をされたが、今でも良く覚えている |
| 話は「人間ひとつのことを5年やれば素人を抜きん出る。 |
| 10年やればプロとして通用する」と言う話であった。どの程度時間をかけるかと言う |
| ことはあろうが、何しろ5年ひとつのことに精進すればある程度ものになるというこ |
| とであった。 |
ロケット |
氏は自分のこととしてロケットの研究の傍ら脳波の研 |
| 究をし、音響工学を学びバイオリンを作ったり、後年バ |
| レエ、占星術などにも一定期間を区切って没頭し、もの |
| にされたようである。何を始めるにも遅いことはないと |
| いうが、結局は根気、やる気、好きの“3き”か。 |
| そのほか人形作り、貼り絵、絵手紙、俳画、篆刻など |
| の趣味を持つ方もおられるのではないか。是非紹介して |
| 欲しいものだ。 |
| また、寺社仏閣に詳しい人、昔の街道を歩き続ける人、街歩きの達人、海外旅行を |
| はじめ紀行文をまとめる人、自らの経験を本にまとめる人(自分史も含め)、楽器演 |
| 奏の得意な人、ゴルフをはじめスポーツでもいまだに続けておられる人など、当社O |
| Bの方々の多芸・多才・多趣味ぶりには驚かされる。 |
| OB会の平均年齢が73.6歳と聞いているが、元気の源はこうした多芸・多才・多趣 |
| 味を多くの人が持っているからではないか。 |
| もし、可能なら「東京計器OB会芸術展」でも開いて、プロ並みの作品を見たいも |
| のである。 |
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黒澤副会長 |
我々の年代になると持病のひとつやふたつがあり、通 |
| 院により何らかの治療を余儀なくされている。逆に「一 |
| 病息災」などと開き直り、毎日をいかに楽しく過ごすか |
| など考えるものである。 |
| 病気となれば当然のことながら病院などに行き治療を |
| 受けるわけであるが、日本の医療制度は罹病してから治 |
| す、いわゆる「対症療法」を中心に制度が成り立ってい |
| るようである。言い換えればこの対症療法を中心に医療 |
| 技術や新薬の開発が深化している現状であるように見受けられる。 |
| 見方を換えて患者側から見てみるともっと病気に対する原因追求に重点を置き「原 |
| 因除去」の対策が講じられれば効率的な治療が受けられるはずである。 |
| その結果として疾病率の引き下げや医療費の増大に歯止めをかける対策に繋がると |
| 推定されるが、政治の貧困とまでは言わないまでも業界の利害得失が先行していると |
| 思うのは考え過ぎだろうか。 |
| ここで分り易い事例を紹介したい。私たちは年令を増すごとに病気に罹る割合が増 |
| 大して行く傾向にあるが、そのなかでも日常的に耳鳴り、難聴、めまいなど程度の差 |
| はあっても何らかの自覚症状が出てくる場合がある。当 |
|
| 然のことながら病院などに行き、内科とか耳鼻科で検査 |
| を受けたり処置として投薬なりで治療を続けることとな |
| るが、これで改善できる場合は良としても、往々にして |
| 長期治療しても改善に結びつかないことが多い。耳鳴り |
| などは内耳の器官の異常から起こる現象であるとまで解 |
| 明されてはいるが、投薬等により病状を多少和らげるこ |
| とはできても治癒に結びつかない場合が多いとされてい |
| る。 |
| 以上は耳鼻科あるいは内科の見地からの治療であるが、視点を変えて歯科的見方で |
| はどうだろうか。我々は長い年月歯の治療により抜歯や入歯を繰り返してきたが、経 |
| 年変化により、歯が磨耗し歯肉が退化して噛み合わせが悪くなり、アゴのズレが生じ |
| ている可能性があるとされており、この改善により治癒に結びつく場合がある。 |
| 通常の総合病院で歯科までの診療科目を含めた病院は少ないのと、歯科診療は独立 |
| して専業化していることから、その領域は切り離されており、歯科と耳鼻科等の連携 |
| はとりにくい現状があるとは考え易いが、患者から見た場合、その症状からすぐに適 |
| 切な治療を受けたいと願うのは極めて自然であり効率的である。歯科と内科など情報 |
| 交換の連携が不充分である現状を考えると双方に視点を置いて効率的な治療を受ける |
| ような心がけも必要かと思われる。 |
| | | |
| (1) GMとの出会い |
|
あの世界最大の自動車メーカーGMが、1兆2千億円 |
| の国税注入による資金繰りの救済を受け、更に1兆5千 |
| 億円の追加支援を求め、それでも破産法の適用もその選 |
| 択肢の一つになっているという。私はこのニュースを聞 |
| いた時、遥か40数年前の東京計器でのビジネス体験を思 |
| い起こした。 |
| 私は1960年代央、企画室に所属し、マネイジメント論、 |
| とりわけ組織管理という専門職を担当していた。 |
| 当時、日本の経営組織は官庁の組織運営をその範として「業務分掌規定」を中心に運 |
| 用され、職位の意思決定もその多くを社長に仰ぐという天皇裁断を範とする「稟議規 |
| 定」によって運営されていた。これを「分権化」と職位単位の「職務権限明確化」を |
| 促進させることにより、いわゆる日本的経営組織から脱皮させ、グローバルな事業体 |
| 制の確立に適応させていくことが各社とも急務となっていた。 |
| そうした折、当時その経営組織論の手本として一世を風靡していたのが所謂アメリ |
| カンマネイジメント論であった。ピ−ター・ドラッカーの「現代の経営」、東京計器 |
| でも管理者教育に用いたビッカース社から輸入のルイス・アレンの「マネイジメント」 |
| など数々の参考文献があったが、その中の一つにジェネラル・モータース社の中興の |
| 祖と言われたアルフレッド・スローン氏が1963年に出版した「GMとともにーmy |
| years general motors−」があった。この本は、1968年に発足した東京計器の職能 |
| 別組織から事業部制組織への改組にあたって、影響を与えられた私にとってはバイブ |
| ルのような著作であった。 |
| (2) GMという組織集団 |
| GMという会社は、40年前の当時でさえも従業員は数十万人を数え、その売り上げ |
| 規模は当時の日本の予算規模を超え、従業員の年金、健康保険などの福利厚生制度は |
| そのOBも含めて会社が単独でこれを維持保障しており、 |
|
| これはカンパニーと言うよりはアメリカの文明文化を代 |
| 表するステーツという存在ではなかろうかと思った記憶 |
| がある。 |
| 当時、日本の乗用車は、大衆車中心のエンジン馬力と |
| ゼロヨンと呼ばれる加速時間を競っていた時代で、いわ |
| ば移動手段の道具という域を脱しきれていなかった。 |
| そうした中でGMでは何故同じ乗用車でありながら、キ |
| ャデラック、シボレー、ポンテアックなどと機種事に事業部制を採用しなければなら |
| ないのか、いずれにしても同じ乗用自動車ではないかと理解に苦しむ場面もあった。 |
| しかし、当時の米国の車社会は我々の想像する以上に成熟しており、車種毎に仕様、 |
| 価格帯、生産技術に到るまでマーケッティングを適応させている上に、その車種毎の |
| 生産台数も日本の一社のそれを超えるという半端な数ではなかった。こうして車種毎 |
| に別会社的運営をしていくことがその拡大、成長に欠かせない決め手になっているこ |
| とが理解できるに到った。 |
| 当時の東京計器も量はともかくとして、質の多様性においてはGMにひけはとらな |
| い。現在の域を脱して成長を促すためには事業部制の採用以外にはありえないと確信 |
| した次第である。その動機付けの一つになったのがこの「GMとともに」であった。 |
| (3)スローンの言った事 |
| この著作の中で今でも記憶している章が一つある。 |
| 「事業部制組織は、以前の職能別組織の限界を超えて規模の多角化の成長を助ける |
| 最も重要な管理技術の革新である。その利点の一つは企業全体の運営に責任を持つ幹 |
| 部から、日常運営の責任を除去し彼らに時間や情報を与え、さらに長期計画や評価へ |
| の心理的コミットメントを与えることである。」という件である。此処で言わんとす |
| るところは、国家でも企業でもその最高階層に属するリーダーは、巨視眼を持って長 |
| 期的視野に立った基本目標構造の構築を明確にすることに時間の多くをさくべきだと |
| いうことである。そしてこれを天命として保有しているということを言っているので |
| ある。 |
| (4) 最近のリーダー達 |
| 政治家は政治家で二世、三世の苦労知らずが多く、政局の中だけでチヤホヤされて |
| きたので、政治哲学が育たず毎日、毎日失言の訂正や事務処理、審議手続きなどの次 |
| 元の低い近視眼的テーマばかりに血まなこになっている。一方、経営者も経営者で創 |
| 業者や独自の経営哲学を持った所謂名経営者と言われた人々が第一線を去り、高成長 |
| 下に育ち、この大不況が到来すると固定費という重みをいとも簡単に変動費化しえる |
金太郎飴 |
環境を悪用して、管理者上がりのサラリーマン経営者が |
| 何処も此処も金太郎飴のごとく近視眼的施策に終始して |
| いる。正に大臣係長、取締役係長が横溢している。将来 |
| への基本構造が見えない日々ほど辛いものはない。せめ |
| て、世の中の最高指導層は、その本来の天命的任務を再 |
| 認識して、この嵐の夜は一夜ビバークして耐えつつも、 |
| ただじっとしているのではなく、明日の晴天に向けてそ |
| の行動予定を一晩考え続けて欲しいものだ。このことに |
| 多くの時間を割いてもらわないと明日の日本は崩壊する。 |
| 5)明日のリーダー達 |
| アダム・スミスかなんかが言っていた。「それでも世界は自ら進行して行く」と。 |
| そうであれば、その過程の中でこれからの日本のリーダーは、日本人文化の象徴であ |
| る「中庸」の精神をもって事に当たってほしいものだ。米国の「強欲」が回りまわっ |
| て、あのGMをも危殆に落としいれ、{かつ、その「強欲」が世界中にも、被害を撒 |
| き散らした。} 仏道には「小欲、足るを知る」という教えもある。 |
| | | |
| 横浜開港150周年の年!・数々の記念行事開催 |
|
1859年(安政6)に開港してから150周年を迎えます。 |
| 開港以前の現横浜市域における最大の人口密集地は、 |
| 東海道の宿場町で、人口5,000人ほどの神奈川宿でした。 |
| この神奈川宿の南東約4キロに戸数100ほどの半農半漁の |
| 寒村、横浜村がありました。 |
| この横浜村で、1854年(安政元)日米和親条約が締結 |
| され、その4年後の日米修好通商条約締結によって神奈 |
| 川に開港場が置かれ、1859年(安政6)7月1日(旧暦 |
| 6月2日)、横浜は開港しました。 |
| 新しく生まれた横浜は、開国日本の象徴となり、その魅力に引かれ、内外から多く |
| の人が集まり、質の高い文化交流が生まれました。 |
| 1909年(明治22)には、開港50周年を迎えました。その年には、現在でも多くの市 |
| 民に親しまれている市章や森鴎外作詞の横浜市歌が発表され、市民の寄付によって開 |
| 港記念会館(現、横浜市開港記念会館)が建設さました。 |
| 戦後、横浜で生まれた美空ひばりが、日本の歌謡界に新たな旋風を巻き起こしたり |
| ジャズやリズム&ブルースなどがアメリカから横浜にいち早く入り横浜の文化として |
| 日本中に広がっていきました。 |
| 21世紀を迎えて、ワールドカップ決勝戦が横浜で開催され、その試合の様子が全世 |
| 界に発信されました。その後、2004(平成16)年には待望の“みなとみらい線”が開 |
| 通し、東京都心から乗り換え無で中華街にアクセスでき |
ベイサイドエリア・イベントマップ |
| るようになりました。 |
| (横浜開港150周年記念誌から文章抜粋) |
| 横浜市の平成21年1月現在の人口365万人 |
| |
| 開港記念式典:2009年(平成21)5月31日(日) |
| パシフィコ横浜・大ホール |
| 〜開港記念イベント日程〜 |
| ● 会場:ベイサイドエリア |
| 新港地区8街区・新港地区7街区・新港ふ頭・赤レンガ会場 |
| 大さん橋会場・象の鼻会場・山下公園会場 |
| 会期:2009年(平成21)4月28日(火)〜9月27日(日) |
| 時間:10:00〜22:00 |
| ● 会場:ヒルサイドエリア |
| ズーラシア隣接地区 |
| 会期:7月4日(土)〜9月27日(日)つながりの森 |
| 時間:9時30分〜17時30分 |
| ● 会場:マザーポートエリア |
| 横浜駅周辺・山下・山手地区 |
| 会期:2009年年間を通して適宜 |
| | | |
| あけましておめでとうございます。 |
| OB会員の皆様方には、お元気に新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。 |
| 昨年は米国のサブプライム・ローン問題が一段と顕在化し、追い討ちを掛けるよう |
| に金融危機に直面し、世界経済に深刻な問題を引き起こしていますが、日本経済も大 |
| きな嵐の余波を受け、急激な円高や株安等により、後退局面を余儀なくされています。 |
| 世界・日本経済を襲った不況の嵐は、東京計器にも大きな打撃になったことと思い |
| ます。しかしながら、脇社長陣頭指揮の下、全社一丸現状を次なる飛躍の糧として、 |
| 積極的に取組んでおられる姿に接し心から敬意を表するとともに、将来に期待すると |
| ころ大であります。 |
| OB会も「東京計器OB会」と改称して、はじめての新年を迎えたわけですが、会員 |
| 皆様の、ご理解、ご協力により、過去最大の会員数575名となり、栃木三支部と協働 |
| し、年々活動も充実してまいりましたことを誇りに思うところであります。 |
| 第33回総会も、東京計器から脇社長以下全役員のご出席をいただき、新生「東京計 |
| 器(株)」、および「東京計器OB会」の船出に相応しい、総勢 150名近い、しかも |
| 懐かしい方々の参加で、大変賑やかな会となりました。 |
| 今期も「温か味のあるOB会」を目指して活動を促進してまいりますが、会員相互 |
| のコミュ二ケーションの広場として、会報(けいき)やホームページの充実に力点を |
| おいてまいりますので、引き続き皆さんの積極的な参加とご支援をお願いいたします。 |
| 特に、ホームページは開設から満3年を経過致しましたが、この間の訪問者は2万人 |
| を越えました。そして、その訪問者は、月を追う毎に増加していることは、速報性を |
| 含め「お役にたっている」との認識を深めているところであります。 |
| OB会としての今後の課題はたくさんありますが、当面、関西方面の「人の輪」作 |
| り、本部幹事の若返り等に、取り組んでいく所存であります。 |
| 最後に、OB会の皆さんのますますのご健勝と、東京計器(株)の更なる発展を祈 |
| 念し、新春のご挨拶といたします。 |